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プロフィール

ぬくぬく先生 

Author:ぬくぬく先生 
開設当時は、1980年代吹奏楽コンクールの花輪・秋田南・就実・仁賀保・屋代等の素晴らしい演奏を後世に少しでも伝える事が出来ればいいなと思ってこのブログを始めたのですけど、いつのまにか「東方Project」がメインになってしまいました・・・
最近は「艦これ」も大好きです!!
吹奏楽も東方も自分が感じた事を少しでも後世の方に受け継がれるべきものが残せればいいかな・・と思っています。
ちなみに、「大好きプリキュア四天王」は、ドリーム・メロディ・ハッピー・ラブリーです。
ドリームとメロディは自分の中では既に殿堂入り状態ですけど、
現在はラブリー大好き!!のラブリー一辺倒です!!
リアル社会では、建築関係のクレーム&アフター責任者を専従し、毎日毎日クレーム対応に当たる日々です。
裏の顔は東方と吹奏楽とクラシック音楽一辺倒です・・・
特に特に大好きな作品は・・・プリキュア5とスイートとハピネスチャージです!!
ちなみに、奥様は・・・ミルキィローズとセーラームーン好きの管理人以上のおこちゃまです・・・
東方で大好きなキャラは、とにかく大好きキャラがてんこ盛りで、全員大好き!という感じなのですけど、特に、さとり様・ゆかりん(紫様)・早苗さん・こいしちゃん・アリスはお気に入りです!!
吹奏楽では・・ネリベルの「二つの交響的断章」と「アンティフォナーレ」、スパークの「ドラゴンの年」、リードの「オセロ」と第二組曲「ラティーノ・メキシカーナ」、パーシケッティーの「仮面舞踏会」、C・スミスの「ダンス・フォラトゥーラ」などが死ぬほど好きで、クラシック音楽では、ウォルトンの交響曲第1番と矢代秋雄の交響曲、プロコフィエフの交響曲第5番、アーノルドの交響曲第2番、第4番、ショスタコの交響曲第7番「レニングラード」、マーラーの交響曲第3番「夏の朝の夢」、ハンソンの交響曲第2番「ロマンティック」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」、ベルクの「ヴァイオリン協奏曲」、ラフマニノフの「交響的舞曲」などが大好きです!!
クラシック音楽を吹奏楽にアレンジし、そのコンクールヴァージョンの演奏としては・・・
1982年の就実高校の「幻想舞曲集」と
1987年の習志野高校の「ダフニスとクロエ」第二組曲の演奏、そして、
1987年の雄新中の「エルザの大聖堂への厳かな行列」が
まさに私の「原点」です。
最後に・・・
私の吹奏楽との関わりの真の意味での「原点」は・・・
1979年の市立川口高校の神がかり名演としか言いようがない
「二つの交響的断章」に尽きると思います!!


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12.下松高校


D/バレエ音楽「ロメオとジュリエット」~モンターギュ家とキャブレット家・タイボルトの死・ジュリエットの墓の前で号泣するロメオ
(S.プロコフィエフ)


この下松高校ですけど、最近の現役世代の皆様ですと「え・・・なにその学校・・・聞いた事がない・・」みたいな感じ
なのかもしれませんけど、
1980年代後半~90年代前半に連続して全国大会に出場していた中国支部の常連校の一つでした。
最近は、この学校の名前を耳にする事は全く無いのですけど、
いつの日にか「かつての名門復活」が果たせるといいですね・・・

