箏(そう)は日本の和楽器の一つです。
一般的に「琴」(こと)という呼び名の方が浸透しているのかもしれないのですけど、厳密にいうと、
「箏」と「琴」は別の楽器であったりもします。
両者の最大の違いは、箏は柱(じ)と呼ばれる可動式の支柱で弦の音程を調節するのに対し、琴は柱が無く弦を押さえる場所で
音程を決めるという点が挙げられると思います。
琴は弦が7本であり柱は存在しませんし、音の目印となる「徽(き)」がはめ込まれており、
この目印をたよりに奏者は左手で弦をおさえ右手で弾きます。
それではどうして箏と琴が混同されているのかと言うと、その背景として、箏の字が常用漢字に含まれず、
しかも箏という文字が書きにくく馴染みがうすいと言う事で、箏と琴が同一視され混同をされている事情もあったりします。
ふたつの文字は混同されていることが少なくありません
そして箏というともう一つ誤解をされている点は、「箏は日本が発祥の伝統楽器であり、箏は日本古来の伝統楽器」と
認識されがちなのかもしれないですけど、実は箏自体は、奈良時代に中国(唐)から雅楽が輸入された時、
その中の楽器のひとつとして日本にもたらされたものです。
17世紀に近世箏曲の祖と称される八橋検校が、ほぼ現在のかたちの箏曲を完成させ、江戸時代以降の箏の世界は、
胡弓に代る新しい楽器でもある三味線とも結びついてたいへん発展し、
関西では生田検校が生田流をおこし、関東では山田検校が山田流をおこし、現在に至っています。
そして生田流でも山田流でも箏は桐の木で作った中空横長の箱状の胴に、十三本の弦が張られています。
弦の下に柱(象牙またはプラスチックまたは木製)を置き、その位置によって音の高さを合わせます。
(そうした音の高さ調整の事を「調子を合わせる」とも言うそうです)
奏者は自分の前に横に置いた楽器の右端に座り、右手の親指、人さし指、中指に琴爪をはめて演奏します。

