私が中学生あたりの頃の保科洋の吹奏楽作品と言うと
〇交響的断章
〇吹奏楽のためのカプリス
〇吹奏楽のためのカタストロフィー
などのように陰鬱で暗い曲というイメージがあったものです。
高校から大学の頃になると、例えば
〇 古祀
〇 愁映
〇風紋(1987年度課題曲A)
〇バストラーレ(牧歌)
などの作品のようにどちらかというと「和の心」というか日本人の心のわびさびに触れるような
作品にシフトしていったような印象もあります。
保科洋の作品としては正直知る人ぞ知るマイナーな作品ですけど
「吹奏楽のための交響的変容「澪明」という隠れた名曲が実はあったりするのですけど、
この作品は何となくですけど、陰鬱さと和の心の中間的な雰囲気を持っているような気もします。
「祝典舞曲」は、保科洋の作品としては珍しいほど「明るさ」が感じられる作品のようにも聴こえます。
保科洋の作品は、吹奏楽コンクール全国大会においては、
1970年代から80年代前半まではかなりの人気邦人作曲家だったと思いますし、何となくですけど
兼田敏と人気を二分するような雰囲気も無くは無かったと感じるのですが、
1990年代以降はバタッと演奏されなくなってしまい、確かに「風紋」という1987年の名課題曲の作曲家という名声は
既に確立されていたと思うのですけど、自由曲ではほとんど演奏されない作曲家という印象も一時期
あったようにも感じられます。
1991年にヤマハ東京が演奏した「祝典舞曲」を最後になんと20年近くも全国大会で保科洋の名前を耳にする事は
なかったのですけど、
2010年にヤマハ浜松が、委嘱作品である「復興」を演奏して以来、 この曲は大変な人気曲となり
2010年度の全国大会初演から昨年・・2017年の全国大会までのわずか7年間の間になんと・・! 計22チームが
全国大会にて保科洋の「復興」を自由曲として選び、ここに保科洋の再ブレイクが見事に果たされました!
(私の吹奏楽仲間で極めて口の悪い奴は、保科洋の復興について「本人もこの曲によって吹奏楽界に復興を果たした・・」
なんて大変失礼な事を言っている奴もいたりもします・・汗・・)
だけど「復興」はとてつもない名曲だと思いますし、この曲の不変的価値は多分ですけど後世にまでずっと受け継がれていく
のだと思われます。
20年近くも全国大会はおろか支部大会でその作品が中々演奏されていなかった保科洋の
作品が例え一曲集中であっても21世紀に入っても演奏され続けている事実は大変嬉しいものがありますし、
オールド吹奏楽ファンとしては嬉しい気持ちを感じずにはいられないです!
「復興」というと、どうしても東日本大震災を連想しがちですけど、実際は震災前に既に作曲&初演は果たされています。
単純に曲だけを聴くと、確かに「大震災後の復興」みたいなイメージは伝わる部分もあったりします。
ちなみに「復興」は管弦楽にアレンジもされています。
さてさて、保科洋の作品というと「風紋」と「復興」が2大名曲と言えるのかもしれないですけど、
私としては、古祀 や愁映 といった日本人の心のわびさびに訴えかけるような渋い作品もとっても大好きなのですけど、
初期作品の「吹奏楽のためのカタストロフィー」という陰鬱極まりない曲も実は大好きだったりもします。
「カタストロフィー」とは邦訳すると「悲劇的結末」という意味でもあり、このタイトルが示唆するように曲自体は陰鬱で
決して楽しい曲ではありませんし、 金管・打楽器が咆哮しどんちゃん騒ぎするような曲ではなくて
どちらかというと心の葛藤とか動揺をてーまにしたような内省的な曲とも言えると思います。
この曲をBGMとして聴くと確かに「悲劇性」みたいなストーリーは伝わってきます。
だけどこの曲、前述のように決して派手な曲ではありません。
むしろ相当地味な曲です。
打楽器も、ティンパニ・大太鼓・小太鼓・シンバル・サスペンダーシンバル・シロフォーン・タムタム・チャイム程度です。
タムタムもチャイムも静かな部分で使用されるため ほとんど目立ちません。
静粛で陰気な序奏、そして展開部、静かに揺れ動く中間部、クライマックスで一時盛り上がるものの
終結部は静かに陰鬱に閉じられるという構成を取っています。
ラストも決して「すっきり」と終わるような感じではなくて、微妙に後味の悪さを感じさせてくれます。
気分が乗っていない時にこの曲を聴いてしまうと、
「ああ、何のために自分はこの世に生を受けたのだろう・・?」と「原罪」みたいなものを思わず考えてしまうような曲でもあります。
この曲の唯一の見せ場というのは、後半のクライマックスにかけてのティンパニの乱打なのかな・・?
