1982年と言うと、自分は高校二年生で、この年はどんな年だったかと言うと
東北新幹線が仙台~大宮間でやっと開通した年です。
大宮が終点の為、大宮~上野間は確かリレー号みたいなものがありましたね。
確か記憶では、仙台~大宮間が2時間程度掛かり、
現在のように、1時間15分程度で到着する時代ではありませんでした・・・
この年の全日本吹奏楽コンクールの東北大会は福島県で開催され、
本当は新幹線で行きたかったのですが、貧乏高校生の当時の自分にそんな余裕も無く
東北本線という在来線を始発から乗り継ぎ乗り継ぎ福島までたどり着いたという感じでした・・・
ただ帰る時に、東北本線が確か事故か何かで運転中止となり、
振り替え輸送という事で、何と福島~仙台間を差額無しで新幹線で乗れることとなり
これが実は生まれて初めての自分の新幹線利用という事になったのでした。
1982年の東北大会のレベルは恐ろしいほど高かったと思います。
もっとも当時の自分は、吹奏楽というか音楽全般の知識とか経験とか全然無かったものですから、
恐らく当時はどんな演奏を聴いても
「へえー、すごーい!!」と感心していたようなものでしたから、
現在の肥えた(?)耳から聴いてしまうと
「大したことない・・」という印象になるのかもしれませんけど、
耳がまだ肥えていない時期に聴いたレベルの高い演奏だからこそ、
後に及ぼした影響と言うのか、インパクト・感銘度は今とは全然違う感じなのかもしれませんよね。
いずれにしてもこの日聴いた素晴らしい演奏の数々ほど後の自分に多大な影響を及ぼしたものは
無いと思います。
自分が大好きな交響曲を三つあげなさいと言われれば
〇プロコフィエフ/交響曲第5番
〇矢代秋雄/交響曲
〇ウォルトン/交響曲第1番
と迷わずにあげてしまうのですけど
実はこの三曲とも、この1982年の東北大会で演奏されたものなのです。
吹奏楽編曲版という変化球なのですけど、
それを聴く事によって、その曲に興味を持ち
「それでは原曲はどんな感じの曲なのだろう・・・」
「他にどんな作品を残しているのだろう」
「同時代にどんな作曲家がいたのたろう・・・」
「この曲に影響を与えた人の作品にどんなものがあるのか・・」など
自分がクラシック音楽の深い森に迷い込むきっかけを作ってくれたのがこの東北大会と言っても
全然過言ではありません。
だから、長い人生の中では「たった一日」なんでしょうけど
後世への影響度という意味では、この東北大会を聴けた意義は自分の中では相当大きいと
今でも思っています。
勿論演奏もホント、素晴らしかったのですけどね・・・
この4年後の1986年にやはり東北大会を聴きに行ったのですけど、
この時の感想は、
「なにこれ、随分とレベルが低い・・・、東北も落ちたもんだ」と感じたものでした。
何だろう、この落差は・・・
恐らく客観的に見て、東北全体のレベルがこの年は下がったという感じなのかもしれません。
事実、1985年~1998年まで東北ブロックから、全国大会・金賞は一度も出ていませんし、
この時代は「東北ブロックの暗黒時代」とも言えます。
だから耳が肥えていない時代に、何もかもが新鮮に聞こえる時代に聴いたから
何でもかんでもうまく聴こえたという訳でも無いとは思います。
だけど、いずれにしても
くどいようですが、この日の東北大会の演奏によって自分の中の何かが変わったという事は
絶対にあると思います。

余談ですが、
この日の東北大会に臨んだ際の自分自身は、何かある意味ハイな状態でした・・・
東北大会・高校の部は10/2だったのですけど、
その前月は自分自身が県大会に臨み、それが終わるとすぐに文化祭のステージ、
そしてそれが終わるとすぐに学校の中間試験、
そして試験の翌日から5泊6日の北海道への修学旅行・・・
何か色々と行事が立て込んでいました。
そして修学旅行も、9/30の夕方に苫小牧でフェリーに乗り込み
翌日の10/1の昼過ぎに仙台港に到着したのですが、
あいにく海の天候が芳しくなく、船の上では終始ユラユラしていました。
その関係で半分以上の生徒は船酔いでゲロゲロ状態・・・
自分は船酔いは全然平気でしたけど、
寝る場所も大部屋の雑魚寝状態でしたので、ほとんど眠れないまま朝を迎え
生まれて初めて海上から昇る太陽を拝めることが出来ました・・・
フェリーから降りても、
三半規管が完全に麻痺状態となっていて、
