プロフィール

ぬくぬく先生 

Author:ぬくぬく先生 
開設当時は、1980年代吹奏楽コンクールの花輪・秋田南・就実・仁賀保・屋代等の素晴らしい演奏を後世に少しでも伝える事が出来ればいいなと思ってこのブログを始めたのですけど、いつのまにか「プリキュア」がメインになってしまいました・・・
最近は「東方Project」も大好きです!!
吹奏楽もプリキュアも何か自分が感じた事を少しでも後世の方に受け継がれるべきものが残せればいいかな・・と思っています。
ちなみに、「大好きプリキュア四天王」は、ドリーム・メロディ・ハッピー・ラブリーです。
ドリームとメロディは自分の中では既に殿堂入り状態ですけど、
現在は・・・・ラブリー大好き!!のラブリー一辺倒です!!
リアル社会では、建築関係のクレーム&アフター責任者を専従し、毎日毎日クレーム対応に当たる日々です・・・
裏の顔は・・・プリキュアと吹奏楽とクラシック音楽一辺倒です・・・
特に特に大好きな作品は・・・プリキュア5とスイートとハピネスチャージです!!
ちなみに、奥様は・・・ミルキィローズとセーラームーン好きの管理人以上のおこちゃまです・・・
東方で大好きなキャラは・・・とにかく大好きキャラがてんこ盛りで、全員大好き!という感じなのですけど、特に特に・・・さとり様・ゆかりん(紫様)・早苗さんはお気に入りです!!
吹奏楽では・・ネリベルの「二つの交響的断章」と「アンティフォナーレ」、スパークの「ドラゴンの年」、リードの「オセロ」と第二組曲「ラティーノ・メキシカーナ」、パーシケッティーの「仮面舞踏会」、C・スミスの「ダンス・フォラトゥーラ」などが死ぬほど好きで、クラシック音楽では、ウォルトンの交響曲第1番と矢代秋雄の交響曲、プロコフィエフの交響曲第5番、アーノルドの交響曲第2番、第4番、ショスタコの交響曲第7番「レニングラード」、マーラーの交響曲第3番「夏の朝の夢」、ハンソンの交響曲第2番「ロマンティック」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」、ベルクの「ヴァイオリン協奏曲」、ラフマニノフの「交響的舞曲」などが大好きです!!
クラシック音楽を吹奏楽にアレンジし、そのコンクールヴァージョンの演奏としては・・・
1982年の就実高校の「幻想舞曲集」と
1987年の習志野高校の「ダフニスとクロエ」第二組曲の演奏、そして、
1987年の雄新中の「エルザの大聖堂への厳かな行列」が
まさに私の「原点」です。
最後に・・・
私の吹奏楽との関わりの真の意味での「原点」は・・・
1979年の市立川口高校の神がかり名演としか言いようがない
「二つの交響的断章」に尽きると思います!!


アクセスランキング

[ジャンルランキング]
日記
52位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
会社員・OL
2位
アクセスランキングを見る>>

最新記事


最新コメント


最新トラックバック


月別アーカイブ


カテゴリ


カレンダー

02 | 2017/03 | 03
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -

検索フォーム


天気予報


-天気予報コム- -FC2-

チルノ時計


17.愛工大名電高校


A/吹奏楽のための神話~天の岩屋戸物語による (大栗裕)


1989年の大会で、習志野高校と淀川工業が5年連続金賞の偉業を達成し、翌年の特別演奏という栄誉が
決定したわけですが、振り返ってみると、この5年連続金賞と言うのは相当難しいもので、
天理高校・淀川工業・尼崎吹奏楽団・愛工大名電高校・中央大学などが4年連続全国大会金賞を
成し遂げたのに、5年目で支部大会落ちとか全国で銀賞等の理由で5年連続金賞を逃すという事も
結構起きています。
確かに5年目の場合、一つの節目という事もあり、栄誉という事もあり、奏者も指揮者も
大変なプレッシャーになっているのかもしれませんよね。
ちなみに尼崎吹奏楽団は、4年連続全国大会金賞を2度に渡ってつかみながらも5年目は2回とも銀賞に留まるという
不運に見舞われています。
1993年から3年連続金賞の場合は、翌年は全国不出場というシステムに変更となり、
さらに三年連続全国出場で翌年は全国不出場というルール変更がなされた時期も一時期ありましたけど、
これは何か奏者にとっては気の毒なシステムという感じもします。
昔のように、「5年連続金賞の場合、ご褒美的な意味も込めて翌年は一年お休み」という方がよかったような気もしますし、
今現在は既にそうした5年連続金賞→翌年の特別演奏という制度自体が廃止になっていますけど、
これに関しては旧システムの方がいいのかも・・?と思う時もあったりします。
吹奏楽連盟の意図としては、常連校の代表枠の寡占状態の防止・全国大会への機会拡大という配慮なのかもしれませんけど、
結果的に5年連続金賞の特別演奏の最後の演奏は95年の札幌白石という事になってしまいます。

愛工大名電高校は、1984年~87年まで全国大会4年連続金賞を達成し、
1988年に金賞を受賞すれば「5年連続金賞」という吹奏楽コンクールでは大変な栄誉と翌年の特別演奏を
与えられるという大変プレッシャーが掛る年でしたけど、
結果的に1988年の演奏は、正直、あんまり芳しい演奏ではなかったですね。
当時、普門館の会場で生で聴いていても、
「え・・・、これがあの名電・・・??」と目を覆いたくなるような不本意な演奏になってしまい、
結果として銀賞に留まり、5年連続金賞を達成する事は出来ませんでした。
88年の表彰式は私も生で目撃していましたけど、銀賞と言う結果がアナウンスされた時の名電の代表者3名の方の
落込む様は・・何となくではありますけど客席にも伝わってくるかのような雰囲気はあったものでした。
甲子園ではないですけど、ああした光景を見てしまうと「吹奏楽コンクールも一つの競技なのかも・・・」と感じてしまいますね。

そして、翌年の1989年のコンクールなのですけど、松井先生としても、
「まさかこの年に自分たちが普通にコンクールに参加しているなんて・・」みたいな不本意な気持ちは
あったのかもしれないですね。
前年度の「悔い」をなんかそのまんまそっくり引きずっているような印象すら感じたものでした。
前年度のショックの後遺症みたいなものが実際にあったかどうかなんていうのは、部外者の私には知る由もない話
ではあるのですけど、あの年の名電の自由曲の「神話」を聴いた限りでは、正直・・・・評価に困る演奏です。
一言で言うと、名電にしては「粗雑」で感銘性が希薄な印象です。
神話の世界と名電カラーが合っていないというか、音楽がすごくちぐはぐな感じなのです。
例年ならば、瞬発力が漲る打楽器セクションも、何か切れ味に欠け、なんかモサッとした演奏でした。
結果的に前年の演奏よりももっと印象は悪くなり、
 「もしかして名電、1976年のリエンチ以来の銅賞・・・??」とすら思ったほどでした。
名電というとプラハのための音楽1968みたいにメッセージ色の強い曲とかアトモスフェアや交響的断章などのように
音楽的緊張感が高い曲を高い技術と濃密な解釈で厳格に処理するいう大変濃口みたいな印象のある学校なのですけど、
この年の神話と1981年のディオニソスの祭りだけは、かなり薄口で名電にしては珍しく印象が希薄という
逆に珍しい演奏をされていたと思います。

でもさすが名電ですね!!

翌年の1990年はきっちりと立て直してきました!

自由曲は、1988年の時と同じ矢代秋雄の交響曲でしたけど、
もしかして、松井先生は余程、88年の演奏に「悔い」があったのかもしれないという事かもしれませんし、
同じ自由曲で2年後に「リベンジ」を果たしたかったという意図がもしかしたらあったのかもしれません。
90年の演奏は、88年~89年の不調がまるで嘘のように消え、
以前の緻密な名電に戻っていたのは、聴いていて「さすが・・!! これが伝統という力なのか・・」と感じたものでした!
スポンサーサイト
16.駒澤大学高校


D/アルメニアンダンスパートⅠ(A.リード)


「駒澤」と聞くとどうしても大学の部のあの名門・駒澤大学をついつい連想してしまい、
「大学があんなに上手いのだから付属の高校だったきっと上手いんでしょ・・」と思われがちなのですけど、
そうですね・・・1980年代中盤から2000年代前半までほぼ毎年のように都大会を聴いていた人間から
言わせて頂くと駒澤高校に関してのコメントは
「駒澤高校・・・? うーーん、なんか微妙な立ち位置・・」という感じだったのかもしれないです。
確かに毎年のように都大会予選を勝ち抜け都大会本選に出場していたと思いますけど、
都大会の演奏を聴く限りは、「無難」とか「おとなしい」とか「ギラギラした個性があんまり感じない」
「洗練されたサウンドだけど聴く人に伝わるものはあんまりない・・」という印象が強かったような感じもあります。
都大会でも出場すれば毎年銀賞を取り続け、
銅賞と言うレヴェルではないけど全国大会代表・金賞を掴みとるまでのテクニックとか音楽性は
有していないチームみたいな感じもあり、そのあたりは全体的には「中途半端」みたいな印象もあったかとは
思います。
個人的には、1987年の都大会で演奏した課題曲C/コンサートマーチ87のほのぼのとした感じとか自由曲の
ホルストの「惑星」~木星の木管の巧さと中間部の音楽的高揚感は素晴らしいと思いましたし、
なんであの演奏が全国大会代表に選出されず、下手くそ極まりない東京朝鮮学校のショスタコの「祝典序曲」が
代表になってしまったのか、いまだに私にとっては謎ですし、
あの都大会の審査員の耳はどうかしていたんじゃないのかな・・・?といまだにふと思う事はあります・・・(汗・・!)

駒澤大学高校は、80年代と90年代にも何度か全国に駒を進めていますが、正直何の特徴もない演奏だったと思います。
だけど88年のセント・アンソニー・ヴァリエーションも 89年のアルメニアンダンスパートⅠも
92年のローマの祭りも技術的には一定水準には達しているものの
聴衆に必ず゛しも「何か」は伝わりきれていない個性という点では弱い演奏が多かったような印象が強いですね。
1992年の全国大会では駒澤と東海大学第四とで「ローマの祭り」が2チーム続けて演奏されていたのですけど、
あくまで単純比較で言うと、東海大学第四の圧倒的なエネルギーの塊りとパワーと絢爛豪華さの前では
駒澤大学高校の「おとなしさ・無個性・貧弱さ」は逆に際立っていたようにも感じたものでした。

だけど、これが吹奏楽コンクールの怖さでもあり醍醐味でもあるのですけど、
ある時から急に吹っ切れたように別のチームのように覚醒してしまう事もあるのですよね!
その一番いい事例が九州支部の精華女子と玉名女子だと思いますが、
2000年代以降の駒澤大学高校もその典型例だったような印象があります。
ハンガリー民謡「くじゃく」による変奏曲のしっとりとした内省的表現とかローマの祭り・宇宙の音楽等の華やかさなど
突然全く別のチームになったかのような「覚醒」がそこにはあったと思いますけど、
1983年以降ずっとこのチームを指導されていた吉野先生の長年のご苦労がようやく実を結んだと言えるのかも
しれないですね。

話を戻しますと、1989年の駒澤大学高校はまだ「微妙・・」という感じの時代だったのかなぁ・・とも思います。

というか、1989年までは関東第一高校が覚醒前の状態でしたし、80年代はまだ都立永山や片倉を指導されていた
馬場先生もまだ試行錯誤の段階でしたので、
1980年代の高校の部の都大会は、あまりレヴェルも高くなく、全国大会には比較的行きやすい時代ではなかったのかな・・とも
思います。駒澤大学高校にとってはどちらかというと全国大会を狙いやすい立ち位置にいたとは思うのですけど
それが出来なかったというのはやはり当時のそうした「中途半端さ」が大きかったのかな・・とも思ったりもします。
それに比べて現在の都大会はかなりの激戦ですよね!
東海大学高輪台・東海大学菅生・八王子・都立片倉、そして駒澤と全国大会でも銀賞~金賞を確実に受賞できる
レヴェルの高いブロックになっていて、
私が現役の頃の80年代のように「都大会の高校の部代表は、全国に出場してもほぼ銅賞ばっかり・・」という低迷期では
少なくともありませんから、やはり吹奏楽コンクールの日進月歩はすごいものがあるよな・・・と
感じるばかりですね!
駒澤大学高校も2000年以降は何度も全国大会に出場しかなりの高確率で金賞を受賞されていますので、
吉野先生の長年のご苦労がようやく花開いたといえるのだと思います。
だけど最近は東海大学勢に押され気味でここ数年は全国大会出場から遠ざかっていますので、
再度もうひと踏ん張りして頂きたいと思っておりますし、あのくじゃくや宇宙の音楽等の名演の再来をとても
期待しております!

1989年の駒澤大学高校の演奏ですけど、
「特徴がないのが特徴」と言えるくらいインパクトが弱い演奏というか、感銘性が極めてうすい演奏だったと
思います。
駒澤の演奏は都大会でも全国でもどちらも聴いたのですけど、どちらも「おとなしくて無難すぎる演奏」という
感想ぐらいしか言葉が出てこない感じもあります。
この年の自由曲の「アルメニアンダンスパートⅠ」も過去において多くの他校の名演があるものでして、
そうした過去の名演とついつい比較してしまう訳でもないのですけど、
やはり伝わるものがあんまりなくて「全体のテクニックは一定水準をキープしているのに勿体無いよね・・」と
やはり感じざるを得ない演奏だったと思います。
ソロ楽器の印象が弱いというのも全体の印象の薄さに拍車をかけていたような感じの演奏でもありました。

だけどこうした時代も、ここから数年後に一気に開花するまでの間の「産みの苦しさの時代」と言えるのかも
しれないですね。
15.下関商業高校


B/バレエ音楽「ガイーヌ」~序奏・ヌーネの踊り・アイシェの踊り・レスギンカ舞曲(A.ハチャトゥーリアン)


一言で言うと「全然うまくは無いけどとにかく可憐でとっても可愛い演奏!」みたいな言い方が
これほどよく似合うようなチームはあんまり無いという事なのだと思います。
全国大会初出場とか午後の部のプログラム一番とか奏者にとっては色々と緊張する要因も数多く
あったとは思いますし、恐らくは普段の練習の成果の半分も普門館のステージで発揮できないまんま
本番があっという間に終わってしまい、評価も銅賞と言う結果で終わってしまいましたぁ・・みたいな感じなのだと
思うのですけど、表面的な「銅賞」という一言で片付けるのには少しばかり抵抗がある演奏というのも
私自身の率直な感想です。

一言で言うと課題曲も自由曲も大変チャーミングな演奏で、確かに技術的な拙さとか
サウンド全体のモヤモヤ感とかサウンドの濁りもあるのですけど、そうしたマイナス点を消し去るような
「おおらかさ・のびのびとした雰囲気」みたいなものはあったと思いますし、
同じ県内の下松高校の初期の頃のように
いかにも「普通の先生と生徒達が一生懸命練習して手作りの音楽を誠実に作り上げ
それを普門館のステージでも高らかに響かせることができました」みたいな雰囲気を普門館の会場の隅々にまで
伝えていた姿勢は大変立派なものがあると思いました。
あの拙いサウンドなんだけど「自分達のありのままの音楽、普段通りの音楽を聴かせよう」みたいな意図は
私の耳にも十分伝わっていたと思います。
今現在の吹奏楽コンクール・全国大会というのは、全般的な傾向として私立高校が優秀な中学生をスカウトしてきて
優秀な吹奏楽指導者が細かく指導し、あの華麗できらびやかなサウンド&表現を創り上げ
どちらかというとそうした「人工的な音楽」の演奏の方がむしろコンクールとしては高い評価を受ける傾向に
あるのかな・・?みたいについつい感じてしまいますし、
そうした傾向が大変強い高校の部においては、
この1989年の下関商業みたいに「伝統も実績も特段うまい奏者も優秀な指導者もお金も何も無いない・・」みたいな
普通公立高校が「手作り音楽」一本で全国大会に出場できるという事は
正直・・・四国大会以外はかなり難しくなりつつあるのかもしれないですね。
そうした意味では四国の伊予高校の存在は全く別の観点から言うとかなり希少価値が高いと言えるのかも
しれませんね。

さてさて、下関商業の演奏ですけど、奏者のユニフォームがいかにも「地方の公立高校みたいな制服」という香りが
漂っていて、1989年当時は多くの普門館常連チームが普門館用の特注ステージ衣装を身に纏っての演奏が
既に定着化していたと思われる中、
ああいう男子→学ラン 女子→普通のブレザーという「普通の制服」は逆に視覚的には大変新鮮で
あったようにも感じられたものでした。
確か・・・私の記憶の中ではステージ最後段のパーカッションのとある女の子のツインテールの髪型がとっても似合っていて
可愛かったのは大変印象的です! (笑)

演奏ですけど、課題曲B/WISHは、高校の部でBを選んだチームが少なかったのですけど、
洗練の極みとしか言いようがない常総学院とか逆にサウンドが大変泥臭い花輪のように個性的な演奏が
多かった中では、悪く言うと可もなく不可も無く無難にまとめたという印象が大変強いのですけど、
やはり音楽に対して大変誠実に向き合っているみたいな「音楽としての温かさ」は十分伝わっていたと思いますし、
この課題曲のテーマでもある「希望の光」みたいなものは、間違いなく普門館の客席にも照らす事は出来ていたと
思います。
反面、例えばホルンの雄叫びとか木管の高音の響きの高まりの箇所はもう少し果敢に表現して欲しかった・・みたいな
消極的的な表現にも感じられたのは勿体なかったと思います。
自由曲の「ガイーヌ」は、もう少しいい意味でのワイルドさ・野性味が欲しかったですね。
確かに音楽として無難にまとめ上げていて、課題曲で少し感じていた「モヤモヤ感」はあまりなく
音楽としてのおおらかさは十分に伝わっていたと思うのですけど、そこに「自分達はこう演奏したい!」みたいな主張が
あまり感じられず、終始おっとりとした響きにまとめていて、
その「あっさり感」は聴く方にしてみれば確かに上品さとか聴きやすさはあるかとは思うのですけど、
やはりコンクールとしてのインパクトという意味では相当損をしていたようにも感じられます。

下関商業の自由曲の「ガイーヌ」で大変興味深いのは、バレエ音楽の中から四つの部分を選曲していたのですけど、
序奏とヌーネの踊りが林紀人先生のアレンジで、アイシェとレスギンカが藤田玄播氏のアレンジという事で
自由曲の中でアレンジャーが二人いて、
林先生のアレンジは中央大学の演奏が提示する通りまさに積極果敢な表現を売りにし、
藤田氏の方はどちらかというと素朴さ・ファンタジー感をイメージするアレンジでもありましたけど、
自由曲全体の感想として「部分部分は上手いけど全体のイメージとしてはあまり伝わるものが弱い」というのは
この辺りにも一因があったのかもしれないですね。
アイシェの目覚めと踊りの部分は、課題曲で感じた「モヤモヤ感」みたいな不鮮明さも時に顔を出してしまい、
それがコンクールとしてはマイナス要素だったのかもしれないです。
最後のレスギンカは、アイシェのモヤモヤ感を吹っ飛ばしてくれる快演で、
まさに「終わりよければすべてよし!」みたいな演奏でもあったと思います。
14.洛南高校


D/交響詩「ローマの松」(O.レスピーギ)


当ブログの1/30記事にてこの年の洛南の事は実は既に散々書かせて頂いておりましたので、
別にあえて記事にしなくてもいいのかな・・?と思ってはいたのですけど、
なぜかあの日のあの記事のアクセス数が極端に少なく(汗・・!)
ほとんどの方があの記事をご覧になっていない事が推察されますので、
1/30の記事を今回加筆訂正したものを本記事として再掲載させて頂きますので、その点は何卒
ご了承いただけると幸いです。

1989年の全国大会・高校の部でグランプリ候補というと、常総学院・埼玉栄・東海大学第四・習志野・淀川工業・
福岡工大付属あたりがその有力候補なのではないのかなと思うのですけど、
銀賞受賞チームの中でも素晴らしい演奏を聴かせてくれたチームもかなり多かったと思います。
新屋・仙台向山・下松などがその筆頭格だと思いますが、
その中でも洛南高校の演奏はいかにも「洛南高校らしい演奏」だと思いますし、
この年出場した全27チームの中で一番インパクトが大きい演奏というと、洛南高校のローマの松だったと
私的には思っております。

あの演奏は、まさに宮本先生のアクの強さが漲り渡り、「宮本先生=洛南高校」というとてつもなく強烈なサウンドが
確立された瞬間じゃないのかな・・・とも感じさせてくれました!
ああいう演奏が出来ちゃうチームは、今現在の吹奏楽コンクールの高校の部では皆無と言えるのかも
しれないですね。
あの「宮本先生=洛南高校」という組合せは、「吉永陽一先生=兵庫高校」に匹敵するとてつもなく個性的なものだったと
今でも思っております。
まさに個性がギラギラ漲っているみたいな言い方がこれほどしっくりくるチームは少ないとすら思えます。

課題曲は、ポップス系マーチを選曲したのは極めて意外でしたし、洛南のそれ以前の方向性としたら
BのWISHを選んだ方がよかったような気もしますし、
あの課題曲Dは確かに豪快で楽しさは溢れていましたけど、反面「もう少しすっきり聴かせて欲しかった・・」
みたいな印象もあり、
この曲はどちらかというと弾けるようなキラキラ感が求められるのに、
ギラギラと脂ぎったような演奏みたいな雰囲気もあり、それが課題曲Dとしてはあんまりすっきりしない印象に
なったのかもしれないです。
だけどそうした「ギラギラした脂ぎったような演奏」がプラスに作用したのが自由曲の「ローマの松」だったと思います。

これはよい意味でも悪い意味でもいかにも「男子校」らしい側面が出てしまい、人によっては
「もう少し静かな熱演もほしかった・・」という事を言われるとは思うのですけど、
東方Projectの「早苗さん」じゃないですけど、あれはまさに「はっちゃけた演奏」であり、
やりたい放題のある意味とんでもない演奏なのですけど、あの「自由奔放さ」は、絶対に最近のコンクールでは
聴く事が出来ないものであり、改めてあの演奏をCDで聴いてもあの「とてつもない熱気」にはワクワクさせられるものが
ありますね!
それと洛南の「ローマの松」ですけど、二つほど特筆すべきことがあり、
一つは大変強引なカットでもあるのですけど、なんと全楽章を演奏してしまう荒業をやってのけた事と
二つ目は、第一曲においては、なんと・・!
トロンボーン奏者が「フルート」に持ち替えるという前代未聞の豪快な荒業すらも普門館の聴衆に
お披露目していたのは、まさに驚きでしたね!
吹奏楽コンクールで「楽器の持ち替え」というのは珍しい話でも何でもなくて、
フルートがピッコロ持ち替えとかオーボエがコールアングレ持ち替えとか
クラリネットがエスクラ持ち替えとかファゴットがコントラファゴット持ち替えとか
はたまた・・・打楽器の数があまりにも多い場合ですと、時折ですけど、コントラバスが打楽器を部分的に持ち替える事も
あったりしますし、
大変古い話ですけど、1970年代の職場の部・・・たとえば新日鉄釜石あたりですと、
トランペット奏者がホルンに持ち替えるという事例もあったりはします。
だけど上記の場合、あくまで木管楽器が木管を金管楽器が金管をという事なのですけど、
この年の洛南のように金管楽器が木管楽器に持ち替えるという事は極めて異例ですし稀ですし、
そのあたりは「いかにも宮本先生らしい話だよなぁ・・」と改めて感じてしまいますね!

Ⅰの演奏が一番優れていたと思いますし、前述の通り、ステージ最後段のトロンボーンが全奏者フルートに
持ち替えていたあのインパクトは相当大きかったと思います。
Ⅱは冒頭だけほんのわずか演奏しⅢのジャニコロの松に入ったのですけど、このⅡとⅢは
1987年の山形南と同様に「もっと静かな熱演」みたいな繊細な味わいも聴かせて欲しかったですし、
この辺りのモヤモヤ感と中途半端さが結果として銀賞という結果に終わった要因の一つじゃないのかなとも
今更ながらに当時のCDの演奏を聴くと感じたりもします。
そのⅡとⅢのもやもや感を豪快に吹っ飛ばしてくれたのがⅣのアッピア街道の松でした!
Ⅳはどうしてもカットの関係でテンポ設定が少し速すぎたような感じもしますし、クライマックスのあのとてつもない大音響に
入る前に既に奏者が相当ヒートアップしてしまい、
あの「大興奮の爽快感」は、もう少し後にもってきてもよかったんじゃないのかな・・とも思いますけど、
それでもラストは相当鳴らしまくり思いっきり強引に盛り上げていましたので、
音楽的爽快さは満点に近いものがあったと思います。
13.花輪高校


B/吹奏楽のための幻想曲「壁画」(四反田素幸)


まず初めにお断りを・・・

どうして私がこの「花輪高校吹奏楽部」について何度も何度も大体似たような内容の記事を定期的に
掲載させてくのかと言うと、その理由は下記の二点です。

1.ブログ記事と言うものは、最新記事のみトップ記事として冒頭に出てきますので、毎日更新が一つの売りである
  当ブログにおいては、せっかく「花輪高校」の記事を掲載しても数日後には下の方で埋もれてしまう。
  花輪高校吹奏楽部の偉大さを多くの人にお伝えさせて頂きたいというのが当ブログのそもそもの開設理由でも
  ありましたので、例え同じ内容の記事であったとしても定期的に花輪高校吹奏楽部の事は
  ブログ記事として掲載しておきたいですし、
  当ブログが一つのきっかけとなって花輪高校吹奏楽部が残したあの素晴らしき名演の存在を
  一人でも多くの皆様に伝えさせて頂きたいと考えているからです。

2.私自身は、高校1年の頃までは別に吹奏楽も音楽の事も特段大きな興味もなく、惰性で吹奏楽部を
  続けていた傾向があったのですけど、
  1982年の全日本吹奏楽コンクール・東北大会において、プログラム1番の花輪高校が自由曲として演奏した
  ウィリアム=ウォルトンの交響曲第1番第四楽章のあの「魂の孤独」の素晴らしき名演を聴いた事が
  クラシック音楽の深い森の中に迷い込むきっかけを作って貰ったと同時に
  自分自身の吹奏楽とか当時吹いていた楽器であるクラリネットに真剣に向き合うようになったという大きな転換点の
  大きな動機になるなど、私自身が「花輪高校吹奏楽部」に対する感謝と畏敬の年がいまだに強く、
  花輪高校吹奏楽部のあの素晴らしき名演の数々を後世になにか「記録として残るもの」を形成しておきたいと
  思ったからです。


改めてですけど、
秋田県立花輪高校吹奏楽部は偉大ですよね・・・!!
上記で既に書いている通り、
私が「クラシック音楽の深い森の中」に迷い込むきっかけを作ってくれたのが
1982年の全日本吹奏楽コンクール・東北大会の花輪高校のウォルトン/交響曲第1番第四楽章の
圧倒的名演に心の底から感銘を受けたという事実なのですけど、
花輪高校吹奏楽部はこのウォルトン以外でも例えば・・・

ハチャトゥーリアンの交響曲第2番・同/第3番「シンフォニーポエム」
プロコフィエフの交響曲第3番
ラフマニノフの交響曲第1番
ショスタコーヴィッチの交響曲第1番
ガジべコフの交響曲第2番
ベルクの三つの管弦楽曲
シチェドリンの交響曲第2番
ブリス/バレエ音楽「チェックメイト」
などの曲は、全て花輪高校の吹奏楽コンクールの演奏がきっかけとなって
「花輪高校の演奏素晴らしいな・・・ではその原曲はどういう感じなんだろう・・」と色々と興味を持っていったのが
全ての始まりでしたし、それをきっかけにして、
「この曲以外にこの作曲家はどんな曲を残しているのかな・・」
「この時代、他にはどんな作曲家がいたのかな・・」と
クラシック音楽の深い森の中へと入り込む「きっかけ」を私に作ってくれたのが、この花輪高校吹奏楽部なのだと
今でも思っていますし、
それゆえ・・・・私は・・・永遠に・・・
「花輪高校吹奏楽部よ、永遠なれ!!」といつでも・・・そして今でも・・・心より遠き埼玉の地よりエールを
送り続けています!!
 
それにしても花輪高校の吹奏楽コンクールでの選曲は本当に素晴らしいものがありますよね!!

「え・・・その作曲家、誰・・・?? 聞いた事が無い・・」

「ガジペコフって誰・・?? シチェドリンって誰・・・? ハチャトゥーリアンの鐘って何それ!?・・・初めて聞いた・・・」

「ウィリアム=ウォルトンって何者・・・??」

「プロコフィエフの交響曲3番なんて・・・聴いた事すらない・・・」

みたいな反応は演奏当時もかなり多かったと思いますし、小林先生が花輪を指揮されていた頃と
私の吹奏楽時代はほぼ丸ごと重なっていますので
リアルタイム当時から
「花輪ってあの選曲凄いよね・・」とか
「どっからあの選曲の情報を仕入れてくるのだろう・・」とか
「だけど花輪高校って少しというか、かなりヘンだよね・・個性が極端に強いしね・・・」
というような声は、小林先生の在籍時から、色々な所で耳にしていましたので、
改めて小林先生はすごい先生だったのだな・・とその「偉大さ」をつくづく感じてしまいます・・・・

ちなみにですけど、上記でも出てきた「ガジべコフ」については、当ブログの12月の記事でも
触れておりますので、宜しければ ガジべコフって結局誰なんだ・・・?? の記事をご参照して頂ければ幸いです!

さてさて、1989年当時の小林先生=花輪高校吹奏楽部はどういう状況だったのかというと、
これはあくまで私個人の感じ方ではあるのですが、少し「不遇」過ぎたとも思えます。
毎年毎年あれだけ個性的で素晴らしい演奏を聴かせてくれながらも、
支部大会でダメ金で全国大会に進めなかったり(1986年・88年・1990年)
あれだけ完璧で素晴らしい演奏を聴かせてくれながらもなぜか審査結果は「銅賞」だったり
(1985年・87年・89年)
花輪高校の全国大会の演奏は、1984年以降は全て普門館の生演奏を聴いていた私にとっては、
正直・・・「もどかしい」とか「えーー、なんでこんなに素晴らしい演奏を花輪はしているのに誰も認めてくれないの・・!」とか
「審査員の審査基準がさっぱり分からない・・」みたいな事はずーーっと思っていました。
1987年と89年の「邦人シリーズ」も私個人としては、「大変素晴らしい! 花輪の新しい境地!!」と思っていたのに
審査員は多分ですけど・・「不気味な怨念の塊みたい演奏・・」くらいにしか感じていなかったのかも
しれないですよね・・・

前振りが大変長くなってしまいました・・・(汗・・!)

1989年の前年の88年は、花輪高校吹奏楽部としては初めてとも言える「東北大会での金賞以外の賞を受賞」という事で
小林先生にとっても部員にとっても大変残念な思いが強かったと思いますし、
小林先生としても1989年のコンクールは雪辱に燃えるものもあったのではないかと推察されます。
前述の通りこの頃の花輪高校は、85年・87年と相当気の毒としか言いようが無い全国大会銅賞という評価も
受けていましたので小林先生にとっても部員にとっても「よーし、今年はなにかやってやろう!」みたいな
心機一転の気持ちもあったのかもしれません。
それが少し力みに繋がったのかな・・?
課題曲B/WISHは少しやりすぎというのか花輪高校にしては珍しい「粗さ」の方が目立っていたような気もします。
音が幾分粗削りで、既にこの頃の吹奏楽コンクールは、習志野・常総学院に代表されるような「洗練された響き」が
高く評価される傾向にもありそれが時代の最先端という雰囲気もあった中で、こうした花輪高校の少し粗野な響きは
審査員・聴衆にとっては「少し時代遅れじゃないの・・??」みたいな印象をもたらしたのかもしれないですね。
私としては、確かに常総学院みたいなとてつもなく洗練された響きも大好きですけど、
それと同じくらい花輪高校みたいな個性的で大地に根をおろしたような素朴なサウンドも大好きですけどね!
自由曲は、87年に続いてこの年も邦人作品を取り上げていましたけど、
その演奏も大変気持ちが入ったもので、確かに少し粗削りで武骨な響きもあり、
曲自体が「どこかおぞましい・・あまりにもドロドロしすぎている」みたいな印象も与えかねない曲でしたので、
そうした泥臭さが吹奏楽コンクールの評価としては、結果的にマイナスに作用したといえるのが
この年の花輪高校吹奏楽部の銅賞という評価ではなかったのかな・・と今更ながらに感じたりもしますね。

1989年に花輪高校が演奏した四反田素幸の吹奏楽のための幻想曲「壁画」は
あの不気味な感じは確かに「おどろおどろしい」と思われても仕方がない曲&演奏だとは思うのですけど、
あそこまで邦人作品を内面深く掘り下げて演奏した事例が当時は少なかっただけに
「影の名曲&知る人ぞ知る隠れた名演」と私としてはかなり高く評価しています。
小林先生自身、1993年以降の秋田南への異動後は、三善晃・黛敏郎といった邦人作品をこれまた魅力的に
斬新に斬り込まれていましたので、
一般的には小林先生というと「ロシア系マイナーシンフォニー」というイメージが大変強いのですけど、
こうした「邦人作品」との相性もよかったと言えるのかもしれないですね。
「壁画」の演奏は、何を言いたいのか今一つ伝わってこないみたいなもどかしさはあったと思いますし、
一言で言うと、名取吾郎の詩曲「地底」みたいな暗い怨念のこもったおぞましい曲というせいも
あるとは思いますが、やはり花輪らしい個性が少し強すぎて、
この泥臭さが当時既に「洗練さ」がコンクールの評価基準になりつつあった時代に今一つそぐわなかったと
言えるのかもしれないですけど、
私は花輪高校の邦人路線は、ロシアマイナー路線と同じくらい大好きです!
もちろん、それが人の好みによって評価が真っ二つに割れがちなのはこれはある意味当然な事ではないのかな・・?とも
思いますけどね・・(笑)

花輪高校は、翌年の1990年は「三角帽子」で東北大会ダメ金だったのですが、
翌年の「バッカスとアリアーヌ」・翌々年の「チェックメイト」は生まれ変わったような
洗練されたサウンドに生まれ変わり、当時私も大変驚いたものですが、
これは小林先生自身ももしかして、「さすがに今までの表現スタイルは時代にそぐわないから、自分たちも
チェンジを図る必要がある」と思われて、小林先生としての「変化」を示した演奏と言えるのかもしれないですね。
1992年を最後に小林先生は秋田南高校へ転任され、それ以降花輪高校は、
現在に至るまで吹奏楽コンクールの全国大会の表舞台から姿を消してしまいますけど、
別に「吹奏楽コンクール」だけが全てではありませんし、何よりも「花輪高校吹奏楽部の偉大なる歴史」は
永遠に不滅ですし、少なくとも「私の心」の中では私が生きている間は少なくとも
記憶され続けると思います。

上記の補足ですけど、1992年の小林先生として最後の花輪高校での自由曲は
ブリスのバレエ音楽「チェックメイト」というまさに小林先生らしいマイナーなんだけど音楽的魅力が満載の曲を
最後に普門館でお披露目出来た事は、本当にありがたいものがありました。
1992年の演奏を聴くと誰もがそう感じるかもしれないのですけど、
花輪の1992年のサウンド・音色は、まさに「究極の繊細さ・洗練さ」の域に達しているように感じられます。
小林先生が初めて花輪高校を引き連れて普門館にやってきた1978年の音色・サウンドと単純に比較すると、
雲泥の差があるようにも感じたりもするのですが、これは別にだから78年の演奏はダメ・・と言っている
我ではありません。78年のラフマニノフには、当時なりの美点もたくさんあります!
だけど、このサウンドの違いと言うのは、まさに小林先生が1978年→1992年にかけて花輪高校で
育んできた「一つの進化」としての結果なのだと思います。


12.淀川工業高校


D/大阪俗謡による幻想曲(大栗裕)


この年の淀川工業は、5年連続金賞がかかり、指揮者の丸谷先生も大変だったと思いますし、先生としての
気合の入りようも大変なものがあったのではないのかなと推察されます。
思い起こすと、1984年の全国大会も、1980年~83年で4年連続金賞を達成し、
「さあ! この年に金賞を受賞すれば5年連続金賞の偉業を達成し、85年のステージはあの栄誉ある特別演奏を
普門館でお披露目できる!」と丸谷先生も奏者もかなり気合が入っていたと思いますし、
その気合が全てプラスの方向で遺憾なく発揮された素晴らしい「寄港地」を普門館の聴衆に聴かせてくれていたと
思います。
だけどあんな文句の付けどころがない素晴らしい演奏がなぜか銀賞にとどまり、
5年連続金賞達成という偉業は残念ながらこの時は達成できませんでした。
閉会式の審査結果発表の際、富山商業の銀賞と同じくらい・・いやそれ以上
会場からの「えぇーーー」とかブーイングみたいな声が沸き起こり
普門館の会場がかなりざわついていたのが今でもはっきりと覚えています。
最近になって改めて1984年の淀川工業の課題曲・シンフォニエッタと自由曲の寄港地を聴いてみたのですけど、
「この演奏のどこが銀賞なんだろう?? この年の全体のレヴェルと金銀銅のバランスを考慮しても
誰がどう聴いてもハイレヴェルの金賞にしか聴こえない・・
百歩譲って富山商業がどうして銀賞になったのかというと、音量過剰がマイナスに評価されたと思うけど、
淀川工業は音量的なバランスやパートバランスも全く問題ないように響いているし
やはりこの結果はいまだによく分からないというか不可解なものがあるよな・・」という感想しか出てこないですね。
その意味でもやはりこうした「コンクールにおける審査というものは水物である」とか
「コンクールの審査員の好みによって結果も大きく左右されることがある」という事を提示している典型的な事例で
あったものだと今更ながらに感じたものです。

そうした経緯もあったので、丸谷先生も「今度こそ・・・」という思いがあったのかもしれません。
自由曲を選出する際、もしかして・・・?
「寄港地」もその候補になっていた可能性もあるのかとは思うので゛すが、
丸谷先生はもしかして・・・?
「寄港地は1978年も銀やったし、84年もあんな完璧な演奏をしても金とれへんかったしなぁ・・」とか
「1988年の土佐女子は、あんだけ緻密で素晴らしい寄港地を聴かせてくれていたのに、やっぱり評価は銀賞・・
うーーむ、やっぱり寄港地はあかん!」
「80年に一度大阪俗謡による幻想曲は演奏しているしそのノウハウもあるから、今回は
俗謡でええとちゃうか・・?」
みたいな事も考えられたのかもしれないですね・・・(笑)

そうはいってもやはり5年連続金賞がかかったステージはやはり緊張するものがありますし、
丸谷先生としても奏者としても相当のプレッシャーはあったと思われます。
そうした思いがかえって緊張と重荷になったのかもしれませんが、課題曲の「すてきな日々」はポップス系という
楽しいマーチのはずなのに、ちょっと重たい感じもなくはない演奏になっていて
(課題曲の演奏自体は全く悪いものではありません! 技術的にはまず問題ない仕上がりだったと思います)
丸谷先生も「あれ、いつもとちょっと違うねん!  これはちょっとあかん!」と感じたのかもしれません。
課題曲が終わるといったん指揮者の雛台から降りて、奏者に「肩の力を抜いて・・」みたいな指示を
されていたような記憶が私の中にあります。
(違っていたらすいません・・!)
それが功を奏したのか(?)自由曲「大阪俗謡による幻想曲」は本来の調子の演奏になり、
素晴らしい演奏を聴かせてくれました。
1980年にも同じ自由曲を取り上げ、この時の演奏と比べると「鄙びたような感覚」とか
「わしらアホやねん」みたいな感覚は少し後退したものの、代わりに
洗練さ・サウンドの勢いが加わり、80年を超える素晴らしい名演を聴かせてくれました。

結果としてこの年は無事に金賞を受賞し、翌年の1990年には晴れて「5年連続金賞達成の特別演奏」という栄誉のステージを
お披露目する事が出来たのは、本当によかったと思います。

自由曲の大栗裕の「大阪俗謡による幻想曲」なのですけど、この曲はこの年に札幌白石高校も
自由曲に演奏しいるのですけど、
淀川工業は大変ノリの良い自然な流れを聴かせてくれていたのに対して
札幌白石はノリが大変悪くて歌心があまり伝わらない少しギクシャクした演奏を聴かせてくれていて、
同じ自由曲を選びながらも全く対照的な演奏を聴かせてくれる事になってしまいました。
やはりこれは「大阪俗謡」というモチーフを淀川工業は、まさに「俺たちのご当地ソング」みたいな感覚で
大変なじみ深くメロディーラインを奏でられていたのに対して、
この曲の元歌自体が「ご当地ソング」ではない札幌白石は、今一つ曲に対する「共感度」がうすかったようにも
当時聴こえたものですし、この点がもしかして両校の評価を分けた原因の一つなのかもしれないですね。

ちなみにですけど、1981年の課題曲Bは「東方地方の民謡によるコラージュ」で、
やはり全体的な印象としては、例えば、青森県信用組合とか花輪高校とか弘前南高校とか
残念ながら東北大会ダメ金でしたけど秋田県の大曲高校などは、
「地元ならではのこぶし」みたいな雰囲気とか「歌に対する共感度」というのは、他のエリアのチームよりは、
私の気のせいかもしれませんけど幾分強めに感じられたものです。

やはりメロディーラインが子供の頃から馴染みがあるとのそうではないのとでは、その表現にも多少は
影響を及ぼしていると言えるのかもしれないですね。
10.札幌白石高校


D/大阪俗謡による幻想曲(大栗裕)

ライヴの音楽とは毎回常に同じ演奏が出来る訳ではありません。
それがこうしたコンクールの場では尚更そうした事は言えるのだと思います。
「甲子園には魔物が棲んでいる」とは昔から言われている言葉ですけど、同様に
「普門館にも魔物が棲んでいる」という事なのかもしれないです。

「あれ・・何だか気持ちが乗らない」

「あれれ・・なんだかいつもの練習とは全然違う演奏になってしまった!」

「練習の時には毎回無難に出来ていた事が、大事な本番に限って致命的なミスをやらかしてしまった」

「緊張しすぎで今一つ気持ちが乗らないで焦りの気分だけ先行してしまって、普段の練習の成果が
全く発揮されないまんま本番のステージが終わってしまった・・」

そうした事は多分ですけど、過去の全国大会でも最近の全国大会でも決して珍しい話ではありませんし、
むしろそれはごく普通の光景なのだと思います。
例えば精華女子・淀川工業・常総学院・埼玉栄等の吹奏楽の名門校が「凄いよな・・」と感じさせる点は、
もちろん演奏が凄いというのもあるのですけど、
毎年毎年そうした「凄い!」を継続している点というのか、
こうしたスクールバンドの場合、たとえ指揮者が同じでも奏者は毎年、卒業・進級という事でメンバーが異なっている訳
でもありますので、
その毎年異なるメンバーが上記のように「練習の成果が出ないまんま何となく本番が終わってしまった・・」みたいな
演奏にさせない点は本当に驚愕に値しますし、
やはりそれが「伝統」なんだなぁ・・と改めて実感させられますし、
スクールバンドの先生方には本当に心の底から敬意を表したいものです!

でも逆に言うと、「一発勝負のコンクールは何が起きるかわからないから面白い」とも言えると
思います。
毎年のように素晴らしい演奏をし続けていたあの名門チームがこの年だけはなぜか惨憺たる演奏を聴かせてくれたとか
課題曲では全然ダメだったのに、自由曲に入ると別人チームのように魅力的な音楽を聴かせてくれたとか
支部大会では知性的な演奏を聴かせてくれていたのに、なぜか全国大会では吹っ切れたように
別人チームみたいな豪快でとてつもない大音量の爆演を聴かせてくれたとか
本番では毎回借りてきたネコみたいなおとなしい演奏をしていたあのチームが、この年に限っては
なぜかとてつもなく音楽として雄弁な演奏を聴かせてくれたとか
ま――、本当に色々とありますし、
「それだから吹奏楽コンクールを聴くのはやめられない!」というのは間違いなくあると思います。

大変前振りが長くなってしまいましたが、
「毎年素晴らしい演奏を聴かせ続けてくれたチームがなぜかこの年だけは全く冴えない演奏をしてしまった」の
典型的事例がこの年の札幌白石高校ではないのかなとも思います。

札幌白石は、1986年に念願の全国大会初金賞に輝き、86年~88年の3年連続で金賞を受賞し、
特に87年の若さと躍動感が爆発した情熱的なオセロとか、
88年におけるひそやかさと活気の両面を見事に表現し、「日本人の奥ゆかしさと照れ」を見事に表現した「仮面幻想」は
本当に素晴らしい演奏だったと思います。

そうした中、「今年は4年連続金賞をなしえて、5年連続金賞に王手を掛けるのか!?」とか
「前年は大栗裕の作品で今年も大栗裕の作品だし、どう考えても今年は盤石だよね・・」というのが
普門館の会場内の聴衆が感じていた事なんじゃないのかなぁ・・と推察します。

だけど、現実はそううまくはいきませんでした!

