千葉県の「銚子商業」と聞いて、高校野球を思い出す方と吹奏楽を思い出す方の二通りに分かれるのかも
しれないですね。
ちなみにですけど、2008年に千葉県立銚子水産高等学校と統合しましたけど校名は引き続き「銚子商業」との事です。
(この辺りは学校統廃合によって校名が変わってしまった市立川口高校とは対照的です・・)
それにしても甲子園での銚子商業の活躍は目を見張るものがあったと思います!
春8回、夏12回の甲子園出場を誇り全国制覇も達成し
斉藤一之監督の指導の下、多くのプロ野球選手を輩出し、
特に、ロッテの木樽正明、巨人の篠塚和典、中日の宇野勝の3名はプロ野球でもタイトルを獲得し、
その名前をファンの脳裏に植え付け各チームの主力選手となっていたのも大変印象的です!
そして銚子商業が甲子園に出場し対戦相手に勝利すると流れる校歌もとても強く印象に残っています。
校歌の一番が「幾千年の昔より海と陸との戦いの激しきさまを続けつつ犬吠岬は見よ立てり」ととてつもなく短く
あの短さは一度聞いたら忘れないのかもしれないですね。
銚子商業の記憶に残る試合と言うと、いっちば~ん!に思い浮かぶのは、1973年夏の甲子園の
雨中の延長戦となった銚子商VS作新学院の試合だと思います!
延長12回裏、満塁・・
作新学院・江川卓の投げた投球が高く浮き上がり銚子商業が押し出しサヨナラ勝ちという試合でしたけど、
あの試合はまさに「死闘」に相応しい激戦だったと思います。
世間一般の方の感覚からすると「銚子商業」というと、上記で書いた通り、高校野球の名門とか甲子園の優勝校という
イメージが強いと思うのですけど、
私のようなオールド吹奏楽ファンですと、銚子商業と言うと小澤先生指揮でのあの素晴らしい演奏の数々が
大変印象的です。
上記で書いた通り、銚子商業が作新学院との死闘を制したのは1973年で、その翌年の1974年に銚子商業は
悲願の夏の甲子園の全国制覇を成し遂げているのですけど、
丁度その頃に吹奏楽部も全国大会5年連続金賞のスタートを切り、
前橋商業と共に1970年代の吹奏楽コンクールの「関東の雄」としてその名を轟かせるようになります。
個人的には、1979年の楽劇「サロメ」~七つのヴェールの踊りは、アレンジは今一つですけど
演奏は大変格調が高く色気が感じられとっても大好きな演奏です。
結果的に2018年現在において「今の所、これが最後の全国大会出場」となってしまった1980年の
シュミットの「ディオニソスの祭り」も気品と洗練と大胆さが融合したすてきな名演だと思います。
当時の銚子商業を指揮・指導されていた小澤先生は、今現在も神奈川大学を指揮されて、現役バリバリなのですけど、
駒澤大学の上埜先生がご逝去された今、是非是非「現役」を続けられ、あの素晴らしい演奏を
私達に聴かせ続けて頂きたいと思います。
この小澤先生は本当に偉大な吹奏楽指導者&指揮者だと思います。
1970年代初頭に銚子商業を指揮されて以降、全国大会出場は、2017年現在でなんと計38回!!
しかも、その内35回が金賞というのはこの数字は驚異的なものだと思います。
銀賞3回のうち2回は、1971年~72年の初出場間もない頃の銚子商業時代という事を
考えると、1980年代以降は、1997年のイベリア以外は、「全国大会に出れば全て金賞」という
とてつもない数字を叩き出しています。
そして38回の全国大会出場の中で一度も銅賞受賞が無いと言うのも驚愕の一言に尽きると思います。
そういう意味では、1980~81年の2年間に渡って関東大会で神奈川大学を撃破した文教大学は改めて
「凄いよなぁ・・」と感じるばかりですね。
1970年代のまだ日本の吹奏楽が試行錯誤を繰り返している段階から今現在に至るまで
素晴らしい演奏と凄まじい実績を残されている小澤先生には本当に頭が下がる思いですし、
まだまだ日本の吹奏楽界を盛り上げていって欲しいと切に切に・・・願っております!!
