※本記事は過去記事の再編集記事です・・
どうしても最近の「米国によるイスラエルのエルサレム首都承認」というニュースに不安と憂慮を感じるものでして
「これが新たな火種にならないといいのだけど・・」とか
「これが結果的に終わりの始まりにならないといいのだけど・・」ときな臭いものを感じたりもします。
最近の世界情勢は、北朝鮮もそうですし相変わらず「紛争」が絶えなくて、きな臭い雰囲気ですよね・・
人間の特性の一つとして、「過去の歴史の教訓」を先祖から子孫まで「記憶」として継承する事は出来ないゆえに
いつまでたっても「過去の愚かな紛争の悲劇」を繰り返してしまうという事は間違いなくあると思います。
もしも「過去の記憶」というものを先祖から子孫にDNAとして継承することが出来るのならば、
過去の悲劇がトラウマとなって「紛争を継続させたり新しく勃発させる事」を多少は防止できるんじゃないのかな・・とも
思ったりもします。
だけど今現在の私たちが出来る事は「記憶のDNAとしての継承」ではなくて、
「過去の歴史から学習する事」だけなんですよね・・
世界各地の「紛争」の原因の一つが「宗教を巡る対立」というのも何かやるせないものもあります。
本来宗教の目的とは「人間のの心の救い」とか「心の拠り所」みたいなものであるはずなのに、
その「宗教」が世界各地の紛争の一つの要因になっているのもとてつもなく皮肉な話でもあります。
宗教は戦争を回避させることはできないというのは、既に歴史の事実が証明しておりますけど、
有史以来の「人類の叡智」を結集して、「世界平和」を実現できる方法は何かないものか・・・・と
ふと考える事もありますね。
そもそも論になってしまいますが、ではどうして「紛争」というものは発生してしまうのか・・・?
こんな問いは、とてもじゃないけど一言で片づけられるべき話じゃありませんし、複数の要因が複雑に
絡み合っているから、決して簡単に勝たれるべき話ではない事は重々承知はしております。
ごく大雑把に言ってしまうと、「異なる価値観」から発生する「相互不信感」みたいなものが紛争の原因の本質
なのではないのかなと感じる事もあります。
それではどうすればいいのか・・?
人類すべてが「聖人君子」みたいな人でしたら、「話し合いで解決」とか「お互いに譲り合うべきところは譲り合いましょう」
というある意味理想論でも片付くと思うのです。
だけど、今、この地球上に住んでいる私たちは残念ながら一人も「聖人君子」は存在していないと思います。
生きていくうえで、国家を運営していくうえで、色々な立場・利害関係の中で様々な意見が出るのはごく当然の話だと
思います。
民主主義の理屈を徹底し詰めていくと、たとえどんな多様な意見があったとしても、国民を代表する「議会」での
健全な話し合いと討論を経て、「一つの決定事項」が出たならは、本来はその決定事項に不服はあったとしても
無条件で従うべきではないのかという意見もあるのかとは思います。
それが「譲り合い」とか「円満解決」ではないのかなとは思ったりもします。
だけど、現実においては、そうした「譲り合い」とか「話し合いで円満解決」という解決方法は所詮は綺麗ごとだと思うのです。
そんなのはまさに「机上の空論」なのです。
それではどうすればいいのでしょう・・?
その答えは無いと思うのですけど、一例をあげると・・・
1.同一民族・同一宗教・同一価値観などのようになにか「一つの御旗」だけでまとめる事ができるような「ブロックエリア」を
地球上にかなり細かく設定し、
その「エリア」同士の「絶対的不可侵」だけは遵守するような協定を制定し、
同じ価値観を共有できる人たちだけで「一つのエリア(国家)」を作る。
2.現況、どの紛争も「絶対的な圧倒的な戦力差」が無いから、戦闘が長引いたり、ゲリラ戦・テロという
無益な消耗戦に引きずり込まれてしまう・・
もしもですけど、とてつもなく圧倒的に強い武器等を所有する世界政府みたいな組織があり、
その世界政府と他のエリア・国家との間には「絶対的な戦力差」があり、
世界政府が定めた協定案に反する行動を起こした国家は、その世界政府から、懲罰的制裁を
課される。
そのために、嫌でも世界政府が定めた方針に逆らう事が出来なくなり、
「世界政府に反抗しよう」とか「世界政府に戦争を仕掛けよう・・」みたいな発想自体を起こさせないようにする。
(多種多様な意見・政策があるのは理解した上で、協議の上での世界政府が一度定めた方針を
絶対的に遵守させる方法として、上記の2があったりもします・・)
全然関係ない話かもしれませんけど、
私、「ガンダムシリーズ」というのはほとんど興味がありませんし、まともに観た事はありません。
シリーズを通してのいわゆる「アムロ、いきまーす!」の初代が放映されていたのは、私が中学3年頃の話だと
思うのですけど、私・・当時はガンダム自体全く興味のきの字も無かったですね・・・
私的には、アニメや漫画には「美少女」とか「可愛いかわいい女の子」が一杯いっぱい登場しないとつまらん!