まさに上記の通り「吹奏楽コンクールは何が起きるかわかりゃしないし、たとえ前年に金賞を取っていたとしても
支部大会で素晴らしい演奏を聴かせてくれていたとしても
それが全ていい方向で普門館で発揮される訳じゃない!」という事を証明したような演奏になってしまったと
感じたものでした。

課題曲は、無難なオーソドックスな演奏で、十分「楽しさ」も伝えていたと思います。
だけど自由曲の「大阪俗謡による幻想曲」は全然のらない演奏でした・・・
恐らく演奏している奏者達も「あれ、いつもと調子が全然違う・・」と戸惑っていて、
あっという間に本番自体が終了してしまったという感じがぬぐない演奏だったと思います。
当時客席で聴いていた私自身も「なにかずれているね・・」と感じたものでした。
上記の通り、音楽は生き物ですし、特にコンクールは、普段と全然違う事が起きてもおかしくないという事を
立証する演奏になってしまい、結果として銀賞に留まり、
「5年連続金賞達成」は、1994年までお預けになってしまいます。
良かった点は、自由曲」の打楽器のチャンチキを担当していたお兄さんがとてつもなくノリノリにチャンチキを
叩きまくり、あれは見ている方としてはとっても気持ちがよかったと思います。
そう言えば、87年のオセロのシンバルのお兄さんも、シンバルを叩いた次の瞬間に表面→裏面へシンバルを180度回転させ、
舞台の照明の関係で、シンバルがキラリと輝いて見せるあの一連の動きも素晴らしいものが
あったと思います・・・(笑)

大栗裕の「大阪俗謡による幻想曲」ですけど、この曲を自由曲に選ぶチームって
圧倒的に関西圏のチームが多いですね。
淀川工業の他には、尼崎吹奏楽団・近畿大学・大津シンフォニックバンド・天王寺川中学校・金光八尾などが
この曲を自由曲に選んでいるのですけど、やはり関西圏が多いですね。
というか・・・・
関東・東北ブロックでこの曲を自由曲にして全国大会に臨んだチームはあんまりないというかほぼ皆無じゃないのかな・・?
数少ない例外が、1989年の札幌白石高校なのですけど、
上記で既に書いた通り、全然札幌白石らしくないよそ行きのなんか不自然で、ノリが悪い演奏だったのですが、
この曲自体、もしかして「大阪の古い歌」とか「童謡」とか「ご当地ソング」をベースにされているのかもしれないですよね。
大栗先生のこの曲を演奏すると関西の方は血が騒ぐのかもしれないですけど、
私のように東北生れ・関東育ちですと、正直・・・「何それ・・・??」みたいな感覚があるのかもしれないですよね。
この曲には多分いくつかの関西の「俗謡」がフレーズとして出てきているのでしょうけど、
すいません・・私には一つも分からないです。
多分ですけど、この曲を私自身が吹いたとしてもあんまりピンとこないのかもしれないです。
逆に関西圏の方がこの曲を吹くとビタリトとはまるというか、何か「燃えるもの」があるのかもしれないですよね。
この曲、本当にリズムをつかむのが難しいと思います。
私が卒業して一年後に母校の高校の後輩達がこの曲を定期演奏会で演奏していましたけど、
とにかくノリが悪くて恐ろしいくらいリズムがギクシャクしていましたね・・・(苦笑・・)
後日この曲のクラリネットのパート譜を見たのですけど、一言で言うと、変拍子が大変面倒でやっかいという印象でした。

そうした意味では札幌白石にとっては、「ご当地ソング」ではなかったことが一つの敗因と言えるのかも
しれないですね。
9.埼玉栄高校


A/楽劇「サロメ」~七つのヴェールの踊り(R.シュトラウス)


この年、1989年の高校の部ですけど、普門館の全出場チームをプログラム一番から最後まで
全く居眠りすることなく(?)聴いた私の感想を申し上げると、
「前半の出場チームは少し低調だったのかも・・・?」みたいな印象を持ってしまいます。
前半のメトセラⅡの3チームとか関東第一・伊予・玉名女子なんかは正直「ちょっとね・・」という感じの演奏でも
あったのですけど、そうした幾分停滞感を感じていた1989年の高校の部の空気を一変させたのは、
既に掲載させて頂きましたプログラム7番の常総学院とそしてこのブログラム9番の埼玉栄高校の
まさに「関東の雄」と言うべき2チームだったと思います。
(この年の関東代表4チームは市立川口以外は高校の部でも突出していた名演の連続だと思います!)

埼玉栄高校って、1985年の全国大会で突然何の前触れもなくいきなり全国大会に初出場を果たし、
あっという間に吹奏楽の名門校&常連校な躍り出たような印象が大変強いです。
これ、私の記憶で語っているもので間違っているかもしれないのですけど、
1985年の前年の1984年の埼玉県大会では、埼玉栄高校は大滝先生の指揮ではありますが、
課題曲B/土俗的舞曲と自由曲/狂詩曲「タラス・ブーリバ」~Ⅲでもってコンクールに臨んでいますが、
県代表に選出されず県大会で散っていたと記憶しています。
ちなみに埼玉栄高校は、1983年以前は吹奏楽コンクール自体に出場をしていません。
つまり全く何の実績も無かった学校がいきなり全国大会の常連校になり、毎年ああやって私たちに
素晴らしい演奏を聴かせ続けている訳ですから、
やはり大滝先生の功労は素晴らしいものがあると思います。
そうそう・・「響け! ユーフォニアム」の最終回の一つ前の回においての出番待ちシーンで
「あ!栄高校です!関東の雄 指揮者は小滝先生」とかサファイアちゃんが言うシーンがありましたけど、
あれは埼玉栄高校の大滝先生をモデルにしたと思われますね・・・(笑)
ちなみに現在は大滝先生は勇退されて、現在の埼玉栄高校は奥先生が指導されています。

埼玉栄高校は、埼玉という地名が付いているものの学校自体は浦和とか大宮にある訳では無くて、
国道16号線沿いの、橋を越せばもう川越!みたいなエリアに校舎があり、
最寄駅は確か川越線の西大宮駅だったかな・・?
あの辺りは本当に遊ぶところも何もないエリアですので、スポーツ・吹奏楽等に打ち込みたいのなら
うってつけの学校なのかもしれないですね・・・(笑)

埼玉栄の初出場の85年の「ディオニソスの祭り」はちょっと緊張したのかあまり個性は感じさせない演奏でしたけど、
翌年、86年の「ダフニスとクロエ」第二組曲でいきなり覚醒してしまい、当時の普門館の聴衆の度胆を
抜いていたと思います。
というか、ハープ・チェレスタ無しでダフクロのⅠの夜明けのあんな細かい動きを木管だけでやり遂げてしまう
あの繊細な表現力には脱帽しか無いとすら感じさせてくれる演奏だと思います。
1987年もちょっと危なかったけどスレスレで全国大会金賞に入り、「いよいよ脂がのってきた!」と感じさせてくれた中、
1988年は、自由曲にストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」という大変な難曲で臨んだものの、
結果は、まさかの関東大会ダメ金で終わってしまい、埼玉栄の全国大会連続出場は一旦ここで途切れてしまいます。
だからそのせいもあるのかとは思いますが、この年、1989年は大滝先生としても
相当の覚悟と気合で臨んだと思われます。
その演奏は、まさに気迫と自信が漲る素晴らしいものだったと思います。

あの演奏は、もしも1960年代の頃のように表彰制度が順位制だったと仮定したら、
第一位=優勝の座を掛けて、この埼玉栄と常総学院が熾烈な争いをしていたような感じすらあったと思います。
この年の高校の部は、結果的に金賞が10チームも出る大盤振る舞いになってしまいましたけど、
金賞受賞チームの札幌白石・習志野・埼玉栄・常総学院・高岡商業・富山商業・浜松所業・淀川工業・
兵庫・福岡工大付属の中でも特に光り輝く金賞だったと思います。

課題曲A/風と炎の踊りは、冒頭のひそやかさが素晴らしかったですね! 当たり前の話かもしれないですけど、
音色が美しいチームは表現力にも自然と幅が出てくるような感じなのだと思います。
後半の踊りの部分に入っても荒れる事もなく、むしろゆったりとした高まりみたいなものも自然と醸し出されて
いたと思います。
自由曲の「サロメ」も、課題曲同様に演奏に余裕があり、ゆとりをもって「色気」を出すという
すごい事をさらっとやってのけていたと思います。
感覚としては「妖艶さ」は今一つだったようにも思えますが、逆に上品で洗練されたサロメという印象が強いです。
だけど同時に、上品なんだけど音楽のスピード感というのか推進力が備わっているみたいな側面もしっかりと
聴かせてくれていて、音の美しさと音楽としての切れ味が実に素敵にマッチしていたと思います。
常総学院との単純な比較論で言うと、常総がサウンド重視とすると
埼玉栄は、演奏のスピード感を重視するという感じもしました。
全体としては、「王者の貫録」という感じが漲る演奏だったと思います。

私の記憶違いかもしれませんが、演奏終了後に指揮者の大滝先生が退出する途中で、
会場に向けて小さくガッツポーズをしていたような記憶があります。
大滝先生としても全てを出し尽くせた充実感があったと思いますし、前年の雪辱を果たせた満足感があるのではないのかな・・と
感じたものでした。
7.常総学院


B/スペイン狂詩曲~Ⅱ.マラゲーニャ Ⅳ.祭り (M.ラヴェル)


私の勝手な意見なのかもしれないですけど、日本の吹奏楽コンクールは、1989年の常総学院の登場で
劇的に何か「変化」がもたらされたような印象が大変強いです。
私より少し年代が上の皆様ですと、
「吹奏楽コンクール・高校の部において、今後の限りない飛躍を示唆する演奏は1977年の銚子商業である」
みたいな意見を言われている方が多いような気もするのですけど、
そうですね・・確かに間違ってはいないのですけど、
真の意味で高校の部全体の方向性になにか「変化」を与えた演奏というと、私としてはやはりこの年の常総学院を
強く推したいと思います。
常総学院の初出場以前と以降では、サウンドの作り方・響かせ方・表現方法等に多少の変化をもたらすきっかけと
なったのが、この年の常総学院ではないのかな・・?と思っています。
それ程後世に影響を及ぼした演奏の一つなのだと思います。
確かに習志野高校など常総学院のあのサウンド近いものは過去に幾つかはあるのですけど、
あそこまでサウンド自体がフランス音楽に近いというか、音のエスプリをここまで追求した演奏は、
ありそうでなかったような気もします。
まさに吹奏楽の表現としては限界近くまで到達している洗練の極みと言える演奏でしたし、
繊細さ・洗練さが極限にまで達している圧倒的名演があの年の常総学院なのだと思います。
しかも驚くべきことに、常総学院は、この年が全国大会初出場なのです!
埼玉栄ですら全国大会初出場は、なんかポケッ・・とした冴えない演奏をしていたというのに、常総学院は
朝早い演奏時間帯で初出場で、ああいう稀有な名演を後世の私たちに残してくれていましたので、
やはりあの演奏は「伝説の名演」に相応しい演奏と言えますよね!

この演奏を聴いて感じた事は、
「へー、日本の吹奏楽コンクールも随分進化したものだ・・・もしかしてこの日の演奏は、今後の
日本の吹奏楽コンクールの変化を示唆するものかもしれない」という事でしたが、
自分で言うのも何ですが、この時感じた事は後で振り返ってみると当たっていたような気もします。
常総学院は、この年以降も、サロメ・アルプス交響曲など名演を続出させますが、
音自体にあそこまで色気を出せること自体、驚異的なのだと思います。
この年の自由曲「スペイン狂詩曲」も、曲自体のけだるさと情熱を音色の変化をうまく使いながら
巧みに表現していたと思います。
この年は計10団体に金賞が出る結構審査が甘い年だったと思いますが、常総学院は
「グランプリ」に相応しい圧倒的な金賞の演奏を聴かせてくれていたと思いますし、
大変申し訳ないのですけど、他の9の金賞受賞チームとは、少し格が違う・・みたいな印象すら感じさせてくれていました!
課題曲B/WISHも冒頭から「ひそやかさ」が伝わり素敵でしたけど、展開部の流れが大変スムーズでしたし、
とにかくサウンドが美しい事に感嘆させられまくりで、
私の印象としては、「課題曲の前半が終わった段階で既に金賞確定」みたいなオーラすら漂わせていたと思います。
自由曲の「スペイン狂詩曲」のⅡ・マラゲーニャのあのけだるい雰囲気を管楽器だけで表現出来る事は
まさに驚異的だと思いますし、あの原曲をよく知る私でも、全然違和感を感じさせないものだったと思います。
Ⅱはテンポ的にも音色的にもめまぐるしく微妙な変化が続いていく難曲ですけど、
その「微妙な変化」が大変アンニュイに表現されていて素晴らしかったです。
Ⅳの祭りもⅡのけだるさに加えて「華やかさ」と「切れとスピード感」も遺憾なく発揮されていて
全く文句の付けようがない演奏だったと思います。
特に中間部のコールアングレのけだるいソロの雰囲気を十分にキープした上で、ラストの華麗なる追込みに向けて
スピード感と音のキレを保ったままエンディングに向けて突進していたのはまさに圧巻でした!

なんとなくなのですけど、埼玉県の与野・伊奈学園・春日部共栄などの「洗練された演奏」に
少なからず影響を与えていたのは、常総学院ではないのかな・・とも
感じたりもしますね。

最後に余談ですけど、この「スペイン狂詩曲」は、既に1970年代後半に出雲第一中学校や山王中学校等が
演奏していたのですけど、
1980年代前半~中盤までは一時的に全く演奏されなくなった時期があるのですけど、
これは、市川交響吹奏楽団が1981年にこのスペイン狂詩曲を自由曲に選び
無事に千葉県大会を通過しながらも、吹奏楽連盟から
「スペイン狂詩曲の編曲には著作権法上の問題があるから演奏は出来ない、関東大会では自由曲を変更するか
辞退してください」と言われて自由曲を「寄港地」に変更していた経緯が大きかったと言えるのかもしれないですね。

不思議な事に常総学院の演奏はちゃんと当時の「日本の吹奏楽」のCDにも収録されているのに
なぜか1993年に限っては「スペイン狂詩曲」を自由曲にした習志野とか袋原中学校が
「収録不可」としてCD化されていなかったのはなんかヘンな感じもしたものでした。
しかも翌年の94年は普通にこの曲はCDに収録されていましたから尚更そうした奇妙さは感じたものでした。
プログラム4番の玉名女子の際に
「この年はプログラムの前半だけでメトセラⅡが3チームも被ってしまったけど、いずれも
私にとってはあまり魅力的ではなかった演奏」と記させて頂きました通り、
プログラム6番と8番にまたまたこの「メトセラⅡ」が自由曲として登場し、大変申し訳ないのですけど
私としてはあまりいい演奏には聴こえなかったものですので、この2チームは下記に一つにまとめさせて頂きたいと
思います。
そして後半に改めて田中賢の「メトセラⅡ」について簡単に触れさせて頂きたいと思います。


6.東海大学第一高校


B/メトセラⅡ~打楽器群と吹奏楽のために(田中賢)


東海大学第一高校は、80年の全国大会初出場を経て、85年に初金賞、
そして86年には最早伝説と化しているラムの「イーゴルファンタジー」を
榊原先生節が「どだっ! まいったかぁーー!!」と言わんばかりに炸裂した大変個性的でエキサィティングした演奏を
聴かせてくれ、
「東海大学第一は全国に出場すれば何かをやってくれる!」みたいな期待感を感じさせる学校に成長していたと
思います。
だけどその歩みも決して順調なものではなくて、
88年の「神人協力説の寓話」は曲自体の魅力の乏しさもありましたけど、東海第一とは到底思えない
音自体の貧弱さ+音程不良という最低の演奏を聴かせてくれ、私を大いにガッカリさせてくれ、
90年~91年は、榊原先生らしくない(?)クラシック音楽のアレンジものを選曲され、
その「固い音楽表現」に違和感を感じたものです。
東海大学第一高校が真の意味で覚醒したのは、1992年以降の演奏からであり、それが花開いたのは1997年以降なのだと
思います。
そうした意味では1988年~91年は低迷期というのか、試行錯誤の時代だったと言えるのかもしれないです。
(榊原先生=東海大学翔洋のサウンドが確立し、「さあ! これから!!」という時にああした事件を先生自身が
起こしてしまった事は自業自得としか言いようがないのですけど、吹奏楽界にとっても
損失とも言えるのかもはれないですね・・)

そうした迷っている時代の1989年の自由曲がメトセラⅡでしたけど、
課題曲B/WISH共々言える事は、
「とにかく音楽が理屈っぽく聴こえて全然楽しくない!」という印象でした。
83年のシンフォニアフェスティーヴァとか86年のイーゴルファンタジーみたいな「思いっきりの良さ」が影を潜め、
「音楽を知的に知的に表現しよう・」とする意識がヘンに強すぎる印象もあり、
結果的に大変理屈っぽい演奏になってしまい、
もう少し「感覚的なもの」が欲しかったようにも思えます。
技術的にも前年の「サウンドのひ弱さ」が完全に解消されておらず、音量は大きいけど音の芯まで鳴りきっていない
という印象も感じました。
それとメトセラⅡの例の打楽器ソロが展開された後のグレゴリア聖歌あたりでなぜか唐突に
録音された「鳥の声」が流れていましたけど、
あの意図は全く不明ですし、あれは完全に作戦ミスだったと思います。
ラストの打楽器で「和太鼓」を叩かせたアィディアは榊原先生らしいとは感じました。

私の評価は銅賞でしたけど、結果は銀賞に入賞・・・


8.浜松商業

A/メトセラⅡ~打楽器群と吹奏楽のために(田中賢)


1989年の浜松商業のメトセラⅡに関しては、
「全然未消化・・・音楽として成り立っていない」
「結果として勢いだけで音楽を推進した感じ」
「打楽器セクションの粒が揃っていないし、打楽器と管楽器のバランスに配慮が欠けている部分があり過ぎ・・」
「結局何を言いたいのかよくわからない・・音楽が混然としすぎている・・」
みたいな印象で、とにかく音楽が雑然とし過ぎているという印象でした。

だけど・・・・

1989年のこの不本意な演奏の「経験」を十分活用し、更に磨きと進化を魅せてくれたのが1991年の演奏だったと
思います!
89年の演奏で物足りなかった「整然さ」と「スピード感」と「緻密さ」に精度を加え、
更に・・「勢い」が加味された素晴らしい演奏だったと思います。
そしてとにかく打楽器セクションの粒が揃っていても神がかり的な統一感が客席にも十分すぎるほど
伝わっていたと思います。
一応は「再演」と言えるのですけど、なんでわずか2年足らずであんなに「進化」出来ちゃうのでしょうね・・・!?

あれは本当に生で聴いていてゾクゾクとさせられたものですし、高校生の「進化」と遠山先生の指導力には
本当に頭が下がる思いでした!


ここから先は「メトセラⅡ」に関する補足です。

「メトセラ」とは、旧約聖書の中に出てくるユダヤの族長の名前で、969歳まで生きたという言い伝えが
あるとのことですけど、このメトセラと曲自体の内容にどうした関連性があるのかどうかは
正直よく分かりません。
但し一つ言える事は、このメトセラⅡには、間違いなく「躍動感」・「ひたすら生きよう!!とする強い生命感」・
「原始主義音楽と言うかストラヴィンスキー・バルトークの路線のようなバーバリズム」みたいなものは私の中で強く感じます。
「混沌とした時代でも、強い意志と生命力を持って生き抜こう!!」みたいな強烈なパワーは
曲の中の至る所から感じさせてくれます。

作曲者の田中賢氏の言葉を引用すると・・・・

「相反する2つの要素」を持つ曲をイメージした。
それらがひとつの曲の中で対立する…
たとえば「打楽器群」(日本の祭りに代表される和楽器の響き)VS「管楽器群」(西洋の音楽)であり、
「前半部」(現代語法による無調音楽)VS「後半部」(グレゴリオ聖歌をもとにした調性音楽)であり、
「理知的」VS「激情的」である。

とのことですけど、
確かに言われてみるとその通りのイメージの曲ですね。
前半の「混沌」とした感じは、いかにも現代音楽というか23音主義の無調音楽にも通ずるものがありますし、
タムタムの表面をスーパーボールでこすり付け、ウワーーンという奇妙な反響音の後に続いて
展開されるオーボエの優しいソロは、確かにグレゴリオ聖歌の引用ですからね・・・
だけどこの曲の白眉は何と言っても
中間部の7人の打楽器奏者のみによる華麗なる打楽器(というか太鼓の世界)の掛け合いだと思います!
大宮ソニックでの1988年の全国大会のヤマハ浜松の初演を聴いた時は、本当に驚いたものでした!
吹奏楽コンクールであんな長大な打楽器のみのアンサンブルは初めて耳にするものでしたし、
pp~fffの太鼓連打は、とにかく強烈ですさまじいインパクトがありました!!
曲の後半からラストは、グレゴリオ聖歌に乗っかった管楽器(=西洋楽器)がメロディーラインを形成する
そのバックでは、打楽器群が、まるで日本のお祭り太鼓のような演奏を続けているのも大変印象的です。
「和」と「洋」が、あるいは「聖」と「俗」が合体したかのような印象を聴衆に否が応でも感じさせるものがありますし、
上記で東海大学第一が曲のラスト近くで和太鼓を使用していた演出は、そう言う意味では
大変理に適っていたものなのかもしれないですね。
そして、西洋の聖歌が、いつしか日本民謡のように響き始めるのですけど、
そこに輝いているのは、まさにすべての制約から解き放たれた「永遠の生命」=969歳のメトセラなのかな・・・
という感じもあります。

この曲では7人の打楽器奏者を要するのですけど、この7人で計28種類の打楽器を扱っています。
打楽器奏者はやっぱり大変ですよね!

その内訳は・・・・

1st  サスペンドシンバル、ボンゴ、ティンパニ
2nd  ザイロフォン、ボンゴ、トムトム(3)
3rd  ヴィブラフォン、ウッドブロック、コンガ、カウベル、ゴング
4th  マリンバ、テンプルブロック(5音)、バスドラム、シンバル
5th  グロッケンシュピール、木鉦(浄土宗で使われる仏具)、コンガ
6th  タイ・ゴング(東南アジアに流布する音程のあるヘソ付きドラ)、 ボンゴ、トムトム(2)、マラカス
7th  チューブラーベルズ(チャイム)、テンプルブロック(4音)、カウベル、コンガ、バスドラム、トムトム(1)

となっています。

最後になぜ曲のタイトルが「メトセラⅡ」となっているかというと
そもそもこの曲は、ヤマハ浜松の第23回定期演奏会の為に委嘱された作品であり、
それが元々は「メトセラⅠ」と呼ばれるものです。
だけどメトセラⅠは12分程度の曲であり、
これをコンクール用にカット・再構成した曲が「メトセラⅡ」なのです。

1991年12月にサントリーホールで「吹楽」という邦人吹奏楽作品のみを取り上げたコンサートで
ヤマハ浜松が、この「メトセラⅠ」を演奏していましたけど、
本当にあの演奏は音楽に感動があり素晴らしかったです! 大宮ソニックでの全国大会以上の感動がそこにはありました!
メトセラⅠとⅡの最大の違いは、
中間部の打楽器セクションに掛ける時間もありますし、その打楽器の掛け合いが終わった後の
管楽器によるゆったりとした展開部分がある点なのだと思います。

私はメトセラⅠの方が作曲者の意図はより明確に伝わるようにも思えます。
5.下松高校


B/プラハのための音楽1968 (K.フーサ)



この下松高校ですけど、最近の現役世代の皆様ですと「え・・、下松高校・・?? なにその学校?・・・聞いた事がない・・」
みたいな感じなのかもしれませんけど、
1980年代後半~90年代前半に連続して全国大会に出場していた中国支部の常連校の一つでした。
最近は、この学校の名前を耳にする事は全く無いのですけど、
いつの日にか「かつての名門復活」が果たせるといいですね・・・

この学校を初めて耳にしたのは、1985年の普門館で、下松高校が全国初出場を果たした年でした。
その時の率直な私の印象なのですけど、そうですね・・・
「サウンドが貧弱・ひ弱な音楽作り・個性も特に感じない極めて印象がうすい演奏・アピールポイントが脆弱」
そうした感想でした。
自由曲が「幻想交響曲~終楽章」という極めて劇的要素を持ち演奏効果が高い曲のはずなのですけど、
それでも音楽の骨格が極めて貧弱という印象で
正直、初出場の際はマイナスみたいな印象しか持っていなかったです。
だけど二回目の出場の際は、結果として銅賞という評価なのですけど、私個人の感想としては
「とてつもない飛躍! 技術は一旦置いておいても、その豊かな感性とその表現力は素晴らしいし、
特に最後の音の伸ばしで閉じられる部分のサウンドは、カラヤン指揮/ベルリンフィルが演奏したこの曲に
勝るとも劣らない素晴らしいものがある!」
みたいにとにかく素晴らしい演奏だったと思います。
確かに、細かい木管の動きとか金管の破裂音とか
ハープをマリンバ+ヴィヴラフォーンで代用した為、その部分がなんとなく違和感を感じてしまうなどの難点も
あるのですけど、それを上回るスケールの大きさと劇的な表現力には本当に感心させられたものでした。
そして下松高校から聴こえてくるサウンドは極めて「温かい」というか人間的な香りが漂います。
下松の指揮者の中井先生の経歴とかは正直全然わからないのですけど、
そこから聴こえてくる音楽は・・・
いかにも普通の県立高校の先生と生徒が一生懸命「手作りの音楽」をして、その努力の結果として普門館に
たどり着いたみたいな雰囲気が漂いましたし、
その音楽も「厳しい中にも温かさが滲みでているような優しい音楽」みたいな香りが漂っていたと思います。
そうですね・・・・
私は1986年のこのチームのこの音楽を生で聴いて、
「このチームは将来絶対大化けする!!」と確信し、自分の吹奏楽仲間に対してもそうした「予言」(?)みたいな事は
色々と言っていたと思います。
そして結果的に私のこの予言(?)というのか予感は、1991年に見事に的中となる結果になりましたけど、
あくまで私個人の感想としては、下松高校というと86年の演奏と87年のアルメニアンダンスパートⅠと
89年の演奏の方が私の好みです!

さてさて、1989年の演奏ですけど、課題曲B「WISH」は全部門を通じて、この下松高校が演奏したものが
個人的には一番好きな演奏です。
何でしょうかね、少し不思議な感覚なのですけど、
ものすごーーく可愛い女の子が目の前にいて、思わず頬ずりして抱きしめたくなる
そんな感覚の演奏なのです。
一言で言うと、音色に切れがあるのに、それでいてチャーミングな演奏・・
まさに奇跡的な演奏だと思います。
感覚としては、中学の部門の志村第一中学も、こうした傾向の演奏をしていました。
課題曲Bは、強気の攻めの演奏は、土気中学校に尽きると思うのですが、下松高校のWISHは
守りの演奏なのだけど、何か「温かく見守っていきたい・・・」と感じさせる演奏なのです。
そうですね・・・「可憐な演奏」という言い方がなんかしっくりきそうな感じです。
冒頭のあのひそやかな雰囲気をあここまで温かい目線で表現出来た演奏って多分ですけど、下松高校以外は
なかったような気もします。
常総学院の課題曲B/WISHは、技術的・音楽としての器の大きさと言う意味では多分全部門を通して最高の演奏
なのかもしれないのですし、それに対して下松は、悪く言うと地味な演奏ではあるのですけど、
あの可憐でひっそりとした可愛い雰囲気でまとめた課題曲は、私にとってはまさに「WISH」=希望という言葉が
しっくりくる演奏だったと思います。
対照的に自由曲は、「プラハのための音楽」という大変な難曲で、
劇的で凄まじいというのか胃がギリギリと痛くなる程の緊張感を要求される大変厳しい曲です。
この「プラハのための音楽」を吹奏楽コンクール用のカットヴァージョンとして演奏する場合、
オーソドックスなのが名電方式とも言われるⅢの打楽器のみのアンサンブルとⅣを組み合わせたカット方法が
一般的なのかもしれないです。
そうした名電のカット方法に対して「こういう方法もありますよ・・」と提示をしたのが1988年の東海大学第四高校で、
Ⅰのファンファーレ等の強奏部分をメインにした箇所とわずかにⅢとⅣの主に前半部分を構成し、
唐突にラストのコラールへと結びつけるかなり強引なカットとも言えるものでした。
東海大学第四のカット方法はある意味大変分かりやすく、音楽として演奏効果を狙いやすい部分を意図的に
抽出したような印象すら感じられます。
それに対して1989年の下松高校は、東海大学第四と同じようにⅠとⅣからの構成としているものの、
普門館で聴いた限りの私の印象としては、「東海大学第四とは全然異なる雰囲気!」という印象が大変強いです。
下松は、Ⅰの部分もどちらかというと弱奏の部分というのかフルートソロをメインとした内省的で静かな部分を
メインにカットし、Ⅰを静かに閉じ、Ⅲの打楽器アンサンブルは演奏せず、Ⅳのダダダダダ・ダダ・ダダダダダ!という冒頭の
強奏部分から開始させ、Ⅳの激しい葛藤を経て、東海大学第四がカットしたティンパニソロ部分と後半の感動的な
あのコラールも高らかに鳴らしてくれていて、
「音楽としてのストーリー性」は大変強く感じる事が出来ました。
Ⅰで静かな内省的感覚を表現し、Ⅳの「抑圧に対しては自分達は絶対に屈しない!」という高らかな宣言みたいな感覚を
謳い上げ、やはり「音楽としての流れ」は大変見事に表現出来ていたと思います。
それとこの年の下松は音色が大変美しかったのが大変印象的です。
サウンドに透明感があるチームというか、音色を最優先に考えるチームは、
オリジナル曲でも、古典曲でも、現代音楽などどのような選曲をしても、コンクールとしては十分すぎるほど通用するという
事を見事に立証したような演奏でもありました。
音色がいいと、多少技術的な難があっても見過ごせてしまうという所なのかもしれませんよね。
同じ自由曲を選び、大体同程度の技術・表現なのに、下松は銀、出雲は銅と評価が分かれたのも
このあたりで明暗が分かれたのかもしれないです。
4.玉名女子高校


D/メトセラⅡ~打楽器群と吹奏楽のために(田中賢)


今現在の吹奏楽コンクールにおける九州支部の全国大会常連校、そして全国大会でも金賞を受賞し続ける
名門チームというと、そりゃ言うまでもなく福岡の精華女子と熊本の玉名女子の2校の存在が光り輝いていると
思われるのですけど、その玉名女子の全国大会初出場が実はこの年、1989年でした。
私もこの時の演奏はよく覚えているのですけど、なんかイメージとしては、おさげ髪のセーラー服の女の子が
たどたどしく演奏している・・そんな雰囲気があったような気がします。
この時代・・1989年当時は既に「女子高校」が全国大会に出場する事自体は全然珍しい時代ではありませんでしたし、
共学校の場合ですと、部員の8割近くは女の子という時代に既に入っていましたけど、
今現在の吹奏楽コンクールの精華女子などのような「出場すればほぼ間違いなく素晴らしい演奏を聴かせてくれて
ほぼ確実に金賞を受賞する」みたいな「絶対的なエース的な存在」が女子高であるという時代では
まだなかったような気もします。
(今現在の女子高の優位性という流れの先駆的存在は、就実と中村学園、その途中経過的存在が、
 たとえば・・鈴ヶ峰女子とか土佐女子とか光ヶ丘女子とか安城学園などの学校と言えるのかもしれないですよね)

1989年~90年において、九州支部代表の玉名女子とか精華女子が全国大会初出場を成し遂げていましたけど、
両チームとも面白い事に初出場から21世紀前半までは、吹奏楽コンクールにおいては、正直・・微妙な位置にいたという
感じもあり、確かに上手い事は上手いし下手ではないのだけど、特に際立った個性も圧倒的な歴史的名演を残していた
訳では無いという雰囲気もなくは無かったと思うのですけど、
精華女子は自由曲にクロード・スミスやバーンズ・スパーク等の高度な吹奏楽オリジナル曲を自由曲にするようになって以降の
その圧倒的な存在感と数々の名演は皆様既にご承知の通りですし、
玉名女子も2012年以降の急に吹っ切れたような素晴らしい名演の連続と大活躍ぶりも既に皆様よくご存じの通りです。

だけど、後述しますけど、玉名女子の初出場の演奏は、正直・・あまりいい出来の演奏では無かったです・・・(汗・・!)
精華女子だって初出場のロメオとジュリエットとか92年のダフニスとクロエとか93年のディオニソスの祭りとか
一応金賞は受賞していたものの94年の三角帽子は、あまりにも平凡な演奏で、現在のような圧倒的存在感はまだ皆無
でしたので、やはり「名門校」といえどもそこにたどり着くまでには時間がかかるし、それに至るまでの間には
指揮者の先生や奏者の皆様など関係者の多大なるご苦労の賜物だと思います。
余談ですけど、私がいまだにアニメ「響け! ユーフォニアム」第二期における北宇治の全国大会出場自体に納得が
いっていないし文句たらたらなのは、
「吹奏楽コンクールというのはそんな数か月足らずで突然変異的に上達する事は100%ありえません!」という
私自身の経験とか現実的な吹奏楽コンクールの実態が頭の中にあるからと言えるのかもしれないですね。

1989年の玉名女子ですけど、あんまりいい演奏ではなかったです・・
一言で言うと「粗い演奏」です。
悪く言うと音量だけで勝負した演奏、良く言うと大変おおらかな演奏と言えるのだと思います。
課題曲Dが始まった瞬間から、「音がデカい!」とか「やっかましー演奏」みたいな感じもあったのですけど、
ポップス系のマーチといえどももう少しきめの細かさというのか音自体の繊細さは必要だったといえるのかもしれません。
この課題曲Dを演奏する場合のドラムセットって、大抵の場合ステージ横手に配置されるパターンが多かったような
気もするのですけど、玉名女子の場合、自由曲がメトセラⅡという打楽器群が主役の曲であるため、
舞台の最後段の位置にも打楽器をセットした事情もあり、ステージ正面にドラムセットを配置したという事情も
多少はあるのかとは思うのですが、とにかく課題曲に関してはドラムセットのビートがビンビンと響いてくる印象が
大変強かったように思えます。
自由曲の「メトセラⅡ」に関しては、曲のよさに助けられたという感じの演奏で終わってしまい、
音楽の内容以前にこの曲に書かれている音符を消化するだけで精一杯という感じで終わってしまったという印象が
大変強く、当時普門館の客席から聴いていた私のハートに響くものは当時はあんまり無かったのは
惜しまれます。
打楽器セクションは7人ほどいたと思いますが、奏者の技術とか叩き方のレヴェルがバラバラで
統一感があまりなく
感じたままに叩くという印象が大変強く「曲としての美感」に欠けていた事と
中間部のオーボエのソロをはじめとする木管セクションのサウンドに透明感とか音自体の艶があまり感じられなかったのも
コンクールとしてはマイナスに作用していたと感じられます。

既になぜか市立川口の時に書いてしまっているのですけど(汗・・!)
玉名女子と浜松商業と東海大学第一は、自由曲に「メトセラⅡ」を選んでいます。
恐らくは、前年度のヤマハ浜松の歴史的超名演に触発されたのでしょうけども、
残念ながら「二匹目のドジョウはいなかった・・・」という感じでした。
正直、3チームとも私のハートにはあんまり響いてこない印象の薄い演奏でした・・・
玉名女子は前述の通り、技術的に未消化な感じでしたし、
東海大一は、打楽器になぜか和太鼓を取り入れていましたが、その意図も演奏効果も全然意味不明だし、
浜松商業の優等生過ぎる演奏もあまりピンとこなかったし
(浜松商業は1991年に同じメトセラⅡを取り上げていますが、この時は素晴らしい演奏を聴かせてくれていました!)
3校ともに揃いもそろって少々期待外れ・・という印象は拭えなかったと思います。
3.市立川口高校


A/仮面幻想(大栗裕)


この年、1989年の高校の部ですけど、プログラム1番の関東第一の演奏から、当時の私は普門館で生演奏を
聴いていましたが、
率直に言わせて頂くと、プログラム7番の常総学院が登場するまでは
「あれれ・・なんか今年の大会はかなり低調でレヴェルが低い感じ・・・今年は外れ年なのかな・・?」と感じていたものでした。
それと一つ大きかったのは、前年度の1988年にヤマハ浜松が「メトセラⅡ」というとてつもない歴史的名演を残してくれた
おかげもあるのですけど、翌年の89年はこの「メトセラⅡ」が全国的に大ブレイク!
この年の高校の部でも3チームがこの「メトセラⅡ」を自由曲として演奏してくれたのはいいのですけど、
玉名女子・東海第一・浜松商業は残念ながらあんまりいい演奏を聴かせてくれていないというか、
大変感銘度の低い私的には大変つまらない演奏を聴かせてくれ、しかもその3チームがご丁寧に、
プログラム4・6・8番と前半に集中した上に演奏自体が連続する形みたいな印象になってしまい、
さすがにプログラム4~8番の1時間15分の間に3タームが同じ「メトセラⅡ」を演奏していましたので、
なんか気持ちとしては「メトセラⅡはもうお腹一杯!」という感じになってしまったのも印象としてはあんまり良くは無かったと
思います。
それと・・玉名女子と東海第一のメトセラⅡの出来があんまりよくなかったし、
浜松商業も全然消化不良気味の上に優等生すぎるつまらない演奏を聴かせてくれていましたし、
気持ちの上では、「この年の高校の部の前半を聴くのは結構しんどかった・・」みたいな印象は当時感じていたものでした。
田中賢の「メトセラⅡ~打楽器群と吹奏楽のために」は、
音楽としての感銘度が大変高く、打楽器の効果的使用の演奏効果の高さには目を見張るものがあったのは
間違いない素晴らしい名曲であるとは思うのですけど、
この曲はヤマハ浜松の初演当時から
「打楽器セクションのみを強調した外見的効果に頼った作品」とか
「ちょっと上手いチームが演奏すればヤマハ浜松みたいな演奏効果は簡単に得られやすい」みたいな批判を
受けることが多い曲でもあったのですけど、
結果的に1989年の高校の部でこのメトセラⅡを演奏した3チームの演奏を聴いてみると
「この曲は決して外見的効果だけを意図した曲ではない」とか
「誰がやってもある程度の演奏効果は得られる」という見解は全くの誤りであるという事を皮肉にも裏付ける事になってしまった
のではないかと今更ながらふと思う事もあったりします。

あ・・・なんか冒頭から話がそれました・・・

今現在はプログラム第3番の市立川口高校のお話でした・・・(汗・・!)

この年の市立川口は、そうですね・・・全盛期の勢いと輝きは失われつつあった時代に既に入っていたのかもしれないです。
市立川口は、二つの交響的断章とか無言の変革シリーズなどのような
吹奏楽オリジナル作品という曲自体の斬新さと積極果敢な表現とか個人の技術の高さとかソロ楽器の巧さは
70年代後半~80年代の中盤頃までは相当光り輝くものはあったと思います。
1980年代以降の吹奏楽コンクールの驚異的なレヴェルアップによって、
市立川口のかつてのような特異性・輝きは既に市立川口だけの特権みたいな時代ではなくなってはいたと思うのですけど、
市立川口のその後の没落過程は、86年の課題曲B/嗚呼!の冒頭のトランペットのミス、87年の課題曲B/渚スコープの
やはりトランペットの中間部のソロのミス、そしてそして・・88年の自由曲の「ハムレットへの音楽」の
やはりトランペットセクションのあの痛すぎるミス等によって既に暗示されていた・・・と言えるのかもしれないですね。

この年の市立川口には、全盛期の力は既に弱まっていたと言えるのかもしれないですね。
課題曲も自由曲も市立川口らしい「音楽としての個性」とか「伝えようとする意識」は間違いなくあったと感じられます。
だけど、そうした音楽として表現したい事の手段としての基本的なアンサンブルに何かズレが感じられ、
一言で感想を言うと「表現意欲は伝わるのに技術的なアンサンブルが今一つ・・」みたいな印象がありました。
市立川口の大ファンで、吹奏楽オリジナル作品の魅力は、まさにこの市立川口の演奏こそが原点でもある私にとっては
大変残念な感じの演奏ではありました。
上手い所と雑な部分がかなり極端に演奏されていて
部分的にすごくチャーミングな箇所も間違いなくありますし、いかにも信国先生らしい表現をされている箇所も
間違いなくありましたし、
部分的には好演の連続なのに全体としては、大変散漫とか雑という印象を感じさせてしまうのは、どうしてなんでしょうかね・・?

課題曲の「風と炎の踊り」の冒頭から序盤の音のひそやかさは大変うまく表現出来ていたと思いますが、
強奏になると、そうしたひそやかさが後退し、やはり全体としては「粗い」という印象を受けてしまいます。
自由曲の「仮面幻想」も豪快に鳴らしている部分と中間部の少し鄙びている部分の対比何か
すごくいい所もあるのですけど、全体的に緊張感が持続しきれていないという印象もありました。
仮面幻想の中間部においても、いかにも信国先生らしい表現と言うのか、瞬間的な「音楽としての間」を意図的にとったり、
部分的に音の入りのタイミングをわざとずらしたり、
極度にテンポを落としたと思ったら次の瞬間に駆け抜けていく表現があったり
いかにも日本人の「照れ」みたいな「奥ゆかしさ」をイメージさせるような表現があったりと、やはり往年の市立川口らしさは
健在なのですけど、それが持続できないアンサンブルの乱れというのか雑な仕上がりが見受けられ
残念な感じもありました。
上手いのだけど「音楽としての集中度」が今一つと言えるのかもしれません。

部分的に打楽器セクションの音が大きすぎたというのもコンクールとしてはマイナスに働いたのかもしれないです。

私にとって市立川口というと「無言の変革」も「永訣の歌」などの演奏もとてつもなく魅力的なのですけど
やはり1979年の「二つの交響的断章」という印象が大変強いです。
私、このブログでよく
「1982年の花輪高校のウォルトンの交響曲第1番終楽章の演奏こそが私がクラシック音楽という深い森の中に
入り込むきっかけ」みたいな事を書かせて頂いておりますが、同様に
「1979年の市立川口高校の二つの交響的断章の演奏こそが、私が吹奏楽オリジナル作品の魅力に気が付く
きっかけとなった演奏」と記させて頂いておりますし、
同時に、私自身が「埼玉県川口市というエリアにいつかは住んでみたい!」と思うようになったきっかけの学校とも
言えますし
(それは後年、本当に現実のものになってしまい、私自身は今でも埼玉県川口市在住です! 笑・・)
このブログの一つの目的が花輪高校吹奏楽部と市立川口高校吹奏楽部のあの偉大な不滅の名演を後世の皆様に
語り継いでいきたいという事に繋がっていると思います。

1979年当時吹奏楽コンクールの全国大会の出場チームのステージ衣装は、ほぼ例外なく学校の制服というか、
男子は学ラン、女子はセーラー服かブレザーというチームが多い中、
市立川口高校は、赤ブレザーに赤のズボン・スカートという当時としては斬新なステージ衣装でしたし、
広い普門館のステージが狭く感じるほどパーカッションをズラリとセッティングしたり
グランドハープとか法螺貝とか、コンサートチャイムとは異なる本物の「鐘」を持ち込んだり、
視覚的にも大変なインパクトはありました。
そして見た目だけではなくて演奏自体が素晴らしかったですね!
1979年の課題曲は「プレリュード」と言う「無調的色彩」の強い現代音楽系の曲だったのですが、
出だしのティンパニソロをはじめ、緊張感漲る演奏が本当に素晴らしかったですし、
後半のヴィヴラフォーン以降の木管セクションのひさやかさ、打楽器セクションの鼓動など文句のつけようがない演奏でした。
しかもこの演奏、全国大会初出場でしかもプログラム一番なのですよ・・・!!
そんなハンディーを全く感じさせない圧巻の演奏でした!!
自由曲のネリベルの「二つの交響的断章」は「これぞ゜まさしく歴史的超名演!」の名に恥じない衝撃の演奏です!!
冒頭が、チャイム・シロフォーン・グロッケン・マリンバの鍵盤打楽器から開始され
執拗に同じメロディーを反復していくのですが、この執拗な緊張感が絶品です。
アルトサックスのソロも素晴らしいし、
それに合いの手を入れる打楽器セクションの瞬発力もお見事に一言に尽きます。
ファゴットのデュエットも・・ま・・少しばかりズレはあるのですけど、やはりあの勢いは止められない感じです。
後半のティンパニソロからの金管セクションの透明かつ勢いのある展開も大変迫力がありますし、
トムトムをはじめとする打楽器セクションのやはり瞬発力と自発性は高く評価されて然るべきだと
思います。
自由曲における、ドラの鳴り方が非常に効果的なのも印象的です。特に第一楽章の鳴りっぷりは凄まじいものがありました!
あのドラは、まさに「音楽の神様が鼓動・躍動している!」という響きそのものだと思います。
この原曲は17分程度の大変長いものなのですけど、市立川口は5分30秒程度にコンパクトに収めてしまいましたので、
「もう少し長く演奏しても良かったのでは・・・? せめてこの翌年の東海大学第一高校くらいの長さは
欲しかった」とも言えなくはないのですけど、
指揮者の信国先生は、
「音楽的緊張感」を優先に考え、このカット方法にしたのかもしれませんよね。

この1979年の市立川口の演奏は、まさに私の「吹奏楽オリジナル作品のバイブル」だと思いますし、原点だと
思います。

市立川口高校は既に川口市の市立高校の学校統廃合の対象校になっていて、間もなく校名すらも
消えてなくなってしまいますけど、
私の心の中には永遠に「市立川口高校吹奏楽部」の名前は消える事は無いと思います。

市立川口高校吹奏楽部は、1990年の吹奏楽コンクールも全国大会に出場しますが、91年のダメ金を最後に
その後20年近くは吹奏楽コンクールの表舞台から姿を消してしまいますが、
最近は、B部門において西関東大会に進み、また数年前も本当に久しぶりに西関東大会のA部門に
埼玉県代表として出場を果たし、
私のような「古くからの市立川口ファン」を狂喜乱舞させたものでした!

