プロフィール

ぬくぬく先生 

Author:ぬくぬく先生 
開設当時は、1980年代吹奏楽コンクールの花輪・秋田南・就実・仁賀保・屋代等の素晴らしい演奏を後世に少しでも伝える事が出来ればいいなと思ってこのブログを始めたのですけど、いつのまにか「プリキュア」がメインになってしまいました・・・
最近は「東方Project」も大好きです!!
吹奏楽もプリキュアも何か自分が感じた事を少しでも後世の方に受け継がれるべきものが残せればいいかな・・と思っています。
ちなみに、「大好きプリキュア四天王」は、ドリーム・メロディ・ハッピー・ラブリーです。
ドリームとメロディは自分の中では既に殿堂入り状態ですけど、
現在は・・・・ラブリー大好き!!のラブリー一辺倒です!!
リアル社会では、建築関係のクレーム&アフター責任者を専従し、毎日毎日クレーム対応に当たる日々です・・・
裏の顔は・・・プリキュアと吹奏楽とクラシック音楽一辺倒です・・・
特に特に大好きな作品は・・・プリキュア5とスイートとハピネスチャージです!!
ちなみに、奥様は・・・ミルキィローズとセーラームーン好きの管理人以上のおこちゃまです・・・
東方で大好きなキャラは・・・とにかく大好きキャラがてんこ盛りで、全員大好き!という感じなのですけど、特に特に・・・さとり様・ゆかりん(紫様)・早苗さんはお気に入りです!!
吹奏楽では・・ネリベルの「二つの交響的断章」と「アンティフォナーレ」、スパークの「ドラゴンの年」、リードの「オセロ」と第二組曲「ラティーノ・メキシカーナ」、パーシケッティーの「仮面舞踏会」、C・スミスの「ダンス・フォラトゥーラ」などが死ぬほど好きで、クラシック音楽では、ウォルトンの交響曲第1番と矢代秋雄の交響曲、プロコフィエフの交響曲第5番、アーノルドの交響曲第2番、第4番、ショスタコの交響曲第7番「レニングラード」、マーラーの交響曲第3番「夏の朝の夢」、ハンソンの交響曲第2番「ロマンティック」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」、ベルクの「ヴァイオリン協奏曲」、ラフマニノフの「交響的舞曲」などが大好きです!!
クラシック音楽を吹奏楽にアレンジし、そのコンクールヴァージョンの演奏としては・・・
1982年の就実高校の「幻想舞曲集」と
1987年の習志野高校の「ダフニスとクロエ」第二組曲の演奏、そして、
1987年の雄新中の「エルザの大聖堂への厳かな行列」が
まさに私の「原点」です。
最後に・・・
私の吹奏楽との関わりの真の意味での「原点」は・・・
1979年の市立川口高校の神がかり名演としか言いようがない
「二つの交響的断章」に尽きると思います!!


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リードの「ジュビラント序曲」は支部大会は仕方ないにしてもさすがに県大会・地区予選ですらもほとんど演奏されることのない
「忘れられた吹奏楽オリジナル曲」になりつつあるのかもしれないですね。
この5分程度の短い曲ですけど、ある意味私にとっては「メモリアルな曲」でもありますので、出来れば忘れられることなく
永遠にどこかのチームに演奏され続けてほしい曲の一つだと思っています。

この曲は、まさに初期のリードらしい簡潔なA-B-Aの三部構成として書かれていて、
パンチネルロ・インペラトリクス・春の猟犬・エル・カミーノ・レアルなどと共通の世界観があるのかなぁ・・と感じさせてくれます。

ジュビラント序曲は、1969年の春に作曲され、サム・レイバーン高校吹奏楽部に捧げられた曲で、
期待や可能性、若者たちの自然な熱狂をまさに絵に描いたような曲でもあり、
季節感としては「春」というイメージが大変強いと思います。
この曲はタイトルの「ジュビラント」(歓喜)が示すように、基本は2/4拍子で、曲の両端のアレグロは
まさに「ハッピー」を思いっきり音にしたような「音楽の喜び」・「楽しさ」が表現されていると思います。
冒頭から既に東方のフランちゃんではないですけど(笑・・)
「キュッとしてドッカーン!」みたいに爆発的推進力で溢れかえっていると思います。
そしてこの曲は後述しますけど、前半は「ソロ・クラリネット」が全体をリードし、このクラリネットのメロディーに乗っかる形で
他の木管・金管が絡んでいきます。
そして中間部は4/4拍子に変り、これが実に美しいですし、まさに「希望」と「ロマンチック」を絵にしたような
メロディーが奏でられていきます。
そして前半の再現部を経て、フルートのソロを経て、一旦曲が弱まったのを見透かしたように
突然のとてつもないfffが待ち構えていて、そしてそこから先は一気呵成に華やかにラストまで追い込んでいきます。
5分半程度の大変短い曲ではありますが、とにかく聴きどころが満載で
聴いていてとってもとっても楽しい曲だと思います。
その一方でクラリネット奏者、特にソロクラリネットとファーストクラの奏者は(かつての私のように)大変だと思います・・!

この「ジュビラント序曲」は、私にとっては私自身がチェンジする一つのきっかけになった曲でもありました。
その意味では私にとってはメモリアルな一曲と言えるのかもしれません。

高校の吹奏楽部に入部して間もなくの頃、
「あれれ・・? 自分のクラリネットの音色は全然クリアじゃないし、むしろ濁っている」と
自分の下手さにすぐ気が付き「これはまずい・・・」と思い、
とにかく先輩達に改めて一から教わりながら、アンブシュア・正しい呼吸法・ロングトーン・リードの調整法などを
とにかくひたむきに吸収していったと思います。
多分ですけどあの頃が私が10年間の奏者の中で一番真面目にひたむきに余計な事を考えないで
「クラリネット」に向き合っていた時期だと思います。
そしてあの頃は、教室とか廊下で、メトロノームを相棒にして、とにかくロングトーンをしまくっていたというか
「まずは自分が一番美しく出せる音はどの音だろう・・・」と考え初め
「中音域のCの音か・・・」
「それではCの音が美しく出せるようになったら次はDの音・・・」というように
当時の先輩たちの「美しい響き」を見よう見まねで吹いていき、
とにかく「美しい音」を一つの音でもいいから出せるようにしていこう・・!!としていったものです。
12月~2月頃なんかは、田舎の貧乏県立高校ですから授業と同時にだるまストーブは消されてしまうし、
廊下とか教室はとにかく寒かったですけど、セーターの上にジャンパーとかどてらを羽織ってとにかく厚着しまくりで
練習というかロングトーンしていたのはなつかしい思い出でした!
当時の私の感覚としては、「音楽の優しさも甘美さも厳しさも楽しさもまずは音色から」という意識が大変強く、
音楽の表現以前にまずは「自分のクラリネットとしての音をどうすれば美しく響かすことが出来るのか」という事ばかり
考えていたと思います。
そのために、まずは「たった一音でもいいから、これが自分のクラリネットの音だ!!」というものをつくりあげていこう!という
想いが大変強く、その一音をうまく出せれば、次の音、その次の音という感じでどんどん「自分の音」を
作っていけるんじゃないの・・?みたいな意識はあったのだと思います。
そうですね・・この感覚は、まさに「響け! ユーフォニアム」【第一期】第12話の
久美子の「うまくなりたい! うまくなりたい!」と泣きながら京都の夜の街を駆け抜けていったあの心境と
少しは重なるものがあるんじゃないの・・?みたいに思う事もあります。

さてさて・・・そうした日々の中、高校2年の定期演奏会の曲目が決定し、
ファーストステージの「吹奏楽オリジナル作品ステージ」の一曲目がまさにこのリードの「ジュビラント序曲」だったのです!
私の高校は男子校で慢性的なクラリネット奏者不足に悩まされ続けていましたけど、
当時、一人とてつもなくクラリネットが上手い先輩がいて、
この先輩が吹くクラリネットの音色が、当時の私にはまさに「憧れ」みたいなものでしたし、
まさに身近の偉大なるお手本みたいな存在でした。
そしてこの「ジュビラント序曲」に関しては、私とその先輩が「ファーストパート」というタッグを組む事となり、
私がファースト、その先輩がファースト兼ソロ担当という事になりまして、
当時の私としては、同じ曲で同じファーストを担当する事で、その先輩の間近にいるという事を最大限利用させて頂き、
その先輩の吹き方、マウスピースのくわえかた、ブレスのとりかた、
とにかく・・その先輩が吹く「ジュビラント序曲」を私自身が思いっきりマネさせて頂いたという形になったと思います。
「どうすれば美しい音を出せるのか・・・」と試行錯誤の末、その先輩のパクリに近い感じはありましたけど、
レガート奏法みたいなダーダー吹きみたいな感じの方が
何か美しく響くかな・・・自分には合っているのかな・・と思えるようになり、
結果として私のクラリネットの音色は「リズムが甘いベタベタ吹き」みたくなってしまいました(汗・・)
大学の吹奏楽団に入団して「確かに音自体は大変美しく鳴らせてはいるけど・・」と前振りがあった上で
「ヘンな奏法を身に付けちゃって・・・・」とよく指摘されてはいましたけど、
やはり高校時代のあの先輩の奏法とかクラリネットの音色に私自身は相当影響されていたと思いますし、
身近に上手い先輩がいた事で「どうすればクラリネットを美しく響かせることができるのか・・」という意識を
常に持つようになり、まさに私自身が「チェンジ」する一つのきっかけとなったのが
間違いなくこのジュビラント序曲なのだと思います。

最後に・・・

この「ジュビラント序曲」の歴史的名演は、1976年の瑞穂青少年吹奏楽団に尽きると思います!

この演奏はなんと・・! 5分10秒で完奏しちゃっていて一気に畳み掛けるスピード感溢れる素晴らしい名演だと思いますし、
とにかくソロクラリネットが本当にめちゃくちゃ上手いと思います。
この曲は作曲者のリードが東京佼成を指揮して自作自演の演奏もCDとして残していますが、
テンポが意外とゆっくりで演奏時間は6分半程度です。
瑞穂みたいな「若々しい」感じではなくて「大人としての演奏」を聴かせてくれています。
またとてつもなくマイナーな話ですけど、関東大会B部門で結果として銅賞なのですけど
新潟県代表の六日町高校も荒々しさと瑞々しさが混在した大変面白い演奏を聴かせてくれていたと思いますし、
ソロクラリネットの女の子が半分立ち上がったような雰囲気で腰を浮かしながらの
必死の演奏スタイルが当時極めて印象的に映りました!

とにかくリードの「ジュビラント序曲」は決して忘れてはいけない不滅の吹奏楽オリジナル曲ですので、この曲が後世にまで
ずっと誰かに演奏され続けてほしい!と心から願っております!
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「浜松」と言うと、私的には「音楽の街」というイメージがあります。
やっぱりそれは「ヤマハ浜松」の存在が大きいのかな・・・・?
元来、浜松市はオートバイや木工・繊維関連など、「モノづくりの街」として名を知られていますけど、
やっぱり最たるものは「楽器制作」ですよね・・・!!
河合楽器製作所・ローランドなど、名だたるメーカーが浜松市に集結していますし、
国内でのピアノ生産量は第1位ですからね!!

浜松は「世界最大規模の楽器の街」という印象が強いですね!

ついでに書くと、私の勝手なイメージがあるのかもしれませんけど、
「静岡県」はとっても住みやすい街というイメージがあったりもします。
気候が温暖で、住んでいる人達も温厚な人柄の方が多く、食べ物も美味しいし
同時に「おっとり」というすごくいいイメージがあるのですよね。
あくまで個人的な話なのですけど、知人とか職場で知っている人で静岡出身の人ってみんななんか
温厚で温和で人間的に魅力がある人が多いみたいなイメージがあったりもします。
何でそんな印象を持っているかと言うと、
以前もこのブログで書いている通り、私自身は1990年~96年の間は山梨県の支店に在籍していたもので、
その際の甲州人の「強引さ・よそ者排除意識・身内意識の強さ・甲州弁のガラの悪さ」等に
いささかうんさ゜りしていた面もかなりあり(あ・・・勿論、甲州には甲州の良さは一杯ありますよ・・・)
当時、仕事上、隣接県という事で静岡の方と色々と接点を持つ機会も多く、
その「人柄の良さ・おっとり感」に正直驚いてしまい、
「え・・・なんで隣同士の県なのに、こうまでも違うんだ! やっぱり今でも県民性の違いってあるもんだ!!」と
しみじみと感じたものです・・・(汗・・)

ヤマハ吹奏楽団浜松は、さすが楽器メーカーだけの事はあって
古くから日本の吹奏楽界をリードし続けた素晴らしい吹奏楽団だと思います。
特に何が素晴らしいかと言うと、その圧倒的に高い技術力もそうなのですけど、
日本の有能な作曲家に曲の提供、つまり委嘱をお願いする事によってその委嘱された曲をコンクールの自由曲として
演奏する事で、邦人オリジナル吹奏楽曲を数多く世に送り出してきたという事が
実は最大の貢献なのではないかと思ったりもします。

一例をあげると・・・

〇保科洋/交響的断章・カプリス・カタストロフィー・古祀

〇夏田鐘甲/ファンタジー

〇田村文生/アルプスの少女

〇田中賢/メトセラⅡ・紅炎の鳥・南の空のトーテムポール・始原Ⅰ~大地の踊りなど

〇藤田玄播/天使ミカエルの嘆き


この中では、今では演奏されなくなった曲もありますし、現在に至るまで積極的に演奏され続けている曲もあります。
こうやって、後世に受け継がれていく曲を委嘱と言う形で世に送り出し続けた
ヤマハの貢献度は、本当に素晴らしいものがあると思います。

ヤマハ浜松は、最初にコンクール自由曲用の委嘱作品は、邦人作品ではなくて、
実はあの「二つの交響的断章」でお馴染みのネリベルだという事は案外知られていないのかもしれないですね。
当時の指揮者の原田元吉氏がわざわざ訪米し、ネリベルに直々に
「是非我が吹奏楽団のために曲を書いて欲しい!」と依頼し、そこで出来上がった曲が
「ヤマハ・コンチェルト」なのです。
そしてヤマハ浜松は1970年の全日本吹奏楽コンクールにこの「ヤマハ・コンチェルト」を自由曲として出場し、
見事にグループ表彰制度開始のこの年に金賞を受賞しています。

この曲を知っている人、現在いるのかな・・・・? というかほとんど忘却の彼方の曲でもありますし
ヤマハ浜松以外はほとんど演奏された事もない曲ですので、
「誰も知らない・・」という曲といえるのかもしれないです・・(汗・・)
以前当ブログでこの曲について書いたところ、なおりパパ様より「この曲、知っている!」とコメントを頂いたこともあり、
「この曲をご存知の方がいて安心した・・」と妙に(?)感激したものでした! (笑)

「ヤマハ・コンチェルト」は、曲自体は意外と短く5分程度の曲です。
しかもネリベルとは思えないほど何か微妙に可愛らしい要素もあり、
「交響的断章」・「アンティフォナーレ」みたいな恐ろしいほどの不協和音とか畏敬を感じるほどのダイナミックスレンジの
落差の激しさという要素はほぼ皆無です。
曲のラストも、優しく可愛らしく終わり、思わず拍子抜けするほどです。
どちらかというと古典的な佇まいでチャーミングな雰囲気すらあると思います。
この前年度、1969年には、ヤマハ浜松は同じ作曲家の「フェスティーヴォ」を自由曲として
取り上げていますが、この曲はいかにもと言う感じのネリベルらしい作風なのですけどね・・・

この予想外の可愛らしさというか、管楽器の音の組合せの楽しさを発揮したのが
「ヤマハ・コンチェルト」の最大の魅力なのかもしれないですね。

ヤマハ浜松と言うと、知る人ぞ知る話かもしれませんが、1974年の全国大会には出場していません。
実は意外だったのですけど、東海大会の段階で、新日鉄に代表の座を奪われてしまいました。
ヤマハ浜松というと当時は既に王者の貫録という感じでしたけど
まさか新日鉄に敗れるとは意外だったでしょうね・・・
ちなみに新日鉄のその時の自由曲は、リードの「ジュビラント序曲」でした。
1974年のヤマハ浜松の自由曲は、保科洋の「吹奏楽のためのカプリス」という大変地味で陰気な印象のうすい曲であった
というのがもしかして敗因かどうかは定かではないですけど、
1975年のヤマハ浜松の自由曲は再度二年連続してこの、保科洋の「吹奏楽のためのカプリス」でしたので、
原田元吉氏としても余程悔しいものがあり、雪辱を果たしたかったのかもしれないですね・・・

最後に・・ヤマハ浜松は、
2015年度より、吹奏楽コンクールへの参加と、大都市圏でのコンサート開催を1年おきに計画し、
活動を2年周期で展開していく方針であることが発表していますけど、これって換言すると吹奏楽コンクールは偶数年のみ
出場するということなのでしょうか・・?
実際2015年のコンクールは不参加のようでしたし・・・
23.武生東高校


D/交響曲第3番「シンフォニーポエム」 (A.ハチャトゥーリアン)



北陸代表と言うと、1970年代~80年代当時においては、高岡商業と富山商業の2チームだけというイメージでしたけど、
武生東高校という学校が90年代以降は
富山商業を押しのけて、3年連続全国に出場していたのは驚異的な事だと思います。
(もっとも富山商業の坪島先生は、この時期勇退されているみたいですが・・・)
余談ですけど、そうした意味においては、80年代における北陸代表の富山商業と高岡商業という不動のレギュラー代表が
定位置を占めていた中で、1982年において金沢二水高校が高岡商業を退ける形で見事に代表の座をゲットしていたのは
凄い事だと改めて感じたりもします・・

武生東の全国大会初出場は1990年の「吹奏楽のための神話」でしたけど、この時はかなり緊張していた様子が
普門館からの客席にも伝わっていて、演奏自体もカチコチに硬くて見事に演奏が崩壊していたような印象があるのですけど、
そうした初出場時のに比べると、随分と進化していたような印象があります。
90年の初代表から結果的に3年連続北陸代表の座を実力で掴んでいたその実績が既にこの頃には自信となっていたのだとも
思われます。
演奏自体も90年の初出場と明らかに異なっていて、のびのびと吹いている様な雰囲気すら漂わせていたと思います。

だけどこの時代の高校の部は既にとてつもなくレヴェルが高い時代に突入していて、
ちょっとした印象の悪さや音程の悪さが散見されれば評価としては問答無用で銅賞という評価になってしまう
厳しい時代になっていたのだと思います。

このチームの特徴はいい意味でも悪い意味でもその「おおらかさ」にあるのかなとも当時感じていました。

そうした意味においては、この課題曲Dのような曲はこのチームにぴったりみたいな感じもあり、やはりそこから聴こえてくる
音楽にはのびのびとした楽しさがあったと思います。
だけど前半というか冒頭部分のリズムが少しギクシャクしていて、このリズム感の悪さを取り戻すのに
少し時間が掛ってしまったのが上記の印象の悪さに繋がってしまったような感じもあります。

自由曲のハチャトゥーリアンのシンフォニーポエムは、このチームのおおらかさ・素朴さ・素直な感じが
ストレートに発揮されていて全体としては大変のびのびと吹いていて、スケールの大きさも十分に伝わり
決して悪い演奏ではないと思います。
結果的にこの年も銅賞を受賞するのですけど、この銅賞はちょっと気の毒みたいな感じもあったと思います。
サウンドに少し濁りを感じた事と少し全体的におおらかで素直な響きなんだけどもっさりという印象も与えがちなのが
マイナス評価として審査されたようにも感じられます。
冒頭の炎のような金管セクションの咆哮は大変迫力がありましたけど、その後に展開される木管セクションの音のうねりが
少し弱かったようにも感じられますし、
確かに強奏時の熱演には目を見張るものもあるのだけど、中間部の木管を中心とした「しっとり感」は
できれば弱奏の熱演を求めたかったのですけど、その辺りは意外と単調にさくさくと進行していたのも、私としては少し
不満を感じたものでした。
だけどラストにかけての追い込みと盛り上がりは実に自然な流れで、「スレスレ銀賞に潜り込めるかな・・?」と思ったら
評価は銅賞という事で、やはり部分的な「濁り」が印象を悪くしたような感じもありました。

武生東はは翌年の1993年の「ローマの祭り」も惜しくも銅賞で
1994当時、高校の部では珍しい「5年連続銅賞」という珍しい記録が期待されたのですが(?)
94年以降は指揮者が奥田先生から植田先生に変った事が功を奏したのか結果的に初の銅賞以外の賞を受賞し、
5金ならぬ5銅は回避されていました・・・

最後に・・

このハチャトゥーリアンの交響曲第3番「シンフォニーポエム」は、1984年の花輪高校の全国大会初演より
2016年時点で計12回全国大会で演奏されているのですけど、
初演で元祖の花輪高校を超越する演奏は中々出てこないですね・・・
やはりそれだけ小林先生が指揮された花輪高校が偉大だったという事なのかもしれないですね・・・
(個人的には91年の内灘中とか97年の立正大学は好きな演奏です!)
1991年に全国大会初出場でリードのオセロで全国大会初金賞を受賞した
川口ブラスソサエティーが1981年の関東大会で自由曲に選んだ曲は「最後の誓約」です。
そしてこの「最後の誓約」という曲は、BJ等でもフィッシャートゥール作曲と提示されていましたので、
私自身も長い間、フィッシャトゥールという作曲家がこの「最後の誓約」という知る人ぞ知るウルトラマイナーな
吹奏楽オリジナル曲を作曲したものだと長い間思い込んでいました。

だけど最近判明したのですけど、フィッシャトゥールという作曲家は、実は、アコラーデ・儀式のための音楽で
少しは名が知れた「タル」という作曲家の名前でもあったのですね!
というか・・・1981年の関東大会のプログラムとBJの誤表記だと思うのですけど、
タルという名前は、Tull, Fisherというのが正式の名前で、これがなせかしらないけど、
本当は、タル・フィーシャーというのが正解の表記と思われる中、勘違い等によりなぜかフィッシャトゥールという
「架空の作曲家」(?)という名前か生み出されてしまったのだと思われます・・(笑)
だけどこれでなんとなく納得・・「最後の誓約」のあのミステリアスな雰囲気とアコラーデとか儀式のための音楽の
なんかヘンな雰囲気の作風は、見事に(?)合致するような印象もあったりします。
タルのアコラーデとか儀式のための音楽は、九州の春日市民吹奏楽団が自由曲に選び、全国大会で演奏し
2回とも銀賞を受賞していますけど、演奏自体の印象は淡泊であまり鮮烈な印象はないのですけど、
曲自体が「なんか変っている・・」みたいな印象は今でも私の中にはあったりもします。

それにしてもタル・フィッシャーと言う名前がいつの間にかコンクールプログラムの誤表記でフィッシャトゥールという
架空の名前になってしまった事は、タルには大変気の毒な話ではあるのですけどなんかくすっ・・となってしまいそうな
話しだとも思います。

この話はなんだかプロコフィエフ作曲の交響組曲「キージェ中尉」のストーリーをなんだか彷彿とさせてくれていると思います。

「キージェ中尉」は元々は映画音楽なのですけど、この映画のストーリーを簡単に言うと、
帝政ロシア時代のある皇帝の「勘違い」から始まった物語とも言えます。

皇帝が昼寝をしてうとうとしていると、突然女官の悲鳴が聞こえてくる・・・
皇帝は、廷臣達に「本日の見回り当番は誰なのか」と尋ねると、
「ポルーチキ……ジェ(中尉……です)」と答えたのを,
皇帝は「ポルーチク・キージェ(キージェ中尉)」と聞き違え、
その結果、「そうかキージェ中尉が、自分の睡眠を妨害した奴なのか」と憤慨し、
ここに架空の人物「キージェ中尉」が誕生してしまうのです。

そして、皇帝の命令でキージェ中尉は、シベリア流刑になってしまったのです・・

ある日、皇帝は「もしかしてキージェ中尉は、暗殺者の存在に気が付き、女官に悲鳴をあげさせたのではないか?
案外とキージェ中尉は、忠義心に厚いイイ奴ではないのか」と勝手に自分の頭の中で妄想してしまい、
「キージェ中尉をシベリアから呼び戻せ」
「キージェ中尉を昇進させよ」
「キージェ中尉にお似合いの花嫁さんを探せ」とか
廷臣達に色々と無茶難題を押し付けてくるので、廷臣達もしまいには面倒くさくなり
「キージェ中尉殿は、急死しました・・・」という事にしておき、
映画のラストは、キージェ中尉の葬式のシーンで終わります。

皇帝の勘違い一つで国中がドタバタしてしまう「皮肉」を描いたものともいえるかもしれません。
ま・・日本だって、総理とかのヘンな思い込みや勘違い等で国全体の方向性が随分と妙な方向に走る可能性だって
十分ありますから、そうした警鐘という点でも案外「キージェ中尉」のお話は、示唆的な話なのかもしれないですね。

話がそれました・・フィッシャトゥールじゃない・・タルの「最後の誓約」に話を戻しますと、

この「最後の誓約」という曲は、終始アダージョでゆったりとした感じの音楽です。
曲全体を通して不思議な緊張感と、静と動の対比が強く感じられる曲のように 思えます。
「最後の誓約」を吹奏楽コンクールの支部大会以上で演奏したチームは、2017時点では、
1981年の関東大会・一般の部に出場した川口ブラスソサエティーが今の所唯一の演奏事例です。
そして私自身は、今現在では会社倒産により会社自体が消滅しているトラヤという音楽テープ制作会社へのオーダーによる
カスタムテープという形でこの貴重な演奏をいまだに聴く事が出来ています。
1981年当時のバンドジャーナルのこの川口ブラスソサエティーの演奏の講評にて、
「吹奏楽曲として十分計算された曲で 曲の途中で大胆なffが出てくる」とか書かれていましたが、
まさにその通りの曲だと思います。
前半の静かさに対して、曲の中盤ですさまじい打楽器等による強音が響き渡り、
聴くものを思わず圧倒させます。
そして、ラストは再び静かになって静寂のうちに閉じられます。

何とも不思議な曲ですが、吹奏楽曲としては極めて珍しい終始ゆったりとした曲なので
妙に印象に残っています。
アレグロの部分は皆無で、アダージョ的展開なのに、途中ですさまじい盛り上がりを見せ、ラストは静粛のうちに終わるという
構成が当時としては少し珍しかったせいもあり、印象度としては強かったですね。

川口ブラスソサイェティーは、判明している限りでは、この演奏を含めて三回しか関東大会に
出ていません。
その内一度は、1991年に「オセロ」で全国金賞を果たしています。
但し、正直この年のオセロはカットだらけの演奏で、印象としては極めて散漫です。
むしろ翌年の信国先生の指揮での「ハムレット」の方が大人の演奏で しっくりときます。
92年の関東大会・一般の部は山梨県民ホールで開催され、その頃私は仕事の関係で
山梨在住でしたので、喜んで聴きに行きました。
信国先生は、88年の市立川口高校でこのハムレットへの音楽を自由曲として演奏していますが、
その際は、残念ながらトランペットをはじめ惜しいミスの連続で
印象としてはあまり良くものではありません。
終盤のチャイムの響きも正直鳴り過ぎてやかましいというレベルで、第一楽章アダージョの歌い方は素晴らしかったでけに
惜しまれる演奏です。
その点、92年の川口ブラスソサィェティーは、ほぼノーミスで、第一楽章もしっとりと 聴かせてくれ、
終盤の盛り上がりも極めて自然で 素晴らしい演奏だったと思います。
結果はダメ金で、全国大会に進めなかったのは大変残念でした。
1992年の関東大会・一般の部は、アンサンブルリベルテすらもダメ金でしたから、かなりレベルの高い大会
だったと思います。
アンサンブルリベルテは、今や日本のアマチュアの吹奏楽においてもトップクラスの演奏団体の一つで、
全国大会の金賞の常連チームではありますけど、
この当時は、まだそこまでは至っていなかった・・という感じでもあるのですが、
ダメ金なのですけど、アンサンブルリベルテの1992年の「せむしの仔馬 Ⅱ」とか91年の「アンカラ」なんかは
私は今でも大好きな演奏ですよ!

話を81年の川口ブラスソサィェティーに戻しますと、 この年の課題曲はB「東北地方の民謡によるコラージュ」でしたが、
同じ課題曲を「無言の変革」の市立川口も同じ指揮者の信国先生が振っています。
しかし、随分と両者は違いがあるものですね。
市立川口は、前半はかなり遅めのテンポで演奏しているのに対し、 川口ブラスは、普通のテンポに近い形で演奏しています。
市立川口がかなりひねった解釈をしているのに、 川口ブラスは、オーソドックス表現をしています。

その辺りの解釈の違いというのも面白いものがあると思えますし、そうした事も吹奏楽コンクールを楽しむ
一つの方法とも言えるのかなとも思いますね!
22.下松高校


C/バレエ音楽「バリの喜び」~序曲・ワルツ・マーチ・カンカン(オッフェンバック=ロザンタール編)



下松高校・・・うーーん、懐かしい学校ですね! 93年のベルキスの演奏を最後に全国大会からはもうかれこれ25年近く
遠ざかっていますし、最近では県大会止まりで終ってしまう事も多々あるようですけど、
いつの日にか名門復活が出来るといいですね。

中井先生が指揮された下松高校から聴こえてくるサウンドは、極めて「温かい」というか人間的な香りが漂っていると思います。
中井先生の経歴とかは正直全然わからないのですけど、そこから聴こえてくる音楽は、
いかにも普通の県立高校の先生と生徒が一生懸命「手作りの音楽」をして、その努力の結果として普門館に
たどり着いたみたいな雰囲気だと思いますし、
「厳しい中にも温かさが滲みでているような優しい音楽」みたいな音楽が滲み出ていたと思います。

最近の全国大会に出場する学校名を見れば一目瞭然なのですけど、やはり財力がありそうな私立の台頭が
目立っていますね。
そして下松高校のような普通の地方の公立高校が全国大会に出場してくるというのも
21世紀に入ると段々厳しくなってきたという実感もあったりします。
私も高校は田舎の県立高校で、とにかく限られた予算とおんぼろ楽器と絶対的なクラリネット奏者不足に泣かされ続けた
3年間という印象が大変強いのですけど、中井先生率いられれる下松高校も当時は
公立校としてのご苦労が相当あったのではないのかと推察されるのですけど、それでも80年代後半から90年代前半にかけて
あのような手作りの温かい音楽というのか「人間の触れ合い」らしい音楽を普門館の聴衆に提示し続けたくれた
中井先生と下松高校吹奏楽部の皆様には本当に頭が下がる思いですし、敬意を表したいと思います。
吹奏楽コンクールの中国支部というと80年代辺りまでは、基町高校・川本高校・下関商業・出雲高校、そしてこの下松高校
などのように公立高校がかなり健闘しているブロックという印象もありましたけど、最近ではやはり私立勢の優位が目立ち、
出雲北陵・明誠学院・岡山学芸館・おかやま作陽・鈴ヶ峯女子といった私立勢が全国大会代表になる事が
以前よりは相当多くなってきたようにも思えます。

そうした中での公立校としての下松高校の軌跡はまさに一つの奇蹟だったのかもしれないですね。

初出場当時の幻想交響曲のあのひ弱で音楽的個性がほとんど感じられない演奏から始まり、
確かに賞的には今一つ縁が無かったのかもしれないですけど、幻想序曲「ロメオとジュリエット」・アルメニアンダンスパートⅠ・
セント・アンソニー・ヴァリエーション・プラハのための音楽と毎回出場するごとに着実な「進化」を必ず見せてくれ、
それが最終的に「全国大会金賞」という果実が実ったのが1991年のプロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」」
で聴かせてくれたあのしっとりとしたリリカルな演奏だったのだと思います。

だけど大変惜しまれる事に、下松高校が唯一金賞を受賞した翌年のこの1992年の演奏が、それまで下松高校を牽引されて
こられた中井先生のとして最後の下松高校での指揮という事になり、翌年以降は中井先生は異動をされてしまい、
この1992年の演奏が結果として中井先生最後の下松高校での普門館という事になってしまいました。

改めてですけど吹奏楽コンクールで継続的に素晴らしい成績を維持し続けることは本当に大変難しい事なのだと思います。
前年度の91年に念願の全国初金賞を受賞し素晴らしい演奏を聴かせてくれながらも、翌年の92年の演奏は、
率直に言うと特に個性もない無難で平凡な演奏になってしまいました・・・
課題曲は、もう少し鋭さが欲しかった感じしますけど、どこなく「ほわわーん」とした締りの無い感じでしたし、
リズムの切れが欠けていたのが惜しまれます。
自由曲は逆に音楽が硬めで、もう少し柔軟さが欲しいとも感じました。
指揮者の中井先生の指揮棒からは「随分とやわらかくこじんまりとまとめられている・・」みたいな意図も感じたものですけど、
前年度の良い成績を今年も維持したいみたいなプレッシャーのせいなのか少し固さが感じられ、
もう少しのびのびの楽しみながら吹いた方が良かったような気もします。

前述の通り、結果的に中井先生としては最後の下松での演奏になってしまったので少し残念な感じは今でもありますね・・

私の採点では「銀と銅のポーター」と思っていたのですけど、結果的に銀賞に落ち着き安堵したものでした。
21.花輪高校


C/バレエ音楽「チェックメイト」より(ブリス)



今年はまだ終わっていませんし、残りあと四か月ほどあるのですけど、今年・・2017年度において、
私にとって最大の訃報は、かつて花輪高校吹奏楽部と秋田南高校吹奏楽部をご指導され、全日本吹奏楽コンクールで
数多くの歴史的名演を私達に残して頂けた小林久仁郎先生のご逝去の知らせだったと思います。

改めてですけど、ここに小林先生のご冥福を心の底より御祈願させて頂きたいと思います。

だけど小林先生の訃報の知らせは突然でしたし、「まだまだお若いしこれからもずっと吹奏楽界の発展に貢献して欲しい!」と
願っていた先生でもありましたのでショックは大きかったですね。
事実、当ブログは一応は「毎日更新」が一つの売りにもなっているのですけど、小林先生の訃報を聞いたとたんに
「そんなブログの更新なんてどうでもいいじゃん・・」と感じてしまい事実5日程本当にこの毎日更新のブログが止まって
しまった程、やはり私にとってもショックの大きさを当時物語っていたと思います。

私に出来る事は、小林先生と花輪高校吹奏楽部という素晴らしき存在を、定期的にこういうブログという文章の形でも
とにかく何か「記録」として残して頂く事と
小林先生や花輪高校吹奏楽部の演奏を私がせめてこの世にいる間は「決して忘れないで思いを馳せる事」なのだと
思います。

1992年の花輪高校の演奏は、2017年現在現時点では、結果的に最後の全国大会出場となってしまいました。
翌年の1993年以降は小林久仁郎先生は秋田南へと異動をされてしまいます。
(当時の秋田南は、90年~92年の三年連続県大会落ちという屈辱の歴史を味わっていますので
小林先生を秋田南へ赴任させることで名門校復活を秋田県の教育委員会が意図したという可能性もあるかもしれないですね)

私自身は、小林先生=花輪高校の本流はロシア系マイナーシンフォニーにあるの思っていますので、
前年度の1991年の「バッカスとアリアーヌ」みたいなフランス系路線とか
「永訣の詩」・「壁画」みたいな邦人路線は今一つ小林先生が求める音楽の本質と合わなかったと
言えるのかもしれないですね。
(私自身は小林先生の邦人路線は大好きですし、事実、秋田南での竹取物語とか舞楽は大・大・大好きですっ!!)
1992年は、吹奏楽では珍しいブリスというイギリスの作曲家の作品を自由曲に取り上げていました。
1982年にも東北大会でダメ金でしたけど、ウォルトンの交響曲第一番終楽章を自由曲に取り上げ、
うちのブログではあのウォルトンの一番の超名演を何度も何度も執拗に取り上げている事で分かる通り、
あの演奏には「魂を揺さぶる何か」が間違いなくあったと今でも確信しております。
つまり、イギリス音楽と小林先生の相性は意外とも感じるぐらい実に大変良好なものがあったと思います。
イギリス音楽にも小林先生は造詣が深かったのかもしれませんね。
歴史に「もしもという言葉はNG」とよく言われるのですけど、もしも小林先生が21世紀に入って以降にどこかの市民吹奏楽団の
指導をされ吹奏楽コンクールに出場され、自由曲にイギリスの作曲家のアーノルドの交響曲を演奏されたら
一体どんな感じの演奏&解釈をされていたのかというのは実に妄想のし甲斐があるようにも思えます。
というか・・・どちらかというと重厚な曲を好まれた小林先生が軽妙・ユーモア・現代的なスピード感と爽快感が
一つの売りにもなっているアーノルドの音楽をどのように料理されるのか考えただけでなんかわくわくしそうです・・(笑)
それが今となっては叶わない夢というのも実に残念な話ではありますね・・・

1992年の小林先生としては結果的に最後の花輪高校の普門館での演奏なのですけど、
この演奏は正直驚きでもあります!
当時この演奏を生で聴いていた時も感じましたし、後にこの演奏がCD化された時も感じたのですが、
一言でいうと「それまでの路線と比べて明らかに音楽が洗練化されスマートになっている!」というものでした!
自由曲のブリスのバレエ音楽は、急-緩-急の三曲を選んでいて、特に最後の曲のスケールの大きさは素晴らしかったと
思いますし、緩い部分の大人っぽいしっとりとした歌いまわしも素晴らしかったと思いますし、この緩い部分にどことなく
「寂寥感」みたいな表情も感じられ、花輪高校にしては珍しく(?)都会的なチャーミングな雰囲気も感じられたものでした。

以前のラフマニノフ/交響曲第一番 ショスタコ/交響曲第一番 ハチャトゥーリアン/交響曲第二番「鐘」
プロコフィエフ/交響曲第三番などの演奏のように細かいミスがたまに目につきサウンドが少々荒かった頃に比べると
とても同一チームとは思えないほどサウンドは洗練され、技術も安定しています。
自由曲のブリスの音楽も緩急をしっかりと表現し、随分と大人びた演奏を残しています。
課題曲も三善晃らしいスピード感と音楽の切れを遺憾なく聴衆に聴かせていたと思います。
(私個人としては、課題曲Cの演奏としては、高岡商業・都立永山に次ぐ素晴らしい演奏だったと思います)
そうですね・・・特に自由曲の洗練さは、これはこれで素晴らしいけど、やはりどうしても私としては、
花輪高校というとロシアマイナーシンフォニーの「荒ぶる魂の叫び」なんかを期待しちゃうのですよね・・・(笑)
だけど、この年の花輪は、素晴らしい演奏を最後に普門館で聴かせてくれましたし、
非常に惜しい銀賞だったと思います。
上記で述べた通り、都会的洗練さ・ツンデレの女の子みたいなチャーミングな雰囲気は従来の花輪高校にはほぼ皆無の要素
でもありましたので、「これは来年以降は別の花輪高校のサウンドに変身しちゃうのかも・・!?」みたいな
期待感も感じさせてくれる演奏だったと思いますし、
花輪高校としての「変化」を示唆する演奏であったような気もします。

それだけに結果論ではあるのですけど、せめてあと3年程度は小林先生は花輪高校を指揮されて欲しかったなぁ・・と
今更ながら感じることも多々あったりもします。
そして翌年以降小林先生は、秋田南へと異動され、そして立派に秋田南高校吹奏楽部を立て直され、
1994年には秋田南を引き連れて1988年以来久しぶりの全国大会に臨むことになります。
(94年の秋田南のあの気合入りまくりの饗応夫人と竹取物語は感涙ものでしたね!!)

花輪高校は、1990年の吹奏楽コンクールは「三角帽子」で東北大会ダメ金だったのですが、
翌年の「バッカスとアリアーヌ」・翌々年の「チェックメイト」は生まれ変わったような
洗練されたサウンドに生まれ変わったことは前述の通りなのですけど、
これは小林先生自身ももしかして、「さすがに今までの表現スタイルは時代にそぐわないから、自分たちも
チェンジを図る必要がある」と思われて、小林先生としての「変化」を示した演奏と言えるのかもしれないですね。
花輪高校の1992年のサウンド・音色は、「究極の繊細さ・洗練さ」の域に達しているように感じられます。
小林先生が初めて花輪高校を引き連れて普門館にやってきた1978年の音色・サウンドと単純に比較すると、
雲泥の差があるようにも感じたりもするのですが、これは別にだから78年の演奏はダメ・・と言っている
訳ではありません。78年のラフマニノフには、当時としての美点もたくさんあると思います。
だけど、78年と最後の92年の演奏のサウンドの違いと言うのは、まさに小林先生が1978年→1992年にかけて花輪高校で
育んできた「一つの進化」としての結果なのだと思います。
あの荒ぶるロシアの魂路線からスタートした小林先生が最後に求めたものとは「繊細さ・洗練さ」だったのかもしれないですね。

改めてですけど、小林先生=花輪高校は、とにかく「伝説」だと思います!
ブレーン社から出ている「レジェンダリーシリーズ」の花輪高校編を聴くと、花輪高校の偉大さがご理解して頂けると思います!!
(今回は割愛しますけど花輪高校の吹奏楽コンクールでの選曲は本当に素晴らしいものがあるともいえると思います!)
何よりもあの花輪高校特有の響きは大変洗練されデリケートに美しく響く幽玄なサウンドながら、
時に豪快に、時に荒っぽく、時に咆哮し激高する等、その自由自在な表現も大きな魅力だったと思います。
花輪高校吹奏楽部は1978年の小林先生赴任以前も既に吹奏楽の名門校という立ち位置ではありましたし、
佐藤修先生時代のあのとてつもなく地味な選曲&渋すぎる表現力も大変魅力的ではありましたけど、
花輪高校を更にさらに大きく飛躍させたのが小林先生の赴任なのだと思います。
小林先生は赴任一年目から、いきなり、ラフマニノフ/交響曲第1番第四楽章という
当時誰も目にも留めなかった曲でいきなり全国大会金賞を掴みとってしまいますが、
1979年の2年目のショスタコーヴイッチにしても、自由曲の定番中の定番の交響曲5番ではなくて、
交響曲第1番を選ぶあたり、小林先生の目の付け所の確かさを感じてしまいます。
1980年のハチャトゥーリアン/交響曲第2番「鐘」も81年のプロコフィエフ交響曲第3番も
どちらも第一楽章を選びながら、
ラストにおいては、第四楽章の終結部を巧みに結合させてしまう辺りに、その大胆さと音楽的センスを
感じてしまいます。
(そうそう、小林先生はクラシック作品を吹奏楽用にアレンジされる事にも大変素晴らしき才能を発揮された先生であり、
 事実、小林先生が編曲されたハチャトゥーリアンの交響曲第3番「シンフォニーポエム」はいまだに全国大会でも
演奏され続けられています!)

花輪高校吹奏楽部は、1992年の演奏以降は現在に至るまで吹奏楽コンクールの全国大会の表舞台から
姿を消してしまいますけど、別に「吹奏楽コンクール」だけが全てではありませんし、
何よりも「花輪高校吹奏楽部の偉大なる歴史」は永遠に不滅ですし、
少なくとも「私の心」の中では私が生きている間は少なくとも記憶され続けると思います!

最後に・・・

とにかく私は声を大にして申し上げたいです!

「秋田県立花輪高校吹奏楽部は永遠に私たちの心に刻まれ続ける!!」ということを!!

