F.エリクソン / 序曲「祝典」 → 1980年代初期の頃に大ブレイクした吹奏楽オリジナル曲です! 私自身の中学3年の時の自由曲であったりもします・・

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F.エリクソンの序曲「祝典」は1980年代初頭の吹奏楽コンクールにおいては大ブレイクしていましたね~!
この曲は全国大会においてはこれまでのところわずか2チームしか演奏されていないのですけど、
県大会・地区予選という下部大会においては「この曲が登場しない大会は無い・・」と感じさせるほど
とにかく数多くのチームがこの曲を演奏されていたと思います。
凄い時は県大会の中学校のC~A編成と一般の部で一日で8~10チームがこの曲を演奏していた事すらあったと
思います。
エリクソンの序曲「祝典」が大ブレイクした1980年~81年から既に40年以上経過しているのに、
いまだにこの曲が稀にではありますけど、地区予選・県大会の吹奏楽コンクールの自由曲として演奏され続けていて
コンサート・定期演奏会でもたまに取り上げられたりもしていて、他の吹奏楽関連のブロガーの皆様が
この曲を取り上げられたりしているのを見ると、序曲「祝典」がたくさんの人たちの心の中にしっかりと受け継がれているのは
本当にうれしいものを感じます。
そして私自身にとってもこの曲は私が中学3年の時の吹奏楽コンクールの自由曲でもありましたので、やはり思い入れは
ある曲の一つですね~!
私自身、このブログでは何度も書いている通り、中学の頃までは「音楽大嫌い、吹奏楽はもっと嫌い」という感じの部員
でしたし、中学3年の時の吹奏楽コンクール県大会は「多分これが最後の吹奏楽コンクール参加だろう・・
高校に入ったら今度は運動部にはいりたい、それが無理ならば少なくとも吹奏楽部にだけは絶対入部しない」と
思っていましたので、「最後の自由曲になるのかも・・?」という事でなにか感じる所はあったのだと思います・・・
(この時点ではまさか累計10年間も吹き続けるとは夢にも思わなかったです・・)

序曲「祝典」は、ミズーリ大学の吹奏楽団創立50周年記念で委嘱されて作曲された経緯があります。
急―緩―急の典型的な三部形式で、
クライマックスにおける主題の再現部でのあの壮絶なスピード感と陶酔感は、聴いている方も演奏している方も
エキサイトするのは間違いないと思います!
演奏時間は7分半程度でしたので、コンクール自由曲としてカット不要の丁度いい尺というのも相当大きいと思いますけど、
曲自体の分かりやすさと、うっとりするような中間部と主題の再現に向けて全パートが突撃していくあの爽快感が
この曲の人気の大きな要因になっていたと思います。
そしてこの「わかりやすさ」とか曲の雰囲気と構成は、やはり同じく1980年代前半に大ブレイクした
バーンズの「アルヴァマー序曲」に近いものがあると思います。

序曲「祝典」は、奏者の視点から言うと冒頭から結構厄介でして、
特に木管セクションのかなりの高音による「タタタ・タタタ・タタタ・タタタタタタ」というリズミカルな響きは
聴いている人達にも「なんじゃこれは・・!?」と注目を惹きつけているようにも感じられます。
そうした高音楽器の8分音符できざまれるリズミカルな動きで開始され、すぐ低音楽器が喜ばしげな主題を歌いはじめ、
それが木管セクションに受け継がれていき、その木管のメロディーに対して、トランペットはかなり細かい装飾音符を
奏でないといけないから、指揮者にとっても奏者にとっても冒頭から30秒程度である程度の勝負が付いてしまうような
曲でもありましたので、とにかく冒頭から全奏者が集中しないと全く音楽にならないのでは・・?と
今更ながら感じてしまいます。
そしてこの冒頭部分がメロディー担当の楽器を変え、時にリズムパターンを変えつつ、
そして意外な事に「祝典」というタイトルが付けられた曲なのに、短調と長調が結構頻繁に交代し、
曲の雰囲気とサウンドの輝きを変え続ける様子には新鮮さが感じられますし、この新鮮さというのが
序曲「祝典」が例え短期間であったとしてもあんなにも全国的な大ブレイクを果たした大きな要因になっているようにも
感じられます。
そして中間部はかなり情感たっぷりにおおらかに歌いこまれていき、
はじめは金管楽器によりコラール風に歌い出され木管楽器にひきつがれます。中間部の最後のクライマックスは
まさに「感動の頂点」だとも思います!
あの中間部の頂点の部分は奏者としても「この時、私は命を落としても敵わないと思った・・」という
まるで「響け! ユーフォニアム」の久美子のようなセリフそのものだとすら思います!
そしてこの中間部が終わるとA-B-A-コーダの三部形式のAの部分の再現が開始され、そしてコーダにそのまんまなだれ込んで
いくのですけど、あのコーダの部分のすっちゃかめっちゃかさは壮絶なものがあると思います!
基本的にこの曲は2拍子のビートなのですけど、コーダに入ると一小節ごとに拍子は変わるし、
吹いている方としては小節も拍もビートもへったくれもない、とにかく「ノリと勢いで吹いちまえー!」という感じの世界に
突入していき、そのまんま壮絶なスピード感のまま華麗に曲が閉じられていきます!