上記で触れたとおり、箏は生田流も山田流も基本的には弦の本数は13本なのですけど、
合奏曲の低音部を受け持つ箏として、1921年に宮城道雄が考案した十七絃の箏もあったりもします。
これは普通の箏と同じような形態ですが、全体的に幅、長さ、厚み があり、十七本の弦が張られています。
上記の画像は幻の楽器とも呼ばれる八十絃です。
八十絃は、十七絃の箏と同様に宮城道雄が考案した80本の弦を持つ大型の箏でして、
13本の弦を持つ通常の箏、あるいは同じく宮城道雄の考案による低音の拡張された十七絃に比べ、
はるかに幅広い音量と音高を発することができ、その大きさと形状はグランドピアノの本体部分を彷彿とさせます。
天才と称される宮城道雄をしても演奏自体が非常に難しく高度な技術を求められ、
演奏不可能の烙印を押されほとんど日の目を見ることなく姿を消し太平洋戦争で焼失しています。
現在は復元された楽器が宮城道雄記念館に展示されていますけど、実際に演奏される場面はまずないそうです。
似たような話として、78本の弦を有するハープがあるのしれないです。
一般的にハープは47本の弦を張り、左足用と右足用の計7個のペダルで音高を変えるタイプが主流ですけど、
奏者のペダル操作軽減の策として78本の弦を有するペダル無しのハープが考案されたことがあるそうですけど、
かえってハーブ奏者の負担をとてつもなく増大するというトホホ・・な結果で終わってしまい、
結果的に八十絃と同様に「幻の楽器」とよばれる事もあるようです。
箏は、クラシック音楽との交流も盛んにおこなわれていて、箏と管弦楽のための協奏曲的な作品もいくつか作曲されています。
一例を挙げてみると・・
湯浅譲二 / (八面の)箏とオーケストラのためのプロジェクション「花鳥風月」
伊福部昭 / 二十絃箏とオーケストラのための交響的エグログ
西村朗 / 樹海-二十絃箏とオーケストラのための協奏曲
坂本龍一 / 箏とオーケストラのための協奏曲
この中では、元・YMOのあの坂本龍一さんの楽曲の意義はかなり大きいように感じられます。
箏ではないのですけど、日本の雅楽の楽器が管弦楽と協奏的に構成された作品として大変名高いのが、
武満徹が1967年に作曲した「ノヴェンバー・ステップ」という 琵琶、尺八とオーケストラのための音楽作品だと思います。
吹奏楽と箏(琴)の共演作品としては 櫛田胅之扶の箏と吹奏楽のための組曲「嵯峨野」や
小山清茂の吹奏楽のための「琴瑟」が挙げられると思います。
琴瑟は日中国交回復を記念して航空自衛隊航空中央音楽隊より委嘱された曲で、
瑟という中国雅楽におけるチター属絃鳴楽器 と日本の琴は必ず使用するようにという指示があるそうです。
この二つの曲は、私自身生の演奏会で接した事がないものでして、申し訳ないのですけど、実は私もあまりよく知らない曲で
あったりもします。
琴(箏)・尺八・琵琶等の雅楽の楽器と吹奏楽の競演として私的に大変印象に残っている演奏があります。
それが何かと言うと、1981年の全日本吹奏楽コンクール・東北大会において、1976~80年の全国大会において
5年連続金賞を受賞し、その偉業をたたえる一つの記念演奏としてコンクールの評価とは全く切り離された形での演奏の
お披露目がなされた秋田南高校吹奏楽部による招待演奏です。
(全国大会においては特別演奏と呼ばれています)
振り返ってみると、この5年連続金賞と言うのは大変難しいもので、過去においても
淀川工業・尼崎吹奏楽団・愛工大名電高校・中央大学・福岡工大付属・天理などが4年連続全国大会金賞を
成し遂げたのに、5年目で支部大会落ちとか全国大会で銀賞等の理由要因で5年連続金賞を逃すという事も起きています。
特に気の毒なのは尼崎吹奏楽団でして、4年連続金賞という偉業を計2回も達成していながら、いずれも5年目に
全国大会銀賞に留まり、結果的に「5年連続金賞→翌年の特別演奏」という栄誉が実現出来なかったのは
「勿体無いなぁ・・・あれだけの高い技術を持ちながらもやはりコンクールと言うものは難しいものだ・・」という事を
改めて実感させられる結果になっていたのは大変興味深いです。
あの名門・天理ですら1974年の「5年連続金賞」が掛った年においても「ハムレットへの音楽」で
まさかの銀賞に留まっていましたし、1985年の福岡工大付属も、まさかの九州大会ダメ金という事で全国に進めませんでしたし
コンクールは確かに実力が大半なのでしょうけど、女神様の「運」というのもあるものなのかもしれないです。
1985年の福岡工大付属の場合は、自由曲の選曲がラッセンの「マンハッタン交響曲」という地味すぎる渋い選曲
というのも一因があったのかもしれないです。
1990年代後半から、3年連続金賞の後は翌年休みというルールに変更されたばかりか、
特別演奏という特典も廃止されてしまい、いつの間にか3年連続全国大会出場チームは翌年のコンクール参加は不可と言う
不可解なルールに変更された時期もありました。
最近になって、さすがに三年連続出場の翌年不可は可哀想という事でこのルールは撤廃されたようです。
1981年の東北大会の秋田南高校の招待演奏の曲目は
〇JEUXⅢ(天野正道)
〇童謡によるファンタジー~茶つみ歌、あの町この町、エピローグ(野田暉行)
〇吹奏楽と三味線のための「津軽じょんがら節」(青森県民謡)というものでした。
JEUXⅢは天野正道氏の曲が初めて吹奏楽コンクールで(評価対象外ですけど)演奏されたのは、
もしかしたらJEUXⅢが初めてだったのかもしれないです。
天野正道という名前が、アレンジャーの側面以外で作曲家として吹奏楽の世界で浸透し始めたのは、
玉川学園中等部の「抑圧から解放へ・・・」という曲と新屋高校の「エクスピエィション」あたりからなのかもしれないですし、
それを決定づけたのは交響組曲第2番「GR」と交響組曲第7番「BR」なのだと思います。
JEUXⅢは曲自体、何かもやもやしたもので、感覚としては、三つの冗談というよりは妄想する散歩道というイメージです。
童謡によるファンタジーは、あまりにも美しすぎて逆に印象がうすい演奏なのかもしれないですけど、
野田暉行のこの原曲は実は元々は二管の管弦楽作品でバレエ音楽として構想されていたそうでして、それが
幻想的な美しさに繋がっていたのかもしれないです。
後年ですけど、秋田南・天理・弘前南・ブリジストン久留米・駒澤大学の全国大会での特別演奏を収録したレコードが
発売されていて、秋田南はJEUXⅢと津軽じょんがら節が収録されていましたけど、私的にはJEUXⅢよりは
野田さんの童謡によるファンタジーの方を収録して欲しかったですね~
ちなみにこの年の秋田県大会での秋田南の招待演奏の曲目は、スメタナの交響詩「モルダウ」と童謡によるファンタジーだった
そうです。
ちなみに1981年の東北大会初日は、とてつもない過密スケジュールでして、
大学の部が6チーム、職場の部が4チーム、高校B部門が9チーム、高校A部門が13チームの演奏が朝9時から開始されていて、
秋田南の招待演奏が開始された時間も確か19時近い時間帯だった記憶があります。
それでも初めて聴く吹奏楽コンクールの支部大会は私にとっても大変刺激的で、ゾクゾクさせられたものがありました。
そして結果的に翌年の1982年の東北大会における花輪高校吹奏楽部によるウォルトンの交響曲第1番~第四楽章の演奏で
私自身は、今現在に至る吹奏楽とクラシック音楽という深い森の中に迷い込むきっかけを作って頂けた事になります。
1981年の私自身は、当時の吹奏楽コンクールの事はイロハのイの字も何も知らない全く白紙の状態で聴いていて、
当時の私の率直な感想は、高校A部門は、1位・磐城 2位・花輪 3位・大曲高校 4位・仁賀保 5位・弘前南という事で、
当時は「1981年の弘前南はそれまで4年連続して全国で金賞を受賞していて、今年は5年金賞がかかった節目の年」という
事すら何も知らない全く純粋で余計な情報なしであくまで純然たる私の感想が上記の私自身のコンクール評でも
ありました。
弘前南は正直東北大会ではあまり芳しくない演奏だったような印象ですけど、普門館の全国大会では大化けした
迫真の演奏を聴かせてくれていたのはさすがでもありました。
ちなみにですけど、1981年の仁賀保高校の自由曲のスキタイ組曲は、従来のⅠとⅡの組合せではなくて、今にして思うと
ⅠとⅣの組合せというのが大変斬新でした!
話がそれました・・
話を秋田南の招待演奏に戻すと、「津軽じょんがら節」は最高に面白かったです!
ドラムスがとてもノリノリで、全体と三味線を上手くリードし、とてもファンキーな演奏だったと思います。
津軽じょんがら節のアレンジャーとプログラムで表記されていた佐川氏は、
1989年に二ツ井高校を指揮され、D/寄港地で、東北大会でB部門ながら大変素晴らしい演奏の指揮をされていて、
1999年以降は、新屋高校で高野先生の後任として、全国大会にも何度か出場されています。
箏と管弦楽の共演もすてきですけど、吹奏楽をバックに三味線もあんなにも生き生きとした演奏が出来ると言う事は、
当時の私にとってはまさしく目からうろこが落ちるという感じでもありました。