そしてもう一度だけお悔やみの言葉で締めさせて頂きたいと思います。

小林久仁郎先生、どうぞ安らかにお眠りください・・・、そして「ありがとうございます!」という言葉だけは
お伝えさせて頂きたいと思います。
一つ後の記事が「秋」がテーマにもなっていますので、それに合わせる形で本吹奏楽記事もテーマは「秋」です!

今年の夏は7月は暑かったけど8月は天候不順で冷夏とか梅雨の延長戦みたいな感じもあり、
8月に関してはあんまり夏らしくなかったのかも・・とも感じてしまいます。
最近はまたまた暑さが戻ってきていますし、まだまだ残暑が厳しい8月下旬なのですけど、
何となく・・・
「ああ・・・もう夏は終わりなんだな・・」と感じる事も多くなってきたようにも思えます。
それを一番感じるのは、日が暮れるのが結構早くなってきた事だとも感じます。
先日も仕事で夕方過ぎまで外を廻っていたのですけど、PM19:00を過ぎると、結構もう辺りは暗くなっています。
「あれれ・・・最近までこの時間帯はまだ明るかったのに・・」と思ったのですけど
それだけ季節は秋に少しずつ近づいているのかもしれません。
何よりも、最近ではセミが鳴く声も大分下火になってきましたし、 夜は結構涼しくなってきたようにも感じられます。
それにしても今年は7月に入ると急激に暑くなってしまいましたね!
あの時は「7月初めの段階でこんなに暑かったら今年の夏はどうなってしまうのだろう・・」と少し不安に感じたものでしたけど、
やはり人間と言うものは、暑さ・寒さも含めて環境に順応してしまいますし、暑さも結局は「慣れる」という事で
なんとか対応できるものなのですね。

何となくですけど最近季節が「あ・・・秋に向かっているんだな・・」と一番感じた瞬間は、
水田の稲の色が今までの青っぽい感じから幾分黄色というのか、黄金色みたいに色が変化しているのを
見た瞬間なのかなとも感じたりもします。

暑い、暑いと言っていても、水田一つとっても着実に季節は秋に向かっています。

そんな事をふと思ってたら、頭の中を不意にある一つの曲が駆け巡ってきました。

それが何かと言うと、1998年全日本吹奏楽コンクール課題曲Ⅱ/稲穂の波でした。

吹奏楽コンクールの課題曲の変遷の歴史を簡単に見ていくと、
1970年代後半から1992年までは書下ろしオリジナル作品とマーチの混合
1993年から2000年代初期の頃は、奇数年がマーチの年で偶数年が幾分長めの書下ろしオリジナル作品の年
そして最近は・・・中学の部限定とか小編成用とか色々と興味深い工夫もある中、
基本的には昔のような書下ろし作品とマーチの混合というパターンに戻ったような感じもあります。
1998年は、偶数年でしたから、オリジナル書下ろし作品の年でしたけど、
まだこの年は、1994年の例えば、饗応夫人とか雲のコラージュのように課題曲だけで6~7分程度の
長い課題曲という余韻がまだ幾分残っているような感じもあり、
4曲ともいずれも演奏時間は4~5分程度の曲でした。
この年は何となくですけど、Ⅰの童夢とⅡの稲穂の波に人気が集中していたような印象もあるのですけど
私は、何と言ってもこの課題曲Ⅱ/稲穂の波が大好きでしたね!!
この曲はもイメージがしやすいというのか、黙って目を閉じてこの曲を聴いていると自然に
目の前に広大な田んぼが広がっていて、「秋の収穫」を目前に控えた頃の黄金色に輝く一面の田んぼというのか、
そうした何か「日本人の心のふるさと」みたいな情景が 勝手に入り込んでくるのですよね・・・
風でさーーーっと穂がゆらゆらと揺れ動くみたいなイメージも自分の中にはありました。
とっても分かりやすい曲で、難しいメロディーも変拍子も特になく、不協和音も無く
頭の中にすーーーっとメロディーラインが入り込んでくるとっても優しい曲だったと思います。
この曲、何度も支部大会・全国大会で耳にしたのですけど
どのチームも曲のイメージがしやすいせいか、課題曲にありがちな「無味乾燥な演奏」というのは
比較的少なかったようにも思えます。

この課題曲の作曲者の福島弘和氏は、最近では
「ラッキードラゴン〜第五福竜丸の記憶」とか
シンフォニエッタ第2番「祈りの鐘」で吹奏楽コンクールでもお馴染みの方なのですけど
私としては、祈りの鐘もかなり大好きな曲なのですけど
この「稲穂の波」とか2000年課題曲Ⅰ/道祖神の詩の方により惹かれるものがあります。
なんかこの作曲者はも日本の「古き良き情緒」をイメージさせる曲の方が私にとっては、よりしっくりくるような気もあります。

「稲穂の波」ですけど、
出だしはゆったりと開始されますけど木管楽器のたっぷりとした歌に心からじーーんとくるものがあります。
金管がコラール風に瞬間的に盛り上がった後からの中間部はアレグロ的に展開され、
このシャキシャキと進行していく感じが何か・・・個人的には「風」をイメージしちゃいます。
中間部の速い部分は、ホルンの雄叫びみたいな感じとタンバリンがシャリシャリ鳴っている部分が
特に気に入っています。
中間部のラスト近くで一旦テンポを少し落とし、コラール風に展開していく部分は、本当にあれは泣かせてくれますし、
ああいう感覚は、多分ですけど、日本人の「伝統的美意識・わびさびの世界」の琴線に触れる部分のようにも感じられますし、
日本人にしかわからない音楽なのかな・・・とも思ったりもします。
静かに閉じられるラストも実に秀逸だと思います!!

なんていうのかな・・・「郷愁」の世界なのかもしれませんよね。

だけどとにかく私、この課題曲は大好きです!!

77年のバーレスク 79年のフェリスタス 81年の東北地方の民謡によるコラージュ 82年の序奏とアレグロ
83年のインヴェンション第一番 85年の波の見える風景 86年の変容 86年の序曲 87年の風紋
90年のランドスケイブ 92年のフューチュリズム 94年のベリーを摘んだらダンスにしようなどなど・・・
色々と素晴らしい課題曲は一杯あるのですけど
この「稲穂の波」も決して忘れてはいけない課題曲の一つだと思います!!
20.札幌白石高校


D/バレエ音楽「ガイーヌ」~序奏・友情の踊り・アィシェの孤独・剣の舞・収穫祭 (A.ハチャトゥーリアン)



札幌白石高校というと私のイメージとしては、指揮者の米谷先生という印象が大変強いですし、チーム全体の
「おおらかさ」という雰囲気が良い意味でプラスの評価に繋がっているような感じがあります。
米谷先生の勇退以降はやはりあの素晴らしき演奏とか全国大会金賞という栄誉からは少し遠ざかっている感じもしますし、
ここ数年は北海道大会で終わってしまい全国大会に進めない状況が続いていますけど、
この素晴らしき名門校の復活もいつの日にか大いに期待したいものがあります。

札幌白石は、私的には結構面白いチームだと思っておりまして、毎年毎年金賞と銀賞スレスレの
結構スリリングな演奏を聴かせてくれていて、ライヴ感覚を大切にしているというのか
「たとえ本番の普門館のステージでも何が起きるかわからない、どんなドラマが起きるのかわからない」みたいな
演奏を毎年のように素敵に聴かせてくれていたみたいな印象もあったりもします。
何ていうのかな・・、これはあくまで客席から聴衆の一人として聴かせて頂いた印象としては
「本番のステージでも普段の練習通りの正確な演奏というのではなくて、その時のノリと勢いで何をしでかすか
わからないチーム」みたいな印象も感じていたものでした。
毎年のように「危なっかしいな・・・」と感じさせてくれる面もあるかと思えば
「たっぷりと歌いあげてくるな・・・」と感じさせる面もありましたし
「このアレグロの生き生きとした流れは本当に素晴らしいな!」と感じさせてくれることも多々ありましたし、
プラスに転ぶのかマイナスにずっこけるのかどっちに転ぶのか演奏開始するまでは分からないみたいな
結構「アドリブ的な」側面も感じさせてくれ、それが実に伸び伸びとしていて
高校生らしい素直な演奏を毎年聴かせ続けている要因にもなっていたような印象もあります。

そうですよね・・・・

ある意味不思議なチームでもあり、あれだけ毎年毎年全国大会に出場し続ける「名門チーム」でありながら
何か「名門」とか「伝統」とかいう言葉があまり似合わないような「おおらかさ」も感じさせてくれていたようにも
感じられます。
完璧な技術力とか洗練されたサウンドを持っているとか、決してミスをしないとか
そういう「完成されたチーム」ではないと思います。
だけど何か普通の高校生が一生懸命日々練習してきた結果、ここまで仕上げてきましたという
何か手作りのような感じの音楽を毎回聴かせてくれて、
毎回聴くたびに「温かいモノ」を感じさせてくれるチームだとも感じられます。

何か毎年毎年「気取りのない演奏」を聴かせてくれていてとても親しみやすい雰囲気を持った学校というのが
私が米谷先生自体の札幌白石高校に感じていた率直な印象です。

札幌白石高校は、基本的には課題曲にはマーチを選ぶチームでしたけど、
マーチの演奏に関しては、札幌白石高校は、当時の阪急百貨店・嘉穂高校と同様に定評があり、
この年の課題曲も「ゆかいな仲間たち」に相応しい楽しく温かみのある親しみやすい行進曲だったと思います。
やはり札幌白石高校はこういう曲を演奏させると、高校の部では右に出るチームはあんまりないような気すらしますね!

自由曲の「ガイーヌ」は、序奏~友情の踊り~アイシェの孤独~剣の舞~収穫祭という1990年の中央大学と同じ構成を
取っていましたが、特に「剣の舞」が鮮やかだったのが印象的です。
「剣の舞」というとプロの管弦楽団の演奏ですら、時には「たた強奏をがなりたてるだけ」という単調な演奏も
多いとは思えのですけど、札幌白石の剣の舞は、音量を意図的に落した部分と次の瞬間の再度の強奏の
落差が大変見事で、そのダイナミックスレンジの幅の広さは素晴らしいものがあったと思います。
特にスネアドラムの小気味よい叩き方とかリズム感のよさとか金管セクションの耀きある響きは大変申し分かったと
思います。
収穫祭は、冒頭からいきなりホルンが少し外し気味でしたね・・
ラスト近くのホルンの雄叫びの再現部分も、もう少し音量が欲しかったですし強調されてもいいと思いましたし、
少しパワー不足のような気もしましたが、全体的には非常に楽しい雰囲気を最後までキープしていたと思います。

この年も銀賞と金賞の境界線の演奏に近かったと思いますが、何とか金賞にすべり込んでいました!
19.駒澤大学高校


C/交響詩「ローマの祭り」~ Ⅲ.十月祭 Ⅳ.主顕祭 (O.レスピーギ)



駒澤大学高校というと、あくまで私個人の印象なのですけど、1980年代~90年代にかけては
可もなく不可も無くというかあんまり際立つ「個性」がない無難な演奏ばかりする学校かな・・?という感じで、
確かに都大会には毎年のように出場していたものの、「なんか今一つ印象に残らないチームだな・・・」という印象がありました。
都大会の結果も銀賞という結果が多かったような印象もありました。
だけど、21紀に入ってからの駒澤大学高校は突然変異という覚醒を起し、急激に上手くなって言ったような感じで、
全国大会でも何度も金賞を受賞する全国でも強豪校の一つに進化した様な印象があります。
このチームは確か1983年の組曲「ハーリ=ヤーノシュ」以来指揮者はずっと吉野先生ですので
他から優れた指揮者を引き抜いたわけでも無く、いわば、生え抜きのようなものですから、
長年の吉野先生のご苦労が見事に報われ、大輪の花が全国大会でも咲いたと言えるのかもしれないですね。

「駒澤」と聞くと大学の部のあの名門・駒澤大学をついつい連想してしまい、
「大学があんなに上手いのだから付属の高校だったきっと上手いんでしょ・・」と思われがちなのですけど、
1980年代中盤から2000年代前半までほぼ毎年のように都大会を聴いていた人間から
言わせて頂くと駒澤大学高校に関してのコメントは
「駒澤高校・・・? うーーん、なんか微妙な立ち位置・・」という感じだったのかもしれないです。
上記で書いた通り、確かに毎年のように都大会予選を勝ち抜け都大会本選に出場していたと思いますけど、
都大会の演奏を聴く限りは、「無難」とか「おとなしい」とか「ギラギラした個性があんまり感じない」
「洗練されたサウンドだけど聴く人に伝わるものはあんまりない・・」という印象が強かったような感じもあります。
都大会でも出場すれば毎年銀賞を取り続け、
銅賞と言うレヴェルではないけど全国大会代表・金賞を掴みとるまでのテクニックとか音楽性は
有していないチームみたいな感じもあり、そのあたりは全体的には「中途半端」という印象は拭えなかったと思います。

1992年の全国大会では、駒澤大学高校と東海大学第四とで「ローマの祭り」が
2チーム続けて演奏されていたのですけど、
単純比較で言うと、東海大学第四の圧倒的なエネルギーの塊りとパワーと絢爛豪華さの前では
駒澤大学高校の「おとなしさ・無個性・貧弱さ」は逆に際立っているようにも感じたものですし、
同じ「ローマの祭り」を自由曲に選びながらも、両校の違いは一目瞭然という感じだったと思います。
結果論ですけど、プログラム17~19番の3チームの自由曲はレスピーギが3チーム続いた訳なのですけど、
高岡商業・東海大学第四の「華麗なる音の絵巻」とは対照的に
駒澤大学高校の「サウンドの貧弱さと何かを伝えようとする表現力の弱さ」がかえって浮き彫りになっていたようにも
感じられたものでした。
もちろん駒澤大学高校の演奏自体は決して悪いものではなくて、音もサウンドも技術も標準以上のレヴェルはキープ
されていたと思いますし、
全く別の見方をしますと、高岡商・東海第四のあの強烈な鳴りっぷりに少し耳が疲れた後でこの駒澤大学高校の優しい音楽を
聴くとなんとなくですけどどこかホッ・・とするものはあったと思います。
更にいうと、プログラム16~18番の兵庫・高岡商業・東海大学第四というアクの強い演奏が高校の部の後半以降に
立て続けに続いていましたので、確かに「ローマの祭り」という豪快で鳴る曲を選びながらも
「どこか安心する・・ホッ・・とする」みたいな駒澤大学高校の演奏は、普門館の聴衆にもどこなく一息つかせるような
効果もあったんじゃないのかなと思います。
そう感じさせた要因は、課題曲のシャープさと切れ味というよりはマイルドな雰囲気の音の交錯が案外よかった事と
「ローマの祭り」も十月祭という少しマイルドな部分から開始させていた事も挙げられると思いますし、
全体的に確かにあんまり個性とかアクの強さは感じないけど、どことなくのんびりとしていたような雰囲気が
ローマの祭りという曲を取り上げながらもマイルドさを聴衆に伝えていたのだとも感じられます。

だけど、全体的にはちょっと今一つの仕上がりでもありましたし、結果として銀賞に入賞しましたけど、
限りなく銅賞に近い銀賞で、スレスレで銀賞に潜り込んだという印象が私の中にあったりもします。
そうですねぇ・・、私の本音を書いてしまうと、92年の都大会においては、都立永山は文句なしの代表でしたけど、
もう一つの代表枠を巡って結果的に関東第一と駒澤大学高校が激突していたようにも感じたものですけど、
あれはどうみても関東第一の課題曲Cと自由曲のプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」の方が断然秀でているように
感じたものです。
プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」というと、関東第一にとってはある意味トラウマのある自由曲で、
87年にあまりにも有名な「チューバ奏者置き去り事件」によって全国大会の本番のステージにおいてチューバ奏者が
わずか一人で演奏する自体に陥り、当時の関東第一の木管セクションの技術不足もあり、
全国大会銅賞という悲惨な結果に終わってしまいましたけど、その雪辱を果たした演奏が92年の都大会の関東第一の
あの素晴らしい名演だったと思います。
関東第一の92年の都大会の演奏は客観的に聴いても全く非の打ちどころが無く、表現力も劇的な雰囲気も大変
優れていましたけど、なぜか審査結果は銀賞に留まり、全国大会出場はこの年は果たせませんでした。
そして関東第一の代わりに全国大会出場を果たしたのが駒澤大学高校だったのですけど、
プログラム19番の駒澤の演奏が始まると、やはり私としては
「駒澤よりも関東第一に全国大会に出場して貰い、87年のリベンジを果たして欲しかったなぁ・・」と感じたものでした。
18.東海大学第四高校


A/交響詩「ローマの祭り」~Ⅰ.チルチェンセス Ⅳ.主顕祭 (O.レスピーギ)


この年の東海大学第四高校(現、東海大学札幌高校)の演奏は、高校の部の中でも群を抜く素晴らしい演奏
だったと思います。
私個人の感想としては、この年の高校の部のグランプリは常総学院でほぼ確定・・
それに次ぐのが、東海大学第四・高岡商業・洛南なのだと思います。
この年の東海大学第四高校の自由曲は、高岡商業と同じレスピーギを取り上げていますが、
東海大四の方は、「この曲をとことん盛り上げたい!!」・「豪快に鳴らしたい!!」という気持ちをストレートに音にした
実に高校生らしい伸び伸びとした演奏だと感じたものです。
この点、同じレスピーギを自由曲に選んだ高岡商業が、知的さ・洗練さ・指揮者の完璧な制御に象徴されるように
ある意味計算され尽くされた人工的な香りの演奏をしていたのに対して、
東海大学第四高校は、本能の赴くままに豪快に鳴らし、「自分たちの吹きたいように吹けた!」みたいに
音楽が自由自在でやりたい放題という印象が大変強く、
結果的にこの両校はこの年の金賞に輝いたものの、目指していた方向性には随分と違いがあったんじゃないのかな・・?
みたいに感じたりもしたものでした。ある意味対照的な演奏とも言えると思います。

だけど、東海大学第四のこの路線は結果的に成功していると思います。
聴いていて実に心地良いというか、鳴っているのに逆に「もっと吹け!! もっと鳴らせ!!」と突っ込みを入れたくなるような
演奏だったと思います。
演奏が実に生き生きとドライブしていて、躍動感と圧倒的な存在感はお見事の一言に尽きると思います。
冒頭のチルチェンセスの爆演からとにかく鳴らしっぷりが半端ないですし、主顕祭に入ってからも
その豪快な鳴らし振りは「壮絶!」の一言に尽きると思います。
だけど単なる「音の暴力」というのではなくて、パートバランスがきっちりと図られているとか
全体合奏の中で「超えてはいけない一定の音量の限界ライン」を絶対に超えないとか、
音色が大変澄み切って明るく透明感があり、サウンドに微塵も濁りがないため、どこまでいっても音楽が
清純という印象を与えているという点は大変申し分なかったと思います。
クラリネット・トロンボーン・トランペットなど随所のソロパートも、ソロになっても貧弱になる事は全くありませんでしたし、
何よりも演奏の隅から隅まで「自分たちはこのように吹きたい!」という奏者の自発性と積極性が
普門館の客席の隅から隅まで十分すぎるほど見事に伝えていたのは、本当に素晴らしいと感じたものでした。

なんていうのかな・・?

奏者がお人形さん状態とか、いかにも指揮者が「このように吹きなさい」と言われたから指示通りに無機質に吹くという感じは
皆無であったというのがこの音楽的積極性の一因と言えるのかもしれなかったです。
課題曲Aのネレイデスが大変しっとりと抒情的に静かに響かせていたのも、自由曲「ローマの祭り」という派手な曲との
対比性という意味で見事なバランス感覚と音楽的対照性の素晴らしさを提示していたのも
大きなプラス要因だったのではないかと思います。
だけど面白いもので、この演奏から4年後の1996年にやはり同じくレスピーギの交響詩「ローマの松」の演奏を
普門館で聴いた際の私の印象は、92年とは全然異なるもので
「奏者の自発性があんまり伝わってこない・・」とか
「指揮者の井田先生の意向と解釈が奏者の存在感を少し弱めているような印象」とか
「鳴っているけど音楽が単調すぎるのかも・・?」と感じたのは、私の耳が変化したというのではなくて、
それがむしろ「スクールバンドの毎年の出場メンバーの変化」という事が大きいのだと思いますし、
前年度に積極果敢な演奏をしたチームが翌年は別人チームのように無味乾燥で消極的な演奏になってしまう事も
決して珍しくないという日本のスクールバンドの特徴を示唆したような話なのだとも感じたものでした。

この年、1992年において、東海大学第四高校と埼玉の埼玉栄高校のジョイントコンサートが開催されていて、
その合同演奏で演奏された曲の一つが「ローマの祭り」であった訳でして、
東海大学第四も埼玉栄も吹奏楽コンクールの自由曲として「ローマの祭り」を選んでいたのですけど、
東海大学第四は無事に全国大会出場を果たしていたのに対して、埼玉栄はまさかまさかの関東大会ダメ金というのは
極めて意外な展開でもありました。
この年の関東大会・高校の部は私自身も聴いていたのですけど、私個人の感想としては、
「関東支部における全国大会代表4チームは、常総学院・埼玉栄・習志野・東海大学相模で決まりじゃん!
今年は、市立柏・野庭は間違いなく関東大会ダメ金で敗退じゃん・・」と感じていたのですけど、
あの年、まさか埼玉栄がダメ金で全国大会に進めなかったのは極めて意外でした!
東海大学第四とのあの素敵なジョイントコンサートとか関東大会のあの素晴らしき名演を聴いた限りでは、
まさか埼玉栄がダメ金で全国に進めないとは全く微塵も予想していなかっただけに、改めて
「コンクールの一発勝負の怖さ」と「コンクールとは審査員の偏見と好みに左右されることもある」という事を
改めて実感させられたものでした・・・
あの年の関東大会を聴いた限りでは、野庭と市立柏がまさか全国大会代表になるとは夢にも思わなかったですし、
全国大会での柏と野庭の演奏を再度聴いても、残念ながら私自身の印象は全く同じでした・・(汗・・!)

埼玉栄の「ローマの祭り」は是非普門館の聴衆の皆様に聴いて欲しかった素晴らしい演奏だっただけに
惜しまれるものがありました。
だけど埼玉栄は、1997年に再度自由曲に「ローマの祭り」を自由曲に選び、この年は全国大会でも素晴らしい名演を
聴かせてくれ雪辱を果たしてくれたのは大変素晴らしかったと思います!!
過日の報道により既に皆様ご存じの通り、現・平成天皇の生前退位と平成31年元日からの新元号開始と
いうのがほぼ既定路線になっているようですね。
天皇陛下の退位をめぐり、政府は2019年1月1日に皇太子さまが新天皇に即位し、
同日から新たな元号とする方向で検討に入ってはいるようですね。
国民生活への影響を最小限に抑えるため、元日の改元が望ましいと判断したみたいでして、
政府の想定通り進めば、現・天皇陛下は2018年12月31日に退位し、
:結果的に「平成」は30年で幕を閉じることになりそうです。

うーーむ、なんか感覚としてはつい先日(・・??) 当時の故・小渕恵三内閣 官房長官が
「新しい元号は『平成』であります」と、平成という新元号を発表したような感じもあるのですけど、その小渕氏もとうに
彼岸の彼方の御方ですし、
これで新元号が始まったら、私のような「昭和生まれ・昭和育ち」はとてつもないアナログ世代として、
平成生まれの皆様から「だから昭和生まれは古くて嫌なんだよなぁ・・」と言われてしまい、
ますます肩身が狭くなってしまうのかもしれないですね・・(滝汗・・!)

さてさて、1976年の全日本吹奏楽コンクール・高校の部においては、当時の高校の部においては
「名門中の名門校」として既に不動の地位を占めていた奈良県・天理高校吹奏楽部が選んだ自由曲と言うのが、
陶野重雄作曲「皇太子のための祝典音楽」という大変地味な曲でした。
そう・・!
この曲のタイトルの「皇太子」とは現・平成天皇・・つまり、間もなく生前退位される天皇の事なのです!
1976年当時はまだ昭和天皇がご健在の頃でしたので、
(確か同時期にアメリカまで公務で行かれ、かなり長期滞在されていたような印象があります)
「皇太子」というと浩宮さんではなくて、現・天皇陛下の事だったのです!

やはりこういう所にも「歴史」というものは感じるものなのかもしれないですね。

そうそう、歴史と言うと、この年、1976年は吹奏楽コンクールにおいては「かなりの大きな出来事」があったりもしたものでした。
その一つが、当時の押しも押されぬ名門中の名門の一位&金賞常連校の兵庫県今津中学校吹奏楽部が、
なんと・・!
楽劇「ニュールンベルクのマイスタージンガー」前奏曲でもってまさかまさかの銅賞を受賞し、同時に
同じく名門中の名門の天理高校吹奏楽部が、2016年時点までにおいては、今の所唯一全国大会で銅賞を受賞したという
まさに歴史的事件が起きたものでした!
今津中学校の銅賞の要因は、簡単でして、実はかなりの音量過剰がその敗因でした。
今となっては真偽は確かめようもないのですけど、横浜での全国大会の本番直前に、今津の大将というか指揮者の
得津武史先生が「ただいまから今津の殴り込みを行う、みんな張り切って先生の棒について来い!」と
余計な事をいってしまったら、素直な生徒さんたちはppがfに、pがfffになってしまうとてつもない大音量の爆演を
炸裂させてしまい、審査員ほぼ全員一致の銅賞という審査結果になったというエピソードが残されています。
そうですね・・少し補足をいたしますと、実は今津中学校は1973年にも自由曲として76年と同じ
楽劇「ニュールンベルクのマイスタージンガー」前奏曲を自由曲にしているのですけど、この時も音量に関しては
相当なものがあったように感じております。
ま・・要はその「程度」の問題とか「許容範囲問題」を超越したかどうかというのが73年の金賞と76年の銅賞を分けた
境界だったのかもしれないですね。
ちなみにですけど、翌年の1977年の今津中学校は当然のように形勢を立て直し、当時の審査員から
「まさに国際的水準!」とか「知的な演奏!」と大絶賛された歴史的名演の歌劇「運命の力」序曲でもって金賞を受賞し、
前年の雪辱を果たしています!

話がそれました・・天理高校に話を戻します。

天理高校は順位制度から金銀銅のグループ表彰制度に大きくコンクールのシステムが変更になった後も
順当に金賞を受賞し続け、1970~73年で4年連続金賞を達成し、
「5年連続金賞→翌年は特別演奏」という栄誉に王手を掛ける事になります。
しかし、1974年のリードの「ハムレットへの音楽」でまさかの銀賞!
まさかまさかの75年もコンクールを通常通りの「出場」という事になってしまいます。
75年の自由曲の交響詩「おやさま」という曲は、ある意味、天理高校らしい選曲というのか、
天理教の教祖でもある中山みきの事を「おやさま」とも言うらしいのですけど、
その天理教の教祖でもある中山みきの生涯を音楽としてまとめた山田耕筰作曲の交響詩「おやさま」を
吹奏楽にアレンジしてコンクールに臨んでいます。
この演奏ですけど、アレンジは相当ひどいです・・・(汗・・)正直センスが良くないというのか、
ソロ楽器の扱いがひどいです・・・
だけど・・・・
演奏自体は大変素晴らしいものがあり、鄙びた感じとか素朴さとか純朴さが大変うまく表現されていると思います。
中間部のゆったりとした反復される歌い廻しとか打楽器の扱い方とか表現としては中々魅力的です。

そして翌年の1976年は、75年と同様に邦人作品で臨むのですけど、
そう! それが前述の「皇太子のための祝典音楽」なのです!
「皇太子のための祝典音楽」という曲は、そうですね・・・正直あんまり聴き応えがしない地味な曲を選曲したという事も
あると思いますし、
コンクールとしては今一つインパクトに欠ける曲というせいもあったと思いますし、
もしかして・・・・
谷口先生の「74年に金賞を取れていれば75年は特別演奏だったのに・・・」という未練があったかどうかは
正直よく分からないのですけど、印象としては大変中途半端みたいな演奏を残しています。

天理にしては珍しいくらいの凡演だったようにも思えます。やはり名門・天理高校と言えども
全ての年に名演を残せるという訳では無いようですし、指揮者も奏者もやっぱり「人の子」ですからね・・

余談なのですけど、過去のBJの審査員・批評家の支部大会・全国大会における批評を読み返してみると
中々面白い事もあるものですね。
(BJとはバンドジャーナルといって、吹奏楽専門雑誌です)

その一つの事例が、上記の1976年に奈良県の吹奏楽の超名門高校の「天理高校」に関する事で、
支部大会と全国大会のBJの批評にて、全く同じ一人の批評家から
全く真逆の事をコメントされている記事を見つけた際は、結構驚いたものです!

関西大会でのBJの演奏評は、辻井市太郎という大御所先生が担当されていて、その際には、
「自由曲は初めて耳にする曲であり、アメリカで出版されたものとの事だが、
天理であるからこそ立派に演奏できたとの印象を受けた。
その上、天理の有する独特のサウンドが聴く者を更に納得させた」という大変ベタ褒めコメントをされていました。
しかし、全国大会でのBJの演奏評は同じく辻井市太郎氏が担当していますが、この時は、
「自由曲はコンクールに適応していないものである。
世界の名曲に混じって、いかに高度な技術を有する天理であっても
曲そのものの格調を変える事は無理だったのだろう。
まずは選曲失敗の範疇に入るものである」と、全く正反対の事を言われていました!
そうですね、今現在の感覚で言うと、
「おいおい、おっさん・・・・おまえ、全く同じ演奏を聴いて、どうして関西と全国大会では
演奏そのものではなくて曲自体に対する印象がこうまで違うねん・・・!!」とか
「おいおい、おっさん、関西大会の際には、おまえさん一体なんてコメントしていたのだよー」
とか色々とツッコミを入れたい気持ちにもなったりもしたものでした・・(苦笑・・)

今となっては天理高校の当時の関西大会と全国大会の演奏の実況音源がありませんので
比較とか検証のしようがないのですけど、
一般的に吹奏楽の世界は、支部と全国では、朝一番という悪条件を別とすると
それほど極端な出来不出来の差は無い事が多いですので、
この辺りも「審査員・批評家の一つの気まぐれ」なのかもしれませんし、
同じような演奏でも気分とかによって印象が変わる一つの事例なのかもしれませんよね。

言える事は、
ある同じチームの演奏を聴いても、人によって「感じ方・感想」に違いがあるという事なのかもしれません。
審査員の評価と私自分が感じた評価と会場内の雰囲気には「ズレ」が生ずることもしばしばあり
要は、「審査員の感じた事や評価」が絶対的に正しいものではないし、
感じ方は人それぞれであり、そこに絶対的正解というものは存在しないという事なのかもしれないです。
要は、自分達一人一人が「この演奏素晴らしい!」と感じた演奏がその人にとっては「名演」という事なのであり、
それは人それぞれなのかもしれないですね。

昔のBJ(バンドシャーナル)のバックナンバーを何気なく読んでみると、
現在のBJの演奏評はかなりマイルドになっているというか、幾分くだけたような印象も感じられます。
逆にそれは、プロの目から見ても、「あまり文句の付けようがないほど演奏技術が上がった」という
一つの表れなのかもしれませんよね。
1970年代から80年代の頃ですと、かなり辛辣な評価も目立ったりもしますね。
「ここまで書いたら相手が傷つくでしょう・・・」みたいなひどい事を羅列した演奏評も
随分と散見されていたような印象もあります。
というか、アマチュアの中学生相手に何もここまで書かなくてもいいじゃん! 少しはさじ加減してあげてよ!みたいな記事も
あったりもします。

その代表例が村方千之先生の辛辣な激辛コメントですね・・・・
(ま、この先生、基本的に褒める事はまずしませんけど・・・滝汗・・!)
この先生は御年90近くになってもまだ現役で指揮者教室を開催されていて、
いまだに現役バリバリなのですけど、
口が悪いというか激辛コメントはいまだに健在なのかな・・・・??
この先生のBJでの講評は、1982年以降ピタッと無くなりましたけど、
さすがにあれは学校関係者・PTAあたりから音楽の友社に苦情が殺到したのかもしれないですね。

村方先生の過去の激辛コメントを少し記してみると・・・・


〇音の出し方、フレーズの作り方が全体に雑で、ピッチもバランスも悪く、マーチらしい軽快さに欠け、
  音楽的にはかなり無神経な演奏

〇演奏はこの日最も粗雑なもので、譜面の読み込み方が足りないのか、音の長さやフレーズは
  全体にいい加減で、ただ気分で曲を流しているような感じ

〇曲の良さに乗って譜面をただ追いかける指揮者の姿勢には本質的な問題がある。

〇躍動するフレーズ感に乏しく、盛り上がりや迫力に欠け、全く面白みがない。
  情感の欠けた演奏は人を楽しませることは出来ない。

〇このような無神経さで○○のような曲に取り組むのは、音楽を大切にする姿勢ではない、

いやいや現在ではあまり見られない「辛口」を通り越した「激辛」コメントですよね・・・
しかもこれ、アマチュアの中学生とその指導者に対するものですから、もう少し「配慮」は必要なのかもしれないですね。
ま、確かにこの時代のコンクール支部大会には、中には本当に相当ひどい演奏も数多く
あったと思いますけど、未熟な子供たちには、こうした「激辛コメント」を聞かされて音楽が嫌になるよりは
何か少しでも「良い所」を見つけて褒めてあげる方が「子供たちが将来、音楽に対して興味を持つ第一歩」になる可能性の方が
高いようにも思えるのですけどね・・

それは「長所を見つけて褒めて人を伸ばす教育論」と「短所を徹底的に克服させる教育論」の違いとも
いえそうですね。

あれれ・・? なんで今回は「天皇陛下の生前退位」の話がここまで話がそれてしまったのでしょうか・・? (汗・・)
17.高岡商業高校


C / バレエ音楽「シバの女王ベルキス」より 、Ⅱ.戦いの踊り Ⅰ.ソロモンの夢 Ⅳ.狂宴の踊り (O.レスピーギ)


1989年から92年頃の高岡商業って凄過ぎると言うのか、ある意味神がかった域に達していたとすら感じてしまいます。
89年のローマの祭り、90年のペトルーシュカ 91年のシンフォニエッタ、そしてこの年のベルキスと 
怒涛の圧倒的名演を残しています。
まさに指揮者の土合先生=高岡商業サウンドが確立されていた時期と言えるのだと思いますし、
21世紀以降の高岡商業の没落振りを考えると、この時期が高岡商業としての黄金時代と言えるのではないのかな・・?と
感じてしまいます。

89年のローマの祭りはパフフルさと圧倒的音量が一つの売りというのか、高岡商業の代名詞でもあったようにも
感じられるのですけど、90年のペトルーシュカ以降は、そうした圧倒的なサウンド・音量の迫力は健在ながらも、更にその上に
「知的さ」・「洗練さ」が加わり、エレガントで優雅な名演を残していたように感じられます。
特に90年のペトルーシュカは素晴らしかったです!
この自由曲は残念ながら、当時は著作権の問題で収録NGの都合上、
あの素晴らしい演奏がCD化されていなかったのは大変惜しまれます。
Ⅰの導入部とロシアの踊りとⅣをメインに構成されているのですけど、とにかく細かい所にまで驚異的に
仕上げられていて、同時に迫力も華麗さも申し分ないという稀有な名演だったと思います。
そしてあの年は、それまでのブレザー制服ではなくて、プロの管弦楽団みたいな紫のステージ衣装が
とても印象的でした!
91年のヤナーチェクも素晴らしい知的な演奏で、なぜこの演奏が銀賞なのか今でも全く納得していないですね・・
そして、この年92年のベルキスなのですけど、
印象としては、「余力を残して、力をセーブしても余裕で金賞」という感じです。
83年とか89年の同じ作曲家のレスピーギなのですけど、ボリューム的には相当セーブをかけていると思います。
迫力不足という感覚は全くなく、サウンド的に大変よく鳴っているのだけど
それが全然うるさいと感じさせない次元の高い演奏を披露しています。
高岡商業というとサウンドが絢爛豪華とかとてつもない豊かな音量というイメージが強い学校なのですけど、
90年~92年の三年間、その中でも1992年の演奏は、
本当は鳴らそうと思えばもっと豪快に鳴らす事も出来たのだけど、そうした安易な音量作戦を回避して、
知的に美しく響かせるという方向性にシフトしていたのは、高岡商業としての一つの大きな成長とも進化とも言えるのだと
思えますし、従来までの音量路線に「ちょっと違うのかも・・」と違和感を感じ
「吹奏楽=音量と華麗なる響きという方向性とは違う方向性を自分たちは模索してもいいのではないのか・・?」と試行錯誤を
重ねた結果としてのあのベルキスがあったのではないのかな・・とも感じたりもします。
確かに92年の高岡商業のベルキスは、知的で音量も少し抑えている傾向にはあるのですけど、95年にやはりベルキスを
自由曲として選び、去勢されたかのような迫力に欠けるベルキスを演奏していた野庭高校とは明らかに一線を画すものは
あると思います。
野庭の場合は、意図的に奏者の自発性を奪い取っているみたいな印象もあったりした中で、
92年の高岡商業の場合は、そうした奏者の自発性の欠如という雰囲気は皆無で、指揮者と奏者がよく話し合った中で
ああした方向性のベルキスが生まれたみたいな自発性も窺えるような演奏だったと思えますし、
高岡商業の場合は、全部が全部音量的に抑制しているという訳では無くて、鳴らすべきところは、以前のローマの祭りのように
大爆発・炎上を引き起こしていましたから、やはり両者のベルキスには、天と地ほどの差があったようにも
感じられたものでした。

この年の高岡商業の課題曲Cの三善晃の「クロス・バイ・マーチ」も見事な演奏だったと思います。
この曲は形式的には確かに行進曲なのですけど、さすがに「深窓の祭り」の作曲者はそんな単純なマーチを作らず
構成的に大変厄介な曲を課題曲として提供し、この課題曲を選んだチームの多くを
整理不足と練り込み不足という自体に追い込んでしまう大変な難解な曲でもあったと思うのですけど、
高岡商業は、曲の整理整頓がきちんと出来ていた上に、曲としてのリズム感が大変シャープで鋭く、
内省的に大変テンションの高い演奏を聴かせてくれていたと思います。
自由曲の「シバの女王ベルキス」も前述の通り、従来までの「豪快な鳴らせっぷり」だけに留めず、
曲としての構成美・内省的な響きをきちんと追及していたのはさすがだと思います。
演奏部分も、Ⅱ・Ⅰの中間部分・Ⅳの後半から構成し、静かな部分は少なく「鳴る部分」をメインに構成しているのですけど、
音量的にも音楽の構成的にも「やかましさ」を全く感じさせず、逆に意図的に音量を抑える事で知的さとかしっとり感を
むしろ強調させていたのは、前述の通り、高岡商業が単なる音量のチームだけではなくなったという一つの成長と進化を
示唆するものであり、高岡商業としての一つの大きな節目と高みに達したようにも感じられたものでした。

音量を意図的に抑えるのは指揮者のコントロールだと思うのですけど、「奏者の自発性を奪う」みたいな方向性に
ならす゛にむしろ奏者としての自発性と積極性を引き出している奇跡のような素晴らしい名演だと
感じたものでした。
普門館の会場からは「ちょっと抑え過ぎなのかも・・」とか「美しいけど少し物足りないのかも・・」みたいな雰囲気も
あったのかもしれないですけど、
鳴らすべき所はちゃんと鳴らしていましたし、最後のバンダも十分効果は伝わっていたと思いますし、
私としては「これは素晴らしき進化」と高く評価されて然るべき演奏だと思っています。

まさにグランプリレヴェルの金賞だと思います!
毎年東芝から発売されている吹奏楽のポップス作品を収録した
「ニュー・サウンズ・イン・ブラス」シリーズは
毎年毎年楽しい演奏を聴かせてくれるので結構好きです。
中でも少し古いのですが、1989年のシリーズは、個人的には過去最高傑作シリーズと
思っています。

収録曲目が

〇ディズニーメドレーパートⅡ

〇イバネマの娘

〇ニューヨーク・ニューヨーク!

〇ユーミン・ポートレート

〇アメリカングラフティー(メドレー)

〇ひき潮

〇ラプソディー・イン・ブルー

などと素晴らしい作品がてんこ盛りです。



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ディズニーメドレーⅡは、チムチムチェリー~ビビディ・バビディ・ブー~不思議な国のアリス~
君も飛べるよなどのメドレーで、
チムチムチェリーの粋な編曲がとても印象的です。
「イバネマの娘」なんて懐かしすぎます・・・
「アメリカングラフティー」も、
悲しき片思い・オンリーユー・ミスターベースマン・ヴァケィションなど古き良き時代の
アメリカが音楽で再現されていて大変魅力的です。

だけど圧巻は「ユーミンポートレート」なのだと思いますっ!!
荒井由美時代から松任谷由美時代の名曲の数々が繋がれていき、
ユーミンの偉大さを改めて痛感させられます。
だけどその選曲が素晴らしいですね! 本当にいい仕事をしていると思いますし、1989年以降の曲ですけど
「春よ、来い」という一曲が追加されていたらもっと素晴らしいメドレーになっていたのかもしれないですね・・(笑)

メドレー曲に収録されている曲ですけど、

〇翳りゆく部屋

〇あの日に帰りたい

〇リフレインが叫んでいる

〇朝陽の中で微笑んで

〇卒業写真

〇中央フリーウェイ

〇雨のスティション

から構成されていますが、私的にはリフレインが叫んでいると中央フリーウェイが 大変印象的です!

中央フリーウェイから雨のスティションには、アルトサックスとテナーサックスの素敵なソロが
華を添えています。
卒業写真では、ホルンがソロメロディーを担当しているのが何とも大胆のように感じられます。
この卒業写真のメロディーってどうしてこんなに胸に沁みてくるのでしょうか・・?
「あの日に帰りたい」も素敵な名曲ですけど、さてさて、私が「帰りたい」と思っているあの日とは果たしていつなんでしょうか・・?

吹奏楽作品でも、たまにはこうしたポップス曲を聴くのも
楽しいものですね!
吹奏楽コンクールの気合に溢れた演奏もいいけど、たまにはこうした楽しく懐かしいメドレーを聴いて
リフレッシュかるのも素敵な事だと思います!
16.兵庫高校


D/バレエ音楽「ロメオとジュリエット」 (S.プロコフィエフ)



素晴らしい演奏だと思います!

