20.浜松工業高校
C/天使ミカエルの嘆き(藤田玄播)
結果論になってしまいますけど、このチーム本当に勿体無い事をしましたね・・・・
というのも、1977年の「ハーリ・ヤーノシュ」から3年連続して全国大会金賞を受賞し
結果的に81年に全国で金賞を受賞していますので、
この年、1980年さえ金賞を取っていれば、浜松工業は「5年連続全国大会金賞+翌年の特別演奏お披露目」という
大変な栄誉が与えられましたので
ホント、この年の銀賞は惜しまれます・・・
しかもこの年は、確かに異常にレヴェルが高い年なのですけど、「金賞乱発」の凄まじいゴールドラッシュり年でも
ありましたからね・・・
1977年のハーリ・ヤーノシュ、78年のチャイコフスキーの交響曲第4番、79年のアルメニアンダンスパートⅡは、
全体的に大変輝かしいサウンドと豊かな音量でもぎ取った大変勢いのある金賞だったと思うのですけど、
この年は・・・
少し地味な印象があります。
何て言うのかな・・・前年までの「華麗なるサウンド」というのは影を潜め、少し影のある渋い音色に
内省的な選曲に表現・・・
前年までとのギャップに奏者自身が少し戸惑ってしまったのかな・・・みたいな印象はあります。
そうですね・・・指揮者の遠山先生もこの年辺りから、少し「路線変更」みたいな事を意識したのかな・・・みたいに
感じる側面もあるような気もしますし、
1983年に浜松工業から浜松商業に異動された後は、
工業時代の「華麗なる派手な演奏」から随分と内省的な演奏スタイルにシフトされていったような
印象が自分の中にはあったりもします。
だから、この年1980年の演奏は、そういう何か「過渡期」みたいな演奏で
色々な意味で遠山先生も「模索の真っ最中」という感じだったのかもしれませんよね。
遠山先生の「これぞ遠山先生!!」と思える圧倒的な名演は・・・というと・・・
ま・・誰しもがそう感じるのかもしれませんけど、
1986年の課題曲B/嗚呼! と自由曲のトッカータとフーガ二短調なのかもしれませんよね。
あの時の「トッカータとフーガ」は普門館の生演奏で聴いていた時は、あまりの荘厳さに
ホント、マジで背中の震えが止まらない!!というまさに「歴史的名演」ほ聴かせて頂いた思いがありますね!
さてさて・・・・
1980年の演奏ですけど、
結果として大変中途半端な印象を受けます。
サウンドは華麗でもないし、どちらかというとくすんだ印象・・・ソロ楽器も今一つ・・・・
特に課題曲も自由曲もオーボエのソロは・・・・今一つというか不調でしたね・・
だけどトランペットの課題曲のソロはべらぼうに上手かったと思います。
課題曲C/北海の大漁歌は、少しノリが悪い演奏でしたね。
一つ前の東海大学第四が「さすが北海道のご当地ソング!」みたいな正攻法のノリの良さを聴かせてくれたのに
浜松工業はというと・・・
「なーんでオレたちがこんなソーラン節みたいなだっせー民謡を吹かないといけないんだよ・・」みたいな
何となく「気恥ずかしさ」みたいなものも感じられ、そのせいか・・・
今一つ気分が乗らない演奏になっていたのは大変なマイナスポイントだと思います。
自由曲もこういう内省的な曲を演奏する場合、場面場面の切換えをしっかりと行い、想い沈む場面と
派手に鳴らす部分を巧みに切り替える必要があると思うのですけど、
どの場面でも同じような音色・サウンド・音量のようにも感じられ「変化」に乏しい印象を与えてしまったのも
マイナスなのかな・・・とも思います。
曲が一旦静かになった際にオーボエが泣けるようなソロを展開するのですけど
この年の浜松工業のオーボエ奏者は、普門館での演奏は今一つ不調だったようにも感じられ、
音色もくすんでいるし音程が少し怪しかったような気も・・・・?
