なんとなくですけど世間一般では「ロミオとジュリエット」と表記される事が多いシェークスピアの戯曲ですけど、
文学の世界では「ロミオとジュリエット」と表記される事が多いような気もしますし、
音楽の分野では「ロメオとジュリエット」と表記される事がほとんどだと思います。
音楽の解説書とかクラシック音楽のコンサートのプログラムの表記や吹奏楽コンクールのプログラム表記では
ほぼ全て「ロメオとジュリエット」となっているように思えます。
(歴代プリキュアシリーズの中でも、秋の文化祭の出し物としてこの「ロメオとジュリエット」が上演されることも
多々あったと思うのですけど、この際の表記はやはりほぼ全て「ロミオとジュリエット」でした・・)
この表記の違いはどこに由来するのかな・・??
クラシック音楽の世界では「ロメオとジュリエット」を題材にした曲と言うと
チャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」とか
ベルリオーズの劇的交響曲「ロメオとジュリエット」が有名かもしれませんが、
何と言ってもプロコフィエフのバレエ音楽がいっちば~ん!有名なのだと思われます。
20世紀の名作バレエという評価は既に定着済だと思いますし、
世界各国のバレエ団が日本上演をする際でも「ロメオとジュリエット」は定番レパートリーの一つだと思います。
シェークスピア原作の戯曲は、ご存じの通り、悲劇的結末で終ってしまうのですけど、
20世紀のソ連の作曲家のセルゲイ・プロコフィエフの場合は、
初期の構想の段階では、これを「ハッピーエンド」で終らせる案を練っていたとの事です。
その構想案としては、終幕でロメオが1分早く駆けつけジュリエットが生きていることに気付きハッピーエンドを迎える
というものだったそうですけど、
それではなぜプロコフィエフはあえてハッピーエンディングにしたのかその理由についてなのですけど、
「生きているから踊れるのであって死んだら踊れない」という理由との事です。
これは何となく分かるような気もします。
ちなみにプロコフィエフはこのバレエ音楽を作曲中に知人に書いた手紙の中で
「今、ジュリエットは第二幕の中を歩いています」という素敵な一文を記したというエピソードが残されているそうです。
だけど最終的には、さすがにこの有名な原作を曲解したハッピーエンディングはまずいじゃん・・と言う事で
「悲劇的結末であってもバレエと言う踊りの表現形態においても十分表現・演出出来る・・」と演出家たちが
プロコフィエフを説得し何とか原作通りの結末になったそうです。
このバレエ音楽の上演時間は実は大変長くて、優に二時間半は超えると思います。
クラシックの演奏会で演奏される場合、組曲番や指揮者の好みで編集されたダイジェスト版で演奏される事が多いのですけど、
私は第一組曲は大好きです!
ちなみにですけど、プロコフィエフのバレエ組曲「ロメオとジュリエット」は、部分的には耳にしたことがある人は
多いと思いますよ。
なぜかと言うと、ソフトバンクのテレビCMというと、あの白の「お父さん犬」がとても知名度と人気がありますけど、
初期の頃は、「お父さん犬」が登場すると決まってBGMとして
このプロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」が流れていました。
ちなみにそのBGMの曲で流れていたのは、
第二組曲の第1曲「モンターギュ家とキャブレット家」です。
その関連でプロコフィエフ作曲の「モンターギュ家とキャブレット家」を流すと
「ああ、あのソフトバンクのCMね」となつかしがる皆様は意外と多いかもしれませんね。
ちなみに第一組曲は以下の七曲で構成されています。
1.民衆の踊り
2.情景
3.マドリガル
4.メヌエット
5.仮面
6.ロメオとジュリエット
7.タイボルトの死
第一曲の「民衆の踊り」が私は大好きでして、冒頭の「タッ、タッ、タッ」という短い打撃音から開始される
あの部分が始まると、「ああ、これからロメオとジュリエットの世界が始まる」と何かワクワクしますね・・・
この第一曲ののぴやかな雰囲気はとにかく素晴らしいです!!
でも圧巻は「タイボルトの死」ですね~!
この部分の弦楽器のめまぐるしい展開は壮絶なものがあります!