この学校を初めて耳にしたのは、1985年の普門館で、下松が全国初出場を果たした年でした。
その時の率直な私の印象なのですけど、そうですね・・・
「サウンドが貧弱・ひ弱な音楽作り・個性も特に感じない極めて印象がうすい演奏・アピールポイントが脆弱」
そうした感想でした。
自由曲が「幻想交響曲~終楽章」という極めて劇的要素を持ち演奏効果が高い曲のはずなのですけど、
それでも音楽の骨格が極めて貧弱という印象で
正直、初出場の際はマイナスみたいな印象しか持っていなかったです。
だけど二回目の出場の際は、結果として銅賞という評価なのですけど、私個人の感想としては
「とてつもない飛躍! 技術は一旦置いておいても、その豊かな感性とその表現力は素晴らしいし、
特に最後の音の伸ばしで閉じられる部分のサウンドは、カラヤン指揮/ベルリンフィルが演奏したこの曲に
勝るとも劣らない素晴らしいものがある!」
みたいにとにかく素晴らしい演奏だったと思います。
確かに、細かい木管の動きとか金管の破裂音とか
ハープをマリンバ+ヴィヴラフォーンで代用した為、その部分がなんとなく違和感を感じてしまうなどの難点も
あるのですけど、それを上回るスケールの大きさと劇的な表現力には本当に感心させられたものでした。
そして下松高校から聴こえてくるサウンドは極めて「温かい」というか人間的な香りが漂います。
下松の指揮者の中井先生の経歴とかは正直全然わからないのですけど、
そこから聴こえてくる音楽は・・・
いかにも普通の県立高校の先生と生徒が一生懸命「手作りの音楽」をして、その努力の結果として普門館に
たどり着いたみたいな雰囲気が漂いましたし、
その音楽も「厳しい中にも温かさが滲みでているような優しい音楽」みたいな香りが漂っていたと思います。
そうですね・・・・
私は1986年のこのチームのこの音楽を生で聴いて、
「このチームは将来絶対大化けする!!」と確信し、自分の吹奏楽仲間に対してもそうした「予言」(?)みたいな事は
色々と言っていたと思います。

翌年1987年のリードの「アルメニアンダンスパートⅠ」は、明確な個性とかこれまでのこの曲の過去名演を
超越するような斬新さは正直皆無でしたけど、演奏自体はとにかく温かいものがありました。
更に翌年の88年の「セント・アンソニー・ヴァリーエーション」は、通算4回目の普門館という事もあり、
慣れと自信もあったと思うのですけど、この時は初出場みたいな「ひ弱」という印象はほぼ皆無で
大変堂々とした立派な演奏を聴かせてくれていて、
全国大会4回目の出場で初めて銅賞以外の賞を受賞したのですけど、この年の普門館での成績発表の際、
「下松高等学校、銀賞」というアナウンスが流れた瞬間に、多分下松の奏者の皆様だと思うのですけど
嬉しそうな「きゃーー!!」という歓喜の声があがっていたのは大変印象的でした!
ま・・・翌年、1989年の「プラハ」で銀賞というアナウンスの際は、さすがにシーーン・・・としていましたけどね・・
この年の課題曲B/wish はとっても素敵な演奏でしたし、自由曲のプラハのかなり斬新なカットが
とっても印象的でした!

さてさて・・・そうした中迎えた、1991年の演奏なのですけど、
85年の初出場以来の中井先生の努力の「果実」がやっと花咲いた・・・!!みたいな素晴らしい演奏を
聴かせてくれていたと思います。
一言でいうと・・・地味な演奏です。
88年の豪快なスピード感、89年のひそやかさみたいな「吹奏楽オリジナル作品を自由自在に扱った」という
自由さは正直あんまり感じなかったのですけど、
その代わりに、ファンタジー感・せつなさ・動と静の対比の鮮やかさみたいな「クラシカルな雰囲気」は
十分に伝わっていたと思います。
課題曲のマーチは無難な演奏で可もなく不可もないという感じですけど、
ともすると「そよ風のマーチ」が「台風のマーチ」みたいにどんちゃん騒ぎみたいな演奏になりがちなこの曲を
タイトルに相応しい感じに適度に爽やかに適度に鳴らす感じのあの「バランス感」がとてもよかったと
思います。
この課題曲Dできちんと「節度さ」を保ってバランス感を適度に保っていたチームって意外と少なく、
下松以外では、浜松商業・高岡商業くらいしか思い浮かばないのかも・・?
自由曲は、冒頭から中盤のダイナミックスさと劇的な雰囲気と後半以降の「しっとりとしたファンタジー感」の
対比がとにかく素晴らしかったと思います。
そうですね・・・・演奏自体は比較的おとなしめ・・・
もっと鳴らしてもいいんじゃないのかな・・?と感じさせる場面も無くはなかったと思いますけど、
その「節度を保つ」という事は中々出来るようで出来ないものですので、そうした中井先生のコントロールも
賞賛に値するものがあったようにも感じられます。
「タイボルトの死」も90年の東海大学第四の木管、特にクラリネットのあの「超絶技巧」に比べると、確かに
少しどんくさい面も無いとは言えないのですけど、
そうした鈍い感じが逆に「高校生らしい素朴さ・ナチュラルさ」を演出していたようにも感じられます。
下松のこのカットは、1987年の天理のカットと類似しているのですけど、
天理の場合はどちらかというと「タイボルトの死」をメインに構成し、「ジュリエットの墓の前・・・・」はなんかとってつけたような
感じもあり、それが少し「曲の構成としての中半端さ」みたいなものも感じたものですが、
下松の演奏は確かにカットしては天理とそれ程大きな違いは無かったにしても、
音楽的な満足度としては下松の方がはるかに大きく、
この「ジュリエットの墓の前で号泣するロメオ」をとにかくしんみりとしっとり聴かせてくれ、
演奏の中核をこのラストの「ジュリエットの墓の前の・・・」に据えていたような感じすらあります。
天理の場合、正直・・「えっ・・・」みたいな閉じ方でしたけど、
下松の場合、このしんみととした内省的な閉じ方が逆に「下松らしい・・」みたいな味わいがあり、
私としては、少なくても87年の天理よりは「高評価」です!

