先月の終わりでしたけど、当ブログの吹奏楽カテゴリにおいていつも大変貴重なコメントを頂いております
一秋田県民 様より
「1970年代~90年代において、秋田県立花輪高校吹奏楽部と秋田南高校吹奏楽部を指導され、
全国大会で数々の名演を残された小林久仁郎先生が急逝された」との大変貴重な情報を頂き、
このブログでもかなり執拗に花輪高校吹奏楽部の偉大なる軌跡を語らさせて頂いた私としては、
とにかくショックなお話であり、
正直・・3~4日程度は茫然自失としてしまい、
正直、いつもの感覚でブログ更新記事を書く気持ちにはとてもじゃないけど到底なれなうにもありませんでしたし、
小林先生には「感謝」の気持ちしかない私としては小林先生の訃報が信じられない気持ちで一杯だった事もあり、
結果的に5日程度でしたけど、当ブログの更新を一旦止めて
喪に服すという事で、小林久仁郎先生に対して哀悼の意を表させて頂きたいと思い、
先月下旬からブログ更新及び皆様のブログへの訪問等は自粛をさせて頂いておりました。
本日よりここに改めて当ブログを再開させて頂きたいと思いますので、どうか今後とも何卒宜しくお願いいたします。
当ブログの開設の目的の一つが、吹奏楽コンクールにおける過去の素晴らしい演奏を聴かせてくれ、
私に大きな感銘を与えてくれた花輪高校・秋田南高校・仁賀保高校・就実高校・屋代高校・市立川口高校などの演奏を
「私はこのように感じ、そうした素晴らしい演奏を聴かせてくれたチームの事をブログという構成に残る形で
何か記録として残しておきたい」と言うものでありましたけど
(現在においては、アミグリさんが描かれた東方イラスト等の作品を少しでも多くの人たちに見て欲しいという目的も
あったりします・・)
一秋田県民 様! そうした貴重なお話をいち早く教えて頂けた事を深く感謝いたします!
本当にありがとうございました!
それにしても小林先生のご逝去のお話は本当に心の底から残念に感じておりますし、
「まだお若いのに・・・これからもっともっと日本の吹奏楽界の発展にご尽力して欲しかったのに・・」という
大変哀しい気持ちでいっぱいですけど、
とにかく、小林久仁郎先生のご冥福を心よりお祈り申し上げたいと思います。
そして改めてですけど、当ブログで出来る事はほんのちっぽけで小さい事なのだとは思いますが、今後とも
花輪高校や小林先生の事は当ブログでも発信し続けさせて頂きたいと思いますし、
それが当ブログの一つの「使命」であるとも考えておりますし、
小林先生に対して私が出来るほんのささやかかな事ではありますが「供養」にもなるのだと考えております。
今更書くのもなんですけど、秋田県立花輪高校吹奏楽部は本当に偉大ですよね・・・!!
このブログでも既に何度も何度も何度も繰り返し書いているのですけど、
私が「クラシック音楽の深い森の中」に迷い込むきっかけを作ってくれたのが
1982年の全日本吹奏楽コンクール・東北大会の花輪高校のウォルトン/交響曲第1番第四楽章の
圧倒的名演に心の底から感銘を受けたという事実なのですけど、
ウォルトン以外でも例えば・・・
ハチャトゥーリアンの交響曲第2番・同/交響曲第3番「シンフォニーポエム」
プロコフィエフの交響曲第3番
ベルクの三つの管弦楽曲
シチェドリンの交響曲第2番
ブリス/バレエ音楽「チェックメイト」
ラフマニノフ/交響曲第1番などは、全て花輪高校の吹奏楽コンクールの演奏がきっかけとなって
「花輪の演奏素晴らしいな・・・ではその原曲はどういう感じなんだろう・・」と色々と興味を持っていったのが
まさに始まりでしたし、それを起点にして、
「それ以外にこの作曲家はどんな曲を残しているのかな・・」
「この時代、他にはどんな作曲家がいたのかな・・」と
クラシック音楽の入り込む「きっかけ」を私に作ってくれたのが、この花輪高校吹奏楽部なのだと今でも思っていますし、
それゆえ、私は永遠に永遠に
「花輪高校吹奏楽部よ、永遠なれ!!」とか「花輪高校を指揮・指導されていた小林先生こそ永遠なれ!」
といつでも・・・そして今でも・・・心より遠き埼玉の地よりエールを送り続けています!!
