管弦楽や吹奏楽の木管楽器とは、フルート・クラリネット・オーボエ・ファゴットが主要楽器であり
(サックスは管弦楽ではほとんど使用されないのに対して、吹奏楽ではその役割の大きさはかなり重要なポジションです)
フルートはリードを使用しないメタル系楽器であるのに対して、クラリネット・サックス・オーボエ・ファゴットは
リードを使用する木管楽器でもあります。
そのうち、クラリネット・バスクラ・コントラバスクラ・サックス系はマウスピースに一枚のリードを装着させて吹く
一枚のリード楽器でもあるのに対して、
ダブルリードとは、オーボエ・コールアングレ・ファゴット・コントラファゴットに使用されるリードのことであり、上下の2枚のリードの
振動によって音を鳴らすというのが基本原理といえると思います。
余談ですけど、私自身中学と高校は地方の貧乏公立校ということで、コールアングレ・コントラバスクス・コントラファゴット等は
間近で見たことすらなかったのですけど(汗・・)
都内のとあるポンコツ大学の吹奏楽団に入団した際に、部内に普通に、コールアングレ・コントラバスクス・コントラファゴット・
アルトクラリネット・ソプラノサックス・コンサートチャイム・ロータリー式チューバ・ヤマハではなくてパール社の
ペダルティンパニ四台一組などが備品として置かれているのを発見した際は
「やっぱり都内の学校は全然違うね~」と田舎もの感覚丸出しで感激していたものでした・・
クラリネットやサックスなどシングルリード楽器とは違い、ダブルリード楽器であるオーボエとファゴットは
リード自体が発音体なのでマウスピースが必要ありません。
リードから直接息を楽器本体に吹き込み、リードと楽器本体の一体感はむしろクラリネットよりも強いといえると思います。
マウスピースが無いということで、クラリネットで大問題とされるあの例のキーーーッ!という大絶叫音のリードミスもほぼ皆無で
音程が大変安定している上に、その音色は大変デリケートで繊細で美しいというのがダブルリード楽器の特質とも
言えると思いますし、特にオーボエはクラリネットパートと違い指揮者から目の敵にされることも少なく、
フルートと共に指揮者からは愛されやすい優遇パートといえるのかもとれないです。
このあたりのやっかみとひがみ根性は、当ブログの管理人が現役奏者時代の9/10がクラリネットパートに所属していたことも
大きいのかもしれないですね~(汗・・)
オーボエ・ファゴットのダブルリード楽器の音が鳴る原理は、どちらかというと草笛に近く、
薄く削った上下2枚の繊細なリードを振動させることによって音を鳴らすのですけど、ここで大切なことは
ダブルリードはマウスピースを使用せずリードだけで音を鳴らすこともあり、
リードが含む水分量が吹いた感触し音色に与える影響がかなり大きいという事なのだと思います。
ダブルリード楽器を吹く際には適量水分を与えて湿らせておく必要がありますけど、
水分量が適切でないと音色に濁りが生じたり、音程不良を起こしたり、はたまたまともに音が出ない場合も多々ありますので、
水に浸けておく時間などリードのコンディションの管理も奏者にとっては大事な仕事といえると思います。
「管楽器あるある話」として定番の話のひとつとして、オーボエ・ファゴット奏者は常に片手にコップを持っているか
足元にコップを置いていることが多いというその背景として、ダブルリード楽器のリードの水分確保と調整のために
常に水が必要ということがあるのだと思います。
あれは決して奏者が喉が渇いたから水分補給という訳ではなくて、あくまでデリケートな音色確保という崇高な目的が
あったりもします。
また楽器を使用しない時にはカビが生えるのを防ぐためリードを乾かしておく必要もあり、
吹く際には常に水分が必要などその管理はかなり大変なものがあるといえると思います。