結果的に下松は、この年、念願の「初金賞」に輝きましたけど、
同じ「初金賞」でもとにかくやんちゃに鳴らしまくった伊予とは全く正反対のアプローチでしたが、
音楽の内容的に極めて深いものを感じさせる
とても価値のある意味のある「金賞」だつたと思いますし、
成績発表の際に下松が金賞とアナウンスがあった際は、とっても嬉しかったのは今でもよく覚えています!!

地味ながら大変印象に残る素敵な演奏でした!!
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コメント

サイトウ記念

鍵コメ 様


いつもコメント頂きありがとうございます!

そう言えば、つい先日がお盆休み明けの出勤でしたね!
あれ、私もそうでしたけど、休み明け早々のお仕事ってなんか「心、ここにあらず・・」という感じに
なってしまいますよね!
まさに「働きたくないよぉ・・・ずっと遊んで暮らしたいでごじゃる・・」という感じですね・・(笑)

ちなみに・・

私自身は小学校から大学まで厳密に言うと12年近くも「吹奏楽部」に所属し、楽器は
主にというか・・ほとんどは「クラリネット」を吹いていました!

松本の小澤征爾と言うと・・

「サイトウ記念オーケストラ」ですよね!

最近は小澤氏も体調が芳しくないようで少し心配ですね。

ちなみにですけど、私自身は小学1年~3年の短い期間ですけど、松本に住んでいました。

中井勝さんのこと

下松高校の吹奏楽部指揮者の中井勝先生は、全国大会5連続金賞を取った愛知県蒲郡市吹奏楽団の指揮者でした。
広島大学でトランペットを専攻し、愛知県立蒲郡東高校に赴任し、同校吹奏楽部を東海大会金賞に導いた方です。
そもそも、広島の人を当時蒲郡市吹奏楽団の指揮者であった山本誘氏が期限付きで愛知県に呼んだのです。
「管楽器などは細かい微調整などいらない。自分の一番良い音を出していれば、ピッチなどは少しぐらい違っていても良い」という指導をされてました。
ギスギスしたチューニングはなく、美しい音が出ていればそれで良いという指導でしたから、おっしゃるような「暖かい音色」になったのかもしれません。
 上記の蒲郡東高校吹奏楽部の指揮者と蒲郡市吹奏楽団の指揮者を兼任されてましたので、非常に多忙な方でした。
 蒲郡東高校が東海大会で金をとったのが「コンクール登場3年目」でした。この年は明白に同校の演奏が上回っていたに関わらず、ご存知の名古屋電気高校吹奏楽部が全国大会への代表になりました。
東海地方では「審査方法と代表選抜方法に問題がある」と話題になり、この後審査方法と選抜方法が変更されたほどです。
 コンクール出場歴3年の新参者(学校そのものが新設だった)を代表として選ぶことはできないという、なんらかの力があったようです。

 当時の蒲郡東高校吹奏楽部のメンバーより。

教えて頂きありがとうございます。

たかちゃん 様


蒲郡東高校吹奏楽部OBの方からの貴重な情報に感謝の念をお伝えさせて頂きたいと思います。

中井先生というと下松高校というイメージしか持っていなかったもので、まさか蒲郡吹奏楽団や蒲郡東高校吹奏楽部を
ご指導されていたとは今回のご指摘で初めて知りました。
ありがとうございます。

