21.花輪高校
C/バレエ音楽「チェックメイト」より(ブリス)
今年はまだ終わっていませんし、残りあと四か月ほどあるのですけど、今年・・2017年度において、
私にとって最大の訃報は、かつて花輪高校吹奏楽部と秋田南高校吹奏楽部をご指導され、全日本吹奏楽コンクールで
数多くの歴史的名演を私達に残して頂けた小林久仁郎先生のご逝去の知らせだったと思います。
改めてですけど、ここに小林先生のご冥福を心の底より御祈願させて頂きたいと思います。
だけど小林先生の訃報の知らせは突然でしたし、「まだまだお若いしこれからもずっと吹奏楽界の発展に貢献して欲しい!」と
願っていた先生でもありましたのでショックは大きかったですね。
事実、当ブログは一応は「毎日更新」が一つの売りにもなっているのですけど、小林先生の訃報を聞いたとたんに
「そんなブログの更新なんてどうでもいいじゃん・・」と感じてしまい事実5日程本当にこの毎日更新のブログが止まって
しまった程、やはり私にとってもショックの大きさを当時物語っていたと思います。
私に出来る事は、小林先生と花輪高校吹奏楽部という素晴らしき存在を、定期的にこういうブログという文章の形でも
とにかく何か「記録」として残して頂く事と
小林先生や花輪高校吹奏楽部の演奏を私がせめてこの世にいる間は「決して忘れないで思いを馳せる事」なのだと
思います。
1992年の花輪高校の演奏は、2017年現在現時点では、結果的に最後の全国大会出場となってしまいました。
翌年の1993年以降は小林久仁郎先生は秋田南へと異動をされてしまいます。
(当時の秋田南は、90年~92年の三年連続県大会落ちという屈辱の歴史を味わっていますので
小林先生を秋田南へ赴任させることで名門校復活を秋田県の教育委員会が意図したという可能性もあるかもしれないですね)
私自身は、小林先生=花輪高校の本流はロシア系マイナーシンフォニーにあるの思っていますので、
前年度の1991年の「バッカスとアリアーヌ」みたいなフランス系路線とか
「永訣の詩」・「壁画」みたいな邦人路線は今一つ小林先生が求める音楽の本質と合わなかったと
言えるのかもしれないですね。
(私自身は小林先生の邦人路線は大好きですし、事実、秋田南での竹取物語とか舞楽は大・大・大好きですっ!!)
1992年は、吹奏楽では珍しいブリスというイギリスの作曲家の作品を自由曲に取り上げていました。
1982年にも東北大会でダメ金でしたけど、ウォルトンの交響曲第一番終楽章を自由曲に取り上げ、
うちのブログではあのウォルトンの一番の超名演を何度も何度も執拗に取り上げている事で分かる通り、
あの演奏には「魂を揺さぶる何か」が間違いなくあったと今でも確信しております。
つまり、イギリス音楽と小林先生の相性は意外とも感じるぐらい実に大変良好なものがあったと思います。
イギリス音楽にも小林先生は造詣が深かったのかもしれませんね。
歴史に「もしもという言葉はNG」とよく言われるのですけど、もしも小林先生が21世紀に入って以降にどこかの市民吹奏楽団の
指導をされ吹奏楽コンクールに出場され、自由曲にイギリスの作曲家のアーノルドの交響曲を演奏されたら
一体どんな感じの演奏&解釈をされていたのかというのは実に妄想のし甲斐があるようにも思えます。
というか・・・どちらかというと重厚な曲を好まれた小林先生が軽妙・ユーモア・現代的なスピード感と爽快感が
一つの売りにもなっているアーノルドの音楽をどのように料理されるのか考えただけでなんかわくわくしそうです・・(笑)
それが今となっては叶わない夢というのも実に残念な話ではありますね・・・
1992年の小林先生としては結果的に最後の花輪高校の普門館での演奏なのですけど、
この演奏は正直驚きでもあります!
当時この演奏を生で聴いていた時も感じましたし、後にこの演奏がCD化された時も感じたのですが、
一言でいうと「それまでの路線と比べて明らかに音楽が洗練化されスマートになっている!」というものでした!
自由曲のブリスのバレエ音楽は、急-緩-急の三曲を選んでいて、特に最後の曲のスケールの大きさは素晴らしかったと
思いますし、緩い部分の大人っぽいしっとりとした歌いまわしも素晴らしかったと思いますし、この緩い部分にどことなく
「寂寥感」みたいな表情も感じられ、花輪高校にしては珍しく(?)都会的なチャーミングな雰囲気も感じられたものでした。
以前のラフマニノフ/交響曲第一番 ショスタコ/交響曲第一番 ハチャトゥーリアン/交響曲第二番「鐘」
プロコフィエフ/交響曲第三番などの演奏のように細かいミスがたまに目につきサウンドが少々荒かった頃に比べると
とても同一チームとは思えないほどサウンドは洗練され、技術も安定しています。
自由曲のブリスの音楽も緩急をしっかりと表現し、随分と大人びた演奏を残しています。
課題曲も三善晃らしいスピード感と音楽の切れを遺憾なく聴衆に聴かせていたと思います。
(私個人としては、課題曲Cの演奏としては、高岡商業・都立永山に次ぐ素晴らしい演奏だったと思います)
そうですね・・・特に自由曲の洗練さは、これはこれで素晴らしいけど、やはりどうしても私としては、
花輪高校というとロシアマイナーシンフォニーの「荒ぶる魂の叫び」なんかを期待しちゃうのですよね・・・(笑)
だけど、この年の花輪は、素晴らしい演奏を最後に普門館で聴かせてくれましたし、
非常に惜しい銀賞だったと思います。
上記で述べた通り、都会的洗練さ・ツンデレの女の子みたいなチャーミングな雰囲気は従来の花輪高校にはほぼ皆無の要素
でもありましたので、「これは来年以降は別の花輪高校のサウンドに変身しちゃうのかも・・!?」みたいな
期待感も感じさせてくれる演奏だったと思いますし、
花輪高校としての「変化」を示唆する演奏であったような気もします。
それだけに結果論ではあるのですけど、せめてあと3年程度は小林先生は花輪高校を指揮されて欲しかったなぁ・・と
今更ながら感じることも多々あったりもします。
そして翌年以降小林先生は、秋田南へと異動され、そして立派に秋田南高校吹奏楽部を立て直され、
1994年には秋田南を引き連れて1988年以来久しぶりの全国大会に臨むことになります。
(94年の秋田南のあの気合入りまくりの饗応夫人と竹取物語は感涙ものでしたね!!)