私自身は、序曲「祝典」は1980年の中学3年の時の吸い差う学コンクールコンクール自由曲として演奏した曲でもありますので、
懐かしいというか思い入れは今でも相当あると思います・・(笑)
私の在籍中学は前年の1979年まではとにかく学校自体が今では信じられないマンモス校でして、吹奏楽部員も
確かに退部・入部の出入りはとてつもなく激しくいつも一定という感じではなかったものの、毎年100人は軽く在籍していたと
思います。(私自身も中学2年の時は、2年17組でして、しかも当時は1クラス50人近くいたと思います・・)
1980年に生徒数激増と教室不足のため (少子高齢化・学校統廃合の昨今の状況では考えられない事ですね・・)
そして1980年において、このブログでは何度も語っている通り、吹奏楽部内ではこれまでの吹奏楽部顧問=指揮者による
部員に対する厳しい上から目線による威圧的指導に対する反発がよりによって私が吹奏楽部部長に就任以降に
炸裂してしまい、結果的に当時の2年生の大量退部事件を招いてしまい、更に輪を掛けるように
そうしたマンモス中学校を二つの学校に分校してしまい、そうした経緯によって1980年の部員は79年時点に比べて
約6割近くも激減してしまいました・・
(もっとも1980年の春には例年通り新入部員もたくさん入ってきましたので、それでも部員は70名程度はいたかな・・?)
当時の中学の指揮者の音楽教師は大変アクの強い先生で、 自身の考え・ペース・音楽指導法・解釈については、
一切妥協しませんでしたし、そして一切他者の話に耳を傾けない頑固爺でもありまして、
従来まで選んでいた自由曲は、ワーグナー・チャイコフスキー・ヴェルディといった重厚なクラシック音楽のアレンジものとか
マクベス / カディッシュのような重厚な吹奏楽オリジナル作品といった重量級の作品ばかりを選んでいましたけど、
この年・・1980年に限っては
「学校分離もあったし、お前らはオレの言う事に逆らった挙句こんなに退部しやがって、お前たちの代の吹奏楽コンクールは
どうもやる気が出ない・・
お前たちの代の自由曲はエリクソンの祝典みたいな軽い曲で十分だぁ~!」なんてエリクソンと序曲「祝典」という
大変な名作に対して大変失礼な暴言を吐いていたのは、当時は「そんなものなのかなぁ・・」と感じていたものですけど、
今現在の視点ですと「わかっていないね・・」と感じになりそうです・・(汗・・)

