この頃の時代の支部大会は、結構スケジュール的には強行日程でしたよね。
朝9:30に大学の部が始まり、そして職場の部が続き、午前中はそれで終了。
面白いのは、開会式は朝開催せず、
開幕と同時にプログラム一番の演奏が開始されていました。
そして昼の休憩を挟んで、
12:40から、この段階でなんと開会式を行っていました。
そして、PM13:00より高校B部門
そして、PM15:10より高校A部門が開催され、
閉会式はなんと19:40からで、全てが終わったのはPM20:15頃だったような記憶があります。
いやいや、これは今にして思うとかなりハードスケジュールでしたね。
今では信じられないし、
審査員の先生たちも大変だったでしょうね・・・・
〇招待演奏
弘前南高校
1.組曲「ぺリアスとメリザント」
2.組曲「サルタン皇帝の物語」より、熊蜂の飛行
弘前南は、1977年から81年にかけて5年連続全国大会で金賞を受賞し、
規定により、この年はコンクール出場はお休みで
代わりに「名誉演奏」とも言うべき15分程度の持ち時間で、
自由に演奏を披露できるお披露目の場を与えらました。
現在は、「5年連続金賞の特別演奏」というシステム自体廃止となり、
この特別演奏(支部大会の場合は招待演奏)の栄誉を与えられたチームは、
高校では、天理・秋田南・玉川学園・習志野・札幌白石・淀川工業・銚子商業です。
惜しかったのは、愛工大名電かな・・
1984年から87年まで4年連続金賞だったのに、
5年目は、全国で銀にとどまり、特別演奏の特典はNGとなってしまいました・・・
(でも88年の名電の矢代秋雄/交響曲は、ホントひどい最低の演奏だったな・・・)
弘前南のすごいところは2つほどあり、
一つは、5年間の間で指揮者の異動に伴い、指揮者が変更になっていること
二つ目は、このチームは全国に5回進んでいますが、初出場から全て金賞以外の賞は
取っておらず、
もしかして、5回以上全国出場の経験があるチームの中では
唯一100%の金賞受賞率を果たしているのかもしれません。
初出場の「エル・サロン・メヒコ」とか翌年の「道化師」は、
良くも悪くも高校生らしい溌剌とした演奏・・
1980年に指揮者が斉藤聖一先生に変わってからは内面性重視という感じで、
5年間という短期間ではありましたが、サウンドのカラー・方向性をガラリと変えた
非常に珍しいチームだと思います。
招待演奏の曲目は、フォーレの組曲「ぺリアスとメリザント」ですけど、
プログラムの表記がなぜか「テレアスとメリザント」という誤表記になっていたのは
ま、ご愛嬌ですね・・・(笑)
だけど、こんな静かで穏やかで抒情性に溢れ、内面性が強く、そして激しく盛り上がる部分がほぼ皆無の
このフォーレの曲を
「招待演奏」に持ってきた弘前南の「心意気」は高く評価したいですね。
ま、もっともコンクールの演奏としてこれを聴くと、正直評価は割れるかも・・・
だけど「招待演奏」という何の制約もない自由な発表の場だから
こうした自由な発想に基づく音楽が展開できたのかもしれませんよね。
演奏は終始穏やかに展開され、
打楽器・金管セクションは終始暇そうな感じでしたね・・・
だけど木管セクションの細かい音色にまで神経を行き届かせたその「繊細さ」は
高く評価されるべきだと思います。
あまりにも美しくはかなく、もろそうな音楽が15分近く延々と続き、
そのあまりの「繊細さ」に
何か心を揺り動かされたものです。
この組曲で唯一盛り上がるⅣ.メリザントの死の「弔い」を示唆する金管の高まりですら
かなり抑制されていて、
終始緊張感と繊細なつくりに魅了された瞬間でもありました。
コンクールでこの「ぺリアスとメリザント」を聴いた例って
都大会の職場の部の郵政中央吹奏楽団くらいかな・・・
確かあの時は、Ⅰの前奏曲だけを演奏していましたが、
正直完成度は、弘前南の足元にも及びませんでしたが、
繊細さとかはかなさは伝わってきました・・・
圧巻は「熊蜂の飛行」かな・・・
いやあのクラリネットの指回しは、最早曲芸の領域でしたね・・・
招待演奏が終了すると、会場からはまさかの「アンコール」を求める拍手が鳴り響き
指揮者の斉藤先生もアンコールは想定外だったのでしょう・・・
指揮台から困ったような表情を浮かべていましたが、
再度この「熊蜂の飛行」をお披露目し
無事に招待演奏を終了させていました。
1981年までの秋田南もそうでしたけど、
弘前南も、
ティンパニーは、この時代になっても、5年連続全国金賞を達成しても
「手締め式」のおんぼろティンパニーを使用し、
ペダルティンパニーで無かったのは
何かいかにも田舎の県立高校らしい話ですね・・・(笑)
ついでだから、高校B部門についても少し書きたいと思います。
B部門もA部門も出場する人数が違うだけで、特に違いはありません。
Bは35人編成
Aは50人までの編成というのが当時のルールでした。
両部門ともに課題曲はありましたし、
聴いていて、特に両部門を分かつ「壁」みたいなものは全く感じませんでした。
前年度、1981年に山形で開催された第24回大会の高校B部門で、一つとてつもない名演が
出たのが極めて印象に残っています。
秋田西高校のショスタコーヴイッチの交響曲第10番第四楽章なのですけど、
これは実に戦慄を感じさせる演奏でしたね・・・
前半の不安感・緊張感、後半の怒涛のアレグロのスピード感、ラストのティンパニーの叩き付け
すべてがほぼ完璧な仕上がりで
大変充実感を感じさせてくれました。
この時の指揮者の佐藤滋先生は、後に名門、秋田南に異動されますが、
秋田南では、この時のショスタコ10番みたいな演奏を再現する事はついに叶わず
静かに秋田南を去られていたのは、
少し気の毒なような感じもします・・・
佐藤先生は秋田南のOBでもあったのですが、OBをもってしても
秋田南という「伝統」を受け継ぎ、更に自分らしい個性を発揮するのは至難の業だったのかも
しれませんよね・・・
〇新庄北
B/歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲
非常に「真面目」というカラーです。
少し真面目すぎて演奏に「遊び心」は少し欠けていましたね・・・
課題曲Bの難解さと自由曲のこのニコライの温和な序曲の対比が大変面白かったのですが
もう少し、音に「ため」をかけたり
テンポルバートをきかせたり
サウンドの変化に気を付けたら
もっとよくなっていたかもしれません。
〇盛岡第一
D/戸外の序曲(コープランド)
課題曲は大変生き生きとしていて楽しく聴けました。
自由曲の序盤のトランペットの長いソロは、だれることなく最後まで緊張感を維持し
歌うべきところはたっぷりと歌い
走るところは駆け抜け
高校生らしい素直な演奏で、自分としては
金賞を与えたい演奏でした。
残り6団体は次回に持ち越し・・・
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