プロフィール

ぬくぬく先生 

Author:ぬくぬく先生 
開設当時は、1980年代吹奏楽コンクールの花輪・秋田南・就実・仁賀保・屋代等の素晴らしい演奏を後世に少しでも伝える事が出来ればいいなと思ってこのブログを始めたのですけど、いつのまにか「プリキュア」がメインになってしまいました・・・
最近は「東方Project」も大好きです!!
吹奏楽もプリキュアも何か自分が感じた事を少しでも後世の方に受け継がれるべきものが残せればいいかな・・と思っています。
ちなみに、「大好きプリキュア四天王」は、ドリーム・メロディ・ハッピー・ラブリーです。
ドリームとメロディは自分の中では既に殿堂入り状態ですけど、
現在は・・・・ラブリー大好き!!のラブリー一辺倒です!!
リアル社会では、建築関係のクレーム&アフター責任者を専従し、毎日毎日クレーム対応に当たる日々です・・・
裏の顔は・・・プリキュアと吹奏楽とクラシック音楽一辺倒です・・・
特に特に大好きな作品は・・・プリキュア5とスイートとハピネスチャージです!!
ちなみに、奥様は・・・ミルキィローズとセーラームーン好きの管理人以上のおこちゃまです・・・
東方で大好きなキャラは・・・とにかく大好きキャラがてんこ盛りで、全員大好き!という感じなのですけど、特に特に・・・さとり様・ゆかりん(紫様)・早苗さんはお気に入りです!!
吹奏楽では・・ネリベルの「二つの交響的断章」と「アンティフォナーレ」、スパークの「ドラゴンの年」、リードの「オセロ」と第二組曲「ラティーノ・メキシカーナ」、パーシケッティーの「仮面舞踏会」、C・スミスの「ダンス・フォラトゥーラ」などが死ぬほど好きで、クラシック音楽では、ウォルトンの交響曲第1番と矢代秋雄の交響曲、プロコフィエフの交響曲第5番、アーノルドの交響曲第2番、第4番、ショスタコの交響曲第7番「レニングラード」、マーラーの交響曲第3番「夏の朝の夢」、ハンソンの交響曲第2番「ロマンティック」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」、ベルクの「ヴァイオリン協奏曲」、ラフマニノフの「交響的舞曲」などが大好きです!!
クラシック音楽を吹奏楽にアレンジし、そのコンクールヴァージョンの演奏としては・・・
1982年の就実高校の「幻想舞曲集」と
1987年の習志野高校の「ダフニスとクロエ」第二組曲の演奏、そして、
1987年の雄新中の「エルザの大聖堂への厳かな行列」が
まさに私の「原点」です。
最後に・・・
私の吹奏楽との関わりの真の意味での「原点」は・・・
1979年の市立川口高校の神がかり名演としか言いようがない
「二つの交響的断章」に尽きると思います!!


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堅苦しくて聴くと眠くなってしまう・・みたいな高尚なイメージがあるクラシック音楽なのですけど、
中にはとてつもなく「ぶっ飛んだ曲」もあると思います。
そうした曲の一つがチャイコフスキー作曲の荘厳序曲「1812年」なのではないのかな・・?と思います。
具体的にどのあたりがぶっ飛んでいるのかと言うと、主に挙げると二点だと思います。

1.曲自体が一つの「戦争描写」になっていて、具体的にはナポレオンのロシア侵略という事なのですが、
 ちゃんと音楽が史実を反映していて、最初はフランス軍が優勢だったものの、徐々にロシア軍に追い詰められていき、 
 最後はロシアから撤退を余儀なくされ、ロシアはフランス軍の侵略から国家を防衛するという歴史に対して
 音楽はどのように表現したのかと言うと、フランス軍のロシア侵略と当初の優性は、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」が
 高らかに管弦楽で鳴らされていたのに対して、後半部分のロシア軍の逆転とフランス軍撤退は、
 ラ・マルセイエーズがロシア国歌の堂々たる響きの前にかき消されいく・・という描写で表現されています。
(チャイコフスキーの「スラブ行進曲」もラスト近くにロシア国歌が堂々と鳴らされます!)

2.ラスト近くで本物の「大砲」が使用され、CDでは本当に曲の中で大砲がドッカーーンと派手に轟いています!
 あの大砲の轟音は、まさに映画「ガールズ&パンツァー」のあのとてつもない轟音と震動が映画館内に響き渡っていたのと
  大体似たような感じになっていると思います。
  コンサート会場で大砲をぶっ放すことは出来ませんので、実演の場合は、
  大太鼓や大砲のサンプル音をスピーカーで流す等の方法で代用されている事が多いです。
  そして大砲が轟いたあたりから教会の鐘もガラーンゴローンととてつもなく壮大に鳴り響いているのですけど、
  印象としてはそれすらも大砲の轟音の前にかき消されてしまうという印象もあったりします。
  そうそう、この曲は当然ながらフランス国内で演奏されることは皆無に近いそうです。
  (フランスの皆様にとっては正直あんまり気分がよくない曲と言えるのかもしれないですね・・)

チャイコフスキーと言うと一般的には、例えばバレエ音楽「白鳥の湖」とか「くるみ割り人形」等の美しいメロディーとか
交響曲第6番「悲愴」みたいな感傷的で劇場的な感情の高ぶりみたいなイメージもあるのですけど、
たま~にこうしたはっちゃけた曲も書いてしまう事があるのですよね・・(笑)
この曲のタイトルですが、コンサートでのプログラム表記は統一はされていないようです。
「荘厳序曲」という場合もありますし、「大序曲」と表記される場合もありますし、「祝典序曲」という場合もあります。
私にとっては、何となくですけど「荘厳序曲」という方がくしっくりくる感じがありますので、
今回の記事は荘厳序曲「1812年」という事にさせて頂きたいと思います。

1882年に開催された博覧会の中で行われた演奏会のために依頼されたというのが作曲の経緯なのですけど、
チャイコフスキー本人は「安っぽい曲になるのは目に見えている」との理由で、
この仕事を後回しにしたり、作曲した時も惰性であまりやる気が無い状態で作ったという話も囁かされているそうです。
そうした事情もありましたし、チャイコフスキーにしては珍しく描写音楽で、一般大衆にも大変イメージが伝わりやすく
作曲され、それが当時や後世の音楽批評家から「安っぽい描写音楽」と批判を受ける事も多く、
黛敏郎氏が司会をしていた「題名のない音楽会」の中でも「とんでもない曲、最低の駄作だ」と
かなりのダメだしを黛氏からも食らっている曲としても知られています。
チャイコフスキー自身もあまりこの曲を気に入っていなかったようですけど、
そういう曲に限って世間では評判がいいもので、再演を重ねる度に人気が高まっていったらしく、
1899年にマーラー指揮のウィーン・フィルで行われたウィーン初演の際には大絶賛されたとの事です。
(同じような経緯の曲としては、ベートーヴェンの「ウェリントンの勝利」という曲もそうなのかもしれないですね・・)

この曲の冒頭部分はとってもしんみりとさせられます。
ロシア正教会の聖歌をベースにしたメロディーが冒頭から奏でられるのですけど、
この部分はヴィオラとチェロが室内管弦楽風に静粛に演奏されます。
こうした厳粛で美しい雰囲気から一転して曲の最後にあのような凄まじい展開&どんちゃん騒ぎが待ち受けていると
この時点では聴衆にはわかりませんので、まさに「静と動」の凄まじい対比というのかその落差の大きさに
聴衆は度胆を抜かれてしまう訳でして、その辺りの作曲者としてのチャイコフスキーの計算はほぼ完璧だと
思います!!
だけど・・曲が大変分かり易すぎて、曲の構成があまりにもシンプルであるため、冒頭の静粛な部分から
クライマックスのあの大砲と鐘炸裂の場面まではちょっと冗長に感じられます。
そうした冗長さをカヴァーしたのがフランス国歌の優性とロシア国歌の優性の逆転部分なのかもしれないですね。

CDの演奏では、私的にはマゼール指揮の演奏が好きです。
演出を色々ゴチャゴチャ取り入れて、かえって訳のわからない仕上がりとなったのが
デュトワ指揮/モントリオール響なのかもしれないです。
序奏は合唱が入るし、後半の大砲の部分からシンセサイザーが乱入し、メカニック的にガチャガチャ鳴らして、
肝心の大砲が全然聴き取れないし、正直意図不明としかいいようがない演奏のように私には聴こえてしまいます。
指揮者・演奏団体は忘れましたが、最後の和音が響いた後、協会の鐘の音がゴーンゴーンと
鳴り響いてフェイドアウトしていく演出の演奏もありました。

実は吹奏楽編曲なのですけど、私自身もこの荘厳序曲「1812年」を高校二年の定期演奏会で演奏した事があります。
クラリネットパートは16分音符の連続で、あまりに速いパッセージの連続に茫然とするばかりで、
最初にあのパート譜を見た時のとてつもない憂鬱はいまだに忘れる事ができないですね! (笑・・)
冬休み・春休みの誰もいないがらーんとした教室にて、ストーブも暖房も何もない寒いさむい状況の中、
必死で個人練習をし、譜面を目で追いながら指は楽器を駆け巡り、そして全体練習とかパート練習に臨み、
指揮者やパートリーダーから「まだ出来ないのかよっ!」みたいなプレッシャーを常に感じながら
ひたすらに練習に励んでいた記憶がありますね!
冬休みは元旦が入るという事もあり12/31~1/3までは部の練習も休みでしたけど、うちの部は、元旦早朝に
ほぼ全部員でお詣りに行く習慣があり、その流れで元旦の午後もなんとなく練習という感じになってしまい、
結局1/1~1/3も全て個人練習のために登校していた・・というのも今となっては大変懐かしい思い出ですね!

前述の通り、原曲自体はチェロを中心とした弦楽器が朗々と少しさみしげに奏でられるのですけど、
元々の吹奏楽アレンジ版はこの部分をなんと・・!トランペット五重奏にしちゃっています・・・(汗・・)
いくらなんでもこれでは雰囲気ぶち怖しという事で、指揮者の判断でこの部分は
トロンボーン6本が吹奏しましたが、意外とトロンボーンの音色とこのさみしげな部分が
妙にマッチし、トロンボーン奏者もヴィヴラートかけまくっていたせいもあり、
本番の演奏会においてもその後のアンケートにおいてもその冒頭部分は「素敵なアィディア」と中々の好評を
頂いていたのが印象的でした!
そしてラスト近くの大砲の部分に関しては、指揮者も相当色々と悩んでいました。
丁度その頃に、一般吹奏楽団がいくつか集まってウィンターコンサートを開催し、
ラストの曲としてこの1812年が演奏されていたのですけど、
冒頭はトランペットのへなちょこアンサンブルだし、
大砲は、大太鼓が一台ヘロヘロと鳴るだけだし、全然魅力的に感じられない演奏になっていました。
その演奏を反面教師にし、仕上がったアイディアが、先ほど記しましたけど、冒頭の弦楽部分を
トロンボーンで代用した事と
大砲部分を何と・・!! 計六台の大太鼓と二台のドラを同時に打ち鳴らし、大砲の部分を模写してみよう
というものでした。
大砲だけで打楽器奏者を8人も使用するので、実際にこの部分の練習が始まったのが、
新入生入部以降でした、しかも定期演奏会まで3週間を切っている状態で
初めてその大砲部分を全体合奏を始めたという感じでしたので、正直本番の際も「いちかばちか・・」みたいな
賭けみたいな様相も呈していたと思います。
耳の鼓膜が冗談抜きで破られそうになる程の強烈な破壊音に部員一同ドン引き状態でしたけど、本番では
練習の成果が見事に発揮され、かなりまとまりのよい迫力満点の演奏が出来たと思います。

ちなみに、この1812年の演奏は、あのバンドジャーナル1983年5月号の記事でも取り上げられています!
記事には「ホットな演奏」と好意的に書いてもらったのが幸いでした。

今となっては本当に良い思い出ですし、生涯の一つの「誇り」と言えるのかもしれないです!!
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この一つ後の記事が「十六夜咲夜さん」という事で、満月が出る毎月15日が十五夜で、翌日が十六夜という事で
「月」に関係する事であります。
月と言うと「月光」という事で、本記事においては「月光」に関連した音楽を少しだけ取り上げさせて頂きたいと思います。

世間一般的には、「月光」というとベートーヴェンのピアノ曲とか鬼束ちひろの曲が圧倒的に知名度が高いかもしれません。
鬼塚ちひろの月光と言うと、仲間由紀恵の出世作の「トリック」のEDという事で、トリックを当時第一話から見ていた私としては
この曲を聴くたびに「なんかなつかしい・・」と感じてしまいますね!
だけど、私としては、「月光」と言うと、B.ブリテンの歌劇「ピーター・グライムズ」の間奏曲としての「月光」が
大変印象的です。
そしてこのブリテンの「月光」は、歌劇の中の間奏曲から構成された「四つの海の間奏曲」という組曲の第三曲という
事でもあります。

なんで、こんな唐突に「月光」について書いたかと言うと、
仕事からの帰り道、何気なく夜空を見てみると、月が輝いていたのですけど
その月光が何か不気味でした!黄色というよりは何かオレンジ色っぽいと言うのか、
鮮血をイメージさせるようなとてつもなく不気味な色彩でした。
「なんか少し怖い・・これから数日間の間に事件や天災が起きないといいのだけど・・」と感じていたら
その数日後に北朝鮮による北海道を飛び越えるミサイル発射とか第六回目の核実験が強行されていましたので、
あながち「予感」だけでは済まない「何か」を感じ取ったのかもしれないですね。
大変古い話なのですけど、かつて新潟地方を襲った新潟大地震の際に、とある子供が
「前日に何気なく月を眺めていたら、とんでもなく真っ赤な鮮血みたいな月で、しかもその月が真っ二つに突然割れて、
これはなにかとんでもない事が起きるのかも・・?」と口走っていた事もあったらしいのですけど、
結果としてそれが予知されたという事になったのだと思います。

人間には、もしかして「二面性」みたいな所もあり、表の顔=昼間の顔=太陽というのと
裏の顔=夜の顔=月という二つの側面があるのかもしれません。
基本的には、人と言うものは、太陽の光をさんさんと受け止めて健康的に力強く前向きに生きていく生命体なのでしょう。
しかし、それはあくまで建前の話であり、
建前あれば本音があるように、表向きがあれば裏向きもあり、
人間と言うものは、決して「太陽」のように健全に正気だけで生きてはいけない面もあるのかな・・・と思いますし、
人間の裏側=心の深層には、後ろ向き・不健全・退廃的なものは多分誰しもが持っていると思います。
健康的で表向きな側面を示唆するのが太陽とすると
人の不健康で後ろ向きで狂気な面を暗示するのは、やはり「月」なのかな・・と思います。
だからこそ、あんな真夜中でただでさえ「狂気」を示唆する「月光」だというのに、それが更に「血」みたいに
不気味に赤く輝くというのは、何かやはり怖いというか「見たくないものを見てしまった・・・」みたいな感じですね。

クラシック音楽でも「月」に関連する曲は色々とあると思いますけど
そうした人の狂気の側面をえぐったのがシェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」だと思います。
あれも怖いですよね・・・・
昼間、人を楽しく笑わせるピエロが月の光を浴びる中で、
殺人・流血・死刑みたいな猟奇的幻想を抱き、次第に狂っていくさまを5人の器楽奏者と女声コーラスで
描いていますけど・・・
あの音楽はまさに「人の裏側」そのまんまの世界じゃないのかな・・?とも思ったりもします。

そうしたシェーンベルクみたいな狂った世界ではないのですが、
ブリテンの歌劇「ピーター・グラスムズ」~四つの海の間奏曲 Ⅲ.月光もある意味怖いと感じます。
確かに美しい音楽なのですけど、何かとてつもない「孤独感」とか「憂鬱」とか「疎外感」とか「魂の孤独」を
感じてしまいます。
部分的に登場しているシロフォーンの硬質な響きが、更にそうした感情を引き立たせているようにも感じられます。

改めてですけどこの歌劇「ピーター・グライムズ」について簡単に書いてみると、

20世紀に作曲された歌劇としてはかなり成功した部類の歌劇の一つだと思いますし、
上演回数も相当高いです!
今現在でもイギリスを中心に世界各国の歌劇場のメインレパートリーを獲得していると思います。
日本では、歌劇としての上演はあんまりないですけど、N響とか読響とか「演奏会形式」という事で歌劇をピックアップしたものを
定期演奏会等で演奏されている事も実は多々あったりします。

この歌劇の原案が「町の自治」という戯曲なのですけど、この戯曲は案外と現代日本にも通ずる問題を
色々とはらんでいて、考えさせられるべき内容を多種多様に含んでいると思います。

主人公ピーター・グライムズは、無愛想で不器用な性格ながらも漁師として日々の生活を
彼なりに真面目に厳格に生きていこうとしています。
しかし、近所付合いが下手で他人と妥協しない性格の故、近隣から「ヘンな奴」と敬遠されがちで
欧米では「安息の日」として勤労が認められない日曜日にも、船を出し漁をした事で
ますます近隣からは「浮いた」状態となり、俗にいう「シカト」状態だったのだと思います。
ピーター・グライムズとしては、本当は近隣の人たちとうまくやっていきたいのだけど、ピーター自身の武骨で
不器用な生き様がそうした事を出来ない状況に追い込んでしまい、
近隣の人たちも「ヘンな奴・・!」とますますコミュニケーション自体が成立しない状態が続いていくことになります。
日本風に言うと「村八分」状態だったと思いますし、学校における「クラス内からの全員からのシカト」なのだと思われます。
そんな中、弟子として使っていた子供の船内での死亡事故をきっかけにますます孤独状態が深まり、
裁判所から「今後子供を雇う事は認められない」という判決が出たにもかかわらず
こっそりと子供を雇い、日曜日にも無理やり漁に出させていました。
そうした中で再度事件が起きます。
又もや徒弟の子供が海に転落し死亡してしまいます。

近所の人達は、
「ピーター・グライムズが子供を殺した。あいつは殺人鬼だ」
「あんな奴、自分達の街に住む事自体気にいらない。今すぐ出ていけ」
「あんな奴、いなくなればいいのだ、死ね」
「この街にあんなヘンな奴はいらない」
「あいつはこの町に住むには相応しくない」
等々の罵詈雑言が浴びせかけられたかどうかは、物語なのでよく分りませんが、
そうした雰囲気はあったのでしょう。
結果的に、ピーター・グライムズは、そうした町の「空気感」に追い詰められてしまったというのもあると思いますし、
海の男として責任を取る形で自分の船と共に海の底に沈んでしまいます。
そして、町には、ピーターという異分子がいなくなり、いつもの日常の日々が続いた・・・

そうした感じのストーリーだったと思います。

でも戦後間もないイギリスの中にも、丁度現在日本が抱える問題と同じような事を既に
予想していた人がいるとは何か驚きです。

自分達とは少し考え方・意見・風貌が違うからといって、そうした異分子を排斥したり
シカトしたり、いじめの対象にする事は、何か古今東西変わりがない問題と言うか、
同じような病巣というものは、いつの時代にもあるものだとも思ったりもします。
ピーター=グライムズの場合、本人が真面目な分、その不器用さが、不器用に生きている様が
本当に痛々しく感じますし、
自分達と同化しない他者を排斥する社会、思いやりがない冷たい社会を既に作曲者のブリテンは
戦後間もないこ頃に空気感として既に何か「予感」させられるものがあったのでしょうね。

