この話は既に何度か記しているのですけど(汗) 1984年の私自身は、
都内の伝統と学費の安さだけは定評があるとあるポンコツ大学にかろうじて滑り込みその大学の吹奏楽団に入団し、
無事にコンクールメンバーのオーディションを通過し、初めて大学の部として吹奏楽コンクールに臨んだ年でもあります。
結果論なのですけど、うちの学校は1982~83年に都大会にも出場していて、かつては全国大会にも出場していた実績は
あったもので、私としても「この4年間で一度ぐらいは普門館で開催される都大会には出場できればいいなぁ~」と淡い期待を
抱いていましたけど、現実とは残酷なものでして私が在籍していた4年間は全て都大会予選で散ってしまい、
都大会本選に出場できず、結果的に普門館のステージに立つことは出来ませんでした(泣・・)
結果論になるのかもしれないですけど、1984年という年はメンバーの技量から考慮すると
4年間の中では最も都大会本選に出場できる可能性があり、技術的には一番充実していた年でもあったと思われるだけに、
この年の都大会予選でまさかの銀賞に留まり都大会本選を逃したことは痛恨の極みと言えそうです。
この年のコンクールの課題曲はBの土俗的舞曲で、自由曲はベルリオーズの幻想交響曲~終楽章 魔女の夜宴-魔女のロンド
でもありました。
この年の課題曲はB /土俗的舞曲はそうした訳で私が初めて大学の部に出場した年の課題曲でもありますので、
私にとっても大変思い出深く懐かしくもあり印象に残っている課題曲でもあります。
この年の課題曲C/シンフォニエッタは急-緩-急の典型的な三部構成の課題曲でしたけど、
土俗的舞曲」もアレグロ-アンダンテ-アレグロという三部構成であり、
前半と後半のエネルギッシュな展開と中間部のゆったりとした歌の繰り返しで構成されるという点では、大変分かり易くて
親しみやすい課題曲であったと思います。
序盤に出てくるクラリネットのピーヒャラ~みたいなメロディーは聴いている分にはとても楽しいものがあると思うのですけど、
クラリネット奏者としては結構大変だったのが大変でもありました。
中間部は、ゆったりとした歌い廻しで同じメロディーを反復して徐々に音量が大きくなり盛り上がっていくスタイルなのですけど、
これはかなり素朴で鄙びていて、この部分をどうやって気持ちをこめて朗々と歌い上げていくのかというのが
この課題曲の一つのポイントだったような感じもあります。
後半も前半部分の再現に近いような雰囲気もあり、全体としては同じメロディーの繰り返しが多いという印象もありましたけど、
そうした反復は聴いている方としても吹いている方としてもそんなにしつこいとかくどいという
印象を与えないのは、確かに泥臭い素朴な曲ではあるのだけど曲自体の雰囲気がどことなく洗練されているとかすっきり
しているというせいもあるのかもしれないです。
私自身、高校は男子高校と言う事で在籍していた3年間はとにかく慢性的なクラリネット奏者不足に泣かされ続けていましたが、
大学の吹奏楽団は全メンバーの75%前後は女の子で、特にクラリネットパートは私が在籍していた4年間は
私以外に男性奏者は一人もいませんでしたので、あれはまさしく「女の子の秘密の花園」に男の子が一人迷い込んできたという
感じでもありました~♪
1984年当時のクラリネットパートは年上のお姉さまたちばかりで、お姉さまたちの恋話とか真夏の練習場での
スカートパタパタだの練習よりもメイクの方に一生懸命という様子には
「やっぱり男子校とは全然雰囲気が違うよね~」と当時は感動していたものでした~♪
課題曲B / 土俗的舞曲は高校の部では3チームしか演奏されていなかったですけど、中学の部では
半数近くのチームがこの課題曲を選択していたのは、あのわかりやすさがあったといえるのかもしれないです。
高校の部では、東邦高校のちょっと粗っぽくて雑な響きでノリは軽いのだけど、(当時の)男子校らしい豪快な響きは
評価としては銅賞という事になっていますけど、決して悪い演奏ではないと思いますし、川本高校の
エネルギッシュなアレグロとたっぷりと歌い上げたアンダンテの対比は大変素晴らしいものがありましたし、
秋田南高校の少し硬くて真面目すぎる響きでしたけど端正な曲作りにも共感する点は大だったと思います。
関西学院大学の抒情的な響きも大変味わいものがありましたし、
東海大学の和を意識したような響きが自由曲の「能面」との雰囲気にも大変マッチしていて、
大変素晴らしい演奏だったと思います。
(ちなみに本日のセカンド記事はその「能面」でもありますので、興味がある方はこの記事も読んで頂ければ幸いです)
土俗的舞曲は、作曲者の和田薫によると、一番最初は二楽章構成のピアノ曲として音大生時代に作曲された経緯があり、
周囲から「この第二楽章のスピード感は吹奏楽コンクールの課題曲に合っているんじゃないの・・?」と勧められ