目をつぶってじっとしても何か体が上下に揺れる感覚が残っていて
何かすごーくヘンな感覚でした。
そうした状態は翌日の東北大会の際も続いていて、
感覚としては、「体はものすごーく疲れているのに頭というか感覚だけは妙に敏感」という感じで
妙に神経だけ鋭角という状態でした・・・
ま、この辺りも多少色々と影響はあったのかもしれませよね・・・
演奏を聴いていても、やはり微妙に体が上下に揺れるという感覚も残っていましたしね・・・
更に余談なのですが、
東北大会から家に戻ってみると
母親が「自宅の電話が先ほどから鳴りっぱなし・・・」との事
(当時は携帯電話も何もない時代で連絡方法は固定電話だけでしたね・・・)
聞いてみると電話の相手は、吹奏楽部関係者、顧問の先生、応援団という事で
「まさか・・・」と思っていたら
何と野球部が、宮城県の秋季大会でまさかまさかの準決勝勝利で
翌日の10/3に東北高校との宮城県大会の決勝戦があるとの事で、吹奏楽部も応援演奏に来てほしいとの事でした・・
そして、翌日決勝戦の応援に行ったのですが、
(東北高校は野球部の名門で、ダルビッシュもかつて所属した強豪校です・・・)
一回の表にうちの高校が1アウト三塁から犠牲フライで入れた一点を何と守り抜き
まさかまさかの優勝をしてしまったのです・・・
確か、うちの高校のヒット数は1~2本程度、東北高校は10本以上打っていて、毎回毎回ピンチの
連続だったのですけど、
犠牲フライのタッチアップのタイミングを間違えて走者がアウトになったり
走者がアウトカウントを間違え、ベンチに戻ろうとしてアウトを宣告されたりなど
信じられない幸運もありましたけどね・・・
何か色々な意味で「青春していたなー」という感じの思い出ですね・・・(笑)
余談ですが、春の選抜甲子園の代表校を決める東北ブロックの秋季大会では
見事に一回戦で大惨敗を喫してしまい、
あこがれの甲子園出場は「夢」と終わってしまいました・・・
やはり宮城大会の東北高校との決勝戦は出来過ぎでしたね・・・(笑)
〇花輪高校
B/交響曲第一番変ロ短調より第四楽章(ウォルトン)
いや、これは自分にとっては今でも忘れることが出来ない
自分の「生涯の生きがい」を見つけることが出来た不滅の演奏ですね。
この演奏、録音等は一切残されていないので、この時の素晴らしい演奏を耳にすることは
永久に無いのですけど、
その素晴らしさは、自分の心の中に永遠に受け継がれていくと思います。
課題曲の厚い響きとアクの強い演奏も良かったけど
圧巻はウォルトンの交響曲ですね。
この時点では、ウォルトンという作曲家もこの交響曲も
この曲が作られた背景も全然何も知らなかったのですけど、
とにかく自分に「何か」を確実に伝えた演奏でした。
この年の花輪は、とにかく金管セクションが大変充実していて、大変分厚い響きを
聴かせてくれたのですが、この分厚い響きが実にこのウォルトンの不安感・焦燥感・
「不安には不安を持って臨むしかない」という危機感という曲想に実にマッチしていて
重厚長大でスケールの大きな演奏を聴かせてくれました。
後半のティンパニー奏者2人による叩き付けも打点が見事に決まっているので、実に効果的でしたし、
後で振り返ってみると、
ニールセンの交響曲第4番「不滅」のティンパニー奏者2人による轟音と非常に
近いものがあったようにも思えます。
何かこの演奏を聴いて、
熱いものは感じたし、同時に不安感も感じました。
やるせないものも感じました。
だけどそれは当たり前なのですよね、そういう不安と危機感と不安に対する挑戦みたいなものが
この曲の背景にあるのですから・・・
とにかく演奏終了後は、心の底から「感動した!!」という思いで一杯でした。
だけど、残念ながらこの素晴らしい演奏は
金賞止まりで終わり、全国大会に駒を進めることは出来ませんでした・・・
審査結果を聞いて大変ショックでしたし、
同時に、
「自分が感じた結果が世間の評価と必ずしも一致する訳ではない」と悟った瞬間でも
ありました・・・
この年の東北大会の高校の部の全国代表は、
自分の審査の中では、花輪・仙台第一・仁賀保というものでしたけど、
実際は、仙台第一・仁賀保・秋田南でした・・・
うーーん、後ほど触れるけど、
東北大会の秋田南の演奏は、何か演奏がコチコチ硬く、あまり好印象ではなかったのだけどな・・・
それにしても花輪のウォルトンの一番を是非全国大会の普門館で聴いてみたかったな・・・