マルコム・アーノルドと言うと、最近はさすがに一時のブームによる人気のピークは過ぎたと思いますけど、
日本の吹奏楽コンクールと言う非常に狭い世界ではかなりの有名人だと思います。
先日の当ブログの記事においてもアーノルドの組曲「第六の幸福をもたらす宿」の事を取り上げさせて頂きましたが、
この組曲と今回取り上げさせて頂く序曲「ピータールー」と交響曲第2番でもって日本の吹奏楽界における
アーノルドの知名度は一気に高まったと言えるのはほぼ間違いないと感じております。
一方管弦楽の世界では母国イギリスは別としても日本においては
いまだに残念ながら「知る人ぞ知る」という領域なのかもしれないのは歯がゆいものがあったりもします。
アーノルドと言うと一番有名なのが、映画「戦場にかける橋」の映画音楽を作曲した人という
事なのでしょうけども、その中で特に「ボギー大佐」のアレンジが一番ポピュラーといえるのかもしれないです。
(「ボギー大佐」はアルフォードが1914年に作曲した行進曲です)
この戦場にかける橋は後日、管弦楽組曲としてもまとめられていますけど、その中の第二曲がそのボギー大佐です!
ちなみにこの映画音楽のメインテーマになっていて、組曲版の終曲にもなっている「クワイ河マーチ」は
アーノルド自身が作曲したものです。
日本の吹奏楽において、アーノルドの知名度がここまで飛躍的に高まったのは序曲「ピータールー」の存在が大きいと言えると
思います。
この曲の支部大会以上での初演は多分ですけど埼玉県の川口アンサンブルリベルテの1989年の関東大会の演奏だと
思います。
(アンサンブルリベルテというと1990年のバレエ音楽「せむしの仔馬」の超名演が大変印象的ですけど、その1年前の自由曲が
このピータールーでもありました!)
全国大会初演は1993年のJSB吹奏楽団ですけど、この曲の過去における最大の名演は私的には、
1995年の浜松交響吹奏楽団だと思っています。
導入部のゆったりとした響きに対して小太鼓乱入以降の荒ぶる響きの迫力にラスト近くのコラールの感動性は
もう涙無しには聴けないのかもしれないです!
それ以外では1999年の飯能西中学校もある意味大変ユニークな演奏を聴かせてくれています。
冒頭から音程はずれているしホルン等の音外しやミスは目立つし、ラストはトランペットのパワー不足によって、
あの輝かしい響きの部分はなぜかソプラノサックスが異常に目立ってしまうなど技術的には惨憺たるものが目立ちましたが、
なぜか表現に惹きつけられてしまう「何か」は持っていたような気もします。
序曲「ピータールー」は10分前後の曲ですけど、黙って目を瞑って聴いていると、
「この部分は、抗議する群衆に発砲する騎兵隊の横暴さを描いている」
「騎兵隊によって一旦は鎮圧され、武力に屈した屈辱感と寂しさを表現したのはオーボエのもの哀しいソロの部分だ」
「権力者たちにはいつかこの日の報いを受ける時が来る!!
必ずや自分達が求めた参政権・選挙権を得る日がやってくる!
自分達の正義はいつの日にか歴史が証明してくれるはずみたいな正義感・高揚感を示唆したのは
ラストの高らかなトランペットのファンファーレとチャイムの響きである!」
「小太鼓三台を用いた軍隊の横暴さと進撃を暗示したもの」
「安らかで穏やかに開始された序奏に、唐突に乱入してくる小太鼓のロールの響きと荒々しい金管の響きは、
権力者たちの地位を守る為なら、多少の民間人の犠牲は仕方がないという権力者たちの傲慢を示唆している」
そういったイメージが、いとも簡単に脳裏に思い浮かんでくるのですけど、
脳内のイメージを「音楽」という物語で私達の脳にすーーーっと染み込ませてくれるアーノルドの作曲家としての腕の確かさに
敬意を表したくなりますしあの研ぎ澄まされた表現力の素晴らしさには脱帽するしかないです。
口の悪い人ですと「こんな曲、単なる描写音楽に過ぎないじゃん!」と言われるとは思うのですけど、
聴く人に「音楽によって具体的イメージを伝えること」をきちんとやっているアーノルドは本当に素晴らしい作曲家だと
思います!
