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ぬくぬく先生 

Author:ぬくぬく先生 
開設当時は、1980年代吹奏楽コンクールの花輪・秋田南・就実・仁賀保・屋代等の素晴らしい演奏を後世に少しでも伝える事が出来ればいいなと思ってこのブログを始めたのですけど、いつのまにか「東方Project」がメインになってしまいました・・・
最近は「艦これ」も大好きです!!
吹奏楽も東方も自分が感じた事を少しでも後世の方に受け継がれるべきものが残せればいいかな・・と思っています。
ちなみに、「大好きプリキュア四天王」は、ドリーム・メロディ・ハッピー・ラブリーです。
ドリームとメロディは自分の中では既に殿堂入り状態ですけど、
現在はラブリー大好き!!のラブリー一辺倒です!!
リアル社会では、建築関係のクレーム&アフター責任者を専従し、毎日毎日クレーム対応に当たる日々です。
裏の顔は東方と吹奏楽とクラシック音楽一辺倒です・・・
特に特に大好きな作品は・・・プリキュア5とスイートとハピネスチャージです!!
ちなみに、奥様は・・・ミルキィローズとセーラームーン好きの管理人以上のおこちゃまです・・・
東方で大好きなキャラは、とにかく大好きキャラがてんこ盛りで、全員大好き!という感じなのですけど、特に、さとり様・ゆかりん(紫様)・早苗さん・こいしちゃん・アリスはお気に入りです!!
吹奏楽では・・ネリベルの「二つの交響的断章」と「アンティフォナーレ」、スパークの「ドラゴンの年」、リードの「オセロ」と第二組曲「ラティーノ・メキシカーナ」、パーシケッティーの「仮面舞踏会」、C・スミスの「ダンス・フォラトゥーラ」などが死ぬほど好きで、クラシック音楽では、ウォルトンの交響曲第1番と矢代秋雄の交響曲、プロコフィエフの交響曲第5番、アーノルドの交響曲第2番、第4番、ショスタコの交響曲第7番「レニングラード」、マーラーの交響曲第3番「夏の朝の夢」、ハンソンの交響曲第2番「ロマンティック」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」、ベルクの「ヴァイオリン協奏曲」、ラフマニノフの「交響的舞曲」などが大好きです!!
クラシック音楽を吹奏楽にアレンジし、そのコンクールヴァージョンの演奏としては・・・
1982年の就実高校の「幻想舞曲集」と
1987年の習志野高校の「ダフニスとクロエ」第二組曲の演奏、そして、
1987年の雄新中の「エルザの大聖堂への厳かな行列」が
まさに私の「原点」です。
最後に・・・
私の吹奏楽との関わりの真の意味での「原点」は・・・
1979年の市立川口高校の神がかり名演としか言いようがない
「二つの交響的断章」に尽きると思います!!


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最近の安保法制とか過日の自民党若手代議士の勉強会によるマスコミ懲罰発言とかを巡る
テレビのニュース番組においては、
このニュースになるとBGMとして何度か掛っていた曲がありました。

それが・・・ショスタコーヴィッチの交響曲第10番第二楽章でした。

この交響曲の第二楽章は、20世紀を代表する独裁者としても有名な当時のソ連邦のスターリンを揶揄する
「肖像画」みたいなものである・・というのは、既にショスタコ自身の評伝とかその「証言録」を
見てみると、定説化しているし、
ま・・・それは間違いではないのでしょう。
要は、この楽章は・・・
人民・国民の意向を無視して権力者が突っ走ってしまう事を象徴しているのかもしれませんよね。

ま・・・この第二楽章は大変荒っぽいというのか、いかにも「粗野」という言葉がしっくりきそうな曲でもあります。

正直、今の私には、この安倍政権の安保法制に関する議論の進め方が的を得ているのかどうかとか
その中身については、
今この場で論評するのは避けたいとは思うのですが、
とにかく・・・
「いつか来た道・・・」に戻らない事を心より祈るだけです・・
だけど、確かにその強引な進め方は・・・・
ニュース番組の制作者が、BGMとしてこのショスタコーヴィイッチの交響曲第10番第二楽章をついつい使用して
しまいたくなる気持ちも何となく分かるような気もしますね・・・


ショスタコーヴィッチの交響曲第10番は、正直長いし陰気だし、
決して「楽しく人をハッピーにさせる曲」では間違っても無いと思います。
とにかく・・・重苦しくて閉塞感が漂う曲です。

