
ポートレイト(肖像画)というのはエジプト文明・ギリシア文明の古き時代から既に存在していた特定の人物の顔や姿を
表現した絵画の事です。(写真で表現されたものは肖像写真と呼ばれます)
ポートレイトは直接モデルを前にして写実的にリアルに描かれる絵もありますし、はたまた
「それってどうみても美化され過ぎている」とか「それってデフォルメじゃん・・」みたいに実際の人物の顔は異なる絵も
多々あったりします。
理想化されたり戯画化されて実際の人物とは多少異なる姿で描かれるものもありますけど、後世に残る優れたポートレイトとは
そのポートレイトによって「モデルであるその人が感じられるかどうか」という事なのだと思いますし、
それが例え美化され過ぎていたり歪曲化されすぎていても、「このポートレイトは××さんだよね・・」と直感で感じさせてくれる
絵にどちらかというと歴史的価値があると言えるのかもしれないです。
中国の明の初代皇帝朱元璋のポートレイトには、温厚で端整な肖像画と、陰険そうで醜悪な肖像画の2種類が伝わって
いるそうですけど、当時の中国人民の目には果たしてどちらのポートレイトの方により「らしさ」を感じたのかは
興味津々であったりもします。
時の権力者たちが比較的好んで当時の絵師たちに命じて自らの肖像画を描かせたというのは、威厳をもった雰囲気で
自らを描かせることによって人民たちに「あの権力者様には逆らってはやばい・・」と感じさせるという意図もあったと言えそう
ですし、慈愛溢れるポートレイトを描かせることによって「あの王様には反抗してはまずいけど、なんとなく親しみややさしさを
感じるから、最大限の敬意を払おう」と思わせる意図もあるのかもしれないですし、
はたまた後世の人間にも「かつてこんなにも人民から恐れられた皇帝がいた・・」という事を伝えたかったという意図も
あるのかもしれないです。
換言すると肖像画というものはそれだけ時の権力者たちによってさまざまな形で利用されてきた歴史があると
いえるのかもしれないです。
権力者という存在は確かに階層社会の頂点に君臨し絶大なる権力を握り、さまざまな栄光という特典を有したりもしますけど、
逆に常に「いつか自分の部下や下層階級からのクーデターを食らって失脚するのではないか・・」という目に見えない不安と
「自分しか信じられない」という救いようのない孤独感に悩ませられる存在なのかもしれないです。
そうした時に、時の絵師によって描かせた自分のポートレイトを見ることによって、自分を奮い立たせたり
自分を過剰すぎるほど美化する事もできたのかもしれないですね。
話はいきなりそれますけど、上記でちらっと触れたように肖像画(ポートレイト)には描き手の絵師によって
全く同一人物を素材にしても全く相反する作品が完成してしまう場合も多々ありますし、音楽の世界にもそうした事を示唆させる
作品もあったりします。
それがB.バルトークの「二つの肖像」という作品であったりもします。
この曲を作曲当時バルトークは、ガイエルというヴァイオリン奏者に恋心を抱き、
その思いが一つの結晶となって表れたのがヴァイオリン協奏曲第一番です。
結局ガイエルとの恋は残念ながら悲恋に終わり、 ヴァイオリン協奏曲第一番も献呈されたガイエルの手許にずっと
保管されたまま忘れ去られ、 この協奏曲が初演されたのは、バルトークもガイエルも既に世を去った1958年です。
一方バルトークはこのヴァイオリン協奏曲第一番とは別に「二つの肖像」という管弦楽曲を世に発表し、
実は「二つの肖像」の第一曲「理想的なもの」は、ヴァイオリン協奏曲第一番第一楽章と全く同じです。
換言すると、ヴァイオリン協奏曲第一番が初演された時点では、既に第一楽章だけは
「二つの肖像」という別の形で既に発表されていた事になります。
「二つの肖像」の第一曲「理想的なもの」は、独奏ヴァイオリンが主体で
終始ソロヴァイオリンが哀しいメロディーを切実に歌い上げていきます。
「二つの肖像」の第二曲は、「醜いもの」というタイトルで、第一曲の理想的なものが10分程度の比較的長い音楽であるのとは
