本日のファースト記事にて触れたとおり、おかげさまで本日をもちまして当ブログのクラシック音楽が400記事に到達
しましたけど、そのファースト記事においては特段クラシック音楽には触れていませんし、
せっかくのクラシック音楽カテゴリの節目ということでもありますので、本記事においては私の大好きな作曲家の一人でもある
ショスタコーヴィッチについて少しばかり取り上げさせて頂きたいと思います。
ショスタコーヴイッチの交響曲は、何と言っても圧倒的に交響曲第5番(革命)が有名ですし、
この交響曲第5番の人気&演奏頻度&録音頻度は突出していると思います。
当ブログにおいて、ショスタコーヴィッチの記事を書く際は、なぜかあまりにも有名な交響曲第5番ではなくて、
ファゴットが第四~第五楽章で大活躍する交響曲第9番や交響曲第7番「レニングラード」や交響曲第10番や
吹奏楽コンクールにおいて昔も今も定番曲である「祝典序曲」や吹奏楽経験者でないと聴いたことすらないと思われる
「民族舞曲」のことばかり触れているような気もしますので、ここは久しぶりに交響曲第5番を取り上げてみたいと思います。
ショスタコーヴィッチはその生涯で二度ほど政治的にやばい状況を迎えます。
当時のソ連体制においては、国家権力によって睨まれたり監視の対象になってしまうというやばい状況が即自身の
処刑・シベリア送り・強制収容所送りという悲惨な末路に直結していたものですし、
本来音楽というものは自由であり「自分はこのように感じたからこうした曲を作る!!」みたいな事が尊重されるのは
当然の事なのですけど、当時の共産党一党独裁のソ連にはそうした自由は無く、「人民が喜びそうな外面的効果の高い音楽」を
量産する事を求められ、スターリンや音楽官僚が喜びそうな曲を作ることが何よりも求められ、
作曲者自身の内面を描くといった抽象的な音楽は、国家権力によって敬遠されひたすら外面的に明るい音楽を作曲する事が
強く求められていました。
そうした国内状況だったからこそ自由な音楽を求めてソ連体制を嫌って祖国からの亡命を求めたのが
ストラヴィンスキーとかプロコフィエフと言えるのだと思います。
しかしショスタコーヴィッチは律儀にも祖国愛が強いのか、面倒な事を嫌ったのか、家族の反対にあったかは
よく分かりませんけど、生涯一度も亡命する事もなくその生涯において終始変わらずソ連体制の中で生き続け、
その生涯をソ連の中で閉じた方なのです。
本当は、マーラーみたいな音楽を書きたかった欲求もあったのかもしれませんけど、
(それを強く示唆させる音楽が交響曲第1番や交響曲第4番といえるのかもしれないです)
時に自分の内面に忠実な作品を書きそれが国家からの批判を招き、その反動として外面効果が高い分かり易い曲を残すという「御用作曲家」みたいな面を持つという事で、本当に苦労が絶えない人だったと思います。
だけどその反面。ショスタコーヴイッチの交響曲第4番や交響曲第15番を聴いてしまうと、
「もしかして、マーラーの音楽史的な後継者はシェーンベルクじゃなくて実はショスタコーヴィッチではないのか・・!?」とすらも
勘ぐってみたくもなりそうです。
ショスタコーヴィッチの政治的にやばい状況の内の一回目は交響曲第4番やバレエ「明るい小川」を作曲していた頃です。
これらの音楽が「抽象的で訳がわからん」という事で睨まれ、当時はソ連の御用新聞のプラウダや音楽官僚たちから
「音楽の荒唐無稽」というとてつもない大批判の大合唱を受け、ショスタコーヴィッチ自身も一時は、自身の逮捕・処刑・流刑を
覚悟した事があるというのはどうやら本当の事のようです。
その代償として作曲されたのが、ショスタヴィッチの代表作、交響曲第5番というのも皮肉な話であり不思議な感じがします。
そしてやばい二回目は、第二次世界大戦終了後に戦争勝利記念作として発表された交響曲第9番が要因となります。
スターリンにとっては、「この交響曲は特別な存在であるべきである。なぜなら我々は戦勝国だからである。
だからこの祝祭的な交響曲は、合唱などを入れ大規模に国家の勝利を讃える必要がある」などと命令したかどうかは
よく分かりませんが、そうした気持ちは幾分は持っていたのかもしれません。
だからこそこの第9交響曲が「洒落っ気に溢れた軽妙曲」であったことにスターリンは激怒し、
「俺の顔を潰しやがって・・・」みたいな気持はどこかにあったかもしれません。
そしてジターノフ批判という大批判キャンペーンが展開され、ショスタコーヴィッチはこの危機に対しては、
オラトリオ「森の歌」で大衆迎合用の分かり易い曲を提出し難を逃れています・・・
ちなみの「森の歌」の初版の歌詞のラストは「スターリン万歳!!」だそうです。
(スターリンの死後その讃美の歌詞は削除されています)
そうした色々複雑な背景&事情があった交響曲第5番ですけど、作曲者本人にとっては自分自身の生命が掛った
ある意味起死回生みたいな曲だったと思います。
音楽評論家の解説、指揮者の解釈によって様々な見解が分かれる曲ですし、事実様々なアプローチが可能な曲だと思います。
同時に、「ショスタコーヴイッチの証言」という本(実は創作物という見解も根強いようです)の一節にある通り
「終楽章は歓喜ではなくて、強制された歓喜の悲劇」という解釈も一理あるのかもしれません。
実際はどうなんでしょうか・・・?
