上白沢慧音は、獣人(半人半獣)という位置付なのですけど、てゐ・うどんげちゃん・橙・藍のように「獣」みたいなのだけど
その本質は「妖怪」という皆様たちと異なり、
限りなく「人間」の立ち位置に近いし、人間友好度も極めて高いですし、
活動目的というかほぼ全てが「人間のために」という大変ありがたい先生でもあります。
人間ヴァージョンとしてのうどんげちゃんみたいな長髪も大変印象的ですけど、人間として寺子屋の教壇に建っている際の
あの独特の帽子・・・六面体と三角錐の間に板を挟んだような形の青い帽子がとても印象的です。
胸元の赤リボンとかスカートの先端の白のレースもとってもすてきだと思います。
満月の夜に白沢(ハクタク)という獣になった時には、幻想郷の歴史の編纂作業を行なっているとの事です。
ハクタク化するのは満月の時だけに限られ、時間制約があるせいか、普段と異なり、かなり苛立っている雰囲気も
あるとの事で、不用意に近付くと角のある頭で頭突きをされる恐れがあるとの事です。
この頭突きは人間化している祭の寺子屋の先生の「懲罰」としてやることもあるみたいで、
共に相当痛いらしいですね・・・
(二次創作では、寺子屋に通い出したチルノが宿題忘れまくり、慧音先生から頭突き食らっているシーンは定番ですね!)
「獣人」には先天性と後天性があるとの事ですけど、阿求の著作によると、慧音先生は
後天性との事で、実は慧音自体は元々は列記とした人間で、両親も当然ながら人間との事です。
普段は人間としての活動&形態を取っていますけど、前述の通り、
満月の夜のみ「白沢」に変身し、この時には、白沢としての役割でもある幻想郷の歴史の編纂及び一部改訂(?)を
しています。
普段は、人里に住み「寺子屋」を開き、幻想郷内の人里の子供たちに「歴史」を教えています。
慧音先生の歴史の授業は結構難しいらしく、 生徒からは「退屈でつまらない」と言われ、
阿求からも「私が授業をした方がきっと面白い」などと言われている始末です(笑・・)
授業なんてものは大抵はつまらないものだから、それは仕方が無いのかな・・・・?
ちなみに慧音先生は大変生真面目な御方でもありますから、授業中に寝ていたり、宿題を忘れてしまうと、
なんと・・!! あの痛そうな帽子を被ったままの状態で頭突きというお仕置きを食らうそうです!
あの状態で頭突きを食らったら痛さのあまり目を覚ますどころではなくて、そのまんま永琳がいる永遠亭まで
怪我の治療に搬送される可能性すらあるのかもしれないです。
慧音先生の人間としてのお姿は、「真面目な女教師」そのもの!!という
感じですし、「先生!!」という呼び方が幻想郷で最も相応しいお人のようにも思えますね。
「東方鈴奈庵」では、この寺子屋は慧音先生の他にも複数の先生が在籍している描写があり、
授業も歴史に限らず、読み書きそろばんといった普通の授業もやっているみたいですね。
よく二次創作においては、「いけない女教師」とか、「慧音先生は昼間は寺子屋の先生、夜は僕の個人教師」とか
はたまた「幻想郷の若い男の子は昼も夜もみーんな慧音先生の教え子」みたいな描写もあるようですけど(汗・・)
慧音先生は根が真面目な御方ですし、そうしたよからぬ妄想はご法度ですので、
よいこのみんなはそんな事言ったらダメですよ~(汗・・)
その上白沢慧音なのですけど、実は公式設定を見た限りでも、実はあまりよく分からん・・・!!みたいな
感じが漂うキャラでもあるのかなとも思います。
上記の通り、慧音は生まれつきの人獣ではありませんし、ある日突然そうした妖怪みたいなものに変容した経緯が
あるのですけど、どうして経緯がそのような人でありながらも獣に限りなく近い妖怪みたいな立ち位置になってしまったのか
みたいな経緯は全く触れられていません。
その辺りは、正直、「脳内妄想の範囲」で考えるしかないでけど、
「人獣」ですから、要は西洋の「狼男」みたいな設定に近いとも思えます。
または、カフカの「変身」という小説ではありませんけど
「ある朝目覚めると、自分が一匹の巨大な毒虫になっているのに気付いた・・」 といった世界なのかもしれないです。
慧音みたいな幻想郷のうら若き乙女が突然そんな「獣」になってしまったとしたら、本人としてもとてつもないショックが
あったのかな・・?とも思えるのですけど、
「ショック」とか「どうして私がこんな目に・・」といった「悲愴感」は慧音からは全く伝わってきません。
むしろ逆になんか「自分の意志」でそうした「人獣」としての道を選んだのかな・・?とすら思ってしまいます。
八坂神奈子がお空に「八咫烏」としての力を与えたかのように、
幻想郷内の神が慧音にそうしたハクタクとしての力を与えた可能性ももしかしたらあるのかもしれないですけど、
その辺りは公式でも何にも設定がありませんので、想像の域に留まってしまいそうです。
