「哀愁の」という言葉の後に続きそうな歴代プリキュアって誰がぴったりなのかな・・?と
「哀愁のアダージョ」を聴きながら感じたものですけど、私自身の「回答」は、「キュアラブリー」でした!

ある程度「プリキュア」について予備知識のある方がこの回答を聞くと、
「なんであんなに明るく元気でコミュニケーション能力にはやたらと長けているあのおバカ娘が哀愁なの・・・?」と
思われるかもしれません。
それでは先程の「哀愁が漂う歴代プリキュアって誰・・?」という問い自体を
「歴代ピンク系プリキュアの中で最も異質なプリキュアはだれでしょう・・?」という問いに変えても差し支えは無いと思います。
この問いに関しては、多分多くの方は「キュアブロッサム」と答える方が多いと思いますし、
その理由として、ヘタレ・内気・人見知りといった点を指摘されるのではないかと思います。
それはそれで決して間違いではないと思うのですけど、
私の解釈としては、初期の頃の表面的なヘタレは、ひとまず置いておいて、
ブロッサム自体は意外とメンタル面はかなり強いと解釈しています。
そうなると歴代ピンク系プリキュアの中で、一番の問題児というのか、メンタル面で色々とやっかいな問題を内在しているのが
他ならぬ「キュアラブリー=愛乃めぐみ」という事になり、
そうした点が私にとっては他の歴代プリキュアと一線を画する「哀愁」というものを感じさせる要因なのかもしれないです。
振り返ってみると、キュアラブリーほど、色々な意味で、何度も厳しすぎる試練に直面し
大変悲惨で気の毒としか言いようが無い場面に何度も遭遇し、「己の弱さ・未熟さ」を痛いほど
思い知らされてしまう結果になってしまうプリキュアは極めて珍しいですし、
挙句の果てには、歴代プリキュアでは長い間タブーとされてきた恋愛沙汰にも当事者として巻き込まれ、
最終的には失恋→悲恋→大泣きという見るのも痛々しいシーンもあったりしました。
歴代のピンク系プリキュアは、めぐみの後輩のいちか・ハナ・ひかるを含めて、自分に出来る限界というものは最初から
感覚的に理解しているようにも感じられるのですけど、
めぐみだけは歴代プリキュアとは明らかに異質なものを感じたりもします。
そうした異質性がも私にとっては、めぐみに「哀愁」を感じてしまう理由でもあったりもします。
歴代ピンク系はメンタル的に強い人が多かったですし、その典型的事例はのぞみといえると思うのですけど、
「人としての弱さ」を元々抱え込み、その弱さを少しでも是正しようと頑張るめぐみ=キュアラブリーに対して
心の底から共感しますし、
その点が私が「ラブリー大好き!!」と言ってしまえる理由でもあると思っています。
ハピネスチャージプリキュアの大事なテーマの一つが「自分が出来る事って何なのだろう・・?」と模索したり
「自分にとっての幸せってなんなのだろう・・?」と試行錯誤する事でもあったと思う理のですけど、
ラブリー(愛乃めぐみ)が任期中の一年間で得たものはたくさんあると思いますが、
「自分に出来る事には限界がある、それならば自分が今この瞬間に出来る事を誠実に
身の丈に合わせてやってみよう」
「まずは自分の身近にいる人達との縁を大切にしよう、そうした小さい世界に案外と幸せは潜んでいる」
