プロフィール

ぬくぬく先生 

Author:ぬくぬく先生 
開設当時は、1980年代吹奏楽コンクールの花輪・秋田南・就実・仁賀保・屋代等の素晴らしい演奏を後世に少しでも伝える事が出来ればいいなと思ってこのブログを始めたのですけど、いつのまにか「プリキュア」がメインになってしまいました・・・
最近は「東方Project」も大好きです!!
吹奏楽もプリキュアも何か自分が感じた事を少しでも後世の方に受け継がれるべきものが残せればいいかな・・と思っています。
ちなみに、「大好きプリキュア四天王」は、ドリーム・メロディ・ハッピー・ラブリーです。
ドリームとメロディは自分の中では既に殿堂入り状態ですけど、
現在は・・・・ラブリー大好き!!のラブリー一辺倒です!!
リアル社会では、建築関係のクレーム&アフター責任者を専従し、毎日毎日クレーム対応に当たる日々です・・・
裏の顔は・・・プリキュアと吹奏楽とクラシック音楽一辺倒です・・・
特に特に大好きな作品は・・・プリキュア5とスイートとハピネスチャージです!!
ちなみに、奥様は・・・ミルキィローズとセーラームーン好きの管理人以上のおこちゃまです・・・
東方で大好きなキャラは・・・とにかく大好きキャラがてんこ盛りで、全員大好き!という感じなのですけど、特に特に・・・さとり様・ゆかりん(紫様)・早苗さんはお気に入りです!!
吹奏楽では・・ネリベルの「二つの交響的断章」と「アンティフォナーレ」、スパークの「ドラゴンの年」、リードの「オセロ」と第二組曲「ラティーノ・メキシカーナ」、パーシケッティーの「仮面舞踏会」、C・スミスの「ダンス・フォラトゥーラ」などが死ぬほど好きで、クラシック音楽では、ウォルトンの交響曲第1番と矢代秋雄の交響曲、プロコフィエフの交響曲第5番、アーノルドの交響曲第2番、第4番、ショスタコの交響曲第7番「レニングラード」、マーラーの交響曲第3番「夏の朝の夢」、ハンソンの交響曲第2番「ロマンティック」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」、ベルクの「ヴァイオリン協奏曲」、ラフマニノフの「交響的舞曲」などが大好きです!!
クラシック音楽を吹奏楽にアレンジし、そのコンクールヴァージョンの演奏としては・・・
1982年の就実高校の「幻想舞曲集」と
1987年の習志野高校の「ダフニスとクロエ」第二組曲の演奏、そして、
1987年の雄新中の「エルザの大聖堂への厳かな行列」が
まさに私の「原点」です。
最後に・・・
私の吹奏楽との関わりの真の意味での「原点」は・・・
1979年の市立川口高校の神がかり名演としか言いようがない
「二つの交響的断章」に尽きると思います!!


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本日の更新記事について、本記事の一つ上の記事は、長野県の「やしょうま」について
東方の早苗さんを交えて記させて頂きましたので、
元(?)山梨県民といたしましては、
「山梨と長野は昔から犬猿の仲ですし、私も山梨在住時代は、え・・・長野県・・? 長野にだけは絶対に
負けたくないずら・・」と思わなくもないものでして(汗・・)
本記事は一応は「吹奏楽カテゴリ」の1992年吹奏楽コンクール語りになっているのですけど、
「しばらく続く番外編なんだからいいじゃん・・」と勝手に開き直り、ほんの少しだけ、長野県に対抗する形で
山梨県のお土産について触れさせて頂きたいと思います。

そうですねぇ・・気分としては、長野の諏訪出身の早苗さんに「ごめんね・・」と謝罪したい気持ちで一杯です・・(笑)

私、生まれ自体は青森県八戸市、育ちは高校卒業までは仙台、高校以降は主に東京~千葉~埼玉に在住していますけど、
仙台のお土産というと定番が出来ていますので迷う事はまずないと思います。
仙台のお土産と言うと、何といっても、萩の月・笹かまぼこ・牛タンが王道なのかな・・とも思ったりもします。
この他にも、支倉焼とかずんだもちとか白松がモナカみたいなものも
地元では人気があると思います。
実は大変恥ずかしい話ですけど、つい最近まであの美味しい「ままどおる」も仙台の銘菓と思っていたら、
実はあれは福島の銘菓だったのですね・・! (滝汗・・)

これまで何度も書いている通り、第40回全日本吹奏楽コンクールが開催された1992年当時、私は山梨在住でしたけど、
山梨も仙台ほどではないにしても、お土産にはやはり定番があり、
選ぶことは全く苦労はしませんでしたね。
山梨の場合、定番は何といってもワインと桔梗屋の信玄餅だと思います。
この他にも、ぶどう・煮貝・ほうとうなどが有名なのかなとも思います。
食べ物以外では、水晶・印鑑・象牙なども一つの定番お土産なのだと思います。
山梨の有名な郷土料理というと、そりゃ言うまでも無く「ほうとう」ですけど、山梨のほうとうは本当においしかったですね!
個人的には夏場よりも冬の寒い時に食べるあの熱いほうとうは堪らなかったですし、
がほちゃのほうとうとかじゃがいものほうとうは特に美味しかったです!
山梨の隣の県の長野は「信州そば」がとても名高くとても美味しいのですけど、山梨県内においては、
私の印象では、そば屋さんがほうとう店も兼ねている事が多く、メニューとしてもそばよりもほうとうの方が充実
していたような印象がありました。

上記で記した山梨の定番お土産以外でも、例えば・・・

竹林堂の生クリーム大福とかバターカステラの「富士川」も美味しかったですし、これは絶対にお勧めしたいお土産です!

他には・・信玄餅のメーカーでもある桔梗屋が製造販売している桔梗信玄餅生ロールもとても美味しいです!
それとやはり桔梗屋さんですけど「月の雫」という
皮が付いたままの甲州ぶどうを1粒丸ごと砂糖の衣で包んだ昔ながらのシンプルなお菓子も捨てがたいものがあります!




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山梨のお土産と言えばやはり信玄餅が圧倒的に有名ですが、同じ桔梗屋さんが出している「信玄桃」も
捨てがたいものがあると思います!
確かに知名度という意味では信玄餅に劣るのかもしれないですけど、
あの見た目の可愛らしさといかにも「桃」をパロディー化したようなお茶目さに、なんか箱を開けた瞬間に
「くすっ・・」となってしまいそうな感じもあると思います。

「信玄桃」って何かと言うと、
信玄餅で有名な桔梗屋さんが出している桃のおまんじゅうで、桃のゼリーを砕いたやつが白あんの中に入っています。

信玄桃の箱の中に入っていた説明によると、
「山梨県の名産品である桃、それをテーマに、見た目も包装も、地元の桃出荷のパッケージそっくりに作った
可愛らしい山梨を代表するお土産菓子です。見た目にも特にこだわり、色や形はもちろん、桃の産毛まで本物そっくり」と
書かれていましたけど、
箱を開けるとふんわりと桃の香りが漂ってきておいしそうです。ピンク色がとても見映えがしますし可愛くきれいです!
お菓子をざくっと割ってみると、中から桃太郎ではなく白あんが出てきます。
つぶつぶして見えるのは桃のクラッシュゼリーです。

食べてみると、白あんと桃ゼリーが合っていてなかなかおいしいですし。
大きさも小ぶりでお土産にぴったりだと思います。
これは是非是非信玄餅同様の人気と売上実績を今後も期待していきたいものがあると思います。

数年前、うちの奥様と二人で河口湖に旅行に行ったとき、富士吉田近辺で桔梗屋のアウトレットセールが
開催され、結構安い値段で信玄餅とか信玄桃などのお菓子が販売されていて、
お土産として結構大量に買って行った記憶があります。
こういうアウトレットも展開しているのが桔梗屋さんの粋な所でもありますね!
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先日、1989年の全日本吹奏楽コンクール・高校の部語りを無事に(?)終了させて頂きましたが、
今回より1992年の高校の部語りを始めさせて頂きたいと思います。
そしてまたまた例によって(?)本編の個別の演奏評を始める前に何回かに渡って番外編というのか
1992年当時の私自身のエピソードを語らさせて頂きたいと思いますので、
この年のプログラム一番の精華女子高校に入るまではほんの少しの間ガマンをして頂けると大変ありがたいものが
あります・・・(汗・・)


1992年(平成4年)と言うと既に25年前の事なのですね。
感覚としてはつい最近みたいな感じなのですけれども、それはやはり私が「年を取った」という事なのかもしれませんよね。
先日、かつて花輪高校と秋田南高校を指揮されて普門館の聴衆に多くの素敵な感動を伝えていた
小林久仁郎先生ご逝去の話をさせて頂きましたが、
80年代~90年代初めにかけて全国大会の常連チームで指揮・指導をされていた先生方の中には
既に彼岸の彼方の先生も数多くいらっしゃり、やはり「歳月の重み」というものも感じたりもします。
具体的には、例えば・・名電の松井先生・秋田南の高橋紘一先生・花輪の小林先生・洛南の宮本先生・
富山商業の坪島先生・関東第一の塩谷先生などかそうなのですけど、
例えば1992年の全国大会に出場された先生の中でも、昨年・・2016年の全国大会にも出場されていた先生も何人か
いらっしゃり、
東海大学第四の井田先生とか淀川工科の丸谷先生などは実は1970年代から既に全国に出場されていた先生でも
ありますので、
確かにお亡くなりになった先生もいらっしゃる一方でこうやって今でも現役指導者として全国に出場されている先生も
いらっしゃるという事実には本当に頭が下がる思いがありますね。

1992年と言うと、この頃の私は山梨県甲府市在住で、某第二地方銀行の営業の
遠方顧客担当の営業として、日々山梨県内の当時16の市町村の顧客を車で駆けずり廻る日々を
送っていました。
この当時の山梨県は、「平成の大合併前」でしたので、
中巨摩郡田富町とか玉穂町とか中巨摩郡白根町とか八田村とか甲西町がまだ健在の時代で
現在のような甲斐市とか南アルプス市とかそういう大規模な市が誕生する前に私は山梨に在住していた事になります。
あの当時は、
「こんな田舎、もう嫌だ・・」
「こんな閉鎖的でよそ者を受け入れない所は嫌い」
「暑くてかなわん・・・」
「大体、TBSとかフジテレビとかが映らず、言葉も・・・ずら ・・・しちょしみたいに
 標準語が通じない地域は、もう我慢の限界・・・」
「第一山梨県は、なんでここが関東なんだ・・? とても東京の隣の県とは思えないほど後進的な県じゃん!」
とほとんど良い印象は持ってはいませんでしたけど、
山梨には山梨なりの良いところもたくさんあり、今となっては良い思い出です。

1990年~95年というと、私にとっては「山梨県在住」というキーワードばかり
思い出してしまうのですよね・・・
あまり触れたくない苦い思い出と何か楽しかった面が二律背反みたいな感じがします。
当時の金融機関の過酷なノルマと何かのんびりとした風土の山梨県という極端な環境が
その理由なのかもしれません。
前述のとおり、当時の私は、某第二地方銀行の遠隔地担当営業として、

中巨摩郡
【田富・玉穂・若草・白根・甲西・八田村・竜王・櫛形】
南巨摩郡
【増穂・鰍沢・中富・下部・身延・早川・南部・富沢】
西八代郡
【六郷・市川大門・】
東八代郡
【中道・豊富村・境川村】

その他に北巨摩郡の一部とか韮崎までたった一人で顧客を回っていました。
今だったら体力的にも精神的にも絶対無理だと思います(汗・・)
20代から30代前半だったから、何とか持ったようなものです・・・
でもこうやって地名を列挙すると懐かしいですね。
例えば、印鑑と象牙の六郷町とか花火の市川大門とか桃とさくらんぼうと開国橋と金丸信の白根町とか
ありあんすの丘の中道町とか
久遠寺の石段をのぼるのが大変な身延町とか西山温泉の早川町とか
何か懐かしい感じがします。
数年前に、うちの奥様と一緒に石和温泉に旅行に行き、ついでに甲府市内を回ってみたのですが、
シャッター街というかさびれた駅前通りはさておいて、
何か全然変わっていないというか、時計が止まったような感じもしました。

当時、ノルマが過酷な金融機関でも、
例えば、一日、または週間の預金獲得・融資情報ノルマが達成できなくても
「支店長!! お客から預金は獲得できなくても、ブドウをもらってきました!!」
「そうか・・・」と苦笑いされる事が、まだ通用する雰囲気はありましたからね・・・(汗・・)

1992年の全国大会・高校の部は、確か前日が月末で、
あとほんの一歩のところで毎月のノルマ達成に届かず、上司から無茶苦茶怒られ、
すごくイライラしていたのはよく覚えています。
翌朝目が覚めてもその事のイライラが解消できず、そのまんま始発のかいじ号に乗って普門館に着いたのですけど、
やはり気分としてはめちゃくちゃご機嫌斜め状態でした・・・(汗・・)

だけど・・・・

プログラム一番の精華女子の自由曲の「ダフニスとクロエ」第二組曲の夜明けの部分が開始されると
不思議な事にそうした私のイライラとした気持ちも面白いようにす~っとして消滅していき、
プログラム27番までイライラすることなく音楽を純粋に楽しむ事が出来ましたので
やっぱり「音楽」といものは素敵なものなんだなぁ・・と改めて実感した瞬間でもありました・・・
27.兵庫高校


D/ディオニソスの祭り(F.シュミット)


兵庫高校吹奏楽部というと、オールド吹奏楽ファンの私ですと、やはりいまだにあの吉永陽一先生の
とてつもなくアクと個性が漲っているギラギラとした演奏というイメージが大変強いです。
(クラシックアレンジものの演奏ではどちらかというと正攻法に近いスケールの大きな表現をされる傾向が
あるのに対して、あの吹奏楽オリジナル作品のとてつもない珍解釈と個性の強さは、あれは吉永先生そのものと言っても
過言ではないとすら思います)

そうした中、吉永先生は西宮高校に異動をされ、あの伝説とも言える「吉永陽一=兵庫高校サウンド」の幕は
閉じてしまったのですけど、
兵庫高校吹奏楽部は新たに松井先生というこれまたとてつもなくアクと個性の強い偉大な指揮者が異動されてきて、
前任校の明石北高校時代以上の「素晴らしき名演」を普門館の聴衆に聴かせ魅了されてきたと
思います。
そうした意味では、兵庫高校吹奏楽部は、吉永先生・松井先生と2代に渡って極めて優秀で個性的な指揮者迎えられ、
この学校としての素晴らしき全盛期を見せてくれていたと思います。
吉永先生時代と松井先生時代の兵庫高校吹奏楽部の普門館での数々の名演の歴史は、間違いなく後世の私達の記憶の中に
受け継がれていくものと確信しております。

兵庫高校吹奏楽部は、ここ20年近く「全国大会」からは遠ざかっていて寂しいものはありますが、
いつの日にか・・・あのかつての名門校が復活し全国大会のステージに戻ってきてくれると信じたい気持ちで一杯ですね!
(二人の偉大な指揮者の異動後も、あの激戦の兵庫県大会を突破し、ほぼ毎年のように関西大会に出場
され続けている事は本当に頭が下がる思いで一杯ですね。
ここ数年の傾向として、関西大会は大阪府代表の学校ばかりが全国大会への代表権を獲得していますけど、
他県のチームの皆様も頑張って頂きたいですね! 笑・・)

さてさて・・この年、1989年の兵庫高校の演奏は、兵庫高校としても6年ぶりの全国大会出場という事での意義も大きいと
思いますが、それ以上に、明石南高校でのあのまさに歴史的名演に相応しい「ダッタン人の踊り」を指揮されていた
松井先生が、兵庫高校に異動後に初めてつかんだ全国大会への切符という意味でも
大変価値がある演奏のようにも思えます。
松井先生というと、火の鳥・ロメオとジュリエット・シンデレラ・白鳥の湖・三つのオレンジへの恋などに代表されるように
ロシアもののクラシック音楽アレンジ作品を指揮・演奏されたら右に出る者はいないと言われるほど
ロシア音楽には定評がありましたけど、そうした松井先生が「ディオニソスの祭り」のような古典的でバリバリな
吹奏楽オリジナル作品を自由曲として選曲されていた事はある意味驚きでもあるのかな・・とも思います。
演奏自体なのですけど、後年のあのロシアもののあの「松井節」とも呼ばれるあのギラギラとした個性のある演奏に
比べると、確かに、兵庫高校としての松井先生の初めての全国大会という事情はあるにせよ、
「ちょっとらしくないのかも・・?」みたいに感じさせる演奏になってしまったのかな・・?とも当時感じていたものでした。
この頃の兵庫高校の演奏ユニフォームは、男性奏者は学ランでしたけど、進学校とか大変頭がよい学校としても名高い
兵庫高校の学ランのドラム奏者が課題曲D/ポップスマーチ「すてきな日々」でドラムを優雅に叩きまくっても、
何となくですけど「優等生」みたいな演奏に聴こえてしまい、
確かに洗練されてテクニック的に大変巧みなのですけど、ちょっと「型」にはまったような演奏にも聴こえてしまい、
東海大学第四高校のあの粋なノリのたいへんいい「すてきな日々」を聴いてしまうと、
「ちょっと固いね・・」みたいな感想にもなってしまうのかもしれないですね。
自由曲の「ディオニソスの祭り」は、正直インパクトに欠ける演奏でもありました。
関西代表で「ディオニソスの祭り」の圧倒的にアクの強い名演というと御影高校をついつい思い出してしまうのですけど、
御影高校のあのとてつもない悪魔みたいな演奏を一度聴いてしまうと、
やはりこの年の兵庫高校の演奏は「おとなしい」とか「優等生みたいな演奏」みたいな感想になってしまうのかも
しれないです。
音のムラ・木管セクションの細かい動きにやや不安感が感じられた事とか部分的にサウンドが薄くなってしまい、
そうした薄さの際に技術的な不安定さが出てしまったのもコンクールとしては少しマイナスポイントだったのかも
しれないです。

私個人の採点は銀賞でしたけど、コンクールの評価としては無事に金賞入賞を果たしていました。

だけど、真の意味で松井先生=兵庫高校の個性が覚醒し確立化されるのは、翌年の「火の鳥」以降なのだと思います。

だけど、ここから松井先生=兵庫高校吹奏楽部の吉永先生時代に次ぐ「第二の黄金時代」が開始されたのだと思います。
後年の兵庫のアクの強さは、まだこの時は姿を見せず、オーソドックスな演奏を展開していたのが
この年の演奏だったと言えるのかもしれないですね。

兵庫高校吹奏楽部ですけど、私は勿論吉永先生時代の演奏も大好きですし、それと同じくらい
松井先生時代の演奏も大好きですね。
お二人の先生ともとにかくアクが強いというか「個性」が漲っている先生でしたし、
吉永先生の場合は、
「下品でどこが悪いねん!! 音楽とはそんなお上品のものばかりとは限りまへんでぇ~!!」みたいな感じでしたし、
松井先生の場合は、確かに個性はとてつもなく強いのですけど
演奏と言うかその表現は、まさしく「ロマンティックな情緒」が漂っていてあのリリカルな雰囲気は
独特なオーラが漂っていたと思います。
松井先生時代の演奏としては、
特に1992年の「ロメオとジュリエット」の低音をバリバリと豪快に鳴らした演奏も大変素晴らしかったですし
1991年の「火の鳥」において、いきなりトロンボーンの強烈なグリッサンド&ティンパニのロールから開始したと
思ったら、次の瞬間「子守唄」の大変抒情的で瑞々しい響きになり、
そして「魔王カスチェイの凶悪な踊り」で一気にエキサィティングしていった演奏も忘れがたいですね。
93年の「シンデレラ」とか96年の「三つのオレンジへの恋」のプロコフィエフシリーズにおいても
あの独特のファンタジーは、本当に私の胸をキュンキュンとさせてくれていました!!
これらのロシアものは、指揮者の松井先生の「松井節」が炸裂し、曲の隅々まで「アクの強さ」が漲っていて
ま、確かに多少粗っぽいドライヴはあるのですけど、全然「粗野」みたいな印象は無く、
むしろ「切れ味の鋭さ」とか「鋭角的な響き」・「ひたすら前進し、とにかく積極果敢に攻める演奏」という事で
とにかくエキサィティングな演奏でしたね・・・!!

兵庫高校吹奏楽部は松井先生の指導の下、毎年毎年豪快で個性に溢れる音楽を聴かせてくれ
そのあまりの「アクの強さ」が、あんだけ毎年素晴らしい演奏を聴かせてくれるのに
評価が金と銀をいったりきたりしたり、関西大会でダメ金に終わったりと今一つ「評価の不連続性」を
もたらしている原因の一つと言えるのかもしれないです。
だけど、それは「審査員の好み」の領域であり、とにかく私は大好きな演奏チームの一つであるのは今でも
全く変わりがないと思います。

さてさて・・この兵庫高校の演奏でもって1989年の全国大会高校の部語りは終了です。
こんな拙いあくまで私個人の感想記事でしたけど、見て頂けた皆様には深く感謝をいたします。

次回の当ブログの吹奏楽コンクール語りは、1992年・高校の部を予定しております。
この年は大変レヴェルが高く、銀賞チームにも名演が続出していたのが大変印象的ですし、
そうした銀賞名演の一つが、上記の兵庫高校の「ロメオとジュリエット」であり、新屋高校の「ガイーヌ」なのだと思います。
私個人としては、常総学院のあのあまりにも色っぽいサウンドの「アルプス交響曲」が大変印象的です!

そして・・1992年というのは、先日追悼記事を書かせて頂きました小林久仁郎先生が、結果的に
花輪高校吹奏楽部を指揮された最後の年という事になります・・・
(93年以降は小林先生は秋田南高校へと異動をされ、当時停滞をしていた秋田南高校吹奏楽部を立派に立て直し
名門復活を私達に見せつけてくれていました!!)
26.中村学園女子高校


A/歌劇「カルメン」組曲より(ビゼー)

中村学園の全盛期は、やっぱり1978年~87年の松澤先生時代なのかな・・?
そう言えば、中村学園も1991年の全国大会出場を最後に全国大会から遠ざかっていますし、
最近では、福岡県大会で終わってしまったりはたまた県大会にすら進めず福岡地区予選で終わってしまっている事も
あるようですので、今更何を・・みたいな話ではありますが、吹奏楽コンクールの場合、
有能な指導者が異動や引き抜きをされてしまうと、後任の先生もその後が何かと大変なようですし、
偉大な前任者を超えて更に素晴らしい実績を出すという事は本当に至難の業と言えるのかもしれないですね。

1989年の中村学園は、87年まで中村学園を指導されていた松澤先生が福岡第一高校へ引き抜かれてしまう事で、
全盛期の指揮者からの交替劇があり、松澤先生から石坂先生へ指揮者が変わって初めての全国大会出場と
なりましたけど、「分り易い音楽づくり」という路線は指揮者が交代になってもああやってうまく
引き継がれていたと思います。
89年の中村学園を普門館の生演奏を聴いた時の率直な感想は、
「音楽が幼くなった・・」
「技術の詰めが甘いというか、サウンドが濁り気味なのがとても気になってしまう」とか、
「86年のパリの喜びみたいな名演時のサウンドは影を潜め、特に個性を感じさせない普通の演奏になってしまった・・」
みたいな感想しか出てこなかったです。

少し厳しい言い方をしてしまうと、指揮者の交代により中村女子の持ち味が無くなってしまったような感じからあったと
思います。
何かどういう方向性を目指しているのか、どういうサウンドづくりを目指しているのかといった基本路線で迷っている感じが
演奏の節々から感じられ、結果として、「音楽としての楽しい雰囲気」は伝えていたものの、
全体的に「中途半端」なものを感じてしまいます。
後年の「詩人と農夫」も「ボッカチオ序曲」もそうした傾向は感じられ、
「分かり易く明るく楽しいクラシック音楽を聴き易い方向で伝える」という石坂先生の意図は分かるのですけど、
確かに単純比較はよくないのですけど、前任者の松澤先生との違いはどこにあるのかとか、
どういう点を受け継ぎ、どういう点で自分達の新しい方向を目指していくのかという点が
今一つ、サウンドとして、音楽として伝わってこなくて
結果的に大変聴いていて「もどかしさ」を感じたものでした。

課題曲も自由曲も両曲を通じて言えるのですけどサウンドが少し濁り気味というのはマイナス評価という印象は
拭えなかったですね。
技術的にもう少し緻密なものをクリアした上で「楽しさ」が表現出来れば尚よかったのかもしれないですけど、
技術的な完成度が少し低めの中での演奏は、どうしても技術的な細かいツッコミどころの方が気になってしまい、
音楽として素直に楽しめなかったという印象も感じたものでした。
自由曲の最後は、カルメンで最も有名なあの「トレアドール」の部分で締めてくれていて、
あの部分は奏者も指揮者も相当のびのびとしたリラックスした雰囲気の中で聴かせてくれていて、
なんとなくですけど「終わりよければすべてよし!」みたいな感じでまとまったいたのが大変印象的です。

終わり方が大変スッキリしていて楽しくのびのびと終わったせいか、課題曲や自由曲前半の印象は決して
よいものではなかったのですけど、
結果的に評価としては銀賞に落ち着いたという感じがありました。
(私自身の評価は文句なしの銅賞・・という感じではあったのですけどね・・)

やっぱりコンクール審査と言うものは水物だと思いますし審査員の好みというものもある程度は色濃く出るのかも
しれないですね。
秋田県代表の花輪高校の「壁画」が銅賞で、中村学園の「カルメン」が銀賞というのも
当時の私の感想としては、「どこか割り切れないものを感じざるを得ない」という感覚もあったものでした。

中村学園は伝統的に、「分かりやすい親しみやすいクラシック音楽の編曲もの」を自由曲にする事が多く、
特に、1984年~87年のバレエ音楽シリーズはとても素晴らし内容でした!!
特に86年の中村学園の「パリの喜び」は、吹奏楽コンクール史に残る素晴らしい名演の一つだと私は思います。
初期の頃は、シャブリエの狂詩曲「スペイン」とかR.コルサコフの「スペイン奇想曲」みたいに
スペインものの曲を選ぶ傾向もあり、
その点は、やはり女子高チームの就実がスペインものをかなり得意にしていた事と被る面があり、
意外な共通点があるのかな・・とも思ったりもします。
中村学園はどちらかというと外見的な派手さ、就実は内省的な感じでして、
目指す方向性は対照的だったようにも思えるのは、松澤先生と村松先生という指導者のキャラや考え方の違いというのも
あるんじゃないのかな・・?とも思ったりもしますね・・(笑)
25.富山商業高校


D/祝典序曲 (D.ショスタコーヴィッチ)


富山商業と言うと、オールド吹奏楽ファンの私ですと、やはりどうしても坪島先生時代のあの素晴らしい名演の数々を
思い出してしまいます。
1980年代における北陸代表の高岡商業と富山商業の両校は、高校野球でも代表枠をかけて熾烈な闘いを
していたと思いますし、
吹奏楽コンクールにおいてもこの両校は、まさに「北陸の両雄」という言い方が大変相応しいようにも
感じられますし、両校とも金管セクションが大変よく鳴って伝統的に金管楽器が強いという共通点もありましたし、
1979年まで北陸支部の全国大会代表枠が1つの時代の頃は、この両校がその唯一の代表枠を掛けて
北陸大会で毎年毎年激烈な代表争いをしていて、それが両校の素晴らしき切磋琢磨に繋がり、
結果として両校の後世に残る素晴らしい名演の数々を呼び込んでた一つの要因にもなっていたような気がします。
1982年においてこの両校に割り込むような形で全国大会代表を掴みとった金沢二水高校は、まさに大金星と
言えるような気もしますね・・・(笑)


富山商業は、1981年~83年の三年間は、全国大会金賞受賞という好成績を残していましたが、
その中でも特に1982年の「ロメオとジュリエット」の劇的なドラマと83年の「冬の日本海の冷たさ」を示唆するような
素晴らしき感受性は大変素晴らしいものがあったと思います。
84年の「ハーリ=ヤーノシュ」も、確かに音量過剰な面も無きにしも非ずなのですけど、やはり金管セクションの優秀さを
「これでもかっ!」と見せつけてくれていましたが、評価としては全国大会銀賞という結果になってしまいました。
(あの年の閉会式における審査結果発表の際は、富山商業と淀川工業の銀賞と言う結果がアナウンスされた時の
普門館の会場内の空気を覆ったあの「ええっーー」というどよめきとブーイングは今でもはっきりと
覚えていますね・・)
「何であれが銀賞なの?」と思うハイレベルな演奏ですし、
88年のロメオとジュリエットも82年の名演を超越しているようにも感じられるかなり劇的で高水準な演奏です。
だけど結果として富山商業は、1984年~88年の5年間は、評価としては全て銀賞に留まり、結果として
この5年間は金賞から遠ざかる事になっていました。
(私個人の感想としては、85年~87年の3年間は、どことなく坪島先生にも「迷い・・」みたいなものがあったようにも感じられます)

この年、1989年の富山商業の自由曲は、ショスタコーヴィッチの「祝典序曲」という
1970年代の中学の部を連想させるような選曲ですし、どちらかというとジュニアスクールバンドの定番の自由曲という
感じもあり、曲としては大変シンプルでわかりやすく底抜けに明るい曲であるのですけど、
この時代としては、正直・・「この曲はどちらかというと全国大会で高校の部で演奏される曲ではないよね・・」
みたいな雰囲気もあったような気もします。
だけどあえて富山商業という名門校があえてこうした自由曲を演奏する事の意味と言うのは、
「名門校が原点に立ち戻る」というようにも私には感じられ、原点に一度戻る事で「温故知新」みたいな感じを取り戻し、
自分たちがかつて目指していて得意だったもの・・例えば、明るさとか豪快さを
改めて見つめ直していたようにも感じられたものでした。

そして結果としてそうした試みは大成功のうちに終わり、課題曲も自由曲も、何の迷いもなく
それまでの迷いとか5年連続銀賞という富山商業にとってはある意味中途半端な感じを全て吹っ飛ばしてくれる
大変いい意味で開き直り吹っ切れた素晴らしい演奏を普門館の聴衆に遺憾なくお披露目されていたのは
とても素晴らしかったと思います!
特に自由曲の「祝典序曲」はもあの快速なテンポと明るさは素晴らしかったです!
結果論になりますけど、坪島先生が普門館で北陸代表として演奏されていたのはこの年が最後のものとなってしまい、
1991年の北陸大会をもって坪島先生はご勇退をされてしまいますが、
最後の普門館、最後の金賞受賞の演奏になりましたけど、その「最後」を飾るのに相応しい
本当に見事な演奏を後世の私達に残してくれていたと思いますし、あの「祝典序曲」の快速さは
賞賛に値するものがあると思います!

クラリネットのパッセージは大変だと思いますが、
シンプルな曲を大人の技術でゆとりを持って吹きこなすという感じの演奏だったと思います。
ある意味、王道の演奏とも言えるのかもしれないですね!
それと一つ指摘をさせて頂きますと、冒頭のファンファーレを再現するために怒涛のように突進する形の中で、
その後半部分のファンファーレの再現の直前部分において、大変細かい音符が連続する箇所があるのですけど、
多くのチームはあの部分は比較的スタッカート気味に吹いていた傾向がある中、
富山商業はレガート気味に解釈して吹いていたのは、富山商業としての「個性」も感じたものでした!


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ここから先は少し余談です・・・

改めて上記のショスタコーヴィッチの「祝典序曲」について簡単にフォローさせて頂きたいと思います。

この曲の構成はとてもシンプルで
冒頭の金管による健康的な明るいファンファーレが華麗に吹奏され、ラスト近くのこの冒頭の「ファンファーレ」の再現に向けて
全楽器が燃え立つように突進するという「シンプル イズ ベスト」を絵に描いたような作品だと思います。
冒頭のファンファーレの後すぐに出てくるクラリネットのソロが流麗で実に素晴らしいですね・・・・!!
ラストのファンファーレの再現部分で
「バンダ」という金管別働隊も加わり、華麗に曲は閉じられます。

ショスタコーヴイッチの「祝典序曲」は、ともすれば「深刻」・「悲愴感」・「重厚長大」・「悲劇的」・
「政治とスターリンに生涯振り回された悲劇の作曲家」・「本音と建前の二重言語を駆使」みたいに
ついつい言われてしまうショスタコーヴィッチの作品の中でも
例外的に明るく、どこまでも底抜けに楽しく進展し、開放感満点の素晴らしい小品だと思います。
演奏時間は大体7分前後くらいかな・・・
指揮者によっては6分を切るスピード感満点の演奏もあるみたいですけどね。

ショスタコーヴィッチは、その生涯で二度ほど政治的に「やばい状況」を迎えます。
当時のソ連体制においては、国家権力によって睨まれたり、監視の対象になってしまうという
「やばい状況」とはこれすなわち、自身の「死」とか「シベリア流刑」とか「強制収容所送り」という事を
意味しましたので、かなり相当やばい状況だったのだと思われます。

本来、音楽とは作曲家の自由意思というか
「自分はこのように感じたからこうした曲を作る!!」みたいな事が尊重されるのは当然の事なのですけど、
当時の共産党一党独裁のソ連にはそうした自由は無く、
「人民が喜びそうな外面的効果の高い音楽」を量産する事を求められ
「自身の内面」を描くといった抽象的な音楽は、国家権力によって敬遠され
ひたすら外面的に明るい音楽を作曲する事が求められていました。
だからこそ、「自由な音楽」を求めてソ連体制を嫌って祖国からの「亡命」を求めたのが
ストラヴィンスキーとかプロコフィエフだったのでししょうね。
だけどショスタコーヴィッチは律儀にも「祖国愛」が強いのか、面倒な事を嫌ったのか、家族の反対にあったかは
よく分かりませんけど、生涯一度も亡命する事もなくその生涯をソ連体制の中で生き続け、
その生涯をソ連の中で閉じた作曲家なのです。
本当は、マーラーみたいな音楽を書きたかった欲求もあったのかもしれませんけど、
時に自分の内面に忠実な作品を書き、それが国家からの批判を招き、その反動として
外面効果が高い分かり易い曲を残すという「御用作曲家」みたいな面を持つという
本当に苦労が絶えない人だったと思います。

前述の「やばい状況」の内の一回目は交響曲第4番やバレエ「明るい小川」を作曲していた頃です。
これらの音楽が「抽象的で訳がわからん・・・」という事で睨まれ
その代償として作曲されたのが、ショスタコーヴィッチの代表作、交響曲第5番「革命」というのも何だか皮肉な感じがします。
やばい二回目は、第二次世界大戦終了後に、戦争勝利記念作として発表された交響曲第9番と言えると思います。
スターリンにとっては、
「この交響曲は特別な存在であるべきだ! なぜなら我々は戦勝国だからである。
だからこの祝祭的な交響曲は、合唱などを入れ大規模に国家の勝利を讃える必要がある」などと
思ったかどうかはよく分かりませんが、
そうした気持ちは恐らくはスターリン自身も少しは持っていたのかもしれません。
だからこそこの第9交響曲が、大合唱も入らず「洒落っ気に溢れたとてつもなく軽い曲」であったことにスターリンは激怒し、
「俺の顔を潰しやがって・・・」みたいな気持はどこかにあったかもしれません。
そして二回目のやばい状況が訪れるのです。
ショスタコ―ヴィッチは、この危機に対しては、オラトリオ「森の歌」で大衆迎合用の分かり易い曲を提出し
難を逃れています。
ちなみの「森の歌」の初版の歌詞のラストは「スターリン万歳!!」だそうです・・・
(スターリンの死後削除されています)

そしてこういう状況の下、結果的にスターリンは1953年に逝去します・・・

そのスターリン死亡の翌年にこの「祝典序曲」が作曲されます。
この曲は、一応表面上は、革命37周年記念とか、ボルガ=ドン運河竣工記念という名目で書き上げられていますけど、
これって少しおかしいようにも感じます。
だって革命37周年は中途半端な数字ですし、運河が完成したのは、「祝典序曲」作曲の
確か2年か3年前の少し古い話なのです。

そうですね・・少しうがった見方をすると
「スターリンの死」がショスタコーヴィッチにとっては「祝典」だったのかもしれないですね。
だってそれまでの生涯であんなに陰気で重厚な曲ばかり書いていた人が
突然こんな軽妙で明るい曲を作曲するなんてあり得るのかな・・・??
やはり「スターリンの死」が自分にとっては「祝典」である事をほのめかしたかったようにも
感じられない事はありません・・・
交響曲第10番もそうした香りがぷんぷん漂います・・・
第一楽章から第三楽章までは「陰気」な雰囲気がぷんぷんなのですけど、
第四楽章の中盤から唐突に明るい幸福感に満ちた印象に激変します・・・
何かこれって、
「人間の死と言うのは本来悲しむべきことであるのに、
スターリンという独裁者が死なないとソ連国民全体の幸福がやってこない」という国家的な「皮肉」を
謳い上げたようにも私には聴こえてなりません・・・・

曲の背景は何か面倒なものがありそうだけど
曲そのものはいたったシンプルで明るく楽しい曲という
なにやらショスタコーヴィッチ自身の「矛盾」を立証したような作品がこの「祝典序曲」と言えるのかもしれないですね。
24.東海大学第四高校 【現.東海大学札幌高校】


D/吹奏楽のための神話~天の岩屋戸物語による (大栗裕)


全部門を通じて最高の課題曲D「すてきな日々」た゜ったと思います。
この年は、結構あちこちの県大会・支部大会、そして普門館開催の全国大会と色々聴いていましたけど、
東海大学第四高校を超越する演奏は結局存在しなかったのかも・・というのが一応私自身の感想でもあります。
この「すてきな日々」は本当に楽しい曲で、とてもじゃないけどコンクールの課題曲みたいな堅苦しい曲には
到底思えないほどのノリのいい曲でもありました!
こういう底抜けに楽しい課題曲って吹奏楽コンクール史上でもそんなになくて、他には
1974年の「高度な技術への指標」とか77年の「ディスコキッド」とか80年の「オーバー・ザ・ギャラクシー」あたりが
思い浮かびますが、「すてきな日々」は、ビギンとかスイングみたいに部分的にジャズみたいな雰囲気も漂わせていて、
そのあたりの「粋な感じ」がとってもすてきだったと思います。

東海大学第四高校以外で印象に残った演奏って他にどこがあったかな・・?

東京支部の演奏でしたけど、葛飾吹奏楽団がとにかく強引で粗っぽいドライヴなんですが、
とてつもなくバカでかい音量でのあのノリと勢いのある演奏は、支部大会銅賞ではあったのですけど、
あれはあれで立派な「すてきな日々」だったと思うのですけど、
案の定、頭の固い(?)審査員の皆様は銅賞という評価をされていましたね・・
全国大会の中学の部なのですが、大月東中学校がわずか34名の奏者ながらも大変立派な演奏をしていたのは
とても強く印象に残っています。
「すてきな日々」は、通常の打楽器奏者は、ティンパニ・ドラムセット・大太鼓・サスペンダーシンバル・シロフォン・グロッケンで
6人奏者を必要とするのですが、ドラム奏者が大太鼓とサスペンダーシンバルをドラムセットとして兼用する事も可能と
確かスコアに書かれていたような気もするのですが、大月東の打楽器セクションは、そうした方法で4人のみで
この課題曲を演奏していたのは、全国大会としては大変珍しかったせいもあり、
印象が強かったようにも感じられます。

東海大学第四高校の「すてきな日々むは、とにかく「巧い!」としか言いようがない大変高度なテクニックが随所に
顔を見せていたと思います。どのあたりが特に印象に残っているのかと言うと、
部分的にまるで「ジャズ」を聴いているかのように演奏が「スィング」しているようにも聴こえ、
特にトロンボーンの洒落っ気たっぷりのグリッサンド気味の演奏は素晴らしいとしか言いようが無かったです!
木管も金管も音色が大変美しい上に、こうしたジャズっぽい粋な雰囲気を巧みに醸し出していましたので、
聴いていて「向かうところ敵なし!」という感じでしたし、私の中では、課題曲の段階から既に金賞は当確が
出ていたような気がするほど完成度は大変高かったと思いますし、前述の通り、この年の全部門を通して
最高の課題曲Dの演奏であったと思います。

自由曲の「吹奏楽のための神話」も文句のつけようがない演奏でした!
この曲はこの当時既に淀川工業とか尼崎吹奏楽団とか名演が出ていたのですけど、
そうした関西系の過去の名演に決して見劣りしない素晴らしい演奏を聴かせてくれていたと思います。
踊りの部分の変拍子も、「変拍子を全く変拍子と感じさせない」演奏で、通常こうした変拍子の曲は聴いている方も
どことなく疲れてしまう傾向もなくはないのですが、
東海大学第四高校の演奏は、その点が大変楽に聴かせてくれていて、変拍子が実にナチュラルに
響いていたと思います。
非常に安定感がありました。 課題曲と少し雰囲気を変えてきていて、
幾分音色がねっとりしていたようにも感じられましたが、逆にそれは日本の神話の世界に大変マッチしていたと思います。
踊りの部分の後の静粛な部分以降、フルートとクラリネットのソロは大変美しく緊張感を
持続しての演奏でしたが、
残念だったのは、その後のクラリネットの二重奏の部分があっさりカットされていた事でした!
あの部分は、曲の中でもかなり重要な部分なので、
出来れば演奏して欲しかったと思わずにはいられなかったです。

あのクラリネット二重奏部分が意味している事は、天照大御神が岩戸を閉め切って、この世から「太陽の光」を
遮断してしまって困っていた時に
「それじゃー、どんちゃん騒ぎをやらかして天照大御神様がなにやってんだ・・・うるさいな・・と思って
岩戸を開けた瞬間を逃さずに、天照大御神を引きずり出して再び太陽の光が地上に当るようにしよう!」という
神々の企みについつい乗っかってしまった天照大御神が岩戸を開けて、太陽の光が差し込む事を示唆しているものですから、
やはりあのクラリネット二重奏の部分はカットされると、なんか物語全体が台無しにもなりかねない危険も
ありましたので、やはり尼崎吹奏楽団のようにあの部分もノーカットで演奏して欲しかったと思いますが、
それが出来ないのも、吹奏楽コンクールの12分間という「時間制約」の問題が大きいと言えるのかもしれないですね。

それにしても東海大学第四高校のあのクラリネット奏者はべらぼうに上手かったと思います!

あんな長いソロをノーミスで雰囲気を壊さず「緊張感」を常にキープしてのあのソロは、
この年のこのチームの金賞に花を添えていたと思いますし、とにかくお見事な演奏だったと思います。

余談ですけど、東海大学第四高校の自由曲の選曲は指揮者の井田先生が決める事が多いとの事なのですが、
この年に関しては生徒自身が自ら井田先生に「今年は神話はどうですか・・?」と提案し、井田先生も
同意されたとの事です。
ではなんで生徒さん達が「神話」を選曲したのかというと、理由は単純明快で
(1989年当時は)「神話」を自由曲に選んだチームの全国大会金賞率が極めて高かったため・・というのも
いかにも吹奏楽コンクールらしい話でもありますね・・(笑)
先月の終わりでしたけど、当ブログの吹奏楽カテゴリにおいていつも大変貴重なコメントを頂いております
一秋田県民 様より
「1970年代~90年代において、秋田県立花輪高校吹奏楽部と秋田南高校吹奏楽部を指導され、
全国大会で数々の名演を残された小林久仁郎先生が急逝された」との大変貴重な情報を頂き、
このブログでもかなり執拗に花輪高校吹奏楽部の偉大なる軌跡を語らさせて頂いた私としては、
とにかくショックなお話であり、
正直・・3~4日程度は茫然自失としてしまい、
正直、いつもの感覚でブログ更新記事を書く気持ちにはとてもじゃないけど到底なれなうにもありませんでしたし、
小林先生には「感謝」の気持ちしかない私としては小林先生の訃報が信じられない気持ちで一杯だった事もあり、
結果的に5日程度でしたけど、当ブログの更新を一旦止めて
喪に服すという事で、小林久仁郎先生に対して哀悼の意を表させて頂きたいと思い、
先月下旬からブログ更新及び皆様のブログへの訪問等は自粛をさせて頂いておりました。

本日よりここに改めて当ブログを再開させて頂きたいと思いますので、どうか今後とも何卒宜しくお願いいたします。

当ブログの開設の目的の一つが、吹奏楽コンクールにおける過去の素晴らしい演奏を聴かせてくれ、
私に大きな感銘を与えてくれた花輪高校・秋田南高校・仁賀保高校・就実高校・屋代高校・市立川口高校などの演奏を
「私はこのように感じ、そうした素晴らしい演奏を聴かせてくれたチームの事をブログという構成に残る形で
何か記録として残しておきたい」と言うものでありましたけど
(現在においては、アミグリさんが描かれた東方イラスト等の作品を少しでも多くの人たちに見て欲しいという目的も
あったりします・・)

一秋田県民 様! そうした貴重なお話をいち早く教えて頂けた事を深く感謝いたします!
本当にありがとうございました!
それにしても小林先生のご逝去のお話は本当に心の底から残念に感じておりますし、
「まだお若いのに・・・これからもっともっと日本の吹奏楽界の発展にご尽力して欲しかったのに・・」という
大変哀しい気持ちでいっぱいですけど、
とにかく、小林久仁郎先生のご冥福を心よりお祈り申し上げたいと思います。
そして改めてですけど、当ブログで出来る事はほんのちっぽけで小さい事なのだとは思いますが、今後とも
花輪高校や小林先生の事は当ブログでも発信し続けさせて頂きたいと思いますし、
それが当ブログの一つの「使命」であるとも考えておりますし、
小林先生に対して私が出来るほんのささやかかな事ではありますが「供養」にもなるのだと考えております。

今更書くのもなんですけど、秋田県立花輪高校吹奏楽部は本当に偉大ですよね・・・!!
このブログでも既に何度も何度も何度も繰り返し書いているのですけど、
私が「クラシック音楽の深い森の中」に迷い込むきっかけを作ってくれたのが
1982年の全日本吹奏楽コンクール・東北大会の花輪高校のウォルトン/交響曲第1番第四楽章の
圧倒的名演に心の底から感銘を受けたという事実なのですけど、
ウォルトン以外でも例えば・・・
ハチャトゥーリアンの交響曲第2番・同/交響曲第3番「シンフォニーポエム」
プロコフィエフの交響曲第3番
ベルクの三つの管弦楽曲
シチェドリンの交響曲第2番
ブリス/バレエ音楽「チェックメイト」
ラフマニノフ/交響曲第1番などは、全て花輪高校の吹奏楽コンクールの演奏がきっかけとなって
「花輪の演奏素晴らしいな・・・ではその原曲はどういう感じなんだろう・・」と色々と興味を持っていったのが
まさに始まりでしたし、それを起点にして、
「それ以外にこの作曲家はどんな曲を残しているのかな・・」
「この時代、他にはどんな作曲家がいたのかな・・」と
クラシック音楽の入り込む「きっかけ」を私に作ってくれたのが、この花輪高校吹奏楽部なのだと今でも思っていますし、
それゆえ、私は永遠に永遠に
「花輪高校吹奏楽部よ、永遠なれ!!」とか「花輪高校を指揮・指導されていた小林先生こそ永遠なれ!」
といつでも・・・そして今でも・・・心より遠き埼玉の地よりエールを送り続けています!!
 