後述しますけど、クラリネットにはクラリネット特有のリード調整というのかリード削りという事も自らする必要が
ありますが、ダブルリード楽器はリードの先の合わせに高い精度が求められ、
ただ削って成形すればいいだけのクラリネット等のシングルリードに比べ、微調整の求められる精度のレヴェルが違うと
いう事なのだと思います。
しかもダブルリードは一本一本が高価な傾向にあります。
相場的にはダブルリード一本で2~3,000円程度とクラリネットやサックス用のリードであれば10枚入りの一箱が買える
レベルの金額になります。
オーボエもファゴットも楽器本体が相当高額なのに、一番の消耗品のリードまで高いのでは奏者も大変ですよね・・
振り返ってみると、貧乏男子高校時代、吹奏楽部の年間の活動部費は学校から支給される金額はせいぜい20万ぐらいでしが、
木管楽器の場合、部費が全然足りないという事で、基本的にはクラリネットとサックスのリードは自腹でした。
それに対してオーボエとファゴットのリードは部費から補助が出るというのもこれは当然至極の話なのだと思います。
そのせいなのか、オーボエ奏者やファゴット奏者はリードを自作する人が多く、
ケーンやチューブ、ワイヤーなどの材料や専用の工具も各自が所持されている事も多かったような印象があります。
そのため、オーボエ奏者やファゴット奏者はクラリネット・サックスなどシングルリード楽器の奏者に比べ
リードを大切にする傾向が大変強いとも言えそうです。
そしてオーボエ奏者はそうした事情もあり、練習している時間よりもリードを調整している時間の方がはるかに長いと
揶揄されるのも吹奏楽あるある話としては鉄板ネタなのかもしれないです。
上記はダブルリード楽器の話ですけど、シングルリードのクラリネット奏者の当時の私の感覚としては、
「オーボエやファゴットも大変だけど、同じくらいクラリネットのリード調整も大変なのかも・・」という感じだったと思います。
当時は毎日毎日リードの調整というか、リードをト草を使って削る事が日課でもありました。
(大学の吹奏楽団でトグサでリードを削ろうとしたら、「トグサを使うなんていかにも田舎者らしい話だね~くすっ・・」と
鼻で当時の上級生のお姉さまたちに笑われたものでした・・
当時は既にリードはトグサではなくてサウンドペーパーを使用する事が主流だった模様です・・)
中学の時に一年間アルトサックスを吹いていた時は、リードは既製品をそのまま使用すれば特に何の問題もなく、
苦労した記憶はないのですが、クラリネット奏者時代は、毎日毎日リードを削って調整ばかりしていた感じもします。
アルトサックスの時は、リコーの2.5程度の薄さの方がヴィヴラートもかけやすく、抵抗感なく音が出せる状態が好きだったため、
比較的薄いリードを好んで使用していました。
クラリネットは神経質な楽器でもありますので、その点は本当に苦労させられました。
アルトサックス時代と異なり、当時の私的には吹く時に抵抗感があった方がより良い音色を出せる感覚が非常に強かったため、
バンドレンやセルマーの4~4.5前後の比較的厚めのリードを好んで使用し、その微調整のために
リードを慎重に削るのが朝の日課という感じでした。
アルトサックス時代はそんな事を全く考えもしなかったのですが、
クラリネットを吹くようになってから、気温・湿度・乾燥度合いによってリードの状態も微妙に変化する事がよく分り、
大体常に5~6本程度の調整済みのリードを準備しておき、その日の外気状態によってリードを変えるという事はしばしばでした。
オーボエ・ファゴットといったダブルリード奏者も共通の悩みがあったようで、
彼らも毎日毎日水を溜めたコップにリードをつけ込み、少し削ってはピーピー鳴らし
又少し削っていくという微調整の作業を延々としていた事は今でも鮮明な印象がありますね。
要はダブルリード゛楽器もシングルリード楽器もリードの管理と微調整は大変だという事に尽きると思います。

