「人の死」というものを意識させるクラシック音楽は、例えばマーラーの交響曲第9番とかチャイコフスキーの
交響曲第6番「悲愴」やワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」の「神々のたそがれ」~ジークフリートの葬送行進曲や
R.シュトラウスの交響詩「死と変容」などのように古今東西かなりあると思いますし、
そうした「死」の表現としての楽器としては、
悲愴の第四楽章で「死」の象徴としてのドラが静かに不気味に鳴り響くこともありますし、
マーラーの交響曲第6番「悲劇的」~第四楽章のように、ハンマーが「打倒された英雄の死」を視覚的にも聴覚的にも絶大な
インパクトを残す事例もあったりします。
そうした死をモチーフにした管弦楽作品の中でも異彩を放ち、その死のオーケストレーションの巧みさが光る楽曲として
ベルリオーズの幻想交響曲~Ⅳ.断頭台への行進とR.シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
を挙げたいと思います。
この両曲に共通する点として大変興味深いのは、どちらの作品も曲の主人公が死刑に処せられ、その処刑シーンにおいて
断末魔の叫びをあげている楽器として使用されているのがクラリネットである事です。
よく言われる事ですが、ベルリオーズの「幻想交響曲」は音楽史を語る上では、途方もない奇跡的な曲だと感じます。
ベートーヴェン大先生が亡くなって、古典形式が主流の中、そのわずか3年後に幻想交響曲という
現在聴いても先進的な曲が生まれている訳ですのです本当に奇跡としかいいようがないと思います。
ベートーヴェンの時代、和音美とか形式美とか定められた形が尊重されていたと思いますが、
ベルリオーズの幻想の場合、 「自分の感じたままに書く!!それの何が悪い」という感じに形式を超越し、
和音的にも奇怪な響きや不協和音が結構至る所に炸裂しています。
ベルリオーズ以前にも、ベートーヴェンの交響曲第六番「田園」にみられるような標題音楽は色々ありましたが、
自分の妄想や欲望、自己顕示欲をグロテスクなまでに自分の交響曲に取り入れたのは
ベルリオーズが第1号といっても差し支えはないと思います。
この交響曲はあるゆる意味でいろいろと時代を先取りしていると思います。
幻想交響曲~Ⅳ.断頭台への行進は、主人公が夢の中で一方的に恋焦がれ片思いをしていた女性に対して、
嫉妬と独占欲と方向性を間違えた情熱の結果、ついに殺人を犯してしまい、裁判の結果死刑を宣告され、
断頭台へと引きずられていく場面のグロテスクな死への行進といったシーンが描かれていますけど、この楽章の最後で、
幻想交響曲全体を貫いている「恋人の主題」がクラリネットソロによる絶叫音として壮絶に表現されていて、
この絶叫音というものは換言すると「生きることへの執着と未練」を示唆しているのかもしれないです。
だけどこうした生きることへの未練は次の瞬間にオーケストラが狂暴にffで「ギロチンの落下」を表現し、その次の
弦楽器によるピッチカートは首が切り落され、ゴロリと地面に落ちた瞬間がとんでもなくグロテスクに描かれています。
当ブログで何度か、私自身大学での吹奏楽団にて初めて吹奏楽コンクールに出場した時の自由曲が
幻想交響曲~Ⅴ.魔女の夜宴-魔女のロンドと記しましたけど、この年の定期演奏会でも、第五楽章と合わせて
第四楽章の「断頭台への行進」も演奏しましたけど、その際に指揮者から何度も
「この音の場面はギロチンの刃が落ちる瞬間のリアルな描写であり、その次のピッチカート部分は首が斬首されてゴロリと
地面に落ちる瞬間をリアルに描いたもの」と説明され、
「フランス革命で斬首されたマリー・アントワネットの気持ちになって各自の気持ちを表現しなさい」と指揮者から無茶ぶり
されたものですけど、あのピッチカートの部分は実際に演奏してみると、
「あー、これは命が絶たれた瞬間なんだな・・」と実感させられたものです。
そして次の瞬間に二台のスネアドラムによるすさまじいロールが展開され、金管楽器が咆哮するのですけど、あの悪趣味は
さすがベルリオーズの常軌を逸した偏狭ぶりをまざまざと感じたものでした。
参考までにプーランクの歌劇「カルメン会修道女の対話」第三幕第四場においても、そうしたグロテスクなギロチンによる
処刑シーンが描写されています。
R.シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」のラストにおいてもこうした処刑シーンが
音楽として表現されています。
「ティル・オイレンシュピーゲル」というのは、14世紀頃のドイツに実在したとも言われるし単なる架空の人物とも
言われる事もあるその正体については定かでない伝説の奇人なのですけど、
その生涯の数奇な伝説を音楽の物語として「交響詩」という形で単一楽章として18分前後の曲として発表したのが