あの部分はかなりインパクトがあったりします。
「カプリス」ほど陰気ではないけどこの「カタストロフィー」も相当に陰鬱な世界だと思います。
「厭世的」なものを陰々鬱々に、そして淡々と地味に語られているような錯覚も覚えたりもします。
カタストロフィーが吹奏楽コンクールで演奏されていた1970年代後半~80年後半は、例のあのインチキ預言書(汗・・) を
かなり勝手に拡大解釈させた五島 勉の「ノストラダムスの大予言シリーズ」によって
一部の学校のクラス内の雰囲気等にも厭世観とか悲劇的解釈とか世紀末の滅亡観みたいな雰囲気も
決してなくは無かったと思うのですけど
(そう言えばあの当時に学校で流布されていた都市伝説は例のあの「口裂け女」でしたね・・汗・・)
そうした世紀末的厭世観を象徴していたのが保科洋の「カタストロフィー」と言えるのかもしれないですね・・
「風紋」・「復興」と同じ作曲家という感じはあまりしないというのが率直な感想です。
保科洋の初期の頃の厭世的な感覚を堪能されたい方にはむしろうってつけの作品のような気もします。
演奏は大変地味ですけど、1981年の東海大学第一高校、1977年のヤマハ浜松がそれなりの演奏を聴かせてくれていると
思います。
81年の東海大学第一は、あの個性の塊と奇抜な解釈でお馴染みの榊原達先生の指揮とは思えないほどの
枯れた淡々とした演奏を聴かせてくれています。
83年の日大豊山と84年の浜松商業は ・・すいません・・完璧に演奏が崩壊していましたね・・(汗)
特に84年の浜松商業の演奏は、奏者と遠山先生にとっては不本意極まりない悲劇的結末の演奏と評価に
なってしまったと思います・・(汗・・)
だけど遠山先生の偉大な所は翌年にしっかりとチームを立て直され、85年には同じく保科洋の「古祀 」と
86年の「トッカータとフーガ ニ短調」の圧倒的名演を聴かせてくれていたのは大変印象的でした!
70年代の保科洋の作風は「陰鬱な世界」そのものでしたけど、「古祀」とか87年の課題曲にもなった「風紋」のように
「和」のイメージを曲に取り入れ始め 特に「古祀」は日本の古代の儀式みたいなイメージを曲に大胆に取り入れ
その「鄙びた感じ」と「躍動する静のリズム感」がまた独特の世界を生み出し、一時かなりの人気曲だった
時もあったような気がします。
最後に・・「カタストロフィー」みたいな厭世的な曲だけを保科洋の記事として書くのも、管理人の私も実は
極めて不本意なものがありますので、簡単ではありますけど、「愁映」というとてもすてきな曲も取り上げてみたいと思います。
「愁映」は、元々関西学院大学吹奏楽団からの委嘱作品であり、1984年の同校の全国大会自由曲としても演奏されています。
この「愁映」という曲は実は私の大のお気に入りの一曲でもあったりします。
カタストロフィーの破滅的世界とか古祀の和風の鄙びた世界も素晴らしいですし、「復興」の後世に受け継いでいってほしい
名曲なのですけど、私にとって「保科洋」というと一番のお気に入りは「愁映」でもあったりします。
この曲のどこがいいかと言うと、やはりあの独特の「孤独さ」・「寂しさ」・「憂い」なのだと思います。
この曲は、それ程大胆に盛り上がる曲ではありませんし、金管・打楽器が咆哮する曲ではありません。
どちらかというと、ゆったりとした部分が多く、ffの部分もほとんどありません。
この独特の「寂しさ」・「ゆったりとした内面的な高まり」は分かる人にしかわからない領域なのかもしれないですけど、
中間部のチャイムが静かにコーン・・と響く感じも大好きです。
愁映の私の勝手なイメージとしては、晩秋の少し風が冷たい時期に、京都の神社仏閣詣りとか伊勢神社に参拝した帰りに
紅葉がひらひらと舞い降り、 道を紅葉が真っ赤に染め、その真っ赤な道を静かにしゃりしゃりと紅葉を踏みながら
ゆっくりと散策を楽しむ・・・そういうイメージがあるのですよね。
「日本人の忘れた何か」を呼び覚ましてくれる哀愁と寂寥感溢れる不思議な曲です。
だけど、この曲はほとんどというか全く演奏されないですね・・(泣)
1984年に関西学院大学が全国大会で一度演奏した以外は一度も全国大会では演奏されていません。
この年の関西学院大学は、本当に素晴らしい演奏を残してくれました。
関西学院大学は、例えば79年の「ローマの松」とか82年のショスタコの5番とか88年の「ロデオ」のように
金管打楽器がガンガン咆哮乱打するような演奏を好む傾向にあるのに
例えば、1977年のフォーシェ/交響曲とかこの年の「愁映」のようにたまにですけど内省的な曲を控えめにしっとりと
演奏する時もあったりして
そのギャップが私にとっては実はツボ要素にもなってしまいそうですね・・
愁映は、1984年の関西学院大学の演奏時は、ラストはffで少し鳴らして閉じられるのですけど
1999年に改訂版も発表され、ラストが静かに終わるように修正されていました。
というか、静かに終わるパターンと改訂前のようにffで終わるパターンの二つから自由に選択できるようになっています。
このパターンは、プロコフィエフの交響曲第7番「青春」と全く同じパターンですね。
プロコフィエフの場合も、静かに回想的に静かに閉じられる版と華麗に鳴り響いて終わるパターンの二つを用意し
指揮者の判断でどちらかを選ぶようにされています。
私自身の個人的好みでは、プロコフィエフの「青春」は華麗に鳴り響く終わらせ方が好きですし、
保科洋の「愁映」は静かに閉じられるパターンの方が好きだったりもします。
贅沢な注文なのかもしれないですけど、確かに「復興」も素晴らしい名曲である事は間違いないのですが、
どこかのしぶいチームが「古祀」・「愁映」・「バストラーレ」をしんみりと内省的に演奏してくれる事を期待したりもしますね・・
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