だけど、私はこの交響曲、昔から大好きなんですよね・・・

ショスタコーヴィッチは、第二次世界大戦終結後に作曲された交響曲第9番が、世間や
当時のソ連の指導者スターリンが求めた「戦争に勝利した歓喜の交響曲を作るべき」という期待を見事に
裏切り、比較的軽いノリのシンフォニーを作った為、スターリンやソ連の音楽官僚達の逆鱗に触れてしまいます。
(私自身は、この交響曲第9番は、大好きな曲です。全体を通して、おもちゃ箱をひっくり返した
 ような聴き所満載の曲です。特にファゴットの悲壮なソロから一転して、「なーーんちゃって」
 とアッカンベーするような第五楽章への転換部分は、本当にたまらんです・・・)

その結果なのかどうかは分かりませんが、ショスタコーヴィッチ自身は、1953年にスターリンが死亡するまで
約8年間、交響曲作曲の筆を一時断絶し、スターリンが死亡したと同時に、この謎めいた交響曲第10番を
発表するのです。
(ちなみに・・・スターリンが亡くなった日に同時に・・あのプロコフィエフも逝去しています・・これは結構すごい偶然かも・・)

でもこの交響曲明らかにバランスが悪い・・・

というか、重苦しくて陰鬱な第一楽章が長過ぎるからそう感じるのかもしれません。
第一楽章だけを聴いてしまうと・・とにかく何の「救い」も見えてこないし、生きている事自体が本当に嫌になってしまいそうな
重苦しい楽章です・・・
そして、冒頭で既にふれていますが、第一楽章とは対照的に明らかに短すぎる第二楽章・・
(第一楽章が25分くらいなのに、第二楽章は3分半程度・・・そして第二楽章は凄まじいスピード感で
駆け抜けていきますので、すぐ終わってしまう・・・という印象が大変強いです。)
前述の通り、作曲者自身の言葉では、この楽章は「スターリンの肖像」と記されていますが、
暴力的で粗暴な曲の雰囲気は、確かにそうなのかもしれません。
そして、第三楽章は、一番謎めいています。
何となく、脱力めいた部分もあります。
曲が盛り上がってくると、ホルンのファンファーレみたいなメロディーの断片が
それを遮るという感じがします。
専門的な話になってしまうのでここではあまり深く掘り下げませんが、
そのメロディーラインの遮りこそが、実は「DSCH音型」という大変やっかいなものなのです。
ショスタコーヴィッチ自身のドイツ式の綴りのイニシャルから取った「DSCH音型」という四つの音型パターンが
この交響曲の至る所で登場し、
この「DSCH音型」が登場しない第二楽章は、スターリンの独断場を示唆し、
その音型が頻繁に登場してくる第三・第四楽章で
「スターリンが死んでやっと自分は解放された・・・これからは・・・スターリンの目を気にする事なく
自分が作りたい曲を作曲しまくるぞ!! もう誰にも文句は言わせない・・・
自分がやりたいようにやる!!」みたいなメッセージを提示しているようにも・・私には思えてなりません・・・

自分が作曲した曲の中で、一番の自分の敵=スターリンと、自分自身を登場させるなんて・・・
やっぱり・・・ショスタコーヴィッチの「自己顕示欲」は意外と強かったのかもしれませんし、
同時に・・・時の権力者=スターリンが生きている間は、粛清・誠司収容所送りが怖いから何も言えず
ただ時の経過をひたすら待ち・・・
そしてスターリンが死んでしまったら・・・
これまでの鬱憤を晴らすように、
交響曲の中に、スターリンは登場させるわ、自分自身も登場させるわ・・・とにかく・・・
権力者の死によって、やっと「一つの自由」を得たのでしょうね・・・

第四楽章がこれまた面白い。

冒頭はとにかく哀しいです・・・
オーボエの哀しさ溢れるソロから開始され、
その哀しい雰囲気は、クラリネット・フルート・ファゴットに受け継がれていき、
とにかく・・不安・寂寥感・孤独・哀愁みたいな雰囲気が前半は全開です。
だけど・・・・
クラリネットのソロ以降のアレグロの展開部では、幸福感すらも感じさせる曲の雰囲気になってしまいます。
それにしてもこの楽章のラスト10小節前辺りのティンパニーのソロは格好いいですね。
あのソロをかっちりと決める事が出来れば・・・・
その時、私は命を落としても構わないと思った・・・
(by 「響け! ユーフォニアム」第八話の久美子のセリフ・・)

でも全体を眺めてみると、第一楽章の重苦しさが曲全体のイメージを支配している傾向が強く、
第四楽章後半のアレグロだけでは、何の解決にもならないという
印象は残ってしまいます・・・
(これは、生で聴いてもほぼ同じような印象でした)

結局、この曲でショスタコは何を言いたかったのでしょう?