第二次世界大戦後の作曲家の先生たちはどちらかというと「技巧」・「音符の並べ方」にどちらかというと神経を注ぎ、
肝心要の「誰かの心にすーーーっと何かを伝える事が出来る力=音楽」という事を忘れた理屈っぽい人が多いようにも思える中、
アーノルドの「分かり易さ」は特筆に値するものと思います。
コンピューター音楽・無調音楽等のあまりよくわからない現代音楽が闊歩していた20世紀において、
こんなにも描写がはっきりしていてメロディーラインが分り易くて、
メッセージ性が強い何を言いたいのかがはっきり伝わってくる音楽が20世紀にも存在していた事に驚かされるものが
あります。
この曲の背景なのですけど、
1819年8月16日にイングランド・マンチェスターのセント・ピーターズ・フィールドで発生した虐殺事件をベースにしていて
歴史的事実に基づいた曲でもあります。
この広場で選挙法改正と参政権拡大を求めて集会を開いていた群衆に政府軍の騎兵隊が突入して鎮圧を図り、
多数の死傷者が出る大惨事・大虐殺を招いたという大変な事件でもありますが、このピータールー事件が起きていた頃に
日本においては「大塩平八郎の乱」が起きていたりもします。
両事件とも時の権力者に対する「民衆の怒りの声の代弁」という意味では、かなり共通した要素がありそうな感じもあります。
出だしのゆったりとした平和的なテーマに突然、小太鼓三台による乱入が始まり(厳密に言うと一台は途中から加わります)
政府の武力的鎮圧を象徴するような激しい音楽が展開されていきます。
その激しい部分はドラのゴワワーーンという大音量と共に閉じられ、一旦静まるのですけど、
その後に続くオーボエのもの哀しいソロが大変印象的です。これは犠牲者に対するレクイエムなのかもしれないです。
そしてその後に金管セクションによる「自分達はこんな暴力に絶対にに屈しない!!」というテーマが高らかに鳴り響き、
壮麗なチャイムの響きに合わせて感動的に曲は閉じられていきます。
曲は本当にシンプルなもので、難しい表現とか過激な不協和音はほぼ皆無です。
前述の通り、 ここはデモ隊と政府軍の激突シーン、
デモ隊の撤収とか手に取るようにその場のシーンを容易に想像できることがすごいと思います。
「音の絵巻」と言っても差し支えはないと思います。
小太鼓三台のロールというのは視覚的にも聴覚的にも相当のインパクトはありますが、
要所要所でピアノがピシっとリズムを決めている箇所があり、相当全体を引き締めている役割があると思います。
特に後半のあまりにももの哀しいオーボエのソロが開始される前のピアノの
無表情な打撃音は痛々しいのだけど、ある意味大変無機質で効果的なのかもしれないです。
ラスト近くのチャイムの響きも、「自分たちは絶対に屈しない!!」というメッセージを予感させるようなものであり大変効果的です。
序曲「ピータールー」の吹奏楽版は吹奏楽コンクールでも演奏会でも何度も聴いておりますけど、
管弦楽の原曲演奏は、2006年のオペラシティの東京交響楽団でしか聴いた事がありません。
是非是非、アーノルドの交響曲と共にこの素晴らしい序曲も生の演奏会で演奏して欲しいと切に感じています。
この曲をCDで聴く場合・・・・
ヴァーノン・ハンドレイ/BBCコンサート管弦楽団が断然素晴らしいと思います。
バーミンガム市響によるアーノルド本人による自作自演の演奏も実に明確な意図が伝わり「さすが!」と思います。
ハンドレイ指揮の演奏の後半のテンポの遅さはすごいものがありますし、いかにもたっぷりと歌い上げている
感じは濃厚ですね。


ここから先は完璧に余談ですけど、上記の「ピータールー」の話は欧米における血みどろの激闘の果てに
専制君主から立憲主義・共和制・民主主義をもぎ取っていった産みの苦しみを示唆した事でもあると思うのですけど、
19~20世紀における世界各地で多発した絶対的な君主制から共和制・民主主義へと移行するその過程においては、