極めて対照的に、荒々しい疾風するようなトゲトゲしい音楽が3分程度駆け抜けていきます。
「醜いもの」は、クラリネット・フルート・オーボエの豚の絶叫みたいなブヒヒーンという雄叫びが極めて印象的です。
この第二曲「醜いもの」にも実はガイエルの影が潜んでいます。
この曲の元ネタは、実はバルトーク自身の「14のバガテル」という曲でして、
この「14のバガテル」という曲の中の第13曲「彼女は死んだ」と第14曲「彼女は踊る」という何やら意味ありげのタイトルの曲の
メロディーラインを二つの肖像のモチーフにに転用していますし、「二つの肖像」第二曲・醜いものは、
この「14のバガテル」の第14曲「彼女は踊る」をそっくりそのままオーケストレーションしたものなのです。
タイトル自体既に意味深なのですけど、「二つの肖像」という曲自体、
バルトークのガイエルに対する相反する二つの気持ちをそのまま曲にしたものなのかもしれません。
ガイエルに対する「あなたこそ私の理想の女性」という想いもある一方で、交際の過程で生じたさまざまな軋轢・心理的離反・
埋められない価値観の相違など理想と現実のギャップにバルトーク自身が大変悩み、
そうしたガイエルに対する複雑な想いが、理想的なもの・醜いものという相反するタイトルに繋がっていったのかも
しれないです。
心情的には男と女のミステリー音楽劇場みたいなものなのかもしれないです。
ご紹介が大変遅くなりましたけど、冒頭のポートレイト風ゆかりんは、
dream fantasy2のアミグリさんが2020年6月に描かれた作品です。
このすてきなゆかりんは後半改めてご紹介をさせて頂きたいと思います。
(ゆかりんの少し憂いを含んだお顔にフォーカスされたポートレイト風な描き方がとても素晴らしいです!)

上記で既に触れた通り、ポートレイト(肖像画)は、古くは古代エジプトや古代ローマ時代から盛んに制作されていましたけど、
それが芸術作品として広く描かれるようになるのはルネサンスが誕生する15世紀以降の話です。
2020年春アニメとして放映されていた「アルテ」は、そうしたルネサンス期のイタリアのフィレンツェを舞台にしたお話です、
16世紀初頭のルネサンス期において、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの巨匠が活躍した
ルネサンス文化の中心地の一つがフィレンツェであり、「アルテ」はそうした画家たちのギルド社会や工房での
親方と弟子の徒弟社会をモチーフにした物語でもあります。
当時のイタリアは文化の最先端という立ち位置になるかとは思うのですけど、そうした文化の担い手の一つでもあった
画家たちは意外と古くからの伝統や慣習に囚われがちで、そこには男尊女卑的な思想が根強く残っていて
「(アルテのような)女性が画家を志すなんてありえない」とか「女は家事さえやればそれでいいんだ」とか
「女の価値はいかに政略結婚によって相手方との共存利益をいかに見出すことができるのかという事しかない」とか
「女の結婚は持参金次第である」といった女性を蔑視し見下したような社会の雰囲気が濃厚だったのかもしれないです。
アニメ「アルテ」はそうした伝統的社会とか男尊女卑の社会とか古くからの因習にとらわれすぎる社会に対して
風穴をあけようと孤軍奮闘する一人の美少女のお話ともいえます。
元々は貧乏貴族の家に生まれたアルテでしたけど、「どうしても私は絵を描く事を生涯の仕事として全うしたい」とか
「私はとにかく絵を描く事が大好き!」とか「このまま貴族の家にいても持参金目当ての男どもの家に嫁がされるのがオチ」
という事で、当時は「女性が男性親方の家に弟子入りをするなんてありえない・・」という風潮の中、
確固とした信念のもと、思い切って家を飛び出したり、自分を弟子として雇ってくれる親方を必死になって探すとか
「お前は女だからダメだ」という世間に対して「それじゃー、この長い金髪をばっさりと切ったら男と同様な事を
認めて貰えるか」という事でなんの迷いもなく髪をばっさりと切落したりとその大胆な行動力と明るさには