ピーター・グライムズには、エレンと言う未亡人をひそかに恋し、
「エレンとの楽しい日々を過ごすためにも稼がないと・・・」という気持ちがありましたが、お金を稼ぎたいためが故に、
日曜日に漁をせざるを得ないという事情もありました。
だけど近隣の人たちは、最初から「あいつはヘンな奴だ・・」という事でピーターの話を聞く気など更々ありませんし、
不器用なピーターもそうした近隣との溝を埋める手立てというものは何も見いだせていなかったのだと
思います。
それが結果的に、近隣との摩擦⇒孤独を深めるという側面もあったのだと思います。

全体的に、社会的孤立・孤独・社会との絶縁・異分子を排斥する社会といった
テーマを抉り出している結構シビアな歌劇だと思います。

ブリテン自身の手で、この歌劇から「四つの海の間奏曲」という組曲も作られていますが、
これも歌劇の内容を示唆するようなメロディーのオンパレードで
結構聴いていて「痛い」とか「グサッとくる」感じもかなりします。

この組曲は下記の四曲から構成されています。

Ⅰ.夜明け 
 
  バルト海を彷彿とさせる荒涼とした雰囲気と雲に覆われた暗さがよく出ています。

Ⅱ.日曜日の朝 
 
  クラリネットで「カモメ」の鳴き声がうまく表現されています。 途中に入ってくるチャイムの音が実に清楚に響きます。

Ⅲ.月光 

  大変美しい音楽ですけど、前述のように救いようのない「孤独」・「疎外感」が痛いほど伝わってきます。

Ⅳ.あらし 

  荒れる海とピーター・グライムズの救われない感じさがよく出ています。

ⅠとⅣに激しい描写もありますし、いたたまれないほどの「寂寥感」がにじみ出ていますけど
やはり、Ⅲの「月光」が心に沁みます。
前述の通り、月光とはある意味人の裏側も暗示していますので
「人の孤独・疎外感」というものは、生きている限りは永遠に続くという事を示唆しているのかもしれません。

やはり改めて考えると、「現代の孤独な社会」・「自分達と異なる異分子を容赦なく排除する
「一つの閉鎖的社会」・「自分達と同化しない人間を異分子扱いとする風潮」などについて
戦後間もない作曲時期にも関わらず、既に現代のこうした病巣を予知して、
こうした歌劇をもしかしたら作曲したとしたら
それはすごい事なのかもしれませんよね。

この歌劇ですが、いじめ・ネット中傷・格差社会・個性を尊重しない社会という問題を
告発する作品として、何かもう少し現代風にアレンジして、映像化できれば
もっと面白い側面をアピールできるようにも感じたりもします。
このブログにおいてだけは、イギリスの作曲家、マルコム=アーノルドは大変メジャーな存在ですけど、
クラシック音楽の愛好家の皆様たちの視点から眺めてみると・・・
「え・・・、アーノルドって誰・・・??」
「戦場にかける橋みたいなB級映画音楽で有名になった人でしょ・・・?」
「9曲も交響曲を残しているんだ・・・だけど一つも聴いたことがない」
とまあ・・・・そんな反応ばかりになってしまいそうですね・・・ 滝汗・・!()

アーノルドは、中々日本に限らず、イギリス以外の世界各国においても、残念ながら
少なくともメジャーな作曲家では無い事だけはどうも確かなようです。
私から言わせて頂くと「うーーん、何か勿体無い!、交響曲第2番や第4番、組曲「女王への忠誠」とか
組曲「第六の幸運をもたらす宿」などを一度も聴かないで死んでしまうのはとてつもなく勿体無いこと」と 密かに
思っていたりもします。

でもいいんです・・・!!
特に、交響曲第2番・第4番は私だけの楽しみとしてこの曲を聴く喜びを独占させて頂きたいと 思います!

アーノルドと言うと、最近はさすがに一時のブームによる人気のピークは過ぎたと思いますけど、
日本の「吹奏楽コンクール」と言う「非常に狭い世界」ではかなりの有名人だと思います。
特に日本の吹奏楽コンクールでは、「第六の幸運をもたらす宿」と後述しますけど序曲「ピータールー」の存在で、
アーノルドは、日本の吹奏楽の世界においては、一気に有名な方になったのかもしれませんよね?
だけど、管弦楽の世界ではいまだに残念ながら「知る人ぞ知る」という領域なのかもしれないのは歯がゆいものがあります。

アーノルドと言うと一番有名なのが、映画「戦場にかける橋」の映画音楽を作曲した人という
事なのでしょうけども、その中で特に「ボギー大佐」のアレンジが一番ポピュラーといえるのかもしれないですね。
この戦場にかける橋は後日、管弦楽組曲としてもまとめられていますけど、その中の第二曲がそのボギー大佐です!
ちなみにこの映画音楽のメインテーマになっている「クワイ河マーチ」はアーノルド自身が作曲したものです。

日本の吹奏楽において、アーノルドの知名度がここまで飛躍的に高まったのは序曲「ピータールー」の存在なのかな・・・??

この9分近い曲は、とにかくイメージ易い曲だと思います。

黙って目を瞑って聴いていると・・・・

「あ、この部分は、抗議する群衆に発砲する騎兵隊の横暴さを描いているんだ・・・」
「騎兵隊によって一旦は鎮圧され、武力に屈した屈辱感と寂しさを表現したのは、このオーボエのもの哀しいソロの部分だ・・」
「権力者たちは・・・いつかこの日の報いを受ける時が来る!!
必ずや・・・・自分達が求めた参政権・選挙権を得る日がやってくる・・・
自分達の正義はいつの日にか歴史が証明してくれるはずみたいな正義感・高揚感を示唆したのは
ラストの高らかなトランペットのファンファーレとチャイムの響き」
「小太鼓三台を用いた響きは・・・あれは・・軍隊の横暴さと進撃を暗示したもの・・」
「安らかで穏やかに開始された序奏に、唐突に乱入してくる小太鼓のロールの響きと荒々しい金管の響きは、
権力者たちの地位を守る為なら、多少の民間人の犠牲はやむを得ない・・・みたいな
権力者たちの無慈悲振りを見事に暗示している・・・」

みたいなイメージが、本当にいとも簡単に脳裏に思い浮かんでくるのですけど、
そういうイメージを「音楽」という物語で私達の脳にすーーーっと染み込ませてくれるアーノルドの「作曲家としての腕の確かさ」
なのだと本当に改めて感心させられます
いやいや・・・実はこれは凄い事だと思います。
口の悪い人ですと「こんな曲、単なる描写音楽に過ぎないじゃん!」みたくいう人が多数いるのは私も承知はしているのですが、
聴く人に「音楽によって具体的イメージを伝えること」をきちんとやっているアーノルドは本当に素晴らしい作曲家だと
思います!
第二次世界大戦後の作曲家の先生たちはどちらかというと「技巧」・「音符の並べ方」にどちらかというと神経を注ぎ、
肝心要の「誰かの心にすーーーっと何かを伝える事が出来る力=音楽」という事を忘れた理屈っぽい人が
多いようにも思える中、
こうしたアーノルドの「分かり易さ」は、本当に特筆に値するものと思います。

序曲「ピータールー」は、こうしたあまりにも分り易い構造・派手な響き・ラストを高らかに歌い上げる事が
コンクールにピッタリとマッチングするせいか、特に1990年代後半において爆発的に流行した 時期があります。
実は・・・・
「ピータールー」が流行する5年ほど前から、この曲の素晴らしさに既に気が付いていた私としては
「嬉しい」と思う反面、「うーん、自分だけのピータールー」であって欲しかった・・」という
二律背反の少しくすぐったいような面があります(苦笑・・・)
この曲が初めて全国大会で登場したのは、1993年のJSB吹奏楽団なのですけど、
この曲が大ブレイクするきっかけは、やはり1995年の浜松交響と文教大学の功労だと思います。
ちなみにこの曲の吹奏楽初演は、もしかして川口アンサンブルリベルテなのかな・・・・??
余談ですけど・・・・
日本が世界に誇る若手指揮者の一人、下野竜也氏は・・・・まだ無名時代の1991年に前述のJSB吹奏楽団を指揮され、
初めて同団を吹奏楽コンクール全国大会にまで導いていますけど
佐渡裕氏もまだ無名の1986年には龍谷大学を指揮されて、この大学を全国大会初出場に 導いています。
もしかして、日本の吹奏楽コンクールの指揮者の中から今後、佐渡氏や下野氏のような世界的指揮者がどんどん
輩出される可能性もあるのかもしれないですね!

序曲「ピータールー」は20世紀中盤以降、無調音楽とか偶発性音楽とか
コンピューター音楽とか、訳のわからん「現代音楽」が闊歩する中でも、
こんなに描写がはっきりしていて、メロディーが分り易くて、
メッセージ性が強いし、何を言いたいのかがはっきり伝わってくる音楽が存在していた事だけでも驚きを感じます。!!

この曲の背景なのですけど、

1819年8月16日にイングランド・マンチェスターのセント・ピーターズ・フィールドで発生した事件をベースにしていて
まさに「歴史的事実」に基づいた曲なのです。
この広場で選挙法改正を求めて集会を開いていた群衆に騎兵隊が突入して鎮圧を図り、
多数の死傷者が出る大惨事・大虐殺を招いたという大変な事件なのですけど、
(当時の日本は、同じ頃に「大塩平八郎の乱」が起きています・・)
両事件とも時の権力者に対する「怒りの声の代弁」という意味では、かなり共通した要素がありそうな感じもあります。

出だしのゆったりとした平和的なテーマに突然、小太鼓三台による乱入が始まり(厳密に言うと一台は途中から加わります・・)
政府の武力的鎮圧を象徴するような激しい音楽が展開されていきます。
その激しい部分はドラのゴワワーーンという大音量と共に閉じられ、
一旦静まるのですけど、
その後に続くオーボエのもの哀しいソロが大変印象的です・・・・
「自分達はこんな暴力に絶対にに屈しない!!」というテーマが高らかに鳴り響き、
誇り高く閉じられます・・・

曲は本当にシンプルなもので、難しい表現とか過激な不協和音はほぼ皆無です。
前述の通り、 ここはデモ隊と政府軍の激突シーン、
デモ隊の撤収とか手に取るようにその場のシーンを容易に想像できることがすごいと思います。
「音の絵巻」と言っても差し支えはないと思います。

小太鼓三台のロールというのは視覚的にも聴覚的にも相当のインパクトはありますが、
要所要所でピアノがピシっとリズムを決めている箇所があり、相当全体を引き締めている役割が
あると思います。
特に後半のあまりにももの哀しいオーボエのソロが開始される前のピアノの
無表情な打撃音は痛々しいのだけど、ある意味大変無機質で効果的なのかもしれないです。
ラスト近くのチャイムの響きも、「自分たちは絶対に屈しない!!」というメッセージを予感させるような
ものであり効果的です。

序曲「ピータールー」の吹奏楽版は腐るほど聴いた事がありますが、
管弦楽の原曲演奏は、2006年のオペラシティの東京交響楽団しか聴いた事がありません。
是非是非、アーノルドの交響曲と共に・・・この素晴らしい序曲も
生の演奏会で演奏して欲しいと切に感じています!!

この曲をCDで聴く場合・・・・

ヴァーノン・ハンドレイ/BBCコンサート管弦楽団が断然素晴らしいと思います。
また、バーミンガム市響によるアーノルド本人による自作自演の演奏も実に明確な意図が伝わり
「さすが・・・」と思いますね。
ちなみに、ハンドレイの後半のテンポの遅さはすごいものがありますし、いかにもたっぷりと歌い上げている
感じは濃厚ですね。
ジュール・マスネというフランスの作曲家について質問をしてみても、たぶん大多数の人は
「誰、それ・・?」みたいな反応なのかもしれません。
だけどその質問に「タイスの瞑想曲でお馴染みのジュール・マスネ」という文言を加えると
「ああ・・あの甘いせつないヴァイオリンの曲ね・・」と多少はピンとくる方も増えてくるのかもしれません。

参考まで書くと、マスネはクラシック音楽界、特にオペラの世界にあっては大変有名な作曲家であり、
その作品は19世紀末から20世紀初頭にかけて大変人気が高く、楽壇からの評価も高く、
現在においても、「マノン」・「ウェルテル」・「タイス」は頻繁に上演され、
主要なオペラハウスのレパートリー演目となっています。
歌劇「タイス」の間奏曲である「タイスの瞑想曲」は、ヴァイオリン独奏曲としても大変人気が高く、よく演奏会の
アンコールとして演奏される機会も多いと思いますし、この曲を収録した「クラシック音楽名曲集」みたいなCDも
かなり発売されているようです。

そんな訳で、マスネは歌劇の世界で主に活躍をされていた方ですので、管弦楽団の演奏会でマスネの曲が演奏されることは
正直そんなには無いと思います。
なぜかというとマスネが生涯に残した作品の大多数は歌劇のための音楽であり、
管弦楽団が通常演奏する交響曲・協奏曲・交響詩・管弦楽曲のジャンルにマスネが残した曲が極めて少ないからです。
マスネにはバレエ音楽の作品も幾つか残しているのですけど、
吹奏楽に多少造詣が深い方ですと、マスネのバレエ音楽というと「ル・シッド」を思い出される方も多いと思いますし、
吹奏楽コンクールにおいては、1980年に就実高校吹奏楽部が、「ル・シッドのバレエ音楽」という奇跡的な素晴らしい名演を
残してくれています。
(就実のル・シッドの冒頭部分のコールアングレとフルートのソロは、とてもじゃないですけど高校生の演奏とは到底思えない
レヴェルの高さをお披露目してくれています!)

マスネの数少ない管弦楽曲のジャンルの中では、組曲という形式が多いようにも見受けられます。
そしてその組曲のタイトルがなぜかしりませんけどほぼ全て「・・・の風景」という名称で統一されているのも
大変興味深いものがあると思います。

具体的には、

組曲第2番「ハンガリーの風景」

組曲第3番「劇的風景」

組曲第4番「絵のような風景」

組曲第5番「ナポリの風景」

組曲第6番「おとぎ話のような風景」

組曲第7番「アルザスの風景」

となっています。

具体的な地名と絵画的・劇的・おとぎ話的みたいな抽象的で心象的なものの二つの側面から
組曲を作り上げるというのも大変ユニークなものがあるといえるのかもしれないですね。

劇的風景という曲は、マスネにしては珍しく ややグロテスク気味の印象はあります。
シェークスピアの「マクベス」に登場する魔女の描写の部分がそうした印象を与えているのかもしれないですね。
アルザスの風景は、 アルザス地方ののんびりとしたとある村の日曜日の一日の風景を音でスケッチしたような
のどかで平和な曲です。

この組曲は下記の四曲から構成されています。

Ⅰ.日曜日の朝

Ⅱ.酒場にて

Ⅲ.菩提樹の下で

Ⅳ.日曜日の夕べ

の四曲から構成されていますが、あたかもある村の日曜日の朝から夕方をつづったような
音楽です。
Ⅰのクラリネットのソロが印象的な朝の爽やかな感じ
Ⅱの昼間からワインでもたらふく飲んで酔っ払っているような賑やかな音楽
Ⅲのやや瞑想的な音楽
ⅣのA-B-Aの三部構成の形式で、Bのチェロのゆったりとしたソロ
最後のAの、コンサートチャイムが遠くから鳴り響き、トランペットの行軍ファンファーレが
背後から響くような感じは極めて印象的です。

マスネがこの曲を作曲した頃は、時代背景的に普仏戦争の頃と重なっています。
結果的にフランスはこの戦争に敗北し、ドイツにアルザス・ロレーヌ地方を割譲している 訳なのですけど、
この曲は、そうした戦争とは切り離された
あくまで平和でのどかなアルザス地方の村の一日をのどかに奏でています。

さてさて、組曲第4番「絵のような風景」なのですけど、この曲は特に第三曲の「アンジェラスの鐘」が極めて秀逸な
曲だと思いますし、あのまさに「晩秋の鐘」を思わせる音楽のベースにあるのは「絵画的風景」なのだと思います。

今現在はまだまだ夏の暑い盛りの時期ですし、来月になればなったで「残暑が厳しい・・! もー、暑くて敵わん!」という
感じなのかもしれないですけど、季節はいつの間にか秋に向かおうとしています。
そうした秋をイメージさせる雰囲気が「アンジェラスの鐘」の響きには間違いなくあるようにも感じられます。
アンジェラスの鐘は、私の脳内妄想の中では紅葉とか落ち葉みたいな感覚があったりもします。

マスネの組曲第4番「絵のような風景」は下記の四曲から構成をされています。

Ⅰ.行進曲

Ⅱ..バレエの調べ

Ⅲ.アンジェラスの鐘

Ⅳ..ジプシーの祭り

Ⅰの行進曲はとってもチャーミング゛で可愛いというのか愛くるしい曲だと思います。
Ⅱは、なんとなくですけどバレエの間奏曲みたいな雰囲気もあるのかとは思います。
だけどこの組曲の白眉は、Ⅲの「アンジェラスの鐘」に尽きると思います!
この曲は、黙って目を閉じて聴いていると、
遠くで教会の鐘の音を聞きながら、ひらひらと落ちてくる紅葉を楽しみつつ、
街の道とか村の田んぼの畦道に落ちている落ち葉をしゃりしゃりと踏みながらゆっくりと歩いていくというイメージが
湧いてきます。
アンジェラスの鐘は、全体としてホルンが大活躍する曲なのですけど、
ホルンの「ボーン、ボーン」という雄叫びみたいな響きが教会の鐘を模倣していると
思いますが、これが実に教会の鐘の音を巧みに表現していると思います。
後半にかけて、ややテンポを落としたところの弦楽アンサンブルもうっとりするほど美しいですね!
このアンジェラスの鐘の部分だけでもまさに「絵画的風景」に相応しい曲だと思います。
「アンジェラスの鐘」は、美的限界を超えたようにも感じるくらい
秋を感じさせるし、ハッとするほど美しい部分があると思います。
対称的に第四曲の「ジプシーの祭り」は四本のトランペットの華麗なるファンファーレに始まる
躍動的な部分で、Ⅲの美しさがあるから余計にこの第四曲の快活さが浮き立つようにも感じられます。
「ジプシーの祭り」はA-B-Aの三部構成で、Bのアンダンテの部分は、
やはり秋を感じさせるロマンティックな部分です。
そして最後のAで冒頭部分が再現され、華麗に曲は閉じられます。

美しさとダイナミックが見事に同居した素晴らしい組曲だと思います。

この組曲、色々とCDも出ているのに、 私自身は残念ながら管弦楽版の生の演奏を聴いたことは一度もありません。
吹奏楽コンクールの自由曲として、ⅢとⅣの組合せは、結構昔から取り上げられていて、
吹奏楽コンクールの全国大会では既に何チームかがこの組曲を自由曲として演奏しています。
個人的には、1982年の札幌吹奏楽団のアンジェラスの鐘は、本当に美しかったですし、あれはまさに「北海道のおおらかさ」が
素敵に伝わっていたと思いますが、反面、Ⅳのカットがかなり強引過ぎたのが少し勿体ない感じは
あったものでした。