「愛なんて、別に男女間の愛とかそういう事だけではない、近所・学校・職場・地域などさまざまな形で
繋がっている他人との関わりとか接し方も愛の一つ」
みたいな事だったのかもしれないです。
上記の点は先日掲載したハピネスの映画「人形の国のバレリーナ」で散々書いていますので、ここでは重複は
避けたいと思います。
クイーン・ミラージュが最初から言っていた「愛は幻、幸せは一瞬」というのは確かにその通りなのだと思います。
別に間違ったことは言っていないと感じます。
「スイートプリキュア」の世界で提示されているように幸せと不幸は縄目のごとしというように両者は二つで一つなのです。
幸せを感じる瞬間も愛を感じる瞬間も三日たてば、
「なんだコイツは」みたいな感情になってしまうのもそれはむしろ自然の摂理なのかもしれないです。
物事は結局は「継続」しているのだと思うのです。
幸せを感じた三日後に嫌な出来事に遭遇し落ち込み一週間後にいい事が起きたという事もよくある話なのかもしれないですし、
「この娘いいな~」と思ってもある時その娘の別の嫌な側面を発見し、「なんだこの女は・・」と感じて、また別の日に
「あ、だけどこんないい側面もある」みたいな事もしばしばあると思うのです。
要は、幸せは持続しないけど、同時に不幸も決して持続するものではないのです。
もしも不幸とか愛の喪失という事態に遭遇したとしてもまたそれを最初から構築すればよいのです。
そうした事を最初にプリキュアシリーズで明確に提示したのは「フレッシュプリキュア」の
「せつなの再生の物語」だったと思います。
せつなは「自分が散々多くの人達を不幸に陥れてきたのに自分一人だけが幸せになるのは許されない事」と
思い悩むのですけど、そうしたせつなに対してラブが導き出した結論というのが
「そんなのみんなで幸せになってしまえばいいじゃん!」という事だったのですけど、ラブのあの発想は私も見習う必要が
あるのかもしれないです。
ハピネスチャージの最終回でレッドが最終的に「滅亡した惑星レッドの再生と復活」を生きるバネとして
ラブリーの愛を受け入れ浄化されたというのは
「不幸があったとしても、愛を喪失したとしても最終的に人はもう一度やり直せばいい」という事なのだと思います。
スイートで「幸せと不幸は二つで一つ、だから不幸も受け入れよう」という発想を更にハピネスの物語は進化させ、
「不幸や愛の喪失に遭遇しても、もう一度やり直して、再生してみよう」といった事を最終的には意図していたとも言えそうです。

「哀愁のキュアラブリー」なんて書いてしまうと、
ラブリーの事を知らない人が見てしまうと、弱々しいプリキュアみたいな誤解を与えかねないのですけど
ラブリーの戦い方は「キュ荒プリー」の言葉に象徴されるように豪快で荒っぽくやんちゃで力づくという印象でした・・
そして、目からビームは発するわ、ロケットパンチみたいなものを繰り出すわ、挙句の果てには
チョイアークという敵の雑魚キャラの首ねっこを掴んで、それをサイアークと言う敵の怪物に
叩きつけるという豪快な荒業も見せてくれていましたし、
またある時には、
たった一人で、敵幹部2人とサイアーク2匹と無数のチョイアーク相手に戦うというやんちゃ振りも見せていたものでした!



