マーラーの交響曲は、結構好きな作品が多く、
もしも・・・「無人島にマーラーの交響曲を一曲だけCDに持っていく事を許可された」としたら・・・・
うーーん、第何番を選ぶのかな・・・?
5番・9番も捨てがたいし、やはり・・・1番・4番も大変魅力的だし・・・
ま、間違っても・・・・2番・8番をチョイスする事は無いのかな・・・??
やっぱり選択するのは・・・・交響曲第3番になってしまうかな・・・・
マーラーの交響曲第3番は、自分が知る限りにおいてというか、自分が過去に聴いた曲としては
最も長い交響曲だと思います。
以前、確か・・・「世界最長交響曲」としてギネスブックに掲載された事もあるらしいですね。
演奏時間は約100分です。
第一楽章だけで、35~40分程度の演奏時間を要し、フィナーレの第六楽章も30分前後の
演奏時間を必要とします。
バーンスタイン指揮の第六楽章なんて・・・・本当にテンポがかなり遅くて・・・
「終わりそうで中々終わらないこの交響曲」を見事に最後まで演出していると思います。
モーツアルトやハイドンの交響曲ですらも、曲によっては・・この第一楽章の時間内に収まってしまうくらいの
とにかく「ひたすら長い・・・!!」という感じのシンフォニーです。
タイトルは「夏の朝の夢」としてありますけど、他にも「夏の詩」とか「夏の夢」とか「牧神」なんて
言われることもあります。
最終的には楽章のタイトルや全体の標題も全て作曲者自身によって消去されています。
個人的には第六楽章が大好きなでして、そのイメージがまさに「夏の朝の夢」という言葉が大変しっくりくるので、
私自身は、この交響曲第3番は、「夏の朝の夢」と呼んでいます。
大友直人指揮の東京交響楽団の定期演奏会でも、この表記がなされていました。
だけどこの交響曲、異常に長いのですけど、CDで聴いても生の演奏会で聴いても
「長い」という印象は感じません。むしろ「心地良い」という感じさえします。
一番「巨人」・二番「復活」みたいな人間としての葛藤とか劇的なドラマという要素が少ない代わりに
自然の要素を盛り込んでいるためと思われますが、全体的には穏やかな印象を
私自身は感じとります。
確かに、第一楽章とか第三楽章は少しとっつきにくい面もあると思います。
曲全体が混乱しているというのか、作曲者の意図が見えないとか色々と苦情がきそうな要素も
秘めているのかもしれません。
だけど、よーく聴いてみると、この二つの楽章は、朝=夜 人間界=自然界 現実=夢
現実=過去の記憶 生=死という相反するテーマを全て一つにまとめ上げたというか、
過去の記憶と現在の印象の全てを巻き込み直進していく巨大な「マーチ」という考え方も
出来るのかもしれません。
この曲を初めて生で聴いた際に感じ取ったのは・・・
特に・・・第一楽章におけるあの混沌の中で自分が抱いたイメージと言うのは・・・・
過去と現実の全てを巻き込んだ「行進曲」というものでした。
それにしても、第一楽章の出だしは本当に強烈なインパクトがありますよね。
だって、ホルンが8本でユニゾンを高らかに鳴らしているのですから・・・・
第三楽章は、夢と現実の対比が音楽として生き生きと表現されていると感じます。
この第三楽章も、生きるものと死者、神聖さと世俗さ、夢と現実を対比させつつその全てを
巻き込んだ巨大なマーチとして進軍していきます。
途中で、ポストホルンという限りなくトランペットに似た特殊楽器が舞台袖で夢見るような
ファンタジーを独奏しますが、こうした夢の感覚も長続きせず、夢から覚めて現実に引き戻されるような
感覚で、トランペットによる「起床ラッパ」が突然鳴り響き、いかにも・・・心地よい眠りと夢の世界から
現実の世界に引き戻されてしまう・・・という感じがとても巧みに描かれていると思います。
楽章の最後は・・・・ドラ等の打楽器が咆哮する中で、曲が閉じられ
現実に舞い戻ってしまいます。
改めてですけど・・・
この夢の世界から覚めて唐突に現実の世界に引き戻される描写が本当にうまいですよね・・・・
あれは・・・・
本当に聴く人にそうした「夢→現実の世界」への移り変わりを何の違和感もなく伝えている事が
出来ていると思います。
何かこうした夢の世界から唐突に現実の世界に引き戻すという意味では・・・
ま、確かにマーラーとは作風とか意図は全然違うのですけど
