1984年と言うと、私が親元を離れて初めて一人暮らしを始めた年でもあり、
東北の田舎を脱出し実家を離れる事が出来て、その開放感(?)に浸りきった年でもあり、
個人的には大変記憶に鮮明に残っている年でもあります。
あの頃の日本は、いかにも「古き良き時代」という感じでしたし、世間の雰囲気が「まっ、いっか・・」みたいなおおらかな空気が
まだまだ支配的でどこかのんびりとした雰囲気だったような印象があります。
今現在のような閉塞感とか常にピリピリと殺伐としているような空気では無かったと思います。
当時は今みたいに人間関係が無味乾燥という感じではありませんでしたし、
携帯もLINEもメールもパソコンも何にも無いない時代でしたし、
他人とのコミュニケーションは基本的には「直接会話」以外あんまり方法がなかったし、
何て言うのかな・・・まだ日本人らしい(?)「恥の文化」とか「奥ゆかしさ」とか
「そんなに言語明瞭にはっきり言わなくてもいいじゃん! そんなの行間を読み取ってよ」みたいな空気があったと思いますし、
少なくとも今現在よりは生きやすい時代だったような記憶があります。
むしろそうした時代に実家を離れて一人暮らしをスタートしたというのは、むしろ恵まれていたような感じもありました。
当時の私は、埼玉県大宮市(現、さいたま市大宮区)のぼろアパート【4畳半+3畳 風呂無し・トイレ共同 家賃2.2万円】に
居住していましたけど、あの頃ってお金は全然無い典型的な貧乏学生でしたし、
仕送り+毎月のバイト代で大体毎月8万程度で全てをやりくりしていたのですけど
(家賃→2.2万 光熱費→8千円未満 通信費→携帯はあの頃は存在していないし、固定電話は無いから0円
銭湯代→4000円前後 吹奏楽団の部費・楽器消耗品・部の飲み代→1万円前後
食費→3万未満 本→5000円ぐらい・・・)
別にお金が無くてもそれはそれでいいじゃん!、日々こうやって何とか生きていっているし、
学校は毎日通って、週に何度かは都内の吹奏楽団の練習に参加し、バイトもし、
お金が無くてレコードも聴けないけど、そういう時は・・上野の東京文化会館5階の音楽資料室で
丸一日レコードを借りまくってひたすら音楽漬みたいな事もしているし、
他に何か望む事ってあるのかな・・??
そういう楽観的な雰囲気が私の中に内在していたような感じがあったものでした。
当時はいわゆるバブルの発生の前の時代でしたし、まだ就職とか社会人生活なんてまだまだ先の話と思っていましたし、
日本全体がどことなく牧歌的な雰囲気が漂っていたのがそうした私自身「楽観さに繋がっていたのかもしれないです。
今振り返ってみると、この時代の日本は、「バブルの絶頂・日本経済の絶好調→バブルの崩壊・失われた10年」の
直前のお話という訳でして、なんとなくですけど私としては「滅亡前の微かな幸せの時代」という感じだったのかもしれないです。
冒頭から話が全然ヘンな方向にそれてしまいました(汗)
1984年と言うと、都内のとあるポンコツ大学に滑り込み大学の吹奏楽団に入団し、
無事にコンクールメンバーのオーディションを通過し、初めて大学の部として吹奏楽コンクールに臨んだ年でもあります。
結果論なのですけど、うちの学校は1982~83年に都大会にも出場していて、かつては全国大会にも出場していた実績は
あったもので、私としても「この4年間で一度ぐらいは普門館で開催される都大会には出場できるのかな・・?」と淡い期待を
抱いていましたけど、現実とは残酷なものでして私が在籍していた4年間は全て都大会予選で散ってしまい、
都大会本選に出場できず、結果的に普門館のステージに立つことは出来ませんでした・・(泣・・)
1984年の吹奏楽コンクール課題曲は、かなり粒が揃っていてかなり充実していたと思います。
前年の1983年の課題曲も、カドリーユとかインヴェンション第一番・白鳳狂詩曲などとこちらもかなり名作揃いでしたが、
一つ難を言うと、Dのマーチが「キューピットのマーチ」と言う吹奏楽コンクールの中でも
「歴史的な不人気作品」・「典型的な駄作」と酷評され、事実、吹奏楽コンクールでもこの課題曲を選曲するチームは
ほぼ皆無でした。
そうした中、1984年の課題曲は、AからDまで4曲全てが大変充実していたと思います。