それにしても花輪高校の吹奏楽コンクールでの選曲は本当に素晴らしいものがありますよね!!

「え・・・その作曲家、誰・・・?? 聞いた事が無い・・」

「ガジペコフって誰・・?? シチェドリンって誰・・・? ハチャトゥーリアンの鐘って・・何それ・・・初めて聞いた・・・」

「ウィリアム=ウォルトンって何者・・・??」

「プロコフィエフの3番なんて・・・聴いた事すらない・・・」

みたいな反応は演奏当時もかなり多かったと思いますし、小林先生が花輪を指揮されていた頃と
私の現役奏者としての吹奏楽時代はほぼ丸ごと重なっていますのでリアルタイム当時から
「花輪ってあの選曲凄いよね・・」とか
「どっからあの選曲の情報を仕入れてくるのだろう・・」とか
「だけど・・・花輪って少しというか・・・・かなりヘンだよね・・・、ま・・個性が極端に強いというか・・・」
というような声は、小林先生の在籍時から、色々な所で耳にしていましたので、
改めて小林先生はすごい先生だったのだな・・とその「偉大さ」をつくづく感じてしまいます。
何よりもあの花輪高校特有の響きは大変洗練されデリケートに美しく響く幽玄なサウンドながら、
時に豪快に、時に荒っぽく、時に咆哮し激高する等、その自由自在な表現も大きな魅力だったと思います。

花輪高校吹奏楽部は1978年の小林先生赴任以前も既に吹奏楽の名門校という立ち位置ではありましたし、
佐藤修先生時代のあのとてつもなく地味な選曲&渋すぎる表現力も大変魅力的ではありましたけど、
花輪高校を更にさらに大きく飛躍させたのが小林先生の赴任なのだと思います。
小林先生は赴任一年目から、いきなり、ラフマニノフ/交響曲第1番第四楽章という
当時誰も目にも留めなかった曲でいきなり全国大会金賞を掴みとってしまいますが、
1979年の2年目のショスタコーヴイッチにしても、自由曲の定番中の定番の交響曲5番ではなくて、
交響曲第1番を選ぶあたり、小林先生の目の付け所の確かさを感じてしまいます。
1980年のハチャトゥーリアン/交響曲第2番「鐘」も81年のプロコフィエフ交響曲第3番も
どちらも第一楽章を選びながら、
ラストにおいては、第四楽章の終結部を巧みに結合させてしまう辺りに、その大胆さと音楽的センスを
感じてしまいます。
(そうそう、小林先生はクラシック作品を吹奏楽用にアレンジされる事にも大変素晴らしき才能を発揮された先生であり、
 事実、小林先生が編曲されたハチャトゥーリアンの交響曲第3番「シンフォニーポエム」はいまだに全国大会でも
演奏され続けられています!)

そして1982年に演奏された曲が、このブログでも腐るほど書いてきたあの伝説的名演のウォルトンの交響曲第1番
だったのです!!
そして1983年が、吹奏楽コンクールで初めてベルクという「無調音楽」に果敢に取り組まれ普門館の聴衆の度胆を抜き、
翌年の1984年には、花輪高校=小林先生のコンビが最高潮に高度に発揮され、
普門館における「後世の歴史に間違いなく残るハチャトゥーリアンの交響曲第3番」の歴史的名演だったのです!!
(1985年・1987年・1989年はコンクールの評価としては銅賞という結果になっているのですけど、
 この事は既に何度も記事にしてはいるのですけど、あの演奏・・特に1985年の銅賞というのは、絶対に信じられない
不当に低い評価であり、私はあの素晴らしいガジべコフの演奏が銅賞というのはいまだに納得がいっておりません!!)

いやいや・・・改めてですけど、小林先生=花輪高校は、とにかく「伝説」ですね!!
ブレーン社から出ている「レジェンダリーシリーズ」の花輪高校編を聴くと、とにかく花輪の偉大さが
ご理解して頂けると思います!!

私自身は、これまでの記事で散々書いてきたとおり、中学一年から吹奏楽部に所属し大学4年まで通算10年間
吹奏楽に関わっていましたけど
(厳密に言うと、小学校の管楽器クラブの打楽器奏者時代を含めると通算12年なのかな・・?)
中学校時代の顧問の先生の上から目線的な音楽の強制的押し付けや部員の大量退部事件等正直嫌な事ばかりの
連続で、中学を卒業する頃は、「大の音楽嫌い・大の吹奏楽嫌い」になっていて、
高校入学以降も惰性と言うのか腐れ縁みたいな感じで吹奏楽は続けていましたし、どちらかというと
中学も高校の頃も「吹奏楽部部長」という嫌な役割を押し付けられていたというせいもあったのですけど、
義理とか義務感みたいな感じで吹奏楽部員をマンネリ化みたいな形で続けていたという事なのかもしれません。
あの頃は、特段、音楽とかクラシック音楽等にも実はあんまり興味も関心もなかったのですけど、
それをほぼ完璧に一掃させてしまった出来事というのが、
1982年の全日本吹奏楽コンクール・東北大会における花輪高校吹奏楽部のウォルトン作曲/交響曲第1番第四楽章の
あまりにも圧倒的な名演、そしてあの「孤高の音楽」に感動してしまった事でして、それをきっかけにして
「この花輪高校が自由曲に選んでいたウォルトンの交響曲第1番って原曲はどんな感じの曲なのだろう」とか
「花輪が自由曲にしていた第四楽章以外の第一~第三楽章はどんな感じの音楽なのだろう・・」とか
「花輪高校はこの年以外には過去にどんな演奏をしていたのだろう」と
どんどん花輪高校吹奏楽部とかウォルトンとかウォルトンが生きていた20世紀周辺のクラシック音楽の概略等に
興味を持っていき、
結果的にあの演奏が私を「クラシック音楽の深い森の中」に迷わせてくれる最大のきっかけを作ってくれたのだと言っても
過言ではないと思います。

交響曲というと例えばベートーヴェンの交響曲第5番「運命」とかショスタコーヴィッチの交響曲第5番とか
ブラームスの交響曲第1番などのように、一般的には、苦悩から歓喜へ 暗から明へ 敗北から勝利へというのが
古今東西の交響曲の一つのパターンだと思うのですが、
このウォルトンの交響曲第1番の場合、確かにフィナーレの第四楽章は
ティンパニ奏者2名による連打・金管楽器の高らかな雄叫び・咆哮など歓喜みたいな要素も確かに少しはあるのですが、
全体的な印象としては、勝利・歓喜という感じはしませんし、
「よーーし、これを聴いてスッキリした!! 明日からも頑張るぞ!!」みたいな応援シンフォニーでは全くありません。
むしろ不安感・危機感は今後も継続されていくという「警告」みたいなメッセージを感じ取ってしまいます。
だけどこの交響曲の「緊迫感」は凄まじいものがあると思います。
作曲は第二次世界大戦の直前ですので、
当時のイギリスの状況、例えばヒットラーの台頭とかイギリスのチェンバレン首相の
対ドイツ融和政策によってチェコ分割を黙認したことでかえってヒットラーの台頭を
許してしまったとか、後任者チャーチルのドイツとの対決姿勢とか相当な危機感・緊張感はあったと思います。
それが何となく曲にも反映されていると思いますし、
戦争は終結しても人のココロの暗闇は永遠に続くみたいな思いはあったのかもしれません。

現代を生きている自分たち自身も、、
超高齢化社会・財政問題・外国の脅威・未来の日本の姿が明確に提示されないなど
「不安」は際限なくあると思いますし、そうした不安がなくなるという事は絶対にないと思います。
それではそうした「不安」にはどう対処すればよいのか・・
結局は「不安」には「日常的な危機意識」を持って備え、対処するしかない・・・
「不安」には「不安」を持って対処するしかない・・・みたいな事を伝えているようにも感じられます。
そういったことを何となく示唆しているようにも感じ取れます。

この交響曲の原曲全楽章の演奏を初めてレコードで聴いた時、
当初予想していた「第二次世界大戦前夜における全体主義国家対民主主義国家の対決・・・そして最終的には
民主主義国家が勝利を収める事への讃歌」みたいな「歓喜の曲」ではなくて
救いようも無い「孤独」みたいなものは既に感じ取っていました。
民主主義国家が全体主義国家に対して戦争で勝利を収めたと言っても、
結果として全世界の住民がハッピーな結末や人生を迎える事が出来たかと言うと、その質問は限りなく
「No!!」に近いと思いますし、
戦争の勝利が必ずしも国民全体の幸せに直結しないという皮肉は、連のショスタコーヴィッチなんかも
随分とそうしたメッセージを曲の中に盛り込んでいるようにも感じられます。
何だろう・・・
この交響曲が伝えたかった事って・・・
うーーん、その答えは・・この交響曲を聴く度に何か毎回違う答えが出て来ているような感じもありますし、
色々な「答え」がありそうな気がします。
戦争が終わったとしても次から次へと世界的に難題が降りかかり
結局は安息の場所はこの世にはないんだよという事をメッセージとして伝えたかったのかもしれません。 
音楽としても、現代人が抱える不安感には、音楽としてこれに対処するには、結局は・・・
「不安感」を感じさせる曲でもって対処するしかないというメッセージなのかもしれません。
そうした「不安感」を抱えながらも・・・結局は自分達は生きていく必要があるんじゃないの・・?みたいな事を
もしかしたらウォルトンは後世の私たちにメッセージとして伝えたかったのかもしれないですね。

バーンスタインにも戦後間もない頃の作品に、交響曲第2番「不安の時代」という作品が
ありますが、この曲のテキストに選ばれたのが、オーデンという詩人の「不安の時代」という詩でした。
この詩自体は、現代人の抱える不安を解決策を特に提示することなく綴っていき
ラストも「孤独」を抱えたまま、各自の生活に戻っていくという内容の物だったと思いますけど、
バーンスタイン自身は、その辺りをバーンスタインなりに拡大解釈したというのか、
この交響曲第2番「不安の時代」のラストは、原作では想定されていないハッピーエンド風に仕上げています。
この辺り、不安には不安を持って対処するしかないと解釈したウォルトンとえらい違いが
あるような気がしますし、お国柄の違いというのもありそうですね。

何となくですけど、日本人の感覚としては、バーンスタインよりはウォルトンの方が合っているような感じも
あります。

ウォルトンの交響曲第1番は、第一楽章の冒頭からとてつもない「焦燥感」を駆り立てられての展開です。
何か「目に見えない不安」に怯えているかのような感じが大変印象的です。
冒頭のオーボエの寂寥感が既にこの交響曲第1番の世界を象徴していると思いますし、
ティンパニーの打音やホルンの雄叫びも既にあの壮絶なフィナーレを先取りしているような雰囲気も
あったりします。
作曲者自身が「悪意を込めて」と名づけた第二楽章
ホルンの雄叫びと何となく「春の祭典」を想起させるメロディーが印象的です。
何て言うのかな・・・
「何かに取りつかれた様な」感覚というものが伝わってくる楽章ですね。
感覚としては、やはり「春の祭典」の「いけにえの乙女」の壮絶な絶叫みたいに・・
何か「逝っちゃっている・・」みたいな感覚が強い楽章ですね。
というか交響曲の楽章に「悪意を込めて」みたいなタイトルが付けられている事自体、この交響曲の特異性が光っていると
思います。
第三楽章はメランコラリックな音楽ですけど、やはりそこには「平穏」・「安住」が入り込む余地は全く無いと思います。
全体的にフルートソロが大変印象的です。
そして、第三楽章のメランコリーがあるから、やはりあの壮絶極まりない第四楽章が生きてくるのだと思います。
第四楽章が高らかに開始され、金管セクションのファンファーレみたいなコラールが始まると、
私はこの部分だけで既に瞳うるうる状態に陥ってしまいそうな感覚になったりもします。
この楽章からティンパニ奏者が2名となり、中間からラストにかけてのティンパニ奏者の活躍には目を見張るものがあります。
フィナーレの第四楽章は
ティンパニー奏者2名による打撃連打・金管楽器の高らかな叫びなど聴きどころも満載ですし、
とにかく迫力満点の楽章なのですけど
前述の通り、この高らかな叫びが全然「救い」や「爽快感」になっていないのはある意味凄い事だと感じます。
ティンバニ奏者2名による打音の連続とかドラの咆哮、金管セクションの高まりが「これでもか!!」とばかりに続き、
一旦オーボエソロによって静かに回想される場面があるのですけど
このオーボエの「魂の孤独」・「寂寥感」には、いつ聴いても何か胸にこみあげてくるものがあります。
そしてこのオーボエソロの前にもトランペットのやはり寂しげなソロがあるのですけど
この部分も「魂の孤独」みたいなものを感じずにはいられないです。

さてそうしたウォルトンの交響曲第1番第四楽章を自由曲に選んだ花輪高校の演奏は果たしてどんな感じだったのかと
いうと、とにかく「壮絶!!」の一言に尽きると思いますし、そこに当時の私が「何か」を感じたからこそ、
花輪高校=小林先生のサウンドに一気に引きずり込まれたのだと思います。

とにかくあの花輪高校の演奏は本当に素晴らしかったですし、あの演奏から既に35年の歳月が経過しているのですけど、
私は今でもあの時の花輪高校の演奏とか小林先生の指揮ぶりは
鮮明にはっきりと覚えています。
勿論細かいところまでは記憶には残っていないですし、この演奏、録音等は支部大会の実況録音という大変音響と録音が
芳しくないLPレコードしか存在していませんし、このレコード自体生産枚数が極めて少なく、
このレコードを所有されている方はほとんどいないんじゃないのかな・・?とも思われます。
ちなみにですけど、この花輪高校の演奏は、幸いなことに今現在は「You Tube」でUPされていて、
正直大変音質は悪くて音がモノラルみたいなこもりがとではあるのですけど、それでも大変貴重な記録を残してくれているのは
大変ありがたいものがあったりもします。

課題曲B/序奏とアレグロの厚い響きとアクの強い演奏も素晴らしかったですけど、やはり圧巻は何と言っても
自由曲のウォルトンの交響曲第1番でしたね!
前述の通り、この時点の私は、ウォルトンという作曲家もこの交響曲もこの曲が作られた背景も
全然何も知りませんでしたし、何よりも当時の私は特段音楽にも吹奏楽にも強い関心も興味もありませんでした。
だけどこの演奏は、そんな当時の「音楽について何にも知らなかった私」にとてつもない一撃を与えてくれたと
思いますし、そんな私に間違いなく「何か」を伝えた演奏であったのは間違いないのだと思います。
この年の花輪高校は、とにかく金管セクションが大変充実していて、大変分厚い響きを
聴かせてくれたのですが、この分厚い響きが実にこのウォルトンの不安感・焦燥感・
「不安には不安を持って臨むしかない」という危機感という曲想に実にマッチしていて
重厚長大でスケールの大きな演奏を聴かせてくれました。
後半のティンパニ奏者2人による叩き付けも打点が見事に決まっているので、実に効果的でしたし、
後で振り返ってみると、ニールセンの交響曲第4番「不滅」のティンパニー奏者2人による轟音に非常に
近いものがあったようにも思えます。

学ランを着たトランペット奏者の凄まじい咆哮もよーく覚えています。
吹奏楽コンクールの打楽器の位置って比較的ステージの左側に配置される事が多い中、
花輪高校は打楽器セクションを舞台の一番奥の正面に配置させ、確かティンパニは
左側に位置していたと記憶していますけど、あの二人の奏者の神がかった叩き振りは本当に素晴らしかったと思いますし、
(ティンパニ奏者2名は私の記憶では男女のペアだったような記憶があります・・)
小林久仁郎先生の独特なアプローチもありましたけど、
あそこまでウォルトンの「孤高な世界」・「不安感には不安をもって対処する」みたいな
厳しい世界観を表現できたのは凄い事だと思います。
ウォルトンの交響曲第一番は、私も原曲をプロの管弦楽団で何度か聴いたことがありますけど、
大友直人指揮/東京交響楽団の演奏は、まさにそうしたウォルトンの世界をほぼ完璧に
表現されていて大変感銘を受けましたが、
アマチュアの高校生チームが「吹奏楽」というアレンジ演奏でも、あそこまでウォルトンの世界を表現していたのは、
あまりに凄すぎると思いますし、そうした県立高校の普通の高校生を指導されここまで高度に音楽的に仕上げられた
小林先生のご苦労には心から頭が下がる思いで一杯です。
よくここまで普通の高校生が、プロの管弦楽団でも聴衆に何かを伝える事は難しいあの交響曲をここまで
音楽的に仕上げる事が出来た事はまさに「奇跡」なのだと私は思いますし、
そうした奇跡のような演奏に出会えたあの「ご縁」に私は今でも感謝という言葉しか出てこないです。

花輪高校のあの演奏を聴いて、熱いものは感じたし、同時に不安感も感じました。
やるせないものも感じました。
だけどそれは当たり前なのですよね、そういう不安と危機感と不安に対する挑戦みたいなものが
この曲の背景にあるのですから・・・

とにかく演奏終了後は、心の底から「感動した!!」という思いで一杯でした。
事実、この年の東北大会の審査員の一人でもあり、プロの管弦楽団でもこきおろしちゃう激辛口評論でお馴染みの
あの上野晃先生をもって「この日の演奏の白眉」と最大限高い評価をされているのも
全く頷けるものがあると思います。

だけど、残念ながらこの素晴らしい演奏は、まさかのダメ金で終わり、全国大会に駒を進めることは出来ませんでした・・・
審査結果を聞いて大変ショックでしたし、
同時に、「自分が感じた結果が世間の評価と必ずしも一致する訳ではない」と悟った瞬間でも
ありました・・・
この年の東北大会の高校の部の全国大会代表は、私の審査の中では、花輪・仙台第一・仁賀保というものでしたけど、
実際の代表は、仙台第一・仁賀保・秋田南でした・・・
(仙台第一は東北大会ではあんなにも素晴らしい演奏をしていたのに、全国大会ではとてつもない凡演で終わってしまい、
花輪を東北大会で抑えて全国代表になったのにこの体たらくかよ・・と当時ガッカリしたものでした・・)

それにしても花輪高校のウォルトンの一番を是非全国大会の普門館で聴いてみたかったです!!
と今でも時折心をかすめる瞬間はありますね・・・
あの花輪高校の感動的な演奏は是非是非普門館の皆様にも聴いて欲しかったです!!

1982年の東北大会のレベルは恐ろしいほど高かったと思います。
もっとも当時の私は、前述の通り吹奏楽というか音楽全般の知識とか経験とか全然無かったものですから、
恐らく当時はどんな演奏を聴いても
「へえー、すごーい!!」と感心していたようなものでしたから、
現在の肥えた(?)耳から聴いてしまうと
「大したことない・・」という印象になるのかもしれませんけど、
耳がまだ肥えていない時期に聴いたレベルの高い演奏だからこそ、
後に及ぼした影響と言うのか、インパクト・感銘度は今とは全然違う感じなのかもしれませんよね。
いずれにしてもこの日聴いた素晴らしい演奏の数々ほど後の私自身に多大な影響を及ぼしたものは無いと思います。

自分が大好きな交響曲を三つあげなさいと言われれば

〇プロコフィエフ/交響曲第5番

〇矢代秋雄/交響曲

〇ウォルトン/交響曲第1番

と迷わずにあげてしまうのですけど
実はこの三曲とも、この1982年の東北大会で演奏されたものなのです。
吹奏楽編曲版という変化球なのですけど、
それを聴く事によって、その曲に興味を持ち
「それでは原曲はどんな感じの曲なのだろう・・・」
「他にどんな作品を残しているのだろう」
「同時代にどんな作曲家がいたのたろう・・・」
「この曲に影響を与えた人の作品にどんなものがあるのか・・」など
自分がクラシック音楽の深い森に迷い込むきっかけを作ってくれたのがこの東北大会と言っても
全然過言ではありません。

東北大会の高校の部は、長い人生の中では「たった一日」なんでしょうけど
後世への影響度という意味では、この東北大会を聴けた意義は自分の中では相当大きいと
今でも思っています。この日の東北大会の演奏によって自分の中の何かが変わったという事は
間違いなくあると思います。

余談ですが、
この日の東北大会を聴きに行った私自身は、何かある意味ハイな状態でした・・・
東北大会・高校の部は10/2だったのですけど、
その前月は私自身が吹奏楽コンクール県大会に臨み、それが終わるとすぐに文化祭のステージ、
そしてそれが終わるとすぐに学校の中間試験、
そして試験の翌日から5泊6日の北海道への修学旅行・・・
何か色々と行事が立て込んでいました。
そして修学旅行も、9/30の夕方に苫小牧でフェリーに乗り込み
翌日の10/1の昼過ぎに仙台港に到着したのですが、
あいにく海の天候が芳しくなく、船の上では終始ユラユラしていました。
その関係で半分以上の生徒は船酔いでゲロゲロ状態・・・
私は船酔いは全然平気でしたけど、寝る場所も大部屋の雑魚寝状態でしたので、ほとんど眠れないまま朝を迎え
生まれて初めて海上から昇る太陽を拝めることが出来ました。
フェリーから降りても、三半規管が完全に麻痺状態となっていて、
目をつぶってじっとしても何か体が上下に揺れる感覚が残っていて
何かすごーくヘンな感覚でした。
そうした状態は翌日の東北大会の際も続いていて、
感覚としては、「体はものすごーく疲れているのに頭というか感覚だけは妙に敏感」という感じで
妙に神経だけ鋭角という状態でした・・・

ま、この辺りも多少色々と影響はあったのかもしれませよね・・・
演奏を聴いていても、やはり微妙に体が上下に揺れるという感覚も残っていましたしね・・・

更に余談なのですが、
東北大会から家に戻ってみると
母親が「自宅の電話が先ほどから鳴りっぱなし・・・」との事
(当時は携帯電話も何もない時代で連絡方法は固定電話だけでしたね・・・)
聞いてみると電話の相手は、吹奏楽部関係者、顧問の先生、応援団という事で
「まさか・・・」と思っていたら
何と野球部が、宮城県の秋季大会でまさかまさかの準決勝勝利で
翌日の10/3に東北高校との宮城県大会の決勝戦があるとの事で、吹奏楽部も応援演奏に来てほしいとの事でした・・
そして、翌日決勝戦の応援に行ったのですが、
(東北高校は野球部の名門で、ダルビッシュもかつて所属した強豪校です・・・)
一回の表にうちの高校が1アウト三塁から犠牲フライで入れた一点を何と守り抜き
まさかまさかの優勝をしてしまったのです・・・
確か、うちの高校のヒット数は1~2本程度、東北高校は10本以上打っていて、毎回毎回ピンチの
連続だったのですけど、
犠牲フライのタッチアップのタイミングを間違えて走者がアウトになったり
走者がアウトカウントを間違え、ベンチに戻ろうとしてアウトを宣告されたりなど
信じられない幸運もありましたけどね・・・

何か色々な意味で「青春していたなー」という感じの思い出ですね・・・(笑)

余談ですが、春の選抜甲子園の代表校を決める東北ブロックの秋季大会では
見事に一回戦で大惨敗を喫してしまい、
あこがれの甲子園出場は「夢」と終わってしまいました・・・
やはり宮城大会の東北高校との決勝戦は出来過ぎでしたね・・・(笑)

なんか話がそれまくりになってしまいましたけど、まとめると、1982年の東北大会までは
音楽に何の興味・関心も無かった私が、クラシック音楽という深い森の中に迷い込むきっかけを作ってくれたのが
小林先生が指揮指導されたウォルトンの交響曲第1番の演奏を聴いた事なのです。

歴史に「もしも・・」という仮定はNGだというのはよく分かってはいるのですけど、
もしも私があの年の小林先生が指揮されたあの演奏を聴かなかったとしたら、私はもしかして今でも
吹奏楽とかクラシック音楽の事なんか「別に・・確かに昔ちょこっとやっていたけどただそれだけ・・特段興味もない」という
認識で終わっていたのかもしれないだけに
やはり小林先生が私に与えた影響はとてつもなく大きいと言えるのだと思いますし、
そうした私の音楽上の大恩人ともいえる小林先生のご逝去はとてつもなくショックなお話ではあるのですけど、
とにかく先生のご冥福を心よりお祈り申し上げたいと思いますし、
私はこれからも花輪高校と秋田南高校を指導指揮されていた小林先生の存在は、私自身が彼岸の彼方に
旅立つ瞬間まで忘れる事は無いと思います。

世間では既にく「ゴールデンウィーク」突入ですし、季節はいよいよ初夏に向かいつつあるような感じも
あるのかな・・?と思います。
つい最近までは、「寒い、寒い・・」とばかり言っていたのですけど、
いつの間にか季節も5月に入ってしまいました!
あ・・ちなみに私はこの大型連休中は出勤ですので、皆様のGWが終わった頃に、私はのんびりと連休を
取らさせて頂きたいと思います・・(笑)

季節はまさに「春本番!」という感じですね!

こうして季節が春になってくると自然と脳裏をかすめる曲が幾つかありますけど、
その一つがマーチ・エイプリル・メイだと思います。
この楽しい行進曲は、1993年度全日本吹奏楽コンクールの課題曲Ⅳでした。
最初は全然気が付かなかったのですけど(汗・・!)この曲のタイトルは、「行進曲」としてのマーチと
「3月」としてのマーチの二つを掛けているというか、何か洒落っ気のあるネーミングだったのですね・・(笑)
タイトル通り、3月~5月の何か春らしいウキウキした感じがよく出ていて、
3分半程度の曲なのですけど、
非常に洗練されていて、楽しく明るく、生き生きとして躍動感がある行進曲なので大好きなコンクール課題曲の一つです。
この課題曲が吹奏楽コンクールとして演奏されてた時は、既に現役奏者を引退済ではありましたけど、
こんな楽しい課題曲は是非演奏してみたかったですね!
(こうした「素敵な春」をイメージさせる吹奏楽コンクール課題曲は他には、1995年の「スプリングマーチ」と
1997年の「五月の風」が大変印象的です!)

1992年度までの課題曲はパターンとしては、書下ろしの作品が2曲にマーチが2曲という感じだったのですけど、
1993年以降、全日本吹奏楽連盟は、課題曲に関してはかなり大胆な改革を行い、
西暦の偶数年は、マーチ以外の書下ろしの曲、西暦の奇数年は全てマーチという事に改められました。
1993年は、この改革がスタートした最初の年で課題曲は全て行進曲でした。
やはりマーチは聴きやすいから、聴衆としては奇数年の方がありがたいですね。
個人的には、行進曲だけの年とかマーチ以外の年というように一つの方向性だけを押し付けるのではなくて、
92年以前のように行進曲・難解な曲・日本的情緒の曲・ポップス系など色々なタイプの曲をミックスしたほうが
バラエティーに富んでいて面白いと思いますし、
課題曲として何を選択するかという事でそのチームの個性も見えてくるようにも感じられます。
ちなみにですけど今現在の吹奏楽コンクール課題曲は、こうしたマーチだけとか書下ろし作品だけというのは廃止になり、
以前のようなミックス型に戻ったのはむしろ大正解のような気もします。

1993年の吹奏楽コンクール全国大会・高校の部は、ⅡとⅣに課題曲の人気が集中し、
ⅠとⅢを演奏するチームは極めて少なかったですね。
確かⅠは基町のみ、Ⅲは埼玉栄と東海大学第四のみでしたね。
Ⅰが人気薄と言うのは何となくわかるのですけど 、Ⅲ/潮煙が意外と人気が無かったのは少し意外な感じもしたものでした。

この年の課題曲Ⅳ/マーチ「エイプリル・メイ」が実に楽しい曲で 、技術的に平易ながらも演奏効果が非常に高いという
コンクール課題曲としては大変お手頃な曲でしたし、
課題曲Ⅱ/スターパズルマーチも、「きらきら星」という誰もが知っている曲を引用していますので
ⅡとⅣの人気が高いのは「全く同感」という感じでしたね。

課題曲Ⅲ/潮煙は、技術的には相当難易度が高く、 トランペット(コルネット)のソロがかなり難しいという感じもありましたし、
粋な感じと楽しさを「楽に聴かせる」というのが意外と難しく あたりが高校の部で少し敬遠された理由なのかな・・・??
確かに職場の部のNTT中国も中学の部の袋原中はも
この課題曲Ⅲを選び、トランペットが外しまくって、両チームとも銅賞に留まっていました。

そうそう・・この年、1993年から課題曲の表記方法が従来のA~Eではなくて
Ⅰ~Ⅴという呼び方にさり気なく変更されていますけど、なんか唐突にそうなったような印象があります。
A~Eの呼び方に慣れていた私は、コンクールのアナウンスで、「課題曲Ⅲに続きまして自由曲は・・・」と言われても
何か妙に違和感はありました。
この辺り、県大会ではその辺りの周知徹底が統一されていない事もあったのか、
山梨県大会では、課題曲の表記はこれまで通り、A~Eという表記でプログラムに書かれていて
アナウンスも従来の表記で放送されていました。

マーチ・エイプリル・メイは全国大会でも多くのチームが取り上げ、素晴らしい演奏を聴かせてくれていましたけど、
野庭・習志野・札幌白石の演奏が、その中でも特に素晴らしかったと思います。
特に習志野の木管の高音の透き通った響き、
強奏でも決して音が割れないし荒れない金管セクションの安定感は群を抜いていたと思いますし、
聴いていて、大変「すっきり感」の強い感じでした。
中間部の木管セクションの透明感・清涼感は、本当に素敵なものがありましたね。
札幌白石高校の「溌剌さ」も素晴らしいものがあったと思います!

やはり、この課題曲を改めて聴くと
「あー、春到来!!」という感覚になってしまいますね!!

23.高岡商業高校


A/交響詩「ローマの祭り」~Ⅰ.チルチェンセス Ⅳ.主顕祭(O.レスピーギ)


高岡商業高校には全然関係がない話ではあるのですけど、先日、かつて花輪高校と秋田南高校での
あの伝説の数々の名演を指揮・指導されていた小林久仁郎先生がご逝去されました。
ここに哀悼の意を表させて頂き、
先生のご冥福を心よりお祈り申し上げたいと思います。



「ローマの祭り」は、吹奏楽コンクールでは既にお馴染みの曲で、実は、全国大会においては、この曲は
既に100回以上も自由曲として選ばれているのですよね。
これは本当に凄い事だと思いますし、まさに吹奏楽コンクールの不動の人気自由曲の座は定着していると
思います。
実はなのですけど、この「ローマの祭り」の全国大会初演は駒澤大学なのかな・・?と思っていたのですけど、
違いましたね・・・
実は、金・銀・銅のグループ表彰以前にまで遡り、1969年の電電中国(現・NTT西日本)が全国大会初演でした!
電電中国の当時の指揮者は佐藤正二郎氏ですので、果たしてどんな個性的な演奏をしてくれたのか興味津々なのですけど、
実は全く音源が残されていないため、この演奏は残念ながら一度も聴いたことがないです・・
「ローマの祭り」は、1970年代に駒澤大学や東海大学が演奏していますけど、
意外にもこの今では大人気自由曲もこの当時はあんまり注目は集まりませんでした・・・
この曲がブレイクするきっかけを作ったのは、そう! あの今や「伝説」と化している吉永陽一先生率いる兵庫高校が
1980年の全国大会でのあの名演だったと思いますし、
この曲を更に馴染みやすい曲として私たちに認知させた演奏が、1982年の弘前第三中学校のあの素晴らしい名演だと
思いますし、
そしてそして・・・この「ローマの祭り」を不動の人気自由曲として完全に定着化させた演奏こそが、
1983年の高岡商業だと思います。
そして今回取り上げる1989年の高岡商業の演奏は、83年の演奏を素敵に再現したものと言えるのかも
しれないですね。
確かに「ローマの祭り」と言うと最近でも本当に素晴らしい演奏が続出していますし、東海大学第四とか精華女子など
素晴らしき名演は山のようにあるのですけど、
そうですね・・・これはあくまで私の個人的感想ですけど、いまだにあの1983年の高岡商業のインパクトを超える演奏は
出現していないんじゃないのかな・・?と今でも思ったりもします。

1983年の高岡商業以外では、1996年の愛工大名電のあの「一歩間違えれば破綻寸前の実に危険水準スレスレの演奏」も
大変忘れがたいものがありました!
1987年の柏のような「爽やかさ」とか「全く力みがないナチュラルな演奏」という訳では無いのですけど、
その代わりに、まさに「ドッカーーン」という大爆発の爆発的重厚感の漂う迫力満点の「爆演」が
83年と1989年の高岡商業には漲っていると思いますし、
とにかく聴いていても「気分爽快」の演奏だったと思いますし、あそこまで気持ちよくミスなく鳴らされると
多少の音量過剰も「ま・・・仕方ないよね・・」と笑って看過できるレヴェルなのだと思います。
1989年の高岡商業の金管セクション、というかトランペットは実に優秀な奏者が揃っていたと思います。
あんなに豪快に鳴らし、あんなとてつもない高音域もピッチがぶら下がる事もなく気持ちよいほど響かせてくれて、
とにかく「美しく、かつたくましく鳴っていたトランペット」だったと思います。
あんな優秀なトランペットセクションがいたら、指揮者はやり易かったと思います。
すさまじいほどよく鳴っているのですけど、聴いていて、「うるさい」とか「やかましい」という感じはあまりなくて、
よく鳴っているけど心地良いという感覚でした!!

1983年の演奏は煩い事を言うと、後半部分にトランペットにかなり大きなミスと言うのか音の外しがあり
「勿体無いよな・・」とか「あそこまで完璧に仕上がっていると、こうした小さいミスでも気になってしまう」みたいな
感想も無くは無かったのですけど、
1989年の演奏は、その点に関しては完璧にクリアし、ほぼノーミスというのは凄い!としか言いようがないですし、
翌年の「ペトルーシュカ」と言い、翌々年の(なぜか評価は銀賞ですけど)「シンフォニエッタ」も含めて
1989年~91年の高岡商業は、まさに「神がかっている!」としか言いようがない奇跡のような演奏を
私達に残してくれたと思います。

ただ一つ難点をあげると1989年の「ローマの祭り」は、
さすがに「鳴り過ぎ・・・」とか「幾らなんでも少しやり過ぎ・・」みたいな印象も感じたものでしたし、
1983年の圧倒的歴史的名演の「ローマの祭り」の素晴らしき再現と言えるのですけど、
強いて言うと、83年の演奏のコピーではなくて、
それを超えるような何か相違点と言うか、変化も欲しかったような気もしますけど、
それを高校生に求めること自体、やはり無理があると言えるのかもしれないですね。

全体的にはパーフェクトに近い堂々たる金賞受賞だと思います!
22.習志野高校


A/交響三章~第三楽章(三善晃)


素晴らしい演奏だったと思います!

この年は淀川工業(現・淀川工科)と習志野が「5年連続金賞→翌年の特別演奏」という栄誉に王手をかけていて
この年に金賞を受賞すればそうした栄誉を受けられることが出来るというある意味重圧がかかった年でも
あったのですが、淀川工業は「うちらアホやねん・・そんな重圧考えたってしゃーないやおまへんか・・?」みたいなノリで
勢いよくこの栄誉をもぎ取り、
習志野は「私たちは普段通りの練習を普門館の場で発揮するだけです・・」みたいなまるで優等生みたいな雰囲気が
やはりこの栄誉を掴みとり、
結果的に両校とも無事に5年連続金賞を達成できてよかったと思います。
それだけに前年の4年連続金賞で5年目はプレッシャーのためなのか演奏が崩壊していた愛工大名電とは
随分と違いがあったようにも感じられたものでした。

振り返ってみると、1980年にやはり秋田南高校が5年連続金賞に王手を掛けていたのですけど、その5年目の自由曲が
習志野と全く同じ自由曲の三善晃の交響三章というのも偶然とはいえ、
なにか興味深いものがあると当時感じていたものでした。

淀川工業の演奏は大変素晴らしいものがあったのですけど、課題曲は確かに「楽しさ」は十分に伝わってきていたものの
どことなく「硬さ」は客席にもピリピリ伝わっていたようにも感じたものでした。
私の記憶ですけど、丸谷先生は課題曲が終わったと同時に一旦指揮台から降りて奏者に対して
「肩の力を抜くように・・」みたいなジェスチャーをされていたような気もします。
習志野高校の演奏は、その点が実に自然体だったと思います。
普段の練習の雰囲気をそのまんま普門館のステージでも自然に発揮していたようにも感じられ、
その「さりげなさ」は普門館の客席で聴いていても「さすがだよなぁ・・・」と感心させられるものがありました。
しかもその自由曲が三善晃の「交響三章」という大変張りつめた緊張感と内面的宇宙を奏者と指揮者に求められる
大変奥の深い内面的思考に溢れた作品でもあるのですけど、
そうした聴いているだけで気持ちがピリピリしてくる緊張感に溢れた曲をこの5年連続金賞という重圧がかかる年の
本番のステージに、ヘンに固くなる事もなく、
むしろ自然にいつも通りに演奏して、「涼しい顔して5年連続金賞を達成」という偉業をさりげなく実現させてしまった
習志野高校の新妻先生と当時の奏者に心の底から敬意を表させて頂きたいと思います。

前にも書いた事がありますが、私個人としては、課題曲A/風と炎の踊りは実はあんまり好きな曲では
ありません。むしろ嫌いな部類の課題曲に入るのかもしれないです。
だけど、この習志野高校の課題曲Aを聴くと、そうした印象はかなり変化するようにも感じられます。
音色を最優先に考え、美しいサウンドを日常的に作ろうとしているチームは、
音楽自体もある程度の説得力を持つ事のお手本となるような素晴らしい課題曲の演奏だったと思います。
あの冒頭のひそやかな感じを適切に表現出来た演奏は、意外と少なかったような気もしたものでしたけど、
習志野の課題曲Aの冒頭のあのひそやかさ・洗練された響きを超える演奏はこの年の全国大会を聴いた限りでは
他にはそれほど無かったようにすら感じるほどでした。
(習志野に追従できたあの課題曲Aは埼玉栄ぐらいだけだったのかな・・?)
習志野高校の課題曲の演奏ですけど、この風と炎との踊りもそうですし、1987年の課題曲B/渚スコープもそうでしたし、
92年の課題曲A/ネレイデスもそうでしたし、98年の課題曲Ⅰ/童夢もそうでしたし、
1985年の課題曲B/波の見える風景もそうなのですけど、
冒頭の静かにもやーーっと開始される静粛さとかひそやかな雰囲気を演奏させたら多分右に出るチームは無い!みたいな
印象も感じさせるほど、「冒頭の静粛さには安心感をもって聴く事が出来る」数少ないチームのような
気もしたものでした。
とにかく課題曲Aの冒頭の「ひそやかさ」はこのチームならではの気品さに満ち溢れ、
出だしを聴いただけでゾクゾクッとしたものです。
ffになっても全然音が割れず、美しい響きが継続されているのは驚異の一言です。

自由曲の「交響三章」第三楽章も圧倒的歴史的名演だと思います。
このとてつもない邦人作品の難曲は、私にとっての過去演奏における圧倒的NO.1の名演は、
1980年の秋田南高校以外ありえないという感じでもあるのですけど、
(神奈川大学・都立片倉高校・常総学院などの演奏もそれぞれ素晴らしいと思います)
この年の習志野も勝るとも劣らない素晴らしい演奏を聴かせてくれています。
秋田南との相違点として、前半のチューバのリズムの低音の充実感、後半のアレグロの
トムトムの甲高いややヒステリックな響きなどが挙げられると思います。
秋田南は、これは一つの「宇宙」という感じもするくらい鬼気迫る内省的に充実した演奏なのですけど、
習志野は、幾分感情をセーブした知的な演奏と言う雰囲気のようにも感じられます。
秋田南は、表現の充実とか劇的緊張感は目を見張るものはあるものの、いかにも秋田南らしい
トランペットセクションの音の固さとかクライマックス付近でのトランペットの高音のとてつもない音外しも散見されるのは
勿体ない感じではあるのですけど
(だけどそうしたミスを完全に帳消しにさせてしまう緊張感の表現は素晴らしいものがあると思います!)
習志野の演奏は、課題曲も自由曲もほぼノーミスというのは、まさに高校生離れした演奏だとも思えます。

前半と後半の対比とか、サウンドの透明感と美しさ、とにかく素晴らしい演奏を聴かせてくれ、
ラストのフルートソロの静粛さも大変申し分なく、
無事に淀川工業と並んで5年連続金賞の偉業を成し遂げてくれました。

習志野高校は、現在の指導者=指揮者は、新妻先生の勇退後にその後を引き継いだ石津谷先生なのですけど、
石津谷先生の習志野高校の演奏も素晴らしいものがあると思いますし、
新妻先生の頃以上の「個性」とか「チームとして聴衆に伝えたい事」がはっきりと客席に伝わってくる演奏を毎年されていて、
こうした公立校にありがちな指導者の異動後の没落というのも無く、それ以上に前任者の個性を上回る演奏を
毎年聴かせてくれているその「伝統の後継」には本当に頭が下がる思いがありますし、
是非それは今後も受け継がれていって欲しいと思います。
20.丸亀高校


A/管弦楽のための三つの交響的素描「海」~Ⅲ.風と海との対話 (C.ドビュッシー)


丸亀高校はこの年が全国大会初出場なのですけど、実際に普門館の生演奏を聴いた限りの印象では、
1989年と90年の演奏の傾向と目指していた方向性は大変よく似ていたという感じがいたします。
一言で表現するともの「泥臭いサウンド」なのだと思います。
換言すると「懐かしい香りがする吹奏楽」とも言えると思います。

1990年代のコンクールに入ると、編成の中にハープ・チェレスタが入るのは珍しくもなんともない光景になっていて
常連校ですと、コントラファゴット・コントラバスクラ・コールアングレ等の木管低音楽器が、楽器の持ち替え無しに
最初からパート内に加わっているというのが当たり前の編成になっていて、
1970年代後半に初めて吹奏楽コンクールに出場した当時の私の感覚ですと
「ファゴット・オーボエが楽器編成に加わっているなんてなんと充実した編成!」とか
「あの学校の打楽器セクションは、4台ともティンパニが手締め式ではなくてペダル式になっているなんてすごすぎる!」みたいに
感じていたものですけど、
平成の時代に入ると、そうした私の感覚自体が既に時代遅れになっていたと思います・・(汗・・!)
1989年=平成元年というと、常総学院が全国大会に初出場し、あのとてつもなく洗練された響きをお披露目して以降は、
「洗練された吹奏楽の響き」がスタンダートな傾向になっていく中で、
こういう言葉は大変悪くて失礼かもしれませんけど、こうした丸亀高校みたいな「泥臭いサウンド」が登場すると
何となく「ホッ・・」とするのも事実でしたね。

聴いていて、正直「洗練さ」とは程遠い演奏だったと思います。
課題曲Aの冒頭は、音楽としては大変優しく響いてくるのですけど、やはり「洗練さ・ひさやかさ」は今一つでした。
自由曲の「海」も全体的にサウンドが濁り気味で、ソロも今一つアピール度が足りないという印象を受けたものです。
そうそう、この年の丸亀高校の「海」のアレンジャーは藤田玄播でしたが、
実は村山先生は観音寺第一高校時代の1983年にもやはり「海」で全国大会に出場されていて
この際のアレンジャーは出雲第二中学校の渡部修明先生でしたけど、
83年のアレンジは正直「今一つ・・」とも感じる内容だっただけに、単純に比較しても藤田玄播のアレンジの方が
吹奏楽に合っているようにも感じたものでした。
(ドビュッシーの海に、小太鼓のロールを入れてしまう出雲第一中の錦織先生のセンスの無いアレンジよりは
まだマシなのかな・・?という感じもあります)

だけど聴いていてどこか「懐かしい香り」が漂っていたのは逆にこのチームのアピールポイントだったと思います。
都会的洗練さはあまり感じさせない代わりに「大地にしっかりと根をおろした」とか「温かみが感じられる演奏」とか
「おおらかな演奏」というのか
どこか「懐かしい香り」を感じさせる少しレトロな感覚の演奏だったと思います。
時代は既に平成に入っていたのですけど、演奏自体の雰囲気が1970年代の演奏みたいというのか、
「古き良き時代の昭和」を感じさせるようなどこか温かみが感じられる演奏だったと思います。

だけど、丸亀高校の指揮者の村山先生は、ある意味すごいなとも思いますね。

村山先生は、1988年まで観音寺第一高校を指導され、1988年も全国大会に出場されていたのに、
翌年の89年にそれまで全国大会に一度も出場した事も無い丸亀高校に異動をされ、一年目からいきなり
全国大会に出場されていたのは大変立派な事だと思います。

余談なのですけど、1988年の村山先生指揮での観音寺第一高校の「ダフニスとクロエ」第二組曲の演奏は、
もしかしたら村山先生としても感慨深いものがおありだったのかもしれないです。
1981年の四国大会で観音寺第一高校が、渡部修明先生のアレンジ版を使用してダフニスとクロエを自由曲として
選び、無事に全国大会代表・金賞を勝ち取りながらも後日吹奏楽連盟から
「渡部アレンジ版は未承認曲だから演奏不可」と指摘を受け、泣く泣く全国大会への出場を辞退したという経緯が
あったとの事です。
そ観音寺第一高校は、1988年にこの「ダフニスとクロエ」第二組曲をブートゥリー版として自由曲に演奏し
無事に全国大会への出場を果たし、全国でも銀賞を受賞されていましたけど、
1981年の雪辱を果たされて感慨深かったと思います。

過去の村山先生指揮で大変印象的な演奏というと、観音寺第一高校時代のものですけど、
メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」序曲とワーグナーの歌劇「リエンチ」序曲でした。

メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」という古典的名曲を吹奏楽にアレンジして
演奏すること自体大変勇気がいりますし、
そういう古典的名曲を無謀にも演奏し玉砕した事例は数多く知っていますけど、
そうした難点を特に違和感なく現代風にしっとりと聴かせてくれたのは大変ポイントが高いと思います。
原曲は、金管にトロンボーン、そして当然ながらユーフォニウムも入らないのですけど、
この両楽器とかサックスセクションを加算しても、決して「厚化粧」みたいな響きにならずに
古典的な「控えめでかれんな演奏」をしっとりと聴かせることが出来たのは大変素晴らしい事だと
思います。
原曲は打楽器はティンパニーのみにのですけど、これに小太鼓・大太鼓・シンバルも加わっていましたが、
原曲を損なうような響きにはなっておらず、さほど違和感は感じさせず、
むしろ原曲に元々そうした打楽器が入っているかのような雰囲気さえ感じさせてくれました。

これはどこが成功要因なのかな・・・・

村山先生のキャラでもあるような「控えめな感じ」がプラスに出たとも思えますし、
指揮者のバランス感覚の良さも大きいと思いました。

とにかく吹奏楽で、こうした古典的名曲を表現出来る事は
吹奏楽の「無限の可能性」みたいなものも感じさせてくれましたね。
特に木管、特に特にクラリネットセクションの「ひそやかさ」は素晴らしい響きでしたし、
ラスト近くのクラリネットだけのうねりみたいな部分も特に際立っていたと思います。

1986年のワーグナーの歌劇「リエンチ」序曲も素晴らしかったと思います。

スケールはとてつもなく大きいのに、音楽がとても「優しく甘美」な事は本当に見事でした!
ワーグナーの「巨大さ」の中に秘められた「優しさ・スイートさ」を本当にたっぷりと歌い上げてくれたような
気もします。
マーラーやワーグナーの音楽は、
「優しさも甘さも厳しさも基本は音色から生まれる」ような気もするのですけど
村山先生の方向性はそうしたものであったようにも思えてなりませんね。

フィンガルの洞窟もリエンチも評価としては銅賞なのですけど、私はこの二つの演奏からは、
間違いなく「何か」は伝わっていたと思います!!
19.福岡工大付属高校


A/バレエ音楽「シバの女王ベルキス」~Ⅱ.戦いの踊り Ⅲ.暁のベルキスの踊り Ⅳ.狂宴の踊り (O.レスピーギ)


1987年の福岡工大付属高校(現.福岡工大付属城東高校)の「カウボーイ」は銀賞ながらも
まさに「伝説」に相応しい演奏だったと思います。
あの年のホルン・ユーフォニアム・トランペットなどの金管セクションの優秀さは、吹奏楽コンクール史の中でも
群を抜いている素晴らしさがあったと思います。
反面、木管セクション・・特にクラリネットのリードミスの頻発は大変残念なものがありました・・・
そうした「金管セクションの素晴らしき優秀さ」の流れと勢いに乗る形で、1988年のコンクールは、
金管セクション殺しとあまりにも名高い不滅の難曲&名曲のクロード・スミスの「ダンス・フォラトゥーラ」で臨みましたが、
結果はまさかの九州大会ダメ金で全国大会出場ならず・・・
(ブレーン社の「レジェンダリー」に収録されている演奏は定期演奏会が音源ですけど、あの演奏は、素晴らしい熱い演奏
だと思います! 一つ勿体無いのは、中間部のトランペットソロを完璧に外し、瞬間的に演奏が止まりそうな錯覚に
なったものでした
 聞いた話では、九州大会でも自由曲の演奏中に結構やばいソロミスがあり、演奏が瞬間的に止まりそうに
 なった事も一因のダメ金らしいですね・・・)

そんな訳で1988年は悔しい思いをされていたと思うのですが、そうした鬱憤と雪辱を翌年のこの1989年の大会で
思いっきり晴らすことになります。
そして結果的にこの年を最後に長年この学校を手塩に育てられた鈴木孝佳先生は福岡工大付属高校を去られてしまい、
勿体ない事にその後は一度も吹奏楽コンクールに出場されていません。
そうした事情のせいか、大変気持ちと集中力の強い完成度の高い演奏を聴かせてくれ、結果的に
1984年以来久しぶりの金賞を受賞しています。
(かえすがえすも1985年の九州大会ダメ金により5年連続金賞を達成できなかったのは大変惜しまれました!
 85年の自由曲がラッセンの「マンハッタン交響曲」というとてつもなく地味な曲を選曲したのも一因なのかも・・??)
とにかく鈴木先生としては、有終の美を飾り、最後に大輪の花を咲かせてくれたような気がします。

課題曲A/風と炎の踊りは冒頭のひそやかさが遺憾なく発揮され、前半の抒情性と後半の激しさの対比は
大変的確に表現されていて悪い演奏ではありませんが、最後のトランペットのソロがスカスカにかすれてしまい、
当時普門館の客席で聴いていた身としては、かなりひやひやしたというのもあったりします。
課題曲は全体的に少し鳴らし過ぎというマイナス面もあったかとは思うのですが、そのマイナス面を埋めて
なおかつお釣りがきそうな演奏が自由曲のベルキスだったと思います。
自由曲「シバの女王ベルキス」は、前年度に東北学院大学が全国初演を行い、指揮者&編曲者の淀先生は
吹奏楽の世界にベルキスを世に広めたという大きな功績を残す事となりました。
(淀先生のあまりの早過ぎる死が惜しまれます・・淀先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます・・)
東北学院大学は、ⅠとⅣを繋ぎ合せた演奏ですが、
福岡工大付属の演奏は、小長谷氏のアレンジによるもので、
Ⅱ.戦いの踊り~Ⅲ.暁のベルキスの踊り~Ⅳ.狂宴の踊りを選曲しています。
戦いの踊りは、このチームが全国初演ですが、出だしのティンパニのソロと金管の咆哮は
本当にインパクトがありました。
冒頭のティンパニ奏者はあの場面を叩けたら相当気持ちがいいかもしれないですね・・
続いての大太鼓二台による太鼓連打も迫力がありましたし、続くクラリネットのソロもいかにも
アラビアンナイトみたいな音の世界であり、とても興味深く聴いたものです。
ⅡとⅣの間に挟まったⅢの暁のベルキスは、大変しっとりと抒情的に美しく聴かせてくれ、
ⅡとⅣがあまりにも激しい音楽ですので、その音楽としての「落差」を大変ダイナミックスレンジを幅広く取っていたような
印象があります。
(1992年の常泉寺吹奏楽団は、この「暁のベルキス」の部分をメインに大変しっとりと聴かせてくれましたが、
ベルキス=よく鳴る曲というイメージが定着した中で、これ程内省的なベルキスも珍しいので印象に残っています)

福岡工大付属のベルキスは、豪快さと細やかな部分が融合した素晴らしい演奏でした!

