25.富山商業高校
D/祝典序曲 (D.ショスタコーヴィッチ)
富山商業と言うと、オールド吹奏楽ファンの私ですと、やはりどうしても坪島先生時代のあの素晴らしい名演の数々を
思い出してしまいます。
1980年代における北陸代表の高岡商業と富山商業の両校は、高校野球でも代表枠をかけて熾烈な闘いを
していたと思いますし、
吹奏楽コンクールにおいてもこの両校は、まさに「北陸の両雄」という言い方が大変相応しいようにも
感じられますし、両校とも金管セクションが大変よく鳴って伝統的に金管楽器が強いという共通点もありましたし、
1979年まで北陸支部の全国大会代表枠が1つの時代の頃は、この両校がその唯一の代表枠を掛けて
北陸大会で毎年毎年激烈な代表争いをしていて、それが両校の素晴らしき切磋琢磨に繋がり、
結果として両校の後世に残る素晴らしい名演の数々を呼び込んでた一つの要因にもなっていたような気がします。
1982年においてこの両校に割り込むような形で全国大会代表を掴みとった金沢二水高校は、まさに大金星と
言えるような気もしますね・・・(笑)
富山商業は、1981年~83年の三年間は、全国大会金賞受賞という好成績を残していましたが、
その中でも特に1982年の「ロメオとジュリエット」の劇的なドラマと83年の「冬の日本海の冷たさ」を示唆するような
素晴らしき感受性は大変素晴らしいものがあったと思います。
84年の「ハーリ=ヤーノシュ」も、確かに音量過剰な面も無きにしも非ずなのですけど、やはり金管セクションの優秀さを
「これでもかっ!」と見せつけてくれていましたが、評価としては全国大会銀賞という結果になってしまいました。
(あの年の閉会式における審査結果発表の際は、富山商業と淀川工業の銀賞と言う結果がアナウンスされた時の
普門館の会場内の空気を覆ったあの「ええっーー」というどよめきとブーイングは今でもはっきりと
覚えていますね・・)
「何であれが銀賞なの?」と思うハイレベルな演奏ですし、
88年のロメオとジュリエットも82年の名演を超越しているようにも感じられるかなり劇的で高水準な演奏です。
だけど結果として富山商業は、1984年~88年の5年間は、評価としては全て銀賞に留まり、結果として
この5年間は金賞から遠ざかる事になっていました。
(私個人の感想としては、85年~87年の3年間は、どことなく坪島先生にも「迷い・・」みたいなものがあったようにも感じられます)
この年、1989年の富山商業の自由曲は、ショスタコーヴィッチの「祝典序曲」という
1970年代の中学の部を連想させるような選曲ですし、どちらかというとジュニアスクールバンドの定番の自由曲という
感じもあり、曲としては大変シンプルでわかりやすく底抜けに明るい曲であるのですけど、
この時代としては、正直・・「この曲はどちらかというと全国大会で高校の部で演奏される曲ではないよね・・」
みたいな雰囲気もあったような気もします。
だけどあえて富山商業という名門校があえてこうした自由曲を演奏する事の意味と言うのは、
「名門校が原点に立ち戻る」というようにも私には感じられ、原点に一度戻る事で「温故知新」みたいな感じを取り戻し、
自分たちがかつて目指していて得意だったもの・・例えば、明るさとか豪快さを
改めて見つめ直していたようにも感じられたものでした。
そして結果としてそうした試みは大成功のうちに終わり、課題曲も自由曲も、何の迷いもなく
それまでの迷いとか5年連続銀賞という富山商業にとってはある意味中途半端な感じを全て吹っ飛ばしてくれる
大変いい意味で開き直り吹っ切れた素晴らしい演奏を普門館の聴衆に遺憾なくお披露目されていたのは
とても素晴らしかったと思います!
特に自由曲の「祝典序曲」はもあの快速なテンポと明るさは素晴らしかったです!
結果論になりますけど、坪島先生が普門館で北陸代表として演奏されていたのはこの年が最後のものとなってしまい、
1991年の北陸大会をもって坪島先生はご勇退をされてしまいますが、
最後の普門館、最後の金賞受賞の演奏になりましたけど、その「最後」を飾るのに相応しい
本当に見事な演奏を後世の私達に残してくれていたと思いますし、あの「祝典序曲」の快速さは
賞賛に値するものがあると思います!