魅かれるもの大でしたし、どの回を見ても純粋に「アルテ! 頑張れ!」とまるで「Hugっとプリキュア」のはな先輩のように
「フレー、フレー!むとエールを送りたくなるような気分になったものでした。
「女の画家見習いである」ということで周囲の反発も多かったアルテでしたけど、
持ち前の明るさと頑張りで男女の壁を乗り越え、徐々に理解者を増やしていった中で、突如水の都・ベネチアに
家庭教師として派遣される話が持ち上がり、ここからアルテの運命も大きく変化する事になります。
あまり過度に書くとネタバレになりますので、「アルテ」について興味がある方は是非ぜひ見逃し配信や
後日販売予定のBD等をご覧になって頂きたいと思います。
アルテがベネチア行になった一つのきっかけがユーリがアルテの描いた肖像画に興味を持ったという事でもありますし、
家庭教師としての雇われ先のファリエル家において肖像画の専属絵師として働くという付帯契約でもありましたので、
ファリエル家のソフィア奥様とその御令嬢のとカタリーナの肖像画を描き上げていたりもします。
その後色々な経緯はありましたけど、ベネチアのとある大貴族様一家の専属肖像画の絵師を務めたという実績や
「ベネチアにこのまま残って欲しい」という大貴族からの申し出を断ったという噂もあって、
フィレンツェのレオの工房に戻ってきたアルテには、貴族たちから夫人や令嬢の肖像画の作成依頼が舞い込むようになります。
「女性ならではの視点で描かれる肖像画」は顧客を満足させたものの、女性であるがゆえに宗教画の注文が来ないと
いったような壁にもぶち当たるようにもなり、またまた悩むアルテがそこにはいたものでした・・
アルテの描いた肖像画はとてもやさしいタッチで描かれ、見ているだけで人をなごませる効果もありそうですね~
そうした意味においては、肖像画の効果として、威厳に溢れたポートレイトによって自己の権威と威厳を高めるものも
大きいですけど、ルネサンス以降の近代に入るとそれと同じくらい「やさしさ・癒し」といった効果を絵師に求めるような時代に
入っていったのかもしれないです。

上記にてポートレイト(肖像画)は時の権力者たちによってさまざまな形で利用されてきた歴史があるといえるのかもしれないと
記しましたし、アニメ「アルテ」でもそうした事を示唆するシーンもありましたけど、
それでは一つの社会において実は支配者階級-被支配者階級が存在せず、王様も皇帝も権力者も行政組織はおろか
警察すらも存在しないある意味ユートピア的な東方の幻想郷においては、実質的なトップまたは影の支配者、はたまた黒幕
という存在はあるものなのでしょうか・・?
そしてもしもそうした存在に近い人がいるとするならば一体それは誰なのでしょうか・・?
私的にはその答えはゆかりん=八雲紫様です。
ゆかりんは、誰よりも幻想郷を愛し誰よりも幻想郷の未来を憂い、普段は表舞台から指示を出すとかそういう事は
一切しない代わりに、例えば式神の藍をフルに活用し幻想郷の定期的なパトロールや何か事件・異変が発生した場合は
霊夢をこきつかって? その対策に当たらせたり、
はたまたもしかしたら外界にも出没し、外界から幻想郷内の妖怪の食糧になりそうな人間を拉致したり、
将来の巫女候補になりそうな少女をさらってくるといったダーティな役割も担っているのかもしれないです。
最近では、永琳・うどんげちゃん・サグメといった月の民たちへの監視活動を強めたり、とにかく幻想郷内の秩序維持と
幻想郷内の古くからいる勢力と新しい勢力のパワーバランスの維持に日々腐心されているのがゆかりんなのかも
しれないです。
ゆかりんは必ずしも権力者という訳ではないのですけど、それに近い立ち位置から幻想郷の事を何かと気にかけて
いるのだと思います。
ゆかりんはスキマ妖怪」いう事で、幻想郷と私達が日々暮らしているこの「外界」を自由自在に出入りできる
東方では極めて貴重な存在と言えるのですけど、
もしもですけど、ゆかりんが外界において神社が寂れている光景を目の当たりにされると果たしてどのように感じる
のでしょうか・・?