結論から言うと、この年の兵庫高校のコンクールとしての評価は銀賞という結果に留まるのですけど、
私個人としてはこの審査結果には大変不満を感じます。
閉会式の審査結果発表の際に銀賞と発表された際は「マジかよ・・なんでこの演奏が銀賞なの・・?」と
頭を抱えたものですし、この審査結果には今でも到底納得いかないものがあります。
松井先生時代の兵庫高校の全国大会での金賞は、1989年の「ディオニソスの祭り」と93年の「シンデレラ」なのですけど、
あくまで私個人の好みで言うと、この年の「ロメオとジュリエット」とか90年の「火の鳥」とか96年の「三つのオレンジへの恋」という
コンクール評価としては銀賞の演奏の方が金賞受賞の演奏よりも大好きというのは、
私自身がどちらかというと「個性が漲っている演奏」の方により強い共感を感じるという要素が強いというのが
大きいからと言えるのかもしれないですね。

全体的に積極的な表現姿勢に好感を持てますし、指揮者の松井先生のアクの強さが全体に漲っていると思います。
課題曲Dは、一般的に中学生がこの曲を演奏するととっても幼く感じるのですけど、高校生がこうした曲を演奏すると
真価を発揮するというのか、楽しさと親しみやすさと曲の構成の見事さを感じてしまいます。
この課題曲は一聴した限りでは「単なる子供っぽいマーチ」のように聴こえてしまう傾向があると思うのですが、
例えばヤマハ浜松とか阪急百貨店の演奏を聴くと多分一目瞭然だと思うのですけど、
この曲はきちんと聴かせ所が備わっていて、特にラストへの追込みにかけての曲としての構成美は素晴らしいものが
あると感じています。
(ヤマハ浜松のティンパニ奏者の曲の追込み感と打点の見事な打ち込みは聴いていて惚れ惚れするものがありました!)
兵庫高校の課題曲Dも単なる「楽しさ」だけではなくて、そうした曲としての構成美を適切に聴衆に伝えていたのは
大変素晴らしいものがあったと思いますし、高校の部の課題曲Dとしてはグランプリクラスの仕上がりだったと
思います。

だけど圧巻は自由曲の「ロメオとジュリエット」だと思います。

低音部がチューバを中心にバリバリ過ぎるくらい豪快に鳴らしていて、
「少し鳴らし過ぎかな・・?」と感じる部分も多々あったのだとは思いますけど、
低音の充実した響きという土台がきちんと出来ていたからこそ、課題曲も自由曲も終始大変安定していた
演奏を展開していた大きな要因になっていたんじゃないのかな・・?とも感じますね。
最近、この年の兵庫高校の課題曲と自由曲を改めて聴いてみたのですけど、やはりあの「低音セクションの安定と充実感」は
素晴らしいものがあると感じました。

この「ロメオとジュリエット」は、一般的には、モンターギュ家とキャブレット家~タイボルトの死という組合せが
大変ポピュラーな組合せと言えると思いますし、このバレエ音楽を自由曲に演奏するチームの大半はこの組合せと
なっています。
1987年に天理高校がこの組合せに「ジュリエットの墓の前で号泣するロメオ」を入れたり、
1986年の中央大学の林紀人アレンジVerのように、朝~喧嘩~少女ジュリエット~タイボルトの死という組合せという
パターンもあるのですけど、
この年の兵庫高校は、後半のタイボルトの死をメインに据えながらも、バレエ音楽全体の中から、
コンクールではあまり演奏されないような箇所からも曲の構成に加えたりと、演奏解釈とは別に選曲という意味でも
大変個性的な面は感じられたものでした。
曲の構成も、全体的には静→動→静→動という雰囲気だったと思いますし、その辺りも音楽としてのストーリー性を
大変意識されていたようにも感じられ、この辺りも大変好感を感じたものでした。

この年の兵庫高校はどのあたりが特に素晴らしかったのかと言うと、第一に自分たちのやりたい音楽の方向性を
明確に示している点、第二に、明示するだけではなくて、積極的に自分たちの音楽を
聴衆に伝えられる高度な技術を持っている点だと思います。
とにかくあの音楽的積極性は素晴らしいですし、静かな部分のリリカルでしっとりとした雰囲気も素敵なものがありますし、
激しく鳴らせる部分は上記で書いた通りの低音セクションのかなり重厚な響きもあり、
まるでロシア陸軍の重量戦車部隊の重厚な行進を彷彿とさせる充実した響きがそこにはあり、
悪く言うと威圧的にも聴こえちゃうのかもしれないですけど、やはりあの充実した響きは、「見事なハーモニー」だと
言えるのだと思います。

だけど、こうした音楽の方向性は、審査員の評価は割れるのかも・・と予想していたら、案の定銀賞にとどまってしまいました。
新屋高校・愛工大名電と並んで非常に惜しい銀賞だと思いますし、
私個人はいまだにこの年の新屋高校と兵庫高校の銀賞には全然納得していないですね!
私個人としては、新屋と兵庫は、十分金賞に値する素晴らしい演奏だと確信しています。
15.嘉穂高校


D/交響的舞曲~第三楽章 (S.ラフマニノフ)


吹奏楽コンクールの指揮者の中には、熱血・情熱という先生も数多くいて、中にはとんでもない大振りの先生も
いたりもします・・(笑)
とてつもない大振りの先生と言うと、私のこれまでの記憶・印象の中では雄新中学校を指導されていた鈴木清先生の
あのとてつもない大振りなんですけどあの情熱溢れる指揮と演奏とその熱くて感性豊かな表現が
大変鮮烈でした!

嘉穂高校の竹森先生の指揮は、マスク等を指揮されていた1970年代もコッペリア等を指揮されていた1980年代も
結果的に最後の普門館のステージとなった1995年のスパルタカスもどの時代も共通して言えることは、
絶対に大振りはしないで大変コンパクトな指揮をされていたという事に尽きると思います。
見た限りにおいては、振っているのか振っていないのか分からないような大変コンパクトな指揮をされていて、
例えどんなにffの大音量の際とか曲全体がとてつもなく盛り上がる際でも
大振りされることなく、丁寧で必要最低限の指示しか出されない竹森先生のその指揮振りには、
生徒を完全に信頼しきっているみたいな「温かい眼差し」が感じられ、とても印象に残っています。
竹森先生は、例えば、1985年の「シンフォニーポエム」のあの炎のような冒頭とか
1990年のスキタイ組曲の野蛮極まりない出だしすらも、決して大振りはされていなかったのは極めて印象的です。
基本的にはゆったりとした2拍子をベースに指揮されているような印象が私の中にはあります。

竹森先生指揮の嘉穂高校の演奏って、特に親しみやすいクラシック音楽のアレンジものを自由曲にされた場合、
音楽にとてつもない「温かさ」を感じるように思えます。
それは竹森先生のお人柄なのだと思いますし、
下松高校の中井先生のように公立高校の普通の先生と生徒が一生懸命練習して
「手作りの音楽を丁寧に仕上げてきました!」みたいな印象を毎年普門館の聴衆に与え続けていたのは
大変素晴らしい事だと思いますし、それは中々出来る事ではないだけに、竹森先生の指導力とお人柄の温かさを
感じてしまいますね。

さてさて、1992年の嘉穂高校ですけど、得意のロシアもので挑んできたと思います。
嘉穂高校というと私より少しだけ(?)世代が上の皆様ですと「マスク」とか「ディヴァーヅェンツ」というマクベス路線を
イメージされる方も多いのかとは思うのですが、
嘉穂高校は実は、吹奏楽オリジナル作品よりはクラシックアレンジもの、その中でもロシアものを頻繁に自由曲として
取り上げている事の方が多かったように思えます。
具体的には、火の鳥・ガイーヌ・ダッタン人の踊り・交響曲第3番「シンフォニーポエム」・ハチャトゥーリアンの交響曲第2番「鐘」・
スキタイ組曲・イタリア奇想曲などかそうなのですけど、
前述の繰り返しになりますが、ハチャトゥーリアンの交響曲とかプロコフィエフの野蛮極まりないスキタイ組曲ですら、
竹森先生の指揮は穏やかな2拍子のビートを根幹とされた指揮でしたので、そうした意味でも独特の存在感があった先生で
ある事は間違いないと思います。
92年の演奏はロシアのラフマニノフの「交響的舞曲~第三楽章」を自由曲に選んでいました。
そうですね・・結果論として書くと、音楽の方向性は間違っていないけど、演奏が少しおっとりしすぎていたという感じも
したものでした。

課題曲は、嘉穂らしいマーチで、「愉快な仲間」みたいなキャラクターと嘉穂高校の音が合致していて素晴らしい演奏
だったと思います。
(嘉穂高校は1994年以前までは、1983年を例外とすると、課題曲にはマーチを選ぶことが多く、そして嘉穂のマーチは
毎回聴いているだけでハッピーになれそうな楽しさと軽快さに溢れていたのは大変印象的でした)
自由曲は、一言で言うと、アレンジされた楽譜を音にするのに精いっぱいだった・・みたいな印象もあります。
アレンジ楽譜をそのまま使用するのではなくて、出来れば自分たちのチームのカラーに応じた
楽器の割り振りとかを考えるべきで、その辺りが何か個人的には少し印象を悪くしたような気がします。
勿論、演奏自体は非常に素直な演奏です。
この曲独特のメランコリーもある程度は表現できたと思います。
だけど、アレンジ楽譜で指定された楽器をそのまんま音にしているので、例えば中間部の
夢見るような部分でも、木管低音楽器、特にバリトンサックスの濁った音が
「幻想的」な感じをややぶち壊したような感じもします。
前半部分のカットもいたたげないし、後半もスピード感・サウンドに切れがなく、
全体的にもっそりとした仕上がりになっています。
部分的にはファンタジー感とか夢見る雰囲気は十分伝えていたと思いますし、目指している音楽の方向性は
間違ってはいないと思うのですけど、演奏が少しおっとり・もっさりとし過ぎていて
全体的に「おとなしい・・」みたいなちょっと弱々しい印象も私としては感じたものでした。

それと別に嘉穂高校をかばう訳では無いのですけど、このラフマニノフの「交響的舞曲」は、両端のスピード感と
中間部のファンタジー感の対比が素晴らしいという事で、全国大会でも何度も自由曲として演奏されているのですけど、
この曲の「名演」を私は聴いたことがないです。
吹奏楽にアレンジされると意外と透明感やファンタジー感に欠けてしまうように聴こえるのは、単にアレンジの問題なのか
そもそもこの曲を吹奏楽にアレンジする事自体無理があるのか、
はたまた単に「これから名演が将来的に出てくる」のかよく分かりませんけど、
吹奏楽コンクールの自由曲として演奏するには、ちょっと不利な曲という感じがあるのかもしれないですし、
嘉穂高校のこの年の演奏は、もしかして選曲ミスと言えるのかもしれないですね。
14.愛工大名電高校


C/プラハのための音楽1968~Ⅲ.間奏曲 Ⅳ.トッカータとコラール(K.フーサ)



伝統的に愛工大名電のサウンドは、精密さ・劇的な緊張感が一つの「売り」なのだと思います。
そしてこの緻密さと緊迫感が極限にまで達したような自由曲の演奏が
フーサの「プラハのための音楽1968年」だと思います。

松井先生=愛工大名電のコンピは、1983年に初めて「プラハのための音楽1968」を自由曲として演奏しました。
先生ご自身は、「プラハのための音楽こそが私の代表曲!」と思われていたかどうかは定かではないのですけど、
1983年の演奏以降も、85年・87年・92年と計4回もこの「プラハのための音楽1968年」を自由曲として取り上げています。
松井先生の気質と「プラハのため音楽」は内省的に相当相性はよいものがあったのかなとも感じます。
人によっては松井先生というとネリベルの「交響的断章」が代表的名演と言われる方も多いのかとは思うのですけど、
私個人の感想としては、松井先生=愛工大名電=プラハのための音楽という方程式が成り立っているんじゃないの・・?とすら
思えます。
(松井先生指揮でのローマの祭りとかエル・サロン・メヒコも捨てがたいものがあると思いますし、プラハのための音楽というと
名電以外では1990年の都立永山のあの熱い名演も決して忘れてはいけない演奏だと思います)

全国大会での4回の演奏ともそれぞれ素晴らしい演奏を聴かせてくれてはいるのですけど、
私個人としては、回を重ねるごとに「曲の峻烈さ」が増していき、特に特に・・87年と92の演奏に「音楽としての劇的緊張感」を
遺憾なく発揮させてくれていたと思います。

1992年の愛工大名電なのですけど、フーサの「プラハのための音楽1968」を自由曲に選び、人によっては
「なんだ・・名電はまたプラハなのかよぉー・・・いい加減ワンパターンじゃん!」と思われる方も当時結構いたと思いますが、
それはこの当時、同じ自由曲を3回も4回も選び続ける先生と言うのがあんまりいなかったからじゃないのかなとも
思えます。
ま・・今現在の感覚ですと、淀川工科の丸谷先生なんぞ、ここ十数年程度はダフニスとクロエと大阪俗謡による幻想曲の
2曲以外を自由曲として選んでいないというまさに「究極のワンパターンの自由曲」を選び続けている事から比べると
松井先生のプラハのための音楽を4回自由曲として選曲した事なんて「かわいい・・」とすら感じてしまうのかも
しれないですね・・(苦笑・・)
淀川工科の「大阪俗謡による幻想曲」は、正直に言うと、演奏した年による「演奏の明確な差・違い」というものは、
ほとんど感じられないのに対して、
松井先生=愛工大名電の「プラハのための音楽」は、4回の演奏それぞれに「違い」と言うものが明確に感じられ、
その点が「ワンパターンな自由曲」と後世からも陰口を叩かれない理由なのだと思います。

初めてプラハのための音楽を自由曲として選曲した1983年の演奏は、
「プラハのための音楽1968」という曲自体、大変政治色が濃厚で「メッセージ色」が大変強い曲ではあるのですけど、
確かにとてつもない難曲をよく音にはしているものの「音楽としての感銘性」とか「音楽上のメッセージ」を
普門館の聴衆に伝えるまでには至らなかったと感じます。
その点、熱いメッセージ性を普門館の聴衆にビシビシと伝えていたのが85年の緊張感の極めて強い演奏だったと思います。
87年の演奏も「熱い名演」なのですけど、課題曲の風紋との時間の制約上、カットが少し強引だったことがマイナス点なのだと
思われます。

そうした中、1992年の演奏は、この年で通算4回目の同じ自由曲の演奏となりますけど、
松井先生としては、結果的に最後のプラハのための音楽の演奏となってしまいます。
過去4回のプラハを全部聴いた人間として言わせて頂くと、技術的には、この年、1992年の演奏が過去最高ではないかと
思える事もあります。
勿論、87年の演奏も「過去最高」と太鼓判を押したいのですけど、やはりカットの問題が少し尾を引くのかもしれないです。
その点、92年の課題曲はCを選曲し、課題曲が約3分版程度で収まりましたので、自由曲のプラハのための音楽を
それほど「タイムオーバー失格」を意識しないで、のびのびと吹いていた事が「過去最高の名演」に繋がっていったと
言えるのかもしれないです。

反面、この年の演奏は表現も申し分ない仕上がりなのですけど、
過去3回のプラハが記憶と印象として既に固まってしまっていましたので、いくら素晴らしい技術・表現をしたとしても、
「新鮮度・感銘度」にはどうしても欠けてしまうような感じもあったのかな・・?とも思えます。
この年は、まさかの銀賞でしたけど、
それは、もしかして新鮮さの点で評価が割れたのかもしれませんよね。
翌年からは、愛工大名電はアレンジ路線にシフトしてしまいますが、例えば95年の
「エル・サロン・メヒコ」とか96年の「ローマの祭り」とか
意外とこのチームのアレンジものの演奏も新鮮と言うか、骨太な表現がとても面白かったです。

結果的に松井先生として最後の「吹奏楽オリジナル作品で臨んだ普門館」になってしまいましたけど、
フィナーレに相応しい松井先生としての個性と劇的緊張感を最大限発揮された素晴らしい名演だったと思います。

本当に惜しい銀賞の一つです。
「市立川口高校」というと確かに全国的にはそんなに知名度はないとは思うのですが、
巨人軍の元エースで現在は二軍監督を務められている斉藤雅樹投手の母校であり、
斉藤投手が市立川口に在籍していた当時は残念ながら悲願の甲子園出場は実現しなかったものの、
埼玉県の高校野球においてはほぼ無名校であった市立川口を埼玉県大会準優勝まで牽引したその功績は
素晴らしいものがあると思いますし、
斉藤投手はまさに「川口市の顔」という役割も担われていると思います。

だけど、この市立川口も市の予算の関係とか少子高齢化の波を受けて、来年度・・2018年度より
川口市内の市立高校3校による統廃合が確定していて
2018年度以降は「市立川口高校」という名称は消滅してしまうとの事です。
野球部にとりましても、今年は「市立川口高校としての最後の大会」という事で臨まれたと思いましたが、
やはり今年も悲願の甲子園出場を果たすことが出来ずに、野球部としての夏は閉じてしまいましたけど、
統廃合以降は新たな伝統の始まりとして、是非ぜひ新しい学校としての甲子園出場目指して頑張って頂きたいと
思います!

市立川口高校というと実は、私がかつて吹奏楽部の現役奏者だった1970年代後半~80年代後半にかけては
吹奏楽コンクールのいわゆる名門校の一つで、毎年のように普門館で個性的で大胆な演奏を聴かせて頂き、
私と同世代の吹奏楽経験者の皆様の感覚としては、
市立川口高校吹奏楽部というと間違いなく「凄い!!」という感覚と「懐かしい・・」という感覚を
持たれているんじゃないのかな・・?とも思いますね!


私にとって市立川口というと「無言の変革」も「永訣の詩」などの演奏もとてつもなく魅力的なのですけど
やはり1979年の「二つの交響的断章」という印象が大変強いです。
私、このブログでよく
「1982年の花輪高校のウォルトンの交響曲第1番終楽章の演奏こそが私がクラシック音楽という深い森の中に
入り込むきっかけ」みたいな事を書かせて頂いておりますが、同様に
「1979年の市立川口高校の二つの交響的断章の演奏こそが、私が吹奏楽オリジナル作品の魅力に気が付く
きっかけとなった演奏」と記させて頂いておりますし、
同時に、私自身が「埼玉県川口市というエリアにいつかは住んでみたい!」と思うようになったきっかけの学校とも
言えますし
(それは後年、本当に現実のものになってしまい、私自身は今でも埼玉県川口市在住です! 笑・・)
このブログの一つの目的が花輪高校吹奏楽部と市立川口高校吹奏楽部のあの偉大な不滅の名演を後世の皆様に
語り継いでいきたいという事に繋がっていると思います。

1979年当時吹奏楽コンクールの全国大会の出場チームのステージ衣装は、ほぼ例外なく学校の制服というか、
男子は学ラン、女子はセーラー服かブレザーというチームが多い中、
市立川口高校は、赤ブレザーに赤のズボン・スカートという当時としては斬新なステージ衣装でしたし、
広い普門館のステージが狭く感じるほどパーカッションをズラリとセッティングしたり
グランドハープとか法螺貝とか、コンサートチャイムとは異なる本物の「鐘」を持ち込んだり、
視覚的にも大変なインパクトはありました。
そして見た目だけではなくて演奏自体が素晴らしかったですね!
1979年の課題曲は「プレリュード」と言う「無調的色彩」の強い現代音楽系の曲だったのですが、
出だしのティンパニソロをはじめ、緊張感漲る演奏が本当に素晴らしかったですし、
後半のヴィヴラフォーン以降の木管セクションのひさやかさ、打楽器セクションの鼓動など文句のつけようがない演奏でした。
しかもこの演奏、全国大会初出場でしかもプログラム一番なのですよ・・・!!
そんなハンディーを全く感じさせない圧巻の演奏でした!!
自由曲のネリベルの「二つの交響的断章」は「これぞ゜まさしく歴史的超名演!」の名に恥じない衝撃の演奏です!!
冒頭が、チャイム・シロフォーン・グロッケン・マリンバの鍵盤打楽器から開始され
執拗に同じメロディーを反復していくのですが、この執拗な緊張感が絶品です。
アルトサックスのソロも素晴らしいし、
それに合いの手を入れる打楽器セクションの瞬発力もお見事に一言に尽きます。
ファゴットのデュエットも・・ま・・少しばかりズレはあるのですけど、やはりあの勢いは止められない感じです。
後半のティンパニソロからの金管セクションの透明かつ勢いのある展開も大変迫力がありますし、
トムトムをはじめとする打楽器セクションのやはり瞬発力と自発性は高く評価されて然るべきだと
思います。
自由曲における、ドラの鳴り方が非常に効果的なのも印象的です。特に第一楽章の鳴りっぷりは凄まじいものがありました!
あのドラは、まさに「音楽の神様が鼓動・躍動している!」という響きそのものだと思います。
この原曲は17分程度の大変長いものなのですけど、市立川口は5分30秒程度にコンパクトに収めてしまいましたので、
「もう少し長く演奏しても良かったのでは・・・? せめてこの翌年の東海大学第一高校くらいの長さは
欲しかった」とも言えなくはないのですけど、指揮者の信国先生は、
「音楽的緊張感」を優先に考え、このカット方法にしたのかもしれませんよね。

この1979年の市立川口の演奏は、まさに私の「吹奏楽オリジナル作品のバイブル」だと思いますし、原点だと
思います。

だから私としても「市立川口高校吹奏楽部」の名前が消滅してしまう事にはやはり一抹の寂しさというものは
どうしても感じざるを得ないですけど、
やはりこれも時代の波という事なのかもしれないですね。
市立川口の「二つの交響的断章」とか「無言の変革」シリーズのあの素晴らしき名演は、高校生同時の私に
与えた影響というものは凄まじいものがあったと思いますし、
1982年の東北大会にて秋田県立花輪高校吹奏楽部が残してくれたあの伝説の名演、ウォルトンの交響曲第1番終楽章と
同じくらい「私」自身の音楽の嗜好性に多大なる貢献をして頂いたと今でも実感しております。

学校統廃合というと印象的なのは、1983年から1995年にかけて、市立川口と同様に素晴らしい名演の数々を残してくれた
神奈川県の野庭高校も学校統廃合によってこの輝かしき校名が消滅した事ですね。

よくサラリーマンの世界ですと、業績不振の部署とか関連会社が「名誉ある撤退」とか「発展的解消」の美辞麗句の名において
消滅・他の部署や会社との統合という悲喜劇はよく耳にする話ではありますが、
学校までこの統廃合の波は押し寄せているという事は、やはり少子高齢化とか生徒数激減という荒波は
私達の身近な所にまで既に来ているという事なのかもしれないです。

実は私の出身高校も、つい最近までは男子高校だったのですが、やはり学校統廃合の名のもとに、
近隣の女子高校との統廃合が成立し、今現在では男女共学校となっています。
私の高校時代の思い出は、「男子校としてのの気楽さ」にあったと思うのですけど、
それが現実的に今現在の母校にないとは、卒業生としては一抹の寂しさも感じたりもします。
だけど反面、今まで男子高ゆえの吹奏楽部員の慢性的不足とかクラリネット・ファゴット・オーボエ等の絶対的な
木管楽器の奏者不足が、女の子たちがいっぱいいっぱい入部してくれたおかけで一気に解決され、
それだけではなくてOB悲願の「東北大会A部門出場」を果たしてくれた事は、本当に涙が出るほど
嬉しく感じたものでしたし、やはり、過去の伝統は伝統として考え、今現在の新しい伝統と言うものに対して
OBの一人として温かい気持ちで見させて頂きたいと思っています。

市立川口高校吹奏楽部は、1991年の関東大会でのダメ金を最後に、2005年まで吹奏楽コンクールへの出場を
しない時期が長い間続き、
正直「市立川口高校吹奏楽部」のあの偉大なる伝統と名演を知る人たちも少なくなっていたのが実態だと思うのですが、
2006年以降、市立川口は久しぶりに吹奏楽コンクールにも出場しはじめ、最近では西関東大会にもボチボチと
出場を果たされています。
信国先生時代のあの偉大なる伝統は伝統として、今現在の奏者の皆様には
「新しい伝統」としての市立川口を歩んで頂きたいですし、学校名が変ったとしても
市立川口のあの斬新て新鮮な演奏の感覚は受け継いで頂きたいと思います。

間もなく吹奏楽コンクールの埼玉県大会も開催されますけど、市立川口の「最後の夏」を
一吹奏楽ファンの立場として温かい気持ちで応援をさせて頂きたいですし、普段通りの練習の成果を
本番のステージでも存分に発揮して頂きたいものです!
13.都立永山高校


C/シンフォニックバンドのための「Ode」 (浦田健次郎)



この年で3年連続全国大会出場を果たしているのですけど、「永山らしい個性」・「貫録」は既に確立されていたと
思います。
都立永山を当時指導されていた馬場先生は、現在においては都立片倉高校を全国大会金賞の常連校として
育て上げられていて、その指導力の高さとアクの強い個性は既に誰しもが認めているものと思われますし、
都大会においてはあれだけ私立校が強い中で「都立高校の希望の星」としても評価が高いと思われます。
この年、1992年の演奏は、91年に全国で銅賞を受賞した火の鳥の演奏と「名曲の名演」といまだに語り継がれている
伝説の名演と評価の高い93年のフーサの「この地球を神と崇める」の狭間の演奏なのですけど、
私の率直な感想としては、91年も92年も93年の演奏もどの演奏も馬場先生らしい個性とアクの強さに溢れていて
「自分たちは普門館の聴衆にこのように自分たちの音楽を伝えたい!」という奏者としての意図が
十分すぎるほど伝わっていたと思います。
(94年の演奏だけは、印象度も音楽的アピールが低い凡演だったかな・・)
課題曲Cの「クロス・バイ・マーチ」の切れ味も大変鋭く、スピード感と曲自体の複雑的構造を大変巧みに表現されていたと
思いますし、何よりも自由曲の「Ode」の音楽的緊張感の充実は大変素晴らしいものがあったと思います。

浦田健次郎(1979年課題曲B/プレリュードの作曲者)の「Ode」は、1985年にヤマハ浜松が浦田氏への委嘱作品なのですけど、
同年ヤマハ浜松が全国大会で圧倒的な素晴らしい名演を残していたものの
その後誰も演奏する人も無く、埋もれていた曲ですが、再度都立永山がこの曲の面白さに光を当ててくれ、
私としても嬉しかったです。
Odeは前半がひそやかな感じで始まり、徐々に盛り上がっていき、ラストは凄まじい迫力で終わります。
全体的に終始ゆったりとした曲なのですけど、その緊張感は凄まじいくらい高いものがあり、
決して気楽に聴ける曲ではないと思います。
都立永山は、最初から最後までうまく緊張感を持続し、聴衆に「何か」は確実に伝えていたと思います。
一つ難点を言わせてもらうと、たまにメロディーラインが伴奏部に埋もれてしまい、
何が主旋律でどこが伴奏ラインなのかごちゃごちゃになる時もあり、少し曲としての「整理」が甘かったようにも感じられました。
だけど全体的には熱さと理性的なクールさが大変うまく融合されていて、確かに難解な曲ではあるのですが、
そこには「高校生としての熱い表現」が見事に聴衆に伝わっていたと思います。

「浦田健次郎」と聞かれて真っ先に「プレリュード」と答えられた方は、
も―――、立派な「吹奏楽マニア」の御方なのかもしれないですね(笑・・)
ういう私自身もそういう一人なのではないのか・・と自負はしておりますが・・・・(滝汗・・!)
浦田健次郎というと、吹奏楽コンクール課題曲とか「Ode」の作曲家として認知されていると思うのですけど、
それ程演奏される頻度は高くない曲ですし、最近ではほとんど演奏されない曲ではあるのですが、
「バラード・フォー・バンド」(吹奏楽のためのバラード)という曲も決して忘れていけない作品だと思います。
この曲は確かにかなり地味な曲ではあるのですけど
日本人の感覚で無いと絶対に分からないような抒情性というのか素朴なノスタルジーみたいな雰囲気が漂い
こういう曲こそ、たまには「吹奏楽コンクール・小編成の部」で演奏されて欲しいものです。

「Ode」(オード)というのは「歌」とか「頌歌」という意味なのですけど
少なくとも楽しくてウキウキするような歌ではない事は確かです。
どちらかというと歌は歌でも「悲歌」に近いような感覚もあるのですけど、私としては、
むしろ「祝祭的な歌」風にも聴こえちゃったりもします。
この曲をよく知っている方からの意見としては、「え・・・祝祭だって・・・!? それは絶対違う!! あの陰気な曲は祝典ではない!」
と言われるのかもしれないですけど、
私の感覚としては、「混沌の中の光・・・」とか「怒号が飛び交う中での一筋の光がさ――っと差し込む・・・」
みたいなそんなイメージがあったりもします。
改めて聴くと、この曲・・・前半と後半の落差の対比は凄まじいものがありますね。
前半は、ソロ楽器ほメインにした静粛な部分なのですけど、この部分のクラリネットが果たす役割の大きさは
半端無いものがあると思いますし、あの長大なソロは奏者冥利に尽きると思います。
そしてやっぱのあの静粛な感じは、「やっぱりこの曲はプレリュードの作曲者なんだな・・・」と思ってしまいます。
そうそう・・・この「Ode」ですけど、面白い事に曲全体のテンポは終始ゆったりとしたテンポ設定がキープされています。
後半はかなり激しい音楽となり、「カタストロフィー」(悲劇的結末)を暗示させるようでもあるのですけど、
そうした激しい部分の音楽もテンポ上では、ゆったりとしたテンポを維持していますから、
その辺りは大変面白いと思います。
ああやってゆったりとしたテンポ設定の中でも「激しさ」とか「打楽器の乱打&強打」とか「劇的緊張感」とか「凄まじい音量」を
表現した邦人作品って当時としては珍しかったのかもしれないですね。
後半は、終始「マリンバ」が低音のリズムを刻んでいるのですけど、
あの不気味な低音のリズムがとにかく効果的でした!!
後半は打楽器大活躍なのですけど、特にトムトムの効果的な使用とかチャイムの響かせ方は
当時としてはかなり斬新なものがありました。
曲のエンディングの数小節前は打楽器のみの掛け合いになるのですけど、ああいうパーカッションだけの強奏も
当時としては珍しかったようにも感じられます。
金管セクションのとにかく息の長いフレーズは、奏者泣かせだったと思いますけど
そうした金管に乗っかる形での打楽器の響きはとにかく圧巻でしたし、ああいう感じが
私的には「この曲は祝祭的・・」と感じてしまった一因なのかもしれないですね。

都立永山の演奏以降、どのチームもこの「Ode」を自由曲として演奏していませんけど、
この「埋もれた名曲」を演奏してくれると、私としてもとっても嬉しいものがありますね!!
12.市立柏高校


A/バレエ音楽「火の鳥」~魔王カスチェイの凶悪な踊り・終曲(I.ストラヴィンスキー)



市立柏高校の石田先生は、まさに現代の吹奏楽界の「生きるカリスマ」だと思います!
とにかく、千葉県のスクールバンドの中では、特に際立ったまさに「生きる伝説の先生」だと私は思います。
あの卓抜した指導力とか統率力は本当に本当に優れたものがあると思いますし、
あんなに長年に渡って市立柏を吹奏楽コンクールで優れた評価を受け続けることが出来るというのは
普通の凡人にはとてもとても出来ない事であり、その点も石田先生のすごいところだな・・と思ったりもします。
石田先生は吹奏楽コンクールでもすごいし、マーチングでも優れた指導力を遺憾なく発揮されているし、
何よりも市立柏の吹奏楽部員悠に100名を超す大所帯と聞いた事がありますけど
コンクールメンバー・マーチングメンバー・小編成部門メンバーと部員一人一人に対するきめ細かい指導は
本当に頭が下がる思いですね!
まさしく「千葉県の吹奏楽界のスーパースター」に相応しい指導者だと思います。

吹奏楽についてそれほど詳しくない方でも
指揮者の石田先生はテレビでも何度も登場していますのでご存知の方もいらっしゃるのかなとは思うのですけど、
とにかく熱いハートのお持ちの大変指導力に優れた先生でして、
そうした熱いハートを胸に秘めつつ大変理性的でコントロールされた演奏を聴かせてくれていると思います。
そうした情熱と理性的な両面を遺憾なく発揮された名演の一つが、少し話は古いですが、
1987年の「ローマの祭り」であるし、1998年の「海の男たちのうた」でもあり、2001年の「アメリカの騎士」であり、
2012年の「復興」なのだと思います。
本記事は1992年の演奏に対するものですけど、その前年度の91年の演奏も素晴らしいものがあったと思います。
課題曲の「斜影の遺跡」は、まるで「設計図面」みたいに一部の隙も無い演奏だったと思います。
冒頭の打楽器の弱音のコントロールも素晴らしかったですし、
金管セクションも全体的にはかなり鳴らしているのですけど、全体の中で鳴る部分と抑制される部分の対比が
かなり鮮やかに表現していましたので、
金管がかなり鳴らしている部分でも「やかましい」とは全く感じませんでした。
自由曲の「ガイーヌ」ですけど、序奏→アイシェのモノローグ→収穫祭という順に曲を構成されていて、
鳴る部分→しっとりと聴かせる部分→壮大に鳴る部分の三部構成になっていて、
動・静・動というコントラストがはっきりと描かれていて、聴いているだけでまさに石田先生ワールドに
ひきずりこまれるような感じの素晴らしい演奏だったと思います。

市立柏は90年のベルキスも素晴らしい演奏を聴かせてくれていて、1992年に関しては、なんとなくですけど
「のりにのっている」みたいなイメージもあり、1992年の全国大会での演奏もかなり期待して聴いていたのですけど、
うーーん、残念ながらこの年は「凡演」でした・・・
関東大会でも正直そんなに名演という感じではなかったのですけど、
「市立柏だから全国までにきっと立て直してくれるはず」と思っていたのですけど、関東大会よりもちょっと見劣りする
凡演だったと思います。
(私個人の感想ですけど、1992年の関東大会は、市立柏と野庭を代表にするのだったら、埼玉栄と東海大学相模を
代表として選出して欲しかったです!
 特に東海大学相模のホルジンガーの「春になって、王たちが戦いを始めるに及んで」が素晴らしい演奏だっただけに
当時は「勿体無いよな・・」と感じていたものでした)
やはり「スクールバンド」の場合、継続性というものは大変難しいものがあると感じますね。
前年・前々年に圧倒的名演を残したとしても、翌年にはその奏者が卒業で抜ける事も多々ありますし、指導者そのものが
異動する可能性もありますし、まして奏者はあくまでアマチュアの普通の中高生ですので、
毎年毎年「名演」を残せるという事自体、どこか無理があるのかもしれないですよね。

92年の市立柏の「火の鳥」ですけど、普門館の会場で聴いていて大変気になった事が二つほどありました。
一つ目は、デューカー編曲のアレンジ版を使用していましたけど、
過去に同じ版で演奏していた他校に比べると調を下げていたような気がし、魔王カスチェイの冒頭の強音が
普門館に響いた瞬間に「あれれ・・なんかちょっと響きがヘンかも・・?」と感じ、
二つ目は、「火の鳥」の中で魔王カスチェイの凶悪な踊りと終曲の二つの部分を演奏し、普通に演奏していても
この部分だけならば7分半程度で収まるはずですし、市立柏のこのとしの課題曲はネレイデスという3半程度の曲でしたので、
特段カットする必然性も理由もないはずなのに、魔王カスチェイの中間あたりでクラリネットセクションの細かい動きが
目に付くあたりを中途半端にカットしていて、聴いていて「なんか不自然・・」と感じたものでした。
この年の市立柏は、課題曲も自由曲も前年度までのスピード感・切れ味に欠けていて、
聴いていてどことなくもっさり・おっとりという感じもし、またこのチームにしては珍しいことに部分的に
ピッチが不安定なのかな・・?と感じる箇所もありましたし、
演奏全体も淡々と進行していてあっさり気味に淡白気味に音楽が流れていたのは、「あれれ・・?」と感じたものでした。

市立柏は翌年の「ロメオとジュリエット」もプログラム一番というせいもあり冴えない演奏でしし、94年の「海」も
印象のの希薄な感じもあり、
92~94年は市立柏全体の歴史の中でちょっと低迷期と言えたのかもしれないです。
だけどそれはメンバーが毎年変わるスクールバンドのある意味宿命みたいなものでやむを得ない事だと
思いますし、逆に言うと90年代後半以降の毎年安定した素晴らしい名演を聴かせ続けている市立柏の奏者の皆様と
石田先生のご苦労には本当に頭が下がる思いがあります。
どうかこれからも習志野高校と共に「千葉の雄」として日本のスクールバンドを牽引し続けて頂きたいチームの一つだと
思います。
11.洛南高校


A / ダンス・フォラトゥーラ (C.T.スミス)


改めてですけど、洛南高校をご勇退後のあまりにも早すぎる宮本先生のご逝去の知らせは、
花輪高校・秋田南高校の小林先生のご逝去の知らせ同様にとてつもなく残念なニュースでもありました。
だけど宮本先生=洛南高校のあの素晴らしき数々のインパクトと大変個性の強い名演は、永遠に私たちの心の中に
生き続けると確信しています。
そしてその宮本先生らしい豪快でダイナミックスで「個性」を強く感じさせる代表的な演奏の一つが
この年、1992年の自由曲のスミスの「ダンス・フォラトゥーラ」だと思います!

最近の奏者の皆様の感覚ですと「ダンス・フォラトゥーラというと精華女子のあのとてつもない怒涛のウルトラ名演で
決まりじゃん!
他にどんな名演があるの・・?」と言われるのかもしれません。
確かにその通りだと思います。
私もクロード・スミスの「ダンス・フォラトゥーラ」の歴史的名演というと二度に渡る精華女子のあの名演を超越する演奏は
今後出てこないんじゃないのかな・・?とも思っています。
(あの名演を今後超えそうな可能性があるのは、前・精華女子の指揮者でそのダンス・フォラトゥーラを指導されていた
藤重先生が現在指導・指揮されている大分の垂水女子だけじゃないのかな・・?とも思っています)

だけど・・・

精華女子の名演は2000年代以降の話なんですけど、実は1990年代にもとてつもないダンス・フォラトゥーラの名演が
存在していたのです!
それが1992年の全国大会において宮本先生が指揮されていた洛南高校だと思います!!

あの演奏は、まさに宮本先生のアクの強さが漲り渡り、「宮本先生=洛南高校」というとてつもなく強烈なサウンドが
確立された瞬間じゃないのかな・・・とも感じさせてくれました!
ああいう演奏が出来ちゃう演奏団体は、今現在の吹奏楽コンクールの高校の部では皆無と言えるのかも
しれないですね。
あの「宮本先生=洛南高校」という組合せは、「吉永陽一先生=兵庫高校」に匹敵するとてつもなく個性的なものだったと
今でも思っております。
まさに個性がギラギラ漲っているみたいな言い方がこれほどしっくりくるチームは少ないとすら思えます。

92年の洛南の「ダンス・フォラトゥーラ」のスピード感と切れ味と男子校らしい豪快さの素晴らしさは、あの演奏から既に
25年以上経過した今現在でも決して色褪せているものではありませんし、
あの演奏を普門館の生演奏で聴いていた私も、あの「爽快さ」は今でもはっきりと耳に残っている気がします。
92年の金賞受賞チームの中では、グランプリ候補というと常総学院・高岡商業・東海大学第四が挙げられると
思いますが、洛南高校も十分グランプリ候補になると思います。
精華女子とか最近この曲を演奏したチームに比べると少しカットが大胆というのか、演奏時間が短めという感じも
するのですけど、それだけ集中度が高い演奏ではないのかなとも思ったりもしています。
金管・打楽器セクションが充実しているのは今更言うまでもない話なのですけど、木管セクションもべらぼうに
巧いですし、他校に比べて木管楽器の数は少ないと思うのですけど、そうした弱みを全く感じさせない演奏と言えると
思います。
また、トランペット・サックス・クラリネット・フルート等のソロもほぼノーミスで見事に「決まっていた」と思います。
金管も、トランペットもそうですけど、ホルンのハイトーンも惚れ惚れするくらい決まっていたと思いますし、
トロンボーンもめちゃくちゃ上手かったですね!
トロンボーンのあの凄まじいグリッサンドも実にお見事でした!!

洛南高校は、実は1987年にも「ダンス・フォラトゥーラ」で関西大会に臨みダメ金に終わっていますので、
気持ちとしては「リベンジ」という感覚だったかもしれません。
(「ダンス・フォラトゥーラ」の支部大会以上での演奏の初演は、この洛南を含めて3校あったと記憶しています・・)
1987年の演奏は、課題曲が「渚スコープ」という大変静粛な曲でしたので、自由曲でもって課題曲の鬱憤を晴らした
エネルギーの大爆発があったのですけど、カスタムテープで聴く限りは、ちょっと粗削りでもう少し細かい部分で
整理が足りない部分があるのかな・・?と感じたものです。
92年の演奏は2回目という事もありましたので、「手慣れている」みたいな感じもありましたし、全体的に
「細かいところまでとにかく几帳面に整理されているけど、全体のエネルギーの爆発は87年の関西大会以上」という
印象も感じたものです。

1992年の前年度の1991年の自由曲の「ローマの祭り」が何か気持ちが乗らない感じで
正直私としては「ちょっと洛南らしくないなぁ・・」という今一つの演奏でもありましたので、
「今年はみんなの力でなんとかしようではないか!!」」という気持ちが全曲に漲っていたと思います。

私的には、洛南高校は、クラシック音楽のアレンジものよりは、こうした吹奏楽オリジナル路線の方が
あっているような気がします。
後年の「アメリカの騎士」とか「ハリソンの夢」は、洛南のカラーにドンビシャの演奏だったと思います。
吹奏楽オリジナル作品をあの独特な解釈&サウンドで演奏した時の方が
クラシックアレンジものを演奏した時よりも一層「際立った個性」が感じられ、
私個人としては、「洛南はオリジナル作品の方が真価を発揮できる」と思ったりもしています。
特に、2001年の「アメリカの騎士」は本当に大好きな演奏です!
アレンジものは・・・うーーん、そうですね・・・なんか聴く人の好みによって好き嫌いははっきりと分かれる様な
感じがあります。
そうですね・・・・
洛南は何度もーか「ダフニスとクロエ」第二組曲を自由曲にしているのですけど、
私のあくまで個人的な感想なのですけど、
演奏者のガッツは評価するけど、音色のあの厚化粧振りにとてつもない違和感を感じる・・という感じもあったりします。
「ローマの祭り」・「ローマの松」・「スペイン狂詩曲」も大体同じような印象です。
そんな中、1997年の「ハンガリー民謡・くじゃくによる変奏曲」は、フルートソロの部分をクラリネットに置き換えたり
洛南らしい個性的な解釈が見られる中、素朴さ・哀愁もしっかりと表現された素晴らしい名演だと
思います。
それと、関西大会ダメ金で終ってしまいましたけど、
1993年の「海」(第二楽章も部分的に選んでいましたけど、あの部分の解釈は大変繊細で素晴らしい!!)とか
1994年の「リバティーファンファーレ」も、「隠れた名演」の一つと思っています。

改めてですけど、ダンス・フォラトゥーラの技術的難易度の高さは半端ないものがあると思います。
精華女子のあの素晴らしい演奏を聴いてしまうと
「すごいな・・・こんな難曲中の難曲を聴いている者に少しも疲労感を与えないでこんなに楽に聴かせちゃうなんて!」と
毎回感心させられちゃいますね!
(洛南の唯一の弱みは、ちょっと力みを感じ、聴く方もちょっと構えて聴いてしまう感じもあるのかもしれないですね・・)
それにしてもあの「ダンス・フォラトゥーラ」の超絶技巧の炸裂振り・金管殺し・トランペット奏者殺しは
一度聴いてしまうと、完璧にはまってしまいますね・・・
そうなんですよね!!
吹奏楽を知らない方でも是非この「ダンス・フォラトゥーラ」だけは精華女子高校の演奏を聴いて欲しいです!!
この曲、そしてあの素晴らしき名演を知らないまま一生を終えるなんて
勿体無いかもしれませんよ・・・??