それにしても花輪高校の吹奏楽コンクールでの選曲は本当に素晴らしいものがありますよね!!
「え・・・その作曲家、誰・・・?? 聞いた事が無い・・」
「ガジペコフって誰・・?? シチェドリンって誰・・・? ハチャトゥーリアンの鐘って・・何それ・・・初めて聞いた・・・」
「ウィリアム=ウォルトンって何者・・・??」
「プロコフィエフの3番なんて・・・聴いた事すらない・・・」
みたいな反応は演奏当時もかなり多かったと思いますし、小林先生が花輪を指揮されていた頃と
私の現役奏者としての吹奏楽時代はほぼ丸ごと重なっていますのでリアルタイム当時から
「花輪ってあの選曲凄いよね・・」とか
「どっからあの選曲の情報を仕入れてくるのだろう・・」とか
「だけど・・・花輪って少しというか・・・・かなりヘンだよね・・・、ま・・個性が極端に強いというか・・・」
というような声は、小林先生の在籍時から、色々な所で耳にしていましたので、
改めて小林先生はすごい先生だったのだな・・とその「偉大さ」をつくづく感じてしまいます。
何よりもあの花輪高校特有の響きは大変洗練されデリケートに美しく響く幽玄なサウンドながら、
時に豪快に、時に荒っぽく、時に咆哮し激高する等、その自由自在な表現も大きな魅力だったと思います。
花輪高校吹奏楽部は1978年の小林先生赴任以前も既に吹奏楽の名門校という立ち位置ではありましたし、
佐藤修先生時代のあのとてつもなく地味な選曲&渋すぎる表現力も大変魅力的ではありましたけど、
花輪高校を更にさらに大きく飛躍させたのが小林先生の赴任なのだと思います。
小林先生は赴任一年目から、いきなり、ラフマニノフ/交響曲第1番第四楽章という
当時誰も目にも留めなかった曲でいきなり全国大会金賞を掴みとってしまいますが、
1979年の2年目のショスタコーヴイッチにしても、自由曲の定番中の定番の交響曲5番ではなくて、
交響曲第1番を選ぶあたり、小林先生の目の付け所の確かさを感じてしまいます。
1980年のハチャトゥーリアン/交響曲第2番「鐘」も81年のプロコフィエフ交響曲第3番も
どちらも第一楽章を選びながら、
ラストにおいては、第四楽章の終結部を巧みに結合させてしまう辺りに、その大胆さと音楽的センスを
感じてしまいます。
(そうそう、小林先生はクラシック作品を吹奏楽用にアレンジされる事にも大変素晴らしき才能を発揮された先生であり、
事実、小林先生が編曲されたハチャトゥーリアンの交響曲第3番「シンフォニーポエム」はいまだに全国大会でも
演奏され続けられています!)
そして1982年に演奏された曲が、このブログでも腐るほど書いてきたあの伝説的名演のウォルトンの交響曲第1番
だったのです!!
そして1983年が、吹奏楽コンクールで初めてベルクという「無調音楽」に果敢に取り組まれ普門館の聴衆の度胆を抜き、
翌年の1984年には、花輪高校=小林先生のコンビが最高潮に高度に発揮され、
普門館における「後世の歴史に間違いなく残るハチャトゥーリアンの交響曲第3番」の歴史的名演だったのです!!
(1985年・1987年・1989年はコンクールの評価としては銅賞という結果になっているのですけど、
この事は既に何度も記事にしてはいるのですけど、あの演奏・・特に1985年の銅賞というのは、絶対に信じられない
不当に低い評価であり、私はあの素晴らしいガジべコフの演奏が銅賞というのはいまだに納得がいっておりません!!)
いやいや・・・改めてですけど、小林先生=花輪高校は、とにかく「伝説」ですね!!
ブレーン社から出ている「レジェンダリーシリーズ」の花輪高校編を聴くと、とにかく花輪の偉大さが
ご理解して頂けると思います!!
私自身は、これまでの記事で散々書いてきたとおり、中学一年から吹奏楽部に所属し大学4年まで通算10年間
吹奏楽に関わっていましたけど
(厳密に言うと、小学校の管楽器クラブの打楽器奏者時代を含めると通算12年なのかな・・?)
