作家・小川洋子さんの小説「密やかな結晶」が、世界的に権威のある文学賞の一つである英国のブッカー賞の国際版である
「ブッカー国際賞」の最終候補6作品に入ったというニュースを耳にした時は「分かっているね~」ととても嬉しく
感じたものですし、日本では「博士の愛した数式」のイメージが大変強い中で、どちらかというと初期作品ながらも
とてつもない長編で小川洋子ワールドが炸裂しまくっているこの作品が海外でも高い評価を受けていたことが分かった
だけでもとても嬉しいものがありました。
最終的には残念ながらブッカ―国際賞の日本人作家初受賞はなりませんでしたけど、海外でもこの作品が高い評価を
受けていた事は日本人として誇りに感じたりもします。
「密やかな結晶」は2018年に石原さとみ主演で舞台化されていますけど、日本では「忘れられた作品」になりつつある中で、
英語に翻訳され、その翻訳小説が海外でも高い評価を受けていたのは同時に翻訳家の方の大変なご苦労にも強く敬意を
表したいと感じます。
英訳版のタイトルは「The Memory Police」で執筆から25年を経て翻訳本として刊行され、
NEW YORK TIMESが選ぶ「100 NOTABLE BOOKS OF THE YEAR」に選出されているほか、
全米図書賞の最終候補作にも選ばれていたりもします。
なんとなくですけど日本よりも海外での方がこの小説は高い評価を受けているのかもしれないですけど、私自身は
この「密やかな結晶」は1995年前後あたりからお気に入り小説の一つとなっていただけに、この小説の翻訳本の高評価は
とても嬉しいものがあります。
ブッカー賞はイギリスの文学賞で世界的に権威のある文学賞の一つです。
その年に出版された最も優れた長編小説に与えられ、選考対象は、イギリス連邦およびアイルランド、アメリカ国籍の著者
によって英語で書かれた長編小説です。
小説に与える賞であるため、同一作家が複数回受賞することもこれまでにあったりします。
ブッカ―国際賞とは2005年に創設され、当初は受賞対象となる作家を隔年選出していましたけど、
2016年からはブッカー賞と同様、作品を対象として毎年選出されることとなり、原著者と英語への翻訳者の共同受賞となります。
ちなみに2020年時点では日本人のブッカ―国際賞受賞作品は出ていません。
小川洋子というと、本屋大賞を受賞し映画化もされた「博士の愛した数式」ばかりがやたらと有名になっているの
ですが、私の本音をズバリと書いてしまうと、
正直「博士の愛した数式」は何度読み返してみても今一つピンとこないというのか印象が希薄であったりもします。
私のあくまで個人的嗜好でいうと、小川洋子の小説と言うと、「六角形の小部屋」が収録されている薬指の標本とか
極めて初期の作品ですけど「冷めない紅茶」とか「シュガータイム」の方が大好きですし、
小川洋子のあの透明感とかちょっとグロテスクなあの感覚が大好きな人間としては、
「博士の愛した数式の世界はちょっと綺麗すぎるんだよなぁ・・」とついつい余計な事を書いてしまいます。
「密やかな結晶」は消失感・喪失感の世界が淡々と描かれる隠れた名作だと思います、小川洋子ワールド炸裂!!という感じで、
私も大好きな小説の一つです。

一つお断りしてきますが、この小説はとてつもなく長いです!! 400ページは悠に超えていたと記憶しています。
とてつもなく長いのですけど、例によって実に小川洋子らしく淡々と物語は進行していきますし、
登場人物たちの行動・心理はそれ程深くは探求されず、とにかく粛々と透明感を持って話が展開されていきますので
長いとか冗長という感じは全くなく一気にさくさくと読むことは出来ると思います。
確かに淡々と軽めに書かれているのですけど、後で改めて一文一文をじっくりと読んでみると、
実に巧みに書かれている印象もあり、お城の石垣を作っていく時のように、一つ一つの石を廻りとのバランスを考えながら
石を少しずつ積み上げていき、最終的には何かとてつもないものが仕上がっているような雰囲気すらあります。
上記の例えの場合、一つ一つの石というのは「言葉」に相当し、城の石垣というのが「完成した小説」という事に
なるのだと思います。
簡単にストーリーを簡潔に下記に記してみますと・・・
舞台は周囲から孤立した島となっています。
この島では、一つずつ何かが消失していきます。バラとか香水とかモノが消えると、同時に島の人々の頭の中にあった記憶も
消滅していきます。
やがてカレンダーさえも消え、冬以外の季節も奪われたように、冬のような日々が延々と続く事になります。
この物語の世界観では、主人公の女性をはじめ、「段々と記憶を消滅していく人」と
「記憶を失わず、むしろ過去の記憶を取り戻そうとしている人達」に大別されます。
島のほとんどの人達は前者なのです。
主人公の女性は小説家で、彼女は声を失った女性を主人公にした小説を書いています。
主人公の母親も、同じように記憶を失わない後者タイプでしたけど、
