マーチと言うと「吹奏楽」というイメージも大きいのかもしれないですけど、
管弦楽版のマーチにもたくさんの優れた作品が残されていて、例えばエルガーの行進曲「威風堂々第一番」とか
ウォルトンのグランドマーチ「クラウン・インペリアル」とかシベリウスの組曲「カレリア」~Ⅲ.行進曲風にとか
グリーグの組曲「十字軍の兵士シグール」~Ⅲ.勝利を讃える行進曲とかヴェルディのアイーダの大行進曲とか
シャブリエの楽しい行進曲とかプロコフィエフの体育祭行進曲(マーチ・スパルタキアーダ)や
ワーグナーのタンホイザー大行進曲やベルリオーズのハンガリー行進曲(ラコッツイ行進曲)や
サン・サーンスのフランス軍隊行進曲や英雄行進曲などたくさんの管弦楽による名曲マーチはあるのですけど、
優雅さと親しみやすさと世界的知名度というと 「ラデツキー行進曲」には敵わないのかも・・?とすら感じてしまいそうです。
ラデツキー行進曲はオーストリア共和国においては国家を象徴する曲でありますし、
国家的な行事や式典でたびたび演奏されていますし、
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるニューイヤーコンサートでは、
1958年以降は2005年を除いて、毎年プログラムのアンコールの最後の曲として必ず演奏される曲として
オーストリア国民の皆様に大変愛されている曲なのだと思います。
そうした意味においては、アメリカ人が「星条旗よ永遠なれ!」をアメリカ第二の国歌として愛しているのと
同じような感覚の曲なのだと思います。
ラデツキー行進曲は前述の通り、「ニューイヤーコンサート」におけるアンコール曲としてもう既にお馴染みの曲ですよね。
この曲が演奏されると、聴衆は手拍子をはじめるといったそんなお約束が確立されている曲だと思います。
クラシック音楽の演奏会で聴衆が自由に手拍子を送れる曲と言うのも極めて珍しいと思いますし、
指揮者の方もむしろ聴衆に対して「もっと手拍子頂戴よっ!」みたいに時に煽るような事が出来てしまうある意味大変貴重な
クラシック音楽なのだと思います。
ちなみにですけどこの行進曲の名前は「ラデツキ―」であって、よく日本で間違って発音・印刷されているように
「ラデッキー」ではありません・・・
「ツ」は小文字ではなくてあくまで大文字です。
この曲の出だしはダダダン・ダダダン・ダッ・ダッ・ダーンと景気良く開始されていき、
その後も大変軽快だけど力強いメロディーが展開されていきます。
中間部はいかにも優雅なワルツという感じで何やら気品のような香りさえします
行進曲なのですけどその雰囲気は優雅なワルツみたいにも聴こえますし、ウインナワルツというのか
舞踏会や晩餐会のBGMにも十分効果が発揮できそうな曲だとも思います。
そしてこの優雅な感覚はウイーン気質をそのまま象徴しているようにも感じられますし、オーストリアの皆様が
この曲を愛してやまないというのも当然なのだと思います。
このラデツキー行進曲は、吹奏楽にもアレンジされていて、
イベントとか卒業式・入学式、記念行事の入退場曲としては定番の一つにもなっているような気がします。
このラデツキ―行進曲とかスーザの星条旗よ永遠なれ!を一度でも吹いた事がある吹奏楽経験者は相当多いと思います。
そういう私自身も、ラデツキー行進曲は、吹奏楽アレンジ版で何度も何度も演奏しました。
感覚としては星条旗よ永遠なれ!はいかにもヤンキーみたいな庶民的なエネルギーに溢れているのに対して
ラデツキー行進曲は優雅で上品なエレガントさというものがあったと思いますし、この二つの曲は
国民から愛されていて第二の国歌に近いものがあるけど、曲自体の雰囲気は全然違うと言えるのかもしれないですね。
ラデツキー行進曲は、管弦楽の原曲の打楽器はティンパニ・小太鼓・大太鼓のみですけど、
吹奏楽アレンジ版では、シンバル・グロッケン・タンバリンも追加されていたような記憶があります。
冒頭のダダダン・ダダダン・ダッ・ダッ・ダーン・ダダダダダッタッダのすぐ後は、
原曲の管弦楽版では打楽器は入らないのですけど
吹奏楽版では、この後に、ティンパニ・大太鼓・シンバルがドスンとかなりバカでかい音を叩きこんでいました。
後にラデツキー行進曲を管弦楽版として聴いた時に
「どうして冒頭のあの場面で、打楽器がドスンと叩かないの?」と思ったものですけど、
それは吹奏楽アレンジ版しか知らない人のある意味勘違いでもありました。
管弦楽の原曲を吹奏楽アレンジ版として演奏された方は、勘違い防止のために、
吹奏楽版以外にも原曲もちゃんと聴いておきましょうね・・という感じなのかもしれないですね。