実は、この組曲「絵のような風景」なのですけど、私自身が高校三年の時の最後の定期演奏会の演奏曲目の一つでした!
当時からアンジェラスの鐘は大好きで、
レックス・ミッチェルの「海のうた」同様に吹いているだけで自然と感情がこみあげてくる本当に不思議な曲だったと
思います。
そうですね・・やっぱり美しいメロディというのは聴く時もそうなのですけど、自分自身が奏者として吹いている時も
自然と感情が高ぶってくるものなのですね・・
指揮者に 「後半にかけてもう少しテンポを落として、じっくりとしっくり聴かせて!!」と奏者の立場からリクエストしたものですし、
ジプシーの祭りは、「逆にもう少しテンポを上げて」と注文を出しましたけど、
指揮者からは
「結局お前の解釈・要望は、遅い部分はより遅く、速い部分はより速くという事で
結局はバーンスタインの解釈みたいじゃないか・・・ボツ、却下!!」と ダメだしを食らってしまいましたぁ・・(汗・・)
一つ後の記事でもこの曲名が登場していましたけど、
外山雄三の「管弦楽のためのラプソディー」は楽しい曲ですよね。
日本人ならば絶対に知っているメロディーというか、民謡が次から次へと出てきて
何か「宝箱」みたいな感じもあります。
演奏時間は7分半程度なのですけど、この短い時間にぎゅーーっと濃縮された「日本人の心のふるさと」
みたいなものがあると思います。
ヘンな話ですけど、私が高校生の頃にまだ吹奏楽とかクラシック音楽がなんにもわかっていない頃、
作曲家&指揮者の外山雄三と若大将の加山雄三を混合しちゃいまして、「二人は兄妹・・?」なんて勘違いを
起していた事もありました・・(滝汗・・!)
更に余談ですけど、私が大学生の頃の一つの隠語で「かやまゆうぞう」という言葉があり、これは何を意味するのかと言うと
学業成績で「可が山ほどあって優が三つ程度しか無い・・」ポンコツな成績という事なそうです・・

この管弦楽のためのラプソディーは、下記の日本の民謡が引用されています。

〇あんたがさどこさ

〇ソーラン節

〇炭鉱節

〇串本節

〇信濃追分

〇八木節

この曲って、出だしがとても印象的ですね!
(最初にこの曲を生で聴いた時は大変なインパクトがありました・・)
だっていきなり拍子木が打ち鳴らされお寺の鐘がゴーンと鳴り、
そこからトランペットによる「あんたがさどこさ」が始まりますからね。

この曲自体構造はとてもシンプルでA-B-Aの三部構成を取り、
先程の冒頭から、「あんたがさどこさ」に対旋律として絡んでいく「ソーラン節」が出てきて、
炭坑節・串本節による展開までが序盤のAとすると
フルートソロが延々と「信濃追分」を奏でるしっとりとした部分をBとすると
終盤の「八木節」で盛り上がる部分がAという感じなのでしょうね。
終盤のAでハープが華麗にグリッサンドを聴かせてくれますけど、
この部分は、何か和の楽器と洋の楽器の見事な融合を象徴しているのかもしれませんよね。
そうそう、この曲は、
うちわ太鼓・チャンチキ・鈴・和太鼓・締太鼓・拍子木みたいな「和の打楽器」も登場しますし、
ティンパニー・ウッドブロック・ボンゴ・大太鼓みたいな「洋の打楽器」も登場します。
個人的には、Bの部分のしっとりとしたフルートソロがとても印象的ですし
何か日本人にしかわからない「郷愁」みたいなものも感じさせてくれますし、
何か聴き方によっては「泣かせる」部分です。
ラスト近くの「八木節」は、「とことんやっちまえー!!」みたいな大変ノリが良い感じもして
大変爽快な部分です。

この曲は何度か聴いたことがありますし、
外山雄三自身の指揮による自作自演の演奏も聴いたことがあります。
この時の管弦楽団は日本フィルだったと思いますけど、
先程のフルートソロによる「信濃追分」が終わって、鈴が静かに響いている部分で
唐突に打楽器奏者による「オー―ッ!!」みたいな雄叫びの「声」が入りました。
「ラプソディー」は何種類かの録音がありますけど、 この部分に声が入るのは聴いたことがありません・・・・
という事は、この声の指示は、外山氏自身の指示なのかな・・・??
それとも元々は楽譜に書かれている指示なのかな・・・??

この曲は、NHK交響楽団の世界一周演奏旅行の際にアンコール曲としても演奏されたことがあるらしいです。
ちなみにN響の世界一周演奏旅行にソリストとして付き添ったのは
まだ10代の中村紘子さんなのです・・・・
(中村紘子さんもまだお若いのに最近お亡くなりになられていたのは大変悲しい知らせでした・・)
ものすごくマニアックな話ですけど、この時のN響のチューバ奏者は
後に野庭高校吹奏楽部の指揮者としてその名を残す中澤忠雄先生とのことです。

この「管弦楽のためのラプソディー」は、元々の原曲は22分を越すかなりの大作だったらしいです。
前述のN響世界一周演奏旅行を前にした練習の際に
当時の指揮者岩城宏之氏によって、
「この部分は無駄・・・省いた方がかえって良い・・」みたいな判断で全体の70%近くカットされ
現在演奏される形は岩城氏によるカット版とのことです。
だけどこのカットされた部分は恐らく廃棄され、現在では影も形も残されていないという事です。
後に外山雄三は、岩城宏之に
「あの曲はあなたにカットされたおかげで適切な形となり、かえってクラシック曲としては異例のヒットになった」と
感謝の言葉を述べているとのことですけど、
果たして真意はどうなのかな・・・・??
うーーん、作曲者としては正直「複雑な心境」なのかも・・・・・??

外山雄三は、 作曲家というよりは指揮者としての名声の方が高い気がしますね。
この方の指揮も何度も見た事がありますけど、大変節度のあるオーソドックスな解釈をされます。
古い話ですけど、ある管弦楽団の演奏会でメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を予定したのですけど
当日の演奏会開始の数時間前になってソリストがキャンセルになってしまい、
たまたまサントリーホールに練習に来ていた五嶋みどりに
「急な話だが・・・」という無茶な代演要請も五嶋さんは快く受け、そのほとんどぶっつけ本番状態の
指揮をこなしたのが外山雄三というエピソードも残されています。

外山雄三の「管弦楽のためのラプソディー」以外の曲と言うと 色々作曲されているのですけど 、私的には

〇交響詩「まつら」

〇ヴァイオリン協奏曲第一番

〇交響曲「名古屋」

などが特に印象に残っていますね。

よく「管弦楽のためのラプソディー」は外山雄三作曲ではなくて、あれは外山氏のアレンジ作品だと
言う人がいますけど、
私はこの曲は立派な「外山氏の曲」だと思っています。
例えは悪いかもしれないけど、
ドイツの学生歌を接続して作ったブラームスの「大学祝典序曲」みたいな曲だと思います。

組曲「惑星」で有名なホルストの曲の中に「日本組曲」という曲があるのですけど、
これは「日本民謡」をそのまんま引用しただけの作品だと思うのですけど
(弦楽器が淡々と「ぼーやー、よいこーだーねんねーしーなーを歌いあげるふの部分は違和感丸出し・・・??)
この日本組曲と「ラプソディー」を聴くと
同じ「日本民謡」を素材にしても
その「共感度」の違いによって曲の完成度は全然異なっていると思うのです。

だから、この曲はまき゜れもない「日本民謡をベースにした外山氏のオリジナル曲」だと
私は感じます。
クラシック音楽の中でも「時計」に関係するものがテーマになっていたり
時計そのものを描写したりする曲もあったりします。
やはり一番有名なのが、ルロイ・アンダーソンの「シンコペーテッド・クロック」なのかもしれないですね。
多分ですけど、この曲は曲のタイトルは御存じなくても曲の冒頭を流すと大抵の方は
「あー、この曲ね! 聴いたことあるある!」と言われると思います。
この曲、時計の刻みの部分は、「ウッドブロック」でカチコチと表現されているのが
何とも面白い感じですよね。
ちなみにですけどルロイ・アンダーソンには「タイプライター」という曲もあったりして、この曲には終始せわしく
タイプライターのカチカチというタイプ音が使用されていますし、曲の最後はタイプライター自体が壊れてしまう所で
曲が閉じられるのは大変ユニークなものがあると思います。
あ・・最近の若い世代の皆様に「タイプライター」といっても「なにそれ・・?」みたいな感じの「死語の世界」になっているのかも
しれないですね。

クラシック音楽で「時計」に関連する曲として他にどんな曲があるのかなと思いついたところ
以下のような曲がそうなのかなと思いました。

1.ハイドン/交響曲第101番「時計」

 最初にこの曲を聴いた時の印象は、
 「何でこの交響曲、時計と言うタイトルが付いているのだろう・・・」と不思議に感じたものですが、
 第二楽章において、低音伴奏部分が時計のように正確なリズムを刻み、
 それに乗って提示される主題が変奏されていくという事が標題の由来らしいのです。
 だけど、これって単なるこじつけみたいな感じもするし、
 別に時のように正確なリズムを刻むなんて手法は別に珍しくもなんともないし
 何かいかにも標題好きな日本だからこそ、標題として定着化したような感じもします。


2.ヴォーン=ウィリアムス/交響曲第2番「ロンドン」

 この交響曲の第一・第四楽章において、
 ロンドンの象徴とも言える「ビッグベン」の時の鐘の音が
 ほぼそのまんま、曲の中に表れます。
 最初聴いた時は驚いた者でした!
 だってお馴染みの「キンコンカンコーン」のフレーズがいきなり曲の中に出てきます!
 この交響曲は実は単なる描写音楽ではなくて、ロンドンの一日の情景を描きながら
 そこで生活する人間の躍動とか鼓動とかを実に細かく心理的に描いているようにも聴こえます。

3.コダーイ/組曲「ハーリ・ヤーノシュ」より、Ⅱ.ウィーンの音楽時計

 これは華麗なる音の絵巻という感じがします。
 冒頭いきなりコンサートチャイムとドラによって時計の音が描写されます。
 時計と言うよりは、むしろ「ゼンマイ仕掛けのおもちゃ」みたいな感じもするのかもしれないです。
 聴いていて実にハッピーな気持ちになれるとても楽しい曲です。
 ちなみにこの曲、アニメ「のだめカンタービレ」でも何回か使用されています。

 この組曲の第Ⅳ曲は「合戦とナポレオンの敗北」という曲なのですけど、ほら吹き主人公のハーリ・ヤーノシュが
 若かりし日の自慢話武勇伝として
 「自分は合戦の場でナポレオンをやっつけてフランス軍を撃退させただけでなく、ナポレオンの妻からも
  あんなへっぽこ亭主よりもフランス軍を撃退させたあなたに惚れた! 是非私を奪って好きにして・・」
 みたいな大ぼらを吹いているのが大変印象的です。

4.プロコフィエフ/バレエ音楽「シンデレラ」より真夜中

 これはいかにも「時計」らしい描写だと思います。
 夜中の12時に魔法が解けてしまうため、12時の時計を知らせる音に
 シンデレラが慌てる様子がファンタジーに描かれています。
 この12時を知らせる時計の音は、
 ウッドブロックによるカッチンコッチンという音とドラ・チャイムの音で主に表現されています。
 この12時を知らせる時の音の描写は
 本当にコッチンコッチン、又はカチカチと聴こえ
 時計が目の前で時を刻んでいるような錯覚にも陥ります。
 この真夜中の前の部分が「ワルツ」なのですけど、
 この部分はいかにも王子とシンデレラの舞踏という感じが濃厚なのですけど、
 12時を知らせる時計の音の描写で、急激に幻想から現実の世界に無理やり
 連行される感じもして、
 実に「音楽づくりが巧みだな・・・」と感じさせられます。
 「真夜中」はラストは、「シンデレラの愛のテーマ」を高らかに歌い上げますので最後は気分よく終わります。

上記は取り急ぎ頭に思い浮かんだ曲なのですけど
探せば、というか色々思い出せば色々とあるテーマなのかもしれませんよね。
時計じゃないけどポンキェルリの歌劇「ジョゴンダ」~時の踊りと言う小品もとても親しみやすくて素敵な曲ですよ!
ちなみにですけどこの「時の踊り」は、
ディズニー映画「ファンタジア」に使用されてもいます。その後、ナンシー・シナトラが
「レモンのキッス」(原題: Like I Do)として歌い、日本ではザ・ピーナッツや小柳ゆきがカバーしています。
先日でもないですけど、日曜PM21:00のEテレにて、パーヴォ・ヤルヴィ指揮のN響の定期公演より
ショスタコーヴィッチの交響曲第10番の録画演奏が放映されていました。
というか・・・最近のクラシックファンの皆様の感覚からすると「ヤルヴィ」というとこのパーヴォ・ヤルヴイの方を
思い浮かばれてしまうのかもしれないですね・・(笑)
昭和育ちの私の視点で言うと、やはりヤルヴイというとどうしてもパーヴォの父親のネーメ・ヤルヴイの方ばかり
思い浮かんでしまいます・・・
ネーメ・ヤルヴィは私は大好きな指揮者の一人で、ネーメ・ヤルヴィが日本フィル・東京フィルを客演指揮された時は
よく聴きに行ったものですし、ネーメの手兵とも言えるスコットランド国立管弦楽団とかエーテボリ交響楽団の日本公演の際には
かなり高いチケットを泣く泣く購入し、サントリーホールや東京芸術劇場で聴きに行ったものです・・
その中でも、東京フィルとの「スキタイ組曲」とか日本フィルとの「火の鳥」とか
エーテボリとの「幻想交響曲」は素晴らしい演奏だったと特に記憶に残っています。

だけど、時代はいつの間にか「ヤルヴィ」というと「パーヴォ」という時代になってしまい、
父親の時代から息子の時代へとすっかりバトンは受け継がれてしまっているようですね・・・
ちなみにですけど、パーヴォ・ヤルヴィの兄弟に指揮者のクリスチャン・ヤルヴイと言うお方もいたはずなんですけど、
最近は全然耳にしなくなりましたね・・
やはりパーヴォ・ヤルヴイという「未来の巨匠=世界的名指揮者」という巨星の前にはくすんでしまった・・という感じなのかも
しれないですね・・・(汗・・)

パーヴォ・ヤルヴィ指揮のショスタコーヴィッチの交響曲第10番の演奏は素晴らしいものであり、
私もついつい第一楽章から第四楽章まで全部聴いてしまいほど、演奏に惹きつけられるものは間違いなくあったと
思います。
ショスタコーヴィッチの交響曲第10番は、随分昔ですけど、21世紀の初め頃に、やはりN響を指揮した
インパルのライヴ演奏も大変印象的でしたけど、インパル指揮の方はとにかく陰気で重たくて
なんだか聴いているだけで生きているのが嫌になってしまいそうな陰鬱で重厚な解釈をとっていましたけど、
パーヴォの方はそうした重厚さよりも都会的な洗練さの方を重視している感じもあり、私の好みとしてはパーヴォの方が
どちらかというと好感が持てそうです。

改めてですけど、ショスタコーヴィッチの交響曲第10番は、正直長いし陰気だし、
決して「楽しく人をハッピーにさせる曲」では間違っても無いと思います。
とにかく、苦しくて閉塞感が漂う曲です。

だけど、私はこの交響曲、昔から大好きなんですよね・・・

ショスタコーヴィッチは、第二次世界大戦終結後に作曲された交響曲第9番が、世間や
当時のソ連の指導者スターリンが求めた「第二次世界大変に勝利した歓喜の交響曲を作るべきだっ!!」という期待を見事に
裏切り、比較的軽いノリのシンフォニーを作ったために、スターリンやソ連の音楽官僚達の逆鱗に触れてしまいます。
私自身は、この交響曲第9番は、大好きな曲です。全体を通して、おもちゃ箱をひっくり返した
ような聴き所満載の曲です。特にファゴットの悲壮なソロから一転して、「なーーんちゃって」
とアッカンベーするような第五楽章への転換部分は、本当にたまらんです・・・(笑)
その結果なのかどうかは分かりませんが、ショスタコーヴィッチ自身は、1953年にスターリンが死亡するまで
約8年間、交響曲作曲の筆を一時断絶し、スターリンが死亡したと同時に、この謎めいた交響曲第10番を
発表するのです。
(ちなみに・・・スターリンが亡くなった日に同時に・・あのプロコフィエフも逝去しています・・これは結構すごい偶然かも・・)

でもこの交響曲明らかにバランスが悪い・・・

重苦しくて陰鬱な第一楽章が長過ぎるからそう感じるのかもしれません。
(第一楽章約23分 第二楽章5分 第三楽章18分 第四楽章10分)
第一楽章だけを聴いてしまうと、とにかく何の「救い」も見えてこないし、生きている事自体が本当に嫌になってしまいそうな
重苦しい楽章です・・・
そして、第一楽章とは対照的に明らかに短すぎる第二楽章が極めて印象的です。
作曲者自身の言葉では、この第二楽章は「スターリンの肖像」と記されていますが、
暴力的で粗暴な曲の雰囲気は、確かにそうなのかもしれません。
そして、第三楽章は、一番謎めいています。
何となく、脱力めいた部分もあります。
曲が盛り上がってくると、ホルンのファンファーレみたいなメロディーの断片がそれを遮るという感じがします。
専門的な話になってしまうのでここではあまり深く掘り下げませんが、
そのメロディーラインの遮りこそが、実は「DSCH音型」という大変やっかいなものなのです。
ショスタコーヴィッチ自身のドイツ式の綴りのイニシャルから取った「DSCH音型」という四つの音型パターンが
この交響曲の至る所で登場し、
この「DSCH音型」が登場しない第二楽章は、スターリンの独断場を示唆し、
その音型が頻繁に登場してくる第三・第四楽章で
「スターリンが死んでやっと自分は解放された・・・これからは・・・スターリンの目を気にする事なく
自分が作りたい曲を作曲しまくるぞ!! もう誰にも文句は言わせない・・・
自分がやりたいようにやる!!」みたいなメッセージを提示しているようにも・・私には思えてなりません・・・
第三楽章の中で、かなり乱暴で粗野な強奏の部分が登場し、「とてつもなく盛り上がってきた・・」と聴衆に思わせておいて
次の瞬間に前述のDSCH音型がその流れを断ち切り、それが何度か繰り返されると
聴いている方としても「またかよ・・」みたいな妙な脱力感を感じてしまいますし、
唐突に背後の人間から膝かっくんを食らった様な感覚にすらなってしまいます・・・(笑)

自分が作曲した曲の中で、一番の自分の敵=スターリンと、自分自身を登場させるなんて・・・
ショスタコーヴィッチの「自己顕示欲」は意外と強かったのかもしれませんし、
同時に、時の権力者=スターリンが生きている間は、粛清・誠司収容所送りが怖いから何も言えず
ただ時の経過をひたすら待ち、そしてスターリンが死んでしまったら、これまでの鬱憤を晴らすように、
交響曲の中に、スターリンは登場させるわ、自分自身も登場させるわ・・・と、とにかくやりたい放題が出来るようになり、
権力者の死によって、やっと「一つの自由」を得たと言えるのかもしれないですね。

第四楽章が私としては一番興味深いです!

冒頭はとにかく哀しいです・・・
オーボエの哀しさ溢れるソロから開始され、
その哀しい雰囲気は、クラリネット・フルート・ファゴットに受け継がれていき、
とにかく・・不安・寂寥感・孤独・哀愁みたいな雰囲気が前半は全開です。
だけど・・・・
クラリネットのソロ以降のアレグロの展開部では、幸福感すらも感じさせる曲の雰囲気になってしまいます。
それにしてもこの楽章のラスト10小節前辺りのティンパニのソロは格好いいですね!!
あのソロをかっちりと決める事が出来れば、ティンパニ奏者冥利に尽きると思います!!

交響曲全体を眺めてみると、第一楽章の重苦しさが曲全体のイメージを支配している傾向が強く、
第四楽章後半のアレグロだけでは、何の解決にもならないという印象は残ってしまいます。

結局、この曲でショスタコーヴィッチは何を言いたかったのでしょう?

