深井史郎の「パロディー的四楽章」は正直知る人ぞ知る曲です。
数年前に、ナクソスレーベルから「深井史郎作品集」のCDがリリースされ、
この曲が少しだけ陽の目を見ることになったのは大変嬉しいものがあります。
(以前は山岡重信指揮/読売日本しか音源がなかっただけにとっても資料しても価値があると思います)
改めてこの「パロディー的四楽章」を聴いてみると、「すごい!」としか言いようがないです!
とてもとても、1930年代の帝国主義・軍国主義が蔓延し、委縮気味で自由の空気が薄い世相の中で、
こうした才気煥発で音楽が自由自在で、知的好奇心に溢れモダンな曲が作られていたことに驚きを感じずにはいられません。
この曲を現在の感覚で聴いても全く違和感がないほど、モダン感覚溢れる斬新さを感じ取ります。
全体的にピアノを非常に効果的に使用しているのが極めて印象的です。
この曲は、作曲者の深井氏の言葉を借りると、
「外国の作品の影響が及ぶことを恐れて、外国の優れた作品を学ぼうとしない者達への風刺と警告を兼ねた作品」
との事ですが、この言葉通り、曲の至る所に、当時の諸外国の大御所の作品の断片が引用されたり、
曲のモチーフから発展させたりしています。
深井氏としては「最初は別に優れた外国作品の模倣から始めもいいじゃん!」という感覚だったのかもしれないですし、
模倣から始めて、徐々に自分たちの個性を出していってもそれはそれでいいのかもというお考えだったと思いますし、
私はそれは大変すてきな考え方だと思います。
この曲は四楽章から構成され、
第一楽章 ファリア
第二楽章 ストラヴィンスキー
第三楽章 ラヴェル
第四楽章 ルーセル
と名付けられ、各楽章でタイトルの作曲者の作品が引用されたり、モチーフとして使用されています。
元々この曲は当初は五楽章構成として構成され、二楽章と三楽章の間に、マリピエロという楽章があったのとことですが、
結局削除されました。
この曲は第二楽章と第四楽章が圧倒的に面白いです。
(正直、第三楽章は少々だるいです・・・)
第二楽章・ストラヴィンスキーは、最初に聴いた時は、春の祭典と幻想曲「花火」をパロディーにしたのかなと思っていたら、
春の祭典は正解だったものの他には第二組曲が使用されているとの事でした。
第四楽章は、さらに面白くなり、
タイトルは「ルーセル」となっていますが、実際にパロディーとしてのモチーフとして使用したのは、
バルトークの「舞踏組曲」です。
だけど、舞踏組曲のどの部分をパロディーにしたかは、実をいうと私にとってはいまだに分からないです・・
それにしても、バルトークの曲をパロったのに、タイトルがどうして「ルーセル」に転化したのでしようか?
とてつもなく思いっきり謎です・・
それもこの曲の一つの持ち味というか、茶目っ気なのかもしれないです。
この第四楽章は、ルーセルの曲を何一つモチーフにしてもいないのに、タイトル名だけルーセルの名を使用し、
バルトークの「舞踏組曲」をモチーフにしたと作曲者は言っているのですが、
実はこの楽章において、真の主題は、実は日本の「さくら、さくら」という、日本人ならばほとんどの人が知っている
あのメロディーでもあったりします。
中間部の前において盛り上がる部分とか、ラスト近くでは、この「さくら、さくら」のメロディーは
かなり執拗に引用されていて、思いっきり日本のメロディーをパロディ化しています。
そうですね・・この曲の真意は、もしかして・・
「外国の作品の勉強をして、影響を受けても構わないけど、
最終的には、あなた達自身の故郷の日本の事も忘れては駄目ですよ・・」みたいなメッセージを
後世に作曲家の人達に伝えたかったのかな・・?とふと思ったりもします。
それにしても本当に面白い曲です。

私がこの曲を知るきっかけとなったのが、
1982年の全日本吹奏楽コンクール・東北大会において、秋田南高校がこの第四楽章を演奏した事でした。
勿論吹奏楽アレンジバージョンですし、原曲で大活躍するピアノの代わりに