中学校時代の顧問の先生の上から目線的な音楽の強制的押し付けや部員の大量退部事件等正直嫌な事ばかりの
連続で、中学を卒業する頃は、「大の音楽嫌い・大の吹奏楽嫌い」になっていて、
高校入学以降も惰性と言うのか腐れ縁みたいな感じで吹奏楽は続けていましたし、どちらかというと
中学も高校の頃も「吹奏楽部部長」という嫌な役割を押し付けられていたというせいもあったのですけど、
義理とか義務感みたいな感じで吹奏楽部員をマンネリ化みたいな形で続けていたという事なのかもしれません。
あの頃は、特段、音楽とかクラシック音楽等にも実はあんまり興味も関心もなかったのですけど、
それをほぼ完璧に一掃させてしまった出来事というのが、
1982年の全日本吹奏楽コンクール・東北大会における花輪高校吹奏楽部のウォルトン作曲/交響曲第1番第四楽章の
あまりにも圧倒的な名演、そしてあの「孤高の音楽」に感動してしまった事でして、それをきっかけにして
「この花輪高校が自由曲に選んでいたウォルトンの交響曲第1番って原曲はどんな感じの曲なのだろう」とか
「花輪が自由曲にしていた第四楽章以外の第一~第三楽章はどんな感じの音楽なのだろう・・」とか
「花輪高校はこの年以外には過去にどんな演奏をしていたのだろう」と
どんどん花輪高校吹奏楽部とかウォルトンとかウォルトンが生きていた20世紀周辺のクラシック音楽の概略等に
興味を持っていき、
結果的にあの演奏が私を「クラシック音楽の深い森の中」に迷わせてくれる最大のきっかけを作ってくれたのだと言っても
過言ではないと思います。
交響曲というと例えばベートーヴェンの交響曲第5番「運命」とかショスタコーヴィッチの交響曲第5番とか
ブラームスの交響曲第1番などのように、一般的には、苦悩から歓喜へ 暗から明へ 敗北から勝利へというのが
古今東西の交響曲の一つのパターンだと思うのですが、
このウォルトンの交響曲第1番の場合、確かにフィナーレの第四楽章は
ティンパニ奏者2名による連打・金管楽器の高らかな雄叫び・咆哮など歓喜みたいな要素も確かに少しはあるのですが、
全体的な印象としては、勝利・歓喜という感じはしませんし、
「よーーし、これを聴いてスッキリした!! 明日からも頑張るぞ!!」みたいな応援シンフォニーでは全くありません。
むしろ不安感・危機感は今後も継続されていくという「警告」みたいなメッセージを感じ取ってしまいます。
だけどこの交響曲の「緊迫感」は凄まじいものがあると思います。
作曲は第二次世界大戦の直前ですので、
当時のイギリスの状況、例えばヒットラーの台頭とかイギリスのチェンバレン首相の
対ドイツ融和政策によってチェコ分割を黙認したことでかえってヒットラーの台頭を
許してしまったとか、後任者チャーチルのドイツとの対決姿勢とか相当な危機感・緊張感はあったと思います。
それが何となく曲にも反映されていると思いますし、
戦争は終結しても人のココロの暗闇は永遠に続くみたいな思いはあったのかもしれません。
現代を生きている自分たち自身も、、
超高齢化社会・財政問題・外国の脅威・未来の日本の姿が明確に提示されないなど
「不安」は際限なくあると思いますし、そうした不安がなくなるという事は絶対にないと思います。
それではそうした「不安」にはどう対処すればよいのか・・
結局は「不安」には「日常的な危機意識」を持って備え、対処するしかない・・・
「不安」には「不安」を持って対処するしかない・・・みたいな事を伝えているようにも感じられます。
そういったことを何となく示唆しているようにも感じ取れます。
この交響曲の原曲全楽章の演奏を初めてレコードで聴いた時、
当初予想していた「第二次世界大戦前夜における全体主義国家対民主主義国家の対決・・・そして最終的には
民主主義国家が勝利を収める事への讃歌」みたいな「歓喜の曲」ではなくて
救いようも無い「孤独」みたいなものは既に感じ取っていました。
民主主義国家が全体主義国家に対して戦争で勝利を収めたと言っても、
結果として全世界の住民がハッピーな結末や人生を迎える事が出来たかと言うと、その質問は限りなく
「No!!」に近いと思いますし、
戦争の勝利が必ずしも国民全体の幸せに直結しないという皮肉は、連のショスタコーヴィッチなんかも
随分とそうしたメッセージを曲の中に盛り込んでいるようにも感じられます。
何だろう・・・
この交響曲が伝えたかった事って・・・
うーーん、その答えは・・この交響曲を聴く度に何か毎回違う答えが出て来ているような感じもありますし、
色々な「答え」がありそうな気がします。
戦争が終わったとしても次から次へと世界的に難題が降りかかり