この年の課題曲は下記の四曲でした。
課題曲A 池上敏 変容-断章
課題曲B 和田薫 土俗的舞曲
課題曲C 三上次郎 シンフォニエッタ
課題曲D 浦田健次郎 マーチ「オーパス・ワン」
課題曲4曲が全て充実しているなんて実は珍しい事なのかもしれません。
大抵一つぐらい不人気作品がある傾向にあるのですけど、どの課題曲を選んでも遜色ないという感じでしたし、
1984年の全国大会・大学の部の金賞受賞の4チームの課題曲は、それぞれA~Dと分散していたのは、
その課題曲の人気が平均して優れていたという事なのだと思います。
1986年も1990年の課題曲はA~Dの4曲とも大変内容が優れていたと思います。
Aの「変容-断章」は、現代的なメカニックな響きの中にも「和」の雰囲気を漂わせていたと思いますし、
Bの「土俗的舞曲」は、うちの学校のコンクール課題曲でもありましたし、
結果的にこの曲は後日、作曲者自身によって
「オーケストラのための民舞組曲」の第一楽章として管弦楽化もされていましたし、
(和田薫の奥様はフレッシュプリキュアのキュアパイン役の声優さんの中川亜希子さんです)
Cの「シンフォニエッタ」は、まさに急-緩-急の三楽章からなるミニシンフォニーみたいに大変中身が濃い優れた作品でしたし、
Dの「マーチ・オーバス・ワン」も短い曲ながらも大変親しみやすく、平易な技術で書かれている割には
充実感さえ感じさせる堂々とした響きというのが大変印象的でした。
マーチ・「オーパス・ワン」の際立った特徴として一つ指摘したいのは、
この課題曲以前のコンクール課題曲のマーチは、基本的には出だしから最後まで終始テンポが一定に保たれている
パターンが多かったと思いますが、この課題曲の場合、
冒頭のトランペットによるゆったりとしたテンポから開始されるファンファーレ的部分とその後に展開されるマーチの
部分を明白に分離されている事は大変興味深いものはあります。
そうしたファンファーレとマーチを区分している曲として
このオーバス・ワン以降、例えば1985年の「シンフォニックファンファーレとマーチ」とか2001年の「栄光を讃えて」などが
あると思いますけど
今にして思うとそうした曲の先駆者的な役割も担っていたような気もします。
冒頭のゆったりとしたファンファーレに続いて軽快なマーチの部分に展開されていくのですけど
このマーチのメロディーがとてもかわいらしくてキュートでしたし、同時に流麗みたいな勢いもありましたし、
スコアを見る限りではそれほど難しい個所も無く、
指揮者にとっても奏者にとっても吹き易くて演奏するのが大変楽しい本当に素敵な作品だったと思います。
シロフォーン奏者だけは「こんな速いパッセージ難しい・・」と言っていたのは印象的でした。
私達の学校の課題曲はBを選曲していましたけど、
気分転換の曲としてたまに、この「オーバス・ワン」も演奏しましたけど、クラリネットパートとしても
難しい指使いとか過度な高音は皆無でしたし、大変伸び伸びと吹ける曲だったと思います。
中間部のトリオのメロディーラインが大変美しくて、あの部分ではクラリネットが低音でメロディーを奏でているのですけど、
吹くだけでうっとりしそうですね。
そしてこの美しいトリオに比較的唐突な印象で金管が入り込み
そこから一気にラストまで駆け上っていくのですけど、あの追い込み方も 聴かせるツボを分かっているような印象もありました。
演奏時間は3分程度の短い曲なのですけど、内容的にはかなり充実していますし、
スコア上の平易さが少しも「手抜き」とは感じさせず、
むしろ、「シンプル イズ ベスト」を立証しているようにも感じられます。
この課題曲Dは、全国大会でも結構演奏されていて、この年の高校の部でも11チーム演奏していました。
そして意外な事に、関東代表の市立川口・習志野・野庭といった実績のある学校がこの課題曲を選んでいたのは
少し意外な感じもしたのですけど、
その分自由曲にエネルギーと練習時間を廻せるという点では作戦勝ちだったのかもしれません。
さてさて、このマーチ「オーパス・ワン」なのですけど、実はこの曲の作曲者は、
1979年のあのウルトラ超難解現代作品の「プレリュード」(1979年 課題曲B)を作曲された浦田健次郎と同一人物です!