とてつもない民衆の血が流され、その多大な犠牲の末にようやく実現したのが今日の議会制民主主義と言えるのかも
しれないです。
だけど結果的に今日の議会制民主主義は多くの矛盾と問題点を内在し、機能不全に陥っている傾向も無きにしに非ずと
思わざるを得ないのですけど、そうした民主主義を実現する過程において流された無数の流血・犠牲者を考えると
「民主主義って一体何なのだろう・・?」とふと頭を過る事もあったりもします。
そしてそうした民主主義の問題点を示唆した話が歴代プリキュアでも屈指のギャグシリーズともいえそうなスマイルプリキュア
において展開していたのは大変興味深いものがあったと思います。
スマイルプリキュアの第37話「れいかの悩み!清き心と清き一票!!」が意味している事は、
政治の使命と言うものは、国民にとって耳触りのいい事ばかり言い続けることはむしろその国家自体の将来的な破綻に
繋がる事もありそうですし、単なる人気取り政策ではダメだという事を言いたいのかもしれないです。
そしてそこから見え隠れしているのは民主主義体制の一つの限界なのかもしれないですし、
民主主義というものは場合によっては現在のイギリス議会が袋小路に陥っている「結局何も決められず時間だけが過ぎていく」
という落とし穴の危険性も秘めているという事なのかもしれないです。
一見するととてつもなくしょうもない話に見えてしまうスマイルの第37話なのですけど、意外と深い話でもありまして、
ポピュリズムというか衆愚政治の是非についても問いかけをしている作品のようにも感じたりもします。
このスマイルの第37話が放映されていた頃は、当時の総理大臣・野田氏と現総理の安倍氏が国会討論の場において
「定数是正と国会議員の削減を真剣に検討すると約束するならば、国会解散&総選挙に応じましょう」と言う事で
一気に「選挙モード」に突入していった時期でもあるのですけど、
制作者サイドの「政治ってこんなものでいいの・・?」みたいな問いかけも少しは含んでいたのかもしれないです。
スマイルの37話はみゆきたちの通う中学校の生徒会長選挙を巡る話でもありまして、
れいかは一般生徒に対しては
「清掃をきちんとしましょう、校内のルールはちゃんと守りましょう」と至極当たり前の事を言っているのですけど
一般生徒にとっては、「なにを頭の固い建前論ばかりいっているんだ」といった感じ方をするのかもしれないです。
れいかが主張している内容は妥当性は十分にあるのですけど、
必ずしもれいか自身の言葉で語っている訳ではなくて、表面的な建前を言っているに過ぎないという雰囲気も
そこにはあったのかもしれないです。
それだからこそれいかに対する生徒からの受けや反応はあまり芳しくありませんでしたし、
れいか自身が迷ってしまう素描があったりもします。
(弓道シーンでれいかが珍しく的を外すシーンはれいかの心の迷いなのかもしれないです・・)
それに対して、ウルフルン達は、
宿題廃止とか校内でゲーム容認とか校内にお菓子持込みOKといった耳触りの良い
生徒にとっては受けが良い主張を展開する事で、
一般生徒からの高い支持を受けることになってしまいます。
これって別に漫画やアニメの世界のお話というのではなくて、現実社会というか2009年頃の日本でも実際に起きていたのは
ある意味怖ろしい話でもありますし、ここから感じ取れるのは、
国民にとって耳触りの良い話をマスコミを通して盛んに煽り、選挙と言う合法的な手段で政権を奪取し、
政権を一度取ってしまい自分たちにとって都合のいいように法律さえ変えてしまえば、国民にとっては後の祭り状態に
なってしまう事も決してありえない話ではないと言う事なのだと思われます。
「国民の皆様に子ども手当を支給します、子供一人当たり一律26000円を至急させて頂きます」
「消費税は据え置きします」
「ガソリン税を廃止します」
