数日前の記事にてネリベルの「アンティフォナーレ」について取り上げさせて頂きましたので、ここは同じくネリベルの
「フェスティーヴォ」についても触れないわけにはいかないです!
ネリベルというと「二つの交響的断章」・「アンティフォナーレ」に代表されるとおり、
静と動の対比というのか、強奏と弱奏の極端すぎるダイナミックスレンジの凄まじい幅広さは
ネリベルの魅力そのものだと思います。
アンティフォナーレの耳をつんざくようなとてつもない不協和音の連続なのですけど
「不協和音でも響かせ方によってはパイプオルガンのような透明で神秘的な響きにもなり得る」と言う事を
見事に実証した作品も実に素晴らしいと思いますし、木管のヒステリックな高音は「叫び以外の何者でもないとすら感じます。
そうしたネリベルの代表曲の中でも絶対に忘れてはいけない作品のひとつが初期作品に位置する「フェスティーヴォ」だと
思います。
この曲は二つの交響的断章やアンティフォナーレに比べると過激さ・不協和音・ダイナミックスレンジの極端な落差は抑えられ
ネリベル作品としてはかなり聴きやすくわかりやすく、この曲をもってネリベルは日本の吹奏楽コンクールにおいて
広く知れ渡るようになったといえると思います。
フェスティーヴォの大きな特徴のひとつとして「執拗な打楽器の繰り返し」が挙げられると思います。
スネアドラムの執拗なビートの反復もそうですし、シロフォン・グロッケン・コンサートチャイムによる鍵盤打楽器の中間部に
おける執拗な繰り返しもそうなのですけど、こうした打楽器セクションの繰り返しが伴う曲というと
オールド吹奏楽ファンの皆様ですと、マクベスの「マスク」を挙げられるのかもしれないですけど、
マスクは精神的重圧感が半端なく陰気で重苦しい曲であるのに対して、ネリベルのフェスティーヴォは、確かに執拗な反復は
目立つのですけど、マスクみたいな重厚感・精神的圧迫感はほぼ皆無で、どちらかというとドビュッシー等の印象派の音楽の
ように聴こえたりもしますし、爽やかな空気も意外にも感じたりもしますし、
特にあの中間部はみずみずしさというのかたとえると日本の夏の夕べのような雰囲気すらあるのかもしれないです。
フェスティーヴォの冒頭部分は、華やかでテンポの速い打楽器群の16分音符のビートに乗っかる形で
全合奏による8分音符の打込みが作り出すリズム・パターンによって開始されます。
そしてこの打楽器群のビートのパターンは冒頭~導入部分、そして後半の再現部と終結部に至るまで終始変わらず
刻まれ続けていき、ここに中間部における前述の鍵盤打楽器の執拗な反復がありますので、
曲全体が打楽器のビートの繰り返しという印象は非常に強いです。
但し、繰り返しますがマクベスのマスクのような悲壮感・圧迫感は皆無ですので、どちらかというとポール・モーリアの音楽でも
聴いているかのような軽妙さはあるといえるのかもしれないです。
終始、打楽器、低音セクション、木管群が入れ替り立ち代り対比的な動きを見せ、ここに打楽器の執拗な反復も加わり、
ネリベルの腕に冴えを感じさせてくれます。
終結部の重厚で濃厚なコーダも圧巻で、うねる打楽器群とともにff の分厚いサウンドとして聴いている人たちのハートを
直撃していると感じられます。
改めてですけど「フェスティーヴォ」は中間部が特に素晴らしいと思います。
二つの交響的断章の冒頭のように、シロフォーン・チャイム・グロッケンが執拗に同じリズムを
ひたすら反復していき、それに木管・金管が乗っかるような曲なのですが、単純ゆえに見事な構成美を感じます。
私が高校まで過ごした仙台の地を離れて大宮市(現・さいたま市大宮区)にて一人暮らしを始めたのは1984年の春でした。
さすがに親元を離れて最初の夜だけは、少しだけ寂しさみたいなものを感じたのも事実ですけど、
その当時借りていたアパートは、おんぼろアパートで、風呂なし・トイレ(和式)共同・三畳+四畳半でしたけど、
親元を離れられて、一人暮らしをスタート出来ただけでも当時の私にとってはハッピーな事でした。
初めて一人暮らしを始めた夜は、結構な風が吹いていて、おんぼろアパートの窓はやたらカタカタカタカタざわめいていて、
その執拗な反復が、まさに「フェスティーヴォの中間部の世界」だと当時は感じたものでした。
それ以来、なぜか知らないのですけど、「フェスティーヴォ」を聴くと
あの一人暮らしの最初の夜の気持ちとか「少し寂しい、だけど同時にとってもハッピーみたいな気持」という気持ちが
いまだに浮かび上がってくるのは少し不思議な感じがしますね・・
曲のタイトルの「フェスティーヴォ」というからには、祭りみたいな意味とか意図があるのでしょうけど、
最初にこの曲を聴いた時は
「一体この曲のどこに祭りみたいな要素があるのかな??」と多少疑問にも感じたものです。
後にドビュッシー作曲「三つの夜想曲」~Ⅱ・祭りを聴いてよく分かったのですけど、
(この曲は大学2年の時のコンクール自由曲でもありました・・ちなみにこの時の課題曲は「波の見える風景」です)
あれは、「どこか遠い所から祭りの賑やかさが聞こえてきて、その物音が段々と近づいてくる」イメージ
という事に何となく気が付きました。
ドビュッシーの夜想曲も、ネリベルのフェスティーヴォも、「ローマの祭り」とか「フェスティヴァルヴァリエーション」
といった華やかな祭りとは明らかに異なるものの
同じ祭りをモチーフにした曲でも、その人の感覚や受け取り方によってイメージは変わってくるという事に
改めて気が付かされた作品という意味では私にとってはやはり懐かしい作品でもあります。
うーーん、でもこの曲の「決定打」みたいな演奏はいまだにないのですよね。
強いて言うと汐澤安彦指揮の東京ブラスアカデミーくらいかな・・・
でもこの音源はレコードで、いまだにCD化されていませんからね・・・(泣)
ネリベルと言うと、私は、交響的断章・二つの交響的断章・アンティフォナーレを勝手に「ネリベル三部作」とか
呼んでいますけど、
エスタンピーとかコラールとか吹奏楽のための序曲とかトリティコとか地味にいい曲もあったりします。
コラールも祈りというよりは圧迫感みたいな印象の方が強いのですけど
やはりあの独特な世界はネリベルそのものだと思います。
他には「プレリュードとフーガ」という曲もあまり知られてはいませんけどかなりの名曲だと思います。
この曲、ネリベルにしては珍しく、過度な不協和音とか強奏は少なく
出だしの感じとか、何か小粋というかチャーミングな部分もあったりして
ネリベルにしては珍しく少し茶目っ気みたいなものもあると思います。
似たような感じの曲として「ヤマハコンチェルト」と何か相通ずるものがあるような気もします。
この「フェスティーヴォ」とか「プレリュードとフーガ」とか最近はまず演奏されないですよね~(泣)
このまま歴史に埋もれてしまうには大変勿体無い曲だと思います。
中学校の小編成で自由曲として選曲されても、大変意義があるようにも感じられますし、フェスティーヴォの令和の時代としての
新しい感覚での名演を今後大いに期待したいと思います。
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フェスティーヴォの真骨頂はやはり中間部ですかね?
中間部から再び早くなったところも素晴らしいですよね。
もちろん最近でもいい曲はたくさんありますが、この曲は
中学生に1度はやっておいてほしい曲ですね。