結局は安息の場所はこの世にはないんだよという事をメッセージとして伝えたかったのかもしれません。
音楽としても、現代人が抱える不安感には、音楽としてこれに対処するには、結局は・・・
「不安感」を感じさせる曲でもって対処するしかないというメッセージなのかもしれません。
そうした「不安感」を抱えながらも・・・結局は自分達は生きていく必要があるんじゃないの・・?みたいな事を
もしかしたらウォルトンは後世の私たちにメッセージとして伝えたかったのかもしれないですね。
バーンスタインにも戦後間もない頃の作品に、交響曲第2番「不安の時代」という作品が
ありますが、この曲のテキストに選ばれたのが、オーデンという詩人の「不安の時代」という詩でした。
この詩自体は、現代人の抱える不安を解決策を特に提示することなく綴っていき
ラストも「孤独」を抱えたまま、各自の生活に戻っていくという内容の物だったと思いますけど、
バーンスタイン自身は、その辺りをバーンスタインなりに拡大解釈したというのか、
この交響曲第2番「不安の時代」のラストは、原作では想定されていないハッピーエンド風に仕上げています。
この辺り、不安には不安を持って対処するしかないと解釈したウォルトンとえらい違いが
あるような気がしますし、お国柄の違いというのもありそうですね。
何となくですけど、日本人の感覚としては、バーンスタインよりはウォルトンの方が合っているような感じも
あります。
ウォルトンの交響曲第1番は、第一楽章の冒頭からとてつもない「焦燥感」を駆り立てられての展開です。
何か「目に見えない不安」に怯えているかのような感じが大変印象的です。
冒頭のオーボエの寂寥感が既にこの交響曲第1番の世界を象徴していると思いますし、
ティンパニーの打音やホルンの雄叫びも既にあの壮絶なフィナーレを先取りしているような雰囲気も
あったりします。
作曲者自身が「悪意を込めて」と名づけた第二楽章
ホルンの雄叫びと何となく「春の祭典」を想起させるメロディーが印象的です。
何て言うのかな・・・
「何かに取りつかれた様な」感覚というものが伝わってくる楽章ですね。
感覚としては、やはり「春の祭典」の「いけにえの乙女」の壮絶な絶叫みたいに・・
何か「逝っちゃっている・・」みたいな感覚が強い楽章ですね。
というか交響曲の楽章に「悪意を込めて」みたいなタイトルが付けられている事自体、この交響曲の特異性が光っていると
思います。
第三楽章はメランコラリックな音楽ですけど、やはりそこには「平穏」・「安住」が入り込む余地は全く無いと思います。
全体的にフルートソロが大変印象的です。
そして、第三楽章のメランコリーがあるから、やはりあの壮絶極まりない第四楽章が生きてくるのだと思います。
第四楽章が高らかに開始され、金管セクションのファンファーレみたいなコラールが始まると、
私はこの部分だけで既に瞳うるうる状態に陥ってしまいそうな感覚になったりもします。
この楽章からティンパニ奏者が2名となり、中間からラストにかけてのティンパニ奏者の活躍には目を見張るものがあります。
フィナーレの第四楽章は
ティンパニー奏者2名による打撃連打・金管楽器の高らかな叫びなど聴きどころも満載ですし、
とにかく迫力満点の楽章なのですけど
前述の通り、この高らかな叫びが全然「救い」や「爽快感」になっていないのはある意味凄い事だと感じます。
ティンバニ奏者2名による打音の連続とかドラの咆哮、金管セクションの高まりが「これでもか!!」とばかりに続き、
一旦オーボエソロによって静かに回想される場面があるのですけど
このオーボエの「魂の孤独」・「寂寥感」には、いつ聴いても何か胸にこみあげてくるものがあります。
そしてこのオーボエソロの前にもトランペットのやはり寂しげなソロがあるのですけど
この部分も「魂の孤独」みたいなものを感じずにはいられないです。
さてそうしたウォルトンの交響曲第1番第四楽章を自由曲に選んだ花輪高校の演奏は果たしてどんな感じだったのかと
いうと、とにかく「壮絶!!」の一言に尽きると思いますし、そこに当時の私が「何か」を感じたからこそ、
花輪高校=小林先生のサウンドに一気に引きずり込まれたのだと思います。
とにかくあの花輪高校の演奏は本当に素晴らしかったですし、あの演奏から既に35年の歳月が経過しているのですけど、
私は今でもあの時の花輪高校の演奏とか小林先生の指揮ぶりは
鮮明にはっきりと覚えています。
勿論細かいところまでは記憶には残っていないですし、この演奏、録音等は支部大会の実況録音という大変音響と録音が
芳しくないLPレコードしか存在していませんし、このレコード自体生産枚数が極めて少なく、