この曲は生演奏で聴く機会が比較的多かったもので、何回か聴いた事はありますが、悲劇的な感じとか強制された
という印象はありませんでした。
当時の権力者・社会・自分を快く思わない人達とショスタコーヴィッチ自身が戦った結果としての讃歌を感じてしまいます。
終楽章は、「当時の権力者に迎合して彼らが気に入るような曲を書くのも一つの自由、それに反抗して
結果的に自分の命を縮めてしまうのも自由、それを選択するのは権力者自身ではなくて、自分自身なのだ!」
というようにも聴こえてしまいます。
作曲者自身が本当に「あの終楽章は強制された歓喜」というメッセージをこめたいのならば、
100人中45人程度は「確かにあの曲にはそうした意図があったんだ」という事を分からせるような曲の構成を取らないと
その真意は後世には確実に伝わらないような感じもあったりします。
ショスタコーヴイッチ自身がもしも仮に本当に「あの終楽章は歓喜では断じてない!!
あれは強制された歓喜の悲劇なのだ!!」という事を確実に伝えたいのならば、
そうしたメッセージを明瞭に曲に折り込むべきで、
そうした意図が伝えきれなかった時点で、それは実は作曲者の負けみたいな解釈も可能なのではないかと思ったりもします。
それが自由に出来る政治状況ではなかっのが当時のソ連=スターリン体制なのだという事は勿論百も承知しているのですけど、
そのくらい指揮者によって解釈や見解は分かれる曲なのかもしれないです。
ショスタコーヴィッチの交響曲は、19歳の時に作曲され、その自由な発想が今現在でも高く評価されている
交響曲第1番から開始されるのですけど、
2~3番においては、素材は御用作曲家みたいなものを使用しながらも音楽としての表現方法はかり自由という
実験的側面を有し、そして第4番においては自虐的でかなり内面的で分かりにくいものを残しています。
ここで改めて考えてみたい事があるのですけど、
確かに交響曲第4番を聴いたすぐ後にこの5番を聴いてしまうと、
「この両者の極端すぎる違いはなんなの・・!? この曲を作曲した人、本当に同一人物なの・・?」と感じるのかもしれないですけど、
もしもなのですけど、交響曲第4番を作曲した頃のショスタコーヴイッチ自身が、前述の政治的危機が仮に無かったとしても、
あまりにも2~4番のシンフォニーのウケの悪さや「自分の目指すべき方向性とは少し異なる・・」といった違和感を
既にショスタコーヴィ土自身が感じていて、
「自分が作りたい音楽はこうした前衛的方向性ではない」と既に悟った結果としての交響曲を残していた可能性も
あるのかもしれないですし、自身の命にかかわるようなヤバイ状況が無かったとしても、案外交響曲第5番は
作られていたような気さえします・・・
それは、古典的で明快で分かりやすい交響曲第1番を発表しながらも
亡命時代の2~4番で複雑怪奇で訳の分からん交響曲を残しつつも、ソ連復帰後の交響曲第5番であんなにも霊感と才気煥発に溢れた素晴らしい名曲を残したプロコフィエフともどこか重なる面はあるのかもしれないです。
プロコフィエフ自身も、交響曲第4番を作曲していた頃は、そのあまりのウケの悪さに対してショスタコーヴィッチ同様に
「いやいや、自分が目指したい方向性はこんな事ではない」と悟っていた可能性もあるかもしれないです。
それにしてもショスタコーヴィッチの交響曲第5番は、20世紀が生んだ名曲の一つだと思います。
ある意味、こんな分かりやすい曲は無いとすら感じてしまいます。
こんな曲を聴いていると、前述のショスタコーヴィッチ自身の真意とは果たして何なのかとか本当は何を言いたかったのか