その辺りもマイナス評価につながったようにも感じられます。
この曲、冒頭は大変静かに始まるのですけど、曲開始から1分を過ぎた辺りから3分目辺りが大変盛り上がり
気分もすさまじく高揚するのですけど、
その際、シロフォーンがすさまじいアドリブみたいな乱打をするのが一つの聴きどころでもあるようにも
思えるのですけど、
シロフォーンが全体の音量にかき消されたような感じもあったのが大変惜しまれます。
最後も・・・・
もう少し透明感が欲しかったし、もっともっと「祈り」みたいな側面が求められたような気もします。
全体的には決して悪い演奏ではないのですけど、
プログラム13番の秋田南から19番の東海大学第四まで本当に素晴らしい名演&金賞が続出していましたので
この年の浜松工業のように、少しレヴェルが下がった演奏が出てくると、
その前の演奏が異常に素晴らしすぎたというある意味大変気の毒な事情もあり、
印象&評価が下がり気味だったのはなんか惜しまれますよね・・・・
さてさて・・・ここから先は少し余談です。
藤田氏の代表作と言えば、言うまでもなく「天使ミカエルの嘆き」だと思います。
この曲は、兼田敏の「シンフォニックバンドのためのパッサカリア」・保科洋の「カタストロフィー」と
同様に1970年代の吹奏楽邦人作品の代表的名作だと思いますし、
永遠に後世に受け継がれていくべき作品だと思います。
ヤマハ浜松からの委嘱作品であり、全国大会初演が1978年でしたけど、
翌年以降結構各地で演奏されていましたし、何回か色々なチームで全国大会で演奏されていました。
私がこの曲を初めて生で聴いたのは、
1981年の宮城県大会の仙台地区予選だったのですけど、この曲を演奏したチームが一つ大変インパクトある裏技を
見せてくれて、それが大変印象&記憶に焼き付いています。
何かと言うと・・
チューバの大胆な使用というか、チューバ奏者が前半から中間部の大変盛り上がる場面だけ、楽器を上下逆さまに持ち
音を天井に向けて出すというのではなくて、
床に向けて出すという事をやっていました。
確かに低音がかなり効果的に鳴っていたのは覚えています。
さてさて・・・この「天使ミカエルの嘆き」なのですけど、
ヴィヴラフォーンの響きで開始され、徐々に気持ちが高潮していき、
演奏開始から1分~3分目辺りで一つのクライマックスに到達します。前述の通り、この部分でのシロフォーンの
無茶苦茶な乱打が視覚的にも聴覚的にもかなりの効果を発揮します。
曲は一旦静まり、オーボエの呟くようなソロからトランペットの生き生きとしたソロへと展開し、
一旦静かになり、
メンデルスゾーンの「結婚行進曲」のパロディーみたいなファンファーレが高らかに鳴り響き
曲は静かにうめくように閉じられていきます。
タイトルが暗示する通り、非常に分り易い曲であり、
吹奏楽の色彩的効果が魅力的に発揮されていると思います。
藤田氏の他の曲と言うと、カンツォーネ・バルナバの生涯・切支丹の時代と色々ありますが、
正直・・・ミカエル以外はあまり印象に残っていません。
「天使ミカエルの嘆き」の演奏で一番印象に残っているのは
1984年の東海大学第四高校です。
このチームは1982年にもミカエルを取り上げ、82年は金、84年は銀賞ですが、断然84年の方が
素晴らしい演奏と思います。
ま・・・84年の東海大学第四の演奏に関しては、最近の記事でもかなり語っていますので
今回は割愛をさせて頂きたいと思いますが、
ラスト近くの弱奏部分の説得力、いかにも泣き崩れそうな表情は本当に大変お見事でした!!
藤田氏は、実は吹奏楽の指揮者としても頑張っていた方で、
90年代には、都留文科大学、三和銀行コンサートバンドでもタクトを振られ、
都大会で何回か聴いた事があります。
自作自演はではなくて、エル・サロン・メヒコとかウェーバーの主題による交響的変容といった
アレンジものを振っていました。
ま・・・既に故人の方の悪口を言うのも何ですけど・・・正直、指揮はあまり上手くはなかったですね・・・
コチコチの硬い感じの指揮でした。
演奏もかなり硬質で柔軟性に欠ける感じはありました・・・
「天使ミカエルの嘆き」は、特に中学生・高校生の小編成で演奏して欲しい曲です。
ある程度の人数がいれば、無理なく消化できる内容の曲ですし、
こうした名曲は・・・・出来れば21世紀以降もずっと・・・受け継がれていくべき作品だと思います。
- 関連記事
-
スポンサーサイト
中2のときのコンクール課題曲だったのですが、もちろん私の学校はA部門ですのでこの曲は演奏しておりません。
しかし、練習場所が一緒だったB部門に出場した中学校の通し練習を「屋外で」聴いたのですが、屋外での演奏にもかかわらず、すごく音がきれいに聴こえて、「もし、この曲がA部門でも演奏可能であったらやってみたいなぁ。。。」と思わせるほどの名演でした。
当然代表争いの筆頭と思っておりましたが、残念ながらその中学校は県大会でダメ金(2位)でした><
当時は中学B部門の県代表が1校だけ(翌年度から2校になり、その中学校は見事代表に選ばれました)でしたので、とても悔しい思いでした。
代表になった中学校は「ドリアン・ラプソディ」をわずか27人で演奏。自由曲の「アメリカン・シナリオ」も素晴しい出来で、このままの演奏でA部門に出場していたらもしかしたら四天王の一角を破る大金星を挙げていたかもしれません。(その場合代表落ちする四天王の一角は間違いなくウチ。雄新だったと思います><)
私も既に吹奏楽を引退してから20年以上経ちますが、「若人の心」はもう一度聴きたい曲の1つです。