それを示唆した一コマが「東方三月精」で描かれていました。
「こうした大切な神社すら誰にもお詣りをされず寂れてしまう・・・・
外界は既に夜も妖怪も誰も恐れはしない・・・
観光地という事でもない限り、誰も神社になど目もくれない・・・という事なのだろうか・・・」
「東方三月精」におけるゆかりん=八雲紫様のこの言葉はかなり重たいものがあると思います。
外界から完全分離をしなければ妖怪の存在すら許されなくなった状況というものは換言すると幻想郷においては
妖怪たちへの畏敬が今現在も続き、人間達が妖怪の存在を認めて敬っているという事の証でも
あるのですけど、「誰も妖怪を恐れない」という事は同時にゆかりんをはじめとする妖怪・神・妖精・鬼・吸血鬼・天狗等の
非日常的存在を科学等の合理的思考が一蹴し完全否定される事で
自分達自身の存在意義が根幹から問われている非常事態とも言えますからね。
だからこそ、ゆかりん達は一大決心をし、幻想郷を外界から完全遮断し、ゆかりん達妖怪勢力が人間からの畏敬無しでも
存在できるように企画立案、そして有言実行したという事になりますけど、
そうした意味では、ゆかりん=八雲紫様は、多少胡散臭くても幻想郷最大のヒロインの一人と間違いなく言えそうです。
それでもゆかりんにとっては現況の幻想郷は必ずしもゆかりんにとっての理想郷とは程遠く、ゆかりんにとっては
まだまだ苦労が絶えない日々が続くという事なのかもしれないです。
幻想郷において、そうしたゆかりんの心の内面を探るようなポートレイトを描く絵師というものは存在はしていないのですけど、
もしも幻想郷内にすてきな絵師様がいて、ゆかりんのポートレイトを描いたとしたらどのような感じになるかと言うのは
大変興味津々であったりもします。
厳格さと威厳と畏敬に溢れたゆかりんになってしまうのか、はたまた上記で記したように幻想郷内と外界の
パワーバランスの維持に日々苦労されているゆかりんの内面の苦労がしのばれるようなポートレイトになるのか
とても楽しみでもありそうです。
さてさて、
dream fantasy2の
アミグリさんの作品の中にはゆかりんの絵もたくさんあるのですけど、そうしたポートレイト風な絵もいくつか描かれています。
それはまるでアミグリさん自身が幻想郷に瞬間移動し、ゆかりんから「私の肖像画を描いてみて~」と依頼を受けて
描いたかのような雰囲気すらあると思います。
そんな訳で下記において、
dream fantasy2のアミグリさんが描かれたポートレイト風ゆかりんを2作品、転載&ご紹介をさせて頂きたいと思います。

まず一つ目が2013年8月に描かれたポートレイト風ゆかりんです。
アミグリさんはこの作品を描かれた当時「らくがきみたいなもの・・」と謙遜されていますけど、
いやいや、そんな事はないと思います。
これはらくがきではなくて、立派なゆかりんのポートレイトに他ならないと感じます。
このゆかりんは、どことなくですけど物思いに耽られているようにも感じられたりもします。
果たしてゆかりんが思いを巡らせているものとは何なのでしょうか・・?
将来の幻想郷の事・・? 博麗大結界は今後も大丈夫なのか・・? 霊夢はもう少しちゃんと修行してくれないか・・?
幻想郷内の妖怪対人間のバランスは果たして適切と言えるのか・・?