本来「人間の死」というものは、哀しく荘厳なものであるものなのかもしれないです。
だけど、この国(旧、ソ連)では、時の指導者スターリンが死亡しない限り国民全体の開放感や幸福は訪れない・・・
そうした矛盾を皮肉を込めて作曲したのかもしれません。

ショスタコーヴイッチ自身も、交響曲のジャンル一つとっても、様々な矛盾を内在しています。
例えば、交響曲第11番「1905年」とか交響曲第12番「1917年」なんかは、
明らかに時の音楽官僚等に対するごますり・ご機嫌取りみたいな御用作曲家みたいな側面を
見せながらも、12番以降以降の
交響曲第13番「バービィ=ヤール」などのように反体制家と評されても仕方がない曲も残している事を考えると、
うーーん、やっぱり人は色々と生きる上では・・
内在した矛盾を抱え込んでいるのかもしれませんよね・・・

だけど、人間自体が、その感情が一定しないというか、その時の心情によって自身の考えも色々と変容し、
ある時は「スターリンを満足させたり、国家を発揚させる曲を書いてみよう。自分も国家の一員として
貢献したい」という気持ちもあったかもしれませんし、逆に「スターリンのタコ!! パーカ!!! 少しは
自分にも自由に作曲できる場を与えて欲しい。てめーなんか死んでしまえ」と思う場面も
あったのかもしれません。

この交響曲第10番は、「雪解け」という小説にも登場するそうです。
この曲をラジオで聴いた小説の主人公が、「数字だ・・・無限の数字だ」とつぶやくシーンがあるそうですが、
この曲のどこに数字を感じる所があるのでしょうかね・・・

やはり人によって感じ方は様々なのですね。

今にして思うと、信じられないのですけど、
私がショスタコーヴイッチの曲を聴いたのは、実はあのあまりにも有名な交響曲第5番「革命」ではなくて
交響曲第10番というのも、いかにも私らしい話なのかもしれないです・・(笑)
しかも、それは管弦楽としてではなくて、吹奏楽アレンジ版という変化球として聴いています。

それが何かと言うと、1981年の山形県で開催された全日本吹奏楽コンクール・東北大会の
高校B部門の秋田西高校の素晴らしい演奏だったのです。
でもあの演奏は本当に素晴らしかったです!!
わずか35人の編成とは思えない重厚感漂う演奏であり、特に後半のアレグロのスピード感溢れる展開は
「小編成の限界」を超越した演奏だとも思えます。
BJの演奏評では「孤独・不安・寂しさの雰囲気はうまく出せていたけど、ソロがプレッシャーのため緊張感を持続
出来なかったのは惜しい。アレグロも素晴らしかったが、もう少し重厚感が欲しい、どちらかというと祝典序曲みたいな
キャラクターの演奏になってしまった」と記されていましたけど、
うーーん、ちょっと違うのかも・・・?
私の印象では、ソロの雰囲気も寂寥感と不安を見事にキープしていたと思いますし、アレグロ以降の展開も
悲壮感と明るさが混在した洒落っ気と重さを両立した素晴らしい演奏だったと感じたものでした。
後年、佐藤滋先生は母校のあの吹奏楽の超名門・秋田南に赴任されましたけど、
やはり高橋紘一先生という存在は大きかったみたいで、結果的に秋田西高の時のような名演を残せないまま
秋田南を静かに去られていたのはなんか気の毒・・みたいな感じもありました。

考えてみると、この秋田西高校の演奏をきっかけに、
「あれ、ショスタコーヴィッチという作曲家はどんな背景があり、他にどんな曲を作曲したのだろう・・?」
「何か交響曲第5番がやたら有名みたいだけど、どんな曲なのかな・・」
「丁度スターリン体制化のソ連時代と生涯が被っているけど、どんな背景がこの曲にあったのかな・・」などと
ショスタコ―ヴィッチについていろいろ興味を持つようになり、
私がショスタコ―ヴィッチを聴くようになった大きなきっかけを作ってくれたようにも思えてなりません。

その意味では、この秋田西高校の演奏と指揮者の佐藤滋先生には、「感謝」の言葉しか
ありません・・・
本当にありがとうございました・・・!!

最後に、改めてこのショスタコーヴィッチの交響曲第10番ですけど、
「恨みつらみ」も含めて、副題に「スターリンと私」 みたいな感じが似合いそうな曲だと思います。
この曲は何度聴いても圧倒的にバランスが悪い・・・ 、悪すぎる・・と感じざるを得ないですね。
悲劇的な感じの第一・第三楽章、に対して第四楽章は、前半がそれまでの悲劇的雰囲気を継承し、
幾分幸福感が見えてくるのは、中盤以降のアレグロ展開のみ・・・
うーーん、暗い感じが圧倒的に長くて「救い」的な部分があまりにも短か過ぎるのですよね。
第四楽章の後半のアレグロが何となく・・・・「祝典序曲」のあの健康的な明るさすらも感じてしまうのですけど
そこに至る経緯がとてつもなく唐突という印象がある事が
やはりこの交響曲自体を何か「とっつきにくいもの」にさせているのかもしれませんよね
例えば、交響曲第4番・交響曲第10番とかチェロ協奏曲第2番とかヴァイオリン協奏曲第1番などのような
ショスタコーヴィッチの曲の中でも重苦しい曲を聴いた後で
「祝典序曲」とかジャズ組曲とかバレエ音楽「ボルト」とか編曲作品ですけど「二人でお茶を」みたいな
軽妙な曲を聴いてしまうと、「本当に交響曲第10番を書いた方と祝典序曲を書いた人は同一人物なのか・・・・」と
心の底から感じてしまうものです。
「人間の心の多様性」とか「人は決して一つの感情だけで動くものではない・・・」という事を
明瞭に提示できる何よりの証拠という感じですね。

ショスタコーヴィイッチのこうした明るく軽い曲と深刻で悲劇的な曲を書けてしまう「二面性」は
高校の頃には、既に何となく気が付いていました。
この事を吹奏楽部の同期で同じくクラリネットを吹いている奴に聞いてみると・・・・
「それは中島みゆきも同じだからな・・・・
あんなジメジメと陰々滅々とした曲を書いてしまう人か、オールナイトニッポンのDJでは・・・・
あんなに弾け飛んでしまうのだからな・・・・」と
いかにも中島みゆきファンらしいコメントを発していたのが、何か今でもとても印象に残っていますし、
意外とショスタコーヴィイッチの本質を突いているのかもしれないですね・・・(笑)
井上靖の小説というと、敦煌・風林火山・天平の甍・蒼き狼・額田女王などのような歴史ロマン小説
しろばんば・あすなろ物語などのような自伝的小説
射程・氷壁などのような社会小説など
かなり多岐に渡っていますし、私としては、「あすなろ物語」・「敦煌」あたりが大好きなのですけど、
実は、井上靖の作品の中で一番好きな小説は「黒い蝶」というお話です。

この「黒い蝶」については、井上靖にとって最初のそして唯一の書下ろし長編小説という所以外
特に評価される要素も無く
正直、文壇からの評価もそれ程高い作品ではなくて、
今現在ではそうですね・・・正直「忘れられた作品」なのかもしれません。
この小説に関する評価を検索してみても、うーーん、残念ながら、この小説自体ネットで取り上げられている事は
極めて稀ですし、
たまーに書かれていても、あまりいい事は書かれていないですね・・・(泣)

本記事のカテゴリは「クラシック音楽」となっているのですけど、どうしてそうした分類をしたのかというと、
後述しますが、この小説の概要が、とあるペテン師みたいな主人公が執筆当時「鉄のカーテン」と言われていたソ連から
とあるヴァイオリン奏者を日本に招聘し演奏会を開催させようという内容で、
クラシック音楽の用語とか実在する作曲のの名前が色々と出てきて、クラシック音楽カテゴリに分類しても
特段違和感がなかったからです。
ショスタコーヴィッチの交響曲第10番は、1953年の当時のソ連の絶対的指導者・スターリンの死を抜きには
語られない程密接な関係がありそうなのですけど、
井上靖のこの「黒い蝶」もまさにその頃の時代背景をベースとしていて、
この小説にもしばしば、当時のソ連の政治状況とか当時の日本との関連性が興味深く描かれていて
今現在の視点で改めてこの小説を読んでみると、大変興味深くもあり、1991年のソ連邦崩壊というのは
改めて世界史的には大変意義がある事件だったのだな・・と改めて感じたりもします。

井上靖の他の格調高い作品を読んでしまうと、この「黒い蝶」は確かに少し安っぽく感じてしまうかもしれませんし、
ある一人の「ペテン師」の意地みたいなお話でもありますので、
文壇とか読者からの評価は確かに高いものではないのかもしれませんけど、こうした「小説」というものは、
別に評論家とか世間の評価等は全く関係が無いと私自身は思っています。
読んだ本人が「これ、面白い・・」などのように「何か」を感じ取ってくれればそれでいいと思うのです。




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この「黒い蝶」ですけど、とにかく無条件で面白いと思います。

小説の中で、バッハ・ベートーヴェン・協奏曲・演奏会・ストラディバリウス・ヴァイオリン等の
たくさんの「クラシック音楽」に関連するワードがてんこ盛り・・・というのも
私にとっては、この小説に共感を覚えた一つの要因にもなっていたと思えます。

この小説の概略を大雑把に書くと・・・・

主人公・三田村は、計量機器販売店を経営していたが、あえなく倒産・・・
軽い失意の中、ホテルで夕食を取っていると、唐突に三田村に
「あなたは正確に人の声を聞き分けることが出来るか・・・?」と訳の分からん質問をしてくる紳士が
登場・・・
その紳士は元々は江藤財閥の御曹司で、今は楽隠居の身、
その江藤には一人娘がいて病弱で、明日にでも亡くなってしまいそうな状態・・・そのひとり娘が
うわごとで「何か」を呟いているのだが、何を言っているのか自分にはよく分からない・・・
よかったら、そのうわごとを聞いて貰えないかというかなり奇妙な申し出を受ける所から物語は進展していきます。
早速、江藤邸でその娘のうわごとを聞いてみると、「ムラビヨフ」と言っているようにも聞こえる・・・
その後、色々な経緯はあったものの、その「ムラビヨフ」というのは、
当時のソ連の著名なヴァイオリン奏者である事が判明し、江藤のその病弱な娘も、かつては
ヴァイオリン奏者であり、純粋にヴァイオリンを弾く事を愛してやまない少女なのですけど
亡くなる寸前までそのムラビヨフと会う事、ムラビヨフの演奏を自分の耳でしかと聴きたいという夢を抱いていました。
しかし、江藤の娘も夢半ばにして亡くなってしまいます。
江藤としては、本当に娘を想う純粋な気持ちから
「無理は承知だが、何とか是非ムラビヨフに日本に来て貰って娘の墓前で演奏をして欲しい」と考えるようになったものの、
当時の日本の状況は、まだまだ「戦後の混乱」から必ずしも抜け切れておらず、アメリカの庇護のもとにおかれ、
当時、「冷戦」とか「鉄のカーテン」とも言われ、アメリカと敵対関係にあったソ連とは、国交すらも回復できていない状態
でもありました。
必然的にこうしたムラビヨフ来日招聘という事自体、当時としては、かなりハードルが高かったという事実は、
この小説を読む上での「基本条項」になると思います。

だけどこの小説は、そうした他人の亡き娘の「果たせなかった夢」を叶えてあげたいという
「純粋」な物語ではありません!

上記のような事を背景にし、三田村は一体何をたくらんだのか・・??

当時、三田村の耳には、
「とある石鹸会社が債務を抱えて倒産寸前、だけど機械も技術も従業員もちゃんといるのだが、
その会社経営者は、債務も丸ごと会社を全て誰かに売却して、自分はさっさと手を引きたい・・・
だれかこの石鹸会社を引き受け経営を軌道に乗せてくれる人はいないか」という話ばかりが焼き付き
何とかこの話を受けたい・・・
そして自分も確かに最近計量機販売店を潰してしまったが、経営者としてもう一花咲かせたいし儲けたい・・と
思っているものの、残念ながら「買収費用」が全く算段が付かない・・・・
さてさてどうしたものか・・・と思っている時にひらめいたのが、そう! 江藤をペテンにかける事だったのです。
そして、江藤邸を訪れた三田村は、
「自分なりに色々と調べたが、国交のないソ連であっても民間人としての音楽家を日本に呼ぶことは
可能と判断した。
あなたの亡き娘のために、私は是非一肌脱ぎたい。
その運動費用とか外交ルートの活用とか裏ルートの活用とか、何かとお金は掛る。
自分も頑張るから何とか費用の方を少しは協力できないだろうか・・・?}」と心にもない事を申し出ます。
この時点では、三田村には本気でムラビヨフを呼ぶという意志は全くありませんでした。
あくまで石鹸会社を買収するための資金源としか江藤を見ていませんし、そんなソ連から音楽家を招聘することが
成功するとは微塵も考えていなかったのです、
そして、三田村はかなりの資金を江藤から引っ張る事に成功し、そのお金を当然ながら
石鹸会社買収の費用に充当し、江藤から巻き上げたお金は全て使い果たしてしまいます。

ここでもう一人、この小説を語る上で絶対に外せないヒロインが登場してきます。

それが誰かと言うと、江藤の妹で、今はバツイチの出戻りとして江藤と共に暮らしているみゆきという女性なのです。
でも、このみゆきさんですけど、とっても魅力的な方というか、
単純にお人よしで堅物の江藤とは全く異なり、天真爛漫・自由人・型にはまらない・色っぽいなど
ヒロインらしい要素を見事なまでに内在しています。
みゆき自身は、実は、初めから三田村を全く信じていなかった・・・胡散臭いとさえ感じていたのは明確です。
初めから「こいつ、私の兄をだます気満々なんだな」と見抜いていたと思います。
だけど、みゆき自身がいつのまにか、こうしたペテン師としての三田村にどんどん魅かれていったのは
事実なのかもしれません。
(ま、その辺りの描写は少しぼやかし気味に書かれていますけどね・・・)
三田村のやや強引なみゆきへのキスシーンとかダンスシーンとか、結構あの微妙な場面は興味深いものはありました、
そして物語の中盤頃、
三田村はみゆきから「今日のあなたは嫌い! あなたは私に三つの嘘をついた・・・」と告げられ・・・
その三つ目の嘘というのは・・・
そう! 言うまでも無く、三田村自身は、最初からムラビヨフを日本に呼ぶつもりは全く無く
最初から江藤は単なる金づるとしか利用価値を見出していなかったという事なのですけど、
この小説が面白いのは、ここを起点に物語が大きく動きだし、
みゆきから「三田村の本音」を見抜かれた三田村自身が逆に意地になり、
「よーし、この女は俺の事をペテン師としか思っていないようだが、本気で自分がムラビヨフ招聘に
動き出したらどうなるか、目にモノを見せてやる!!」とばかりに・・・愛する女性への「意地」から
ムラビヨフ招聘に向けて真剣に取り組み始める三田村の心理変化が実に巧みに描かれていると思いますし、
このあたりは、さすがに百戦錬磨の小説家らしい素晴らしい腕の見せ所だったと思います。

そして、ここから先はムラビヨフ招聘のために色々と奮戦する三田村がかなりリアルに描かれ、
またここから先の展開は・・・新聞社とかスポンサーとか政治家とかソ連との交渉とか色々困難な場面が続くのですけど
そのあたりの話の進め方と言うのか「仕事の段取り」というか
いかに国際的著名人を招くとはどういう事なのか、どんな準備が必要かとか
国交の無い国との交渉はどのように進めるべきなのかというかなりリアルティーある話にもつながり
後半はかなりキビキビと心地よく物語が進行していきます。

だけどこの小説面白いですね・・・

主人公の三田村は、ある意味とんでもない「詐欺師」とも言えるのですけど
小説家がついつい力んで「悪とは・・・」・「善悪の狭間とは・・」とか「現実と理想の落差とは・・・」みたいな
青臭い事に力点を置かず、
「一度は確かに江藤を騙してしまったけど、その贖罪として・・」みたいな事は全く考えないで
とにかくひたすら「自己」のためだけを考えて・・・
そして一度は「愛した女性」のために意地でも一度自分が決めた事をやり抜いてしまう
三田村の「リアルティー」に本当に心の底から、共感を感じてしまいますし、
三田村のヴァイタリティーには、思わず「頑張れ・・!!」とエールを送りたくもなってしまいます。

そうですね・・・・井上靖の小説に「射程」という長編小説があるのですけど、
この「黒い蝶」と少しだけ類似点があります。
何かと言うと、一度は愛した女性のためについつい意地を張り、
「射程」の方は、無理に無理を重ねた結果事業を破綻させ、最後は己自身の命を自ら絶ってしまうという
カタストロフィー(悲劇的結末)で終ってしまうのですけど、
対照的に「黒い蝶」は、愛する女性のために意地を張り、その結果として・・・・
本人すら全く予想だにしなかった「ムラビヨフの日本への招聘成功」という意外な成功をもたらした事で
小説が閉じられます。

ま確かに、「人としての倫理観はどうなのか」とか
「詐欺師がこういう成功体験を勝ち取り、やがては更に実業家としてのステップを重ねていく事の妥当性」は
いかがなものかという問題があるのは分かりますけど
この小説は、そんなつまらん倫理観が問題なのではないと思います!
あくまで三田村のヴァイタリティーと
「愛する女性」への意地が意外な成功すらも生み出すという、「人生の意外さ・皮肉さ」をきちんと描き切れている事の方が
私は素晴らしいと思います。

余談ですけど、みゆきも意外と人が悪い面があったりして・・・
結構な序盤から「三田村=ペテン師」という事はとうに御見通しなのに、ある意味わざと三田村を泳がし、
兄が三田村に出資したお金を
みゆき自身が「お小遣い」的に使ってしまったり、
みゆき自身が三田村に
「兄からお金をせしめようと思うのなら、少額ずつチビチビといのはダメ・・・大金を巻き上げるのならば
一気に一度に巻き上げないとダメ」とかアドバイス(?)をしてしまうのも、
うみゆき自身「悪女」としての素描があるのかもしれなかったですね。
あと、そうですね、三田村自身が招聘のスポンサーとして大手新聞社に声を掛ける場面があるのですけど、
どの新聞社も、当時はまだアメリカの占領下に置かれた日本という感覚が強いせいか、ソ連からの音楽家招聘は
二の足を踏んでしまう中、右系と目された新聞社だけがそれに応じてしまうというのは、
何か面白い話ではありました。
冒頭でも書いた通り、この小説は、ショスタコーヴィッチが「スターリン逝去」に際して交響曲第10番を作曲した頃と
時代背景は重なると書いたのですけど
「黒い蝶」の中でも、スターリンの後継者のマレンコフ首相の辞任とか鳩山首相の就任とか
当時のソ連と日本の政治状況も色々と出てきます。
その辺りは、現代の視線で読むと中々理解が難しいのかもしれませんけど、
こうした当時の歴史を踏まえた上で、この小説を読むのも決して悪いものではないと思います。

一言で言うと「大人の小説」だと思います!!
最近の記事でも書いたのですけど、
花輪高校吹奏楽部と秋田南高校吹奏楽部を長年に渡り指導されていた小林久仁郎先生のご逝去の知らせは
大変残念なものがありましたけど、
小林先生のあの個性的でエネルギッシュな伝説的な名演の数々は決して色褪せる事は無いと思いますし、
それをたとえ一個人のこうした拙くて細々としたブログであっても、定期的に語り継いでいくことも
当ブログの「一つの役割」ではないのかなと考えております。