そうそう、Ⅳの舞台横からのバンダは大変効果的でした!
Ⅱの大太鼓連打の部分iにおいて、太鼓の撥に鈴をつけて太鼓と鈴の音が同時に鳴る
演出は印象に残っています。
バスドラムの打点がしっかりとズドン!と決まったとド同時に鈴がシャリシャリ・・と鳴っていましたので
どこなくオリエンタル風みたいな雰囲気も醸し出していたと思います。

翌年から指揮者が真和志中・石田中・那覇中等でお馴染みの屋比久先生へと変わり、福岡工大サウンドも
一変する事となります。
中学校であれほど実績を残された屋比久先生ですら、高校の部では最初ご苦労されていたのが印象的です。
90~91年は九州大会ダメ金で、屋比久先生の指揮で福岡工大が初金賞を受賞されたのは、1993年の事ですから、
いかにスクールバンドにおいて、実績ある指揮者が離れると後任の方がご苦労されるのかの
一つの典型事例なのかもしけないですね。
この屋比久先生はすごいです!
だって・・私が生まれる以前から既に九州大会に出場されていて、そして昨年も大学の部で全国大会出場を
果たされていましたから、まさに吹奏楽界の「神様」みたいな存在の先生だと思います。
17.愛工大名電高校


A/吹奏楽のための神話~天の岩屋戸物語による (大栗裕)


1989年の大会で、習志野高校と淀川工業が5年連続金賞の偉業を達成し、翌年の特別演奏という栄誉が
決定したわけですが、振り返ってみると、この5年連続金賞と言うのは相当難しいもので、
天理高校・淀川工業・尼崎吹奏楽団・愛工大名電高校・中央大学などが4年連続全国大会金賞を
成し遂げたのに、5年目で支部大会落ちとか全国で銀賞等の理由で5年連続金賞を逃すという事も
結構起きています。
確かに5年目の場合、一つの節目という事もあり、栄誉という事もあり、奏者も指揮者も
大変なプレッシャーになっているのかもしれませんよね。
ちなみに尼崎吹奏楽団は、4年連続全国大会金賞を2度に渡ってつかみながらも5年目は2回とも銀賞に留まるという
不運に見舞われています。
1993年から3年連続金賞の場合は、翌年は全国不出場というシステムに変更となり、
さらに三年連続全国出場で翌年は全国不出場というルール変更がなされた時期も一時期ありましたけど、
これは何か奏者にとっては気の毒なシステムという感じもします。
昔のように、「5年連続金賞の場合、ご褒美的な意味も込めて翌年は一年お休み」という方がよかったような気もしますし、
今現在は既にそうした5年連続金賞→翌年の特別演奏という制度自体が廃止になっていますけど、
これに関しては旧システムの方がいいのかも・・?と思う時もあったりします。
吹奏楽連盟の意図としては、常連校の代表枠の寡占状態の防止・全国大会への機会拡大という配慮なのかもしれませんけど、
結果的に5年連続金賞の特別演奏の最後の演奏は95年の札幌白石という事になってしまいます。

愛工大名電高校は、1984年~87年まで全国大会4年連続金賞を達成し、
1988年に金賞を受賞すれば「5年連続金賞」という吹奏楽コンクールでは大変な栄誉と翌年の特別演奏を
与えられるという大変プレッシャーが掛る年でしたけど、
結果的に1988年の演奏は、正直、あんまり芳しい演奏ではなかったですね。
当時、普門館の会場で生で聴いていても、
「え・・・、これがあの名電・・・??」と目を覆いたくなるような不本意な演奏になってしまい、
結果として銀賞に留まり、5年連続金賞を達成する事は出来ませんでした。
88年の表彰式は私も生で目撃していましたけど、銀賞と言う結果がアナウンスされた時の名電の代表者3名の方の
落込む様は・・何となくではありますけど客席にも伝わってくるかのような雰囲気はあったものでした。
甲子園ではないですけど、ああした光景を見てしまうと「吹奏楽コンクールも一つの競技なのかも・・・」と感じてしまいますね。

そして、翌年の1989年のコンクールなのですけど、松井先生としても、
「まさかこの年に自分たちが普通にコンクールに参加しているなんて・・」みたいな不本意な気持ちは
あったのかもしれないですね。
前年度の「悔い」をなんかそのまんまそっくり引きずっているような印象すら感じたものでした。
前年度のショックの後遺症みたいなものが実際にあったかどうかなんていうのは、部外者の私には知る由もない話
ではあるのですけど、あの年の名電の自由曲の「神話」を聴いた限りでは、正直・・・・評価に困る演奏です。
一言で言うと、名電にしては「粗雑」で感銘性が希薄な印象です。
神話の世界と名電カラーが合っていないというか、音楽がすごくちぐはぐな感じなのです。
例年ならば、瞬発力が漲る打楽器セクションも、何か切れ味に欠け、なんかモサッとした演奏でした。
結果的に前年の演奏よりももっと印象は悪くなり、
 「もしかして名電、1976年のリエンチ以来の銅賞・・・??」とすら思ったほどでした。
名電というとプラハのための音楽1968みたいにメッセージ色の強い曲とかアトモスフェアや交響的断章などのように
音楽的緊張感が高い曲を高い技術と濃密な解釈で厳格に処理するいう大変濃口みたいな印象のある学校なのですけど、
この年の神話と1981年のディオニソスの祭りだけは、かなり薄口で名電にしては珍しく印象が希薄という
逆に珍しい演奏をされていたと思います。

でもさすが名電ですね!!

翌年の1990年はきっちりと立て直してきました!

自由曲は、1988年の時と同じ矢代秋雄の交響曲でしたけど、
もしかして、松井先生は余程、88年の演奏に「悔い」があったのかもしれないという事かもしれませんし、
同じ自由曲で2年後に「リベンジ」を果たしたかったという意図がもしかしたらあったのかもしれません。
90年の演奏は、88年~89年の不調がまるで嘘のように消え、
以前の緻密な名電に戻っていたのは、聴いていて「さすが・・!! これが伝統という力なのか・・」と感じたものでした!
16.駒澤大学高校


D/アルメニアンダンスパートⅠ(A.リード)


「駒澤」と聞くとどうしても大学の部のあの名門・駒澤大学をついつい連想してしまい、
「大学があんなに上手いのだから付属の高校だったきっと上手いんでしょ・・」と思われがちなのですけど、
そうですね・・・1980年代中盤から2000年代前半までほぼ毎年のように都大会を聴いていた人間から
言わせて頂くと駒澤高校に関してのコメントは
「駒澤高校・・・? うーーん、なんか微妙な立ち位置・・」という感じだったのかもしれないです。
確かに毎年のように都大会予選を勝ち抜け都大会本選に出場していたと思いますけど、
都大会の演奏を聴く限りは、「無難」とか「おとなしい」とか「ギラギラした個性があんまり感じない」
「洗練されたサウンドだけど聴く人に伝わるものはあんまりない・・」という印象が強かったような感じもあります。
都大会でも出場すれば毎年銀賞を取り続け、
銅賞と言うレヴェルではないけど全国大会代表・金賞を掴みとるまでのテクニックとか音楽性は
有していないチームみたいな感じもあり、そのあたりは全体的には「中途半端」みたいな印象もあったかとは
思います。
個人的には、1987年の都大会で演奏した課題曲C/コンサートマーチ87のほのぼのとした感じとか自由曲の
ホルストの「惑星」~木星の木管の巧さと中間部の音楽的高揚感は素晴らしいと思いましたし、
なんであの演奏が全国大会代表に選出されず、下手くそ極まりない東京朝鮮学校のショスタコの「祝典序曲」が
代表になってしまったのか、いまだに私にとっては謎ですし、
あの都大会の審査員の耳はどうかしていたんじゃないのかな・・・?といまだにふと思う事はあります・・・(汗・・!)

駒澤大学高校は、80年代と90年代にも何度か全国に駒を進めていますが、正直何の特徴もない演奏だったと思います。
だけど88年のセント・アンソニー・ヴァリエーションも 89年のアルメニアンダンスパートⅠも
92年のローマの祭りも技術的には一定水準には達しているものの
聴衆に必ず゛しも「何か」は伝わりきれていない個性という点では弱い演奏が多かったような印象が強いですね。
1992年の全国大会では駒澤と東海大学第四とで「ローマの祭り」が2チーム続けて演奏されていたのですけど、
あくまで単純比較で言うと、東海大学第四の圧倒的なエネルギーの塊りとパワーと絢爛豪華さの前では
駒澤大学高校の「おとなしさ・無個性・貧弱さ」は逆に際立っていたようにも感じたものでした。

だけど、これが吹奏楽コンクールの怖さでもあり醍醐味でもあるのですけど、
ある時から急に吹っ切れたように別のチームのように覚醒してしまう事もあるのですよね!
その一番いい事例が九州支部の精華女子と玉名女子だと思いますが、
2000年代以降の駒澤大学高校もその典型例だったような印象があります。
ハンガリー民謡「くじゃく」による変奏曲のしっとりとした内省的表現とかローマの祭り・宇宙の音楽等の華やかさなど
突然全く別のチームになったかのような「覚醒」がそこにはあったと思いますけど、
1983年以降ずっとこのチームを指導されていた吉野先生の長年のご苦労がようやく実を結んだと言えるのかも
しれないですね。

話を戻しますと、1989年の駒澤大学高校はまだ「微妙・・」という感じの時代だったのかなぁ・・とも思います。

というか、1989年までは関東第一高校が覚醒前の状態でしたし、80年代はまだ都立永山や片倉を指導されていた
馬場先生もまだ試行錯誤の段階でしたので、
1980年代の高校の部の都大会は、あまりレヴェルも高くなく、全国大会には比較的行きやすい時代ではなかったのかな・・とも
思います。駒澤大学高校にとってはどちらかというと全国大会を狙いやすい立ち位置にいたとは思うのですけど
それが出来なかったというのはやはり当時のそうした「中途半端さ」が大きかったのかな・・とも思ったりもします。
それに比べて現在の都大会はかなりの激戦ですよね!
東海大学高輪台・東海大学菅生・八王子・都立片倉、そして駒澤と全国大会でも銀賞~金賞を確実に受賞できる
レヴェルの高いブロックになっていて、
私が現役の頃の80年代のように「都大会の高校の部代表は、全国に出場してもほぼ銅賞ばっかり・・」という低迷期では
少なくともありませんから、やはり吹奏楽コンクールの日進月歩はすごいものがあるよな・・・と
感じるばかりですね!
駒澤大学高校も2000年以降は何度も全国大会に出場しかなりの高確率で金賞を受賞されていますので、
吉野先生の長年のご苦労がようやく花開いたといえるのだと思います。
だけど最近は東海大学勢に押され気味でここ数年は全国大会出場から遠ざかっていますので、
再度もうひと踏ん張りして頂きたいと思っておりますし、あのくじゃくや宇宙の音楽等の名演の再来をとても
期待しております!

1989年の駒澤大学高校の演奏ですけど、
「特徴がないのが特徴」と言えるくらいインパクトが弱い演奏というか、感銘性が極めてうすい演奏だったと
思います。
駒澤の演奏は都大会でも全国でもどちらも聴いたのですけど、どちらも「おとなしくて無難すぎる演奏」という
感想ぐらいしか言葉が出てこない感じもあります。
この年の自由曲の「アルメニアンダンスパートⅠ」も過去において多くの他校の名演があるものでして、
そうした過去の名演とついつい比較してしまう訳でもないのですけど、
やはり伝わるものがあんまりなくて「全体のテクニックは一定水準をキープしているのに勿体無いよね・・」と
やはり感じざるを得ない演奏だったと思います。
ソロ楽器の印象が弱いというのも全体の印象の薄さに拍車をかけていたような感じの演奏でもありました。

だけどこうした時代も、ここから数年後に一気に開花するまでの間の「産みの苦しさの時代」と言えるのかも
しれないですね。
15.下関商業高校


B/バレエ音楽「ガイーヌ」~序奏・ヌーネの踊り・アイシェの踊り・レスギンカ舞曲(A.ハチャトゥーリアン)


一言で言うと「全然うまくは無いけどとにかく可憐でとっても可愛い演奏!」みたいな言い方が
これほどよく似合うようなチームはあんまり無いという事なのだと思います。
全国大会初出場とか午後の部のプログラム一番とか奏者にとっては色々と緊張する要因も数多く
あったとは思いますし、恐らくは普段の練習の成果の半分も普門館のステージで発揮できないまんま
本番があっという間に終わってしまい、評価も銅賞と言う結果で終わってしまいましたぁ・・みたいな感じなのだと
思うのですけど、表面的な「銅賞」という一言で片付けるのには少しばかり抵抗がある演奏というのも
私自身の率直な感想です。

一言で言うと課題曲も自由曲も大変チャーミングな演奏で、確かに技術的な拙さとか
サウンド全体のモヤモヤ感とかサウンドの濁りもあるのですけど、そうしたマイナス点を消し去るような
「おおらかさ・のびのびとした雰囲気」みたいなものはあったと思いますし、
同じ県内の下松高校の初期の頃のように
いかにも「普通の先生と生徒達が一生懸命練習して手作りの音楽を誠実に作り上げ
それを普門館のステージでも高らかに響かせることができました」みたいな雰囲気を普門館の会場の隅々にまで
伝えていた姿勢は大変立派なものがあると思いました。
あの拙いサウンドなんだけど「自分達のありのままの音楽、普段通りの音楽を聴かせよう」みたいな意図は
私の耳にも十分伝わっていたと思います。
今現在の吹奏楽コンクール・全国大会というのは、全般的な傾向として私立高校が優秀な中学生をスカウトしてきて
優秀な吹奏楽指導者が細かく指導し、あの華麗できらびやかなサウンド&表現を創り上げ
どちらかというとそうした「人工的な音楽」の演奏の方がむしろコンクールとしては高い評価を受ける傾向に
あるのかな・・?みたいについつい感じてしまいますし、
そうした傾向が大変強い高校の部においては、
この1989年の下関商業みたいに「伝統も実績も特段うまい奏者も優秀な指導者もお金も何も無いない・・」みたいな
普通公立高校が「手作り音楽」一本で全国大会に出場できるという事は
正直・・・四国大会以外はかなり難しくなりつつあるのかもしれないですね。
そうした意味では四国の伊予高校の存在は全く別の観点から言うとかなり希少価値が高いと言えるのかも
しれませんね。

さてさて、下関商業の演奏ですけど、奏者のユニフォームがいかにも「地方の公立高校みたいな制服」という香りが
漂っていて、1989年当時は多くの普門館常連チームが普門館用の特注ステージ衣装を身に纏っての演奏が
既に定着化していたと思われる中、
ああいう男子→学ラン 女子→普通のブレザーという「普通の制服」は逆に視覚的には大変新鮮で
あったようにも感じられたものでした。
確か・・・私の記憶の中ではステージ最後段のパーカッションのとある女の子のツインテールの髪型がとっても似合っていて
可愛かったのは大変印象的です! (笑)

演奏ですけど、課題曲B/WISHは、高校の部でBを選んだチームが少なかったのですけど、
洗練の極みとしか言いようがない常総学院とか逆にサウンドが大変泥臭い花輪のように個性的な演奏が
多かった中では、悪く言うと可もなく不可も無く無難にまとめたという印象が大変強いのですけど、
やはり音楽に対して大変誠実に向き合っているみたいな「音楽としての温かさ」は十分伝わっていたと思いますし、
この課題曲のテーマでもある「希望の光」みたいなものは、間違いなく普門館の客席にも照らす事は出来ていたと
思います。
反面、例えばホルンの雄叫びとか木管の高音の響きの高まりの箇所はもう少し果敢に表現して欲しかった・・みたいな
消極的的な表現にも感じられたのは勿体なかったと思います。
自由曲の「ガイーヌ」は、もう少しいい意味でのワイルドさ・野性味が欲しかったですね。
確かに音楽として無難にまとめ上げていて、課題曲で少し感じていた「モヤモヤ感」はあまりなく
音楽としてのおおらかさは十分に伝わっていたと思うのですけど、そこに「自分達はこう演奏したい!」みたいな主張が
あまり感じられず、終始おっとりとした響きにまとめていて、
その「あっさり感」は聴く方にしてみれば確かに上品さとか聴きやすさはあるかとは思うのですけど、
やはりコンクールとしてのインパクトという意味では相当損をしていたようにも感じられます。

下関商業の自由曲の「ガイーヌ」で大変興味深いのは、バレエ音楽の中から四つの部分を選曲していたのですけど、
序奏とヌーネの踊りが林紀人先生のアレンジで、アイシェとレスギンカが藤田玄播氏のアレンジという事で
自由曲の中でアレンジャーが二人いて、
林先生のアレンジは中央大学の演奏が提示する通りまさに積極果敢な表現を売りにし、
藤田氏の方はどちらかというと素朴さ・ファンタジー感をイメージするアレンジでもありましたけど、
自由曲全体の感想として「部分部分は上手いけど全体のイメージとしてはあまり伝わるものが弱い」というのは
この辺りにも一因があったのかもしれないですね。
アイシェの目覚めと踊りの部分は、課題曲で感じた「モヤモヤ感」みたいな不鮮明さも時に顔を出してしまい、
それがコンクールとしてはマイナス要素だったのかもしれないです。
最後のレスギンカは、アイシェのモヤモヤ感を吹っ飛ばしてくれる快演で、
まさに「終わりよければすべてよし!」みたいな演奏でもあったと思います。
14.洛南高校


D/交響詩「ローマの松」(O.レスピーギ)


当ブログの1/30記事にてこの年の洛南の事は実は既に散々書かせて頂いておりましたので、
別にあえて記事にしなくてもいいのかな・・?と思ってはいたのですけど、
なぜかあの日のあの記事のアクセス数が極端に少なく(汗・・!)
ほとんどの方があの記事をご覧になっていない事が推察されますので、
1/30の記事を今回加筆訂正したものを本記事として再掲載させて頂きますので、その点は何卒
ご了承いただけると幸いです。

1989年の全国大会・高校の部でグランプリ候補というと、常総学院・埼玉栄・東海大学第四・習志野・淀川工業・
福岡工大付属あたりがその有力候補なのではないのかなと思うのですけど、
銀賞受賞チームの中でも素晴らしい演奏を聴かせてくれたチームもかなり多かったと思います。
新屋・仙台向山・下松などがその筆頭格だと思いますが、
その中でも洛南高校の演奏はいかにも「洛南高校らしい演奏」だと思いますし、
この年出場した全27チームの中で一番インパクトが大きい演奏というと、洛南高校のローマの松だったと
私的には思っております。

あの演奏は、まさに宮本先生のアクの強さが漲り渡り、「宮本先生=洛南高校」というとてつもなく強烈なサウンドが
確立された瞬間じゃないのかな・・・とも感じさせてくれました!
ああいう演奏が出来ちゃうチームは、今現在の吹奏楽コンクールの高校の部では皆無と言えるのかも
しれないですね。
あの「宮本先生=洛南高校」という組合せは、「吉永陽一先生=兵庫高校」に匹敵するとてつもなく個性的なものだったと
今でも思っております。
まさに個性がギラギラ漲っているみたいな言い方がこれほどしっくりくるチームは少ないとすら思えます。

課題曲は、ポップス系マーチを選曲したのは極めて意外でしたし、洛南のそれ以前の方向性としたら
BのWISHを選んだ方がよかったような気もしますし、
あの課題曲Dは確かに豪快で楽しさは溢れていましたけど、反面「もう少しすっきり聴かせて欲しかった・・」
みたいな印象もあり、
この曲はどちらかというと弾けるようなキラキラ感が求められるのに、
ギラギラと脂ぎったような演奏みたいな雰囲気もあり、それが課題曲Dとしてはあんまりすっきりしない印象に
なったのかもしれないです。
だけどそうした「ギラギラした脂ぎったような演奏」がプラスに作用したのが自由曲の「ローマの松」だったと思います。

これはよい意味でも悪い意味でもいかにも「男子校」らしい側面が出てしまい、人によっては
「もう少し静かな熱演もほしかった・・」という事を言われるとは思うのですけど、
東方Projectの「早苗さん」じゃないですけど、あれはまさに「はっちゃけた演奏」であり、
やりたい放題のある意味とんでもない演奏なのですけど、あの「自由奔放さ」は、絶対に最近のコンクールでは
聴く事が出来ないものであり、改めてあの演奏をCDで聴いてもあの「とてつもない熱気」にはワクワクさせられるものが
ありますね!
それと洛南の「ローマの松」ですけど、二つほど特筆すべきことがあり、
一つは大変強引なカットでもあるのですけど、なんと全楽章を演奏してしまう荒業をやってのけた事と
二つ目は、第一曲においては、なんと・・!
トロンボーン奏者が「フルート」に持ち替えるという前代未聞の豪快な荒業すらも普門館の聴衆に
お披露目していたのは、まさに驚きでしたね!
吹奏楽コンクールで「楽器の持ち替え」というのは珍しい話でも何でもなくて、
フルートがピッコロ持ち替えとかオーボエがコールアングレ持ち替えとか
クラリネットがエスクラ持ち替えとかファゴットがコントラファゴット持ち替えとか
はたまた・・・打楽器の数があまりにも多い場合ですと、時折ですけど、コントラバスが打楽器を部分的に持ち替える事も
あったりしますし、
大変古い話ですけど、1970年代の職場の部・・・たとえば新日鉄釜石あたりですと、
トランペット奏者がホルンに持ち替えるという事例もあったりはします。
だけど上記の場合、あくまで木管楽器が木管を金管楽器が金管をという事なのですけど、
この年の洛南のように金管楽器が木管楽器に持ち替えるという事は極めて異例ですし稀ですし、
そのあたりは「いかにも宮本先生らしい話だよなぁ・・」と改めて感じてしまいますね!

Ⅰの演奏が一番優れていたと思いますし、前述の通り、ステージ最後段のトロンボーンが全奏者フルートに
持ち替えていたあのインパクトは相当大きかったと思います。
Ⅱは冒頭だけほんのわずか演奏しⅢのジャニコロの松に入ったのですけど、このⅡとⅢは
1987年の山形南と同様に「もっと静かな熱演」みたいな繊細な味わいも聴かせて欲しかったですし、
この辺りのモヤモヤ感と中途半端さが結果として銀賞という結果に終わった要因の一つじゃないのかなとも
今更ながらに当時のCDの演奏を聴くと感じたりもします。
そのⅡとⅢのもやもや感を豪快に吹っ飛ばしてくれたのがⅣのアッピア街道の松でした!
Ⅳはどうしてもカットの関係でテンポ設定が少し速すぎたような感じもしますし、クライマックスのあのとてつもない大音響に
入る前に既に奏者が相当ヒートアップしてしまい、
あの「大興奮の爽快感」は、もう少し後にもってきてもよかったんじゃないのかな・・とも思いますけど、
それでもラストは相当鳴らしまくり思いっきり強引に盛り上げていましたので、
音楽的爽快さは満点に近いものがあったと思います。
13.花輪高校


B/吹奏楽のための幻想曲「壁画」(四反田素幸)


まず初めにお断りを・・・

どうして私がこの「花輪高校吹奏楽部」について何度も何度も大体似たような内容の記事を定期的に
掲載させてくのかと言うと、その理由は下記の二点です。

1.ブログ記事と言うものは、最新記事のみトップ記事として冒頭に出てきますので、毎日更新が一つの売りである
  当ブログにおいては、せっかく「花輪高校」の記事を掲載しても数日後には下の方で埋もれてしまう。
  花輪高校吹奏楽部の偉大さを多くの人にお伝えさせて頂きたいというのが当ブログのそもそもの開設理由でも
  ありましたので、例え同じ内容の記事であったとしても定期的に花輪高校吹奏楽部の事は
  ブログ記事として掲載しておきたいですし、
  当ブログが一つのきっかけとなって花輪高校吹奏楽部が残したあの素晴らしき名演の存在を
  一人でも多くの皆様に伝えさせて頂きたいと考えているからです。

2.私自身は、高校1年の頃までは別に吹奏楽も音楽の事も特段大きな興味もなく、惰性で吹奏楽部を
  続けていた傾向があったのですけど、
  1982年の全日本吹奏楽コンクール・東北大会において、プログラム1番の花輪高校が自由曲として演奏した
  ウィリアム=ウォルトンの交響曲第1番第四楽章のあの「魂の孤独」の素晴らしき名演を聴いた事が
  クラシック音楽の深い森の中に迷い込むきっかけを作って貰ったと同時に
  自分自身の吹奏楽とか当時吹いていた楽器であるクラリネットに真剣に向き合うようになったという大きな転換点の
  大きな動機になるなど、私自身が「花輪高校吹奏楽部」に対する感謝と畏敬の年がいまだに強く、
  花輪高校吹奏楽部のあの素晴らしき名演の数々を後世になにか「記録として残るもの」を形成しておきたいと
  思ったからです。


改めてですけど、
秋田県立花輪高校吹奏楽部は偉大ですよね・・・!!
上記で既に書いている通り、
私が「クラシック音楽の深い森の中」に迷い込むきっかけを作ってくれたのが
1982年の全日本吹奏楽コンクール・東北大会の花輪高校のウォルトン/交響曲第1番第四楽章の
圧倒的名演に心の底から感銘を受けたという事実なのですけど、
花輪高校吹奏楽部はこのウォルトン以外でも例えば・・・

ハチャトゥーリアンの交響曲第2番・同/第3番「シンフォニーポエム」
プロコフィエフの交響曲第3番
ラフマニノフの交響曲第1番
ショスタコーヴィッチの交響曲第1番
ガジべコフの交響曲第2番
ベルクの三つの管弦楽曲
シチェドリンの交響曲第2番
ブリス/バレエ音楽「チェックメイト」
などの曲は、全て花輪高校の吹奏楽コンクールの演奏がきっかけとなって
「花輪高校の演奏素晴らしいな・・・ではその原曲はどういう感じなんだろう・・」と色々と興味を持っていったのが
全ての始まりでしたし、それをきっかけにして、
「この曲以外にこの作曲家はどんな曲を残しているのかな・・」
「この時代、他にはどんな作曲家がいたのかな・・」と
クラシック音楽の深い森の中へと入り込む「きっかけ」を私に作ってくれたのが、この花輪高校吹奏楽部なのだと
今でも思っていますし、
それゆえ・・・・私は・・・永遠に・・・
「花輪高校吹奏楽部よ、永遠なれ!!」といつでも・・・そして今でも・・・心より遠き埼玉の地よりエールを
送り続けています!!
 
それにしても花輪高校の吹奏楽コンクールでの選曲は本当に素晴らしいものがありますよね!!

「え・・・その作曲家、誰・・・?? 聞いた事が無い・・」

「ガジペコフって誰・・?? シチェドリンって誰・・・? ハチャトゥーリアンの鐘って何それ!?・・・初めて聞いた・・・」

「ウィリアム=ウォルトンって何者・・・??」

「プロコフィエフの交響曲3番なんて・・・聴いた事すらない・・・」

みたいな反応は演奏当時もかなり多かったと思いますし、小林先生が花輪を指揮されていた頃と
私の吹奏楽時代はほぼ丸ごと重なっていますので
リアルタイム当時から
「花輪ってあの選曲凄いよね・・」とか
「どっからあの選曲の情報を仕入れてくるのだろう・・」とか
「だけど花輪高校って少しというか、かなりヘンだよね・・個性が極端に強いしね・・・」
というような声は、小林先生の在籍時から、色々な所で耳にしていましたので、
改めて小林先生はすごい先生だったのだな・・とその「偉大さ」をつくづく感じてしまいます・・・・

ちなみにですけど、上記でも出てきた「ガジべコフ」については、当ブログの12月の記事でも
触れておりますので、宜しければ ガジべコフって結局誰なんだ・・・?? の記事をご参照して頂ければ幸いです!

さてさて、1989年当時の小林先生=花輪高校吹奏楽部はどういう状況だったのかというと、
これはあくまで私個人の感じ方ではあるのですが、少し「不遇」過ぎたとも思えます。
毎年毎年あれだけ個性的で素晴らしい演奏を聴かせてくれながらも、
支部大会でダメ金で全国大会に進めなかったり(1986年・88年・1990年)
あれだけ完璧で素晴らしい演奏を聴かせてくれながらもなぜか審査結果は「銅賞」だったり
(1985年・87年・89年)
花輪高校の全国大会の演奏は、1984年以降は全て普門館の生演奏を聴いていた私にとっては、
正直・・・「もどかしい」とか「えーー、なんでこんなに素晴らしい演奏を花輪はしているのに誰も認めてくれないの・・!」とか
「審査員の審査基準がさっぱり分からない・・」みたいな事はずーーっと思っていました。
1987年と89年の「邦人シリーズ」も私個人としては、「大変素晴らしい! 花輪の新しい境地!!」と思っていたのに
審査員は多分ですけど・・「不気味な怨念の塊みたい演奏・・」くらいにしか感じていなかったのかも
しれないですよね・・・

前振りが大変長くなってしまいました・・・(汗・・!)

1989年の前年の88年は、花輪高校吹奏楽部としては初めてとも言える「東北大会での金賞以外の賞を受賞」という事で
小林先生にとっても部員にとっても大変残念な思いが強かったと思いますし、
小林先生としても1989年のコンクールは雪辱に燃えるものもあったのではないかと推察されます。
前述の通りこの頃の花輪高校は、85年・87年と相当気の毒としか言いようが無い全国大会銅賞という評価も
受けていましたので小林先生にとっても部員にとっても「よーし、今年はなにかやってやろう!」みたいな
心機一転の気持ちもあったのかもしれません。
それが少し力みに繋がったのかな・・?
課題曲B/WISHは少しやりすぎというのか花輪高校にしては珍しい「粗さ」の方が目立っていたような気もします。
音が幾分粗削りで、既にこの頃の吹奏楽コンクールは、習志野・常総学院に代表されるような「洗練された響き」が
高く評価される傾向にもありそれが時代の最先端という雰囲気もあった中で、こうした花輪高校の少し粗野な響きは
審査員・聴衆にとっては「少し時代遅れじゃないの・・??」みたいな印象をもたらしたのかもしれないですね。
私としては、確かに常総学院みたいなとてつもなく洗練された響きも大好きですけど、
それと同じくらい花輪高校みたいな個性的で大地に根をおろしたような素朴なサウンドも大好きですけどね!
自由曲は、87年に続いてこの年も邦人作品を取り上げていましたけど、
その演奏も大変気持ちが入ったもので、確かに少し粗削りで武骨な響きもあり、
曲自体が「どこかおぞましい・・あまりにもドロドロしすぎている」みたいな印象も与えかねない曲でしたので、
そうした泥臭さが吹奏楽コンクールの評価としては、結果的にマイナスに作用したといえるのが
この年の花輪高校吹奏楽部の銅賞という評価ではなかったのかな・・と今更ながらに感じたりもしますね。

1989年に花輪高校が演奏した四反田素幸の吹奏楽のための幻想曲「壁画」は
あの不気味な感じは確かに「おどろおどろしい」と思われても仕方がない曲&演奏だとは思うのですけど、
あそこまで邦人作品を内面深く掘り下げて演奏した事例が当時は少なかっただけに
「影の名曲&知る人ぞ知る隠れた名演」と私としてはかなり高く評価しています。
小林先生自身、1993年以降の秋田南への異動後は、三善晃・黛敏郎といった邦人作品をこれまた魅力的に
斬新に斬り込まれていましたので、
一般的には小林先生というと「ロシア系マイナーシンフォニー」というイメージが大変強いのですけど、
こうした「邦人作品」との相性もよかったと言えるのかもしれないですね。
「壁画」の演奏は、何を言いたいのか今一つ伝わってこないみたいなもどかしさはあったと思いますし、
一言で言うと、名取吾郎の詩曲「地底」みたいな暗い怨念のこもったおぞましい曲というせいも
あるとは思いますが、やはり花輪らしい個性が少し強すぎて、
この泥臭さが当時既に「洗練さ」がコンクールの評価基準になりつつあった時代に今一つそぐわなかったと
言えるのかもしれないですけど、
私は花輪高校の邦人路線は、ロシアマイナー路線と同じくらい大好きです!
もちろん、それが人の好みによって評価が真っ二つに割れがちなのはこれはある意味当然な事ではないのかな・・?とも
思いますけどね・・(笑)

花輪高校は、翌年の1990年は「三角帽子」で東北大会ダメ金だったのですが、
翌年の「バッカスとアリアーヌ」・翌々年の「チェックメイト」は生まれ変わったような
洗練されたサウンドに生まれ変わり、当時私も大変驚いたものですが、
これは小林先生自身ももしかして、「さすがに今までの表現スタイルは時代にそぐわないから、自分たちも
チェンジを図る必要がある」と思われて、小林先生としての「変化」を示した演奏と言えるのかもしれないですね。
1992年を最後に小林先生は秋田南高校へ転任され、それ以降花輪高校は、
現在に至るまで吹奏楽コンクールの全国大会の表舞台から姿を消してしまいますけど、
別に「吹奏楽コンクール」だけが全てではありませんし、何よりも「花輪高校吹奏楽部の偉大なる歴史」は
永遠に不滅ですし、少なくとも「私の心」の中では私が生きている間は少なくとも
記憶され続けると思います。

上記の補足ですけど、1992年の小林先生として最後の花輪高校での自由曲は
ブリスのバレエ音楽「チェックメイト」というまさに小林先生らしいマイナーなんだけど音楽的魅力が満載の曲を
最後に普門館でお披露目出来た事は、本当にありがたいものがありました。
1992年の演奏を聴くと誰もがそう感じるかもしれないのですけど、
花輪の1992年のサウンド・音色は、まさに「究極の繊細さ・洗練さ」の域に達しているように感じられます。
小林先生が初めて花輪高校を引き連れて普門館にやってきた1978年の音色・サウンドと単純に比較すると、
雲泥の差があるようにも感じたりもするのですが、これは別にだから78年の演奏はダメ・・と言っている
我ではありません。78年のラフマニノフには、当時なりの美点もたくさんあります!
だけど、このサウンドの違いと言うのは、まさに小林先生が1978年→1992年にかけて花輪高校で
育んできた「一つの進化」としての結果なのだと思います。


12.淀川工業高校


D/大阪俗謡による幻想曲(大栗裕)


この年の淀川工業は、5年連続金賞がかかり、指揮者の丸谷先生も大変だったと思いますし、先生としての
気合の入りようも大変なものがあったのではないのかなと推察されます。
思い起こすと、1984年の全国大会も、1980年~83年で4年連続金賞を達成し、
「さあ! この年に金賞を受賞すれば5年連続金賞の偉業を達成し、85年のステージはあの栄誉ある特別演奏を
普門館でお披露目できる!」と丸谷先生も奏者もかなり気合が入っていたと思いますし、
その気合が全てプラスの方向で遺憾なく発揮された素晴らしい「寄港地」を普門館の聴衆に聴かせてくれていたと
思います。
だけどあんな文句の付けどころがない素晴らしい演奏がなぜか銀賞にとどまり、
5年連続金賞達成という偉業は残念ながらこの時は達成できませんでした。
閉会式の審査結果発表の際、富山商業の銀賞と同じくらい・・いやそれ以上
会場からの「えぇーーー」とかブーイングみたいな声が沸き起こり
普門館の会場がかなりざわついていたのが今でもはっきりと覚えています。
最近になって改めて1984年の淀川工業の課題曲・シンフォニエッタと自由曲の寄港地を聴いてみたのですけど、
「この演奏のどこが銀賞なんだろう?? この年の全体のレヴェルと金銀銅のバランスを考慮しても
誰がどう聴いてもハイレヴェルの金賞にしか聴こえない・・
百歩譲って富山商業がどうして銀賞になったのかというと、音量過剰がマイナスに評価されたと思うけど、
淀川工業は音量的なバランスやパートバランスも全く問題ないように響いているし
やはりこの結果はいまだによく分からないというか不可解なものがあるよな・・」という感想しか出てこないですね。
その意味でもやはりこうした「コンクールにおける審査というものは水物である」とか
「コンクールの審査員の好みによって結果も大きく左右されることがある」という事を提示している典型的な事例で
あったものだと今更ながらに感じたものです。

そうした経緯もあったので、丸谷先生も「今度こそ・・・」という思いがあったのかもしれません。
自由曲を選出する際、もしかして・・・?
「寄港地」もその候補になっていた可能性もあるのかとは思うので゛すが、
丸谷先生はもしかして・・・?
「寄港地は1978年も銀やったし、84年もあんな完璧な演奏をしても金とれへんかったしなぁ・・」とか
「1988年の土佐女子は、あんだけ緻密で素晴らしい寄港地を聴かせてくれていたのに、やっぱり評価は銀賞・・
うーーむ、やっぱり寄港地はあかん!」
「80年に一度大阪俗謡による幻想曲は演奏しているしそのノウハウもあるから、今回は
俗謡でええとちゃうか・・?」
みたいな事も考えられたのかもしれないですね・・・(笑)

そうはいってもやはり5年連続金賞がかかったステージはやはり緊張するものがありますし、
丸谷先生としても奏者としても相当のプレッシャーはあったと思われます。
そうした思いがかえって緊張と重荷になったのかもしれませんが、課題曲の「すてきな日々」はポップス系という
楽しいマーチのはずなのに、ちょっと重たい感じもなくはない演奏になっていて
(課題曲の演奏自体は全く悪いものではありません! 技術的にはまず問題ない仕上がりだったと思います)
丸谷先生も「あれ、いつもとちょっと違うねん!  これはちょっとあかん!」と感じたのかもしれません。
課題曲が終わるといったん指揮者の雛台から降りて、奏者に「肩の力を抜いて・・」みたいな指示を
されていたような記憶が私の中にあります。
(違っていたらすいません・・!)
それが功を奏したのか(?)自由曲「大阪俗謡による幻想曲」は本来の調子の演奏になり、
素晴らしい演奏を聴かせてくれました。
1980年にも同じ自由曲を取り上げ、この時の演奏と比べると「鄙びたような感覚」とか
「わしらアホやねん」みたいな感覚は少し後退したものの、代わりに
洗練さ・サウンドの勢いが加わり、80年を超える素晴らしい名演を聴かせてくれました。

結果としてこの年は無事に金賞を受賞し、翌年の1990年には晴れて「5年連続金賞達成の特別演奏」という栄誉のステージを
お披露目する事が出来たのは、本当によかったと思います。

自由曲の大栗裕の「大阪俗謡による幻想曲」なのですけど、この曲はこの年に札幌白石高校も
自由曲に演奏しいるのですけど、
淀川工業は大変ノリの良い自然な流れを聴かせてくれていたのに対して
札幌白石はノリが大変悪くて歌心があまり伝わらない少しギクシャクした演奏を聴かせてくれていて、
同じ自由曲を選びながらも全く対照的な演奏を聴かせてくれる事になってしまいました。
やはりこれは「大阪俗謡」というモチーフを淀川工業は、まさに「俺たちのご当地ソング」みたいな感覚で
大変なじみ深くメロディーラインを奏でられていたのに対して、
この曲の元歌自体が「ご当地ソング」ではない札幌白石は、今一つ曲に対する「共感度」がうすかったようにも
当時聴こえたものですし、この点がもしかして両校の評価を分けた原因の一つなのかもしれないですね。

ちなみにですけど、1981年の課題曲Bは「東方地方の民謡によるコラージュ」で、
やはり全体的な印象としては、例えば、青森県信用組合とか花輪高校とか弘前南高校とか
残念ながら東北大会ダメ金でしたけど秋田県の大曲高校などは、
「地元ならではのこぶし」みたいな雰囲気とか「歌に対する共感度」というのは、他のエリアのチームよりは、
私の気のせいかもしれませんけど幾分強めに感じられたものです。

やはりメロディーラインが子供の頃から馴染みがあるとのそうではないのとでは、その表現にも多少は
影響を及ぼしていると言えるのかもしれないですね。
10.札幌白石高校


D/大阪俗謡による幻想曲(大栗裕)

ライヴの音楽とは毎回常に同じ演奏が出来る訳ではありません。
それがこうしたコンクールの場では尚更そうした事は言えるのだと思います。
「甲子園には魔物が棲んでいる」とは昔から言われている言葉ですけど、同様に
「普門館にも魔物が棲んでいる」という事なのかもしれないです。

「あれ・・何だか気持ちが乗らない」

「あれれ・・なんだかいつもの練習とは全然違う演奏になってしまった!」

「練習の時には毎回無難に出来ていた事が、大事な本番に限って致命的なミスをやらかしてしまった」

「緊張しすぎで今一つ気持ちが乗らないで焦りの気分だけ先行してしまって、普段の練習の成果が
全く発揮されないまんま本番のステージが終わってしまった・・」

そうした事は多分ですけど、過去の全国大会でも最近の全国大会でも決して珍しい話ではありませんし、
むしろそれはごく普通の光景なのだと思います。
例えば精華女子・淀川工業・常総学院・埼玉栄等の吹奏楽の名門校が「凄いよな・・」と感じさせる点は、
もちろん演奏が凄いというのもあるのですけど、
毎年毎年そうした「凄い!」を継続している点というのか、
こうしたスクールバンドの場合、たとえ指揮者が同じでも奏者は毎年、卒業・進級という事でメンバーが異なっている訳
でもありますので、
その毎年異なるメンバーが上記のように「練習の成果が出ないまんま何となく本番が終わってしまった・・」みたいな
演奏にさせない点は本当に驚愕に値しますし、
やはりそれが「伝統」なんだなぁ・・と改めて実感させられますし、
スクールバンドの先生方には本当に心の底から敬意を表したいものです!

でも逆に言うと、「一発勝負のコンクールは何が起きるかわからないから面白い」とも言えると
思います。
毎年のように素晴らしい演奏をし続けていたあの名門チームがこの年だけはなぜか惨憺たる演奏を聴かせてくれたとか
課題曲では全然ダメだったのに、自由曲に入ると別人チームのように魅力的な音楽を聴かせてくれたとか
支部大会では知性的な演奏を聴かせてくれていたのに、なぜか全国大会では吹っ切れたように
別人チームみたいな豪快でとてつもない大音量の爆演を聴かせてくれたとか
本番では毎回借りてきたネコみたいなおとなしい演奏をしていたあのチームが、この年に限っては
なぜかとてつもなく音楽として雄弁な演奏を聴かせてくれたとか
ま――、本当に色々とありますし、
「それだから吹奏楽コンクールを聴くのはやめられない!」というのは間違いなくあると思います。

大変前振りが長くなってしまいましたが、
「毎年素晴らしい演奏を聴かせ続けてくれたチームがなぜかこの年だけは全く冴えない演奏をしてしまった」の
典型的事例がこの年の札幌白石高校ではないのかなとも思います。

札幌白石は、1986年に念願の全国大会初金賞に輝き、86年~88年の3年連続で金賞を受賞し、
特に87年の若さと躍動感が爆発した情熱的なオセロとか、
88年におけるひそやかさと活気の両面を見事に表現し、「日本人の奥ゆかしさと照れ」を見事に表現した「仮面幻想」は
本当に素晴らしい演奏だったと思います。

そうした中、「今年は4年連続金賞をなしえて、5年連続金賞に王手を掛けるのか!?」とか
「前年は大栗裕の作品で今年も大栗裕の作品だし、どう考えても今年は盤石だよね・・」というのが
普門館の会場内の聴衆が感じていた事なんじゃないのかなぁ・・と推察します。

だけど、現実はそううまくはいきませんでした!