最近の小澤先生の指揮による神奈川大学の演奏においては、
三善晃/交響三章、バルトーク/中国の不思議な役人、田村文生/残酷メアリ
シュワントナー/・・・・・・そしてどこにも山の姿はないの演奏が大変強く印象に残っています。
特に交響三章のあの神がかった演奏は、1980年の秋田南高校の神降臨の演奏に
勝るとも劣らない大変素晴らしい演奏だと思います。
そういう小澤先生も、1970年代の銚子商業時代には、歌劇「運命の力」序曲とかリシルド序曲とか
今では絶対にありえない選曲をされていたのがなんかとても興味深いです。
そして小澤先生の全国大会初出場の際の自由曲が、シベリウス/交響曲第2番終楽章というのも、
現在では100%絶対にありえない選曲だと思います。
1980年代初めの頃のBJを読み返してみると、結構何人もの人たちが
「1977年の銚子商業のディオニソスの祭りの演奏は、高校の部の飛躍を示唆する演奏」と言われてはいるのですけど、
これはあくまで私の感じ方なのですけど、
「それって違うじゃん・・高校の部の飛躍を示唆した演奏って、1976年の秋田南のペトルーシュカじゃないの・・・?」とも
思っています。
秋田南のペトルーシュカについてはこのブログでは過去に何度も何度も執拗に書いていますので、ここでは
割愛をさせて頂きますが、あの演奏こそが当時は「充実した中学の部に比べると今一つ」とか
今現在では絶対にあり得ない事を指摘されていた「高校の部」において、
1980年代から現在に至るまでの「高校の部の素晴らしき充実」の一つのきっかけになったのではないのかなと感じています。
1970年代のBJにおいては、
「吹奏楽コンクールで一番充実しているのは中学の部で、高校・大学と年が進むにつれてレヴェルが低下している」といった
指摘もちらほらと見られていましたけど、
私の私見ですけど「それは絶対に違う!!」と思っています。
1970年代の初めの頃だって、既に花輪・名古屋電気・浜松工業・富山商業など素晴らしいチーム&演奏は
一杯ありましたし、銚子商業もそうした素晴らしい演奏を残してくれた学校の一つだと思います。
銚子商業も小澤先生の退任以降は、現在に至るまで全国大会の舞台は一度も踏んでいないのは大変さびしいものが
あるのですけと、現在においても東関東大会のA部門またはB部門に千葉県代表として出場され続けているのは
さすがだと思いますし、これが伝統校の底力と言えるのかもしれないですね。
そうした銚子商業の伝統の中でも、「あれれ・・このとてつもない小人数でのコンクール参加はどうしちゃったのかな・・?」と
感じさせる時代もあったものでした。
これは現在のように関東が東関東と西関東に分かれる前の話ですけど、
1993~1994年の銚子商業は関東大会B部門に千葉県代表として出場していて、
93年は28名前後のメンバーでニコライの歌劇「ウインザーの陽気な女房たち」を演奏し、
94年は佐藤長助の組曲「山里」を演奏し、共に金賞を受賞しています。
93年の演奏はとにかく木管セクション・・特にクラリネットパートの安定度が抜群で、序奏以外はほとんど16分音符で
せわしく動いているのですけど、大変洗練された美しい音色で高らかに音楽を歌い上げていたのが
とても印象的でしたし、この年の関東B部門のグランプリに相応しい名演を聴かせてくれていたと思います。
そして翌年の1994年は多分ですけど奏者は20名もいなかったように記憶しています。
「かつての全国大会金賞常連チーム一体何が起きたの・・?」とも感じさせる少人数でしたけど、
人数の少なさを感じさせないほどの「音楽」として聴かせてくれる内容的に大変優れた演奏だったと思います。
知る人ぞ知るというか・・ほとんど知られていない佐藤長助の組曲「山里」を情感たっぷりに丁寧に歌いこみ
この曲が持っている「鄙びた情景」をよく醸し出していました。
Ⅰの朝焼けのフルートソロが非常に印象的でしたし、Ⅱの子供神楽の神楽太鼓の素朴な音も好印象だったと思います。
佐藤長助は、1966年の吹奏楽コンクールの中学の部の課題曲の「学園序曲」の作曲者としても一部で知られ、
吹奏楽作品としては東邦高校もかつて自由曲として演奏していた「蘇る民族」の作曲者としても知られています。
この組曲「山里」はⅠ.朝焼け Ⅱ.子供神楽 Ⅲ.土に生きる Ⅳ.祖霊降来 Ⅴ.水車の歌の5曲から構成された
素朴な山村の風景を表現した組曲ですけど、私自身は銚子商業が演奏したⅠとⅡしか聴いたことがないですし、
この曲自体の情報が全くありませんし、詳細は私でも実は全くわかりません・・(汗)
佐藤長助は実は宮城県出身の方というのは聞いたことがあるのですけど、作曲者についての情報もほぼ皆無ですね。
こうした知る人ぞ知る鄙びたすてきな曲を、とてつもなく小編成ながらもここまで音楽的に深く掘り下げて聴かせてくれた
1994年の銚子商業の指揮者と奏者の皆様には
あの演奏から24年後の埼玉の地から改めて敬意と称賛を送らさせて頂きたいと思います。
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名門の学校には知名度のある先生がいたんですね。
ちなみに作新学院を破ったときのキャプテンだった岩井さんは。
藤田元司さんのお嬢さんと結婚されたんです。
東海大学に進んで、遠藤一彦(大洋)とチームメイトに。
3つ下に原辰徳がいたワケです。