冒頭から話がなんだかそれまくっていますけど、本記事のメインはオーボエとファゴットというダブルリード楽器です。
まず初めにオーボエです。
「響け! ユーフォニアム」ではオーボエ奏者はみぞれ一人だけでしたけど、実際の吹奏楽コンクールでは2人奏者が
いる事がほとんどだと思います。
曲によっては一人の奏者がコールアングレ(イングリッシュホルン)を持ち替えする事も多々あったりします。
私的にはオーボエという楽器は人間の声に一番近くて、その音色は素晴らしい癒しの効果があると思いますし、
例えばボロディンの歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊りやイベールの交響組曲「寄港地」~Ⅱ.チュニスからネフタへや
チャイコフスキーのバレエ音楽「白鳥の湖」~第一幕への情景などの
あのオーボエのソロを聴くととてつもなくうっとりとさせられるものがあると思います。
そしてコールアングレというと、私の中で最も心に刺さる曲の一つが小山清茂作曲で、前橋商業の大木隆明先生が
吹奏楽用にアレンジされた管弦楽のための(吹奏楽のための)木挽歌です。
第一曲の主題は管弦楽版ではチェロがあの朗々としたメロディを担当するのですけど、大木先生の吹奏楽版では
コールアングレがこれまた大変鄙びた朗々とした歌を展開していきます。
あのコールアングレの音を聴くと「日本人に生まれて本当に良かった~」と心の底から感じますが、
最近ではあの部分をコールアングレではなくてテナーサックスを使用しているアレンジが主流となっていて
私としては大変残念に感じています。
あの場面をテナーサックスが奏でるとなんだかジャズっぽく聴こえてしまい、かつてシベリウスの「悲しきワルツ」という曲を
テナーサックスでジャズ風に異様に熱く奏でた演奏の違和感と同じくらいのヘンな感じを持ってしまいます。
「響け! ユーフォニアム(第二期)」第1話の中の挿入曲として使われたのが、
チャイコフスキーの交響曲第4番終楽章とボロディンの歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊りでしたけど、
改めてこの「ダッタン人の踊り」を聴いてみると、あのオーボエとコールアングレによる哀愁溢れるメロディーは
本当に胸にジ――ンと染み込んできますし、あの音楽を聴くだけでとつもなくせつなくて哀しくて、何かとっても
うっとりとさせられる気分になったりもします。
あれはまさに名メロディーの極みだと思います。
あの部分はどちらかと言うとオーボエのソロの方ばかりクローズアップされる傾向が無きにしもあらずなのですけが、
哀愁漂う名旋律が奏でられたオーボエの後を引き継ぐ楽器がコールアングレなのですけど、
私としてはあのオーボエよりも音域が低くて幾分ハスキーな響きでもあるコールアングレの美しく儚く哀愁溢れるメロディーも
本当にうっとりさせられます。
オーボエ&コールアングレの哀愁溢れるソロというのは、イーゴリ公の故国を思っての寂しさと自らのふがいなさを
嘆いた歌の部分で、ティンバニのソロで開始される勇猛果敢な部分は、
敵の将軍が落ち込むイーゴリ公を慰めようと、部下に命じダッタン人の民族舞踊をお披露目させる場面です。
後半にかけてのイーゴリ公の敵地脱出を示唆する部分の音楽も、スピード感と迫力があり
大変申し分ない躍動感があります。
だけどやっぱり「ダッタン人の踊り」は、あのオーボエとコールアングレのあの哀愁溢れるソロの部分に尽きると思います!!
あのメロディーを創造したボロディンは、本当に素晴らしい仕事を後世に残してくれたと思います!
あの不思議な哀愁溢れるメロディーは、間違いなく人の心を打つ「何か」を秘めていると思います。
普段日常的にクラシック音楽を聴かない方であっても、あのメロディーラインは是非一度は聴いて頂きたいものがあります!