まさに上記の通り「吹奏楽コンクールは何が起きるかわかりゃしないし、たとえ前年に金賞を取っていたとしても
支部大会で素晴らしい演奏を聴かせてくれていたとしても
それが全ていい方向で普門館で発揮される訳じゃない!」という事を証明したような演奏になってしまったと
感じたものでした。

課題曲は、無難なオーソドックスな演奏で、十分「楽しさ」も伝えていたと思います。
だけど自由曲の「大阪俗謡による幻想曲」は全然のらない演奏でした・・・
恐らく演奏している奏者達も「あれ、いつもと調子が全然違う・・」と戸惑っていて、
あっという間に本番自体が終了してしまったという感じがぬぐない演奏だったと思います。
当時客席で聴いていた私自身も「なにかずれているね・・」と感じたものでした。
上記の通り、音楽は生き物ですし、特にコンクールは、普段と全然違う事が起きてもおかしくないという事を
立証する演奏になってしまい、結果として銀賞に留まり、
「5年連続金賞達成」は、1994年までお預けになってしまいます。
良かった点は、自由曲」の打楽器のチャンチキを担当していたお兄さんがとてつもなくノリノリにチャンチキを
叩きまくり、あれは見ている方としてはとっても気持ちがよかったと思います。
そう言えば、87年のオセロのシンバルのお兄さんも、シンバルを叩いた次の瞬間に表面→裏面へシンバルを180度回転させ、
舞台の照明の関係で、シンバルがキラリと輝いて見せるあの一連の動きも素晴らしいものが
あったと思います・・・(笑)

大栗裕の「大阪俗謡による幻想曲」ですけど、この曲を自由曲に選ぶチームって
圧倒的に関西圏のチームが多いですね。
淀川工業の他には、尼崎吹奏楽団・近畿大学・大津シンフォニックバンド・天王寺川中学校・金光八尾などが
この曲を自由曲に選んでいるのですけど、やはり関西圏が多いですね。
というか・・・・
関東・東北ブロックでこの曲を自由曲にして全国大会に臨んだチームはあんまりないというかほぼ皆無じゃないのかな・・?
数少ない例外が、1989年の札幌白石高校なのですけど、
上記で既に書いた通り、全然札幌白石らしくないよそ行きのなんか不自然で、ノリが悪い演奏だったのですが、
この曲自体、もしかして「大阪の古い歌」とか「童謡」とか「ご当地ソング」をベースにされているのかもしれないですよね。
大栗先生のこの曲を演奏すると関西の方は血が騒ぐのかもしれないですけど、
私のように東北生れ・関東育ちですと、正直・・・「何それ・・・??」みたいな感覚があるのかもしれないですよね。
この曲には多分いくつかの関西の「俗謡」がフレーズとして出てきているのでしょうけど、
すいません・・私には一つも分からないです。
多分ですけど、この曲を私自身が吹いたとしてもあんまりピンとこないのかもしれないです。
逆に関西圏の方がこの曲を吹くとビタリトとはまるというか、何か「燃えるもの」があるのかもしれないですよね。
この曲、本当にリズムをつかむのが難しいと思います。
私が卒業して一年後に母校の高校の後輩達がこの曲を定期演奏会で演奏していましたけど、
とにかくノリが悪くて恐ろしいくらいリズムがギクシャクしていましたね・・・(苦笑・・)
後日この曲のクラリネットのパート譜を見たのですけど、一言で言うと、変拍子が大変面倒でやっかいという印象でした。

そうした意味では札幌白石にとっては、「ご当地ソング」ではなかったことが一つの敗因と言えるのかも
しれないですね。
9.埼玉栄高校


A/楽劇「サロメ」~七つのヴェールの踊り(R.シュトラウス)


この年、1989年の高校の部ですけど、普門館の全出場チームをプログラム一番から最後まで
全く居眠りすることなく(?)聴いた私の感想を申し上げると、
「前半の出場チームは少し低調だったのかも・・・?」みたいな印象を持ってしまいます。
前半のメトセラⅡの3チームとか関東第一・伊予・玉名女子なんかは正直「ちょっとね・・」という感じの演奏でも
あったのですけど、そうした幾分停滞感を感じていた1989年の高校の部の空気を一変させたのは、
既に掲載させて頂きましたプログラム7番の常総学院とそしてこのブログラム9番の埼玉栄高校の
まさに「関東の雄」と言うべき2チームだったと思います。
(この年の関東代表4チームは市立川口以外は高校の部でも突出していた名演の連続だと思います!)

埼玉栄高校って、1985年の全国大会で突然何の前触れもなくいきなり全国大会に初出場を果たし、
あっという間に吹奏楽の名門校&常連校な躍り出たような印象が大変強いです。
これ、私の記憶で語っているもので間違っているかもしれないのですけど、
1985年の前年の1984年の埼玉県大会では、埼玉栄高校は大滝先生の指揮ではありますが、
課題曲B/土俗的舞曲と自由曲/狂詩曲「タラス・ブーリバ」~Ⅲでもってコンクールに臨んでいますが、
県代表に選出されず県大会で散っていたと記憶しています。
ちなみに埼玉栄高校は、1983年以前は吹奏楽コンクール自体に出場をしていません。
つまり全く何の実績も無かった学校がいきなり全国大会の常連校になり、毎年ああやって私たちに
素晴らしい演奏を聴かせ続けている訳ですから、
やはり大滝先生の功労は素晴らしいものがあると思います。
そうそう・・「響け! ユーフォニアム」の最終回の一つ前の回においての出番待ちシーンで
「あ!栄高校です!関東の雄 指揮者は小滝先生」とかサファイアちゃんが言うシーンがありましたけど、
あれは埼玉栄高校の大滝先生をモデルにしたと思われますね・・・(笑)
ちなみに現在は大滝先生は勇退されて、現在の埼玉栄高校は奥先生が指導されています。

埼玉栄高校は、埼玉という地名が付いているものの学校自体は浦和とか大宮にある訳では無くて、
国道16号線沿いの、橋を越せばもう川越!みたいなエリアに校舎があり、
最寄駅は確か川越線の西大宮駅だったかな・・?
あの辺りは本当に遊ぶところも何もないエリアですので、スポーツ・吹奏楽等に打ち込みたいのなら
うってつけの学校なのかもしれないですね・・・(笑)

埼玉栄の初出場の85年の「ディオニソスの祭り」はちょっと緊張したのかあまり個性は感じさせない演奏でしたけど、
翌年、86年の「ダフニスとクロエ」第二組曲でいきなり覚醒してしまい、当時の普門館の聴衆の度胆を
抜いていたと思います。
というか、ハープ・チェレスタ無しでダフクロのⅠの夜明けのあんな細かい動きを木管だけでやり遂げてしまう
あの繊細な表現力には脱帽しか無いとすら感じさせてくれる演奏だと思います。
1987年もちょっと危なかったけどスレスレで全国大会金賞に入り、「いよいよ脂がのってきた!」と感じさせてくれた中、
1988年は、自由曲にストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」という大変な難曲で臨んだものの、
結果は、まさかの関東大会ダメ金で終わってしまい、埼玉栄の全国大会連続出場は一旦ここで途切れてしまいます。
だからそのせいもあるのかとは思いますが、この年、1989年は大滝先生としても
相当の覚悟と気合で臨んだと思われます。
その演奏は、まさに気迫と自信が漲る素晴らしいものだったと思います。

あの演奏は、もしも1960年代の頃のように表彰制度が順位制だったと仮定したら、
第一位=優勝の座を掛けて、この埼玉栄と常総学院が熾烈な争いをしていたような感じすらあったと思います。
この年の高校の部は、結果的に金賞が10チームも出る大盤振る舞いになってしまいましたけど、
金賞受賞チームの札幌白石・習志野・埼玉栄・常総学院・高岡商業・富山商業・浜松所業・淀川工業・
兵庫・福岡工大付属の中でも特に光り輝く金賞だったと思います。

課題曲A/風と炎の踊りは、冒頭のひそやかさが素晴らしかったですね! 当たり前の話かもしれないですけど、
音色が美しいチームは表現力にも自然と幅が出てくるような感じなのだと思います。
後半の踊りの部分に入っても荒れる事もなく、むしろゆったりとした高まりみたいなものも自然と醸し出されて
いたと思います。
自由曲の「サロメ」も、課題曲同様に演奏に余裕があり、ゆとりをもって「色気」を出すという
すごい事をさらっとやってのけていたと思います。
感覚としては「妖艶さ」は今一つだったようにも思えますが、逆に上品で洗練されたサロメという印象が強いです。
だけど同時に、上品なんだけど音楽のスピード感というのか推進力が備わっているみたいな側面もしっかりと
聴かせてくれていて、音の美しさと音楽としての切れ味が実に素敵にマッチしていたと思います。
常総学院との単純な比較論で言うと、常総がサウンド重視とすると
埼玉栄は、演奏のスピード感を重視するという感じもしました。
全体としては、「王者の貫録」という感じが漲る演奏だったと思います。

私の記憶違いかもしれませんが、演奏終了後に指揮者の大滝先生が退出する途中で、
会場に向けて小さくガッツポーズをしていたような記憶があります。
大滝先生としても全てを出し尽くせた充実感があったと思いますし、前年の雪辱を果たせた満足感があるのではないのかな・・と
感じたものでした。
7.常総学院


B/スペイン狂詩曲~Ⅱ.マラゲーニャ Ⅳ.祭り (M.ラヴェル)


私の勝手な意見なのかもしれないですけど、日本の吹奏楽コンクールは、1989年の常総学院の登場で
劇的に何か「変化」がもたらされたような印象が大変強いです。
私より少し年代が上の皆様ですと、
「吹奏楽コンクール・高校の部において、今後の限りない飛躍を示唆する演奏は1977年の銚子商業である」
みたいな意見を言われている方が多いような気もするのですけど、
そうですね・・確かに間違ってはいないのですけど、
真の意味で高校の部全体の方向性になにか「変化」を与えた演奏というと、私としてはやはりこの年の常総学院を
強く推したいと思います。
常総学院の初出場以前と以降では、サウンドの作り方・響かせ方・表現方法等に多少の変化をもたらすきっかけと
なったのが、この年の常総学院ではないのかな・・?と思っています。
それ程後世に影響を及ぼした演奏の一つなのだと思います。
確かに習志野高校など常総学院のあのサウンド近いものは過去に幾つかはあるのですけど、
あそこまでサウンド自体がフランス音楽に近いというか、音のエスプリをここまで追求した演奏は、
ありそうでなかったような気もします。
まさに吹奏楽の表現としては限界近くまで到達している洗練の極みと言える演奏でしたし、
繊細さ・洗練さが極限にまで達している圧倒的名演があの年の常総学院なのだと思います。
しかも驚くべきことに、常総学院は、この年が全国大会初出場なのです!
埼玉栄ですら全国大会初出場は、なんかポケッ・・とした冴えない演奏をしていたというのに、常総学院は
朝早い演奏時間帯で初出場で、ああいう稀有な名演を後世の私たちに残してくれていましたので、
やはりあの演奏は「伝説の名演」に相応しい演奏と言えますよね!

この演奏を聴いて感じた事は、
「へー、日本の吹奏楽コンクールも随分進化したものだ・・・もしかしてこの日の演奏は、今後の
日本の吹奏楽コンクールの変化を示唆するものかもしれない」という事でしたが、
自分で言うのも何ですが、この時感じた事は後で振り返ってみると当たっていたような気もします。
常総学院は、この年以降も、サロメ・アルプス交響曲など名演を続出させますが、
音自体にあそこまで色気を出せること自体、驚異的なのだと思います。
この年の自由曲「スペイン狂詩曲」も、曲自体のけだるさと情熱を音色の変化をうまく使いながら
巧みに表現していたと思います。
この年は計10団体に金賞が出る結構審査が甘い年だったと思いますが、常総学院は
「グランプリ」に相応しい圧倒的な金賞の演奏を聴かせてくれていたと思いますし、
大変申し訳ないのですけど、他の9の金賞受賞チームとは、少し格が違う・・みたいな印象すら感じさせてくれていました!
課題曲B/WISHも冒頭から「ひそやかさ」が伝わり素敵でしたけど、展開部の流れが大変スムーズでしたし、
とにかくサウンドが美しい事に感嘆させられまくりで、
私の印象としては、「課題曲の前半が終わった段階で既に金賞確定」みたいなオーラすら漂わせていたと思います。
自由曲の「スペイン狂詩曲」のⅡ・マラゲーニャのあのけだるい雰囲気を管楽器だけで表現出来る事は
まさに驚異的だと思いますし、あの原曲をよく知る私でも、全然違和感を感じさせないものだったと思います。
Ⅱはテンポ的にも音色的にもめまぐるしく微妙な変化が続いていく難曲ですけど、
その「微妙な変化」が大変アンニュイに表現されていて素晴らしかったです。
Ⅳの祭りもⅡのけだるさに加えて「華やかさ」と「切れとスピード感」も遺憾なく発揮されていて
全く文句の付けようがない演奏だったと思います。
特に中間部のコールアングレのけだるいソロの雰囲気を十分にキープした上で、ラストの華麗なる追込みに向けて
スピード感と音のキレを保ったままエンディングに向けて突進していたのはまさに圧巻でした!

なんとなくなのですけど、埼玉県の与野・伊奈学園・春日部共栄などの「洗練された演奏」に
少なからず影響を与えていたのは、常総学院ではないのかな・・とも
感じたりもしますね。

最後に余談ですけど、この「スペイン狂詩曲」は、既に1970年代後半に出雲第一中学校や山王中学校等が
演奏していたのですけど、
1980年代前半~中盤までは一時的に全く演奏されなくなった時期があるのですけど、
これは、市川交響吹奏楽団が1981年にこのスペイン狂詩曲を自由曲に選び
無事に千葉県大会を通過しながらも、吹奏楽連盟から
「スペイン狂詩曲の編曲には著作権法上の問題があるから演奏は出来ない、関東大会では自由曲を変更するか
辞退してください」と言われて自由曲を「寄港地」に変更していた経緯が大きかったと言えるのかもしれないですね。

不思議な事に常総学院の演奏はちゃんと当時の「日本の吹奏楽」のCDにも収録されているのに
なぜか1993年に限っては「スペイン狂詩曲」を自由曲にした習志野とか袋原中学校が
「収録不可」としてCD化されていなかったのはなんかヘンな感じもしたものでした。
しかも翌年の94年は普通にこの曲はCDに収録されていましたから尚更そうした奇妙さは感じたものでした。
プログラム4番の玉名女子の際に
「この年はプログラムの前半だけでメトセラⅡが3チームも被ってしまったけど、いずれも
私にとってはあまり魅力的ではなかった演奏」と記させて頂きました通り、
プログラム6番と8番にまたまたこの「メトセラⅡ」が自由曲として登場し、大変申し訳ないのですけど
私としてはあまりいい演奏には聴こえなかったものですので、この2チームは下記に一つにまとめさせて頂きたいと
思います。
そして後半に改めて田中賢の「メトセラⅡ」について簡単に触れさせて頂きたいと思います。


6.東海大学第一高校


B/メトセラⅡ~打楽器群と吹奏楽のために(田中賢)


東海大学第一高校は、80年の全国大会初出場を経て、85年に初金賞、
そして86年には最早伝説と化しているラムの「イーゴルファンタジー」を
榊原先生節が「どだっ! まいったかぁーー!!」と言わんばかりに炸裂した大変個性的でエキサィティングした演奏を
聴かせてくれ、
「東海大学第一は全国に出場すれば何かをやってくれる!」みたいな期待感を感じさせる学校に成長していたと
思います。
だけどその歩みも決して順調なものではなくて、
88年の「神人協力説の寓話」は曲自体の魅力の乏しさもありましたけど、東海第一とは到底思えない
音自体の貧弱さ+音程不良という最低の演奏を聴かせてくれ、私を大いにガッカリさせてくれ、
90年~91年は、榊原先生らしくない(?)クラシック音楽のアレンジものを選曲され、
その「固い音楽表現」に違和感を感じたものです。
東海大学第一高校が真の意味で覚醒したのは、1992年以降の演奏からであり、それが花開いたのは1997年以降なのだと
思います。
そうした意味では1988年~91年は低迷期というのか、試行錯誤の時代だったと言えるのかもしれないです。
(榊原先生=東海大学翔洋のサウンドが確立し、「さあ! これから!!」という時にああした事件を先生自身が
起こしてしまった事は自業自得としか言いようがないのですけど、吹奏楽界にとっても
損失とも言えるのかもはれないですね・・)

そうした迷っている時代の1989年の自由曲がメトセラⅡでしたけど、
課題曲B/WISH共々言える事は、
「とにかく音楽が理屈っぽく聴こえて全然楽しくない!」という印象でした。
83年のシンフォニアフェスティーヴァとか86年のイーゴルファンタジーみたいな「思いっきりの良さ」が影を潜め、
「音楽を知的に知的に表現しよう・」とする意識がヘンに強すぎる印象もあり、
結果的に大変理屈っぽい演奏になってしまい、
もう少し「感覚的なもの」が欲しかったようにも思えます。
技術的にも前年の「サウンドのひ弱さ」が完全に解消されておらず、音量は大きいけど音の芯まで鳴りきっていない
という印象も感じました。
それとメトセラⅡの例の打楽器ソロが展開された後のグレゴリア聖歌あたりでなぜか唐突に
録音された「鳥の声」が流れていましたけど、
あの意図は全く不明ですし、あれは完全に作戦ミスだったと思います。
ラストの打楽器で「和太鼓」を叩かせたアィディアは榊原先生らしいとは感じました。

私の評価は銅賞でしたけど、結果は銀賞に入賞・・・


8.浜松商業

A/メトセラⅡ~打楽器群と吹奏楽のために(田中賢)


1989年の浜松商業のメトセラⅡに関しては、
「全然未消化・・・音楽として成り立っていない」
「結果として勢いだけで音楽を推進した感じ」
「打楽器セクションの粒が揃っていないし、打楽器と管楽器のバランスに配慮が欠けている部分があり過ぎ・・」
「結局何を言いたいのかよくわからない・・音楽が混然としすぎている・・」
みたいな印象で、とにかく音楽が雑然とし過ぎているという印象でした。

だけど・・・・

1989年のこの不本意な演奏の「経験」を十分活用し、更に磨きと進化を魅せてくれたのが1991年の演奏だったと
思います!
89年の演奏で物足りなかった「整然さ」と「スピード感」と「緻密さ」に精度を加え、
更に・・「勢い」が加味された素晴らしい演奏だったと思います。
そしてとにかく打楽器セクションの粒が揃っていても神がかり的な統一感が客席にも十分すぎるほど
伝わっていたと思います。
一応は「再演」と言えるのですけど、なんでわずか2年足らずであんなに「進化」出来ちゃうのでしょうね・・・!?

あれは本当に生で聴いていてゾクゾクとさせられたものですし、高校生の「進化」と遠山先生の指導力には
本当に頭が下がる思いでした!


ここから先は「メトセラⅡ」に関する補足です。

「メトセラ」とは、旧約聖書の中に出てくるユダヤの族長の名前で、969歳まで生きたという言い伝えが
あるとのことですけど、このメトセラと曲自体の内容にどうした関連性があるのかどうかは
正直よく分かりません。
但し一つ言える事は、このメトセラⅡには、間違いなく「躍動感」・「ひたすら生きよう!!とする強い生命感」・
「原始主義音楽と言うかストラヴィンスキー・バルトークの路線のようなバーバリズム」みたいなものは私の中で強く感じます。
「混沌とした時代でも、強い意志と生命力を持って生き抜こう!!」みたいな強烈なパワーは
曲の中の至る所から感じさせてくれます。

作曲者の田中賢氏の言葉を引用すると・・・・

「相反する2つの要素」を持つ曲をイメージした。
それらがひとつの曲の中で対立する…
たとえば「打楽器群」(日本の祭りに代表される和楽器の響き)VS「管楽器群」(西洋の音楽)であり、
「前半部」(現代語法による無調音楽)VS「後半部」(グレゴリオ聖歌をもとにした調性音楽)であり、
「理知的」VS「激情的」である。

とのことですけど、
確かに言われてみるとその通りのイメージの曲ですね。
前半の「混沌」とした感じは、いかにも現代音楽というか23音主義の無調音楽にも通ずるものがありますし、
タムタムの表面をスーパーボールでこすり付け、ウワーーンという奇妙な反響音の後に続いて
展開されるオーボエの優しいソロは、確かにグレゴリオ聖歌の引用ですからね・・・
だけどこの曲の白眉は何と言っても
中間部の7人の打楽器奏者のみによる華麗なる打楽器(というか太鼓の世界)の掛け合いだと思います!
大宮ソニックでの1988年の全国大会のヤマハ浜松の初演を聴いた時は、本当に驚いたものでした!
吹奏楽コンクールであんな長大な打楽器のみのアンサンブルは初めて耳にするものでしたし、
pp~fffの太鼓連打は、とにかく強烈ですさまじいインパクトがありました!!
曲の後半からラストは、グレゴリオ聖歌に乗っかった管楽器(=西洋楽器)がメロディーラインを形成する
そのバックでは、打楽器群が、まるで日本のお祭り太鼓のような演奏を続けているのも大変印象的です。
「和」と「洋」が、あるいは「聖」と「俗」が合体したかのような印象を聴衆に否が応でも感じさせるものがありますし、
上記で東海大学第一が曲のラスト近くで和太鼓を使用していた演出は、そう言う意味では
大変理に適っていたものなのかもしれないですね。
そして、西洋の聖歌が、いつしか日本民謡のように響き始めるのですけど、
そこに輝いているのは、まさにすべての制約から解き放たれた「永遠の生命」=969歳のメトセラなのかな・・・
という感じもあります。

この曲では7人の打楽器奏者を要するのですけど、この7人で計28種類の打楽器を扱っています。
打楽器奏者はやっぱり大変ですよね!

その内訳は・・・・

1st  サスペンドシンバル、ボンゴ、ティンパニ
2nd  ザイロフォン、ボンゴ、トムトム(3)
3rd  ヴィブラフォン、ウッドブロック、コンガ、カウベル、ゴング
4th  マリンバ、テンプルブロック(5音)、バスドラム、シンバル
5th  グロッケンシュピール、木鉦(浄土宗で使われる仏具)、コンガ
6th  タイ・ゴング(東南アジアに流布する音程のあるヘソ付きドラ)、 ボンゴ、トムトム(2)、マラカス
7th  チューブラーベルズ(チャイム)、テンプルブロック(4音)、カウベル、コンガ、バスドラム、トムトム(1)

となっています。

最後になぜ曲のタイトルが「メトセラⅡ」となっているかというと
そもそもこの曲は、ヤマハ浜松の第23回定期演奏会の為に委嘱された作品であり、
それが元々は「メトセラⅠ」と呼ばれるものです。
だけどメトセラⅠは12分程度の曲であり、
これをコンクール用にカット・再構成した曲が「メトセラⅡ」なのです。

1991年12月にサントリーホールで「吹楽」という邦人吹奏楽作品のみを取り上げたコンサートで
ヤマハ浜松が、この「メトセラⅠ」を演奏していましたけど、
本当にあの演奏は音楽に感動があり素晴らしかったです! 大宮ソニックでの全国大会以上の感動がそこにはありました!
メトセラⅠとⅡの最大の違いは、
中間部の打楽器セクションに掛ける時間もありますし、その打楽器の掛け合いが終わった後の
管楽器によるゆったりとした展開部分がある点なのだと思います。

私はメトセラⅠの方が作曲者の意図はより明確に伝わるようにも思えます。
5.下松高校


B/プラハのための音楽1968 (K.フーサ)



この下松高校ですけど、最近の現役世代の皆様ですと「え・・、下松高校・・?? なにその学校?・・・聞いた事がない・・」
みたいな感じなのかもしれませんけど、
1980年代後半~90年代前半に連続して全国大会に出場していた中国支部の常連校の一つでした。
最近は、この学校の名前を耳にする事は全く無いのですけど、
いつの日にか「かつての名門復活」が果たせるといいですね・・・

この学校を初めて耳にしたのは、1985年の普門館で、下松高校が全国初出場を果たした年でした。
その時の率直な私の印象なのですけど、そうですね・・・
「サウンドが貧弱・ひ弱な音楽作り・個性も特に感じない極めて印象がうすい演奏・アピールポイントが脆弱」
そうした感想でした。
自由曲が「幻想交響曲~終楽章」という極めて劇的要素を持ち演奏効果が高い曲のはずなのですけど、
それでも音楽の骨格が極めて貧弱という印象で
正直、初出場の際はマイナスみたいな印象しか持っていなかったです。
だけど二回目の出場の際は、結果として銅賞という評価なのですけど、私個人の感想としては
「とてつもない飛躍! 技術は一旦置いておいても、その豊かな感性とその表現力は素晴らしいし、
特に最後の音の伸ばしで閉じられる部分のサウンドは、カラヤン指揮/ベルリンフィルが演奏したこの曲に
勝るとも劣らない素晴らしいものがある!」
みたいにとにかく素晴らしい演奏だったと思います。
確かに、細かい木管の動きとか金管の破裂音とか
ハープをマリンバ+ヴィヴラフォーンで代用した為、その部分がなんとなく違和感を感じてしまうなどの難点も
あるのですけど、それを上回るスケールの大きさと劇的な表現力には本当に感心させられたものでした。
そして下松高校から聴こえてくるサウンドは極めて「温かい」というか人間的な香りが漂います。
下松の指揮者の中井先生の経歴とかは正直全然わからないのですけど、
そこから聴こえてくる音楽は・・・
いかにも普通の県立高校の先生と生徒が一生懸命「手作りの音楽」をして、その努力の結果として普門館に
たどり着いたみたいな雰囲気が漂いましたし、
その音楽も「厳しい中にも温かさが滲みでているような優しい音楽」みたいな香りが漂っていたと思います。
そうですね・・・・
私は1986年のこのチームのこの音楽を生で聴いて、
「このチームは将来絶対大化けする!!」と確信し、自分の吹奏楽仲間に対してもそうした「予言」(?)みたいな事は
色々と言っていたと思います。
そして結果的に私のこの予言(?)というのか予感は、1991年に見事に的中となる結果になりましたけど、
あくまで私個人の感想としては、下松高校というと86年の演奏と87年のアルメニアンダンスパートⅠと
89年の演奏の方が私の好みです!

さてさて、1989年の演奏ですけど、課題曲B「WISH」は全部門を通じて、この下松高校が演奏したものが
個人的には一番好きな演奏です。
何でしょうかね、少し不思議な感覚なのですけど、
ものすごーーく可愛い女の子が目の前にいて、思わず頬ずりして抱きしめたくなる
そんな感覚の演奏なのです。
一言で言うと、音色に切れがあるのに、それでいてチャーミングな演奏・・
まさに奇跡的な演奏だと思います。
感覚としては、中学の部門の志村第一中学も、こうした傾向の演奏をしていました。
課題曲Bは、強気の攻めの演奏は、土気中学校に尽きると思うのですが、下松高校のWISHは
守りの演奏なのだけど、何か「温かく見守っていきたい・・・」と感じさせる演奏なのです。
そうですね・・・「可憐な演奏」という言い方がなんかしっくりきそうな感じです。
冒頭のあのひそやかな雰囲気をあここまで温かい目線で表現出来た演奏って多分ですけど、下松高校以外は
なかったような気もします。
常総学院の課題曲B/WISHは、技術的・音楽としての器の大きさと言う意味では多分全部門を通して最高の演奏
なのかもしれないのですし、それに対して下松は、悪く言うと地味な演奏ではあるのですけど、
あの可憐でひっそりとした可愛い雰囲気でまとめた課題曲は、私にとってはまさに「WISH」=希望という言葉が
しっくりくる演奏だったと思います。
対照的に自由曲は、「プラハのための音楽」という大変な難曲で、
劇的で凄まじいというのか胃がギリギリと痛くなる程の緊張感を要求される大変厳しい曲です。
この「プラハのための音楽」を吹奏楽コンクール用のカットヴァージョンとして演奏する場合、
オーソドックスなのが名電方式とも言われるⅢの打楽器のみのアンサンブルとⅣを組み合わせたカット方法が
一般的なのかもしれないです。
そうした名電のカット方法に対して「こういう方法もありますよ・・」と提示をしたのが1988年の東海大学第四高校で、
Ⅰのファンファーレ等の強奏部分をメインにした箇所とわずかにⅢとⅣの主に前半部分を構成し、
唐突にラストのコラールへと結びつけるかなり強引なカットとも言えるものでした。
東海大学第四のカット方法はある意味大変分かりやすく、音楽として演奏効果を狙いやすい部分を意図的に
抽出したような印象すら感じられます。
それに対して1989年の下松高校は、東海大学第四と同じようにⅠとⅣからの構成としているものの、
普門館で聴いた限りの私の印象としては、「東海大学第四とは全然異なる雰囲気!」という印象が大変強いです。
下松は、Ⅰの部分もどちらかというと弱奏の部分というのかフルートソロをメインとした内省的で静かな部分を
メインにカットし、Ⅰを静かに閉じ、Ⅲの打楽器アンサンブルは演奏せず、Ⅳのダダダダダ・ダダ・ダダダダダ!という冒頭の
強奏部分から開始させ、Ⅳの激しい葛藤を経て、東海大学第四がカットしたティンパニソロ部分と後半の感動的な
あのコラールも高らかに鳴らしてくれていて、
「音楽としてのストーリー性」は大変強く感じる事が出来ました。
Ⅰで静かな内省的感覚を表現し、Ⅳの「抑圧に対しては自分達は絶対に屈しない!」という高らかな宣言みたいな感覚を
謳い上げ、やはり「音楽としての流れ」は大変見事に表現出来ていたと思います。
それとこの年の下松は音色が大変美しかったのが大変印象的です。
サウンドに透明感があるチームというか、音色を最優先に考えるチームは、
オリジナル曲でも、古典曲でも、現代音楽などどのような選曲をしても、コンクールとしては十分すぎるほど通用するという
事を見事に立証したような演奏でもありました。
音色がいいと、多少技術的な難があっても見過ごせてしまうという所なのかもしれませんよね。
同じ自由曲を選び、大体同程度の技術・表現なのに、下松は銀、出雲は銅と評価が分かれたのも
このあたりで明暗が分かれたのかもしれないです。
4.玉名女子高校


D/メトセラⅡ~打楽器群と吹奏楽のために(田中賢)


今現在の吹奏楽コンクールにおける九州支部の全国大会常連校、そして全国大会でも金賞を受賞し続ける
名門チームというと、そりゃ言うまでもなく福岡の精華女子と熊本の玉名女子の2校の存在が光り輝いていると
思われるのですけど、その玉名女子の全国大会初出場が実はこの年、1989年でした。
私もこの時の演奏はよく覚えているのですけど、なんかイメージとしては、おさげ髪のセーラー服の女の子が
たどたどしく演奏している・・そんな雰囲気があったような気がします。
この時代・・1989年当時は既に「女子高校」が全国大会に出場する事自体は全然珍しい時代ではありませんでしたし、
共学校の場合ですと、部員の8割近くは女の子という時代に既に入っていましたけど、
今現在の吹奏楽コンクールの精華女子などのような「出場すればほぼ間違いなく素晴らしい演奏を聴かせてくれて
ほぼ確実に金賞を受賞する」みたいな「絶対的なエース的な存在」が女子高であるという時代では
まだなかったような気もします。
(今現在の女子高の優位性という流れの先駆的存在は、就実と中村学園、その途中経過的存在が、
 たとえば・・鈴ヶ峰女子とか土佐女子とか光ヶ丘女子とか安城学園などの学校と言えるのかもしれないですよね)

1989年~90年において、九州支部代表の玉名女子とか精華女子が全国大会初出場を成し遂げていましたけど、
両チームとも面白い事に初出場から21世紀前半までは、吹奏楽コンクールにおいては、正直・・微妙な位置にいたという
感じもあり、確かに上手い事は上手いし下手ではないのだけど、特に際立った個性も圧倒的な歴史的名演を残していた
訳では無いという雰囲気もなくは無かったと思うのですけど、
精華女子は自由曲にクロード・スミスやバーンズ・スパーク等の高度な吹奏楽オリジナル曲を自由曲にするようになって以降の
その圧倒的な存在感と数々の名演は皆様既にご承知の通りですし、
玉名女子も2012年以降の急に吹っ切れたような素晴らしい名演の連続と大活躍ぶりも既に皆様よくご存じの通りです。

だけど、後述しますけど、玉名女子の初出場の演奏は、正直・・あまりいい出来の演奏では無かったです・・・(汗・・!)
精華女子だって初出場のロメオとジュリエットとか92年のダフニスとクロエとか93年のディオニソスの祭りとか
一応金賞は受賞していたものの94年の三角帽子は、あまりにも平凡な演奏で、現在のような圧倒的存在感はまだ皆無
でしたので、やはり「名門校」といえどもそこにたどり着くまでには時間がかかるし、それに至るまでの間には
指揮者の先生や奏者の皆様など関係者の多大なるご苦労の賜物だと思います。
余談ですけど、私がいまだにアニメ「響け! ユーフォニアム」第二期における北宇治の全国大会出場自体に納得が
いっていないし文句たらたらなのは、
「吹奏楽コンクールというのはそんな数か月足らずで突然変異的に上達する事は100%ありえません!」という
私自身の経験とか現実的な吹奏楽コンクールの実態が頭の中にあるからと言えるのかもしれないですね。

1989年の玉名女子ですけど、あんまりいい演奏ではなかったです・・
一言で言うと「粗い演奏」です。
悪く言うと音量だけで勝負した演奏、良く言うと大変おおらかな演奏と言えるのだと思います。
課題曲Dが始まった瞬間から、「音がデカい!」とか「やっかましー演奏」みたいな感じもあったのですけど、
ポップス系のマーチといえどももう少しきめの細かさというのか音自体の繊細さは必要だったといえるのかもしれません。
この課題曲Dを演奏する場合のドラムセットって、大抵の場合ステージ横手に配置されるパターンが多かったような
気もするのですけど、玉名女子の場合、自由曲がメトセラⅡという打楽器群が主役の曲であるため、
舞台の最後段の位置にも打楽器をセットした事情もあり、ステージ正面にドラムセットを配置したという事情も
多少はあるのかとは思うのですが、とにかく課題曲に関してはドラムセットのビートがビンビンと響いてくる印象が
大変強かったように思えます。
自由曲の「メトセラⅡ」に関しては、曲のよさに助けられたという感じの演奏で終わってしまい、
音楽の内容以前にこの曲に書かれている音符を消化するだけで精一杯という感じで終わってしまったという印象が
大変強く、当時普門館の客席から聴いていた私のハートに響くものは当時はあんまり無かったのは
惜しまれます。
打楽器セクションは7人ほどいたと思いますが、奏者の技術とか叩き方のレヴェルがバラバラで
統一感があまりなく
感じたままに叩くという印象が大変強く「曲としての美感」に欠けていた事と
中間部のオーボエのソロをはじめとする木管セクションのサウンドに透明感とか音自体の艶があまり感じられなかったのも
コンクールとしてはマイナスに作用していたと感じられます。

既になぜか市立川口の時に書いてしまっているのですけど(汗・・!)
玉名女子と浜松商業と東海大学第一は、自由曲に「メトセラⅡ」を選んでいます。
恐らくは、前年度のヤマハ浜松の歴史的超名演に触発されたのでしょうけども、
残念ながら「二匹目のドジョウはいなかった・・・」という感じでした。
正直、3チームとも私のハートにはあんまり響いてこない印象の薄い演奏でした・・・
玉名女子は前述の通り、技術的に未消化な感じでしたし、
東海大一は、打楽器になぜか和太鼓を取り入れていましたが、その意図も演奏効果も全然意味不明だし、
浜松商業の優等生過ぎる演奏もあまりピンとこなかったし
(浜松商業は1991年に同じメトセラⅡを取り上げていますが、この時は素晴らしい演奏を聴かせてくれていました!)
3校ともに揃いもそろって少々期待外れ・・という印象は拭えなかったと思います。
3.市立川口高校


A/仮面幻想(大栗裕)


この年、1989年の高校の部ですけど、プログラム1番の関東第一の演奏から、当時の私は普門館で生演奏を
聴いていましたが、
率直に言わせて頂くと、プログラム7番の常総学院が登場するまでは
「あれれ・・なんか今年の大会はかなり低調でレヴェルが低い感じ・・・今年は外れ年なのかな・・?」と感じていたものでした。
それと一つ大きかったのは、前年度の1988年にヤマハ浜松が「メトセラⅡ」というとてつもない歴史的名演を残してくれた
おかげもあるのですけど、翌年の89年はこの「メトセラⅡ」が全国的に大ブレイク!
この年の高校の部でも3チームがこの「メトセラⅡ」を自由曲として演奏してくれたのはいいのですけど、
玉名女子・東海第一・浜松商業は残念ながらあんまりいい演奏を聴かせてくれていないというか、
大変感銘度の低い私的には大変つまらない演奏を聴かせてくれ、しかもその3チームがご丁寧に、
プログラム4・6・8番と前半に集中した上に演奏自体が連続する形みたいな印象になってしまい、
さすがにプログラム4~8番の1時間15分の間に3タームが同じ「メトセラⅡ」を演奏していましたので、
なんか気持ちとしては「メトセラⅡはもうお腹一杯!」という感じになってしまったのも印象としてはあんまり良くは無かったと
思います。
それと・・玉名女子と東海第一のメトセラⅡの出来があんまりよくなかったし、
浜松商業も全然消化不良気味の上に優等生すぎるつまらない演奏を聴かせてくれていましたし、
気持ちの上では、「この年の高校の部の前半を聴くのは結構しんどかった・・」みたいな印象は当時感じていたものでした。
田中賢の「メトセラⅡ~打楽器群と吹奏楽のために」は、
音楽としての感銘度が大変高く、打楽器の効果的使用の演奏効果の高さには目を見張るものがあったのは
間違いない素晴らしい名曲であるとは思うのですけど、
この曲はヤマハ浜松の初演当時から
「打楽器セクションのみを強調した外見的効果に頼った作品」とか
「ちょっと上手いチームが演奏すればヤマハ浜松みたいな演奏効果は簡単に得られやすい」みたいな批判を
受けることが多い曲でもあったのですけど、
結果的に1989年の高校の部でこのメトセラⅡを演奏した3チームの演奏を聴いてみると
「この曲は決して外見的効果だけを意図した曲ではない」とか
「誰がやってもある程度の演奏効果は得られる」という見解は全くの誤りであるという事を皮肉にも裏付ける事になってしまった
のではないかと今更ながらふと思う事もあったりします。

あ・・・なんか冒頭から話がそれました・・・

今現在はプログラム第3番の市立川口高校のお話でした・・・(汗・・!)

この年の市立川口は、そうですね・・・全盛期の勢いと輝きは失われつつあった時代に既に入っていたのかもしれないです。
市立川口は、二つの交響的断章とか無言の変革シリーズなどのような
吹奏楽オリジナル作品という曲自体の斬新さと積極果敢な表現とか個人の技術の高さとかソロ楽器の巧さは
70年代後半~80年代の中盤頃までは相当光り輝くものはあったと思います。
1980年代以降の吹奏楽コンクールの驚異的なレヴェルアップによって、
市立川口のかつてのような特異性・輝きは既に市立川口だけの特権みたいな時代ではなくなってはいたと思うのですけど、
市立川口のその後の没落過程は、86年の課題曲B/嗚呼!の冒頭のトランペットのミス、87年の課題曲B/渚スコープの
やはりトランペットの中間部のソロのミス、そしてそして・・88年の自由曲の「ハムレットへの音楽」の
やはりトランペットセクションのあの痛すぎるミス等によって既に暗示されていた・・・と言えるのかもしれないですね。

この年の市立川口には、全盛期の力は既に弱まっていたと言えるのかもしれないですね。
課題曲も自由曲も市立川口らしい「音楽としての個性」とか「伝えようとする意識」は間違いなくあったと感じられます。
だけど、そうした音楽として表現したい事の手段としての基本的なアンサンブルに何かズレが感じられ、
一言で感想を言うと「表現意欲は伝わるのに技術的なアンサンブルが今一つ・・」みたいな印象がありました。
市立川口の大ファンで、吹奏楽オリジナル作品の魅力は、まさにこの市立川口の演奏こそが原点でもある私にとっては
大変残念な感じの演奏ではありました。
上手い所と雑な部分がかなり極端に演奏されていて
部分的にすごくチャーミングな箇所も間違いなくありますし、いかにも信国先生らしい表現をされている箇所も
間違いなくありましたし、
部分的には好演の連続なのに全体としては、大変散漫とか雑という印象を感じさせてしまうのは、どうしてなんでしょうかね・・?

課題曲の「風と炎の踊り」の冒頭から序盤の音のひそやかさは大変うまく表現出来ていたと思いますが、
強奏になると、そうしたひそやかさが後退し、やはり全体としては「粗い」という印象を受けてしまいます。
自由曲の「仮面幻想」も豪快に鳴らしている部分と中間部の少し鄙びている部分の対比何か
すごくいい所もあるのですけど、全体的に緊張感が持続しきれていないという印象もありました。
仮面幻想の中間部においても、いかにも信国先生らしい表現と言うのか、瞬間的な「音楽としての間」を意図的にとったり、
部分的に音の入りのタイミングをわざとずらしたり、
極度にテンポを落としたと思ったら次の瞬間に駆け抜けていく表現があったり
いかにも日本人の「照れ」みたいな「奥ゆかしさ」をイメージさせるような表現があったりと、やはり往年の市立川口らしさは
健在なのですけど、それが持続できないアンサンブルの乱れというのか雑な仕上がりが見受けられ
残念な感じもありました。
上手いのだけど「音楽としての集中度」が今一つと言えるのかもしれません。

部分的に打楽器セクションの音が大きすぎたというのもコンクールとしてはマイナスに働いたのかもしれないです。

私にとって市立川口というと「無言の変革」も「永訣の歌」などの演奏もとてつもなく魅力的なのですけど
やはり1979年の「二つの交響的断章」という印象が大変強いです。
私、このブログでよく
「1982年の花輪高校のウォルトンの交響曲第1番終楽章の演奏こそが私がクラシック音楽という深い森の中に
入り込むきっかけ」みたいな事を書かせて頂いておりますが、同様に
「1979年の市立川口高校の二つの交響的断章の演奏こそが、私が吹奏楽オリジナル作品の魅力に気が付く
きっかけとなった演奏」と記させて頂いておりますし、
同時に、私自身が「埼玉県川口市というエリアにいつかは住んでみたい!」と思うようになったきっかけの学校とも
言えますし
(それは後年、本当に現実のものになってしまい、私自身は今でも埼玉県川口市在住です! 笑・・)
このブログの一つの目的が花輪高校吹奏楽部と市立川口高校吹奏楽部のあの偉大な不滅の名演を後世の皆様に
語り継いでいきたいという事に繋がっていると思います。

1979年当時吹奏楽コンクールの全国大会の出場チームのステージ衣装は、ほぼ例外なく学校の制服というか、
男子は学ラン、女子はセーラー服かブレザーというチームが多い中、
市立川口高校は、赤ブレザーに赤のズボン・スカートという当時としては斬新なステージ衣装でしたし、
広い普門館のステージが狭く感じるほどパーカッションをズラリとセッティングしたり
グランドハープとか法螺貝とか、コンサートチャイムとは異なる本物の「鐘」を持ち込んだり、
視覚的にも大変なインパクトはありました。
そして見た目だけではなくて演奏自体が素晴らしかったですね!
1979年の課題曲は「プレリュード」と言う「無調的色彩」の強い現代音楽系の曲だったのですが、
出だしのティンパニソロをはじめ、緊張感漲る演奏が本当に素晴らしかったですし、
後半のヴィヴラフォーン以降の木管セクションのひさやかさ、打楽器セクションの鼓動など文句のつけようがない演奏でした。
しかもこの演奏、全国大会初出場でしかもプログラム一番なのですよ・・・!!
そんなハンディーを全く感じさせない圧巻の演奏でした!!
自由曲のネリベルの「二つの交響的断章」は「これぞ゜まさしく歴史的超名演!」の名に恥じない衝撃の演奏です!!
冒頭が、チャイム・シロフォーン・グロッケン・マリンバの鍵盤打楽器から開始され
執拗に同じメロディーを反復していくのですが、この執拗な緊張感が絶品です。
アルトサックスのソロも素晴らしいし、
それに合いの手を入れる打楽器セクションの瞬発力もお見事に一言に尽きます。
ファゴットのデュエットも・・ま・・少しばかりズレはあるのですけど、やはりあの勢いは止められない感じです。
後半のティンパニソロからの金管セクションの透明かつ勢いのある展開も大変迫力がありますし、
トムトムをはじめとする打楽器セクションのやはり瞬発力と自発性は高く評価されて然るべきだと
思います。
自由曲における、ドラの鳴り方が非常に効果的なのも印象的です。特に第一楽章の鳴りっぷりは凄まじいものがありました!
あのドラは、まさに「音楽の神様が鼓動・躍動している!」という響きそのものだと思います。
この原曲は17分程度の大変長いものなのですけど、市立川口は5分30秒程度にコンパクトに収めてしまいましたので、
「もう少し長く演奏しても良かったのでは・・・? せめてこの翌年の東海大学第一高校くらいの長さは
欲しかった」とも言えなくはないのですけど、
指揮者の信国先生は、
「音楽的緊張感」を優先に考え、このカット方法にしたのかもしれませんよね。

この1979年の市立川口の演奏は、まさに私の「吹奏楽オリジナル作品のバイブル」だと思いますし、原点だと
思います。

市立川口高校は既に川口市の市立高校の学校統廃合の対象校になっていて、間もなく校名すらも
消えてなくなってしまいますけど、
私の心の中には永遠に「市立川口高校吹奏楽部」の名前は消える事は無いと思います。

市立川口高校吹奏楽部は、1990年の吹奏楽コンクールも全国大会に出場しますが、91年のダメ金を最後に
その後20年近くは吹奏楽コンクールの表舞台から姿を消してしまいますが、
最近は、B部門において西関東大会に進み、また数年前も本当に久しぶりに西関東大会のA部門に
埼玉県代表として出場を果たし、
私のような「古くからの市立川口ファン」を狂喜乱舞させたものでした!