そうそう、この年は私の10年間の奏者生活の中では唯一担当楽器がクラリネットではなくてアルトサックスを吹いていた年
でもありました~!
新年早々なぜかしりませんけど「お前は今日からアルトサックスにうつれ~!」とまさかのクラリネットからアルトサックスに
コンバートされたのですが、私自身も大変意外でもあったのですけど、
クラリネットに比べてアルトサックスはとても簡単に音が鳴らせてとても簡単にヴィヴラートをかけられ、
思った以上に容易に美しい音色を出せる事に正直驚いたものですし、コンバート初日でも普通に全体合奏に参加する事が
出来ていました~! それまではクラリネットという楽器の大変さ、音の出し方の難しさ、リード調整の難しさ等に
毎日頭を抱えていたものですけど、あの時は「世の中にこんなに簡単な楽器があったんだぁ~」とヘンな誤解を生ずることに
なってしまったものでした・・(汗・・)
もちろん、サックスは決して簡単な楽器ではありませんので、こんな妙な記事読んでヘンな誤解はしないで下さいね・・(汗)
一つ言えることは、クラリネットに比べてアルトサックスはマウスピースが大きいのですので、
それが当時2年間小さいマウスピースのクラリネットを吹いていた人間の感覚からしてみると「吹きやすい~」という
感覚になっていたのかもしれないです。
それとクラリネットは木製ですけど、サックスは金属でもありますし、その日の湿度や温度といった外部環境に
あまり影響を受けにくいというのもあったと思いますし、クラリネットは直接指で穴をふさぎますけど、
サックスは構造的には金属製の蓋で穴を開閉させるという事で、やはり音が出しやすいという事もあると思います。
そして大変ありがたいことは、サックス系の楽器はクラリネットと違ってほとんどリードミスが発生しないと言う事も相当
大きかったような気がします。
コンバート初日には「一体今までのクラリネット奏者としての二年間は何だったんだろう・・・」と思ってしまったものでした。
ちなみにですけど、私がアルトサックスへのコンバート初日に真っ先に吹いた曲は何かと言うと、
言うまでもなく1979年の課題曲A/フェリスタスのあのとてつもなくかっこいいアルトサックスの朗々としたソロでした~! (汗・・)
高校で再度吹奏楽部に入部した際、男子校ゆえに圧倒的にクラリネット奏者不足のため、問答無用で再度クラリネットに
戻ったのですけど、そこから7年間は改めてクラリネットという楽器の厄介さと向き合う日々が続いていきました・・

アルトサックス奏者として、序曲「祝典」の譜面を見た際の第一印象として、
「クラリネットパートと違って何て簡単なスコアだ」と感じたものでした。
序曲「祝典」の冒頭は、前述の通り木管セクションの高音域のタタタ・タタタ・タタタとスタッカートのリズムで開始されますが、
アクセントのつけ方が妙に難しく感じられ、クラリネット奏者としては大変苦手な部分でもありました。
だけどアルトサックスの場合、タッ・タッ・タッ・・という単純な後打ちだけでしたので、すごく楽でした~! (笑)
しかもクラリネットパートに比べて16分音符や速いパッセージが少なく美味しいメロディー部分が多く、
パート練習でも全体練習でも楽しく演奏できていたと思います。

これは意外と稀有な事だと思います。

クラリネット奏者の時は、年がら年中クラリネットパートは指揮者から
「全然消化出来ていない」・「下手くそ」・ 「リードミスばっかりしやがって」・ 「なんだ、そのヘンな音は・・!」などなど
文句ばかりタラタラ言われ続け、その時は練習や全体合奏が楽しいと感じたことはほとんど無かったと思います。

その意味では、序曲「祝典」は私にとって初めて合奏をする楽しさを教えてくれた曲なのではないかと思えます。

クラリネットパートも私以外は全員女の子でしたけど、サックスセクションも私以外は全員女の子でしたが、
クラリネットの時のようなギスギスした雰囲気ではなくてカラッとドライな雰囲気だったのも、サックスの音そのものが
為せる業だったのかもしれないですね~(笑)

この年は無事に地区予選を突破し県大会に出場したのですけど
当時の県大会は、現在のように受験を配慮して夏休み中に県大会を終わらせるというものではなくて、
9月の敬老の日前後が県大会だったように記憶しています。
本番前の当時の私の心境はどんな感じのものだったのかな・・?
「県大会が終わればやっとこれで吹奏楽部でのあの上から目線のおっかない音楽教師の指導から開放される・・」という
嬉しい気持ちと「県大会が終われば受験勉強に専念せざるを得なくなる」という不安な気持ちが交錯し
非常に不安定で揺れ動いていたのは間違いなくあったような記憶がありますね・・

県大会の演奏は私が言うのもなんですけど、本当にズタボロの演奏でした・・(汗)
せめて地区予選の時みたいな演奏が出来れば後悔はなかったと思うのですけど、練習でもあんなひどい演奏はあんまり
なかったのかも・・と感じさせるくらい本番では悪い面が全て出てしまったような感じするあります。
「万一この県大会を通過して県代表に選出されて支部大会に出場する事になったら、一か月近くまた怒られまくるのも
嫌なんだけど、本日の県大会で県代表に選出されなかったら、本日をもって引退となってしまい 
明日からは受験に専念せざるを得なくなる・・それも嫌だな・・・
あ~あ、どっちも嫌だな・・・一体どうすりゃいいんだろう・・」と気分としては「to be or not to be」のハムレット
みたいな心境だったと思います。
元々県代表になれるようなレヴェルの高い演奏は元々期待できなかった上、本番の演奏があそこまで見事に崩壊してしまう
という事の背景にあるのは、私自身を含めて部員全員のこの一年間のモヤモヤとした鬱積した気持ちとか
大量退部者を出してしまった後ろめたい気持ちとか指揮者の先生に対する反発の気持ち等色々あったとは思いますが
最後まで皆の気持ちが一つにまとまらなかったというモヤモヤとした鬱積した気持ちが、本番当日に部員全員の「本音」を
象徴させるような形となって、「音」になってしまったのかなと思う事は今でもあったりしますね・・・
当時、一応この部の部長でもあった私自身としては・・・
「こうなってしまったのも自分自身が一因」という自分のふがいなさを責める気持ちもありましたし、
やはり指揮者の先生に対する「恨みつらみ」はかなり大きいものがあったと思います。

