プロコフィエフの交響曲第5番は、みずみずしさと透明感と霊感に満ち溢れている
20世紀が残してくれた数少ない名交響曲の一つだと思います。
20世紀のロシア名交響曲というと、ショスタコーヴイッチの交響曲第5番とプロコフィエフの交響曲第5番は
絶対に外すことが出来ない名作中の名作だと思います。
プロコフィエフの交響曲は、第1番の「古典交響曲」は大変シンプルで明快でわかり易いのに、
次の交響曲第2番は、とにかく「悪趣味に満ち溢れ、終始不協和音と強奏で響き渡る」という感じになり、
更に交響曲第3番となると、オカルト色が強いというのか、悪趣味で極めて退廃的で、あの悪趣味的でグロテスクな表現の
連続は思いっきり評価が分かれると思います。
(私は1981年に花輪高校が全国大会で演奏したこのプロコフィエフの交響曲第3番~第一楽章でプロコフィエフの世界に
踏み入ったと言えると思います)
プロコフィエフの3番は悪趣味だけど同時にロシアの広大な自然さも感じるという大変稀有な雰囲気を聴かせてくれています。
ちなみに交響曲第2番第一楽章は冒頭からほぼ全てがffまみれで、弱音が出てくる箇所はわずか4小節程度に
留まっていて、そのくらい怪奇な響きが錯綜しまくっています。
だけど悪趣味でグロテスクな交響曲第2~4番を一気に聴いてしまった後で、交響曲第5番を聴くと、間違いなくですけど
「え・・これって2~4番を作った人と本当に同じ作曲家なの・・?」とか
「あまりにも違いがあり過ぎて、交響曲第2番と5番の共通性なんてほとんどない・・この人、
本当は多重人格なんじゃないの・・?」といった印象を持たれるのかもしれないです。
実際に私もそうでした! 上記でちらっと書いた通り
私の場合、吹奏楽から管弦楽という世界に入り込んだ事情があり、
一番最初に「プロコフィエフの交響曲」を知ったのは、1981年の花輪高校の第3番という特殊事情もあったのですけど、
最初に5番を聴いた時は、まさに「青天の霹靂」みたいな気分でした。
だってあまりにも違いがあり過ぎましたし、3番と5番が同じ作曲家とは到底思えないほどの明瞭すぎるほどの違いが
あると感じられます。
だけどすぐにあの霊感溢れる瑞々しい抒情性に取りつかれ、一気にこの曲の魅力に取りつかれたものでした。
ちなみにですけど、私がこの5番を聴くきっかけとなったのは、やはり吹奏楽でして、
1982年の全日本吹奏楽コンクールの東北大会にて秋田高校が演奏した第一楽章がそのきっかけを作ってくれたものでした!
言えることは、プロコフィエフの交響曲は、第2~4番、そして第6番の印象が極めて悪趣味・難解というせいもあるのですけど、
「どうもプロコフィエフの交響曲は悪趣味で好きになれない」という方も相当多いとは思うのですけど、
この交響曲第5番だけは万人から愛される資格があるのではないでしょうか・・・?
音楽解説書でもよく言われている事ですけど、何と言っても第三楽章の抒情性・美しさが本当に素晴らしいですね!!
第一楽章冒頭の霊感溢れる出たしも素晴らしいと思いますし、私はあのフルート等で奏でられる第一楽章の
テーマが流れるだけで相当気持ち的に引き締まるものがあったりもします。
第二楽章の快活さもお見事の一言に尽きると思います。
そして圧巻は第四楽章だと思います。
出たしが静かに開始されるのですけど、ホルンのポポポポポポポポという細かい刻みから開始される展開部以降は
一気にフィナーレにまで導いてくれる爽快さがあると思います。
終盤に打楽器のウッドブロックが出てきて、小太鼓とかなり面白い掛け合いを聴かせてくれます。
1990年代の後半に日本フィルの定期演奏会にて、プロコフィエフの交響曲第5番を目当てにサントリーホールまで
聴きに行ったのですけど、あいにく当日券はP席のみでした。
私の座席の位置はちょうど先程の小太鼓とウッドブロックの目の前と言う事で、
終楽章にてこの二つの楽器の掛け合いが始まった際はかなりエキサイトするものがありました!
すぐ目の前でこの楽器が音を出していてとてつもない生々しい感じはありましたけど、あの臨場感・ライブ感は
素晴らしいものがあったと思います。
この交響曲の終楽章は、聴き方によってはかなり面白いものがあると思います。
ラスト30秒くらい前だと思いますが、金管・打楽器が凄まじい叩き付けを見せ、次の瞬間から
ff→f→mp→ppと音をボリュームを落としていき、
そして、
ヴァイオリン2台・ヴィオラ2台・チェロ2台・コントラバス・ピアノ・ハープ・タンバリン・小太鼓以外の楽器は
唐突に沈黙し、上記の楽器のみによって、約10秒程度同じ音型を単調に繰り返し
そしてラストのラストで最後に全楽器が再登場し、一気呵成に曲を閉じていきます。
これは通常のシンフォニーの「クライマックス」とは明らかに異質な「アンチ・クライマックス」の世界だと思いますが、
やっぱり何か一つぐらい「仕掛け」をしないと気が済まないプロコフィエフらしい曲でもあるなと感じたものでした。
プロコフィエフの生涯最後の交響曲は、交響曲第7番「青春」というとっても可愛らしい曲です。
この曲においては難しい要素・不協和音・悪趣味な響きはほぼ皆無ですし、懐古趣味的な曲と言えるのかもしれません。
プロコフィエフは、若い頃はあんなに前衛音楽を好んで曲を作っていたのにその最後の交響曲が
ああした可憐でとてつもなく可愛い曲というのは極めて意外にも感じますし、
もしかしたら「子供の頃の記憶への幼児退行化」ともいえるものかもしれないです。
こういう前衛・悪趣味・奇怪から可愛い音楽への突然の変貌というのは、
晩年の「子供に戻る」という現象の表れと言えるのかもしれませんし、
「極端から極端へ動いてしまう」というロシア人の基本属性がそうさせるのかもしれないです。

昨年の吹奏楽コンクールは地区・県・支部・全国と全て中止なってしまいましたけど、奏者の皆様の失意を考えると
本当にいたたまれないものがありますけど、同時に聴き手にとってもコンクールでの「12分間のステージにすべてをかけてきた」
奏者の熱い演奏を聴く事ができなかったのは大変残念なものです。
本年度以降は無事に開催できることを心より祈念しています。
上記でプロコフィエフの交響曲第5番を取り上げましたが、実はこの素晴らしい名曲を知るきっかけになったのが
吹奏楽コンクールであり、1982年の東北大会にて秋田高校の吹奏楽アレンジ版におけるこの交響曲の第一楽章を聴いて
「なんと霊感に溢れた瑞々しい曲!」と感じ、これをきっかけにしてこの交響曲の素晴らしさにはまっていったという
感じでもあります。
吹奏楽コンクールは結果的に吹奏楽アレンジ版ではありますけど、クラシック音楽作品を自由曲にする事は
日常茶飯事ですが、そうした演奏をきっかけにして原曲の事をもっと知りたい・・聴いてみたい・・という事に繋がっていく
可能性もあると思いますので、そうした意味からも大変大切な音楽コンクールなのだと改めて感じたりもします。
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プロコフィエフの交響曲第5番は吹奏楽アレンジ版で
その第二楽章が自由曲として演奏されたのを聴いたことがありますけど、あの楽章だけだとその意図も解釈も中途半端になってしまう感じがしたものでした。