余談ですけど、
「ダンス・フォラトゥーラ」の全国大会初演は、実は高校の部とか一般の部ではないのです!!
実はなのですけど、1989年の中学の部で出場した宮崎県の生目南中学校が全国大会初演なのでした!
しかも、この学校は全国大会初出場です!
この演奏、私も普門館の生演奏で聴きましたけど、とてつもなく印象度が強い演奏だったと思います。
私の印象としては、この難曲中の難曲を音にするだけで精一杯なんだけど、「音楽をみんなで奏でよう!」という
熱いハートは客席にもとてつもなく熱く熱く伝わっていたと思います。
全体的な印象は「細かい事は気にするなっ!!」という感じで、
細かいところよりも全体の雰囲気を大事にしているという感じで、とにかくあの「荒っぽいおおらかさ」は、
現在のコンクールでは絶対に聴く事が出来ない「熱さ」は絶対にあると思います。
この「ダンスフォラトゥーラ」は中間部にトランペットのとてつもないハイトーンのソロがあるのですけど、
生目南中学校は、あの部分のトランペットソロは一オクターブ下げて演奏するという「荒業」も披露してくれて、
これも大変印象に残っています。

最後に、洛南高校は最近では全国大会でしばらく耳にする事もなくなりましたけど、いつの日にか「名門復活」を
期待しておりますし、必ずやその日がやってくると信じております!!
ギリングハムというと、1990年代後半から日本においても少しは馴染みのある作曲家となり、
1990年代後半頃においては、結奏楽コンクールでもその名を耳にする機会はかなり多かったと思います。
ひところは、「With Heart and Voice」という曲がよく演奏されていましたね。
だけど、ここ最近は以前よりは演奏頻度が下がってきたのはちょっともったいない気はします。
最近の吹奏楽オリジナル作品の傾向として、欧米の作曲家よりは邦人作品の方に人気が集まっているような
気もしますけど、
果たして、10年後あたりまで、生き残っている邦人作品はどのくらいあるのかな・・・??
保科洋の「復興」は、是非是非忘れることなくずっーーと作品自体が後世まで受け継がれていくととても嬉しいですし、
そうなって然るべき作品の一つだと思います。

ギリングハムですけど、全国大会で最後に演奏されたのは確か2006年・・・・
10年近く全国大会では自由曲として取り上げられていませんし、支部大会でもめっきり演奏頻度は
下がってしまいましたね・・・
ギリングハムのようにどちらかと言うと難解で政治的なメッセージ色が強い作曲家だと人気は限定的なものになりがちですし、
コンクールで何度か演奏されてしまいますと、飽きられてしまう傾向になりがちになるのかもしれないですね。
その点、「政治色が相当強い吹奏楽オリジナル作品」でもあるK.フーサの「プラハのための音楽1968年」が
全国初演の1978年から結構最近までコンスタントに演奏され続けている事はやはり凄い事だなと感心したりもします。

ギリングハムというと、結構難解とか、表現が難しいとか抽象的すぎるとか
「結局何を言いたいのかよくわからない」等の声を聞くことも多々ありますけど、
私は、ギリングハムというと、前述の通り、
「メッセージ色の強い作曲家」というイメージを持っています。

交響詩「ベトナムの回顧」もそうてすし、「目覚める天使たち-エイズ、死せる者へ捧ぐ」もそうですけど、
その最たるものが、
「And Can It Be? ~ 米国「コロンパイン高校銃乱射事件を題材にした、
 神が愛なら、どうしてこんな悲劇が起こるのか」というウルトラ級に長いタイトルのこの曲でしょうか・・・??

ギリングハムを最初に聴いたのは、確か1997年の磐城高校の
管楽器と打楽器のための交響曲「黙示録による幻想」だったと思いますけど、
ネリベル以上の静と動の落差のすさまじさと圧倒的な負のエネルギーに驚いたものでしたけど、
曲としては、緊密な構成と表現力に秀でた素晴らしい曲だと思います。

交響詩「ベトナムの回顧」は、副題として「ヒーローズ・ロスト・アンド・フォーレン」という
タイトルが付けられていますが、
要は戦争というものには、敵も味方も勝者も敗者も存在しない、元々人間が行ってはいけない行為の一つだ
という事なのでしょう。
戦争には勝者も敗者も存在しない・・・勝者・敗者を超えて、戦争で命を失ったすべての人たちに対する「レクイエム」
のような曲なのだと思います。
それを象徴しているのが、まさしく曲のラスト近くのあのまるでレクイエムのようなコラールなのでしょう・・
本当にあの部分は心に沁みますし、「戦争」というものは人類最大の愚行なのだと改めて気が付かされます。

この曲、実は必ずしも難解と言う訳でもなく、
祈りと瞑想にも近いゆったりとした部分と戦闘シーンの対比がすさまじいと言えるのかもしれません。
この対比は、強弱のコントラストというよりは、ダイナミックスレンジの巾の落差がとにかく壮絶だとと思います。
そして戦闘シーンを示唆する場面と
「私達は一体何のために戦っているのか・・・一体誰のために戦っているのか・・・
そして・・・
「そもそもこの戦いはなぜ必要なんだ・・」みたいな根本的な「問いかけ」を投げかけているように
どうしても聴こえてしまいます。
逆に言うと、そうしたメッセージを聴く者に伝わり易いほど、この曲は意外と分かりやすいという事なのだと思います。
そうですね・・・「ベトナム戦争」というと、私と同年代あたりの世代ですと、正直、「よく分からない・・」という
感じになってしまいそうですね・・
私が小学校低学年の頃に、確か、ベトナム戦争終結→アメリカ軍の軍事撤退という歴史的事実があったと
思いますが、
「ベトナム戦争反対」に象徴される「反戦」とか「反戦デモ」というのは、私よりも少し上の世代の人たちが
若い頃に直面した一つの社会的事象だったようにも思えます。
そうした意味においては、この曲は、私の世代と言うよりは、もう少し上の世代の皆様方の方が、より共感度は
高いような気がします。

以前の記事の中でシュワントナーの「・・・そしてどこにも山の姿はない」という曲を取り上げましたが、
あの曲も特殊楽器と特殊技法がてんこ盛りのウルトラ級に難易度が高い曲として知られていますけど、
この「ベトナムの回顧」も、シュワントナーほどではないにせよ、特殊楽器・特殊奏法が色々ありますね。
チェレスタとの他の楽器とのバランスもそうですし、
鍵盤打楽器を弦楽器の弓でこするなど、特殊奏法の連発で、本当に打楽器奏者は大変だと思います。
また、この曲は、ホルンやトロンボーンも相当難易度が高い技術を求められますし、
とにかく、指揮者も大変だけど奏者も大変だと思います。
音楽の内容的にも、「どこまでメッセージ性を盛り込めばいいのか・・・」とかなり指揮者は悩みそうですし、
あんまり過剰な表現だとかえって嫌味にも聴こえてしまいますし、
あまり淡泊過ぎる表現もどうかと思いますし、このあたりは・・・指揮者の解釈は相当難しそうですね。
だけど・・・
もしも私が指揮者だったとしたら、「一度は振ってみたい!!」とついつい思ってしまう曲の一つですね。

曲としては、全体的にはピアノ・チェレスタの鍵盤楽器と
トムトム・ヴィヴラフォーン等の打楽器が終始大活躍をします。
出だしはもやもやした感じ・・・何やら陰鬱とした霧の中にいるかのような雰囲気から開始されます。
ピアノが何やら暗示的なメロディーを示唆する中、ミュートを付けたトランペットがやはり暗示的な示唆をします。
この冒頭の展開部のチェレスタがかなり神秘的で、
「これから何か悲劇的な事が始まる」みたいな事を何やら暗示しているようにも聴こえます。
中間部で戦闘シーンを想起させる激しい描写もありますが、
この戦闘シーンの打楽器のトムトムの凄まじいだ叩き付けは一聴の価値があると思います。
戦闘シーンが終わった後に・・・
しっとりとした歌があり、最後にコラール風に聴かせる部分があったり、
メカニック的な部分としっとりと歌い上げる部分の対比が非常に面白く、
この辺りがこの曲の持つ魅力なのかもしれません。

解釈としては、強弱・明暗といったコントラストを重視したメカニック的な演奏もいいかもしれませんし、
ラストの讃美歌みたいなコラールを強調した抒情的に仕上げる方法もあると思いますし、
色々な表現方法があるのかもしれません。

この曲は、全国大会では、関東一高・玉川学園・上磯吹奏楽団の3団体が取り上げていますが、
あくまで個人的見解なのですけど
1995年に全国で演奏した関東一高を超える演奏は今後も多分出てこないような気がします。
玉川学園は、都会的で洗練された演奏で、上磯はかなり重たい演奏です・・
関東一高は、聴かせどころのポイントをきちんと分かっているというのか、
ガンガン鳴らすところとしっとりと歌う部分を巧みに表情を使い分けているという印象があり、
都大会でも全国大会でも私自身は両方の演奏も生演奏で聴いたのですけど、
感想は、とにかく「聴かせどころを心得ている・・」・「曲を奏者全員がよく理解している・・」
「言いたい事はきちんと伝えてくる・・」みたいな良いイメージの方が強いです!
とにかくツボを心得ている演奏だったと思いますし、
戦闘シーンでも派手にギャンギャンとがなり立てる解釈は取っていないので、
そうですね・・・印象としては「渋い」とか「知的」という言葉が大変よく似合うと思います。

玉川学園も決して悪い演奏ではないと思うのですけども、部分的に技術力の弱さが露呈しているし
時々、「え・・・本当に全国大会に出場しているチームなの・・・」と思ってしまう程
部分的に音程の悪さを感じてしまい、これが印象としてはかなりのマイナス点のようにも感じてしまいます。
全体的にはかなりの薄味の演奏にも聴こえます。
玉川学園で一つよかった点は、ラスト近くのしっとりとした歌の部分を二回繰り返し演奏しているのですけど
(関東一と上磯は一回のみにカットしています・・)
一回目から二回目に入るところで、瞬間的に音楽を止め、「間」を意図的に作っているのは
「なかなかうまい演出」と感じたものです。
上磯の演奏は、前述のラスト近くのしっとりとした歌の部分のメインメロディーのオーボエの
「泣かせるようなしっとりとした歌いかた」はとても心に染み入るものでした。

関東一高と言うと、一昨年の現・楽天りオコエが活躍した夏の甲子園の活躍は見ていて気持ちが良かったですね。
特に初戦の高岡商業戦は、確か序盤で10-0ぐらいに圧倒的にリードを保っていたのにあっという間に
追い上げられて一時は同点まで追いつかれたのに
最後の最後で振り切って辛勝していたのは、いかにも大雑把で豪快なこのチームらしい戦いだな・・とも
感じたものでした。
関東一と言うと、野球とやはり吹奏楽部だと思います!!
現在は男女共学になっていた記憶がありますけど、関東一が吹奏楽コンクールで栄光の3年連続金賞を
受賞していたころは、まだ男子高校でしたので、
絶対的なクラリネット奏者不足の状況の中でかなり大変だったと推察されるのですけど、
関東一は男子校特有のパワーと音量でねじ伏せる豪快な演奏ではなくて、
柔らかい響き・洗練された響き・丁寧な音楽運び・よく練られた音楽構成などかなり繊細な音楽づくりを
している印象がありました。
高校当時は男子校で同じく慢性的なクラリネット奏者不足に泣かされていた私としては、羨ましい話でありましたし、
当時は、羨望の眼差しでこの学校を見ていた記憶があります。

関東一が大化けしたのは、これまでのこのブログで何度か書いているように
1990年の課題曲C/自由曲・華 辺りからだったと思います。
私自身は、1984年以降、仙台を離れて都内近辺に住みつき出したのですけど、
大学に入ってからも引き続き「吹奏楽団」に入団し、その際に同期に
「関東一高ってどんな学校なの・・?」と聞いてみた所、困惑したような顔つきになってしまい(汗・・!)
「うーーん、少なくともお上品な学校ではない・・むしろ少しガラの悪いやんちゃな学校・・」という
答えが返ってきました。
そうですね・・、正直この答えは少し意外なものがありました。
この頃は既に関東一は全国大会の常連校でしたけど、
男子校にしては、サウンドは洗練されているし、表現は大人っぽいし
そんな「やんちゃ・・」みたいな感じは、その音楽からは感じませんでした。
恐らくですけど、関東一をずっと長期間指導されていた塩谷晋平先生の類稀なる指導力が
相当大きかったと思われますし、塩谷先生の絶え間ない努力の結晶があの演奏なのだと思います。
私、都大会や全国大会で何度も塩谷先生の指揮を見てきましたけど、
何となくですけど・・、生徒全員が塩谷先生を信じきっている雰囲気が、部外者の自分には伝わってくるような雰囲気は
ありました。
塩谷先生自身は、大変惜しまれる事に2012年に急逝されてしまったのですが、
先生のご冥福を心よりお祈り申し上げたいと思います。
塩谷先生は、1997年以降は関東一を離れてその後青森山田に移られましたけど、
吹奏楽コンクールは、2012年にブリジストンを振られています。
その際は既に体調も相当悪かったと思われますが、
それでも無事に全国大会でブリジストンを見事金賞に導かれ、そして・・・その数日後に
息を引き取られています。

本当にいかにも塩谷先生らしい最期のお姿だったと思います。

ギリングハムの交響詩「ベトナムの回顧」のラストのあの清らかなコラールは、
塩谷先生に対する「レクイエム」みたいなようにも感じられたものです・・・
10.浜松商業高校


D/トッカータとフーガ ニ短調(J.S.バッハ)



浜松商業の遠山先生は長い間浜松工業を指導・指揮されていて、浜松工業を1960年代~80年代初めにかけて
全国有数の強豪校に育て上げた実績&大変な指導力のある先生です。  
1983年以降は浜松商業に転任され、当時は吹奏楽においてはほぼ無名のこの浜松商業を短期間のうちに
全国大会の常連校に育てあげたその手腕は本当に素晴らしいものがあると思います。
そして浜松工業だけでなくて浜松商業においても、皆様ご存知の通り、素晴らしい名演を色々と生み出されていたのは
いまだに記憶に新しいものがあると思います。
浜松商業の歴史的名演というとやはり1986年の課題曲・嗚呼! と自由曲のトッカータとフーガの印象が大変強いですね!
あの演奏なのですけど、私的には、あの浜松商業の「嗚呼!」の演奏は、雄新中学校・神戸高校の演奏と並んで
大好きな演奏の一つで、浜松商業のあの劇的な音楽的緊張感のキープは素晴らしいものがあったと思います。
そして圧巻は自由曲の「トッカータとフーガ」でした!!
バッハのあの曲がオルガンのように壮麗に鳴り響くという演奏事例は、例えば82年の創価学会関西などのように
既に色々とありましたけど、あそこまで内省的に踏み込んだ演奏は正直聴いた事がなかったものでして、
あの内省的緊張感の高まりの演奏は、浜松商業時代の遠山先生を代表する不滅の名演の一つだと思います。
他にも87年の課題曲の風紋の音楽的な優しさとか91年のメトセラⅡのパワーと若さ爆発の豪快さなども大変印象に
残っています。

前述の通り、遠山先生は1983年以降浜松商業に異動をされたのですけど、
翌年の84年には早くも全国大会出場を果たしたことは、とにかく凄い事だと思います。
一般的には、あんまり実績がない学校をゼロから作り上げて全国大会でも十分通用するチームを作るのには
最低でも3年は掛ると言われる事が多い中、遠山先生はわずか2年でそれを実現していましたからね!
大変古い話で恐縮なのですけど、かつて天理高校吹奏楽部を指揮されて、1979年以降は近大付属に移られた
谷口先生は、風の便りで聞いた話では
「天理なんぞ2年で簡単に追い抜いて見せる!!」と豪語されていたとの事ですけど
ついに谷口先生時代は全国大会出場を果たすことは一度もありませんでしたから、
やはり、指揮者・指導者の転任・異動というのは大変難しいものがありそうですね。
公立校から公立校の異動でそれを軽々とやってのけられた遠山先生のそのお人柄・指導力・音楽的解釈は
本当にお見事なものがあると思います。

さてさて、そうした遠山先生なのですけど、大変惜しまれる事にこの年でもって浜松商業を勇退され、
結果的に最後の全国大会での演奏になってしまいました。
前述の通り浜松商業は、1986年に92年と同じ自由曲の「トッカータとフーガ」の素晴らしい名演を残してくれていたので
この年の演奏も期待して聴いていたのですが、結果は、ちょっと残念な凡演でした・・(泣・)
奏者も余計なプレッシャーがかかって、気合と気持ちが空回りしてしまったのかもしれないですね。
関係者で無いものでその辺りの事情は分からないのですけど、当時の出場者の生徒さんたちは、もしかしたら・・??
「今年でもって遠山先生は勇退・・・だからなんとか全国大会金賞でもって遠山先生のフィナーレに花を添えたい!!」
みたいな重圧感みたいな雰囲気があったのかもしれないですね。
私的には限りなく銅賞に近い銀賞という感じでもあったのは大変惜しまれるものがあると思います。

だけど、遠山先生のコンクールとしての演奏はこの年の浜松商業が最後では無かったのですね!
翌年の1993年に意外な所でこの遠山先生をお見かけする事になりました。
それがどこかというと、東海大会・職場の部でした。
高校時代の吹奏楽の部員の一人が当時トヨタ自動車吹奏楽団に所属していて、
1993年は、ヤマハ浜松が5年連続金賞による特別演奏でお休みのため、
「もしかしたら全国大会に出場できるのではないか・・・? 否! 今年こそがラストチャンス!」という事で
異常に張り切っていたようですけど、93年に、突如静岡県の職場の部に天方吹奏楽団というチームが出現し、
その指揮者が遠山氏で、しかもその時の自由曲が「トッカータとフーガ」という事で
「自分たちにとって千載一遇のチャンスなのに、そんな時に浜商のOB楽団(?)みたいなものが
突如出てくるとは何と運が悪い・・・ただでさえ、東海支部にはツヅキボウという強敵がいるのに・・」と
ぼやいていたのは何か懐かしい思い出です。

最後に・・・余談の領域ですけど、「浜松」と言うと、私的には「音楽の街」というイメージがあります。
やっぱりそれは「ヤマハ浜松」の存在が大きいのかな・・・・?
元来、浜松市はオートバイや木工・繊維関連など、「モノづくりの街」として名を知られていますけど、
やっぱり最たるものは「楽器制作」ですよね・・・!!
河合楽器製作所・ローランドなど、名だたるメーカーが浜松市に集結していますし、
国内でのピアノ生産量は第1位ですからね!!

浜松は「世界最大規模“楽器の街」という感じがしますね。

浜松は、吹奏楽コンクールの関係で「浜松アクトシティ―」に行ったことも何回かありますけど
音響的にも見た目にも素晴らしいホールでしたね!!
ついでに書くと、一度うちの奥様と温泉旅行に行った舘山寺温泉とか浜名湖とか
本当に素晴らしかったですね・・・!!
ホント、もう一回くらいは行ってみたいな・・・・
(舘山寺温泉近辺の観覧車とかフラワーパークも大変印象的でした!)
9.新屋高校


B/バレエ音楽「ガイーヌ」~序奏・近づく嵐・アルメンとガイーヌのデュエット・収穫祭(A.ハチャトゥーリアン)



秋田県の吹奏楽というと、今年は花輪高校と秋田南高校をご指導されていた小林久仁郎先生の早すぎるご逝去も
ありましたし、今年ではないのですけど、かつて仁賀保高校と新屋高校を導き普門館でも数々の名演を私達に
残して頂けた高野先生の勇退とか、既に彼岸の彼方におられる秋田南高校をかつてご指導されていた高橋紘一先生など
1970年代から80年代の秋田県の吹奏楽コンクールにおける偉大なあの歴史を知る人間にとっては
寂しいものを感じざるを得ないのは否定のしようがない事実であると思います。
だけど同時に秋田県においても着々と優秀な若手の指導者が続々と育っておられるのも事実ですので、
以前の素晴らしき伝統は伝統として、これからの新しい秋田県代表チームによる素晴らしい演奏とこれまでの方向性とは
ひと味もふた味も違う新たな音楽を聴かせて頂ければ素晴らしいと思いますし、
埼玉の地より心よりエールを送らさせて頂きたいと思います。

秋田県の吹奏楽コンクールを語る上での二大巨匠と言えば、言うまでも無く高橋紘一先生と小林久仁郎先生だと
思うのですけど、ここで忘れちゃいけないのが、かつて仁賀保高校と新屋高校を指導された高野先生だと
思います!
私自身が初めて高野先生の音楽を聴いたのは、1981年の山形県で開催された東北大会で仁賀保高校を指揮された
「スキタイ組曲」の演奏でしたけど、
あの演奏のサウンドの洗練さと音楽のスピード感溢れる展開に驚いたものですし、表彰式にてあの演奏が
銀賞に留まった事に衝撃を受けたものですし、
「なんて東北支部の演奏はレヴェルが高いんだ! それに比べてうちの学校のレヴェルの低さは恥ずかしいなんて
もんじゃない・・・同じ高校生なんだから、自分達ももう少し頑張ってレヴェルアップをしないといけない!」と
感じるようになったのは、このブログでは何度も語っているように1981~82年の驚異的にレヴェルが高かった
あの東北大会の影響も相当あったと私自身感じております。

そうした中、高野先生は少し気の毒な側面が特に仁賀保高校時代にはあったような気がしてなりません。

だってあれだけの優れた指導力&指揮能力をお持ちで、楽曲の解釈にも大変素晴らしいアプローチを毎年のように
見せてくれながらも、
秋田県内で、秋田南高校と花輪高校という「二大巨匠」がでーーんと構えていて、80年代中盤以降、この両校が
全国大会で金賞を取れない時代が長く続いた背景もあり、「秋田県の東北大会への代表枠」が二つに減らされ、
そのとばっちりで高野先生指揮の仁賀保があれだけ見事な演奏を秋田県大会で聴かせても
東北大会にすら進めないというある意味大変不遇な時代が相当続いていましたからね・・・
このブログで何度も書いている通り、私は大の秋田南と花輪の熱烈的な信者(?)でもあるのですけど、
結果的に秋田南が一時的に没落したというおかげで(?)
仁賀保から新屋に異動された高野先生に陽が当たる時代が来るというのも
なんかとてつもなく皮肉なお話でもあるのですけど、
コンクールというものにそうした「悲哀」はある意味付き物ですから、これはこれで仕方が無いのかも
しれないですね・・

高野先生は、
1982年の仁賀保高校での矢代秋雄/交響曲~第四楽章」というあの歴史的ウルトラ超名演と
98年の新屋における同じく矢代秋雄の交響曲名演の再現で、吹奏楽コンクールにその名を残しましたけど
高野先生は、矢代秋雄や三善晃といった邦人音楽も素晴らしいけど、
ロシア音楽も素晴らしい演奏を毎回聴かせてくれるという印象があります。
この年の「ガイーヌ」の粗暴な響きとしっとりとした感覚の面白さもそうでしたし、翌年のペトルーシュカの演奏も
そうした傾向が強く滲み出ていたと思います。
古い話ですけど、上記でちらっと書いた1981年の東北大会のプロコフィエフ/スキタイ組曲とか85年の「火の鳥」の演奏も
そうした方向性の音楽だったと思います。

高野先生は、ダフニスとクロエとか寄港地、スペイン狂詩曲みたいなフランスものも結構取り上げたていたのですけど、
何となく繊細な感覚というよりは「粗野」な感じの方が強く、私としてはあまり相性としてはよくなかったような気もします・・・
だけど1994年の「スペイン狂詩曲」~Ⅳ.祭りはとてもダイナミックスで個性的な演奏だったと思います。
94年の高校の部では「スペイン狂詩曲」~祭りを自由曲に選ぶチームが新屋の他に天理と埼玉栄があったのですけど、
この3チームの演奏が三者三様で個性に富み、その音楽的方向性に明確な違いが感じられたのは
大変興味深いものがあったと思います。
繊細でふわふわとした仕上がりの天理、吹奏楽としての機能性重視の埼玉栄、そして新屋は
繊細なフランス音楽と粗野でダイナミックスな野蛮なロシア的響きを巧みに融合した演奏で、あの演奏は、
私としては金賞を受賞した天理・埼玉栄よりはむしろ高く評価した演奏でもありました!

高野先生の音楽ってとにかくサウンドが美しく濁りが微塵も無いのが一つの特徴だと思います。
(それが最大限発揮していたのが1982年の矢代秋雄の交響曲だと思いますし、ダメ金で全国大会には進めなかったものの
85年の火の鳥なのだと思います!)
そして同時にサウンドが大変洗練され美しく響いてくるのですけど、同時に「音楽の切れ味」というのか「スピード感」が
実に充実しているというのがその大きな特徴だとも思います。
1983年に出版されたエイト社の「11人の吹奏楽の先生」という本の中で、高野先生はそのインタビュー記事の中で
「スピード感が無い音楽じゃ駄目だ!」とはっきり明言されていましたし、そのスピード感が最大限発揮されてたのが
この年1992年のガイーヌと翌年のペトルーシュカじゃなかったのかな・・・と今になって振り返ると
感じることもあったりします。

この年、1992年の高校の部の課題曲は、AとCに比較的人気が集中し、
課題曲Bの「フューチュリズム」は、この新屋高校の一団体だけでしか課題曲としては選ばれていませんでした・・
個人的にこの課題曲が大好きだった私としては、少しというかかなり寂しいものがあります・・
出だしが非常に薄く書かれていて演奏しにくい面があったのが敬遠された理由なのかな・・?
この年の課題曲A「ネレイデス」は演奏時間が短い割に演奏効果が高かったので、人気があったのかもしれません。
課題曲Bは、リズムの歯切れ良さも面白いし、ロマンチックな中間部も好きだったのですけどね・・
新屋高校の課題曲Bは、恐らく全部門を通じて最高の演奏だと思います。
テンポが冒頭少し早目だったけど、その分迫力もあったし、中間部もしっかりとたっぷりと歌いあげていました!
この年の新屋高校は、サウンドがこれまでの「洗練された音・清潔・気品」という路線ではなくて、
何か荒ぶる魂みたいな感覚の音であり、
これまでのフランス音楽系の音から、ロシア系の荒っぽい感じの音に生まれ変わっていました。
だからこそ、自由曲の「ガイーヌ」は、この年のこのチームのサウンドにドンピシャという感じだったと思います。
それとも、例年に比べてサウンドが粗いから、自由曲も荒っぽいロシア系を選曲したという側面ももしかしたら・・・?
あったのかもしれないですね・・・
そのくらい92年の新屋高校の演奏を普門館で直接聴いた私としては、
「あれれ・・・随分とサウンドが変化したけど、同時にスピード感と切れ味が抜群!!」と感じたものでした。

自由曲の「ガイーヌ」は、これまでの他校の演奏パターンで言うと、
藤田玄播アレンジ系⇒アイシェの目覚めと踊り・レスギンカという組合せで演奏し、
林紀人アレンジ系⇒序奏・ヌーネの踊り・バラの少女の踊り・レスギンカ
          (又は、序奏・友情の踊り・アイシェの孤独・剣の舞・収穫祭)

というまとめ方が多かった中、この年の新屋高校は、
序奏・近づく嵐・ガイーヌとアルメンのデュエット・収穫祭という少し独創的な構成を取っており
それが何か新鮮にも感じられました。
特に近づく嵐のドラのロールとかデュエットにおけるクラリネットの長いソロとか色々聴きどころ満載でしたし、
収穫祭もホルンの雄叫びはほぼ完璧に決まり、
全体的に荒っぽい感じが実にこの曲にマッチしていて、大変気持ちが良かったです。
私、個人としては「グランプリクラスの圧倒的金賞」と思っていたのですが、
実際は銀賞にとどまり、当時としては「え~、なんでこの演奏が銀賞なの・・・?」と疑問にも感じたものですし、
やはり音楽というかコンクールの場においては
「個人の嗜好の違い」というものは間違いなくあるものなんだなぁ・・と改めて実感したものでした!


7.福岡工業大学付属高校


A/ハンガリー狂詩曲第2番(F.リスト)

今更言うまでもない話なのですけど、中学・高校といったスクールバンドの場合、実績と指導力がある先生が
異動されてしまい、翌年以降指揮者の先生が変更になってしまうと、
とたんに前年度みたいな演奏が中々出来なくなってしまい停滞が続いていくみたいな話は、
吹奏楽コンクールではよく聞く話で別に珍しくも何ともないと思います。

福岡工大付属高校も、1989年jまで指導をされていた鈴木先生が退任されて、
1990年からは指揮者が真和志中・石田中・那覇中等でお馴染みの屋比久先生へと変わり、福岡工大サウンドも
一変する事となります。
中学校であれほど実績を残された屋比久先生ですら、高校の部では最初ご苦労されていたのが印象的です。
というかスクールバンドの場合、実績のある学校で指揮者が変った場合に、他校で実績が既にある別の先生が
赴任されたとしても一年目から「結果を出す」という事は大変難しいものがあると言えるのかもしれないですよね。
90~91年は九州大会において福億工大付属はダメ金で、
屋比久先生の指揮で福岡工大が初金賞を受賞されたのは、1993年の事ですから、
いかにスクールバンドにおいて、実績ある指揮者が離れると後任の方がご苦労されるのかを示唆した典型的な
話しなのだと思います。

この屋比久先生はすごいです!
だって・・私が生まれる以前から既に九州大会に出場されていましたし、
中学の部で「沖縄サウンド」と呼ばれる音楽で全国大会の聴衆を魅了され
(特に石田中学校時代のパッサカリア・シチリア島の夕べの祈り・ドヴォルザークの8番終楽章は素晴らしい名演だと
思います!)
1990年代以降は、高校の部へと舞台を移され、福岡工大付属を鈴木先生時代から更にステップさせ、
幻想交響曲・トッカータとフーガ・元禄・ショスタコの5番・アルプスの詩・エルフゲンの叫び等の数多き名演を
私達に残してくれましたし、
更に2007年以降は原田学園に転任され、ここでも素晴らしい名演を色々と生み出しただけでなく
昨年は九州情報大学を全国大会にまで導き出されています!

まさに吹奏楽界の「神様」みたいな存在の先生だと思います!!

そうした神様みたいな屋比久先生を持ってしても、新しい学校での一からの指導というのは中々難しいものが
あるのでしょうね。
屋比久先生の「個性」が吹奏楽団全体に浸透するにはやはりそれなりの時間が必要なのかもしれないですし、
先生自身も従来までは中学生相手の指導から高校の部での指導という事で多少はどこか戸惑いみたいなものも
もしかしたらおありだったのかもしれないですね。
90年の運命の力、91年のラフマニノフの交響曲第一番は、
鈴木先生時代の金管楽器が主体のこのチームのカラーと屋比久先生指揮での木管重視のカラーが
まだ完全に融合していなかったのかもしれません。

1992年は、屋比久先生が福岡工大付属に赴任されて初めて全国大会に出場したのですが、
やはりまだ「ちぐはぐ」な印象は残っていたと思います。
課題曲・自由曲共に重厚さは感じられるものの、音楽に自由さ・躍動感があまり
感じられず、指揮者と奏者の間に、「見えない壁」みたいなものがあったようにも感じました。
普門館からの客席で私もこの演奏を生で聴いていましたけど、「うまいな・・特に木管のうねりが素晴らしいな」と
感じてはいたのですけど、正直この年の演奏は木管の巧さ以外は特段語る部分も少ないのかな・・?と
感じさせる演奏で、上手いのだけど音楽としての「個性」があまり伝わってこない演奏に少しもどかしさを感じたのも
また事実でした。
全体的に歌い廻しが理屈っぽい感じがして不自然さを感じさせたのはマイナスだと感じました。

私の記憶ですと、この年はプログラム1番から6番目あたりまで演奏終了後のブラボーコールが湧き起こらず
「今年の聴衆はマナーが向上したのかな・・?」と瞬間的に感じたのですけど、
普門館でのあの喧しいブラボーコールが湧きあがったのは、1992年の高校の部においては、
この福岡工大付属が初めてだったと思います。
(あれは三年ぶりの全国大会という事でOB等のやらせなのかも・・・? 正直とてもじゃないけどブラボーコールが出る
演奏では無かったような気がします・・)

福岡工大付属が屋比久先生指揮の下で一気に覚醒するのは、翌年の幻想交響曲からだと思います。
5.松江女子高校


C/バレエ音楽「バリの喜び」(オッフェンバック=ロザンタール編曲)



長い間出雲高校を指揮されていた金本先生は、1988年以降はこの松江女子高校に異動されていましたけど、
この松江女子を率いての全国大会初出場を掴みとられていました。
ただ前任校の出雲高校はこの年は中国大会ダメ金で終っていましたので、金本先生としては「どうだっ!」という気持ちと
「すまん・・」という揺れる二つの思いだったのかも・・・

松江女子の演奏ですけど、課題曲も自由曲も大変申し訳ないのですけど、ほとんど印象に残らない演奏だったと
思います。
全国大会初出場という事もあり、比較的早い出演順だった事も悪い方向に流れてしまい、
課題曲Cも本当は鋭い響きを期待したい所、どこなくもさーーっとした締りの無い響きで開始され
「あれ・・?」と思っていたら、そのまんま調子に乗りきらない雰囲気で課題曲は終わってしまいました。
自由曲は課題曲よりは、曲の流れがよく、この楽しいバレエ音楽らしい「華やかさ」は十分アピール出来ていたと
思うのですけど、なんとなくですけど、金本先生の指揮はどことなく柔らかい方向に振っている感じが
客席から聴いている私の感覚として伝わり、
その柔らかさが「サウンドの洗練さ」ではなくてむしろ「少し鈍くさい感じ」として伝わり、それが前述のもさっとした響きに
なってしまったようにも聴こえたものでした。

やはり全国大会初出場と言うのは色々な意味でプレッシャーが掛るもので、普段の練習の成果があんまり
発揮できないまんま普門館の本番のステージが終わってしまったようにも感じられたものでした。



6.土佐女子高校


A/ エル・サロン・メヒコ (A.コープランド)


土佐女子校としては通算4回目の普門館で、森本先生としては、3回目の全国大会でしたので、
指揮者としてもチーム全体としても慣れというのか余裕みたいなものがプログラム5番の松江女子よりは
伝わってきていて、こうした全国大会と言うものは、やはり出場回数とか伝統とか指揮者の慣れと度胸も
結構大きいのではないのかなとも感じたものでした。

課題曲Aのネレイデスは、私が聴いた限りでは何の問題も無く、いかにも女子高らしい繊細でデリケートな響きが
大変印象的でしたし、この課題曲特有のうねりとモヤモヤっとした響きも大変上手にまとめられていると
感じました。
このチームは木管も巧いけど金管セクションのコントロールとか音色のブレンドが素晴らしいと思います。
土佐女子は88年の寄港地とか87年のサロメとか
森本先生の指揮ですけど土佐女子中学校として初出場の中学の部の「ダフニスとクロエ」もそうなのですけど、
どちらかというとフランス音楽の繊細な響きを大変しっとりと歌い上げるのがうまいみたいな印象もあったりします。
そうした中、この年の自由曲に取り上げたのはアメリカのコープランドのちょっと武骨でけたたましい音楽でしたので、
土佐女子の方向性と曲の粗雑さ・粗っぽさが今一つ噛み合っていないのかな・・?みたいな印象も感じられ、
この演奏を普門館で聴いていた私としては、
「テクニックはそこそこあるし、トランペット・クラリネット・ファゴットのソロも決まってはいるのに、
どこなく不安定さを感じさせるのはどうしてなのかな・・?」というミスマッチさを感じたものでした。
やはりそれは選曲ミスの範疇に入ってしまうのかもしれないですね。
トランペットのあのとてつもなく難しいソロを難無く決めていただけに「勿体無いなぁ・・・」とも感じましたし、
個々のテクニックはこんなに大変優れているのにどうして全体としてはどこか冴えない感じになってしまうのだろう・・?と
感じたものでした。

1998年以降、土佐女子の名前を全国大会では耳にしないから少し寂しい気持ちはありますね・・・(泣)
土佐女子の当時の演奏ユニフォームは、まさに伝統的で王道の「純白のセーラー服」の学校でしたので、
男子高校出身の私としては、土佐女子のあの純白セーラー服を見ることが出来るだけでもとてつもない
眩しさはあったと思います!! (汗・・)
前述の通り1988年の「寄港地」の演奏は素晴らしいものがあり、結果として銀賞なのですけどあの演奏は金賞でも
全然遜色ないと思います。
土佐女子は、1998年のウィルソンの「コンサートバンドとジャズアンサンブルのためのラプソディー」で唯一の金賞に
輝いているのですけど、あくまで私個人の感想で言うと、
何か今一つ盛り上がらない感じの98年の演奏よりは88年の「寄港地」の方が大好きです!!

そうそう・・土佐女子の指揮者の森本先生は他校ではありえないほどのご苦労もされていたのが大変印象的です。

土佐女子高校は系列附属に土佐女子中学校もありましたけど、森本先生は高校だけではなくて、この中学の方の指導も
一手に任されていたようでして、
この年、1992年と1995年においては、土佐女子中学校と土佐女子高校のダブルで全国大会出場、そして
普門館においては土日り二日間連続で指揮者として出場されていたという今では考えられない大変なご苦労を
されていたのが大変印象的でした!
印象としては、例えば92年のアルメニアンダンスパートⅠとか95年のバレエの情景のように
とても可愛らしくてチャーミングな響きの中学の生徒さんたちが三年間みっちりと基礎を叩きこまれて、
高校に入って更に進化を重ねたみたいな印象もあったりしますね。
私が中学生あたりの頃で吹奏楽オリジナル作品の中で比較的簡単で親しみやすい曲を作る作曲家というと
コーディル・カーター・オリヴァドーティーあたりだったと思います。
私が中学生の頃は、コーディルはなぜか「カウディル」と吹奏楽コンクールのプログラム等では表記されていたのは
なんか懐かしいですね・・・(笑)
当時の吹奏楽コンクールにおける県大会クラスでの中学校C編成(25人編成、東北ブロックではこのC編成を設置している
県がいくつかあったと記憶しています)ですと、出場チームの半分程度の自由曲がこのカウディル(現、コーディル)で
占められている・・なんていう平和な時代も昔はあったものでした・・・(汗・・!)
当時のカウディルの曲と言うと、吹奏楽のための民話・ランドマーク序曲・オデッセイ序曲などが結構演奏されていたと
思います。

私が高校から大学の頃になると、ジュニア向けの平易で親しみやすい吹奏楽オリジナル作品の第一人者は
「スウェアリンジェン」になっていたと思います。
(私個人としては、オリヴァドーティ・カーターの作品も出来れば忘れることなく演奏され続けて欲しいのですけど、
最近ではその名前すらほとんど耳にする事はなくなりましたね・・・ちょっと残念です・・)
私が初めてスウェアリンジェンの名前を耳にしたのは意外と古く、確か1979年の宮城県大会で
ある中学校が自由曲として「エグザルテーション」を演奏していました。
だけど当時のコンクールのプログラムの表記では
「スウェアリンジェル」ではなくて「スエーリンゲル」となっていましたので、
この二つの表記の方が同一人物と気が付くのは数年後の事でした(汗・・)

スウェアリンジェンの曲って本当に分かりやすくて単純明快で明るく楽しく実にいですよね!
構成もA-B-Aという実にシンプルなものだし、「シンプル イズ ベスト」をまさに実証していると思います。
私自身、スゥエアリンジェンの曲は、インヴィクタ序曲しか吹いたことが無いのですけど、
この曲は高校3年の時の定期演奏会の一曲でしたが、
他の曲がスペイン奇想曲とか組曲「絵のような風景」とか芥川也寸志/交響管弦楽の音楽などとにかく難曲ばかりでしたので、
この曲を吹くときだけは実にのびのびと楽しく吹くことができていたと思います。
この曲、クラリネットのスコアも難しい箇所はほぼ皆無で、極端な高音もないし指使いは平易だし、
曲は実にのびやかで楽しいし、吹いていて実に気持ち良かったです。
やはりプレイヤーをこうした気持ちにさせる事とか技術的な易しさとか親しみやすいメロディーが
スウェアリンジェンを長期間日本の吹奏楽界で(特に中学校の小編成部門で)「不動の地位」を保てた
一つの理由と言えるのかもしれないですね。

私も大学でも一応吹奏楽部に所属し、毎年全日本吹奏楽コンクール・都大会大学部門に出場していましたけど、
大学時代も高校時代と同様に学生指揮でしたが、
自由曲に、ドビュッシーの「三つの夜想曲」~Ⅱ.祭りを選曲した際も全体とし中々的確にてまどまらず、
大学の部の都予選まであと一か月を切った際、指揮者がついポロッと
「うーーん、やはりドビュッシーは君たちの技術では無理なのかもね・・・今から自由曲を
 スゥエアリンジェンのチェスフォードポートレイトに変えてみる?
大丈夫、この曲簡単だから、君達でも三日でマスターできるよ・・・」
なーんて屈辱的な事を言われてしまったのは何か懐かしい思い出ですね。
だけど当時指揮者から言われたあの一言は、私的にはかなりの屈辱でしたね・・(汗・・!)

スウェアリンジェンがブレイクするきっかけとなったのは1981年の狂詩曲「ノヴェナ」ではないかと思います。
支部大会でこの簡単な曲をやるチームは少なかったですけど、この年の県大会では、このノヴェナが大流行したような
記憶があります。
出だしのピッコロと木管ののんびりとした素朴な感じで始まり、コンサートチャイムがカンコン鳴り響いたり
いかにもスゥエアリンジェンらしい曲だったと思います。
スゥエアリンジェンの曲って大抵の場合、威勢のいい打楽器のリズムとか金管の咆哮から開始される事が
多かったような気もするのですけど、こういうしっとりとした出だしと言うのは案外珍しい部類だったのかもしれないですね。

スウェアリンジェンの曲と言うと・・・

〇狂詩曲「ノヴェナ」

〇インヴィクタ序曲

〇チェスフォードポートレイト

〇コヴィントン広場

〇アヴェンチューラ

〇マジェスティア

〇栄光の全てに

〇センチュリア

〇誇りと祝典

〇シーゲート序曲

あたりが私は好きですね。 だっていかにスゥエアリンジェンらしい響きの曲ばかりですから・・・(笑)

東京都大会では、今現在そうしたシステムがあるのかどうかは分からないのですけど、少なくとも2000年代初め頃までは、
都予選B部門(35人以内の小編成)で予選一位と二位のチームに
「特別演奏」という形で名誉あるお披露目演奏が出来る特権を与えているのですけど
1987年~89年の3年連続で、瑞穂中学校がこの特別演奏枠で出場しているのですが
3年間自由曲は全てスゥエアリンジェンというのは画期的だと思いますし、素晴らしいと思います!!
というか、多分ですけど、同一学校が3年連続B組特別演奏枠を掴みとっていた事例はこの瑞穂中以外はないと思います。
演奏も大変生き生きとして素晴らしかったです。
その自由曲は、確かセンチュリア・誇りと祝典・シーゲート序曲でしたね。
確か90年も同じくスウェアリンジェンの「栄光の全てに」を取り上げたのですが
残念ながら4年連続での特別演奏は実現できませんでした・・・(泣・・)
ちなみにこの当時のの瑞穂中の指揮者の臼井弘美先生は、あの伝説の名チーム・瑞穂青少年吹奏楽団の
メンバーだったとのことです。
ちなみに臼井先生はホルン奏者だったとの事です。
牟田先生の後のバトンを託されたのが臼井先生でもあったのですけど、臼井先生指揮での
瑞穂青少年吹奏楽団の演奏は、88年のリードの「ゴールデンジュビリー」と89年のワーグナーのタンホイザー序曲を
都大会・一般の部予選という形で、霊友会小谷ホールで聴く事が出来たのは、
今となっては大変貴重なものがあると思います!