プロコフィエフのバレエ音楽「シンデレラ」のシンデレラのワルツ→真夜中の部分のように
王子との素敵なダンスの時間を過ごしていたのに、「ウッドブロック」で描写される12時の時報の音楽でもって
唐突に現実の世界に引き戻されてしまうというあの感覚に・・・
何か似ているのですよね・・・・
第四楽章は、アルトのソロが、第五楽章はアルトの独唱と女声コーラスと児童合唱が入りますが、
この二つの楽章はせいぜい12分程度です。
アルトの独唱者は、100分程度の長大な曲でも見せ場は1/10もありません。
大抵の指揮者は、第三楽章が終わる時に、アルトと女声コーラスと児童合唱を入場させますが、
これは第三楽章が終わるころで既に一時間の演奏時間を超えている為、オケのメンバーにしばしの
休憩を与える意味もあると思います。
第六楽章は、終始ゆったりとした音楽が展開されていきます。
この部分は、何か「夏の朝の夢」というか、これから現実としての一日が開始される前の
つかの間の幻影みたいな感覚がなんか自分の中にはあります。
20代後半から30代前半にかけて、出勤する時間は大抵朝7時頃だったのですけど、
ほとんどの場合、朝五時半頃に一回起きてシャワーを浴び、この第六楽章を聴いて、夢から現実に舞い戻るような
感覚で家を出ていた時期もあり、
これが特に夏場なんかは、妙に自分の気持ちとマッチするものがあり、
それが特に第六楽章が好きという背景なのかな・・・とも思っています。
特に第六楽章の終わり方は、かなりの特徴があって、一言で言うと「終わりそうで中々終わらない」という印象ですね・・・
ラストの二人の奏者によるティンパニーの巨神がのっしのっしと行進するような壮大さは
一聴に値します。
だけど、いずれにしてもこの曲はやはりすごいとしかいいようがないと思います。
何か「人類の遺産」という感じさえする交響曲だと思います。
この曲は、演奏時間も長いし、リハーサルは大変そうだし、指揮者の力量がストレートに出てくるし、
アルト・女声合唱・児童合唱は要するしで、費用は相当掛かると思います。
そのせいか、一番や五番と比べると演奏頻度は確実に下がると思われますが、そのせいか
この曲は中々生で聴く機会はありませんでした。
1996年のN響の特別演奏会にて、ズービン=メーター指揮で、この第三番を演奏するとの予告が
結構前からあり、期待を込めてサントリーホールでの前売り券を購入したのですが、
いざ当日行ってみると
「諸般の事情により、演奏曲目を巨人に変更する」との告知がされていて、
ものすごーーーーくガッカリした記憶があります。
払い戻し可とあったので、当然前売り券の代金は全額払い戻しされましたが、
かなりの数の人が払い戻しを受けていましたので、皆気持ちは私と同じだったのではないでしょうか?
結局この一年後にやっと大友直人指揮/東京交響楽団の東京芸術劇場での定期で
初めて聴くことが出来ました。
もっとも、アルトの当初予定されていた伊原直子さんが急病の為、急遽代役が
立てられていましたが・・・・
この曲の生の演奏会で最も強烈な印象を残してくれたのが、
ベルティーニ指揮の東京都交響楽団でした。
この演奏、いつかCD化にならないかと今でも思うほど鬼気迫る演奏でした。
交響曲第三番は、当初第七楽章も予定され、いくらなんでも長すぎるし、印象が散漫になってしまうと
判断されたかどうかは不明ですが、この第七楽章は、次の交響曲第四番「大いなる喜びへの讃歌」の
第四楽章として使用される事になります。
だけどこれは賢明な判断だったと思います。
だって、あの巨神が歩くような壮大な終わり方をした第六楽章の後で、あの「天国」のような響きの
第七楽章が続いてしまうと、
これはすごーく印象が散漫になってしまいますし、結果として「よく分らん交響曲」みたいな
扱いになっていたかもしれません。
マーラーの交響曲第四番第四楽章では、これまでの第一から第三楽章の調性と少し
バランスを崩しているように感じる箇所もあるのは、上記の理由と言うか、
無理やり交響曲第三番第七楽章に予定されたものを第四楽章にひっぱってきたからなのでしょう。
何かこれはこれで面白いものですよね。
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