1970年代後半まで、関東の吹奏楽というと、銚子商業と前橋商業の2チーム程度しかいわゆる名門校は
無かったようにも思えますが、
こうした状況に対して
「いやいや、関東には埼玉県の学校もありますよ!」という事を轟かせ、
現在の日本の吹奏楽のスクールバンドにおいて
「吹奏楽の多大な実績を残している名門県」と言うと埼玉・千葉・大阪・福岡・愛知等という流れを呼び込んだ
市立川口の名前は永遠に私たちの心に刻み込まれると確信します!!
2.伊予高校


A/バレエ音楽「ガイーヌ」~序奏・ヌーネの踊り・バラの少女の踊り・レスギンカ舞曲(A.ハチャトゥーリアン)


この年の伊予高校は、上甲先生として2回目の全国大会出場となりましたけど、上甲先生として初めての全国の
1986年の「ローマの祭り」は私も大好きな演奏で、あの演奏は当時普門館で聴いていても
大変エキサィティングでわくわくとしたものが伝わり、
まさに「絶えずどの瞬間も自分たちに出来る事を精一杯伝えている!」みたいな雰囲気がとてつもなく生き生きと伝わり、
私はあの伊予高校の演奏は今でも大好きです!
伊予高校は86年の演奏は銀賞でしたけど、伊予高校はこんだけ何十回も全国大会に出場しているのに、
金が1回、銀が3回、残り全て「銅賞」という結果なのですけど、
確かに他の支部に比べると技術的に多少見劣りするのは誰が聴いても明らかではあるのですが、
上甲先生時代の「絶えず何かを精一杯表現しようとする」と言う姿勢はどの時代も、どの顧問の先生時代も
共通していると思いますし、
確かに技術的には拙いものが多々あるのだけどあの「熱さ」・「ひたむきさ」は私も高く高く評価したいです!!

1987年~88年の伊予高校は残念ながら四国大会ダメ金という事で全国大会には進めなかったのですけど、
実はなのですけど、私、この2年間の伊予高校の四国大会の演奏なのですが、
生演奏ではないのですけども実況録音の演奏をカセットテープで聴いた事があります。
当時のブレーン社は、なぜか知りませんけど、四国大会のそうしたコンクールにおけるライヴ演奏の
カスタムテープ作成という事も請け負っていたようで、そうしたマニアックな演奏をひたすら追い求める知人がいるせいもあり、
私もそのおこぼれをその知人から頂く事が多々あり、結果的に87年~88年の伊予高校の四国大会のダメ金の演奏を
カスタムテープで聴く幸運に恵まれたものでした。
その中で大変印象に残ったのは、1987年の自由曲のハチャトゥーリアンの交響曲第3番「シンフォニーポエム」でした!
確かに音量過剰で、曲自体大変騒々しくてとてつもなくよく鳴る曲ではあるのですけど、
さすがに「ちょっといくらなんでもやりすぎ・・ちょっとというかかなり音量過剰」みたいな印象はありますし、
音がデカすぎてコントロール不能みたいな所がコンクールとしてはマイナス評価を受けたのかもしれないですけど、
私個人はあの生命力溢れる躍動感は素晴らしいと思いますし、
あれはまさに「人間の本能」そのものなのだと思います。
そしてなぜか知りませんけど、この年のブレーン社の四国大会の録音が大変素晴らしく、あの残響音の素晴らしさもあり、
私は87年の伊予高校の演奏はかなり大好きです。
余談ですけど、この年、87年の中学校B部門の三津浜中学校の風紋と自由曲のショスタコーヴィッチの
交響曲第5番終楽章の演奏も、大変録音が良い上にあの終始攻める雰囲気が大変好感に思えたものです。
だけど翌年、三津浜中はA部門に出場し、四国大会も突破し全国大会に臨んだのですけど、
普門館ではなぜか「守りの演奏」に入ってしまい、前年みたいな積極的な表現がほとんど見られなかったのは
大変惜しまれる事でした。
やはり「普門館」には魔物が棲んでいるのかもしれないですね・・・

話がされましたけど、1989年の伊予高校は3年振りの普門館という事もあり、上甲先生も奏者も少し固くなっていたのか、
緊張感が悪い意味で出てしまい、
印象としては、上記の1988年の三津浜中学校みたいな少しよそ行きの演奏というのか、
幾分「守りの演奏」に入ってしまい、86年のローマの祭りみたいな積極性があまり感じないまま
課題曲も自由曲も終わってしまったような印象が私の中ではあったりもします。
自由曲の「ガイーヌ」のレスギンカは、木管の消化不足も少し印象が悪かったように思えます。

やはりコンクールの演奏と言うのは大変難しいものがありますね。
1.関東第一高校


A/バレエ音楽「スパルタカス」~三つのダンスエピソード(A.ハチャトゥーリアン)



関東第一高校は、1987年から89年の三年間は、毎年のようにこのチームの演奏を普門館で聴いてきた立場で
言わせて頂くと「低迷期の三年間」だったと思います。
そしてこの三年間の自由曲は、ロメオとジュリエット・ガイーヌ・スパルタカスとロシアもののアレンジ作品であったのですけど、
これは結果論になってしまいますが、後年の関東第一のカンタベリーコラール・華・ベトナムの回顧・指輪物語のように
このチームはアレンジものよりは「吹奏楽オリジナル作品」の方がこの学校のカラーに合っていたのかな・・?と
感じる事もあったりします。
アレンジものですと、サウンドは大変洗練されて美しいものの、あまり聴衆に伝わるものが少なく
どこか通り過ぎてしまったような印象もあったりします。
どことなくよそゆきの演奏と言うか「ちょっと・・らしくない演奏なのかな・・」とも思いますし、
「借りたきたネコ」みたいな演奏なのかな・・?とも感じたりもします。
(関東第一のアレンジもので最高レヴェルの演奏は、91年のトッカータとフーガニ短調だと思います)

1989年の演奏でどのあたりの印象があまり芳しくないのかというと、全てにおいて中途半端みたいな点なのかなと
思います。
男子校らしい豪快さがある訳でもなく、指揮者の塩谷先生が「このように表現したい」と意図していた柔らかい響きが
完全に出し切れていた訳でもないし、斬新な解釈がある訳でもないですし、
確かに音とサウンド自体は大変洗練されて美しいのですけど、
「あまり伝わるものが無いのかなぁ・・」と思ったりもします。

プログラム一番という出演順も少し気の毒でしたね。
普段の練習では、多分ですけど、もっと伝わるものがあるのだと思うのですけど、
特に課題曲において感じた事ですが、音の芯が確立されないままふわっ・・と音楽が開始され、
「音楽として生き生きとした雰囲気」が伝わらないまま本番のステージが終わった感じがします。
単純に比較すると、この年の関東第一は、都大会の方がもっと聴かせる演奏をしていたと思います。
この年の自由曲の「スパルタカス」も決して悪い演奏ではないと思います。
出来自体は決して悪いものではないと思います。技術的にも一定の標準はクリアしています。
「三つのダンスエピソード」の中で、大変ゆったりとしたアダージョ部分のⅡをメインに自由曲を構成し、
ラストはⅠの速いテンポの部分で追い込んでいくという構成でしたけど、
Ⅱのアダージョは部分的に音楽がたるみ、アレグロも美しいけど、少し迫力に欠け、
もう少し男子校らしい豪快さは演出してもよかったんし゜ゃないのかな・・と感じたものでした。

結果的に、1983年の初出場から通算して四回目の銅賞受賞となりましたが、銅賞はこの年で終わり。
翌年から新しい関東一校の歴史が始まっていくのです!
この1990年の「華~吹奏楽のために」の素晴らしい演奏以降の関東一校は、まるで別人のチームのように
生まれ変わり、そしてあの1993年~95年の栄光の三年間に繋がっていくのです!
結果論になるかもしれないですけど、この時期の関東第一は「産みの苦しさ」みたいな過程だったのではないのかなとも
思ったりもします。

このバレエ音楽「スパルタクス」ですけど、
吹奏楽経験者の皆様にとっては、ハンスバーガー編曲による「三つのダンスエピソード」というアレンジものの方が
馴染みがあるのかもしれませんよね。

このハンスバーガーによる吹奏楽アレンジ版の「三つのダンスエピソードは」

Ⅰ.ギリシア奴隷の踊り 商人たちの入場  ローマの遊女の踊り ジェネラルダンス

Ⅱ.フリージアの踊り エジプトの少女の踊り

Ⅲ.若きトラキア人の剣舞

から構成されています。
吹奏楽コンクールにおいては、1978年の天理高校のようなカットのパターンが多かったような気もします。
(Ⅰの前半のみを演奏しクラリネットのソロが終わったところでカット、そしてⅡも同様に前半でカット、
 そして最後のⅢで華々しく終わらせるパターン)
前述の1989年の関東一高のように、Ⅱをメインにし、Ⅰの最後の曲で終らせるというパターンもありましたし、
1989年の都大会での足立区吹奏楽団のように、Ⅱのクラリネットの大変長いソロをメインに構成し、
Ⅱのラストをもって静かに曲を閉じるというパターンもありました。
最近では・・・・
ハンスバーガー編曲よりは、仲田守氏のアレンジの方が演奏される傾向にあるのかな・
1988年は、経済としてはまさに「絶好調!」みたいな印象が大変強く、当時金融機関に在籍していた私としても
その経済の好調さ・お金を巡る動きのめまぐるしさは肌で実感していたものでした。
反面、この年は予想外の冷夏という事もあり、何かどんよりとした感じは否定できない雰囲気があり、更に加えて
昭和天皇のご病状が悪化し、世間全体が「自粛」という事で、バーゲンとかイベントとか
お祝いというものがことごとく自粛されていた傾向がありましたので、
世の中全体が「この好景気を楽しもう!!」という雰囲気では全然なかったと思います。
昭和天皇がご逝去され、時代が平成へと移ると一気に時代が明るくなっていったような雰囲気があったようにも感じました。
それまでの自粛ムードを一気に打ち破り、好景気を世の中全体で享受したのがこの年、1989年だったのだと
今更ながらに振り返ったりもします。
皮肉な事に、「平成」の時代で好景気という言葉で覆われたのはこの元年の1989年だけで
翌年からは早くも「バブルの崩壊」という事が盛んに言われ始めるようになり、
1990年以降は下り道を転がり落ちるように景気は悪化し続け、
1997年の北海道拓殖銀行・山一証券の経営破綻という「金融機関の崩壊」という時代がスタートし、
結果として「経済の氷河期」が21世紀になっても続く事になります。
というか・・平成の時代に入ってから「平成元年」の好景気を超越出来た年が一年も無いという事自体、
既に日本と言う国が「停滞期」に入っているという事なのかもしれないですね。
否! 停滞期という表現よりは、むしろ、大人の国家としての「安定期」という言葉の方が宜しいのかもしれないです。
別に常に国力とか経済力は毎年上昇し続ける必要もないんじゃないのかなぁ・・というのが
私の経験値でもありますからね・・・(笑)

昭和天皇がご逝去されるという事は、銀行内の上層部ではとっくの昔に想定内だったようで、
支店長の机の上には、総務部が作成済みの
「昭和天皇逝去後の支店内外対応マニュアル」なんてものが既に1988年秋頃から配布されていて、
例えば、逝去発表の日は、全行員は6時に退行(当時はPM22:00以降の退行時間はごく当たり前でした!)とか
一週間は顧客宅訪問といった営業活動は全面自粛とか
(だけど、電話営業を活用し、目標は必達しろ!!とか結構無茶は書かれていましたね・・苦笑・・)
窓口業務におけるテラー女子行員の笑顔は三日間は自粛とか
半旗の掲揚とか全行員黒ネクタイ着用とかかなり細かい指示は出ていました。
振り返ってみると、確かにご逝去発表後は全てそうした事前のマニュアルに従って行動が制約されていたと記憶しています。

ご逝去後3日前後は、どのテレビをつけても昭和天皇の事ばかり取り上げていましたけど、
確か聞いた話では、レンタルビデオ店は、
「どのテレビ番組もつまらない」という事でビデオを借りる人がかなり殺到し、レンタル数としてはかなりの記録を出す店が
多かったとの事です。
ちなみにこの頃は世の中にまだDVDとかブルーレイは出ていませんので、全てテープ式のビデオです。
そして、これは平成生まれの方は多分わからないと思いますけど、この頃のレンタルビデオ店には、
ベータ式とVHS方式の二通りのビデオが配置されていました。
ま・・こんな事を書いてしまうと、管理人の実年齢がバレバレになってしまいますよね・・(滝汗・・!!)

平成元年~3年当時にスピリッツで連載されていた山本直樹の「あさってDANCE」という漫画は、当時、私これ大好き
だった作品なのですけど、物語の冒頭は、昭和天皇崩御の世相とリンクしていましたし、
1989年(平成元年)12月掲載分の話の中で、
主人公のあやが末吉に
「あしたは天皇誕生日ね・・、一体何人のうっかり者が会社に出勤してしまうのかしら・・」とつぶやく一コマが
あったものですけど、
昨年の平成28年の天皇誕生日の際は、既に28回目の天皇誕生日でしたが、
1989年は確かに初めての天皇誕生日で、当時の私たちのイメージで言うと
「天皇誕生日は4月29日」という感覚しか無かったものですから、このあやのセリフはまさに妥当性あり!という感じですし、
今現在の視点で眺めると隔世の感はありますね・・・

なんだか「吹奏楽コンクール」とは全然関係ない話が続いてしまって大変失礼しました・・・(滝汗!!)

番外編はここまでとし、次回からプログラム1番の関東第一から本編としてスタートをさせて頂きたいと思います。

その前に一つだけ・・・

最近の吹奏楽コンクールでは精華女子の影響もあり、スミスの「ダンス・フォラトゥーラ」という難曲中の難曲を
全国大会で演奏するチームも大分増えてきて、昨年、2016年の全国大会でも3チームがこの難曲を
自由曲として演奏していました。
ちなみにですけど・・・
あの「ダンス・フォラトゥーラ」の全国大会初演は、実は高校の部とか一般の部ではないのですよ!!
実はなのですけど、1989年の中学の部で出場した宮崎県の生目南中学校が全国大会初演なのでした!
しかも、この学校は全国大会初出場です!
この演奏、私も普門館の生演奏で聴きましたけど、とてつもなく印象度が強い演奏だったと思います。
以前も書いたことがありますが、私、コンクールのプログラムに演奏チームの感想・印象・私の自己採点みたいな事を
メモ書きする事もあるのですけど、
この生目南中は、私の自己採点では、自由曲の技術はE 表現はAという感じでした。
私の印象としては、この難曲中の難曲を音にするだけで精一杯なんだけど、「音楽をみんなで奏でよう!」という
熱いハートは客席にもとてつもなく熱く熱く伝わっていたと思います。
全体的な印象は「細かい事は気にするなっ!!」という感じで、
細かいところよりも全体の雰囲気を大事にしているという感じで、とにかくあの「荒っぽいおおらかさ」は、
現在のコンクールでは絶対に聴く事が出来ない「熱さ」は絶対にあると思います。
この「ダンスフォラトゥーラ」は中間部にトランペットのとてつもないハイトーンのソロがあるのですけど、
生目南中学校は、あの部分のトランペットソロは一オクターブ下げて演奏するという「荒業」も披露してくれて、
これも大変印象に残っています。

それでは後日、その①の関東第一高校の記事でお待ち申し上げております!
この年、1989年の全国大会・高校の部なのですけど、
プログラム1番の関東第一からプログラム27番の兵庫高校まで全ての演奏を普門館で聴いた私の
率直な感想ですけど、
一言で言うと、「地域格差が目に余るのかな・・?」という感じのものでした。
そして比較的出場チームの「差」がはっきりと明瞭に出てしまい、上手いチームとそうではないチームの差が
とてつもなく付いてしまったという印象もあったりします。
具体的には・・・・東京・中国・四国支部代表の演奏と関西・関東・北陸支部代表の演奏を単純に比較しても
「本当にこれで同じ高校生なのかな・・」と思わず感じさせてしまうくらいの「大差」が付いてしまったような感じもあります。
そしてこの「地域格差」というのは、実は最近の吹奏楽コンクールを聴いても似たような事は感じる事もあり、
その辺りは難しいものがありそうですね。
そして、この年は金賞受賞チームと銀・銅の間の「差」は、率直に言うと「天地との開き」みたいな感じすら
あったようにも思えます。
ま・・・例によってなのですけど、秋田県の「花輪高校」の銅賞は、あれは私、今でも全く納得していないですね!
花輪高校の銅賞は、どう考えても「審査員の好き嫌い」としか思えないですし、
1985年・87年・89年の花輪高校の銅賞は、私自身いまだに吹奏楽コンクールで理解しがたい評価の一つと
申し上げたい気持ちで一杯です!

この年の高校の部の私にとっての「グランプリ」は、間違いなく常総学院だったと思います。
というか、1989年の常総学院が実は全国大会初出場であったという事実もまさに「驚き」以外の何者でも
なかったですね!
あのまるで管弦楽団による洗練されたようなサウンドという方向性は、
まさに1990年代以降の吹奏楽コンクールの「一つの方向性」を示唆した演奏そのものであり、その意味でも大変
歴史的意義は大きい演奏の一つではなかったのかな・・と思いますね。
そしてあの初出場から既に28年の歳月が経過しているのですけど、
常総学院は、当時の同じ本図先生という大変優秀で指導力のある先生が指導をされ続けていて、
89年のあの「一つの方向性」を更に発展進化させ続けている演奏を聴かせ続け、あの初出場の年からずっと
全国大会の常連をキープし続けている事実は、まさに「脱帽!としか言いようがないですし、
心の底から敬意を表させて頂きたいと思います。

1986年の全国大会で、ドビュッシーの「海」を計3チームが自由曲に選んで、2チームともアレンジャーが異なるという
事情もあるにせよ、習志野・高岡商業・神戸の各チームがそれぞれ異なる表現・解釈の
「素晴らしき海の競演」を聴かせてくれていたのですけど、
1989年の大会も田中賢の「メトセラⅡ」を自由曲に選んだチームが3チーム出場し、演奏していたのですが、
玉名女子・浜松商業・東海第一の3校とも、大変残念な事に「凡演」を聴かせてくれて、
当時の私のテンションを思いっきり下げてくれた事も一つの懐かしい思い出と言えるのかもしれないです。

たげとこの年で一番インパクトが大きい演奏というと、洛南高校じゃないのかな・・・?

あの演奏は、まさに宮本先生のアクの強さが漲り渡り、「宮本先生=洛南高校」というとてつもなく強烈なサウンドが
確立された瞬間じゃないのかな・・・とも感じさせてくれました!
ああいう演奏が出来ちゃうチームは、今現在の吹奏楽コンクールの高校の部では皆無と言えるのかも
しれないですね。
あの「宮本先生=洛南高校」という組合せは、「吉永陽一先生=兵庫高校」に匹敵するとてつもなく個性的なものだったと
今でも思ってしまいますね。
1989年の洛南の自由曲は、レスピーギの「ローマの松」だったのですけど、
これはよい意味でも悪い意味でもいかにも「男子校」らしい側面が出てしまい、人によっては
「もう少し静かな熱演もほしかった・・」という事を言われるとは思うのですけど、
東方Projectの「早苗さん」じゃないですけど、あれはまさに「はっちゃけた演奏」であり、
やりたい放題のある意味とんでもない演奏なのですけど、あの「自由奔放さ」は、絶対に最近のコンクールでは
聴く事が出来ないものであり、改めてあの演奏をCDで聴いてもあの「とてつもない熱気」にはワクワクさせられるものが
ありますね!
それと洛南の「ローマの松」ですけど、二つほど特筆すべきことがあり、
一つは大変強引なカットでもあるのですけど、なんと全楽章を演奏してしまう荒業をやってのけた事と
二つ目は、第一曲においては、なんと・・!
トロンボーン奏者が「フルート」に持ち替えるという前代未聞の豪快な荒業すらも普門館の聴衆に
お披露目していたのは、まさに驚きでしたね!
吹奏楽コンクールで「楽器の持ち替え」というのは珍しい話でも何でもなくて、
フルートがピッコロ持ち替えとかオーボエがコールアングレ持ち替えとか
クラリネットがエスクラ持ち替えとかファゴットがコントラファゴット持ち替えとか
はたまた・・・打楽器の数があまりにも多い場合ですと、時折ですけど、コントラバスが打楽器を部分的に持ち替える事も
あったりしますし、
大変古い話ですけど、1970年代の職場の部・・・たとえば新日鉄釜石あたりですと、
トランペット奏者がホルンに持ち替えるという事例もあったりはします。
だけど上記の場合、あくまで木管楽器が木管を金管楽器が金管をという事なのですけど、
この年の洛南のように金管楽器が木管楽器に持ち替えるという事は極めて異例ですし稀ですし、
そのあたりは「いかにも宮本先生らしい話だよなぁ・・」と改めて感じてしまいますね!

ま・・・この辺りは詳しくは、本記事の洛南高校の際に語らさせて頂きたいと思います。
1989というと平成元年・・・

うーーん、そうですねぇ・・・・身の回りの人たちとか職場の中の人達も
いつの間にか「平成生まれ」の人が随分と増えてきたようにも感じられる今日この頃です・・・
うーーむ、私のような「昭和生まれ」は段々と肩身が狭くなりつつあるのかもしれないですね・・・(汗・・!)
最近の記事でも書いている通り、私が社会人デビューを果たしたのが1988年ですので、
平成元年は社会人2年目という事になります。
この頃は、今現在のような「住宅・建築業界」ではなくて金融関係の仕事をさせて頂いていたのですけど、
とにかく「全て」がアバウトでどんぶり勘定で、「ま、いっか・・」の世界の建築業界の今現在の視点で当時を眺めてみると
本当に金融機関というものは、全てが「細かい規定」によって決められていて
箸の上げ下ろしまで煩く言われる感じで、
そうですね・・・血液型がO型で、元々が細かい規定に縛られるのが苦手の私としては、
現在の住宅業界の方が完全に体質に合っていると思います・・(笑)
(ちなみに私が今現在の住宅業界に身を転じたのは、2001年の当時在籍していた金融機関が破綻して以降の話です)
逆に今現在の「全てがテキトーな住宅業界」に身も心も慣れてしまった私が、今更金融機関に戻れと言われたとしても
多分ですけど、100%務まらないと自覚しております・・・(苦笑・・)
それと・・・結果論になってしまいますけど、20代前半であんなにも、組織の厳しさとか
規定に縛られる事の意義とかを叩きこまれてしまうと、
その後逆に規定や規律がゆるい業界に転じると、その業界がとてつもなくゆるく感じられ、
仕事面では大変やりやすくなったような印象すらありますし、今現在もよく社内とかうちの奥様から等から
「とても感情的で妄想癖が強くて大雑把な蟹座のO型のキャラに見えないねぇ・・」みたいな評を言われる事がありますけど、
それは20代前半で骨の髄まで叩きこまれた「規律」のせいじゃないのかな・・と思う時もありますね。
ま・・・私本来の(?)「妄想癖」は、当ブログの特に・・・「東方カテゴリ」で遺憾なく発揮していると
思うのですけど・・・・(苦笑・・)

さてさて・・・1989年辺りというと、日本ではまだまだ「完全週休二日制」は定着しておりませんでしたし、
どちらかというと「土曜日は半ドン」という会社の方が多かったような気もします。
あ・・! 先日、社内の平成生まれの女の子に「半ドン」という言葉をつかったら
「なにそれ・・?」みたいなキョトン・・・とした顔をされてしまいましたので、やはり、私のような「ポンコツ昭和生まれ」は
そろそろ退場処分が近いのかもしれないですね・・・(汗・・!)
当時の金融機関は、第二と第三の土曜のみ休みで、それ以外の土曜は、いわゆる「半ドン」、つまり・・
勤務は昼までという感じで、あの当時は事務の女子行員さんのおねーさんたちも、現金と伝票さえ符号していれば
午後2時ぐらいには上がっていたような気がします。
(営業とか融資関係の人達は、土曜も平日もあんまり関係はなかったですね・・・)
そうそう、今現在の金融機関のATMコーナーは、平日は夜22時ぐらいまで稼働しているのはもはや当たり前の光景ですし、
土日も稼働しているのはほぼ常態化していると思います。
そして今現在は、土日でも深夜でも、金融機関のATMコーナーで「現金の入金」は普通に出来ます。
そして何よりも・・・
コンビニ等で設置してあるATMコーナーで当たり前のように、現金の出し入れが出来ますので
「やはり時代は進化しているねぇ・・」と思わざるを得ないですね。

ちなみに、1989年当時は、日曜に稼働しているATM自体が少なかったですし、
当時のATMは、土日の場合は、現金の入金自体が出来ませんでした。
しかも当時は、基本的には「都市銀行のキャッシュカードは都市銀行同士でしか使えない」という感じでしたので、
私が在籍していた第二地方銀行のキャッシュカードを日曜日に利用できる金融機関を見つけること自体が
至難の業でしたので、やはりここにも「時代の進化」は痛感せざるを得ないですね。
1989年当時の私は千葉県船橋市の寮にいましたけど、日曜日で当行のキャッシュカードを利用する場合は、
船橋ではなくて、津田沼か市川の千葉相互銀行(現・京葉銀行)まで行かないとダメで
当時は「なんて不便な銀行なんだぁーー!」と随分と恨めしく感じていたものです・・・(苦笑・・)

そうそう・・・

第二・第三土曜日だけはお休みだったのですけど、ATMのキャッシュコーナーはどの支店も稼働しています。

そういう場合、「万が一ATM稼働中のトラブルはどうすんの・・?」みたいに思われる方もいらっしゃると思うのですけど、
現在は、警備会社にその管理が全面委託されているケースがほとんどで、何かトラブル発生時は、
電話モニターからの遠隔操作、または警備員が駆け付けるというのが基本システムになっていると思います。
しかし、当時はそんなシステムはなかったんですよねぇ・・・
で、どうしていたのかと言うと、基本的には「ATM当番」と言って、営業・業務・融資の各課の男子行員が
交代交代で土曜に出勤し、何か非常事態が起きた場合に備えるという感じで、
支店内で待機という感じでした。
ちなみに・・今現在はどうか知る由もありませんけど、当時のキャッシュコーナーのトラブルの原因は、
ほぼ例外なく「お札自体の欠陥」です。
例えば・・・いまだに聖徳太子の旧札を入れちゃうとか、ボロボロの破れかかった紙幣を入れちゃうとか
濡れた紙幣を入れちゃうとかそういうのが原因でしたけど、
そういう場合って、コピー機で詰まった紙を取り除くのとほぼ同じ要領でそうした欠陥お札を取り除いていたものでした・・(笑)
だけどそうしたトラブルが起きる事って極めて稀で、
そうした当番って上席と平行員のペアになるのですけど、上席は普通に仕事しまくっているし、
私としては・・・仕事している振りして、本でも読み耽っていたような記憶がありますね・・・(汗・・!)
だけどこのATM当番のいい所は、土曜の二時であがれるし、
この当番を2回やると自動的に「平日休み」が一日強制的に取得させられるという事でしたね。

だけど確か、平成2年以降は、前述の通り、警備会社の委託化によってこうした当番も廃止になり、
平成3年頃には「完全週休二日制」へと移行していきましたので、
やはり時代と言うものは少しずつ「変化」をしていくものなのですね。
1989年(平成元年)というと社会人2年目の年で、世の中の雰囲気としては、
俗にいう「バブル絶頂期」の時代でした!
あの時の感覚としては、
「この金満日本! カネが溢れかえっているこの豊かな日本で私達もそのおこぼれに預かって何が悪い!」
みたいな俗にいう「バブル感覚」みたいな雰囲気は間違いなくあったと思います。
別に当時だってそんなめちゃくちゃに給料がいいとかみんな一律に稼いでいるとか決してそんな雰囲気では
無かったと思うのですけど、なんか感覚として
「この好景気は永遠に続くから、今を楽しまないで一体いつ楽しむの? そんなお金なんてじゃんじゃん使えばいいじゃん!
どうせ給料何て後からうなぎ登りに上がってくるから・・!
それに・・お金がなくたって銀行がいくらでもお金を貸してくれるよ!」みたいな感覚は結構強かったようにも
感じられます。

1988年にとある第二地方銀行(相互銀行→うーーむ、この言葉をご存知の方も最近減ってきましたね・・)に入行したものの、
大半の新入行員というものは、まず預金部門に配属され、そこから出納→普通預金→定期預金→
為替→当座預金→テラー(窓口業務)という一連の業務の中で流れを実地で学ぶのが定例パターンです。
でもなせか私の場合、いきなり融資課なんて所に配属され、正直何が何だかよく分らないまま、
頭上を訳の分からん専門用語が飛び交う中、ひたすら戸惑い続ける日々が1988年当時の私だったのかなぁ・・と思います。
金融機関に勤務経験がある方はほとんどの方は「札勘」(さつかん)というお札を扇形にさーーっと広げて
目にもとまらぬ早業でお金を数える事を最初に叩きこまれると思うのですけど、
私の場合は・・そうした出納業務の経験が無く札勘もほとんどやらないままその後営業職に配属されましたので、
実は自分で言うのも何ですけどこうした札勘は相変わらず今でも下手くそだと思います・・・(苦笑・・)

1989年以降仕事にもだんだんと慣れるにつれて、
漠然としたものですが、世の中のお金の流れというものも現場で理解できたような気もします。
例えば、当時よくあった例として、
不動産屋(当時はまだ総量規制もなかった時代・・)の商品物件購入の案件があります。
まずは業者の資産状況分析という事で、貸借対照表を作成したり、
担保評価という事で、現地確認と周辺の売買事例を探りに行ったりもします。
だけど、あの当時は、「土地神話」が生きている時代で、
土地さえ購入すれば確実に半年後には購入価格の120~150%以上で売却できるという感覚が
金融機関内部・業者誰もが共通認識で持っていたと思います。
当時、私もよく千葉県印旛郡とか八街とか潮来とか山武郡とか担保調査に行かされ、
「本当にこんな土地購入して大丈夫なの? 本当にここ開発されるの? 購入する人いるの?
こんな価格で購入しても本当に転売できるの? 本当に銀行として融資金回収できるの?
そもそもこの業者のオヤジのこの胡散臭さは何?」など色々疑問は感じたものの、
確かにあの頃は、融資金で商品物件を業者が購入しても、購入価格の3割増程度で
即転売できていましたしね。
万一、中々売れなくても、銀行の方で、「融資期限延長稟議」なんてびしびし本部にあげて
簡単に承認されていましたしね・・・

当時は、「世の中こんなものか」と少々甘く考えていたものですが、
このツケを2~3年後に金融機関も業者も自分自身も払う事になったものでした。
そうですね・・・この当時金融機関に入行した人は私とほぼ同じだったと思うのですけど、
当時の風潮というのか、
「金融機関と言うものは不動産担保さえ取っていればバンバンお金を貸してもいいんだ!」みたいな誤まった考えに
洗脳されてしまい、
本来「融資」というものは、ヒト(借りる方の人間性)・モノ(不動産担保価値)・カネ(決算状況・資産繰り)の三点を
バランスよく鑑みて、その融資が可なのか否なのかを判断しないといけないものなのですけど、
当時のそうした風潮に流されてしまい、
「え・・・不動産担保価値が足りない・・? それじゃ、路線価や公示価格の7割で評価するんじゃなくて
100%そのもので評価すればいいじゃん・・・・・
なーに、土地なんてこの先幾らでも上がるし、担保価値を水増ししたって問題ないよ・・・
え・・? 場合によっては近隣売買事例をテキトーにでっちあげて
この不動産担保融資に見合うような担保調書を早いとこ作って本店に稟議上げて稟議を通して
さっさとこの融資を実行しろよ!」と
融資課長とか営業課長に指示され、
「本当にこんなのでいいのかな・・・」と多少は疑問に感じながらも
そうした風潮に流されていったのが1989年頃の私だったんじゃないのかな・・と今更ながら感じたりもします。

お金を貸すというのは大変リスクがあるという事を認識するのは、その後まもなく・・・そう、それが俗にいう「バブル崩壊」
だったのだと思います。

そして翌年の1990年以降は営業担当職として現場を廻る事になりましたけど、
この頃の金融機関の営業は、
1990年以降の総量規制とかバブル崩壊以降も依然として融資量増強が絶対的命題であり、
私達も住宅ローンの借り換えとか、不動産担保付の事業性融資とか
金利は無茶苦茶高いけど300万円までは無担保無保証人の消費性ローンとか
保険ローン(保険料を一括して払い込むと、月額の払いの保険料よりも総額で支払金額が
低くなり、これ一括保険料を銀行融資で払い込むとんでもないローン)などを
毎月毎月無茶苦茶な設定のノルマを一方的に押し付けられたものです。
特に保険ローンなんて商品は、お客にほとんどメリットがないばかりか、保険ローンを
途中で解約すると、お客がローンの金利差額までも負担しなくてはいけない事になり、
アパートローンと並んでトラブル商品の典型みたいなものでした。
それでも毎月毎月各商品ごとにノルマを割り当てられ、それを達成できない月の罵詈雑言・叱責は
完全に今で言う「パワハラ」の概念を飛び越えるすさまじいものでした・・・

当時は私自身も夜遅くまでお客の家を廻っては「お願いセールス」したり、土日に普段会社で
書けない貸出の稟議書類や不動産査定書・貸借対照表を作成したり
休まる時間はほぼ皆無だった印象があります。

だけど、あの当時よく私自身が持ちこたえていたな・・と感心する時があります。
特別何か「信念」があった訳ではありませんでしたが
「他人は他人、自分は自分の道を行く」という感じだったのかもしれません。

だけど1993年以降金融機関の方針が一転され、ある日突然これまでの融資増強から
これまでの債権を回収という事に方針が180度変わり、
それまではお客に「借りて下さい、借りて下さい」とお願いしたのが一転して
「早く返して」に変わったのですから、ストレスがこの頃から急激に増えていったと思います。
延滞顧客に対しては、容赦ない督促と回収の指示が出されていました・・・
代位弁済・任意売却・保証人との交渉・債務の一本化整理などありとあらゆる貸し剥がしが
襲ってきたのです。
昨日まで「借りてくれ」のお客に対して、少しの延滞が発生したから、決算が悪いから
返済の見込みが立たないから等の理由で債権を回収にかかるのですから、それを直接お客との
窓口になって矢面に立たされる私達現場の担当は、皆大変だったと思います。

だけど結果的にそれが「終わりの始まり」だったのかな・・・

このブログでも何回かこの話は登場していますけど、1999年にその金融機関が破綻認定を受けてしまい
事実上倒産してしまいます。
結果的に当時の行員は2001年6月をもってほぼ全員解雇されてしまう結果になってしまいます。
当時は現在のように「金融再生法」という破綻後のスキームを定めた法体制が全く整備されていない
時代でしたので、当時在籍していた行員は、受け皿先に移行する事もほぼ無く
私自身も14年間頑張ってきたのに、
「散々こき使われて、挙句の果てにポロ雑巾のようにポイと捨てられる」みたいな形で解雇となってしまい、
2001年は、まずは「職探し」からというスタートになってしまいましたね・・・
だけど結果的に、それまでの金融業界から、現在の「住宅・建築業界」への転身という形になりましたけど、
2001年のかなりやばい雇用情勢の中で、意外とすんなりと転職先が見つけられたのは不幸中の幸いという感じでした。
当時はまだ独身でしたし、特に「守るべきもの」も無かったから
「自分一人ぐらい何とかなるかな・・・」と意外とお気楽モードだったのかもしれません・・・

だけどその破綻前後は結構大変でしたね・・・
だって「破綻した銀行」なんて誰も相手にしてくれないし、
顧客の預金流失は全く止まらないし、
破綻管財人から営業担当に命じられた仕事と言えば、
「不良債権回収」の一言・・・
当時のスキームでは、
破綻銀行は、受皿というか営業譲渡先に対して、残った預金量と優良な債権のみを受け継ぎ
「不良債権」と認定されたものは全て「整理回収機構」に売却されるというものでした。
そして営業権と本支店と一部の行員のみ引き継ぐというものでした。

2000年当時、まずは支店内の債権について
優良債権と不良債権に分類し、不良債権については、その借主たる顧客に対しては、

1.担保物件の任意売却又は競売し、自己破産して貰う

2.他行に債務を肩代わりしてもらう

3.整理回収機構に不良債権扱いとして売却

という身も蓋もない悲惨な条件を選択させ、指定日までに結論を出させるというのが
当時の営業担当の役割でした・・・
でもこれってすごい残酷な話で、
1と2は、大抵の場合他の金融機関の根抵当権が既に設定されているから無理だから
結局は、3の道を選択せざるを得ず、将来的に取り立て専門の回収機構にバトンタッチせざるを
得ない感じでした。
大抵の場合、
「10年前は、銀行の方からあんなに借りてくれ、借りてくれと頭を下げていたのに
 何でこんな掌返したように残酷な事をするの・・・」とか
「整理回収機構に廻されては、もう商売の継続は不可能・・・」
「一生恨んでやる・・・」とか
色々言われましたよね・・・
あれを毎日やっていると、こちらまでノイローゼになりそうでした。



スカイハイ



全然関係ないのですけど、
高橋ツトムの漫画で「スカイハイ」と言う作品があり、
(2003年~2004年の二回、釈由美子主演でドラマ化・映画化もされましたね)
要は、成仏できない人間が
霊界の門番たるイズコから

1.素直に成仏して霊界に行く

2.永久にこの世を彷徨い続ける

3.成仏できない理由は、この世の人間に恨みを持っているから。だから、その恨みの対象の
 人間を呪い殺すことが出来る。
 但し、この場合、永遠に地獄に堕ちる事になってしまう

の三つの選択を突き付けられ、一定の時間内に答えを出さないといけないという
話だつたと思いますけど

今、振り返ってみると、
2000年当時、不良債権顧客に対して、自分達が付きつけた三つの選択肢は
この「スカイハイ」と何ら変わりがないというか
実に残酷なものでしたね・・・

ま、結果的に私自身も、ほとんどの行員たちも前述の通り、
翌年の2001年には、営業譲渡先からの「解雇通知」を受け取る羽目になりましたので、
この「スカイハイ」の選択と大して違いは無かったよな・・と後日感じたものです。
1989年の全国大会にて、習志野高校と淀川工業が5年連続金賞の偉業を達成し、翌年1990年の特別演奏という栄誉が
決定したわけなのですが、
振り返ってみると、この5年連続金賞と言うのは大変難しいもので、過去においても
淀川工業・尼崎吹奏楽団・愛工大名電高校・中央大学・福岡工大付属・天理などが4年連続全国大会金賞を
成し遂げたのに、5年目で支部大会落ちとか全国で銀賞等の理由で5年連続金賞を逃すという事も
起きています。
特に気の毒なのは尼崎吹奏楽団で、4年連続金賞という偉業を計2回も達成していながら、いずれも5年目に
全国大会銀賞に留まり、結果的に「5年連続金賞→翌年の特別演奏」という栄誉が実現出来なかったのは
「勿体無いなぁ・・・あれだけの高い技術を持ちながらもやはりコンクールと言うものは難しいものだ・・」という事を
改めて実感させられる結果になっていたのは大変興味深いです。
だってあの名門・天理ですら1974年の「5年連続金賞」が掛った年においても「ハムレットへの音楽」で
まさかの銀賞に留まっていましたし、1985年の福岡工大付属も、まさかの九州大会ダメ金という事で全国に進めませんでしたし
やはり「コンクール」というのは確かに実力が大半なのでしょうけど、女神様の「運」というのも
少しはあったりするのかもしれないですね。
ま、1985年の福岡工大付属の場合は、自由曲の選曲がラッセンの「マンハッタン交響曲」という地味すぎる渋い選曲
というのも一因があったのかもしれないですね。

確かに5年目の場合、一つの節目という事もあり、栄誉という事もあり、奏者も指揮者も
大変なプレッシャーになっているのかもしれないです。
今現在の吹奏楽コンクールでは、こうした「5年連続金賞→翌年の特別演奏」という栄誉自体が廃止になってしまいましたけど、
昔のように、「5年連続金賞の場合、ご褒美的な意味も込めて翌年は一年お休み」という方が
一つの節目とか区切りという意味では宜しいんじゃないのかな・・とも思ったりはしますけどね。
だけど現役奏者にとっては、
「特別演奏で吹奏楽コンクールの審査を受けられないで終った・・なんか寂しい」という意見も間違いなく出そうですし、
その辺りは大変微妙なのかもしれないですね。

結果的に5年連続金賞の特別演奏の最後の演奏は、95年の札幌白石という事になります。

結果的に1989年のコンクールで淀川工業と習志野高校の5年連続金賞という偉業が達成出来たのですけど、
私自身は両校の演奏も直接普門館の会場で聴いていましたけど、
そうした重圧・プレッシャーが掛る大変な局面だったにも関わらず両校とも大変素晴らしい演奏を聴かせてくれていて
素晴らしかったと思います。
習志野の三善晃の「交響三章」のあのひそやかな世界は、あの劇的緊張感を超越している演奏は、
私は1980年の秋田南以外は他に聴いた事がないほどのまさに圧巻の演奏でした!
(そう言えば、1980年の秋田南も5年連続金賞が掛っていましたね!)
淀川工業は、1980年~83年で4年連続金賞を達成しながら、そして・・・1984年の「寄港地」は誰かどう聴いても
金賞以外はありえないと思えるほぼ完璧な演奏をしていたのにも関わらずまさかの銀賞という事で
「5年連続金賞→翌年の特別演奏」という栄誉はお預けになっていただけに、
丸谷先生の意気込みも気合も相当高かったようにも感じられる大変気持ちが入った「大阪俗謡による幻想曲」を
のびのびと聴かせてくれて、会場から大喝采を浴びていたのは大変印象的でした。
そうですね・・・ここにも関東と関西の「気質の違い」があるのかも・・・?
同じ「5年連続金賞→翌年の特別演奏」が掛った重圧の中でも、関東の習志野はポーカーフェイスの演奏、
対する関西の淀工は
「わしらアホやねん! 別に今回金賞取れなくたってかまへんやろ・・!」みたいなある意味開き直ったような演奏という印象が
ありましたけど、とにかく結果的に両校とも偉業を達成出来てよかったです!

そうそう・・翌年のその特別演奏の場でも両校の演奏は、まさに関東と関西の気質の違いがはっきり出ていて
大変面白かったです。
習志野は、演出も大変洗練され美的感覚に溢れ
交響詩「魔法使いの弟子」と 歌劇「蝶々夫人」より FANTASIAを実にファンタジーにまとめていましたけど、
対する淀工はまさに「下品でどこが悪いねん!」みたいな演奏で
あのとてつもない大人数とかアイーダでバンダを普門館二階席から吹かせていたり、
ヒットパレードでは、なぜか・・・?? 唐突に一人の生徒が歌いだしましたし、
しかもその曲が1979年の頃の西城秀樹の歌謡曲と言うのも、実に淀工らしかったですね・・・(笑)
まさにあれはいい意味での「アホまる出し」の演奏だったと思います!

さてさて、ここから先は少し余談になってしまいますが、やはり私にとって「特別演奏」というと忘れられないのが
1982年の弘前南高校の特別演奏です。

弘前南は1982年に「5年連続全国大会金賞」として栄誉ある「招待演奏(特別演奏)」を東北大会と全国大会で
お披露目してくれるのですけど
その時のフォーレの組曲「ぺリアスとメリザント」とR.コルサコフの「熊蜂の飛行」は
まさに歴史的名演だと思います。
ちなみに私は弘前南のあの演奏は全国大会の特別演奏としてではなくて、東北大会の「招待演奏」という形で
聴かさせて頂きましたが、あの演奏を生で聴く事が出来たというのは、私にとっては、もしかしたら
生涯の「一つの大きな心の宝物」と言えるのかもしれないです。
そのくらい素晴らしい演奏だったと思います!

