現在の吹奏楽コンクールにおいては、課題曲の呼び方はⅠ~Ⅴという表記が既に定着をしていますけど、
1970年代末~1980年代後半に吹奏楽コンクールに出場していた私から言わせて頂くと、
実はいまだに課題曲Ⅱとか課題曲Ⅳという呼ばれ方がピンときていないというものがあったりもします。
頭の固い私にとっては吹奏楽コンクール課題曲の呼ばれ方は、課題曲Aとか課題曲Bといった呼ばれ方の方が
いまだにしっくりくるという感じもあるのだと思います。
課題曲の呼ばれ方が課題曲A~Eという風に呼ばれていたのは実は1992年のコンクールが最後でした。
1993年以降は、なぜか唐突にⅠ・Ⅱ・Ⅲという呼ばれ方に変更されています。
私自身そうした表記の変更という情報は当時何も入っていなかったものですので、1993年の吹奏楽コンクールの会場の
プログラムでそうした表記がなされていたのを見て
「あれれ・・いつの間に変ったの・・!?」といった浦島太郎状態だったと言えると思います。
そうした意味では1992年の吹奏楽コンクールは言うならば「最後の課題曲がアルファベット表記の年」と言えそうですね。
そして1992年の課題曲はかなりの当たり年だったと思います!
この充実ぶりは1986年と1990年の「課題曲の歴史的大当たり年」に匹敵するようなものがあったと思います。
1992年当時「メトセラⅡ」などで絶大の人気を誇っていた田中賢の課題曲A / ネレイデスと
日本のクラシック音楽の大変に重鎮で大御所の三善晃の課題曲C / クロス バイ マーチは
今現在の感覚で聴いても「なんという素晴らしい名曲!」と改めて惚れ惚れするものはありますし、
課題曲Dもその短さが長い自由曲を演奏したいチームとのニーズに合ったせいなのか(?)
意外と取り上げるチームも多かったですね。
ヤマハ浜松が、課題曲Aではなくて課題曲Dを選んだのは当時すごく意外に感じたものです。
課題曲B / 吹奏楽のためのフューチュリズムはこの四曲の中では最も演奏頻度が低い課題曲でしたけど、
私の中ではこのフューチュリズムしこの年の課題曲の中ではいっちば~ん!大好きな曲でもありました!
前年度の全国大会までは、一日で大学・職場・一般の部の演奏・審査がなされていましたが、
さすがに大変という事で、この年から大学部門は職場・一般の部の開催日とは別の日に開催されるようになっていました。
ちなみにですけど、1992年の大学・職場・一般の部の会場は仙台の仙台サンプラザというとてつもなく音響の悪いホールで
「出場者の人たちはあんな残響音の悪いホールで演奏させられて気の毒・・」と当時は感じていたものでした。
今現在の全日本吹奏楽コンクール・全国大会の特に高校の部の入場券は入手困難のプラチナチケット化としていますけど、
1992年の大学・職場・一般の部のチケットは確か私の記憶では当日券の発売もあったと思います。
上記で書いた通り、この年より大学の部は単独で開催されていましたけど、
大学の部は土曜日のPM15:00演奏開始で普門館のプログラム一番はAM9:05というシビアさに比べると
比較的やりやすいのかな・・?とも感じていたのですけど、
この年の大学の部のプログラム一番は中央大学だったものの、
当時としては既に全国大会の常連金賞チームと思われていたあの中央大学をもってしても
都大会に比べると全然冴えない演奏で終わってしまい、
改めてですけど「午前・午後に関係なくコンクールのプログラム一番は大変だよなぁ・・」と感じたものでした。
上記でちらっと書いた通り仙台サンプラザの音響は最悪に近いものがあり、
あれは、音楽ホールというよりは体育館みたいな会場でした。
元仙台市民の私が言うのも何ですけど、あのホールで開催する事自体無理があったと思いますし、百歩譲って
宮城県民会館の方がまだましだったと思いますし、少し遠いけどイズミティ21の方がまだ音響的にはマシだった気もあります。
1992年の課題曲D / ゆかいな仲間の行進曲は短いけどとても楽しい曲でした!