そして当ブログといたしましては、花輪高校・秋田南高校以外でも、私がこれまでに聴いてきた
吹奏楽コンクールにおける例えば、市立川口高校・就実高校・仁賀保高校・雄新中学校など数々の素晴らしい名演を
歴史の中に埋もれる事がないように誰か一人ぐらいはブログという形式であっても何か「形」として
残しておくことも決して無意味な事ではないと考えておりますので、それは引き続き細々ではありますけど
続けていきたいと思っております。

さてさて、そうした中、長い吹奏楽コンクールの歴史においてはどうしても忘れられてしまう演奏とか
「え・・そんな曲吹奏楽コンクールで演奏されていた事もあるんだ・・知らなかった・・」みたいに知る人ぞ知る幻みたいな
演奏が出てきてしまうのは仕方がない事だとも思っています。
そうした「忘れられた演奏」の一つなのですけど、どうしても忘れられない演奏であり、私自身が
その演奏に多大な影響を受けたという事もあり、
絶対に「歴史に埋もれてはいけない演奏」というのも幾つかあるとは思うのですが、
その中の一つが、1982年に東海地区代表として全国大会に出場し、松村禎三の交響曲より第三楽章を演奏した
長野県の屋代高校だと私自身感じております。

過去の当ブログにおいて、この屋代高校とか松村禎三の交響曲については何度か語らさせて頂いた事は
あるのですけど、ブログというのもやはり「歴史に埋もれてしまう」という事は実はあったりしまして、
古い記事と言うのはどうしても中々現在の当ブログをご覧になっている方にはなかなか見て頂けないという事もありますので、
改めてなのですけど、屋代高校吹奏楽部と松村禎三の交響曲(第一番)について、ほんの少しばかり
語らさせて頂きたいと思います。

1982年の仁賀保高校の矢代秋雄/交響曲とか、屋代高校の松村禎三/交響曲の
演奏によって、私自身が邦人現代音楽に興味を持つようになった経緯もあるため、
この屋代高校の演奏は、仁賀保高校の演奏と共に私にとっては大変思い入れのある曲の一つです。

以前何かの本で読んだのですけど
(立ち読みだったため、本のタイトルは忘れました・・・、確か邦人作曲家に関する著作だったような・・・・)
松村禎三氏自身、1982年の全日本吹奏楽コンクールの高校の部を聴きに 普門館の会場に自ら足を運び、その屋代高校の演奏を聴き、大変満足されたとの記述が確かあったように記憶しています。
これって結構すごい事かもしれないですね・・・
もしも私が演奏する立場だったら・・・、もしも事前に作曲者自ら普門館まで足を運ぶという事を
知っていたとしたら、とてつもなくプレッシャーが掛るかもしれませんよね・・・・(汗・・)

松村禎三の交響曲自体、吹奏楽コンクールで演奏される事は・・・・うーーん、ほとんどありません・・・・
過去の吹奏楽コンクールにおいて松村禎三の交響曲が演奏されたことは2回のみ・・・・

しかし・・・・

その2回とも支部大会を通過し全国大会で演奏されています。
一つが屋代高校で、もう一つは1983年の東海大学です。
ちなみに東海大学は第一楽章の方を演奏しています。
私は個人的には、屋代高校の演奏も東海大学の演奏も両方大好きですし、両チームとも
松村禎三の「すさまじいエネルギーの力」の世界を見事に表現していると思います。

1982都市当時の東海地区の高校の部は、名電・浜松工業・東海第一の三大巨人がしのぎを削っていましたが、
浜工と東海第一を蹴落としての全国出場はお見事だと思います。
というか、長野県の普通の県立高校で、特に音楽的教育を日常的に受けていない生徒の皆さん方が
ああやって松村禎三の交響曲の世界を見事に表現されただけではなく、
結果的に吹奏楽コンクールの名門校を撃破しての全国大会出場は大変立派な事だと思います。
この事実は、同じく田舎の県立高校の楽器も予算も実績も何もない吹奏楽部員に対して
どれだけ「希望」を与えてくれたものか!!
そういう意味でも、この屋代高校とか仁賀保高校の演奏は大好きですね。

さてさて、1982年のその屋代高校の演奏なのですけど、改めてはっきりと申し上げますと、
正直言って技術的には決して超高校級の怒涛の名演ではありません。
その点が私が個人的には1982年の高校の部の圧倒的な第一位と感じている仁賀保高校の超絶的技術と音楽的解釈の
素晴らしさ・透明感に高校生離れした卓抜したスピード感と切れの良さみたいな
技術の高さはほぼ皆無だと思います。
結果的に屋代高校はこの年の高校の部において銅賞を受賞し、私個人の客観的評価としては、出来としては、
そうですね・・下から2~3番目ぐらいの演奏なのかなぁ・・というのが本当に正直な意見です。
というか、よくこの技術であんな激戦の東海大会を突破できたのか不思議なくらいです。

屋代高校の演奏は確かに難もあります。
木管楽器、特にクラリネットセクションがあまりにも貧弱というか、音が薄過ぎというのが最初から最後まで
かなり引っかかってしまいます。
(課題曲の序奏とアレグロも音楽的解釈とあの無機質的なスピード感はこの課題曲の本質を理解している数少ない
演奏の一つだと私は思っているのですけど、そうした素晴らしい解釈を木管・・特にクラリネットセクションが少々もたつくことに
よって台無しにしているような箇所が幾つもあるのは大変勿体ないと感じております)
特に冒頭部分なんか、あまりにも貧弱すぎて
「サウンドがうすべったく貧相で平板・・」みたいな印象を与えてしまいます。

だけどffでのパワーは原曲に迫るものもあります。
アレンジは素晴らしいですね! 原曲を再現しながらも、独自の吹奏楽としての色彩感も出しています。
いい例がコンサートチャイムの使い方だと思います。
中間部での強奏において、原曲では、ピアノがそのリズムを支える役割がありますが、
屋代高校では、ピアノの代わりにコンサートチャイムを何と二台も使用し、斬新な響きを
展開させていきます。
チューバなどの低音楽器も比較的大胆に使用し、重圧感も醸し出していたと思います。
「ヒヒーン」とも聞こえる馬の悲鳴みたいなトランペットの音の響かせ方とか
ラスト近くの小太鼓の凄まじいロールとかラストのコンサートチャイムの2台の荘厳な響きとか
打楽器セクションの圧倒的存在感とか(特にトムトムの響きが圧巻ですね!)
一旦静粛になった部分でのオーボエのつぶやくようなメロディーの歌わせ方とか
大胆不敵とも感じられるチューバセクションの低音の響かせ方・・・などなど
随所に燦然と光り輝くものがあると思います。
そして何よりもあの松村禎三らしい「すさまじいエネルギーのかたまり」をダイナミックスレンジを幅広く駆使しながら
流れるように表現できていたのは素晴らしいものがあると思いますし、
この点は、吹奏楽コンクールにおける「表現」という評価ポイントにおいては、満点に近い評価があっても当然ではないのかな
とも感じたものでした。
たった一つの音の塊が時の経過とともに「巨大な音のうねり」と変容化していく様子が「音の絵巻」として
的確に表現されているようにも私には感じられたりもします。

この屋代高校の演奏が特に秀でている点は、奏者全員がこの難解な曲をよく理解したうえで
「自分たちはこのように吹きたい!」という意思と主張が明確に伝わっている点と
弱奏と強奏のダイナミックスレンジの幅が驚異的に高いという事なのだと思います。
それゆえに冒頭とか弱奏部分の木管セクションの「サウンドの貧弱さ」が大変勿体ないですし惜しまれます!!
その点をもう少しきちんと整理されて演奏されていたならば、もう少し高い評価は出ていたような気さえします。
中間部とか終結部のffの表現・雰囲気が実に素晴らしかっただけに
音の薄い部分に対して、もうひと工夫はほしかったですし、この点は大変惜しまれます。

だけど、松村禎三の「和の圧倒的エネルギーの世界」をあそこまで的確に表現し、
確実に聴衆に対して「何か」を伝え、あの演奏から既に35年以上経過した現在においても
「私」という存在に今でも「感銘」を残しているのは、あの屋代高校の演奏なのです。
私自身は、「松村禎三の世界」は屋代高校のあの素晴らしい演奏を通して初めて知ることになったのですから、
やはりその意味でも大変意義の大きい演奏だといえると思います。
そうした意味では、最近ご逝去された花輪高校の小林久仁郎先生が指揮されたウォルトンの交響曲第一番の演奏を
東北大会で聴くことで一気にクラシック音楽の深い森の中に迷い込んでしまった構図と
似ているものがあると思います。

とにかく屋代高校は、普通の先生と生徒たちが夏の間に手作りで自分達の音楽を作り上げ
自分達なりに表現できたと言う意味で本当に素晴らしいと思いますし、
1982年の全国大会で見事に松村禎三の世界を表現された屋代高校の指揮者と生徒の皆様に
35年後の私が埼玉の地から心の底から敬意を表したいと思います。

本当にありがとうございました!!

結果として、評価としては銅賞なのですけど、
そんなのこの演奏の前では全く無意味に感じます。
だって、コンクールの評価とは、絶対的なものではなくて、あくまで複数の審査員の点数を集計した数値を
相対的に評価しただけのものに過ぎません!
少なくとも、「私」には、銅賞以上の何か大切なものを間違いなく伝えてくれました。


私自身、松村禎三の交響曲(第一番)を管弦楽の原曲版を全楽章ノーカットで一度だけなのですけど
プロの演奏を聴くことができたのは本当に幸いなことでした!

松村禎三の交響曲は、個人的に大好きな曲の一つです。
残念ながら生で聴く機会は極めて少ないのですが、これまでの私の生涯の中でたった一度だけ
この曲を聴く機会に恵まれました。
確か1992年の冬だったと思いますが、
都響のサントリーホールにおける定期演奏会にて、「オール松村禎三プログラム」が組まれていました。

曲目は・・・・

〇管弦楽のための前奏曲

〇ピアノ協奏曲第二番

〇交響曲

という構成で、確か指揮者は岩城宏之だったと記憶しています。

松村禎三は、後に交響曲第2番を発表していますけど、
この都響の演奏会の頃とか1982年の屋代高校の演奏時においては、2番はまだ未発表でしたので、
この時点では「交響曲」という表示になってしまいます。

私、この松村禎三の作品展を聴きに行くため、
1992年は山梨県在住でしたけど、
「都内の叔母が危篤状態・・・」と大嘘をつき、有給を取得し、わざわざこの演奏会を聴くためだけに
上京したのは今となっては大変懐かしい思い出です・・(笑)

松村禎三の「交響曲」は生で聴くとすごいエネルギー感を感じますね。
熱気というか、内面的な充実感をものすごく感じる曲です。
第一楽章と第三楽章の「和のすさまじい破壊力・パワー」もいいけど、
両楽章の間に挟まれた静粛感の漂う第二楽章も短いのですが大変印象的です。
でも圧巻は第三楽章ですね!
第二楽章から休む間もなく続けて演奏されるのですけど、
クラリネットのつぶやくようなソロから始まり、
段々と盛り上がっていき、戦場での馬の悲鳴・雄叫びのような展開を経て
少し静かになって突然和音を叩きつけて終わるという感じなのですが、
本当にこのエネルギーにはただただ脱帽するしかないです。
打楽器みたいに形で使用されるピアノとか二台も使用されるコンサートチャイムとか
トムトムと小太鼓のロックみたいな響きとか確実に「何か」は伝わってくる曲だと思います。

この交響曲の魅力は、上記の屋代高校の演奏ではないのですけど、あの「圧倒的なエネルギー」なのだと思います。

この曲の音楽専門書における書き方としてよく「アジア的エネルギー」と表記されていることが多いのですけど、
私的には「ちょつと違うんじゃないの・・?」という感覚があったりもします。
そうですね・・・
この交響曲は、あの圧倒的エネルギーによって「すべて」を飲み込んでしまう曲なのだと思います。

聖も俗も、善も悪も、昼も夜も、現実と幻想も、とにかくこの世のありとあらゆるものを飲み込んで
すべてをごった煮させる事で、混沌から「一筋の光」を見出していこう・・みたいな問答無用的なパワーとエネルギーが
ある曲なのだと思ってしまいます。

最後に・・・

改めてですけど、そうしたすべてを飲み込んでしまうこんなとてつもない大変難解な管弦楽曲を吹奏楽版にアレンジし、
それを立派に消化したうえで、自分たちの「ここはこのように表現したい!」という個性をきちんと踏まえながらも
原曲のこうした圧倒的エルネギーを見事に普門館の聴衆に提示することができた
1982年の屋代高校吹奏楽部の皆様に敬意と感謝の気持ちを改めて表させて頂きたいと思います。

小学校の頃って、今現在そうしたイベントがあるのかと゜うかは分かりませんけど、
学期ごとに一度のペースで「道徳」の時間を「お楽しみ会」というジュース・お菓子を食べながらクラスメイトの
かくし芸とか手品とか小話とかミニ劇・ミニコントみたいなものを楽しむみたいな時間があったような気がします。

え・・私ですかぁ・・?

こういう時って「芸は身を助ける」というのはありますよね・・(笑)

このブログでは何度も書いている通り、私自身は小学の頃は管楽器クラブにて打楽器を担当し、
中学以降は吹奏楽部でクラリネット・アルトサックスを吹いていましたので、
こうしたイベントの際には「楽器で一曲を吹く」という芸をお披露目すれば周りからは結構「おおぉーーーっ」という目で
見て頂けますし、
金融機関在籍時に、老人会・町内会の一泊二日の慰安旅行に添乗員として同行させられ、宴会で
「おまえたちもなんかやれっ!」みたいな際にも、その旅行時に楽器を一本持ち込んで
懐メロかなんかテキトーに一曲吹く事が出来れば、やはりそれだけで「すごいじゃん!!」みたいな目で見られたりもしましたので、
やはりこういう「一芸」はあると助かりますよね・・(笑)




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ちなみにですけど、老人会の慰安旅行の宴会時の余興としてクラリネットで吹いてウケがよかった曲は、
「青い山脈」と「上を向いて歩こう」と「川の流れのように」でしたね! (笑)

その小学校の際のお楽しみ会当時は、私自身は打楽器担当で、その当時はクラリネットは吹いていなかったわけで、
ではどんな楽器を持ち込み何という曲を演奏したかと言うと、
シロフォンという木琴の一種を教室に持ち込み、当時の流行アニメの一つ、「宇宙戦艦ヤマト」のテーマ曲の
シロフォン編曲版でした!
ヤマトは曲自体全然難しくありませんし、クラスのほとんどの人たちはヤマトのメロディーは一度ぐらいは聴いたことが
ありますので、やはりウケはとてもよかったように記憶しています。

あ・・なんか話がそれてしまいました・・(汗・・!) 話を戻しますと、そうしたお楽しみ会において、
一つの定番が「なぞなぞ」だったかな・・?
例えばですけど「パンはパンでも食べられないパンはな~んだ?」 「正解はフライパンで~す!」みたいな他愛も無い
ばかりでしたけど、
例えば「鳥は鳥でも飛べないし食べられない鳥はな~んだっ?」というなぞなぞに対して
ある一人の生徒がなぜかしりませんけど「借金取り!」と答え、周囲が「なんじゃそれ・・?」みたいな雰囲気になっている中、
その生徒が言うには
「だってうちにはよく真夜中にそんな借金取りの人たちがやってきてドアをガンガンぶっ叩くよ・・」と平然と言っていましたけど、
うーーむ、それって当時はあまりよく分からなくても今現在の感覚で思い出すと結構シュールな話なのかも・・??
そしてその十数年後にまさか私自身がそうした「借金取り」の片棒担ぐ羽目になるとは当時は夢にも
思わなかったですよね・・(滝汗・・!)

さてさて、上記で「パンはパンでも食べられないパンはな~んだ?」 とか「鳥は鳥でも飛べないし食べられない鳥はな~んだっ?」
みたいななぞなぞなのですけど、これって別に正解は一つだけではないのですよね。
食べられないパンの回答としては、他には私が思い浮かぶ限りでは、ジャパンとかジーパンとかチノパンとか審判とか
ピーターパンとか前科一犯とかルパンなんかが思い浮かびます。
「鳥は鳥でも飛べないし食べられない鳥はな~んだっ?」のなぞなぞの答えは、そうですね・・これは色々とありそうですね。
例えば、しりとり・あやとり・ねずみとり・関取・鳥取・サントリー・てとりあしとり・ちりとり・うっとり・おっとり・シンメトリー
あたりなのかな・・?
東方好きの皆さまでしたら、正解は・・「にとり」ですよねっ! (笑)

考えてみるとこういうなぞなぞ・クイズって別に正解・答えが一つとは全然限らないのですよね!