審査は水物とは昔からよく言われますし、そうした暗黙の了解的ななにかは吹奏楽コンクール審査には
昔も今ももしかしたら何かは存在しているのかもしれないですね。

貴重な情報と言われ、嬉しいです。
中井先生は
昭和45年
 蒲郡市吹奏楽団自由曲「ローマの謝肉祭」全国金の時ファーストTP、でした。
昭和46年 
 同同「スラブ行進曲」全国金 ファーストTP.
昭和47年
 同同「序曲海賊」全国金 指揮者
昭和48年
 同同「序曲ベンベヌート。チェルリーニ」全国金 指揮者
昭和49年
 同同「ハンガリー狂詩曲第二番」全国金 指揮者
昭和50年
 全国金連続5回で北海道にて招待演奏 指揮者


昭和44年 新設愛知県立蒲郡東高校に赴任
同校吹奏楽部顧問になるも人数不足でコンクール参加はしてない
昭和48年 地域進学者の異変により同行に地元中学での吹奏楽経験者が集中
同年からコンクールに出場し昭和50年に東海大会で全国選抜を逃す。
「こんなバカな選考があってたまるか」と中井先生が顔を真っ赤にして怒っていたことを思い出します。

地域進学者の異変とは。
蒲郡市は中学吹奏楽が盛んで、蒲郡中学校や三谷(みや)中学校が全国大会へと出場してました。他校レベルも高いものでした。
中学吹奏楽部経験者は名古屋市の東邦高校や明電高校に特退進学する人が多かったので、蒲郡市にある高校吹奏楽部はコンクールにさえ出場しないレベルでした。
ところが、公立高校の学区制が採用され「行きたくもない学校に振り分けられる可能性」がでて来ました。
ここで蒲郡市東高校は「学区制高校に加入しない」ことにしたため、入校希望者が殺到しました。
 いくつかの高校のどこに進学するかわからないよりも、受けた学校に行ける方が良いのは心情だからです。
蒲郡東高校は県が鳴り物入りで設立した進学高でしたので、受験者が限られてましたが、どういうわけか「蒲郡市内の吹奏楽部にて、パートリーダーをしてた人間」が全て蒲郡東高校に入学して吹奏楽部に入部したのです。

新入生で楽器未経験者がゼロという状態。
それ以上に「コンクールではソロをしました」という奴ばかりです。

東邦高校に進学していた私の先輩が「こっちは特退生が素人に一から教えてる。お前の学校は経験者が全員だろ。これじゃ勝てるわけがなかろう」と私に言いました。
「まあそうだろうな」という感じでした。
なにより中井勝先生の元で吹奏楽をやりたい人が集まって来たわけです。

蒲郡東高校の校歌作曲者として、蒲郡市にはまだ中島猿先生の名は残ってます。
とても優秀な吹奏楽指導者です。

今回もありがとうございます

たかちゃん 様


今回も大変希少価値の高い情報を教えていただきありがとうございます。

こうした情報はその当時にそのエリアに在籍され、その当時のそのエリアの雰囲気・空気感を肌で実感された方でないと
わからないと感じるだけに大変ありがたいものがあると思います。
というか、1970年代の吹奏楽事情をご存じの方ってそれほど多くはないように感じるだけに
当時のメンバーの皆様からのお話はとてもためになります。

愛知の吹奏楽というとご指摘の通り、東邦と名電という二大陣営が当時は競い合っていたと思いますが、
そうした狭間の中でこうした公立高校の存在があった意義は大きいと思いますし、
後年中井先生が下松高校を率いての温かみのあふれる音楽をされていたのも、当時の経験があったからなのだと
思いますね。

では、調子に乗って。
1970年昭和45年、吹奏楽全国大会の金賞グループの演奏がCBSソニーからレコード販売開始されました。
 このレコードが全国のアマチュア吹奏楽のレベルアップに大きく寄与したと思います。
 全国大会で生の演奏は地区大会で代表となった演奏を聴くぐらいだったからです。
 このレコードに入れられてる演奏は全て素晴らしいものですが、私は響南中学校の課題曲「サムソン序曲」を音楽室にて聴いた時のショックは40年以上経過してもわすれません。
「全国大会ではオルガンを使っても良いんだろうか」と思いました。かの演奏開始時の響きがオルガンのそれに聴こえたのです。本当に驚きました。
自由曲のチャイコフスキーの4番フィナーレも、今となっては「それほどテクニック的には難曲ではない」と感じてますが、当時は「なんだ?これ?すごいパッセージをチャラチャラ吹いてる。サーカスみたいだ」と感じました。ビックリした、と言うべきでしょう。
Fのスケール音階が変形されてるだけなので、比較的容易なパッセージなのですが、当時は「難しいパッセージを良く演奏している」とまでレコードラベルに解説が付いてます。
 「当時はこの演奏でビックリしたのだ」という話です。
 何度も何度も聞きこんで、年齢も加わった聴き手になって、このレコードのうち天理高校の演奏が「永遠の名演」と感じるようになりました。
 