スウェアリンジェンと言うと、中には少し不思議な曲もあり、
例えば「ロマネスク」とか「リフレクションズ」みたいに少し哀愁溢れる曲もあったりして
特に「リフレクションズ」の少し物悲しい感じは、スウェアリンジェンの別の表情みたいな感じもあり、
これはこれで悪くはないし、私は好きですね。

最後に・・・

スウェアリンジェンというと前述の通小編成のジュニア部門という印象が強いのですけど、
実はなのですけど、2016年のコンクールの時点で、たった一度だけこのスウェアリンジェンの曲が全国大会で
演奏されたことがあります。
それがどこかというと、1991年に全国大会にも出場したJR東日本でしたけど、正直・・演奏は上手くは無いです・・(汗・・)
だけど・・・!!
厳密にいうとJR東日本に先駆けてスウェアリンジェンを自由曲にして全国大会出場を果たしたチームが
ありました!
どこかというと、1984年の東北大会で自由曲にこのスウェアリンジェンの「チェスフォードポートレイト」を選んで
全国大会代表の座を掴んだ秋田銀行というチームがあったのですけど、
理由は定かではありませんが、全国大会出場を辞退してしまい、このスウェアリンジェンの曲が全国大会で
鳴り響くのには7年後のJR東日本まで待たなくてはいけなかった・・という経緯もあったりします。

ちなみにですけど、1985年の秋田銀行は自由曲に「ボイジャー」を選んで普通に全国大会に出場していましたので、
やはり少し勿体無い気もしますね・・・
4.常総学院


A/アルプス交響曲(R.シュトラウス)



この年の高校の部の銀賞・金賞チームはとてつもなく高いものがあり
(銅賞チームとの格差は大変申し訳ないのですけど、かなりの差がついてしまっていたようにも感じられます・・)
そうした全体にハイレヴェルの中でも金賞受賞チームは7チームに留まっていて、
審査結果発表の際には「わ・・なんか激辛審査・・今年の審査員は金賞を出し惜しみの傾向・・?」とも
感じたものでした。
あくまで私の感想ですけど、習志野・天理・札幌白石に金賞を与えるのなら、
花輪・新屋・都立永山・愛工大名電・兵庫に金賞を上げて欲しかったなぁ・・な~んて当時は思っていたものでした。
後述しますけど、新屋高校の銀賞は私にとってはあまりにも意外すぎる結果であり
「あんな演奏をしてまで金賞に届かないなんて・・」と思わず絶句したものでした。
そんな中、7チームの金賞受賞チームにおいて断然光っていたのは、高岡商業・洛南、そしてなんといっても
常総学院だと思います!
常総学院は、ここ最近はかなり厳しい状況が続いていて、全国大会出場すら難しい状況が続いているのは、
他校のレヴェルアップと全体水準のとてつもないレヴェルアップに尽きると思うのですけど、
それでも常総学院が「吹奏楽コンクール」に残してきた功績とこれまでの数多い名演は色褪せる事は無いと
思います。
このブログでも何度も書いているように、吹奏楽コンクールの演奏が色彩的にサウンド的に大きな変化を遂げるきっかけを
作った「先駆け」となった演奏をしたのは1989年の常総学院のスペイン狂詩曲のあの歴史的名演であり、
あの演奏こそが、その後の高校の部の更なる進化を示唆していたようにも
私には感じられたものです。

このチームは89年に初出場しましたが、当時の鮮やかな普門館デビュー振りは
当時の聴衆を魅了したものですし、大変な衝撃を与えてくれました。
「え・・・・?、これがあのいわゆるブラスバンドの吹奏楽のサウンドなの・・・?」とため息ものの、
当時としては、「これが今後の吹奏楽界の方向性を示唆する演奏」と感じさせたものでした。
アルプス交響曲を自由曲に選んだ19992年の演奏も、そうした印象を全く裏切らない素晴らしい名演を聴かせてくれました。
特にアルプス交響曲は、音自体の色気がまさしく絶品!!
当時の私としては、
「吹奏楽でこれほどサウンドが清潔で気品があり、且つ艶やかな演奏が出来るのは
習志野と常総学院だけ」とすら思っていたほどでした。
(換言すると、現在の吹奏楽コンクール出場チームは、当時の常総学院程度のサウンドと音は全チーム有している事が
最近の常総学院の苦戦の理由と言えるのかもしれないです・・)
アルプス交響曲の出だしは、いきなり「夜明け」のffから開始されますが、その後の木管の響きは
まさに色気・艶やかさ以外の何物でもありません。
全体的にも、fとpのコントラストの鮮やかさ、ffでも崩れないサウンドの清潔さ、確かな表現力、全く文句のつけようが
演奏だったと思います。
私も吹奏楽コンクールは古今東西色々と聴いてきましたけど、この年の常総学院ぐらい「音自体に色と艶」がお見事だった
事例はあんまり記憶にないですね・・
そのくらい、とにかくあのサウンドだけでノックアウトされたものです。
冒頭のあの大音響の後に展開されたクラリネットセクションを中心とするあの木管のひそやかで音が大変清涼で美しく
のびやかな音は、素晴らしかったと思いますし、
普門館の会場で生であの演奏を聴いていた時も、あの箇所は本当に背中のゾクゾクが止まらないほどの
感銘を受けたものですし、あのゾクゾクというのは「美しいものの限界を感じた時」のゾクゾクだとも思いますし、
例えは大変悪いのですけど、あまりにも美しすぎる少女の亡霊を見た時の衝撃度みたいなものに近いのかな・・?s
今更ながらに思っています。

全体的にこの年の常総学院の「鳴り」は凄まじいものがありましたけど、音がどんなに大きくても
決してサウンドが濁らない点とあんな凄まじい大音響でも少しも聴衆たちに「喧しい・・」と感じさせない
サウンドのコントロールと表現の深さには脱帽する以外ないと思います。

一つだけ難を言うと、カットなのですけど、夜明けと同時にいきなり嵐という音楽的展開というのが
このカットの粗筋にもなってしまうのですが、それは吹奏楽コンクールの時間制限という中では仕方が無い話ですよね・・
原曲自体55分程度のとてつもない大曲ですので、それをコンクール用の7分程度にまとめる事自体
至難の業と言えるのかもしれないですね。

ちなみにこのカット方法についてはこの年のドイツの演奏旅行時の際、本図先生と豊島区吹奏楽団の八田先生が
ロマンチック街道を走るバスの車内で色々と議論を交わし、
実際にコンクール演奏で用いたカット方法を思いついたという事で
二人で「ロマンチックカット」と命名したというエピソードが常総学院のCDで紹介されています。

余談ですけど、八田先生と言うと「豊島区吹奏楽団」とか
全盛期の豊島十中を酒井先生と一緒に支えたというイメージが強いのですけど
実は豊島区吹奏楽団の以前は「公苑会」という吹奏楽団を率い、一般の部で何度か全国大会にも出場しているのですよね。
豊島区吹奏楽団というと、寄港地・火の鳥・幻想交響曲・海・サロメ・ローマの祭り・ダフニスとクロエ・
スペイン狂詩曲などのようにクラシックアレンジ路線が中心なのですけど
(一度だけ「ディオニソスの祭り」という吹奏楽オリジナル曲を取り上げています・・)
公苑会時代は、ギリス/タルサー交響的肖像とかグールド/サンタ・フェ・サガとか呪文と踊りとか
C・ウィリアムス/交響組曲などのバリバリの古典的オリジナル吹奏楽曲を演奏されているのですよね。
確か1988年の都予選では、アルメニアンダンスパートⅡを、89年の都予選ではオセロを
八田先生の指揮で演奏されていましたね。
89年の都予選をもって確か公苑会はコンクール出場は撤収していたように記憶しています)

八田先生はアレンジの名手でもありまして特に海とかアルプス交響曲とかサロメの踊りのアレンジは、名アレンジとして
現在でもよく八田版として使用され続けていますね。

八田先生の指揮は、見ていて地味というか決して大振りはしないけど、ポイントを的確に突いているというか、
非常に端正な指揮でした。
八田先生は、指揮をするのが大好きで大好きでたまらないような雰囲気があり、よくコンクール本番でも
団員たちが楽器を運んだりセッティングしている時も
いつもせわしそうに指揮台近辺をうろちょろうろちょろとせかせか歩き回り、一刻も早く指揮したい、演奏したいオーラが
溢れ出ていて八田先生の「音楽愛」が遠くからも何か伝わってくるものがありました。
 
八田先生と本図先生は、何か深い結びつきがあったのかもしれないですね。
常総学院と豊島区吹奏楽団の自由曲は1987年から95年まで全く同じというのも単なる偶然ではないのかも
しれないですね・・(笑)
常総学院は、85年に海を、86年にディオニソスの祭りょ自由曲にしていましたけど、豊島区吹奏楽団とは結果的に
順番が逆なだけでした・・

八田先生は1992年の都大会のアルプス交響曲が結果的に最後のコンクール演奏となってしまいました・・・

まだまだお若くこれからのご活躍が期待されていたのに、胃がんで急死されたのは
本当に惜しまれる事でした。
既に25年の歳月が過ぎておりますが、心から八田先生のご冥福をお祈り申し上げたいと思います。
結果的に八田先生の最後の全国大会は、1988年の大宮・ソニックでの「ダフニスとクロエ」でしたけど
この演奏を聴けたことは幸いだったと思います。
3.八戸北高校


D/春になって王たちが戦いに出向くに及んで・・・(ホルジンガー)



私、育ちに関しましては、高校までは主に宮城、そして高校卒業以降は主に関東です。
だけど、実は生まれ自体は「青森県八戸市」だったりもします。
最近はなかなかそうした機会が減っていますけど、全日本吹奏楽コンクールの全国大会のステージに
湊中学校とか八戸北高校等の青森県八戸市内の学校が登場してくると
聴くたびに心の底で「頑張って・・なんとか練習の成果を発揮して・・」みたいに祈りたくもなりますし応援したくもなっちゃいます。

やはりこれも一つの「郷土愛」というのかノスタルジーみたいなものなのかもしれないですね。
(今現在は埼玉県在住なのですけど、全国大会のステージに、例えば埼玉栄とか春日部共栄みたいな私立が出てきても
正直、「別にぃ~」みたいな感覚なのですけど、例えば以前、与野高校とか市立川口とか松伏みたいな公立高校が
登場すると、やっぱり「地元愛」が湧いてきて? 思わず応援したくもなっちゃいます・・笑・・)

1992年の全国大会の高校の部のプログラム第三番に全国大会初出場の八戸北高校が登場すると、
上記みたいな事情もあり、私としてはノスタルジーみたいなものも感じどことなくテンション上がり気味でしたし、
指揮者が佐々木孝男先生と知ると、「あ―――、あの時の・・」という懐かしい記憶も蘇ってきました。
佐々木先生の指揮を初めて見たのが、1981年に山形県で開催された東北大会の高校の部・A部門で、
当時佐々木先生は八戸高校をご指導されていて、この年はシベリウスの交響曲第1番第一楽章と言う
吹奏楽コンクールの自由曲として演奏するにはあまりにも地味すぎる曲ではありましたが、
あの自由曲の冒頭のクラリネットの長大なソロがとにかく大変印象的でしたし、曲自体は大変地味で内省的な曲なのですけど、
とにかくサウンドが荘厳でひそやかで曲全体として「ほのかな情熱」を感じさせてくれる
「静かな熱演」は当時吹奏楽もクラシック音楽もあんまりよく分かっていなかった私の胸にはどこかじーんと響く
演奏であったのは大変印象的でした。
(私自身がクラリネット奏者であったのも大きかったと思います)
翌年の1982年に福島で開催された時の八戸高校の自由曲はマーラーの交響曲第1番「巨人」第四楽章でしたけど、
あの演奏も優しさと力強さ、甘美さと躍動感といった人としての感情を大変豊かに表現されていて、
マーラーのあの劇的な世界を吹奏楽でも遺憾なく発揮されていたのがとにかく素晴らしかったと思います。

ちなみにですけど、私自身はこのブログで何度も書いている通り、吹奏楽コンクールの自由曲で演奏された
クラシック音楽を聴く事によって
「この原曲はどんな感じなのだろう・・」と興味を持っていったのがクラシック音楽という深い森の中に私自身が迷い込む
きっかけになった訳でして、
(その最大の事例が1982年の東北大会における花輪高校吹奏楽部が演奏したウォルトンの交響曲第1番第四楽章でも
ありました!!)
プロコフィエフ・ハチャトゥーリアン・ラフマニノフ・ベルク・シチェドリン・ブリスといった作曲家を聴くきっかけを作って頂いたのが
言うまでも無く花輪高校の小林先生なのであり、
シベリウス・マーラーの交響曲を聴くきっかけを作った下さったのが八戸高校の佐々木先生だったのです!

うーーむ、やはり私自身は吹奏楽とクラシック音楽は切っても切れない縁としか言いようがないですね・・・(笑)

そうそう、ウィリアム=ウォルトンの交響曲第1番が支部大会以上の吹奏楽コンクールの自由曲として演奏された事例は、
2016年の時点では、1982年の花輪高校と1984年の佐々木先生が指揮された八戸高校という
二つの事例だけです!

そしてそれから数年後・・・あの佐々木先生を普門館の場で見ることになったのです!
(佐々木先生にとっても初めての全国大会出場でした)
八戸高校ではなくて、この頃は既に八戸北高校に異動されていたのですけど、1990年の赴任からわずか2年程度で
こうやって普門館に導かれるあたりは「さすが!」としか言いようがないと思います。

そしてプログラム第3番の八戸北高校の演奏が始まりました・・

「指揮者も学校も全国初出場だから緊張で演奏が崩壊するかも・・」

「シベリウスみたいなほのかな情熱の再現・・・?? いやいやホールジンガーの曲だからそれを求めるのは無理だから
マーラーみたいな劇的雰囲気の再現なのかな・・」と

色々な思いが頭を過りましたけど、とにかくいい意味でも悪い意味でも私の予想を覆す
とてつもない演奏が展開されていました・・・!!

この年の八戸北高校は吹奏楽コンクールの評価としては銅賞という結果で終りましたし、正直に書くと
その銅賞と言う評価は極めて妥当としか言いようがないです・・

一言で述べると、とにかくとてつもない雑で粗野で荒削りのとんでもない演奏です!!
悪く言うと「力任せの演奏」であり、この当時の大相撲には、曙・武蔵丸といった強引な力づくのパワー一辺倒の
突き押し相撲が全盛でしたけど、そうした味もへったくれもなく繊細な感覚とか甘美な表現とは一切無縁の
高校生らしい若さとパワーに溢れた「生命感」そのもののとてつもなく熱い演奏が展開されていました。

とにかく聴いていてあの圧倒的なパワーと音量と粗雑さの前には脱帽するしかない、とてつもない演奏だったと
思います。
その野性味あふれるダイナミックスさというのか
「生命感」が漲る「人間が本来有している本能の雄叫び」みたいなものがあちこちからこだましているようにも聴こえました。
八戸北高校のあの演奏は、
「なんかよく分からないけど、とにかく圧倒される・・曲の持つ迫力とエネルギーの前では・・つべこべ文句を言わせて
貰えない・・だけど何かとにかく面白い・・・
聴いていてなんかウキウキとさせられる・・」みたいな感覚があったと思います。

シベリウスの内省的な情熱とかマーラーみたいな人間の感情を計算し尽くした激烈さを表現されていた
当時の佐々木先生とは全く別の表情の佐々木先生を普門館の場で見ることになるとは予想もしていなかっただけに
とにかくとてつもなく印象に残りインパクトがある演奏だったと思います。

1992年の演奏の話ではないのですけど、
翌年の1993年は、三善晃の「管弦楽のための協奏曲」という難曲中の難曲を自由曲に選曲し、
あたかも「精密な設計図」に基づき緻密に組み立てているような感じの演奏を聴かせてくれ
「え・・・、これ本当に昨年と同じチームなの・・・・??」とびっくり仰天した記憶があります。93年の演奏は、とてつもなくクールで
冷静な演奏であり、とても前年の92年のあの破天荒でパワフルで粗雑な演奏をしていたチームとは思えないものがありました。
そのギャップがとても痛快に感じたものでしたけど、改めて93年の「管弦楽のための協奏曲」の演奏を聴くと、
「なるほどね・・ 佐々木先生にはこうした緻密な演奏の方が性分に合っているのかな・・?」とも感じたものでした。

だけどこの辺りは、スクールバンドらしい話だと思いますね。

指揮者の先生が、「学校のチームカラー」とか「これまでの伝統」にばかりにこだわって
毎年毎年生徒たちに同じような「型」をはめこんでしまうよりは、
八戸北高校のように、その年の生徒さん達の「個性」とか「カラー」に合わせて
演奏スタイルとかを変えていった方が、むしろ高校生にとっては自然体なのかもしれませんよね。

最後に・・・

この「春になって、王たちが戦いに出向くに及んで」という曲なのですけど、
曲自体の特徴としては、「声」を積極的に使用している事があると思います。
ちなみに、吹奏楽コンクールにおいては、「歌詞」を伴わないいわゆる「スキャット」であれば声の使用はOKとなっています。
それと他の特徴としては、とにかくホルンパートが極めて難易度が高いという事は特筆に値すると思います。
あれは・・完璧に「ホルン殺し」だと思います!!
C.スミスの大人気曲/ダンス・フォラトゥーラが「トランペット殺し」ならば、
ホルジンガーのこの曲は、とにかく「ホルン殺し」ですねぬぬ
あのホルンパートの技術的難易度の高さ、特に特にあの超高音域に関しては、
この曲を吹くことになったホルン奏者に対しては「ご愁傷様でした・・・」と声を掛けてあげたい気持ちで
一杯にもなりそうです。

ラスト近くで一旦静まり、チャイムがコーンと響く中、女声スキャットが高らかにこだまする中で
ここから更なる「混沌としたサウンド」が展開されていき、
ラストまで一気にたたみかけるように展開していきますけど、
あのノリは・・・とにかく何度聴いても実に胸がスカっ!!としますね。

この曲は90年代前半に吹奏楽コンクールに登場してきましたけど、今現在でもこの曲が自由曲として支部大会・全国大会でも
演奏され続けているというこの事実こそが、この曲の人気ぶりと普遍的価値を素敵に立証しているのだと
思います。
2.野庭高校


A/バレエ音楽「アパラチアの春」 (A.コープランド)



野庭高校吹奏楽部は、1988年の「春の猟犬」以来の4年振りの全国大会出場なのですけど、わずか4年で
方向性がガラッと変化したようにも感じたものでした。
(1991年の関東大会のダメ金の演奏はバーンズの「呪文とトッカータ」だったのですけど、まさか一年後にここまで劇的に
サウンドや方向性が変るとは全く予想もしていなかったです!)
1992年より従来の吹奏楽オリジナル路線からクラシック音楽のアレンジ路線に修正された訳なのですけど、
あくまで私個人の感じ方ですけど、演奏はリードの曲を演奏していた頃のような「自然さ・躍動感・ドキドキ感」が全く無くなり、
指揮者の中澤先生が「このように吹け」と強制されているから、言われた通りに吹いているという
感じが濃厚になり、これまでのような自発さ・楽しさが後退したのは何か寂しいものがあります。
例えるなら、「去勢されたように強制的におとなしくさせられたような」演奏という感じです。
自由曲も確かに響きは美しいのだけど、あまり伝わってくるものがありません。
というか原曲の「アパラチアの春」自体、30分程度の演奏時間の中で、盛り上がる箇所はあんまり無く
聴かせどころは「クエーカー教徒の讃美歌による変奏曲」の部分だけという感じで、正直、管弦楽の原曲で聴いても
飽きちゃうような曲でもあったりします。
そうした曲を吹奏楽コンクールでやる事自体に無理があり、私としては選曲ミスだったのかなぁ・・とも思ったりもします。
実際、野庭の演奏も音は大変クリアですしサウンドが清潔なのはとてもよく分かるのですけど、
音楽の盛り上がりがほぼ皆無ですので、演奏終了後も
「だから一体何が言いたいの・・?」という感じで、印象としては極めて希薄でしたし、
事実、プログラム3番の八戸北高校のまさに「エネルギーの大爆発」みたいな「春になって、王たちが戦いを始めるに及んで」の
演奏を聴いてしまうと、野庭の演奏は全く印象にも記憶にも残りませんでした。

申し訳ないけど私のハートには何にも伝わるものはありませんでした。
この路線で成功したのは、翌年の「くじゃく」だけなのかもしれないです。
大変厳しく言うと、全然惜しくない銀賞だと感じました。

やはり野庭=中澤先生=リードの演奏というイメージが強すぎるせいかもしれませんけど、
1992年以降の演奏は、私としましては、正直「何か今一つ・・」という感じも否定はできません。
92年から95年の4年間の演奏の中では、93年のコダーイのハンガリー民謡「くじゃく」による変奏曲は
本当に感動的でしっとりとした演奏を聴かせてくれ、
野庭=中澤先生サウンドの「別の側面」を見せてくれた演奏だと思います。
正直、この演奏を生で聴いていて、何かこみあげてくるもがあり、
「人の心にまっすぐと訴えかけてくる演奏」の素晴らしさと感動を改めて実感したものでした。

野庭高校に関しては、私の中では見解が二つに割れています。
アルメニアンダンスパートⅠ・ハムレット・オセロ・春の猟犬の頃のようにリードを主なレパートリーとしていた時代と
アパラチアの春以降、クラシックアレンジ路線に転じ、
これはあくまで「私の意見」というあくまで一個人の見解なのですけど、
本当の本音を書いてしまうと、
リード等吹奏楽オリジナル作品を演奏していた頃の中澤先生=野庭高校は大好きなのですけど
クラシックアレンジ路線以降の野庭高校のサウンドは今一つ魅力を感じません。
いかにも生徒の首根っこを無理やり押さえつけ「型」にはめ、去勢された様なおとなしくて
消極的なあの演奏を聴いてしまうと・・・
「うーーん、アルメ二アンダンスとかハムレットをやっていた頃の中澤先生=野庭高校は一体どこにいってしまったのだ・・・
こんな洗練され過ぎた控えめな演奏は野庭じゃない・・・」と当時感じていたものです。
現在の視点・感覚で改めて聴いてみると
「もしかして・・・中澤先生は吹奏楽の別の魅力とか可能性を感じていたのかな・・・
そして、道半ばにして、彼岸の方になられてしまった・・・
先生としても、少し悔いが残られる中でこの世を去られたのかな・・・」としみじみ感じる事もあります。
 
そうですね・・・・

これはあくまで「個人の感じ方」の問題だと思うのです。

あのアルメ二アンダンスのように個性的で躍動的で、とにかく音楽というものをあんなにも楽しく生き生きと聴かせてくれた
中澤先生=野庭高校が大好きという人間もいれば、
音の洗練さ・静かな熱演を心掛けたと思われる1992年以降の中澤先生=野庭の方が大好きという方も大勢いるでしょう。
そうですね、どちらもそれは他ならぬ中澤先生=野庭高校の「軌跡」だと思うのです。
それを「こちらの方が好き」と感じるのはあくまで個人の感じ方の問題であって、
それを単純に好き嫌いだけで論ずることは出来ないのだと思います。

野庭高校吹奏楽部の「軌跡」は本当に「奇跡」なのだと思います。
だって、1980年代~90年代にかけてのあの激戦極まりない「関東大会」にて、
あんな公立の無名校が・・・あんな強豪校がひしめく関東大会を何度も何度も勝ち抜け
全国大会であんな素晴らしい演奏の数々を聴かせてくれたのですよ!!
あれは・・本当に当時から・・「すごいな・・この学校は・・」と思っていたものでした。
確かに今現在は学校統廃合により「神奈川県立野庭高校」の名前は消えています・・・
だけど、特に特に・・・あの伝説の名演・・・アルメ二アンダンスパートⅠとかオセロとか春の猟犬等の
数々の中澤先生が残してくれた名演は、
陳腐な表現で申し訳ないのですけど、永遠に私達の心の中に生き続けると思いますし、あの素晴らしい演奏は、
後世の人達にも是非是非語り継いでいければいいなとも思っています。

野庭高校が全国大会初出場そして初金賞を達成したのは1983年なのですが、
この年は私自身高校3年生で、
当時後輩達か部室で「日本の吹奏楽83 高校の部 vol.5」に収録されていた野庭高校の
「アルメニアンダンスパートⅠ」が収録されているレコードを聴いていて、
私自身も最初にあの演奏を聴いた時の衝撃は、これは多分死ぬまで忘れないと思います。
そのくらい、大変個性的でインパクトが強く、とにかく「躍動感」に溢れた生き生きとした語り口で
同時に表現が実に斬新・・・・!!
あの第ⅴ曲の「Go! Go!」ををpから徐々にあんなに盛り上げていく演奏はかつてなかったと思いますし、
とにかく一つ一つの音が「生命感」と「躍動感」に溢れていて、
「うわわわ、なんだこの素晴らしい演奏・・・これで全国大会初出場・・・
しかも・・・あの激戦の関東大会を公立の全くの無名校が勝ちぬけている・・・??
それに比べて自分達は・・・何とふがいない・・」と
しみじみ思ったものです・・・
私自身、高校の定期演奏会でこの「アルメニアンダンスパートⅠ」を演奏する機会に恵まれたのですけど
残念ながら、楽譜を音にするのが精一杯で、とてもとても・・・野庭みたいなあんな「自由な表現」なんてできなかったです・・
あの演奏は「伝説的な名演」という名前に恥じない素晴らしい演奏だったと今でも思っています。

1.精華女子高校


D/バレエ音楽「ダフニスとクロエ」第二組曲~Ⅰ.夜明け Ⅲ.全員の踊り (M.ラヴェル)



1992年の全国大会・高校の部は、確か前日が月末で、
あとほんの一歩のところで毎月のノルマ達成に届かず、上司から無茶苦茶怒られ、
すごくイライラしていたのはよく覚えています。
そして当時の私の記憶では「月末になったら必ず溜め込んでいた三か月分の延滞金を払うからさぁ―」と言っていた
何人かの債務者に予想通り(?)支払をせず「払えねーものは払えねーずら!」と開き直っていた事にカチンときてしまい
かなりの言い争いをしてしまった上に、帰店後にその経緯を上司に報告すると
「お前がこの人は絶対に支払うと言ったから月末まで猶予を与えではないか! バカモン! もう一度行ってきて
回収するまでは帰ってくるんじゃねー!」と罵倒され、その夜またまた派手にバトルを繰り広げてしまった・・みたいな
記憶もあったりしています・・

翌朝目が覚めてもその事のイライラが解消できず、そのまんま始発のかいじ号に乗って普門館に着いたのですけど、
やはり気分としてはめちゃくちゃご機嫌斜め状態でした・・・(汗・・)

そんな訳ですごくイライラしていた当時の朝一番時の精神状態だったのですけど、
この精華女子のダフクロの夜明けの輝かしい清潔で爽やかな演奏を聴いて、そうしたイライラが
一瞬で吹き飛んでしまったのは、すごく鮮明に覚えています。
やはり音楽というものは、人の精神状態形成に色々と影響を与えることもありますし、
音楽はいいものだなーと感じた瞬間ではありました。
精華女子は1990年に初出場し、この時もプログラム一番で、2回目の出場の1992年もプログラム一番で
何か気の毒な感じもしました。
ついでに言うと、翌年の93年も確かプログラム3番辺りだったかな・・・
出演順が遅くなった94年にやっと念願の初金賞を受賞しています。
課題曲も朝一番とは感じさせないほど生き生きとしたものでしたし、
自由曲も夜明けの頂点の部分の盛り上げ方が極めて自然で、ストレートに心を打つような演奏だったと思います。

結果としてこの年は銀賞に留まりましたけど、惜しい銀賞の一つだったと言えると思います。

精華女子は、現在は、押しも押されぬ誰もが認める吹奏楽の名門校ですし、
最近のスミス三部作(ダンス・フォラトゥーラ、ルイ・ブルジョワの讃美歌による変奏曲・フェスティヴァルヴァリエーション)
とかスパークの「宇宙の音楽」の
圧倒的名演は記憶に焼き付いていますね・・
数年前の話ですけど、発売したCDが何と!「クラシック部門第一位」になっていましたね。

初出場の年とかこの年、1992年の演奏は、特に個性とか斬新な解釈とかは無く、
いかにも「普通の女子高生・・」という感じでした。
当時は、確か学校の制服としての真っ白の初々しいセーラー服姿での演奏で、
現在のようなあんな可愛く凛々しいステージ衣装ではありませんでした・・(笑)

精華女子を名門チームに押し上げた最大の功労者とも言える藤重先生は、2015年以降、精華女子を離れて
大分の学校で現在指導をされているのですけど、精華女子は、2000年代前半までは、
特に抜きんでた個性も実績も無いどちらかというと「微妙」な位置づけでしたけど、
2000年代後半から急激に「覚醒&進化」を果たしたと思います。
(それは最近の玉名女子にも同じ事は言えるのかな・・?)
指揮者の藤重先生は、1984年から2014年までずっと精華女子をご指導され続けていたのですけど、
この突然の途方もないステップと躍進の背後には一体どういう「変化」があったのでしょうか・・?

普門館の「ドラマ」は興味深いですよね。

1994年の全国大会の話なそうですが、
本番前日、生徒の藤重先生に対する悪口を耳にし、この件でカーッとなってしまった藤重先生が
「もう練習なんかしない、本番も指揮しない、勝手にしろ」みたいな事で
ホテルの自室にむくれてとじこまったとの事です。
だから、本番当日も、生徒と指揮者の関係は決して良好なものではなく
何となくぎくしゃくしたものがあったとの事です。
当時の藤重先生のあだ名が「フグ」とかいうもので、「あのフグがさー」なんて他愛もない陰口をたまたま
耳にしただけとの事なそうですけど、うーーん、この状態で金賞というのもすごいけど
この当時の藤重先生は、今現在のようなあの大御所的雰囲気とか素敵なダンディーさとか大人っぽい感じという訳では
必ずしもなかったようですけど(汗・・)
吹奏楽コンクールというものは、奏者だけでなくこうやって指導者も「成長」するという事なのかもしれないですね。
ここ数年、吹奏楽コンクールの全国大会は普門館で開催されていませんが、
かつて「普門館=野球部で言う所の甲子園」みたいなイメージがある私としては少し寂しい感じがします。
確か耐震設計上の問題でしたよね・・・
だけど5000人も収容できるホールって結構少ないし、何とか普門館の復活を期待したいと思ってはいるのですけど、
残念ながら既に閉館→解体という方向で決まっているようですね。
改めて振り返ると、普門館は広いホールですし、
早朝のプログラム一番の演奏は、まだ空気が温まっていない感じがします。
プログラム一番の演奏は、特に中学の部において銅賞を受賞する傾向が昔から強いのは、
勿論奏者の緊張もあるでしょうし、頭が完全に覚醒していないということもあるかもしれませんが、
一番の要因は、広いホールの空気が温まっていない状態で演奏を開始になっても響いてくる音が
「あれ、何か全然会場に響かない・・・」
「あれ、いつもと感じが全然違う」
という不安の連鎖反応ではないのかな・・と感じることがあります。

例えば良い例が
1991年~1992年に中国代表で演奏した宇品中学校をあげても良いと思います。
このチームは、1991年以前も何回か全国に出場し素晴らしい演奏を披露していますが、
1991年は不幸な事にプログラム一番・・・
この時演奏した曲は、組曲「サルタン皇帝の物語」でしたが
1986年に「三つの夜想曲」で歴史的名演を残したチームとは思えないほど
サウンドがぼやけきった、技術的に不安定な演奏を展開しています。
だけど翌年の92年は、出演順が後半になったせいか、
普段通りの実力を発揮し、素晴らしい「シェエラザード」を聴かせてくれました。

1992年の高校の部のプログラム一番は精華女子高校で、私が聴いた限りでは、それほど朝一番の不利な条件という事も
感じさせず、練習通りの演奏が出来ていたと思いますが、中学の部のブログラム一番の中間東中学校は、
音楽に大変独特なクセと個性は感じられるものの、朝一番という条件が響いたのか、全体的には音程不良が散見され
(特に自由曲の「イベリア」のコールアングレの代用楽器のソプラノサックスの音程の悪さがかなり酷かったです・・)
やはり「プログラム一番はきついよなぁ・・」と感じさせる演奏でした。

プログラム一番の不利さの問題はずっと以前から議論されていますけど、この問題を解決するためには、
プログラム一番のチームだけは、緞帳がおりて演奏開始前の三分間は
舞台上でのチューニングと音だしOKみたいな事を認めた方が何か公平なような気もします・・・

上記で記したとおり、現在は、5000人を収容できる「普門館」での全国大会開催が事実上出来なくなっているため
全国大会開催ホールは、せいぜい2500人収容のホールが一つの限界という事になると思われます。
そのためのせいかはよく分かりませんが、吹奏楽コンクールの「全国大会」の高校の部の入場券は
最早「プラチナチケット」と化し、入手する事自体極めて困難みたいですね。

1992年の都大会のプログラムを改めて眺めていると、全国大会の入場券の入手方法は、
入場券の金額に該当する郵便局の定額小為替と返信封筒と明細書を吹奏楽連盟まで簡易書留で
郵送して欲しいとのことですけど、何か少し時代を感じさせますね・・・(笑)
だって、現代だったら、全てネットでの申し込み→ネットバンキングを利用しての決済という事でしょうし、
大体、今の若い世代の人達に「定額小為替」と言ってもピンとくる人はいるのかな・・・?
1992年の一般の部は仙台で開催されたのですけど、「当日券の発売あり」と明記されていますけど、
まだこの時代は「当日券」はあったのですね・・・・
仙台で開催された「仙台サンプラザ」での全国大会会場は、それにしても音響が最悪でしたね・・・
あれは、音楽ホールというよりは、何か体育館みたいな感じでした・・
元仙台市民の私が言うのも何ですけど、あのホールで開催する事自体無理があったし、百歩譲って
宮城県民会館の方がまだなんぼかましだったし、遠いけど「イズミティ21」の方がまだ音響的にはマシだった気がしますね・・・

そうそう・・この年、1992年より従来の「大学・職場・一般の部」から大学の部が分離されて、大学の部が単独で
開催されていました。
大学の部は、土曜のPM15:00演奏開始でしたけど、普門館のプログラム一番はAM9:05というシビアさに比べると
全然マシではあると思うのですが、
やはりプログラム一番の全国大会の金賞チームとしては当時既に常連で会った中央大学は、
都大会に比べると全然冴えない演奏で終わってしまい、
改めてですけど「午前・午後に関係なくコンクールのプログラム一番は大変だよなぁ・・」と感じたものでした。

さてさて・・これにて番外編は終了とさせて頂きます。
次回からは本編に入り、プログラム一番の精華女子より順次感想等をのんべり書かせて頂きたいと思います。
1992年当時はとっくに金融バブルは弾け、これまでのように「貸出オンリー、いけいけの時代」はとうに終わりをつげ
どちらかというと既に「資金回収・貸剥がし」の時期に差し掛かっていたような雰囲気もありました。
そうですね・・・当時の記憶を辿ってみると、印象としては「どことなく中途半端」みたいな雰囲気もあったような気もします。
景気はとっくに後退基調に入っているのに、感覚としては数年前のバブルの華やかな雰囲気も残っている感じも
ありましたし、当時の金融機関的には、バブルの頃のような融資量を競い合う時代でもないし、かといって
バブル崩壊以降の融資金回収と貸し剥がしがメインとなっていた訳でもなく、同時に昭和の頃のように
預金量獲得をひたすら追い求めていた時代でも無いという
何となくですけどその「どっちつかず」みたいな迷いの時期が1992年前後の日本全体の雰囲気ではなかったのかなぁ・・とも
思ったりもしています。
そうですね・・・1989年~91年のバブル期の過剰融資競争の狂騒から少しだけ開放され、あのけたたましい忙しさから
少しだけ気分がゆるみ、しばしの休息時期を味わっていた時代とも言えるような気もします・・・

バブルの頃みたいに、確かに給料はいいけど土日も休みなく働けみたいな感じではなくなり、
土日はしっかりと休めるような時代になっていたと思います。
私の場合、この頃は休みの時は、よく下部・身延・増穂・北巨摩・石和の日帰り温泉に出かけていましたね。
ドライブを兼ねてというのもありましたし、特に北巨摩あたりの景色は最高で、この景色をドライブした後
町営温泉で温泉に入るのは何か瞬間的な幸せを実感したものでした・・(笑)

私自身、学生の頃免許は取っていたもののものの、山梨に左遷(?)されるまでの約4年近くはほぼペーパードライバー
でしたね。だけど山梨に異動後は担当区域が遠隔方面担当という事で仕事でどうしても車を使用しなければいけないので、
最初はおっかなびっくりだったものの、段々車の運転は慣れていき、結構運転そのものも
楽しめるようにはなっていたと思います。
当時は金融機関の遠隔顧客担当のため、一日100~120キロ程度走っていましたけどね・・・
だけど、道を譲りあわないとか赤信号でも平気で突っこんでいく俗にいう「甲州ルール」には困らさせられたものでした・・
ちなみにですけど、山梨在住時代、私は車での交通事故を2度ほど経験していますけど、その2回とも
信号待ちで停車中に背後から追突されたケースばかりで、警察の認定も100対0で向こうが悪いという事になっているのですけど
なぜか相手の言い分は
「道を譲らないお前が悪い!」という事でもありましたので、ここにも甲州人の荒っぽい気質が窺う知る事が出来そうですね・・

仕事の際はいいとして、休みの日なんか山梨は娯楽も何もないし、
私はアルコールはほとんど飲まないし、休みの日まで会社関係の人達と遊んだり
酒を飲むことは絶対に嫌だったので、ヒマな時なんかは、たまにですけど
ドライブそのもの、目的地を全く定めないで漠然と車を走らせて
一週間のモヤモヤを吹き飛ばしリフレッシユさせた事もありました。
(行内の女の子を誘ってドライブに行く事もたまにあったりしましたけど、そういう時って大抵誰かに目撃されてしまい、
翌日には、××と△△は付き合っているとかあいつらは出来ているとかヘンな噂が立ってしまうというのも
ま・・いかにも閉鎖的な山梨らしい話ではありましたね・・苦笑・・)
仕事で国道52号を使って身延方面はよく行っていたけど、身延より更に南の南部町~富沢町、
そしてさらに南の静岡県富士宮市、さらには清水港には滅多に行く機会も無かったので、
何度かそうした遠征ドライブをした事もありました。
身延から富士宮に入るまでは、現在はどうか分かりませんけど、ひたすら「道路」ばかりと言う印象で
行き交う車も少なく、結構飛ばす事は出来ました。
あれは結構気分爽快だったと思います。
でも沿線は、コンビニもほとんどなく、ひたすら何もない道路を驀進していたという印象があります。

また高速道路を使わないで、国道20号、俗にいう甲州街道を甲府から新宿にかけて走ったこともありましたけど、
こちらは渋滞ばかりであまり爽快ではありませんでした・・・
だけど面白いのは、新宿から山梨に戻る際、八王子付近までは東京都内の香りが感じられるものの
山梨県上野原に入ると、「田舎」の香りがプンプンと感じられたことです。

だけど、駐車場・高速代・ガソリン代を考えると、都内に遊びに行く場合とか吹奏楽コンクール等を聴きに行く場合は、
電車で行った方が全然安く、時間もかかりませんでしたのでよくあずさとかかいじ号を利用したものです。
全国大会や東京都大会を聴くために普門館にもよく聴きに行ったものですが、
コンクールが終わった後、池袋とか新宿とか秋葉原等をぶらつき、PM22:00新宿発のかいじ号で
山梨に戻るのが一つのパターンでした。
だけど土日の22:00新宿発のかいじ号は結構混んでいる事も多く、
それを回避するため、実はこの時間のかいじ号の始発駅は実は新宿ではなくて東京駅でしたので、
PM21:44の東京駅始発のかいじ号に乗るために、わざわざ東京駅から
乗ったことが結構ありました。
かいじが東京駅を離れると、毎回毎回
「あーあ、また明日から山梨のド田舎で仕事かよー」と愚痴り、ぼんやりと
御茶ノ水界隈の夜景をボーっと見るのが当時の何か慣習みたいなものはありました・・・
かいじ号は往復で当時3900円くらいだったから結構安かったですね。
あずさの回数券は、4枚綴りで確か8900円くらいだったかな・・・?

そうした中央本線は最近はほとんど乗った事がありませんので、なんかたまーにですけど、
「久しぶりに乗ってみたいなあ・・」と思う事もあったりもしますね・・(笑)

あ・・そろそろ本編に入らないと・・・(汗・・)

ぼちぼち1992年の高校の部のプログラム一番の精華女子からいつものようにグタグタと語らさせていきたいと
思っています・・・
1992年というと、バブルが既にはじけていて経済的には既に曲がり角に立っていたものの
まだ「まだまだ日本は大丈夫」という妙な慢心な時代と
目前に迫っていた「長期間の停滞」という冬の時代の丁度過渡期だったような気がします。
それほど不景気ではない、だけど長期的展望は全然開けていないという
「閉塞感」は既に前兆があったような気がします。
当時の日本は、PKOとかいって、自衛隊を海外に派遣するか否かで
国会が野党の牛歩戦術で1~2日も停滞し「何も決められない状況」だったと思います。
(現在は、自衛隊がごく普通に米艦監護を実施し、総理大臣が普通に憲法改正を口にしている状態ですので、
時代も変わったというのか隔世の感がありますよね・・・
ちなみに私自身は、昔から憲法改正大賛成論者ですけどね・・)

そんな中、私自身は当時は、
「あーあ、さっさとこんな山梨みたいな田舎から抜け出して、元の都内勤務に戻りたい」という気持ちと
「いやいや、今戻ったら、自分のこんな未熟な実力ではすぐに潰れてしまう。
それよりはまだ山梨みたいなのんびりした所で牙を研いでいた方がいいのかも・・」という
煮え切らない二律背反みたいなもやもやとした空気を内在していたのかもしれないです。

都内の杉並の普門館に行くのに往復で4時間以上かかる環境にそろそろ嫌気が差していたのは
確かだったですけど、私が実際に山梨を脱出できたのは、それからまだ4年後の話でした・・・(汗・・)

さてさて、1992年と言うと池袋西口に「東京芸術劇場」が完成されお披露目公演をした年でもありました。
池袋西口って、東京芸術劇場が完成する前って、どんな建物がありましたっけ・・・・?
うーん、全然記憶がないですね・・・(汗・・)

東京芸術劇場で初めて管弦楽のコンサートを聴きに行ったのは1992年6月頃だったと思います。
ちなみにサントリーホールのオープン&こけら落し公演は1986年でしたけど、サントリーホールの最初の印象は、
とにかく残響効果が素晴らしい木のぬくもりの感じられる「ぶどう畑」みたいな素晴らしいホールという感じでしたが、
東京芸術劇場は、地上からホールまで行くのにとにかく時間が掛りエレベーターに乗っている時間が長いなぁ・・というのが
最初の印象で、サントリーホールとは対照的に「モダンで人工的な音楽ホール」という雰囲気が
私的には感じたものです。

余談ですけど、私の高校時代の吹奏楽部の同期って、実はほとんど地元の仙台から県外に出ていなくて
ほとんどは地元の大学、地元で就職という感じで、県外に出たのは私を含めてわずか2名だけでした。
当時の私は上記のとおり山梨在住で、もう一人は愛知在住でしたけど、
この東京芸術劇場のこけら落し公演の一つであった東京交響楽団の第一回東京芸術劇場シリーズの演奏会の直前の
池袋西口の噴水前にて、そのもう一人の県外へ出た元・吹奏楽部員と偶然ばったり出くわし、お互いに
「えー、なんで都内在住でもないのにお前こんなところにいるの・・?」みたいに驚きあったのは
なんか妙に印象的でした・・

さてさて、私が聴いたそのこけら落し公演の一つの東京交響楽団の演奏会ですけど、
指揮は秋山和慶、ヴァイオリン独奏が竹澤恭子、
演奏曲目は、
前半がウェストサイドストーリー~シンフォニックダンスとバーバーのヴァイオリン協奏曲
後半がアイヴズの交響曲第4番でした。

この公演は、前半の曲よりもとにかくアイヴズの交響曲第4番がお目当てでした!!
この機会を逃したら、この曲は生涯聴くことが出来ないかも・・・という気持ちもあったと思います。
(事実、この曲は生の演奏ではこの日の演奏しか聴いた事がないです・・・)

東京芸術劇場は、やたら空間が広いような印象がありました。
初めて実際の音を聴いた時は、サントリーホールの時の様なインパクトはありませんでしたが、
サントリーホールよりも残響音が長いような印象は受けましたけど、ぬくもり感は今ひとつだったようにも記憶しています。
響きも決して悪くありませんし、今でも大好きなホールの一つです。
上記で書いた通り最上階に行くまでは、エレベーターと階段を使用しますが、かなり時間がかかりますよね。
今では池袋駅とホールが地下で直結していますけど、それでも駅を降りてから席に座れるまで
15~20分程度かかるのは少し欠点かな・・・?

