「浜松」と言うと、私的には「音楽の街」というイメージがあります。
やっぱりそれは「ヤマハ浜松」の存在が大きいのかな・・・・?
元来、浜松市はオートバイや木工・繊維関連など、「モノづくりの街」として名を知られていますけど、
やっぱり最たるものは「楽器制作」ですよね・・・!!
河合楽器製作所・ローランドなど、名だたるメーカーが浜松市に集結していますし、
国内でのピアノ生産量は第1位ですからね!!
浜松は「世界最大規模の楽器の街」という印象が強いですね!
ついでに書くと、私の勝手なイメージがあるのかもしれませんけど、
「静岡県」はとっても住みやすい街というイメージがあったりもします。
気候が温暖で、住んでいる人達も温厚な人柄の方が多く、食べ物も美味しいし
同時に「おっとり」というすごくいいイメージがあるのですよね。
あくまで個人的な話なのですけど、知人とか職場で知っている人で静岡出身の人ってみんななんか
温厚で温和で人間的に魅力がある人が多いみたいなイメージがあったりもします。
何でそんな印象を持っているかと言うと、
以前もこのブログで書いている通り、私自身は1990年~96年の間は山梨県の支店に在籍していたもので、
その際の甲州人の「強引さ・よそ者排除意識・身内意識の強さ・甲州弁のガラの悪さ」等に
いささかうんさ゜りしていた面もかなりあり(あ・・・勿論、甲州には甲州の良さは一杯ありますよ・・・)
当時、仕事上、隣接県という事で静岡の方と色々と接点を持つ機会も多く、
その「人柄の良さ・おっとり感」に正直驚いてしまい、
「え・・・なんで隣同士の県なのに、こうまでも違うんだ! やっぱり今でも県民性の違いってあるもんだ!!」と
しみじみと感じたものです・・・(汗・・)
ヤマハ吹奏楽団浜松は、さすが楽器メーカーだけの事はあって
古くから日本の吹奏楽界をリードし続けた素晴らしい吹奏楽団だと思います。
特に何が素晴らしいかと言うと、その圧倒的に高い技術力もそうなのですけど、
日本の有能な作曲家に曲の提供、つまり委嘱をお願いする事によってその委嘱された曲をコンクールの自由曲として
演奏する事で、邦人オリジナル吹奏楽曲を数多く世に送り出してきたという事が
実は最大の貢献なのではないかと思ったりもします。
一例をあげると・・・
〇保科洋/交響的断章・カプリス・カタストロフィー・古祀
〇夏田鐘甲/ファンタジー
〇田村文生/アルプスの少女
〇田中賢/メトセラⅡ・紅炎の鳥・南の空のトーテムポール・始原Ⅰ~大地の踊りなど
〇藤田玄播/天使ミカエルの嘆き
この中では、今では演奏されなくなった曲もありますし、現在に至るまで積極的に演奏され続けている曲もあります。
こうやって、後世に受け継がれていく曲を委嘱と言う形で世に送り出し続けた
ヤマハの貢献度は、本当に素晴らしいものがあると思います。
ヤマハ浜松は、最初にコンクール自由曲用の委嘱作品は、邦人作品ではなくて、
実はあの「二つの交響的断章」でお馴染みのネリベルだという事は案外知られていないのかもしれないですね。
当時の指揮者の原田元吉氏がわざわざ訪米し、ネリベルに直々に
「是非我が吹奏楽団のために曲を書いて欲しい!」と依頼し、そこで出来上がった曲が
「ヤマハ・コンチェルト」なのです。
そしてヤマハ浜松は1970年の全日本吹奏楽コンクールにこの「ヤマハ・コンチェルト」を自由曲として出場し、
見事にグループ表彰制度開始のこの年に金賞を受賞しています。
この曲を知っている人、現在いるのかな・・・・? というかほとんど忘却の彼方の曲でもありますし
ヤマハ浜松以外はほとんど演奏された事もない曲ですので、
「誰も知らない・・」という曲といえるのかもしれないです・・(汗・・)
以前当ブログでこの曲について書いたところ、なおりパパ様より「この曲、知っている!」とコメントを頂いたこともあり、
「この曲をご存知の方がいて安心した・・」と妙に(?)感激したものでした! (笑)
「ヤマハ・コンチェルト」は、曲自体は意外と短く5分程度の曲です。
しかもネリベルとは思えないほど何か微妙に可愛らしい要素もあり、
「交響的断章」・「アンティフォナーレ」みたいな恐ろしいほどの不協和音とか畏敬を感じるほどのダイナミックスレンジの
落差の激しさという要素はほぼ皆無です。
曲のラストも、優しく可愛らしく終わり、思わず拍子抜けするほどです。
どちらかというと古典的な佇まいでチャーミングな雰囲気すらあると思います。
この前年度、1969年には、ヤマハ浜松は同じ作曲家の「フェスティーヴォ」を自由曲として
取り上げていますが、この曲はいかにもと言う感じのネリベルらしい作風なのですけどね・・・
この予想外の可愛らしさというか、管楽器の音の組合せの楽しさを発揮したのが
「ヤマハ・コンチェルト」の最大の魅力なのかもしれないですね。
ヤマハ浜松と言うと、知る人ぞ知る話かもしれませんが、1974年の全国大会には出場していません。
実は意外だったのですけど、東海大会の段階で、新日鉄に代表の座を奪われてしまいました。
ヤマハ浜松というと当時は既に王者の貫録という感じでしたけど
まさか新日鉄に敗れるとは意外だったでしょうね・・・
ちなみに新日鉄のその時の自由曲は、リードの「ジュビラント序曲」でした。
1974年のヤマハ浜松の自由曲は、保科洋の「吹奏楽のためのカプリス」という大変地味で陰気な印象のうすい曲であった
というのがもしかして敗因かどうかは定かではないですけど、
1975年のヤマハ浜松の自由曲は再度二年連続してこの、保科洋の「吹奏楽のためのカプリス」でしたので、
原田元吉氏としても余程悔しいものがあり、雪辱を果たしたかったのかもしれないですね・・・
最後に・・ヤマハ浜松は、
2015年度より、吹奏楽コンクールへの参加と、大都市圏でのコンサート開催を1年おきに計画し、
活動を2年周期で展開していく方針であることが発表していますけど、これって換言すると吹奏楽コンクールは偶数年のみ
出場するということなのでしょうか・・?
実際2015年のコンクールは不参加のようでしたし・・・
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日本の吹奏楽70というレコードにのみ収録されている曲ですので、知っている方は極めて少ないのかもしれないですが、
こんな粋で愛らしい曲がネリベルというのも意外すぎる話ですけど、そうしたギャップも一つの魅力ですね。