クラリネットのパッセージは大変だと思いますが、
シンプルな曲を大人の技術でゆとりを持って吹きこなすという感じの演奏だったと思います。
ある意味、王道の演奏とも言えるのかもしれないですね!
それと一つ指摘をさせて頂きますと、冒頭のファンファーレを再現するために怒涛のように突進する形の中で、
その後半部分のファンファーレの再現の直前部分において、大変細かい音符が連続する箇所があるのですけど、
多くのチームはあの部分は比較的スタッカート気味に吹いていた傾向がある中、
富山商業はレガート気味に解釈して吹いていたのは、富山商業としての「個性」も感じたものでした!
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ここから先は少し余談です・・・
改めて上記のショスタコーヴィッチの「祝典序曲」について簡単にフォローさせて頂きたいと思います。
この曲の構成はとてもシンプルで
冒頭の金管による健康的な明るいファンファーレが華麗に吹奏され、ラスト近くのこの冒頭の「ファンファーレ」の再現に向けて
全楽器が燃え立つように突進するという「シンプル イズ ベスト」を絵に描いたような作品だと思います。
冒頭のファンファーレの後すぐに出てくるクラリネットのソロが流麗で実に素晴らしいですね・・・・!!
ラストのファンファーレの再現部分で
「バンダ」という金管別働隊も加わり、華麗に曲は閉じられます。
ショスタコーヴイッチの「祝典序曲」は、ともすれば「深刻」・「悲愴感」・「重厚長大」・「悲劇的」・
「政治とスターリンに生涯振り回された悲劇の作曲家」・「本音と建前の二重言語を駆使」みたいに
ついつい言われてしまうショスタコーヴィッチの作品の中でも
例外的に明るく、どこまでも底抜けに楽しく進展し、開放感満点の素晴らしい小品だと思います。
演奏時間は大体7分前後くらいかな・・・
指揮者によっては6分を切るスピード感満点の演奏もあるみたいですけどね。
ショスタコーヴィッチは、その生涯で二度ほど政治的に「やばい状況」を迎えます。
当時のソ連体制においては、国家権力によって睨まれたり、監視の対象になってしまうという
「やばい状況」とはこれすなわち、自身の「死」とか「シベリア流刑」とか「強制収容所送り」という事を
意味しましたので、かなり相当やばい状況だったのだと思われます。
本来、音楽とは作曲家の自由意思というか
「自分はこのように感じたからこうした曲を作る!!」みたいな事が尊重されるのは当然の事なのですけど、
当時の共産党一党独裁のソ連にはそうした自由は無く、
「人民が喜びそうな外面的効果の高い音楽」を量産する事を求められ
「自身の内面」を描くといった抽象的な音楽は、国家権力によって敬遠され
ひたすら外面的に明るい音楽を作曲する事が求められていました。
だからこそ、「自由な音楽」を求めてソ連体制を嫌って祖国からの「亡命」を求めたのが
ストラヴィンスキーとかプロコフィエフだったのでししょうね。
だけどショスタコーヴィッチは律儀にも「祖国愛」が強いのか、面倒な事を嫌ったのか、家族の反対にあったかは
よく分かりませんけど、生涯一度も亡命する事もなくその生涯をソ連体制の中で生き続け、
その生涯をソ連の中で閉じた作曲家なのです。
本当は、マーラーみたいな音楽を書きたかった欲求もあったのかもしれませんけど、
時に自分の内面に忠実な作品を書き、それが国家からの批判を招き、その反動として
外面効果が高い分かり易い曲を残すという「御用作曲家」みたいな面を持つという
本当に苦労が絶えない人だったと思います。
前述の「やばい状況」の内の一回目は交響曲第4番やバレエ「明るい小川」を作曲していた頃です。
これらの音楽が「抽象的で訳がわからん・・・」という事で睨まれ
その代償として作曲されたのが、ショスタコーヴィッチの代表作、交響曲第5番「革命」というのも何だか皮肉な感じがします。
やばい二回目は、第二次世界大戦終了後に、戦争勝利記念作として発表された交響曲第9番と言えると思います。