東北大会においては、プログラムの表記がなぜか「テレアスとメリザント」という誤表記になっていたのは
ま、ご愛嬌ですね・・・(笑)

こんな静かで穏やかで抒情性に溢れ、内面性が強く、そして激しく盛り上がる部分がほぼ皆無のこのフォーレの曲を
「招待演奏」として選曲した弘前南の「心意気」は高く評価したいと思いますし、
その心意気に相応しい素晴らしい演奏だったと思います。

演奏は終始内省的に静かに展開され、打楽器・金管セクションはほとんど出番が無かったようにすら感じるほどでした。
木管セクションの細かい音色にまで神経を行き届かせたその「繊細さ」は高く評価されるべきだと思います。
あまりにも美しくはかなく、もろそうな音楽が15分近く延々と続き、そのあまりの「繊細さ」に心を揺り動かされたものです。
「ぺリアスとメリザント」という曲自体私は東北大会で初めて知る事になったのですけど、
とにかく「はかなく美しい・・・」という言葉しかなかったです!!
この組曲で唯一盛り上がるⅣ.メリザントの死の「弔い」を示唆する金管の高まりですらかなり抑制されていて、
終始緊張感と繊細なサウンドに魅了された瞬間でもありました。

圧巻は「熊蜂の飛行」でした!

あのクラリネットの指回しは、最早曲芸の領域だったと思います。

招待演奏が終了すると、会場からはまさかの「アンコール」を求める拍手が鳴り響き
指揮者の斉藤先生もアンコールは想定外だったのでしょう・・・
指揮台から困ったような表情を浮かべていましたが、再度この「熊蜂の飛行」をお披露目し
無事に招待演奏を終了させていました。
全国大会の方の特別演奏では、アンコールが掛ったかどうかは・・・聴いていないので分からないです・・・(笑)

とにかくあの弘前南の特別演奏の「ぺリアスとメリザント」は、あの内省的な静かな音楽的緊張感は
素晴らしかったです!
異色な特別演奏の選曲だとは思うのですが、そうした曲の内面性をあそこまで音楽的に仕上げられた
弘前南の皆様には、あの演奏から既に35年の歳月が経過していますけど、
とにかく敬意を表させて頂きたいと思います。

あの素敵な演奏をありがとうございました!!


当たり前の話です:けど、この平成元年という時代は、パソコン・スマートフォンは勿論の事、
携帯電話すら世に出ていない時代でした。
私の印象としては、携帯が普及し始めたのは1995年以降だったような気がします。
大体1994年頃までは、会社への定時連絡は、公衆電話を利用してという感じでしたし、
場合によってはポケベルを持たされる程度でした。
今にして思うとこの時代は良かったですよね。
だって、一旦朝会社を出てしまうと、顧客とかクレーマーとかうるさい上司からは
とりあえず夕方までは解放されますからね! (笑)
あの頃はまだどこなくのんびりとした「古き良き昭和の香り」みたいな雰囲気も残っていて
営業中にどっかの喫茶店で油を売っているとか車の中で爆睡したりとかは
仕事の業績さえちゃんと挙げていれば、別に何も言われなかったし、そんなにギスギスしていた雰囲気は
無かったようにも感じられます。
現在なんて、何かあるとすぐ携帯が鳴ったり、メールが入るという時代でも既になくて、
LINEで社内共有ツールが廻ってくると、その場でいちいちそれに反応して応えなきゃいけない世知辛い雰囲気ですし、
何よりもGPS機能とかで今現在自分がどこにいるのかがすぐ認識されてしまいますから、
とにかくオチオチとサボっていられないというのもどこなく味気ないものがありますね・・・・(汗・・)
1989年当時はバブルの絶頂期という事で、確かに死ぬほど働かされましたけど、
どこかのんびりしていたのは、携帯やメールやLINEが存在していなかったからというのも結構大きいんじゃないのかなとも
思えますね。

当時女の子に連絡する場合、どうしていたのかな・・・
高校時代もそうでしたけど、相手の女の子の実家の固定電話に電話するのは結構「ドキドキ」だったと思います!
そうした「奥ゆかしさ」とか「恥ずかしさ」というのは、現代の恋愛感覚ではもう既に「失われた感覚」なのかも
しれないですね。
そのお付き合いしていた女の子が一人暮らしならば全然問題ないのですけど、親と同居していると
少しやっかいでした!
「もしも母親とか親父が出てきたら何て言おう・・」
「妹がいるっていったよな・・声の見分け付くかな・・」など
電話する以前にあれこれ考えてしまって、何かドキドキしたものです。

こうした何かまだしも「恥じらい」があった時代から現在を眺めてみると、
何か用があったり、アプローチする場合は、メールすればいい事を考えると
何か手軽になったというか、味気なくなったものだと思う事もあります。

私が高校から大学時代にかけては、「めぞん一刻」という漫画が人気を誇っていましたが、
あのある意味純愛漫画には当然携帯とかメールなんてツールは出てきません。
出てこないアナログな時代だったからこそ、ああしたアナログな純愛も存在していたのかも
しれませんよね。
コミュニケーションツールが現代のように、メール・直接通話の携帯・LINEではなくて、
固定電話か直接の対話しか無い時代背景と言うのが何かミソになっている感じはありました。

この物語は、ある意味現代のようなコミュニケーションツールが無い時代の男女の誤解とすれ違い・・・
そこから生ずる「妄想」の世界だと思います。
この物語の舞台となっているぼろアパート「一刻館」においては、貧乏学生の裕作の部屋には固定電話すらないものでした。
アパートの共有廊下にピンク色の公衆電話が設置されてはいるのですけど、
(少し解説すると、公衆電話そのものにも電話番号があり、外部の人がその公衆電話に直接電話を
掛ける事は実は全然可能なのです・・・
だけど、公衆電話ゆえに誰が電話を取るかは分かりません)
裕作と、そのガールフレンドのこずえと響子の三角関係において、
こずえから裕作あてにかかってくる電話を、トラブルを楽しむ悪癖を持つ四谷さんや一ノ瀬さんなどの住人が
取り継ぐなど、携帯電話が広く普及した現在ではまず考えられないシチュエーションから生ずる数々のすれ違いと誤解
というのがこの物語を語る上では外すことが出来ないファクターとなっています。

とにかく、今現在では「ありえない光景」のオンパレードなのですけどね(笑・・)

1989年~90年頃にスピリッツで連載されていた山本直樹の「あさってDANCE」は結構大好きな漫画
でしたが、その中で携帯電話らしきものを使用するシーンがあります。
だけど、あれは携帯と言うよりは、回線が付いていない固定電話という感じで、
肩掛け電話とか当時呼ばれていたモノだと思いますが、
こうした漫画を今見てみると、やはりそれなりに時代を感じてしまいますね。
この年の課題曲D/ポップスマーチ「すてきな日々」は本当に楽しい曲でしたね!
とてもコンクールの課題曲とは思えないほど、まさに「ポップス!」に相応しい曲で、文字通り「素敵な曲」でした。
この曲は、本格的なドラムセットを必要とします。
コンクールの課題曲でドラムセットが必要な曲って他にあったかな・・・?
思いつくところで言うと・・

〇1974年/高度な技術への指標

〇1976年/ポップス描写曲「メインストリートで」

〇1977年/ディスコ・キッド

〇1978年/ポップス変奏曲「かぞえうた」

〇1980年/行進曲「オーバー・ザ・ギャラクシー」

〇1982年/アイヌの輪舞

〇1987年/ムービング・オン

結構あるものですよね。
だけど「すてきな日々」ほどドラムセットが全面に出た課題曲は少し珍しいと思います。
この課題曲の場合、打楽器奏者は、ティンパニ・ドラムセット・大太鼓・サスペンダーシンバル・
グロッケン・シロフォーンの6人の奏者で担当する事が多かったと思いますが、
ドラムセットを使うと、あえて大太鼓・サスペンダーシンバルの奏者を配置しなくても済むような
気もします・・
例えば、34人の少人数ではありましたが、大月東中は打楽器奏者4人でこの課題曲を演奏していたのが
大変印象的です。

作曲者の岩井先生というと、ポップス系というイメージがあると思いますが、
「あの水平線の彼方に」とか「渚の詩」などのような吹奏楽オリジナル曲を幾つか残していますし、
ファリアのバレエ音楽「三角帽子」の編曲をされていた事もあったと思います。
(確か、1981年の湊中の三角帽子のアレンジャーは岩井先生だったと記憶しています)
岩井先生も最近ご逝去されてしまいましたが、ポップスとしての吹奏楽の発展に大きく寄与された岩井先生の
ご冥福を改めてですけどお祈り申し上げます。

ポップスマーチ「すてきな日々」は、歩くながら吹く事を想定した「行進曲」ではないのですけど、
室内でのコンサートマーチとしても、素晴らしく完成度が高いと思います。
全体的にジャズっぽい雰囲気もあるし、ミュージカルみたいな雰囲気もあります。
最大の特徴は、「マーチ」なのに、
本格的なドラムセットを使用し、冒頭からハイハットシンバルの強烈な後打ちが炸裂したり、
全体のサウンドを牽引する非常に重要な役割を持っている点だと思います。
この曲、コンクールで何度も見ましたけど、ドラム奏者は、かなり目立っていましたし、まさに腕の見せ所ですね!

この課題曲ですけど、意外とテンポの変化がめまぐるしく、場面転換に応じてテンポも結構変化していきます。
途中、トロンボーンによるスウィングみたいな奏法もあったりするし、グリッサンド奏法も入ったりするしで
トロンボーン奏者は大変ではないのかなと推察もいたします。

この課題曲は色々名演がありましたけど、
個人的には、東海大学第四高校の演奏が一番素晴らしかったと思います。
あのリズムの切れの良さとトロンボーンのスイング感は、中々他では聴く事ができないものがあったと思います。
この「すてきな日々」をもしもですけど、全盛期の瑞穂青少年吹奏楽団が牟田先生の指揮のもとで演奏したら、
多分ですけどドツボにはいりそうな予感もあったりもします。

1989年の課題曲C/行進曲「清くあれ、爽やかなれ」は、申し訳ないのですけど、全くの不人気課題曲でした・・(泣・・)
吹奏楽コンクールの課題曲なのに、全然演奏されないというか、私自身、実はなのですけど、この課題曲を
生で聴いたという記憶は・・多分ないですね・・
支部大会・県大会でも、この課題曲を生で聴いた事、あるのかな・・・??という感じのレベルで
本当に人気が無い課題曲でした。
全国大会でもこの課題曲を演奏していたのは、わずかに茨城大学と阪急の2チームだけで、
中学の部と高校の部では一団体も演奏していません。
茨城は銅賞、阪急は銀だから、この曲の全国での金賞は皆無という事です。
正直、この課題曲は演奏しにくいのだと思います。
作曲者は別宮貞雄氏で、日本のクラシック音楽作曲家の重鎮です。
よくこんな大物の先生から、委嘱OKを頂けたものと感心は当時していたものでした。
曲自体、いかにもクラシック音楽という感じがして、形式重視・和音重視という堅苦しい感じがする上に、
曲自体比較的マーチなのに長く、苦労が多い割には実りが少ない曲なのかもしれません。
三善晃・間宮芳生という同じく日本のクラシック作曲家の重鎮が、
コンクール課題曲においては、自分の作風を吹奏楽用に幾分変容させ、アィディアを絞り、
素晴らしい課題曲を後世に残したのとは極めて対照的な感じでした。

もっとも、1978年の課題曲B「カント」は、「マスク」で有名なあのマクベスなのですが、
何とこの回は、ジェイガーの課題曲A「ジュビラーテ」に人気が集中し過ぎてしまい、何と
課題曲Bの全国での演奏回数はゼロで、一団体も取り上げて貰えませんでした・・・
カントよりはまだマシだったかもしれないですけど、別宮氏もかなり気の毒な感じがしたものです。

別宮氏は当時中央大学の教授でしたが、
この年の中央大学は、課題曲Cを選曲せず、課題曲はBのWISHを選択していました。
この年の中央は、五年連続全国での金賞がかかった大事な年なのでしたが、
別宮氏の曲を選ばなかったバチが当たったのか(?)都大会・銅賞という意外な結果に終わっています。
この時の自由曲は、リストのハンガリー狂詩曲第二番でしたが、演奏が「守りの演奏」に入ってしまい、
中央大学としては信じられないぐらいの地味で印象に残らない演奏で
都大会で聴いていた時も「今年は代表になれそうもないじゃん・・」と危惧していたら、本当に代表に選出されないどころか
銅賞という結果になってしまった事実は、
審査員も学校名・過去の実績だけで判定しているんじゃないんだなぁ・・という感じもあり、
当時それはそれで嬉しくも感じていたものでした。
先日までは1983年の全国大会・高校の部の私のあのような拙い感想記事をご覧頂き、時に素敵なコメントを頂き
ありがとうございました!
今回から1989年の全国大会・高校の部について語らさせて頂きたいと思います。
とてつもなく古い記事で一度1989年の全国大会の事は一度書いてはいるのですけど、当時はまだ開設当時という事で
慣れない事も多々あり、あまり満足した内容ではないものですので、
ここで改めて1989年の全国大会の事も前回の記事を一応ベースにさせて頂きますが、
内容的にはほぼ別記事と思って頂ければ幸いです。

今回は、プログラム一番の関東第一高校の本編の前に、またまた例によって(?)
この1989年という時代背景とか当時の私自身の事を簡単に書かせて頂く「番外編」から
スタートさせて頂きたいと思います。

1989年と言うと、平成元年でもあるのですが、
振り返ってみると前年の1988年は、確かに経済も絶好調で株価も不動産価格もグイグイ上がりまくり、
金融機関は1990年以降の総量規制はかかっていないし、不動産業への融資はやりたい放題の時代
でしたので、景気は相当良かったのだと思います。
1988年は冷夏という事もあり、何かどんよりとした感じは否定できない雰囲気があり、
昭和天皇のご病状が悪化し、世間全体が「自粛」という事で、バーゲンとかイベントとか
お祝いというものがことごとく自粛されていた傾向がありましたので、
世の中全体が「この好景気を楽しもう!!」という雰囲気では全然なかったと思います。

結果的に昭和天皇がご逝去され、時代が平成へと移ると一気に時代が明るくなっていったような
印象があります。
それまでの自粛ムードを一気に打ち破り、好景気を世の中全体で享受したのがこの年だったのだと
思います。
だけど、皮肉な事に、「平成」の時代で好景気という言葉で覆われたのはこの1989年だけで
翌年からは早くも「バブルの崩壊」という事が盛んに言われ始めるようになります。

私は1988年にとある第二地方銀行に入行し、
この年は金融機関に入行して二年目に入り、そろそろ仕事も覚え始め、
住宅ローンとか保証協会付融資とか、単純な不動産担保付融資の仕事も担当するようになり、
徐々にではありますが、社会人としての自分に慣れていった頃でもありました。
もっとも翌年からは、営業担当としてデビューする事となり、しかもいきなり山梨の支店へ飛ばされ
見知らぬ異郷の地で一人奮戦する事になるとは、当時は知る由もありませんでした・・・
金融機関の新入行員というと、他行ですと最初の一ヶ月程度は「研修」という事になるのかもしれないですけど、
「実務は頭で覚えず実地で覚えろ!」との方針で、入行式が終わったと同時に支店に配属され、
一般的には「出納係」から始まり、ここで現金の数え方、いわゆる「札勘」から実務を覚え始めるのですけど、
私の場合はなぜかいきなり「融資課」に配属され、
最初の一年間は何がなんだかさっぱりわからん・・・何がわからないのかもわからない・・みたいな状況でも
あったのですけど、ま・・なんとなく自然に覚えていったというか覚えさせられたという感覚が強いですね。
あの頃は、後述しますけどまさに「バブルの時代」で不動産取引に関する融資がメインでしたので、
とにかくあの頃は、取引先の不動産屋が仕入れた商品物件としての「土地」を金融機関的に
「担保として問題ないのか・・」みたいな観点から調査し、
(具体的には近隣売買事例を聞き込み、周辺の路線価等を参考にしながら、金融機関所定の書式の
不動産担保調書とか決算書をベースに決算分析調査書みたいなものをやたらと書いていた記憶がありますね!)

1989年と言うと「バブルの絶頂期」という評価なのでしょうけど、当時金融機関に在籍していた
私にとっては、結構しんどかった時期ではあります。
というのも、当時は金融機関にとっては「融資競争」の真っ只中というか、
銀行が頭を下げて、顧客に
「どうぞ当行からお金を借りて下さい」
「当行からの融資で不動産・マンション・リゾートマンション・株式・・・とにかく何でもいいから
 モノを買ってください」
「お金はいくらでも貸してあげます」
「年収とか過去の経歴何か問題ではありません。不動産担保さえ頂ければ、当行担保評価の120%以上
 お金をお貸ししますよ」
「アパートを建ててみてはどうでしょう? その建築資金と建築業者は、当行で責任を持って紹介
 いたします。なーに、建てた後も入居率100%を維持できるように当行が全面的にバックアップ
 しますから・・」
「不動産をお持ちでなくても、株式を担保にだって出来ますよ。株価の70%程度はお貸しできますよ」
「老後が不安ではありませんか? 当行と提携している生命保険会社の年金保険を検討されては
 いかがでしょうか? 保険料を月払いでなくて、一括して払った方がお得ですよ。えっ、一括で
 払えない? 大丈夫ですよ、当行の保険ローンで一括払いを立替えますから・・・」

などなどあまーーーい言葉で随分と顧客を勧誘したものですよね。
当然そうした甘い言葉に騙されたか人達は、その数年後にいたーーい目を見る事になります・・・
そして最終的に私達自身も、2001年6月に「金融機関破綻」というカタストロフィーを迎えるのです・・・

だけど、正直1989年時点で、あの頃は
「金融機関がバタバタ破綻する時代が来る」とか「1000万円までした保証されない」という事を
考えた事はなかったです!
とにかくあの頃は、今現在のように金融機関が普通に倒産するという常識は全く無かったと思います。


この年の課題曲は、比較的A「風と炎の踊り」の人気があったようですが、
今でもこの曲はあまり好きになれません。
前半の長さに比べて後半の「炎」の部分があまりにもあっけない感じがあったりもします。
BのWISHは、大好きな曲です。この曲独特のチャーミングな部分をうまく出せたチームは
結構書少なかったと思います。
Dのすてきな日々は、文字通り楽しい曲です。あのドラムセットはかっこよかったですね!

さてさて・・次回の番外編はこの1989年の課題曲について軽く触れさせて頂きたいと思います。
27.秋田南高校


C/バレエ組曲「火の鳥」~魔王カスチェイの凶悪な踊り・終曲(I.ストラヴィンスキー)


当ブログにおきましては「秋田南高校吹奏楽部」のあのあまりにも偉大過ぎで、
まさに「伝説の名演」に相応しい本当に人の心に確実に「何か」を伝えたあの素晴らしい名演の数々を
まさに・・・「これでもかっ!!」と言うほど、
何度も何度も取り上げさせて頂きました。
ま・・確かに自分自身「ちょっとしつこいかな・・」とも思ってしまう事が多々あるのですけど、
正直な話、秋田南は、34年以上全国大会金賞から遠ざかっていて、今現在の現役奏者の皆様に
「秋田南」の話をしたとしても
「え・・・・? 秋田南・・・?? 毎年確かに全国には出場しているけど銀と銅の繰り返しで
今一つ実績がない学校でしょ・・」と言われちゃうのかな・・(汗・・)

ここで私は声を大にして叫びたいです!!

「秋田南は、とにかく高橋紘一先生時代、特に特に・・1970年代後半から80年代前半にかけては
今現在の視点・感覚で聴いても全く遜色がない・・・否!! むしろそれ以上と言うか
今現在でもあの演奏から学ぶべきことは多々あるとてつもなく素晴らしい演奏を
一杯いっぱい・・・後世の私たちにこんなにも残してくれていたんだよ!!」と
伝えたい気持ちで一杯です!!
(同様な事は小林久仁郎先生が指導されていた花輪高校にも言えると思います!!)

そうした高橋紘一先生時代の中でも特に「5年連続金賞」を達成した1976年~1980念の演奏は
どの年の演奏も本当に素晴らしいものでした!!
どの年の演奏もキラリと光っていました!!
76年~77年のストラヴィンスキーの難解極まりない複雑なリズムの精緻とも言えるあのバレエ音楽を
とにかく新鮮で瑞々しい感覚で斬新に聴かせてくれたと思ったら
1978年は一転して三善晃の「管弦楽のための協奏曲」というこれまた大変な難曲を斬新に鮮やかに
聴かせてくれ、
そして、1979年~80年代にかけては、矢代秋雄・三善晃のこれまた難解極まりない邦人作品を
あそこまで内省的に深く深く表現してくれていて「内面の小宇宙」を大胆かつ精密に表現してくれていたのが
とっても印象的でした!!
あの頃の秋田南と同じ秋田県内の花輪高校の両校は、当時の日本のスクールバンドのまさに「生きるお手本」であり、
同時に両校ともに、後世の私たちをいまだに感動させ続ける素晴らしい演奏を残してくれていたと思います。

そんな両校・・・秋田南高校と花輪高校の過去のそうした素晴らしい演奏は、
あのt素晴らしい数々の名演から30年以上も経過してしまうと、私たちの「記憶」から消えてしまいがちですし、
当時の演奏全てがCDとして記録されている訳ではありませんし、
両校のあの素晴らしい名演を「知らない・・・聴いたことが無い・・・」みたいな方も結構いらっしゃると思いますし、
誰か一人ぐらいは、多少執拗であっても
「過去のこうした秋田県勢の素晴らしい名演をブログという形態であっても、文章という目に見える形で
何か残しておきたい・・・」という人がいてもいいんじゃないか・・・・という事で
普段は東方Projectとプリキュアまみれのブログではあるのですけど
「未来への継承の記録」として何かを残しておきたい・・・
そんな想いで、秋田南と花輪の演奏の事は今後とも、手を変え品を変え
色々な形でこうした「自分の思いを後世に受け継がれていければいいのかな・・」とも
思っています。

大変誤解がある表現かもしれませんけど、
気持ちが入っていないプロの醒めた演奏よりは、
秋田南高校や花輪高校の演奏には間違いなく「魂」が籠っていると確信しています!!!
そのくらい当時の秋田南と花輪は神がかっていたと思います。
たまたま使用していた楽器が「管楽器+打楽器」にすぎなかった・・という感じの演奏でもあります。
「所詮は吹奏楽アレンジ演奏でしょ・・」とか「所詮は、無謀なイロモノ演奏だね・・」みたいな
批判は全くの的外れ・・・、それだけは間違いなく言える演奏だと思います。

1983年の秋田南高校の自由曲はストラヴィンスキーの「火の鳥」でした。
秋田南のストラヴィンスキーと言うと、1976年のペトルーシュカ、そして77年の春の祭典という
まさに高校生、否! 吹奏楽の限界というか既存の殻をかるーーく超越したまさに歴史的名演に相応しい
素晴らしい演奏だと思いますし、その辺りは当ブログの過去記事でも散々書かせて頂きました。
(ちなみにですけど、当ブログにおいては、1982年の花輪高校のウォルトンの交響曲第1番の圧巻のあの演奏の事も
これでもかっ!というくらい記事にさせて頂いております!
ちなみにあの花輪高校の記事は、1982年・花輪高校/ウォルトン・交響曲第1番をご覧頂けると幸いです!
→ 1982年・花輪高校/ウォルトン・交響曲第1番 )

ストラヴィンスキーの「三大バレエ」と言うと、火の鳥・ペトルーシュカ・春の祭典なのですけど、
秋田南は1970年代でペトルーシュカと春の祭典で前述の通り稀有な歴史的名演を後世の私たちに残してくれましたが、
コンクールの評価としては、三大バレエの残り一つの「火の鳥」で金賞を取れなかったことは
大変勿体ない感じはありますし、高橋紘一先生としても心残りの一つだったのではないのかな・・と思ったりもします。
後述しますけど、秋田南の1983年の火の鳥は、単に「全国で銀賞だったんだ・・残念・・」の一言で済ませられる
演奏では絶対にないです!
火の鳥というと1990年代から21世紀に入っても素晴らしい演奏は色々と出ているのですけど、
私個人の感覚としては、この年の秋田南の演奏を超越する演奏は実はいまだに出てこないというのが
私の見解です。
そのくらい83年の秋田南の火の鳥は素晴らしい演奏だったと思いますし、
どうしてもあの火の鳥は、吹奏楽コンクールの中では「埋もれがちで忘れられがちな演奏」になっていますけど、
決してそんな事は無いと思います。
あの秋田南の火の鳥は、まさに「ファンタジー」そのもので、そこには「不思議なおとぎ話の世界」が実際の音として
具現化されていると思います。

吹奏楽コンクールでは、「火の鳥」を演奏する場合、魔王カスチェイの凶悪な踊りと終曲を演奏することが多いのですが、
中には、
御影高・今津中→王女たちのロンドと終曲
兵庫高校→魔王カスチェイの凶悪な踊り~子守歌~終曲という
パターンもありました。
兵庫高校の子守歌は、ファゴットが大活躍していて、あの歌心は大変素晴らしかったと思います。

83年の秋田南高校は、天野正道氏の名アレンジもあると思いますが、
とにかく音のファンタジー感が素晴らしいです!!
「火の鳥」は色々と名演がありますが、どちらかというと「凶暴さ」が前面に出る演奏が多いと思います。
そうした中、秋田南の「火の鳥」は、木管のしっとり感を前面に出し、夢見るようなあのうっとりとしたファンタジー感を
うまく出していたと思いますし、上記で書いた通り「おとぎ話」を音楽にしたような感じもします。

この学校の欠点である金管楽器(特にトランペット)の音の硬さは部分的に出てしまい、
特に終曲におけるあのトランペットのカチコチした感じは、もう少しやわらかい感じを演出出来ていれば
もっと「ファンタジー感」に磨きがかかっていたと思われます。
木管楽器のしなやかな響きと清涼感は素晴らしいと思います。
打楽器の扱いも上手いと思います。
特に終曲でのクラリネット群の音色の清らかさと自然な盛り上がりは
特筆すべきものがあると思います。
火の鳥の演奏は、最近の吹奏楽コンクールではどのチームも普通にハープとピアノを使用していますけど、
この年の秋田南は、そうした楽器は一切使用していません。
ピアノとハープの代用楽器として、ヴィヴラフォンとマリンバを使用しているのですけど、
それが逆に「おとぎ話としての面白さ」を演出しているようにも感じられ、私はあの効果的使用は大好きです。
それと90年代と最近の演奏の傾向として「魔王カスチェイの凶悪な踊り」の部分は、木管の動きが極度に細かい部分を
カットしている演奏が多いようにも感じるのですけど、
秋田南はそうしたカットは一切しないで、優秀な木管がそうした細かい動きも全てほぼ完璧に音楽として消化し、
技術的にも全く弱みを見せていないのは凄いと思います。

残念ながら課題曲のカドリーユが少々平板な運びで、硬さも随所に目立っていましたので、
それが銀賞に留まった原因のようにも思えます。

この銀賞は今でも納得いかないものはあります。

逆に言うと、これだけの演奏をしても金賞を受賞出来るという保証が無い時代に既に入ったと言えるのかもしれないですね。

この年の銀賞チームには、秋田南をはじめ、茨城・東海大学第一・兵庫などは、金賞との差はほとんど無いと
思いますし、この時代の金と銀の「明確な差」は付いていない時代に入っていたと思います。

この年の高校の部を締めくくるのに相応しい演素晴らしい演奏でした!

本記事をもって、1983年の高校の部語りは終わりです。

さてさて、次回以降は、1989年の高校の部語りをスタートさせて頂きたいと思います。
この年は、1990年代から今日の吹奏楽コンクールの「進化」を示唆する演奏、常総学院の「スペイン狂詩曲」の演奏が
特に突出していたと思います。
26.福岡工業大学付属高校


B/呪文とトッカータ(J.バーンズ)


1981年のケクランの「民衆の祭りのためのコラール」と1982年のリードの「春の猟犬」は
まさに吹奏楽コンクールの正統派の正攻法の演奏だったと思います。
例えば、1982年のBJの村井氏の高校の部の講評では、「名電は、この味を食べなさい!と威圧的に言う高級レストラン、
福岡工大付属は店はまだ小さいもののこの味を食べて下さいと優しく言う温かみのある街のレストラン」みたいな
大変興味深い対比を述べられていましたけど、この表現は、「まさにその通り!」という感じだと思います。
それくらい1982年の福岡工大付属の「春の猟犬」はとっても可愛くてチャーミングで
思わず「小さい子供を抱っこしてすりすりしたくなってしまうような」素敵な演奏だったと思いますし、
まさに正攻法の演奏だったと思います。

さてさて・・そうしたこの福岡工大付属なのですけど、そのわずか一年後には更に素晴らしい進化と飛躍を
見せ付けてくれていたと思います。
そう・・、この年には既に「可愛らしさ」みたいな言葉は相応しくなく、
既に名電みたいな「貫禄」というのか街のレストランからシティーの高級レストランに変貌した事を
見せ付ける演奏だったと思います。
前年の「春の猟犬」が正攻法の演奏とすると、この年は「王道を行く」ような圧巻の演奏だったと思います。

課題曲B/白鳳狂詩曲は、全国大会でも支部大会でも中々満足出来る演奏に巡り合えなかったのですが、
福岡工大付属の演奏は、私が知る限りでは最高の演奏だと思います。
この課題曲はヤマハ浜松も演奏しているのですけど、レコードの音源が
あまりにも音響が悪い宮城県民会館での実況音源という事もあり、確かに上手いのですけど、
録音のせいでとにかく音が固く感じられ、この課題曲の魅力を十分に伝えきれていないと思います。
ヤマハ浜松の原田先生の解釈も意外と淡泊で、後半のコラールのうねりはもっともっと壮大に表現して欲しかったような
感じもあったりはします。
福岡工大付属は、序盤のピッコロとクラリネットの掛け合いから徐々に気持ちが高潮していく部分や、ドラの響かせ方、
金管楽器の高揚感、どれをとっても申し分ない所です。
そしてこの年のこのチームの音の透明さはまさに「極限」にすら達していると思います。
音自体が大変美しいのに、そして同時に力強く鳴っていて、
まさに「美しさと力強さ」を両立できている見事なサウンドであり、それを実際に具現化できた課題曲だと
思います。
ラストのコラールの高揚感はまさに圧巻でしたね!
どちらかというと前半は高ぶる感情を抑制しようとする鈴木先生の意図が感じられ、後半にかけて
高まる感情を一気に爆発させた鈴木先生の解釈に共感するところ大です!

自由曲は、一転して「神秘」の世界に入り込んでしまったような錯覚に陥るほど
不思議な感覚をうまく表現しています。
同時にワイルドな部分も金管楽器を中心に豪快に響かせていますから、静と動、強弱の
コントラストが非常に鮮やかに表現されていて、実に気持ちが良い感じがします。
不協和音の音のぶつかりも、全然濁りや居心地の悪さも皆無で、とてつもない斬新な響きが
普門館の会場に響き渡っていたと思います。
この「呪文とトッカータ」は、打楽器が終始大活躍をしますけど、多彩な打楽器の一つ一つの「音のニュアンス」が
伝わっているようにも感じられ、
単に「ぶっ叩く」というのではなくて、一音一音に意味合いを感じさせていたのは素晴らしいと思います。
そしてこの年の金管楽器の優秀さは、まさに高校生離れですね!

これは既に1/3の兵庫高校の記事でも書いた事ではあるのですけど、 
福岡工大付属の演奏は、プログラム20番の東邦から27番の秋田南まで8曲の自由曲が収録された
「日本の吹奏楽83 vol.8」というレコードに入っていますが、
東邦・花輪・関東一・仁賀保の陰鬱で暗い世界を経て、兵庫の開放感と高揚感⇒東海一の躍動感
⇒福岡工大付属の神秘の世界⇒秋田南のファンタジーへと続いていきますので、全体的に
暗から明へというストーリーがあるようにも感じられ、聴いていてとてもヴァラエティーに富んでいますので
とても楽しい一枚だと思ったものです。

バーンズという作曲家は、日本においては、1982年のアルヴァマーを持って認知され始めたという
印象があります。
同年に「呪文とトッカータ」というこれまた素晴らしい曲で、大いに当時の聴衆を魅了しています。
というか、いつの間にか「呪文とトッカータ」というタイトルが「祈りとトッカータ」に変更に
なっていますが、なぜ表記名が変わったのでしょうかね・・・?
習志野高校は、当時も現在も吹奏楽の名門校で、自由曲はほとんどアレンジもので出ていますが、
1982年は、なんとこの「呪文とトッカータ」というオリジナル曲で臨んでいます。
これは、今となっては信じられない事かもしれませんがね・・・
だけど、正直演奏は粗いのが難点です。
この「呪文とトッカータ」は習志野と福岡工大付属以外のチームも全国大会でいくつか演奏されていますけど、
1983年の福岡工大付属を超える演奏はいまだに表れないというのが私の見解です。
それだけ逆にこの年の福岡工大付属の演奏が光っていたという事になると思います。

あ・・そうそう、残念ながら関西大会でダメ金で惜しくも全国大会へは出場できなかったのですけど、
吉永陽一先生が、兵庫高校から異動された西宮高校の1986年の「呪文とトッカータ」は、
実は「隠れた名演」だと私はいまだに思っています。
あの素晴らしい演奏がいまだに「知る人ぞ知る演奏」になっているのは大変残念な事なのですけど、
86年の西宮高校の「呪文とトッカータは、83年の福岡工大付属と共にこの曲の「双璧」となる演奏だと
私は思います!
25.東海大学第一高校


B/シンフォニア・フェスティーヴァ  Ⅰ.ファンファーレ Ⅱ.アリア Ⅲ.トッカータ (A.ランニング)


前年の1982年は、「呪文とトッカータ」で東海大会ダメ金で、全国大会への連続出場が一旦途切れてしまいますが、
翌年にしっかりとこうやって全国大会に戻ってくる辺りは「さすが!」という感じがありますね。
自由曲の「シンフォニア・フェスティーヴァ」はこの年の東海第一が全国大会初演です。
この曲は、全国大会では1996年以降は演奏されていませんけど、支部大会では忘れられることなく演奏され続けていますので、
やはりこの曲の普遍的価値は皆さんよく分かっていらっしゃる!という事なのだと思います。
演奏は一言で言うと、「積極的な攻めの演奏」に尽きると思います。
管楽器のダイナミックな響きが特にトランペットを中心にガンガンストレートに伝わってきますが、 
反面詰めが甘いというか、ミスが多く、音が非常に粗いため、「管楽器独特の生臭さ」も
伝わってくるような演奏でした。
トランペットが終始大活躍する曲ですが、ラストで息切れを起こしたのは少し残念な所です。
ソロトランペットは第一楽章の冒頭から第二楽章、そして第三楽章の至る所で大活躍する曲で、
東海第一の奏者も冒頭をはじめ、あのとてつもないハイトーンをものともせず大変生き生きとした躍動感のある
音楽を聴かせてくれていたと思います。
それだけにⅢのトッカータのラストのソロトランペットの息切れと音外しは大変勿体なく感じますし
「何も最後の最後であんなに盛大に音を外さなくても・・」とついつい思ってしまうぐらいかなり目立つミスでしたので
大変惜しかったです。
だけどあのソロトランペット奏者は、特に第一楽章の大健闘は素晴らしかったです!
第二楽章のアリアのたっぷりとした歌も申し分なかったです。
この曲は金管主体というか、どうしてもトランペットばかり目立ってしまいがちなのですけど、
全体的な音楽のつくりは大変生き生きとして、特に第三楽章は、木管の跳ね上がるような感じがとても楽しかったですし、
あの雰囲気はまさにオペレッタとかミュージカルみたいな「楽しい雰囲気」が大変素敵に表現されていたと思います。
全体的な印象としては、東海大学第一の積極果敢に攻める演奏とか思いっきりの良さにもすごく好感が
持てたものでした。
ただ、この東海大学第一の演奏は、今改めて聴くと、
テンポが速すぎて、曲全体が完全には消化出来ていない感じもします。
後にこの曲を自由曲に選んだチームと比べてカットを短くしているせいもあるのですが、
12分という時間制限の中で、「迷うことなく駆け抜けた・・だけど荒すぎた・・」という印象もあるのかもしれないですね。

この曲は、1987年に計3団体が全国で自由曲として取り上げられ
瞬間的に注目を集めます。
だけど、
明徳義塾は、単に豪快に鳴らしただけ・・
富山ウィンドは何か理屈っぽくて素直に楽しめないしカットも何か不自然・・
NTT中国は、課題曲が風紋のせいか、第三曲のみ演奏
でしたので、いずれもこの曲の名演の決定打にはなっていません。
という事で、コンクールでこの曲の素晴らしい名演はまだ出ていませんので
どこかのチームの素晴らしい演奏を今後期待したいものです。

この「シンフォニア・フェスティーヴァ」は、三曲から構成されています。

Ⅰ.ファンファーレ

 冒頭からトランペットのソロが大活躍します。
 クライマックスでのドラの鳴りが極めて豪快!!

Ⅱ.アリア

 木管楽器のしっとりとした表情が印象的。そんな中でもトランペットに
 ゆったりとしたソロの場面も与えられています。

Ⅲ.トッカータ

 ミュージカルみたいなノリの曲です。
 全員で楽しく踊りまくるみたいなイメージの曲で
 ホント、聴いているだけでハッピーな気持ちになれます。
 だけどエンディングのトランペットのハイトーンを決めるのは至難の業・・・

CDでは、東京佼成の演奏が一番素晴らしいと思いますし、この曲の数少ない決定打みたいな
演奏です。

最後に・・・

後年指揮者の榊原先生は、生徒に対するセクハラで逮捕され、吹奏楽界を永久追放みたいな感じに
なったのは大変遺憾な事です。
この時代から既にそうした兆候があったとの事ですが、やはり先生と言うか、指導者と言うものは
「天狗」になってはいけないものですね・・・
24.兵庫高校


C/スラヴ狂詩曲「タラス・ブーリバ」~Ⅲ.予言、そしてタラス・ブーリバの死(L.ヤナーチェク)


昨年におかれましては、当ブログの「吹奏楽コンクール」の私のたわいもない個人的な感想記事にも
あんなにも多くの皆様から素敵なコメントを頂けたことに本当に感謝申し上げます。
当ブログの吹奏楽記事は、FC2内からのコメントは正直・・極めて稀ではあるのですが(汗・・)
FC2以外の外部サイトから経由してこのブログをご覧頂けているばかりでなく、ああした素敵なコメントまで
頂ける事に、管理人としてはまさに感謝感激という事で、本当に「ありがとうございます!」という感謝の言葉を
改めて申し上げたいと思います。

本記事を持ちまして、今年の当ブログにおける吹奏楽語りをスタートさせて頂きたいと思いますので、
どうか本年度もこちらのカテゴリも宜しくお願いいたします。
また、これよく聞かれる事なのですけど
「プリキュア・東方記事を書いている人が本当にこの吹奏楽記事も書いているのですか? 両カテゴリの間には
とてつもないギャップがあり、もしかして同一ブログ内にライターが二人いるのですか?」
みたいなご質問を受ける事もあるのですけど、
いやいや、本当に東方記事を書いている人間がこの吹奏楽やクラシック音楽カテゴリを書いておりますので、
宜しくお願いいたします・・・(笑)
要は、私にとっては吹奏楽もクラシック音楽も東方もプリキュアも「私の楽しみの一つ」という事で、
別にどちらがこちらよりも価値があるとかすぐれているという事は100%無いと思います。
どちらもそれぞれ魅力的で素晴らしいものがあるという事なのだと思います。

1983年の吹奏楽コンクールの高校の部って、前半には、野庭・高岡商業・富山商業・習志野など素晴らしい演奏も
続出していたのですけど、なんか私の個人的感想としては、後半以降に凄まじく個性的で本当に素晴らしい演奏が
続出していたような印象があります。
特にプログラム19番の兵庫県の明石北高校の「ダッタン人の踊り」は本当に素晴らしく感動的な演奏でした!
そしてプログラム21番の花輪高校からこの年の最終演奏のまさにオオトリを務めた秋田南の「火の鳥」に至る
数々の素晴らしき演奏は、まさに圧巻だったと思います。
この当時は世の中に「CD」というものは出回っていなくて、吹奏楽コンクールの音源はCBSソニーの「日本の吹奏楽」という
レコードしか無かったのですが、「日本の吹奏楽83 VOL.8 高校の部」は東邦から秋田南の8チームが
収録されているのですけど、
この8チームの演奏が本当にヴァラエティーに富んでいて、下手な演奏もあればとてつもなく上手い演奏もあり、
聴いているだけでとてもわくわくさせられちゃいます!
(ちなみにですけど、この「日本の吹奏楽83  VOL.8 のレコードは、私の大切な宝物の一つです!)
劇的で悲壮な東邦のハムレットと花輪のベルク~三つの管弦楽曲と関東一のオセロの世界で「陰鬱な世界」を
私たちに伝えてくれ、輪を掛けるように仁賀保の交響三章でもって「和の陰鬱な世界」を提示され、
そしてレコードをひっくり返してB面に入るとA面の「陰鬱な世界」から一転して「明るく眩しい世界」に入ったような感じがあり、
同じ一枚のレコードなんですけど、その「ギャップ」に聴くたびにどことなく「ときめき」を感じていたものでした!
B面においては、兵庫の吉永先生にしては珍しいくらい正攻法でスタンダードなのびやかな音楽を聴かせてくれ
「自分たちは絶対に屈しない!」という感情の高ぶりをナチュラルに表現され、
それを受け継ぐように東海大学第一の「シンフォニア・フェスティーヴァ」の世界で「歓喜」の世界をこれでもかっ!と見せつけられ、
福岡工大付属の一転して「魔法の世界」に魅了され、
そしてトドメは、秋田南の「火の鳥」というまさに王道のファンタジーの世界に脳天が一撃されてしまった・・
そんな世界が一枚のレコードにギューーッと詰まっていると思います。
そう! このこの感覚はまさに東方のフランちゃんの「ギュ―――――ッとしてドッカーンの世界」そのものなのだと思います! (笑)

前振りが長くなってしまいました・・・(笑)

この年1983年の兵庫高校なのですけど、結果的に兵庫高校吹奏楽部の「偉大なる伝統と実績」の基礎を作り上げた
吉永陽一先生が兵庫高校を率いて普門館の全国大会に出場されたのはこの年が最後という事に
なってしまいます。
翌年の1984年の「フェスティヴァル・ヴァリエーション」も本当に素晴らしい演奏を聴かせてくれましたが、
84年はあの天理高校も同じ自由曲を演奏していたという不運(?)も重なり、結果的に84年の全国大会には
進めなかったのですけど、全国でも十分に通用する素晴らしい演奏を聴かせてくれていたと思います。
私はあの演奏は、日本ワールドレコード社によるカスタムテープでしか聴いていないのですけど、あの演奏は
生で聴いてみたかったですね!
だけど1984年の関西代表というと、淀工・天理も素晴らしい演奏でしたけど、同じくらい神戸高校の楽劇「サロメ」も
大変見事で艶っぽい演奏を聴かせてくれていたと思います。
吉永先生と言うと「下品でどこが悪いねん!」みたいにとにかく凄まじい個性の強さとアクの強さが漲っている
全国的にも大変有名な先生で、私・・育ちは東北と関東ですけど、
東北のスクールバンドに在籍中も、兵庫県の今津中学校の得津先生と、同じく兵庫県の兵庫高校の吉永先生の
名前は既に轟いていたような記憶がありますね!
そのくらいインパクトは強い先生だったと思います。
吉永先生は1986年以降は西宮高校に異動をされてしまうのですけど、西宮での全国大会出場がわずか2回に留まっている
という事実は大変勿体ないと思います。
それだけ「関西大会」が激戦である事の表れでもあるのですけど、
そうですね・・・1990年代の東京都大会とか四国大会とか中国大会とか東北大会ならば、
吉永先生=西宮高校ぐらいの技術と表現力を有していたら、間違いなくなんなく支部大会を突破し
全国大会でも「俺が吉永だ!」みたいな個性的な演奏を聴かせてくれていたと思いますので、
やはり「もったいないな・・」と感じてしまいますね!

あ・・・兵庫高校は吉永先生の異動後は、松井隆司先生という吉永先生すらも超越するとてつもなく個性的でアクが強く
大変指導力がある先生が赴任され、
吉永先生時代以上の名演を普門館の聴衆に聴かせていたのは皆様承知の通りです!

さてさて・・1983年の兵庫高校の演奏なのですけど、
意外な事に意外な事に・・・あの吉永先生にしては大変珍しい事に(?)
74年の「朝鮮民謡の主題による変奏曲」みたいなテンポのいじくり廻しとか
77年の「交響的断章」みたいな強奏と弱奏のとてつもない対比のギャップみたいな過剰演出は控え気味で
正攻法の何の小細工もなしに真正面から正々堂々と音楽に斬り込んだ!という印象が大変強く、
そしてその正攻法の演奏の「音楽的スケール」がとてつもなく大きくて、
奏者の自発性や積極性も吉永先生が大変巧みに引き出されていて、
まさに「高校生らしいのびのびとした躍動感のある演奏」を聴かせてくれていると思います。

課題曲C/カドリーユは、野庭・明石北みたいな「アクの強さ」は控え気味で、
どちらかというとキュートに可愛くまとめていると思います。
そうですね・・・従来の吉永先生だったら多分こうするんじゃないのかな・・?みたいな期待を実際の「音」にしたのが
花輪高校のカドリーユじゃないのかなとも思ったりもします。
確かに「カドリーユ」は私自身も演奏しましたけど、ああいう可憐な曲はヘンにいじくらないで楽譜の指定通りのテンポを
保った方がスッキリとまとまるんじゃないのかな・・と感じるだけに
吉永先生のそうした「スッキリ解釈」はむしろ妥当だったんじゃないのかな・・?と今更ながら感じますね。
(逆に吉永先生の課題曲解釈で「これぞ珍解釈!」と未だに語られているのは、87年の風紋と98年の稲穂の波ですよね!!)