ちなみにですけど、私自身は例えばドヴォルザークの交響曲第8番第四楽章は、石田中学校の吹奏楽アレンジ版の演奏で
ずっと慣れ親しんでいて、数年後にこの交響曲を初めて管弦楽の原曲として聴いた時に
「どうして第四楽章に大太鼓・小太鼓・シンバルが入らないの・・?」と勘違いをしていたものでした・・
勘違いと言うと、ラデツキー行進曲の作曲者はヨハン・シュトラウスⅠ世なのですけど、
喜歌劇「こうもり」序曲とか春の声・美しき青きドナウ・南国のパラ等「十大ワルツ」の作曲家は
シュトラウスⅠ世の長男のヨハン・シュトラウスⅡ世であり、クラシック音楽等が何もわからなかった時代は、
このⅠ世とⅡ世は同一人物なんだと勝手に勘違いをしていた事もありました・・
これはいくらなんでもこっ恥ずかしい勘違いでもありました。
ちなみにですけど、ヨハン・シュトラウスⅡ世を代表する曲というのが、
「ウィーンの森の物語」と「皇帝円舞曲」とともにシュトラウス2世の三大ワルツに数えられ、
その中でも最高傑作とされ、作曲者およびウィンナ・ワルツの代名詞ともいわれる作品というのが 美しき青きドナウです。
ちなみに美しき青きドナウも前述のウィーンフィルのニューイヤーコンサートでは定番中の定番の曲で間違いなく
絶対に演奏される曲の一つです。
美しき青きドナウはドイツのあの大作曲家のブラームスも大好きな曲でして、ある時扇子にサインを求められた際に
ブラームスは、この美しき青きドナウのメロディーの楽譜を書き、そこに
「残念ながらブラームスの作にあらず・・」という一文を書き添えたというとってもすてきなエピソードを残しています。
ブラームスというと気難しい先生とか端正で真面目で厳格な性格という印象が強かったりもしますけど、ブラームスの師匠の
シューマンの奥様のクララ・シューマンとのシューマンの死後のプラトニックすぎる純愛とか
いかにもドイツ正統派の厳粛な音楽というイメージとはちょっと異なるような例えば大学祝典序曲やハイドンの主題による変奏曲
などたまに粋で楽しい作品も残されていますし、
ピゼーの歌劇「カルメン」が大好きで上演のたびに鑑賞に出かけたなどちょっと意外でお茶目な面もあったりするのは
ブラームスのすてきな人間性の所以なのかもしれないです。

前述のとおり、ラデツキー行進曲はニューイヤーコンサートもそうですし、日本の管弦楽団のお正月公演や
吹奏楽アレンジ版における演奏会等でのアンコールでもお馴染みの曲ですけど、演奏中に結構な確率で
客席から自然に手拍子が入ることもあったりします。
私自身もラデツキー行進曲を演奏会のアンコール等で演奏したことはありますし、そのうち何度かは客席からの手拍子を
受けましたけど、実は私自身は客席からの手拍子は苦手であったりもします。
どうしてかというと、客席からの手拍子と指揮者の拍子には当然わずかですけどズレが生じていますし、
練習の際の指揮者のビートと客席からの手拍子のビートが噛み合わないと、なんだか自分自身吹いている時に混乱してしまう
という傾向はありました。
ららマジの指揮者は東奏学園器楽部創始者のひとりで3年生の草薙百花が務めていますけど、ららマジ器楽部みたいな
無茶苦茶な楽器編成をどうにかこうにか剛腕でまとめあげている百花の指揮の技量では、そんな聴衆からの手拍子による
ビートの狂いなんて全く気にも留めないという事なのかもしれないです。
ラデツキー行進曲は曲の中間部は静かで優雅なメロディーが続くのですけど、それでも一部の聴衆は手拍子を続けている
事も多々あり、あの違和感は指揮者にとっても奏者にとっても「ちょっと困ったかも・・」と感じなのかもしれないですけど、
百花はその点も的確にコントロールするのかもしれないです。
ウィーンフィルのニューイヤーコンサートでもたいていの指揮者はラデツキー行進曲の演奏時は曲の開始だけ指揮し、
それ以外は奏者に対する指揮ではなくて観客に対してジェスチャーで「もっと手拍子を!」とか
「ここは手拍子を控えて・・」と指示している事が多いようにも感じますけど、
ららマジの剛腕指揮者の百花も本番の演奏会の際は、そうした自由自在の応用がききまくった指揮さばきも見せてくれている
のかもしれないですね~♪

それにしてもららマジ器楽部の皆様はすてきな美少女たちばかりですので、チューナーくん(自機プレイヤー)は
バレンタイン等のイベントの際はもてもてなのかもしれないですね~♪
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今世紀の初めに小澤征爾さんが日本人として初めてニューイヤーコンサートの指揮台に立った時は
思わず感無量になったものでした。
吹奏楽でも卒業式等の入退場のマーチとしても大変馴染み深い曲だと思います。