さて、話題をコンクールに、それも私が「一生その悔しさを忘れられない」審査結果を記します。
昭和50年東海大会高校の部
審査結果(審査員は7名)
課題曲A評価自由曲A評価で総合評価A
課題曲A評価自由曲B評価で総合評価A
課題曲B評価自由曲A評価で総合評価B
というように「課題曲重視配点」でした。
そして、これが「大問題」を引き起こします。

明電高校 課題曲A評価7名、自由曲B評価7名
     結果 総合評価 A7名
蒲郡東高校 課題曲A評価6名B評価1名 
      自由曲A評価7名
     結果 総合評価A6名、B1名
総合評価がオールAである明電高校が「全国大会へ」と選抜されたわけです。

発表会場全体が「なんだ?」「え~~」「お~?」と言う声で溢れました。
私は蒲郡東高校のプレイヤーでしたので「そうか明電にはやはり勝てなかったか」程度でした。

が、世間がそれに大ブーイング。
「絶対におかしい」「審査員は明電に買収されてる」「誰がどう聞いも、蒲郡東高校が東海代表である」
と言う声が上がったのです。

結果、上記の審査結果がほぼ公にされて「公平に審査してる」主張が吹連からされたのですが「どうしてBの数が7つの明電の演奏が、Bの数が1つしかない学校より優秀なのだ」
「課題曲への評価が高すぎる」など東海地区全体の議論を巻き起こしたそうです(ここは中井先生から聞いた)。

明電には私の先輩や同級生も「特待」でいましたので、情報が入ります。「指揮者の先生の腕」だとの事。
どういうことか。
「自由曲は滅茶苦茶でない限りB評価かA評価が付く。課題曲だけ絶対にA評価になる演奏をすれば、総合評価は全員がAになる。あとはライバルが課題曲で一つでもB評価をつけられたら、こちらが勝てる」
という戦略です。
「恐れ入りました」ってところです。
明電高校や東邦高校などは全国大会出場するかどうかで特待生への評価が変わるような学校なので、勝負にかけるテクニックが「たまたま経験者が集まったので、どえらい高度な演奏をする」蒲郡東高校とは気合いが違ったわけです。

審査方法を知り抜いて、コンクールで勝つテクニックを持つ伝統高には新参者では勝てないわけです。

しかし「審査方法を知った上での、演奏テクニック」により点数を得て、会場の聴衆ほとんどが「代表選考結果に疑問を感じた」結果は、既述のように東海地区を大きく変える原動になりました。

昭和53年ぐらいから「審査結果(金、銀、銅)を発表せずに、各審査員が全国大会出場を推薦する学校名を記して投票する」ようになったのです。
何かがまともになるためには、尊い犠牲というか、礎があったのだよと思うようになったのです。

ちなみに、後のち、中井勝先生があらゆる伝手を使って集めた情報で以下の事が判明したのです。
「一番初めに演奏する学校(蒲郡東高校)には、以後の審査基準として課題曲も自由曲もBを付けて審査する」
とした、とんでもないアホ審査員が一人いたのです。
 では「自由曲にAをつけたのは変だろ」と質問が出ますが、これには「あまりに見事な演奏だったので、自分で決めた方法を忘れてAを付けてしまった」と笑って言ったのだそうです。

中井勝先生はこれを伝え聞いたわけですが、余りに演奏者をバカにしてる話です。
「あなたが基準として付けたBひとつで、多くの人が審査方法に疑問を感じ、一つの団体のメンバーが不当な扱いをうけ、夢の全国大会出場を断たれたのだよ」
と言いたいです。

音楽に「点数をつける」コンクールそのものが非人道的なものだと言えますが、練習の成果を正当に認めてくださる方だけが審査員になっていただけると良いなと今でも思います。

審査は難しい・・

たかちゃん 様


1970年代のソニーの「日本の吹奏楽」のレコードに入っている各部門の課題曲自由曲・指揮者名・評価等が記された
表においては、欠かさず
「吹奏楽連盟は評価にあたって課題曲の演奏を重視していますので、(レコードに収録されている)自由曲の演奏と評価が
必ずしも合致しないことがあります」と明記されていたのは
今回ご指摘のようなことが背景にあるのだとも感じられます。