スターリンにとっては、
「この交響曲は特別な存在であるべきだ! なぜなら我々は戦勝国だからである。
だからこの祝祭的な交響曲は、合唱などを入れ大規模に国家の勝利を讃える必要がある」などと
思ったかどうかはよく分かりませんが、
そうした気持ちは恐らくはスターリン自身も少しは持っていたのかもしれません。
だからこそこの第9交響曲が、大合唱も入らず「洒落っ気に溢れたとてつもなく軽い曲」であったことにスターリンは激怒し、
「俺の顔を潰しやがって・・・」みたいな気持はどこかにあったかもしれません。
そして二回目のやばい状況が訪れるのです。
ショスタコ―ヴィッチは、この危機に対しては、オラトリオ「森の歌」で大衆迎合用の分かり易い曲を提出し
難を逃れています。
ちなみの「森の歌」の初版の歌詞のラストは「スターリン万歳!!」だそうです・・・
(スターリンの死後削除されています)
そしてこういう状況の下、結果的にスターリンは1953年に逝去します・・・
そのスターリン死亡の翌年にこの「祝典序曲」が作曲されます。
この曲は、一応表面上は、革命37周年記念とか、ボルガ=ドン運河竣工記念という名目で書き上げられていますけど、
これって少しおかしいようにも感じます。
だって革命37周年は中途半端な数字ですし、運河が完成したのは、「祝典序曲」作曲の
確か2年か3年前の少し古い話なのです。
そうですね・・少しうがった見方をすると
「スターリンの死」がショスタコーヴィッチにとっては「祝典」だったのかもしれないですね。
だってそれまでの生涯であんなに陰気で重厚な曲ばかり書いていた人が
突然こんな軽妙で明るい曲を作曲するなんてあり得るのかな・・・??
やはり「スターリンの死」が自分にとっては「祝典」である事をほのめかしたかったようにも
感じられない事はありません・・・
交響曲第10番もそうした香りがぷんぷん漂います・・・
第一楽章から第三楽章までは「陰気」な雰囲気がぷんぷんなのですけど、
第四楽章の中盤から唐突に明るい幸福感に満ちた印象に激変します・・・
何かこれって、
「人間の死と言うのは本来悲しむべきことであるのに、
スターリンという独裁者が死なないとソ連国民全体の幸福がやってこない」という国家的な「皮肉」を
謳い上げたようにも私には聴こえてなりません・・・・
曲の背景は何か面倒なものがありそうだけど
曲そのものはいたったシンプルで明るく楽しい曲という
なにやらショスタコーヴィッチ自身の「矛盾」を立証したような作品がこの「祝典序曲」と言えるのかもしれないですね。
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有名な交響曲第5番「革命」も最終楽章こそマーチ風な曲ですが、第1楽章は陰湿で葬送的な曲ですし、あと曲目は忘れましたがユダヤ人虐殺?の悲惨さを曲にした交響曲もあったと思いますが、あの曲を聴いてるとかなり憂鬱な気分になりますね。。。
それに対して「祝典序曲」はその曲目どおり何かを祝う曲だというのが聴いていてはっきりわかります。あっ、ちなみに当県の大曲吹奏楽団が創団20~30周年の定期演奏会のときの1曲目がどちらも「祝典序曲」でした…。
やはり「スターリン」という独裁者から解放されたときのショスタコーヴィチの心境を表した曲かもしれませんね。また作曲家として人生を翻弄された点では「ラフマニノフ」も同じかもしれませんね。ラフマニノフはグラズノフ指揮の初演だった「交響曲第1番」が失敗演奏に終わり、それが原因で神経衰弱に陥り長きに渡り1番が音楽界で「埋もれた名曲」になったのは有名です…。
「祝典序曲」も以前よりは演奏されなくなりましたが、他のショスタコ作品や旧ソ連・ロシアの作曲家の作品は個人的には「名曲」が多いので、新進気鋭の邦人もの・オリジナルものにもいい作品はあると思いますが、中学生・高校生の吹奏楽部員の皆さんにはこれらの曲をもっともっと聴いて勉強してほしいと思います。