だけどやはり圧巻は自由曲だと思います!
自由曲の「タラス=ブーリバ」は本当に素晴らしい演奏だったと思います。
結果的にこの年の兵庫高校はコンクールの評価としては銀賞という結果なのですけど、
いやいや! この演奏を単に普通の銀賞として片づけるのは実にもったいない演奏だと思いますよ!
東海大一・兵庫・秋田南・茨城の銀賞は、私個人としては「限りなく金賞に近い価値のある銀賞」だと思いますし、
これらの銀賞チームの演奏は、間違いなく普門館の聴衆に「何か」を伝えていたと思います!!
以前この「タラス・ブーリバ」を全国大会で演奏した福岡工大付属と長岡吹奏楽団は、重量級・金管楽器の咆哮という
印象が強かったのですが、兵庫高校の演奏は、それらの方向性とは全く異なり
カラッと澄み渡るような明るさ、開放感、どこまでいっても明るい響きで演奏していたのが
非常に印象に残っています。
79年の福岡工大付属は、「男泣き」とか「魂の孤独」とか「悲愴感」みたいな「叫び!!」みたいな印象が大変強いのですが、
83年の兵庫高校は、どこまでいっても「晴天が続いている・・」みたいな「明るさ・爽やかさ」が
私個人としては大変強く印象に残っています。
原曲の管弦楽版の演奏は、例えばノイマン指揮などのようにどちらかというと福岡工大付属みたいな
粗削り・骨太みたいな傾向の演奏が多いようにも思えるのですが、
ガーディナー指揮の演奏のように、天空を舞うとか、カラッと日本晴れみたいな爽やかな
演奏もあったりするものですが、兵庫高校の演奏は、このガーディナー指揮に近いような印象が私の中にはあったりもします。
原曲の打楽器は、ティンパニ・チャイム・シンバル・小太鼓・トライアングル程度なのですが、
兵庫高校の演奏は、長岡吹奏楽団の浅井先生アレンジの楽譜を使用しながらも、浅井先生の解釈とは全く異なり、
曲の中に「シロフォーン」をかなり効果的に使用し、めまぐるしい感じもうまく出せていたようにも感じられます。

とにかくこの年の兵庫高校の「高揚感」は特筆に値すると思います!

後述しますが、原曲自体、3人のメインの登場人物の「死」をテーマにしているのですけど、
兵庫高校の演奏は、「死」という陰鬱・厳粛・重たさという負のイメージではなくて
タイトルでもある「予言」、すなわち、この世にロシア民族がいる限り、自分たちは絶対に誰にも屈しない!という末代までの誓いを
高らかにのびのびと気持ちよく吹き上げているのが大変素晴らしいと思いますし、
ラスト近くの「弔いの鐘の音」すらも打ち消しようなこの「魂の叫び」が高らかに響き渡っていて
とても気持ちのいいものがあったと思います。
「楽譜」に表記されているものを単に「音の羅列」としてではなくて、そこに「自分達の気持ち」を高らかにナチュラルに
響かせたまさに素晴らしい名演だと私は思いますし、
私はこの演奏は大好きですね!!




タラス・ブーリバ



子供の頃、実家の本棚に「ジュニア名作集」とかいって、小学生高学年から中学生を対象年齢にした
世界名作作品集みたいなシリーズ本が100冊近く置いていました。
原作を概ねそのまま紹介しているのですが、
長編は適度にカットしながらダィジェスト版として
色々な世界各国の古今東西の名作を取り上げていました。

例えば・・・

〇アラビアンナイト

〇三国志

〇水滸伝

〇シャーロックホームズシリーズ

〇罪と罰

〇復活

〇ジェイン=エア

〇デカメロン

〇ベニスの商人

など色々と収録されていました。私の場合、こうしたダィジェスト版からまずは門戸を叩き
「カットされていない原作はどんな感じなのだろう・・」
「他の作品にどんなものがあるのか・・」
「同時代に他にどんな作品があったのかな」などと
色々興味を持ち、そこからある程度本を読むという習慣が中学の頃に出来ていたのかな・・とも思ったりもします。
その辺りは、吹奏楽コンクール耳にし「それではこの原曲はどんな感じなのだろう・・」とクラシック音楽に
興味を持つようになったのと理屈は同じなのかな・・とも思います。

1984年頃、東京文化会館で開催されたハインツ=レークナー指揮/読売日本交響楽団の
定期演奏会で演奏された曲目の中に
スラヴ狂詩曲「タラス=ブーリバ」という曲があり、
当日のコンサートパンフレットを読んでみて、
「あれ、このタラス=ブーリバって、昔読んだジュニア名作集の中の
 隊長ブーリバのことじゃん・・・」と気が付いたものでした! (笑)
というか・・・あんな殺伐とした物語がジュニア向け名作集に収録されている事自体、すごい話なのかもしれないですね。
あ・・・ちなみに「隊長ブーリバ」はアメリカで映画化もされています。

「隊長ブーリバ」の原作は、ロシアの文豪、ゴーゴリが執筆した小説「タラス・ブーリバ」なのですけど、
それに霊感を得てヤナーチェクが作曲したのが、このスラヴ狂詩曲「タラス=ブーリバ」なのです!

この曲は、ゴーゴリ原作の小説を忠実に再現しているというか、
三つの印象的な部分をそれぞれ楽章として音楽の形に残しています。

Ⅰ.アンドレイの死

Ⅱ.オスタップの死

Ⅲ.予言、そしてタラス=ブーリバの死

タイトル通り、主要登場人物は全員死んでしまう壮絶な話でもありまして、
アンドレイ・オスタップ共にブーリバの息子です。
ちなみにタラス=ブーリバは、ロシアのコサックで
当時対立していた隣国ポーランドと連日戦争と略奪に明け暮れているという背景があります。
もう少し細かく書くと、元々の経緯として、ポーランドのグリゴリー王子より
「自分たちに協力してトルコ軍を撃退すれば、ウクライナのステップを与える」という誓約があったにも関わらず
ブーリバたちのトルコ軍撃退をしたというのに、その約束は反故にされ、
ブーリバたちは土地を追われる事になってしまい、怒ったブーリバたちは、
グリゴリー王子の片腕を切り落として逃亡し、そのまんま山岳地帯に拠点を構える事になります。

アンドレイは、敵国ポーランドの領主の娘と恋に落ち味方を裏切ってしまいます。
だけど後にブーリバ軍に捕えられ、
タラス・ブーリバは悩んだ末、「息子を許すことは出来ない」との結論に達し
自らの手で息子を銃殺します・・・
この陰惨な話を音楽も忠実に再現し、
出だしのコールアングレのひそやかで悩み多いような雰囲気が、全てを象徴しています。
最後のチャイムの響きは、弔いの鐘を意味しているのかもしれません・・

オスタップは、アンドレイと異なり終始父親に忠実なのですが、
戦いの最中にポーランド軍に捕まり、公開処刑されてしまいます。
その処刑の最中、苦しさのあまり
「おとうさん、どこにいるのですか!!」と絶叫し絶命するのですが、
群衆の中に「ここにいるぞ」というブーリバの声がこだまします。
曲の中で「マズルカ」らしき部分が聴こえますが、これはポーランドを象徴しているのでしょう。
ラストは、クラリネットの悲鳴のような高音の響きが耳をつんざきます。
これはオスタップの絶命を意味しているのでしょう・・・

第三曲は「予言、そしてタラス=ブーリバの死」ですが、
最終的にブーリバ自身もポーランドによって捕まり公開処刑されてしまいます。
その処刑方法は火あぶりなのですが、その炎の中でも
「炎も拷問もロシア人民を負かすことは出来ない」という言葉を最期に残して絶命します。
この第三曲は、全体の中でも中心的な部分なのですが、
全体的に「荒ぶる魂」とか「男泣き」という表現がぴったりの音楽です。
音楽としては、かなり武骨に荒っぽいタッチなのですけど、
それが実にこの物語に合っていると思います。
第三曲は、前半の戦いの場面のアレグロの爽快さ、戦場にこだまする馬のわななきも
印象的なのですけど、後半は、チャイムに導かれたコラール的な部分が、
実に素晴らしいし胸にジーンときます。
男泣きという感じもするし、
「今は負けたけど、お前たちに未来はない」みたいな宣言・誓いみたいなコラール的な部分も
訴えかけるものがあります。

この曲は、ゴーゴリの作品を音楽として再現し、魂の叫びみたいなものを音楽を通して訴えかける素晴らしい作品だと思います。
ただ音楽自体は極めて武骨で荒っぽいので、初めて聴く人は
「何て洗練も品もないガサツな曲・・」という印象をもたれがたなのかな・・とも思ったりもします。

CDで聴く場合、

〇ノイマン/チェコフィル

〇マッケラス/ウィーンフィルが素晴らしいと思うのですが、

「荒っぽさ・武骨さ」だけではないガーディナー指揮の演奏も私は大好きです!
そしてこの演奏は前述の兵庫高校のあの素晴らしい演奏の「高揚感」に近いとも感じられます。
やや迫力に欠ける部分もあるのですが、
特に第三曲の何か爽やかな感じ、明るく澄み通ったような感覚
青空の下で戦っているかのような雰囲気は、他の演奏では感じなかった点です。
「タラス=ブーリバ」以外の収録曲の
ラフマニノフの交響的舞曲も実にメランコリーで申し分のない名演だと思います。

あ、忘れていましたけど、この曲はオルガンがいい働きをしています。
重厚感というか、地の底から響いてくる感じが実に曲にマッチしていると思います。
23.仁賀保高校


B/交響三章~第三楽章(三善晃)



結果論となりますが、高野豊昭先生は、1983年の仁賀保高校の演奏を含めて
三善晃の「交響三章」は新屋高校時代を含めて合計三回全国大会で演奏をされていますが、
率直に言うと、1983年の仁賀保の演奏ではなくて、1991年の新屋高校の演奏の方を高く評価しています。

1982年の仁賀保の演奏は、課題曲B/序奏とアレグロも自由曲の矢代秋雄の交響曲も
そのアレグロの素晴らしい透明感とスピード感は申し分なく、まさに「超高校級の名演」に相応しい
圧巻の演奏を聴かせてくれました。
全国大会初出場の演奏でこれだけの演奏を聴かせてくれたのだから、翌年の演奏もさそがし素晴らしい演奏を
残してくれたのかな・・と思われるのかもしれないですけど、
実は83年の仁賀保高校の演奏は、82年の演奏を超える事は出来なかったような感じがします。
このあたりはスクールバンドの難しさですよね・・・・
前年度が素晴らしい演奏を聴かせてくれたからと言って翌年もそうした名演を続けることが出来るのかと言うと
そうした保証は一つもありませんし、毎年コンクールの演奏メンバーが変わる難しさがあると思います。

上記で書いた通り、高野先生は三善晃の「交響三章」を全国大会で計三回も演奏されているのですけど、
その3回とも素晴らしい演奏を残せたかと言うと、必ずしもそういう訳では無くて、
やはりそこには、スクールバンドゆえの転任とか指揮者の交代とかがありますし、
とある年で名演が残せたからといって、別の年でその名演が残せた年と同じ自由曲を選んだとしても
必ずしも名演が再現されるという訳ではないのですね。
例えば、1980年に歴史的名演と言っても過言ではない秋田南の「交響三章」の演奏でしたけど、
その7年後に同じ指揮者の高橋紘一先生が同じく秋田南高校を80年と同じ自由曲で全国大会に臨み、
高橋紘一先生としての「勇退」という有終の美を飾ろうとされていたのですけど、演奏は、
大変申し訳ない言い方になってしまうのですが、80年の演奏には技術的にも音楽の感銘度的にも表現的にも
遠く及ばないな・・という印象をプログラム2番の生演奏を聴いて当時感じていたものでした。

そのくらい吹奏楽コンクールの演奏は、「継続性」が難しいものなのだと思います。

1983年の仁賀保高校時代の演奏なのですけど、
上記で書いた通り、82年の矢代秋雄の交響曲の歴史的名演の演奏があまりにも素晴らしすぎたせいか、
この年の三善晃の「交響三章」は正直今一つ冴えない印象があります。
もちろん演奏自体は決して悪くありませんし、技術的な問題点はほぼ無いと思います。
だけど、何となくですけどサウンドがくすんで聴こえがちで、陰鬱な印象を与えているのだと思います。
緊張感が内面に籠り過ぎたような感じの演奏でもあり、よく言うと緊張感をキープした演奏、
悪く言うと、終始ピリピリとした雰囲気が感じられ、相当好き嫌いは分かれるような感じでもあります。
演奏自体、82年のような透明感のあるスピード感に欠け、少しもっさりとしたような感じもあったのは
印象を幾分悪くされているようにも感じたものでした。
課題曲は、ラスト近くのコラールはもう少し高らかに歌い上げて欲しかったのですけど、
少しこじんまりとまとめた感じで、そこに「感動」という要素が少なかったようにも感じられます。
自由曲の交響三章も、テーマが暗示され膨らんでいく展開が、どことなく説得力に欠けていて
なんとなくですけど「理屈」で攻めているような印象も感じたものです。
音楽がどことなく数式の羅列のようにも聴こえ、
楽譜を正確に音に変えるのが精いっぱいといった印象もありました。

高野先生は、2000年にもこの「交響三章」を自由曲として取り上げられているのですけど、
課題曲がⅢ.胎動の時代という少し長めの曲という事で、83年・91年に比べて少し淡々というかサクサク進展しすぎ
みたいな印象もあり、
少し「せっかち」みたいな感じを持ったものでした。

そうした観点からも、高野先生の三善晃/交響三章の演奏は、やっぱりこの1991年の新屋高校での演奏が一番優れていて
技術的なレヴェルの高さとか内面的充実感の素晴らしさなど、
やはり、83年と91年の演奏を単純に比べてみても群を抜いて秀でた演奏だと思います。

改めてですけど、高野先生は少し気の毒な印象があったりもします。
だってあれだけの優れた指導力&指揮能力をお持ちで、楽曲の解釈にも大変素晴らしいアプローチを毎年のように
見せてくれながらも、
秋田県内で、秋田南高校と花輪高校という「二大巨匠」がでーーんと構えていて、80年代中盤以降、この両校が
全国大会で金賞を取れない時代が長く続いた背景もあり、「秋田県の東北大会への代表枠」が二つに減らされ、
そのとばっちりで高野先生指揮の仁賀保があれだけ見事な演奏を秋田県大会で聴かせても
東北大会にすら進めないというある意味大変不遇な時代が相当続いていましたからね・・・
このブログで何度も書いている通り、私は大の秋田南と花輪の熱烈的な信者(?)でもあるのですけど、
結果的に秋田南が一時的に没落したというおかげで(?)
仁賀保から新屋に異動された高野先生に陽が当たる時代が来るというのも
なんかとてつもなく皮肉なお話でもあるのですけど、
コンクールというものにそうした「悲哀」はある意味付き物ですから、これはこれで仕方が無いのかも
しれません。

私にとって三善晃というと何と言っても「交響三章」の研ぎ澄まされた世界が大変インパクトが強いです!
(もちろん、響紋とかレクイエムとかピアノ協奏曲とか夏の錯乱の世界も素晴らしいものがあると思います)
「交響三章」を全曲初めて聴いたのは19歳頃でしたけど、すさまじい衝撃度がありました。
確かにすごい難曲ですし、メロディーラインがどこにあるのかよく分かりませんし、
聴いていて楽しい曲でないのは確実です。
あの終始緊張感と研ぎ澄まされたピーンと張りつめた空気はこの曲の魅力と言っても過言ではありません。
この曲自体を初めて知ったのは、まだ16歳の頃かな・・・
1981年の全日本吹奏楽コンクール・東北大会の大曲高校の第二楽章の演奏がその初めての出会いでした!
いや、この演奏はマジですごいと思いますよ・・・!
あんな音楽的に完全に燃焼し尽くした音楽的充実度は特筆に値すると思います!!
そして第三楽章は、1980年の全日本吹奏楽コンクールの秋田南高校の演奏を収録したレコードで初めて知り、
管弦楽の原曲は、渡辺暁男の日本フィルのレコードで初めて耳にし、
生の演奏会は、1986年の都響の定期演奏会でそれぞれ聴きました。

やはり第三楽章の音楽的完成度の高さと緊張感は、相当なものだと思います。
ヴィヴラフォーンとフルートソロで開始される出だしの緊張感も相当なものがありますし、
ここで提示されたテーマが暗示的に徐々に盛り上がっていく感じというか、その音楽的展開が
非常に巧みで、
聴く人をすごい内面的緊張に陥らせます。
最後の盛り上がりが終わって、ドラ2台とシロフォーンによる余韻の効果も
計算し尽くされているようにも感じます。
そして最後はフルートソロで静かに閉じられていきます。

三善晃が既にご逝去されて今年で既に3年になるのですけど、このお名前と「交響三章」と「響紋」は、
このままずっと受け継がれていって欲しいと思います。

最後に・・・・

本記事をもって年内の「吹奏楽コンクール」語りは最後になります。
こんな私の個人的趣味とか偏見(?)に満ちた吹奏楽コンクール記事にお付き合い頂けた皆様には
感謝の気持ちで一杯です!
いつもご覧頂き本当にありがとうございます!
来年も当ブログの吹奏楽関連記事も宜しくお願いいたします!

そして来年の吹奏楽コンクール語りは、1983年のプログラム第24番・兵庫高校からスタートをさせて
頂きたいと思います!
(結果的にこの年が吉永先生としては最後の兵庫高校での全国大会となりましたけど、
あのタラス・ブーリバの演奏は本当に素晴らしかったと思いますし、吉永先生としては大変珍しい正攻法の
音楽的解釈が大変印象的でした!!)
22.関東第一高校


A/「オセロ」~Ⅰ.前奏曲 Ⅲ.オセロとデスデモーナ Ⅳ.宮廷への入場(A.リード)



関東一高と言うと、世間一般のイメージで言うと、楽天のオコエ選手に代表されるように野球部が強いというイメージを
持たれている方も多いのかなと思います。
だけど、私的には関東第一というといまだに「塩谷先生指揮の吹奏楽部」というイメージが大変強いです。
現在は男女共学になっていると思いますが、関東一が吹奏楽コンクールで栄光の3年連続金賞を
受賞していたころは、まだ男子高校でしたので、
絶対的なクラリネット奏者不足の状況の中で、サウンド構築という意味ではかなり大変だったと推察されるのですけど、
関東一は男子校特有のパワーと音量でねじ伏せる豪快な演奏ではなくて、
柔らかい響き・洗練された響き・丁寧な音楽運び・よく練られた音楽構成などかなり繊細な音楽づくりを
している印象がありました。
高校当時は男子校に在籍し、関東一と同じく慢性的なクラリネット奏者不足に泣かされていた私としては、
まさに羨ましい話でありましたし、羨望の眼差しで見ていたものです。

関東一高は、これはあくまで私の意見・感想なのですけど1990年の「華~吹奏楽のために」で「大化け」した印象が強いです!!
1984年~86年は限りなく銅賞に近い銀賞だったと思いますし、
87年~89年のロシアアレンジシリーズは、まさに「技術低迷・個性無し・感銘性無し」という
言わば「無い無いづくし」だったと思いますし、
「せっかく全国大会に出場しても銅賞ばかり取るこんなしょーもないチームが都大会代表になるくらいなら、
よっぽど関西・関東の代表校の枠を一つ増やして、都大会の枠を一つ減らせばいいのに・・・」と
思った時機さえあったものです。

だけど・・・・

関東一高は、上記の通り、1990年以降は別のチームのように進化を果たしましたし、
あの「突然何の脈絡もなく唐突に飛躍したような素晴らしい演奏」は、まさに「レジェンダリー」に相応しい数々の
見事な演奏を後世の私たちに残してくれていたと思います。

サウンドが別人チームのように生き生きと躍動し、技術も安定し、従来までのクラリネットの絶対的不足も解消され、
男子校特有の「木管セクションの脆弱さ」が見事に解消されていたと思います。

1989年から90年の一年間の間に一体何があったのでしょうか・・??
勿論、私は部外者なので知る由もありませんけど、1990年~95年の関東一高の演奏は
サウンド的にも音楽的に充実した内面性的にも、とにかく見事な演奏を聴かせてくれていたと思います。

さてさて、例えば「カンタベリーコラール」とか「ベトナムの回顧」などのような素晴らしい歴史的名演を後世の私達に
残してくれて関東第一高校も初出場の1983年は、「ちょっとね・・」と感じさせてくれる演奏だったのかなと
思います。
ま、初出場ですし、1983年の関東第一は学校全体が、ま・・そのちょっと「やんちゃな学校」でしたので、塩谷先生の
ご苦労も相当なものがあったと推察されますし、それでも都大会を突破されての全国大会出場を
果たされたのだから、それはそれで大変尊い事だと思います。
初出場時の演奏に関しては色々な方が「下手くそ」とか「とても後年の関東一とは思えないほどひどい演奏」と
言われているのを耳にしますけど、
そうですね・・・・私自身はあの「オセロ」の演奏は他人が言う程の酷い演奏とは思っていません。
(大変古くてローカルマニアックネタになりますけど、1982年の東北大会・高校B部門の保原高校の
あの惨憺たるオセロに比べると・・・全然普通の演奏です・・・)
1983年の関東第一の「オセロ」は、一言で言うと大変音色が暗いサウンドというか、音色が大変くすんでいるのが
大変気にかかります。一言で言うと「陰気な音」というのか「辛気臭いサウンド」だと思います。
この「暗さ」は逆にいうと「オセロ」の悲劇的なストーリーにとてもマッチしているようにも感じたりもしますけど、
同時にあの暗さは課題曲A/インヴェンション第一番の「健康的な明るさ」には程遠いものがあったと思います。
「男子高校」の演奏とは思えないほど演奏に元気とか活気が無く、陰鬱で地味極まりない演奏を聴かせてくれています。
オセロの第Ⅲ曲の「オセロとデスデモーナ」をかなり大胆にカットしていたのも少し印象を悪くしていたようにも感じます。
(あの大胆なカットの直前に瞬間的に塩谷先生が音楽を止めたかのような「瞬間の間」があったのは
大変印象的でした!)
Ⅳの宮廷への入場なんかは、さすがにもう少し絢爛豪華さとか派手さとか明るさはもう少し欲しかった感じはあります。

それと・・・
関東一の前の演奏団体があの・・・花輪高校!!
1983年の自由曲は、最早伝説と化しているベルクの「三つの管弦楽曲」~Ⅲ.行進曲という
現代無調音楽バリバリの陰鬱極まりない曲でして、もしかして、関東一も花輪のあの陰鬱なベルクの世界に感化されてしまい、
「オセロ」をあんな陰鬱気極まりない演奏になってしまったのでは・・・?なーんて事をいう人も
自分の周囲に何人かいたのも何か今となっては懐かしい思い出です。

関東第一の魅力の一つは、どちらかと言うと「サウンドの渋み」なのだと後年認識しましたが、その渋みが
いい方向で発揮されていったのが、1990年の「華」や91年の「トッカータとフーガ」なのだと
思いますし、開花したのが94年の「カンタベリーコラール」と翌年の「ベトナムの回顧」なのだと
思います。
そして1983年の「オセロ」については、まだそうした魅力が十分に聴衆に伝わりきれていなかったという事なのだと思います。

関東第一は、今現在はどうかわかりませんけど、当時は都内でも屈指のやんちゃな学校の一つだったと思いますが、
そうした「やんちゃ・・」みたいな感じは、その音楽からは感じませんでした。
恐らくですけど、関東第一をずっと長期間指導されていた塩谷晋平先生の類稀なる指導力が
相当大きかったと思われますし、塩谷先生の絶え間ない努力の結晶が
後年のあの素晴らしい名演に繋がったのだと思います。
私自身、都大会や全国大会で何度も塩谷先生の指揮を拝見させて頂きましたが、
何となくですけど・・・
生徒全員が塩谷先生を信じきっている雰囲気が、部外者の私にも伝わってくるかのような印象がありました。
塩谷先生自身は、大変惜しまれる事に2012年に急逝されてしまったのですが、
塩谷先生のご冥福を心よりお祈り申し上げたいと思います。
塩谷先生は、1997年以降は関東一を離れてその後青森山田高校に移られましたけど、
吹奏楽コンクールは、2012年にブリジストン久留米を振られています。
その全国大会の際には、既に体調も相当悪かったと聞いていますが、
それでも無事に全国大会でブリジストンを見事金賞に導かれ、そして・・・その数日後に
息を引き取られています。
あの話を聞いた時は、なんか心がきゅっ・・と引き締まる思いはありましたし、
「人生最期の瞬間まで、吹奏楽の指導という塩谷先生のライフワーク」をまっとうされた塩谷先生のそのお姿は
まさに尊いものがあると思いますし、
吹奏楽指導者というか一人の人間としての「矜持」を感じさせるものです。
コダーイというハンガリーの作曲家は、組曲「ハーリ=ヤーノシュ」という大変親しみやすくてわかり易い
素晴らしい20世紀の名曲がありますけど、クラシック音楽に精通した皆様の感覚で言うと
合唱の作曲の分野に貢献があり、ハンガリーの民謡を世界に広めようとした貢献度と
学校の音楽教育に熱心であった御方という印象も実はあったりもします。

吹奏楽コンクールではやたらと有名で自由曲として取り上げられる回数は多いのだけど、
原曲の管弦楽版は実はあまり演奏される回数が少ないという曲も実はあったりもします。
その典型的事例は、レスピーギのバレエ音楽「シバの女王ベルキス」なのだと思いますが、
コダーイのハンガリー民謡「くじゃく」による変奏曲もそうした曲の一つではないのかなと思ったりもしますね。
この曲は吹奏楽コンクールにおいては、1993年の野庭高校と土気中学校の素晴らしい名演によって
翌年以降一気に全国的にブレイクしたという印象があります。
私は、両校の演奏も普門館の生演奏で聴く事が出来ましたけど、私の印象としては、野庭高校の
あの音楽的感銘度は大変素晴らしかったですし、聴いていて本当に「ジ―――ン・・」と胸を打つものがありました!
そしてこのコダーイの「くじゃく」は今現在も忘れられることなく吹奏楽コンクールの自由曲として選ばれ続けている事を
考えると、やはりあの不思議な独特の「哀愁」に惹き付けられているような感じもあったりもします。

改めてですけどこのコダーイのハンガリー民謡「くじゃく」による変奏曲は本当に素晴らしい名曲だと思います。
この曲が世間的にはあまり知られていなくて、生の演奏会でも実は演奏頻度は必ずしも高くはない事が
不思議に感じられるくらい「隠れた20世紀の名曲」だと私は確信しています!
曲全体を貫く「哀愁」みたいなものは、本当に泣けるものがあります。
外国の軍隊とか国内の圧政者からの無茶難題や威圧にも屈せず、自分達の自由を取り戻そうとし
自分達の自由を阻害するものと戦った民衆のエネルギーと悲哀さが曲のすみずみまで
感じ取れる不思議な哀愁漂う曲なのですけど、やはり根底にあるのは「民衆の怒り」なのかもしれないですね。
それでいて、何か「大地に根をおろす」巨木のような安定感と
民謡をモチーフにしているせいもあるのですが、曲全体の素朴感とも重なり
魅力が尽きない一曲です。

「飛べよ、飛べ、くじゃくよ飛べ、牢獄の上に。哀れな囚人を解放するために」という
非常に短い民謡(確か大体8小節だったかな・・・?)を主題として、ここから16の変奏に
結びつけるコダーイの手腕にも敬意を表したいと思います。
その変奏部分も皆2~3分程度で短いものばかりですが、
歌あり、哀愁あり、泣かせる部分あり、踊りありとバラエティーに富んでいて
聴いていて飽きるという事はあまりありません。

曲は弱奏のティンパニーのトレモロの上に乗っかって低音楽器のハンガリー民謡の主題から
開始されるのですが、
このイントロ部分は聴くだけで哀愁を感じてしまいます。
やはり代々語り継がれる「民謡」というものは、人の心に訴えかける何かを持っているのかも
しれませんよね。

曲自体は、オランダのアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団創立50周年記念に委嘱されたものです。
主題となったハンガリー民謡「くじゃく」は、歴史的にオスマン=トルコ帝国の支配下に置かれていたハンガリーに住む人たちを
囚人として例え、ハンガリー人の自由への情熱を高らかに謳い上げたとも解釈できます。
そして同時に・・・
この曲が作曲された事態背景は、まさにあのヒトラー=ナチスがヨーロッパを征服しようと虎視眈々とし、
チェコはナチスによって国家自体が一時期分割をされ、領土の略奪を受けてしまっています。
作曲当時に勢力を強めていたファシズムに対して、コダーイとしては、コダーイとしての「反抗」を意図し
自由と人間性の擁護を訴えることを意味したある意味意味深で確信犯的な曲を作り上げるのです!

とにかく冒頭の低音で奏でられる「ミーレ シラシー」というメロディラインが本当に胸を打ちます。
この素朴なメロディーラインがこんなにも素敵に変奏されていき、
後半の壮大なスケールへと発展していきます。
冒頭のあの「ミーレ シラシー」というメロディラインは、序盤は「民衆の呻き」にしか聴こえないのですけど、
徐々に転調を重ね、ハープが入る頃には天上の音楽みたいな清楚で明るい雰囲気に変化していくのが
とても素敵です。

中沢けいの小説に「楽隊のうさぎ」という吹奏楽部に所属する少年をモチーフにした素敵な小説が
あるのですが、
1996年~97年の吹奏楽コンクールが主な舞台になっています。
96年のコンクール自由曲が、コダーイのハンガリー民謡「くじゃく」による変奏曲なのですが、
主人公の克久という少年のパートは、打楽器セクションなのでした。
原曲は、ティンパニとグロッケン・シンバル・トライアングルだけしか打楽器はないのですけど、
読んでみると、
「あれれ、この曲にそんなに打楽器を使っていたっけ?」と思わず感じてしまいますけど、
ま、それは管弦楽から吹奏楽へのアレンジではよくある話ですので・・・・(笑)







小説としての「楽隊のうさぎ」は、実は早くからこの小説を読んでいまして、
確か2000年暮れ頃には購入し読んでいたと思います。
この小説、吹奏楽部に一度でも在籍したことがある人とかその関係者、父兄の方が読むと
大変共感する部分が多いと思うのですが、
吹奏楽部に関わりが無い人が読んでも十分に楽しめるお話だと思います。
勿論、吹奏楽コンクールの話とか課題曲とか音楽用語も出てきたりはしますけど、
専門的な話とか高度な音楽内容の会話が出てくるという事はほぼ皆無ですので
大変分かり易い話だと思います。
ま、文章全体の感じが、作者の中沢さんが「ジュニア向け」という事も多少は意識されているような
書き方をされていますので、その意味でも安心感はあります。

ストーリーは特に複雑なものはなく、
掻い摘んで書くと・・・
「小学校時代の、いじめなどの嫌な思い出から、なるべく学校にいる時間は短くしたいと思っていた克久は、
なりゆきで最も学校にいる時間が長い「吹奏楽部」に入り打楽器を担当する事になる。
先輩や仲間たちとの交流を深め、しだいに音楽の世界にのめり込んでいき、
最後は普門館の全国大会の「シバの女王ベルキス」の演奏シーン、そしてブラボーコールで終わる・・」
という感じのものです。

この小説は単なる吹奏楽の話ではなくて、
吹奏楽部に在籍している「克久」という10代前半の男の子が吹奏楽部の活動を通して
成長を遂げていく、同時に反抗期とか親との関わり方みたいに
いかに子供が親離れをしていくのかといった側面のお話も色々と興味深いものがあると思います。

克久の家は父親が単身赴任中なのですけど、
母親から「お母さんに恋人がいたらどうする・・・」みたいなギクッとする質問を唐突に受けたり、
単身赴任から帰ってきていた父親と母親が自分の留守中に熱いキスを交わしている場面を
目撃したりとか、
二年生の夏休み中に、
「この時期を逃したら、永遠に子供らしい克久を連れて旅行に行くことは出来ない」と考えた母親が
無理矢理九州の兄の家への旅行に克久を連れ出そうとした際、
吹奏楽コンクールの練習と中々進歩しない打楽器セクションの音に苛立ちをつのらせる克久と母親の会話も
中々この多感な時期らしい子供の反抗期と「自立への芽生え」も象徴されていて
大変興味深かったです。

少し転記してみると・・・・

百合子(母親):「九州旅行の概略を説明」

克久(息子) :「休める訳ないじゃないか」

百合子:「あなたが来ないのならば、ベビーシッターに来てもらうしかない、
      あんた、その年でまだベビーシッターにお世話になるつもり・・・!?」

百合子:「来年は受験なのよ」

克久:「(ベビーシッターという言葉にカチンと来て)受験勉強はちゃんとするよ」

百合子:「そんな事言ってないでしょ!!」

百合子:「地区予選はシードなんでしょ、だったら夏休みの初めは少しぐらい練習を休んでも  
      いいじゃないのっ!?」

克久:「そういう問題じゃないだろ!」

克久:「シードだから俺が練習にいなくっていいって、それって嫌味で言ってるんですか!?」

後日、この瞬間に百合子は、「克久が既に自分の手に届かないところまで育ってきている・・・」という
事を自覚したみたいなモノローグも出てきています。

何かとても興味深いシーンだと思いますし、
中学から高校まで吹奏楽部に浸かりまくっていた私なんかも大変共感できる場面でもあると思います。

この「楽隊のうさぎ」は、小学生の頃みたいなまだ「自分」というものを持っていなくて
そして自分というものに確固たる意義と役割と自信が持てなかった克久という少年が
「吹奏楽部」という音楽組織の中で、「全体とパーカッション」・「パーカッションの中でのティンパニの役割」
みたいな事を日々体験しているうちに
「自分」という存在に気が付いていき、「自我」を確立していく・・・・
そんなお話の側面もかなり強いと思いますし、
「母親からの自立」・「親離れ」みたいなテーマも絡めていたと思います。
単なる「吹奏楽小説」ではなくて、親子の自立という側面も同時並行で進めている点が
大変素晴らしいと思います。

克久の同学年の同じく打楽器担当の「祥子ちゃん⇒しょうちゃん」が全体にホント、いい味を
出してくれていました。
ああいう少し風変わりな女の子が周辺にいるだけで、
何か面白いものはありそうですね。

この小説は、中学1年のコンクールと2年の時のコンクールを背景にしていますけど、
これが実在の課題曲だというのが実にいいですね。

中一の課題曲は、Ⅴ/吹奏楽のための交響的譚詩
中二の課題曲は、Ⅳ/行進曲「ラ・マルシュ」なのですけど、
これって1996年~1997年の課題曲でしたね。

中一の時の自由曲は、コダーイ作曲、ハンガリー民謡「くじゃく」による変奏曲
中二の時の自由曲は、レスピーギのバレエ音楽「シバの女王ベルキス」~Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ
となっています。
作者の言葉によると「ベルキス」は、1991年の千葉県・土気中学の演奏を大いに参考にしたと
ありますけど、
土気中の演奏も私も生で聴いていましたけど、気迫に溢れた豪快な演奏でしたよね。
作者の中沢さんは千葉出身だから、やはり当時は名門の土気中を意識されたのかも
しれませんよね。
ちなみに土気中の1993年の自由曲は、上記の「くじゃく」です。

克久のこの「くじゃく」のコンクールでの演奏の描写の中に
「克久の(大太鼓の)一発に続いて、マアさんのシンバルが華やかに響く・・・
くじゃくがその羽を震わせながら開く時そのものが、マアさんのシンバルの音だった。
すかさず金管が高らかにくじゃくの羽の輝きを繰り広げる・・・」
といったものがありますけど、
これは実に上手い表現だと思いました。
打楽器奏者の視点に立ちながらも、ラストのこの曲の閉じ方がよーく伝わってきます。

ちなみにこの小説の続編という訳ではないけど「うさぎとトランペット」という作品もありますけど、
こちらは小学生の視点から描いた作品で、
間接的に克久・祥子ちゃんも登場しています。

こちらも中々素敵な作品だと思いますよ!

ちなみにですけどこの「楽隊のうさぎ」は、映画化もされています!
21.花輪高校


C/三つの管弦楽曲~Ⅲ.行進曲(A.ベルク)


1978年に小林先生が花輪高校に赴任され、ラフマニノフの1番~ショスタコ―ヴィッチの1番~
ハチャトゥーリアンの2番~プロコフィエフの3番と
「俺が花輪の小林だっ! どだっ! 参ったかぁー!」みたいな独特のロシアマイナーシンフォニー路線を歩み、
小林先生のこの間の歩みは、まさに「軌跡は奇跡!」みたいなものだったと思います。
本当に素晴らしい名演が続出していました!
そうした順調な軌跡の中、1982年の東北大会では、ウィリアム=ウォルトンの「交響曲第一番第四楽章」を
感動的に高らかに鳴り響かせてくれて、当時、吹奏楽とかクラシック音楽なんかそれほどまだ興味がなかった私自身を
クラシック音楽の深い森の中に引きずり込むきっかけを作ってくれたのですけど、
結果はダメ金で全国大会に進めないという大変残念なな結果になったものでした。
私としては今でもそう感じるのですけど、是非是非全国大会の普門館の聴衆にあのウォルトンの孤高な世界を
聴いて欲しかったですし、出来ればあの交響曲のテーマでもある
「人間の不安感は不安をもって対処するしかない」という不安と葛藤のシンフォニーのあの重量感ある響きを
伝えてほしかったです!
そしてCBSソニーから出ている「日本の吹奏楽」というレコードという一つの記録媒体にあの素晴らしき花輪の演奏を
しっかりと刻印して欲しかったですし、
目に見える音源として永遠に記録を残して欲しかったです!

そしてその翌年に小林先生=花輪高校が自由曲として選んだ曲が、ベルクの「三つの管弦楽曲」~Ⅲ.行進曲
というものだったのです。
タイトルを初めて耳にした時の私の率直な感想と言うものは、
「そっか・・花輪高校の小林先生は前年のダメ金が余程悔しかったのかな・・」
「今までのような難曲のマイナーシンフォニー路線から、万人受けする明るく爽やかなマーチ路線に
シフトしたのかな・・」と当時は思ったものでした。
(当時高校生の自分には、ベルクみたいな無調音楽の存在は知る由もなかったです・・
 というか、マーチという曲のタイトルから「そうなんじゃないのかな・」と勝手に連想しただけです。)

だけど・・・ そう! 花輪高校の小林先生はそんな一年足らずの挫折だけで、自分のやりたい音楽を
引っ込める御方ではないのです!

でも当時は、まさかああいう無調音楽バリバリの路線で勝負を掛けてくるなんて夢にも思わなかったです。

この演奏を初めて聴いた時は、「何じゃ、これ?」という感じでした。
だってメロディーは全くないし、喜怒哀楽のような表情が全くないし、
何となく音符を機械的に割振っただけのような感じもありました。
当初は、「一体この曲のどこが行進曲なの・・?」みたいな思いで一杯でした!

このベルクの「三つの管弦楽曲~Ⅲ.行進曲」は、とてつもない陰鬱な曲でして、
この曲を耳にしただけで「生きているのが嫌になってしまう・・」みたいな感じでもありました。
前年のウォルトンの1番が「不安感」をテーマにした曲とするならば、ベルクのこの曲は、私のイメージでは
不安どころじゃなくて、絶望・死・憂鬱・負の連鎖みたいな言葉がぴったり合いそうな感じです。
さてさて、この曲は途中で視聴覚的にとてつもないインパクトを与える箇所が登場します。
何かと言うと、打楽器奏者が木製のハンマーを持ち、このハンマーでもって鉄の棒らしきものを叩きつける
場面があったりもします。
あのハンマーは、叩きつけられた瞬間に「ゴツン!!」ととてつもない残響音を発生させ、
聴く者に間違いなくインパクトと驚きは与えていると思います。
ちなみにですけど、マーラー/交響曲第6番「悲劇的」~第四楽章でもこのハンマーの叩きつけが登場しています。
参考までに・・マーラーはベルクの師匠でもあります。
マーラーの場合のあのハンマーが象徴している事は「英雄が一撃で倒されること」との事です。
ベルクの場合はどうなんだろ・・・? あのハンマーは「どうしようもない自分の運命を呪う呻き」みたいにも聴こえたりもします。

「日本の吹奏楽83」のレコードの裏ジャケットには、花輪高校の演奏写真がカラーで掲載されていて、
その演奏写真を見てみると、打楽器奏者の一人が、まさにハンマーを叩きつけている演奏箇所のようにも見えます。

結果的にこの年の花輪高校の演奏は、吹奏楽コンクールとしては銅賞という評価を得ているのですけど、
花輪高校の演奏は決して悪いものではなく、技術的には確実性があります。
1983年の同じ銅賞でも、関東一高とか日大豊山みたいな演奏と同一レベルでは絶対にとらえて
ほしくないと思います。
あの曲の難解さや鬱々とした感じが審査員に受け入れられなかった事なのだと思いますし、同時にこうしたコンクールは、
審査員の好き嫌いが間違いなくあるもんだな・・と感じたものです。

1983年前後の高校の部って、まだ普通にヴェルディとかワーグナーが自由曲として演奏されていて、
ベルクやシェーンベルクみたいな超難解の無調音楽バリバリの音楽を
自由曲にしようなんていう発想はまずありえなかったと思います。
だけどそうした従来の「吹奏楽コンクールの非常識」にあえて積極果敢に挑戦し、
「吹奏楽コンクールは常識に囚われてはいけない世界」という事を私たちに提示してくれた花輪高校の小林先生の
功績はあまりにも大きいと思いますし、
この小林先生の姿勢に、この演奏から33年後の私から、強く強く敬意を表させて頂きたいと思います。

1983年のBJ12月号の講評において、花輪高校の演奏は、とある審査員から
「あの演奏は曲解である」と評されていましたけど、この場合の「曲解」とは「音楽の解釈上での誤解」との事らしいです。
でもそれって違うんじゃないのかな・・・・?
音楽という一つの素材をどのように料理し、その素材からどのような表現をもって聴衆に自分たちが伝えたい音楽を
伝えるのかというのが指揮者の役割なのだと思いますし、
指揮者というものは自分の解釈を最大の拠り所にして音楽づくりをしていくのだと思います。
だからそうした「指揮者としての解釈」を単に「曲解=誤解」という表現でバッサリ切り捨てるのも
果たしてどうなんだろ・・と、1983年に高校生だった私は考えておりましたけど、その思いは今も全く変わっていないと
思います。
確かに小林先生=花輪の課題曲C/カドリーユは、少し風変りです。
テンポをいじくり廻しているし、この課題曲はどちらかというと前のめりみたいな感じのほうが曲のイメージには
相応しいのかもしれないですけど、花輪のカドリーユは、少し後ろのめりみたいな感じがあり、
なんとなくわざとリズムを後ろにずらしてどことなくですけど「音を引きずっている」みたいな雰囲気を
出しているのかな・・?と私的には感じております。
だけどそうした解釈は小林先生の自由な発想と音楽づくりに基づくものですし、それも一つの立派な音楽表現なのだと
思います。
(自由曲を含めて聴く人による好き嫌いがはっきりと分かれる演奏というのは私も認めますけどね・・)
指揮者がその音楽から何を感じ取り、それをどう表現するかは指揮者の自由であり、それは最大限尊重して
然るべきものじゃないのかな・・?
だって・・そんな「曲解」なんて言葉を出されてしまうと、そうですね・・・たとえばクラシック音楽の巨匠と言われる先生でも、
ストコフスキー指揮/フィラデルフィア管弦楽団のあの個性的な演奏は、まさに「曲解」だらけだと
思うのですけどね・・・・

自由曲のベルク/三つの管楽曲~Ⅲ.行進曲ですけど、
今現在の感覚で聴いても「よくこんな難解な曲をこれだけ立派に消化したもんだ・・」と舌を巻くばかりですね!
小林先生のアレンジも原曲の雰囲気を全く損なわせない素晴らしい編曲だと思います。
確かにあの花輪の演奏も、そうですね・・・たとえばカラヤン指揮/ベルリンフィルの王道的解釈から見てしまうと、
確かに「曲解」と言われてしまうのかもしれないですけど、
高校生の技術・感性でもってあそこまでベルクの「陰鬱で無機質な世界」を立派に表現していたのは
驚異的だと思います。
あの演奏を改めて聴いてみても、技術的に消化できていない箇所はほぼないと断言したって構いませんし、
トロンボーンの弱奏の幽玄極まりない音とかトランペットの勇壮さと狂ったような感じの混在感とか
全体をしっかりと支えてコントロールしている強いクラリネットセクションなどは本当に立派だと思います。
原曲は前述の通りバリバリの無調音楽なのですけど、そうした曲を演奏した楽器がたまたま管楽器と打楽器のみであったと
言ってもいいほど、原曲を尊重したというのか原曲の雰囲気を壊さずに
吹奏楽としての「無調音楽」に積極果敢に挑戦した大変意欲的な演奏とも言えるのだと思います。

最後に・・・

ブレーン社の「レジェダリシリーズ」の第一弾が発売されていた当時、
確か初回特典として「第一弾の5枚のCDを購入された方に、埋もれている名演三つを収録したCDを
プレゼント!」というものがあったと記憶していますけど、その三つの中に、
銅賞ではあるのですけど1983年の花輪のベルクが収録されていたと思います。

そうですね・・・これは私から言わせて頂くと「わかっている人はちゃんとわかっているんだねぇ・・!!」というもので、
当時の私も妙に嬉しかったものでした!
20.東邦高校


B/吹奏楽のための組曲「ハムレットへの音楽」~Ⅰ.Ⅲ(A.リード)


「とうほう」というとなんか最近の当ブログは「東方Project」の事ばかり書いていますけど、
吹奏楽でとうほうというと「東邦高校」なのかな・・?
余談ですけど、Yahoo!で当ブログの名称でもある「受け継がれるべきもの」と検索を掛けると、なぜか・・・?
補助ワードとして「ハピネスチャージプリキュア」と「東邦高校」と出てくるのはどうしてなのかな・・?

