「浜松」と言うと、私的には「音楽の街」というイメージがあります。
私的には静岡県というと大変温厚な土地柄で温和な人たちが多いという印象がありますし、
浜松にはヤマハがあるという事で「音楽の町」というイメージもあったりします。

静岡というと楽器以外ではお茶・みかん・うなぎといった素晴らしい特産品がめじろ押しですし、
一部の方においては「静岡県はアニメ放映不毛地帯」という方もいるようですけど、静岡の沼津は
「ラブライブ! サンシャイン!!」の聖地でもありますので、埼玉県民の目では「人気作品のモデル地とはうらやましい!」という
感じでもあります。
埼玉も昨年春アニメの「球詠」の聖地でもありますし、2020年夏アニメの「エグセロス」の聖地でもありましたし、
実は埼玉が聖地のアニメ作品は山ほどある事を考えると「埼玉はいいところだよね~♪」と思わざるを得ないです~♪
そして静岡と言うと、日本のモノづくりをサブカルチャー的にとことん追求したのが日本が世界に誇るべき
日本のアニメとガンプラ等に代表される日本の素晴らしき模型・フィギュアの制作の聖地でもあります!
日本の模型作りの聖地というと東京とか秋葉原といったイメージもありそうですけど、実は静岡県こそが
ホビーの町というか模型の町の聖地と言えるのだと思います。
静岡市を中心とする地域はプラモデルやラジコンを代表に玩具産業が盛んで、タミヤ・バンダイ・アオシマ・ハセガワなど
大手玩具・模型メーカーが本社や工場を静岡県内においていますし、
特にプラモデルに関しては全国売上シェア約90%が実は静岡県が占めていたりもします。
1979年に放送が始まった大人気アニメ「機動戦士ガンダム」のプラモデルは静岡市葵区のバンダイホビーセンターが、
その一大生産拠点であり、「模型の町・静岡」を象徴していると言えそうです。
そして吹奏楽・管弦楽経験者にとっては静岡というと楽器製造の街という印象が強いですし、それを象徴しているのが
ヤマハだと思いますし、吹奏楽コンクールにとってはヤマハ浜松のインパクトは絶大なものがあると感じられます。
元来、浜松市はオートバイや木工・繊維関連など、「モノづくりの街」として名を知られていますけど、
やっぱり最たるものは楽器制作です!
河合楽器製作所・ローランドなど、名だたるメーカーが浜松市に集結していますし、国内でのピアノ生産量は静岡が1位です。
やはり浜松は「世界最大規模の楽器の街」という印象が強いですね~♪
ついでに書くと、私の勝手なイメージがあるのかもしれませんけど、静岡県はとても住みやすい街というイメージが強いです。
気候が温暖で、住んでいる人達も温厚な人柄の方が多く、食べ物も美味しいし
同時に「おっとり」というすごくいいイメージがあります。
あくまで個人的な話なのですけど、知人とか職場で知っている人で静岡出身の人は皆さん温厚で温和で
人間的に魅力がある人が多いみたいなイメージがあったりもします。
どうしてそうした印象を持っているかと言うと、
以前もこのブログで書いている通り、私自身は1990年~96年の間はとある金融機関の山梨県の支店に在籍していたもので、
その際の甲州人の「強引さ・よそ者排除意識・身内意識の強さ・甲州弁のガラの悪さ」等に
いささかうんさ゜りしていた面もかなりあり(勿論、甲州には甲州の良さは一杯ありますよ・・・)
当時、仕事上、隣接県という事で静岡の方と色々と接点を持つ機会も多く、その人柄の良さ・おっとり感に正直驚いてしまい、
「どうして隣同士の県なのに、こうまでも違うんだ! やっぱり今でも県民性の違いってあるもんだ!!」としみじみと感じたものです。
話が冒頭からそれまくりですけど、ヤマハ吹奏楽団浜松は、さすが楽器メーカーだけの事はあって
古くから日本の吹奏楽界をリードし続けた素晴らしい吹奏楽団の一つだと思います。
特に何が素晴らしいかと言うと圧倒的に高い技術力もそうなのですけど、
日本の有能な作曲家に曲の提供、つまり委嘱作品をお願いする事によってその委嘱された曲をコンクールの自由曲として
演奏する事で、邦人オリジナル吹奏楽曲を数多く世に送り出してきたという事が
実は最大の貢献なのではないかと思ったりもします。
一例をあげると・・・
〇保科洋/交響的断章・カプリス・カタストロフィー・古祀
〇夏田鐘甲/ファンタジー
〇田村文生/アルプスの少女
〇田中賢/メトセラⅡ・紅炎の鳥・南の空のトーテムポール・始原Ⅰ~大地の踊りなど
〇藤田玄播/天使ミカエルの嘆き
この中では、今では演奏されなくなった曲もありますし、現在に至るまで積極的に演奏され続けている曲もあります。
こうやって、後世に受け継がれていく曲を委嘱と言う形で世に送り出し続けた
ヤマハの貢献度は、本当に素晴らしいものがあると思います。
ヤマハ浜松は、最初にコンクール自由曲用の委嘱作品は実は邦人作品ではなくて、
「アンティフォナーレ」や「二つの交響的断章」でお馴染みのネリベルだという事は案外知られていないのかもしれないです。
当時のヤマハ浜松の指揮者の原田元吉氏がわざわざ訪米し、ネリベルに直々に
「是非我が吹奏楽団のために曲を書いて欲しい」と依頼し、そこで出来上がった曲が「ヤマハ・コンチェルト」なのです。
そしてヤマハ浜松は1970年の全日本吹奏楽コンクールにこの「ヤマハ・コンチェルト」を自由曲として出場し、
見事にグループ表彰制度開始のこの年に金賞を受賞しています。
この曲を知っている人、現在いるのかな・・? というかほとんど忘却の彼方の曲でもありますし
ヤマハ浜松以外はほとんど演奏された事もない曲ですので、「誰も知らない・・」という曲といえるのかもしれないです。
以前当ブログでこの曲について書いたところ、なおりパパ様より「この曲、知っている!」とコメントを頂いたこともあり、
「この曲をご存知の方がいて安心した・・」と妙に(?)感激したものでした!