吹奏楽コンクール課題曲公募に応募したら、見事に入選を果たしたという経緯があります。
そしてこの曲は更に後日「オーケストラのための民舞組曲」というタイトル名の第5曲として管弦楽化もされています。
ちなみにこのオーケストラのための民舞組曲は、マルメ交響楽団、広上淳一指揮の演奏で、
輸入盤ですけどCD化もされています。
吹奏楽から管弦楽曲としてアレンジされているのですけど両者の原型はほぼ一緒です。
目立つところではオリジナルよりやや長尺になっていたり、
後半の盛り上がる部分でのホルン等によるオブリガートを4度高くしてより演奏効果を上がるようになっている程度しか
変更点は無いと思います。
弦の響きも日本の風合いを引き出す役割に徹し、基本的には吹奏楽版と管弦楽版の違いはあまりないと思います。
使用している楽器がたまたま管楽器+打楽器なのか管楽器+弦楽器+打楽器なのかの違いだけなのかもしれないですね。
オーケストラのための民舞組曲は下記の5曲から構成されています。
Ⅰ.囃子
Ⅱ.馬子唄
Ⅲ.踊り
Ⅳ.追分
Ⅴ.土俗的舞曲
囃子は和太鼓のトントントンという響きに、掛け声「ハッ!ハッ!」という合いの手が大変印象的です。
馬子は、コールアングレとチェロの哀愁を帯びたメロディーが大変印象的ですけど、チェロのメロディーは
土俗的舞曲の中でも再現されています。
踊りは太鼓の饗宴と言えると思います!
追分は、哀愁漂うチェロのフレーズが馬子同様に胸を打つ美しさがあると思います。
冒頭にて「コンクールメンバーのオーディション」というワードが出てきましたけど、
吹奏楽コンクールの現実というものはある意味大変厳しいものがあるようにも感じられます。
吹奏楽コンクールは人数制約という規定があり、例えば現在の高校の部なら55名以内というように
部員全員がコンクールに出場できるとは限らないのです。
男子高校時代の私のように、部員自体がギリギリの場合、部員全員がコンクールメンバーになるのですけど、
吹奏楽名門校ですと、部員だけで100人以上在籍している事は珍しくもなんともない話ですので
コンクールメンバーをどう選抜するのかという問題は避けては通れない事なのかもしれないです。
スクールバンドの場合ほとんどは、顧問=指揮者の先生がメンバーを人選するという事なのだと思いますけど、
そうした人選は難しいものがあるのかもしれないですよね。
市立柏・精華女子・淀川工科などのようないわゆる吹奏楽名門校ですと、毎年毎年部員は100人を超えているでしょうし、
コンクールメンバーはどちらかというと上級生が優先という事もあるのかもしれないです。
(出雲高校は進学校ゆえに、3年生は受験専念ということでコンクールメンバーは全て1~2年生であったそうです)
2015年に第一期が、2016年に第二期が放映されていたアニメ「響け! ユーフォニアム」においてもそうしたオーディションという
コンクールメンバー選抜をかなり細かく描いていたのは大変印象的でもありました。
滝先生赴任前の北宇治高校吹奏楽部のように、コンクールメンバーは上級生優先で、
例え下手でも普段それほど練習していなくても、練習態度があまりよくなくても、上級生というだけで
コンクールメンバーを決めてしまうと、 確かに下級生の不満は大きいものがあるのだと思われます。
アニメの「響け! ユーフォニアム」の北宇治高校のように、コンクールメンバーをオーディションで決めてしまいますと、
部員間の切磋琢磨とか 「あいつにだけは負けたくない」みたいな感情もあるでしょうし、
それが刺激となって部全体の技術向上に 繋がる事もあると思います。
でも、それをあんまり露骨にやってしまうと逆に部全体の雰囲気を悪くしてしまう事もありますし、
お互いの足の引っ張り合いとか部員同士の妬みや嫉妬とか色々とギスギスした空気にもなりかねない危険性も
孕んでいると思います。
そうしたオーディション後には、「なんであいつが選ばれるの!?」とか
「どうして自分は外されてしまうの・・!?」といった恨みつらみ・怨念・やっかみ・焼きもちは出てきがちなのだと思います。
これは意外と難しい問題なのかもしれないです。
日本の古き良き高度成長期の頃の日本社会のように年功序列というものは、
年数と経験をそれなりに積んでいれば自動的に昇進もするし給料も上がるという事で
社員全体の安定感にはつながるのだけど、同時に緊張感に欠け、もっとよくなろう!という向上心のある人には
必ずしも向かないシステムとも言えます。
逆に平成以降、急激に日本社会でも浸透しつつある成果主義は一部の人のやる気には繋がるのかもしれないですけど、
大多数の凡人のやる気と意欲はそいでしまうという事と根は同じなのかもしれないです。
いわば吹奏楽コンクール「オーディションというのは、そうした成果主義にも似ている側面はあるのかもしれないです。
アニメ「響け! ユーフォニアム」においては、滝先生はこのオーディションを断行しました!