まさに「これぞ名曲!!」というオーラに溢れていると思いますし、あの名旋律には人の心に間違いなく「何か」は
伝えてくれていると思います。
これまで当ブログで何度も書いた通り、私自身高校に入学した際は、中学の吹奏楽部時代のトラウマから
「音楽大嫌い! 吹奏楽はもっと大嫌い!!」という感じだったのですけど、
高校入学時に当時の吹奏楽部が定期演奏会用に練習していた曲の一つが、この「ダッタン人の踊り」でして、
音楽室から流れてきたあの「ダッタン人の踊り」の例の哀愁溢れるメロディーについつい心が動き、
オーボエのソロの美しさとか全体的に武骨なんだけどとてつもない躍動感に何か魅了され、
入学当時は「高校に入ったら絶対に運動部に入る! 吹奏楽だけは絶対に御免こうむりたい!!」と固く決意していたはずでしたが、
「吹奏楽部に入ってもいいんじゃないの・・?」と気持ちが揺らいでいた時に、
新入生に対する「部活紹介」での吹奏楽部の
「うちの部には、音楽を指揮する先生はいない、生徒の中から指揮者を選出し、自主的に音楽を
創り出していくスタイル」という説明に何か興味を惹かれ
ついつい、練習見学会に顔を出したのが、私が高校でも「吹奏楽部」に入部するきっかけになったものでした。
そうした意味では、この「ダッタン人の踊り」に私自身が魅力を感じていなかったら、
もしも、高校入学当初に音楽室からあの曲が流れていなかったら、
私の吹奏楽部生活は中学だけで終わってしまい、このブログで吹奏楽やクラシック音楽の事を全く語っていなかった
可能性も大ですので、こうした「一つの音楽の出会い」で、人生そのものが劇的に変るという事もあるものなのだと
思いますし、その一つの事例が、繰り返し述べていて大変恐縮なのですけど、私自身が1982年の東北大会で
花輪高校吹奏楽部によるウォルトン/交響曲第1番終楽章の演奏を聴いて、とてつもない感銘と衝撃を受けて、
結果として私自身がクラシック音楽の深い森の中に彷徨いこむ大きな要因にもなった事だと思います。
歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊りは、上記で触れた通り、2016年に放映された「響け! ユーフォニアム」【第二期】の
第一話でも登場しています。
楽器の音…♪【→ みぞれが奏でるオーボエの音です】
久美子 : …ん?
いい音…
だけど…
なんか淡白……あっ!
この辺りの久美子のうっかり失言とか言わなくてもいい事ばかりついポロっと出てしまう失言女王振りは
第一期から既にお馴染みでもありましたね・・
久美子自身はオーボエについて
「その音色は美しい女性の声と形容されるオーボエ。
チューニングが難しい上に、一番細い所の内径が4mmしか無く、息の調整に技術を要する」と評していましたけど、
まさに「その通り!」なのだと思います。
鎧塚みぞれはなんと・・一期ではセリフすらありません! だけど二期に入ると途端に最重要人物としてクローズアップされ、
映画においてもメインヒロインとして大抜擢を果たしています!
みぞれと同じく第二期の最重要人物のフルート奏者で元部員でその時点では退部者扱いの希美が
屋上で奏でていたメロディーこそが、そう・・! 歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊りだったのでした!
そしてこの曲は、みぞれと希美の中学最後の吹奏楽コンクールの自由曲であり、二人にとっては県代表を目指して
日々頑張っていたのに、結果はダメ金すら取れずに銀賞でもって県大会にて散ってしまったという曲でもありますし、
みぞれにとっては、この曲こそがトラウマにもなっていた・・という背景も実はあったりしたものでした。
みぞれは確かに北宇治高校吹奏楽部に所属していますけど、いまだに中学校時代のトラウマを
引きずっているような感じが濃厚で、「心ここにあらず・・、気分はいまだにあの時の中学の吹奏楽コンクールのまま」という
感じなのだと思います。
みぞれ自身は、元々は中学の時に希美から「一緒に吹奏楽やろうよ!」と積極的に声を掛けられ、
そしてそうした強いリーダーシップを発揮している希美に一つの「あこがれ」みたいな気持を持って共に
吹奏楽部の門戸を叩いた経緯があります。
だけどその希美は、高校では色々あったりして既に退部状態で、みぞれの本音としては
「どうして私一人おいて退部しちゃうの!?」みたいな感じで、もしかしたら一人梯子を外されたまま
どこか上の空状態で北宇治高校吹奏楽部に留まり続けているだけなのかもしれません。
そう! 言うならばみぞれには麗奈みたいに「全国大会に行く!」とか久美子みたいな「うまくなりたい、うまくなりたい!」
みたいな明確な意識というのか「目標」をすっかり見失っている状態だったというのが二期の序盤の頃の話でも
ありました。
みぞれとしては、
「希美が既に退部しているのだし、別に私が北宇治の吹奏楽部に留まり続ける必然性も理由も無い」
「オーボエ奏者は自分一人だけだし、今私が退部をしてしまったら、せっかくコンクールに向けて
必死で頑張っている他のメンバーたちにさすがに申し訳がない」
「そうね・・・とりあえずは、吹奏楽部を続けようか・・結局は何のためかよく分からないけど・・・」
みたいな心境なのかなとも思います。
だからこそ、別に大好きで吹奏楽部を続けている訳ではないので、音楽が大好きで仕方が無いからという訳ではなくて
「なんとなく・・」みたいな漠然とした気持ちで楽器を吹いているので、
コーチの言葉じゃないけど、まるで「ロボット」が吹いているような感情がこもっていない音になってしまうのかも
しれないですね。
結局、みぞれ自身の「トラウマ」って何なのかな・・?