他には例えばですけど、

「鯛は鯛でも泳がない鯛はな~んだ?」というなぞなぞの答えとしては、
ネクタイ・期待・気体・死体・遺体・値などが思い浮かびそうですね。
東方の幻想郷のあるキャラの皆さまでしたら「あたい」とか言うのかな・・?
ちなみに東方キャラで第一人称があたいという御方は、チルノ・お燐・小野塚小町・クラウンピースあたりですね・・(笑)

他にはそうですね・・

「イカはイカでも墨を吐かないイカはな~んだ?」というなぞなぞの答えとしては、
西瓜・Suica・トロイカ・配下・哀歌・追加・家庭科・文明開化などが挙げられそうですね・・・
東方好きの皆さまでしたら、正解はやはり「萃香」ですよねっ! (笑)

他にも他にも・・

「栗は栗でも食べられない栗はな~んだ?」というなぞなぞの答えとして、
びっくり・しゃっくり・ゆっくり・こっくりこっくり・がっくり・九十九里などが思いつきそうですね・・・(笑)

とにかく世の中というものは、なぞなぞに限らず生き方とか考え方一つとっても「正解」とか「唯一の答え」というものは
ないと言えるのだと思いますし、それが人それぞれという事なのかもしれないですよね。

ここから先は上記とは全く関係のない話になってしまいますけど(汗・・)
20世紀のアメリカの作曲家のアイヴズというちょっと(?)ヘンというか・・かなり個性の強い作曲家の作品に
「答えがない質問」という7分程度の小品があったりもします。

楽器の構成が、弦楽四重+フルート4本+トランペットという大変シンプルな構成で、
弦楽四重奏は終始、一定の弱奏をするだけで、フルートやトランペットにはほとんど絡んできませんし、
弦楽はトランペットやフルートをほぼ完璧に無視して自分達の世界に入り込んでいる印象すらあります。
こうした弦楽をバックに「トランペット」が浮かび上がる形で一人朗々とメロディーを吹く曲の構造は
なんかとてつもなくユニークですね。
この曲のトランペットの音って、勇壮とか華麗みたいな印象は全く無く
「人の内面」をせつぜつと語り上げる内省的な感じがするのが大変面白いなと思います。

この曲の意図する事ってなんなのかな・・?
「人が存在する事の意義とは何でしょう・・・?」みたいな大変難しい「問い」に対して
その「問い」をトランペットが計7回行っていて
それに対する「回答」という形で4人のフルート奏者が提示しているというのが曲の構造なのですけど、
実際に曲を聴くとすぐに分かるのですけど
フルートの回答は、全然回答になっていないというか、最終的には支離滅裂なメロディーとなって
いつのまにか立ち消えになってしまい
結局トランペットからの「問い」には誰も答えられず不調・・・・という結果で終ってしまう・・・
その間、弦楽四重奏はずっと一定の和音を鳴らし続けているだけで
トランペットとフルートの「高尚な対話」には全く絡まず、延々と自分達の役割にだけ専念しているという
曲なのです。

「希望の光」が見えてくる曲という訳では全然なくて、
聴いていても全然希望とか楽しさなんかは見えてこない不思議な曲とも言えると思います。

「人はなぜ生きるのか、その存在意義とは何なのか・・?」という人間にとっての永遠の課題に対する回答は、
古今東西誰一人誰しもが納得できる「回答」を提示していないからモヤモヤして当たり前という感覚が生じてきます。
「人の生きる事の意味ってなーに?」みたいな問いに対する回答は、
「ある訳が無い」という感じなのだとも思えます。
結局は人それぞれなのだと思います。
自分が生きる事は自分のためなのだし、他人の生き方はそれは他人のもの・・・という事なのだと思います。
だからアイヴズの「答えのない質問」でトランペットからの「問い」にフルートが答えられず
最後は支離滅裂状態になってしまったのは極めて当然のような感じもします。
なんかこの曲を聴いてしまうと、アイヴズから
「そんなに悩まなくてもいいじゃん!、だってどうせ考えたって正解が元々存在しないのだから・・・」みたいな
メッセージを提示されているような気もするのですよね・・・・

アイヴズ自身、平日は「保険会社経営と言う実業家」としての顔を有し
休みの日は演奏される当てもない曲を延々と作曲していたという側面があり、
それではどちらが本当のアイヴズなのかという問題も出てくると思うのですけど
それは・・・・
「そんなの正解は無い、どちらも自分自身なのだ!という事とも何か暗示しているのかもしれませんよね。

なんか支離滅裂な事を書いていますけど、上記のなぞなぞの答えではないですけど、
「世の中には正解と言うものはない、人それぞれ・・」という事を言いたい・・と思って頂ければ幸いでもあります・・(笑)
NHK・ラジオ第1放送で毎週日曜日の早朝 8:05 - 8:55に放送されている「音楽の泉」という番組は
とてつもない長寿番組だと思います。
この番組はクラシック音楽の専門番組なのですけど、NHKラジオのクラシック番組は基本的にFMで放送される中、
音楽の泉は数少ないAM放送です。
この番組の放送が開始されたのは、なんと・・! 1949年という戦後間もない頃でした!
番組初期は生放送で、SP盤時代は、1曲がレコードの2面以上にわたることがあり、
2台の再生機を用意して曲を聴きながらディレクターが生で繋いだというエピソードも残されているそうです。

ちなみにですけど、番組テーマ(オープニング 及び エンドテーマ)曲は、
シューベルト作曲の「楽興の時第3番ヘ短調」なのですけど、多分ですけどこのシューベルトのこの曲は
ほとんどの方が一度は耳にされたことはあるだろうと推察される大変知名度の高いメロディです。

さてさて、最近でもないのですけど、先月の月末に早朝、朝も早くから顧客廻りのため社用車に乗ってさいたま市内を
移動中に普段聞いているTBSラジオの番組があまりにも下らなかったため、
なんか無意識のうちにラジオのチャンネルを廻していたら、偶然なのですけどNHK第一放送に入っていて、
上記の「音楽の泉」が放送されていました。
うーーむ、音楽の泉を聞くのもなんか久しぶりという感じでしたが、その時に掛かっていた曲が
カラヤン指揮・ベルリンフィル演奏のチャイコフスキー/交響曲第4番が流れていました。

チャイコフスキーの交響曲と言うと、一般的な感覚で言うと、交響曲第6番「悲愴」が一番有名でしょうし、
5番と同じくらい演奏頻度も高いと思います。
私自身、もしも「チャイコフスキーの交響曲で一番好きなの曲は?」と聞かれたら
相当悩むと思います。
後味の悪い第四楽章と「ええじぇないか!」の集団発狂みたいな感じの第三楽章が大変印象的な悲愴、
5番の大団円 4番の華麗さとメランコリー 1番「冬の日の幻想」の素朴さなど
どれもこれも素晴らしいものばかりで、捨てがたいのですが、
私としてはやっぱり交響曲第5番を選んでしまうのかな・・?

だけど交響曲第4番も大変捨てがたいものが多いですし、魅力は尽きない交響曲の一つだと思います。

チャイコフスキーにとっても、この交響曲第4番は、人生の転機の頃に作曲されたものでもありますし、
本人にとっても思い入れはあるような感じもします。
チャイコフスキーの交響曲は、1~3番とマンフレッド交響曲あたりまでは、
正直そんなに際立った個性もあまり感じられませんし、事実演奏会で取り上げられる頻度も決して高くはないです。
だけど交響曲4番を契機に飛躍的に交響曲としての完成度が高くなり、CDに収録される頻度や演奏会で実際に
演奏される回数も1~3番に比べると急激にUPします。

実は、この交響曲第4番の直前に、チャイコフスキーは「人生最大の危機」を迎えています。
押しかけ女房的な女性に、半ば強引に結婚を承諾したものの、
新婚生活は半年程度で破綻し、チャイコフスキーはイタリアに逃避旅行をする羽目になってしまいます。
その時期は自伝によると自殺も一時考えたほど思いつめたらしいのですが、
イタリアの南国の太陽サンサンぶりに心が落ち着きを取り戻したかどうかは分かりませんが、
結果的に何とか立ち直って、再びロシアに戻りどうにかこうにか再び作曲活動が出来るようになるまで回復したのでした。

チャイコフスキーの交響曲4番というのは、
第一楽章~第二楽章の陰気さと第四楽章のフィナーレのバカ陽気の対称性があまりにも顕著
過ぎるので、よく批判のタネにされていますけど、
これって意外と単純な事で、
もしかしたら、第一~第二楽章を作曲していた頃は、ロシアにいる頃の話で
妻との離婚を巡って陰鬱な気分の頃のものかもしれません。
そしてイタリア旅行中に、妻から解放されて、同時に南国の陽気な気候に心もウキウキとなり、
第四楽章の感情爆発の壮麗なフィナーレをルンルン気分で作曲していたのかもしれないですね・・(笑)
この辺りは、あくまで推察ですので、正しい事実はよく分かりませんけど、
意外と正解じゃないのかな・・?というものが曲の隅々から感じられたりもします。

この交響曲第4番が作曲されている頃に、
メック夫人と言う、チャイコフスキーの人生に大きく関わる金持ち未亡人が登場してきます。
メック夫人は、「年金」という形で、チャイコフスキーに毎年定期的な莫大的な金銭援助をする事で、
チャイコフスキーは、特に仕事にあくせくしないで、自分が書きたい音楽だけを作曲できる環境に
置かれることになります。
チャイコフスキーが生きている頃は、ロシア5人組が活躍している時代とほぼリンクしているのですけど、
例えばボロディンは化学者として、リムスキーは音楽学校の先生として、それぞれに職業を持ち、
その合間に作曲活動をしていた環境とは大きく異なるものがあります。
ロシア5人組がどちらかというと、泥臭い曲を残しているのに、
チャイコフスキーは、むしろフランス音楽を彷彿とさせるような洗練された作品が多いのは、
こうした音楽を作曲する環境の違いだったのかもしれませんよね。
(もちろんチャイコフスキーが作曲した曲の中には、いかにも「ロシア」という感じの曲が多いのもこれまた事実です)
面白い事に、チャイコフスキーは、メック夫人と生涯一度も会う事は無く、
二人の間には膨大な往復書簡が残されているだけです・・・
(一説には、メック夫人がチャイコフスキーの男色疑惑について調査をし、その結果、アレ・・な判定だったため
年金を打ち切ったみたいな事を言う人もいますけど、実際はどうなんでしょうね・・?)

メック夫人とチャイコフスキーの往復書簡の手紙の中で、チャイコフスキーは交響曲第4番について
かなり細かく書いています。
チャイコフスキーの手紙では、この第一楽章については、
「運命と言うものは・・・幸福の実現を妨害させる冷酷な力であり、人々が幸せになれないように嫉妬深く
見つめている・・・私達は、運命と妥協し嘆き悲しむ事しか出来ない・・」と記しています。
ば第二楽章のメランコリー漂う雰囲気については、
「仕事、人生に疲れ、夜、本を読んでいてもついウトウトし、いつの間にか本を滑り落としてしまうような感覚」と表現したり
第四楽章については、
「言葉の終わるところから音楽が始まる」とか色々と意味深な事を書いています。
この「言葉の終わるところから音楽が始まる」とはどういう意味なのかな・・?
色々と解釈は出来ると思うのですけど、私の受け取り方としては、最後は理屈や論理じゃなくて「感覚」なんだ!という
事じゃないのかな・・?とも思ったりもします。
この言葉に前の文章にはどんな事が掛れているのかと言うと、
「あなた自身の中で、どんな喜びも見いだせないというのなら、進んで人の輪の中に入っていきなさい・・
人々の喜びの輪の中に入って、そして自分も喜びなさい・・・」
と記されています。
要は、どちらかというと人嫌いの傾向が無くも無かったチャイコフスキーをもってしても
「所詮、人は一人では生きていけない」という事を示唆してると言えるのかもしれないですね。

交響曲第4番は、「循環主題」の形式を取っていて、
第一楽章冒頭のホルンとファゴットのファンファーレは、第四楽章でも再現されています。
(循環主題と言うと次の作品の交響曲第5番の方がかなり顕著ですけど、この4番でも既にこの形式が用いられています)
第二楽章は、何といってもオーボエのメランコラリックなソロが秀逸です。
第三楽章のピッチカートは、奇抜さを感じてしまいます。なんとなくアラビアっぽい雰囲気も感じられますし、
「音楽のアラベスク」みたいな雰囲気もあるのだと思います。
圧巻は第四楽章で、「怒涛」としか言いようの無い激しい感情と喜びの感情が
爆発しています。
第四楽章で、シンバル・大太鼓・トライアングルの打楽器が入りますが、
特にラスト近くにおけるシンバルの怒涛の連打は、聴いていて視覚的にも迫力満点です。
(あのシンバル連打は、同じくチャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」の中間部における
怒涛のシンバル連打を彷彿とさせてくれます)

この交響曲第4番を最初に耳にしたきっかけは、やはり毎度のことですが私の場合、吹奏楽コンクールでして、
吹奏楽コンクールにおいては、よくチャイコフスキーの交響曲4番はフィナーレの第四楽章が自由曲として
演奏される事が多いです。
この第四楽章だけを聴いてしまうと、つい「チャイコの4番は、どんちゃん騒ぎの喧騒なシンフォニーなのか・・・」と
誤解をされがちですので、もしも第四楽章を吹奏楽版で聴いてこの曲について興味を持たれたら、
是非是非原曲を全曲盤で聴いて頂きたいです!
ちなみにですけど、このチャイコフスキーの交響曲第4番第四楽章の吹奏楽コンクールにおいては、
オールドファンの皆様でしたら、福岡電波工業とか響南中学校と言われるのかもしれないですけど、
私としては、1978年の浜松工業とか85年の銅賞なんですけど伊予高校もお勧めしたい演奏です。
(最近では福岡工業大学の演奏も大変印象的です)

上記で記したとおり、この交響曲は第四楽章で唐突に爆発炎上します。

まるで炎のような快進撃が展開され、そこには「生きる喜び」とか「希望」に満ち溢れています。

チャイコフスキーの手紙では、この楽章については前述のとおり、

「あなた自身の中で、どんな喜びも見いだせないというのなら、進んで人の輪の中に入っていきなさい・・
人々の喜びの輪の中に入って、そして自分も喜びなさい・・・」
「言葉の終わるところから、音楽は始まっていく」
と記しているのですけど、この言葉を目にするとなんか思い出してしまうのは、
2011年に放映されていた「スイートプリキュア」であったと思います。




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前述のチャイコフスキーの言葉は、「スイートプリキュア」が一年間掛けて提示したテーマだとも思えます。

つまり・・・・

音符がないなら創り出せばいい。
不幸のメロディの後に幸福のメロディを歌えばそれでいい・・・
不幸と幸せは二つで一つ・・・・
不幸だけを嘆いても意味が無いし、
幸せだけを求めてもいつの日か報いを受けてしまう・・・・

不幸に遭遇したら、いつの日にか再度「幸せ」が訪れるようにやりなおせばいい・・・・

そんな事なのだと思います。

チャイコフスキーの手紙のあの言葉と言うものは、
プリキュアに限らず、「人と人との関わり」においては何か共通するような気がします。

結局・・・

人間が抱える「ストレス」・「悩み」のほとんどは人間関係・対人関係なのかもしれません・・・・

「言った言わない・・・」
「あの時、自分はこういう意図でいったつもりなのに、相手には全く真逆に伝わっていた・・・」
「あの人は陰で自分の事を悪く言っている・・・」
「あの人は裏の顔と表の顔が違い過ぎる・・・」
「あの人を信じていたのに・・・・自分は騙された・・・」

ま、色々とあると思うのです。原因も様々な背景があるのでしょう・・・

しかし・・・

結局こうした人と人の間のトラブル・すれ違い・ストレスと言うものを解決する事は・・・・
やはり直接、「その人と向き合っていくしかない」という事だと思いますし、
人間と言うものは・・・・
時に面倒くさい事もあるけど、やはり人と関わっていかざるを得ない・・・

人と人の間のすれ違いの解決方法結は・・・・
その人に真正面からぶつかっていく事しかないようなないような気もします・・・・

それがチャイコフスキーが述べていた「人の輪の中に入っていく」という事なのかも
しれません・・・・

あ・・ここはクラシック音楽カテゴリでしたので、最後のプリキュアの話は少し蛇足だったかな・・・? (汗・・)

クラシック音楽でも吹奏楽でもなぜかプリキュアや東方に絡ませて展開するのは当ブログの
一つの特徴と言えるのかもしれないですね・・・(笑)
ハチャトゥーリアンのバレエ音楽「ガイーヌ」は、「剣の舞」だけは異常に知名度があると思います。
もしかして「剣の舞」は、20世紀クラシック音楽界の最大のヒットメロディーなのかもしれないです。
あの剣の舞の冒頭部分だけをBGMとして流したら、クラシック音楽を普段全然聴かれない方であったとしても
90~95%近くの人は「あー、これ、どっかで聴いたことある!!」と思われるのは間違いないと思われます。
だけど「剣の舞」以外は、せいぜい「バラの少女の踊り」くらいしか一般的には知られていないのが
少々残念な感じはします。
私は、カヒッゼ指揮のこのバレエ音楽のCD二枚組の全曲盤を持っていますけど、
聴けば聴くほど「宝箱」というかメロディーのおもちゃ箱みたいに
民族的でダイナミックで躍動感溢れるというか血が騒ぐ音楽が続々と登場し
聴く度にドキドキします!

昔、作曲者ハチャトゥーリアン本人が読売日本交響楽団を自作自演するために来日し、この「ガイーヌ」の中から
何曲か振った事があるとの事ですが、
もしもタイムマシーンがあるのならば是非聴いてみたい感じはしますね。
ついでに書くと、ハチャトゥーリアンには
交響曲第二番「鐘」というマイナーシンフォニーがあるのですが、
これは個人的には影の大変な名作と確信しています。
いや、これは戦時中だから、戦時中にしか書けそうもない
リアルティー溢れる音楽が、展開される大変素晴らしい曲も残しています。
現在では、ヤルヴィとか色々な人の演奏を聴けますが、
1980年代の頃は自作自演盤しかない時代もあったものですが、その自作自演で共演したオーケストラが
ソ連の管弦楽団ではなくて、なぜか泣く子も黙るあの名門管弦楽団のウィーンフィルというのが
意外でもありますし信じられない話でもあります。
私、そのウィーンフィルの演奏をレコードで聴いたことがあるのですが、いつもの洗練されたウィーンフィルではなくて
荒ぶる魂の調べという感じが漲っていて、とてもエキサィティングでした!
(あの荒ぶる魂は、生涯で唯一ベルリンフィルと共演した際のバーンスタインが残したライヴ録音のマーラー/交響曲第9番に
繋がるものがあると思います!)

話を「ガイーヌ」に戻します。

高校時代の図書館に、音楽之友社から出ている「名曲解説全集」という全25巻から構成される
音楽解説書があったのですが、その中で「ガイーヌ」は、
ソ連のコルホーズという集団農場での生活を背景にし、
ヒロイン・ガイーヌが自分の夫であるギコの自分たちの属するコルホーズ、ひいては国家への
裏切り=スパイ行為に立ち向かっていくという
正義感溢れるストーリーを展開していたように思えます。
(何かいかにも当時のソ連=スターリンに媚を売った作品のようにも思えますね・・)

上京して何気なく大学内の図書館で、この本を取ってみると「最新・名曲解説全集」となっていて
そこで初めて、実は「ガイーヌ」には二つの版が存在するという事に気が付いたのです。
1957年にハチャトゥーリアンは、ボリショイ劇場版とも言われる大改訂を行い、元々の「原典版」に比較すると、
ストーリーも登場人物も全然異なるけど音楽は共通するものが多数あるという「大幅改訂」を実施する事になります
結果として元の原典版とこのボリショイ劇場版の数少ない共通点は
一部の登場人物の名前だけというという
大改訂が施されたわけなのです。
何でこんなことになってしまったかというと、詳細はよく分かりませんが、
作曲者自身、「いくらなんでも原典版は、時の権力者であるスターリンに媚びを売り過ぎた・・ちょっと恥ずかしい・・」と
感じたのかもしれませんね・・(笑)
幸いこの当時は既にスターリンも世を去っていましたから、別に改訂をしたってそれを咎める方はいなかったのかも
しれないですし、その頃は既にハチャトゥーリアン自体はソ連作曲界の大御所的存在になっていましたからね。

原典版というのは、
国家と自分達家族を裏切った自分の夫であるぎこを告発して本当に良いのか悩むガイーヌに
焦点が当てられていましたが、ボリショイ劇場版の方は、そうした要素は消去され、
ある田舎の村での男女の恋物語・それを巡る葛藤が健康的に生き生きと描かれています。
ボリショイ劇場版をごく簡単にストーリーを書きますと、
ガイーヌとアルメンは恋人同士 アルメンとゲオルギーは友人同士
だけどそんな中、ゲオルギーは
「自分はアイシェという女の子が好きなのだけど、もしかしてアルメンもアイシェが好きではないのか・・」と
嫉妬を起こし、
ある日、狩の帰り道で嵐に遭遇し、アルメンが崖から転落してもゲオルギーは
「ふん、ざまーみろ」という風にアルメンを助けることなく放置し、結果的に
アルメンは失明してしまい、ガイーヌも失望してしまう・・・
だけどその後ゲオルギーは良心の呵責に悩まされ続けてしまう・・・
だけど収穫祭のある日、アルメンは視力が回復しているのに気が付き
ゲオルギーは最後に村人たちに自らの悪行を告白し、最後は全員から許してもらい
大団円を迎える・・
そんな感じのストーリーだったと思います。

実際、原典版とボリショイ劇場版の音楽を比べてみると
ボリショイ版の方がはるかに演奏時間が長く、原典版にはなかった曲が15曲ほど加えられています。
一方、火焔・ゴパークなどのように原典版にはあったけど
ボリショイ版ではカットされている曲もあります。
登場人物も、原典版に登場していたガイーヌの夫のギコという名前は、ボリショイ版からは削除され
ボリショイ版では、原典版になかった、アルメン・ゲオルギーという名前が
新たに出てきます。
原典版・ボリショイ版どちらにも共通して登場してくる人物は
ガイーヌ・アイシェ・ヌーネ・カレンぐらいなのかな・・・?