1970年代後半まで、関東の吹奏楽というと、銚子商業と前橋商業の2チーム程度しかいわゆる名門校は
無かったようにも思えますが、
こうした状況に対して
「いやいや、関東には埼玉県の学校もありますよ!」という事を轟かせ、
現在の日本の吹奏楽のスクールバンドにおいて
「吹奏楽の多大な実績を残している名門県」と言うと埼玉・千葉・大阪・福岡・愛知等という流れを呼び込んだ
市立川口の名前は永遠に私たちの心に刻み込まれると確信します!!
2.伊予高校


A/バレエ音楽「ガイーヌ」~序奏・ヌーネの踊り・バラの少女の踊り・レスギンカ舞曲(A.ハチャトゥーリアン)


この年の伊予高校は、上甲先生として2回目の全国大会出場となりましたけど、上甲先生として初めての全国の
1986年の「ローマの祭り」は私も大好きな演奏で、あの演奏は当時普門館で聴いていても
大変エキサィティングでわくわくとしたものが伝わり、
まさに「絶えずどの瞬間も自分たちに出来る事を精一杯伝えている!」みたいな雰囲気がとてつもなく生き生きと伝わり、
私はあの伊予高校の演奏は今でも大好きです!
伊予高校は86年の演奏は銀賞でしたけど、伊予高校はこんだけ何十回も全国大会に出場しているのに、
金が1回、銀が3回、残り全て「銅賞」という結果なのですけど、
確かに他の支部に比べると技術的に多少見劣りするのは誰が聴いても明らかではあるのですが、
上甲先生時代の「絶えず何かを精一杯表現しようとする」と言う姿勢はどの時代も、どの顧問の先生時代も
共通していると思いますし、
確かに技術的には拙いものが多々あるのだけどあの「熱さ」・「ひたむきさ」は私も高く高く評価したいです!!

1987年~88年の伊予高校は残念ながら四国大会ダメ金という事で全国大会には進めなかったのですけど、
実はなのですけど、私、この2年間の伊予高校の四国大会の演奏なのですが、
生演奏ではないのですけども実況録音の演奏をカセットテープで聴いた事があります。
当時のブレーン社は、なぜか知りませんけど、四国大会のそうしたコンクールにおけるライヴ演奏の
カスタムテープ作成という事も請け負っていたようで、そうしたマニアックな演奏をひたすら追い求める知人がいるせいもあり、
私もそのおこぼれをその知人から頂く事が多々あり、結果的に87年~88年の伊予高校の四国大会のダメ金の演奏を
カスタムテープで聴く幸運に恵まれたものでした。
その中で大変印象に残ったのは、1987年の自由曲のハチャトゥーリアンの交響曲第3番「シンフォニーポエム」でした!
確かに音量過剰で、曲自体大変騒々しくてとてつもなくよく鳴る曲ではあるのですけど、
さすがに「ちょっといくらなんでもやりすぎ・・ちょっとというかかなり音量過剰」みたいな印象はありますし、
音がデカすぎてコントロール不能みたいな所がコンクールとしてはマイナス評価を受けたのかもしれないですけど、
私個人はあの生命力溢れる躍動感は素晴らしいと思いますし、
あれはまさに「人間の本能」そのものなのだと思います。
そしてなぜか知りませんけど、この年のブレーン社の四国大会の録音が大変素晴らしく、あの残響音の素晴らしさもあり、
私は87年の伊予高校の演奏はかなり大好きです。
余談ですけど、この年、87年の中学校B部門の三津浜中学校の風紋と自由曲のショスタコーヴィッチの
交響曲第5番終楽章の演奏も、大変録音が良い上にあの終始攻める雰囲気が大変好感に思えたものです。
だけど翌年、三津浜中はA部門に出場し、四国大会も突破し全国大会に臨んだのですけど、
普門館ではなぜか「守りの演奏」に入ってしまい、前年みたいな積極的な表現がほとんど見られなかったのは
大変惜しまれる事でした。
やはり「普門館」には魔物が棲んでいるのかもしれないですね・・・

話がされましたけど、1989年の伊予高校は3年振りの普門館という事もあり、上甲先生も奏者も少し固くなっていたのか、
緊張感が悪い意味で出てしまい、
印象としては、上記の1988年の三津浜中学校みたいな少しよそ行きの演奏というのか、
幾分「守りの演奏」に入ってしまい、86年のローマの祭りみたいな積極性があまり感じないまま
課題曲も自由曲も終わってしまったような印象が私の中ではあったりもします。
自由曲の「ガイーヌ」のレスギンカは、木管の消化不足も少し印象が悪かったように思えます。

やはりコンクールの演奏と言うのは大変難しいものがありますね。
1.関東第一高校


A/バレエ音楽「スパルタカス」~三つのダンスエピソード(A.ハチャトゥーリアン)



関東第一高校は、1987年から89年の三年間は、毎年のようにこのチームの演奏を普門館で聴いてきた立場で
言わせて頂くと「低迷期の三年間」だったと思います。
そしてこの三年間の自由曲は、ロメオとジュリエット・ガイーヌ・スパルタカスとロシアもののアレンジ作品であったのですけど、
これは結果論になってしまいますが、後年の関東第一のカンタベリーコラール・華・ベトナムの回顧・指輪物語のように
このチームはアレンジものよりは「吹奏楽オリジナル作品」の方がこの学校のカラーに合っていたのかな・・?と
感じる事もあったりします。
アレンジものですと、サウンドは大変洗練されて美しいものの、あまり聴衆に伝わるものが少なく
どこか通り過ぎてしまったような印象もあったりします。
どことなくよそゆきの演奏と言うか「ちょっと・・らしくない演奏なのかな・・」とも思いますし、
「借りたきたネコ」みたいな演奏なのかな・・?とも感じたりもします。
(関東第一のアレンジもので最高レヴェルの演奏は、91年のトッカータとフーガニ短調だと思います)

1989年の演奏でどのあたりの印象があまり芳しくないのかというと、全てにおいて中途半端みたいな点なのかなと
思います。
男子校らしい豪快さがある訳でもなく、指揮者の塩谷先生が「このように表現したい」と意図していた柔らかい響きが
完全に出し切れていた訳でもないし、斬新な解釈がある訳でもないですし、
確かに音とサウンド自体は大変洗練されて美しいのですけど、
「あまり伝わるものが無いのかなぁ・・」と思ったりもします。

プログラム一番という出演順も少し気の毒でしたね。
普段の練習では、多分ですけど、もっと伝わるものがあるのだと思うのですけど、
特に課題曲において感じた事ですが、音の芯が確立されないままふわっ・・と音楽が開始され、
「音楽として生き生きとした雰囲気」が伝わらないまま本番のステージが終わった感じがします。
単純に比較すると、この年の関東第一は、都大会の方がもっと聴かせる演奏をしていたと思います。
この年の自由曲の「スパルタカス」も決して悪い演奏ではないと思います。
出来自体は決して悪いものではないと思います。技術的にも一定の標準はクリアしています。
「三つのダンスエピソード」の中で、大変ゆったりとしたアダージョ部分のⅡをメインに自由曲を構成し、
ラストはⅠの速いテンポの部分で追い込んでいくという構成でしたけど、
Ⅱのアダージョは部分的に音楽がたるみ、アレグロも美しいけど、少し迫力に欠け、
もう少し男子校らしい豪快さは演出してもよかったんし゜ゃないのかな・・と感じたものでした。

結果的に、1983年の初出場から通算して四回目の銅賞受賞となりましたが、銅賞はこの年で終わり。
翌年から新しい関東一校の歴史が始まっていくのです!
この1990年の「華~吹奏楽のために」の素晴らしい演奏以降の関東一校は、まるで別人のチームのように
生まれ変わり、そしてあの1993年~95年の栄光の三年間に繋がっていくのです!
結果論になるかもしれないですけど、この時期の関東第一は「産みの苦しさ」みたいな過程だったのではないのかなとも
思ったりもします。

このバレエ音楽「スパルタクス」ですけど、
吹奏楽経験者の皆様にとっては、ハンスバーガー編曲による「三つのダンスエピソード」というアレンジものの方が
馴染みがあるのかもしれませんよね。

このハンスバーガーによる吹奏楽アレンジ版の「三つのダンスエピソードは」

Ⅰ.ギリシア奴隷の踊り 商人たちの入場  ローマの遊女の踊り ジェネラルダンス

Ⅱ.フリージアの踊り エジプトの少女の踊り

Ⅲ.若きトラキア人の剣舞

から構成されています。
吹奏楽コンクールにおいては、1978年の天理高校のようなカットのパターンが多かったような気もします。
(Ⅰの前半のみを演奏しクラリネットのソロが終わったところでカット、そしてⅡも同様に前半でカット、
 そして最後のⅢで華々しく終わらせるパターン)
前述の1989年の関東一高のように、Ⅱをメインにし、Ⅰの最後の曲で終らせるというパターンもありましたし、
1989年の都大会での足立区吹奏楽団のように、Ⅱのクラリネットの大変長いソロをメインに構成し、
Ⅱのラストをもって静かに曲を閉じるというパターンもありました。
最近では・・・・
ハンスバーガー編曲よりは、仲田守氏のアレンジの方が演奏される傾向にあるのかな・
1988年は、経済としてはまさに「絶好調!」みたいな印象が大変強く、当時金融機関に在籍していた私としても
その経済の好調さ・お金を巡る動きのめまぐるしさは肌で実感していたものでした。
反面、この年は予想外の冷夏という事もあり、何かどんよりとした感じは否定できない雰囲気があり、更に加えて
昭和天皇のご病状が悪化し、世間全体が「自粛」という事で、バーゲンとかイベントとか
お祝いというものがことごとく自粛されていた傾向がありましたので、
世の中全体が「この好景気を楽しもう!!」という雰囲気では全然なかったと思います。
昭和天皇がご逝去され、時代が平成へと移ると一気に時代が明るくなっていったような雰囲気があったようにも感じました。
それまでの自粛ムードを一気に打ち破り、好景気を世の中全体で享受したのがこの年、1989年だったのだと
今更ながらに振り返ったりもします。
皮肉な事に、「平成」の時代で好景気という言葉で覆われたのはこの元年の1989年だけで
翌年からは早くも「バブルの崩壊」という事が盛んに言われ始めるようになり、
1990年以降は下り道を転がり落ちるように景気は悪化し続け、
1997年の北海道拓殖銀行・山一証券の経営破綻という「金融機関の崩壊」という時代がスタートし、
結果として「経済の氷河期」が21世紀になっても続く事になります。
というか・・平成の時代に入ってから「平成元年」の好景気を超越出来た年が一年も無いという事自体、
既に日本と言う国が「停滞期」に入っているという事なのかもしれないですね。
否! 停滞期という表現よりは、むしろ、大人の国家としての「安定期」という言葉の方が宜しいのかもしれないです。
別に常に国力とか経済力は毎年上昇し続ける必要もないんじゃないのかなぁ・・というのが
私の経験値でもありますからね・・・(笑)

昭和天皇がご逝去されるという事は、銀行内の上層部ではとっくの昔に想定内だったようで、
支店長の机の上には、総務部が作成済みの
「昭和天皇逝去後の支店内外対応マニュアル」なんてものが既に1988年秋頃から配布されていて、
例えば、逝去発表の日は、全行員は6時に退行(当時はPM22:00以降の退行時間はごく当たり前でした!)とか
一週間は顧客宅訪問といった営業活動は全面自粛とか
(だけど、電話営業を活用し、目標は必達しろ!!とか結構無茶は書かれていましたね・・苦笑・・)
窓口業務におけるテラー女子行員の笑顔は三日間は自粛とか
半旗の掲揚とか全行員黒ネクタイ着用とかかなり細かい指示は出ていました。
振り返ってみると、確かにご逝去発表後は全てそうした事前のマニュアルに従って行動が制約されていたと記憶しています。

ご逝去後3日前後は、どのテレビをつけても昭和天皇の事ばかり取り上げていましたけど、
確か聞いた話では、レンタルビデオ店は、
「どのテレビ番組もつまらない」という事でビデオを借りる人がかなり殺到し、レンタル数としてはかなりの記録を出す店が
多かったとの事です。
ちなみにこの頃は世の中にまだDVDとかブルーレイは出ていませんので、全てテープ式のビデオです。
そして、これは平成生まれの方は多分わからないと思いますけど、この頃のレンタルビデオ店には、
ベータ式とVHS方式の二通りのビデオが配置されていました。
ま・・こんな事を書いてしまうと、管理人の実年齢がバレバレになってしまいますよね・・(滝汗・・!!)

平成元年~3年当時にスピリッツで連載されていた山本直樹の「あさってDANCE」という漫画は、当時、私これ大好き
だった作品なのですけど、物語の冒頭は、昭和天皇崩御の世相とリンクしていましたし、
1989年(平成元年)12月掲載分の話の中で、
主人公のあやが末吉に
「あしたは天皇誕生日ね・・、一体何人のうっかり者が会社に出勤してしまうのかしら・・」とつぶやく一コマが
あったものですけど、
昨年の平成28年の天皇誕生日の際は、既に28回目の天皇誕生日でしたが、
1989年は確かに初めての天皇誕生日で、当時の私たちのイメージで言うと
「天皇誕生日は4月29日」という感覚しか無かったものですから、このあやのセリフはまさに妥当性あり!という感じですし、
今現在の視点で眺めると隔世の感はありますね・・・

なんだか「吹奏楽コンクール」とは全然関係ない話が続いてしまって大変失礼しました・・・(滝汗!!)

番外編はここまでとし、次回からプログラム1番の関東第一から本編としてスタートをさせて頂きたいと思います。

その前に一つだけ・・・

最近の吹奏楽コンクールでは精華女子の影響もあり、スミスの「ダンス・フォラトゥーラ」という難曲中の難曲を
全国大会で演奏するチームも大分増えてきて、昨年、2016年の全国大会でも3チームがこの難曲を
自由曲として演奏していました。
ちなみにですけど・・・
あの「ダンス・フォラトゥーラ」の全国大会初演は、実は高校の部とか一般の部ではないのですよ!!
実はなのですけど、1989年の中学の部で出場した宮崎県の生目南中学校が全国大会初演なのでした!
しかも、この学校は全国大会初出場です!
この演奏、私も普門館の生演奏で聴きましたけど、とてつもなく印象度が強い演奏だったと思います。
以前も書いたことがありますが、私、コンクールのプログラムに演奏チームの感想・印象・私の自己採点みたいな事を
メモ書きする事もあるのですけど、
この生目南中は、私の自己採点では、自由曲の技術はE 表現はAという感じでした。
私の印象としては、この難曲中の難曲を音にするだけで精一杯なんだけど、「音楽をみんなで奏でよう!」という
熱いハートは客席にもとてつもなく熱く熱く伝わっていたと思います。
全体的な印象は「細かい事は気にするなっ!!」という感じで、
細かいところよりも全体の雰囲気を大事にしているという感じで、とにかくあの「荒っぽいおおらかさ」は、
現在のコンクールでは絶対に聴く事が出来ない「熱さ」は絶対にあると思います。
この「ダンスフォラトゥーラ」は中間部にトランペットのとてつもないハイトーンのソロがあるのですけど、
生目南中学校は、あの部分のトランペットソロは一オクターブ下げて演奏するという「荒業」も披露してくれて、
これも大変印象に残っています。

それでは後日、その①の関東第一高校の記事でお待ち申し上げております!
この年、1989年の全国大会・高校の部なのですけど、
プログラム1番の関東第一からプログラム27番の兵庫高校まで全ての演奏を普門館で聴いた私の
率直な感想ですけど、
一言で言うと、「地域格差が目に余るのかな・・?」という感じのものでした。
そして比較的出場チームの「差」がはっきりと明瞭に出てしまい、上手いチームとそうではないチームの差が
とてつもなく付いてしまったという印象もあったりします。
具体的には・・・・東京・中国・四国支部代表の演奏と関西・関東・北陸支部代表の演奏を単純に比較しても
「本当にこれで同じ高校生なのかな・・」と思わず感じさせてしまうくらいの「大差」が付いてしまったような感じもあります。
そしてこの「地域格差」というのは、実は最近の吹奏楽コンクールを聴いても似たような事は感じる事もあり、
その辺りは難しいものがありそうですね。
そして、この年は金賞受賞チームと銀・銅の間の「差」は、率直に言うと「天地との開き」みたいな感じすら
あったようにも思えます。
ま・・・例によってなのですけど、秋田県の「花輪高校」の銅賞は、あれは私、今でも全く納得していないですね!
花輪高校の銅賞は、どう考えても「審査員の好き嫌い」としか思えないですし、
1985年・87年・89年の花輪高校の銅賞は、私自身いまだに吹奏楽コンクールで理解しがたい評価の一つと
申し上げたい気持ちで一杯です!

この年の高校の部の私にとっての「グランプリ」は、間違いなく常総学院だったと思います。
というか、1989年の常総学院が実は全国大会初出場であったという事実もまさに「驚き」以外の何者でも
なかったですね!
あのまるで管弦楽団による洗練されたようなサウンドという方向性は、
まさに1990年代以降の吹奏楽コンクールの「一つの方向性」を示唆した演奏そのものであり、その意味でも大変
歴史的意義は大きい演奏の一つではなかったのかな・・と思いますね。
そしてあの初出場から既に28年の歳月が経過しているのですけど、
常総学院は、当時の同じ本図先生という大変優秀で指導力のある先生が指導をされ続けていて、
89年のあの「一つの方向性」を更に発展進化させ続けている演奏を聴かせ続け、あの初出場の年からずっと
全国大会の常連をキープし続けている事実は、まさに「脱帽!としか言いようがないですし、
心の底から敬意を表させて頂きたいと思います。

1986年の全国大会で、ドビュッシーの「海」を計3チームが自由曲に選んで、2チームともアレンジャーが異なるという
事情もあるにせよ、習志野・高岡商業・神戸の各チームがそれぞれ異なる表現・解釈の
「素晴らしき海の競演」を聴かせてくれていたのですけど、
1989年の大会も田中賢の「メトセラⅡ」を自由曲に選んだチームが3チーム出場し、演奏していたのですが、
玉名女子・浜松商業・東海第一の3校とも、大変残念な事に「凡演」を聴かせてくれて、
当時の私のテンションを思いっきり下げてくれた事も一つの懐かしい思い出と言えるのかもしれないです。

たげとこの年で一番インパクトが大きい演奏というと、洛南高校じゃないのかな・・・?

あの演奏は、まさに宮本先生のアクの強さが漲り渡り、「宮本先生=洛南高校」というとてつもなく強烈なサウンドが
確立された瞬間じゃないのかな・・・とも感じさせてくれました!
ああいう演奏が出来ちゃうチームは、今現在の吹奏楽コンクールの高校の部では皆無と言えるのかも
しれないですね。
あの「宮本先生=洛南高校」という組合せは、「吉永陽一先生=兵庫高校」に匹敵するとてつもなく個性的なものだったと
今でも思ってしまいますね。
1989年の洛南の自由曲は、レスピーギの「ローマの松」だったのですけど、
これはよい意味でも悪い意味でもいかにも「男子校」らしい側面が出てしまい、人によっては
「もう少し静かな熱演もほしかった・・」という事を言われるとは思うのですけど、
東方Projectの「早苗さん」じゃないですけど、あれはまさに「はっちゃけた演奏」であり、
やりたい放題のある意味とんでもない演奏なのですけど、あの「自由奔放さ」は、絶対に最近のコンクールでは
聴く事が出来ないものであり、改めてあの演奏をCDで聴いてもあの「とてつもない熱気」にはワクワクさせられるものが
ありますね!
それと洛南の「ローマの松」ですけど、二つほど特筆すべきことがあり、
一つは大変強引なカットでもあるのですけど、なんと全楽章を演奏してしまう荒業をやってのけた事と
二つ目は、第一曲においては、なんと・・!
トロンボーン奏者が「フルート」に持ち替えるという前代未聞の豪快な荒業すらも普門館の聴衆に
お披露目していたのは、まさに驚きでしたね!
吹奏楽コンクールで「楽器の持ち替え」というのは珍しい話でも何でもなくて、
フルートがピッコロ持ち替えとかオーボエがコールアングレ持ち替えとか
クラリネットがエスクラ持ち替えとかファゴットがコントラファゴット持ち替えとか
はたまた・・・打楽器の数があまりにも多い場合ですと、時折ですけど、コントラバスが打楽器を部分的に持ち替える事も
あったりしますし、
大変古い話ですけど、1970年代の職場の部・・・たとえば新日鉄釜石あたりですと、
トランペット奏者がホルンに持ち替えるという事例もあったりはします。
だけど上記の場合、あくまで木管楽器が木管を金管楽器が金管をという事なのですけど、
この年の洛南のように金管楽器が木管楽器に持ち替えるという事は極めて異例ですし稀ですし、
そのあたりは「いかにも宮本先生らしい話だよなぁ・・」と改めて感じてしまいますね!

ま・・・この辺りは詳しくは、本記事の洛南高校の際に語らさせて頂きたいと思います。
1989というと平成元年・・・

うーーん、そうですねぇ・・・・身の回りの人たちとか職場の中の人達も
いつの間にか「平成生まれ」の人が随分と増えてきたようにも感じられる今日この頃です・・・
うーーむ、私のような「昭和生まれ」は段々と肩身が狭くなりつつあるのかもしれないですね・・・(汗・・!)
最近の記事でも書いている通り、私が社会人デビューを果たしたのが1988年ですので、
平成元年は社会人2年目という事になります。
この頃は、今現在のような「住宅・建築業界」ではなくて金融関係の仕事をさせて頂いていたのですけど、
とにかく「全て」がアバウトでどんぶり勘定で、「ま、いっか・・」の世界の建築業界の今現在の視点で当時を眺めてみると
本当に金融機関というものは、全てが「細かい規定」によって決められていて
箸の上げ下ろしまで煩く言われる感じで、
そうですね・・・血液型がO型で、元々が細かい規定に縛られるのが苦手の私としては、
現在の住宅業界の方が完全に体質に合っていると思います・・(笑)
(ちなみに私が今現在の住宅業界に身を転じたのは、2001年の当時在籍していた金融機関が破綻して以降の話です)
逆に今現在の「全てがテキトーな住宅業界」に身も心も慣れてしまった私が、今更金融機関に戻れと言われたとしても
多分ですけど、100%務まらないと自覚しております・・・(苦笑・・)
それと・・・結果論になってしまいますけど、20代前半であんなにも、組織の厳しさとか
規定に縛られる事の意義とかを叩きこまれてしまうと、
その後逆に規定や規律がゆるい業界に転じると、その業界がとてつもなくゆるく感じられ、
仕事面では大変やりやすくなったような印象すらありますし、今現在もよく社内とかうちの奥様から等から
「とても感情的で妄想癖が強くて大雑把な蟹座のO型のキャラに見えないねぇ・・」みたいな評を言われる事がありますけど、
それは20代前半で骨の髄まで叩きこまれた「規律」のせいじゃないのかな・・と思う時もありますね。
ま・・・私本来の(?)「妄想癖」は、当ブログの特に・・・「東方カテゴリ」で遺憾なく発揮していると
思うのですけど・・・・(苦笑・・)

さてさて・・・1989年辺りというと、日本ではまだまだ「完全週休二日制」は定着しておりませんでしたし、
どちらかというと「土曜日は半ドン」という会社の方が多かったような気もします。
あ・・! 先日、社内の平成生まれの女の子に「半ドン」という言葉をつかったら
「なにそれ・・?」みたいなキョトン・・・とした顔をされてしまいましたので、やはり、私のような「ポンコツ昭和生まれ」は
そろそろ退場処分が近いのかもしれないですね・・・(汗・・!)
当時の金融機関は、第二と第三の土曜のみ休みで、それ以外の土曜は、いわゆる「半ドン」、つまり・・
勤務は昼までという感じで、あの当時は事務の女子行員さんのおねーさんたちも、現金と伝票さえ符号していれば
午後2時ぐらいには上がっていたような気がします。
(営業とか融資関係の人達は、土曜も平日もあんまり関係はなかったですね・・・)
そうそう、今現在の金融機関のATMコーナーは、平日は夜22時ぐらいまで稼働しているのはもはや当たり前の光景ですし、
土日も稼働しているのはほぼ常態化していると思います。
そして今現在は、土日でも深夜でも、金融機関のATMコーナーで「現金の入金」は普通に出来ます。
そして何よりも・・・
コンビニ等で設置してあるATMコーナーで当たり前のように、現金の出し入れが出来ますので
「やはり時代は進化しているねぇ・・」と思わざるを得ないですね。

ちなみに、1989年当時は、日曜に稼働しているATM自体が少なかったですし、
当時のATMは、土日の場合は、現金の入金自体が出来ませんでした。
しかも当時は、基本的には「都市銀行のキャッシュカードは都市銀行同士でしか使えない」という感じでしたので、
私が在籍していた第二地方銀行のキャッシュカードを日曜日に利用できる金融機関を見つけること自体が
至難の業でしたので、やはりここにも「時代の進化」は痛感せざるを得ないですね。
1989年当時の私は千葉県船橋市の寮にいましたけど、日曜日で当行のキャッシュカードを利用する場合は、
船橋ではなくて、津田沼か市川の千葉相互銀行(現・京葉銀行)まで行かないとダメで
当時は「なんて不便な銀行なんだぁーー!」と随分と恨めしく感じていたものです・・・(苦笑・・)

そうそう・・・

第二・第三土曜日だけはお休みだったのですけど、ATMのキャッシュコーナーはどの支店も稼働しています。

そういう場合、「万が一ATM稼働中のトラブルはどうすんの・・?」みたいに思われる方もいらっしゃると思うのですけど、
現在は、警備会社にその管理が全面委託されているケースがほとんどで、何かトラブル発生時は、
電話モニターからの遠隔操作、または警備員が駆け付けるというのが基本システムになっていると思います。
しかし、当時はそんなシステムはなかったんですよねぇ・・・
で、どうしていたのかと言うと、基本的には「ATM当番」と言って、営業・業務・融資の各課の男子行員が
交代交代で土曜に出勤し、何か非常事態が起きた場合に備えるという感じで、
支店内で待機という感じでした。
ちなみに・・今現在はどうか知る由もありませんけど、当時のキャッシュコーナーのトラブルの原因は、
ほぼ例外なく「お札自体の欠陥」です。
例えば・・・いまだに聖徳太子の旧札を入れちゃうとか、ボロボロの破れかかった紙幣を入れちゃうとか
濡れた紙幣を入れちゃうとかそういうのが原因でしたけど、
そういう場合って、コピー機で詰まった紙を取り除くのとほぼ同じ要領でそうした欠陥お札を取り除いていたものでした・・(笑)
だけどそうしたトラブルが起きる事って極めて稀で、
そうした当番って上席と平行員のペアになるのですけど、上席は普通に仕事しまくっているし、
私としては・・・仕事している振りして、本でも読み耽っていたような記憶がありますね・・・(汗・・!)
だけどこのATM当番のいい所は、土曜の二時であがれるし、
この当番を2回やると自動的に「平日休み」が一日強制的に取得させられるという事でしたね。

だけど確か、平成2年以降は、前述の通り、警備会社の委託化によってこうした当番も廃止になり、
平成3年頃には「完全週休二日制」へと移行していきましたので、
やはり時代と言うものは少しずつ「変化」をしていくものなのですね。
1989年(平成元年)というと社会人2年目の年で、世の中の雰囲気としては、
俗にいう「バブル絶頂期」の時代でした!
あの時の感覚としては、
「この金満日本! カネが溢れかえっているこの豊かな日本で私達もそのおこぼれに預かって何が悪い!」
みたいな俗にいう「バブル感覚」みたいな雰囲気は間違いなくあったと思います。
別に当時だってそんなめちゃくちゃに給料がいいとかみんな一律に稼いでいるとか決してそんな雰囲気では
無かったと思うのですけど、なんか感覚として
「この好景気は永遠に続くから、今を楽しまないで一体いつ楽しむの? そんなお金なんてじゃんじゃん使えばいいじゃん!
どうせ給料何て後からうなぎ登りに上がってくるから・・!
それに・・お金がなくたって銀行がいくらでもお金を貸してくれるよ!」みたいな感覚は結構強かったようにも
感じられます。

1988年にとある第二地方銀行(相互銀行→うーーむ、この言葉をご存知の方も最近減ってきましたね・・)に入行したものの、
大半の新入行員というものは、まず預金部門に配属され、そこから出納→普通預金→定期預金→
為替→当座預金→テラー(窓口業務)という一連の業務の中で流れを実地で学ぶのが定例パターンです。
でもなせか私の場合、いきなり融資課なんて所に配属され、正直何が何だかよく分らないまま、
頭上を訳の分からん専門用語が飛び交う中、ひたすら戸惑い続ける日々が1988年当時の私だったのかなぁ・・と思います。
金融機関に勤務経験がある方はほとんどの方は「札勘」(さつかん)というお札を扇形にさーーっと広げて
目にもとまらぬ早業でお金を数える事を最初に叩きこまれると思うのですけど、
私の場合は・・そうした出納業務の経験が無く札勘もほとんどやらないままその後営業職に配属されましたので、
実は自分で言うのも何ですけどこうした札勘は相変わらず今でも下手くそだと思います・・・(苦笑・・)

1989年以降仕事にもだんだんと慣れるにつれて、
漠然としたものですが、世の中のお金の流れというものも現場で理解できたような気もします。
例えば、当時よくあった例として、
不動産屋(当時はまだ総量規制もなかった時代・・)の商品物件購入の案件があります。
まずは業者の資産状況分析という事で、貸借対照表を作成したり、
担保評価という事で、現地確認と周辺の売買事例を探りに行ったりもします。
だけど、あの当時は、「土地神話」が生きている時代で、
土地さえ購入すれば確実に半年後には購入価格の120~150%以上で売却できるという感覚が
金融機関内部・業者誰もが共通認識で持っていたと思います。
当時、私もよく千葉県印旛郡とか八街とか潮来とか山武郡とか担保調査に行かされ、
「本当にこんな土地購入して大丈夫なの? 本当にここ開発されるの? 購入する人いるの?
こんな価格で購入しても本当に転売できるの? 本当に銀行として融資金回収できるの?
そもそもこの業者のオヤジのこの胡散臭さは何?」など色々疑問は感じたものの、
確かにあの頃は、融資金で商品物件を業者が購入しても、購入価格の3割増程度で
即転売できていましたしね。
万一、中々売れなくても、銀行の方で、「融資期限延長稟議」なんてびしびし本部にあげて
簡単に承認されていましたしね・・・

当時は、「世の中こんなものか」と少々甘く考えていたものですが、
このツケを2~3年後に金融機関も業者も自分自身も払う事になったものでした。
そうですね・・・この当時金融機関に入行した人は私とほぼ同じだったと思うのですけど、
当時の風潮というのか、
「金融機関と言うものは不動産担保さえ取っていればバンバンお金を貸してもいいんだ!」みたいな誤まった考えに
洗脳されてしまい、
本来「融資」というものは、ヒト(借りる方の人間性)・モノ(不動産担保価値)・カネ(決算状況・資産繰り)の三点を
バランスよく鑑みて、その融資が可なのか否なのかを判断しないといけないものなのですけど、
当時のそうした風潮に流されてしまい、
「え・・・不動産担保価値が足りない・・? それじゃ、路線価や公示価格の7割で評価するんじゃなくて
100%そのもので評価すればいいじゃん・・・・・
なーに、土地なんてこの先幾らでも上がるし、担保価値を水増ししたって問題ないよ・・・
え・・? 場合によっては近隣売買事例をテキトーにでっちあげて
この不動産担保融資に見合うような担保調書を早いとこ作って本店に稟議上げて稟議を通して
さっさとこの融資を実行しろよ!」と
融資課長とか営業課長に指示され、
「本当にこんなのでいいのかな・・・」と多少は疑問に感じながらも
そうした風潮に流されていったのが1989年頃の私だったんじゃないのかな・・と今更ながら感じたりもします。

お金を貸すというのは大変リスクがあるという事を認識するのは、その後まもなく・・・そう、それが俗にいう「バブル崩壊」
だったのだと思います。

そして翌年の1990年以降は営業担当職として現場を廻る事になりましたけど、
この頃の金融機関の営業は、
1990年以降の総量規制とかバブル崩壊以降も依然として融資量増強が絶対的命題であり、
私達も住宅ローンの借り換えとか、不動産担保付の事業性融資とか
金利は無茶苦茶高いけど300万円までは無担保無保証人の消費性ローンとか
保険ローン(保険料を一括して払い込むと、月額の払いの保険料よりも総額で支払金額が
低くなり、これ一括保険料を銀行融資で払い込むとんでもないローン)などを
毎月毎月無茶苦茶な設定のノルマを一方的に押し付けられたものです。
特に保険ローンなんて商品は、お客にほとんどメリットがないばかりか、保険ローンを
途中で解約すると、お客がローンの金利差額までも負担しなくてはいけない事になり、
アパートローンと並んでトラブル商品の典型みたいなものでした。
それでも毎月毎月各商品ごとにノルマを割り当てられ、それを達成できない月の罵詈雑言・叱責は
完全に今で言う「パワハラ」の概念を飛び越えるすさまじいものでした・・・

当時は私自身も夜遅くまでお客の家を廻っては「お願いセールス」したり、土日に普段会社で
書けない貸出の稟議書類や不動産査定書・貸借対照表を作成したり
休まる時間はほぼ皆無だった印象があります。

だけど、あの当時よく私自身が持ちこたえていたな・・と感心する時があります。
特別何か「信念」があった訳ではありませんでしたが
「他人は他人、自分は自分の道を行く」という感じだったのかもしれません。

だけど1993年以降金融機関の方針が一転され、ある日突然これまでの融資増強から
これまでの債権を回収という事に方針が180度変わり、
それまではお客に「借りて下さい、借りて下さい」とお願いしたのが一転して
「早く返して」に変わったのですから、ストレスがこの頃から急激に増えていったと思います。
延滞顧客に対しては、容赦ない督促と回収の指示が出されていました・・・
代位弁済・任意売却・保証人との交渉・債務の一本化整理などありとあらゆる貸し剥がしが
襲ってきたのです。
昨日まで「借りてくれ」のお客に対して、少しの延滞が発生したから、決算が悪いから
返済の見込みが立たないから等の理由で債権を回収にかかるのですから、それを直接お客との
窓口になって矢面に立たされる私達現場の担当は、皆大変だったと思います。

だけど結果的にそれが「終わりの始まり」だったのかな・・・

このブログでも何回かこの話は登場していますけど、1999年にその金融機関が破綻認定を受けてしまい
事実上倒産してしまいます。
結果的に当時の行員は2001年6月をもってほぼ全員解雇されてしまう結果になってしまいます。
当時は現在のように「金融再生法」という破綻後のスキームを定めた法体制が全く整備されていない
時代でしたので、当時在籍していた行員は、受け皿先に移行する事もほぼ無く
私自身も14年間頑張ってきたのに、
「散々こき使われて、挙句の果てにポロ雑巾のようにポイと捨てられる」みたいな形で解雇となってしまい、
2001年は、まずは「職探し」からというスタートになってしまいましたね・・・
だけど結果的に、それまでの金融業界から、現在の「住宅・建築業界」への転身という形になりましたけど、
2001年のかなりやばい雇用情勢の中で、意外とすんなりと転職先が見つけられたのは不幸中の幸いという感じでした。
当時はまだ独身でしたし、特に「守るべきもの」も無かったから
「自分一人ぐらい何とかなるかな・・・」と意外とお気楽モードだったのかもしれません・・・

だけどその破綻前後は結構大変でしたね・・・
だって「破綻した銀行」なんて誰も相手にしてくれないし、
顧客の預金流失は全く止まらないし、
破綻管財人から営業担当に命じられた仕事と言えば、
「不良債権回収」の一言・・・
当時のスキームでは、
破綻銀行は、受皿というか営業譲渡先に対して、残った預金量と優良な債権のみを受け継ぎ
「不良債権」と認定されたものは全て「整理回収機構」に売却されるというものでした。
そして営業権と本支店と一部の行員のみ引き継ぐというものでした。

2000年当時、まずは支店内の債権について
優良債権と不良債権に分類し、不良債権については、その借主たる顧客に対しては、

1.担保物件の任意売却又は競売し、自己破産して貰う

2.他行に債務を肩代わりしてもらう

3.整理回収機構に不良債権扱いとして売却

という身も蓋もない悲惨な条件を選択させ、指定日までに結論を出させるというのが
当時の営業担当の役割でした・・・
でもこれってすごい残酷な話で、
1と2は、大抵の場合他の金融機関の根抵当権が既に設定されているから無理だから
結局は、3の道を選択せざるを得ず、将来的に取り立て専門の回収機構にバトンタッチせざるを
得ない感じでした。
大抵の場合、
「10年前は、銀行の方からあんなに借りてくれ、借りてくれと頭を下げていたのに
 何でこんな掌返したように残酷な事をするの・・・」とか
「整理回収機構に廻されては、もう商売の継続は不可能・・・」
「一生恨んでやる・・・」とか
色々言われましたよね・・・
あれを毎日やっていると、こちらまでノイローゼになりそうでした。



スカイハイ



全然関係ないのですけど、
高橋ツトムの漫画で「スカイハイ」と言う作品があり、
(2003年~2004年の二回、釈由美子主演でドラマ化・映画化もされましたね)
要は、成仏できない人間が
霊界の門番たるイズコから

1.素直に成仏して霊界に行く

2.永久にこの世を彷徨い続ける

3.成仏できない理由は、この世の人間に恨みを持っているから。だから、その恨みの対象の
 人間を呪い殺すことが出来る。
 但し、この場合、永遠に地獄に堕ちる事になってしまう

の三つの選択を突き付けられ、一定の時間内に答えを出さないといけないという
話だつたと思いますけど

今、振り返ってみると、
2000年当時、不良債権顧客に対して、自分達が付きつけた三つの選択肢は
この「スカイハイ」と何ら変わりがないというか
実に残酷なものでしたね・・・

ま、結果的に私自身も、ほとんどの行員たちも前述の通り、
翌年の2001年には、営業譲渡先からの「解雇通知」を受け取る羽目になりましたので、
この「スカイハイ」の選択と大して違いは無かったよな・・と後日感じたものです。
1989年の全国大会にて、習志野高校と淀川工業が5年連続金賞の偉業を達成し、翌年1990年の特別演奏という栄誉が
決定したわけなのですが、
振り返ってみると、この5年連続金賞と言うのは大変難しいもので、過去においても
淀川工業・尼崎吹奏楽団・愛工大名電高校・中央大学・福岡工大付属・天理などが4年連続全国大会金賞を
成し遂げたのに、5年目で支部大会落ちとか全国で銀賞等の理由で5年連続金賞を逃すという事も
起きています。
特に気の毒なのは尼崎吹奏楽団で、4年連続金賞という偉業を計2回も達成していながら、いずれも5年目に
全国大会銀賞に留まり、結果的に「5年連続金賞→翌年の特別演奏」という栄誉が実現出来なかったのは
「勿体無いなぁ・・・あれだけの高い技術を持ちながらもやはりコンクールと言うものは難しいものだ・・」という事を
改めて実感させられる結果になっていたのは大変興味深いです。
だってあの名門・天理ですら1974年の「5年連続金賞」が掛った年においても「ハムレットへの音楽」で
まさかの銀賞に留まっていましたし、1985年の福岡工大付属も、まさかの九州大会ダメ金という事で全国に進めませんでしたし
やはり「コンクール」というのは確かに実力が大半なのでしょうけど、女神様の「運」というのも
少しはあったりするのかもしれないですね。
ま、1985年の福岡工大付属の場合は、自由曲の選曲がラッセンの「マンハッタン交響曲」という地味すぎる渋い選曲
というのも一因があったのかもしれないですね。

確かに5年目の場合、一つの節目という事もあり、栄誉という事もあり、奏者も指揮者も
大変なプレッシャーになっているのかもしれないです。
今現在の吹奏楽コンクールでは、こうした「5年連続金賞→翌年の特別演奏」という栄誉自体が廃止になってしまいましたけど、
昔のように、「5年連続金賞の場合、ご褒美的な意味も込めて翌年は一年お休み」という方が
一つの節目とか区切りという意味では宜しいんじゃないのかな・・とも思ったりはしますけどね。
だけど現役奏者にとっては、
「特別演奏で吹奏楽コンクールの審査を受けられないで終った・・なんか寂しい」という意見も間違いなく出そうですし、
その辺りは大変微妙なのかもしれないですね。

結果的に5年連続金賞の特別演奏の最後の演奏は、95年の札幌白石という事になります。

結果的に1989年のコンクールで淀川工業と習志野高校の5年連続金賞という偉業が達成出来たのですけど、
私自身は両校の演奏も直接普門館の会場で聴いていましたけど、
そうした重圧・プレッシャーが掛る大変な局面だったにも関わらず両校とも大変素晴らしい演奏を聴かせてくれていて
素晴らしかったと思います。
習志野の三善晃の「交響三章」のあのひそやかな世界は、あの劇的緊張感を超越している演奏は、
私は1980年の秋田南以外は他に聴いた事がないほどのまさに圧巻の演奏でした!
(そう言えば、1980年の秋田南も5年連続金賞が掛っていましたね!)
淀川工業は、1980年~83年で4年連続金賞を達成しながら、そして・・・1984年の「寄港地」は誰かどう聴いても
金賞以外はありえないと思えるほぼ完璧な演奏をしていたのにも関わらずまさかの銀賞という事で
「5年連続金賞→翌年の特別演奏」という栄誉はお預けになっていただけに、
丸谷先生の意気込みも気合も相当高かったようにも感じられる大変気持ちが入った「大阪俗謡による幻想曲」を
のびのびと聴かせてくれて、会場から大喝采を浴びていたのは大変印象的でした。
そうですね・・・ここにも関東と関西の「気質の違い」があるのかも・・・?
同じ「5年連続金賞→翌年の特別演奏」が掛った重圧の中でも、関東の習志野はポーカーフェイスの演奏、
対する関西の淀工は
「わしらアホやねん! 別に今回金賞取れなくたってかまへんやろ・・!」みたいなある意味開き直ったような演奏という印象が
ありましたけど、とにかく結果的に両校とも偉業を達成出来てよかったです!

そうそう・・翌年のその特別演奏の場でも両校の演奏は、まさに関東と関西の気質の違いがはっきり出ていて
大変面白かったです。
習志野は、演出も大変洗練され美的感覚に溢れ
交響詩「魔法使いの弟子」と 歌劇「蝶々夫人」より FANTASIAを実にファンタジーにまとめていましたけど、
対する淀工はまさに「下品でどこが悪いねん!」みたいな演奏で
あのとてつもない大人数とかアイーダでバンダを普門館二階席から吹かせていたり、
ヒットパレードでは、なぜか・・・?? 唐突に一人の生徒が歌いだしましたし、
しかもその曲が1979年の頃の西城秀樹の歌謡曲と言うのも、実に淀工らしかったですね・・・(笑)
まさにあれはいい意味での「アホまる出し」の演奏だったと思います!

さてさて、ここから先は少し余談になってしまいますが、やはり私にとって「特別演奏」というと忘れられないのが
1982年の弘前南高校の特別演奏です。

弘前南は1982年に「5年連続全国大会金賞」として栄誉ある「招待演奏(特別演奏)」を東北大会と全国大会で
お披露目してくれるのですけど
その時のフォーレの組曲「ぺリアスとメリザント」とR.コルサコフの「熊蜂の飛行」は
まさに歴史的名演だと思います。
ちなみに私は弘前南のあの演奏は全国大会の特別演奏としてではなくて、東北大会の「招待演奏」という形で
聴かさせて頂きましたが、あの演奏を生で聴く事が出来たというのは、私にとっては、もしかしたら
生涯の「一つの大きな心の宝物」と言えるのかもしれないです。
そのくらい素晴らしい演奏だったと思います!

東北大会においては、プログラムの表記がなぜか「テレアスとメリザント」という誤表記になっていたのは
ま、ご愛嬌ですね・・・(笑)

こんな静かで穏やかで抒情性に溢れ、内面性が強く、そして激しく盛り上がる部分がほぼ皆無のこのフォーレの曲を
「招待演奏」として選曲した弘前南の「心意気」は高く評価したいと思いますし、
その心意気に相応しい素晴らしい演奏だったと思います。

演奏は終始内省的に静かに展開され、打楽器・金管セクションはほとんど出番が無かったようにすら感じるほどでした。
木管セクションの細かい音色にまで神経を行き届かせたその「繊細さ」は高く評価されるべきだと思います。
あまりにも美しくはかなく、もろそうな音楽が15分近く延々と続き、そのあまりの「繊細さ」に心を揺り動かされたものです。
「ぺリアスとメリザント」という曲自体私は東北大会で初めて知る事になったのですけど、
とにかく「はかなく美しい・・・」という言葉しかなかったです!!
この組曲で唯一盛り上がるⅣ.メリザントの死の「弔い」を示唆する金管の高まりですらかなり抑制されていて、
終始緊張感と繊細なサウンドに魅了された瞬間でもありました。

圧巻は「熊蜂の飛行」でした!

あのクラリネットの指回しは、最早曲芸の領域だったと思います。

招待演奏が終了すると、会場からはまさかの「アンコール」を求める拍手が鳴り響き
指揮者の斉藤先生もアンコールは想定外だったのでしょう・・・
指揮台から困ったような表情を浮かべていましたが、再度この「熊蜂の飛行」をお披露目し
無事に招待演奏を終了させていました。
全国大会の方の特別演奏では、アンコールが掛ったかどうかは・・・聴いていないので分からないです・・・(笑)

とにかくあの弘前南の特別演奏の「ぺリアスとメリザント」は、あの内省的な静かな音楽的緊張感は
素晴らしかったです!
異色な特別演奏の選曲だとは思うのですが、そうした曲の内面性をあそこまで音楽的に仕上げられた
弘前南の皆様には、あの演奏から既に35年の歳月が経過していますけど、
とにかく敬意を表させて頂きたいと思います。

あの素敵な演奏をありがとうございました!!