私の脳内妄想としては、慧音は、元々「歴史」に大変興味がある女の子で、
今風に言うと「歴女=れきじょ」という感じだったのかもしれないですよね。
幻想郷自体は、人間と妖怪の「微妙なバランス」というのか「妖怪は時に人間を襲い、人間は妖怪を恐れ、
そして定期的に巫女等に依頼し妖怪を退治する」という絶妙なバランスで成立しているとも言えます。
妖怪というのは基本的にはどの妖怪も恐ろしくご長寿な方達ばかりなのですけど、
人間と言うものはにはおのずから「寿命」というものが最初から存在し、
大体20~30年で「代替わり」が果たされていきます。
だから、「あの日あの時こんな場所でこんな妖怪に出会い、こんな酷い目に遭った」みたいな記憶と記録と言うものは
どんどん薄れていってしまいます。
妖怪側としては「昔も今も大して変わりがないじゃん・・」みたいな感覚なのかもしれないのですけど、
人間側の記憶・記録が曖昧なものとなり、
特に幻想郷に結界が張られるようになり、以前ほど「妖怪は恐れるべきもの」という意識が強くない状態ですと、
妖怪にとっても張り合いがありませんし、
人間にとっても「こういうある意味平和な状態が来るまでの間にどういう過程があったのか」みたいな
意識も薄れていくのかもしれません。
人間と言うものは、阿求みたいに「先祖代々の記憶」を例えうっすらとでも「継承」は出来ないものですから、それは仕方がないと
言えるのだと思います。
こうした「妖怪と人間に関する歴史」というものを、現在から歴史を発見・探索していくという方法ではなくて
「歴史」という動きを、「現在の動き」のように、昔から脈々と受け継がれていくべきかのように、
歴史そのものを現在の事のように伝え続けていく事の重要性を絶えず提唱し続けているのが
慧音先生の役割ではないのかなと思ったりもします。
例えばゆかりんとかレミリア様とか永琳のようなとてつもない巨大な力をお持ちの御方から、阿求の先代とか先々代に対して、
せっかく阿求の先代たちが編纂した歴史書に対して
「ここは、私があまりにも悪く書かれ過ぎているからこのように修正しなさい」みたいに指摘を受けてしまい、
不本意ではあるのですけど、そうしたお強い御方の意向を受けて歴史書に修正・変更を重ねていく実態に対して
「それは違うんじゃないの・・・! 私達、幻想郷の人間の歴史は、私達人間のもの!!」という
「義憤」とか「使命感」みたいなものを感じて、
「今現在の幻想郷の現実・実態はこんな感じだ!!」というようにまさに「今現在の生きている歴史」をそのまんま
後世に伝え続けていくことの必要性を認識し、それを自らが「ハクタク」という人獣になるというある意味リスクを
背負ってでも実践しようとした強い意志の御方がこの慧音と言えるのかもしれないですよね。
そうそう、私が大学生の頃、「近現代西洋政治史」の講座の中で、担当教授が半分口癖のように、
「紀元前5世紀を生きた歴史家は紀元前5世紀の頃の現代史を書き、
19世紀の歴史家は、19世紀の頃の現代史を書いた。
つまり、古今東西の歴史家は常に現代史を書いているのだ」みたいな事を言われていたのですけど、
これはまさに慧音が実践している事とほぼ同じなのかな・・とも思います。
つまり、「歴史」というのは、「現代史」の積み重ねという事なのだと思います。
そして慧音が幻想郷で「寺子屋」を開設したのも、
「今現在の生きている歴史」を後世に伝え続けていくことの必要性を、一人でも幻想郷の人たち、特に子供たちに伝え、
「歴史の普遍的価値」を後世に受け継いでいきたいという気持ちから出てきたものなのかなとも思いますね。
幻想郷内で発生した異変等をゆかりん・レミリア様等の妖怪にとって都合が悪ければ、それを場合によっては
無かったかのように書き記したり、逆にそうした異変は無かったのにさぞ大異変が発生したかのように記し
それをゆかりん等の妖怪たちが華々しい活躍でもって解決したみたいな歴史編纂の捏造の片棒を担ぐというのが
本来の慧音の役割なのかもしれないのですけど、やはり根が真面目な慧音先生としては、
そうした「歴史の歪曲」の片棒担ぐというよりは、幻想郷内でおきた様々な異変を正しく「客観的事実」として伝える役割を
担っていると解釈した方が妥当性があるような気もしますし、
それが慧音先生が幻想郷の人里で「寺子屋」を開いて幻想郷の子供たちに歴史を教えている理由にも
なっているんじゃないのかな・・・?ともふと考えたりもしますね。
歴史において「事実」と「真実」は実は違うと言えるのかもしれないですね。
歴史的事実とは絶対的に正しい事実であり、後世の様々な人たちによる解釈とか誤解とか意図が
そこに入り込むことは無いと思いますし、
神のみぞ知る領域なのだと思います。
それに対して「歴史の真実」というのは、要は人それぞれというのか、たとえその歴史的瞬間に立ち会った複数の人たちでも