その答えの一つがやはり「吹奏楽コンクール」なのだと思います。
みぞれ自身は、いまだに中学時代の吹奏楽コンクールの事を引きずっていますし、それが解決できていないからこそ、
本当の意味でいまだに「音楽」と向き合っていないと言えると思いますし、
別の解釈をするとそうしたコンクールにおける「心の痛み」をヘンな意味で希美に転化させてしまい、それがひいては
本当は大好きなはずの希美までが「生理的に受け付けない・・」みたいな感じになっているのだとも思われます。
そこにあるのは「吹奏楽コンクールにおける光と影」なのだと思いますし、その影の部分をまともに食らっているのが
当時のみぞれの姿なのだとも思えますし、
その辺りの解決、つまり「吹奏楽コンクールと私はどのように向き合っていくのか・・」というのが
「響け! ユーフォニアム」第二期の一つの大きなテーマだったようにも当時感じていたものでした。

続きましてファゴット(バスーン)です。
ファゴットもオーボエ同様にリードが上下2枚から構成されているという事で「ダブルリード楽器」という位置づけです。
現在の吹奏楽コンクールの高校の部でしたら、ファゴット奏者が二人いてもむしろそれは普通なのだと思いますし、
お金持ち学校の場合ですと、一人の奏者がコントラファゴットという一台80万~100万近くする事もある高価な超・重低音楽器を
掛け持ちしている事例も多々あると思います。
ファゴットの音は基本的には低音楽器という位置づけなのですけど、あの独特のユーモラスな音は、
時に陰鬱に時にユーモラスに時にモノ哀しくと様々な表情を見せてくれる事が出来るのが素晴らしいと思います。
ファゴットで私が個人的にいっちば~ん!と感じる効果的な使用事例として、
ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」の冒頭のファゴットの超高音域ソロで開始される場面を挙げたいです。
作曲者としては、「鳴らない音を必死で出そうとする感覚」が欲しかったとの事ですが、
奏者にとっては迷惑千万という感覚もあるのかもしれないですけど、作曲当時の事情はどうか分かりませんけど、
今現在のファゴット奏者はあのような超高音域でも楽々と音を出してしまいますから、ストラヴィンスキーが求めた
「悲壮感」はあまり感じられない感じもあったりします。
だけどあの春の祭典の冒頭ファゴットソロの感覚はいつ聴いてもミステリアスさは伝わっていますね~!
大変面白い使用事例としては、ショスタコーヴィッチの交響曲第9番を推したいです。
第四楽章の金管の重苦しい導入部に続くファゴットの悲痛で長大なソロは、
聴いていて魅力もありますし、いたたまれない・・みたいな哀しさ・憂鬱・メランコリーに溢れているのですけど
第五楽章に入ると、先程まで悲痛なソロを展開していたファゴットが唐突に何の脈絡も必然性も無く
軽いノリのひょうひょうとしたメロディーを展開していく構成になっています。
あの唐突な変化を醸し出せる事が出来るというのもファゴットの一つの魅力なのかもしれないですね。
ショスタコ―ヴィッチは交響曲第9番を作曲している頃は、丁度第二次世界大戦がソ連の勝利のうちに終結し、
嫌でも国家的祝典交響曲を書かないとまずいのではないかという目に見えないプレッシャーを各作曲家が感じていた
時期に符合するのかもしれないです。
初演当時、恐らく聴衆は、ショスタコーヴィッチの新しい交響曲は、ソ連の勝利を祝う大国家的祝典交響曲 みたいなもの
(合唱付き? 別働ファンファーレ隊あり? 演奏時間120分?)を予想していたのかもしれません。
少なくとも当時のソ連の絶対的独裁者のスターリンのご機嫌を損ねるような曲だけは書いてはヤバいのかも・・という雰囲気は
あったと思われます。
それを見事にすっぽかして出来た曲が、この25分程度の軽量級の交響曲第9番だったのです!
