小川洋子さんの小説って、実はものすごく大好きで、
本屋大賞を受賞したベストセラー小説「博士の愛した数式」が出るずっと以前から小川洋子さんの小説に
親しんでいた者にとっては、
「少し嫉妬心・・?」があるような気さえします。
小川洋子の小説って、ホント感想を書くのが難しいというか、
「それをどう感じるかはあなた次第」という作風の面もあるので、この話を読んで具体的に
どう感じたかを書く事自体何かナンセンスなような感じさえします。
作風がどちらかというと、グロテスクな反面、何かもやーーっと霧に包まれたような感覚もあり、
具体的な事件を下に具体的にグイグイとストーリーを展開していくわけではないので、
印象というか感想も、心の中で瞬間的に感じた極めて漠然としたものという
感覚になってしまいます。
それだけ感覚的な作風なのだと思います。
だけど、なんか20代後半の頃から、こうした感覚で遊ぶのが好きという事もあり、
グロテスクな描写、あまりにもぶっ飛んだ背景に時に閉口しながらも
結構昔から変わらず今も好きな作家の一人です。
小川洋子さんが描かれる作品の特徴って・・・そうですね・・・
最近の作風と初期の頃では結構「違い」はありそうな気もするのですけど、
初期の頃は、
①自分が消えていく消失感・・・そのひそやかさ・・・
②何か「自分にとって大切なもの」を封印したい・・・その大切なものを記憶から封印し
自分一人の価値観としてのみ、自分一人だけの世界に留めておきたい・・・
③グロテスクさ
あたりが際立った特徴と言えるのかもしれませんよね。
あの幻想的な感覚と静粛感は・・まさに「小説」が私達に提示している無限の可能性を本当に示唆しているような気もします。
というか・・・
あの研ぎ澄まされた感覚は多分・・・小川洋子さんにしか描く事は出来ないのかな・・・
ちなみに・・・
私が、小川洋子の作品で特に好きなのは、「密やかな結晶」と「六角形の部屋」だと思います。
「密やかな結晶」はかなりの長編小説ですけど、「六角形の小部屋」は、「薬指の標本」の中に
収録されているお話です。
「薬指の標本」は、まさに小川洋子ワールドが炸裂!!という感じで、
人によってはグロテスク・・・ある人によってはミステリーっぽく感じるかもしれませんけど
これは・・・
解釈としては前述の「記憶の封印」という特徴が遺憾なく発揮されている作品だと思います。
だけど・・・やっぱり少し悪趣味かな・・・??
この「薬指の標本」を読んだ後に、連作姉妹作みたいな形でこの「六角形の小部屋」を読むと
結構・・・
印象は変わってくるのかもしれません。

「六角形の部屋」は、「薬指の標本」以上に設定が面白いです。
薬指・・みたいに設定がグロテスクではないから、大変読みやすいです。
色々な街で「カタリコベヤ=語り小部屋」という小さな空間を持ち運び、この閉鎖された小さな空間で
有料で、一人の人間に中に入ってもらったうえで、自由に言いたい事、胸に秘めている思い、
口に出したいけど・・言葉にしたいのだけど、他人に聞かれたくない事などを一人っきりスペースで自分自身に
語ってもらうというストーリーなのです。
このカタリコベヤの管理人=ミドリさん・ユズルさん親子の設定が淡々と描かれているのが実にいい味を出していると
思います。
あ、この話は別に悩み相談とか、その口に出したいけど他人に聞かれてもらっては困る話の内容
という具体的な話ではなく、その語り小部屋を巡る周囲の人達の話と言う
ものです。
最初にこれを読んだ時、単純に発想が面白いと感じたものですし、
登場人物の何かあまり現実感がないふわーっとした感覚に何だか自分自身も物語の中に
入り込んでしまったような錯覚を感じたものです。
だけどこの主人公も、婚約者との婚約破棄・背中の痛みなど決して現実感が全くないという
ものではないのですが、その現実感を生々しく感じさせない所がこの作者のスゴイところ・・・
ストーリーの本質とは外れてしまうかもしれませんが、
「語り小部屋」という発想には色々と考える事がありました。
確かに人は、他人にガツーンと本音をぶちまけてやりたいけど、今後の人間関係等を
考えるとそれが出来ない時、
誰かに自分の本心を打ち明けたいのだけど、それを語る相手がいない時など
この「語り小部屋」というものは有効なのだなーとも思ったのも事実です。
結局は、人間と言うものは、最終的に本音を語る事が出来る相手と言うのは自分自身だけ
そんな暗示も本作品ではしているのかもしれません。
最後には、この語り小部屋自体、次の街への移動という事である日突然消滅し、
呆然としている主人公で終わらせているのですが、
これも何か「人の最終的な孤独」を暗示しているのかもしれません。
(この辺りも・・・前述の小川洋子さんの特徴の消失感を見事に描いていると思います)
小さな部屋に閉じこもって語るべき事とは一体何なのだろう・・・
それは「自分との対話」という事になるのでしょうけど、
そもそも「自分」ってどんな存在なの・・・??