本来「人間の死」というものは、悲しいもののはず・・・
だけど、この国(旧、ソ連)では、時の指導者スターリンが死なない限り
国民全体の開放感や幸福は訪れない・・・
そうした矛盾を皮肉を込めて作曲したのかもしれません。
だけど・・・ショスタコーヴイッチ自身も、交響曲のジャンル一つとっても、様々な矛盾を内在しています。
例えば・・・交響曲第11番「1905年」とか交響曲第12番「1917年」なんかは・・
明らかに時の音楽官僚等に対するごますり・ご機嫌取りみたいな御用作曲家みたいな側面を
見せながらも、自作以降の
交響曲第13番「バービィ=ヤール」などのように反体制家と評されても仕方がない曲も残しているし・・・
うーーん、やっぱり人は色々と生きる上では・・
内在した矛盾を抱え込んでいるのかもしれませんよね・・・

だけど、人間自体が、その感情が一定しないというか、その時の心情によって自身の考えも色々と変容し、
ある時は「スターリンや国を発揚させる曲を書いてみよう。自分も国家の一員として
貢献したい」という気持ちもあったかもしれませんし、逆に「スターリンのタコ!!少しは
自分にも自由に作曲できる場を与えて欲しい。てめーなんか死んでしまえ」と思う場面も
あったのかもしれません。

この交響曲第10番は、「雪解け」という小説にも登場するそうです。
この曲をラジオで聴いた小説の主人公が、
「数字だ・・・無限の数字だ」とつぶやくシーンがあるそうですが、
この曲のどこに数字を感じる所があるのでしょうかね・・・

やはり人によって感じ方は様々なのですね。

今にして思うと、信じられないのですけど、
私がショスタコーヴイッチの曲を聴いたのは、実はあのあまりにも有名な交響曲第5番「革命」ではなくて
交響曲第10番だ・・というのも何か・・・自分らしい感じもします。
しかも、それは管弦楽としてではなくて、吹奏楽アレンジ版という変化球で聴いています。

それが何かと言うと、1981年の山形県で開催された全日本吹奏楽コンクール・東北大会の
高校B部門の秋田西高校の素晴らしい演奏だったのです。
考えてみると、この演奏をきっかけに、
「あれ、ショスタコってどういう作曲家で他にどんな作品を残したのだろう・・・
「何か交響曲第五番がやたら有名みたいだけど、どんな曲なのかな・・」
「丁度スターリン体制化のソ連時代と生涯が被っているけど、どんな背景がこの曲にあったのかな・・」などと
ショスタコについていろいろ興味を持つようになり、
私がショスタコにはまる大きなきっかけを作ってくれたようにも思えてなりません。

その意味では、この秋田西高校の演奏と指揮者の佐藤滋先生には、「感謝」の言葉しか
ありません・・・
本当にありがとうございました・・・!!

最後に・・・改めてこのショスタコーヴィッチの交響曲第10番ですけど、
「恨みつらみ」も含めて、副題に「スターリンと私」 みたいな感じが似合いそうな曲だと思います。
でもな・・・やっぱりこの曲は何度聴いても圧倒的にバランスが悪い・・・ 、悪すぎる・・
悲劇的な感じの第一・第三楽章、に対して第四楽章は、前半がそれまでの悲劇的雰囲気を継承し、
幾分幸福感が見えてくるのは、中盤以降のアレグロ展開のみ・・・
うーーん、暗い感じが圧倒的に長くて「救い」的な部分があまりにも短か過ぎるのですよね・・・
第四楽章の後半のアレグロが何となく・・・・「祝典序曲」のあの健康的な明るさすらも感じてしまうのですけど
そこに至る経緯がとてつもなく唐突・・・という印象がある事が
やはりこの交響曲自体を何か「とっつきにくいもの」にさせているのかもしれませんよね。
 
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