キュアラブリーの「哀愁」を語る上でもう一つ外せない要素があります。
それが悲恋なのです。
歴代プリキュアでも、淡い恋愛感情みたいなものはありましたけど、
(それが一番濃厚だったのは・・・のぞみとココ・こまちとナッツという組合せでした)
いずれも何となく生来的に結ばれるのかも・・という淡い漠然とした雰囲気に留めています。
ハピネスチャージの世界はこの辺りが容赦なかったのも大きな特徴でもありましたし、その辺りがもしかしたら
ハピネスチャージの評価が全体的に相当低いという結果になっている要因なのかもしれないです。
めぐみは最終的には失恋し大泣きしてしまいます。
(私はいまだにめぐみを振ってめぐみを大泣きさせた地球の神・ブルーを赦していませんけどね・・・汗・・)
こんな幼児アニメでこんなえぐい失恋シーンを描く事はありなの~?とすら感じたほどめぐみの失恋は、
哀愁以外の何者でもありませんでした。
最終的にはこの失恋はめぐみにとってプラスの方向として描き切っていたのは本当に救いがありました。
ラブリーの最終決戦における
「一緒に学校に行くこと、一緒にご飯を食べること、一緒におしゃべりすること、
一緒に生きることそのものが愛。そして誠司が今までずっとたくさんの愛をくれていたことも。
誠司、ありがとう。いっぱい…いっぱい…愛をありがとう」
「私…自分の願いを見つけたよ。私の願いはぴかりヶ丘でみんなと幸せに暮らすこと。
友達と家族と、誠司と一緒に生きていくこと」
という言葉が「全て」なのだと思います。
この物語の最終到達点は、この言葉に尽きるとさえ感じました。
めぐみが一年間かけて「プリキュア」として学んだことは色々あるとは思いますが
やはり最終的にはそこなのだと思います。
日常の中の何気ないありふれた光景・・・・
「日常の中の何気ない幸せ」、それこそが初代プリキュアからハピネスに至るまで
歴代プリキュアの中で脈々と受け継がれてきた素晴らしい伝統なのだと思いますし、
この11年間全くその点だけはぶれる事がなかった「プリキュアの素晴らしさ」なのだと思います。
この「日常の中の何気ない幸せ」というのは、
シリーズによっては、「笑顔」とか「ハッピー」とか「ドキドキ→胸の高まり」とか色々と表現は
変わってはいるのですけど
基本は全く同じだと思います。
とにかくハピネスでもこの良き美しき伝統が忠実に守られていたのは、「さすが・・・!!」としか
言いようがないと思いますし、
プリキュアは全然ぶれないですね・・・!!
「人を愛する事はなんなのだろうか・・?」という問いに対しても
悪い事を含めて相手の全てを認めて受け入れる事なのだと思いますけど、
人を愛する事には特別の覚悟も特段の資格も必要無いと私は思っています。
相手を全て許容し受け入れた上で、
「一緒にいて何かホッとする・・・、安心する・・・」
「一緒にご飯を食べるといつも以上に美味しく思える・・・」
「一緒にいるだけで楽しい気持ちになれる・・・」
「空気がやわらぐ感じ・・・」
そうした小さな日常の出来事を通してそのように感じる事が出来たならば
それこそが「愛」が具現化したものなのだとさえ思います。
ま、要するに「夫婦一緒に仲良く元気で」というコツは、その辺りにあるのかもしれませんけどね・・
だからこそ、肩に力が入りまくった覚悟とか愛する資格なんてのは「クソくらえ・・・!!」みたいな感じもあります。
要は、めぐみと誠司ではないけど、「幸福の青い鳥」のように
「幸せ」とは意外とすぐ目の前にあるものなのかもしれないです。
だからこそ、気合入りまくりの覚悟なんて要らない・・
必要なのは、「一緒に楽しめて共感できる自然な雰囲気」なのだと思います。
クィーンミラージュ、そしてレッドが言う
「愛は幻、幸せは一瞬」というのは、別に間違った事を言っているのではないと思います。
それは、あくまで「出会った初期の頃の話、熱に浮かされている頃の話なのだと思います。
だけど「愛」というものは、そんな熱いものではないですし、そんな浮ついたものではないのだと思います。
それは、前述の通り、「日常の小さな出来事」という現実の積み重ねなのかもしれないですね。
そして最終的にそうした小さな日常の積み重ねが「ハピネス」である事に気が付いためぐみは尊いと言えるのだと
思いますね~!
- 関連記事
-
スポンサーサイト
ラブリー=めぐみ。今の視点で見ると確かに「哀愁」という言葉が似合うのかもしれませんね。キャラクター性などはどちらかというと真逆だとは思うのですが、作品展開上、そういった印象が多いかもしれません。
今思うとハピネスはかなり意欲的な取り組みが多かったと思います。上手くいった点、失敗した点それぞれありますが、ハピネスの功績は間違いなくその後のプリキュアシリーズにも繋がっているので、やはり「ハピネスチャージ」は偉大な作品なのだと思います(^^♪