最初にマーチ「オーパスワン」の作曲者が浦田健次郎と聞いた時には
「うそでしょ・・!? あの難解なプレリュードを作曲した人がこんな平易で親しみやすい曲も書けるなんて!」と
当時一部で話題にもなっていました。
あの「プレリュード」の世界を聞いてしまった後にこの「オーバス・ワン」を聴くと確かに同一人物による曲とは思えないですね。
吹奏楽コンクールの課題曲を振り返る時、一つの節目というか転換点になった曲があるようにも思えます。
私の世代よりも二世代ぐらい上のオールド吹奏楽ファンの方ですと、1964年の課題曲/序曲「廣野を行く」を
推されるのかもしれないです。
序曲「廣野を行く」以前の課題曲は、マーチがほとんどであったのに対して、マーチ以外の曲想の課題曲が
登場した初めての年と言えるのかもしれません。
当時、序曲「廣野を行く」は「難しい」と敬遠気味だったそうですけど、
現在の視点から聴くと一体どこが難しいのかな・・・?とも感じてしまうのですけど
それは吹奏楽コンクールの進化と奏者の技術力の圧倒的向上という事があると思います。
転換点と言うと、1974年の課題曲B/高度な技術への指標は今現在の視点から聴いても革新的だと思います、
こんなバリバリのポップスの曲をよく吹奏楽連盟が課題曲として認めたものだとある意味感心してしまいますし、
当時の吹連の役員さんの「太っ腹」には敬意を表したいです。
そして真の意味で大きな転換点になった課題曲はも1979年の課題曲B「プレリュード」ではないかと思います。
なぜ転換点かというと、吹奏楽コンクール課題曲の歴史の中で初めて、無調音楽のような現代音楽の感覚と形式を
初めてコンクール課題曲として成立させたのが、プレリュードだと思うのです。
この曲の譜面を初めて見た際に驚いたのは、冒頭50小節近くは、全ての管楽器奏者は全員休止状態で、
この部分はティンパニの完全一人ソロが静粛に緊張感をもって展開されていきます。
ティンパニソロ以降も変拍子に次ぐ変拍子で、メロディーラインが全然分からない現代音楽の要素を吹奏楽コンクールに初めて
本格的に持ち込んだ記念碑的な曲とも言えます。
この課題曲B/プレリュードを現在の視点から聴いてみると、とてつもなく面白いし斬新だと思います。
技術的には極度に難しくは無いようにも思えなくもないというか、曲全体が終始ゆったりとした曲なので、
アレグロのような早い部分はほぼ皆無ですけど、この曲を通して聴く人に「何か」を伝えることは大変難しいようにも感じられます。
楽譜に書いてある事だけをそのま魔音にしても、プレリュードは全くの無味乾燥になってしまうと思います。
この課題曲は後年CDやカスタムテープ等で様々なチームの演奏を聴いたのですけど、
演奏するチームによって、ここまで音楽の表現方法は変わるものなのかと愕然とするくらい
色々な表現スタイルがあったと思います。
そしてその中でも断トツに際立っている素晴らしい名演は誰が何と言っても市立川口高校の演奏に尽きるのではないかと
思います。
市立川口のプレリュードは、自由曲のネリベルの「二つの交響的断章」と合せて
神がかりな演奏以外の何者でも無いとさえ思います。
出だしのティンパニソロは緊張感漲る演奏が本当に素晴らしかったし、
後半のヴィヴラフォーン以降の木管セクションのひさやかさ、打楽器セクションの鼓動な文句のつけようがない演奏でした!
市立川口のあの演奏は、全国大会初出場でしかもプログラム一番と言う事で、そうしたハンディーを全く感じさせない
圧倒的な名演だったと思います。
課題曲B/プレリュードの特徴は大きく分けて二つあります。
一つは、小節ごとに拍子がコロコロと変わりまくるすさまじい変拍子の連続で、
そして二つ目は、これは最大の特徴とも言えるのですけど、曲の冒頭はィンパニの完全単独ソロから開始されます。
本当にティンパニだけのソロのみで展開され、この間は他の楽器は一つの音も入りません。
冒頭から約1分近く、ティンパニのソロ(しかも他の楽器なしの完全ソロ・)という
おそらく課題曲としては私が知る限りにおいて、唯一の快挙を成し遂げています。
さてさて、このティンパニのソロですけど、
38秒までが手で、それから52秒までが普通のマレット(バチ)、それ以降は木琴などのバチの柄の部分、
という3種類の演奏法により、音色の変化も出すようにスコア上で指示が出されています。
曲のエンディングは、冒頭同様に手で奏でるように指示されて、静粛に静粛に・・閉じられていきます。
浦田健次郎は、後年、ヤマハ吹奏楽団浜松から委嘱を受けて、
シンフォニックバンドのための「Ode」というこれまた素晴らしい作品を私達に提示してくれるのですけど、
この作品もプレリュードと同様に劇的な雰囲気、凄まじい静と動の落差に満ち溢れていて
聴く者に間違いなく「何か」を伝えてはいると思います。
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あれこれ聴き込んだ訳ではありませんが、私の中で一番印象に
残っているのは「神の恵みを受けて」と云う曲です
あれ、生で聴きたかったですね^^
あの冒頭の響き
どうやって作りだしたのでしょうかね?
素直にスゲーと思いました
私もプリキュアはムスメと一緒に見ていました
ひとつ後の「ハートキャッチプリキュア」のサバーク博士と
ダークプリキュアのカラミで泣きましたね
光の粒となり昇華していったときは号泣でした
歌も好きです
オーパスワンも良いマーチでした
学校行事でも良く演奏した記憶があります
あの時代は良い課題曲が多かったのですね