というのは実は昔も今もほとんど変わっていないですね・・(汗・・)
ただ唯一引っかかる作品が、確か2006年頃に放映されていた「ガンダム00」なのだと思います。
この作品って結構面白い「テーマ」があり、
紛争の絶えない世界情勢の中で、戦争・内乱など世界中のあらゆる武力紛争に、「ガンダム」という圧倒的な優位性を
持つ武力をちらつかせて介その紛争に積極的に介入していき、
「今すぐそうした紛争を止めないと、このガンダムがあなた達の国家を殲滅させてしまうけど
それでもいいのですか・・?」みたいないわば「恫喝」をかけていき、結果的に紛争根絶を目指していく・・・
確かそんなような話だったと思います。
それはまさしく上記の私の脳内妄想の2に近いような設定でもあります。
しかし、それは「論理的矛盾」を内在する問題であり、結果として、
「世界平和を実現するために、結果として軍事介入という紛争を生み出してしまう」という
自己矛盾を抱えこんでしまうという事になるのだと思います。
(アニメとしては・・・主要キャラの一人、ロックオンが結構好きでしたね・・・最後で壮絶な死を遂げたのが
何か惜しまれますけど大変印象的でした!)

だけど、これってある意味一つの「方向性」を示していて、
人間が「恒久的世界平和を実現するための一つの方法」であるような気もします。
要は、何か他を全く寄せ付けない圧倒的な何か(武力・新しいエネルギー源など)をちらつかせることによって
「紛争」を強制的に抑圧していく事なのだと思いますし、
「お前たちが何かよからぬ事を企んでいるのならば、お前たちの国家を全てを破壊する・・・
それが嫌ならば自分達が提示した解決案を全て丸飲みしろ・・・」
という事なのだと思います。
ま、それで本当に「世界平和」なのか・・・という矛盾もありますけど、
一つの組織が「世界各国が束になっても決して勝つことは出来ない強大な武器」をちらつかせることで
表面的には、一旦は全ての紛争を収めてしまうというのも
「真の意味での世界平和に向けての一つの過程」の中ではありなのかなとも思ってしまいます。
だけど何かそういう事はどういう事なのかというと、
右手で握手をしながら背中で隠しながらも左手で拳銃を握りしめているようなものだから、
それが本当に「平和」なのかな?とも思ってしまうのですけど
とにかく一つの組織がリードする形で、たとえ圧倒的な武力をちらつかせる形で
「自分達が提示したこれこれこうした解決方法に基づいて行動しろ」みたいな事であっても
それが「世界の混乱」をひとまず収束させる一つの方法なのかなともふと思ったりもします。
ま、その一つの組織が「善意」に基づいている事が大前提なのですけどね・・・・
ちなみにですけど、上記の「ガンダム00」については、成果としてはほぼ失敗という感じです。
その原因は、主人公たちのガンダムというメカが絶対的な存在ではなくて、ガンダムの製造方法みたいなものが
他国に情報がダダ漏れで、結果としてガンダムという「危険なメカ」が複数の国家に溢れ返ってしまった
というのが大きいと思います。
とにかく人間と言うものは、古今東西「紛争」が絶えない存在です。
本来そうした「紛争」の原因でもある「人間の欲望」に対して「救いの手」を差し伸べるのが「宗教」の
役割のはずなのに、
その「宗教間の相違」が世界各国の諍いの「新しい火種」になっているのは、
「人間の強烈なアンチナーゼ」を感じてしまいますね・・・
エルサレムという聖地は世界的に見ても大変稀有な場所であり、一つのエリアに、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教という
三つの宗教の聖地が集結していることはある意味すごいことなのだと思います。
これって本来は「異教徒同士でも一つのエリアで仲良く融合できる」という事の象徴にもなり得るはずなのですけど、
実際はそうした方向にはならず、それが結果的にこうやって新たな紛争の始まりとその報復という負の連鎖という泥沼に
はまっていくというのもなんだかとても哀しいものがあるのだと思います。
あ・・・、何か話がヘンな方向に流れてしまいました・・・・
「エルサレム」というと、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のそれぞれ「聖地」となっていますけど、
そうした各宗教の各始祖の方たちの視点で「現代の混沌」を眺めるとどんな感じなのでしょうか・・?
「なぜあなた達は・・・」
「本来私が後世の人達に託した事とは、全然違う方向に進んでいる」といった「嘆き」なのかもしれないですね。
ここから、やっと本日の「本題」に入ります!!