課題曲C/北海の大漁歌の出だしから既に何かモヤモヤした開始で、演奏開始10秒から奏者全員に
「あれ・・今日はちょっとやばいのかも・・」という空気は間違いなく流れていたと思います。
この年は前述の通り私自身はアルトサックスでの出場でしたけど、課題曲冒頭の音がアルトサックスにとって鬼門というのか
大変音が出しにくい低音から開始されるという事情もあったのですけど、冒頭のホルンとアルトサックスのユニゾンも
練習の成果が発揮されないまま開始され、
「これはまずい」と思ったものの修正できずに曲がどんどん進行し、中間部のトランペット・オーボエ・フルートのソロの部分では、
3人の奏者が全員揃いも揃ってソロを外すという練習中でもなかった事態が発生し更に奏者の動揺を招き、
課題曲は崩壊状態で終了し、自由曲の序曲「祝典」も「あれれ・・いつもと調子が違う・・」みたいな違和感を最後まで吹っ切る事が出来ずに演奏終了となってしまい、全部員茫然とする中、中学最後のコンクールが幕を閉じたという感じでもありました。

当日全部門の審査が終了したのがPM19:00過ぎで、
部員全員を残しておくわけにもいかないという事で、部長・副部長、そして指揮者の先生以外は全員そのまま帰宅となり、
私が部を代表して閉会式と審査結果発表に臨みましたけど、結果はダメ金も撮れずに銀賞という結果で終りました。
(よくあんなポンコツ演奏が銅賞にならなかったものですね・・・)
閉会式で表彰状を貰ったのですけど、全然嬉しくなかったですし、当日の演奏やこれまでの部の活動状況に対する
「後悔」の感情ばかりが沸き立つ中で、
「これでやっと音楽というか吹奏楽部から解放されるじゃん! 明日からは受験のプレッシャーはあるけど一応自由の身だ・・!!」
といった開放感があったのも事実だったと思います。

今現在ですと、メールやラインで当日の審査結果なんかをリアルタイムで回覧できるのですけど
当時は携帯すらない時代ですから3年生には、直接電話を掛け結果を伝え、
下級生には審査結果は明日の朝刊を見ておいてというのもなんか時代を感じさせますよね・・・(汗・・)

帰りはその指揮者の先生の車で学校まで送って貰ったのですけど最後ぐらいは、
「お疲れ様!!」とか「今まで色々と酷い事ばっかり言ってすまなかった・・・」
「お前たちも本当によく頑張ってくれた!!」みたいな労いの言葉があるのかな・・・とか
「最後くらい、俺のおごりでなんかうまいものでも食わしてやる! 何でも好きなもの頼め!!」みたいな
嬉しいサプライズでもあるのかな・・・と淡い期待を持っていたら、その車での送迎中も一時間近く延々と部長・副部長に対して
「お前たちは、今までオレが面倒見てきた中で一最低最悪の代!!」
「お前たちぐらい俺の言う事を素直に聞かなかった奴らはいない」
「お前たちはだからダメなんだ!!」みたいにずーーーーーっと説教の連続でして、

マジであの瞬間は・・・・

 「コイツ、まじでくたばっちまぇーーーー!!」と心底願ったものでした!

そして、私は音楽、吹奏楽の事が大嫌いなまま卒業式を迎えたのですけど、そんな私が真の意味で「音楽」に覚醒したのは、
それから一年半後の事なのでした。
そしてそのきっかけというのは、何度もこの名前を出して大変恐縮なのてすけど、
1982年の全日本吹奏楽コンクール・東北大会、A編成の高校の部のプログラム一番、秋田県代表 花輪高校吹奏楽部による
ウォルトン作曲/交響曲第1番終楽章の演奏だったのでした!

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