さてさて、その日演奏されたアイヴズの交響曲第4番は、とにかく壮絶な演奏だったと思います。

アイヴズの交響曲4番は本当に難曲中の難曲だと思います。
あまりにも複雑過ぎて正指揮者の他に、第二楽章と第四楽章は副指揮者も舞台上で指揮をとります。
だから、一つの曲で、同時に二人の指揮者が指揮をするという非常に珍しいスタイルをとります。
(厳密に書くと、第一楽章と第四楽章では合唱も入りますので、合唱指揮者を含めると、なんと一つの曲に
3人の指揮者が振るという壮絶な曲にもなっています)
だけど、これはCDで聴いても絶対に分からないと思います。
生の実演で聴いてみて、一つの楽章の中で、全く違ったメロディーが
鳴り響くというか、ホンキートンク状態に近いと言うか、音楽のカオスである事がよーーく分かりました。
一人の指揮者が弦楽器に指示を送り、弦楽器は一つのメロディーを奏で
正指揮者が全体をコントロールし、もう一人の副指揮者は金管楽器群に指示を出し、マーチをぶっ放すという状態で
「混沌」を見事に表現していたと思います。

そんな中、第三楽章だけは、に美しいメロディーが全体を貫き、何だか泣けてくるような音楽になっています。
これはこれで「あざとい」という感じもします。
というか、混沌と混沌の間に挟まれた楽章だから余計に美しく聴こえるのかもしれません。
それにしてもこの交響曲は、次から次へと多種多様なマーチ・俗謡を引用し、
同時に全く違うメロディーが鳴り響くというとてつもんく大胆不敵な部分が相当あると思います。
最初にこの曲を生で聴いた時は、その衝撃度・インパクトはすさまじいものがありましたね・・・
ま、この曲、間違っても一つの部分だけに辻褄を合わせると必ず演奏に破綻が生じ、
次から次へと引用されるどこかで聴いたことがあるマーチや俗謡に対しては
一気呵成に曲を展開させていかないといけない大変な難曲でもあります。
ま、この曲を指揮する場合、そして聴く場合でも
「軽薄な気持ちで、マーチをぶっ放していく」という感覚が必要なのかもしれませんけどね・・(笑)

CDでこの曲を聴いても多分ですけど、あんまり作曲者の意図って分かりづらいのかもしれないですけど、
生で聴いて初めてこの曲の複雑さ・難解さ・作曲者が言いたい事は
なんとなくわかったような感じでもありました。

アイヴズって方は、一応エール大学の音楽学部を卒業しているのですけど、
卒業後は、「不協和音の為に食いっぱぐれるのは真っ平御免」という不滅の名言と共に保険会社に就職し、
その後自ら保険業の事業を起こし、仕事の傍ら、細々と発表される当てのない曲を書き続けていたという方なのです。
で、その作風もかなりユニークなものがあり、
あるメロディーを奏でている最中に突然、マーチ・讃美歌・ポピュラーソングなどが乱入し、
複数のメロディーが同時にがなり立てあうという面白い事をさらりとやってのけています。
アイヴズが楽壇で認められるようになったのは、
73歳の時、交響曲第3番「キャンプの集い」というアイヴズにしてはかなりおとなしめの作品で
ビュリッツアー賞を受賞した時以降なのですけど、
その際アイヴズは、
「この曲は少年用だ!! 私はとっくに成人している」と相当むくれていたという
逸話が残されています。
ちなみにアイヴズの奥様の名前は、「ハーモニーさん」という方らしいのですけど
何か素晴らしいお名前ですね・・・(笑)

東京芸術劇場も最近は中々聴きに行く機会が激減してしまいましたが、過去においても、

佐渡裕・新星日響/チャイコフスキー 交響曲第5番
小林研一郎・チェコフィル/マーラー 交響曲第1番「巨人」
テルミカーノフ・レニングラードフィル/ストラヴィンスキー 春の祭典
小泉和裕・都響/ローマの祭り
尾高忠明・読響=ピアノ=小山美稚恵 ショパン ピアノ協奏曲第一番

などなど多数の名演と印象に残る演奏を聴かせてくれたホールです。

たまには私も東京芸術劇場でゆったりと「音楽」に身を委ねる時間が欲しいよなぁ・・とも思ったりもしますね・・
現在では、課題曲の呼び方はⅠ~Ⅴという表記が定着していますが、
私なんかいまだにA~Eという表記の方が何かしっくりきますね。
思い起こすと、
課題曲の呼び方がAとかBとか呼ばれたいたのは、1992年が最後なのですよね。
1993年以降は、なぜか唐突にⅠ・Ⅱ・Ⅲという表記に変更されています。
これはいつ誰が決めたのかな??
吹連のお偉い先生達がいつの間にか変更したのかな・・・??







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だけど地方ではこれが浸透していなかったのか面白い現象もあり、
1993年の山梨県大会のプログラム表記は、
A ターンブルマーチ
B スターパズルマーチ
という風に記載されているのが何か面白い感じ・・・

だけど課題曲がマーチの年とマーチでない年を交互にするのも面白い試みだと
思います。
やはり吹奏楽の基本は「行進曲」にあると思うのですが、
上手な学校ほどマーチをパスする傾向も決して否定は出来ませんからね・・・
実際、当時常連校の常総学院も
課題曲がオールマーチになった最初の年と二回目の95年は
まさかの関東大会落ちでしたからね・・・
(年頃の感覚として、常総学院がスタンダードなマーチを演奏するという可能性は
あまり考えられなかったですね・・・)

1992年の課題曲もなかなか当り年だったと思います。
当時「メトセラⅡ」などで絶大の人気を誇っていた田中賢の課題曲Aと大御所、三善晃氏の課題曲Cと
今聴いても「いい曲だなー」と感じさせる曲が揃っています。
課題曲Dもその短さが、長い自由曲を演奏したいチームにニーズに合ったせいなのか(?)
意外と取り上げるチームも多かったですね。
ヤマハ浜松が、課題曲Aではなくて、この課題曲Dを選んだのは当時すごく意外に感じたものです。
前年度の全国大会までは、一日で大学・職場・一般の部の演奏・審査がなされていましたが、
さすがに大変という事で、この年から、大学部門は職場・一般の部の開催日とは別の日に開催されるように
なっていました。

この年、課題曲B/吹奏楽のためのフューチュリズムは取り上げるチームは少なかったですよね。
中学で2チーム、高校と大学は1チームずつ 職場で1チームという感じだったかな・・
だけど私はこの課題曲大好きです!!
前半と後半のリズムの切れと躍動感も素晴らしかったですし、中間部のあの壮大な盛り上がりとロマンチックさも
お見事だったと思います。
非常に分かり易くて、いかにもコンクールの課題曲という感じなのですけど、このベタな感じがとても大好きです。
個人的には、新屋高校の演奏が大好きです。
この曲の出だしは大変神経を使うから、敬遠されたというのも多少はあるのかもしれませんね・・
始まりが、タンバリンとティンパニだけのリズムの掛け合いから、テナーサックスの刻みという非常にうすく書かれているので、
奏者・指揮者としてはやり難いというのがあったとは思います。
非常に古い話で恐縮なのですが、1981年の課題曲A/イリュージョンも
出だしが、ユーフォニアムとチューバだけという非常にうすく書かれていて、
この課題曲の冒頭がカッチリ決まった事例は、私自身もそれほど記憶にありません。
県大会あたりでは、外す事例が続出でした・・・
まともに決まった演奏は、全国大会での淀川工業くらい程度だけだったのかもしれないですね。
1992年と言うと、甲府に異動させられて(左遷・・? 島流し・・??)早3年目の年でもありましたけど、
仕事にも金融機関の過酷なノルマ営業にも、甲州弁にも山梨の異常な夏の暑さにも慣れてきた頃だったと思います。
だけど日々の仕事の中でも、
たまーに行う女の子達の合コンなんかに参加しても
山梨の女の子の「気の強さ」・「言葉の汚さ・甲州弁丸出し」に少々うんざりしていた頃でもあり、
同時に山梨県の当時の吹奏楽のレベルの低さにそろそろ嫌気がさし、
「一体いつになったら都内に戻れるのだろう・・・
 まさかこのまんま山梨県内の5つの支店をたらい回しかいな・・・」とも
漠然と考えていた時期でもありました。
山梨は、ぶどうなどのフルーツ以外の基幹産業に乏しい県であり、
当時はそろそろ不景気・景気の後退が現実のものになりつつあった頃ですので、
仕事の面でも、1988年から91年にかけての「何がなんでも顧客にカネを貸し付けろ!」といった
融資オンリーの時代は過ぎ去ろうとしつつあり、逆に「回収・貸し剥がし」の時代に向かいつつあった
時代でもありましたので、
基幹産業に乏しい山梨は、不景気の荒波をもろに受けていったのです。
その後遺症は今現在でもあり、甲府駅周辺あたりは映画の題材になるほど「シャッター街」という所も場所によっては
あるみたいですね。

何だかんだ言っても山梨は通算6年近くお世話になった所でもあり、
色々と懐かしくも楽しい思い出や印象もあるのですが、
一つ嫌だった点があります。
何かというと、「自転車泥棒」が異常に多い事!!
勿論たまたまだったのせいかもしれませんけど、通算6年間で計8台盗まれるなんて
絶対異常だと思いますし、
「他人のモノは俺のモノ、奪ったものは俺のモノ」というずーずーしい県民性の表れなのかも
しれませんけどね・・・
今現在、埼玉に定住して早21年ですけど(汗・・)
自転車なんて一台も盗まれたことはないのですけどね・・・
というか、「人の自転車を盗もう」なんて姑息でせこい事を考える人は都内・埼玉・千葉・神奈川等の首都圏においては
少なくとも山梨よりは少ないと言えるのかもしれないですけど、
私が山梨時代にあんなに自転車泥棒に遭ったのは「たまたま・・」と思いたいものはありますけどね・・・

この1992年当時、甲府市内の湯村温泉の近くにアパートを借りていたのですけど、
近くは温泉街という事もあり、結構ホテルとか旅館がありました。
中規模なホテルとか割烹旅館系ですと、500円程度でホテル内の温泉に入る事も時間帯と曜日によっては可能な事もあり、
土曜日の午前中とか、たまーにゆったりと朝から温泉に浸かるという事も出来たのが
この時代の数少ないホッとできる瞬間だったのかもしれないですね・・
近くでもないけどドライブ圏内に「昇仙峡」もあり、あの雄大な眺めは大変素晴らしいものがありました!
そして毎朝毎朝天気さえよければ「裏富士」を見ることが出来たのは、ささやかなハッピーでもありました!

湯村の温泉街の近くに、結構大きめなダイエーがあり、
この当時のダイエーは、食料品・衣類・家電全て揃った「安売りのデパート」みたいな雰囲気があり、
甲府市内にはろくなデパートがなかったし、当時はドン・キホーテみたいなものはなかったし
結構買い物はダイエーで済ませることが多かったです。

この当時、確かダイエーで珍事件があり、
当時ベルギーで仕入れた輸入ビールを大量に購入し過ぎ在庫過剰になったため
1缶88円で販売するというイベントを確か全店で開催していました。
今にして思うと、あれはビールではなくて、今で言う「発泡酒」だったのですけど、
当時興味本位で買ってみると確かに安い・・・
だけど炭酸が強すぎて
「まずーい、何か麦味の炭酸水みたい・・・」と感じた記憶がありましたが、
まさか数年後に日本でも、こうした発泡酒とか第三のビールが定着化するなんて
夢にも思っていませんでした・・・

というのか、当時は「飛ぶ鳥を落とす勢い」であったあのダイエーが今ではその名前もほぼ消滅し、
「グルメシティ」という名前に変っているのはなんか時代の変遷のすさまじさというのか「もののあはれ」みたいなものも
感じてしまいますよね・・・

山梨県は、東京の隣の県で、たかだか特急で新宿から一時間半の所なのですが、
「何でこんなに山梨は田舎なの? 本当にここは関東?」と感じる位後進性が顕著な地域でした。
住んでいる人の言葉がまず全然違うことに、当時は違和感どころか
カルチャーショックを感じました。
山梨の言葉の基本的な語尾は、「・・・ずら」なのです。
(「ずら・・」という言葉は静岡方言かと思っていたら山梨にも息づいていたのですね。
 ちょっと古いアニメですけど、「ドカベン」で登場してくる殿馬と毎日話しているような感覚です。)
肯定形の場合の語尾は「・・・・し」で、否定形の場合の語尾は「・・・ちょし」
なのです。
例えば、標準語で「行け」は、山梨では「行けし」
「行くな」は、「行っちょし」という風な感じです。
他にも、標準語で「せわしい」→「やせったい」
「奥様・家内」→「おんなし」などなど例を挙げれば切りがありません。
他にも・・・・
へちょごむ→ 座り込む 、つるしんぼう → 干し柿 、ちょべちょべ → 口が軽い 、 すいよろ → お風呂、
じょける → ふざける 、おぼこさん → 蚕 なと゜いろいろありましたね・・
とにかくあの独特な甲州弁に慣れるには一年ぐらい掛かったのかも・・・??
東京の言葉と言うと、確かに「江戸っ子の江戸弁」というのは、早口でまくしたて気風がいいとか威勢がいいみたいな
感じですけど、全体的には洗練されているという印象が大変強いです。
だけど・・・甲州弁は言葉がきついし、言葉のニュアンスに独特のトゲがあり、言っている本人にそんな意識は無くても
甲州弁を全然知らない人間にとっては、
「え・・・この人・・一体何を怒っているの・・・? なんか・・私・・・失礼な事言ったのかな・・・??」みたいな意識が
大変強かったですね。

戦国時代から甲州の伝統的な近隣内のお金の貸し借り制度である「無尽」というシステムが、その当時においては
(ま・・飲み会という交流的側面が強い面もあるものの)
いまだに定着していたことは、金融機関に勤める者にとっては、カルチャーショックでした。
バブルの崩壊時はどこもそうだったと思いますが、
お金を借りても期日に適切に返済しない延滞者が、他の支店に比べて異常に多く、
債権管理・督促に本当に手を焼いていたのも、ま・・痛い思い出の一つですね・・・
本日の更新記事について、本記事の一つ上の記事は、長野県の「やしょうま」について
東方の早苗さんを交えて記させて頂きましたので、
元(?)山梨県民といたしましては、
「山梨と長野は昔から犬猿の仲ですし、私も山梨在住時代は、え・・・長野県・・? 長野にだけは絶対に
負けたくないずら・・」と思わなくもないものでして(汗・・)
本記事は一応は「吹奏楽カテゴリ」の1992年吹奏楽コンクール語りになっているのですけど、
「しばらく続く番外編なんだからいいじゃん・・」と勝手に開き直り、ほんの少しだけ、長野県に対抗する形で
山梨県のお土産について触れさせて頂きたいと思います。

そうですねぇ・・気分としては、長野の諏訪出身の早苗さんに「ごめんね・・」と謝罪したい気持ちで一杯です・・(笑)

私、生まれ自体は青森県八戸市、育ちは高校卒業までは仙台、高校以降は主に東京~千葉~埼玉に在住していますけど、
仙台のお土産というと定番が出来ていますので迷う事はまずないと思います。
仙台のお土産と言うと、何といっても、萩の月・笹かまぼこ・牛タンが王道なのかな・・とも思ったりもします。
この他にも、支倉焼とかずんだもちとか白松がモナカみたいなものも
地元では人気があると思います。
実は大変恥ずかしい話ですけど、つい最近まであの美味しい「ままどおる」も仙台の銘菓と思っていたら、
実はあれは福島の銘菓だったのですね・・! (滝汗・・)

これまで何度も書いている通り、第40回全日本吹奏楽コンクールが開催された1992年当時、私は山梨在住でしたけど、
山梨も仙台ほどではないにしても、お土産にはやはり定番があり、
選ぶことは全く苦労はしませんでしたね。
山梨の場合、定番は何といってもワインと桔梗屋の信玄餅だと思います。
この他にも、ぶどう・煮貝・ほうとうなどが有名なのかなとも思います。
食べ物以外では、水晶・印鑑・象牙なども一つの定番お土産なのだと思います。
山梨の有名な郷土料理というと、そりゃ言うまでも無く「ほうとう」ですけど、山梨のほうとうは本当においしかったですね!
個人的には夏場よりも冬の寒い時に食べるあの熱いほうとうは堪らなかったですし、
がほちゃのほうとうとかじゃがいものほうとうは特に美味しかったです!
山梨の隣の県の長野は「信州そば」がとても名高くとても美味しいのですけど、山梨県内においては、
私の印象では、そば屋さんがほうとう店も兼ねている事が多く、メニューとしてもそばよりもほうとうの方が充実
していたような印象がありました。

上記で記した山梨の定番お土産以外でも、例えば・・・

竹林堂の生クリーム大福とかバターカステラの「富士川」も美味しかったですし、これは絶対にお勧めしたいお土産です!

他には・・信玄餅のメーカーでもある桔梗屋が製造販売している桔梗信玄餅生ロールもとても美味しいです!
それとやはり桔梗屋さんですけど「月の雫」という
皮が付いたままの甲州ぶどうを1粒丸ごと砂糖の衣で包んだ昔ながらのシンプルなお菓子も捨てがたいものがあります!




譯・ソ。邇Юconvert_20170508004151



山梨のお土産と言えばやはり信玄餅が圧倒的に有名ですが、同じ桔梗屋さんが出している「信玄桃」も
捨てがたいものがあると思います!
確かに知名度という意味では信玄餅に劣るのかもしれないですけど、
あの見た目の可愛らしさといかにも「桃」をパロディー化したようなお茶目さに、なんか箱を開けた瞬間に
「くすっ・・」となってしまいそうな感じもあると思います。

「信玄桃」って何かと言うと、
信玄餅で有名な桔梗屋さんが出している桃のおまんじゅうで、桃のゼリーを砕いたやつが白あんの中に入っています。

信玄桃の箱の中に入っていた説明によると、
「山梨県の名産品である桃、それをテーマに、見た目も包装も、地元の桃出荷のパッケージそっくりに作った
可愛らしい山梨を代表するお土産菓子です。見た目にも特にこだわり、色や形はもちろん、桃の産毛まで本物そっくり」と
書かれていましたけど、
箱を開けるとふんわりと桃の香りが漂ってきておいしそうです。ピンク色がとても見映えがしますし可愛くきれいです!
お菓子をざくっと割ってみると、中から桃太郎ではなく白あんが出てきます。
つぶつぶして見えるのは桃のクラッシュゼリーです。

食べてみると、白あんと桃ゼリーが合っていてなかなかおいしいですし。
大きさも小ぶりでお土産にぴったりだと思います。
これは是非是非信玄餅同様の人気と売上実績を今後も期待していきたいものがあると思います。

数年前、うちの奥様と二人で河口湖に旅行に行ったとき、富士吉田近辺で桔梗屋のアウトレットセールが
開催され、結構安い値段で信玄餅とか信玄桃などのお菓子が販売されていて、
お土産として結構大量に買って行った記憶があります。
こういうアウトレットも展開しているのが桔梗屋さんの粋な所でもありますね!
先日、1989年の全日本吹奏楽コンクール・高校の部語りを無事に(?)終了させて頂きましたが、
今回より1992年の高校の部語りを始めさせて頂きたいと思います。
そしてまたまた例によって(?)本編の個別の演奏評を始める前に何回かに渡って番外編というのか
1992年当時の私自身のエピソードを語らさせて頂きたいと思いますので、
この年のプログラム一番の精華女子高校に入るまではほんの少しの間ガマンをして頂けると大変ありがたいものが
あります・・・(汗・・)


1992年(平成4年)と言うと既に25年前の事なのですね。
感覚としてはつい最近みたいな感じなのですけれども、それはやはり私が「年を取った」という事なのかもしれませんよね。
先日、かつて花輪高校と秋田南高校を指揮されて普門館の聴衆に多くの素敵な感動を伝えていた
小林久仁郎先生ご逝去の話をさせて頂きましたが、
80年代~90年代初めにかけて全国大会の常連チームで指揮・指導をされていた先生方の中には
既に彼岸の彼方の先生も数多くいらっしゃり、やはり「歳月の重み」というものも感じたりもします。
具体的には、例えば・・名電の松井先生・秋田南の高橋紘一先生・花輪の小林先生・洛南の宮本先生・
富山商業の坪島先生・関東第一の塩谷先生などかそうなのですけど、
例えば1992年の全国大会に出場された先生の中でも、昨年・・2016年の全国大会にも出場されていた先生も何人か
いらっしゃり、
東海大学第四の井田先生とか淀川工科の丸谷先生などは実は1970年代から既に全国に出場されていた先生でも
ありますので、
確かにお亡くなりになった先生もいらっしゃる一方でこうやって今でも現役指導者として全国に出場されている先生も
いらっしゃるという事実には本当に頭が下がる思いがありますね。

1992年と言うと、この頃の私は山梨県甲府市在住で、某第二地方銀行の営業の
遠方顧客担当の営業として、日々山梨県内の当時16の市町村の顧客を車で駆けずり廻る日々を
送っていました。
この当時の山梨県は、「平成の大合併前」でしたので、
中巨摩郡田富町とか玉穂町とか中巨摩郡白根町とか八田村とか甲西町がまだ健在の時代で
現在のような甲斐市とか南アルプス市とかそういう大規模な市が誕生する前に私は山梨に在住していた事になります。
あの当時は、
「こんな田舎、もう嫌だ・・」
「こんな閉鎖的でよそ者を受け入れない所は嫌い」
「暑くてかなわん・・・」
「大体、TBSとかフジテレビとかが映らず、言葉も・・・ずら ・・・しちょしみたいに
 標準語が通じない地域は、もう我慢の限界・・・」
「第一山梨県は、なんでここが関東なんだ・・? とても東京の隣の県とは思えないほど後進的な県じゃん!」
とほとんど良い印象は持ってはいませんでしたけど、
山梨には山梨なりの良いところもたくさんあり、今となっては良い思い出です。

1990年~95年というと、私にとっては「山梨県在住」というキーワードばかり
思い出してしまうのですよね・・・
あまり触れたくない苦い思い出と何か楽しかった面が二律背反みたいな感じがします。
当時の金融機関の過酷なノルマと何かのんびりとした風土の山梨県という極端な環境が
その理由なのかもしれません。
前述のとおり、当時の私は、某第二地方銀行の遠隔地担当営業として、

中巨摩郡
【田富・玉穂・若草・白根・甲西・八田村・竜王・櫛形】
南巨摩郡
【増穂・鰍沢・中富・下部・身延・早川・南部・富沢】
西八代郡
【六郷・市川大門・】
東八代郡
【中道・豊富村・境川村】

その他に北巨摩郡の一部とか韮崎までたった一人で顧客を回っていました。
今だったら体力的にも精神的にも絶対無理だと思います(汗・・)
20代から30代前半だったから、何とか持ったようなものです・・・
でもこうやって地名を列挙すると懐かしいですね。
例えば、印鑑と象牙の六郷町とか花火の市川大門とか桃とさくらんぼうと開国橋と金丸信の白根町とか
ありあんすの丘の中道町とか
久遠寺の石段をのぼるのが大変な身延町とか西山温泉の早川町とか
何か懐かしい感じがします。
数年前に、うちの奥様と一緒に石和温泉に旅行に行き、ついでに甲府市内を回ってみたのですが、
シャッター街というかさびれた駅前通りはさておいて、
何か全然変わっていないというか、時計が止まったような感じもしました。

当時、ノルマが過酷な金融機関でも、
例えば、一日、または週間の預金獲得・融資情報ノルマが達成できなくても
「支店長!! お客から預金は獲得できなくても、ブドウをもらってきました!!」
「そうか・・・」と苦笑いされる事が、まだ通用する雰囲気はありましたからね・・・(汗・・)

1992年の全国大会・高校の部は、確か前日が月末で、
あとほんの一歩のところで毎月のノルマ達成に届かず、上司から無茶苦茶怒られ、
すごくイライラしていたのはよく覚えています。
翌朝目が覚めてもその事のイライラが解消できず、そのまんま始発のかいじ号に乗って普門館に着いたのですけど、
やはり気分としてはめちゃくちゃご機嫌斜め状態でした・・・(汗・・)

だけど・・・・

プログラム一番の精華女子の自由曲の「ダフニスとクロエ」第二組曲の夜明けの部分が開始されると
不思議な事にそうした私のイライラとした気持ちも面白いようにす~っとして消滅していき、
プログラム27番までイライラすることなく音楽を純粋に楽しむ事が出来ましたので
やっぱり「音楽」といものは素敵なものなんだなぁ・・と改めて実感した瞬間でもありました・・・
27.兵庫高校


D/ディオニソスの祭り(F.シュミット)


兵庫高校吹奏楽部というと、オールド吹奏楽ファンの私ですと、やはりいまだにあの吉永陽一先生の
とてつもなくアクと個性が漲っているギラギラとした演奏というイメージが大変強いです。
(クラシックアレンジものの演奏ではどちらかというと正攻法に近いスケールの大きな表現をされる傾向が
あるのに対して、あの吹奏楽オリジナル作品のとてつもない珍解釈と個性の強さは、あれは吉永先生そのものと言っても
過言ではないとすら思います)

そうした中、吉永先生は西宮高校に異動をされ、あの伝説とも言える「吉永陽一=兵庫高校サウンド」の幕は
閉じてしまったのですけど、
兵庫高校吹奏楽部は新たに松井先生というこれまたとてつもなくアクと個性の強い偉大な指揮者が異動されてきて、
前任校の明石北高校時代以上の「素晴らしき名演」を普門館の聴衆に聴かせ魅了されてきたと
思います。
そうした意味では、兵庫高校吹奏楽部は、吉永先生・松井先生と2代に渡って極めて優秀で個性的な指揮者迎えられ、
この学校としての素晴らしき全盛期を見せてくれていたと思います。
吉永先生時代と松井先生時代の兵庫高校吹奏楽部の普門館での数々の名演の歴史は、間違いなく後世の私達の記憶の中に
受け継がれていくものと確信しております。

兵庫高校吹奏楽部は、ここ20年近く「全国大会」からは遠ざかっていて寂しいものはありますが、
いつの日にか・・・あのかつての名門校が復活し全国大会のステージに戻ってきてくれると信じたい気持ちで一杯ですね!
(二人の偉大な指揮者の異動後も、あの激戦の兵庫県大会を突破し、ほぼ毎年のように関西大会に出場
され続けている事は本当に頭が下がる思いで一杯ですね。
ここ数年の傾向として、関西大会は大阪府代表の学校ばかりが全国大会への代表権を獲得していますけど、
他県のチームの皆様も頑張って頂きたいですね! 笑・・)

さてさて・・この年、1989年の兵庫高校の演奏は、兵庫高校としても6年ぶりの全国大会出場という事での意義も大きいと
思いますが、それ以上に、明石南高校でのあのまさに歴史的名演に相応しい「ダッタン人の踊り」を指揮されていた
松井先生が、兵庫高校に異動後に初めてつかんだ全国大会への切符という意味でも
大変価値がある演奏のようにも思えます。
松井先生というと、火の鳥・ロメオとジュリエット・シンデレラ・白鳥の湖・三つのオレンジへの恋などに代表されるように
ロシアもののクラシック音楽アレンジ作品を指揮・演奏されたら右に出る者はいないと言われるほど
ロシア音楽には定評がありましたけど、そうした松井先生が「ディオニソスの祭り」のような古典的でバリバリな
吹奏楽オリジナル作品を自由曲として選曲されていた事はある意味驚きでもあるのかな・・とも思います。
演奏自体なのですけど、後年のあのロシアもののあの「松井節」とも呼ばれるあのギラギラとした個性のある演奏に
比べると、確かに、兵庫高校としての松井先生の初めての全国大会という事情はあるにせよ、
「ちょっとらしくないのかも・・?」みたいに感じさせる演奏になってしまったのかな・・?とも当時感じていたものでした。
この頃の兵庫高校の演奏ユニフォームは、男性奏者は学ランでしたけど、進学校とか大変頭がよい学校としても名高い
兵庫高校の学ランのドラム奏者が課題曲D/ポップスマーチ「すてきな日々」でドラムを優雅に叩きまくっても、
何となくですけど「優等生」みたいな演奏に聴こえてしまい、
確かに洗練されてテクニック的に大変巧みなのですけど、ちょっと「型」にはまったような演奏にも聴こえてしまい、
東海大学第四高校のあの粋なノリのたいへんいい「すてきな日々」を聴いてしまうと、
「ちょっと固いね・・」みたいな感想にもなってしまうのかもしれないですね。
自由曲の「ディオニソスの祭り」は、正直インパクトに欠ける演奏でもありました。
関西代表で「ディオニソスの祭り」の圧倒的にアクの強い名演というと御影高校をついつい思い出してしまうのですけど、
御影高校のあのとてつもない悪魔みたいな演奏を一度聴いてしまうと、
やはりこの年の兵庫高校の演奏は「おとなしい」とか「優等生みたいな演奏」みたいな感想になってしまうのかも
しれないです。
音のムラ・木管セクションの細かい動きにやや不安感が感じられた事とか部分的にサウンドが薄くなってしまい、
そうした薄さの際に技術的な不安定さが出てしまったのもコンクールとしては少しマイナスポイントだったのかも
しれないです。

私個人の採点は銀賞でしたけど、コンクールの評価としては無事に金賞入賞を果たしていました。

だけど、真の意味で松井先生=兵庫高校の個性が覚醒し確立化されるのは、翌年の「火の鳥」以降なのだと思います。

だけど、ここから松井先生=兵庫高校吹奏楽部の吉永先生時代に次ぐ「第二の黄金時代」が開始されたのだと思います。
後年の兵庫のアクの強さは、まだこの時は姿を見せず、オーソドックスな演奏を展開していたのが
この年の演奏だったと言えるのかもしれないですね。

兵庫高校吹奏楽部ですけど、私は勿論吉永先生時代の演奏も大好きですし、それと同じくらい
松井先生時代の演奏も大好きですね。
お二人の先生ともとにかくアクが強いというか「個性」が漲っている先生でしたし、
吉永先生の場合は、
「下品でどこが悪いねん!! 音楽とはそんなお上品のものばかりとは限りまへんでぇ~!!」みたいな感じでしたし、
松井先生の場合は、確かに個性はとてつもなく強いのですけど
演奏と言うかその表現は、まさしく「ロマンティックな情緒」が漂っていてあのリリカルな雰囲気は
独特なオーラが漂っていたと思います。
松井先生時代の演奏としては、
特に1992年の「ロメオとジュリエット」の低音をバリバリと豪快に鳴らした演奏も大変素晴らしかったですし
1991年の「火の鳥」において、いきなりトロンボーンの強烈なグリッサンド&ティンパニのロールから開始したと
思ったら、次の瞬間「子守唄」の大変抒情的で瑞々しい響きになり、
そして「魔王カスチェイの凶悪な踊り」で一気にエキサィティングしていった演奏も忘れがたいですね。
93年の「シンデレラ」とか96年の「三つのオレンジへの恋」のプロコフィエフシリーズにおいても
あの独特のファンタジーは、本当に私の胸をキュンキュンとさせてくれていました!!
これらのロシアものは、指揮者の松井先生の「松井節」が炸裂し、曲の隅々まで「アクの強さ」が漲っていて
ま、確かに多少粗っぽいドライヴはあるのですけど、全然「粗野」みたいな印象は無く、
むしろ「切れ味の鋭さ」とか「鋭角的な響き」・「ひたすら前進し、とにかく積極果敢に攻める演奏」という事で
とにかくエキサィティングな演奏でしたね・・・!!

兵庫高校吹奏楽部は松井先生の指導の下、毎年毎年豪快で個性に溢れる音楽を聴かせてくれ
そのあまりの「アクの強さ」が、あんだけ毎年素晴らしい演奏を聴かせてくれるのに
評価が金と銀をいったりきたりしたり、関西大会でダメ金に終わったりと今一つ「評価の不連続性」を
もたらしている原因の一つと言えるのかもしれないです。
だけど、それは「審査員の好み」の領域であり、とにかく私は大好きな演奏チームの一つであるのは今でも
全く変わりがないと思います。

さてさて・・この兵庫高校の演奏でもって1989年の全国大会高校の部語りは終了です。
こんな拙いあくまで私個人の感想記事でしたけど、見て頂けた皆様には深く感謝をいたします。

次回の当ブログの吹奏楽コンクール語りは、1992年・高校の部を予定しております。
この年は大変レヴェルが高く、銀賞チームにも名演が続出していたのが大変印象的ですし、
そうした銀賞名演の一つが、上記の兵庫高校の「ロメオとジュリエット」であり、新屋高校の「ガイーヌ」なのだと思います。
私個人としては、常総学院のあのあまりにも色っぽいサウンドの「アルプス交響曲」が大変印象的です!

そして・・1992年というのは、先日追悼記事を書かせて頂きました小林久仁郎先生が、結果的に
花輪高校吹奏楽部を指揮された最後の年という事になります・・・
(93年以降は小林先生は秋田南高校へと異動をされ、当時停滞をしていた秋田南高校吹奏楽部を立派に立て直し
名門復活を私達に見せつけてくれていました!!)
26.中村学園女子高校


A/歌劇「カルメン」組曲より(ビゼー)

中村学園の全盛期は、やっぱり1978年~87年の松澤先生時代なのかな・・?
そう言えば、中村学園も1991年の全国大会出場を最後に全国大会から遠ざかっていますし、
最近では、福岡県大会で終わってしまったりはたまた県大会にすら進めず福岡地区予選で終わってしまっている事も
あるようですので、今更何を・・みたいな話ではありますが、吹奏楽コンクールの場合、
有能な指導者が異動や引き抜きをされてしまうと、後任の先生もその後が何かと大変なようですし、
偉大な前任者を超えて更に素晴らしい実績を出すという事は本当に至難の業と言えるのかもしれないですね。

1989年の中村学園は、87年まで中村学園を指導されていた松澤先生が福岡第一高校へ引き抜かれてしまう事で、
全盛期の指揮者からの交替劇があり、松澤先生から石坂先生へ指揮者が変わって初めての全国大会出場と
なりましたけど、「分り易い音楽づくり」という路線は指揮者が交代になってもああやってうまく
引き継がれていたと思います。
89年の中村学園を普門館の生演奏を聴いた時の率直な感想は、
「音楽が幼くなった・・」
「技術の詰めが甘いというか、サウンドが濁り気味なのがとても気になってしまう」とか、
「86年のパリの喜びみたいな名演時のサウンドは影を潜め、特に個性を感じさせない普通の演奏になってしまった・・」
みたいな感想しか出てこなかったです。

少し厳しい言い方をしてしまうと、指揮者の交代により中村女子の持ち味が無くなってしまったような感じからあったと
思います。
何かどういう方向性を目指しているのか、どういうサウンドづくりを目指しているのかといった基本路線で迷っている感じが
演奏の節々から感じられ、結果として、「音楽としての楽しい雰囲気」は伝えていたものの、
全体的に「中途半端」なものを感じてしまいます。
後年の「詩人と農夫」も「ボッカチオ序曲」もそうした傾向は感じられ、
「分かり易く明るく楽しいクラシック音楽を聴き易い方向で伝える」という石坂先生の意図は分かるのですけど、
確かに単純比較はよくないのですけど、前任者の松澤先生との違いはどこにあるのかとか、
どういう点を受け継ぎ、どういう点で自分達の新しい方向を目指していくのかという点が
今一つ、サウンドとして、音楽として伝わってこなくて
結果的に大変聴いていて「もどかしさ」を感じたものでした。

課題曲も自由曲も両曲を通じて言えるのですけどサウンドが少し濁り気味というのはマイナス評価という印象は
拭えなかったですね。
技術的にもう少し緻密なものをクリアした上で「楽しさ」が表現出来れば尚よかったのかもしれないですけど、
技術的な完成度が少し低めの中での演奏は、どうしても技術的な細かいツッコミどころの方が気になってしまい、
音楽として素直に楽しめなかったという印象も感じたものでした。
自由曲の最後は、カルメンで最も有名なあの「トレアドール」の部分で締めてくれていて、
あの部分は奏者も指揮者も相当のびのびとしたリラックスした雰囲気の中で聴かせてくれていて、
なんとなくですけど「終わりよければすべてよし!」みたいな感じでまとまったいたのが大変印象的です。

終わり方が大変スッキリしていて楽しくのびのびと終わったせいか、課題曲や自由曲前半の印象は決して
よいものではなかったのですけど、
結果的に評価としては銀賞に落ち着いたという感じがありました。
(私自身の評価は文句なしの銅賞・・という感じではあったのですけどね・・)

やっぱりコンクール審査と言うものは水物だと思いますし審査員の好みというものもある程度は色濃く出るのかも
しれないですね。
秋田県代表の花輪高校の「壁画」が銅賞で、中村学園の「カルメン」が銀賞というのも
当時の私の感想としては、「どこか割り切れないものを感じざるを得ない」という感覚もあったものでした。

中村学園は伝統的に、「分かりやすい親しみやすいクラシック音楽の編曲もの」を自由曲にする事が多く、
特に、1984年~87年のバレエ音楽シリーズはとても素晴らし内容でした!!
特に86年の中村学園の「パリの喜び」は、吹奏楽コンクール史に残る素晴らしい名演の一つだと私は思います。
初期の頃は、シャブリエの狂詩曲「スペイン」とかR.コルサコフの「スペイン奇想曲」みたいに
スペインものの曲を選ぶ傾向もあり、
その点は、やはり女子高チームの就実がスペインものをかなり得意にしていた事と被る面があり、
意外な共通点があるのかな・・とも思ったりもします。
中村学園はどちらかというと外見的な派手さ、就実は内省的な感じでして、
目指す方向性は対照的だったようにも思えるのは、松澤先生と村松先生という指導者のキャラや考え方の違いというのも
あるんじゃないのかな・・?とも思ったりもしますね・・(笑)
25.富山商業高校


D/祝典序曲 (D.ショスタコーヴィッチ)


富山商業と言うと、オールド吹奏楽ファンの私ですと、やはりどうしても坪島先生時代のあの素晴らしい名演の数々を
思い出してしまいます。
1980年代における北陸代表の高岡商業と富山商業の両校は、高校野球でも代表枠をかけて熾烈な闘いを
していたと思いますし、
吹奏楽コンクールにおいてもこの両校は、まさに「北陸の両雄」という言い方が大変相応しいようにも
感じられますし、両校とも金管セクションが大変よく鳴って伝統的に金管楽器が強いという共通点もありましたし、
1979年まで北陸支部の全国大会代表枠が1つの時代の頃は、この両校がその唯一の代表枠を掛けて
北陸大会で毎年毎年激烈な代表争いをしていて、それが両校の素晴らしき切磋琢磨に繋がり、
結果として両校の後世に残る素晴らしい名演の数々を呼び込んでた一つの要因にもなっていたような気がします。
1982年においてこの両校に割り込むような形で全国大会代表を掴みとった金沢二水高校は、まさに大金星と
言えるような気もしますね・・・(笑)


富山商業は、1981年~83年の三年間は、全国大会金賞受賞という好成績を残していましたが、
その中でも特に1982年の「ロメオとジュリエット」の劇的なドラマと83年の「冬の日本海の冷たさ」を示唆するような
素晴らしき感受性は大変素晴らしいものがあったと思います。
84年の「ハーリ=ヤーノシュ」も、確かに音量過剰な面も無きにしも非ずなのですけど、やはり金管セクションの優秀さを
「これでもかっ!」と見せつけてくれていましたが、評価としては全国大会銀賞という結果になってしまいました。
(あの年の閉会式における審査結果発表の際は、富山商業と淀川工業の銀賞と言う結果がアナウンスされた時の
普門館の会場内の空気を覆ったあの「ええっーー」というどよめきとブーイングは今でもはっきりと
覚えていますね・・)
「何であれが銀賞なの?」と思うハイレベルな演奏ですし、
88年のロメオとジュリエットも82年の名演を超越しているようにも感じられるかなり劇的で高水準な演奏です。
だけど結果として富山商業は、1984年~88年の5年間は、評価としては全て銀賞に留まり、結果として
この5年間は金賞から遠ざかる事になっていました。
(私個人の感想としては、85年~87年の3年間は、どことなく坪島先生にも「迷い・・」みたいなものがあったようにも感じられます)

この年、1989年の富山商業の自由曲は、ショスタコーヴィッチの「祝典序曲」という
1970年代の中学の部を連想させるような選曲ですし、どちらかというとジュニアスクールバンドの定番の自由曲という
感じもあり、曲としては大変シンプルでわかりやすく底抜けに明るい曲であるのですけど、
この時代としては、正直・・「この曲はどちらかというと全国大会で高校の部で演奏される曲ではないよね・・」
みたいな雰囲気もあったような気もします。
だけどあえて富山商業という名門校があえてこうした自由曲を演奏する事の意味と言うのは、
「名門校が原点に立ち戻る」というようにも私には感じられ、原点に一度戻る事で「温故知新」みたいな感じを取り戻し、
自分たちがかつて目指していて得意だったもの・・例えば、明るさとか豪快さを
改めて見つめ直していたようにも感じられたものでした。

そして結果としてそうした試みは大成功のうちに終わり、課題曲も自由曲も、何の迷いもなく
それまでの迷いとか5年連続銀賞という富山商業にとってはある意味中途半端な感じを全て吹っ飛ばしてくれる
大変いい意味で開き直り吹っ切れた素晴らしい演奏を普門館の聴衆に遺憾なくお披露目されていたのは
とても素晴らしかったと思います!
特に自由曲の「祝典序曲」はもあの快速なテンポと明るさは素晴らしかったです!
結果論になりますけど、坪島先生が普門館で北陸代表として演奏されていたのはこの年が最後のものとなってしまい、
1991年の北陸大会をもって坪島先生はご勇退をされてしまいますが、
最後の普門館、最後の金賞受賞の演奏になりましたけど、その「最後」を飾るのに相応しい
本当に見事な演奏を後世の私達に残してくれていたと思いますし、あの「祝典序曲」の快速さは
賞賛に値するものがあると思います!