課題曲演奏重視といっても、例えば1979年のように、同じ課題曲でもプレリュードと朝をたたえてでは難易度もそうですし、
表現の難易度が全然異なりますので、課題曲だけで評価の大半を決めること自体に無理があったのかもしれないです。

吹奏楽連盟もそうした全国各地のいろいろな問題を吸い上げてそれなりに審査体系の見直しもその後いろいろとやっていたのは、
ご指摘のような事例等を吹奏楽連盟なりに考慮した結果ともいえそうで、
たくさんの皆様のくやしい思い・残念な思いが現在の吹奏楽コンクールに継承されているのかもしれないです。

お返事を嬉しく読ませていただきました。

社会人となり孫までいる歳になりましたが、高校時代の「悔しい体験」は忘れられず、ここに記すことができ、少々すっきりいたしました。

時間が許したら、私は各地の地方大会を聞き込みたいと思うところです。
これは「隠れた名演奏」が必ず存在すると確信するからです。
というのは手前味噌になりますが、昭和50年東海大会における蒲郡東高校の自由曲「トッカータとフーガ」は、名演として伝えられ、その録音テープが当時貴重品となったからです(東海地域でだけですが)。
東京芸術大学指揮課教授の遠藤雅古(故人)が演奏を聴かれておられ「歴史に残る名演奏」「全国では金を取る」「中井勝教諭は蒲郡にてとんでもないバンドを育て上げた」と結果発表前に口にされたからです。
 当時は会場での私的録音が厳しく禁止されてなかったので、録音テープは少なからず存在してました。
 審査発表後の「騒ぎ」を聞きつけた吹奏楽人が、この録音テープを人づてに求める状態が発生しました。
 中には「コンクール当日は、聴きそびれてしまった。テープで聴いたが、素晴らしい演奏でした。生で聴けなくて残念でした」と言う手紙までくれた方もいました。
 
地方では「全国大会に進めなかったが、歴史的な名演奏」が必ず多く存在してると思うのです。思うというより確信と言えます。
「金賞はとれるかもしれないが、代表にはなれないだろう」と開きなおって、縮んだ演奏をせずに思い切った演奏をするバンドもあるでしょう。東海地域でもそういう団体(というか指揮者)がおられ、素晴らしい演奏を残されてます。
 思い切った演奏とは、例えて言えば、エフゲニー・スヴェトラーノフ指揮のような演奏です。迷演といわれ、CD発売そのものが愚行と言われた「ローマ三部作」(これは説明なしで、なんの話かお判りになると存じます)のような演奏です。

野球では準々決勝が一番面白いという人がいます。
勝ち負けではなく「素晴らしい演奏」を求める時、地方大会の観衆になるのもありだと私は思います。

定年後に暇ができたら地方大会巡りをしようと思ってましたが、私を必要とする会社があり、なかなか実現しません。
夢は破れるもの、そしてなかなか叶わないもの、なのですかね。

知る人ぞ知る名演

たかちゃん 様


平成元年に倒産してしまいましたけど、かつて「トラヤ」という会社が昭和39年~63年の全国大会と
昭和44年以降の支部大会の実況録音の音源を保有されていて、それをカスタムテープという形で一時期販売していたことがあり、
私自身、そのカスタムテープの音源を通して過去の吹奏楽コンクールで埋もれてしまった影の名演を
知る事になった経緯があったりしますけど、今にして思うとトラヤの倒産は大変痛くて、あの膨大な音源は今現在どこに
あるのかな・・?と思うと大変勿体無い気持ちになったりもします。

私自身、いわゆるダメ金で支部大会金賞止まりで全国に進めなかったチームの名演としては、
このブログで何度も何度も記しているように、
①1981年の東北大会の大曲高校の交響三章、②1982年の東北大会での花輪高校のウォルトンの交響曲第1番 
③1992年の関東大会でのアンサンブルリベルテのせむしの仔馬などは強烈に押したいですし、
花輪高校のウォルトンの孤高の世界は私自身をクラシック音楽の深い森の中に導き出すきっかけになったものでした。

名演と評価と各個人の感想は異なるものだと思いますし、その違いが感性なのだと思いますし、
「自分がすばらしいと感じた演奏だけが名演」という事なのかもしれないです。

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