当たり前の話です:けど、この平成元年という時代は、パソコン・スマートフォンは勿論の事、
携帯電話すら世に出ていない時代でした。
私の印象としては、携帯が普及し始めたのは1995年以降だったような気がします。
大体1994年頃までは、会社への定時連絡は、公衆電話を利用してという感じでしたし、
場合によってはポケベルを持たされる程度でした。
今にして思うとこの時代は良かったですよね。
だって、一旦朝会社を出てしまうと、顧客とかクレーマーとかうるさい上司からは
とりあえず夕方までは解放されますからね! (笑)
あの頃はまだどこなくのんびりとした「古き良き昭和の香り」みたいな雰囲気も残っていて
営業中にどっかの喫茶店で油を売っているとか車の中で爆睡したりとかは
仕事の業績さえちゃんと挙げていれば、別に何も言われなかったし、そんなにギスギスしていた雰囲気は
無かったようにも感じられます。
現在なんて、何かあるとすぐ携帯が鳴ったり、メールが入るという時代でも既になくて、
LINEで社内共有ツールが廻ってくると、その場でいちいちそれに反応して応えなきゃいけない世知辛い雰囲気ですし、
何よりもGPS機能とかで今現在自分がどこにいるのかがすぐ認識されてしまいますから、
とにかくオチオチとサボっていられないというのもどこなく味気ないものがありますね・・・・(汗・・)
1989年当時はバブルの絶頂期という事で、確かに死ぬほど働かされましたけど、
どこかのんびりしていたのは、携帯やメールやLINEが存在していなかったからというのも結構大きいんじゃないのかなとも
思えますね。

当時女の子に連絡する場合、どうしていたのかな・・・
高校時代もそうでしたけど、相手の女の子の実家の固定電話に電話するのは結構「ドキドキ」だったと思います!
そうした「奥ゆかしさ」とか「恥ずかしさ」というのは、現代の恋愛感覚ではもう既に「失われた感覚」なのかも
しれないですね。
そのお付き合いしていた女の子が一人暮らしならば全然問題ないのですけど、親と同居していると
少しやっかいでした!
「もしも母親とか親父が出てきたら何て言おう・・」
「妹がいるっていったよな・・声の見分け付くかな・・」など
電話する以前にあれこれ考えてしまって、何かドキドキしたものです。

こうした何かまだしも「恥じらい」があった時代から現在を眺めてみると、
何か用があったり、アプローチする場合は、メールすればいい事を考えると
何か手軽になったというか、味気なくなったものだと思う事もあります。

私が高校から大学時代にかけては、「めぞん一刻」という漫画が人気を誇っていましたが、
あのある意味純愛漫画には当然携帯とかメールなんてツールは出てきません。
出てこないアナログな時代だったからこそ、ああしたアナログな純愛も存在していたのかも
しれませんよね。
コミュニケーションツールが現代のように、メール・直接通話の携帯・LINEではなくて、
固定電話か直接の対話しか無い時代背景と言うのが何かミソになっている感じはありました。

この物語は、ある意味現代のようなコミュニケーションツールが無い時代の男女の誤解とすれ違い・・・
そこから生ずる「妄想」の世界だと思います。
この物語の舞台となっているぼろアパート「一刻館」においては、貧乏学生の裕作の部屋には固定電話すらないものでした。
アパートの共有廊下にピンク色の公衆電話が設置されてはいるのですけど、
(少し解説すると、公衆電話そのものにも電話番号があり、外部の人がその公衆電話に直接電話を
掛ける事は実は全然可能なのです・・・
だけど、公衆電話ゆえに誰が電話を取るかは分かりません)
裕作と、そのガールフレンドのこずえと響子の三角関係において、
こずえから裕作あてにかかってくる電話を、トラブルを楽しむ悪癖を持つ四谷さんや一ノ瀬さんなどの住人が
取り継ぐなど、携帯電話が広く普及した現在ではまず考えられないシチュエーションから生ずる数々のすれ違いと誤解
というのがこの物語を語る上では外すことが出来ないファクターとなっています。

とにかく、今現在では「ありえない光景」のオンパレードなのですけどね(笑・・)

1989年~90年頃にスピリッツで連載されていた山本直樹の「あさってDANCE」は結構大好きな漫画
でしたが、その中で携帯電話らしきものを使用するシーンがあります。
だけど、あれは携帯と言うよりは、回線が付いていない固定電話という感じで、
肩掛け電話とか当時呼ばれていたモノだと思いますが、
こうした漫画を今見てみると、やはりそれなりに時代を感じてしまいますね。
この年の課題曲D/ポップスマーチ「すてきな日々」は本当に楽しい曲でしたね!
とてもコンクールの課題曲とは思えないほど、まさに「ポップス!」に相応しい曲で、文字通り「素敵な曲」でした。
この曲は、本格的なドラムセットを必要とします。
コンクールの課題曲でドラムセットが必要な曲って他にあったかな・・・?
思いつくところで言うと・・

〇1974年/高度な技術への指標

〇1976年/ポップス描写曲「メインストリートで」

〇1977年/ディスコ・キッド

〇1978年/ポップス変奏曲「かぞえうた」

〇1980年/行進曲「オーバー・ザ・ギャラクシー」

〇1982年/アイヌの輪舞

〇1987年/ムービング・オン

結構あるものですよね。
だけど「すてきな日々」ほどドラムセットが全面に出た課題曲は少し珍しいと思います。
この課題曲の場合、打楽器奏者は、ティンパニ・ドラムセット・大太鼓・サスペンダーシンバル・
グロッケン・シロフォーンの6人の奏者で担当する事が多かったと思いますが、
ドラムセットを使うと、あえて大太鼓・サスペンダーシンバルの奏者を配置しなくても済むような
気もします・・
例えば、34人の少人数ではありましたが、大月東中は打楽器奏者4人でこの課題曲を演奏していたのが
大変印象的です。

作曲者の岩井先生というと、ポップス系というイメージがあると思いますが、
「あの水平線の彼方に」とか「渚の詩」などのような吹奏楽オリジナル曲を幾つか残していますし、
ファリアのバレエ音楽「三角帽子」の編曲をされていた事もあったと思います。
(確か、1981年の湊中の三角帽子のアレンジャーは岩井先生だったと記憶しています)
岩井先生も最近ご逝去されてしまいましたが、ポップスとしての吹奏楽の発展に大きく寄与された岩井先生の
ご冥福を改めてですけどお祈り申し上げます。

ポップスマーチ「すてきな日々」は、歩くながら吹く事を想定した「行進曲」ではないのですけど、
室内でのコンサートマーチとしても、素晴らしく完成度が高いと思います。
全体的にジャズっぽい雰囲気もあるし、ミュージカルみたいな雰囲気もあります。
最大の特徴は、「マーチ」なのに、
本格的なドラムセットを使用し、冒頭からハイハットシンバルの強烈な後打ちが炸裂したり、
全体のサウンドを牽引する非常に重要な役割を持っている点だと思います。
この曲、コンクールで何度も見ましたけど、ドラム奏者は、かなり目立っていましたし、まさに腕の見せ所ですね!

この課題曲ですけど、意外とテンポの変化がめまぐるしく、場面転換に応じてテンポも結構変化していきます。
途中、トロンボーンによるスウィングみたいな奏法もあったりするし、グリッサンド奏法も入ったりするしで
トロンボーン奏者は大変ではないのかなと推察もいたします。

この課題曲は色々名演がありましたけど、
個人的には、東海大学第四高校の演奏が一番素晴らしかったと思います。
あのリズムの切れの良さとトロンボーンのスイング感は、中々他では聴く事ができないものがあったと思います。
この「すてきな日々」をもしもですけど、全盛期の瑞穂青少年吹奏楽団が牟田先生の指揮のもとで演奏したら、
多分ですけどドツボにはいりそうな予感もあったりもします。

1989年の課題曲C/行進曲「清くあれ、爽やかなれ」は、申し訳ないのですけど、全くの不人気課題曲でした・・(泣・・)
吹奏楽コンクールの課題曲なのに、全然演奏されないというか、私自身、実はなのですけど、この課題曲を
生で聴いたという記憶は・・多分ないですね・・
支部大会・県大会でも、この課題曲を生で聴いた事、あるのかな・・・??という感じのレベルで
本当に人気が無い課題曲でした。
全国大会でもこの課題曲を演奏していたのは、わずかに茨城大学と阪急の2チームだけで、
中学の部と高校の部では一団体も演奏していません。
茨城は銅賞、阪急は銀だから、この曲の全国での金賞は皆無という事です。
正直、この課題曲は演奏しにくいのだと思います。
作曲者は別宮貞雄氏で、日本のクラシック音楽作曲家の重鎮です。
よくこんな大物の先生から、委嘱OKを頂けたものと感心は当時していたものでした。
曲自体、いかにもクラシック音楽という感じがして、形式重視・和音重視という堅苦しい感じがする上に、
曲自体比較的マーチなのに長く、苦労が多い割には実りが少ない曲なのかもしれません。
三善晃・間宮芳生という同じく日本のクラシック作曲家の重鎮が、
コンクール課題曲においては、自分の作風を吹奏楽用に幾分変容させ、アィディアを絞り、
素晴らしい課題曲を後世に残したのとは極めて対照的な感じでした。

もっとも、1978年の課題曲B「カント」は、「マスク」で有名なあのマクベスなのですが、
何とこの回は、ジェイガーの課題曲A「ジュビラーテ」に人気が集中し過ぎてしまい、何と
課題曲Bの全国での演奏回数はゼロで、一団体も取り上げて貰えませんでした・・・
カントよりはまだマシだったかもしれないですけど、別宮氏もかなり気の毒な感じがしたものです。

別宮氏は当時中央大学の教授でしたが、
この年の中央大学は、課題曲Cを選曲せず、課題曲はBのWISHを選択していました。
この年の中央は、五年連続全国での金賞がかかった大事な年なのでしたが、
別宮氏の曲を選ばなかったバチが当たったのか(?)都大会・銅賞という意外な結果に終わっています。
この時の自由曲は、リストのハンガリー狂詩曲第二番でしたが、演奏が「守りの演奏」に入ってしまい、
中央大学としては信じられないぐらいの地味で印象に残らない演奏で
都大会で聴いていた時も「今年は代表になれそうもないじゃん・・」と危惧していたら、本当に代表に選出されないどころか
銅賞という結果になってしまった事実は、
審査員も学校名・過去の実績だけで判定しているんじゃないんだなぁ・・という感じもあり、
当時それはそれで嬉しくも感じていたものでした。
先日までは1983年の全国大会・高校の部の私のあのような拙い感想記事をご覧頂き、時に素敵なコメントを頂き
ありがとうございました!
今回から1989年の全国大会・高校の部について語らさせて頂きたいと思います。
とてつもなく古い記事で一度1989年の全国大会の事は一度書いてはいるのですけど、当時はまだ開設当時という事で
慣れない事も多々あり、あまり満足した内容ではないものですので、
ここで改めて1989年の全国大会の事も前回の記事を一応ベースにさせて頂きますが、
内容的にはほぼ別記事と思って頂ければ幸いです。

今回は、プログラム一番の関東第一高校の本編の前に、またまた例によって(?)
この1989年という時代背景とか当時の私自身の事を簡単に書かせて頂く「番外編」から
スタートさせて頂きたいと思います。

1989年と言うと、平成元年でもあるのですが、
振り返ってみると前年の1988年は、確かに経済も絶好調で株価も不動産価格もグイグイ上がりまくり、
金融機関は1990年以降の総量規制はかかっていないし、不動産業への融資はやりたい放題の時代
でしたので、景気は相当良かったのだと思います。
1988年は冷夏という事もあり、何かどんよりとした感じは否定できない雰囲気があり、
昭和天皇のご病状が悪化し、世間全体が「自粛」という事で、バーゲンとかイベントとか
お祝いというものがことごとく自粛されていた傾向がありましたので、
世の中全体が「この好景気を楽しもう!!」という雰囲気では全然なかったと思います。

結果的に昭和天皇がご逝去され、時代が平成へと移ると一気に時代が明るくなっていったような
印象があります。
それまでの自粛ムードを一気に打ち破り、好景気を世の中全体で享受したのがこの年だったのだと
思います。
だけど、皮肉な事に、「平成」の時代で好景気という言葉で覆われたのはこの1989年だけで
翌年からは早くも「バブルの崩壊」という事が盛んに言われ始めるようになります。

私は1988年にとある第二地方銀行に入行し、
この年は金融機関に入行して二年目に入り、そろそろ仕事も覚え始め、
住宅ローンとか保証協会付融資とか、単純な不動産担保付融資の仕事も担当するようになり、
徐々にではありますが、社会人としての自分に慣れていった頃でもありました。
もっとも翌年からは、営業担当としてデビューする事となり、しかもいきなり山梨の支店へ飛ばされ
見知らぬ異郷の地で一人奮戦する事になるとは、当時は知る由もありませんでした・・・
金融機関の新入行員というと、他行ですと最初の一ヶ月程度は「研修」という事になるのかもしれないですけど、
「実務は頭で覚えず実地で覚えろ!」との方針で、入行式が終わったと同時に支店に配属され、
一般的には「出納係」から始まり、ここで現金の数え方、いわゆる「札勘」から実務を覚え始めるのですけど、
私の場合はなぜかいきなり「融資課」に配属され、
最初の一年間は何がなんだかさっぱりわからん・・・何がわからないのかもわからない・・みたいな状況でも
あったのですけど、ま・・なんとなく自然に覚えていったというか覚えさせられたという感覚が強いですね。
あの頃は、後述しますけどまさに「バブルの時代」で不動産取引に関する融資がメインでしたので、
とにかくあの頃は、取引先の不動産屋が仕入れた商品物件としての「土地」を金融機関的に
「担保として問題ないのか・・」みたいな観点から調査し、
(具体的には近隣売買事例を聞き込み、周辺の路線価等を参考にしながら、金融機関所定の書式の
不動産担保調書とか決算書をベースに決算分析調査書みたいなものをやたらと書いていた記憶がありますね!)

1989年と言うと「バブルの絶頂期」という評価なのでしょうけど、当時金融機関に在籍していた
私にとっては、結構しんどかった時期ではあります。
というのも、当時は金融機関にとっては「融資競争」の真っ只中というか、
銀行が頭を下げて、顧客に
「どうぞ当行からお金を借りて下さい」
「当行からの融資で不動産・マンション・リゾートマンション・株式・・・とにかく何でもいいから
 モノを買ってください」
「お金はいくらでも貸してあげます」
「年収とか過去の経歴何か問題ではありません。不動産担保さえ頂ければ、当行担保評価の120%以上
 お金をお貸ししますよ」
「アパートを建ててみてはどうでしょう? その建築資金と建築業者は、当行で責任を持って紹介
 いたします。なーに、建てた後も入居率100%を維持できるように当行が全面的にバックアップ
 しますから・・」
「不動産をお持ちでなくても、株式を担保にだって出来ますよ。株価の70%程度はお貸しできますよ」
「老後が不安ではありませんか? 当行と提携している生命保険会社の年金保険を検討されては
 いかがでしょうか? 保険料を月払いでなくて、一括して払った方がお得ですよ。えっ、一括で
 払えない? 大丈夫ですよ、当行の保険ローンで一括払いを立替えますから・・・」

などなどあまーーーい言葉で随分と顧客を勧誘したものですよね。
当然そうした甘い言葉に騙されたか人達は、その数年後にいたーーい目を見る事になります・・・
そして最終的に私達自身も、2001年6月に「金融機関破綻」というカタストロフィーを迎えるのです・・・

だけど、正直1989年時点で、あの頃は
「金融機関がバタバタ破綻する時代が来る」とか「1000万円までした保証されない」という事を
考えた事はなかったです!
とにかくあの頃は、今現在のように金融機関が普通に倒産するという常識は全く無かったと思います。


この年の課題曲は、比較的A「風と炎の踊り」の人気があったようですが、
今でもこの曲はあまり好きになれません。
前半の長さに比べて後半の「炎」の部分があまりにもあっけない感じがあったりもします。
BのWISHは、大好きな曲です。この曲独特のチャーミングな部分をうまく出せたチームは
結構書少なかったと思います。
Dのすてきな日々は、文字通り楽しい曲です。あのドラムセットはかっこよかったですね!

さてさて・・次回の番外編はこの1989年の課題曲について軽く触れさせて頂きたいと思います。
27.秋田南高校


C/バレエ組曲「火の鳥」~魔王カスチェイの凶悪な踊り・終曲(I.ストラヴィンスキー)


当ブログにおきましては「秋田南高校吹奏楽部」のあのあまりにも偉大過ぎで、
まさに「伝説の名演」に相応しい本当に人の心に確実に「何か」を伝えたあの素晴らしい名演の数々を
まさに・・・「これでもかっ!!」と言うほど、
何度も何度も取り上げさせて頂きました。
ま・・確かに自分自身「ちょっとしつこいかな・・」とも思ってしまう事が多々あるのですけど、
正直な話、秋田南は、34年以上全国大会金賞から遠ざかっていて、今現在の現役奏者の皆様に
「秋田南」の話をしたとしても
「え・・・・? 秋田南・・・?? 毎年確かに全国には出場しているけど銀と銅の繰り返しで
今一つ実績がない学校でしょ・・」と言われちゃうのかな・・(汗・・)

ここで私は声を大にして叫びたいです!!

「秋田南は、とにかく高橋紘一先生時代、特に特に・・1970年代後半から80年代前半にかけては
今現在の視点・感覚で聴いても全く遜色がない・・・否!! むしろそれ以上と言うか
今現在でもあの演奏から学ぶべきことは多々あるとてつもなく素晴らしい演奏を
一杯いっぱい・・・後世の私たちにこんなにも残してくれていたんだよ!!」と
伝えたい気持ちで一杯です!!
(同様な事は小林久仁郎先生が指導されていた花輪高校にも言えると思います!!)

そうした高橋紘一先生時代の中でも特に「5年連続金賞」を達成した1976年~1980念の演奏は
どの年の演奏も本当に素晴らしいものでした!!
どの年の演奏もキラリと光っていました!!
76年~77年のストラヴィンスキーの難解極まりない複雑なリズムの精緻とも言えるあのバレエ音楽を
とにかく新鮮で瑞々しい感覚で斬新に聴かせてくれたと思ったら
1978年は一転して三善晃の「管弦楽のための協奏曲」というこれまた大変な難曲を斬新に鮮やかに
聴かせてくれ、
そして、1979年~80年代にかけては、矢代秋雄・三善晃のこれまた難解極まりない邦人作品を
あそこまで内省的に深く深く表現してくれていて「内面の小宇宙」を大胆かつ精密に表現してくれていたのが
とっても印象的でした!!
あの頃の秋田南と同じ秋田県内の花輪高校の両校は、当時の日本のスクールバンドのまさに「生きるお手本」であり、
同時に両校ともに、後世の私たちをいまだに感動させ続ける素晴らしい演奏を残してくれていたと思います。

そんな両校・・・秋田南高校と花輪高校の過去のそうした素晴らしい演奏は、
あのt素晴らしい数々の名演から30年以上も経過してしまうと、私たちの「記憶」から消えてしまいがちですし、
当時の演奏全てがCDとして記録されている訳ではありませんし、
両校のあの素晴らしい名演を「知らない・・・聴いたことが無い・・・」みたいな方も結構いらっしゃると思いますし、
誰か一人ぐらいは、多少執拗であっても
「過去のこうした秋田県勢の素晴らしい名演をブログという形態であっても、文章という目に見える形で
何か残しておきたい・・・」という人がいてもいいんじゃないか・・・・という事で
普段は東方Projectとプリキュアまみれのブログではあるのですけど
「未来への継承の記録」として何かを残しておきたい・・・
そんな想いで、秋田南と花輪の演奏の事は今後とも、手を変え品を変え
色々な形でこうした「自分の思いを後世に受け継がれていければいいのかな・・」とも
思っています。

大変誤解がある表現かもしれませんけど、
気持ちが入っていないプロの醒めた演奏よりは、
秋田南高校や花輪高校の演奏には間違いなく「魂」が籠っていると確信しています!!!
そのくらい当時の秋田南と花輪は神がかっていたと思います。
たまたま使用していた楽器が「管楽器+打楽器」にすぎなかった・・という感じの演奏でもあります。
「所詮は吹奏楽アレンジ演奏でしょ・・」とか「所詮は、無謀なイロモノ演奏だね・・」みたいな
批判は全くの的外れ・・・、それだけは間違いなく言える演奏だと思います。

1983年の秋田南高校の自由曲はストラヴィンスキーの「火の鳥」でした。
秋田南のストラヴィンスキーと言うと、1976年のペトルーシュカ、そして77年の春の祭典という
まさに高校生、否! 吹奏楽の限界というか既存の殻をかるーーく超越したまさに歴史的名演に相応しい
素晴らしい演奏だと思いますし、その辺りは当ブログの過去記事でも散々書かせて頂きました。
(ちなみにですけど、当ブログにおいては、1982年の花輪高校のウォルトンの交響曲第1番の圧巻のあの演奏の事も
これでもかっ!というくらい記事にさせて頂いております!
ちなみにあの花輪高校の記事は、1982年・花輪高校/ウォルトン・交響曲第1番をご覧頂けると幸いです!
→ 1982年・花輪高校/ウォルトン・交響曲第1番 )

ストラヴィンスキーの「三大バレエ」と言うと、火の鳥・ペトルーシュカ・春の祭典なのですけど、
秋田南は1970年代でペトルーシュカと春の祭典で前述の通り稀有な歴史的名演を後世の私たちに残してくれましたが、
コンクールの評価としては、三大バレエの残り一つの「火の鳥」で金賞を取れなかったことは
大変勿体ない感じはありますし、高橋紘一先生としても心残りの一つだったのではないのかな・・と思ったりもします。
後述しますけど、秋田南の1983年の火の鳥は、単に「全国で銀賞だったんだ・・残念・・」の一言で済ませられる
演奏では絶対にないです!
火の鳥というと1990年代から21世紀に入っても素晴らしい演奏は色々と出ているのですけど、
私個人の感覚としては、この年の秋田南の演奏を超越する演奏は実はいまだに出てこないというのが
私の見解です。
そのくらい83年の秋田南の火の鳥は素晴らしい演奏だったと思いますし、
どうしてもあの火の鳥は、吹奏楽コンクールの中では「埋もれがちで忘れられがちな演奏」になっていますけど、
決してそんな事は無いと思います。
あの秋田南の火の鳥は、まさに「ファンタジー」そのもので、そこには「不思議なおとぎ話の世界」が実際の音として
具現化されていると思います。

吹奏楽コンクールでは、「火の鳥」を演奏する場合、魔王カスチェイの凶悪な踊りと終曲を演奏することが多いのですが、
中には、
御影高・今津中→王女たちのロンドと終曲
兵庫高校→魔王カスチェイの凶悪な踊り~子守歌~終曲という
パターンもありました。
兵庫高校の子守歌は、ファゴットが大活躍していて、あの歌心は大変素晴らしかったと思います。

83年の秋田南高校は、天野正道氏の名アレンジもあると思いますが、
とにかく音のファンタジー感が素晴らしいです!!
「火の鳥」は色々と名演がありますが、どちらかというと「凶暴さ」が前面に出る演奏が多いと思います。
そうした中、秋田南の「火の鳥」は、木管のしっとり感を前面に出し、夢見るようなあのうっとりとしたファンタジー感を
うまく出していたと思いますし、上記で書いた通り「おとぎ話」を音楽にしたような感じもします。

この学校の欠点である金管楽器(特にトランペット)の音の硬さは部分的に出てしまい、
特に終曲におけるあのトランペットのカチコチした感じは、もう少しやわらかい感じを演出出来ていれば
もっと「ファンタジー感」に磨きがかかっていたと思われます。
木管楽器のしなやかな響きと清涼感は素晴らしいと思います。
打楽器の扱いも上手いと思います。
特に終曲でのクラリネット群の音色の清らかさと自然な盛り上がりは
特筆すべきものがあると思います。
火の鳥の演奏は、最近の吹奏楽コンクールではどのチームも普通にハープとピアノを使用していますけど、
この年の秋田南は、そうした楽器は一切使用していません。
ピアノとハープの代用楽器として、ヴィヴラフォンとマリンバを使用しているのですけど、
それが逆に「おとぎ話としての面白さ」を演出しているようにも感じられ、私はあの効果的使用は大好きです。
それと90年代と最近の演奏の傾向として「魔王カスチェイの凶悪な踊り」の部分は、木管の動きが極度に細かい部分を
カットしている演奏が多いようにも感じるのですけど、
秋田南はそうしたカットは一切しないで、優秀な木管がそうした細かい動きも全てほぼ完璧に音楽として消化し、
技術的にも全く弱みを見せていないのは凄いと思います。

残念ながら課題曲のカドリーユが少々平板な運びで、硬さも随所に目立っていましたので、
それが銀賞に留まった原因のようにも思えます。

この銀賞は今でも納得いかないものはあります。

逆に言うと、これだけの演奏をしても金賞を受賞出来るという保証が無い時代に既に入ったと言えるのかもしれないですね。

この年の銀賞チームには、秋田南をはじめ、茨城・東海大学第一・兵庫などは、金賞との差はほとんど無いと
思いますし、この時代の金と銀の「明確な差」は付いていない時代に入っていたと思います。

この年の高校の部を締めくくるのに相応しい演素晴らしい演奏でした!

本記事をもって、1983年の高校の部語りは終わりです。

さてさて、次回以降は、1989年の高校の部語りをスタートさせて頂きたいと思います。
この年は、1990年代から今日の吹奏楽コンクールの「進化」を示唆する演奏、常総学院の「スペイン狂詩曲」の演奏が
特に突出していたと思います。
26.福岡工業大学付属高校


B/呪文とトッカータ(J.バーンズ)


1981年のケクランの「民衆の祭りのためのコラール」と1982年のリードの「春の猟犬」は
まさに吹奏楽コンクールの正統派の正攻法の演奏だったと思います。
例えば、1982年のBJの村井氏の高校の部の講評では、「名電は、この味を食べなさい!と威圧的に言う高級レストラン、
福岡工大付属は店はまだ小さいもののこの味を食べて下さいと優しく言う温かみのある街のレストラン」みたいな
大変興味深い対比を述べられていましたけど、この表現は、「まさにその通り!」という感じだと思います。
それくらい1982年の福岡工大付属の「春の猟犬」はとっても可愛くてチャーミングで
思わず「小さい子供を抱っこしてすりすりしたくなってしまうような」素敵な演奏だったと思いますし、
まさに正攻法の演奏だったと思います。

さてさて・・そうしたこの福岡工大付属なのですけど、そのわずか一年後には更に素晴らしい進化と飛躍を
見せ付けてくれていたと思います。
そう・・、この年には既に「可愛らしさ」みたいな言葉は相応しくなく、
既に名電みたいな「貫禄」というのか街のレストランからシティーの高級レストランに変貌した事を
見せ付ける演奏だったと思います。
前年の「春の猟犬」が正攻法の演奏とすると、この年は「王道を行く」ような圧巻の演奏だったと思います。

課題曲B/白鳳狂詩曲は、全国大会でも支部大会でも中々満足出来る演奏に巡り合えなかったのですが、
福岡工大付属の演奏は、私が知る限りでは最高の演奏だと思います。
この課題曲はヤマハ浜松も演奏しているのですけど、レコードの音源が
あまりにも音響が悪い宮城県民会館での実況音源という事もあり、確かに上手いのですけど、
録音のせいでとにかく音が固く感じられ、この課題曲の魅力を十分に伝えきれていないと思います。
ヤマハ浜松の原田先生の解釈も意外と淡泊で、後半のコラールのうねりはもっともっと壮大に表現して欲しかったような
感じもあったりはします。
福岡工大付属は、序盤のピッコロとクラリネットの掛け合いから徐々に気持ちが高潮していく部分や、ドラの響かせ方、
金管楽器の高揚感、どれをとっても申し分ない所です。
そしてこの年のこのチームの音の透明さはまさに「極限」にすら達していると思います。
音自体が大変美しいのに、そして同時に力強く鳴っていて、
まさに「美しさと力強さ」を両立できている見事なサウンドであり、それを実際に具現化できた課題曲だと
思います。
ラストのコラールの高揚感はまさに圧巻でしたね!
どちらかというと前半は高ぶる感情を抑制しようとする鈴木先生の意図が感じられ、後半にかけて
高まる感情を一気に爆発させた鈴木先生の解釈に共感するところ大です!

自由曲は、一転して「神秘」の世界に入り込んでしまったような錯覚に陥るほど
不思議な感覚をうまく表現しています。
同時にワイルドな部分も金管楽器を中心に豪快に響かせていますから、静と動、強弱の
コントラストが非常に鮮やかに表現されていて、実に気持ちが良い感じがします。
不協和音の音のぶつかりも、全然濁りや居心地の悪さも皆無で、とてつもない斬新な響きが
普門館の会場に響き渡っていたと思います。
この「呪文とトッカータ」は、打楽器が終始大活躍をしますけど、多彩な打楽器の一つ一つの「音のニュアンス」が
伝わっているようにも感じられ、
単に「ぶっ叩く」というのではなくて、一音一音に意味合いを感じさせていたのは素晴らしいと思います。
そしてこの年の金管楽器の優秀さは、まさに高校生離れですね!

これは既に1/3の兵庫高校の記事でも書いた事ではあるのですけど、 
福岡工大付属の演奏は、プログラム20番の東邦から27番の秋田南まで8曲の自由曲が収録された
「日本の吹奏楽83 vol.8」というレコードに入っていますが、
東邦・花輪・関東一・仁賀保の陰鬱で暗い世界を経て、兵庫の開放感と高揚感⇒東海一の躍動感
⇒福岡工大付属の神秘の世界⇒秋田南のファンタジーへと続いていきますので、全体的に
暗から明へというストーリーがあるようにも感じられ、聴いていてとてもヴァラエティーに富んでいますので
とても楽しい一枚だと思ったものです。

バーンズという作曲家は、日本においては、1982年のアルヴァマーを持って認知され始めたという
印象があります。
同年に「呪文とトッカータ」というこれまた素晴らしい曲で、大いに当時の聴衆を魅了しています。
というか、いつの間にか「呪文とトッカータ」というタイトルが「祈りとトッカータ」に変更に
なっていますが、なぜ表記名が変わったのでしょうかね・・・?
習志野高校は、当時も現在も吹奏楽の名門校で、自由曲はほとんどアレンジもので出ていますが、
1982年は、なんとこの「呪文とトッカータ」というオリジナル曲で臨んでいます。
これは、今となっては信じられない事かもしれませんがね・・・
だけど、正直演奏は粗いのが難点です。
この「呪文とトッカータ」は習志野と福岡工大付属以外のチームも全国大会でいくつか演奏されていますけど、
1983年の福岡工大付属を超える演奏はいまだに表れないというのが私の見解です。
それだけ逆にこの年の福岡工大付属の演奏が光っていたという事になると思います。

あ・・そうそう、残念ながら関西大会でダメ金で惜しくも全国大会へは出場できなかったのですけど、
吉永陽一先生が、兵庫高校から異動された西宮高校の1986年の「呪文とトッカータ」は、
実は「隠れた名演」だと私はいまだに思っています。
あの素晴らしい演奏がいまだに「知る人ぞ知る演奏」になっているのは大変残念な事なのですけど、
86年の西宮高校の「呪文とトッカータは、83年の福岡工大付属と共にこの曲の「双璧」となる演奏だと
私は思います!
25.東海大学第一高校


B/シンフォニア・フェスティーヴァ  Ⅰ.ファンファーレ Ⅱ.アリア Ⅲ.トッカータ (A.ランニング)


前年の1982年は、「呪文とトッカータ」で東海大会ダメ金で、全国大会への連続出場が一旦途切れてしまいますが、
翌年にしっかりとこうやって全国大会に戻ってくる辺りは「さすが!」という感じがありますね。
自由曲の「シンフォニア・フェスティーヴァ」はこの年の東海第一が全国大会初演です。
この曲は、全国大会では1996年以降は演奏されていませんけど、支部大会では忘れられることなく演奏され続けていますので、
やはりこの曲の普遍的価値は皆さんよく分かっていらっしゃる!という事なのだと思います。
演奏は一言で言うと、「積極的な攻めの演奏」に尽きると思います。
管楽器のダイナミックな響きが特にトランペットを中心にガンガンストレートに伝わってきますが、 
反面詰めが甘いというか、ミスが多く、音が非常に粗いため、「管楽器独特の生臭さ」も
伝わってくるような演奏でした。
トランペットが終始大活躍する曲ですが、ラストで息切れを起こしたのは少し残念な所です。
ソロトランペットは第一楽章の冒頭から第二楽章、そして第三楽章の至る所で大活躍する曲で、
東海第一の奏者も冒頭をはじめ、あのとてつもないハイトーンをものともせず大変生き生きとした躍動感のある
音楽を聴かせてくれていたと思います。
それだけにⅢのトッカータのラストのソロトランペットの息切れと音外しは大変勿体なく感じますし
「何も最後の最後であんなに盛大に音を外さなくても・・」とついつい思ってしまうぐらいかなり目立つミスでしたので
大変惜しかったです。
だけどあのソロトランペット奏者は、特に第一楽章の大健闘は素晴らしかったです!
第二楽章のアリアのたっぷりとした歌も申し分なかったです。
この曲は金管主体というか、どうしてもトランペットばかり目立ってしまいがちなのですけど、
全体的な音楽のつくりは大変生き生きとして、特に第三楽章は、木管の跳ね上がるような感じがとても楽しかったですし、
あの雰囲気はまさにオペレッタとかミュージカルみたいな「楽しい雰囲気」が大変素敵に表現されていたと思います。
全体的な印象としては、東海大学第一の積極果敢に攻める演奏とか思いっきりの良さにもすごく好感が
持てたものでした。
ただ、この東海大学第一の演奏は、今改めて聴くと、
テンポが速すぎて、曲全体が完全には消化出来ていない感じもします。
後にこの曲を自由曲に選んだチームと比べてカットを短くしているせいもあるのですが、
12分という時間制限の中で、「迷うことなく駆け抜けた・・だけど荒すぎた・・」という印象もあるのかもしれないですね。

この曲は、1987年に計3団体が全国で自由曲として取り上げられ
瞬間的に注目を集めます。
だけど、
明徳義塾は、単に豪快に鳴らしただけ・・
富山ウィンドは何か理屈っぽくて素直に楽しめないしカットも何か不自然・・
NTT中国は、課題曲が風紋のせいか、第三曲のみ演奏
でしたので、いずれもこの曲の名演の決定打にはなっていません。
という事で、コンクールでこの曲の素晴らしい名演はまだ出ていませんので
どこかのチームの素晴らしい演奏を今後期待したいものです。

この「シンフォニア・フェスティーヴァ」は、三曲から構成されています。

Ⅰ.ファンファーレ

 冒頭からトランペットのソロが大活躍します。
 クライマックスでのドラの鳴りが極めて豪快!!

Ⅱ.アリア

 木管楽器のしっとりとした表情が印象的。そんな中でもトランペットに
 ゆったりとしたソロの場面も与えられています。

Ⅲ.トッカータ

 ミュージカルみたいなノリの曲です。
 全員で楽しく踊りまくるみたいなイメージの曲で
 ホント、聴いているだけでハッピーな気持ちになれます。
 だけどエンディングのトランペットのハイトーンを決めるのは至難の業・・・

CDでは、東京佼成の演奏が一番素晴らしいと思いますし、この曲の数少ない決定打みたいな
演奏です。

最後に・・・

後年指揮者の榊原先生は、生徒に対するセクハラで逮捕され、吹奏楽界を永久追放みたいな感じに
なったのは大変遺憾な事です。
この時代から既にそうした兆候があったとの事ですが、やはり先生と言うか、指導者と言うものは
「天狗」になってはいけないものですね・・・
24.兵庫高校


C/スラヴ狂詩曲「タラス・ブーリバ」~Ⅲ.予言、そしてタラス・ブーリバの死(L.ヤナーチェク)


昨年におかれましては、当ブログの「吹奏楽コンクール」の私のたわいもない個人的な感想記事にも
あんなにも多くの皆様から素敵なコメントを頂けたことに本当に感謝申し上げます。
当ブログの吹奏楽記事は、FC2内からのコメントは正直・・極めて稀ではあるのですが(汗・・)
FC2以外の外部サイトから経由してこのブログをご覧頂けているばかりでなく、ああした素敵なコメントまで
頂ける事に、管理人としてはまさに感謝感激という事で、本当に「ありがとうございます!」という感謝の言葉を
改めて申し上げたいと思います。

本記事を持ちまして、今年の当ブログにおける吹奏楽語りをスタートさせて頂きたいと思いますので、
どうか本年度もこちらのカテゴリも宜しくお願いいたします。
また、これよく聞かれる事なのですけど
「プリキュア・東方記事を書いている人が本当にこの吹奏楽記事も書いているのですか? 両カテゴリの間には
とてつもないギャップがあり、もしかして同一ブログ内にライターが二人いるのですか?」
みたいなご質問を受ける事もあるのですけど、
いやいや、本当に東方記事を書いている人間がこの吹奏楽やクラシック音楽カテゴリを書いておりますので、
宜しくお願いいたします・・・(笑)
要は、私にとっては吹奏楽もクラシック音楽も東方もプリキュアも「私の楽しみの一つ」という事で、
別にどちらがこちらよりも価値があるとかすぐれているという事は100%無いと思います。
どちらもそれぞれ魅力的で素晴らしいものがあるという事なのだと思います。

1983年の吹奏楽コンクールの高校の部って、前半には、野庭・高岡商業・富山商業・習志野など素晴らしい演奏も
続出していたのですけど、なんか私の個人的感想としては、後半以降に凄まじく個性的で本当に素晴らしい演奏が
続出していたような印象があります。
特にプログラム19番の兵庫県の明石北高校の「ダッタン人の踊り」は本当に素晴らしく感動的な演奏でした!
そしてプログラム21番の花輪高校からこの年の最終演奏のまさにオオトリを務めた秋田南の「火の鳥」に至る
数々の素晴らしき演奏は、まさに圧巻だったと思います。
この当時は世の中に「CD」というものは出回っていなくて、吹奏楽コンクールの音源はCBSソニーの「日本の吹奏楽」という
レコードしか無かったのですが、「日本の吹奏楽83 VOL.8 高校の部」は東邦から秋田南の8チームが
収録されているのですけど、
この8チームの演奏が本当にヴァラエティーに富んでいて、下手な演奏もあればとてつもなく上手い演奏もあり、
聴いているだけでとてもわくわくさせられちゃいます!
(ちなみにですけど、この「日本の吹奏楽83  VOL.8 のレコードは、私の大切な宝物の一つです!)
劇的で悲壮な東邦のハムレットと花輪のベルク~三つの管弦楽曲と関東一のオセロの世界で「陰鬱な世界」を
私たちに伝えてくれ、輪を掛けるように仁賀保の交響三章でもって「和の陰鬱な世界」を提示され、
そしてレコードをひっくり返してB面に入るとA面の「陰鬱な世界」から一転して「明るく眩しい世界」に入ったような感じがあり、
同じ一枚のレコードなんですけど、その「ギャップ」に聴くたびにどことなく「ときめき」を感じていたものでした!
B面においては、兵庫の吉永先生にしては珍しいくらい正攻法でスタンダードなのびやかな音楽を聴かせてくれ
「自分たちは絶対に屈しない!」という感情の高ぶりをナチュラルに表現され、
それを受け継ぐように東海大学第一の「シンフォニア・フェスティーヴァ」の世界で「歓喜」の世界をこれでもかっ!と見せつけられ、
福岡工大付属の一転して「魔法の世界」に魅了され、
そしてトドメは、秋田南の「火の鳥」というまさに王道のファンタジーの世界に脳天が一撃されてしまった・・
そんな世界が一枚のレコードにギューーッと詰まっていると思います。
そう! このこの感覚はまさに東方のフランちゃんの「ギュ―――――ッとしてドッカーンの世界」そのものなのだと思います! (笑)

前振りが長くなってしまいました・・・(笑)

この年1983年の兵庫高校なのですけど、結果的に兵庫高校吹奏楽部の「偉大なる伝統と実績」の基礎を作り上げた
吉永陽一先生が兵庫高校を率いて普門館の全国大会に出場されたのはこの年が最後という事に
なってしまいます。
翌年の1984年の「フェスティヴァル・ヴァリエーション」も本当に素晴らしい演奏を聴かせてくれましたが、
84年はあの天理高校も同じ自由曲を演奏していたという不運(?)も重なり、結果的に84年の全国大会には
進めなかったのですけど、全国でも十分に通用する素晴らしい演奏を聴かせてくれていたと思います。
私はあの演奏は、日本ワールドレコード社によるカスタムテープでしか聴いていないのですけど、あの演奏は
生で聴いてみたかったですね!
だけど1984年の関西代表というと、淀工・天理も素晴らしい演奏でしたけど、同じくらい神戸高校の楽劇「サロメ」も
大変見事で艶っぽい演奏を聴かせてくれていたと思います。
吉永先生と言うと「下品でどこが悪いねん!」みたいにとにかく凄まじい個性の強さとアクの強さが漲っている
全国的にも大変有名な先生で、私・・育ちは東北と関東ですけど、
東北のスクールバンドに在籍中も、兵庫県の今津中学校の得津先生と、同じく兵庫県の兵庫高校の吉永先生の
名前は既に轟いていたような記憶がありますね!
そのくらいインパクトは強い先生だったと思います。
吉永先生は1986年以降は西宮高校に異動をされてしまうのですけど、西宮での全国大会出場がわずか2回に留まっている
という事実は大変勿体ないと思います。
それだけ「関西大会」が激戦である事の表れでもあるのですけど、
そうですね・・・1990年代の東京都大会とか四国大会とか中国大会とか東北大会ならば、
吉永先生=西宮高校ぐらいの技術と表現力を有していたら、間違いなくなんなく支部大会を突破し
全国大会でも「俺が吉永だ!」みたいな個性的な演奏を聴かせてくれていたと思いますので、
やはり「もったいないな・・」と感じてしまいますね!

あ・・・兵庫高校は吉永先生の異動後は、松井隆司先生という吉永先生すらも超越するとてつもなく個性的でアクが強く
大変指導力がある先生が赴任され、
吉永先生時代以上の名演を普門館の聴衆に聴かせていたのは皆様承知の通りです!

さてさて・・1983年の兵庫高校の演奏なのですけど、
意外な事に意外な事に・・・あの吉永先生にしては大変珍しい事に(?)
74年の「朝鮮民謡の主題による変奏曲」みたいなテンポのいじくり廻しとか
77年の「交響的断章」みたいな強奏と弱奏のとてつもない対比のギャップみたいな過剰演出は控え気味で
正攻法の何の小細工もなしに真正面から正々堂々と音楽に斬り込んだ!という印象が大変強く、
そしてその正攻法の演奏の「音楽的スケール」がとてつもなく大きくて、
奏者の自発性や積極性も吉永先生が大変巧みに引き出されていて、
まさに「高校生らしいのびのびとした躍動感のある演奏」を聴かせてくれていると思います。

課題曲C/カドリーユは、野庭・明石北みたいな「アクの強さ」は控え気味で、
どちらかというとキュートに可愛くまとめていると思います。
そうですね・・・従来の吉永先生だったら多分こうするんじゃないのかな・・?みたいな期待を実際の「音」にしたのが
花輪高校のカドリーユじゃないのかなとも思ったりもします。
確かに「カドリーユ」は私自身も演奏しましたけど、ああいう可憐な曲はヘンにいじくらないで楽譜の指定通りのテンポを
保った方がスッキリとまとまるんじゃないのかな・・と感じるだけに
吉永先生のそうした「スッキリ解釈」はむしろ妥当だったんじゃないのかな・・?と今更ながら感じますね。
(逆に吉永先生の課題曲解釈で「これぞ珍解釈!」と未だに語られているのは、87年の風紋と98年の稲穂の波ですよね!!)

だけどやはり圧巻は自由曲だと思います!
自由曲の「タラス=ブーリバ」は本当に素晴らしい演奏だったと思います。
結果的にこの年の兵庫高校はコンクールの評価としては銀賞という結果なのですけど、
いやいや! この演奏を単に普通の銀賞として片づけるのは実にもったいない演奏だと思いますよ!
東海大一・兵庫・秋田南・茨城の銀賞は、私個人としては「限りなく金賞に近い価値のある銀賞」だと思いますし、
これらの銀賞チームの演奏は、間違いなく普門館の聴衆に「何か」を伝えていたと思います!!
以前この「タラス・ブーリバ」を全国大会で演奏した福岡工大付属と長岡吹奏楽団は、重量級・金管楽器の咆哮という
印象が強かったのですが、兵庫高校の演奏は、それらの方向性とは全く異なり
カラッと澄み渡るような明るさ、開放感、どこまでいっても明るい響きで演奏していたのが
非常に印象に残っています。
79年の福岡工大付属は、「男泣き」とか「魂の孤独」とか「悲愴感」みたいな「叫び!!」みたいな印象が大変強いのですが、
83年の兵庫高校は、どこまでいっても「晴天が続いている・・」みたいな「明るさ・爽やかさ」が
私個人としては大変強く印象に残っています。
原曲の管弦楽版の演奏は、例えばノイマン指揮などのようにどちらかというと福岡工大付属みたいな
粗削り・骨太みたいな傾向の演奏が多いようにも思えるのですが、
ガーディナー指揮の演奏のように、天空を舞うとか、カラッと日本晴れみたいな爽やかな
演奏もあったりするものですが、兵庫高校の演奏は、このガーディナー指揮に近いような印象が私の中にはあったりもします。
原曲の打楽器は、ティンパニ・チャイム・シンバル・小太鼓・トライアングル程度なのですが、
兵庫高校の演奏は、長岡吹奏楽団の浅井先生アレンジの楽譜を使用しながらも、浅井先生の解釈とは全く異なり、
曲の中に「シロフォーン」をかなり効果的に使用し、めまぐるしい感じもうまく出せていたようにも感じられます。

とにかくこの年の兵庫高校の「高揚感」は特筆に値すると思います!

後述しますが、原曲自体、3人のメインの登場人物の「死」をテーマにしているのですけど、
兵庫高校の演奏は、「死」という陰鬱・厳粛・重たさという負のイメージではなくて
タイトルでもある「予言」、すなわち、この世にロシア民族がいる限り、自分たちは絶対に誰にも屈しない!という末代までの誓いを
高らかにのびのびと気持ちよく吹き上げているのが大変素晴らしいと思いますし、
ラスト近くの「弔いの鐘の音」すらも打ち消しようなこの「魂の叫び」が高らかに響き渡っていて
とても気持ちのいいものがあったと思います。
「楽譜」に表記されているものを単に「音の羅列」としてではなくて、そこに「自分達の気持ち」を高らかにナチュラルに
響かせたまさに素晴らしい名演だと私は思いますし、
私はこの演奏は大好きですね!!




タラス・ブーリバ



子供の頃、実家の本棚に「ジュニア名作集」とかいって、小学生高学年から中学生を対象年齢にした
世界名作作品集みたいなシリーズ本が100冊近く置いていました。
原作を概ねそのまま紹介しているのですが、
長編は適度にカットしながらダィジェスト版として
色々な世界各国の古今東西の名作を取り上げていました。

例えば・・・

〇アラビアンナイト

〇三国志

〇水滸伝

〇シャーロックホームズシリーズ

〇罪と罰

〇復活

〇ジェイン=エア

〇デカメロン

〇ベニスの商人

など色々と収録されていました。私の場合、こうしたダィジェスト版からまずは門戸を叩き
「カットされていない原作はどんな感じなのだろう・・」
「他の作品にどんなものがあるのか・・」
「同時代に他にどんな作品があったのかな」などと
色々興味を持ち、そこからある程度本を読むという習慣が中学の頃に出来ていたのかな・・とも思ったりもします。
その辺りは、吹奏楽コンクール耳にし「それではこの原曲はどんな感じなのだろう・・」とクラシック音楽に
興味を持つようになったのと理屈は同じなのかな・・とも思います。

1984年頃、東京文化会館で開催されたハインツ=レークナー指揮/読売日本交響楽団の
定期演奏会で演奏された曲目の中に
スラヴ狂詩曲「タラス=ブーリバ」という曲があり、
当日のコンサートパンフレットを読んでみて、
「あれ、このタラス=ブーリバって、昔読んだジュニア名作集の中の
 隊長ブーリバのことじゃん・・・」と気が付いたものでした! (笑)
というか・・・あんな殺伐とした物語がジュニア向け名作集に収録されている事自体、すごい話なのかもしれないですね。
あ・・・ちなみに「隊長ブーリバ」はアメリカで映画化もされています。

「隊長ブーリバ」の原作は、ロシアの文豪、ゴーゴリが執筆した小説「タラス・ブーリバ」なのですけど、
それに霊感を得てヤナーチェクが作曲したのが、このスラヴ狂詩曲「タラス=ブーリバ」なのです!