このレコードを所有されている方はほとんどいないんじゃないのかな・・?とも思われます。
ちなみにですけど、この花輪高校の演奏は、幸いなことに今現在は「You Tube」でUPされていて、
正直大変音質は悪くて音がモノラルみたいなこもりがとではあるのですけど、それでも大変貴重な記録を残してくれているのは
大変ありがたいものがあったりもします。
課題曲B/序奏とアレグロの厚い響きとアクの強い演奏も素晴らしかったですけど、やはり圧巻は何と言っても
自由曲のウォルトンの交響曲第1番でしたね!
前述の通り、この時点の私は、ウォルトンという作曲家もこの交響曲もこの曲が作られた背景も
全然何も知りませんでしたし、何よりも当時の私は特段音楽にも吹奏楽にも強い関心も興味もありませんでした。
だけどこの演奏は、そんな当時の「音楽について何にも知らなかった私」にとてつもない一撃を与えてくれたと
思いますし、そんな私に間違いなく「何か」を伝えた演奏であったのは間違いないのだと思います。
この年の花輪高校は、とにかく金管セクションが大変充実していて、大変分厚い響きを
聴かせてくれたのですが、この分厚い響きが実にこのウォルトンの不安感・焦燥感・
「不安には不安を持って臨むしかない」という危機感という曲想に実にマッチしていて
重厚長大でスケールの大きな演奏を聴かせてくれました。
後半のティンパニ奏者2人による叩き付けも打点が見事に決まっているので、実に効果的でしたし、
後で振り返ってみると、ニールセンの交響曲第4番「不滅」のティンパニー奏者2人による轟音に非常に
近いものがあったようにも思えます。
学ランを着たトランペット奏者の凄まじい咆哮もよーく覚えています。
吹奏楽コンクールの打楽器の位置って比較的ステージの左側に配置される事が多い中、
花輪高校は打楽器セクションを舞台の一番奥の正面に配置させ、確かティンパニは
左側に位置していたと記憶していますけど、あの二人の奏者の神がかった叩き振りは本当に素晴らしかったと思いますし、
(ティンパニ奏者2名は私の記憶では男女のペアだったような記憶があります・・)
小林久仁郎先生の独特なアプローチもありましたけど、
あそこまでウォルトンの「孤高な世界」・「不安感には不安をもって対処する」みたいな
厳しい世界観を表現できたのは凄い事だと思います。
ウォルトンの交響曲第一番は、私も原曲をプロの管弦楽団で何度か聴いたことがありますけど、
大友直人指揮/東京交響楽団の演奏は、まさにそうしたウォルトンの世界をほぼ完璧に
表現されていて大変感銘を受けましたが、
アマチュアの高校生チームが「吹奏楽」というアレンジ演奏でも、あそこまでウォルトンの世界を表現していたのは、
あまりに凄すぎると思いますし、そうした県立高校の普通の高校生を指導されここまで高度に音楽的に仕上げられた
小林先生のご苦労には心から頭が下がる思いで一杯です。
よくここまで普通の高校生が、プロの管弦楽団でも聴衆に何かを伝える事は難しいあの交響曲をここまで
音楽的に仕上げる事が出来た事はまさに「奇跡」なのだと私は思いますし、
そうした奇跡のような演奏に出会えたあの「ご縁」に私は今でも感謝という言葉しか出てこないです。
花輪高校のあの演奏を聴いて、熱いものは感じたし、同時に不安感も感じました。
やるせないものも感じました。
だけどそれは当たり前なのですよね、そういう不安と危機感と不安に対する挑戦みたいなものが
この曲の背景にあるのですから・・・
とにかく演奏終了後は、心の底から「感動した!!」という思いで一杯でした。
事実、この年の東北大会の審査員の一人でもあり、プロの管弦楽団でもこきおろしちゃう激辛口評論でお馴染みの
あの上野晃先生をもって「この日の演奏の白眉」と最大限高い評価をされているのも
全く頷けるものがあると思います。
だけど、残念ながらこの素晴らしい演奏は、まさかのダメ金で終わり、全国大会に駒を進めることは出来ませんでした・・・
審査結果を聞いて大変ショックでしたし、
同時に、「自分が感じた結果が世間の評価と必ずしも一致する訳ではない」と悟った瞬間でも
ありました・・・
この年の東北大会の高校の部の全国大会代表は、私の審査の中では、花輪・仙台第一・仁賀保というものでしたけど、
実際の代表は、仙台第一・仁賀保・秋田南でした・・・
(仙台第一は東北大会ではあんなにも素晴らしい演奏をしていたのに、全国大会ではとてつもない凡演で終わってしまい、
花輪を東北大会で抑えて全国代表になったのにこの体たらくかよ・・と当時ガッカリしたものでした・・)
それにしても花輪高校のウォルトンの一番を是非全国大会の普門館で聴いてみたかったです!!