それは、それまでの「ぬるま湯体質の打破と滝先生自身の本気度を全部員に対して提示したと言えるのだと思います。
そうは言ってもオーディションに落ちた奏者の気持ちを考えるとせつないものはありますよね・・


吹奏楽コンクールの演奏メンバーを選抜するオーディションと言うのは 一つの劇薬みたいな要素もあると思います。
使用方法を間違えると、部員間の相互不信とか嫉妬の感情とか恨みつらみにも繋がってしまうのですけど
同時に、メンバーの緊張感の維持とか「あいつにだけは絶対に負けたくない!!」みたいな雰囲気は、
メンバーの技術向上に かなり結びついてしまう事もありますし、
何よりも下級生にとっては「自分達も努力していい演奏が出来れば、もしかして上級生を追い落として
コンクールメンバーに選ばれる可能性があるかも!?」というやる気を生む可能性もあると思います。
要は、落選したメンバーに対しては、その後のメンタルケアを行い、
運よくオーディションを通過した者には更なる高度な音楽的要求を求めていく事で
何とか部員間の信頼関係は維持できるのかなとも思います。
改めてですけど、このオーディションはとにかく緊張します!!
この怖いとか緊張と言う感覚はオーディションを経験した人間でないとなかなか分かりにくいものはあるのかもしれないです。
私自身の経験で言うと、オーディションにて、指揮者・コーチ・OB等の3~5人の目の前でたった一人だけ吹くというのは、
就活や転職時の最終面接・役員面接と同じくらいの緊張感があると思います。
私自身、こうした吹奏楽コンクールのレギュラーメンバーのオーディションは大学の吹奏楽団在籍時に2度ほど受けました。
1~2年生の時に受けましたけど、3年生以降はクラリネットパートの人数が減ってしまい、
一転して人手不足パートになってしまったので
金管・フルート・サックスの各パートは例年通りオーディションは開催されていたけど、クラリネットと打楽器のみ
オーディションは免除されていたと思います。
以前も書いたと思いますけど、全体練習の際、よく指揮者から一旦合奏を中断し、
「うん・・、ちょっとヘンだな・・・ハイ、練習番号Fのところからクラリネットパートのみで吹いて・・
うーーん、それでは一人ずつ吹いて」と俗にいうさらし者練習という事は結構あったりします。
これって全奏者が見ている目の前で、一人ずつ指定された個所を吹き、指揮者から場合によっては
「ハイ、もう一回」・「うーーん、もう一回」とか
「なんだ、全然出来てないじゃん!、少し外に出て、その箇所吹けるようになったら戻ってきて」とか
言われる場合も多々あり「他人の目というのもありますので結構凹む事はあります。
こうした全体練習での一人さらし者状態より、オーディションは緊張すると思います。
指揮者・コーチ・OBがでーんと目の前で座っている状態で
指定された個所を吹くのはとにかく冷や汗が止まらないという感じでもありました。
アニメの北宇治高校の場合、あらかじめ指定された個所を吹いて、
次に指揮者からその場で指定された個所を吹くという感じでしたけど、
私の場合は、オーディションの場で、指揮者からその場でいきなり
「それでは、練習番号Cから私が止めるまで吹いて下さい」と言われますので
オーディション前は、課題曲も自由曲もとにかく出来ない個所が無いように広く浅く練習しておく必要はあると思います。
そして私が大学1年の時に生涯で初めて挑んだオーディションは私自身、全く意外な方向になってしまったのですけど、
自由曲の幻想交響曲からの指定箇所は無くて、課題曲の土俗的舞曲の練習番号Aから吹く事になってしまいました。
この部分はtuttiの開始からホルンの勇壮なメロディーラインから続く箇所で、
クラリネットは、何か「お祭り」のピーヒャラララーみたいな大変リズミカルでやっかいな箇所でもありましたので、
いきなり、こんな面倒な所から吹かせられて何か嫌な展開だな・・と思っていたら、次は中間部のアンダンテの
ゆったりとした繰り返しの箇所を指定され、大体5分程度で終了したと思います。
そうした意味において、土俗的舞曲という課題曲は私にとっては緊張というキーワードがついつい出てしまいますね・・(汗)

ここから先はなぜか話は「フレッシュプリキュア」に展開します。
実を言うと、土俗的舞曲・オーケストラのための民舞組曲の作曲者の和田薫の奥様は、フレッシュプリキュアで
山吹祈里=キュアパイン役の声優さんを担当された中川亜希子さんです!