世間一般には東邦高校というと高校野球というイメージがあるのかもしれませんし、古いファンの皆様ですと、
あの「バンビくん」というピッチャーを思い起こす方も多いのかな・・とも思います・・(笑)
あのバンビくんは、最近で言うと日ハムの元・ハンカチ王子の斎藤投手とか元ヤクルトの荒木投手のような
元祖・女の子たちから人気が高く追っかけも現れた「甲子園のアイドル」の走りと言えるのかもしれないですね。
あ・・甲子園のアイドルの元祖というと、三沢商業の準優勝投手の太田投手の方が印象が強いのかな・・?
(そういえば、太田投手は「巨人の星」でも原作漫画に登場し、オープン戦とは言え星飛雄馬と投げ合い、最後は
握手までしていましたよね! 笑・・)

冒頭から話がそれました・・・

オールド吹奏楽ファンというのか・・・私の世代よりももう少し上の超(?)オールド吹奏楽ファンの皆様の視点で
見てみると、稲垣先生が指揮された「東邦高校」というのはとてつもなく懐かしい名前じゃないのかな・・?とも
思いますね。
東邦高校が順位制で優勝を成し遂げた頃の高校の部って、例えば・・・天理高校・天王寺商業・大宮工業・福岡電波
あたりがとても際立っていたと思いますし、そうした中での有力校の一つがこの東邦高校だったと思います。
稲垣先生の東邦高校の演奏は、私自身も支部大会・全国大会で拝見させて頂きましたが、
一言で言うと大変端正な指揮という印象で、稲垣先生自身はいかにも「昭和の頑固おやじ」みたいな雰囲気も
あったのかな・・とも感じたものでした。
余談ですけど、稲垣先生の吹奏楽コンクールご勇退の年は1987年で、まさに昭和が終わる直前の時代でした。
普門館最後の演奏のヴェルディの「レクイエム」も、悪く言うと「時代錯誤」みたいな雰囲気もあったのですけど、
それでも稲垣先生らしい正々堂々とした「貫禄」は十分に客席にまで伝わっていて、確かに音量過剰気味の演奏で、
評価も銅賞でしたけど、あの演奏は稲垣先生の勇退に相応しい正攻法の演奏であり、
当時普門館で直接あの演奏を生で聴いていた私の胸にもどこか熱く響いてくるものは間違いなくあったと思います。

1950年代~60年代の高校の部の吹奏楽界をリードした東邦高校も80年代以降になると、東海地区の
御三家(名電・浜松工業と商業・東海大学第一)に代表の座を明け渡すことが多くなり、
全国大会に出場する事自体が大変厳しい感じになっていたと思います。
東海支部は、たまにですけど白子高校も全国に出場していましたし、82年は、私がとにかく大好きで仕方が無くて
いまだに当ブログでも定期的にその名前を挙げている松村禎三の交響曲を演奏した屋代高校みたいな新鋭が
代表の座を掴むこともありましたし、当時の状況は結構厳しかったのかもしれないですね。
そうですね・・・・東海大一がダメ金の時とか、浜松工業を長年指導されていた遠山先生が浜松商業に異動された前後の頃に、
東邦高校が「漁夫の利」みたいな感じで(?)代表になるというパターンがこの当時はあったような気もします。

1983年は、78年の「カディッシュ」以来だから5年ぶりの全国大会出場を果たしていました。

そうそう、この当時の東邦は、まだ男子高校でしたけど、サウンドが意外と柔らかく、クラリネットの音色が
非常に美しかったのが印象的です。
よく言えば、非常によく統率されていて端正で、演奏自体は特に大胆な解釈とか表現はとらずに
どちらかというとオーソドックスな演奏をしていたと思います。1960年代のような正統派の正攻法の演奏スタイルだったと
感じ取れます。
悪く言うと、指揮者の棒の通り吹いているという感じの演奏でした。
(指揮者の先生の言われたとおりに吹くという雰囲気は、1981年の逗子開成みたいな雰囲気に近かったような印象もあります)
少しこじんまりとまとまり過ぎているというか、若干スケールに欠けるとか
「盆栽」みたいな演奏になっていたのは惜しまれますし、時代は既に80年代に入っていた訳ですから、
もう少し個性とか奏者の自発性とか積極性も出して欲しかったようにも思えます。
サウンド自体は大変音に透明感があり技術的には特にいう事はない演奏だとは思えます。

課題曲の白鳳狂詩曲は、もう少しサウンドにうねりとスケールの大きさを伝えてほしかったですし、
どちらかというと無難にまとめ過ぎこじんまりとした演奏になっていて、
私の印象としては「少し消極的な表現なのかも・・」と感じたほどでした。
木管セクションが優秀なんだけど、課題曲前半のクラリネットとピッコロの掛け合いの部分がもたつくようにも
聴こえましたし、金管の破裂音も少し気になったものです。
自由曲の「ハムレットへの音楽」は、プロローグとエルシノア城あたりは、大変丁寧で誠実な音楽づくりをされている意図は
とてもよく分かるのですけど表現自体はかなり淡白すぎて、もう少し「歌って欲しい・・!」と感じたものでした。
少し淡々と進行しすぎていたのかもしれないです。
この部分を例えば1984年の野庭とか88年の市立川口のたっぷりと歌い込んだ演奏を一度聴いてしまった後に
東邦のハムレットを聴くと、いかに東邦が淡白なのかはわかって頂けると思います。
Ⅲの役者たちの入場のクラリネットセクションの優秀さと美しさは際立っていると思います、
Ⅰの後半部分のクローディアス王の宮中も、ラストは大変高らかに鳴らして歌い上げていましたので、
この辺りの追込みは「さすが名門校!」みたいな貫禄は感じさせてくれていたと思います。
個人的にはラストのチャイムはもっと盛大に鳴らして欲しかったし、金管はもっと音量があってもよかったと思います。

翌年のジェイガーの交響曲の際は、83年とは逆に幾分「荒っぽいドライヴ」の演奏になっていて、
あれはまさに「豪快なやんちゃな男子校」みたいな演奏でして、83年との違いが感じられて大変興味深かったです!
東邦は確か、1985年以降から男女共学になったと思います。

東邦高校って面白いのは、毎年そうなのですけど、演奏が終了すると同時に、小太鼓が「タンッ」と一叩きして
奏者全員が間髪入れずに立ち上がるというスタイルがありましたけど、
あれは東邦の「伝統」だったのかな・・・?
指揮者の稲垣先生が勇退された最後の全国大会の1987年のヴェルディ/レクイエムの時も
ああいう感じで演奏を閉じられていたのは大変印象的でした。
私が中学生くらいの頃って、こっくりさんとか口裂け女とかノストラダムスの大予言とか
世間的に「オカルトブーム」が起きていたような気もします。
そうですね・・・あの雰囲気は「東方Project」の「東方深秘録」における各キャラたちが各自がチョイスした都市伝説を
元ネタにして展開していたあの世界観を彷彿とさせるものがあったのかなと思います。
当時爆発的に売れていた「ノストラダムスの大予言」においては、1986年に惑星一直線が起きて第三次世界大戦が
勃発するとか1999年に太陽系の惑星がグランドクロスを起し、その十字架の中心にいるのは地球自身で、
その年にこそまさに黙示録とか旧約聖書で提示されているような「最後の審判」が起き、全人類が滅亡するみたいな事を
盛んに煽り立てていて、当時の中学生・高校生たちあたりに相当のインパクトはあったのかな・・・と
今にして思うと感じる事があります。
ま・・結果的に1999年7月の「恐怖の大王が降臨」とか「全人類滅亡」と言うのはとてつもないガセネタであったというのは、
ま・・・皆様、既にご存知の通りの話だと思います。
余談ですけど、1999年7月は、当時私が在籍していた金融機関が破綻認定を受けて、結果的に倒産みたいな
事になってしまった年月日でもあるのですけど、当時あの金融機関に在籍していた人たちは、
まさにあの破綻認定こそが「恐怖の大王降臨」と言えるのかもしれないですね・・・

私が子供の頃は、「人類滅亡」の主要因は、宇宙人による地球侵略なんて荒唐無稽な事が
むしろ当時の子供たちの主なイメージと言えたのかもしれないです。
大きくなるにつれて、人類滅亡の原因は果たして何なのかな・・・と考えた時、
やはり考え付くのは、①核戦争の悲劇 ②環境破壊ではないのかな・・と思ったものでした。

そうした事を吹奏楽からアプローチした作品の一つが、カレル・フーサの
「この地球を神と崇める」という大変な超大作なのではないかと思います。
フーサと言うと「プラハのための音楽1968年」と言う大変政治的メッセージ色の強い曲が一番最初に
思い浮かぶ方も相当多いとは思うのですが、
「この地球を神と崇める」という作品もフーサにとってまさに神がかった渾身の名作だと思いますし、
政治的メッセージというよりは「全人類への最後の警告」みたいな感じの一曲だとも思いますし、
まさにこれは絶対に忘れてはいけない素晴らしい吹奏楽オリジナル作品だと思いますし、
私たちが絶対に忘れてはいけない曲で、後世の人たちに永遠に受け継がれて欲しい作品だと思います。

前述の通り、フーサは、「プラハのための音楽1968」という大作で、吹奏楽コンクール等でもすっかりお馴染みの
作曲家の一人だと思いますけど、
「この地球を神と崇める」という作品は、あまりにも難解なテーマ・難しいテクニックと表現方法によって
長らく吹奏楽コンクールでは全く見向きもされない作品でしたが、
1993年に都立永山高校がこの曲を自由曲として取り上げ、そして歴史的名演を残してくれた
おかげで、この曲が一気に認知されていったようにも思えます。
「プラハのための音楽1968」は、当時の「チェコ動乱」→ソ連軍侵攻とチェコ国民の苦悩と怒りを
音楽として取り上げたものですけど、
題材は「チェコスロバキア」というあくまで一国をクローズアップしたものでした。

「この地球を神と崇める」は、チェコスロバキア一国という問題にとどまらず
人類全体、いや地球全体の問題提起としてこの曲を作曲し、
「この美しい地球の環境破壊を果たしてこのまま放置して本当に良いのか・・・」という事を
既に1970年代の時点から「吹奏楽作品」という音楽を通して「メッセージ」を伝えた事は
大変意義が大きいと思います。
現在の地球環境の激変・温暖化現象・PM2.5・世界各地の公害・異常気象などは
一国政府だけで解決できる簡単な問題ではないはずです。
世界各国が「共通問題」として最優先に取り組むべき課題の一つだと思うのですが、
自国の利益・利害調整の壁に阻まれ、なんら有効な対策を一つも打ち出せていない・・・
こうした事態・現象に、既に40年前から音楽を通して「警告」を発してきたフーサの「先見の明」は
大変なものがあると思います。

全体として25分前後の曲なのですけど、聴くだけでかなり気分は重くなります・・・
決して「気軽」に聴ける音楽ではありません。
だけど作曲者からの「強いメッセージ」は痛いほど伝わってきます。

フーサ自身が、スコア冒頭に、かなり長めの文章を掲載しています。

簡単に記すと・・・

この曲は、いまの人類が直面する様々な問題――戦争や飢餓、種の絶滅、環境汚染などが動機となって生まれた。
この美しい地球の破壊や荒廃が、幻想に終わることを祈るばかりである。

 第Ⅰ楽章 地球は宇宙の中の点として描かれ、次第に大きくなり、悲劇を予感させる。
 第Ⅱ楽章 放射能で破壊され、傷ついた地球が描かれる。
 第Ⅲ楽章 地球は宇宙の彼方に砕け散る。奏者は「この美しい地球」と声に出す。
         そしてこんな疑問が浮かび上がってくる
        「なぜ、私たちはこんなことをしてしまったのだろうか?」・・・

「プラハのための音楽1968」は、具体的な事件に対する「チェコ国民の怒り」をテーマにした
ある意味具体的な内容の作品なのですけど
「この地球を神と崇める」は、非常に抽象的な内容なのだけど、強いメーセッジ性を有しています。
一言で言うと、この曲は「地球の泣き声、慟哭」なのではないかな・・とも思えます。
環境破壊に蝕まれた地球自体からの「悲痛な叫び」を強く感じてしまいます・・・

だからこそ、この曲を25分間聴き続ける事は非常にしんどいのだと思います。

マーラー/交響曲第8番「一千人の交響曲」は、地球、いや宇宙の振動・鼓動を描いた作品ですけど
フーサの「この地球・・・」は地球の慟哭なんですよね・・・・

「この地球を神と崇める」は、以下の三楽章から構成されています。

Ⅰ.神と崇める

Ⅱ.破壊の悲劇

Ⅲ.終章(エピローグ)

この曲を生で初めて聴いたのが、1993年の都大会の都立永山高校でしたけど
その都大会のプログラム表記を見てみると、

「この地球を神と崇める」より、Ⅱ.破壊の悲劇 Ⅲ.終章~なぜ私たちは・・・・・
と記されていますけど、
「なぜ私たちは・・・・」は正式タイトルではないはずだから、これは永山のいかにも馬場先生らしい
メッセージなのかもしれませんよね。

吹奏楽コンクールでは、ⅡとⅢのカップリングが多いのですけど、
この曲の真骨頂は、実はⅠなのかもしれません・・・
その位、最初から「衝撃度」が計り知れない曲なのです。

Ⅰは、静かなクラリネットのソロから曲は始まり、次第に他の管楽器や打楽器が
加わっていき、緩やかに曲は盛り上がっていきます。この楽章は終始、不気味かつ
神秘的な雰囲気が保たれているのですけど、途中でチューバ等低音楽器の大胆な使用もあって
その静と動の対比は半端ないものがあります。
Ⅱは、一変し、強烈な打楽器から始まっていきます。
破壊の悲劇というタイトルのように、管楽器は様々な旋律を荒々しく奏で、
そして打楽器の激しさが、破壊の規模に拍車を掛けていきます。
Ⅲは、破壊した地球が宇宙を漂う姿を表したものです。
Ⅰと同じように不気味な雰囲気を醸し出しつつ、曲は静かに進むのですけど無機質に曲は
進展していきます、
そして、その空間に「This beautiful Earth・・・」という言葉が響き渡り、
ラストはシロフォーンの弱奏で静かにフェードアウトしていきます。

とにかくこの難曲は演奏する方も聴く方も大変エネルギーを要する曲だと思います。

この曲の吹奏楽コンクールの演奏と言うと、磐城高校も大変素晴らしいものがありますけど、
やはり1993年の都立永山高校の歴史的名演が大変印象的です!

都立永山の演奏は、都大会も全国大会も生演奏で耳にしたのですけど、
とにかく「衝撃度」がすさまじかったです!
確実に私の中に「何か」を伝えてくれました!!
「この地球を神と崇める」という曲があるのは随分以前から知識として知ってはいましたけど、
この曲のレコードやCDも見当たらず、
演奏会やコンクールでも演奏される事はまず無い曲でしたので、
都大会の永山高校の演奏で、この曲を初めて聴いたというのが正直なところです。

都大会を通過し、全国大会に進んでも
正直自分の内心では不安な点もありました。
というのも、都立永山は、1990年のプラハ、91年の「火の鳥」、92年の「オード」と
都大会では素晴らしい演奏を聴かせてくれるのに
なぜか全国大会では緊張するのか、「よそいき」の演奏になってしまい、
都大会で聴かせてくれたような「自由さ」とか「メッセージ性」が今一つ伝わりきれていない杞憂が
あったからです。
この日も永山の演奏が始まる際は、心の中で
「どうか彼らが都大会のような演奏が出来ますように・・・普段通りの演奏が出来ますように・・・」と
祈っていましたけど、全国大会の本番では、ついにやってくれましたね!!

都大会以上に大変満足できる演奏であり、
Ⅱの衝撃度、Ⅲの静粛さの対比も申し分なく
確実に全国大会での聴衆にも間違いなく「何か」を伝えてくれていたと思います。

ラストの女子生徒による「This beautiful Earth・・・」の呟くようなボイスもとても良かったです。
(このボイスはソニーの実況盤CDにもしっかりと収録されています)
シロフォーンの繰り返しによるフェードアウトで曲が閉じられていくのも実に効果的でした。








私、この曲の全曲版CDを持っているのですけど
これ完全な輸入盤でして、日本語解説が入っていないし
語学力が全くない私にとっては、何が書かれているのかさっぱり分かりませんし、
実は、上記のCDの演奏団体も指揮者も一切不明なのです・・・

多分、1985年にオランダで開催された何かの「音楽祭」である事は
間違いないと思うのですけど・・

だけどこの二枚組CDに収録されている「この地球を神と崇める」は
録音も残響音も非常に素晴らしく、気迫溢れる素晴らしい演奏だと思います。
他にリードの第三組曲、ショスタコの交響曲第9番の吹奏楽アレンジ版
ネリベルのトリティッコアンドリューセンのシンフォニアなどが収録されています。
ちなみにですけど、クラシック音楽のCDというものは楽章ごとにトラック番号が付けられているのですけど、
この輸入盤は、楽章ごとのトラックが打たれていないから、
フーサの曲もショスタコーヴィッチの交響曲も、曲一つに「一つのトラック番号」とかついていないから、
例えば第三楽章から聴くという当たり前のことが出来ずに、大変面倒な面があるのは
難点なのかもしれないですね・・(苦笑・・)

全然関係ないのですけど
昔、星新一のショートショートの一つに題名は忘れたのですけどこんな話がありました。
ある高名な博士が大変な時間と資金を使って「大発明」を為し遂げたというけど、その発明品とは
ロボットみたいな像が立っているだけで、へその辺りにボタンのようなものが付いている。
人々は好奇心でボタンを押してみるものの、
そのロボットは面倒くさそうに、押されたボタンを元に戻す事しかしない・・・
博士は病院送りとなり、そのロボットも駅前に置かれたまま放置され、
時折いたずら者がへそのボタンを押して、そのロボットはボタンを押し戻す・・・
そうした事が何年も続いたが、
ある日世界に核戦争が勃発し、全人類は絶滅した・・・
そのロボットには実は「ある使命」を持っていて
へそのボタンを一定期間押されなかったら人類は滅亡したものと認知し、
そのロボットから地球と人類に対する「レクイエム」が流されていく・・・・
そんな感じのストーリーでしたけど、
この世界観は、まさにフーサの「この地球を・・・」のⅢ.エピローグの世界と何か重なるものがありますね。

もしもこの世に天使とか精霊がいたとしたら、核戦争・環境破壊で自滅した人類を見たとしたら
「こいつらバカだなぁ・・」と感じるのかもしれないですね。

この一つ後の記事がアミグリさんが先月描かれた創作オリジナル作品の「ハッピー」をメインに据えさせて
頂いたものですが、
今回取り上げさせて頂く吹奏楽オリジナル作品のタイトルが「ジュビラント」=「歓喜」という事で、
「ハッピー」に繋がる部分もあると感じましたので、あの「ハッピー」の前にくる記事として相応しいのかな・・と思い、
このリードの「ジュビラント序曲」をここに取り上げさせて頂きたいと思います。
そしてこの曲は、後述しますけど、私にとってはある意味記念碑的な曲なのかな・・とも思ったりもしています。

まずはじめにリードの「ジュビラント序曲」の事を簡単に説明させて頂きます。

この曲は、まさに初期のリードらしい簡潔なA-B-Aの三部構成として書かれていて、
パンチネルロ・インペラトリクス・春の猟犬と共通の世界観があるのかなぁ・・と感じさせてくれます。

この序曲は、1969年の春に作曲され、サム・レイバーン高校吹奏楽部に捧げられた曲で、
期待や可能性、若者たちの自然な熱狂をまさに絵に描いたような曲でもあり、
季節感としては「春」というイメージが大変強いと思います。

少し話はそれますが、当ブログでは「dream fantasy」のアミグリさんが2011年に描かれた
創作オリジナルイラストの「flower」を何度か転載させて頂いておるのですけど、私の中では
リードの「ジュビラント序曲」をイメージさせるイラストが
まさにあのアミグリさんが描かれた「flower」なのではないのかなぁ・・と実はだいぶ前から思っていたものでした。

話を「ジュビラント序曲」に戻しますと、
この曲はタイトルの「ジュビラント」(歓喜)が示すように、基本は2/4拍子で、曲の両端のアレグロは
まさに「ハッピー」を思いっきり音にしたような「音楽の喜び」・「楽しさ」が表現されていると思います。
冒頭から既に「キュッとしてドッカーン!」みたいに爆発的推進力で溢れかえっていると思います。
そしてこの曲は後述しますけど、前半は「ソロ・クラリネット」が全体をリードし、このクラリネットのメロディーに乗っかる形で
他の木管・金管が絡んでいきます。
そして中間部は4/4拍子に変り、これが実に美しいですし、まさに「希望」と「ロマンチック」を絵にしたような
曲でもあります。
そして前半のAの再現部を経て、フルートのソロを経て、一旦曲が弱まったのを見透かしたように
突然のとてつもないfffが待ち構えていて、そしてそこから先は一気呵成に華やかにラストまで追い込んでいきます。
6分程度の大変短い曲ではありますが、とにかく聴きどころが満載で
聴いていてとってもとっても楽しい曲だと思います。
だけど・・クラリネット奏者、特にソロクラとファーストは大変だと思います・・

さてさて・・上記でちらっと書いた通り、この「ジュビラント序曲」は、私にとっては
私自身がチェンジする一つのきっかけになった曲となりました。
その意味では私にとってはまさに記念碑的な一曲と言えるのかもしれません。

高校の吹奏楽部に入部して間もなくの頃、
「あれぇ・・? 自分のクラリネットの音色は全然クリアじゃないし、むしろ濁っている」と
自分の下手さにすぐ気が付き「これはまずい・・・」と思い、
とにかく先輩達に改めて一から教わりながら、アンブシュア・正しい呼吸法・ロングトーン・リードの調整法などを
とにかくひたむきに吸収していったと思います。
多分・・・・あの頃が私が10年間の奏者の中で一番真面目にひたむきに余計な事を考えないで
「クラリネット」に向き合っていた時期だと思います。
そしてあの頃は、教室とか廊下で、メトロノームを相棒にして、とにかくロングトーンをしまくっていたというか
「まずは自分が一番美しく出せる音はどの音だろう・・・」と考え初め
「中音域のCの音か・・・」
「それではCの音が美しく出せるようになったら次はDの音・・・」というように
当時の先輩たちの「美しい響き」を見よう見まねで吹いていき、
とにかく「美しい音」を一つの音でもいいから出せるようにしていこう・・!!としていったものです。
12月~2月頃なんかは、田舎の貧乏県立高校ですから授業と同時にだるまストーブは消されてしまうし、
廊下とか教室はとにかく寒かったですけど、セーターの上にジャンパーとかどてらを羽織ってとにかく厚着しまくりで
練習というかロングトーンしていたのはなつかしい思い出でした!
当時の私の感覚としては、「音楽の優しさも甘美さも厳しさも楽しさもまずは音色から」という意識が大変強く、
音楽の表現以前にまずは「自分のクラリネットとしての音をどうすれば美しく響かすことが出来るのか」という事ばかり
考えていたと思います。
そのために、まずは「たった一音でもいいから、これが自分のクラリネットの音だ!!」というものをつくりあげていこう!という
想いが大変強く、その一音をうまく出せれば、次の音、その次の音という感じでどんどん「自分の音」を
作っていけるんじゃないの・・?みたいな意識はあったのだと思います。
そうですね・・この感覚は、まさに「響け! ユーフォニアム」【第一期】第12話の
久美子の「うまくなりたい! うまくなりたい!」と泣きながら京都の夜の街を駆け抜けていったあの心境と
少しは重なるものがあるんじゃないの・・?みたいに思う事もあります。

さてさて・・・そうした中、高校2年の定期演奏会の曲目が決定し、ファーストステージの「吹奏楽オリジナル作品ステージ」の
一曲目がまさにこのリードの「ジュビラント序曲」だったのです!
私の高校は男子校で慢性的なクラリネット奏者不足に悩まされ続けていましたけど、
当時、一人とてつもなくクラリネットが上手い先輩がいて、
この先輩が吹くクラリネットの音色が、当時の私にはまさに「憧れ」みたいなものでしたし、
まさに身近の偉大なるお手本みたいな存在でした。
そしてこの「ジュビラント序曲」に関しては、私とその先輩が「ファーストパート」というタッグを組む事となり、
私がファースト、その先輩がファースト兼ソロ担当という事になりまして、
当時の私としては、同じ曲で同じファーストを担当する事で、その先輩の間近にいるという事を最大限利用させて頂き、
その先輩の吹き方、マウスピースのくわえかた、ブレスのとりかた、
とにかく・・その先輩が吹く「ジュビラント序曲」を私自身が思いっきりマネさせて頂いたという形になったと思います。
「どうすれば美しい音を出せるのか・・・」と試行錯誤の末、その先輩のパクリに近い感じはありましたけど、
レガート奏法みたいなダーダー吹きみたいな感じの方が
何か美しく響くかな・・・自分には合っているのかな・・と思えるようになり、
結果として・・・・自分のクラリネットの音色は「リズムが甘いベタベタ吹き」みたくなってしまいました・・・・
大学の吹奏楽団に入団して「確かに音自体は大変美しく鳴らせてはいるけど・・」と前振りがあった上で
「ヘンな奏法を身に付けちゃって・・・・」とよく指摘されてはいましたけど、
やはり高校時代のあの先輩の奏法とかクラリネットの音色に私自身は相当影響されていたと思いますし、
身近に上手い先輩がいた事で「どうすればクラリネットを美しく響かせることができるのか・・」という意識を
常に持つようになり、まさに私自身が「チェンジ」する一つのきっかけとなったのが
間違いなくこのジュビラント序曲なのだと思います。

最後に・・・

この「ジュビラント序曲」の歴史的名演は、1976年の瑞穂青少年吹奏楽団に尽きると思います!

この演奏はなんと・・! 5分30秒と一気に畳み掛けるスピード感溢れる素晴らしい名演だと思いますし、
前述のクラリネットのソロが本当にめちゃくちゃ上手いと思います。
この曲は作曲者のリードが東京佼成を指揮して自作自演の演奏もCDとして残していますが、
テンポが意外とゆっくりで
瑞穂みたいな「若々しい」感じではなくて「大人としての演奏」を聴かせてくれています。
またとてつもなくマイナーな話ですけど、関東大会B部門で結果として銅賞なのですけど
新潟の六日町高校も荒々しさと瑞々しさが混在した大変面白い演奏を聴かせてくれていたと思いますし、
ソロクラリネットの女の子が半分立ち上がったような雰囲気で腰を浮かしながらの
必死の演奏スタイルが当時極めて印象的に映りました!
19.明石北高校


C/歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊り(A.ボロディン)


1983年の明石北の素晴らしい名演については、「ダッタン人の踊り」という事で「響け! ユーフォニアム」絡みとか
当時の明石北の女子生徒の天女みたいな水色制服絡みとか
私自身の「ダッタン人の踊り」の演奏経験とかで既に何度か散々語っていましたので、
今回の記事は、そうした過去記事の総集編みたいなものと思って頂ければ幸いです・・・(笑)

1983年の明石北の指揮者は、後年兵庫高校の指揮者も務められた松井隆司先生でしたけど、
兵庫高校における俗にいう「松井節」という前任者の吉永陽一先生も真っ青のとてつもなく個性的でアクの強い演奏を
私たちに聴かせてくれていたのですけど、
この年は、後年の兵庫高校のようなアクの強さは抑制気味で、
課題曲・自由曲共にスタンダードで、どちらかというとチャーミングな正統派の演奏を聴かせてくれていたと思います。
あ・・・だけど、課題曲のレガート奏法を少し強調したようなダーダー吹きの感じなんかは、既に「他校とは違う個性」は
感じさせてくれていたと思います。

課題曲カドリーユも、非常に軽快で可愛らしいのですが、
リズムセクションのトロンボーンがかなりダーダー吹きに、後押し気味に吹いていたのが
なぜか印象に残っています。
どらちかというと野庭高校みたいな解釈に近いような感じもありましたけど、習志野みたいな女子高生のような可愛らしさも
私たちに伝えていたと思います。
自由曲の「ダッタン人の踊り」も難曲を全然難曲に感じさせない程自然に楽に吹いていたのが
印象的です。
この曲は、昔からよく自由曲として取り上げられていましたけど、
金賞を取るのが意外と難しく、半数以上のチームは銅賞を受賞しています。金賞は、記憶に残る限りでは
この明石北と今津中くらいかな・・・?
惜しい銀賞が福岡工大付属だと思います。
課題曲度同様に、ややダーダー吹きというか、レガート気味に奏していたのが
他校とは違う「個性」みたいなものを感じさせていたと思います。
全体に音に切れと躍動感が漲っていて、スピード感と軽快さが両立している演奏です。
以前も書きましたけど、この年の高校の部に順位を付けるとしたら、明石北は、高岡商業・淀工に続いて
野庭と3位争いに食い込むような演奏だったと思いますし、高校の部の中でもハイレヴェルの文句の付けようがない
素晴らしい名演だったと思います。

改めてですけど、明石北のあの「ダッタン人の踊り」は、まさしく歴史的名演!!だと思います。
演奏のどこにも「弱み」がありませんし、フルート・オーボエ・コールアングレ・クラリネット等のソロもほぼ完璧で、
何よりもあのしっとりとした「情緒」は、本当に聴く者に「感涙」を与えさせてしまうほどの
とにかく「感動性」に溢れた素晴らしい名演だったと思います。
この曲をクラリネット奏者として吹いた私から言わせて頂くと、この曲は本当にクラリネット奏者にとっては
技術的に大変難易度が高く奏者泣かせの曲の一つだと思います。
(ダッタン人以外としては、クラリネット奏者泣かせの曲として名高いのは、シュトラウスの喜歌劇「こうもり」序曲なのかな・・?)
だけどそうした難曲を聴衆に「難しい・・」と感じさせることなく楽な気持ちでしかも感銘深く格調深く
音楽としての「聴かせどころ」が満載に聴かせてくれたこの年の明石北の演奏は、
まさに稀有な歴史的名演と言えるのだと思います!




CIMG9902_convert_20160816193053.jpg





明石北高校というと、絶対に忘れてはいけないことが一つあります!!

それが何かと言うと、女性奏者の制服が、まるで「宝塚」を彷彿とさせるような
とっても可愛い水色のワンピースの制服!! とにかく個性的なユニフォームで、あれは・・・
まさに・・・
「天女」みたいなステージユニフォームだと思います!
本当にあの水色の制服は可愛くて素敵ですよね!

確か聞いた話では、あれは夏用制服で、秋に開催された普門館の全国大会のステージでは
女性奏者は普通のブレザー制服で演奏されていたと記憶しています。

1991年と1997年にも明石北は全国大会に出場しているのですけど、
残念ながら、女性奏者のステージユニフォームは、1983年の水色のあの天女みたいなユニフォームでなかったのは
少し惜しまれます・・・・(笑)
ま・・・全国大会は既に「秋」の季節だから、夏用制服のあの水色の天女みたいな制服でステージに立つことは
元々多分ありえない話だと思うのですけど、一度ぐらいは
是非生で見てみたかったような気もします。

私が1984年に都内の大学に進学し、そこの吹奏楽団に入団した際に関西出身の女の子がいましたので
当然ながら・・・・(?)
この「明石北」の制服について聞いてみたのですけど、
「え・・・明石北の女子生徒の制服は普通のブレザーやねん・・・、あれはちゃうで・・・
あれはあくまで夏限定やわ・・・」とか言っていましたので、
多分そうなのでしょう・・
松井先生指揮での明石北の普門館再登場も当時とてつもなく期待していたのですけど、
松井先生はその後兵庫高校に異動されましたので、
あの天女みたいな水色の制服も松井先生指揮での演奏もお目にかかる事はありませんでした・・

ちなみにですけど・・・・

明石北高校のその水色ワンピースのステージユニフォームは、「バンドピープル」のバックナンバーに
何度か登場していますけど、
やっぱりあれは、今改めて見ても斬新なデザインですね!!
最近の高校生・・特に女子高生の皆様の制服って本当に可愛くて素敵なものばかりが多いですよね!
いわゆる「デザイン系制服」みたいなものを指定制服とする学校も随分と増えてきたと思うのですけど、
私が高校~大学の学生さんだった頃って、こうした「デザイン系制服」自体がまだまだ珍しい時代でもありましたので、
こうした明石北みたいなデザイン系みたいな可愛い制服自体が大変貴重だったと言えると思います。
バンドジャーナル・バンドピープルといった吹奏楽月刊雑誌の毎年11~1月号の「吹奏楽コンクール特集記事」において、
出場チームの写真が掲載される事もかなりあり、
私が田舎の県立男子高校の時に、既にこうした吹奏楽雑誌にて「明石北高校」のあの天女さんみたいな制服は
既に掲載されていて、
よく男子部員と共に・・・
「あーあ・・・こんな可愛い制服の女子高生と同じステージで演奏したいよなぁ・・」とか
「それにしてもこの制服可愛いよな・・」
「あんな可愛い制服の女の子と××したいよなぁ・・」
とか色々と健全orよからぬ妄想ネタで盛り上がっていたものです・・・(笑)

ちなみにですけど、上記画像は、1988年11月号の「バンドピープルの掲載写真です。

そうですね・・今現在の感覚・視点で見てみると・・・
「別に大したことないじゃん・・」と思われる方が多いのかもしれないですけど、とにかく・・・
私が現役奏者の頃は、珍しかったですし、とっても貴重だったのです!!
ちなみにですけど、当時の明石北のあの素敵な夏服制服は1990年代に入ると廃止になったとの事で
「なんか勿体ないなぁ・・」とも思ったりもしますね・・(笑)
確か私の記憶では90年代に一度だけ明石北が「復刻版シリーズ」とかであの天女みたいな制服を一年限定で
着用されて吹奏楽コンクールに臨んでいたと聞いたことがありましたけど、
そうした復刻シリーズは是非是非来年以降のコンクールでもお披露目して頂きたいものですね! (笑・・)
「ベリーを摘んだらダンスにしよう」は1994年の吹奏楽コンクール課題曲Ⅰです。

いや~、自分で言うのもなんですけど、とっても懐かしい課題曲ですね。この課題曲が吹奏楽コンクールで
演奏されていた頃は、私が吹奏楽コンクールを卒業してから既に7年の歳月が流れていましたけど、
この課題曲は、「自分が現役奏者の頃だったら絶対に演奏してみたい課題曲の一つ」だと思います。
既にこの年のコンクールから22年以上経過しているのですけど、この課題曲の素晴らしさは永遠に受け継がれていくといいな・・
と思っています。そのくらい大好きな課題曲の一つです。
先ほど自分が現役奏者の頃だったら絶対に演奏してみたい課題曲の一つ」と記しましたけど、この課題曲以外では、
90年のランドスケイブとか92年のフューチュリズムとか98年の稲穂の波とか00年の道祖神の詩とか01年のSLが行くなどは
一度は吹いてみたい課題曲の一つですね。

1994年の吹奏楽コンクールの一年前の1993年のコンクールでは、吹奏楽連盟としてかなり大胆な改革が断行されまして、
その最大のものが、従来の課題曲は書き下ろし作品とマーチが混在される形だったのですけど、
93年以降は、奇数年の課題曲はマーチのみ、偶数年の課題曲は比較的長めのマーチ以外の書き下ろし作品のみ
という事になり、それが結構最近まで続く事になりました。
最近のコンクールは、従来型に戻し、マーチと書き下ろし作品が混在型という形式になりましたけど、
私はこの方がしっくりくるような気もしています。
吹奏楽コンクールの一つの矛盾点と言えるのかもしれないのですが、課題曲と自由曲において、技術と表現という
二つの審査基準から採点がされていき、その採点の高い順から金・銀・銅が振り割れられていくのですけども、
例えば1984年の課題曲のように、課題曲A/変容-断章みたいに技術的にも音楽表現的にも大変難易度が高く
演奏する事自体が大変困難な曲があったかと思えば、課題曲D/マーチ「オーバスワン」のように技術的に大変易しいという
課題曲もあったりして、極端に難解な課題曲と極端に平易な課題曲を単に課題曲の採点」という同じ土俵に乗せて
審査するのは果たしてどうなんだろう・・と思う事も実はふとあったりもします。
当時の吹連が意図していた事は、もしかして当時の私が考えていた事と同じことを吹連が考えたのかな・・?とも
思ったりもしたものですけど、易しいマーチならばマーチとしての審査基準、難解な課題曲に対する審査基準が
それぞれ明確に定まっていれば理想的なのかもしれないのですが、
音楽に対する感じ方・捉え方は人それぞれですので、そうした価値基準自体を明確化する事自体に無理があるのかな・・とも
思いますし、こうしたコンクールのいい所でもあり悪い所でもあるのですけど、
そうした「多様な価値観」を一日のコンクールでその違いを楽しむところにあるのかな・・とも思っています。
とにかく当時の吹連としては、課題曲の審査に対して、マーチとマーチ以外に分ける事で、
そうした難解な課題曲と平易な課題曲のアンバランスの解消を図ったという意図が当時はあったのかもしれないですね。

私のようにオールド吹奏楽ファンですと、いまだに課題曲の呼び方はA~Eという表記の方がしっくりきて
現在のⅠ~Ⅴみたいな表記は、実は未だに違和感があったりもします・・(苦笑・・)
ちなみにこの課題曲の呼称が現在のⅠ~Ⅴみたいな表記に変更されたのは1993年の話です。

93年の課題曲はマーチのみで、正直そんなには吹連としての改革みたいな雰囲気は感じなかったのですけど、
94年の課題曲はマーチ以外の書下ろしのみで、この年をもって
「ああ、吹連はやっぱり制度改革を断行したんだ!」みたいな感覚があったりしたものです。
そしてこの年・・・94年の課題曲は、四曲ともかなり難解でしかも長大なものばかりで、
Ⅳの雲のコラージュは6分半~7分程度、ⅠとⅢは6分程度の課題曲としてはかなり時間が長く、
おかげでこの年の自由曲は軒並み5分程度になってしまうというとてつもない珍現象が起きていたものです・・・
その関係で、この年は演奏時間が4分半程度のキャンディード序曲と演奏時間が5分程度のスペイン狂詩曲~Ⅳ.祭りが
異常に演奏頻度が高くなってしまうという現象も起きていたものでした。
そして多分ですけど・・・私が知る限りにおいて、過去から現在の吹奏楽コンクール課題曲の中で
最も演奏が困難で技術的に難易度が高い課題曲こそが、この年・・・1994年の課題曲Ⅲ/饗応夫人なのだと思います!
あの饗応夫人のソロ楽器・・ファゴット・テナーサックスなどを担当した奏者はマジで大変だったと思います・・

それにしても1994年の吹奏楽コンクールを聴衆の立場として聴くと、正直・・この年ほど
「聴くのが嫌になるコンクール」はなかったと思います。というかあの年のコンクールは聴く事自体が苦痛だったのかも・・?
その苦痛の原因の99%は、あの大変な難曲で嘲笑的で分かりにくくてしかもとてつもなく長い「饗応夫人」と
私が吹奏楽コンクール史上一番大嫌いな課題曲の一つである「雲のコラージュ」を何度も何度も嫌でも聴かされることに
あったのかもしれないです・・・(苦笑・・)

そして残念なことにこの年の課題曲はⅢの「饗応夫人」とⅣの「雲のコラージュ」に人気が集中してしまい、
あのⅢとⅣを聴くたびに
「うーーん、頭いてぇ・・・」という状態になったものです・・・

輪を掛けて課題曲Ⅱ「パルスモーションⅡ」もその内容のあまりのくだらなさに、嫌気が差していましたね・・

さてさて、そんな中、正直それほど数多くのチームが選んでいた訳ではないのですけど、
ⅢとⅣの課題曲が続いていた中で、たまーにこの課題曲Ⅰ「ベリーを摘んだらダンスにしよう」が演奏されると
気分としては、まさに「地獄に仏!!」みたいな感覚を当時覚えていたものでした。
この課題曲Ⅰを演奏するチームを見ると、何かホッ・・とするものが間違いなくあったと思います。

間宮芳夫氏の吹奏楽コンクール課題曲は、90年の「カタロニアの栄光」とか
86年の吹奏楽のための序曲とか、どれも魅力的な素晴らしい曲ばかりです。
間宮氏の課題曲は、吹奏楽のための序曲を除くと、打楽器にティンパニを使用しないというのが
面白い特徴のような感じもあります。
間宮氏の意図としては、曲の重低音感を回避し、特に「ベリーを摘んだらダンスにしよう」は、
天国的な色彩と言うのか、フワッとした感じとか、のんびりとした感じ、ほのぼのとした雰囲気を醸し出したかったのでは
ないのかな・・?みたいな意図も感じたものです。
音楽評論家で激辛コメントで有名な上野晃先生は、なぜか知りませんけど
吹奏楽コンクールの審査員とか吹奏楽雑誌「バンドジャーナル」のコンクール評の執筆を依頼されることが多い先生
でしたけど、ま・・・あのコメントはとてつもない辛口コメントが多かったですね・・・
その上野先生のこの「ベリーを摘んだらダンスにしよう」についての曲自体のコメントとして
「これはまさに間宮ワールド、この音楽はこれこそまさに間宮語に尽きる!」みたいないい方をされていたのが大変
印象的ではあるのですけど、確かにこの課題曲からは、独特な間宮氏でしか書けないような音楽づくり、
独特の世界観が提示されていると思います。

「ベリーをつんだらダンスにしよう」は、構成的に三部構成です。
一部の比較的テンポの速い部分、二部のしっとりと聴かせる部分、三部の再度のアレグロ部分、
そして最後は、あっさりと弱奏で閉じられます。
全般的に、マリンバ・シロフォーンといった鍵盤打楽器の使用方法が実に巧みで印象的です。
また、二部のクラリネットのソロとアルトサックスとトランペットのソロも実に
「のんびりとした感じ」・「おっとりとした感じ」が出ていて、この部分は何回聴いても
爽やかな感じはします。
全般的に、何となく漠然とした印象ですが、
マーラーの交響曲第4番「大いなる喜びへの讃歌」の世界につながっているような感じがします。
曲全体を貫く「子供たちが語りかれるような感覚」とか「汚れを知らない子供たちの純粋な感覚」
みたいなものをなぜかこの曲から感じ取ってしまいます。
個人的には、二部のクラリネットとかトランペットのソロは、あまりテクニックの上手さは
求めたくない感じがします。
少々たどたどしくても構わないから、子供のような「素直さ」が出ていた方が何かこの曲が求めている感覚には
近いような気もします。

そうした事を上手く表現した数少ない私のお気に入りの演奏は、池袋中学校の演奏です。
「よくこれで金賞に入賞したな・・」と思えるほど、たどたどしい心細い演奏なのですけど、
その素人っぽい感じが実にこの曲にマッチしていると思います。
だけど、このチーム、自由曲の「ハーリ=ヤーノシュ」では、トランペットが思いっきりスカってしまい
一瞬全音が止まるという珍プレーも起こしています・・・
だけどそれがまた実に自然に感じたりもします。
阪急百貨店もこの課題曲を演奏しているのですが、池袋中との音楽のアプローチは全然異なっているのが
一目瞭然で、正直上手過ぎて「何かスカしている」演奏という感じで、
あまり好きではありません・・・
どちらかというと、銅賞なのですけど、一般の部の習志野ウインドの演奏が、池袋中の世界に
近いような気もします。

三部で、シンバル奏者が終始連打していますが、この部分は結構神経を使うと思いますし、
難しい部分だと思います。

全体的に前述の「間宮ワールド炸裂」という感じで、この曲を聴くと何とも「不思議な感覚」に陥るのが不思議です。

だけどこの課題曲の決定的名演ってないのですよね・・・

もしも自分が指揮者だったら「このように表現したい!」という脳内イメージはあるのですけど、それに応えてくれる演奏が
一つもないというのがもったいない感じもあったりもします。

この記事の一つ後の記事が東方の「レティ・ホワイトロック」なのですけど、レティさんのおおらかな雰囲気を音楽したのが
この「ベリーを摘んだらダンスにしよう」みたいなイメージも私の中にはあったりもしますね・・(笑)
18.逗子開成高校


A/バレエ組曲「ロデオ」~Ⅰ.カウボーイの休日(A.コープランド)