と今でも時折心をかすめる瞬間はありますね・・・
あの花輪高校の感動的な演奏は是非是非普門館の皆様にも聴いて欲しかったです!!
1982年の東北大会のレベルは恐ろしいほど高かったと思います。
もっとも当時の私は、前述の通り吹奏楽というか音楽全般の知識とか経験とか全然無かったものですから、
恐らく当時はどんな演奏を聴いても
「へえー、すごーい!!」と感心していたようなものでしたから、
現在の肥えた(?)耳から聴いてしまうと
「大したことない・・」という印象になるのかもしれませんけど、
耳がまだ肥えていない時期に聴いたレベルの高い演奏だからこそ、
後に及ぼした影響と言うのか、インパクト・感銘度は今とは全然違う感じなのかもしれませんよね。
いずれにしてもこの日聴いた素晴らしい演奏の数々ほど後の私自身に多大な影響を及ぼしたものは無いと思います。
自分が大好きな交響曲を三つあげなさいと言われれば
〇プロコフィエフ/交響曲第5番
〇矢代秋雄/交響曲
〇ウォルトン/交響曲第1番
と迷わずにあげてしまうのですけど
実はこの三曲とも、この1982年の東北大会で演奏されたものなのです。
吹奏楽編曲版という変化球なのですけど、
それを聴く事によって、その曲に興味を持ち
「それでは原曲はどんな感じの曲なのだろう・・・」
「他にどんな作品を残しているのだろう」
「同時代にどんな作曲家がいたのたろう・・・」
「この曲に影響を与えた人の作品にどんなものがあるのか・・」など
自分がクラシック音楽の深い森に迷い込むきっかけを作ってくれたのがこの東北大会と言っても
全然過言ではありません。
東北大会の高校の部は、長い人生の中では「たった一日」なんでしょうけど
後世への影響度という意味では、この東北大会を聴けた意義は自分の中では相当大きいと
今でも思っています。この日の東北大会の演奏によって自分の中の何かが変わったという事は
間違いなくあると思います。
余談ですが、
この日の東北大会を聴きに行った私自身は、何かある意味ハイな状態でした・・・
東北大会・高校の部は10/2だったのですけど、
その前月は私自身が吹奏楽コンクール県大会に臨み、それが終わるとすぐに文化祭のステージ、
そしてそれが終わるとすぐに学校の中間試験、
そして試験の翌日から5泊6日の北海道への修学旅行・・・
何か色々と行事が立て込んでいました。
そして修学旅行も、9/30の夕方に苫小牧でフェリーに乗り込み
翌日の10/1の昼過ぎに仙台港に到着したのですが、
あいにく海の天候が芳しくなく、船の上では終始ユラユラしていました。
その関係で半分以上の生徒は船酔いでゲロゲロ状態・・・
私は船酔いは全然平気でしたけど、寝る場所も大部屋の雑魚寝状態でしたので、ほとんど眠れないまま朝を迎え
生まれて初めて海上から昇る太陽を拝めることが出来ました。
フェリーから降りても、三半規管が完全に麻痺状態となっていて、
目をつぶってじっとしても何か体が上下に揺れる感覚が残っていて
何かすごーくヘンな感覚でした。
そうした状態は翌日の東北大会の際も続いていて、
感覚としては、「体はものすごーく疲れているのに頭というか感覚だけは妙に敏感」という感じで
妙に神経だけ鋭角という状態でした・・・
ま、この辺りも多少色々と影響はあったのかもしれませよね・・・
演奏を聴いていても、やはり微妙に体が上下に揺れるという感覚も残っていましたしね・・・
更に余談なのですが、
東北大会から家に戻ってみると
母親が「自宅の電話が先ほどから鳴りっぱなし・・・」との事