シロフォーン・ヴィヴラフォーン・マリンバといった鍵盤打楽器を大胆に使用し、
途中で、チャイニース風の音楽を展開するような才気煥発里自由さも見せてくれました。
こうした天野正道のアレンジこそが深井史郎が求めていた「風刺と警告」をきちんと受け止めた一つの結果と
言えるのかもしれないです。
この演奏は、ブレーン社から出ている 「レジェンダリーシリーズ・秋田南高校編」の中に収録されています。
秋田南の「パロディ的四楽章」の演奏は、金管楽器、特にトランペットセクションの硬質な音の響きが
個人的には引っかかるものがありますが、 それを埋めて帳消しにするほどの知的さというのか
練りに練られた音楽の巧みな構成感は感じられます。
演奏が知的好奇心の塊りというのか才気煥発みたいな雰囲気濃厚の演奏だったと思います。
全体的には、秋田南の演奏は端正なつくりで堅実なのですけど、何か妙に明るい感じもあったりします。
明るいというよりは「屈折した明るさ」なのかもしれないです・・・
何か素直になれない明るさというのか、開き直った明るさというのか
そんなものも何か感じ取ってしまいます。
このヘンな明るさは、やはり原曲のすこーし(?)ヘンなところに由来するものなのかもしれないです。
私自身、このブログでは何度も語っている通り、1982年の全日本吹奏楽コンクール・東北大会高校の部A部門の
全国大会代表3チームは、ウォルトンの交響曲第一番~終楽章を高らかに演奏した花輪高校と
矢代秋雄の交響曲~第四楽章を透明感溢れるスピード感満載の奇跡的名演の仁賀保高校と
グローフェの「グランド・キャニオン」を演奏した仙台第一が代表校だろうと、当時あの大会を生で一日聴いていた私が
感じた率直な感想であり、「パロディ的四楽章」~Ⅳ.ルーセルを演奏した秋田南高校は、
端正で屈折した明るさは魅力的だけど、東北大会ではどちらかというと窮屈で音楽的にも音質的にも硬いという印象が
濃厚で、当時の私の感じた印象としては「秋田南はダメ金で仕方ないかも・・」と感じていたものですけど、
全国大会では、大化けしてくれて深井史郎らしい才気煥発さとあの屈折した明るさを見事に普門館の聴衆に
聴かせてくれていたと思います!
秋田南高校は、こうしたユニークな作品を実に生き生きと知的に聴かせてくれました。
「さくら、さくら」の引用も中々功を奏しています。
原曲は、前述のとおりピアノが大活躍をしていますが、天野氏の吹奏楽アレンジ版では、
ピアノの代わりに、シロフォーン・マリンバ・ヴィヴラフォーンの鍵盤打楽器をかなり効果的に使用し、
部分的にはなぜか「チャイニース風」な響きも出しています。
原曲には無い「ドラ」を使用しているのも、意外と華があったりしてとても面白いと思います。
全体的には、秋田南の演奏は堅実なのですけど、何か妙に明るい感じもあったりします。
「明るい」というよりはそれは「屈折した明るさ」なのかな・・??
何か素直になれない明るさというのか、開き直った明るさというのかそんなものも何か感じ取ってしまいます。
このヘンな明るさは、やはり原曲のヘンなところにも由来するものなのかもしれませんよね。
1976年に秋田南は、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」を自由曲に取り上げていましたけど
この時も何か「妙に屈折した明るさ」を感じたものでした。
秋田南は、当時は、矢代秋雄・三善晃といった法人作品に果敢に挑戦し見事な演奏を後世に残してくれましたが、
そうした際は、どちらかというと「暗い陰鬱な表情」を見せてくれました。
この「パロディー的四楽章」とか「ペトルーシュカ」は、「屈折した明るさ」を全面に出していたと思います。
秋田南と言うと、比較的「陰鬱なドロドロとした世界」を感じさせてくれる演奏が多いのですけど
こうした「屈折した明るさ」が感じられる演奏も大好きです。
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