月の民たちは再度幻想郷侵略を実行するのだろうか・・? 永琳とサグメは何をヒソヒソとよからぬ?密談を繰り返しているのか?
そうした少しシリアスな側面が伝わってくる内省的なポートレイト風ゆかりんだと思います。
ゆかりんとしての心の深層を垣間見せてくれるような心象的な一枚なのだと思います。

続きましてアミグリさんが2020年6月に描かれたゆかりんです。
このゆかりんもすてきなポートレイト風のゆかりんだと思います!
上記の2013年のゆかりんは少し威厳や物思いに耽られるゆかりんというものを感じさせてくれましたけど、
2020年6月のゆかりんはゆかりんのレディとしてのお美しさと少女の恥じらい的なかわいらしさの二つの側面も
すてきに内省的に描かれていて、そうした表現力の幅広さも十分感じることができました!
少し憂いを感じさせるのもゆかりんの少女らしさが引き立たされていると思います。
憂いやしっとりとした瞳うるうる的な目の表情も素晴らしいと思いますし、あのゆかりんのしっとりとした瞳に
吸い込まれそうな雰囲気すら有していると思います。
普段の威厳と胡散臭さ?に溢れたゆかりんに対して、アミグリさんが描かれたこのゆかりんからは少し不安感といったものも
感じたりもするのですけど、その不安感というのはやはり最近の幻想郷における天候異変とか
外界や月からの侵入者や依神姉妹という疫病神と貧乏神がわがままし放題に暴れていたり、ゆかりんとしての
危機感がどことなくゆかりんにしては珍しい不安感といった内面的な心の描写をアミグリさんがしっかりと絵師様として
受け止めポートレイト風に立派にしっとりと内省的に表現されたといえそうです。
2013年のゆかりんも2020年のゆかりんも「幻想郷の未来」について想いを巡らせているゆかりんという共通性は
しっかりと伝わってきます。
ゆかりんは最高ですし、アミグリさんの描かれるゆかりんは私にとってどの絵師様が描かれるゆかりんよりも大好きです!
肖像画(ボートレイト)というものは絶大な地位にいる権力者の華やかさと栄光だけを描くだけではなくて、時には
こうやって権力者の不安感・さびしさを描く事も効果があるという事を示したアミグリさんの立派なポートレイト風絵なのだと
思います。
上記のアミグリさんが描かれたゆかりんの権利は、
全て上記作品の絵師様であられるアミグリさんに帰するものであり、当ブログにおける転載とご紹介は事前に全て
アミグリさんからご了解を頂いたものであり、アミグリさんからのご厚意で転載をさせて頂いておりますので、
無断お持ち帰りや無断コピーは絶対NGですので くれぐれも宜しくお願い申し上げます。
アミグリさん、本当にいつもすてきなイラストの転載を快諾して頂きありがとうございます!!
皆様の中で「こんなにも内省的なゆかりんを描かれる方のブログってどんなもんなのだろう? 」などと興味がある方は、
是非是非アミグリさんのブログ
dream fantasy2を ご覧になって頂きたいと思いますし、 宜しければ、当ブログだけではなくて、
是非アミグリさんの本家本元のブログ
dream fantasy2に一度お越しして頂けると アミグリさんのブログをご紹介させて頂いている私もとってもとっても嬉しいです!
アミグリさんが定期的に作品を投稿され続けている →
アミグリさんのpixiv にも是非一度足を運んで頂ければ幸いです!
→
アミグリさんのpixivやっぱりゆかりんは幻想郷最大のヒロインなのだと思います!
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最終回と同時に翌週から再放送が開始されているのも
わかる気がします。
男性優位の中世の時代にあって、女性の自立や古い慣習への挑戦などという重たいテーマを特にコミカルに時に意気揚々と描いていて、見ているだけで心地よかったです。
アルテの描いたポートレイとも大変気持ちがはいっていまたけど、アミグリさんの描かれたゆかり様は、
堂々とした中にもしっとりとした憂いを感じさせるのは
ゆかり様も時には悩んでいたりすることを感じさせるものだと思います。