考え方とか見方とか思惑等によって、捉え方が異なってくるという事なのだと思われます。
要は、事実は常に一つしか存在せず、真実は複数存在しているというのか、一人の人間に「一つの真実」がそれぞれ存在し、
一つの歴史的事象に対して、事実は一つしかないけど、
その歴史的事象に関わる人が仮に100人いたとすると、100通りの歴史的真実が存在しているという事なのだと思います。
事実とは実際に起こった事柄とか現実に存在する事柄を示すのだと思いますし、
真実とは、その人にとってうそ偽りのないことや本当のことというあくまで主観的なものであり、そこには事実のような
客観性には欠けるのかな・・?とも思ったりもします。
事実は現実に起こった出来事だけど、真実は人間の頭の中で起こった出来事ともいえるのだとも思います。
私たち人間は、そして私達人間が創り出してきた「歴史」というものは、決して「神の歴史」ではありませんので、
現実に起きた事象はたった一つなのですけど、人間が100人いれば100通りの解釈があるのだと思いますし、
それが「その人としての真実」と言えるのだと思います。
そうした事から、人間の歴史というものには後世の人たちの主観とか思惑によって様々な解釈が生まれてくるのだと
思います。
例えば、「赤穂浪士」は日本人にとっては大変馴染みの深い話なのですけど、
吉良家にとっての真実とは、「色々と礼儀作法を教えてあげたのに恩を仇で返された」と言えるのかもしれませんし、
判官びいきの多くの日本人にとっての真実とは
「吉良はとんでもない奴、こんな奴は仇討されて当然」と言えるのかもしれないですし、
やはり真実とは「その人の心の中にある」という事なのかもしれないです。
そうした意味では、「歴史」というのは時の政権の担い手によって歪曲化されたりもしますし過度に美化されたりもしますし、
逆にその時の政権の敵を過度に悪く言う事はよくある話なのだと思われます。
政権が変わると前政権を攻撃し否定する事で新政権の正当性を主張するという話は、中国でよくありがちな
話なのかもしれないですけど、それはむしろ世界各国の古今東西でよくある話なのかもしれません。
ですので、政権が変わるたびに歴史が編纂し直され、都合の悪い歴史が削除されて新たに作られた歴史に差し替えられてきた
というのがこれまでの私たちの世界の「歴史の真実」なのかもしれませんし、
その一つしかない「歴史的事実」を正確に把握しているのは、「神」だけなのかもしれないですし、
幻想郷内でおきた様々な異変を正しく「客観的事実」として伝える役割を 担っているのが阿求であり、慧音先生と
言えるのかもしれないですね。

上記で記した慧音先生の役割だけを見てしまうと、真面目とか頭が固いというイメージも湧き起こりがちではあるのですけど、
慧音先生というともう一つ欠かせない要素は「藤原妹紅」との絡みなのだと思います。
「東方永夜抄」Exステージでは、「あの人間の護衛のため」と言いつつハクタクに変身していますけど、
その「あの人間」とは言うまでもなく、もこちゃん=藤原妹紅です。
そして、小説版の「儚月抄」では、妹紅が慧音の事を「数少ない私の理解者」とも評しています。
東方の世界では、慧音と妹紅のカップリングは「もこけー」という百合カップリングとして既にほぼ定着化しているのですけど、
それでは、どうしてこうしたカップリングが成立したかと言うと、これって実は公式でもほとんど説明・描写が
ありません。
この点に関しては各自の脳内妄想に頼りっきりという状態になってしまうのかもしれないですし、
もこけーの歴史に関しては客観的事実と言うよりは「妄想」としての想像の域を脱しきれないというのもなんだか
大変面白いものがあると思います。
どちらかというと無愛想・不器用な性格であまり他人との交流を好まない妹紅なのですけど、
そうした妹紅を何かと気にかけている慧音なのですけど、
どうして元々慧音は妹紅の事を気にかけるようになったのかな・・・?みたいな事も何だか気になってしまいますね。
ご年齢的には、妹紅の方が慧音よりはるかに年上だと思われますからね・・・
上記の通り、慧音は「人間」とは異なるものですけど、
妹紅も「蓬莱の薬」を飲み、不老不死になった時点で既に人間とは言えない状態とも言えますので、
人間とは異なる立ち位置という「共通点」から、
なにかお互いに「気持ちがよく分かる」というのか「同情できる点」が多々あるのかなとも思ったりもしますね。
そうした事を示唆していたのが、「東方文花帖」のアンソロジー漫画として掲載されていた
ふじみやみすず先生の「永夜の狭間」という作品なのかなと思ったりもします。
あの作品の中では、どちらかというと、慧音先生がとてつもなく美少女にロリッぽく描かれていて、
慧音の「妹紅大好き!!」みたいなオーラが遺憾なく発揮されていたのがとっても印象的でした!