R.シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」という曲です。
ティル・オイレンシュピゲールは果たして何をやらかしたのかというと、少し性質が悪いとかちょっとやり過ぎみたいな感じも
あるのですけど、全体的にはたわいもない騒ぎと言えそうです。
具体的には・・
1.市場で牛馬を解き放ち、市場を大混乱に陥れる。
2.空飛ぶ靴でトンズラを図る
3.お坊さんの姿に化けてテキトーでいい加減な説法をして廻る。
4.美女を口説くがあっさりと振られる・・・
5.学者たちにテキトー論争を吹っかけ、学者たちを煙に巻きそのまま逃走・・・
そうやって各地をいたずら放浪して散々悪態ついたところで逮捕され、裁判に掛けられ、絞首刑の判決が下り、
そのまま息絶えるといったストーリーを大変巧みな構成力&楽器配分で表現したのがこの交響詩です。
この曲の最大の聴かせどころでもあり最難関の部分は、曲開始早々のホルン奏者によるソロだと思います。
以前、NHK交響楽団のホルン奏者へのインタビューの中で、
「今まで吹いた曲の中で一番プレッシャーが掛った曲は?」という質問と
「今まで吹いた曲の中で技術的に大変しんどくて難しかった曲は・・?」という質問に対して、
このR.シュトラウスのティルを挙げていたのは大変印象的ですし、逆にそれだけ奏者にとっても大変な曲だと思います。
この交響詩が作曲された頃に、 それまでの手締め式ではなくてペダルを足で踏む事で音程をコントロールする
ペダル式ティンパニが発明され世に出ていますけど、
そうしたペダルティンパニを最初に効果的に使用した曲の一つとして
この交響詩や同じくR.シュトラウスの歌劇「エレクトラ」・「バラの騎士」を指摘する見解が多いようです。
さてさて絞首刑判決後に、ベルリオーズの断頭台への行進と同様に公衆の目の前で公開処刑されたティルですけど、
その処刑時のティルの悲鳴というか絶叫音はまたまたクラリネットで表現されています。
クラリネットの吹奏楽コンクールにおけるリードミスの絶叫音は奏者にとっても聴衆にとっても痛い事故なのですけど、
ティルのクラリネットの表現による絶叫音というものは、ティルの後悔とクラリネット奏者のリードミスの怨念が
融合したものなのかもしれないですし、そうしたヒステリックな絶叫音にぴったりと楽器というのは、やはりピッコロよりは
クラリネットによる高音の表現のほうがぴったりなのかもしれないです。
処刑シーンのクラリネットによるティルの断末魔の叫びは計3回奏でられるのですけど、1回目から徐々に音量をpからfへと
上げていき、最後の三回目に至ってはオクターブを高くし、「息絶えた・・」ということを見事に音楽物語として表現していると
思います。
クラリネットのティルの悲鳴を示唆する高音の叫び声は、クラリネットの音域の限界を超えた超高音域のものであり、
クラリネット奏者にとっては無茶振りを超えた作曲者からの死刑宣告なのかもしれないです。
曲のラストでは、冒頭の親しみやすく温和なメロディーが再現されていて、
「ティルは確かに死んだけど、ティルのイタズラ魂は今でも生きている」とか
「ティルは永遠に不滅ですよ、みなさんの心の中に伝説として今後も生き続けていく」みたいな事を暗示しているようにも
感じられたりもします。


ららマジ器楽部でクラリネットを担当しているのは、後輩にも自分にも厳しい先輩の綾瀬凛ですけど、
断頭台への行進とかティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずらの断末魔のクラリネットによる絶叫音は
綾瀬凛が奏でられたとたら、結構ツボにはいるのかもしれないですね~(♪
怒っている綾瀬凛はいつもの綾瀬凛なのかもしれないですけど、一緒に断頭台の行進などを練習していて
「一体いつになったらまともに吹けるのよ~!」と激怒されているのかもしれないですし、はたまた綾瀬凛自身が
クラリネットのパート譜を見て
「こんな大変な曲まともに吹ける訳ないじゃん!」とご機嫌ナナメになっている時なのかもしれないですし、
いたずらばかりやらかしているティルに対して「ちょっといい加減にしなさいよ~」とまたまた怒られている時なのかも
しれないです。
こうした断末魔の叫びを奏でている綾瀬凛は、東方で例えると地獄の閻魔様の四季映姫様による地獄のお裁きで
「断罪~!!」とか「地獄行き!」の判決を下している時の雰囲気にも似ていそうです。
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交響曲の分野に持ち込んだ作品といえそうですけど、
当時のベルリオーズ自身も一説ではアヘンという麻薬の中毒一歩手前だったそうですし、薬と言うものは毒にも効能にもなるという事なのかもしれないです、
時代的にはイギリスが中国との貿易赤字を解消するためにアヘンを
輸出した時期とも重なりますので、
世界史的にも興味深いものがありそうです。