この学校は神奈川県代表のチームなのですけど、この年は「野庭高校」があの突然の途方もない大飛躍を果たし、
とてつもない普門館デビューを果たすことになるのですが、そのあおりを受けたという訳では無いのでしょうけど、
2016年現在で、結果的にこの年が今のところ最後の全国大会となってしまっているようです。
こういう知的な男子高校の演奏も比較的珍しいだけに勿体ないなあ・・と感じる事もあったりもします。
80年代前半の神奈川県というと「逗子開成」というイメージがあったものですけど、80年代中盤から90年代中盤の
神奈川県の吹奏楽と言うと、そりゃ誰が何と言っても「野庭高校」以外あり得ないのかも・・!?という雰囲気が
濃厚だったようにも感じます。

さてさて・・逗子開成高校と言うと、吹奏楽コンクール歴はかなり長く、70年代の全国大会にも既に出場を果たし、
80年代に入ると1981年~83年の三年連続の全国大会出場を果たしています。
1981年の「海のうた」なのですけど、この演奏は結果的に金賞を受賞しているのですけど、
これ・・・レコードでもそうした雰囲気は大変よく伝わっているのですが、演奏がいわゆる「優等生の模範解答」みたいな
演奏で、いかにも指揮者の西野先生が「ここはそのように吹きなさい!」と命令されたからまるでロボットのように
機械的に吹く・・みたいな感じだと思います。
確かに上手いはうまいのですけど、正直、聴いていて全然つまらない演奏で、「海のうた」本来のあの抒情的な感覚は
あんまり伝わってきません。だけどあの演奏はなぜか金賞なのです!
だけど・・・
翌年の1982年のバレエ音楽「四季」と翌年の83年の「ロデオ」は、81年のような「奏者の自主性の欠如」というものは
ほとんど感じさせません。否! 奏者の「自発性」というのか積極的に「ここはこのように自分たちの音楽を聴かせよう!」という
主体性が大変顕著になっていると感じさせてくれています。
だけどこの2年間のコンクールの評価としては銀賞なんですよね・・・
うーーむ、やはりこの辺りは「コンクールの審査は水物・・」という事を示唆しているようにも思ったりもします。

1982年の「四季」も自発性と才気煥発に溢れた溌剌とした素晴らしい演奏でしたけど、演奏自体は大変オーソドックスで
正統派という印象が私の中ではありました。
(だけどあのハイレヴェルな演奏が銀と言うのは少し合点がいかないですね・・)
そして翌年、83年の「ロデオ」はどちらかというとクセがある個性的な演奏を聴かせてくれたと思います。
曲自体とってもけたたましくて野性味溢れるどちらかというと荒っぽいやんちゃな曲なのですけど、
音自体は洗練されている事をベースに、そうした清楚な音を強みにしてソロ楽器の特徴的な歌い廻しとか
部分的にテンポを緩めたり唐突にアップテンポにしたり、更にはわざと一旦弱奏に抑えたところを突然の強奏を
がなり立て、そのダイナミックスレンジの巾の広さは目を見張るものがあったと思います。
この「カウボーイの休日」は、中間部にこの曲の大きな見せ場とも言えるトロンボーンの比較的長めのソロもありますし、
これ以外にもクラリネット・コルネット・フルート・オーボエにも見せ場的なソロもありますし、
上記のトロンボーンソロを支えるファゴットの少しとぼけた様なリズムの展開もあったりして、
各ソロ奏者の技量が求められる曲でもあります。
この年の逗子開成の各ソロ担当奏者は、ソロはほぼ全員カッチリと決めていて、そのソロにもユーモアあり、
テンポの揺らしあり、茶目っ気ありととにかく「粋な雰囲気」が感じられ、
素晴らしかったと思います。
ソロがしっかり安定し、各人の技術が大変優れていますので、全体のアンサンブルの際には、強奏の際も弱奏の際も
更に威力が効果的に発揮されていたと思います。
そうした上に西野先生のややクセのある解釈が加わっていますので、
とにかく面白い演奏だったと思います。

このバレエ音楽「ロデオ」は変拍子ですし、上記の通り、ソロ奏者の負担はかなり大きい曲とも言えますし、
私自身何度かプロの管弦楽団の演奏を耳にする機会がありましたけど
(例/井上道義指揮の日本フィル)
プロが演奏しても「不安定感」みたいなものを部分的に感じたりもしましたので、
この逗子開成の演奏は変拍子の不規則な感じもあまりギクシャクとせず、むしろスッキリとなおかつ個性的という
相矛盾する要素を見事に両立できた素晴らしい演奏を聴かせてくれていたと思います。

それにしても82年の「四季」と同じくらいとてつもなくハイレヴェルの銀賞で、この時代に入ると
こうした演奏でも必ずしも金賞わ取れる保証はないという時代に既に入っていた・・みたいな事も示唆する
演奏ではないのかなと思ったものです。
17.中村学園女子高校


A/イタリア奇想曲(P.チャイコフスキー)


1982年はなぜか中村学園はコンクール不出場でしたので、2年ぶりの吹奏楽コンクールという事になります。
81年の「スペイン奇想曲」でも部分的に気にはなっていたのですけど、この年の演奏はサウンドが
かなりベタベタしているのがかなり私としては気になってしまいます。
演奏全体が俗にいう「ダーダー吹き」みたいな奏法で吹かれている傾向も感じられ、リズムが決してカッチリと決まっている
訳ではありませんし、音自体がどこか「ふわっ・・」とお菓子みたいな感じで、確かに柔らかさはあるものの
あんまりサウンド自体に「芯」がないような感じもあり、
それがどことなく演奏全体の印象を悪くしているようにも感じられます。
二年ぶりの普門館という事で少しばかり勘が鈍っていたのかもしれないですね。
全体的にリズムが大変甘く、スタッカートを全部わざとスラート気味にというか、押して吹いているような
感じがあって、この年は正直あまり良い印象は持っていません。
中村学園が化けるのは、1985年のコッペリアと1986年のあの歴史的な稀有なウルトラ名演のパリの喜びなのだと
思います。

この年の中村学園の課題曲も自由曲は「ファンファーレ」で開始されるのですけど、
課題曲も自由曲もその部分が決してカッチリと決まっていた訳では無く、どことなくあやふやな部分が感じられ、
部分的にトチっているのも少し勿体なかったのかもしれないです。
自由曲のイタリア奇想曲は、もう少し「いかにも陽気なイタリア!!」みたいなスカッ!!とした太陽サンサンとしたものを
期待してはいたのですけど、前述の通り、決してカラっとした演奏ではないもので、その辺りも
少しマイナス要素としてあるのかもしれないです。
課題曲の中間部は、アルトサックスのソロも含めて大変しっとりとした抒情的な香りも伝わり、その点はとてもよかったと
思いますが、アレグロ部分はもう少しスピード感を演出して欲しかったと感じます。
自由曲も決して下手な演奏ではないのですけど、どこか「ほわん・・」とした演奏になっていて
中間部のトランペットとトロンボーンの掛け合いの部分もどことなくモサッ・・とした雰囲気のまま曖昧な感じで
展開されていたのは中村学園らしくもないな・・とも感じていたものでした。

全体としては、可もあんまりなくて不可が少し目につくという印象で、銀と銅のボーダーラインみたいな
演奏だったと思います。
私の採点は銅賞ですけど・・

この年のBJの講評で、ある審査員が
「中村学園は女子高だけど、トランペット奏者が全員ガニマタ気味に吹いていたのが印象的・・
トランペットは本来立って吹くべきものだが、座って吹くと自然と足は左右に広がるもの・・・
だからああいうガニマタスタイルはむしろ理にかなっている」と大変面白い事を書かれていましたけど、
何となく言いたいことは分かる気はしますね。
当時の「日本の吹奏楽83」のレコードの裏ジャケットのカラー写真を見ると「確かにそうなのかも・・」
という感じもあったりもします。
今現在の福岡県の「名門女子高吹奏楽部」と言うと、そりゃ言うまでもなく精華女子高校なのですけど、
彼女たちの演奏は私も何度もコンクールの生演奏を聴かせて頂きましたけど、見ている感じでは、
トランペットの女の子たちもそんなガニマタとかどこか力んでいるような感じとかは皆無に等しく
とてもナチュラルに吹いていて、見た目も大変洗練されていてスマートに吹いているみたいな印象も感じ受けたものです。

ま、もっとも中村学園の「イタリア奇想曲」の冒頭は少しトチっていますけどね・・・

冒頭のトランペットファンファーレが実に気持ちがいいと思います。
このファンファーレは、チャイコがイタリア旅行中に滞在先のホテル近辺の
騎兵隊宿舎から毎朝聴こえてきたファンファーレがモチーフになっているそうです。
オーボエで奏でられる6/8のメロディーは、イタリア民謡「美しい娘」に基づいているとの事です。
色々随所に「イタリア」が盛り込まれていますが、
メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」もそうなのですけど、他国からきた旅行者が
イタリアを訪れると、なんかこうやって「太陽サンサン!!」みたいに明るく陽気な曲を作る傾向に
あるみたいですが、それは何か分かるような気がしますね。
私は残念ながらイタリアは行った事がありませんけど、
イタリアというと、真っ先に、太陽とか陽気という言葉がついつい連想されてしまいます。
イタリアと言う陽気な気質が、普段はお高くむっつりされているエライ作曲家の先生達も
何か普段の「自分」という殻を打ち破ってしまう「何か」がイタリアの雰囲気にはあるのかもしれませんよね。

吹奏楽コンクールでは、1970年代頃はこの「イタリア奇想曲」もよく自由曲として演奏されていましたけど、
最近はほとんど演奏されていないようですね。
曲が15分近くもあるので、やはり「どこをカットするか」という問題が大きいのだと思いますし、この曲の素敵なアレンジ譜面が
なかなか出てこないというのもあるのかもしれないですね。
16.愛知工業大学名電高校


B/プラハのための音楽1968年~Ⅳ.トッカータとコラール(K.フーサ)


この年から名古屋電気高校という名称からから現在の校名に変更されました。
私の記憶では前年の1982年の「交響的断章」の頃は、男性奏者しかいなかったような気もしたものですけど、
この年あたりから女子生徒がちらほら混ざるようになり、82年の「交響的断章」の
圧倒的な威圧的サウンドから少しずつマイルドなサウンドの方向性へシフトされていったような感じもあります。
ちなみにですけど、この年までは名電のステージ衣装は学ランでしたけど、翌年の「呪文とトッカータ」以降から
青のブレザーが名電のステージユニフォームになっていったと記憶しています。

全体的に伝統的に愛工大名電のサウンドは、精密さ・劇的な緊張感が一つの「売り」だと思います。
そしてこの緻密さと緊迫感が極限にまで達したような演奏と曲こそが、
このフーサの「プラハのための音楽1968年」だと思います。

松井先生名電のコンピは、この年に初めて「プラハのための音楽1968」を自由曲として演奏しました。
松井先生は、「プラハこそが私の代表曲!」と思われていたかどうかは定かではないのですけど、
1983年の演奏以降も、85年・87年・92年と計4回もこの「プラハのための音楽1968年」を自由曲として取り上げています。
松井先生の気質とこのプラハの音楽は内省的に相当相性はよいものがあったのかなとも感じます。
4回の演奏ともそれぞれ素晴らしい演奏を聴かせてくれてはいるのですけど、
私個人としては、回を重ねるごとに「曲の峻烈さ」が増していき、87年と92の演奏に「音楽としての劇的緊張感」を
遺憾なく発揮させてくれていると思います。

この年、1983年の演奏は、85年の演奏と比べても何か「未消化」のものを感じてしまいます。
松井先生としても奏者としても初挑戦という事もあったと思うのですが、曲のニュアンス全てを理解して演奏している
感じではないよな・・という雰囲気は感じます。
楽譜を適切に音にしているものの、1985年のあの感動的な演奏に比べて、聴衆に対して「何か」を伝えるという事には
至っていないような感じもします。
この曲自体、大変政治色が濃厚で「メッセージ色」が大変強い曲ではあるのですけど、
83年の演奏は、確かにとてつもない難曲をよく音にはしているのですが、「音楽としての感銘性」とか「音楽上のメッセージ」を
普門館の聴衆に伝えるまでには至らなかったと感じます。
曲全体の切れ味もあまり鋭くなくて、少しモヤモヤしているのも気になります。
課題曲の「白鴎狂詩曲」もピッコロとクラリネットのソロの掛け合いが決まっていないせいか
どことなくちぐはぐしな印象もありました。

1985年の演奏と83年の演奏の違いはどこにあるのかというと細かい部分の消化具合と奏者の理解度だと
思ったりもします。
もしかして、松井先生としても83年の演奏にはどこか不本意なものを感じ、リベンジ的な意味で85年のコンクールに
臨んだような感じもあります。
「83年のようには済ませないぞ!」みたいな指揮者としての気合とか奏者の気合は、
当時普門館で生の演奏を聴いていた私のハートにもガンガン響いてきたと思います。
85年の演奏は、ラスト近くのティンパニソロのチューニング不調がどうしても気になってしまいますけど、
87年の演奏は、その点もクリアにされていて、全体的には計4回の演奏の中では「最高の演奏」と言えるのかも
しれないです。
あえて難を言うと、87年の演奏は、課題曲が風紋のため、85年に比べてカットが多かったのが少し残念な感じです。
だけど、だからといって無理なテンポ設定はしていませんし、比較的節度を保っての
テンポ設定と解釈でしたので、安心して聴けます。
その点、全く同じ課題曲と自由曲を取り上げた吉永陽一先生の西宮高校は、両曲共にテンポが速すぎて
いくぶんせっかちに聴こえたりもします。

フーサの「プラハのための音楽1968年」の全国大会初演は実は名電ではありません。
実は1978年の総社東中学校という中学生の演奏なのです!!
あの演奏をレコードで聴いたときは、かなり驚いたものです!!
決してあなどれない演奏ですし、トロンボーンのグリッサンドは驚異的なものがあります!!

一般的に「プラハのための音楽1968年」のカット方法は、第3曲の打楽器アンサンブルからスネアドラムのロールを経て
第4曲「トッカータとコラール」に入るのがセオリーなのかもしれませんが、
第1曲と第4曲をうまく構成したのが、1988年の東海大第四高校であり、
かなり個性的なカットをしたのが89年の下松高校だと思います。

「プラハのための音楽1968年」の私にとって印象に残る演奏は、名電も素晴らしいのですけど、それ以上に
素晴らしい感銘的な演奏を聴かせてくれたのは、1990年の東京都大会の都立永山高校だと思います。
あの演奏は、本当に「訴えるもの」がありました!!
都立永山は全国大会の演奏も素晴らしかったですけど、それ以上に都大会予選も圧倒的に泣ける演奏を
聴かせてくれていたと思います。
あの日の都内は台風の悪天候で外は大荒れの天候で、普門館もガラガラでした。
そんなガラガラの普門館で熱い、ホントにあつーーーーーい演奏をしてくれたのが
都立永山高校だったのでした!!
吹奏楽コンクールで涙が出そうなほど感動したという記憶はあまりないのですが、
この日の永山の演奏は、本当に心の底から胸を打つものがありました。
曲の中の「メッセージ性」も充分伝わり、本当に何か大切なものがしんしんと
伝わってくるかのようなまさに「神がかり」のような奇跡の演奏だったと
思います。
特に、打楽器、特にヴィプラフォーンの鉄琴というよりは、熱い鉄のかたまりのような
響きには心を動かされました。

最後に・・・この曲は、実は管弦楽曲版も存在しますし、実際にCDも出ています。
珍しい吹奏楽曲から管弦楽へのアレンジ例です。
マルコポーロというレーベルから出ていましたが、演奏は正直何の感動性もメッセージも
ない最低の淡泊な演奏だと思います。
オーケストラの技術も下手だし、音楽的テンションは極めて低いですね・・・

やはりこの曲は、吹奏楽の色彩性と甲高い響きがよい方向で用いられたことに
意義があるのかもしれないですね!
15.高岡商業高校


A/交響詩「ローマの祭り」~Ⅰ.チルチェンセス Ⅳ.主顕祭(O.レスピーギ)


1983年のコンクール・高校の部で、昭和45年以前のような順位制を付けるとすると、
一位は、淀川工業と高岡商業のレベルの高い争いになっていたかもしれません。
(個人的には、野庭のアルメニアンダンスパートⅠも明石北のダッタン人の踊りも捨てがたいです・・・)
「ローマの祭り」は、吹奏楽コンクールでは既にお馴染みの曲で、実は、全国大会においては、この曲は
既に100回以上も自由曲として選ばれているのですよね。
これは本当に凄い事だと思いますし、まさに吹奏楽コンクールの不動の人気自由曲の座は定着していると
思います。
実はなのですけど、この「ローマの祭り」の全国大会初演は駒澤大学なのかな・・?と思っていたのですけど、
違いましたね・・・
実は、金・銀・銅のグループ表彰以前にまで遡り、1969年の電電中国(現・NTT西日本)が全国大会初演でした!
電電中国の当時の指揮者は佐藤正二郎氏ですので、果たしてどんな個性的な演奏をしてくれたのか興味津々なのですけど、
実は全く音源が残されていないため、この演奏は残念ながら一度も聴いたことがないです・・
「ローマの祭り」は、1970年代に駒澤大学や東海大学が演奏していますけど、
意外にもこの今では大人気自由曲もこの当時はあんまり注目は集まりませんでした・・・
この曲がブレイクするきっかけを作ったのは、そう! あの今や「伝説」と化している吉永陽一先生率いる兵庫高校が
1980年の全国大会でのあの名演だったと思いますし、
この曲を更に馴染みやすい曲として私たちに認知させた演奏が、1982年の弘前南中学校のあの素晴らしい名演だと
思いますし、
そしてそして・・・この「ローマの祭り」を不動の人気自由曲として完全に定着化させた演奏こそが、
この1983年の高岡商業だと思います。
確かに「ローマの祭り」と言うと最近でも本当に素晴らしい演奏が続出していますし、東海大学第四とか精華女子など
素晴らしき名演は山のようにあるのですけど、
そうですね・・・これはあくまで私の個人的感想ですけど、いまだにあの1983年の高岡商業のインパクトを超える演奏は
出現していないんじゃないのかな・・?と今でも思ったりもします。

1983年の高岡商業以外では、1996年の愛工大名電のあの「一歩間違えれば破綻寸前の実に危険水準スレスレの演奏」も
大変忘れがたいものがありました!
この年、1983年の高岡商業は、本当に素晴らしいローマの祭りを聴かせてくれました。
87年の柏のような「爽やかさ」とか「全く力みがないナチュラルな演奏」という訳では無いのですけど、
その代わりに、まさに「ドッカーーン」という大爆発の爆発的重厚感の漂う迫力満点の「爆演」がそこには
あると思います。
この年の高岡商業の金管セクション、というかトランペットは実に優秀な奏者が揃っていたと思います。
あんなに豪快に鳴らし、あんなとてつもない高音域もピッチがぶら下がる事もなく気持ちよいほど響かせてくれて、
とにかく「美しく、かつたくましく鳴っていたトランペット」だったと思います。
あんな優秀なトランペットセクションがいたら、指揮者はやり易かったと思います。
すさまじいほどよく鳴っているのですけど、聴いていて、「うるさい」とか「やかましい」という感じはあまりなくて、
よく鳴っているけど心地良いという感覚でした!!

実は、このチームは前年度の1982年にも「ローマの祭り」を自由曲に選び、
意外な事に北陸大会でダメ金でしたので、土合先生も、この年は相当気合が入っていたと思いますし、
そうした気持ちが演奏にもよく出ていたと思います。
高校生らしい素直さと絢爛豪華な明るさが曲の随所から感じられ、前年度のプレッシャーももしかして相当あったと
思われる中で、こんなにものびのびとしたナチュラルな演奏を聴かせてくれた土合先生と
当時の高岡商業の奏者の皆様には、とにかく心から敬意を表したいと思いますし、
とにかくこのあまりにも完璧に鳴り響いた「ローマの祭り」に心から称賛させて頂きたいと思います!

ちなみにですけど、高岡商業は、1989年にもこの「ローマの祭り」を自由曲として演奏し、「豪快さ」に更に磨きがかかった
爆演を普門館の聴衆に轟かせていましたけど、
そうですね・・この時はさすがに「鳴り過ぎ・・・」とか「幾らなんでも少しやり過ぎ・・」みたいな印象も感じたものでした。
やはり吹奏楽コンクールの場においては、なかなか二匹目のドジョウはいない・・という事なのかも
しれないですね・・(笑)
ドン・ギリスなんていうアメリカの作曲家&指揮者&音楽教育家の名前を知る人って
あまりというかほとんどいないのかもしれないですね・・
ま、そりゃそうですね・・・
ギリスの作品が、日本のプロの管弦楽団の演奏会や吹奏楽コンクールの自由曲として演奏されることは
まずないと思います。
吹奏楽コンクール・全国大会で、ギリスの作品が最後に演奏されたのは1980年の鹿児島大学だったと記憶しています。
確かその自由曲は「シンフォニーX」(シンフォニーエックス)という曲だったと思います。
実に36年以上も全国大会はおろか支部大会でも演奏されない既に「忘却の彼方の作曲家」の一人
なのかもしれません。

その中で日本で一番馴染みがあるギリスの曲と言うと「タルサ交響的肖像」なのかなと思ったりもします。
この曲、若き日の八田泰一先生が公苑会吹奏楽団を1965年に指揮された際の自由曲です。
公苑会吹奏楽団が瑞穂青少年吹奏楽団に押されて全国大会に出場できない状況が続いていた頃、
八田先生は、公苑会吹奏楽団とは別に「豊島区吹奏楽団」の指揮者としても迎え入れられ、この豊島区吹奏楽団では、
吹奏楽にお詳しい人ならばご存じの通り、何度も全国大会に出場され、この中でも、
1981年の交響詩「ティル・オイレンシュピゲールの愉快ないたずら」とか88年のダフニスのクロエ等の名演を
残してくれています。
公苑会では吹奏楽オリジナル作品をメインに自由曲にされ、豊島区吹奏楽団では主にフランス系のアレンジものを
自由曲に選ばれることが多く、八田先生としてもどこかで「使い分け」をされていたのかもしれないですね。
ちなみにですけど・・私自身はこの八田先生指揮の公苑会の霊友会小谷ホールでの都大会予選を何度か聴いたことが
ありますけど、この当時の公苑会には往年の力は皆無で、88年のアルメニアンダンスパートⅡと89年のオセロの
惨憺たる演奏以降はコンクールにすら出場していませんし、もしかしたら既に解団されているのかもしれません。
話がそれてしまいました・・・この「タルサ交響的肖像」ですけど、
公苑会の全国大会での演奏を収録したトラヤ社のカスタムテープでしか聴いたことがないもので、
詳しい事は正直よく分かりません・・・
もしかしたら原曲は、吹奏楽曲ではなくて管弦楽曲なのかもしれません。
(管弦楽曲としては、ギリス作品集のCDの中に収録されています・・・)
だけど公苑会の演奏を聴く限りでは、いかにも古き良き時代のアメリカとか胡散臭いアメリカそのまんまの
大変ドロ臭い曲ですね。
ラスト近くのパレードの部分が何かいかにも「胡散臭いアメリカ」みたいなインチキ臭い香りが
プンプンと漂ってきています・・・(笑)
ま、このトラヤのカスタムテープ自体音質が「モノラル録音」で極めて音質は良くないのですけどね・・・
だけどこれ以外にこの曲が聴ける演奏がほぼ皆無・・・・
ちなみに「タルサ交響的肖像」の正式タイトルは、
「タルサー石油に関する交響的描写」というものらしいのですけど、
最初は「タルサー石油」という油田とか企業名の歴史をイメージした曲なのかなと思ったのですけど、
「タルサ―~石油に関する交響的描写」というのがどうやら正してみたいで、別に「タルサ―石油」という会社や油田の事を
テーマにした訳では無いらしく、あくまで石油とか油田についての漠然としたイメージを謳い上げた曲らしいです。
この辺りは、私自身もあんまり詳しい事はよく分からないですけど、とにかく公苑会のモノラル録音を聴く限りでは
「胡散臭い曲」というイメージが強いですね・・・(笑)

ギリスの吹奏楽の他の作品と言うと、前述の通り
1980年に鹿児島大学が自由曲で演奏した「シンフォニーX」(シンフォニーエックス)というものが
あるのですけど、
この曲、残念ながら一度も聴いたことがありません・・・
ちなみに、「シンフォニーX」の「X」は、第10番という意味ではなく「謎」を表すの事らしいです・・・
ギリスの管弦楽としての交響曲としては、
51/2番と言う奇妙な番号付の交響曲が最も知られていると思います。
内容は・・・・、うーーん、やっぱり古き良きアメリカ、自由なアメリカ、胡散臭いアメリカを絵に描いたような
曲ですね・・・
何というのかな・・・・
コープランドとグローフェとバーンスタインを足して三で割ったような音楽です。
ちなみにこの交響曲第5 1/2番」は、第二楽章がドヴォルザークの新世界のあのあまりにも有名な第二楽章を
パロディー化したようにも聴こえます・・
三楽章は静かな弦楽器の刻みを間に挟みながら、騒がしいブルース、ジャズ、ラテン音楽が交互に乱入し、
第四楽章は、なぜかストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」の断片らしきものも乱入してきます。
16分前後の短いシンフォニーですけど、聴いた限りの印象としてはやっぱり「胡散臭い」という感じですね・・・
胡散臭いというよりは「ヘンな曲」という感覚なのかもしれないです。

だけど、ギリスと言うとそのもっとも「ヘンな曲」というのか「妙ちくりんな曲」というと、
「台所用品による変奏曲」に尽きると思います・・・

だけどこの曲、相当ヘンな曲だと思いますし、ジャンルとしては「冗談音楽」という位置づけの方が合っているのかも
しれないです。

この曲には管・打楽器以外に8人のキッチン部隊がいます。
この8人の奏者は、台所で主に調理用具として使う、フライパン、平鍋、ざる、ボウル、たらい、
鍋、泡立て器をそれぞれ違うリズムで叩きます。
また、8人の演奏者達にはそれぞれ名前があり、順番に、チャーハン・小龍包・
杏仁豆腐・マーボー豆腐・抄青菜・肉包子・坦坦麺、焼麦となっています。

曲は、管楽器と台所用品を叩くキッチン部隊のかけあいが多く、
印象としては妙ちくりんなチャイニース風の音楽が展開されていきます。

この曲一度だけ生の演奏会で聴いたことがあります。
どこだったかな・・・・
確か都内の一般バンドのチャリティー無料コンサートだったような記憶があるけど、すいません・・・
私の脳も既に忘却の彼方です・・・(苦笑)
印象としては、とにかくキッチン部隊の方大変そうという雰囲気でしたけど、底抜けに楽しい曲という感じでしたし、
まさに「音楽の冗談」に相応しい曲とも言えると思います。

この種のヘンな曲は吹奏楽コンクールでは、今後も演奏されることは100%ないと思いますけど
たまーにはこうした楽しいヘンな曲も
演奏会の一曲として聴くのも悪くはないのかもしれないですね。
少なくとも「場の雰囲気をやわらげる」には一定の効果があると思います。
たまにはこういう「ユーモア感覚」も味わって欲しいな・・とも思ったりもしますね。
14.習志野高校


C/交響曲~第四楽章(矢代秋雄)


習志野高校は、1981年が全国大会初出場でしたけど、初出場からの3年間の自由曲は、
この当時はまだ習志野としての方向性が手探り状態という印象が感じられるのも興味深いものがあると思います。
新妻先生時代の習志野というと、海・ダフニスとクロエ・寄港地・スペイン狂詩曲といった繊細なフランス音楽に
絶対的な自信を持っているといったイメージを感じていたものですけど、
1981~83年の自由曲は、寄港地というフランス音楽→呪文とトッカータと言うバリバリの吹奏楽オリジナル曲
→矢代秋雄の交響曲という現代邦人作品というまさに三者三様的なものがあり、
特にあの習志野が「呪文とトッカータ」みたいな吹奏楽オリジナル作品を自由曲に選ぶこと自体、
異例中の異例みたいなものでしたし、82年の演奏はそういう意味では大変貴重な演奏だったと思います。
あくまで個人的な感想なのですけど、習志野の方向性が見え始めたのは85年の波の見える風景とローマの祭りで、
その方向性が確固たるものとして完成されたのが、あのあまりにも繊細で美しい87年の
「ダフニスとクロエ」第二組曲~パントマイム・全員の踊りなのだと思います。
「ダフニスとクロエ」って今現在も吹奏楽コンクールの大人気自由曲ですし、この曲に関しては、
とにかく色々と素晴らしい名演が続出している訳なのですけど、
私個人の個人的感想を記すと、ダフクロで87年の習志野を超越する演奏はいまだに出現していないような気さえします。
87年の習志野はブログラム3番とかなり早い出演順だったにも関わらず、あのように奇跡的な名演を
後世の私たちに残してくれてのは、本当にありがたい事だと思いますし、あの演奏を直接普門館のステージで聴く事が
出来た私はまさに果報者なのかもしれないですね・・

1983年の習志野は3回目の全国大会出場なのですけど、この時点では既に「名門校」みたいな雰囲気もあり、
大御所みたいな貫禄すら感じさせてくれていました。
「これが自分たちの音楽!」という確固たる方向性が決定づけられてはいないとは思うのですけど、
既に習志野らしい「個性」は間違いなく聴衆にアピール出来ていたと思います。

課題曲C/カドリーユは、大変繊細で軽快で曲自体がうすく書かれていまして、
この曲を選んだチームの多くはなんか重たい感じで透明感に欠けるような印象もあったものですし、
花輪・野庭・明石北などのようにどちらかというと「ちょっとクセのある演奏」をしている学校の方が
印象度としては強かったような感じもありました。
その点、習志野のカドリーユは、作曲者の後藤洋氏が「この課題曲はこのように演奏して欲しい・・」と内心
考えていた通りの演奏をしてくれているようにも思えます。
私自身の印象としては「愛くるしい女子高生」みたいな印象で、あの軽快感とチャーミングな響きとサウンドの透明感は
高校の部においては右に出るものはいなかったと断言しても決して過言ではないと思います。
矛盾する発言かもしれないのは重々承知しているのですけど、カドリーユの演奏としては、私自身が最も大好きな演奏は
明石北高校のかなり個性的でクセのある演奏なのですが、
明石北・花輪・野庭のカドリーユを聴いた後に習志野のカドリーユを聴くと、とにかくその素直な響きとか可愛らしさに
なんか思わず胸きゅんきゅん・・となってしまいそうですね・・(笑)

自由曲の矢代秋雄/交響曲~第四楽章も、文句の付けようがない演奏だったと思います。
結果論になりますが、習志野は1991年にもこの矢代秋雄の交響曲を自由曲として演奏しているのですけど、
音楽的感銘度の高さという点においては、1983年の方がはるかに上みたいな印象を私自身は感じています。
これはあくまで私個人の見解なのですけど、矢代秋雄の交響曲の吹奏楽コンクールにおける演奏の中では、
1982年の仁賀保高校を超越する演奏は恐らく今後も存在しないだろうと思っています。
そのくらい仁賀保の「スピード感溢れる怒涛の後半部分と前半のひそやかさの対比」はほぼ完璧に
近いものがあったと思います。
矢代秋雄の交響曲~第四楽章なのですけど、吹奏楽コンクールにおいては
とにかくやたらと前半部分のホルンの雄叫びが強調される傾向にあると思うのですが、
あれって、私も何度かプロの管弦楽団による原曲の演奏を聴いたことがありますけど
あのホルンの部分はそんなに吹奏楽コンクールほど叫ばないみたいな印象があります。
この交響曲を吹奏楽コンクールで全国大会で初演したのは1979年の秋田南高校なのですけど、
秋田南にしたって前半のあのホルンは、そんなにシャウトしていないと思います。
1982年の仁賀保も勿論秋田南よりははるかに強調してはいるのですけど、
感覚としては「秋田南の解釈に近い」と言えると思います。
そうですね・・・
あの交響曲の前半部分の原曲におけるホルンに近いのは、意外かもしれませんが
1981年の田柄中学校なのではないのかなとも思っています。

そして・・・・
あのホルンを吹奏楽コンクールで初めてあんなにも強調したというのか「雄叫び」に近い感覚でシャウトしたのが
1983年の習志野高校だと思います。
最初にあの演奏を聴いた時はまさに「目から点・・・」だったと思います。
だって・・・・まさに「地響き」みたいな感じで、うぉぉぉーーーーーーんと叫ぶかのような雰囲気だったと思います。
多分ですけど83年の習志野のあのホルンの雄叫びは、その後のあの交響曲の演奏にあたっては
結構他校に与えた影響は大きいと思いますし、
83年以降、ああしたホルンの雄叫びを強調した演奏が増えてきたかのようにも感じられます。

習志野の演奏は、部分的に少しだけ木管、特にクラリネットセクションの動きが不鮮明みたいな感じられ、
全体が少しぼやけてしまう部分もあるのですけど、
サウンド自体に「ひそやかな透明感」に包まれているため、あまりそうした弱点を感じさせないのはさすがだと
思いました。
ラスト近くの金管のコラールの「清楚な響き」が本当に胸を打つものがあると思います。

まさに「習志野の今現在につながる伝説」は、ここから始まったといっても過言ではない素晴らしい演奏だと思います!
12.淀川工業高校


A/吹奏楽のための神話~天の岩屋戸の物語による(大栗裕)


課題曲と自由曲共に本当に素晴らしい演奏でした!!

この年1983年の高校の部は、金賞のレヴェルがとてつもなく高く、1970年代以前のような一位・二位・三位といった
順位制の場合だったら、どのチームが優勝かなんてまさに審査員泣かせみたいな様相を呈していたのかも
しれないですね。
金賞受賞チームの中でも、野庭・習志野・高岡商業・明石北・福岡工大付属、そしてこの淀工の演奏は
ハイレヴェルであり、この演奏がアマチュアのスクールバンドの高校生とは到底思えない信じらない名演を
後世の私たちに残してくれていると思います。
そうですね・・・私個人の評ですと、一位は高岡商業なのかな・・?
二位が野庭で、三位に来るのが明石北か淀川工業だと思います。
そしてこの年は銀賞にも素晴らしい演奏が多く、秋田南・茨城・東海大学第一・兵庫・嘉穂なども
限りなく金賞に近い銀賞だったと私は思っています。
花輪の銅賞は、あれはほぼ100%審査員の好みと好き嫌いだと思います。

淀川工業の課題曲Aですけど、淀工はこうしたがっちりとした骨組みのあるような課題曲を演奏させると
なんか右に出るものはいないような気がしますね。
こうしたインヴェンション第一番みたいに序-A-B-Aみたいな形式美がはっきりと提示されている曲とか
1984年のシンフォニエッタのようなミニシンフォニーみたいな感じの曲とか
79年のフェリスタスみたいな曲は本当に上手いと思います。
先日、茨城高校の課題曲Aが大変個性的であったみたいな記事を書いたのですけど、淀工はまさに
「これぞ正統派の演奏!」みたいな印象で、ヘンな小細工とかせずに正々堂々と真正面から音楽に取り組んだ印象が
大変強いですね!
課題曲Aとしては、高校の部の中でもトップクラスの素晴らしい演奏だったと思います。
冒頭の健康的なファンファーレが素晴らしい! まさに出だしから「キラリと光る何か」はあったと思いますし、
展開部の音楽的流れがまさに自然体そのもの!  少しあっさりとした中間部を経てラストの追込みは見事でした!
そうそう、この課題曲Aですけど、中間部が終わってからのAの再現部分がなんか極端に短すぎ・・・みたいな印象も
感じさせてくれた課題曲ですけど、これは「4分程度に収めないといけない」という吹奏楽コンクール課題曲の
宿命みたいなものなのかもしれないですね。

淀川工業は、1995年から2016年の吹奏楽コンクールは、スペイン狂詩曲・ダフニスとクロエ・大阪俗謡による幻想曲の
三曲以外の自由曲は一度も演奏した事がないのですけど、
そうですね・・それに関してはこのブログでも色々と書いたことはありますし、色々な賛否両論の声も多いみたいですね。
「大阪俗謡・・」をあんだけやるのだったら、同じ作曲家ということで「神話」もたまーにはやればいいじゃん・・みたいに
感じる事もありますね。
吹奏楽の為ための神話~天の岩屋戸の物語によるですけど、この素晴らしい名曲は、
富田中学校と尼崎吹奏楽団によって世に知られるようになったのですけど、
今現在に至る「継続されて演奏され続けるオリジナル邦人作品」としての不動の人気を決定づけた演奏というのが、
まさにこの年、1983年の淀川工業による演奏であった言っても過言ではないと思います。
そうした意味ではこの演奏は、「神話」のまさにパイオニア的演奏であり、名曲の名演なのだと思います。
淀工は、1988年にも「神話」を自由曲として取り上げていますけど、
そうですね・・これはあくまで私の個人的感想ですけど、音楽的感銘度の高さは1983年の方が上だと思います。
淀工はこの時代はまだ女性奏者が一人もいない次代でしたけど、男子高校にしては木管、特にクラリネットが
抜群に上手いですね!
あの甲高い響きとかあんなややこしくて面倒くさい変拍子なんかも
不規則な変拍子を少しも変拍子と感じさせないほどリラックスした気分で表現されていたあのテクニックは
まさに高校生の領域をはるかに超えていると思います。
踊りの部分が一旦おさまった後の静粛な部分のクラリネットのソロのミステリアスな雰囲気は、まさに圧巻であり、
あのソロを超越させる演奏って、私が知る限りでは1985年の尼崎吹奏楽団と89年の東海大学第四高校以外
ないのかもしれないですね。
それにしても「神話」の変拍子って奏者もそうですし、指揮者にとってはまさに「指揮者泣かせの曲」だと思います!
私自身もこの曲は何度もコンクールで聴いたことがあるのですけど、あの変拍子はどのチームも結構
ギクシャクする事が多かったと思います。
そうした中、淀工のあの変拍子の表現の巧みさは素晴らしいですね!
打楽器のコントロールも大変申し分なく、ドラのすさまじいロールとか一撃も、まさに「素敵なスパイス」だったと思います。
踊りの部分が終わった後のクラリネットの不協和音による三度の音のぶつかり合いも
まさにツボを得ていたと思います。
ラストの追込みもお見事!! まさに「太陽が再び地上を照らしてくれた!」みたいな狂乱と喜びが
音楽の上でも見事に描写されていたと思いますし、自分たちの音楽としてこの「神話」を表現してくれたこの姿勢は
本当に尊いものがあると思います!!


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ここから先は少し余談です。

実はなのですけど「大阪俗謡による幻想曲」もこの「神話」も原曲は管弦楽曲なのです!

その管弦楽作品を大栗先生自らが吹奏楽版としてアレンジされたのが、吹奏楽コンクールで聴かれる
俗謡と神話なのです!

「吹奏楽のための神話」の管弦楽版のタイトルは、「管弦楽のための神話」という
「そのまんまじゃん!」みたいなツッコミが入りそうなタイトルでもあるのですけど、
吹奏楽版も管弦楽版の「神話」も、古事記の世界をイマジネーション豊かに忠実に表現している素晴らしい曲です。
天照大御神がお怒りになって岩戸の中にこもってしまい、地上の世界が真っ暗闇に覆われて人々が困り切っている祭に、
「どんちゃん騒ぎを起こせば天照大御神も気になって出てくるんじゃないの・・?」という発想による
神々が踊り狂って乱痴気騒ぎを起こしている踊りのシーンのリズムの複雑さと高揚感は
目を見張るインスプレーションがあります。
又、「何だろう」と岩の隙間から顔を出した瞬間に大男の神に引っ張り込まれて
再び太陽がサーーッと出る場面だろうと思われるシーンの描写力は、もはや「奇跡」という
感じです。
全体的には、非常におぞましい曲なのですが、日本人でないと分らない表現も多々あり
「日本人のココロ」といった作品なのかもしれません。

そうそう、この管弦楽版による原曲は実はとてつもなく長いです! 確か演奏時間は17分程度だったと思います。

吹奏楽コンクールの演奏に慣れてしまうと、
原曲版を聴いてみると、正直・・「なんか無駄な部分が多いな・・」みたいに作曲家の先生に対して大変失礼な
感想すら感じてしまう傾向にあるのは、仕方がないのかな・・?
吹奏楽コンクールのカット版の方が実に密度が高く音楽的緊張も高いような印象もありますし、
大変ひどい事を書いてしまうと、原曲で少し無駄でジャマなのかな・・と思える部分をカットしたのが
あの吹奏楽コンクールのカット版のようにも感じたりもします。

だけど原曲のあのおどろおどろしさは、あの長さでないと十分表現されないかもしれないし、
うーーん、どちらが良いかは正直困ってしまいますね・・・
私は、この曲に関しては、吹奏楽版のコンクールカットヴァージョンの方が大好きです。

最後に・・・
1970年代の頃の話ですが、朝比奈隆が大阪フィルを率いてベルリン公演に臨んだ際、演奏した曲の一つが
管弦楽版の「大阪俗謡による幻想曲」でした。
日本の音楽とか大阪の俗謡を全然知らない外国の人がこのいかにも「コテコテの大阪やねん」みたいな
この曲を聴いたら、どのように感じるのか、どのようなイメージを持つのか
なんか興味深いものはありますね・・・(笑)
11.茨城高校


A/歌劇「ローエングリン」第二幕~エルザの大聖堂への厳かな行列(R.ワーグナー)


この年、1983年の吹奏楽コンクールの課題曲A/吹奏楽のためのインヴェンション第一番は、
序奏-A-B-Aのシンプルな構造を取っていて、
出だしの健康的なファンファーレに続いて展開されるフーガ的な部分が実にノリが良いし
メロディーラインも聴くだけでもわくわくさせられるし
中間部のBのしっとりとした歌も魅力的ですし、ラストもいかにも吹奏楽らしい豪快な感じですっきりと終わります。
そして何よりも中間部のアルトサックスのあのしっとりとしたソロが極めて印象的ですね!
吹奏楽コンクールの課題曲におけるアルトサックスのソロというと、79年のフェリスタスとか
81年の東北地方の民謡によるコラージュとか85年の波の見える風景なども素敵でしたけど、
この年のインヴェンション第一番も本当に素敵なアルトサックスのソロだったと思います。

課題曲A/吹奏楽のためのインヴェンション第一番は、
出だしのインパクトが結構大事で、この部分を外すとそれを取り戻すのは正直至難の業です。
感覚としては、この課題曲は出だしで大体方向性が決まるという感じもあり、
出だしに「キラリと光る何か」を表現出来たチームは中間部もラストもスムーズに展開できていたような
感じもありました。
この課題曲Aで素晴らしい演奏を聴かせてくれたチームは色々ありますけど、
私個人の感想としては、今回ここで取り上げさせて頂く茨城高校の演奏がかなり気に入っています。
男子高校らしい豪快さと中間部の繊細な歌が印象的で、
前述の中間部のアルトサックスの幾分ハスキーな歌い方が実に渋くて良かったです。

茨城高校の課題曲Aはかなり風変わりな作りです。オーボエ奏者が上手という事もあるのですが、
課題曲前半は、オーボエがしっとりと歌い込み、それをうまく木管楽器につないているようにも感じられ、
あのオーボエ→木管セクションへのつなぎはまさに「フーガ」という感覚もあったと思います。
このチームは男子校なのですけど、意外と金管楽器が意外ともっさりとしているので、
鋭角的なサウンドには至らず、何かどよーんとした感じになっているのが惜しまれます。

自由曲の「エルザの大聖堂への厳かな行列」は、考え込まれ練りに練った「知性的な演奏」とも
言えると思います。
カイリエ編曲を楽譜の通り演奏すると、オーボエのソロからクラリネットのソロへとつないでいくのですが、
茨城高校の場合、カイリエ編曲でありながらも、オーボエがクラリネットへとつなぐことなく
オーボエが一人でソロを奏でていますから、余程オーボエに自信があったのかもしれませんね。
だけどあの前半のオーボエ奏者は光っていたと思います!
全体的に知性的で構成がしっかりしている印象がある中で、矛盾しているのかもしれませんが
同時に「感受性」がとてつもなく強い演奏のようにも感じられます。
ラスト近くのホルンの雄叫び以降の展開は、金管楽器と打楽器が、これまで抑えに抑えていた
感情の高ぶりを一気に爆発させているような感じもしました。
音が多少硬いというのが金賞には至らなかった原因の一つかもしれませんが、惜しまれる銀賞の一つです。
演奏終了後の、多分OBとか関係者だと思うのですけど、「ブラボー!」じゃなくて「ウォー―――!!」みたいな野生の雄叫び
みたいな声援がとてつもなく印象的です。

ここから先は少し余談ですけど、ワーグナーの「エルザの大聖堂への厳かな行列」というと、
オールド吹奏楽ファンの皆様ですと、条件反射的に、1966年の豊島第十中学校とか1974年の首里高校と
言われるのでしょうけど、私にとっても「ベスト・エルザ」は誰が何と言っても、1987年の雄新中学校の
奇跡的名演ですっ!!