和田薫は、土俗的舞曲とか交響的印象「海響」とか交響曲「天地人」とか
管弦楽のための民舞組曲等の作品もありますけど、アニメやゲームの作品の音楽もかなり作品を残されています。
アニメの音楽では、「ゲゲゲの鬼太郎」・「犬夜叉」が特に名高いです。
和田薫と似たような立ち位置の天野正道は、当時は色々なアニメの音楽をも担当されていましたし、
その中では特に映画「うる星やつらⅠ~オンリーユー」の音楽はとても楽しかったです!
和田薫も前述の通りアニメ作品との関連はかなり深そうですので、そうしたアニメ関連の音楽の仕事をされていく過程の中で
中川亜希子さんと出会いの場があったのかな・・?と妄想するのはさすがに考え過ぎなのかもしれないですね・・
アニメと吹奏楽は、これからもそうした結びつきがもっともっと深くなっていければいいかなぁ・・と思ったりもします。
中川亜希子さんというと、歴代プリキュアの声優さんとしては最年長のお方なのかなというイメージがあったのですが、
中川さんよりも年上の方と言うと「キュアムーンライト」の久川綾さんという大ベテランさんもいらっしゃいました。
山吹祈里(愛称は「ブッキー」です)の癒しの魅力に魅了された隠れファンはかなり多いという噂は以前から根強くありまして、
そうしたブッキーファンの人達の事を「ブッ教徒」=ブッキョウトと呼ぶそうです。
これはなかなか上手い表現だと思います!
そういう意味ならば、私もブッキョウトの一人である事は間違いないと思います!。
私の中では、歴代プリキュアの中で特に大好きな黄色系プリキュアというと、パイン・ロゼッタ・ハニーなのですけど、
私自身は言うまでもなく「ラブリー大好き!」というラブリー教徒でもあるので、
私の祈里=キュアパイン大好きというのは、隠れキリシタンではなくて、隠れブッキョウトという事になるのかもしれないです(汗)
ありすの聡明さ、ゆうゆうの万能さ+食い気+色気に比べてみると、祈里はこの二人の先輩プリキュアなのですけど
他の2人とは異なる特徴があると思います。
優しくておっとりとしていて天使の名に相応しいプリキュアだと思います。
私、よく、ハッピー・ラブリー・メロディ・ホイップ・ピーチ・ドリーム等を天使と呼んだりしますけど、
こういう場合の天使とはどちらかというと女神様みたいな意味合いが強いのかなと思っています。
ブッキーの場合は、エンジェルみたいな言葉がぴったりで
本当に本当に誰からも愛されて、どんな怒りの感情を有している人の心も癒してしまう
そうした優しさと慈愛に溢れた素晴らしいプリキュアだと思います。
ちなみにブッキーの通う女子高は白詰草女子学院という典型的なミッション系お嬢様学校でした。
何度かこの学校の礼拝堂で祈里が祈りを捧げているシーンがありましたし、
後半の回でシフォンがインフィニティ―と化して行方不明状態になっている時に
「早く見つかって欲しい・・」と静粛に祈りを捧げていた祈里は本当に美しかったと思います。
そう言えば、ブッキーの決め台詞は「私、信じている・・・!!」でした。
この言葉はフレッシュのシリーズの中でも何度も登場してくるのですけど
この言葉が一番似合う方は、歴代プリキュアの中でもブッキーしかいないような気さえしますし、
例えば私が落ち込んで凹んでいる際に祈里から
「私、(あなたを)信じている!」と言われたら、俄然やる気と気力が復活する事は間違いないと思います!