A.リードの「エルサレム讃歌!」という大変長大でスケールの大きな吹奏楽オリジナル作品を耳にする時、
毎回そうした事をふと思ったりもします。
私が高校生あたりの頃には
既にリードの「アルメニアンダンスパートⅠとパートⅡは定着化された作品であり大変人気の高い作品でした。
当時よく吹奏楽仲間内の噂では
「リードは、実は、アルメニアンダンスパートⅢの構想を練っていて現在作曲中・であり、1980年代中盤には
発表されるのではないか?」という話がよく出回っていましたけど、結局、パートⅢとして発表される事はありませんでした。
結果として「アルメニアンダンス」と同様にアルメニア地方の「讃美歌」をモチーフにした作品が
この「エルサレム讃歌」でしたから、
ま、あながちあの噂は単なるガセネタではなかったようですね。
リードは生粋なアメリカ人ですし、特にアルメニアやエルサレムとの接点は無いはずなのに、
どうしてアルメニアンダンスとかエルサレム讃歌みたいなアルメニアに色濃厚な曲を残したのだろう?と
思ったことがあるのですけど、
アルメニアの音楽学者であるゴミタス・ヴァルタベッドという方が集めたアルメニアの民謡・聖歌を
「このまま歴史に埋没してしまうのは勿体無い・・」と感じた
イリノイ大学でゴミタスの研究をしているハリー・ビージャンという学者・バンド指導者が、
ゴミタスの集めた聖歌や民謡を使った作品をリードに委嘱したことが
これらの名曲が生まれたきっかけになっています。
そしてリードは、民謡を「アルメニアンダンス」で巧みに用い
7世紀頃のアルメニアのローマ教皇管区教会典礼聖歌集からキリストの復活を称えた讃美歌を
この「エルサレム讃歌」で大変効果的に用いています。
「エルサレム讃歌!」は、序奏、主題提示、5つの変奏とフィナーレから構成されています。
序奏は木管の鋭い動きによって開始され、金管が讃歌によるテーマを歌い上げ、
フレーズの終わりにはトランペットによってファンファーレ風の楽句が挿入されています。
提示部では木管アンサンブルでテーマが美しく奏され、2/4拍子、アレグロの第1変奏、
3/4拍子でハープやヴィブラフォンが効果的な第2変奏に続き、
6/8拍子の行進曲風な第3変奏は切れ目なしで第4変奏に入っていきます。
この部分ではクラリネットとフルートによりカデンツァ風に自由に変奏されています。
カノン風な第5変奏を経て
フィナーレではトゥッティでテーマが奏され冒頭のファンファーレも高らかに加わって華々しく閉じられます。
この曲なのですけど、
CDで聴くと絶対に分からないと思うのですが、
全曲ノーカット版の生演奏を聴くと分かるのですけど
「バンダ」という金管別働隊が、ステージ横に待機していて、
特にラスト近くのフィナーレでは、曲の華々しい盛り上がりに大変大きな役割を果たしています。
とにかくスケールの大きい曲ですし、
聴き方によっては
「諍いばかり起こす人間達は何て愚かな存在・・・」という聖地からの「嘆き」も伝わってくるかのような
感じもあります。
個人的にはラストの高揚感と
序奏の金管セクションによるコラール風な和音の重なり方に
ググッ・・・とくるものはあります。
この曲、吹奏楽コンクール全国大会で何度か演奏されていますけど
長大な曲をかなり強引にカットしているためかどれも今一つ決め手に欠くような演奏です。
強いて言うと、1990年の神戸中学校の演奏が大変素晴らしいですね!!
神戸といっても兵庫県の学校ではなくて岐阜県の学校です。
神戸中の、特に序奏の金管の歌わせ方と冒頭のヒステリックな感じは何かとてもゾクゾクさせてくれるものがあります。
他には、都大会銅賞なのですけど
1989年の都立永山高校の演奏も素晴らしかったと思います。
それと決定打ではないけど、1995年の大曲吹奏楽団も、テンポが少しスローすぎる傾向はあるものの
とても劇的な雰囲気をうまく表現していると思います。
リードの「エルサレム讃歌!」を聴くと、なんか気持ちとしては「人間の原罪」というものをついつい考えてしまいますね。
だけどそういう哲学的な事を考えるのにはとっても相応しい内容の曲だと思いますし、
この曲も後世に受け継がれていってほしい名曲の一つだと思います。
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第一話のエクシアが宇宙から降下してくるシーンには胸踊りました!
そういえば最初の武力介入後 紛争停止のニュースを見ている
世界の情勢に興味のある平和に生きてきた少年に気持ちシンクロしてました
少年「戦争が終わった・・・(だったかな)」革命やー!!って
でも最後は結局スピリチュアル解決法で
人類を進化(意識の共有?)させて少しずつ良くしていこうみたいになりましたね
(人は)わかりあえる(キリッ)みたいなー(°▽°)
いや資源とかなんとかの問題も頑張ってたようですけど
あれ何を書きたかったっけ?
とりあえずロックオン(初代)良いキャラだっただけに惜しいですね
あの散り方が良い感じなんでけども
そしてなんで後釜顔そっくりやねん(不満)