ここから下記は「ららマジ」の話です~♪
橋本ひかりは、琴を担当している高校3年生のJKさんです。
公式では橋本ひかりの担当楽器は「琴」と記されていますけど、厳密に書くと上記で触れたように橋本ひかりが
奏でているのは琴ではなくて「箏」の方です。
橋本ひかりは、身長が高くスタイルがよい美少女というよりは、ララマジ屈指の正統派美人さんだと思います!
同じ和楽器担当という有栖川翼とは対照的に、引っ込み思案で恥ずかしがり屋な性格で、
特に男性に関して強い苦手意識を持っているというのも、アニメ・ゲームにおける美少女キャラのこれまたすてきなお約束の
一つなのかもしれないです。
面倒見がよく器楽部の後輩からは大変慕われているそうです。
上記で触れたとおり、
稀にですけど、吹奏楽団の演奏会等で、箏や胡弓、和太鼓等の和楽器と吹奏楽をコラボした曲目が演奏されることも
ありますけど、ららマジでも橋本ひかりや有栖川翼をソリストにした協奏的な曲目を演奏するのも
すてきな事なのかもしれないですね~♪

水着の橋本ひかりは、本当にスラッとしたスレンダー美人さんですね~♪

そしてららマジでの制服姿で、少しきょとん・・とされた橋本ひかりお姉さまは、やっぱりららマジ屈指の正統派美少女だと
思います。

バトル時の武器は箏の形をした長弓で貫通力が高そうですけど、こういう戦うお姉さまとしての橋本ひかりの雰囲気は
艦橋っぽい武器としての箏を手にされているという事で、なんだか艦娘っぽいですね~♪
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厳かで物静かな和を感じるのは
お琴と尺八の音色が持つ雰囲気なのでしょう。
80本の玄を持つ箏、どんな音色が出るのでしょうね。
大間の荒波を連想する津軽じょんがら節も聴いてみたい気がします