要は同じ「ガイーヌ」というバレエ音楽でも実はストーリーも登場人物も異なる二つの版が
存在すると理解した方がいいのかもしれないです。
原典版の背景である「コルホーズ」という言葉自体、既に「今は亡き歴史用語」でもありますし、やはり時代を
感じさせられますね。
ちなみに私が中学生の頃の「社会」の教科書は、当時のソ連はまだブレジネフ体制時代でしたので、
集団農場体制とか国営化企業とかソフォーズとかコルホーズという用語が掲載されていましたけど、
こんな事を書いてしまうと、またまた私の実年齢がバレバレになってしまいそうですね・・(汗・・!)

「ガイーヌ」は吹奏楽コンクールでは大変な人気曲ですが、
プロの管弦楽団の演奏会ではそれほど耳にする機会はありません。
たまにアンコールでレスギンカ舞曲が演奏されたり、ファミリーコンサートで「剣の舞」が
演奏される程度かな・・・

一度1990年2月のN響の定期演奏会で
前半⇒ハチャトゥーリアンの組曲「仮面舞踏会」・「ガイーヌ」抜粋
後半⇒シェエラザート
というオールロシアプログラムで聴いたのが今のところ唯一の機会だったと思います。
その時のガイーヌの演奏組曲は、
剣の舞・子守歌・バラの少女の踊り・レスギンカ・アイシェの目覚めと踊り・ゴパーク
というものだったから、
これは指揮者が原典版の方からピックアップしたものだったのかな・・・??

吹奏楽コンクールでは、1987年に林紀人アレンジ版が登場するまでは、
藤田玄播アレンジ版が一般的で、吹奏楽コンクールでは、藤田玄播アレンジによるアィシェの目覚めと踊り・レスギンカ舞曲は
定番中の定番だったと思います。
林紀人アレンジでは、レスギンカ舞曲でドラムを2台も駆使したあの豪快な叩きっぷりが素晴らしかったですし、
「収穫祭」という存在を世に知らしめた意義は大変大きいものがあると思います!
季節は既に春に入り、寒くてつらい冬がいよいよ終わりを告げようとしています。
というか、明日からはもう4月なのですよね!
こうやって春が到来すると、なんか気持ちの上でも爽やかとか気持ちがウキウキとしてきたみたいな感じもしますね。
そうした「春到来」というとクラシック音楽のにも色々とそうした春の気分に相応しい素敵な曲も色々とあるとは思うのですけど、
(そうした曲の中で素晴らしい曲を一つお伝えすると、J.シュトラウスのワルツ「春の声」と言えるのかもしれないですね!)
私にとっては、そうした「春の気分」に相応しい曲をあげると
イギリスの作曲家、ヴォーン=ウィリアムスが作曲したロマンス「あげひばり」も素敵な曲だと思います。

よくこの曲は「揚げひばり」なんて表記をされることも多々ありますけど、
何かこの表記には抵抗があるというか、あれは多分ですけど「誤訳」の一つだとも思ったりもします・・(笑)
だって、「揚げひばり」じゃいかにもなんか「鳥のから揚げ」を思わず連想してしちゃいますよね・・(汗・・!)
そしてまたまた「鳥のから揚げ」なんて書いたりすると、東方Projectの聡明な鴉天狗のあやや=射命丸文が
悲しそうな顔をしちゃいそうですね・・・
「あげひばり」というのは、
イメージでとらえると、鳥が上空に向かって華麗に舞いあがっていくという感じなのかな・・?と思ったりもしますね。

このロマンス「あげひばり」ですけど、曲自体それ程長くもありませんし、
楽器編成も独奏ヴァイオリンと小さな管弦楽というスタイルで、これに打楽器がトライアングルのみ加わります。
この曲、冒頭がとてつもなく魅力的でうっとりとさせられるものがあります。
管楽器の扱いも極めて巧みですし、優雅でロマンティックな雰囲気がよく出ていますし、
何か冬らしい「哀愁」みたいなものと春へと向かう希望みたいなものもほのかに伝わってきている曲だとも思います。
「協奏曲」という感じではないけど、独奏ヴァイオリンが主役ですよね・・・
だって、このソロヴァイオリンが、メロディー的においしい所を全て一人で持って言ってしまっている
という印象が極めて濃厚です。

この素敵な小品が作曲されていた頃、ヴォーン=ウィリアムスはほぼ同時期に交響曲第三番「田園」を作曲しています。
交響曲第三番とあけひばりを聴き比べてみると、作曲者としての意図はほぼ同じみたいな感じもあると思います。
勿論、メロディーラインとか構成が似ているという意味ではなくて、曲全体が終始ゆったりとした部分のみで作られている所が
「両曲は似ているのかな・・?」みたいに感じさせる点なのだとも思います。
この交響曲第三番「田園」も少しヘンな曲でして、
曲全体を通して盛り上がる箇所が一つもありませんし、強奏部分もほぼ皆無です。
終始ゆったりとした退屈な冗長的な音楽が終始だらだら展開されていきます。
ま、その点「あげひばり」は短いし、
構成がしっかりしているし、メロディーラインが引き締まっているから退屈さを感じさせないのが違いと言えるのかも
しれないですね。

改めてですけど、イギリスの作曲家、R.ヴォーン・ウイリアムズが残した曲は素朴で美しいメロディーラインが多いですね。
そうした曲の中では、あけひばりと交響曲第3番以外では、
タリスの主題による幻想曲とかイギリス民謡組曲などがメロディーラインが素朴で美しくとても分かり易いと思います。

反面、ヴォーン・ウィリアムスは、
交響曲第4番のように何の前触れも無く唐突に、不協和音と激しい表現に溢れた
悪意満載のような曲を書いたかと思えば、
交響曲第7番(南極交響曲)のようにやや安っぽい感じの描写音楽を作曲したり、
創意工夫の塊りのような霊感溢れる交響曲第8番を書いた後で、
「この世にやり残しがある・・・・」みたいな未練たらたらの交響曲第9番を残したりと
作風は意外と幅が広いような印象もあります。

そうそう、「チューバ協奏曲」なんてかなりお茶目な曲も残していましたね・・・(笑)

た゜けどヴォーン・ウィリアムズの代表作と言えば
何と言っても「グリーンスリーヴスによる幻想曲」が一番有名でしょうし、
あの冒頭のフルートソロのメロディーを「聴いたことが無い・・・」という人の方が珍しいと思えるくらい
日本でも馴染みがある曲です。

この曲は楽譜の上では「オプション扱い」となっていますが、
冒頭のフルートソロがやはり素晴らしいですよね。
正直この曲にフルートが入っていないと、曲の魅力は半減すると思えるくらい、大事な役割を
担っています。
あのフルートソロを聴くと、
「あー、何か哀愁が漂うけど、何か心が癒されるな・・・」と思ってしまうほど
大変美しいメロディーラインが続く曲です。

この曲は、元々は、
イングランドの古い歌というか、民謡の「グリーンスリーヴス」なのですけど、
この歌自体は大変歴史が古く、実は、シェイクスピアの喜劇「ウィンザーの陽気な女房たち」にも
その名前が既に言及されているほどです。
ヴォーン・ウィリアムズはこの喜劇を基にしたオペラ「恋するサー・ジョン」を
1928年に完成させ、その第3幕の間奏曲でこの美しいメロディーを使用し、
この間奏曲を、後にヴォーン=ウィリアムス自身の立会と監修の下、
ラルフ・グリーヴズが編曲し、独立させた作品がこの曲なのです。

ま、だから厳密に言うとヴォーン=ウィリアムズ自身の純粋なオリジナル曲ではありませんけど、
とにかくあの美しいイギリスの歌をここまで世界に広めた功績は大きいと思います。

話がそれました・・・(汗・・!)

このロマンス「あけひばり」は、私はこれまでのところ、一度しか生演奏を聴いたことがありません。
その唯一聴いた演奏会というのは、東京交響楽団の定期演奏会でした。
確か当時の東京交響楽団のメインスポンサーは「すかいらーく」でした!
ところで「スカイラーク」を邦訳すると、これが「あけひばり」という意味なんですよね!
あの演奏会では、この「あげひばり」は一番最初の曲として演奏をされていましたけど、これも一つの
「スポンサーへの配慮」という事なのかもしれないですね・・(笑)

話は全然違うのですけど
「すかいらーく」という店名自体確か既に「死語」の世界だと思います。
「すかいらーくグループ」は、ファミレス系統は全て「ガスト」に切り替え済だし、
ファミレスの名前としての「すかいらーく」は2009年をもって消滅をしています・・
今や「すかいらーく」グループに、バーミヤン・藍屋・夢庵・ステーキガスト・ジョナサン等が加わり、
今や日本を代表する外食チェーングループになっていますけど、
子供心にもファミレスというとすかいらーくとかデニーズというイメージが強かっただけに、名称自体が消える事は
ちょっとさびしいものはあったりもしますね・・
今現在はそんな事ないのですけど、初期の頃のガストは確かに単価は安いのですけど、
いかにも・・という感じの均一化された味とか客席放置とか色々と問題はありましたね・・・
すかいらーくからガストへ転換されて間もない頃って「この先、この会社大丈夫なのかな・・?」みたいな不安感も確かに
あったとは思うのですけど、それをほぼ完全に払拭し、
今現在の立派に確立化された「ガストブランド」にまで進化発展させているのですから、
日本の「企業努力」には本当に頭が下がるものがあるのだと思います。

最後に・・・

上記の「あけひばり」の関連ではありませんが、すかいらーくの元々の創業としての業態は
レストランではなくて、実はことぶき食品という「食品スーパー」であったという事をご存知の方は
あんまりいないのかもしれないですね・・・
ちなみにその食品スーパーとしての第一号店が、西東京市の「ひばりが丘団地」というのは偶然なのかな・・?
あ・・・だけど、ひばりが丘団地→すかいらーく=あけひばりという流れから考えると、
元々は「ことぶき食品」という名称がレストラン化への業態転用に当たって「すかいらーく」になったのも
そうした団地名が多少は影響があったと言えるのかもしれないですね。
ラヴェルの「道化師の朝の歌」は8分程度の短い作品ですけど、
いかにもラヴェルらしい要素が凝縮されていて、大好きな曲の一つです。
ちなみにですけどこの曲は吹奏楽にもアレンジされていて、今でも吹奏楽コンクールの自由曲で演奏されることもあります。
過去にも1979年に名古屋電気高校がドイツ的な重厚感あるサウンドでフランス的繊細さは皆無ですけど、
かなり個性的な演奏を聴かせてくれていたのは大変印象的でした。

[道化師の朝の歌」は原曲は「鏡」というピアノ曲です。
このピアノ曲を後にラヴェル自体がオーケストレーションをしています。
「鏡」は以下の5曲から構成されています。

Ⅰ.蛾

Ⅱ.悲しい鳥

Ⅲ.海原の小舟

Ⅳ.道化師の朝の歌

Ⅴ.鏡の谷

この5曲の中で、海原の小舟と道化師の歌がラヴェル自身によって
管弦楽作品としてアレンジされています。

ラヴェルと言うと、一般的には「オーケストラの魔術師」と称賛され、
管楽器の使用方法やオーケストレーションの巧みさからリムスキーコルサコフやレスピーギと並んで
作曲テクニックに秀でた天才というイメージがあります。
ラヴェルの作品リストを眺めると分かるのですが、これ程「オーケストラの魔術師」と言われた人でさえ、
実は最初から純粋に演奏会用管弦楽曲として作曲された作品は、「スペイン狂詩曲」ぐらいであり、
それ以外の作品は大別すると、バレエ音楽または原曲がピアノ曲を後日管弦楽用にアレンジしたものなのです。
ちなみに、ダフニスとクロエ、ボレロ、マ・メール・ロア、ラ・ヴァルスはバレエ音楽
クープランの墓、亡き王女のためのパヴァーヌ、高雅にして感傷的なワルツは元々はピアノ曲です。

「道化師の朝の歌」は、何となくですけど
ピアノ曲として聴く方が印象としては非常にすっきりと聴こえます。
リズムの鋭さ・けだるさ・すがすがしさ、一見矛盾する要素を内在させながらも
非常に生き生きと描いているところにこのピアノ曲の素晴らしさがあります。
ピアノ曲として「道化師の朝の歌」を聴く場合、
私的には小山実稚恵さんのラヴェルピアノ作品集のCDの演奏が非常にしっくりきますし大好きな演奏です。
この曲を管弦楽曲として聴く場合、ピアノ曲とは全然別の曲のようにも
聴こえます。
管弦楽版の場合、中間部のかなりけだるい部分のソロは主にファゴットが担当していますけど、このファゴットが実に素敵です!
ピアノ曲として聴くと、ついつい聞き流してしまう箇所なのですけど、
管弦楽曲として聴く場合、あのファゴットソロの部分は、だるさとおとぼけ的要素が
微妙にミックスした感じが非常に素晴らしいと思います。
打楽器も、タンバリン・カスタネット・シロフォーン・トライアングル・小太鼓など多種多様な
楽器を駆使し、色彩感を出すのに良いスパイスの役割を果たしています。

よくラヴェルの作品って音楽評論家的に言うと
水・スペイン・子供・魔法の要素が欠かすことが出来ないエッセンスと書かれることが多いですけど、
確かにラヴェルの作品には、「スペイン」という要素はかなり重要なウェイトを
占めていますよね。
「道化師の朝の歌」もあのリズム感は、スペインの響き以外の何物でもありませんし、
さすがバスク地方の血を受け継ぐ作曲家という感じが濃厚です。

そうそう、ラヴェルの要素って、個人的にいうと、前述の要素に加えて
「悪趣味」・「最後に奈落の底に突き落とす」っていう要素も加味したいですね。
それが象徴される作品が
「ラ・ヴァルス」・「ボレロ」・「左手のためのピアノ協奏曲」だと思います。
いずれも精密な作品ながらも、曲の最後の方でこれまで保っていた精密さ・美学・バランス感覚を
全て崩壊させるという手法は、悪趣味以外の何物でもないと思う時もあります。
それがラヴェルらしい個性であり、持ち味なのかな・・??

「道化師の朝の歌」は、スペインの要素を濃厚に出しながらも、
ラヴェルの悪趣味的要素と美的感覚がギリギリのところで折り合った
不思議な作品なのかな・・?と感じる時もあります。

この曲は実はあんまり生演奏で耳にしたことは無いです。
どちらかというと吹奏楽コンクールのアレンジ版として聴いた事の方が多いのもしれません。
そうした中で、この曲の生演奏で最も印象に残ったのは、
1996年のデュトワ指揮/NHK交響楽団の特別演奏会における ピアノ/アルゲリッチの奇跡的な顔合わせの演奏かな・・
ご存知の人も多いと思いますが、デュトワとアルゲリッチは元夫婦で、
確か70年代に二人がN響との共演で来日した際、成田空港で壮絶な夫婦喧嘩の末破局したとの
事ですが、この時の演奏は、その時ドタキャン公演以来の「幻の演奏会」の再現と
クラシック好きな人の間では、結構話題になったものです。
確かこの時のN響の特別演奏会は、「リスナーが選ぶベスト曲目投票」で選出された曲目で、

〇道化師の朝の歌

〇ショパン/ピアノ協奏曲第一番

〇幻想交響曲

で構成され、アルゲリッチは、ショパンのピアノ協奏曲第一番のソリストとして出演していました。

道化師の朝の歌も大変みずみずしくて素晴らしかったですし、幻想交響曲もあまり「狂気」みたいなイメージを出さずに、
むしろ知的で洗練された雰囲気を強調していたのが大変印象的でした。
だけどこの日の圧巻はアルゲリッチソロのショパンのピアノ協奏曲だったと思います!
あの演奏はとっても素晴らしかったです!
若い頃のタッチとほとんど変わらず、当時の外見は魔女みたいに老けられていても(汗・・!)
感性はあまり変わっていないかのような演奏で、私は結構エキサイトして聴いていました。
演奏終了後、意外と深々とペコペコ頭を下げているアルゲリッチの姿に何か多少の意外感があったのが
面白かったです。

ショパンのピアノ協奏曲第一番は、第一番という表記がされていますが、
実際は第二番の方が先に作曲されています。
第二番は、第一番と大体似たような構成・感じなのですが、一番のメロディーの豊かさには
足元にも及ばないと思います。
ただ、第三楽章後半でホルンのファンファーレみたいなものも出てきて、
オーケストレーションが下手で有名なショパンにしては、幾分凝った感じにもなっています。

よく第一番は、オーケストレーションが貧弱とかオケとの掛け合いの魅力が皆無とか
伴奏付きピアノ曲の領域とか悪口を書かれることも多いこの曲ですが、
ショパンらしい線の細さや優しさを出すには、この位のバックでないとその「瑞々しさ」を醸し出すのは
難しいと思うので、自分としては、特にこのオーケストレーションで十分だと思います。
※近衛文麿呂氏自身による編曲もあるとの事ですが、聴いた事がないのでそれは興味があります。
ただ、第一番は基本的に二管編成なのですが、ホルンが4に対して、トロンボーンが1という
やや変則的な編成でもあります。

何かこの曲のソリストは男やご年配の御方にはあまりやって欲しくはない曲だなぁ・・と思う時もあります(汗・・!)
10代~20代前半の可愛い女の子のソリストが演奏すると、多少演奏は拙くてもミスタッチはあったとしても、
許せちゃう感じがあったりもする曲だと思いますね・・(笑)
シベリウスの交響詩「フィンランディア」は、本当に素晴らしい不滅の名曲だと思います。
この曲、過去において何度も生の演奏会で聴く機会に恵まれましたけど
やはり何度聴いても、その都度ジ――ンと胸に来るものがあります。
さすが、フィンランドの「第二の国歌」と呼ばれる所以でもありますし、
作曲当時の、フィンランドに対するロシアの圧政に対する反骨心・反発力が曲の至る所から感じることが出来ます。
19世紀末において、当時の小国フィンランドが当時の大国であるロシアから真の独立を勝ち取ろうと
ロシアに色々な面で刃向っていた事には共感するものがありますし、
これは「日本人の判官びいき」なのかもしれませんよね。
日本ではあまり知られていない事ですが、第二次世界大戦直前に、ドイツとソ連の協定により、
ソビエトはフィンランドを併合しても構わないという事になってしまい、スターリン率いるソ連は雪崩を打って
フィンランドに侵攻を図ります。
そして当時のフィンランドは、そうしたソ連軍の侵攻にすさまじい抵抗を示し、結果的には国家併合という事態は
回避する一定の成果は挙げています。
フィンランドという国家自体は別にナチス政権みたいな全体主義国家ではないけど、結果的に枢軸国側寄りの立場として
ソフィン戦争・冬戦争というソ連の侵略に対する国家的防御としての戦争を遂行せざるを得なくなってしまい、
戦後はソ連から賠償金を請求されてしまうという歴史的事実をご存知の日本人って多分そんなにいないと思います。
(驚くべきことに国力をあげて短期間でこの賠償金を支払い完了させています・・・)

シベリウスが交響詩「フィンランディア」を作曲していた頃は、大国・ロシアの圧政に苦しみ
第二次世界大戦中は、ソ連からのドサクサ紛れの侵略と戦後の賠償責任に苦しみ、
要はフィンランドという国は、欧州とロシア(ソ連)の二つの巨大勢力の間に埋もれる小国の悲哀みたいな立ち位置の国家と
言えるのかもしれません。

だけどそうした小国はこのフィンランドもそうですけど、実にある意味したたかです!
否! 小国の知恵としてそうならざるを得なかったのだと思いますが、その小国は現代においては
「世界の一つのモデル国家」みたいな様相すら呈していると感じられます。
今現在では北欧の教育大国にして、IT大国としての地位は既に確立されていると思われますし、
有名な携帯電話メーカーノキアやオープンソースOSであるLinuxの故郷であり、
「フィンランド式」とかいう教育メソッドにおいては、教育産業からも注目を集めていたりもします。
ムーミンの故郷であることを知っている方も多いでしょうし、
サンタクロースへの手紙の届け先であると認識している人もいるかも知れません。
地理的にはそれほど広くは無いし人口も対して多くは無い小国なのですけど
「小さいけどキラリと輝く国家」の一つだと思われます。

1984年に当時の日本の首相・中曽根康弘先生は「フィンランド化」という表現を用い、
「日本が防衛努力を怠ると、フィンランドの様にソ連の属国になる」という事を言いたかったようですけど、
中曽根氏にとってみれば、フィンランドの過去の歴史とか、フィンランドの人民がいかに「血の汗」を流して
ソ連との戦いを凌ぎ、ソ連からの独立を果たしているという認識は薄かったと言えるのかもしれないですね・・

話がそれてしまいました・・・(汗・・!)