クラリネットのパッセージは大変だと思いますが、
シンプルな曲を大人の技術でゆとりを持って吹きこなすという感じの演奏だったと思います。
ある意味、王道の演奏とも言えるのかもしれないですね!
それと一つ指摘をさせて頂きますと、冒頭のファンファーレを再現するために怒涛のように突進する形の中で、
その後半部分のファンファーレの再現の直前部分において、大変細かい音符が連続する箇所があるのですけど、
多くのチームはあの部分は比較的スタッカート気味に吹いていた傾向がある中、
富山商業はレガート気味に解釈して吹いていたのは、富山商業としての「個性」も感じたものでした!


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ここから先は少し余談です・・・

改めて上記のショスタコーヴィッチの「祝典序曲」について簡単にフォローさせて頂きたいと思います。

この曲の構成はとてもシンプルで
冒頭の金管による健康的な明るいファンファーレが華麗に吹奏され、ラスト近くのこの冒頭の「ファンファーレ」の再現に向けて
全楽器が燃え立つように突進するという「シンプル イズ ベスト」を絵に描いたような作品だと思います。
冒頭のファンファーレの後すぐに出てくるクラリネットのソロが流麗で実に素晴らしいですね・・・・!!
ラストのファンファーレの再現部分で
「バンダ」という金管別働隊も加わり、華麗に曲は閉じられます。

ショスタコーヴイッチの「祝典序曲」は、ともすれば「深刻」・「悲愴感」・「重厚長大」・「悲劇的」・
「政治とスターリンに生涯振り回された悲劇の作曲家」・「本音と建前の二重言語を駆使」みたいに
ついつい言われてしまうショスタコーヴィッチの作品の中でも
例外的に明るく、どこまでも底抜けに楽しく進展し、開放感満点の素晴らしい小品だと思います。
演奏時間は大体7分前後くらいかな・・・
指揮者によっては6分を切るスピード感満点の演奏もあるみたいですけどね。

ショスタコーヴィッチは、その生涯で二度ほど政治的に「やばい状況」を迎えます。
当時のソ連体制においては、国家権力によって睨まれたり、監視の対象になってしまうという
「やばい状況」とはこれすなわち、自身の「死」とか「シベリア流刑」とか「強制収容所送り」という事を
意味しましたので、かなり相当やばい状況だったのだと思われます。

本来、音楽とは作曲家の自由意思というか
「自分はこのように感じたからこうした曲を作る!!」みたいな事が尊重されるのは当然の事なのですけど、
当時の共産党一党独裁のソ連にはそうした自由は無く、
「人民が喜びそうな外面的効果の高い音楽」を量産する事を求められ
「自身の内面」を描くといった抽象的な音楽は、国家権力によって敬遠され
ひたすら外面的に明るい音楽を作曲する事が求められていました。
だからこそ、「自由な音楽」を求めてソ連体制を嫌って祖国からの「亡命」を求めたのが
ストラヴィンスキーとかプロコフィエフだったのでししょうね。
だけどショスタコーヴィッチは律儀にも「祖国愛」が強いのか、面倒な事を嫌ったのか、家族の反対にあったかは
よく分かりませんけど、生涯一度も亡命する事もなくその生涯をソ連体制の中で生き続け、
その生涯をソ連の中で閉じた作曲家なのです。
本当は、マーラーみたいな音楽を書きたかった欲求もあったのかもしれませんけど、
時に自分の内面に忠実な作品を書き、それが国家からの批判を招き、その反動として
外面効果が高い分かり易い曲を残すという「御用作曲家」みたいな面を持つという
本当に苦労が絶えない人だったと思います。

前述の「やばい状況」の内の一回目は交響曲第4番やバレエ「明るい小川」を作曲していた頃です。
これらの音楽が「抽象的で訳がわからん・・・」という事で睨まれ
その代償として作曲されたのが、ショスタコーヴィッチの代表作、交響曲第5番「革命」というのも何だか皮肉な感じがします。
やばい二回目は、第二次世界大戦終了後に、戦争勝利記念作として発表された交響曲第9番と言えると思います。
スターリンにとっては、
「この交響曲は特別な存在であるべきだ! なぜなら我々は戦勝国だからである。
だからこの祝祭的な交響曲は、合唱などを入れ大規模に国家の勝利を讃える必要がある」などと
思ったかどうかはよく分かりませんが、
そうした気持ちは恐らくはスターリン自身も少しは持っていたのかもしれません。
だからこそこの第9交響曲が、大合唱も入らず「洒落っ気に溢れたとてつもなく軽い曲」であったことにスターリンは激怒し、
「俺の顔を潰しやがって・・・」みたいな気持はどこかにあったかもしれません。
そして二回目のやばい状況が訪れるのです。
ショスタコ―ヴィッチは、この危機に対しては、オラトリオ「森の歌」で大衆迎合用の分かり易い曲を提出し
難を逃れています。
ちなみの「森の歌」の初版の歌詞のラストは「スターリン万歳!!」だそうです・・・
(スターリンの死後削除されています)

そしてこういう状況の下、結果的にスターリンは1953年に逝去します・・・

そのスターリン死亡の翌年にこの「祝典序曲」が作曲されます。
この曲は、一応表面上は、革命37周年記念とか、ボルガ=ドン運河竣工記念という名目で書き上げられていますけど、
これって少しおかしいようにも感じます。
だって革命37周年は中途半端な数字ですし、運河が完成したのは、「祝典序曲」作曲の
確か2年か3年前の少し古い話なのです。

そうですね・・少しうがった見方をすると
「スターリンの死」がショスタコーヴィッチにとっては「祝典」だったのかもしれないですね。
だってそれまでの生涯であんなに陰気で重厚な曲ばかり書いていた人が
突然こんな軽妙で明るい曲を作曲するなんてあり得るのかな・・・??
やはり「スターリンの死」が自分にとっては「祝典」である事をほのめかしたかったようにも
感じられない事はありません・・・
交響曲第10番もそうした香りがぷんぷん漂います・・・
第一楽章から第三楽章までは「陰気」な雰囲気がぷんぷんなのですけど、
第四楽章の中盤から唐突に明るい幸福感に満ちた印象に激変します・・・
何かこれって、
「人間の死と言うのは本来悲しむべきことであるのに、
スターリンという独裁者が死なないとソ連国民全体の幸福がやってこない」という国家的な「皮肉」を
謳い上げたようにも私には聴こえてなりません・・・・

曲の背景は何か面倒なものがありそうだけど
曲そのものはいたったシンプルで明るく楽しい曲という
なにやらショスタコーヴィッチ自身の「矛盾」を立証したような作品がこの「祝典序曲」と言えるのかもしれないですね。
24.東海大学第四高校 【現.東海大学札幌高校】


D/吹奏楽のための神話~天の岩屋戸物語による (大栗裕)


全部門を通じて最高の課題曲D「すてきな日々」た゜ったと思います。
この年は、結構あちこちの県大会・支部大会、そして普門館開催の全国大会と色々聴いていましたけど、
東海大学第四高校を超越する演奏は結局存在しなかったのかも・・というのが一応私自身の感想でもあります。
この「すてきな日々」は本当に楽しい曲で、とてもじゃないけどコンクールの課題曲みたいな堅苦しい曲には
到底思えないほどのノリのいい曲でもありました!
こういう底抜けに楽しい課題曲って吹奏楽コンクール史上でもそんなになくて、他には
1974年の「高度な技術への指標」とか77年の「ディスコキッド」とか80年の「オーバー・ザ・ギャラクシー」あたりが
思い浮かびますが、「すてきな日々」は、ビギンとかスイングみたいに部分的にジャズみたいな雰囲気も漂わせていて、
そのあたりの「粋な感じ」がとってもすてきだったと思います。

東海大学第四高校以外で印象に残った演奏って他にどこがあったかな・・?

東京支部の演奏でしたけど、葛飾吹奏楽団がとにかく強引で粗っぽいドライヴなんですが、
とてつもなくバカでかい音量でのあのノリと勢いのある演奏は、支部大会銅賞ではあったのですけど、
あれはあれで立派な「すてきな日々」だったと思うのですけど、
案の定、頭の固い(?)審査員の皆様は銅賞という評価をされていましたね・・
全国大会の中学の部なのですが、大月東中学校がわずか34名の奏者ながらも大変立派な演奏をしていたのは
とても強く印象に残っています。
「すてきな日々」は、通常の打楽器奏者は、ティンパニ・ドラムセット・大太鼓・サスペンダーシンバル・シロフォン・グロッケンで
6人奏者を必要とするのですが、ドラム奏者が大太鼓とサスペンダーシンバルをドラムセットとして兼用する事も可能と
確かスコアに書かれていたような気もするのですが、大月東の打楽器セクションは、そうした方法で4人のみで
この課題曲を演奏していたのは、全国大会としては大変珍しかったせいもあり、
印象が強かったようにも感じられます。

東海大学第四高校の「すてきな日々むは、とにかく「巧い!」としか言いようがない大変高度なテクニックが随所に
顔を見せていたと思います。どのあたりが特に印象に残っているのかと言うと、
部分的にまるで「ジャズ」を聴いているかのように演奏が「スィング」しているようにも聴こえ、
特にトロンボーンの洒落っ気たっぷりのグリッサンド気味の演奏は素晴らしいとしか言いようが無かったです!
木管も金管も音色が大変美しい上に、こうしたジャズっぽい粋な雰囲気を巧みに醸し出していましたので、
聴いていて「向かうところ敵なし!」という感じでしたし、私の中では、課題曲の段階から既に金賞は当確が
出ていたような気がするほど完成度は大変高かったと思いますし、前述の通り、この年の全部門を通して
最高の課題曲Dの演奏であったと思います。

自由曲の「吹奏楽のための神話」も文句のつけようがない演奏でした!
この曲はこの当時既に淀川工業とか尼崎吹奏楽団とか名演が出ていたのですけど、
そうした関西系の過去の名演に決して見劣りしない素晴らしい演奏を聴かせてくれていたと思います。
踊りの部分の変拍子も、「変拍子を全く変拍子と感じさせない」演奏で、通常こうした変拍子の曲は聴いている方も
どことなく疲れてしまう傾向もなくはないのですが、
東海大学第四高校の演奏は、その点が大変楽に聴かせてくれていて、変拍子が実にナチュラルに
響いていたと思います。
非常に安定感がありました。 課題曲と少し雰囲気を変えてきていて、
幾分音色がねっとりしていたようにも感じられましたが、逆にそれは日本の神話の世界に大変マッチしていたと思います。
踊りの部分の後の静粛な部分以降、フルートとクラリネットのソロは大変美しく緊張感を
持続しての演奏でしたが、
残念だったのは、その後のクラリネットの二重奏の部分があっさりカットされていた事でした!
あの部分は、曲の中でもかなり重要な部分なので、
出来れば演奏して欲しかったと思わずにはいられなかったです。

あのクラリネット二重奏部分が意味している事は、天照大御神が岩戸を閉め切って、この世から「太陽の光」を
遮断してしまって困っていた時に
「それじゃー、どんちゃん騒ぎをやらかして天照大御神様がなにやってんだ・・・うるさいな・・と思って
岩戸を開けた瞬間を逃さずに、天照大御神を引きずり出して再び太陽の光が地上に当るようにしよう!」という
神々の企みについつい乗っかってしまった天照大御神が岩戸を開けて、太陽の光が差し込む事を示唆しているものですから、
やはりあのクラリネット二重奏の部分はカットされると、なんか物語全体が台無しにもなりかねない危険も
ありましたので、やはり尼崎吹奏楽団のようにあの部分もノーカットで演奏して欲しかったと思いますが、
それが出来ないのも、吹奏楽コンクールの12分間という「時間制約」の問題が大きいと言えるのかもしれないですね。

それにしても東海大学第四高校のあのクラリネット奏者はべらぼうに上手かったと思います!

あんな長いソロをノーミスで雰囲気を壊さず「緊張感」を常にキープしてのあのソロは、
この年のこのチームの金賞に花を添えていたと思いますし、とにかくお見事な演奏だったと思います。

余談ですけど、東海大学第四高校の自由曲の選曲は指揮者の井田先生が決める事が多いとの事なのですが、
この年に関しては生徒自身が自ら井田先生に「今年は神話はどうですか・・?」と提案し、井田先生も
同意されたとの事です。
ではなんで生徒さん達が「神話」を選曲したのかというと、理由は単純明快で
(1989年当時は)「神話」を自由曲に選んだチームの全国大会金賞率が極めて高かったため・・というのも
いかにも吹奏楽コンクールらしい話でもありますね・・(笑)
先月の終わりでしたけど、当ブログの吹奏楽カテゴリにおいていつも大変貴重なコメントを頂いております
一秋田県民 様より
「1970年代~90年代において、秋田県立花輪高校吹奏楽部と秋田南高校吹奏楽部を指導され、
全国大会で数々の名演を残された小林久仁郎先生が急逝された」との大変貴重な情報を頂き、
このブログでもかなり執拗に花輪高校吹奏楽部の偉大なる軌跡を語らさせて頂いた私としては、
とにかくショックなお話であり、
正直・・3~4日程度は茫然自失としてしまい、
正直、いつもの感覚でブログ更新記事を書く気持ちにはとてもじゃないけど到底なれなうにもありませんでしたし、
小林先生には「感謝」の気持ちしかない私としては小林先生の訃報が信じられない気持ちで一杯だった事もあり、
結果的に5日程度でしたけど、当ブログの更新を一旦止めて
喪に服すという事で、小林久仁郎先生に対して哀悼の意を表させて頂きたいと思い、
先月下旬からブログ更新及び皆様のブログへの訪問等は自粛をさせて頂いておりました。

本日よりここに改めて当ブログを再開させて頂きたいと思いますので、どうか今後とも何卒宜しくお願いいたします。

当ブログの開設の目的の一つが、吹奏楽コンクールにおける過去の素晴らしい演奏を聴かせてくれ、
私に大きな感銘を与えてくれた花輪高校・秋田南高校・仁賀保高校・就実高校・屋代高校・市立川口高校などの演奏を
「私はこのように感じ、そうした素晴らしい演奏を聴かせてくれたチームの事をブログという構成に残る形で
何か記録として残しておきたい」と言うものでありましたけど
(現在においては、アミグリさんが描かれた東方イラスト等の作品を少しでも多くの人たちに見て欲しいという目的も
あったりします・・)

一秋田県民 様! そうした貴重なお話をいち早く教えて頂けた事を深く感謝いたします!
本当にありがとうございました!
それにしても小林先生のご逝去のお話は本当に心の底から残念に感じておりますし、
「まだお若いのに・・・これからもっともっと日本の吹奏楽界の発展にご尽力して欲しかったのに・・」という
大変哀しい気持ちでいっぱいですけど、
とにかく、小林久仁郎先生のご冥福を心よりお祈り申し上げたいと思います。
そして改めてですけど、当ブログで出来る事はほんのちっぽけで小さい事なのだとは思いますが、今後とも
花輪高校や小林先生の事は当ブログでも発信し続けさせて頂きたいと思いますし、
それが当ブログの一つの「使命」であるとも考えておりますし、
小林先生に対して私が出来るほんのささやかかな事ではありますが「供養」にもなるのだと考えております。

今更書くのもなんですけど、秋田県立花輪高校吹奏楽部は本当に偉大ですよね・・・!!
このブログでも既に何度も何度も何度も繰り返し書いているのですけど、
私が「クラシック音楽の深い森の中」に迷い込むきっかけを作ってくれたのが
1982年の全日本吹奏楽コンクール・東北大会の花輪高校のウォルトン/交響曲第1番第四楽章の
圧倒的名演に心の底から感銘を受けたという事実なのですけど、
ウォルトン以外でも例えば・・・
ハチャトゥーリアンの交響曲第2番・同/交響曲第3番「シンフォニーポエム」
プロコフィエフの交響曲第3番
ベルクの三つの管弦楽曲
シチェドリンの交響曲第2番
ブリス/バレエ音楽「チェックメイト」
ラフマニノフ/交響曲第1番などは、全て花輪高校の吹奏楽コンクールの演奏がきっかけとなって
「花輪の演奏素晴らしいな・・・ではその原曲はどういう感じなんだろう・・」と色々と興味を持っていったのが
まさに始まりでしたし、それを起点にして、
「それ以外にこの作曲家はどんな曲を残しているのかな・・」
「この時代、他にはどんな作曲家がいたのかな・・」と
クラシック音楽の入り込む「きっかけ」を私に作ってくれたのが、この花輪高校吹奏楽部なのだと今でも思っていますし、
それゆえ、私は永遠に永遠に
「花輪高校吹奏楽部よ、永遠なれ!!」とか「花輪高校を指揮・指導されていた小林先生こそ永遠なれ!」
といつでも・・・そして今でも・・・心より遠き埼玉の地よりエールを送り続けています!!
 
それにしても花輪高校の吹奏楽コンクールでの選曲は本当に素晴らしいものがありますよね!!

「え・・・その作曲家、誰・・・?? 聞いた事が無い・・」

「ガジペコフって誰・・?? シチェドリンって誰・・・? ハチャトゥーリアンの鐘って・・何それ・・・初めて聞いた・・・」

「ウィリアム=ウォルトンって何者・・・??」

「プロコフィエフの3番なんて・・・聴いた事すらない・・・」

みたいな反応は演奏当時もかなり多かったと思いますし、小林先生が花輪を指揮されていた頃と
私の現役奏者としての吹奏楽時代はほぼ丸ごと重なっていますのでリアルタイム当時から
「花輪ってあの選曲凄いよね・・」とか
「どっからあの選曲の情報を仕入れてくるのだろう・・」とか
「だけど・・・花輪って少しというか・・・・かなりヘンだよね・・・、ま・・個性が極端に強いというか・・・」
というような声は、小林先生の在籍時から、色々な所で耳にしていましたので、
改めて小林先生はすごい先生だったのだな・・とその「偉大さ」をつくづく感じてしまいます。
何よりもあの花輪高校特有の響きは大変洗練されデリケートに美しく響く幽玄なサウンドながら、
時に豪快に、時に荒っぽく、時に咆哮し激高する等、その自由自在な表現も大きな魅力だったと思います。

花輪高校吹奏楽部は1978年の小林先生赴任以前も既に吹奏楽の名門校という立ち位置ではありましたし、
佐藤修先生時代のあのとてつもなく地味な選曲&渋すぎる表現力も大変魅力的ではありましたけど、
花輪高校を更にさらに大きく飛躍させたのが小林先生の赴任なのだと思います。
小林先生は赴任一年目から、いきなり、ラフマニノフ/交響曲第1番第四楽章という
当時誰も目にも留めなかった曲でいきなり全国大会金賞を掴みとってしまいますが、
1979年の2年目のショスタコーヴイッチにしても、自由曲の定番中の定番の交響曲5番ではなくて、
交響曲第1番を選ぶあたり、小林先生の目の付け所の確かさを感じてしまいます。
1980年のハチャトゥーリアン/交響曲第2番「鐘」も81年のプロコフィエフ交響曲第3番も
どちらも第一楽章を選びながら、
ラストにおいては、第四楽章の終結部を巧みに結合させてしまう辺りに、その大胆さと音楽的センスを
感じてしまいます。
(そうそう、小林先生はクラシック作品を吹奏楽用にアレンジされる事にも大変素晴らしき才能を発揮された先生であり、
 事実、小林先生が編曲されたハチャトゥーリアンの交響曲第3番「シンフォニーポエム」はいまだに全国大会でも
演奏され続けられています!)

そして1982年に演奏された曲が、このブログでも腐るほど書いてきたあの伝説的名演のウォルトンの交響曲第1番
だったのです!!
そして1983年が、吹奏楽コンクールで初めてベルクという「無調音楽」に果敢に取り組まれ普門館の聴衆の度胆を抜き、
翌年の1984年には、花輪高校=小林先生のコンビが最高潮に高度に発揮され、
普門館における「後世の歴史に間違いなく残るハチャトゥーリアンの交響曲第3番」の歴史的名演だったのです!!
(1985年・1987年・1989年はコンクールの評価としては銅賞という結果になっているのですけど、
 この事は既に何度も記事にしてはいるのですけど、あの演奏・・特に1985年の銅賞というのは、絶対に信じられない
不当に低い評価であり、私はあの素晴らしいガジべコフの演奏が銅賞というのはいまだに納得がいっておりません!!)

いやいや・・・改めてですけど、小林先生=花輪高校は、とにかく「伝説」ですね!!
ブレーン社から出ている「レジェンダリーシリーズ」の花輪高校編を聴くと、とにかく花輪の偉大さが
ご理解して頂けると思います!!

私自身は、これまでの記事で散々書いてきたとおり、中学一年から吹奏楽部に所属し大学4年まで通算10年間
吹奏楽に関わっていましたけど
(厳密に言うと、小学校の管楽器クラブの打楽器奏者時代を含めると通算12年なのかな・・?)
中学校時代の顧問の先生の上から目線的な音楽の強制的押し付けや部員の大量退部事件等正直嫌な事ばかりの
連続で、中学を卒業する頃は、「大の音楽嫌い・大の吹奏楽嫌い」になっていて、
高校入学以降も惰性と言うのか腐れ縁みたいな感じで吹奏楽は続けていましたし、どちらかというと
中学も高校の頃も「吹奏楽部部長」という嫌な役割を押し付けられていたというせいもあったのですけど、
義理とか義務感みたいな感じで吹奏楽部員をマンネリ化みたいな形で続けていたという事なのかもしれません。
あの頃は、特段、音楽とかクラシック音楽等にも実はあんまり興味も関心もなかったのですけど、
それをほぼ完璧に一掃させてしまった出来事というのが、
1982年の全日本吹奏楽コンクール・東北大会における花輪高校吹奏楽部のウォルトン作曲/交響曲第1番第四楽章の
あまりにも圧倒的な名演、そしてあの「孤高の音楽」に感動してしまった事でして、それをきっかけにして
「この花輪高校が自由曲に選んでいたウォルトンの交響曲第1番って原曲はどんな感じの曲なのだろう」とか
「花輪が自由曲にしていた第四楽章以外の第一~第三楽章はどんな感じの音楽なのだろう・・」とか
「花輪高校はこの年以外には過去にどんな演奏をしていたのだろう」と
どんどん花輪高校吹奏楽部とかウォルトンとかウォルトンが生きていた20世紀周辺のクラシック音楽の概略等に
興味を持っていき、
結果的にあの演奏が私を「クラシック音楽の深い森の中」に迷わせてくれる最大のきっかけを作ってくれたのだと言っても
過言ではないと思います。

交響曲というと例えばベートーヴェンの交響曲第5番「運命」とかショスタコーヴィッチの交響曲第5番とか
ブラームスの交響曲第1番などのように、一般的には、苦悩から歓喜へ 暗から明へ 敗北から勝利へというのが
古今東西の交響曲の一つのパターンだと思うのですが、
このウォルトンの交響曲第1番の場合、確かにフィナーレの第四楽章は
ティンパニ奏者2名による連打・金管楽器の高らかな雄叫び・咆哮など歓喜みたいな要素も確かに少しはあるのですが、
全体的な印象としては、勝利・歓喜という感じはしませんし、
「よーーし、これを聴いてスッキリした!! 明日からも頑張るぞ!!」みたいな応援シンフォニーでは全くありません。
むしろ不安感・危機感は今後も継続されていくという「警告」みたいなメッセージを感じ取ってしまいます。
だけどこの交響曲の「緊迫感」は凄まじいものがあると思います。
作曲は第二次世界大戦の直前ですので、
当時のイギリスの状況、例えばヒットラーの台頭とかイギリスのチェンバレン首相の
対ドイツ融和政策によってチェコ分割を黙認したことでかえってヒットラーの台頭を
許してしまったとか、後任者チャーチルのドイツとの対決姿勢とか相当な危機感・緊張感はあったと思います。
それが何となく曲にも反映されていると思いますし、
戦争は終結しても人のココロの暗闇は永遠に続くみたいな思いはあったのかもしれません。

現代を生きている自分たち自身も、、
超高齢化社会・財政問題・外国の脅威・未来の日本の姿が明確に提示されないなど
「不安」は際限なくあると思いますし、そうした不安がなくなるという事は絶対にないと思います。
それではそうした「不安」にはどう対処すればよいのか・・
結局は「不安」には「日常的な危機意識」を持って備え、対処するしかない・・・
「不安」には「不安」を持って対処するしかない・・・みたいな事を伝えているようにも感じられます。
そういったことを何となく示唆しているようにも感じ取れます。

この交響曲の原曲全楽章の演奏を初めてレコードで聴いた時、
当初予想していた「第二次世界大戦前夜における全体主義国家対民主主義国家の対決・・・そして最終的には
民主主義国家が勝利を収める事への讃歌」みたいな「歓喜の曲」ではなくて
救いようも無い「孤独」みたいなものは既に感じ取っていました。
民主主義国家が全体主義国家に対して戦争で勝利を収めたと言っても、
結果として全世界の住民がハッピーな結末や人生を迎える事が出来たかと言うと、その質問は限りなく
「No!!」に近いと思いますし、
戦争の勝利が必ずしも国民全体の幸せに直結しないという皮肉は、連のショスタコーヴィッチなんかも
随分とそうしたメッセージを曲の中に盛り込んでいるようにも感じられます。
何だろう・・・
この交響曲が伝えたかった事って・・・
うーーん、その答えは・・この交響曲を聴く度に何か毎回違う答えが出て来ているような感じもありますし、
色々な「答え」がありそうな気がします。
戦争が終わったとしても次から次へと世界的に難題が降りかかり
結局は安息の場所はこの世にはないんだよという事をメッセージとして伝えたかったのかもしれません。 
音楽としても、現代人が抱える不安感には、音楽としてこれに対処するには、結局は・・・
「不安感」を感じさせる曲でもって対処するしかないというメッセージなのかもしれません。
そうした「不安感」を抱えながらも・・・結局は自分達は生きていく必要があるんじゃないの・・?みたいな事を
もしかしたらウォルトンは後世の私たちにメッセージとして伝えたかったのかもしれないですね。

バーンスタインにも戦後間もない頃の作品に、交響曲第2番「不安の時代」という作品が
ありますが、この曲のテキストに選ばれたのが、オーデンという詩人の「不安の時代」という詩でした。
この詩自体は、現代人の抱える不安を解決策を特に提示することなく綴っていき
ラストも「孤独」を抱えたまま、各自の生活に戻っていくという内容の物だったと思いますけど、
バーンスタイン自身は、その辺りをバーンスタインなりに拡大解釈したというのか、
この交響曲第2番「不安の時代」のラストは、原作では想定されていないハッピーエンド風に仕上げています。
この辺り、不安には不安を持って対処するしかないと解釈したウォルトンとえらい違いが
あるような気がしますし、お国柄の違いというのもありそうですね。

何となくですけど、日本人の感覚としては、バーンスタインよりはウォルトンの方が合っているような感じも
あります。

ウォルトンの交響曲第1番は、第一楽章の冒頭からとてつもない「焦燥感」を駆り立てられての展開です。
何か「目に見えない不安」に怯えているかのような感じが大変印象的です。
冒頭のオーボエの寂寥感が既にこの交響曲第1番の世界を象徴していると思いますし、
ティンパニーの打音やホルンの雄叫びも既にあの壮絶なフィナーレを先取りしているような雰囲気も
あったりします。
作曲者自身が「悪意を込めて」と名づけた第二楽章
ホルンの雄叫びと何となく「春の祭典」を想起させるメロディーが印象的です。
何て言うのかな・・・
「何かに取りつかれた様な」感覚というものが伝わってくる楽章ですね。
感覚としては、やはり「春の祭典」の「いけにえの乙女」の壮絶な絶叫みたいに・・
何か「逝っちゃっている・・」みたいな感覚が強い楽章ですね。
というか交響曲の楽章に「悪意を込めて」みたいなタイトルが付けられている事自体、この交響曲の特異性が光っていると
思います。
第三楽章はメランコラリックな音楽ですけど、やはりそこには「平穏」・「安住」が入り込む余地は全く無いと思います。
全体的にフルートソロが大変印象的です。
そして、第三楽章のメランコリーがあるから、やはりあの壮絶極まりない第四楽章が生きてくるのだと思います。
第四楽章が高らかに開始され、金管セクションのファンファーレみたいなコラールが始まると、
私はこの部分だけで既に瞳うるうる状態に陥ってしまいそうな感覚になったりもします。
この楽章からティンパニ奏者が2名となり、中間からラストにかけてのティンパニ奏者の活躍には目を見張るものがあります。
フィナーレの第四楽章は
ティンパニー奏者2名による打撃連打・金管楽器の高らかな叫びなど聴きどころも満載ですし、
とにかく迫力満点の楽章なのですけど
前述の通り、この高らかな叫びが全然「救い」や「爽快感」になっていないのはある意味凄い事だと感じます。
ティンバニ奏者2名による打音の連続とかドラの咆哮、金管セクションの高まりが「これでもか!!」とばかりに続き、
一旦オーボエソロによって静かに回想される場面があるのですけど
このオーボエの「魂の孤独」・「寂寥感」には、いつ聴いても何か胸にこみあげてくるものがあります。
そしてこのオーボエソロの前にもトランペットのやはり寂しげなソロがあるのですけど
この部分も「魂の孤独」みたいなものを感じずにはいられないです。

さてそうしたウォルトンの交響曲第1番第四楽章を自由曲に選んだ花輪高校の演奏は果たしてどんな感じだったのかと
いうと、とにかく「壮絶!!」の一言に尽きると思いますし、そこに当時の私が「何か」を感じたからこそ、
花輪高校=小林先生のサウンドに一気に引きずり込まれたのだと思います。

とにかくあの花輪高校の演奏は本当に素晴らしかったですし、あの演奏から既に35年の歳月が経過しているのですけど、
私は今でもあの時の花輪高校の演奏とか小林先生の指揮ぶりは
鮮明にはっきりと覚えています。
勿論細かいところまでは記憶には残っていないですし、この演奏、録音等は支部大会の実況録音という大変音響と録音が
芳しくないLPレコードしか存在していませんし、このレコード自体生産枚数が極めて少なく、
このレコードを所有されている方はほとんどいないんじゃないのかな・・?とも思われます。
ちなみにですけど、この花輪高校の演奏は、幸いなことに今現在は「You Tube」でUPされていて、
正直大変音質は悪くて音がモノラルみたいなこもりがとではあるのですけど、それでも大変貴重な記録を残してくれているのは
大変ありがたいものがあったりもします。

課題曲B/序奏とアレグロの厚い響きとアクの強い演奏も素晴らしかったですけど、やはり圧巻は何と言っても
自由曲のウォルトンの交響曲第1番でしたね!
前述の通り、この時点の私は、ウォルトンという作曲家もこの交響曲もこの曲が作られた背景も
全然何も知りませんでしたし、何よりも当時の私は特段音楽にも吹奏楽にも強い関心も興味もありませんでした。
だけどこの演奏は、そんな当時の「音楽について何にも知らなかった私」にとてつもない一撃を与えてくれたと
思いますし、そんな私に間違いなく「何か」を伝えた演奏であったのは間違いないのだと思います。
この年の花輪高校は、とにかく金管セクションが大変充実していて、大変分厚い響きを
聴かせてくれたのですが、この分厚い響きが実にこのウォルトンの不安感・焦燥感・
「不安には不安を持って臨むしかない」という危機感という曲想に実にマッチしていて
重厚長大でスケールの大きな演奏を聴かせてくれました。
後半のティンパニ奏者2人による叩き付けも打点が見事に決まっているので、実に効果的でしたし、
後で振り返ってみると、ニールセンの交響曲第4番「不滅」のティンパニー奏者2人による轟音に非常に
近いものがあったようにも思えます。

学ランを着たトランペット奏者の凄まじい咆哮もよーく覚えています。
吹奏楽コンクールの打楽器の位置って比較的ステージの左側に配置される事が多い中、
花輪高校は打楽器セクションを舞台の一番奥の正面に配置させ、確かティンパニは
左側に位置していたと記憶していますけど、あの二人の奏者の神がかった叩き振りは本当に素晴らしかったと思いますし、
(ティンパニ奏者2名は私の記憶では男女のペアだったような記憶があります・・)
小林久仁郎先生の独特なアプローチもありましたけど、
あそこまでウォルトンの「孤高な世界」・「不安感には不安をもって対処する」みたいな
厳しい世界観を表現できたのは凄い事だと思います。
ウォルトンの交響曲第一番は、私も原曲をプロの管弦楽団で何度か聴いたことがありますけど、
大友直人指揮/東京交響楽団の演奏は、まさにそうしたウォルトンの世界をほぼ完璧に
表現されていて大変感銘を受けましたが、
アマチュアの高校生チームが「吹奏楽」というアレンジ演奏でも、あそこまでウォルトンの世界を表現していたのは、
あまりに凄すぎると思いますし、そうした県立高校の普通の高校生を指導されここまで高度に音楽的に仕上げられた
小林先生のご苦労には心から頭が下がる思いで一杯です。
よくここまで普通の高校生が、プロの管弦楽団でも聴衆に何かを伝える事は難しいあの交響曲をここまで
音楽的に仕上げる事が出来た事はまさに「奇跡」なのだと私は思いますし、
そうした奇跡のような演奏に出会えたあの「ご縁」に私は今でも感謝という言葉しか出てこないです。

花輪高校のあの演奏を聴いて、熱いものは感じたし、同時に不安感も感じました。
やるせないものも感じました。
だけどそれは当たり前なのですよね、そういう不安と危機感と不安に対する挑戦みたいなものが
この曲の背景にあるのですから・・・

とにかく演奏終了後は、心の底から「感動した!!」という思いで一杯でした。
事実、この年の東北大会の審査員の一人でもあり、プロの管弦楽団でもこきおろしちゃう激辛口評論でお馴染みの
あの上野晃先生をもって「この日の演奏の白眉」と最大限高い評価をされているのも
全く頷けるものがあると思います。

だけど、残念ながらこの素晴らしい演奏は、まさかのダメ金で終わり、全国大会に駒を進めることは出来ませんでした・・・
審査結果を聞いて大変ショックでしたし、
同時に、「自分が感じた結果が世間の評価と必ずしも一致する訳ではない」と悟った瞬間でも
ありました・・・
この年の東北大会の高校の部の全国大会代表は、私の審査の中では、花輪・仙台第一・仁賀保というものでしたけど、
実際の代表は、仙台第一・仁賀保・秋田南でした・・・
(仙台第一は東北大会ではあんなにも素晴らしい演奏をしていたのに、全国大会ではとてつもない凡演で終わってしまい、
花輪を東北大会で抑えて全国代表になったのにこの体たらくかよ・・と当時ガッカリしたものでした・・)

それにしても花輪高校のウォルトンの一番を是非全国大会の普門館で聴いてみたかったです!!
と今でも時折心をかすめる瞬間はありますね・・・
あの花輪高校の感動的な演奏は是非是非普門館の皆様にも聴いて欲しかったです!!

1982年の東北大会のレベルは恐ろしいほど高かったと思います。
もっとも当時の私は、前述の通り吹奏楽というか音楽全般の知識とか経験とか全然無かったものですから、
恐らく当時はどんな演奏を聴いても
「へえー、すごーい!!」と感心していたようなものでしたから、
現在の肥えた(?)耳から聴いてしまうと
「大したことない・・」という印象になるのかもしれませんけど、
耳がまだ肥えていない時期に聴いたレベルの高い演奏だからこそ、
後に及ぼした影響と言うのか、インパクト・感銘度は今とは全然違う感じなのかもしれませんよね。
いずれにしてもこの日聴いた素晴らしい演奏の数々ほど後の私自身に多大な影響を及ぼしたものは無いと思います。

自分が大好きな交響曲を三つあげなさいと言われれば

〇プロコフィエフ/交響曲第5番

〇矢代秋雄/交響曲

〇ウォルトン/交響曲第1番

と迷わずにあげてしまうのですけど
実はこの三曲とも、この1982年の東北大会で演奏されたものなのです。
吹奏楽編曲版という変化球なのですけど、
それを聴く事によって、その曲に興味を持ち
「それでは原曲はどんな感じの曲なのだろう・・・」
「他にどんな作品を残しているのだろう」
「同時代にどんな作曲家がいたのたろう・・・」
「この曲に影響を与えた人の作品にどんなものがあるのか・・」など
自分がクラシック音楽の深い森に迷い込むきっかけを作ってくれたのがこの東北大会と言っても
全然過言ではありません。

東北大会の高校の部は、長い人生の中では「たった一日」なんでしょうけど
後世への影響度という意味では、この東北大会を聴けた意義は自分の中では相当大きいと
今でも思っています。この日の東北大会の演奏によって自分の中の何かが変わったという事は
間違いなくあると思います。

余談ですが、
この日の東北大会を聴きに行った私自身は、何かある意味ハイな状態でした・・・
東北大会・高校の部は10/2だったのですけど、
その前月は私自身が吹奏楽コンクール県大会に臨み、それが終わるとすぐに文化祭のステージ、
そしてそれが終わるとすぐに学校の中間試験、
そして試験の翌日から5泊6日の北海道への修学旅行・・・
何か色々と行事が立て込んでいました。
そして修学旅行も、9/30の夕方に苫小牧でフェリーに乗り込み
翌日の10/1の昼過ぎに仙台港に到着したのですが、
あいにく海の天候が芳しくなく、船の上では終始ユラユラしていました。
その関係で半分以上の生徒は船酔いでゲロゲロ状態・・・
私は船酔いは全然平気でしたけど、寝る場所も大部屋の雑魚寝状態でしたので、ほとんど眠れないまま朝を迎え
生まれて初めて海上から昇る太陽を拝めることが出来ました。
フェリーから降りても、三半規管が完全に麻痺状態となっていて、
目をつぶってじっとしても何か体が上下に揺れる感覚が残っていて
何かすごーくヘンな感覚でした。
そうした状態は翌日の東北大会の際も続いていて、
感覚としては、「体はものすごーく疲れているのに頭というか感覚だけは妙に敏感」という感じで
妙に神経だけ鋭角という状態でした・・・

ま、この辺りも多少色々と影響はあったのかもしれませよね・・・
演奏を聴いていても、やはり微妙に体が上下に揺れるという感覚も残っていましたしね・・・

更に余談なのですが、
東北大会から家に戻ってみると
母親が「自宅の電話が先ほどから鳴りっぱなし・・・」との事
(当時は携帯電話も何もない時代で連絡方法は固定電話だけでしたね・・・)
聞いてみると電話の相手は、吹奏楽部関係者、顧問の先生、応援団という事で
「まさか・・・」と思っていたら
何と野球部が、宮城県の秋季大会でまさかまさかの準決勝勝利で
翌日の10/3に東北高校との宮城県大会の決勝戦があるとの事で、吹奏楽部も応援演奏に来てほしいとの事でした・・
そして、翌日決勝戦の応援に行ったのですが、
(東北高校は野球部の名門で、ダルビッシュもかつて所属した強豪校です・・・)
一回の表にうちの高校が1アウト三塁から犠牲フライで入れた一点を何と守り抜き
まさかまさかの優勝をしてしまったのです・・・
確か、うちの高校のヒット数は1~2本程度、東北高校は10本以上打っていて、毎回毎回ピンチの
連続だったのですけど、
犠牲フライのタッチアップのタイミングを間違えて走者がアウトになったり
走者がアウトカウントを間違え、ベンチに戻ろうとしてアウトを宣告されたりなど
信じられない幸運もありましたけどね・・・

何か色々な意味で「青春していたなー」という感じの思い出ですね・・・(笑)

余談ですが、春の選抜甲子園の代表校を決める東北ブロックの秋季大会では
見事に一回戦で大惨敗を喫してしまい、
あこがれの甲子園出場は「夢」と終わってしまいました・・・
やはり宮城大会の東北高校との決勝戦は出来過ぎでしたね・・・(笑)

なんか話がそれまくりになってしまいましたけど、まとめると、1982年の東北大会までは
音楽に何の興味・関心も無かった私が、クラシック音楽という深い森の中に迷い込むきっかけを作ってくれたのが
小林先生が指揮指導されたウォルトンの交響曲第1番の演奏を聴いた事なのです。

歴史に「もしも・・」という仮定はNGだというのはよく分かってはいるのですけど、
もしも私があの年の小林先生が指揮されたあの演奏を聴かなかったとしたら、私はもしかして今でも
吹奏楽とかクラシック音楽の事なんか「別に・・確かに昔ちょこっとやっていたけどただそれだけ・・特段興味もない」という
認識で終わっていたのかもしれないだけに
やはり小林先生が私に与えた影響はとてつもなく大きいと言えるのだと思いますし、
そうした私の音楽上の大恩人ともいえる小林先生のご逝去はとてつもなくショックなお話ではあるのですけど、
とにかく先生のご冥福を心よりお祈り申し上げたいと思いますし、
私はこれからも花輪高校と秋田南高校を指導指揮されていた小林先生の存在は、私自身が彼岸の彼方に
旅立つ瞬間まで忘れる事は無いと思います。

世間では既にく「ゴールデンウィーク」突入ですし、季節はいよいよ初夏に向かいつつあるような感じも
あるのかな・・?と思います。
つい最近までは、「寒い、寒い・・」とばかり言っていたのですけど、
いつの間にか季節も5月に入ってしまいました!
あ・・ちなみに私はこの大型連休中は出勤ですので、皆様のGWが終わった頃に、私はのんびりと連休を
取らさせて頂きたいと思います・・(笑)

季節はまさに「春本番!」という感じですね!

こうして季節が春になってくると自然と脳裏をかすめる曲が幾つかありますけど、
その一つがマーチ・エイプリル・メイだと思います。
この楽しい行進曲は、1993年度全日本吹奏楽コンクールの課題曲Ⅳでした。
最初は全然気が付かなかったのですけど(汗・・!)この曲のタイトルは、「行進曲」としてのマーチと
「3月」としてのマーチの二つを掛けているというか、何か洒落っ気のあるネーミングだったのですね・・(笑)
タイトル通り、3月~5月の何か春らしいウキウキした感じがよく出ていて、
3分半程度の曲なのですけど、
非常に洗練されていて、楽しく明るく、生き生きとして躍動感がある行進曲なので大好きなコンクール課題曲の一つです。
この課題曲が吹奏楽コンクールとして演奏されてた時は、既に現役奏者を引退済ではありましたけど、
こんな楽しい課題曲は是非演奏してみたかったですね!
(こうした「素敵な春」をイメージさせる吹奏楽コンクール課題曲は他には、1995年の「スプリングマーチ」と
1997年の「五月の風」が大変印象的です!)