第一楽章のいかにも軽いノリやトロンボーンのダメだしみたいな展開
第二・三楽章の可愛らしい展開もいいのですが、
前述の通り、第四楽章の金管の重苦しい導入部に続くファゴットの悲痛で長大なソロは、
これはこれで聴いていて魅力もありますし「少しいたたまれない・・」みたいな哀しさ・憂鬱・メランコリーに溢れているのですけど
第五楽章に入ると、先程まで悲痛なソロを展開していたファゴットが唐突に何の脈絡も必然性も無く
軽いノリのメロディーを展開していく構成になっています。
この唐突な展開は、これは完全に昭和ネタなのですけど、「なんちゃっておじさん」みたいな雰囲気のように
私には思えてならないのです。
「なんちゃっておじさん」とは何なのかというと、やくざ風の怖いお兄さんにからまれたおじさんが急にわんわん泣き出し、
周囲の視線に困り果てた怖いお兄さんが「おい、泣くのを止めろよ」と困惑して慌てだすと、
おじさんがニッコリ笑って「なーーんちゃって!!」というのが主な概要です。
それはほんの直前までさめざめと泣いていた人が急にニッコリして「バーーーカ!!、だまされてんじゃーねーよ!!」とかいって
ケタケタ笑い出すような感覚に近いのかもしれないです。
そしてショスタコーヴィッチの交響曲第9番の第四楽章から第五楽章への展開は、そのなんちゃっておじさんの落差に
近いものがあるように思えてならないのですけど、それを演出しているのがファゴットでもあるのです!
ショスタコーヴィッチ自身も戦争に疲れ果てて、とても面倒くさくて国家を讃える大交響曲なんて
作曲する気になれなくて、こうした脱力系というか、おもちゃ箱みたいな曲を思わず書いてしまったのかもしれないですけど、
この交響曲第9番は確かに重厚長大な深刻な内容の曲ではなくて曲の隅から隅まで
才気煥発みたいな冗談とウィットと楽しさに溢れていて洒落っ気溢れるとてもすてきな交響曲だと思います。
だけど後日この交響曲第9番は大変な批判を浴びてしまい、ショスタコーヴィッチはその後9年近くも交響曲を作曲する
事から遠ざかってもしまいます。
(ショスタコーヴィッチはスターリンの死後、直ちにスターリンをテーマにしたようにも思える交響曲第10番を発表しています)
この「なんちゃって」という言葉自体は「死語の世界」とは必ずしもなっておらず今現在も会話としては結構普通に
未だに使われているような気さえします。
例えばですけど、とっくの昔に高校を卒業しているのに、セーラー服とかブレザー制服をこっそりと着用して
女子高生コスプレ気分を味合う事を「なんちゃって女子高生」とか「なんちゃってJK」みたいな言葉も一部では
あるみたいですね・・(笑)
そのなんちゃってJKですけど、面白いものでして現役女子高生さんが自分の通う学校とは違う制服を着たとしても
その雰囲気はいかにも現役JKみたいな雰囲気を醸し出しているのに、
女子大生さんとか社会人になったばかりのOLさんがJK制服を着たとしても
廻りからの雰囲気としては「あれれ・・この人なんでこんなコスプレしているのだろう・・」みたいに感じてしまうのは、
どうしてなんでしょうかね・・? (汗・・)
10代後半の女の子と10代スレスレの女の子または20代前半の女の子の見た目の雰囲気の壁というものは
もしかしたら結構あるのかもしれないですね・・(汗・・)
私が男子高校生の頃は、吹奏楽部の部室によくエッチな本や雑誌が転がっていたものですけど(汗・・)
あの頃のモデルさんって今風に言うと「おばさんモデル」とか「いかにも年齢詐称みたいなモデルさん」が結構多かったような
印象もあり、当時のちょぃとエッチな雑誌に登場するセーラー服のJKさんらしき皆様は
どうみても高校を卒業して5~7年程度みたいな雰囲気の方たちばかりで
中には「こらこら・・おまえ・・どうみたって30代のおばさんじゃん!」と部員同士でツッコミを入れていたお姉さまたちも
結構多かったような印象もありますね・・(汗・・)
今現在の「なんちゃって女子高生」は高校生との実年齢差はせいぜい1~3歳程度だと思われるのですけど、
昭和の頃のその手の本の女子高生さんモデルは明らかに「なんちゃって女子高生」そのもので
どうみても20代後半~30代のお姉さまたちが相当無理して(滝汗・・)セーラー服とかブレザー制服を着ていたみたいな
印象があったりもしますね・・・
話がヘンな方向に動きそうなのでこの辺にしておきます・・

ここから先は既に恒例になっているのかもしれないのですけど、
dream fantasyのすてきな管理人のアミグリさんが描かれたイラストのご紹介コーナーです。
上記の作品は言うまでもなく「響け! ユーフォニアム」の1年生トランペット奏者の高坂麗奈です!