みたいな事はどうでもよくなったりもします。
自分自身への問いみたいな第一楽章は冒頭から前半はゆったりとしたテンポで開始されるのですけど
前半は「本当に自分のやっている事は本当に正しいのだろうか・・他に選択肢は無いのだろうか・・」みたいな
かなりの深刻さが暗示されています。
面白いのは、ピアノの重低音が唐突に入る事で曲想とテンポをガラッと変えている点ですね・・
第二楽章は、何か「過去の自分との対話」みたいなものがイメージされます。
第三楽章は一転して瞑想的な音楽が15分ほど展開されていきます。
そして圧巻の第四楽章はティンパニが実に格好いいですし、ラストのトランペットとホルンの超高音&強奏は、
とにかくすさまじい迫力があります。
そして本記事の結論になってしまうのですけど、
何回聴いてもどう捻くれて解釈してもあの第四楽章に「悲劇性」は感じられませんし、ショスタコーヴィッチが回顧録で記した
「強制された歓喜の悲劇」には聴こえませんし、あれは私の感性ではどう聴いても「自問自答」にしか聴こえないです。

ショスタコーヴィッチの交響曲第5番の終楽章はトランペット奏者にとってはあのとてつもないハイトーンがきつい曲だと
思います。
確かにあの強奏は管弦楽作品の中でも突出した大音響ですし、あのとてつもない大音量は奏者にとっては快楽では
あるのですけど、終楽章ラスト近くのトランペット奏者にとってはあんなハイトーンを大音量でほぼブレスも出来ない状態で
吹奏し続けるという事はとてつもない負担であり、大変なプレッシャーが掛かるとは思うのですけど、それでもあの
爽快感は何事にも耐えがたいものがありそうです。
とんでもないハイトーンの強奏ですので万一音でも外したら一発でバレてしまう曲で奏者にとってはやりがいでもありますし、
同時にプレッシャーのかかる曲でもあります。
「ららマジ」のトランペット担当は、亜里砂・エロイーズ・ボー=ボガードです。
フランス生まれのクォーターで高校2年生のJKさんで、金髪ツインテールがとてもよくお似合いだと思います。
担当楽器はトランペットで、腕前はプロ並で、自分のかわいさが分かっているかのような小悪魔チックな振る舞いをするような
性格もまたまたとってもかわいいですね~♪
公式では「亜里砂・E・B」と略される事が多いです、
バトル時においてはトランペット型のアサルトライフルを武器とします。
亜里砂・E・Bにとってもショスタコーヴィッチの交響曲第5番~終楽章は大変な曲でもあると思うのですけど、天才奏者の
亜里砂・E・Bにしてみれば挑戦のし甲斐がある曲だと思いますし、最後までミスらないで満足のいく演奏ができたとしたら
感極まるものがありそうですね~♪
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これだけたくさんのジャンルのカテゴリ記事を手抜きすることなく
一つ一つ丁寧に掘り下げられているだけでもとても頭が下がりますけど、管理人様の吹奏楽とクラシック音楽の造詣の深さにはいつも感心させられるばかりです。
これからも素晴らしい音楽記事に期待をさせていただきます。
ショスタコの5番は仰る通りあの終楽章には悲劇性というメッセージはあまり感じないです。
ショスタコ本人も人間ですので、その日の気分やその日起きた嫌な出来事等により周りの者たちに
本心とは異なることをポロっと口に出したり、どうでもいいことをうっかり口走ってしまったら、それを聞いていた者が後世に自伝という形で発表してしまい、ショスタコの心の本音とは異なる形で
例のあの証言ばかりが独り歩きをしてしまったのかもしれないです…