それをちょっとからかうみたいな感じの妹紅の「(慧音を)食べちゃいたい・・」みたいな発言もとってもかわいかったです!
あの漫画の中では、二人の出会いの経緯とかも特に明らかにされてはいませんでしたけど、
妹紅の慧音を評しての「あのまっすぐなところが私には眩しすぎた・・」みたいな発言は大変興味深く感じたものでした。
経緯という訳では無いのですけど、
妹紅が幻想郷にやってきて間もない頃、妹紅の住いの縁側に誰が置いたのかわからない謎の食糧が
置かれていたそうでして、それを置いていたのは言うまでもなく、慧音だったのでした。
その際に慧音のあの特殊な(?)帽子の先端が、家の垣根から出ていましたので
「また慧音か・・」と妹紅が気が付いたのが二人の親交の始まりという事なのかもしれないですよね。
あの漫画のラストシーンは、輝夜から「あの二人を倒してきなさい」との命令を受けた永琳orうどんげちゃんが
急襲してきた場面で閉じられるのですけど、
妹紅からの言葉では、これまで何度も繰り返し行われてきた戦いとも言っていますし、
これからも永遠に続く戦いとも言っていますから、
慧音+妹紅は、永琳クラスの実力者とも互角に渡り合える力を持っているのかなとも思ってしまいます。
この二人の更なる公式での絡みも今後増えてくると嬉しいものがありますね!!
そして二人の関係も含めてその真実はやはり「謎」に包まれている方が東方ファンとしては面白いのかもと感じるのかも
しれないですね。

さてさて、ここから先は既に恒例となっておりますアミグリさんのイラストのご紹介コーナーです。
上記の妹紅と慧音先生のいわゆる「もこけー」の二人のイラストを描かれたのは、
dream fantasyの管理人様のアミグリさんです。
上記のもこけーイラストは、2012年4月に描かれた作品で、アミグリさんの「淡い色彩時代」に突入していた
時代と言えるのだと思います。
アミグリさんが描かれたもこけーは、少しツンデレ気味の妹紅と生真面目な寺子屋の先生の慧音先生の
ちょっと百合っぽいすてきな一枚に仕上がっていると思います!
本当は嬉しいくせに、慧音にスキンシップをされると表面上は「ちょっとやめてよ・・」と拗ねてしまい中々素直になれない
妹紅の描き方がとてもうまいと思います。
慧音先生は前述の通り、昼間は寺子屋の先生で、阿求風に言うと「堅苦しい授業をしている」という事らしいのですけど、
寺子屋では恐らく見せない慧音先生のこの満面の笑顔の描き方も素晴らしいと思います!
そして慧音の「フリル地獄」に近い感じのフリルの描かれ方も 丁寧で実に「いい仕事」をされていると思います。
もこちゃんは東方ゲームでは最近でも何作品か出演を果たされ、本年度・・2018年度の東方人気投票においても
あのあややを抑えて堂々のベスト10入賞を果たすぐらい東方ファンの間では大変人気が高いキャラではあるのですけど、
是非ぜひ慧音先生ともこちゃんのカップリングとしての出演も久しぶりに実現して欲しいものですね!
上記のこのもこけーイラストは、アミグリさんからのご厚意で転載をさせて頂いておりますので、
無断お持ち帰りや無断コピーは絶対NGですので くれぐれも宜しくお願い申し上げます。
アミグリさん、本当にいつも素敵なイラストの転載を快諾して頂きありがとうございます!!
是非是非アミグリさんのブログ
dream fantasy も
ご覧になって頂きたいと思いますし、
宜しければ、当ブログだけではなくて、
是非アミグリさんの本家本元のブログ
dream fantasy に一度お越しして頂けると
アミグリさんのブログをご紹介させて頂いている私もとってもとっても嬉しいです!
来週土日の当ブログは、トップ記事共に東方キャラ語りとさせて頂いております。
その中で描かれた作品の中に、アミグリさんが描かれたイラストとしては当ブログ初転載の作品も含まれていますので、
大注目して見て頂けるととても嬉しいです!
今度の土日も当ブログで皆様のお越しをお待ち申し上げます!