アメリカの吹奏楽オリジナル曲というとクロード・スミスの「ダンス・フォラトゥーラ」などに代表されるように
輝かしく明るい華麗なるサウンドという印象もあったりはするのですけど、
中には内省的な名曲も色々あったりしてその多様性に感銘を受けたりもします。
そうしたしっとりとした内省的な曲の一つが、R.プレスティの「あるアメリカ青年へのエレジー」だと思います。
この曲のタイトルの「あるアメリカ青年」とは、実は暗殺されたジョン=F・ケネディの事であり
ケネディ大統領の暗殺による非業の死に対しての追悼の曲は、管弦楽・吹奏楽などジャンルを問わず色々と作曲されました。
一例を挙げると・・
〇バーンスタイン/交響曲第3番「カディッシュ」
〇ロイ・ハリス/勇気ある人、J.F.ケネディへのエピローグ
〇ストラヴィンスキー/ケネディのための悲歌
などがありますが、吹奏楽オリジナル作品で名高いのは、R.プレスティ のあるアメリカ青年へのエレジー だと
思います。
ただ曲の内容が大変内省的でおとなしい曲想ですので、吹奏楽コンクールで演奏されることはほとんどありません。
(フェネルが東京佼成と録音したCD集の中にこの曲やグールドの吹奏楽のためのバラード、チャンスのエレジーが
収録されているのはフェネルの見識の高さを示唆するものだと思います)
R.プレスティのあるアメリカ青年へのエレジーは、冒頭のクラリネットによるゆったりとした祈るような悲しいメロディーが
実に印象的で、既にこの部分だけで全体の哀しさ・祈りを雄弁に物語っていると感じられます。
アレグロに入っても終始悲しい感じが維持され続け時折感情が爆発しています。
そしてラストは静かに閉じられ、
全体的に難しい要素は特になく、イメージがしやすい悲歌と言えますし、追悼の音楽に相応しい吹奏楽オリジナル作品と
言えると思います。
そしてその分かりやすさ・シンプルさが一層この曲「悲しいイメージ一色にさせていると感じられます。
この曲は、フェネル指揮/東京佼成の「シンフォニックソング」のCDに収録されていますけど
他のアメリカの古典的オリジナル曲と合わせて
是非現在の若いスクールバンドの皆様にも聴いて欲しい一枚だと思います。
アメリカの吹奏楽オリジナル曲の中には、地味ながらも内省的にしっとりと歌い上げている作品も多々見られ、
中にはこのまま誰にも演奏されず埋もれてしまうのが勿体ないと感じさせる曲も多々あったりします。
一例をあげると・・・
〇チャンス/エレジー
〇モルトン・グールド/吹奏楽のためのバラード
〇クリフトン・ウィリアムズ/パストラーレ
〇 同上 / カッチアとコラール
〇A・リード/イン・メモリアム
上記に挙げた曲の中で、かなり心に響いてくるのが、J.B.チャンスの「エレジー」です。
チャンスと言うと、吹奏楽コンクールでも既にお馴染みの、呪文と踊り・朝鮮民謡の主題による変奏曲・
管楽器と打楽器のための交響曲第2番が断トツに有名なのですけど、エレジーは吹奏楽コンクールではまず演奏されない曲
ではあるのですけど、あの不思議な響きには心打たれるものがあります。
チャンスはフェンス接触による感電死という事で30代の若さで突然の早逝をされます。
そしてその死の直前に完成した作品こそが「エレジー」なのです。
作曲家としては「これから先が大変楽しみ」と大変期待をされていた方でもありますので、本人としても無念の極みと
思うのですけど、自分の「死」に対してもしかしたら予感めいたものがあったのかどうかは定かではありませんけど、
この「エレジー」という悲歌がチャンスにとっては遺作の一つになってしまいます
結果的に「自分自身に対するレクイエム」になってしまった事は本当に惜しまれます。
決して直感的な曲とか霊感漂う曲という雰囲気ではないのですけど、そうしたエピソードを耳にすると
どことなくですけど、予感的なもの・死の香り・この世への未練と諦観といった感情は不思議と痛いほど伝わってきます。
最後に・・そうした死への予感という感じで大変印象的な吹奏楽オリジナル作品は、C.ウィリアムズの「カッチアとコラール」だと
思います。
ウィリアムズの作品は、交響組曲・交響的舞曲第3番「フィエスタ」・ファンファーレとアレグロ・ザ・シンフォニアンズ等で
日本の吹奏楽コンクールでもかなりお馴染みの作曲家なのですけど、この「カッチアとコラール」はコンクールでも演奏会等でも
ほとんど演奏されないのは大変勿体ないです。
(私自身は、1994年の関東大会・中学B部門で聴いたのがこれまで唯一の生演奏です)
「カッチアとコラール」は、もともと単一楽章のカッチアという楽曲として構想されていたらしいのですけど、
作曲途上でコラールが書き加えられた経緯があるそうです。
カッチアは大変明るく華やかでエキサィティングな曲であるのに対して、コラールの部分は大変重厚で重苦しく
カッチアとコラールの対照性はかなり際立っていると思います。
ウィリアムズの意図としては対照的な二つの楽章の提示という事も多少はあるのかもしれないですけど、
この曲が作曲された頃にウィリアムズ自身に肺ガンが発見され手術を受けたものの術後の経過が芳しくなく
自らの死期を悟ったウィリアムが一旦書き上げたカッチアの部分にコラールを追加させたと言う事は、
「死を目前にして何かを後世に自分のメッセージとして残しておきたい」という意図の方が強いようにも感じられます。
前述の通り華麗なカッチアの部分が終結した頃に、コンサートチャイムの鐘の音が静粛に響き渡り、
金管楽器で祈りの音楽が重厚に響き、フルート・コールアングレ等のソロを挟み、荘厳且つ安らかな音楽が展開されて
いくのですけど、最後の方で突然心臓の鼓動のリズムがずんずんとビートを刻み、これはかなりインパクトがありますし、
不安感を感じさせます。
そしてこの心臓のピートは、F.マクベスの「カディッシュ~ユダヤ人の死者のための葬送音楽」のラスト近くの
壮絶な心臓のビート音に極めて近いものを感じさせていると思います。
そしてエンディングはそうした未練・不安を吹っ切ったかのように静粛でやすらかに閉じられていきます。
この「カッチアとコラール」は肺ガンで余命わずかなウィリアムズが人類に対する警鐘の意味も兼ねて作曲したと
言われていたりもしますけど、それよりはむしろ「一人の人間としての人生の閉じられ方」についての葛藤と祈りを提示した
作品と言った方が良いようにも感じられます。
とにかく胸にじーーんとくる不思議な曲です。
日本でも「カッチアとコラール」の魅力が少しでも広まればいいなぁと感じたりもします。
- 関連記事
-
スポンサーサイト
ケネディ大統領といえば駆逐艦・天霧との因縁かなぁ。
乗ってた魚雷艇が天霧と衝突、沈没。
泳いで島に到着して助かったという。
ケネディが大統領に就任した際に。
天霧クルーが御祝いの色紙を贈ったと。
艦これで天霧は既に艤装されていますが。
「男前の船長」と匂わすセリフがありますね。