改めてですけど4代目プリキュアの「フレッシュプリキュア」って本当に素晴らしい作品だと思います。
リアルタイムで当時フレッシュプリキュアを見ていた私の視点としては、
ふたりはプリキュア~プリキュア5で受け継がれてきた「プリキュアの伝統」を守りながらもいかに新しい息吹を視聴者に
感じさせることが出来るのかという大変難易度の高い問題があったと思うのですけど、その点に関しては
イースの存在→パッションとしての覚醒、罪を抱えた人間とどうやって向き合い、その再生をどうするかとか
シフォンと言う赤ちゃん妖精を登場させることでシリーズを通して擬似育児体験を小さい子供たちにも体感してもらうとか
色々と面白い試みが展開され、
結果的にそれは大成功だったと思いますし、そうした新しい試みが2019年もまだまだ続く「プリキュアシリーズ」を
いまだに存続され続けている一つの要因にもなっているような気がします。
私自身はフレッシュプリキュアの最重要人物はせつな=イース=キュアバッションであり、
せつなのイース時代の罪に関しては、無理やり贖罪という方向に持っていかせず、
イース時代の自分の極悪に悩み「こんな私が幸せになっても・・」と悩み苦しむせつなに対して
ラブたちが「そんなのみんなで幸せになってしまえばいいんだよ!」という
論理で押し切っていたのはとてもすてきな話だったと思います。
ブッキーというと色々素敵なエピソードがてんこ盛りでもありましたけど、
その中でも特にすごいと感じさせるのは、ブッキーがパインフルートをゲットする回だったと思います。
シフォンの病気の治療は浣腸による処置がとても面白くてあの時のブッキーは大変手際がよく、
なぜか医療用のゴム手袋を日頃から持ち歩いていたのは、さすが動物病院の看板娘という感じでもありました。
そのせいで結果的に美希たんが一人蚊帳の外になってしまい、
あのあまりにも有名なセリフ「どうして私だけ・・・」が生まれていく事になるのです(汗・・)
フレッシュプリキュアは、イース時代の第一部とイースがパッションとして覚醒した第二部では、物語の本質が明らかに異なり、
明確な二部構成の物語だったと思います。
フレッシュの主人公は言うまでも無くラブなのですけど、
物語全体の最重要人物は、せつななのだと思います。
第一部でのイース(=せつな)は
ハピネスでのオレスキーが「自分がNo.1であり続けないと」みたいな一つの価値基準だけに支配されていたように
「自分の全てをメビウス様に捧げ、メビウス様のためにだけ自分自身は生きる」という
一つの価値基準だけを絶対的な価値観として捉えていました。
そしてプリキュアとして覚醒以降は「自分が今までやっていたことは何て恐ろしい事なんだ」という大変な罪の意識に
悩まされる事になります。
このフレッシュプリキュアの物語は素晴らしいと思います。
そんなせつなに対しても
「今まで迷惑を掛けてきた人たちに謝罪しろ!」とか
「贖罪的な意味でせいぜいプリキュアとして罪滅ぼしに精を出せ!」みたいなマネは一切させませんでした。
それではどのような道を提示したのかというと
それは一言で言うと、
イース時代のせつなもせつな、だけどキュアパッションとして覚醒したせつなもせつなとして
贖罪の為にだけ生きるとかメビウス様のしもべとして生きるなどのような
一つの価値基準のみをベースとした生き方を提示したのではなくて、
「ドーナッツを皆で食べる事も幸せ」
「全員でダンスをする事も幸せ」
「みんなでドングリ拾いをする事も幸せ」
「家族全員で食事をする事も幸せ」などのように
日常生活での大小さまざまな形での幸せが実はあるんだよ・・・
一つの価値基準ではなくて、世の中には色々な価値観や幸せの感じ方があるのだよなどと
多種多様な価値観の存在を提示したような気もします。
罪の意識で悩んでいるせつなに対しては
「せつなはまだまだやり直せる」→「せつなだって幸せになったって構わない、幸せになれる権利がある」
と明確に提示し、
せつなの再生の物語を第二部として提示していたような印象があります。
第23話でのカオルちゃんから示唆された
「罪を憎んで人を憎まず」
↓
贖罪の気持ちから「精一杯頑張る・・・」みたいな気持ちで罪滅ぼしをしたとしても
せつな自身が「それで本当に自分の過去の罪は消えるのか・・・」という
自問自答の苦しみ・・・
↓
「罪は罪」とするけど、せつな自身の「幸せ」も全員で掴んでいこう!!
この3ステップがフレッシュ第二部のメインテーマでしたけど、
結果的に見事にせつなを含めた4人それぞれの幸せを発見できていたと思います。
改めてフレッシュプリキュアを振り返って見ると多種多様な価値観と幸福感を背景に、
4人の女の子がそれぞれハッピ」を掴み取り、そして羽ばたいていき
同時にせつなという一人の女の子の救済を描いたすてきな物語だったと思います。
こうやってフレッシュの話を書いていると、久しぶりにフレッシュプリキュアのあの感動的な第23話を見たくなってしまいますね~!