この曲は、ゴーゴリ原作の小説を忠実に再現しているというか、
三つの印象的な部分をそれぞれ楽章として音楽の形に残しています。

Ⅰ.アンドレイの死

Ⅱ.オスタップの死

Ⅲ.予言、そしてタラス=ブーリバの死

タイトル通り、主要登場人物は全員死んでしまう壮絶な話でもありまして、
アンドレイ・オスタップ共にブーリバの息子です。
ちなみにタラス=ブーリバは、ロシアのコサックで
当時対立していた隣国ポーランドと連日戦争と略奪に明け暮れているという背景があります。
もう少し細かく書くと、元々の経緯として、ポーランドのグリゴリー王子より
「自分たちに協力してトルコ軍を撃退すれば、ウクライナのステップを与える」という誓約があったにも関わらず
ブーリバたちのトルコ軍撃退をしたというのに、その約束は反故にされ、
ブーリバたちは土地を追われる事になってしまい、怒ったブーリバたちは、
グリゴリー王子の片腕を切り落として逃亡し、そのまんま山岳地帯に拠点を構える事になります。

アンドレイは、敵国ポーランドの領主の娘と恋に落ち味方を裏切ってしまいます。
だけど後にブーリバ軍に捕えられ、
タラス・ブーリバは悩んだ末、「息子を許すことは出来ない」との結論に達し
自らの手で息子を銃殺します・・・
この陰惨な話を音楽も忠実に再現し、
出だしのコールアングレのひそやかで悩み多いような雰囲気が、全てを象徴しています。
最後のチャイムの響きは、弔いの鐘を意味しているのかもしれません・・

オスタップは、アンドレイと異なり終始父親に忠実なのですが、
戦いの最中にポーランド軍に捕まり、公開処刑されてしまいます。
その処刑の最中、苦しさのあまり
「おとうさん、どこにいるのですか!!」と絶叫し絶命するのですが、
群衆の中に「ここにいるぞ」というブーリバの声がこだまします。
曲の中で「マズルカ」らしき部分が聴こえますが、これはポーランドを象徴しているのでしょう。
ラストは、クラリネットの悲鳴のような高音の響きが耳をつんざきます。
これはオスタップの絶命を意味しているのでしょう・・・

第三曲は「予言、そしてタラス=ブーリバの死」ですが、
最終的にブーリバ自身もポーランドによって捕まり公開処刑されてしまいます。
その処刑方法は火あぶりなのですが、その炎の中でも
「炎も拷問もロシア人民を負かすことは出来ない」という言葉を最期に残して絶命します。
この第三曲は、全体の中でも中心的な部分なのですが、
全体的に「荒ぶる魂」とか「男泣き」という表現がぴったりの音楽です。
音楽としては、かなり武骨に荒っぽいタッチなのですけど、
それが実にこの物語に合っていると思います。
第三曲は、前半の戦いの場面のアレグロの爽快さ、戦場にこだまする馬のわななきも
印象的なのですけど、後半は、チャイムに導かれたコラール的な部分が、
実に素晴らしいし胸にジーンときます。
男泣きという感じもするし、
「今は負けたけど、お前たちに未来はない」みたいな宣言・誓いみたいなコラール的な部分も
訴えかけるものがあります。

この曲は、ゴーゴリの作品を音楽として再現し、魂の叫びみたいなものを音楽を通して訴えかける素晴らしい作品だと思います。
ただ音楽自体は極めて武骨で荒っぽいので、初めて聴く人は
「何て洗練も品もないガサツな曲・・」という印象をもたれがたなのかな・・とも思ったりもします。

CDで聴く場合、

〇ノイマン/チェコフィル

〇マッケラス/ウィーンフィルが素晴らしいと思うのですが、

「荒っぽさ・武骨さ」だけではないガーディナー指揮の演奏も私は大好きです!
そしてこの演奏は前述の兵庫高校のあの素晴らしい演奏の「高揚感」に近いとも感じられます。
やや迫力に欠ける部分もあるのですが、
特に第三曲の何か爽やかな感じ、明るく澄み通ったような感覚
青空の下で戦っているかのような雰囲気は、他の演奏では感じなかった点です。
「タラス=ブーリバ」以外の収録曲の
ラフマニノフの交響的舞曲も実にメランコリーで申し分のない名演だと思います。

あ、忘れていましたけど、この曲はオルガンがいい働きをしています。
重厚感というか、地の底から響いてくる感じが実に曲にマッチしていると思います。
23.仁賀保高校


B/交響三章~第三楽章(三善晃)



結果論となりますが、高野豊昭先生は、1983年の仁賀保高校の演奏を含めて
三善晃の「交響三章」は新屋高校時代を含めて合計三回全国大会で演奏をされていますが、
率直に言うと、1983年の仁賀保の演奏ではなくて、1991年の新屋高校の演奏の方を高く評価しています。

1982年の仁賀保の演奏は、課題曲B/序奏とアレグロも自由曲の矢代秋雄の交響曲も
そのアレグロの素晴らしい透明感とスピード感は申し分なく、まさに「超高校級の名演」に相応しい
圧巻の演奏を聴かせてくれました。
全国大会初出場の演奏でこれだけの演奏を聴かせてくれたのだから、翌年の演奏もさそがし素晴らしい演奏を
残してくれたのかな・・と思われるのかもしれないですけど、
実は83年の仁賀保高校の演奏は、82年の演奏を超える事は出来なかったような感じがします。
このあたりはスクールバンドの難しさですよね・・・・
前年度が素晴らしい演奏を聴かせてくれたからと言って翌年もそうした名演を続けることが出来るのかと言うと
そうした保証は一つもありませんし、毎年コンクールの演奏メンバーが変わる難しさがあると思います。

上記で書いた通り、高野先生は三善晃の「交響三章」を全国大会で計三回も演奏されているのですけど、
その3回とも素晴らしい演奏を残せたかと言うと、必ずしもそういう訳では無くて、
やはりそこには、スクールバンドゆえの転任とか指揮者の交代とかがありますし、
とある年で名演が残せたからといって、別の年でその名演が残せた年と同じ自由曲を選んだとしても
必ずしも名演が再現されるという訳ではないのですね。
例えば、1980年に歴史的名演と言っても過言ではない秋田南の「交響三章」の演奏でしたけど、
その7年後に同じ指揮者の高橋紘一先生が同じく秋田南高校を80年と同じ自由曲で全国大会に臨み、
高橋紘一先生としての「勇退」という有終の美を飾ろうとされていたのですけど、演奏は、
大変申し訳ない言い方になってしまうのですが、80年の演奏には技術的にも音楽の感銘度的にも表現的にも
遠く及ばないな・・という印象をプログラム2番の生演奏を聴いて当時感じていたものでした。

そのくらい吹奏楽コンクールの演奏は、「継続性」が難しいものなのだと思います。

1983年の仁賀保高校時代の演奏なのですけど、
上記で書いた通り、82年の矢代秋雄の交響曲の歴史的名演の演奏があまりにも素晴らしすぎたせいか、
この年の三善晃の「交響三章」は正直今一つ冴えない印象があります。
もちろん演奏自体は決して悪くありませんし、技術的な問題点はほぼ無いと思います。
だけど、何となくですけどサウンドがくすんで聴こえがちで、陰鬱な印象を与えているのだと思います。
緊張感が内面に籠り過ぎたような感じの演奏でもあり、よく言うと緊張感をキープした演奏、
悪く言うと、終始ピリピリとした雰囲気が感じられ、相当好き嫌いは分かれるような感じでもあります。
演奏自体、82年のような透明感のあるスピード感に欠け、少しもっさりとしたような感じもあったのは
印象を幾分悪くされているようにも感じたものでした。
課題曲は、ラスト近くのコラールはもう少し高らかに歌い上げて欲しかったのですけど、
少しこじんまりとまとめた感じで、そこに「感動」という要素が少なかったようにも感じられます。
自由曲の交響三章も、テーマが暗示され膨らんでいく展開が、どことなく説得力に欠けていて
なんとなくですけど「理屈」で攻めているような印象も感じたものです。
音楽がどことなく数式の羅列のようにも聴こえ、
楽譜を正確に音に変えるのが精いっぱいといった印象もありました。

高野先生は、2000年にもこの「交響三章」を自由曲として取り上げられているのですけど、
課題曲がⅢ.胎動の時代という少し長めの曲という事で、83年・91年に比べて少し淡々というかサクサク進展しすぎ
みたいな印象もあり、
少し「せっかち」みたいな感じを持ったものでした。

そうした観点からも、高野先生の三善晃/交響三章の演奏は、やっぱりこの1991年の新屋高校での演奏が一番優れていて
技術的なレヴェルの高さとか内面的充実感の素晴らしさなど、
やはり、83年と91年の演奏を単純に比べてみても群を抜いて秀でた演奏だと思います。

改めてですけど、高野先生は少し気の毒な印象があったりもします。
だってあれだけの優れた指導力&指揮能力をお持ちで、楽曲の解釈にも大変素晴らしいアプローチを毎年のように
見せてくれながらも、
秋田県内で、秋田南高校と花輪高校という「二大巨匠」がでーーんと構えていて、80年代中盤以降、この両校が
全国大会で金賞を取れない時代が長く続いた背景もあり、「秋田県の東北大会への代表枠」が二つに減らされ、
そのとばっちりで高野先生指揮の仁賀保があれだけ見事な演奏を秋田県大会で聴かせても
東北大会にすら進めないというある意味大変不遇な時代が相当続いていましたからね・・・
このブログで何度も書いている通り、私は大の秋田南と花輪の熱烈的な信者(?)でもあるのですけど、
結果的に秋田南が一時的に没落したというおかげで(?)
仁賀保から新屋に異動された高野先生に陽が当たる時代が来るというのも
なんかとてつもなく皮肉なお話でもあるのですけど、
コンクールというものにそうした「悲哀」はある意味付き物ですから、これはこれで仕方が無いのかも
しれません。

私にとって三善晃というと何と言っても「交響三章」の研ぎ澄まされた世界が大変インパクトが強いです!
(もちろん、響紋とかレクイエムとかピアノ協奏曲とか夏の錯乱の世界も素晴らしいものがあると思います)
「交響三章」を全曲初めて聴いたのは19歳頃でしたけど、すさまじい衝撃度がありました。
確かにすごい難曲ですし、メロディーラインがどこにあるのかよく分かりませんし、
聴いていて楽しい曲でないのは確実です。
あの終始緊張感と研ぎ澄まされたピーンと張りつめた空気はこの曲の魅力と言っても過言ではありません。
この曲自体を初めて知ったのは、まだ16歳の頃かな・・・
1981年の全日本吹奏楽コンクール・東北大会の大曲高校の第二楽章の演奏がその初めての出会いでした!
いや、この演奏はマジですごいと思いますよ・・・!
あんな音楽的に完全に燃焼し尽くした音楽的充実度は特筆に値すると思います!!
そして第三楽章は、1980年の全日本吹奏楽コンクールの秋田南高校の演奏を収録したレコードで初めて知り、
管弦楽の原曲は、渡辺暁男の日本フィルのレコードで初めて耳にし、
生の演奏会は、1986年の都響の定期演奏会でそれぞれ聴きました。

やはり第三楽章の音楽的完成度の高さと緊張感は、相当なものだと思います。
ヴィヴラフォーンとフルートソロで開始される出だしの緊張感も相当なものがありますし、
ここで提示されたテーマが暗示的に徐々に盛り上がっていく感じというか、その音楽的展開が
非常に巧みで、
聴く人をすごい内面的緊張に陥らせます。
最後の盛り上がりが終わって、ドラ2台とシロフォーンによる余韻の効果も
計算し尽くされているようにも感じます。
そして最後はフルートソロで静かに閉じられていきます。

三善晃が既にご逝去されて今年で既に3年になるのですけど、このお名前と「交響三章」と「響紋」は、
このままずっと受け継がれていって欲しいと思います。

最後に・・・・

本記事をもって年内の「吹奏楽コンクール」語りは最後になります。
こんな私の個人的趣味とか偏見(?)に満ちた吹奏楽コンクール記事にお付き合い頂けた皆様には
感謝の気持ちで一杯です!
いつもご覧頂き本当にありがとうございます!
来年も当ブログの吹奏楽関連記事も宜しくお願いいたします!

そして来年の吹奏楽コンクール語りは、1983年のプログラム第24番・兵庫高校からスタートをさせて
頂きたいと思います!
(結果的にこの年が吉永先生としては最後の兵庫高校での全国大会となりましたけど、
あのタラス・ブーリバの演奏は本当に素晴らしかったと思いますし、吉永先生としては大変珍しい正攻法の
音楽的解釈が大変印象的でした!!)
22.関東第一高校


A/「オセロ」~Ⅰ.前奏曲 Ⅲ.オセロとデスデモーナ Ⅳ.宮廷への入場(A.リード)



関東一高と言うと、世間一般のイメージで言うと、楽天のオコエ選手に代表されるように野球部が強いというイメージを
持たれている方も多いのかなと思います。
だけど、私的には関東第一というといまだに「塩谷先生指揮の吹奏楽部」というイメージが大変強いです。
現在は男女共学になっていると思いますが、関東一が吹奏楽コンクールで栄光の3年連続金賞を
受賞していたころは、まだ男子高校でしたので、
絶対的なクラリネット奏者不足の状況の中で、サウンド構築という意味ではかなり大変だったと推察されるのですけど、
関東一は男子校特有のパワーと音量でねじ伏せる豪快な演奏ではなくて、
柔らかい響き・洗練された響き・丁寧な音楽運び・よく練られた音楽構成などかなり繊細な音楽づくりを
している印象がありました。
高校当時は男子校に在籍し、関東一と同じく慢性的なクラリネット奏者不足に泣かされていた私としては、
まさに羨ましい話でありましたし、羨望の眼差しで見ていたものです。

関東一高は、これはあくまで私の意見・感想なのですけど1990年の「華~吹奏楽のために」で「大化け」した印象が強いです!!
1984年~86年は限りなく銅賞に近い銀賞だったと思いますし、
87年~89年のロシアアレンジシリーズは、まさに「技術低迷・個性無し・感銘性無し」という
言わば「無い無いづくし」だったと思いますし、
「せっかく全国大会に出場しても銅賞ばかり取るこんなしょーもないチームが都大会代表になるくらいなら、
よっぽど関西・関東の代表校の枠を一つ増やして、都大会の枠を一つ減らせばいいのに・・・」と
思った時機さえあったものです。

だけど・・・・

関東一高は、上記の通り、1990年以降は別のチームのように進化を果たしましたし、
あの「突然何の脈絡もなく唐突に飛躍したような素晴らしい演奏」は、まさに「レジェンダリー」に相応しい数々の
見事な演奏を後世の私たちに残してくれていたと思います。

サウンドが別人チームのように生き生きと躍動し、技術も安定し、従来までのクラリネットの絶対的不足も解消され、
男子校特有の「木管セクションの脆弱さ」が見事に解消されていたと思います。

1989年から90年の一年間の間に一体何があったのでしょうか・・??
勿論、私は部外者なので知る由もありませんけど、1990年~95年の関東一高の演奏は
サウンド的にも音楽的に充実した内面性的にも、とにかく見事な演奏を聴かせてくれていたと思います。

さてさて、例えば「カンタベリーコラール」とか「ベトナムの回顧」などのような素晴らしい歴史的名演を後世の私達に
残してくれて関東第一高校も初出場の1983年は、「ちょっとね・・」と感じさせてくれる演奏だったのかなと
思います。
ま、初出場ですし、1983年の関東第一は学校全体が、ま・・そのちょっと「やんちゃな学校」でしたので、塩谷先生の
ご苦労も相当なものがあったと推察されますし、それでも都大会を突破されての全国大会出場を
果たされたのだから、それはそれで大変尊い事だと思います。
初出場時の演奏に関しては色々な方が「下手くそ」とか「とても後年の関東一とは思えないほどひどい演奏」と
言われているのを耳にしますけど、
そうですね・・・・私自身はあの「オセロ」の演奏は他人が言う程の酷い演奏とは思っていません。
(大変古くてローカルマニアックネタになりますけど、1982年の東北大会・高校B部門の保原高校の
あの惨憺たるオセロに比べると・・・全然普通の演奏です・・・)
1983年の関東第一の「オセロ」は、一言で言うと大変音色が暗いサウンドというか、音色が大変くすんでいるのが
大変気にかかります。一言で言うと「陰気な音」というのか「辛気臭いサウンド」だと思います。
この「暗さ」は逆にいうと「オセロ」の悲劇的なストーリーにとてもマッチしているようにも感じたりもしますけど、
同時にあの暗さは課題曲A/インヴェンション第一番の「健康的な明るさ」には程遠いものがあったと思います。
「男子高校」の演奏とは思えないほど演奏に元気とか活気が無く、陰鬱で地味極まりない演奏を聴かせてくれています。
オセロの第Ⅲ曲の「オセロとデスデモーナ」をかなり大胆にカットしていたのも少し印象を悪くしていたようにも感じます。
(あの大胆なカットの直前に瞬間的に塩谷先生が音楽を止めたかのような「瞬間の間」があったのは
大変印象的でした!)
Ⅳの宮廷への入場なんかは、さすがにもう少し絢爛豪華さとか派手さとか明るさはもう少し欲しかった感じはあります。

それと・・・
関東一の前の演奏団体があの・・・花輪高校!!
1983年の自由曲は、最早伝説と化しているベルクの「三つの管弦楽曲」~Ⅲ.行進曲という
現代無調音楽バリバリの陰鬱極まりない曲でして、もしかして、関東一も花輪のあの陰鬱なベルクの世界に感化されてしまい、
「オセロ」をあんな陰鬱気極まりない演奏になってしまったのでは・・・?なーんて事をいう人も
自分の周囲に何人かいたのも何か今となっては懐かしい思い出です。

関東第一の魅力の一つは、どちらかと言うと「サウンドの渋み」なのだと後年認識しましたが、その渋みが
いい方向で発揮されていったのが、1990年の「華」や91年の「トッカータとフーガ」なのだと
思いますし、開花したのが94年の「カンタベリーコラール」と翌年の「ベトナムの回顧」なのだと
思います。
そして1983年の「オセロ」については、まだそうした魅力が十分に聴衆に伝わりきれていなかったという事なのだと思います。

関東第一は、今現在はどうかわかりませんけど、当時は都内でも屈指のやんちゃな学校の一つだったと思いますが、
そうした「やんちゃ・・」みたいな感じは、その音楽からは感じませんでした。
恐らくですけど、関東第一をずっと長期間指導されていた塩谷晋平先生の類稀なる指導力が
相当大きかったと思われますし、塩谷先生の絶え間ない努力の結晶が
後年のあの素晴らしい名演に繋がったのだと思います。
私自身、都大会や全国大会で何度も塩谷先生の指揮を拝見させて頂きましたが、
何となくですけど・・・
生徒全員が塩谷先生を信じきっている雰囲気が、部外者の私にも伝わってくるかのような印象がありました。
塩谷先生自身は、大変惜しまれる事に2012年に急逝されてしまったのですが、
塩谷先生のご冥福を心よりお祈り申し上げたいと思います。
塩谷先生は、1997年以降は関東一を離れてその後青森山田高校に移られましたけど、
吹奏楽コンクールは、2012年にブリジストン久留米を振られています。
その全国大会の際には、既に体調も相当悪かったと聞いていますが、
それでも無事に全国大会でブリジストンを見事金賞に導かれ、そして・・・その数日後に
息を引き取られています。
あの話を聞いた時は、なんか心がきゅっ・・と引き締まる思いはありましたし、
「人生最期の瞬間まで、吹奏楽の指導という塩谷先生のライフワーク」をまっとうされた塩谷先生のそのお姿は
まさに尊いものがあると思いますし、
吹奏楽指導者というか一人の人間としての「矜持」を感じさせるものです。
コダーイというハンガリーの作曲家は、組曲「ハーリ=ヤーノシュ」という大変親しみやすくてわかり易い
素晴らしい20世紀の名曲がありますけど、クラシック音楽に精通した皆様の感覚で言うと
合唱の作曲の分野に貢献があり、ハンガリーの民謡を世界に広めようとした貢献度と
学校の音楽教育に熱心であった御方という印象も実はあったりもします。

吹奏楽コンクールではやたらと有名で自由曲として取り上げられる回数は多いのだけど、
原曲の管弦楽版は実はあまり演奏される回数が少ないという曲も実はあったりもします。
その典型的事例は、レスピーギのバレエ音楽「シバの女王ベルキス」なのだと思いますが、
コダーイのハンガリー民謡「くじゃく」による変奏曲もそうした曲の一つではないのかなと思ったりもしますね。
この曲は吹奏楽コンクールにおいては、1993年の野庭高校と土気中学校の素晴らしい名演によって
翌年以降一気に全国的にブレイクしたという印象があります。
私は、両校の演奏も普門館の生演奏で聴く事が出来ましたけど、私の印象としては、野庭高校の
あの音楽的感銘度は大変素晴らしかったですし、聴いていて本当に「ジ―――ン・・」と胸を打つものがありました!
そしてこのコダーイの「くじゃく」は今現在も忘れられることなく吹奏楽コンクールの自由曲として選ばれ続けている事を
考えると、やはりあの不思議な独特の「哀愁」に惹き付けられているような感じもあったりもします。

改めてですけどこのコダーイのハンガリー民謡「くじゃく」による変奏曲は本当に素晴らしい名曲だと思います。
この曲が世間的にはあまり知られていなくて、生の演奏会でも実は演奏頻度は必ずしも高くはない事が
不思議に感じられるくらい「隠れた20世紀の名曲」だと私は確信しています!
曲全体を貫く「哀愁」みたいなものは、本当に泣けるものがあります。
外国の軍隊とか国内の圧政者からの無茶難題や威圧にも屈せず、自分達の自由を取り戻そうとし
自分達の自由を阻害するものと戦った民衆のエネルギーと悲哀さが曲のすみずみまで
感じ取れる不思議な哀愁漂う曲なのですけど、やはり根底にあるのは「民衆の怒り」なのかもしれないですね。
それでいて、何か「大地に根をおろす」巨木のような安定感と
民謡をモチーフにしているせいもあるのですが、曲全体の素朴感とも重なり
魅力が尽きない一曲です。

「飛べよ、飛べ、くじゃくよ飛べ、牢獄の上に。哀れな囚人を解放するために」という
非常に短い民謡(確か大体8小節だったかな・・・?)を主題として、ここから16の変奏に
結びつけるコダーイの手腕にも敬意を表したいと思います。
その変奏部分も皆2~3分程度で短いものばかりですが、
歌あり、哀愁あり、泣かせる部分あり、踊りありとバラエティーに富んでいて
聴いていて飽きるという事はあまりありません。

曲は弱奏のティンパニーのトレモロの上に乗っかって低音楽器のハンガリー民謡の主題から
開始されるのですが、
このイントロ部分は聴くだけで哀愁を感じてしまいます。
やはり代々語り継がれる「民謡」というものは、人の心に訴えかける何かを持っているのかも
しれませんよね。

曲自体は、オランダのアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団創立50周年記念に委嘱されたものです。
主題となったハンガリー民謡「くじゃく」は、歴史的にオスマン=トルコ帝国の支配下に置かれていたハンガリーに住む人たちを
囚人として例え、ハンガリー人の自由への情熱を高らかに謳い上げたとも解釈できます。
そして同時に・・・
この曲が作曲された事態背景は、まさにあのヒトラー=ナチスがヨーロッパを征服しようと虎視眈々とし、
チェコはナチスによって国家自体が一時期分割をされ、領土の略奪を受けてしまっています。
作曲当時に勢力を強めていたファシズムに対して、コダーイとしては、コダーイとしての「反抗」を意図し
自由と人間性の擁護を訴えることを意味したある意味意味深で確信犯的な曲を作り上げるのです!

とにかく冒頭の低音で奏でられる「ミーレ シラシー」というメロディラインが本当に胸を打ちます。
この素朴なメロディーラインがこんなにも素敵に変奏されていき、
後半の壮大なスケールへと発展していきます。
冒頭のあの「ミーレ シラシー」というメロディラインは、序盤は「民衆の呻き」にしか聴こえないのですけど、
徐々に転調を重ね、ハープが入る頃には天上の音楽みたいな清楚で明るい雰囲気に変化していくのが
とても素敵です。

中沢けいの小説に「楽隊のうさぎ」という吹奏楽部に所属する少年をモチーフにした素敵な小説が
あるのですが、
1996年~97年の吹奏楽コンクールが主な舞台になっています。
96年のコンクール自由曲が、コダーイのハンガリー民謡「くじゃく」による変奏曲なのですが、
主人公の克久という少年のパートは、打楽器セクションなのでした。
原曲は、ティンパニとグロッケン・シンバル・トライアングルだけしか打楽器はないのですけど、
読んでみると、
「あれれ、この曲にそんなに打楽器を使っていたっけ?」と思わず感じてしまいますけど、
ま、それは管弦楽から吹奏楽へのアレンジではよくある話ですので・・・・(笑)







小説としての「楽隊のうさぎ」は、実は早くからこの小説を読んでいまして、
確か2000年暮れ頃には購入し読んでいたと思います。
この小説、吹奏楽部に一度でも在籍したことがある人とかその関係者、父兄の方が読むと
大変共感する部分が多いと思うのですが、
吹奏楽部に関わりが無い人が読んでも十分に楽しめるお話だと思います。
勿論、吹奏楽コンクールの話とか課題曲とか音楽用語も出てきたりはしますけど、
専門的な話とか高度な音楽内容の会話が出てくるという事はほぼ皆無ですので
大変分かり易い話だと思います。
ま、文章全体の感じが、作者の中沢さんが「ジュニア向け」という事も多少は意識されているような
書き方をされていますので、その意味でも安心感はあります。

ストーリーは特に複雑なものはなく、
掻い摘んで書くと・・・
「小学校時代の、いじめなどの嫌な思い出から、なるべく学校にいる時間は短くしたいと思っていた克久は、
なりゆきで最も学校にいる時間が長い「吹奏楽部」に入り打楽器を担当する事になる。
先輩や仲間たちとの交流を深め、しだいに音楽の世界にのめり込んでいき、
最後は普門館の全国大会の「シバの女王ベルキス」の演奏シーン、そしてブラボーコールで終わる・・」
という感じのものです。

この小説は単なる吹奏楽の話ではなくて、
吹奏楽部に在籍している「克久」という10代前半の男の子が吹奏楽部の活動を通して
成長を遂げていく、同時に反抗期とか親との関わり方みたいに
いかに子供が親離れをしていくのかといった側面のお話も色々と興味深いものがあると思います。

克久の家は父親が単身赴任中なのですけど、
母親から「お母さんに恋人がいたらどうする・・・」みたいなギクッとする質問を唐突に受けたり、
単身赴任から帰ってきていた父親と母親が自分の留守中に熱いキスを交わしている場面を
目撃したりとか、
二年生の夏休み中に、
「この時期を逃したら、永遠に子供らしい克久を連れて旅行に行くことは出来ない」と考えた母親が
無理矢理九州の兄の家への旅行に克久を連れ出そうとした際、
吹奏楽コンクールの練習と中々進歩しない打楽器セクションの音に苛立ちをつのらせる克久と母親の会話も
中々この多感な時期らしい子供の反抗期と「自立への芽生え」も象徴されていて
大変興味深かったです。

少し転記してみると・・・・

百合子(母親):「九州旅行の概略を説明」

克久(息子) :「休める訳ないじゃないか」

百合子:「あなたが来ないのならば、ベビーシッターに来てもらうしかない、
      あんた、その年でまだベビーシッターにお世話になるつもり・・・!?」

百合子:「来年は受験なのよ」

克久:「(ベビーシッターという言葉にカチンと来て)受験勉強はちゃんとするよ」

百合子:「そんな事言ってないでしょ!!」

百合子:「地区予選はシードなんでしょ、だったら夏休みの初めは少しぐらい練習を休んでも  
      いいじゃないのっ!?」

克久:「そういう問題じゃないだろ!」

克久:「シードだから俺が練習にいなくっていいって、それって嫌味で言ってるんですか!?」

後日、この瞬間に百合子は、「克久が既に自分の手に届かないところまで育ってきている・・・」という
事を自覚したみたいなモノローグも出てきています。

何かとても興味深いシーンだと思いますし、
中学から高校まで吹奏楽部に浸かりまくっていた私なんかも大変共感できる場面でもあると思います。

この「楽隊のうさぎ」は、小学生の頃みたいなまだ「自分」というものを持っていなくて
そして自分というものに確固たる意義と役割と自信が持てなかった克久という少年が
「吹奏楽部」という音楽組織の中で、「全体とパーカッション」・「パーカッションの中でのティンパニの役割」
みたいな事を日々体験しているうちに
「自分」という存在に気が付いていき、「自我」を確立していく・・・・
そんなお話の側面もかなり強いと思いますし、
「母親からの自立」・「親離れ」みたいなテーマも絡めていたと思います。
単なる「吹奏楽小説」ではなくて、親子の自立という側面も同時並行で進めている点が
大変素晴らしいと思います。

克久の同学年の同じく打楽器担当の「祥子ちゃん⇒しょうちゃん」が全体にホント、いい味を
出してくれていました。
ああいう少し風変わりな女の子が周辺にいるだけで、
何か面白いものはありそうですね。

この小説は、中学1年のコンクールと2年の時のコンクールを背景にしていますけど、
これが実在の課題曲だというのが実にいいですね。

中一の課題曲は、Ⅴ/吹奏楽のための交響的譚詩
中二の課題曲は、Ⅳ/行進曲「ラ・マルシュ」なのですけど、
これって1996年~1997年の課題曲でしたね。

中一の時の自由曲は、コダーイ作曲、ハンガリー民謡「くじゃく」による変奏曲
中二の時の自由曲は、レスピーギのバレエ音楽「シバの女王ベルキス」~Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ
となっています。
作者の言葉によると「ベルキス」は、1991年の千葉県・土気中学の演奏を大いに参考にしたと
ありますけど、
土気中の演奏も私も生で聴いていましたけど、気迫に溢れた豪快な演奏でしたよね。
作者の中沢さんは千葉出身だから、やはり当時は名門の土気中を意識されたのかも
しれませんよね。
ちなみに土気中の1993年の自由曲は、上記の「くじゃく」です。

克久のこの「くじゃく」のコンクールでの演奏の描写の中に
「克久の(大太鼓の)一発に続いて、マアさんのシンバルが華やかに響く・・・
くじゃくがその羽を震わせながら開く時そのものが、マアさんのシンバルの音だった。
すかさず金管が高らかにくじゃくの羽の輝きを繰り広げる・・・」
といったものがありますけど、
これは実に上手い表現だと思いました。
打楽器奏者の視点に立ちながらも、ラストのこの曲の閉じ方がよーく伝わってきます。

ちなみにこの小説の続編という訳ではないけど「うさぎとトランペット」という作品もありますけど、
こちらは小学生の視点から描いた作品で、
間接的に克久・祥子ちゃんも登場しています。

こちらも中々素敵な作品だと思いますよ!

ちなみにですけどこの「楽隊のうさぎ」は、映画化もされています!
21.花輪高校


C/三つの管弦楽曲~Ⅲ.行進曲(A.ベルク)


1978年に小林先生が花輪高校に赴任され、ラフマニノフの1番~ショスタコ―ヴィッチの1番~
ハチャトゥーリアンの2番~プロコフィエフの3番と
「俺が花輪の小林だっ! どだっ! 参ったかぁー!」みたいな独特のロシアマイナーシンフォニー路線を歩み、
小林先生のこの間の歩みは、まさに「軌跡は奇跡!」みたいなものだったと思います。
本当に素晴らしい名演が続出していました!
そうした順調な軌跡の中、1982年の東北大会では、ウィリアム=ウォルトンの「交響曲第一番第四楽章」を
感動的に高らかに鳴り響かせてくれて、当時、吹奏楽とかクラシック音楽なんかそれほどまだ興味がなかった私自身を
クラシック音楽の深い森の中に引きずり込むきっかけを作ってくれたのですけど、
結果はダメ金で全国大会に進めないという大変残念なな結果になったものでした。
私としては今でもそう感じるのですけど、是非是非全国大会の普門館の聴衆にあのウォルトンの孤高な世界を
聴いて欲しかったですし、出来ればあの交響曲のテーマでもある
「人間の不安感は不安をもって対処するしかない」という不安と葛藤のシンフォニーのあの重量感ある響きを
伝えてほしかったです!
そしてCBSソニーから出ている「日本の吹奏楽」というレコードという一つの記録媒体にあの素晴らしき花輪の演奏を
しっかりと刻印して欲しかったですし、
目に見える音源として永遠に記録を残して欲しかったです!

そしてその翌年に小林先生=花輪高校が自由曲として選んだ曲が、ベルクの「三つの管弦楽曲」~Ⅲ.行進曲
というものだったのです。
タイトルを初めて耳にした時の私の率直な感想と言うものは、
「そっか・・花輪高校の小林先生は前年のダメ金が余程悔しかったのかな・・」
「今までのような難曲のマイナーシンフォニー路線から、万人受けする明るく爽やかなマーチ路線に
シフトしたのかな・・」と当時は思ったものでした。
(当時高校生の自分には、ベルクみたいな無調音楽の存在は知る由もなかったです・・
 というか、マーチという曲のタイトルから「そうなんじゃないのかな・」と勝手に連想しただけです。)

だけど・・・ そう! 花輪高校の小林先生はそんな一年足らずの挫折だけで、自分のやりたい音楽を
引っ込める御方ではないのです!

でも当時は、まさかああいう無調音楽バリバリの路線で勝負を掛けてくるなんて夢にも思わなかったです。

この演奏を初めて聴いた時は、「何じゃ、これ?」という感じでした。
だってメロディーは全くないし、喜怒哀楽のような表情が全くないし、
何となく音符を機械的に割振っただけのような感じもありました。
当初は、「一体この曲のどこが行進曲なの・・?」みたいな思いで一杯でした!

このベルクの「三つの管弦楽曲~Ⅲ.行進曲」は、とてつもない陰鬱な曲でして、
この曲を耳にしただけで「生きているのが嫌になってしまう・・」みたいな感じでもありました。
前年のウォルトンの1番が「不安感」をテーマにした曲とするならば、ベルクのこの曲は、私のイメージでは
不安どころじゃなくて、絶望・死・憂鬱・負の連鎖みたいな言葉がぴったり合いそうな感じです。
さてさて、この曲は途中で視聴覚的にとてつもないインパクトを与える箇所が登場します。
何かと言うと、打楽器奏者が木製のハンマーを持ち、このハンマーでもって鉄の棒らしきものを叩きつける
場面があったりもします。
あのハンマーは、叩きつけられた瞬間に「ゴツン!!」ととてつもない残響音を発生させ、
聴く者に間違いなくインパクトと驚きは与えていると思います。
ちなみにですけど、マーラー/交響曲第6番「悲劇的」~第四楽章でもこのハンマーの叩きつけが登場しています。
参考までに・・マーラーはベルクの師匠でもあります。
マーラーの場合のあのハンマーが象徴している事は「英雄が一撃で倒されること」との事です。
ベルクの場合はどうなんだろ・・・? あのハンマーは「どうしようもない自分の運命を呪う呻き」みたいにも聴こえたりもします。

「日本の吹奏楽83」のレコードの裏ジャケットには、花輪高校の演奏写真がカラーで掲載されていて、
その演奏写真を見てみると、打楽器奏者の一人が、まさにハンマーを叩きつけている演奏箇所のようにも見えます。

結果的にこの年の花輪高校の演奏は、吹奏楽コンクールとしては銅賞という評価を得ているのですけど、
花輪高校の演奏は決して悪いものではなく、技術的には確実性があります。
1983年の同じ銅賞でも、関東一高とか日大豊山みたいな演奏と同一レベルでは絶対にとらえて
ほしくないと思います。
あの曲の難解さや鬱々とした感じが審査員に受け入れられなかった事なのだと思いますし、同時にこうしたコンクールは、
審査員の好き嫌いが間違いなくあるもんだな・・と感じたものです。

1983年前後の高校の部って、まだ普通にヴェルディとかワーグナーが自由曲として演奏されていて、
ベルクやシェーンベルクみたいな超難解の無調音楽バリバリの音楽を
自由曲にしようなんていう発想はまずありえなかったと思います。
だけどそうした従来の「吹奏楽コンクールの非常識」にあえて積極果敢に挑戦し、
「吹奏楽コンクールは常識に囚われてはいけない世界」という事を私たちに提示してくれた花輪高校の小林先生の
功績はあまりにも大きいと思いますし、
この小林先生の姿勢に、この演奏から33年後の私から、強く強く敬意を表させて頂きたいと思います。

1983年のBJ12月号の講評において、花輪高校の演奏は、とある審査員から
「あの演奏は曲解である」と評されていましたけど、この場合の「曲解」とは「音楽の解釈上での誤解」との事らしいです。
でもそれって違うんじゃないのかな・・・・?
音楽という一つの素材をどのように料理し、その素材からどのような表現をもって聴衆に自分たちが伝えたい音楽を
伝えるのかというのが指揮者の役割なのだと思いますし、
指揮者というものは自分の解釈を最大の拠り所にして音楽づくりをしていくのだと思います。
だからそうした「指揮者としての解釈」を単に「曲解=誤解」という表現でバッサリ切り捨てるのも
果たしてどうなんだろ・・と、1983年に高校生だった私は考えておりましたけど、その思いは今も全く変わっていないと
思います。
確かに小林先生=花輪の課題曲C/カドリーユは、少し風変りです。
テンポをいじくり廻しているし、この課題曲はどちらかというと前のめりみたいな感じのほうが曲のイメージには
相応しいのかもしれないですけど、花輪のカドリーユは、少し後ろのめりみたいな感じがあり、
なんとなくわざとリズムを後ろにずらしてどことなくですけど「音を引きずっている」みたいな雰囲気を
出しているのかな・・?と私的には感じております。
だけどそうした解釈は小林先生の自由な発想と音楽づくりに基づくものですし、それも一つの立派な音楽表現なのだと
思います。
(自由曲を含めて聴く人による好き嫌いがはっきりと分かれる演奏というのは私も認めますけどね・・)
指揮者がその音楽から何を感じ取り、それをどう表現するかは指揮者の自由であり、それは最大限尊重して
然るべきものじゃないのかな・・?
だって・・そんな「曲解」なんて言葉を出されてしまうと、そうですね・・・たとえばクラシック音楽の巨匠と言われる先生でも、
ストコフスキー指揮/フィラデルフィア管弦楽団のあの個性的な演奏は、まさに「曲解」だらけだと
思うのですけどね・・・・

自由曲のベルク/三つの管楽曲~Ⅲ.行進曲ですけど、
今現在の感覚で聴いても「よくこんな難解な曲をこれだけ立派に消化したもんだ・・」と舌を巻くばかりですね!
小林先生のアレンジも原曲の雰囲気を全く損なわせない素晴らしい編曲だと思います。
確かにあの花輪の演奏も、そうですね・・・たとえばカラヤン指揮/ベルリンフィルの王道的解釈から見てしまうと、
確かに「曲解」と言われてしまうのかもしれないですけど、
高校生の技術・感性でもってあそこまでベルクの「陰鬱で無機質な世界」を立派に表現していたのは
驚異的だと思います。
あの演奏を改めて聴いてみても、技術的に消化できていない箇所はほぼないと断言したって構いませんし、
トロンボーンの弱奏の幽玄極まりない音とかトランペットの勇壮さと狂ったような感じの混在感とか
全体をしっかりと支えてコントロールしている強いクラリネットセクションなどは本当に立派だと思います。
原曲は前述の通りバリバリの無調音楽なのですけど、そうした曲を演奏した楽器がたまたま管楽器と打楽器のみであったと
言ってもいいほど、原曲を尊重したというのか原曲の雰囲気を壊さずに
吹奏楽としての「無調音楽」に積極果敢に挑戦した大変意欲的な演奏とも言えるのだと思います。

最後に・・・

ブレーン社の「レジェダリシリーズ」の第一弾が発売されていた当時、
確か初回特典として「第一弾の5枚のCDを購入された方に、埋もれている名演三つを収録したCDを
プレゼント!」というものがあったと記憶していますけど、その三つの中に、
銅賞ではあるのですけど1983年の花輪のベルクが収録されていたと思います。

そうですね・・・これは私から言わせて頂くと「わかっている人はちゃんとわかっているんだねぇ・・!!」というもので、
当時の私も妙に嬉しかったものでした!
20.東邦高校


B/吹奏楽のための組曲「ハムレットへの音楽」~Ⅰ.Ⅲ(A.リード)


「とうほう」というとなんか最近の当ブログは「東方Project」の事ばかり書いていますけど、
吹奏楽でとうほうというと「東邦高校」なのかな・・?
余談ですけど、Yahoo!で当ブログの名称でもある「受け継がれるべきもの」と検索を掛けると、なぜか・・・?
補助ワードとして「ハピネスチャージプリキュア」と「東邦高校」と出てくるのはどうしてなのかな・・?