1992年度までの課題曲はパターンとしては、書下ろしの作品が2曲にマーチが2曲という感じだったのですけど、
1993年以降、全日本吹奏楽連盟は、課題曲に関してはかなり大胆な改革を行い、
西暦の偶数年は、マーチ以外の書下ろしの曲、西暦の奇数年は全てマーチという事に改められました。
1993年は、この改革がスタートした最初の年で課題曲は全て行進曲でした。
やはりマーチは聴きやすいから、聴衆としては奇数年の方がありがたいですね。
個人的には、行進曲だけの年とかマーチ以外の年というように一つの方向性だけを押し付けるのではなくて、
92年以前のように行進曲・難解な曲・日本的情緒の曲・ポップス系など色々なタイプの曲をミックスしたほうが
バラエティーに富んでいて面白いと思いますし、
課題曲として何を選択するかという事でそのチームの個性も見えてくるようにも感じられます。
ちなみにですけど今現在の吹奏楽コンクール課題曲は、こうしたマーチだけとか書下ろし作品だけというのは廃止になり、
以前のようなミックス型に戻ったのはむしろ大正解のような気もします。

1993年の吹奏楽コンクール全国大会・高校の部は、ⅡとⅣに課題曲の人気が集中し、
ⅠとⅢを演奏するチームは極めて少なかったですね。
確かⅠは基町のみ、Ⅲは埼玉栄と東海大学第四のみでしたね。
Ⅰが人気薄と言うのは何となくわかるのですけど 、Ⅲ/潮煙が意外と人気が無かったのは少し意外な感じもしたものでした。

この年の課題曲Ⅳ/マーチ「エイプリル・メイ」が実に楽しい曲で 、技術的に平易ながらも演奏効果が非常に高いという
コンクール課題曲としては大変お手頃な曲でしたし、
課題曲Ⅱ/スターパズルマーチも、「きらきら星」という誰もが知っている曲を引用していますので
ⅡとⅣの人気が高いのは「全く同感」という感じでしたね。

課題曲Ⅲ/潮煙は、技術的には相当難易度が高く、 トランペット(コルネット)のソロがかなり難しいという感じもありましたし、
粋な感じと楽しさを「楽に聴かせる」というのが意外と難しく あたりが高校の部で少し敬遠された理由なのかな・・・??
確かに職場の部のNTT中国も中学の部の袋原中はも
この課題曲Ⅲを選び、トランペットが外しまくって、両チームとも銅賞に留まっていました。

そうそう・・この年、1993年から課題曲の表記方法が従来のA~Eではなくて
Ⅰ~Ⅴという呼び方にさり気なく変更されていますけど、なんか唐突にそうなったような印象があります。
A~Eの呼び方に慣れていた私は、コンクールのアナウンスで、「課題曲Ⅲに続きまして自由曲は・・・」と言われても
何か妙に違和感はありました。
この辺り、県大会ではその辺りの周知徹底が統一されていない事もあったのか、
山梨県大会では、課題曲の表記はこれまで通り、A~Eという表記でプログラムに書かれていて
アナウンスも従来の表記で放送されていました。

マーチ・エイプリル・メイは全国大会でも多くのチームが取り上げ、素晴らしい演奏を聴かせてくれていましたけど、
野庭・習志野・札幌白石の演奏が、その中でも特に素晴らしかったと思います。
特に習志野の木管の高音の透き通った響き、
強奏でも決して音が割れないし荒れない金管セクションの安定感は群を抜いていたと思いますし、
聴いていて、大変「すっきり感」の強い感じでした。
中間部の木管セクションの透明感・清涼感は、本当に素敵なものがありましたね。
札幌白石高校の「溌剌さ」も素晴らしいものがあったと思います!

やはり、この課題曲を改めて聴くと
「あー、春到来!!」という感覚になってしまいますね!!

23.高岡商業高校


A/交響詩「ローマの祭り」~Ⅰ.チルチェンセス Ⅳ.主顕祭(O.レスピーギ)


高岡商業高校には全然関係がない話ではあるのですけど、先日、かつて花輪高校と秋田南高校での
あの伝説の数々の名演を指揮・指導されていた小林久仁郎先生がご逝去されました。
ここに哀悼の意を表させて頂き、
先生のご冥福を心よりお祈り申し上げたいと思います。



「ローマの祭り」は、吹奏楽コンクールでは既にお馴染みの曲で、実は、全国大会においては、この曲は
既に100回以上も自由曲として選ばれているのですよね。
これは本当に凄い事だと思いますし、まさに吹奏楽コンクールの不動の人気自由曲の座は定着していると
思います。
実はなのですけど、この「ローマの祭り」の全国大会初演は駒澤大学なのかな・・?と思っていたのですけど、
違いましたね・・・
実は、金・銀・銅のグループ表彰以前にまで遡り、1969年の電電中国(現・NTT西日本)が全国大会初演でした!
電電中国の当時の指揮者は佐藤正二郎氏ですので、果たしてどんな個性的な演奏をしてくれたのか興味津々なのですけど、
実は全く音源が残されていないため、この演奏は残念ながら一度も聴いたことがないです・・
「ローマの祭り」は、1970年代に駒澤大学や東海大学が演奏していますけど、
意外にもこの今では大人気自由曲もこの当時はあんまり注目は集まりませんでした・・・
この曲がブレイクするきっかけを作ったのは、そう! あの今や「伝説」と化している吉永陽一先生率いる兵庫高校が
1980年の全国大会でのあの名演だったと思いますし、
この曲を更に馴染みやすい曲として私たちに認知させた演奏が、1982年の弘前第三中学校のあの素晴らしい名演だと
思いますし、
そしてそして・・・この「ローマの祭り」を不動の人気自由曲として完全に定着化させた演奏こそが、
1983年の高岡商業だと思います。
そして今回取り上げる1989年の高岡商業の演奏は、83年の演奏を素敵に再現したものと言えるのかも
しれないですね。
確かに「ローマの祭り」と言うと最近でも本当に素晴らしい演奏が続出していますし、東海大学第四とか精華女子など
素晴らしき名演は山のようにあるのですけど、
そうですね・・・これはあくまで私の個人的感想ですけど、いまだにあの1983年の高岡商業のインパクトを超える演奏は
出現していないんじゃないのかな・・?と今でも思ったりもします。

1983年の高岡商業以外では、1996年の愛工大名電のあの「一歩間違えれば破綻寸前の実に危険水準スレスレの演奏」も
大変忘れがたいものがありました!
1987年の柏のような「爽やかさ」とか「全く力みがないナチュラルな演奏」という訳では無いのですけど、
その代わりに、まさに「ドッカーーン」という大爆発の爆発的重厚感の漂う迫力満点の「爆演」が
83年と1989年の高岡商業には漲っていると思いますし、
とにかく聴いていても「気分爽快」の演奏だったと思いますし、あそこまで気持ちよくミスなく鳴らされると
多少の音量過剰も「ま・・・仕方ないよね・・」と笑って看過できるレヴェルなのだと思います。
1989年の高岡商業の金管セクション、というかトランペットは実に優秀な奏者が揃っていたと思います。
あんなに豪快に鳴らし、あんなとてつもない高音域もピッチがぶら下がる事もなく気持ちよいほど響かせてくれて、
とにかく「美しく、かつたくましく鳴っていたトランペット」だったと思います。
あんな優秀なトランペットセクションがいたら、指揮者はやり易かったと思います。
すさまじいほどよく鳴っているのですけど、聴いていて、「うるさい」とか「やかましい」という感じはあまりなくて、
よく鳴っているけど心地良いという感覚でした!!

1983年の演奏は煩い事を言うと、後半部分にトランペットにかなり大きなミスと言うのか音の外しがあり
「勿体無いよな・・」とか「あそこまで完璧に仕上がっていると、こうした小さいミスでも気になってしまう」みたいな
感想も無くは無かったのですけど、
1989年の演奏は、その点に関しては完璧にクリアし、ほぼノーミスというのは凄い!としか言いようがないですし、
翌年の「ペトルーシュカ」と言い、翌々年の(なぜか評価は銀賞ですけど)「シンフォニエッタ」も含めて
1989年~91年の高岡商業は、まさに「神がかっている!」としか言いようがない奇跡のような演奏を
私達に残してくれたと思います。

ただ一つ難点をあげると1989年の「ローマの祭り」は、
さすがに「鳴り過ぎ・・・」とか「幾らなんでも少しやり過ぎ・・」みたいな印象も感じたものでしたし、
1983年の圧倒的歴史的名演の「ローマの祭り」の素晴らしき再現と言えるのですけど、
強いて言うと、83年の演奏のコピーではなくて、
それを超えるような何か相違点と言うか、変化も欲しかったような気もしますけど、
それを高校生に求めること自体、やはり無理があると言えるのかもしれないですね。

全体的にはパーフェクトに近い堂々たる金賞受賞だと思います!
22.習志野高校


A/交響三章~第三楽章(三善晃)


素晴らしい演奏だったと思います!

この年は淀川工業(現・淀川工科)と習志野が「5年連続金賞→翌年の特別演奏」という栄誉に王手をかけていて
この年に金賞を受賞すればそうした栄誉を受けられることが出来るというある意味重圧がかかった年でも
あったのですが、淀川工業は「うちらアホやねん・・そんな重圧考えたってしゃーないやおまへんか・・?」みたいなノリで
勢いよくこの栄誉をもぎ取り、
習志野は「私たちは普段通りの練習を普門館の場で発揮するだけです・・」みたいなまるで優等生みたいな雰囲気が
やはりこの栄誉を掴みとり、
結果的に両校とも無事に5年連続金賞を達成できてよかったと思います。
それだけに前年の4年連続金賞で5年目はプレッシャーのためなのか演奏が崩壊していた愛工大名電とは
随分と違いがあったようにも感じられたものでした。

振り返ってみると、1980年にやはり秋田南高校が5年連続金賞に王手を掛けていたのですけど、その5年目の自由曲が
習志野と全く同じ自由曲の三善晃の交響三章というのも偶然とはいえ、
なにか興味深いものがあると当時感じていたものでした。

淀川工業の演奏は大変素晴らしいものがあったのですけど、課題曲は確かに「楽しさ」は十分に伝わってきていたものの
どことなく「硬さ」は客席にもピリピリ伝わっていたようにも感じたものでした。
私の記憶ですけど、丸谷先生は課題曲が終わったと同時に一旦指揮台から降りて奏者に対して
「肩の力を抜くように・・」みたいなジェスチャーをされていたような気もします。
習志野高校の演奏は、その点が実に自然体だったと思います。
普段の練習の雰囲気をそのまんま普門館のステージでも自然に発揮していたようにも感じられ、
その「さりげなさ」は普門館の客席で聴いていても「さすがだよなぁ・・・」と感心させられるものがありました。
しかもその自由曲が三善晃の「交響三章」という大変張りつめた緊張感と内面的宇宙を奏者と指揮者に求められる
大変奥の深い内面的思考に溢れた作品でもあるのですけど、
そうした聴いているだけで気持ちがピリピリしてくる緊張感に溢れた曲をこの5年連続金賞という重圧がかかる年の
本番のステージに、ヘンに固くなる事もなく、
むしろ自然にいつも通りに演奏して、「涼しい顔して5年連続金賞を達成」という偉業をさりげなく実現させてしまった
習志野高校の新妻先生と当時の奏者に心の底から敬意を表させて頂きたいと思います。

前にも書いた事がありますが、私個人としては、課題曲A/風と炎の踊りは実はあんまり好きな曲では
ありません。むしろ嫌いな部類の課題曲に入るのかもしれないです。
だけど、この習志野高校の課題曲Aを聴くと、そうした印象はかなり変化するようにも感じられます。
音色を最優先に考え、美しいサウンドを日常的に作ろうとしているチームは、
音楽自体もある程度の説得力を持つ事のお手本となるような素晴らしい課題曲の演奏だったと思います。
あの冒頭のひそやかな感じを適切に表現出来た演奏は、意外と少なかったような気もしたものでしたけど、
習志野の課題曲Aの冒頭のあのひそやかさ・洗練された響きを超える演奏はこの年の全国大会を聴いた限りでは
他にはそれほど無かったようにすら感じるほどでした。
(習志野に追従できたあの課題曲Aは埼玉栄ぐらいだけだったのかな・・?)
習志野高校の課題曲の演奏ですけど、この風と炎との踊りもそうですし、1987年の課題曲B/渚スコープもそうでしたし、
92年の課題曲A/ネレイデスもそうでしたし、98年の課題曲Ⅰ/童夢もそうでしたし、
1985年の課題曲B/波の見える風景もそうなのですけど、
冒頭の静かにもやーーっと開始される静粛さとかひそやかな雰囲気を演奏させたら多分右に出るチームは無い!みたいな
印象も感じさせるほど、「冒頭の静粛さには安心感をもって聴く事が出来る」数少ないチームのような
気もしたものでした。
とにかく課題曲Aの冒頭の「ひそやかさ」はこのチームならではの気品さに満ち溢れ、
出だしを聴いただけでゾクゾクッとしたものです。
ffになっても全然音が割れず、美しい響きが継続されているのは驚異の一言です。

自由曲の「交響三章」第三楽章も圧倒的歴史的名演だと思います。
このとてつもない邦人作品の難曲は、私にとっての過去演奏における圧倒的NO.1の名演は、
1980年の秋田南高校以外ありえないという感じでもあるのですけど、
(神奈川大学・都立片倉高校・常総学院などの演奏もそれぞれ素晴らしいと思います)
この年の習志野も勝るとも劣らない素晴らしい演奏を聴かせてくれています。
秋田南との相違点として、前半のチューバのリズムの低音の充実感、後半のアレグロの
トムトムの甲高いややヒステリックな響きなどが挙げられると思います。
秋田南は、これは一つの「宇宙」という感じもするくらい鬼気迫る内省的に充実した演奏なのですけど、
習志野は、幾分感情をセーブした知的な演奏と言う雰囲気のようにも感じられます。
秋田南は、表現の充実とか劇的緊張感は目を見張るものはあるものの、いかにも秋田南らしい
トランペットセクションの音の固さとかクライマックス付近でのトランペットの高音のとてつもない音外しも散見されるのは
勿体ない感じではあるのですけど
(だけどそうしたミスを完全に帳消しにさせてしまう緊張感の表現は素晴らしいものがあると思います!)
習志野の演奏は、課題曲も自由曲もほぼノーミスというのは、まさに高校生離れした演奏だとも思えます。

前半と後半の対比とか、サウンドの透明感と美しさ、とにかく素晴らしい演奏を聴かせてくれ、
ラストのフルートソロの静粛さも大変申し分なく、
無事に淀川工業と並んで5年連続金賞の偉業を成し遂げてくれました。

習志野高校は、現在の指導者=指揮者は、新妻先生の勇退後にその後を引き継いだ石津谷先生なのですけど、
石津谷先生の習志野高校の演奏も素晴らしいものがあると思いますし、
新妻先生の頃以上の「個性」とか「チームとして聴衆に伝えたい事」がはっきりと客席に伝わってくる演奏を毎年されていて、
こうした公立校にありがちな指導者の異動後の没落というのも無く、それ以上に前任者の個性を上回る演奏を
毎年聴かせてくれているその「伝統の後継」には本当に頭が下がる思いがありますし、
是非それは今後も受け継がれていって欲しいと思います。
20.丸亀高校


A/管弦楽のための三つの交響的素描「海」~Ⅲ.風と海との対話 (C.ドビュッシー)


丸亀高校はこの年が全国大会初出場なのですけど、実際に普門館の生演奏を聴いた限りの印象では、
1989年と90年の演奏の傾向と目指していた方向性は大変よく似ていたという感じがいたします。
一言で表現するともの「泥臭いサウンド」なのだと思います。
換言すると「懐かしい香りがする吹奏楽」とも言えると思います。

1990年代のコンクールに入ると、編成の中にハープ・チェレスタが入るのは珍しくもなんともない光景になっていて
常連校ですと、コントラファゴット・コントラバスクラ・コールアングレ等の木管低音楽器が、楽器の持ち替え無しに
最初からパート内に加わっているというのが当たり前の編成になっていて、
1970年代後半に初めて吹奏楽コンクールに出場した当時の私の感覚ですと
「ファゴット・オーボエが楽器編成に加わっているなんてなんと充実した編成!」とか
「あの学校の打楽器セクションは、4台ともティンパニが手締め式ではなくてペダル式になっているなんてすごすぎる!」みたいに
感じていたものですけど、
平成の時代に入ると、そうした私の感覚自体が既に時代遅れになっていたと思います・・(汗・・!)
1989年=平成元年というと、常総学院が全国大会に初出場し、あのとてつもなく洗練された響きをお披露目して以降は、
「洗練された吹奏楽の響き」がスタンダートな傾向になっていく中で、
こういう言葉は大変悪くて失礼かもしれませんけど、こうした丸亀高校みたいな「泥臭いサウンド」が登場すると
何となく「ホッ・・」とするのも事実でしたね。

聴いていて、正直「洗練さ」とは程遠い演奏だったと思います。
課題曲Aの冒頭は、音楽としては大変優しく響いてくるのですけど、やはり「洗練さ・ひさやかさ」は今一つでした。
自由曲の「海」も全体的にサウンドが濁り気味で、ソロも今一つアピール度が足りないという印象を受けたものです。
そうそう、この年の丸亀高校の「海」のアレンジャーは藤田玄播でしたが、
実は村山先生は観音寺第一高校時代の1983年にもやはり「海」で全国大会に出場されていて
この際のアレンジャーは出雲第二中学校の渡部修明先生でしたけど、
83年のアレンジは正直「今一つ・・」とも感じる内容だっただけに、単純に比較しても藤田玄播のアレンジの方が
吹奏楽に合っているようにも感じたものでした。
(ドビュッシーの海に、小太鼓のロールを入れてしまう出雲第一中の錦織先生のセンスの無いアレンジよりは
まだマシなのかな・・?という感じもあります)

だけど聴いていてどこか「懐かしい香り」が漂っていたのは逆にこのチームのアピールポイントだったと思います。
都会的洗練さはあまり感じさせない代わりに「大地にしっかりと根をおろした」とか「温かみが感じられる演奏」とか
「おおらかな演奏」というのか
どこか「懐かしい香り」を感じさせる少しレトロな感覚の演奏だったと思います。
時代は既に平成に入っていたのですけど、演奏自体の雰囲気が1970年代の演奏みたいというのか、
「古き良き時代の昭和」を感じさせるようなどこか温かみが感じられる演奏だったと思います。

だけど、丸亀高校の指揮者の村山先生は、ある意味すごいなとも思いますね。

村山先生は、1988年まで観音寺第一高校を指導され、1988年も全国大会に出場されていたのに、
翌年の89年にそれまで全国大会に一度も出場した事も無い丸亀高校に異動をされ、一年目からいきなり
全国大会に出場されていたのは大変立派な事だと思います。

余談なのですけど、1988年の村山先生指揮での観音寺第一高校の「ダフニスとクロエ」第二組曲の演奏は、
もしかしたら村山先生としても感慨深いものがおありだったのかもしれないです。
1981年の四国大会で観音寺第一高校が、渡部修明先生のアレンジ版を使用してダフニスとクロエを自由曲として
選び、無事に全国大会代表・金賞を勝ち取りながらも後日吹奏楽連盟から
「渡部アレンジ版は未承認曲だから演奏不可」と指摘を受け、泣く泣く全国大会への出場を辞退したという経緯が
あったとの事です。
そ観音寺第一高校は、1988年にこの「ダフニスとクロエ」第二組曲をブートゥリー版として自由曲に演奏し
無事に全国大会への出場を果たし、全国でも銀賞を受賞されていましたけど、
1981年の雪辱を果たされて感慨深かったと思います。

過去の村山先生指揮で大変印象的な演奏というと、観音寺第一高校時代のものですけど、
メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」序曲とワーグナーの歌劇「リエンチ」序曲でした。

メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」という古典的名曲を吹奏楽にアレンジして
演奏すること自体大変勇気がいりますし、
そういう古典的名曲を無謀にも演奏し玉砕した事例は数多く知っていますけど、
そうした難点を特に違和感なく現代風にしっとりと聴かせてくれたのは大変ポイントが高いと思います。
原曲は、金管にトロンボーン、そして当然ながらユーフォニウムも入らないのですけど、
この両楽器とかサックスセクションを加算しても、決して「厚化粧」みたいな響きにならずに
古典的な「控えめでかれんな演奏」をしっとりと聴かせることが出来たのは大変素晴らしい事だと
思います。
原曲は打楽器はティンパニーのみにのですけど、これに小太鼓・大太鼓・シンバルも加わっていましたが、
原曲を損なうような響きにはなっておらず、さほど違和感は感じさせず、
むしろ原曲に元々そうした打楽器が入っているかのような雰囲気さえ感じさせてくれました。

これはどこが成功要因なのかな・・・・

村山先生のキャラでもあるような「控えめな感じ」がプラスに出たとも思えますし、
指揮者のバランス感覚の良さも大きいと思いました。

とにかく吹奏楽で、こうした古典的名曲を表現出来る事は
吹奏楽の「無限の可能性」みたいなものも感じさせてくれましたね。
特に木管、特に特にクラリネットセクションの「ひそやかさ」は素晴らしい響きでしたし、
ラスト近くのクラリネットだけのうねりみたいな部分も特に際立っていたと思います。

1986年のワーグナーの歌劇「リエンチ」序曲も素晴らしかったと思います。

スケールはとてつもなく大きいのに、音楽がとても「優しく甘美」な事は本当に見事でした!
ワーグナーの「巨大さ」の中に秘められた「優しさ・スイートさ」を本当にたっぷりと歌い上げてくれたような
気もします。
マーラーやワーグナーの音楽は、
「優しさも甘さも厳しさも基本は音色から生まれる」ような気もするのですけど
村山先生の方向性はそうしたものであったようにも思えてなりませんね。

フィンガルの洞窟もリエンチも評価としては銅賞なのですけど、私はこの二つの演奏からは、
間違いなく「何か」は伝わっていたと思います!!
19.福岡工大付属高校


A/バレエ音楽「シバの女王ベルキス」~Ⅱ.戦いの踊り Ⅲ.暁のベルキスの踊り Ⅳ.狂宴の踊り (O.レスピーギ)


1987年の福岡工大付属高校(現.福岡工大付属城東高校)の「カウボーイ」は銀賞ながらも
まさに「伝説」に相応しい演奏だったと思います。
あの年のホルン・ユーフォニアム・トランペットなどの金管セクションの優秀さは、吹奏楽コンクール史の中でも
群を抜いている素晴らしさがあったと思います。
反面、木管セクション・・特にクラリネットのリードミスの頻発は大変残念なものがありました・・・
そうした「金管セクションの素晴らしき優秀さ」の流れと勢いに乗る形で、1988年のコンクールは、
金管セクション殺しとあまりにも名高い不滅の難曲&名曲のクロード・スミスの「ダンス・フォラトゥーラ」で臨みましたが、
結果はまさかの九州大会ダメ金で全国大会出場ならず・・・
(ブレーン社の「レジェンダリー」に収録されている演奏は定期演奏会が音源ですけど、あの演奏は、素晴らしい熱い演奏
だと思います! 一つ勿体無いのは、中間部のトランペットソロを完璧に外し、瞬間的に演奏が止まりそうな錯覚に
なったものでした
 聞いた話では、九州大会でも自由曲の演奏中に結構やばいソロミスがあり、演奏が瞬間的に止まりそうに
 なった事も一因のダメ金らしいですね・・・)

そんな訳で1988年は悔しい思いをされていたと思うのですが、そうした鬱憤と雪辱を翌年のこの1989年の大会で
思いっきり晴らすことになります。
そして結果的にこの年を最後に長年この学校を手塩に育てられた鈴木孝佳先生は福岡工大付属高校を去られてしまい、
勿体ない事にその後は一度も吹奏楽コンクールに出場されていません。
そうした事情のせいか、大変気持ちと集中力の強い完成度の高い演奏を聴かせてくれ、結果的に
1984年以来久しぶりの金賞を受賞しています。
(かえすがえすも1985年の九州大会ダメ金により5年連続金賞を達成できなかったのは大変惜しまれました!
 85年の自由曲がラッセンの「マンハッタン交響曲」というとてつもなく地味な曲を選曲したのも一因なのかも・・??)
とにかく鈴木先生としては、有終の美を飾り、最後に大輪の花を咲かせてくれたような気がします。

課題曲A/風と炎の踊りは冒頭のひそやかさが遺憾なく発揮され、前半の抒情性と後半の激しさの対比は
大変的確に表現されていて悪い演奏ではありませんが、最後のトランペットのソロがスカスカにかすれてしまい、
当時普門館の客席で聴いていた身としては、かなりひやひやしたというのもあったりします。
課題曲は全体的に少し鳴らし過ぎというマイナス面もあったかとは思うのですが、そのマイナス面を埋めて
なおかつお釣りがきそうな演奏が自由曲のベルキスだったと思います。
自由曲「シバの女王ベルキス」は、前年度に東北学院大学が全国初演を行い、指揮者&編曲者の淀先生は
吹奏楽の世界にベルキスを世に広めたという大きな功績を残す事となりました。
(淀先生のあまりの早過ぎる死が惜しまれます・・淀先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます・・)
東北学院大学は、ⅠとⅣを繋ぎ合せた演奏ですが、
福岡工大付属の演奏は、小長谷氏のアレンジによるもので、
Ⅱ.戦いの踊り~Ⅲ.暁のベルキスの踊り~Ⅳ.狂宴の踊りを選曲しています。
戦いの踊りは、このチームが全国初演ですが、出だしのティンパニのソロと金管の咆哮は
本当にインパクトがありました。
冒頭のティンパニ奏者はあの場面を叩けたら相当気持ちがいいかもしれないですね・・
続いての大太鼓二台による太鼓連打も迫力がありましたし、続くクラリネットのソロもいかにも
アラビアンナイトみたいな音の世界であり、とても興味深く聴いたものです。
ⅡとⅣの間に挟まったⅢの暁のベルキスは、大変しっとりと抒情的に美しく聴かせてくれ、
ⅡとⅣがあまりにも激しい音楽ですので、その音楽としての「落差」を大変ダイナミックスレンジを幅広く取っていたような
印象があります。
(1992年の常泉寺吹奏楽団は、この「暁のベルキス」の部分をメインに大変しっとりと聴かせてくれましたが、
ベルキス=よく鳴る曲というイメージが定着した中で、これ程内省的なベルキスも珍しいので印象に残っています)

福岡工大付属のベルキスは、豪快さと細やかな部分が融合した素晴らしい演奏でした!

そうそう、Ⅳの舞台横からのバンダは大変効果的でした!
Ⅱの大太鼓連打の部分iにおいて、太鼓の撥に鈴をつけて太鼓と鈴の音が同時に鳴る
演出は印象に残っています。
バスドラムの打点がしっかりとズドン!と決まったとド同時に鈴がシャリシャリ・・と鳴っていましたので
どこなくオリエンタル風みたいな雰囲気も醸し出していたと思います。

翌年から指揮者が真和志中・石田中・那覇中等でお馴染みの屋比久先生へと変わり、福岡工大サウンドも
一変する事となります。
中学校であれほど実績を残された屋比久先生ですら、高校の部では最初ご苦労されていたのが印象的です。
90~91年は九州大会ダメ金で、屋比久先生の指揮で福岡工大が初金賞を受賞されたのは、1993年の事ですから、
いかにスクールバンドにおいて、実績ある指揮者が離れると後任の方がご苦労されるのかの
一つの典型事例なのかもしけないですね。
この屋比久先生はすごいです!
だって・・私が生まれる以前から既に九州大会に出場されていて、そして昨年も大学の部で全国大会出場を
果たされていましたから、まさに吹奏楽界の「神様」みたいな存在の先生だと思います。
17.愛工大名電高校


A/吹奏楽のための神話~天の岩屋戸物語による (大栗裕)


1989年の大会で、習志野高校と淀川工業が5年連続金賞の偉業を達成し、翌年の特別演奏という栄誉が
決定したわけですが、振り返ってみると、この5年連続金賞と言うのは相当難しいもので、
天理高校・淀川工業・尼崎吹奏楽団・愛工大名電高校・中央大学などが4年連続全国大会金賞を
成し遂げたのに、5年目で支部大会落ちとか全国で銀賞等の理由で5年連続金賞を逃すという事も
結構起きています。
確かに5年目の場合、一つの節目という事もあり、栄誉という事もあり、奏者も指揮者も
大変なプレッシャーになっているのかもしれませんよね。
ちなみに尼崎吹奏楽団は、4年連続全国大会金賞を2度に渡ってつかみながらも5年目は2回とも銀賞に留まるという
不運に見舞われています。
1993年から3年連続金賞の場合は、翌年は全国不出場というシステムに変更となり、
さらに三年連続全国出場で翌年は全国不出場というルール変更がなされた時期も一時期ありましたけど、
これは何か奏者にとっては気の毒なシステムという感じもします。
昔のように、「5年連続金賞の場合、ご褒美的な意味も込めて翌年は一年お休み」という方がよかったような気もしますし、
今現在は既にそうした5年連続金賞→翌年の特別演奏という制度自体が廃止になっていますけど、
これに関しては旧システムの方がいいのかも・・?と思う時もあったりします。
吹奏楽連盟の意図としては、常連校の代表枠の寡占状態の防止・全国大会への機会拡大という配慮なのかもしれませんけど、
結果的に5年連続金賞の特別演奏の最後の演奏は95年の札幌白石という事になってしまいます。

愛工大名電高校は、1984年~87年まで全国大会4年連続金賞を達成し、
1988年に金賞を受賞すれば「5年連続金賞」という吹奏楽コンクールでは大変な栄誉と翌年の特別演奏を
与えられるという大変プレッシャーが掛る年でしたけど、
結果的に1988年の演奏は、正直、あんまり芳しい演奏ではなかったですね。
当時、普門館の会場で生で聴いていても、
「え・・・、これがあの名電・・・??」と目を覆いたくなるような不本意な演奏になってしまい、
結果として銀賞に留まり、5年連続金賞を達成する事は出来ませんでした。
88年の表彰式は私も生で目撃していましたけど、銀賞と言う結果がアナウンスされた時の名電の代表者3名の方の
落込む様は・・何となくではありますけど客席にも伝わってくるかのような雰囲気はあったものでした。
甲子園ではないですけど、ああした光景を見てしまうと「吹奏楽コンクールも一つの競技なのかも・・・」と感じてしまいますね。

そして、翌年の1989年のコンクールなのですけど、松井先生としても、
「まさかこの年に自分たちが普通にコンクールに参加しているなんて・・」みたいな不本意な気持ちは
あったのかもしれないですね。
前年度の「悔い」をなんかそのまんまそっくり引きずっているような印象すら感じたものでした。
前年度のショックの後遺症みたいなものが実際にあったかどうかなんていうのは、部外者の私には知る由もない話
ではあるのですけど、あの年の名電の自由曲の「神話」を聴いた限りでは、正直・・・・評価に困る演奏です。
一言で言うと、名電にしては「粗雑」で感銘性が希薄な印象です。
神話の世界と名電カラーが合っていないというか、音楽がすごくちぐはぐな感じなのです。
例年ならば、瞬発力が漲る打楽器セクションも、何か切れ味に欠け、なんかモサッとした演奏でした。
結果的に前年の演奏よりももっと印象は悪くなり、
 「もしかして名電、1976年のリエンチ以来の銅賞・・・??」とすら思ったほどでした。
名電というとプラハのための音楽1968みたいにメッセージ色の強い曲とかアトモスフェアや交響的断章などのように
音楽的緊張感が高い曲を高い技術と濃密な解釈で厳格に処理するいう大変濃口みたいな印象のある学校なのですけど、
この年の神話と1981年のディオニソスの祭りだけは、かなり薄口で名電にしては珍しく印象が希薄という
逆に珍しい演奏をされていたと思います。

でもさすが名電ですね!!

翌年の1990年はきっちりと立て直してきました!

自由曲は、1988年の時と同じ矢代秋雄の交響曲でしたけど、
もしかして、松井先生は余程、88年の演奏に「悔い」があったのかもしれないという事かもしれませんし、
同じ自由曲で2年後に「リベンジ」を果たしたかったという意図がもしかしたらあったのかもしれません。
90年の演奏は、88年~89年の不調がまるで嘘のように消え、
以前の緻密な名電に戻っていたのは、聴いていて「さすが・・!! これが伝統という力なのか・・」と感じたものでした!
16.駒澤大学高校


D/アルメニアンダンスパートⅠ(A.リード)


「駒澤」と聞くとどうしても大学の部のあの名門・駒澤大学をついつい連想してしまい、
「大学があんなに上手いのだから付属の高校だったきっと上手いんでしょ・・」と思われがちなのですけど、
そうですね・・・1980年代中盤から2000年代前半までほぼ毎年のように都大会を聴いていた人間から
言わせて頂くと駒澤高校に関してのコメントは
「駒澤高校・・・? うーーん、なんか微妙な立ち位置・・」という感じだったのかもしれないです。
確かに毎年のように都大会予選を勝ち抜け都大会本選に出場していたと思いますけど、
都大会の演奏を聴く限りは、「無難」とか「おとなしい」とか「ギラギラした個性があんまり感じない」
「洗練されたサウンドだけど聴く人に伝わるものはあんまりない・・」という印象が強かったような感じもあります。
都大会でも出場すれば毎年銀賞を取り続け、
銅賞と言うレヴェルではないけど全国大会代表・金賞を掴みとるまでのテクニックとか音楽性は
有していないチームみたいな感じもあり、そのあたりは全体的には「中途半端」みたいな印象もあったかとは
思います。
個人的には、1987年の都大会で演奏した課題曲C/コンサートマーチ87のほのぼのとした感じとか自由曲の
ホルストの「惑星」~木星の木管の巧さと中間部の音楽的高揚感は素晴らしいと思いましたし、
なんであの演奏が全国大会代表に選出されず、下手くそ極まりない東京朝鮮学校のショスタコの「祝典序曲」が
代表になってしまったのか、いまだに私にとっては謎ですし、
あの都大会の審査員の耳はどうかしていたんじゃないのかな・・・?といまだにふと思う事はあります・・・(汗・・!)

駒澤大学高校は、80年代と90年代にも何度か全国に駒を進めていますが、正直何の特徴もない演奏だったと思います。
だけど88年のセント・アンソニー・ヴァリエーションも 89年のアルメニアンダンスパートⅠも
92年のローマの祭りも技術的には一定水準には達しているものの
聴衆に必ず゛しも「何か」は伝わりきれていない個性という点では弱い演奏が多かったような印象が強いですね。
1992年の全国大会では駒澤と東海大学第四とで「ローマの祭り」が2チーム続けて演奏されていたのですけど、
あくまで単純比較で言うと、東海大学第四の圧倒的なエネルギーの塊りとパワーと絢爛豪華さの前では
駒澤大学高校の「おとなしさ・無個性・貧弱さ」は逆に際立っていたようにも感じたものでした。

だけど、これが吹奏楽コンクールの怖さでもあり醍醐味でもあるのですけど、
ある時から急に吹っ切れたように別のチームのように覚醒してしまう事もあるのですよね!
その一番いい事例が九州支部の精華女子と玉名女子だと思いますが、
2000年代以降の駒澤大学高校もその典型例だったような印象があります。
ハンガリー民謡「くじゃく」による変奏曲のしっとりとした内省的表現とかローマの祭り・宇宙の音楽等の華やかさなど
突然全く別のチームになったかのような「覚醒」がそこにはあったと思いますけど、
1983年以降ずっとこのチームを指導されていた吉野先生の長年のご苦労がようやく実を結んだと言えるのかも
しれないですね。

話を戻しますと、1989年の駒澤大学高校はまだ「微妙・・」という感じの時代だったのかなぁ・・とも思います。

というか、1989年までは関東第一高校が覚醒前の状態でしたし、80年代はまだ都立永山や片倉を指導されていた
馬場先生もまだ試行錯誤の段階でしたので、
1980年代の高校の部の都大会は、あまりレヴェルも高くなく、全国大会には比較的行きやすい時代ではなかったのかな・・とも
思います。駒澤大学高校にとってはどちらかというと全国大会を狙いやすい立ち位置にいたとは思うのですけど
それが出来なかったというのはやはり当時のそうした「中途半端さ」が大きかったのかな・・とも思ったりもします。
それに比べて現在の都大会はかなりの激戦ですよね!
東海大学高輪台・東海大学菅生・八王子・都立片倉、そして駒澤と全国大会でも銀賞~金賞を確実に受賞できる
レヴェルの高いブロックになっていて、
私が現役の頃の80年代のように「都大会の高校の部代表は、全国に出場してもほぼ銅賞ばっかり・・」という低迷期では
少なくともありませんから、やはり吹奏楽コンクールの日進月歩はすごいものがあるよな・・・と
感じるばかりですね!
駒澤大学高校も2000年以降は何度も全国大会に出場しかなりの高確率で金賞を受賞されていますので、
吉野先生の長年のご苦労がようやく花開いたといえるのだと思います。
だけど最近は東海大学勢に押され気味でここ数年は全国大会出場から遠ざかっていますので、
再度もうひと踏ん張りして頂きたいと思っておりますし、あのくじゃくや宇宙の音楽等の名演の再来をとても
期待しております!

1989年の駒澤大学高校の演奏ですけど、
「特徴がないのが特徴」と言えるくらいインパクトが弱い演奏というか、感銘性が極めてうすい演奏だったと
思います。
駒澤の演奏は都大会でも全国でもどちらも聴いたのですけど、どちらも「おとなしくて無難すぎる演奏」という
感想ぐらいしか言葉が出てこない感じもあります。
この年の自由曲の「アルメニアンダンスパートⅠ」も過去において多くの他校の名演があるものでして、
そうした過去の名演とついつい比較してしまう訳でもないのですけど、
やはり伝わるものがあんまりなくて「全体のテクニックは一定水準をキープしているのに勿体無いよね・・」と
やはり感じざるを得ない演奏だったと思います。
ソロ楽器の印象が弱いというのも全体の印象の薄さに拍車をかけていたような感じの演奏でもありました。

だけどこうした時代も、ここから数年後に一気に開花するまでの間の「産みの苦しさの時代」と言えるのかも
しれないですね。
15.下関商業高校


B/バレエ音楽「ガイーヌ」~序奏・ヌーネの踊り・アイシェの踊り・レスギンカ舞曲(A.ハチャトゥーリアン)


一言で言うと「全然うまくは無いけどとにかく可憐でとっても可愛い演奏!」みたいな言い方が
これほどよく似合うようなチームはあんまり無いという事なのだと思います。
全国大会初出場とか午後の部のプログラム一番とか奏者にとっては色々と緊張する要因も数多く
あったとは思いますし、恐らくは普段の練習の成果の半分も普門館のステージで発揮できないまんま
本番があっという間に終わってしまい、評価も銅賞と言う結果で終わってしまいましたぁ・・みたいな感じなのだと
思うのですけど、表面的な「銅賞」という一言で片付けるのには少しばかり抵抗がある演奏というのも
私自身の率直な感想です。

一言で言うと課題曲も自由曲も大変チャーミングな演奏で、確かに技術的な拙さとか
サウンド全体のモヤモヤ感とかサウンドの濁りもあるのですけど、そうしたマイナス点を消し去るような
「おおらかさ・のびのびとした雰囲気」みたいなものはあったと思いますし、
同じ県内の下松高校の初期の頃のように
いかにも「普通の先生と生徒達が一生懸命練習して手作りの音楽を誠実に作り上げ
それを普門館のステージでも高らかに響かせることができました」みたいな雰囲気を普門館の会場の隅々にまで
伝えていた姿勢は大変立派なものがあると思いました。
あの拙いサウンドなんだけど「自分達のありのままの音楽、普段通りの音楽を聴かせよう」みたいな意図は
私の耳にも十分伝わっていたと思います。
今現在の吹奏楽コンクール・全国大会というのは、全般的な傾向として私立高校が優秀な中学生をスカウトしてきて
優秀な吹奏楽指導者が細かく指導し、あの華麗できらびやかなサウンド&表現を創り上げ
どちらかというとそうした「人工的な音楽」の演奏の方がむしろコンクールとしては高い評価を受ける傾向に
あるのかな・・?みたいについつい感じてしまいますし、
そうした傾向が大変強い高校の部においては、
この1989年の下関商業みたいに「伝統も実績も特段うまい奏者も優秀な指導者もお金も何も無いない・・」みたいな
普通公立高校が「手作り音楽」一本で全国大会に出場できるという事は
正直・・・四国大会以外はかなり難しくなりつつあるのかもしれないですね。
そうした意味では四国の伊予高校の存在は全く別の観点から言うとかなり希少価値が高いと言えるのかも
しれませんね。

さてさて、下関商業の演奏ですけど、奏者のユニフォームがいかにも「地方の公立高校みたいな制服」という香りが
漂っていて、1989年当時は多くの普門館常連チームが普門館用の特注ステージ衣装を身に纏っての演奏が
既に定着化していたと思われる中、
ああいう男子→学ラン 女子→普通のブレザーという「普通の制服」は逆に視覚的には大変新鮮で
あったようにも感じられたものでした。
確か・・・私の記憶の中ではステージ最後段のパーカッションのとある女の子のツインテールの髪型がとっても似合っていて
可愛かったのは大変印象的です! (笑)

演奏ですけど、課題曲B/WISHは、高校の部でBを選んだチームが少なかったのですけど、
洗練の極みとしか言いようがない常総学院とか逆にサウンドが大変泥臭い花輪のように個性的な演奏が
多かった中では、悪く言うと可もなく不可も無く無難にまとめたという印象が大変強いのですけど、
やはり音楽に対して大変誠実に向き合っているみたいな「音楽としての温かさ」は十分伝わっていたと思いますし、
この課題曲のテーマでもある「希望の光」みたいなものは、間違いなく普門館の客席にも照らす事は出来ていたと
思います。
反面、例えばホルンの雄叫びとか木管の高音の響きの高まりの箇所はもう少し果敢に表現して欲しかった・・みたいな
消極的的な表現にも感じられたのは勿体なかったと思います。
自由曲の「ガイーヌ」は、もう少しいい意味でのワイルドさ・野性味が欲しかったですね。
確かに音楽として無難にまとめ上げていて、課題曲で少し感じていた「モヤモヤ感」はあまりなく
音楽としてのおおらかさは十分に伝わっていたと思うのですけど、そこに「自分達はこう演奏したい!」みたいな主張が
あまり感じられず、終始おっとりとした響きにまとめていて、
その「あっさり感」は聴く方にしてみれば確かに上品さとか聴きやすさはあるかとは思うのですけど、
やはりコンクールとしてのインパクトという意味では相当損をしていたようにも感じられます。

下関商業の自由曲の「ガイーヌ」で大変興味深いのは、バレエ音楽の中から四つの部分を選曲していたのですけど、
序奏とヌーネの踊りが林紀人先生のアレンジで、アイシェとレスギンカが藤田玄播氏のアレンジという事で
自由曲の中でアレンジャーが二人いて、
林先生のアレンジは中央大学の演奏が提示する通りまさに積極果敢な表現を売りにし、
藤田氏の方はどちらかというと素朴さ・ファンタジー感をイメージするアレンジでもありましたけど、
自由曲全体の感想として「部分部分は上手いけど全体のイメージとしてはあまり伝わるものが弱い」というのは
この辺りにも一因があったのかもしれないですね。
アイシェの目覚めと踊りの部分は、課題曲で感じた「モヤモヤ感」みたいな不鮮明さも時に顔を出してしまい、
それがコンクールとしてはマイナス要素だったのかもしれないです。
最後のレスギンカは、アイシェのモヤモヤ感を吹っ飛ばしてくれる快演で、
まさに「終わりよければすべてよし!」みたいな演奏でもあったと思います。

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