この年の課題曲A~Cは技術的にも表現的にもかなり難しいと思いますし、単純に比較してみると課題曲Dだけは
突出して簡単で易しい曲のように聴こえるのですけど意外と結構難しい曲と言えると思います。
この課題曲は、支部大会・全国大会でも何度も聴きましたけど、意外と多くのチームのリズムがぎくしゃくして聴こえ、
演奏のもたつきが散見されたチームもあったと思います。
そのリズムのぎくしゃくの要因として考えられるのが、伴奏の刻みが細かくて遅れがちの傾向があり、
主旋律は分かりやすくて楽しいものの、伴奏の刻みが16分音符が多くて、それがもたつきの原因にもなっているようにも
感じられます。
そしてこの課題曲Dを選択したチームの自由曲はどちらかというと長い演奏時間のものが多かったというせいもありますし、
「曲自体が易しいから別に問題ないでしょ・・」という感じで比較的指定テンポよりも速いテンポでサクサク進行させて
課題曲の演奏時間を短縮させるパターンも多かったとは思うのですけど、
この課題曲Dは、むしろ指定テンポよりも少しばかり遅めに演奏すれば、リズム担当やクラリネットパートの負担も減り、
全体として楽しいマーチになっていたのかな・・と感じる事もありますね。
全国大会でゆかいな仲間の行進曲を選曲したチームの中では意外と金賞は少なかったですね・・
全国大会限定ですけど、この曲を演奏したチームで特に印象に残っているのは、高校の部の兵庫高校と
職場の部のヤマハ浜松だったと思います。
兵庫高校は、自由曲の「ロメオとジュリエット」をかなりバリバリと低音を豪快に響かせて鳴らしていましたけど、
課題曲においては意外とキュートとかお茶目という側面もきちんと伝えていて、
バリバリに鳴らしまくった自由曲との対比を図らせていたのは素晴らしかったと思います。
ヤマハ浜松がこの課題曲を選んだのは意外でもありました。
1986~1992年のヤマハ浜松の自由曲は全て田中賢でしたので、92年の自由曲も田中賢と言う事で、
課題曲もAのネレイデスを選んで、田中賢で統一するのかなと思っていたら、Dの易しいマーチを選んでいたのは
当時は「何でなのかな・・?」と感じていたものでした。
ヤマハ浜松の「ゆかいな仲間の行進曲」は当たり前の話ですけど、プロ並みに巧くて全く文句のつけようがない演奏でしたけど、
一つ強く印象に残っているのはティンパニ奏者でした!
ヤマハ浜松のティンパニ奏者の打点が見事にドンピシャ!に決まっていて、この課題曲特有のリズムのぎくしゃくと言う事は
微塵も感じさせなかったですし、弱奏からの強奏のトレモロが視覚的にもリズム的にもドッカーン!と
決まっていたのは視覚的にも聴覚的にもとても快感でした!
作曲者の坂本智は、1981年の課題曲D / 行進曲「青空の下で」の作曲者でもあるのですけど、
青空の下ではとにかく同じメロディの繰り返しが多くて、印象としては「大変くどくてしつこい」という印象があったものですけど、
92年の「ゆかいな仲間の行進曲」は、そうしたくどさも無く、純粋に聴いていて楽しいと感じさせてくれていたのは、
作曲者としての一つの成長と言う事もあったのかもしれないですね。
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課題曲のマーチの中でも1,2を争う大好きな曲です。親しみのあるメロディラインで聞けばウキウキ、アゲアゲな気持ちになれます。今の規定だとNGになってしまうのでしょうが、吉永先生&県立西宮高校の演奏がこの団体らしくて好きです。
イズミティ21
東北大会がイズミティ21で開催された時に演奏しましたが、地元のホールやi手県県民会館と違い、ほとんど響かないホールに大変戸惑いました。前日のリハーサルの時には、明日の本番だめかも…と思ってしまったりしていまいましたが、案の定本番の演奏はボロボロになってしまいました(汗)。