世間一般には東邦高校というと高校野球というイメージがあるのかもしれませんし、古いファンの皆様ですと、
あの「バンビくん」というピッチャーを思い起こす方も多いのかな・・とも思います・・(笑)
あのバンビくんは、最近で言うと日ハムの元・ハンカチ王子の斎藤投手とか元ヤクルトの荒木投手のような
元祖・女の子たちから人気が高く追っかけも現れた「甲子園のアイドル」の走りと言えるのかもしれないですね。
あ・・甲子園のアイドルの元祖というと、三沢商業の準優勝投手の太田投手の方が印象が強いのかな・・?
(そういえば、太田投手は「巨人の星」でも原作漫画に登場し、オープン戦とは言え星飛雄馬と投げ合い、最後は
握手までしていましたよね! 笑・・)

冒頭から話がそれました・・・

オールド吹奏楽ファンというのか・・・私の世代よりももう少し上の超(?)オールド吹奏楽ファンの皆様の視点で
見てみると、稲垣先生が指揮された「東邦高校」というのはとてつもなく懐かしい名前じゃないのかな・・?とも
思いますね。
東邦高校が順位制で優勝を成し遂げた頃の高校の部って、例えば・・・天理高校・天王寺商業・大宮工業・福岡電波
あたりがとても際立っていたと思いますし、そうした中での有力校の一つがこの東邦高校だったと思います。
稲垣先生の東邦高校の演奏は、私自身も支部大会・全国大会で拝見させて頂きましたが、
一言で言うと大変端正な指揮という印象で、稲垣先生自身はいかにも「昭和の頑固おやじ」みたいな雰囲気も
あったのかな・・とも感じたものでした。
余談ですけど、稲垣先生の吹奏楽コンクールご勇退の年は1987年で、まさに昭和が終わる直前の時代でした。
普門館最後の演奏のヴェルディの「レクイエム」も、悪く言うと「時代錯誤」みたいな雰囲気もあったのですけど、
それでも稲垣先生らしい正々堂々とした「貫禄」は十分に客席にまで伝わっていて、確かに音量過剰気味の演奏で、
評価も銅賞でしたけど、あの演奏は稲垣先生の勇退に相応しい正攻法の演奏であり、
当時普門館で直接あの演奏を生で聴いていた私の胸にもどこか熱く響いてくるものは間違いなくあったと思います。

1950年代~60年代の高校の部の吹奏楽界をリードした東邦高校も80年代以降になると、東海地区の
御三家(名電・浜松工業と商業・東海大学第一)に代表の座を明け渡すことが多くなり、
全国大会に出場する事自体が大変厳しい感じになっていたと思います。
東海支部は、たまにですけど白子高校も全国に出場していましたし、82年は、私がとにかく大好きで仕方が無くて
いまだに当ブログでも定期的にその名前を挙げている松村禎三の交響曲を演奏した屋代高校みたいな新鋭が
代表の座を掴むこともありましたし、当時の状況は結構厳しかったのかもしれないですね。
そうですね・・・・東海大一がダメ金の時とか、浜松工業を長年指導されていた遠山先生が浜松商業に異動された前後の頃に、
東邦高校が「漁夫の利」みたいな感じで(?)代表になるというパターンがこの当時はあったような気もします。

1983年は、78年の「カディッシュ」以来だから5年ぶりの全国大会出場を果たしていました。

そうそう、この当時の東邦は、まだ男子高校でしたけど、サウンドが意外と柔らかく、クラリネットの音色が
非常に美しかったのが印象的です。
よく言えば、非常によく統率されていて端正で、演奏自体は特に大胆な解釈とか表現はとらずに
どちらかというとオーソドックスな演奏をしていたと思います。1960年代のような正統派の正攻法の演奏スタイルだったと
感じ取れます。
悪く言うと、指揮者の棒の通り吹いているという感じの演奏でした。
(指揮者の先生の言われたとおりに吹くという雰囲気は、1981年の逗子開成みたいな雰囲気に近かったような印象もあります)
少しこじんまりとまとまり過ぎているというか、若干スケールに欠けるとか
「盆栽」みたいな演奏になっていたのは惜しまれますし、時代は既に80年代に入っていた訳ですから、
もう少し個性とか奏者の自発性とか積極性も出して欲しかったようにも思えます。
サウンド自体は大変音に透明感があり技術的には特にいう事はない演奏だとは思えます。

課題曲の白鳳狂詩曲は、もう少しサウンドにうねりとスケールの大きさを伝えてほしかったですし、
どちらかというと無難にまとめ過ぎこじんまりとした演奏になっていて、
私の印象としては「少し消極的な表現なのかも・・」と感じたほどでした。
木管セクションが優秀なんだけど、課題曲前半のクラリネットとピッコロの掛け合いの部分がもたつくようにも
聴こえましたし、金管の破裂音も少し気になったものです。
自由曲の「ハムレットへの音楽」は、プロローグとエルシノア城あたりは、大変丁寧で誠実な音楽づくりをされている意図は
とてもよく分かるのですけど表現自体はかなり淡白すぎて、もう少し「歌って欲しい・・!」と感じたものでした。
少し淡々と進行しすぎていたのかもしれないです。
この部分を例えば1984年の野庭とか88年の市立川口のたっぷりと歌い込んだ演奏を一度聴いてしまった後に
東邦のハムレットを聴くと、いかに東邦が淡白なのかはわかって頂けると思います。
Ⅲの役者たちの入場のクラリネットセクションの優秀さと美しさは際立っていると思います、
Ⅰの後半部分のクローディアス王の宮中も、ラストは大変高らかに鳴らして歌い上げていましたので、
この辺りの追込みは「さすが名門校!」みたいな貫禄は感じさせてくれていたと思います。
個人的にはラストのチャイムはもっと盛大に鳴らして欲しかったし、金管はもっと音量があってもよかったと思います。

翌年のジェイガーの交響曲の際は、83年とは逆に幾分「荒っぽいドライヴ」の演奏になっていて、
あれはまさに「豪快なやんちゃな男子校」みたいな演奏でして、83年との違いが感じられて大変興味深かったです!
東邦は確か、1985年以降から男女共学になったと思います。

東邦高校って面白いのは、毎年そうなのですけど、演奏が終了すると同時に、小太鼓が「タンッ」と一叩きして
奏者全員が間髪入れずに立ち上がるというスタイルがありましたけど、
あれは東邦の「伝統」だったのかな・・・?
指揮者の稲垣先生が勇退された最後の全国大会の1987年のヴェルディ/レクイエムの時も
ああいう感じで演奏を閉じられていたのは大変印象的でした。
私が中学生くらいの頃って、こっくりさんとか口裂け女とかノストラダムスの大予言とか
世間的に「オカルトブーム」が起きていたような気もします。
そうですね・・・あの雰囲気は「東方Project」の「東方深秘録」における各キャラたちが各自がチョイスした都市伝説を
元ネタにして展開していたあの世界観を彷彿とさせるものがあったのかなと思います。
当時爆発的に売れていた「ノストラダムスの大予言」においては、1986年に惑星一直線が起きて第三次世界大戦が
勃発するとか1999年に太陽系の惑星がグランドクロスを起し、その十字架の中心にいるのは地球自身で、
その年にこそまさに黙示録とか旧約聖書で提示されているような「最後の審判」が起き、全人類が滅亡するみたいな事を
盛んに煽り立てていて、当時の中学生・高校生たちあたりに相当のインパクトはあったのかな・・・と
今にして思うと感じる事があります。
ま・・結果的に1999年7月の「恐怖の大王が降臨」とか「全人類滅亡」と言うのはとてつもないガセネタであったというのは、
ま・・・皆様、既にご存知の通りの話だと思います。
余談ですけど、1999年7月は、当時私が在籍していた金融機関が破綻認定を受けて、結果的に倒産みたいな
事になってしまった年月日でもあるのですけど、当時あの金融機関に在籍していた人たちは、
まさにあの破綻認定こそが「恐怖の大王降臨」と言えるのかもしれないですね・・・

私が子供の頃は、「人類滅亡」の主要因は、宇宙人による地球侵略なんて荒唐無稽な事が
むしろ当時の子供たちの主なイメージと言えたのかもしれないです。
大きくなるにつれて、人類滅亡の原因は果たして何なのかな・・・と考えた時、
やはり考え付くのは、①核戦争の悲劇 ②環境破壊ではないのかな・・と思ったものでした。

そうした事を吹奏楽からアプローチした作品の一つが、カレル・フーサの
「この地球を神と崇める」という大変な超大作なのではないかと思います。
フーサと言うと「プラハのための音楽1968年」と言う大変政治的メッセージ色の強い曲が一番最初に
思い浮かぶ方も相当多いとは思うのですが、
「この地球を神と崇める」という作品もフーサにとってまさに神がかった渾身の名作だと思いますし、
政治的メッセージというよりは「全人類への最後の警告」みたいな感じの一曲だとも思いますし、
まさにこれは絶対に忘れてはいけない素晴らしい吹奏楽オリジナル作品だと思いますし、
私たちが絶対に忘れてはいけない曲で、後世の人たちに永遠に受け継がれて欲しい作品だと思います。

前述の通り、フーサは、「プラハのための音楽1968」という大作で、吹奏楽コンクール等でもすっかりお馴染みの
作曲家の一人だと思いますけど、
「この地球を神と崇める」という作品は、あまりにも難解なテーマ・難しいテクニックと表現方法によって
長らく吹奏楽コンクールでは全く見向きもされない作品でしたが、
1993年に都立永山高校がこの曲を自由曲として取り上げ、そして歴史的名演を残してくれた
おかげで、この曲が一気に認知されていったようにも思えます。
「プラハのための音楽1968」は、当時の「チェコ動乱」→ソ連軍侵攻とチェコ国民の苦悩と怒りを
音楽として取り上げたものですけど、
題材は「チェコスロバキア」というあくまで一国をクローズアップしたものでした。

「この地球を神と崇める」は、チェコスロバキア一国という問題にとどまらず
人類全体、いや地球全体の問題提起としてこの曲を作曲し、
「この美しい地球の環境破壊を果たしてこのまま放置して本当に良いのか・・・」という事を
既に1970年代の時点から「吹奏楽作品」という音楽を通して「メッセージ」を伝えた事は
大変意義が大きいと思います。
現在の地球環境の激変・温暖化現象・PM2.5・世界各地の公害・異常気象などは
一国政府だけで解決できる簡単な問題ではないはずです。
世界各国が「共通問題」として最優先に取り組むべき課題の一つだと思うのですが、
自国の利益・利害調整の壁に阻まれ、なんら有効な対策を一つも打ち出せていない・・・
こうした事態・現象に、既に40年前から音楽を通して「警告」を発してきたフーサの「先見の明」は
大変なものがあると思います。

全体として25分前後の曲なのですけど、聴くだけでかなり気分は重くなります・・・
決して「気軽」に聴ける音楽ではありません。
だけど作曲者からの「強いメッセージ」は痛いほど伝わってきます。

フーサ自身が、スコア冒頭に、かなり長めの文章を掲載しています。

簡単に記すと・・・

この曲は、いまの人類が直面する様々な問題――戦争や飢餓、種の絶滅、環境汚染などが動機となって生まれた。
この美しい地球の破壊や荒廃が、幻想に終わることを祈るばかりである。

 第Ⅰ楽章 地球は宇宙の中の点として描かれ、次第に大きくなり、悲劇を予感させる。
 第Ⅱ楽章 放射能で破壊され、傷ついた地球が描かれる。
 第Ⅲ楽章 地球は宇宙の彼方に砕け散る。奏者は「この美しい地球」と声に出す。
         そしてこんな疑問が浮かび上がってくる
        「なぜ、私たちはこんなことをしてしまったのだろうか?」・・・

「プラハのための音楽1968」は、具体的な事件に対する「チェコ国民の怒り」をテーマにした
ある意味具体的な内容の作品なのですけど
「この地球を神と崇める」は、非常に抽象的な内容なのだけど、強いメーセッジ性を有しています。
一言で言うと、この曲は「地球の泣き声、慟哭」なのではないかな・・とも思えます。
環境破壊に蝕まれた地球自体からの「悲痛な叫び」を強く感じてしまいます・・・

だからこそ、この曲を25分間聴き続ける事は非常にしんどいのだと思います。

マーラー/交響曲第8番「一千人の交響曲」は、地球、いや宇宙の振動・鼓動を描いた作品ですけど
フーサの「この地球・・・」は地球の慟哭なんですよね・・・・

「この地球を神と崇める」は、以下の三楽章から構成されています。

Ⅰ.神と崇める

Ⅱ.破壊の悲劇

Ⅲ.終章(エピローグ)

この曲を生で初めて聴いたのが、1993年の都大会の都立永山高校でしたけど
その都大会のプログラム表記を見てみると、

「この地球を神と崇める」より、Ⅱ.破壊の悲劇 Ⅲ.終章~なぜ私たちは・・・・・
と記されていますけど、
「なぜ私たちは・・・・」は正式タイトルではないはずだから、これは永山のいかにも馬場先生らしい
メッセージなのかもしれませんよね。

吹奏楽コンクールでは、ⅡとⅢのカップリングが多いのですけど、
この曲の真骨頂は、実はⅠなのかもしれません・・・
その位、最初から「衝撃度」が計り知れない曲なのです。

Ⅰは、静かなクラリネットのソロから曲は始まり、次第に他の管楽器や打楽器が
加わっていき、緩やかに曲は盛り上がっていきます。この楽章は終始、不気味かつ
神秘的な雰囲気が保たれているのですけど、途中でチューバ等低音楽器の大胆な使用もあって
その静と動の対比は半端ないものがあります。
Ⅱは、一変し、強烈な打楽器から始まっていきます。
破壊の悲劇というタイトルのように、管楽器は様々な旋律を荒々しく奏で、
そして打楽器の激しさが、破壊の規模に拍車を掛けていきます。
Ⅲは、破壊した地球が宇宙を漂う姿を表したものです。
Ⅰと同じように不気味な雰囲気を醸し出しつつ、曲は静かに進むのですけど無機質に曲は
進展していきます、
そして、その空間に「This beautiful Earth・・・」という言葉が響き渡り、
ラストはシロフォーンの弱奏で静かにフェードアウトしていきます。

とにかくこの難曲は演奏する方も聴く方も大変エネルギーを要する曲だと思います。

この曲の吹奏楽コンクールの演奏と言うと、磐城高校も大変素晴らしいものがありますけど、
やはり1993年の都立永山高校の歴史的名演が大変印象的です!

都立永山の演奏は、都大会も全国大会も生演奏で耳にしたのですけど、
とにかく「衝撃度」がすさまじかったです!
確実に私の中に「何か」を伝えてくれました!!
「この地球を神と崇める」という曲があるのは随分以前から知識として知ってはいましたけど、
この曲のレコードやCDも見当たらず、
演奏会やコンクールでも演奏される事はまず無い曲でしたので、
都大会の永山高校の演奏で、この曲を初めて聴いたというのが正直なところです。

都大会を通過し、全国大会に進んでも
正直自分の内心では不安な点もありました。
というのも、都立永山は、1990年のプラハ、91年の「火の鳥」、92年の「オード」と
都大会では素晴らしい演奏を聴かせてくれるのに
なぜか全国大会では緊張するのか、「よそいき」の演奏になってしまい、
都大会で聴かせてくれたような「自由さ」とか「メッセージ性」が今一つ伝わりきれていない杞憂が
あったからです。
この日も永山の演奏が始まる際は、心の中で
「どうか彼らが都大会のような演奏が出来ますように・・・普段通りの演奏が出来ますように・・・」と
祈っていましたけど、全国大会の本番では、ついにやってくれましたね!!

都大会以上に大変満足できる演奏であり、
Ⅱの衝撃度、Ⅲの静粛さの対比も申し分なく
確実に全国大会での聴衆にも間違いなく「何か」を伝えてくれていたと思います。

ラストの女子生徒による「This beautiful Earth・・・」の呟くようなボイスもとても良かったです。
(このボイスはソニーの実況盤CDにもしっかりと収録されています)
シロフォーンの繰り返しによるフェードアウトで曲が閉じられていくのも実に効果的でした。








私、この曲の全曲版CDを持っているのですけど
これ完全な輸入盤でして、日本語解説が入っていないし
語学力が全くない私にとっては、何が書かれているのかさっぱり分かりませんし、
実は、上記のCDの演奏団体も指揮者も一切不明なのです・・・

多分、1985年にオランダで開催された何かの「音楽祭」である事は
間違いないと思うのですけど・・

だけどこの二枚組CDに収録されている「この地球を神と崇める」は
録音も残響音も非常に素晴らしく、気迫溢れる素晴らしい演奏だと思います。
他にリードの第三組曲、ショスタコの交響曲第9番の吹奏楽アレンジ版
ネリベルのトリティッコアンドリューセンのシンフォニアなどが収録されています。
ちなみにですけど、クラシック音楽のCDというものは楽章ごとにトラック番号が付けられているのですけど、
この輸入盤は、楽章ごとのトラックが打たれていないから、
フーサの曲もショスタコーヴィッチの交響曲も、曲一つに「一つのトラック番号」とかついていないから、
例えば第三楽章から聴くという当たり前のことが出来ずに、大変面倒な面があるのは
難点なのかもしれないですね・・(苦笑・・)

全然関係ないのですけど
昔、星新一のショートショートの一つに題名は忘れたのですけどこんな話がありました。
ある高名な博士が大変な時間と資金を使って「大発明」を為し遂げたというけど、その発明品とは
ロボットみたいな像が立っているだけで、へその辺りにボタンのようなものが付いている。
人々は好奇心でボタンを押してみるものの、
そのロボットは面倒くさそうに、押されたボタンを元に戻す事しかしない・・・
博士は病院送りとなり、そのロボットも駅前に置かれたまま放置され、
時折いたずら者がへそのボタンを押して、そのロボットはボタンを押し戻す・・・
そうした事が何年も続いたが、
ある日世界に核戦争が勃発し、全人類は絶滅した・・・
そのロボットには実は「ある使命」を持っていて
へそのボタンを一定期間押されなかったら人類は滅亡したものと認知し、
そのロボットから地球と人類に対する「レクイエム」が流されていく・・・・
そんな感じのストーリーでしたけど、
この世界観は、まさにフーサの「この地球を・・・」のⅢ.エピローグの世界と何か重なるものがありますね。

もしもこの世に天使とか精霊がいたとしたら、核戦争・環境破壊で自滅した人類を見たとしたら
「こいつらバカだなぁ・・」と感じるのかもしれないですね。

この一つ後の記事がアミグリさんが先月描かれた創作オリジナル作品の「ハッピー」をメインに据えさせて
頂いたものですが、
今回取り上げさせて頂く吹奏楽オリジナル作品のタイトルが「ジュビラント」=「歓喜」という事で、
「ハッピー」に繋がる部分もあると感じましたので、あの「ハッピー」の前にくる記事として相応しいのかな・・と思い、
このリードの「ジュビラント序曲」をここに取り上げさせて頂きたいと思います。
そしてこの曲は、後述しますけど、私にとってはある意味記念碑的な曲なのかな・・とも思ったりもしています。

まずはじめにリードの「ジュビラント序曲」の事を簡単に説明させて頂きます。

この曲は、まさに初期のリードらしい簡潔なA-B-Aの三部構成として書かれていて、
パンチネルロ・インペラトリクス・春の猟犬と共通の世界観があるのかなぁ・・と感じさせてくれます。

この序曲は、1969年の春に作曲され、サム・レイバーン高校吹奏楽部に捧げられた曲で、
期待や可能性、若者たちの自然な熱狂をまさに絵に描いたような曲でもあり、
季節感としては「春」というイメージが大変強いと思います。

少し話はそれますが、当ブログでは「dream fantasy」のアミグリさんが2011年に描かれた
創作オリジナルイラストの「flower」を何度か転載させて頂いておるのですけど、私の中では
リードの「ジュビラント序曲」をイメージさせるイラストが
まさにあのアミグリさんが描かれた「flower」なのではないのかなぁ・・と実はだいぶ前から思っていたものでした。

話を「ジュビラント序曲」に戻しますと、
この曲はタイトルの「ジュビラント」(歓喜)が示すように、基本は2/4拍子で、曲の両端のアレグロは
まさに「ハッピー」を思いっきり音にしたような「音楽の喜び」・「楽しさ」が表現されていると思います。
冒頭から既に「キュッとしてドッカーン!」みたいに爆発的推進力で溢れかえっていると思います。
そしてこの曲は後述しますけど、前半は「ソロ・クラリネット」が全体をリードし、このクラリネットのメロディーに乗っかる形で
他の木管・金管が絡んでいきます。
そして中間部は4/4拍子に変り、これが実に美しいですし、まさに「希望」と「ロマンチック」を絵にしたような
曲でもあります。
そして前半のAの再現部を経て、フルートのソロを経て、一旦曲が弱まったのを見透かしたように
突然のとてつもないfffが待ち構えていて、そしてそこから先は一気呵成に華やかにラストまで追い込んでいきます。
6分程度の大変短い曲ではありますが、とにかく聴きどころが満載で
聴いていてとってもとっても楽しい曲だと思います。
だけど・・クラリネット奏者、特にソロクラとファーストは大変だと思います・・

さてさて・・上記でちらっと書いた通り、この「ジュビラント序曲」は、私にとっては
私自身がチェンジする一つのきっかけになった曲となりました。
その意味では私にとってはまさに記念碑的な一曲と言えるのかもしれません。

高校の吹奏楽部に入部して間もなくの頃、
「あれぇ・・? 自分のクラリネットの音色は全然クリアじゃないし、むしろ濁っている」と
自分の下手さにすぐ気が付き「これはまずい・・・」と思い、
とにかく先輩達に改めて一から教わりながら、アンブシュア・正しい呼吸法・ロングトーン・リードの調整法などを
とにかくひたむきに吸収していったと思います。
多分・・・・あの頃が私が10年間の奏者の中で一番真面目にひたむきに余計な事を考えないで
「クラリネット」に向き合っていた時期だと思います。
そしてあの頃は、教室とか廊下で、メトロノームを相棒にして、とにかくロングトーンをしまくっていたというか
「まずは自分が一番美しく出せる音はどの音だろう・・・」と考え初め
「中音域のCの音か・・・」
「それではCの音が美しく出せるようになったら次はDの音・・・」というように
当時の先輩たちの「美しい響き」を見よう見まねで吹いていき、
とにかく「美しい音」を一つの音でもいいから出せるようにしていこう・・!!としていったものです。
12月~2月頃なんかは、田舎の貧乏県立高校ですから授業と同時にだるまストーブは消されてしまうし、
廊下とか教室はとにかく寒かったですけど、セーターの上にジャンパーとかどてらを羽織ってとにかく厚着しまくりで
練習というかロングトーンしていたのはなつかしい思い出でした!
当時の私の感覚としては、「音楽の優しさも甘美さも厳しさも楽しさもまずは音色から」という意識が大変強く、
音楽の表現以前にまずは「自分のクラリネットとしての音をどうすれば美しく響かすことが出来るのか」という事ばかり
考えていたと思います。
そのために、まずは「たった一音でもいいから、これが自分のクラリネットの音だ!!」というものをつくりあげていこう!という
想いが大変強く、その一音をうまく出せれば、次の音、その次の音という感じでどんどん「自分の音」を
作っていけるんじゃないの・・?みたいな意識はあったのだと思います。
そうですね・・この感覚は、まさに「響け! ユーフォニアム」【第一期】第12話の
久美子の「うまくなりたい! うまくなりたい!」と泣きながら京都の夜の街を駆け抜けていったあの心境と
少しは重なるものがあるんじゃないの・・?みたいに思う事もあります。

さてさて・・・そうした中、高校2年の定期演奏会の曲目が決定し、ファーストステージの「吹奏楽オリジナル作品ステージ」の
一曲目がまさにこのリードの「ジュビラント序曲」だったのです!
私の高校は男子校で慢性的なクラリネット奏者不足に悩まされ続けていましたけど、
当時、一人とてつもなくクラリネットが上手い先輩がいて、
この先輩が吹くクラリネットの音色が、当時の私にはまさに「憧れ」みたいなものでしたし、
まさに身近の偉大なるお手本みたいな存在でした。
そしてこの「ジュビラント序曲」に関しては、私とその先輩が「ファーストパート」というタッグを組む事となり、
私がファースト、その先輩がファースト兼ソロ担当という事になりまして、
当時の私としては、同じ曲で同じファーストを担当する事で、その先輩の間近にいるという事を最大限利用させて頂き、
その先輩の吹き方、マウスピースのくわえかた、ブレスのとりかた、
とにかく・・その先輩が吹く「ジュビラント序曲」を私自身が思いっきりマネさせて頂いたという形になったと思います。
「どうすれば美しい音を出せるのか・・・」と試行錯誤の末、その先輩のパクリに近い感じはありましたけど、
レガート奏法みたいなダーダー吹きみたいな感じの方が
何か美しく響くかな・・・自分には合っているのかな・・と思えるようになり、
結果として・・・・自分のクラリネットの音色は「リズムが甘いベタベタ吹き」みたくなってしまいました・・・・
大学の吹奏楽団に入団して「確かに音自体は大変美しく鳴らせてはいるけど・・」と前振りがあった上で
「ヘンな奏法を身に付けちゃって・・・・」とよく指摘されてはいましたけど、
やはり高校時代のあの先輩の奏法とかクラリネットの音色に私自身は相当影響されていたと思いますし、
身近に上手い先輩がいた事で「どうすればクラリネットを美しく響かせることができるのか・・」という意識を
常に持つようになり、まさに私自身が「チェンジ」する一つのきっかけとなったのが
間違いなくこのジュビラント序曲なのだと思います。

最後に・・・

この「ジュビラント序曲」の歴史的名演は、1976年の瑞穂青少年吹奏楽団に尽きると思います!

この演奏はなんと・・! 5分30秒と一気に畳み掛けるスピード感溢れる素晴らしい名演だと思いますし、
前述のクラリネットのソロが本当にめちゃくちゃ上手いと思います。
この曲は作曲者のリードが東京佼成を指揮して自作自演の演奏もCDとして残していますが、
テンポが意外とゆっくりで
瑞穂みたいな「若々しい」感じではなくて「大人としての演奏」を聴かせてくれています。
またとてつもなくマイナーな話ですけど、関東大会B部門で結果として銅賞なのですけど
新潟の六日町高校も荒々しさと瑞々しさが混在した大変面白い演奏を聴かせてくれていたと思いますし、
ソロクラリネットの女の子が半分立ち上がったような雰囲気で腰を浮かしながらの
必死の演奏スタイルが当時極めて印象的に映りました!
19.明石北高校


C/歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊り(A.ボロディン)


1983年の明石北の素晴らしい名演については、「ダッタン人の踊り」という事で「響け! ユーフォニアム」絡みとか
当時の明石北の女子生徒の天女みたいな水色制服絡みとか
私自身の「ダッタン人の踊り」の演奏経験とかで既に何度か散々語っていましたので、
今回の記事は、そうした過去記事の総集編みたいなものと思って頂ければ幸いです・・・(笑)

1983年の明石北の指揮者は、後年兵庫高校の指揮者も務められた松井隆司先生でしたけど、
兵庫高校における俗にいう「松井節」という前任者の吉永陽一先生も真っ青のとてつもなく個性的でアクの強い演奏を
私たちに聴かせてくれていたのですけど、
この年は、後年の兵庫高校のようなアクの強さは抑制気味で、
課題曲・自由曲共にスタンダードで、どちらかというとチャーミングな正統派の演奏を聴かせてくれていたと思います。
あ・・・だけど、課題曲のレガート奏法を少し強調したようなダーダー吹きの感じなんかは、既に「他校とは違う個性」は
感じさせてくれていたと思います。

課題曲カドリーユも、非常に軽快で可愛らしいのですが、
リズムセクションのトロンボーンがかなりダーダー吹きに、後押し気味に吹いていたのが
なぜか印象に残っています。
どらちかというと野庭高校みたいな解釈に近いような感じもありましたけど、習志野みたいな女子高生のような可愛らしさも
私たちに伝えていたと思います。
自由曲の「ダッタン人の踊り」も難曲を全然難曲に感じさせない程自然に楽に吹いていたのが
印象的です。
この曲は、昔からよく自由曲として取り上げられていましたけど、
金賞を取るのが意外と難しく、半数以上のチームは銅賞を受賞しています。金賞は、記憶に残る限りでは
この明石北と今津中くらいかな・・・?
惜しい銀賞が福岡工大付属だと思います。
課題曲度同様に、ややダーダー吹きというか、レガート気味に奏していたのが
他校とは違う「個性」みたいなものを感じさせていたと思います。
全体に音に切れと躍動感が漲っていて、スピード感と軽快さが両立している演奏です。
以前も書きましたけど、この年の高校の部に順位を付けるとしたら、明石北は、高岡商業・淀工に続いて
野庭と3位争いに食い込むような演奏だったと思いますし、高校の部の中でもハイレヴェルの文句の付けようがない
素晴らしい名演だったと思います。

改めてですけど、明石北のあの「ダッタン人の踊り」は、まさしく歴史的名演!!だと思います。
演奏のどこにも「弱み」がありませんし、フルート・オーボエ・コールアングレ・クラリネット等のソロもほぼ完璧で、
何よりもあのしっとりとした「情緒」は、本当に聴く者に「感涙」を与えさせてしまうほどの
とにかく「感動性」に溢れた素晴らしい名演だったと思います。
この曲をクラリネット奏者として吹いた私から言わせて頂くと、この曲は本当にクラリネット奏者にとっては
技術的に大変難易度が高く奏者泣かせの曲の一つだと思います。
(ダッタン人以外としては、クラリネット奏者泣かせの曲として名高いのは、シュトラウスの喜歌劇「こうもり」序曲なのかな・・?)
だけどそうした難曲を聴衆に「難しい・・」と感じさせることなく楽な気持ちでしかも感銘深く格調深く
音楽としての「聴かせどころ」が満載に聴かせてくれたこの年の明石北の演奏は、
まさに稀有な歴史的名演と言えるのだと思います!




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明石北高校というと、絶対に忘れてはいけないことが一つあります!!

それが何かと言うと、女性奏者の制服が、まるで「宝塚」を彷彿とさせるような
とっても可愛い水色のワンピースの制服!! とにかく個性的なユニフォームで、あれは・・・
まさに・・・
「天女」みたいなステージユニフォームだと思います!
本当にあの水色の制服は可愛くて素敵ですよね!

確か聞いた話では、あれは夏用制服で、秋に開催された普門館の全国大会のステージでは
女性奏者は普通のブレザー制服で演奏されていたと記憶しています。

1991年と1997年にも明石北は全国大会に出場しているのですけど、
残念ながら、女性奏者のステージユニフォームは、1983年の水色のあの天女みたいなユニフォームでなかったのは
少し惜しまれます・・・・(笑)
ま・・・全国大会は既に「秋」の季節だから、夏用制服のあの水色の天女みたいな制服でステージに立つことは
元々多分ありえない話だと思うのですけど、一度ぐらいは
是非生で見てみたかったような気もします。

私が1984年に都内の大学に進学し、そこの吹奏楽団に入団した際に関西出身の女の子がいましたので
当然ながら・・・・(?)
この「明石北」の制服について聞いてみたのですけど、
「え・・・明石北の女子生徒の制服は普通のブレザーやねん・・・、あれはちゃうで・・・
あれはあくまで夏限定やわ・・・」とか言っていましたので、
多分そうなのでしょう・・
松井先生指揮での明石北の普門館再登場も当時とてつもなく期待していたのですけど、
松井先生はその後兵庫高校に異動されましたので、
あの天女みたいな水色の制服も松井先生指揮での演奏もお目にかかる事はありませんでした・・

ちなみにですけど・・・・

明石北高校のその水色ワンピースのステージユニフォームは、「バンドピープル」のバックナンバーに
何度か登場していますけど、
やっぱりあれは、今改めて見ても斬新なデザインですね!!
最近の高校生・・特に女子高生の皆様の制服って本当に可愛くて素敵なものばかりが多いですよね!
いわゆる「デザイン系制服」みたいなものを指定制服とする学校も随分と増えてきたと思うのですけど、
私が高校~大学の学生さんだった頃って、こうした「デザイン系制服」自体がまだまだ珍しい時代でもありましたので、
こうした明石北みたいなデザイン系みたいな可愛い制服自体が大変貴重だったと言えると思います。
バンドジャーナル・バンドピープルといった吹奏楽月刊雑誌の毎年11~1月号の「吹奏楽コンクール特集記事」において、
出場チームの写真が掲載される事もかなりあり、
私が田舎の県立男子高校の時に、既にこうした吹奏楽雑誌にて「明石北高校」のあの天女さんみたいな制服は
既に掲載されていて、
よく男子部員と共に・・・
「あーあ・・・こんな可愛い制服の女子高生と同じステージで演奏したいよなぁ・・」とか
「それにしてもこの制服可愛いよな・・」
「あんな可愛い制服の女の子と××したいよなぁ・・」
とか色々と健全orよからぬ妄想ネタで盛り上がっていたものです・・・(笑)

ちなみにですけど、上記画像は、1988年11月号の「バンドピープルの掲載写真です。

そうですね・・今現在の感覚・視点で見てみると・・・
「別に大したことないじゃん・・」と思われる方が多いのかもしれないですけど、とにかく・・・
私が現役奏者の頃は、珍しかったですし、とっても貴重だったのです!!
ちなみにですけど、当時の明石北のあの素敵な夏服制服は1990年代に入ると廃止になったとの事で
「なんか勿体ないなぁ・・」とも思ったりもしますね・・(笑)
確か私の記憶では90年代に一度だけ明石北が「復刻版シリーズ」とかであの天女みたいな制服を一年限定で
着用されて吹奏楽コンクールに臨んでいたと聞いたことがありましたけど、
そうした復刻シリーズは是非是非来年以降のコンクールでもお披露目して頂きたいものですね! (笑・・)
「ベリーを摘んだらダンスにしよう」は1994年の吹奏楽コンクール課題曲Ⅰです。

いや~、自分で言うのもなんですけど、とっても懐かしい課題曲ですね。この課題曲が吹奏楽コンクールで
演奏されていた頃は、私が吹奏楽コンクールを卒業してから既に7年の歳月が流れていましたけど、
この課題曲は、「自分が現役奏者の頃だったら絶対に演奏してみたい課題曲の一つ」だと思います。
既にこの年のコンクールから22年以上経過しているのですけど、この課題曲の素晴らしさは永遠に受け継がれていくといいな・・
と思っています。そのくらい大好きな課題曲の一つです。
先ほど自分が現役奏者の頃だったら絶対に演奏してみたい課題曲の一つ」と記しましたけど、この課題曲以外では、
90年のランドスケイブとか92年のフューチュリズムとか98年の稲穂の波とか00年の道祖神の詩とか01年のSLが行くなどは
一度は吹いてみたい課題曲の一つですね。

1994年の吹奏楽コンクールの一年前の1993年のコンクールでは、吹奏楽連盟としてかなり大胆な改革が断行されまして、
その最大のものが、従来の課題曲は書き下ろし作品とマーチが混在される形だったのですけど、
93年以降は、奇数年の課題曲はマーチのみ、偶数年の課題曲は比較的長めのマーチ以外の書き下ろし作品のみ
という事になり、それが結構最近まで続く事になりました。
最近のコンクールは、従来型に戻し、マーチと書き下ろし作品が混在型という形式になりましたけど、
私はこの方がしっくりくるような気もしています。
吹奏楽コンクールの一つの矛盾点と言えるのかもしれないのですが、課題曲と自由曲において、技術と表現という
二つの審査基準から採点がされていき、その採点の高い順から金・銀・銅が振り割れられていくのですけども、
例えば1984年の課題曲のように、課題曲A/変容-断章みたいに技術的にも音楽表現的にも大変難易度が高く
演奏する事自体が大変困難な曲があったかと思えば、課題曲D/マーチ「オーバスワン」のように技術的に大変易しいという
課題曲もあったりして、極端に難解な課題曲と極端に平易な課題曲を単に課題曲の採点」という同じ土俵に乗せて
審査するのは果たしてどうなんだろう・・と思う事も実はふとあったりもします。
当時の吹連が意図していた事は、もしかして当時の私が考えていた事と同じことを吹連が考えたのかな・・?とも
思ったりもしたものですけど、易しいマーチならばマーチとしての審査基準、難解な課題曲に対する審査基準が
それぞれ明確に定まっていれば理想的なのかもしれないのですが、
音楽に対する感じ方・捉え方は人それぞれですので、そうした価値基準自体を明確化する事自体に無理があるのかな・・とも
思いますし、こうしたコンクールのいい所でもあり悪い所でもあるのですけど、
そうした「多様な価値観」を一日のコンクールでその違いを楽しむところにあるのかな・・とも思っています。
とにかく当時の吹連としては、課題曲の審査に対して、マーチとマーチ以外に分ける事で、
そうした難解な課題曲と平易な課題曲のアンバランスの解消を図ったという意図が当時はあったのかもしれないですね。

私のようにオールド吹奏楽ファンですと、いまだに課題曲の呼び方はA~Eという表記の方がしっくりきて
現在のⅠ~Ⅴみたいな表記は、実は未だに違和感があったりもします・・(苦笑・・)
ちなみにこの課題曲の呼称が現在のⅠ~Ⅴみたいな表記に変更されたのは1993年の話です。

93年の課題曲はマーチのみで、正直そんなには吹連としての改革みたいな雰囲気は感じなかったのですけど、
94年の課題曲はマーチ以外の書下ろしのみで、この年をもって
「ああ、吹連はやっぱり制度改革を断行したんだ!」みたいな感覚があったりしたものです。
そしてこの年・・・94年の課題曲は、四曲ともかなり難解でしかも長大なものばかりで、
Ⅳの雲のコラージュは6分半~7分程度、ⅠとⅢは6分程度の課題曲としてはかなり時間が長く、
おかげでこの年の自由曲は軒並み5分程度になってしまうというとてつもない珍現象が起きていたものです・・・
その関係で、この年は演奏時間が4分半程度のキャンディード序曲と演奏時間が5分程度のスペイン狂詩曲~Ⅳ.祭りが
異常に演奏頻度が高くなってしまうという現象も起きていたものでした。
そして多分ですけど・・・私が知る限りにおいて、過去から現在の吹奏楽コンクール課題曲の中で
最も演奏が困難で技術的に難易度が高い課題曲こそが、この年・・・1994年の課題曲Ⅲ/饗応夫人なのだと思います!
あの饗応夫人のソロ楽器・・ファゴット・テナーサックスなどを担当した奏者はマジで大変だったと思います・・

それにしても1994年の吹奏楽コンクールを聴衆の立場として聴くと、正直・・この年ほど
「聴くのが嫌になるコンクール」はなかったと思います。というかあの年のコンクールは聴く事自体が苦痛だったのかも・・?
その苦痛の原因の99%は、あの大変な難曲で嘲笑的で分かりにくくてしかもとてつもなく長い「饗応夫人」と
私が吹奏楽コンクール史上一番大嫌いな課題曲の一つである「雲のコラージュ」を何度も何度も嫌でも聴かされることに
あったのかもしれないです・・・(苦笑・・)

そして残念なことにこの年の課題曲はⅢの「饗応夫人」とⅣの「雲のコラージュ」に人気が集中してしまい、
あのⅢとⅣを聴くたびに
「うーーん、頭いてぇ・・・」という状態になったものです・・・

輪を掛けて課題曲Ⅱ「パルスモーションⅡ」もその内容のあまりのくだらなさに、嫌気が差していましたね・・

さてさて、そんな中、正直それほど数多くのチームが選んでいた訳ではないのですけど、
ⅢとⅣの課題曲が続いていた中で、たまーにこの課題曲Ⅰ「ベリーを摘んだらダンスにしよう」が演奏されると
気分としては、まさに「地獄に仏!!」みたいな感覚を当時覚えていたものでした。
この課題曲Ⅰを演奏するチームを見ると、何かホッ・・とするものが間違いなくあったと思います。

間宮芳夫氏の吹奏楽コンクール課題曲は、90年の「カタロニアの栄光」とか
86年の吹奏楽のための序曲とか、どれも魅力的な素晴らしい曲ばかりです。
間宮氏の課題曲は、吹奏楽のための序曲を除くと、打楽器にティンパニを使用しないというのが
面白い特徴のような感じもあります。
間宮氏の意図としては、曲の重低音感を回避し、特に「ベリーを摘んだらダンスにしよう」は、
天国的な色彩と言うのか、フワッとした感じとか、のんびりとした感じ、ほのぼのとした雰囲気を醸し出したかったのでは
ないのかな・・?みたいな意図も感じたものです。
音楽評論家で激辛コメントで有名な上野晃先生は、なぜか知りませんけど
吹奏楽コンクールの審査員とか吹奏楽雑誌「バンドジャーナル」のコンクール評の執筆を依頼されることが多い先生
でしたけど、ま・・・あのコメントはとてつもない辛口コメントが多かったですね・・・
その上野先生のこの「ベリーを摘んだらダンスにしよう」についての曲自体のコメントとして
「これはまさに間宮ワールド、この音楽はこれこそまさに間宮語に尽きる!」みたいないい方をされていたのが大変
印象的ではあるのですけど、確かにこの課題曲からは、独特な間宮氏でしか書けないような音楽づくり、
独特の世界観が提示されていると思います。

「ベリーをつんだらダンスにしよう」は、構成的に三部構成です。
一部の比較的テンポの速い部分、二部のしっとりと聴かせる部分、三部の再度のアレグロ部分、
そして最後は、あっさりと弱奏で閉じられます。
全般的に、マリンバ・シロフォーンといった鍵盤打楽器の使用方法が実に巧みで印象的です。
また、二部のクラリネットのソロとアルトサックスとトランペットのソロも実に
「のんびりとした感じ」・「おっとりとした感じ」が出ていて、この部分は何回聴いても
爽やかな感じはします。
全般的に、何となく漠然とした印象ですが、
マーラーの交響曲第4番「大いなる喜びへの讃歌」の世界につながっているような感じがします。
曲全体を貫く「子供たちが語りかれるような感覚」とか「汚れを知らない子供たちの純粋な感覚」
みたいなものをなぜかこの曲から感じ取ってしまいます。
個人的には、二部のクラリネットとかトランペットのソロは、あまりテクニックの上手さは
求めたくない感じがします。
少々たどたどしくても構わないから、子供のような「素直さ」が出ていた方が何かこの曲が求めている感覚には
近いような気もします。

そうした事を上手く表現した数少ない私のお気に入りの演奏は、池袋中学校の演奏です。
「よくこれで金賞に入賞したな・・」と思えるほど、たどたどしい心細い演奏なのですけど、
その素人っぽい感じが実にこの曲にマッチしていると思います。
だけど、このチーム、自由曲の「ハーリ=ヤーノシュ」では、トランペットが思いっきりスカってしまい
一瞬全音が止まるという珍プレーも起こしています・・・
だけどそれがまた実に自然に感じたりもします。
阪急百貨店もこの課題曲を演奏しているのですが、池袋中との音楽のアプローチは全然異なっているのが
一目瞭然で、正直上手過ぎて「何かスカしている」演奏という感じで、
あまり好きではありません・・・
どちらかというと、銅賞なのですけど、一般の部の習志野ウインドの演奏が、池袋中の世界に
近いような気もします。

三部で、シンバル奏者が終始連打していますが、この部分は結構神経を使うと思いますし、
難しい部分だと思います。

全体的に前述の「間宮ワールド炸裂」という感じで、この曲を聴くと何とも「不思議な感覚」に陥るのが不思議です。

だけどこの課題曲の決定的名演ってないのですよね・・・

もしも自分が指揮者だったら「このように表現したい!」という脳内イメージはあるのですけど、それに応えてくれる演奏が
一つもないというのがもったいない感じもあったりもします。

この記事の一つ後の記事が東方の「レティ・ホワイトロック」なのですけど、レティさんのおおらかな雰囲気を音楽したのが
この「ベリーを摘んだらダンスにしよう」みたいなイメージも私の中にはあったりもしますね・・(笑)
18.逗子開成高校


A/バレエ組曲「ロデオ」~Ⅰ.カウボーイの休日(A.コープランド)


この学校は神奈川県代表のチームなのですけど、この年は「野庭高校」があの突然の途方もない大飛躍を果たし、
とてつもない普門館デビューを果たすことになるのですが、そのあおりを受けたという訳では無いのでしょうけど、
2016年現在で、結果的にこの年が今のところ最後の全国大会となってしまっているようです。
こういう知的な男子高校の演奏も比較的珍しいだけに勿体ないなあ・・と感じる事もあったりもします。
80年代前半の神奈川県というと「逗子開成」というイメージがあったものですけど、80年代中盤から90年代中盤の
神奈川県の吹奏楽と言うと、そりゃ誰が何と言っても「野庭高校」以外あり得ないのかも・・!?という雰囲気が
濃厚だったようにも感じます。

さてさて・・逗子開成高校と言うと、吹奏楽コンクール歴はかなり長く、70年代の全国大会にも既に出場を果たし、
80年代に入ると1981年~83年の三年連続の全国大会出場を果たしています。
1981年の「海のうた」なのですけど、この演奏は結果的に金賞を受賞しているのですけど、
これ・・・レコードでもそうした雰囲気は大変よく伝わっているのですが、演奏がいわゆる「優等生の模範解答」みたいな
演奏で、いかにも指揮者の西野先生が「ここはそのように吹きなさい!」と命令されたからまるでロボットのように
機械的に吹く・・みたいな感じだと思います。
確かに上手いはうまいのですけど、正直、聴いていて全然つまらない演奏で、「海のうた」本来のあの抒情的な感覚は
あんまり伝わってきません。だけどあの演奏はなぜか金賞なのです!
だけど・・・
翌年の1982年のバレエ音楽「四季」と翌年の83年の「ロデオ」は、81年のような「奏者の自主性の欠如」というものは
ほとんど感じさせません。否! 奏者の「自発性」というのか積極的に「ここはこのように自分たちの音楽を聴かせよう!」という
主体性が大変顕著になっていると感じさせてくれています。
だけどこの2年間のコンクールの評価としては銀賞なんですよね・・・
うーーむ、やはりこの辺りは「コンクールの審査は水物・・」という事を示唆しているようにも思ったりもします。

1982年の「四季」も自発性と才気煥発に溢れた溌剌とした素晴らしい演奏でしたけど、演奏自体は大変オーソドックスで
正統派という印象が私の中ではありました。
(だけどあのハイレヴェルな演奏が銀と言うのは少し合点がいかないですね・・)
そして翌年、83年の「ロデオ」はどちらかというとクセがある個性的な演奏を聴かせてくれたと思います。
曲自体とってもけたたましくて野性味溢れるどちらかというと荒っぽいやんちゃな曲なのですけど、
音自体は洗練されている事をベースに、そうした清楚な音を強みにしてソロ楽器の特徴的な歌い廻しとか
部分的にテンポを緩めたり唐突にアップテンポにしたり、更にはわざと一旦弱奏に抑えたところを突然の強奏を
がなり立て、そのダイナミックスレンジの巾の広さは目を見張るものがあったと思います。
この「カウボーイの休日」は、中間部にこの曲の大きな見せ場とも言えるトロンボーンの比較的長めのソロもありますし、
これ以外にもクラリネット・コルネット・フルート・オーボエにも見せ場的なソロもありますし、
上記のトロンボーンソロを支えるファゴットの少しとぼけた様なリズムの展開もあったりして、
各ソロ奏者の技量が求められる曲でもあります。
この年の逗子開成の各ソロ担当奏者は、ソロはほぼ全員カッチリと決めていて、そのソロにもユーモアあり、
テンポの揺らしあり、茶目っ気ありととにかく「粋な雰囲気」が感じられ、
素晴らしかったと思います。
ソロがしっかり安定し、各人の技術が大変優れていますので、全体のアンサンブルの際には、強奏の際も弱奏の際も
更に威力が効果的に発揮されていたと思います。
そうした上に西野先生のややクセのある解釈が加わっていますので、
とにかく面白い演奏だったと思います。

このバレエ音楽「ロデオ」は変拍子ですし、上記の通り、ソロ奏者の負担はかなり大きい曲とも言えますし、
私自身何度かプロの管弦楽団の演奏を耳にする機会がありましたけど
(例/井上道義指揮の日本フィル)
プロが演奏しても「不安定感」みたいなものを部分的に感じたりもしましたので、
この逗子開成の演奏は変拍子の不規則な感じもあまりギクシャクとせず、むしろスッキリとなおかつ個性的という
相矛盾する要素を見事に両立できた素晴らしい演奏を聴かせてくれていたと思います。

それにしても82年の「四季」と同じくらいとてつもなくハイレヴェルの銀賞で、この時代に入ると
こうした演奏でも必ずしも金賞わ取れる保証はないという時代に既に入っていた・・みたいな事も示唆する
演奏ではないのかなと思ったものです。
17.中村学園女子高校


A/イタリア奇想曲(P.チャイコフスキー)


1982年はなぜか中村学園はコンクール不出場でしたので、2年ぶりの吹奏楽コンクールという事になります。
81年の「スペイン奇想曲」でも部分的に気にはなっていたのですけど、この年の演奏はサウンドが
かなりベタベタしているのがかなり私としては気になってしまいます。
演奏全体が俗にいう「ダーダー吹き」みたいな奏法で吹かれている傾向も感じられ、リズムが決してカッチリと決まっている
訳ではありませんし、音自体がどこか「ふわっ・・」とお菓子みたいな感じで、確かに柔らかさはあるものの
あんまりサウンド自体に「芯」がないような感じもあり、
それがどことなく演奏全体の印象を悪くしているようにも感じられます。
二年ぶりの普門館という事で少しばかり勘が鈍っていたのかもしれないですね。
全体的にリズムが大変甘く、スタッカートを全部わざとスラート気味にというか、押して吹いているような
感じがあって、この年は正直あまり良い印象は持っていません。
中村学園が化けるのは、1985年のコッペリアと1986年のあの歴史的な稀有なウルトラ名演のパリの喜びなのだと
思います。

この年の中村学園の課題曲も自由曲は「ファンファーレ」で開始されるのですけど、
課題曲も自由曲もその部分が決してカッチリと決まっていた訳では無く、どことなくあやふやな部分が感じられ、
部分的にトチっているのも少し勿体なかったのかもしれないです。
自由曲のイタリア奇想曲は、もう少し「いかにも陽気なイタリア!!」みたいなスカッ!!とした太陽サンサンとしたものを
期待してはいたのですけど、前述の通り、決してカラっとした演奏ではないもので、その辺りも
少しマイナス要素としてあるのかもしれないです。
課題曲の中間部は、アルトサックスのソロも含めて大変しっとりとした抒情的な香りも伝わり、その点はとてもよかったと
思いますが、アレグロ部分はもう少しスピード感を演出して欲しかったと感じます。
自由曲も決して下手な演奏ではないのですけど、どこか「ほわん・・」とした演奏になっていて
中間部のトランペットとトロンボーンの掛け合いの部分もどことなくモサッ・・とした雰囲気のまま曖昧な感じで
展開されていたのは中村学園らしくもないな・・とも感じていたものでした。

全体としては、可もあんまりなくて不可が少し目につくという印象で、銀と銅のボーダーラインみたいな
演奏だったと思います。
私の採点は銅賞ですけど・・

この年のBJの講評で、ある審査員が
「中村学園は女子高だけど、トランペット奏者が全員ガニマタ気味に吹いていたのが印象的・・
トランペットは本来立って吹くべきものだが、座って吹くと自然と足は左右に広がるもの・・・
だからああいうガニマタスタイルはむしろ理にかなっている」と大変面白い事を書かれていましたけど、
何となく言いたいことは分かる気はしますね。
当時の「日本の吹奏楽83」のレコードの裏ジャケットのカラー写真を見ると「確かにそうなのかも・・」
という感じもあったりもします。
今現在の福岡県の「名門女子高吹奏楽部」と言うと、そりゃ言うまでもなく精華女子高校なのですけど、
彼女たちの演奏は私も何度もコンクールの生演奏を聴かせて頂きましたけど、見ている感じでは、
トランペットの女の子たちもそんなガニマタとかどこか力んでいるような感じとかは皆無に等しく
とてもナチュラルに吹いていて、見た目も大変洗練されていてスマートに吹いているみたいな印象も感じ受けたものです。

ま、もっとも中村学園の「イタリア奇想曲」の冒頭は少しトチっていますけどね・・・

冒頭のトランペットファンファーレが実に気持ちがいいと思います。
このファンファーレは、チャイコがイタリア旅行中に滞在先のホテル近辺の
騎兵隊宿舎から毎朝聴こえてきたファンファーレがモチーフになっているそうです。
オーボエで奏でられる6/8のメロディーは、イタリア民謡「美しい娘」に基づいているとの事です。
色々随所に「イタリア」が盛り込まれていますが、
メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」もそうなのですけど、他国からきた旅行者が
イタリアを訪れると、なんかこうやって「太陽サンサン!!」みたいに明るく陽気な曲を作る傾向に
あるみたいですが、それは何か分かるような気がしますね。
私は残念ながらイタリアは行った事がありませんけど、
イタリアというと、真っ先に、太陽とか陽気という言葉がついつい連想されてしまいます。
イタリアと言う陽気な気質が、普段はお高くむっつりされているエライ作曲家の先生達も
何か普段の「自分」という殻を打ち破ってしまう「何か」がイタリアの雰囲気にはあるのかもしれませんよね。

吹奏楽コンクールでは、1970年代頃はこの「イタリア奇想曲」もよく自由曲として演奏されていましたけど、
最近はほとんど演奏されていないようですね。
曲が15分近くもあるので、やはり「どこをカットするか」という問題が大きいのだと思いますし、この曲の素敵なアレンジ譜面が
なかなか出てこないというのもあるのかもしれないですね。

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