花輪高校は、1990年の吹奏楽コンクールは「三角帽子」で東北大会ダメ金だったのですが、
翌年の「バッカスとアリアーヌ」・翌々年の「チェックメイト」は生まれ変わったような
洗練されたサウンドに生まれ変わったことは前述の通りなのですけど、
これは小林先生自身ももしかして、「さすがに今までの表現スタイルは時代にそぐわないから、自分たちも
チェンジを図る必要がある」と思われて、小林先生としての「変化」を示した演奏と言えるのかもしれないですね。
花輪高校の1992年のサウンド・音色は、「究極の繊細さ・洗練さ」の域に達しているように感じられます。
小林先生が初めて花輪高校を引き連れて普門館にやってきた1978年の音色・サウンドと単純に比較すると、
雲泥の差があるようにも感じたりもするのですが、これは別にだから78年の演奏はダメ・・と言っている
訳ではありません。78年のラフマニノフには、当時としての美点もたくさんあると思います。
だけど、78年と最後の92年の演奏のサウンドの違いと言うのは、まさに小林先生が1978年→1992年にかけて花輪高校で
育んできた「一つの進化」としての結果なのだと思います。
あの荒ぶるロシアの魂路線からスタートした小林先生が最後に求めたものとは「繊細さ・洗練さ」だったのかもしれないですね。
改めてですけど、小林先生=花輪高校は、とにかく「伝説」だと思います!
ブレーン社から出ている「レジェンダリーシリーズ」の花輪高校編を聴くと、花輪高校の偉大さがご理解して頂けると思います!!
(今回は割愛しますけど花輪高校の吹奏楽コンクールでの選曲は本当に素晴らしいものがあるともいえると思います!)
何よりもあの花輪高校特有の響きは大変洗練されデリケートに美しく響く幽玄なサウンドながら、
時に豪快に、時に荒っぽく、時に咆哮し激高する等、その自由自在な表現も大きな魅力だったと思います。
花輪高校吹奏楽部は1978年の小林先生赴任以前も既に吹奏楽の名門校という立ち位置ではありましたし、
佐藤修先生時代のあのとてつもなく地味な選曲&渋すぎる表現力も大変魅力的ではありましたけど、
花輪高校を更にさらに大きく飛躍させたのが小林先生の赴任なのだと思います。
小林先生は赴任一年目から、いきなり、ラフマニノフ/交響曲第1番第四楽章という
当時誰も目にも留めなかった曲でいきなり全国大会金賞を掴みとってしまいますが、
1979年の2年目のショスタコーヴイッチにしても、自由曲の定番中の定番の交響曲5番ではなくて、
交響曲第1番を選ぶあたり、小林先生の目の付け所の確かさを感じてしまいます。
1980年のハチャトゥーリアン/交響曲第2番「鐘」も81年のプロコフィエフ交響曲第3番も
どちらも第一楽章を選びながら、
ラストにおいては、第四楽章の終結部を巧みに結合させてしまう辺りに、その大胆さと音楽的センスを
感じてしまいます。
(そうそう、小林先生はクラシック作品を吹奏楽用にアレンジされる事にも大変素晴らしき才能を発揮された先生であり、
事実、小林先生が編曲されたハチャトゥーリアンの交響曲第3番「シンフォニーポエム」はいまだに全国大会でも
演奏され続けられています!)
花輪高校吹奏楽部は、1992年の演奏以降は現在に至るまで吹奏楽コンクールの全国大会の表舞台から
姿を消してしまいますけど、別に「吹奏楽コンクール」だけが全てではありませんし、
何よりも「花輪高校吹奏楽部の偉大なる歴史」は永遠に不滅ですし、
少なくとも「私の心」の中では私が生きている間は少なくとも記憶され続けると思います!
最後に・・・
とにかく私は声を大にして申し上げたいです!
「秋田県立花輪高校吹奏楽部は永遠に私たちの心に刻まれ続ける!!」ということを!!
そしてもう一度だけお悔やみの言葉で締めさせて頂きたいと思います。
小林久仁郎先生、どうぞ安らかにお眠りください・・・、そして「ありがとうございます!」という言葉だけは
お伝えさせて頂きたいと思います。
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小林先生と花輪高校については自分も何回かコメントしていますので今回はコメントを省きますが、大変残念な出来事でした。。。今にして思うと、2月に秋田県横手市で開催された演奏会で小林先生が指揮をされましたが、聴きに行っておけばよかったなと後悔しています。
もう先生の指揮の演奏を聴くことは叶わないんですが、私の地元秋田県ではもちろん、東北でも先生の偉業は語り継がれていくことでしょう。
…実は先般の東北大会前半日程~中学と高校の部で秋田から東北代表を逃してしまい(山王中と秋田南高校、2年連続で全国大会出場ならず…)、かなり厳しい状態ですが、そういう今こそ小林先生の音楽性と選曲を振り返ってみるべきかもですね!