そうした人達に対しては、常に秘密警察の記憶狩りの対象になってしまいます・・・
母親も秘密警察に連行され、二度と戻って来ることはありませんでした。
そうした日々の中、女性小説家のかつての編集担当者のR氏と言う方が登場し、そのR氏は母親と同様に
記憶を失わないタイプで秘密警察の追跡対象者となっていて、ひょんな事から彼女はそのR氏を自宅の秘密部屋に
隠匿する事になってしまい、ここから彼女とR氏の不思議な同居生活か始まる・・・
そうした感じの物語です。
だけどこの物語は容赦ないです。
彼女には段々と消滅の影が迫り、彼女の小説という概念すら消滅しようとし、彼女の作品すら消滅する寸前になっていました。
書きかけの原稿は、かろうじてR氏が密かに保管することになったものの、既に彼女には小説の言葉そのものも
失ってしまいます。
その次にやって来たのは、「左足」の消滅でした。
この場合、消滅というのは、消えてなくなったのではなく、
腰から下に確かにくっついているとか体の一部であるという機能も記憶も失われているというある意味怖い状況です。
そして次の消滅は右腕でした・・・
思うように動けなくなった彼女は、隠し部屋にいるR氏に守られて暮らすようになり、どうにか書きかけの小説を完成します。
しかし既に声も失っていて、閉じられた隠し部屋の中で、全て消えていった・・・・
そうしたお話です・・・
私自身、特に消滅願望とか自殺願望というものは皆無に等しいと思います。
私自身、もしも自分自身の存在が消滅するというのならば、この小説のように
ひっそりと・・、誰からも気が付かれることもなく誰にも迷惑をかけることもなく、
いつの間にかひっそりとこの世から姿を消したいという気持ちはどこかにあるのかもしれません。
よくニュースで高齢者の孤独死なんてことが報道されていますけど、
誠に不謹慎な表現になるかもしれませんが、少々違和感を感じるのも事実です。
他人に迷惑をかけてまで、他人に自分自身の生活の面倒を見てもらってまで
「生きたい」とは思えない…と言うのは、
お前がまだ健康だからそんな事が言えるんだみたいな批判は重々承知しているのですけど、
他人に迷惑を掛けてまで生きるのだったら、自分の意志が明確なうちに「密やかな結晶」ではありませんが、
この世からフェイドアウトしていきたいみたいにも思ってしまいます。
他人に迷惑をかけて生きるのなら、他人に自分自身の身の回りの世話まで委託するくらいなら、
小川洋子の小説ではありませんが、
ひっそりと自分自身を消滅させたいという感覚があるのも偽らざる本音と言えるのかもしれないです。
同時に心のどこかで「命ある限りはしぶとく生き続けたい!!」という思いもあるのも事実ですし、
その辺りは微妙ですね・・・
「生きたい!」という気持ちと「他人に迷惑をかけてまで生き続けるのなら、自分の意思としてではなくて世界の意志の結果として
自分自身の存在をひっそりと静かに少しずつ消していきたい」という気持ちというのは相矛盾する要素なのかも
しれないですけど、私自身の心の深層としては「それは決して相反するものではないし、むしろ自然なもの」という感覚が
私の中に存在しているのは間違いないと思います。
小川洋子のこの「密やかな結晶」のあの世界観に触れてしまうと、
青い空の下で雲がすーーーっと消え行く様に、まるで空に溶け込むように消えていくような
自分自身の最期というのも一つの理想的な最期なのではないかとも思ってしまいます。
我が家は子供がいないものですので、私自身と奥様の二人暮らしという事になるのですけど、
うちの奥様も、基本的には生きているのか死んでいるのかよく分らないようなタイプなので、
休みの時に二人で家にいても、家の中もシーン」静まりかえっている事が多いような気がします。
竹中直人主演の映画で「無能の人」という作品がありましたが、
(主人公は元漫画家で、現在は何もせず家でぼんやりとしている。作品の中では親子で拾ってきた石を
小屋で売っているが、当然そんなもの売れるわけもなく、ただひたすら小屋でじっーとしているような御方です)
そのワンシーンで、奥さんが「何だかこうしていると世界で何が起きても私達はこうやって寂しく生きているのかしら・・」と
いったセリフがありましたが、それに近い感覚を私自身が抱くこともあります。
正直今はいいけど、あと何十年かしたら、自分達二人はどうなっているのだろうと漠然とした不安を感じる事もあります。
そんな時にふと感じてしまうのが、あの小川洋子の「密やかな結晶」の世界でもありますね・・
安易に死にたくはないし生きている限りは力いっぱい生きていき絶えず「何か」を精一杯表現する生き方はしたいですけど、
それが出来なくなったときは、ひっそりと消滅していくように
自分自身の最期の瞬間があってもいいんじゃないのかな・・とふと感じるようになったのは、
それが私自身が年を重ねた一つの証拠と言えるんじゃないのかなとも感じてしまいますね。
スポンサーサイト