「ヤマハ・コンチェルト」は、曲自体は意外と短く5分程度の曲です。
しかもネリベルとは思えないほど何か微妙に可愛らしい要素もあり、
「交響的断章」・「アンティフォナーレ」みたいな恐ろしいほどの不協和音とか畏敬を感じるほどのダイナミックスレンジの
落差の激しさという要素はほぼ皆無です。
曲のラストも、優しく可愛らしくチャーミングに終わり、思わず拍子抜けするほどです。
どちらかというと古典的な佇まいで誰しもから愛される資格がある雰囲気すらあると感じられます。
この前年度、1969年には、ヤマハ浜松は同じ作曲家の「フェスティーヴォ」を自由曲として取り上げていますが、
フェスティーヴォはいかにもと言う感じのネリベルらしい作風であり、ヤマハ・コンチェルトとの対照性を感じたりもします。
予想外の可愛らしさというか、管楽器の音の組合せの楽しさを発揮したのが
「ヤマハ・コンチェルト」の最大の魅力なのかもしれないですね。
ネリベルの残した吹奏楽オリジナル作品の中でヤマハ・コンチェルトに近いかも・・と感じられそうな曲が
「プレリュードとフーガ」なのですけど、プレリュードとフーガも終わり方がヤマハ・コンチェルトとどことなく似たような雰囲気も
あったりします。
ヤマハ浜松と言うと、知る人ぞ知る話かもしれませんが、1974年の全国大会には出場していません。
実は意外だったのですけど、東海大会の段階で、新日鉄に代表の座を奪われてしまいました。
ヤマハ浜松というと当時は既に王者の貫録という感じでしたけどまさか新日鉄に敗れるとは意外だったでしょうね・・・
ちなみに新日鉄のその時の自由曲は、リードの「ジュビラント序曲」でした。
1974年のヤマハ浜松の自由曲は、保科洋の「吹奏楽のためのカプリス」という大変地味で陰気な印象のうすい曲であった
というのがもしかして敗因かどうかは定かではないですけど、
1975年のヤマハ浜松の自由曲は再度二年連続してこの、保科洋の「吹奏楽のためのカプリス」でしたので、
原田元吉氏としても余程悔しいものがあり、雪辱を果たしたかったのかもしれないです。
ヤマハ浜松は、2015年度より、吹奏楽コンクールへの参加と大都市圏でのコンサート開催を1年おきに実施し、
活動を2年周期で展開していく方針であることが発表していますけど、吹奏楽コンクールの出場は毎年ではなくて
2年に一度という事にしているようです。
ヤマハ浜松としてはコンクールで毎年のように金賞を受賞するというある意味マンネリを重ねる事よりは、
少しでも多くの人たちに吹奏楽オリジナル作品を聴いてもらうために演奏会を数多く開催する事の方を大切にしたいという
意図があるのかもしれないですけど、これは大変尊い事だと思いますし、どっかの関西代表チームのように
コンクールで金賞を取る事に特化し自由曲を特定の二曲しか演奏しないという学校の指導者にヤマハ浜松の姿勢を
見習ってほしいものであるということを感じずにはいられないです。
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日本の吹奏楽70のレコードしかないのかもしれないですし、今現在の若い奏者の皆様がこの演奏を聴きたくても
この古いレコードを探しあてるか
うまい具合にYoutubeに登録されているのを見つけるしかないという事で、
今となっては幻の貴重な演奏といえるのかもしれないです。
この年の中学以外の課題曲がリードの「音楽祭のプレリュード」というのも今となっては驚きです。