ティンパニによる打撃音のソロ以降の金管楽器による勇壮な感じは相当な悲壮感が漂っています。
これは家としての宿敵、タイボルトを成り行きとはいえ殺めてしまった・・どうしよう・・みたいなロメオの
「後悔」の気持ちも含めて、大変迫力ある音楽が展開されていきます。
どちらかというと、音楽の内容的には
「モンターギュ家とキャブレット家」・「少女ジュリエット」・「別れを惜しむロメオとジュリエット」
「ジュリエットの墓の前で号泣するロメオ」が入った第二組曲の方が聴き応えはあると思うのですけど
なぜか私は第一組曲の方が昔から好きです。
それはなぜかと言うと、やはのこのバレエ音楽を最初に知るきっかけとなったのは吹奏楽コンクールでして、
それが1982年の富山商業の自由曲が、このプロコフィエフの
バレエ組曲「ロメオとジュリエット」~モンターギュ家とキャブレット家・タイボルトの死だった訳でして、
特に「タイボルトの死」の鮮やかさが脳裏に焼き付かれてしまった事が大きいのかもしれないです。
参考までに第二組曲の方も記しておきますと、
1.モンターギュー家とキャピュレット家
2.少女ジュリエット
3.僧ローレンス
4.踊り
5.別れの前のロメオとジュリエット
6.アンティル諸島から来た娘たちの踊り
7.ジュリエットの墓の前で号泣するロメオ
第二曲の「少女ジュリエット」は短いけどとても溌剌とした感じが漂います。
第七曲の「ジュリエットの墓の前で号泣するロメオ」は本当に胸が張り裂けそうな音楽です。
第一組曲も第二組曲もとにかくこの瑞々しさ・リリカルな感じが大変素晴らしく
それがプロコフィエフ本来の「メカニックな感じ」と大変うまく融合し、
このバレエ音楽を大変誇り高きものにしているような感じがあります。
ちなみにこのバレエ音楽は、クラシック音楽業界では「ロメジュリ」と短縮して言われる事が多いです。
そしてラヴェルの「ダフニスとクロエ」は「ダフクロ」と呼ばれる事が多いです。
反面、「トリスタンとイゾルデ」は誰も「トリイゾ」と言いませんし、「ぺリアスとメリザント」は誰も「ペリメリ」とは言いませんね(汗・・)
それはやっぱり「語感」の関係なのかな・・??
- 関連記事
-
スポンサーサイト
ロメオとジュリエット、チャイコフスキーによる序曲は昔、小学校高学年の頃に父の運転する車中、AMラジオ(NHKかな)で聴きました。確か小澤征爾/サンフランシスコ響だったかな。続けてプロコフィエフの組曲版も流れていて不協和音と大音響に強烈な印象を受けた思い出があります。
その後CDでマゼール/クリーヴランド管の全曲盤を購入、がっちりしたアンサンブルに支えられた強烈な音響に圧倒されました。とにかく各楽器のキャラクターがはっきりしているの何のって!当時ある評論家が、「最もアメリカらしいオケ」なんてコメントしていたりも。「最もヨーロッパ的なアメリカのオケ」と現在よく云われていることと真逆!策士マゼールの面目躍如、な演奏ですわ。
ペレアスとメリザンド、フォーレの組曲をやはり1982年に弘前南の招待演奏で聴き、その響きが澄んでいて美しかったことも思い出しました。
メーテルリンクのこの戯曲を音楽にしたのは、他にもドビュッシーの歌劇、シェーンベルクの交響詩があり、自分もどちらもよく聴いてきましたし、いずれも実演に接する機会も持てました。この戯曲、主人公はペレアスでもメリザンドでもなく、じつは、ゴロー(ペレアスの兄であり、メリザンドの夫でもある)ではないのかと、自分は勝手に解釈しており、そのほうが内容を把握しやすいように思えます。意味深な内容ですが、フォーレもドビュッシーも音に対する音響美から出発点にした音楽となっていて、フランス風の詩的情感が溢れています。一方シェーンベルクでは、対位法の権現のように主題が絡みついていて、ドイツ的な非常にゴツゴツとした印象、調性は残しているもの、もう限界点にあり、トリスタン和声らしきものもあちこちで聴こえます。あたかもゴローの心の闇、叫びのようにも思えてきます・・・
シベリウスにもこの戯曲に基づいた作品があるようですがこちらはまだ未聴。うわっ、また宿題思いだしてしまいましたわ。どっかで聴いてこよう!