「財源・・?? そんなの官僚を締め上げてムダを削ればいくらでも出てくる!! 隠れ財源も山のようにあるはず」
「最低でも県外に基地は移転させます」
そういった出来る訳も無い「甘い事」を散々並べて結局は勢いと耳触りのよい都合の良いことだけを述べる事だけで
国民の支持を取り付けて選挙に圧勝して政権を取ったものの、結局は、
「すみません、やっぱり日本にはそうした財源はありませんし、アメリカとの絡みがあるからそんな事は出来ません」となり、
結果的に国民の失笑と失望を招いた今はとっくに消滅してしまったどこかの政党と大した違いがあるとは思えないです。
民主主義は言葉が独り歩きして「絶対的に正しいもの!!」みたいに思われてしまう傾向にあるのですけど、
これって大変難しい問題も含んでおりまして、
決して絶対的に正しいシステムとは到底思えないという側面もあるのではないか・・?とも思ったりもします。
選挙においてのみ、国民にウケる甘い事を散々言っておいて「政権」を一度奪取してしまえば
その後に待ち構えているのはとんでもない事態ということだって十分あり得ると思いますし、
事実、あのナチス政権だって、当初は合法的な選挙で選ばれた政権であったりもします。
難しいのですよね・・・・
国民にとって耳の痛い政策や痛みを伴う政策を唱えると選挙での当選が難しくなってしまうし、
「未来の国や国民」の事を本気で心配すると、今現在において痛みを伴う政策を施行しないと
その未来に地獄しかない場合だってありますし、
そのためにはちゃんと「耳に痛い事」をきちんと提示しなければいけないことだってあると思うのです。
選挙というものは「単なる人気取り」ではないと思うのです。
きちんと国民にとっては不都合な事実も提示した上で
「そうした事態を回避するためには、取り急ぎ今は、こうした事をやらないといけない!!」ときちんと説明するのが
政治家の第一の役割だと思うのですけど、 実態はほとんどが自己保身と先送りばかりする政治家ばかりというのも
そこに民主主義の弱点があるように感じてしまいます。
政治家の役割の一つは「国民に未来図をきちんと提示・説明をする事」
国民が果たすべき責務は、「未来に対してきちんとビジョンを描けている人に選び信託する事」 だと思うのですけど
それが出来ないから 今後必ず日本の未来に暗い影を与える「財政破綻」の問題とか
歴代政権が行っているばらまき政策が日常茶飯事になっていると言っても過言ではないと思ったりもします。
私自身、民主主義はベストな政治形態とは全く思っていませんし、「他に代るべき政治形態がないから仕方なく次善的に
行っている政治形態」と考えています。
冒頭で記したピータールーの話は、18世紀頃までの絶対的な君主制から民衆が政治決定のプロセスに参加するための
血みどろの歴史でもあったのですけど、そうやって血まみれの苦闘の果てに実現した民主主義が
結局は衆愚政治の愚かさとか本当に大切な事を何も決められない事の不幸とか
官僚たちが時の政権の顔色ばかり見てしまう忖度が本当に事実として起きてしまうという結果にしかならない事を考えると
当時の犠牲者の皆様に申し訳ない・・という気持ちにもなったりもします。
確かに、第二次世界大戦の悲惨さ・戦後の荒廃から考えると、民主主義が一定の効果を果たしたのは間違いない事実です。
だけど古い民主主義をいつまでも維持するのはいかがなものなのでしょうか?
そろそろ国民全体で、「民主主義とは何?、自分達一人一人はいかにして自分達の意思を代表者に
託すべきなのか? 代表者とはどうやって選ばれるべきものなのか?
その代表者にどのような権限を与えるべきなのか、又そのチェック&抑制機能はどうすれば良いのか?」
などを真剣に考える必要が来ているのかもしれないです。
- 関連記事
-
スポンサーサイト
日本だけかと思ったら、議員と名の付くお歴々はどこの国でも国民そっちのけでコップの中の権力闘争がお好きな様です(笑)