霊奈はトランペット奏者なのですけど、あの凛とした雰囲気はもしも麗奈が金管楽器ではなくて木管楽器を選んだ場合は
オーボエが最もお似合いといえるのかもしれないです。
そしてこの高坂麗奈は、昨年・・2018年7月に当ブログが迎えた「吹奏楽カテゴリ通算1000記事到達」を記念して
アミグリさんに事前にリクエストをして描いて頂いた記念碑的な作品でもあります!
ちなみに描かれた時期は2018年6月です!
アミグリさんの描かれた麗奈は、アニメ版の特に第一期で見せていたちょっと孤高で気高いオーラとプライドの高い麗奈という
要素を少し弱めて、第二期で見せていた麗奈本来のかわいらしさを感じさせているのだと思います。
北宇治高校の冬服の茶系統のセーラー服のかわいらしさに黒髪ロングの素晴らしさにつぶらでどこか訴えかけるような
瞳の吸い込まれ具合に微笑みの上品さなど
完成度の高さにはただただ脱帽するしかないと思いますし、
「この麗奈を描くのに一体どれだけご苦労をされたのだろう・・」と改めてアミグリさんには感謝の言葉しか出てこないです。
麗奈のこの流れるような黒髪ロングの美しさやキラキラ感も本当に充実していると思います。
笑顔もすてきですし、背景の音符やトランペットも「麗奈はミューズ=音楽の女神様みたい・・」といった雰囲気を
伝えているように思えてならないですね~!
ちなみにですけど、アミグリさんが描かれた上記の高坂麗奈は、ヤフーで
「響けユーフォニアム 高坂麗奈 トランペット」と検索を掛けるとかなりの上位でヒットしますので、
FC2以外でも多くの皆様がアミグリさんが描かれた麗奈をご覧になっていたという事なのだと思います。
上記のアミグリさんが描かれた高坂麗奈は、
その権利は全てこの霊奈を描かれたアミグリさんに帰するものであり、
当ブログにおける転載とご紹介は事前に全てアミグリさんからご了解を頂いたものであり、
アミグリさんからのご厚意で転載をさせて頂いておりますので、
無断お持ち帰りや無断コピーは絶対NGですので くれぐれも宜しくお願い申し上げます。
アミグリさん、本当にいつも素敵なイラストの転載を快諾して頂きありがとうございます!!
皆様の中で「こんなに美しい麗奈を描かれる方のブログってどんなもんなのだろう? 」などと興味がある方は、
是非是非アミグリさんのブログ
dream fantasy を
ご覧になって頂きたいと思いますし、 宜しければ、当ブログだけではなくて、
是非アミグリさんの本家本元のブログ
dream fantasy に一度お越しして頂けると アミグリさんのブログをご紹介させて頂いている私もとってもとっても嬉しいです!
アミグリさんが定期的に作品を投稿され続けている →
アミグリさんのpixiv にも是非一度足を運んで頂ければ幸いです!
→
アミグリさんのpixivそれでは本記事を最後までご覧頂きありがとうございました!