(当時は携帯電話も何もない時代で連絡方法は固定電話だけでしたね・・・)
聞いてみると電話の相手は、吹奏楽部関係者、顧問の先生、応援団という事で
「まさか・・・」と思っていたら
何と野球部が、宮城県の秋季大会でまさかまさかの準決勝勝利で
翌日の10/3に東北高校との宮城県大会の決勝戦があるとの事で、吹奏楽部も応援演奏に来てほしいとの事でした・・
そして、翌日決勝戦の応援に行ったのですが、
(東北高校は野球部の名門で、ダルビッシュもかつて所属した強豪校です・・・)
一回の表にうちの高校が1アウト三塁から犠牲フライで入れた一点を何と守り抜き
まさかまさかの優勝をしてしまったのです・・・
確か、うちの高校のヒット数は1~2本程度、東北高校は10本以上打っていて、毎回毎回ピンチの
連続だったのですけど、
犠牲フライのタッチアップのタイミングを間違えて走者がアウトになったり
走者がアウトカウントを間違え、ベンチに戻ろうとしてアウトを宣告されたりなど
信じられない幸運もありましたけどね・・・
何か色々な意味で「青春していたなー」という感じの思い出ですね・・・(笑)
余談ですが、春の選抜甲子園の代表校を決める東北ブロックの秋季大会では
見事に一回戦で大惨敗を喫してしまい、
あこがれの甲子園出場は「夢」と終わってしまいました・・・
やはり宮城大会の東北高校との決勝戦は出来過ぎでしたね・・・(笑)
なんか話がそれまくりになってしまいましたけど、まとめると、1982年の東北大会までは
音楽に何の興味・関心も無かった私が、クラシック音楽という深い森の中に迷い込むきっかけを作ってくれたのが
小林先生が指揮指導されたウォルトンの交響曲第1番の演奏を聴いた事なのです。
歴史に「もしも・・」という仮定はNGだというのはよく分かってはいるのですけど、
もしも私があの年の小林先生が指揮されたあの演奏を聴かなかったとしたら、私はもしかして今でも
吹奏楽とかクラシック音楽の事なんか「別に・・確かに昔ちょこっとやっていたけどただそれだけ・・特段興味もない」という
認識で終わっていたのかもしれないだけに
やはり小林先生が私に与えた影響はとてつもなく大きいと言えるのだと思いますし、
そうした私の音楽上の大恩人ともいえる小林先生のご逝去はとてつもなくショックなお話ではあるのですけど、
とにかく先生のご冥福を心よりお祈り申し上げたいと思いますし、
私はこれからも花輪高校と秋田南高校を指導指揮されていた小林先生の存在は、私自身が彼岸の彼方に
旅立つ瞬間まで忘れる事は無いと思います。
- 関連記事
-
スポンサーサイト
コメント失礼します(>_<)💦
時代と共に、名指導者達が1人ずつ旅立って行きますね(>_<)💦
小林久仁郎先生も、これまでにはない選曲で、吹奏楽の新たな魅力を引き出してくださいましたね(^^)
ずっと変わらないですが、音色効果のある派手な曲で勝負するのではなくて、内相的な曲で戦って来たのは素晴らしいと思いますし、時代の先駆者だと思いますね(^^)
ただ、時代が早過ぎてデビューから約10年経って評価された大瀧詠一や山下達郎の様な感覚もありますね(>_<)💦
(余談ですが、私自身が小学生時代に熱中して聴いていたのが山下達郎のサンデー・ソングブックだったのを懐かしく思いますね(笑))
吹奏楽界に新しい風と響きを伝えて下さった小林久仁郎先生の訃報を心からお祈り申し上げます(´;ω;`)
小林久仁郎先生、有難うございました(´;ω;`)