あそこまで素晴らしい演奏を聴かせてくれたのに、あの演奏が審査結果で「銀賞」と発表された時は、
冗談抜きに「審査員、全員死んでしまえ!!」と思ってしまいましたけどね・・・・(苦笑・・)

1987年の雄新中学校は、何と恐るべきことに36人編成です。
当時、私自身は普門館で生でこの演奏を聴いていましたけど、生で聴いても録音で聴いても
とても少人数とは思えません。とにかくサウンドは豊かです!!
そして何よりも表情は極めて豊かですし、感受性が大変豊かなのですけど、それがちっとも不自然ではないし
実に素直で伸び伸びと吹いている所がすごいですし、
指揮者の先生が「こう吹け!!」と言ったから言われたまま吹いているみたいな「お人形さん」みたいな演奏では
ありません。
鈴木先生の解釈では、ところどころにテンポルバートをかけたり、音を微妙に揺らしたり
音楽を大胆にも途中で静止寸前までテンポを落としたりと色々と「やりたい放題」という感じも
するのですけど、それがちっとも作為的でないというか、自然体な所が
本当に素晴らしいです。
ま・・・鈴木先生自体の指揮はかなり大振りですけどね・・・
(私の周囲では、あの指揮は・・・「まさに踊る指揮者」と評する人もいました・・)

この年の雄新は課題曲のマーチでは、金管の優秀さ(特にユーフォニアムの裏メロは素晴らしい!!)
自由曲においては、金管は比較的抑制し、
木管を情緒たっぷりにしっとりと吹かせていたのが大成功だったと思いますし、
とにかくあのサウンドとあの音色は・・・とにかく・・・あの演奏から20年が経過した現在でも
一聴の価値ありと確信していますし、
とにかく・・現在の若い奏者の皆様にも是非是非「あのしっとり感+みずみずしい感性」を
聴いて欲しいと思っています。
前半のオーボエソロなんかは絶品ですね!!
中盤の瞬間的に音楽の流れを止めかけた時は・・
生で聴いた時は「あれれ・・・鈴木先生、ここでまさかの演奏中止・・・??とも瞬間的に感じたのですけど
ここから、テンポルバートをかけまくって音楽全体をファンタジーに染めていた
あの解釈は・・・
今聴いても斬新ですし、とにかく美的限界をとっくに超越した「退廃的美しさ」がそこにはありました。
ラスト近くのホルンの雄叫びも良かったし、終わらせ方も一旦音量を落としてから盛大にフォルテ
していくのもむしろ自然体なような感じもします。
音楽が本当にワーグナーの求める重厚さ・神秘さ・透明な清涼感を見事に醸し出していたと
思います。

この演奏から既に29年も経過しているのですが、
この雄新中の素晴らしさは・・・・・
私は、永遠に語り継いでいきたいと思いますし、
永遠に後世の人達に受け継がれて欲しい素晴らしい演奏の一つだと思います。
吹奏楽のオリジナル作品の中で「イギリスの民謡」をベースにした組曲と言うと、
ヴォーン=ウィリアムズの「イギリス民謡組曲」とかブリテンの「イギリス民謡組曲~過ぎ去りし時」とか
ホルストの「セントポール組曲」などが有名だったりもしますが、
(参考までにですけど、ホルストには実は「日本組曲」という知る人ぞ知る管弦楽版の組曲が存在していて、
 この曲・・・お江戸日本橋とかぼうやー、よいこーだー、ねんねーしーなーの馴染みのあるメロディーが登場します!)
そうですね・・・私といたしまして、「イギリス民謡」をベースにした吹奏楽オリジナル曲で、同時に
「この曲だけは絶対に忘れてはいけない、必ず後世まで受け継がれていって欲しい!」と願う曲として真っ先に上げたいのは、
P.グレインジャーの「リンカンシャーの花束」ですね!
グレインジャー自身は、実はイギリスで生まれたわけでもなくイギリスで育った訳でもなく、
実際はオーストラリア人です。
だけど、理由はよく分かりませんけど、イギリス民謡にはまり、その収集を色々とする中で、
「こうしたイギリス民謡を自分なりにアレンジしたり、再構築したりしてみよう」として色々と試行錯誤した一つの完成体が
この「リンカンシャーの花束」と言えるのです。
この曲はどうみても「組曲」だと思えるのですけど、なぜか曲のタイトルとして「組曲」の名は登場してこないのが
なんか不思議な感じもあります。

曲は以下の六曲から構成されています。

Ⅰ.リスボン

Ⅱ.ホークストゥの農場

Ⅲ.ラ・フォード公園の密猟者

Ⅳ.元気な若い水夫

Ⅴ.メルボルン

Ⅵ.行方不明の婦人が見つかった

一見聴いてみると、民謡をベースにしているせいもあり、非常にシンプルで明快で分かり易い作品のようにも聴こえます。
だけど、この曲、意外とやっかいというか、スコアを眺めていると分かるのですが、
不協和音あり、複数のメロディーが同時進行したり、楽章によっては、「小節」という概念をとっぱらったり
かなり難解な要素がてんこ盛りです。

Ⅰも、早くも部分的に同時進行メロディーが現れたりしてますし、
Ⅱは抒情楽章なのですが、徐々に盛り上げていく表現力は意外と難しい代物ですし、ソロもかなり表現力が求められます。
Ⅲにいたっては、出だしのソロが中々合わせにくいですし、聴き方によってはストラヴィンスキーのペトルーシュカとか
アイヴズの交響曲第4番のように同時に複数のメロディーが奏でられる場面もあったりして
奏者にとっても指揮者にとっても「正確に演奏する事自体がとても大変」という大変面倒な曲でもあると思います。
Ⅳが聴いていて一番楽しいし、いかにも「うきうきと歩いている」みたいな雰囲気があると思います。
Ⅴは、この楽章では「小節」という概念をとっぱらい、この部分に小節という区分はありません。
ラストでは、ここでチャイム・シロフォーンが加わり色彩的に一番派手な感じがします。
特にⅡのソロとかⅢの曲の構成の複雑さは、奏者というよりもむしろかなり厄介な指揮者泣かせの大変な難曲のようにも
感じられます。
事実、この曲の初演においては、ソロ奏者に大きなミスがあったりⅢが見事に崩壊し演奏がほぼ破綻した雰囲気で
終わったという記録が残っているようでして、当時の初演の指揮者がグレインジャーに謝罪をしたという
エピソードも残されています。
全体的にはⅡが結構しみじみとさせられますし、あの徐々にゆったりと盛り上がっていく感動性はあるのですけど、
同時に作曲者としての「計算」も感じられるのが巧いと思います。
このⅡは、「けちん坊な農園主と召使の悲劇」という民謡をベースにされているとの事です。
Ⅴは、「戦争の歌」という民謡をベースにしていますので、音楽的には一番盛り上がる部分です。

CDでこの曲を聴く場合、やはり、フェネル指揮/東京佼成が一番しっくりきますし、納得させられます。
だけど、この「リンカンシャーの花束」を含めた「グレインジャー作品集」というCDを出した超大物指揮者も存在します。
誰かと言うと、泣く子も黙る「ベルリンフィル」の音楽監督のサイモン・ラトルなのですけど、
ベルリンフィルに移籍する少し前に、
この「グレンジャー作品集」をバーミンガム響を従えて録音しています。
この若き天才指揮者にも、何か感じるものがあったのかもしれませんし、
それだけグレンジャーを評価したという事なのでしょうね。
この作品集CDの中で、組曲「早わかり」という曲も収録されているのですけど、これ、実は私自身も初めて聴く曲でしたが、
実はとてつもない「隠れた名曲」だと思います。

このグレインジャーの素晴らしい吹奏楽オリジナル作品は、日本のコンクールでは演奏されることはほとんどないのが
とっても残念です。実はなのですけど、全国大会ではまだ一度も自由曲として演奏されていません。
ヴォーン=ウィリアムズの「イギリス民謡組曲」とかホルストの第一・第二組曲は全国大会でも演奏実績があるだけに
かなりもったいない感じはしますけど、確かに、演奏効果が中々得にくいし、全体としては現在のコンクールの視点から
眺めてしまうと「地味な曲・・」みたいにも感じられるし、技術的には大変難しいし、
そうですね・・一言で言うと「労多くして実りが少ない曲」でもありますので、中々吹奏楽コンクールでは
演奏されにくい曲と言えるのかもしれないですね。
唯一吹奏楽コンクールで生の演奏を聴いたのは、1988年の東京都大会の乗泉寺吹奏楽団の演奏でした。
このチーム、Ⅰ・Ⅳ・Ⅴを取り上げていましたけど、
Ⅴで終わらせると明らかに印象としては中途半端な感じになってしまうような感じもあります。
私が指揮者だったら、多分ですけど、Ⅱ・Ⅴ・Ⅵの組合せにするのかな・・?

だけどこうした「温故知新」みたいな素敵な古典的吹奏楽オリジナル作品も、コンクールで演奏されなくてもいいから
みんなに聴いてもらい続ける曲であり続けてほしいなぁ・・とも思いますね。
9.東海大学第四高校


A/古祀(保科洋)


このチームは、80年代後半から急激にサウンドが華麗になった印象があるのですが、
初出場の「ジークフリートの葬送行進曲」とか80年の「リエンチ」とか82年と84年の「天使ミカエルの嘆き」、
85年の「バストラーレ」、86年のドビュッシーの「小組曲」、
そして、83年の「古祀」はどちらかというと演奏が内省的で地味な印象がありました。
83年の古祀はサウンドが実に渋くて暗い表情を持ち、表現自体も控えめという印象すら感じたものですけど、
とても後年の「ローマの祭り」の爆発的サウンドと同じ指揮者・演奏団体とは思えない感じすらあると思います。
全国大会初登場の頃は、重厚なワーグナー路線、そして地味で内省的な邦人路線を経て、繊細なフランスものとか
華麗で大音響みたいな時代もありましたけど、
最近では、邦人作品もアレンジものも「とにかく洗練されてバランスが大変よい」という印象が大変強く、
現在のスクールバンドのまさに「生きるお手本」みたいなチームの一つがこの東海大学第四高校ではないのかな・・?とすら
感じる事もありますね。
そしてこのチームで特筆すべきことは、1978年の全国大会初出場の時から現在に至るまで、終始一貫して
井田先生が指揮・指導をされていて、
このように40年近くも同じ高校を一人の指導者が指揮をされ続けている事例は、淀川工科の丸谷先生を別格とすると
ほとんど例が無く、この点においても井田先生の「偉大さ」を痛感せずにはいられないですね!
井田先生の指揮とか解釈というのは、どちらかというと「酸いも甘いも全部わかりきっている」みたいな大人の風格
という傾向が強いのかな・・?
85年のバストラーレとか87年のダフニスとクロエなんて絶対にあの演奏は「銅賞」という評価はおかしいと思いますし、
あの審査結果は私もいまだに納得がいかないのですけど、
そうした「コンクールにおける理不尽さ」なんかも全て体験されているだけの
全てを「寛容し受忍するような大人としての懐の深さ」を昔も今も感じさせてくれている点は、素晴らしいとしか
言いようがないと思います。
あまり関係ないですけど、1970年代後半のまだ20代の頃の若かりし日の井田先生は、
「こんな曲どうせ審査員は知らないだろう・・審査員が聴いた事ない曲を自由曲に選べば、多少審査が
甘くなるのかな・・?」と期待して(?)選んだ曲がバルトークの「小組曲」という曲らしいのですけど、
すいません・・この曲、私も聴いたことすらありません・・・
だけど実際のコンクールの審査表には結構手厳しい事が書かれていたとの事で、
「うーーーむ、やはりコンクールというのは安易な気持ちで臨んじゃダメなんだ・・」と自覚されたというのも
なんか面白いエピソードだと思いました。

1983年の演奏、はしっとりと仕上げ、サウンドも柔らかく、
何よりも渋いこの曲を情緒たっぷりに歌いこんでいる姿勢が素晴らしいと思います。
地味ながらも大変印象的な演奏です。
課題曲は自由曲とは逆にもう少し「華やかさ」が欲しかったのかなぁ・・と感じるのは、これはもう贅沢な注文という
感じでしょうね・・(笑)
冒頭のファンファーレはもう少しカッチリとしたものを聴かせて欲しかったし、中間部が意外とあっさり淡々と流れていたのも
もったいない雰囲気はありましたが、その分ラストの追込みは申し分なかったと思います。
これは後日触れますけど、課題曲A/吹奏楽のためのインヴェンション第一番の全国大会・高校の部において、
「茨城高校」というとてつもなく個性的な演奏がありましたので、どうしても茨城高校の演奏を一度聴いてしまうと
他校の演奏がなんとなく平凡に聴こえてしまう感じも無くはないと思います。
自由曲は既に前述していますけど、こうした地味な曲をここまでしっとりと情緒感溢れ
「音楽的に聴かせる演奏」をお披露目してくれた井田先生と奏者の皆様に対して敬意を表したいと思います。
全体的に「くすんだ音色」が自由曲のイメージにドンビシャだったのは素晴らしかったと思います。
特に木管セクションが素晴らしかったですし、コールアングレ・フルート等も光っていましたし、
金管の適度なコントロールも抜群だったと思います。

保科洋と言うと、既に1970年代より「吹奏楽邦人作品」としてはかなり有名な方で
その作品も兼田敏と並んで比較的全国大会の自由曲としても選出される事が多い作曲家の一人でした。
私が高校生の頃ですと、「保科洋」と言うと・・

〇カタストロフィー

〇カプリス

〇交響的断章

なとの曲に代表されるように「陰気」な曲想が多く、そのあまりの「暗さ」に
「この作曲家は根暗なのかな・・・」と思った事すらありました・・(苦笑・・)
(というか、「根暗」なんて言葉、既に「死後の世界」ですよね・・・なんか、こんなところでも年がバレてしまいます・・・)
だけど1980年代に入ると、「古祀」とか87年の課題曲にもなった「風紋」のように「和」のイメージを曲に取り入れ始め
特に「古祀」は、日本の古代の儀式みたいなイメージを曲に大胆に取り入れ
その「鄙びた感じ」と「躍動する静のリズム感」がまた独特の世界を生み出し、一時かなりの人気曲だった
時もあったような気がします。
この時代に「バストラーレ」(牧歌)みたいに
曲想が優しく終始穏やかな響きにまとめ、かつてのような「陰気さ」が潜めてしまったような曲も
ありました。

ちなみに、保科洋の作品は、全国大会では1991年の「祝典舞曲」を最後に20年程度全く演奏
されていませんでしたけど、
2010年以降「復興」という曲が全国大会でも何度も自由曲として演奏され、
再度この作曲家の作品が取り上げられているのは
何かとても嬉しい気がします。
というかこの「復興」は私も大好きな曲ですし、今年の全国大会でもいくつかの学校が自由曲として
演奏しています。

保科洋先生の仲間の兼田敏先生が既に彼岸に旅立たれていますので、保科洋には、
指揮活動・教育活動、そして作曲もまだまだ現役第一線で頑張って頂きたいと思います!!
8.基町高校

C/バレエ組曲「シルヴィア」~Ⅰ.前奏曲と狩りの女神(L.ドリーブ)


基町高校は、一部のオールド吹奏楽ファンの間では「基町トーン」という言葉で語られる事もあるのですけど、
柔らかいサウンド・優しい語り口・決して乱暴に鳴らさない・丁寧な音楽作り・温かい雰囲気というのが
その一つの特徴なのかなとも感じるのですが、
そうした「基町トーン」が最高潮に達した演奏が、1981年の序曲ハ調なのではないのかなとも思えます。
翌年の1982年の歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲が、長年に渡ってこの基町高校を指導・指揮されてこられた
増広先生の勇退の年という事になってしまい、全国大会の評価としては銀賞に留まりましたけど、
あのいかにも「おじいちゃんが優しい語り口で孫たちに民話を語っているような」温かい雰囲気が曲の随所から
感じられて、最後の普門館としては大変満足がいかれた演奏になっていたと思います。
あの優しくて温和な手作り雰囲気は、まさに増広先生=基町高校吹奏楽部のコンビによる「基町トーン」の
素晴らしい有終の美に相応しい演奏だったと思います。

そうそう、これは余談ですけど、1982年の増広先生の勇退の年のあのウインザーの陽気な女房たちの
一つ前の演奏が、実は・・そう! 今やすでにある意味「伝説」と化しているあの市立川口の自作自演の
「無言の変革」~そこに人の影はなかったなんですよね!
普通あれだけ普門館の聴衆の度胆を抜きまくりの壮絶極まりないまさに「猛毒」そのものの演奏を自分達の演奏の前に
聴いてしまうと、多分・・ヒビって動揺するのだと思われます。
だけど・・当時の増広先生=基町高校吹奏楽部の奏者の皆様は全く動揺することなく、
「市立川口は市立川口、そして自分たちは自分たちの演奏をするだけ!」みたいな雰囲気が課題曲の冒頭から
感じられて、自分たちの練習の成果を普段通り発揮されていたのはさすがだと思います!
市立川口のあのあまりにも凄まじい「猛毒」をこの基町の温かい音楽で持って完全に普門館の空気を
「中和」していたような感じすらあったと思えます。

ですけど惜しまれつつも増広先生は1982年の普門館を最後に勇退されましたが、
日本のスクールバンドの場合、往々にして長年実績を積み上げてきた優秀な指導者がその学校を離れてしまうと、
後任の先生がご苦労され、なかなかそれまでのような実績が上げにくいとか
中々いい演奏ができないとか、結果的に支部大会とか県大会で散ってしまうとか
後任の先生にとっては色々と悩まれる事も多いものだと思われます。
自分の個性というかカラーは早く出したいけど、なかなか前任の先生のカラーとか伝統みたいなものが立ちはだかってしまい、
自分としてのカラーが出せないまま、いつの間にかコンクールの表舞台から姿を消すという事例は
本当に数多くありましたよね!

だけど基町高校の場合は、その点も大変見事だったと思います。
後を受け継いだ土居先生の演奏スタイルはまさにあれは、「基町トーン」そのものであり、
それが遺憾なく発揮されていた演奏が85年の喜歌劇「こうもり」序曲だったと思います。
とにかくあのワルツは聴いていてとっても楽しかったし心地よかったです!!
土居先生はその後何度か普門館での全国大会でその演奏を聴く事ができましたけど、いつ聴いても
「あい変わらずの基町トーンをキープし続けている! 自分たちのサウンドはこれだっ!というものを持っていて
それが長年ずっとこうやって継承つれ続けているのはすごいものだ・・」と
当時感心していたものです。
普門館みたいなあんな広い会場でも、決して大音量とか過剰な表現はせずに、大変理性的で且つ
温かみが感じられる素敵な音楽を増広先生同様に全国大会でも聴衆に伝え続けていた事は、大変立派な事だと
思いますし、まさに「公立高校の鑑」だと思います。

1983年の演奏も結果的に銅賞という評価ではありましたけど、私個人としては
「え・・・この演奏で銅賞!? 少し厳しすぎるのかも・・」という思いは当時感じていたものでした。
課題曲C/カドリーユみたいな愛くるしい曲は、そうですね・・この課題曲は男子校の私自身もこの曲を吹いていたのですけど、
印象としては男子校みたいな武骨な学校が演奏してもあんまりうまくいかない傾向があります。
(楽譜を見るとよく分かるのですけど、この曲自体大変うすく書かれています)
こういう課題曲は、あまり力まない中庸なサウンドを有するチームの方が得意なのかなと感じるのですけど、
そうした意味では基町にまさにうってつけみたいな曲で、曲全体を温かく包み込んでいたのは大変印象的です。
自由曲は少し地味すぎたのかも・・?
ドリーブの「シルヴィア」は、たまに吹奏楽コンクールでも演奏されるのですけど、大抵の場合、Ⅳのバッカスの行進を
メインにプログラム構成されることがほとんどなのに、正直、あまり盛り上がる箇所も多くなく、どちらかというと
牧歌的でのんびりとした雰囲気のこのⅠを吹奏楽コンクールで演奏する事はかなり勇気がいるとは思うのですけど、
このチームは、そうした曲のほのぼの感とか牧歌的な雰囲気を大変見事に歌い上げていたと思います。
曲が地味な分だけポロが出やすい曲手もありますので、そうした点が銅賞になってしまった理由なのかな・・とも思ったりします。

だけど、こうやって「偉大な前任者」からバトンタッチされても、伝統的な「基町トーン」を崩すことなく
土居先生としての音楽を立派にコンクールで表現されていたと思いますし、私個人としては、もう少し高い評価でも
よかったような気もしますけど、この演奏が銅賞になってしまう事自体、80年代初めの高校の部が
既にハイレヴェルになっていた事を証明しているようにも感じられます。
6.富山商業


A/管弦楽のための三つの交響的素描「海」~Ⅲ.風と海との対話(C.ドビュッシー)


7.観音寺第一高校


A/管弦楽のための三つの交響的素描「海」~Ⅲ.風と海との対話(C.ドビュッシー)


この年のプログラム6番と7番の演奏は、全く同じ課題曲と自由曲が続けて演奏されるという事で
こうした場合は往々にして後の演奏順のチームにどこなくプレッシャーが掛かってしまい演奏崩壊という事例も
しばしばあったりもします。
練習過程の間では自分たちの演奏にそれなりの自信があったはずだとは思うのですけど、自分たちの一つ前の出演順の
演奏のチームが自分たちと全く同じ課題曲と自由曲を選んでしまうと、「隣の芝生はよくみえる」という訳では
ないとは思うのですけど、奏者自身が自分たちの演奏と一つ前の演奏をなんとなく「比較」をしてしまい、
「え・・自分達よりもうまいじゃん・・」みたいな感じでヘンに委縮してしまうような演奏になってしまう事も
あったりもします。
1983年の高校の部は、そうした事例の典型的事例であったと思いますし、観音寺第一の皆様には大変申し訳ない
言い方になってしまうのですけど、レヴェルの高い富山商業の演奏を見せ付けられた観音寺第一は
少しと言うかかなり気の毒だったような感じがあります。
せめて観音寺第一の後に富山商業が演奏する出演順だったら、当日の出来も少しは変わったかもしれないですね。

富山商業の「海」は大変完成度が高い演奏だったと思います。

富山商業と言うと、例えば78年の火の鳥とか81年のシンフォニエッタ、前年のロメオとジュリエットに象徴される通り
どちらかというと金管を主体によく音が鳴っていて大音量の魅力が大変魅力的という「パワー系」の演奏のような
印象がありましたが、この年はそうした「バリバリに音を鳴らす」という傾向が比較的感じられず、
内省的にしっとりとした演奏という印象があり、それ以前までの富山商業のイメージを根底からひっくり返すような
演奏だったと思いますし、それだけ逆になんかインパクトがありました。
富山商業の「海」は、これはあくまで私の感じ方の問題なのかもしれないのですけど、
「日本海の冷たい海の荒涼とした雰囲気・・」みたいな場面が脳裏に浮かぶような演奏だったと思います。
どちらかというと「しっとりとした」感じで、
従来の富山商業はどちらかというと「ドライ」みたいな感じもあったものの、この年に関しては「ウェット」みたいな印象が
あったりもします。
いかにも荒波が岸壁に叩きつけられているみたいな「寂寥感」といった雰囲気すらあったようにも思えます。
そしてこの年は富山商業にしては大変珍しく金管を意図的に抑制し、全体のコントロールが大変的確に図られて
いたようにも感じられたものでした。
この年の富山商業は結果的に金賞を受賞し、3年連続金賞となったのですけど、
十分に納得できる文句なしの金賞だったと思います。
ちなみにですけど、富山商業は翌年の1984年は、またまた「いつも通りの」(?)富山商業になってしまい、
組曲「ハーリ・ヤーノシュ」をまたまた男気溢れる極めて音量過剰の豪快な演奏を聴かせてくれていましたので、
83年に抑制された鬱憤(?)を84年にぶつけてしまったような印象もありますね・・・(笑)

それとこれは後述しますけど、富山商業の「海」は駒澤大学の上埜先生のアレンジによるもので、
富山商業のライバル校の高岡商業も1986年の自由曲の「海」も上埜先生のアレンジによるものです。
だけど同じアレンジャーでも、富山商業と高岡商業の演奏は、私個人としては、方向性が全然異なっているようにも
感じられ、その点は大変興味深いものがあったりもします。
富山商業は上記の通り、荒涼とした内省的な海であったのに対して、高岡商業は大変メカニックで機能的な海で、
編曲が同じであっても指揮者の解釈の違いによって全然変わってくるもんだなぁ・・と感じたものです。
ちなみに高岡商業は、グロッケンの共鳴効果を利用したキ――ンという金属的な効果音を巧みに利用していましたけど、
富山商業の場合は、そうした演出は行わず、むしろ正攻法の内省的な演奏をしていたと思えます。

観音寺第一の「海」は、そうですね・・、大変申し訳ない言い方になってしまいますけど、
聴いていてあまり伝わるものが感じられない淡泊な演奏だったと思います。
その原因はどこにあるのかというと、サウンドの透明感なのだと思えます。
どちらかというとサウンドがかなり「もっさり・・」としており、そうした少し泥臭いサウンドが、「海」という大変繊細な音楽との
相性が今一つよくなかったのかな・・とも思えます。

どちらにしても同じ課題曲と自由曲が続くというのは、後の出演順のチームには、少し不利なのかな・・とも思えますし、
その意味では観音寺第一は少し気の毒た゜ったようにも思えます。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ここから先は少し余談です。

上記の話の中で、同じ自由曲で全く同じアレンジャーでも指揮者の解釈によってはその表現もかなり違ったものになる
みたいな事を書いたのですけど、
それを踏まえた上で、同じ自由曲でアレンジャーがそれぞれ異なる場合は、演奏やその表現がどのように変わるのかという
かなり面白いテーマを吹奏楽コンクールの場で提示してくれた事例もありました。
その一つが1986年の高校の部における「海の競演」なのかな・・とも思ったものです。
1986年の高校の部は計3チームがドビュッシーの「海」を自由曲として選曲し、3チームとも編曲者が異なるという
とても興味深い「海の競演」を聴かせてくれました。
ちなみに3チームとも、課題曲が全て異なるというのも何か面白かったです


○高岡商業【上埜孝編曲】

 いかにも高性能・高機能といった感じのサウンドでした。傾向としては大変音楽が「メカニック的」とも言えると思います。
 同じ曲でも「ひそやかさ」を強く感じさせた内面的な海の習志野とはかなり目指している方向の違いを
 感じたのも事実です。

 「海」の中間部で一旦静寂となってオーボエが美しい旋律を奏でているバックで、打楽器奏者の何人かが、
 手にコントラバスの弓を持ち、グロッケンの横部をこするように上下になぞり
 弦楽器の高音部分をこうした方法で代用していた「荒業」にも当時度胆を抜かれたものです・・・
 何か共鳴管をコーンと鳴らすと隣の共鳴管がウワーーンという音を立てるような
 感覚の音でした。
 試みとしては面白い表現でしたけど、
 何となくですけど「人工的・作為的」についつい聴こえてしまい、意図はわかるけど、不自然でやりすぎ・・みたいな
 印象も感じたものでした。


○習志野【八田奏一編曲】

 3団体の中では、一番しっくりくる素晴らしい演奏でした。
 サウンドに気品があり、前半を相当抑えて演奏していて、後半にいくほど
 高ぶった気持ちをうまく柔軟に表現していましたし、音楽が自由自在という感じでした。
 生で聴くと一見冴えない演奏にも聴こえてしまうかもしれませんが、その真価は
 CDで聴くとよく分かると思います。

 当日の会場内で、私の座っていた席の丁度後ろ側にいた人が、演奏終了後に
 「うーーん、何か冴えない演奏・・・」とか呟いていましたけど
 自分の演奏終了後の感想は、
 「なんて張りつめた演奏、なんてひそやかな演奏、そして何と感動的な演奏」といった
 「冴えに冴えた演奏」という印象を受けましたので
 同じ演奏を聴いても、人によってやはり「感じ方」は異なるものなのですね。
 ま、それが「人間の多様な感性」でありますし、そうしたものは、一人一人が尊重する必要が
 あるのかな・・とも思います。


○神戸【藤田玄播編曲】

 サウンドが重厚でした。
 音楽としては「フランス系の響き」というよりは「ドイツ的な響き」という感じがしたものです。
 分厚い響きでしたので、繊細な表現の「海」には部分的に合わなかったのかな・・とも感じるのですけど、
 全体のがっちりとした骨太の響きは逆に言うと「武骨な海」という雰囲気もあり、
 「スケールの大きさ」という観点では、この三校の中では群を抜いていたと思います。


番外編として、1993年の関西大会の洛南高校を推したいと思います。
洛南は、この年は関西大会ダメ金で全国大会には行けなかったのですが、演奏は非常にユニークで、
第二楽章と第三楽章を取り上げていて、
カットは痛々しいけど、何を言いたいのかとか、曲のニュアンスは充分伝わってきました。
第二楽章に、ソプラノサックスをソロとして使用していたのは、意外に合っていてとても面白い表現だと感じたものです。
5.野庭高校


C/アルメニアンダンスパートⅠ(A.リード)



最近の若い世代の皆様ですと、「野庭高校吹奏楽部」とか「中澤忠雄先生」と言われても
もうあんまりピンとこないのかもしれないですね。
私としては、花輪高校・市立川口・秋田南高校・就実・屋代高校・仁賀保高校・雄新中学校等の「伝説的名演」を
ずっとずっと後世に語り継いでいきたいのですけど
上記の学校以外でも、色々と後世の方達に何か「言葉」として受け継いでいきたいような演奏も数多くあると思います。
その一つの学校が「野庭高校」なのだと思います。
そうですね・・・この学校に関しては、正直・・・私の中では見解が二つに割れています。
アルメニアンダンスパートⅠ・ハムレット・オセロ・春の猟犬の頃のようにリードを主なレパートリーとしていた時代と
アパラチアの春以降、クラシックアレンジ路線に転じ、
「くじゃく」以外は・・・何だかすっかり去勢された様な牙を抜かれた様な演奏になってしまった時代を
何か同次元に扱って果たしていいのかな・・・・とも感じています。
これはあくまで「私の意見」というあくまで一個人の見解なのですけど、
私はリード等吹奏楽オリジナル作品を演奏していた頃の中澤先生=野庭高校は大好きなのですけど
クラシックアレンジ路線以降の野庭高校のサウンドは今一つしっくりこないものがあります。
(例外は、1993年のハンガリー民謡「くじゃく」による変奏曲)
いかにも生徒の首根っこを無理やり押さえつけ「型」にはめ、去勢された様なおとなしくて消極的なあの演奏を聴いてしまうと、
「うーーん、アルメとかハムレットをやっていた頃の中澤先生=野庭高校は一体どこにいってしまったのだ・・・
こんな洗練され過ぎた控えめな演奏は野庭じゃない・・・」と例えば1995年の控えめなベルキスを普門館で
聴いていた際にはリアルタイムで感じていたものです。
現在の視点・感覚で改めてあのベルキスを聴いてみると
「もしかして、中澤先生は吹奏楽の別の魅力とか可能性を感じていたのかな・・・
そして・・道半ばにして・・・彼岸の方になられてしまった・・・
中澤先生としても、少し悔いが残られる中でこの世を去られたのかな・・・」としみじみ感じる事もあります。
 
これはあくまで「個人の感じ方」の問題だと思うのです。

私のように・・・あの個性的で躍動的で・・・とにかく音楽というものをあんなにも楽しく生き生きと聴かせてくれたリード時代の
中澤先生=野庭高校が大好きという人間もいれば、逆に・・・
音の洗練さ・静かな熱演を心掛けたと思われる1992年以降の中澤先生=野庭の方が大好きという方も大勢いるでしょう・・・・
どちらもそれは他ならぬ中澤先生=野庭高校の「軌跡」だと思うのです。
それを「こちらの方が好き」と感じるのはあくまで個人の感じ方の問題であって、
それを単純に好き嫌いだけで論ずることは出来ないのでしようね・・・
だけど・・まさに、野庭高校吹奏楽部の「軌跡」は本当に「奇跡」なのだと思います。
1980年代~90年代にかけてのあの激戦極まりない「関東大会」にて・・・・
あんな公立の無名校が・・・あんな強豪校がひしめく関東大会を何度も何度も勝ち抜け
全国大会であんな素晴らしい演奏の数々を聴かせてくれたのですよ!!
あれは・・本当に当時から・・「すごいな・・この学校は・・」と思っていたものでした。
確かに今現在は・・・学校統廃合により「神奈川県立野庭高校」の名前は消えています・・・
特に特に・・・あの伝説の名演、アルメ二アンダンスパートⅠとかハムレットとかオセロとか春の猟犬等の
数々の中澤先生が残してくれた名演、陳腐な表現で申し訳ないのですけど、永遠に私達の心の中に生き続けると思いますし、
あの素晴らしい演奏は、後世の人達にも是非是非語り継いでいければいいな・・・とも思っています。

野庭高校が全国大会初出場そして初金賞を達成したのは1983年・・・
この年は私自身高校3年生で、
当時後輩達か部室で「日本の吹奏楽83 高校の部 vol.5」だったかな・・・野庭高校の
アルメニアンダンスパートⅠ」が収録されているレコードを聴いていて、
私自身も最初にあの演奏を聴いた時の衝撃は・・・・これは多分・・・死ぬまで忘れないと思います。
そのくらい・・・大変個性的でインパクトが強く、とにかく・・・「躍動感」に溢れた生き生きとした語り口で
同時に表現が実に斬新・・・・!!
あの第ⅴ曲をpから徐々にあんなに盛り上げていく演奏はかつてなかったと思いますし、
とにかく一つ一つの音が「生命感」と「躍動感」に溢れていて・・・
「うわわわ、なんだこの素晴らしい演奏・・・これで全国大会初出場・・・
しかも・・・あの激戦の関東大会を公立の全くの無名校が勝ちぬけている・・・??
それに比べて自分達は・・・何とふがいない・・」としみじみ感じていたものです!
私自身、高校の定期演奏会でこの「アルメニアンダンスパートⅠ」を演奏する機会に恵まれたのですけど
残念ながら、楽譜を音にするのが精一杯で、とてもとて・野庭みたいなあんな「自由な表現」なんてできなかったですっ!
とにかく・・・圧倒的に素晴らしい伝説的な名演だったと思います。
そうですね・・・あの野庭のアルメ二アンダンスに関しては、あんな個性的な演奏ができるチームは今後も
中々簡単には出てこないと思いますし、あの演奏を超える演奏は、私が知る限りでは、
1987年の創価学会関西だけだとすら思います。
だけど音楽の躍動感・個性的な表現力において野庭を超える演奏は存在しない・・というのが
私自身の今の所の定説みたいなものです!

1983年の演奏ですけど、とにかく課題曲から個性的でした!

課題曲C/カドリーユもダーダー吹きに近い、音をわざと押した様な感じのする
少し変わった演奏です。
あのレガート奏法を極端にしたような感じの解釈は、明石北高校の解釈にも近いような感じもあったと思います。
音の軽快さと流れの良さは、「課題曲としては最高の名演」と当時高く評価されていた習志野高校よりも
むしろ上なんじゃないのかな・・?と私的には感じたりもしています。
課題曲も自由曲も、共に演奏が非常に新鮮で、全く違った方向からアプローチをかけてきた若々しい楽しさが
随所に散らばっています。
88年の春の猟犬もそうでしたけど、この野庭のアルメニアンダンスパートⅠの特にⅤ・Go! Go!においては、
急激なpからffへの唐突感すらも感じられる急激なクレッシェンドとか、
ppからffへと一気に駆け上っていく爽快感は、やはりとてつもなく新鮮なものがあると思います。
普通はあんだけ個性的な表現を取ってしまうと演出過剰とかやりすぎ・・みたいに感じてもしまいがちなのですが、
それが少しも不自然に感じられない「爽やかさ」があるのも事実だと思います。

野庭高校のアルメニアンダンスパートⅠのど゛こが素晴らしいのかと言うと、やはり音楽の瑞々しさと感動性に
あるのだと思います。
83年出場のチームの中では「聴衆に何かを伝える」という意味では、確かに一部やり過ぎという側面は
否定できないのかもしれないですけど、「やはり野庭の感動性には敵わないよなぁ・・」と
今現在の感覚で聴いても、そう感じさせる「何か」は間違いなくあると思います。
この年は特に木管セクションの響きが美しかったのも、類稀なるこの名演の一因にもなっていたと感じられます。







最後に「ブラパン・キッズ・ラプソディー」という野庭高校を取材した1991年刊行のノンフィクション作品を
簡単に取り上げさせて頂きたいと思います。
ちなみにですけど、この作品をベースにしたテレビドラマも放映されていたようですね。
(私は、その日は仕事でしたので見ることが出来なかったのが少し悔やまれます・・)

この本を読むと分かるのですけど、当時の中澤先生は、相当の短気&怒りんぼうだったのですね!
だけど生徒に対する「熱い気持ち」は本当に胸を打たれるものがあります。
野庭高校吹奏楽部というと、1983年の普門館に彗星の如く登場したみたいな印象もあるのかとは思うのですけど、
いやいや、その陰では中澤先生をはじめ、部長・部員達なとの間で色々な葛藤や事件もあったのですね!
あの作品の中では、1982年の関東大会・銀賞の「海のうた」と翌年の全国大会初出場・初金賞の快挙を
前半のハイライトとして描かれてはいますけど、
確かに、実績も伝統も経験も抜きん出て上手い奏者が何も無いまさに「無いない尽くし」の中から、
まさに無から有を創造される産みの苦しみを経てのあの素晴らしい演奏が普門館初出場の舞台で
繰り広げられたまさに「軌跡は奇跡」もたいなドラマが展開されていたのですね!

初期の頃は・・・中澤先生と生徒達の関係は一対一の対等なパートナーという感じもなくはなかったのですけど
段々と野庭高自体が「吹奏楽有名校」としてマークされ
他校の追い上げが段々ときつくなる中で、徐々に・・・対等な関係から
幾分上から目線の奏者対圧倒的なカリスマと実績を誇る指揮者みたいな弱者対強者みたいな関係に
変わっていったのかもしれませんよね。
初期のアルメニアンダンスとハムレットがとてつもない「新鮮で瑞々しい音楽」であったのに対して、
1992年以降のクラシック音楽アレンジ路線へ転向して以降は、どことなくですけど
「オレがこの通り指示しているんだから、その通りに吹け!」みたいな幾分ですけど「奏者の自発性」が
薄れていった演奏になっていったような気がするのも、もしかしたらその辺りに関係あるのかな・・・?と
部外者的な視線では思ったりもします。

この「ブラバン・キッズ・ラプソディー」を読むと、1990年の結果的にダメ金になった関東大会のエピソードとして
興味深いエピソードが紹介されていました。

関東大会の前日に、トランペット奏者が自由曲で使用する掛け持ち用のコルネットを学校に置き忘れ、
部長もその奏者も中澤先生に中々報告できずにいて、
ついに練習中にそれが発覚し、中澤先生が大激怒したというエピソードが語られていますけど、
当時は既に中澤先生は大御所だったから、生徒も中々悪い報告はしにくいという
雰囲気はあったのかもしれませんよね。

実は、1990年の市川市で開催された関東大会は私も聴いていたのですけど
野庭の演奏は・・綺麗なんだけど・・・なんかおとなしい・・・・
飼い馴らされた羊・・・みたいな感覚もあったのですけど
もしかしたらですけど、前日のそうした事件がひきずられたままだったのかもしれませんよね・・・

ちなみにですけど・・・・

この記事をもって「吹奏楽カテゴリ」記事が累計800記事に到達いたしました!!

今年の7月にプリキュアカテゴリが累計1000記事に到達していましたので、
うーーむ、自分で言うのも何ですけど、私・・・意外と(?)吹奏楽記事も書きまくっていたのですね! (笑)
最近の当ブログは、プリキュアというよりは完全に「東方」がメインになってしまっていますけど、
そうした中、吹奏楽関連記事も、これからもどんどん書いていくつもりですし、
正直、吹奏楽記事は「無限」にネタがありますので、こちらのカテゴリも今後とも宜しくお願いいたします!!


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


クリフトン=ウィリアムズというと、1960年代~70年代にかけて日本の吹奏楽コンクールにおいては、
ほぼ毎年取り上げられるかなりの人気作曲家だったと思います。
その中でも特に、

〇ファンファーレとアレグロ

〇交響組曲

〇ザ・シンフォニアンズ

以上の3曲は古典的名曲だと思いますけど、最近のコンクールではほとんど演奏されないのはとっても残念ですね。
「ファンファーレとアレグロ」の冒頭のサウンドの鮮烈さはまさに「あざやか!」とか「とてつもないインパクト!」としか
言いようが無い「強烈さ」はあると思います。
まさにあれは「パンチが効いた」という言葉がぴったりだと思います。

個人的には、C・ウィリアムスというと、やはり忘れちゃいけない作品は交響的舞曲第3番「フィエスタ!」だと思います。
この曲、今現在の感覚で聴いても新鮮な感覚に溢れていて、
躍動感・リズムの切れ・楽しさは「名曲」の名に恥じないと思います。
前述の通り「ファンファーレとアレグロ」の冒頭もそうでしたけど、
いきなり金管楽器のファンファーレ的コラールで開始され、
その後打楽器(というかマラカス)だけの演奏になったかと思うと、
突然展開部が開始され、ラテン系リズムがゆるやかに楽しく展開されていきます。
コルネットのソロも素晴らしい・・・!! あのラテン系のノリの良さは、リードの「エル・カミーノ・レアル」の世界を
彷彿とさせてくれていると感じます。
曲としては、リズミカルな部分と情緒たっぷりの歌の部分が交互に繰り返され、ラストになだれ込んでいきます。
ラストのトロンボーン奏者によるグリッサンドがこれまた圧巻!!

いやー、聴いていて飽きることのない素晴らしい作品だと思います!

実は最近まで知らなかったのですけど、
この曲の原曲は実は実は管弦楽曲だったのですね・・・
オーケストラのための交響的舞曲というタイトルらしいのですが、
吹奏楽による「交響的舞曲第3番 フィエスタ!」は、管弦楽版による原曲の第三曲を吹奏楽用にアレンジしたとの事です。
何となくですけど、原曲版なんかは一度どんな感じの曲なのか聴いてみたい感じもしますし、
合計五曲あるというこのシリーズの中で、他の四曲がどんな曲なのかという事も興味はありますね。
一度なのですけど、上野の東京文化会館の音楽資料室等でウィリアムズの管弦楽版の「交響的舞曲」の音源とかスコアが
無いかを調べに行った事がありましたけど、確かその際は「該当なし」という回答がなされていたような
記憶があります。

この曲は最近の吹奏楽コンクールでもたまにですけど耳にする事もあります。
こうした古典的名曲が現在でもしっかりと受け継がれている事は本当に嬉しく思いますね!

この曲のコンクールでの名演と言うと
1977年の瑞穂青少年吹奏楽団に尽きると思います。
いや、あの演奏は本当に素晴らしい・・・!!
演奏がほぼノーミスだし、リズムの切れ・コルネットの音色・躍動感・たっぷりとした歌い方
どれをとっても文句のつけようがない素晴らしい演奏です。
電電中国【現・NTT西日本】も佐藤先生は、二回この曲を取り上げていましたね。
佐藤氏は1988年にも同じ作曲家の交響組曲を取り上げていましたので
余程C・ウィリアムスが好きだったのかもしれませんよね。

CDで聴くならば
ダン指揮/ダラスWO とか山下一史/東京佼成がいいと思うのですけど、私としては決してこの二つのプロの演奏が
「決定打」とは思っていません。
あの瑞穂青少年を超えてはいないと感じるだけに、この曲の更なる名演が今後出てくる事を大いに期待したいと
思います。

話は全然違うのですけどむかーし1984年のBJを眺めていると、東京都大会・高校の部予選会にて、
とある学校がこの交響的舞曲第3番を演奏し、規定違反により失格となったと記されていましたが
その規定違反とは何かと言うと
冒頭の打楽器(マラカス)だけの場面で、指揮者も奏者と一緒にマラカスを振ったからという理由との事です。
吹奏楽連盟の規定では、確かに

〇指揮者は課題曲・自由曲共に同じでないといけない

〇指揮者は演奏中は、楽器を演奏してはいけない

等の細かい規定がありますが、記事によると事前に
「指揮者が瞬間的に奏者と一緒にマラカスを振っても大丈夫か」という問い合わせをした上で
確認を取った上での失格という事でしたけど、
これがホントなら少し気の毒な感じはしますよね・・・

規定をよく見てみると、
指揮者がいなくても演奏可能とも書かれています。
実際私が知る限りでは、
指揮者なしでの演奏と言うと、1988年の天童市役所音楽隊の演奏が記憶に残っています。
あの演奏は私も生で聴きましたけど、課題曲・自由曲共に出だしだけ指揮者の阿部氏がタクトを振り
それ以外は指揮者も奏者として加わっていました。

プロのオケの場合、たまにですけど
ピアノ協奏曲の際、指揮者が独奏ソリストを務めながら同時に指揮を振るという事も
たまにあったりもします。
N響の定期演奏会でも、モーツアルトやラヴェルのピアノ協奏曲の際に、プレヴィンとかアシュケナージが
そうした事をやっていたと記憶していますけど、あれはかなり大変だと思いますね・・
さすがに吹奏楽コンクールにおいては、そうした規定もありますので、指揮者がソリストを兼任というのはありえない話
になってしまいますよね・・(笑)

 | BLOG TOP |  NEXT»»