色々と何か思いが交錯する小説ではありました。
心理学的に「カタルシス作用」っていうものがあるそうです。
人は「喋る」事によって、本音をさらけ出すことによって、気持ちが楽になるという事らしいです。
(凶悪犯が取り調べの際、自白すると死刑になってしまう可能性がある反面、白状する事で
気持ちをスッキリ出来るというのと同じ理屈)
だけど、その本音を誰にも語る事が出来ない時、どうすれば良いのか・・・
そういう時にあの「カタリコベヤ」があれば・・・
だけど・・・
小説内でも示唆されていましたけど、カタリコベヤに頼り過ぎてもロクな事にはならない・・・
(だからこそ、ラストシーンはカタリコベヤの消滅というシーンで閉じられているのですけどね・・・)
主人公の「わたし」が、物語の後半で、六角形の小部屋で独白するシーンは大変長いのですけど
とっても素晴らしい部分です。
あの独り言は・・・言いたい事はよーく伝わってきました・・・
あの部分はカギカッコが無い為、主人公のつぶやきと他の文章がすーーーっと一つに溶け込んでいくような
錯覚すら覚えた程です・・・
「六角形の小部屋」の中で、ひたすら「自分との対話」を進める・・・
あのカタリコベヤの中で、誰も聞いていないのに、たたひたすら延々と自分が話したい事、自分の胸に秘めていた事を
ひたすら語り続ける。
ヘンな話ですけど、こうやってプログで「何か」を書くという事は・・・
そのカタリコベヤでの行為と大して変わりが無い様な錯覚すらあります・・・
カタリコベヤという六角形の小部屋の中で語った事は、そもそも誰も聞いちゃいないし、元々誰かに聞かれては
困るようなお話だと思います。
だけどこうした「ブログ」というものは・・・
前提としては誰に読まれてもおかしくないものですので、そこに決定的な違いはあるとは思います。
だけど・・・ブログをこうやって書いている人は、基本的に「プログを読まれている方」が誰なのか見えないものだし、
ネット特有の「匿名さ」を背景に、かなりの自分の「心の本音」をやりかたによってはうまく語る事が出来るという意味では、
やはのこの「カタリコベヤ」と被る部分は感じてしまいます。
そういう意味では「本音を語る・・」→「誰かに私の心の叫びを聞いて欲しい!!」という意味では・・・
プログも小川洋子さんの「六角形の小部屋」のお話は・・・
結構共通項はあるのかもしれませんよね。
小川さんがこの小説を執筆されていた頃は、まだ今ほどネットが広まっていないころだから、
ある意味・・・
何かこう・・・「時代の先駆け」みたいな感覚も・・・もしかしてあったのかもしれませんよね
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小説は本当に受け取る人によって、全く違った印象になりますよね。思うにそれは、読んでいる人が自分の体験や感性や性格をフィルターにして小説を読んでいるからだと思います。
特に感性に訴えかけてくるような小説は、読後の感想が人によって全く違うかもしれません。
それにしても、自分の本音をさらけ出せる部屋ですか。欲しいような欲しくないような感じですね。話すと確かに気は楽になるのでしょうが、それでも自分の中に閉じ込めて黙して語りたくないこともあったりします^^;