シベリウスの交響詩「フィンランディア」のメロディーラインはシンプルながらも人の心を打つものが確実にあると思います。
特に中間部のあのメロディーは、何回聴いても胸にジーンとくるものがあります。
上記で書いた通り、フィンランドという国家自体が周辺の大国からの圧力に苦しみ続けたという歴史がありますので、
巨大な組織や国にも負けないで、自分たちの主張を伝え、
それを貫き通す「心意気」みたいなものを感じさせてくれます。

シベリウスが作曲活動を開始した19世紀終盤の祖国フィンランドは
当時の強国で隣国でもあるロシアから様々な干渉&威圧を受け、その圧政に苦しんでいました。
当時の小国フィンランドが当時の大国であるロシアから真の独立を勝ち取ろうと
ロシアに色々な面で刃向っていた事に対する
一つの「精神的な支え」にもなっていた曲と言えることもできると思います。

交響詩「フィンランディア」の原曲は純粋な管弦楽曲で、楽譜の上では「合唱」は含まれておりません。
この交響詩「フィンランディア」に合唱が入った演奏と言うと
私の場合、オーマンディ指揮のフィラデルフィア管弦楽団を思い出してしまいます。
高校生ぐらいの時に、オーマンデイ指揮/フィラデルフィア管弦楽団による「名曲全集」というレコードが家の中にあり、
そのレコードには、例えば・・・

〇ケテルビー/ペルシャの市場にて

〇ブラームス/ハンガリー舞曲第5番

〇グリーグ/ペールギュント組曲より、朝

〇スケーターズワルツ

〇剣の舞

といった通俗名曲が数多く収録されていて、
そのレコードのB面の最後に収録されていた曲がシベリウスの交響詩「フィンランディア」だったのでした。
そしてその「フィンランディア」の演奏には、中間部とラストに壮大な合唱がオプションとして追加されていて、
その合唱の効果には目を見張るものがあり、とてつもなく「感動」を呼び込んでいたと思います。
当時、この演奏がとても気に入り何度も何度も聴いていたのですが、
オーマンディ指揮以外のこの曲も聴いてみたいと思い、他の指揮者の演奏も幾つか聴いてみたのですが、
勿論、これらの演奏には合唱は入っていませんでした。
当時はあまりクラシック音楽の事はよく分からなかったし今現在のように詳しくは無かったものでして、
一番最初に耳にした合唱版のフィンランディアが「シベリウスの原曲」と思い込んでしまっていて、
合唱が無いフィンランディアには違和感を感じていたのかもしれないです。
今現在のように合唱が入らない普通の交響詩「フィンランディア」に耳が慣れてしまうと
合唱版を聴くと逆に違和感を感じてしまうのはなんか皮肉な話なのかもしれないですね。

私が高校一年の時、当時の音楽の教科書に、「フィンランディア」というタイトルで中間部のメロディーから構成された
歌が掲載されていて、その歌の歌詞というものが教科書に載っていました。
あの歌詞はどこから持ってきたのか正直よくわかりませんし、
オーマンディー等が用いていた合唱版としての歌詞を単純に邦訳したのか、それともオリジナルの歌詞として
付けたのかは今となっては分かりません。
だけど、あの歌詞はなかなか味わいがあるもので、今でもあの歌詞はよく覚えています。

確か、この歌詞は、正確じゃないかもしれないですけど、

オーロラ光る彼方の ましろき山を目指し
 
おおしく進む若者 その頬赤くはゆ 

険しき道の彼方に 望みと幸は満つ


北風すさぶこうやに 緑の森を求め
 
たくまし進む若者 そのむね広くはり

はてなき道の彼方に 望みと幸は満つ

といったものだと思いますが、この歌詞の世界とフィンランディアの世界が時代と国を超えて融合しているようにも
感じられたりもします。

合唱が入る交響詩「フィンランディア」は一度だけ生の演奏会で聴いたことがあります。

1996年の創立40周年を記念した日本フィルの「特別コンサート」でしたけど、この演奏会のラストで、
この合唱付きのフィンランディアが演奏され、大変強い感銘を受けたのが今でも忘れられません。
この特別コンサートは、
広上淳一・藤岡幸夫・沼尻竜典・小林研一郎・渡辺康雄といった代々の日本フィルの指揮者が次から次へと登場し、
ソリストも中村紘子など当時の有名ソリストが数多くの著名人が客演し
かなり豪華な内容だったと思います。
そうそう、今名前が出ていました、ピアニストの中村紘子さんも昨年ご逝去されましたね・・
中村さんのショパンとかラフマニノフは何度か耳にした事かありますけど、繊細さと豪快さが交互に炸裂する
割と爆炎的演奏をされる御方という印象が私の中にはあったりもしたものでした。
中村紘子さんのご冥福も合わせてご祈念させて頂きたいと思います。
それにしてもあの記念コンサートのラストの合唱付きのフィンランディアはとても素晴らしかったですし、
感銘性は高かったです!
あの演奏はまさに「私は誰にも屈しない!」という決然さが伝わり、素晴らしかったと思います!

最後にこれは思いっきり余談になってしまいますが、
全日本吹奏楽コンクールは、今現在はそうした制度は廃止になっているのですが、かつては
全国大会で5年連続金賞を受賞すると、6年目には全国大会で「特別演奏」という20分間自由に演奏が出来るという
大変な栄誉が与えられていたものですけど、
1981年の全国大会・高校の部では、玉川学園がその栄誉ある特別演奏をお披露目していました。
だけど、この玉川学園は、なぜか・・・・!
20分の持ち時間のうち、実に半分以上を部員たちによる「合唱」をお披露目し、
吹奏楽曲として演奏した曲は、シベリウスの交響詩「フィンランディア」だけだったのです!
私はこの玉川学園の普門館での特別演奏は生で聴いていないので、この時の玉川学園の「フィンランディア」が
合唱なしだったのか、それとも前半で合唱をされていたのと同様にフィンランディアの中間部とラストで
合唱を入れたのかどうかは今でもわかりません・・(泣・・)
もしもこの点についてご存知の方がいらっしゃいましたならば、是非教えて頂ければ幸いです!!
それにしてもプロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」は何度聴いても素晴らしい曲ですね。
ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番と並んで「20世紀を代表する優れたピアノ協奏曲」の一つだと思います。
このプロコフィエフの3番は、全体を通じてモダンな感覚と言うのか、メカニックな香りがプンプンと漂い
面白いと感じます。
この曲とラフマニノフのピアノ協奏曲第2番がたかだか20年前後しか作曲時期が隔たりが無い事に
改めて驚かされますね。
ラフマニノフは20世紀に生きた方なのに、作曲手法は19世紀そのもの・・・・
とにかく「伝統的手法」に忠実という感じが強いですね。
ラフマニノフもプロコフィエフもどちらもロシア革命→共産党政権の樹立を嫌って、ロシアを飛び出し
欧米へと亡命した共通点はあるものの、
ラフマニノフは、一度自分が決めた事は生涯ひるがえすことも無く、
本音は「ロシアに・・、自分の祖国に戻りたい・・・」という事だったのかもしれないのに、
自分の「心の本音」をさらけ出すことも無く
ひたすら19世紀の「ロシア音楽」の伝統を守り続けた・・・という感じがあります。

一方プロコフィエフは・・・・・

その点は、まさに自由そのもののちゃらんぽらんみたいな感じもあり、
ソ連の共産党政権が嫌なら、アメリカへ・・・・
そしてアメリカで自分の音楽が受け入れられないと分かった瞬間にヨーロッパへ・・・・
そしてヨーロッパで音楽活動をするうちに故国が恋しくなり
「ま・・・・戻ってもべつにいいっか・・・・」みたいな軽いノリでロシアに舞い戻ってきた・・・・という節操のない感じも
ありますけど、
そうした「自由さ」がピアノ協奏曲第3番の土壌みたいな「モダン感覚」にも
繋がっているのかもしれませんよね。

このピアノ協奏曲第3番は、個人的には第一楽章が大好きですね。
特に最後の方のピアノの超絶技巧のオンパレードは、まさしくバックのオーケストラとの「格闘技」そのものにも
思えますね。
この曲の第二楽章は
何となくですけど、プロコフィエフの交響曲第3番泰一楽章にも繋がるものがあるような気もします。
何かと言うと、漠然としたイメージかもしれないのですけど
「ロシアの大平原」みたいな感覚ですね。
延々と牧草が広がる穀物地帯を悠然と風が通り抜けていく・・・・
何かそういうイメージがあるのですよね・・・・

この協奏曲の冒頭のクラリネットのファンタジー感溢れるメロディーとは対照的に
終始「才気煥発」というか、次から次へと大胆なメロディーが展開され、
時に抒情的になったかと思えば、時に爆発し、時にいかにも「モダン感覚溢れる場面」があったりと
全く飽きる事は無いですね。
前述の通り、ラスト近くのピアノの超絶技巧の数々には絶句するのみですね!

この曲が作曲された当時は、ロシアにとってはまさに「激動」の時代でした。
この曲の構想が具体化した頃に、ロシア革命が勃発し
共産党体制による政情不安に嫌気をさし、安定した環境での作曲活動を希望したプロコフィエフは
「亡命」を決意し、アメリカ、そしてヨーロッパへと活動の場を移します。
そして最終的にこの曲は、パリで完成されたのですけど、
その亡命の道すがら、プロコフィエフは日本にも立ち寄り約二か月程度滞在しています。

この曲の第三楽章の雰囲気と旋律が何となく
日本の長唄「越後獅子」と似ていることから、
日本の滞在時にもしかしてこの越後獅子を聴いて自分の曲に取り入れた・・・なんていう人も
いるようですけど、
私の見解は、「それはありえない」と思います。
だって改めて聴いてみてもこの二つの曲にそれほどの「共通性」があるとは思えないし
何となく全体の雰囲気が少し似ているような似ていないような・・・という類のものだと思いますし、
例えは悪いかもしれませんけど
テレビ朝日のタモリ倶楽部の「空耳アワー」の世界に近いようなものがあると思います・・・・

そうそう第一楽章ですけど、
この楽章のカスタネットの「タン、タン、タタン」というリズミカルな響きに何か惹かれるものがあります。
第二楽章はいわゆる抒情楽章なのですけど
途中でテンポが唐突に早くなるスケルツォみたいな部分が現れたり
メロディーラインが非常に美しく、
後の交響曲第5番第三楽章とか、シンデレラ~お伽話の終わり 
ロメオとジュリエット~ジュリエットの墓の前のロメオみたいな感じの抒情的ではかないメロディーも
出現し、驚かされます。
ラストの第三楽章もホント切れ味が鋭く、そのスピード感は「爽快」の一言に尽きます。

大変モダン感覚と切れ味鋭い曲なのですけど
前作のピアノ協奏曲第2番の前衛さ・過激さは随分と後退し、「分かりやすさ・聴きやすさ」は
その代わりに進化したような感じもします。

それにしても・・・

本当にラフマニノフとプロコフィエフがほぼ同じ時代を生き、共に「ロシア革命」と「亡命」を経験しながらも
二人の作品の極端な違いとか生きざまには改めて驚かされますね!
ま、そうした「違い」があるから、音楽は面白いものなのですけどね。
12月の記事にてマーラーの交響曲第3番を取り上げさせて頂きました。
(あの記事は、クラシック音楽と東方Projectという初めての融合企画という事もあり、私としても
実は大変わくわくするものでした。
あの記事にイラストの転載にご協力して頂けた風月時雨様に改めて感謝申し上げます!)
その記事内で、「ポストホルン」という特殊楽器の事を書かせて頂きましたが、マーラーの交響曲の世界では、
ポストホルン・テノールホルンなど管楽器の特殊楽器もかなり効果的に使用されていますけど、
打楽器をかなり多彩に使用し、
マーラーが活動していた19世紀から20世紀初頭では、異例だったシロフォン・グロッケンの鍵盤打楽器も
例えば交響曲第6番「悲劇的」に使用しています。
他にも、鈴とかコンサートチャイムとか二人の奏者を必要とするティンパニとか
巨大ハンマーとかカウベル(牛の首に付ける鈴)とかギターとかマンドリンとか
様々な特殊楽器を曲の中に取り入れています。

特に交響曲第6番「悲劇的」はあまりにも多種多様な打楽器を曲の中に入れた事で
当時の批評家から
「単なる視覚的効果・・」とか
「大袈裟・・」とか
「単なる見た目の演出」などと色々と批判を受け
例えばマーラーが警笛用ラッパを手にし
「しまった、こいつを入れるのを忘れていた・・・でもこれでこのラッパを使ってもう一つ交響曲が
出来るぞ・・・」と叫んでいる風刺画が出来るほどでした・・・

ま、いつの時代もこうした先駆的な実験者・創造者は絶えず批判は受けるものなのですけどね・・・(笑)

あ、そうそう・・マーラーは「視覚的効果」という事も多分ですけど意識していたんじゃないのかな・・と思う事もありますね。
そのいい例が交響曲第6番「悲劇的」~第四楽章で使用される「巨大ハンマー」なのですけど、
あのハンマーが象徴する事は「その打撃音によって英雄は倒れる」→「死」なのですけど、
ハンマーを打楽器奏者が振り上げて床に置かれている木片にゴチー――――ン!!と当たる瞬間の衝撃音は
凄まじいインパクトがあると思います。
他にも交響曲第1番「巨人」~第四楽章のラスト近くにホルン奏者をスタンドアップさせ、ベルの部分を客席に向けて
吹かせたり、
交響曲第7番「夜の歌」~第四楽章の冒頭部分において、これは管弦楽では極めて珍しい事例なのですけど、
クラリネット・オーボエの木管楽器奏者に「ベルアップ」を求めていて
あの部分のクラリネット奏者は、通常は45度前後あたりの角度で吹くところを90度近い角度で吹く羽目になり、
あれは客席で見ていても相当目立つと思います。

でも私自身がマーラーの色々な交響曲を生の演奏会で聴いて「面白いな・・・」と感じたのは、
交響曲第1番「巨人」第三楽章で使用される
「シンバル付き大太鼓」じゃないのかな・・とも思えます。



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通常の演奏会ですと、シンバル奏者と大太鼓奏者は別です。
シンバルと大太鼓が同時に鳴る場合は、普通は奏者2名を必要とします。
ですけど、マーラー/交響曲第1番~第三楽章の場合は、
「シンバル付き大太鼓を使用し、一人で大太鼓とシンバルを鳴らしなさい」という指示がスコアに明記されています。
この「シンバル付き大太鼓」とは、大太鼓の頂点部分にシンバルの片側が装着されている楽器の事で
一人の奏者が大太鼓の撥とシンバルのもう片側を持ってふたつの楽器を同時に演奏します。

でもこれってどういう効果を意図し、奏者に何を求めたのかな・・・??

生で見た限りでは、奏者もかなりやりにくそうな感じでした・・・
左手にシンバルの片側を持ち、大太鼓に固定されたシンバルのもう片側と合わせて
更に右手に大太鼓の撥を持ち、同時に大太鼓を叩く必要があるから
かなり面倒と思いますが、
こうした面倒なスタイルを取っているから大きな音量は出せません。
結果的に随分と控えめな演奏になる・・・
この第三楽章は「葬送行進曲」だから、あまり大きな音は求めない・・・
だからこうした面倒な手法を採用したんじゃないのかなとも解釈できそうですね。

だけど見た目には何かすごく面白いからなぜか印象に残っている場面です。

19世紀のイタリア・フランスの歌劇場などでは、オーケストラ・ピット内のスペースと、
打楽器奏者の人数を両方とも同時に 「節約」することを目的として、この「シンバル付き大太鼓」を
採用していたという事情もあるのですけど、
マーラーのメインの作曲の場所は「交響曲」であり決して「歌劇」ではありませんので、そうした「節約」も
必要ない感じもありますので、その意図というのは、まさに「作曲者のみぞ知る」という感じなのかもしれないですね。

チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」~第三楽章に4発のみシンバルと大太鼓が同時に鳴るシーンがあります。
面白いのは、チャイコフスキーのスコアの上では、
「シンバルは大太鼓にくつけてはいけない」との注釈がわざわざあるとの事です。
注釈が付いているのは、チャイコフスキーがマーラーに自分の曲の指揮を依頼することが何度かあったらしいのですけど、
マーラーの「巨人」~第三楽章みたいに演奏されるのはちょっと嫌だな・・みたいな
チャイコフスキーの意図ももしかしたらあるのかもしれないですね。
その辺りはこの二人の巨匠の興味深いエピソードという事なのかもしれないですね。
段々とお正月気分も薄れてきて世の中全体が通常モードに戻ってきていますね。

お正月の初売りの際にフラフラとイトーヨーカドーのショッピングモールをうちの奥様とフラフラと散策していたら
正月用BGMとして、「春の海」とか雅楽「越天楽」がかかっていました。
なるほど、確かにこれらの曲は日常にBGMとして店内で流しても相当違和感はあると思いますが、
正月と言うのんびりとした何となくおめでたい時間に、これらの曲を流しても全然違和感はありませんね。
何となく興味深いものは感じました。

「越天楽」というと、宮廷音楽というのか「雅楽」の中では一番知名度がありますし、
和式の結婚式ではすっかり定番のBGMの一つだと思います。

「雅楽」といっても、日本と西洋の楽器の種類の違いというのはあっても
基本的には、弦楽器・管楽器・打楽器から構成されています。
西洋の弦楽器に相当するのが、琵琶と筝
西洋の管楽器に相当するのが、竜笛・笙・篳篥
打楽器が、楽太鼓・鉦鼓
と言えると思います。

「なーんだ、楽器の基本的構成が同じならば、越天楽を西洋楽器でも表現できるじゃーん」と考えたのが、
近衛秀麿編曲の管弦楽版「越天楽」だと思います。
近衛秀麿は元々お公家さんの一族でしたけど、西洋音楽もしっかりと勉強されていて、
楽器の移し替え・移調は、案外造作はなかったのかもしれません。
例えば、琵琶と筝はヴァイオリンに、篳篥はオーボエに、竜笛はフルートに、楽太鼓はスネアドラムに等
色々苦労はあったのかもしれませんが、
こうして西洋楽器としての「越天楽」が完成したのでした。

本物の雅楽が演奏したオリジナルの越天楽も聴いたことがありますけど、楽器の違いは大きな違いとも
言えると思います。そして何よりも音楽の作り方が、やはりどことなく西洋風に聴こえます。
できるだけ雅楽風に歌わせようとする意図は分かりますけど、
どうしても小節の頭で楽器同士が揃ってしまう感覚は強いと思います。
雅楽みたいな「微妙なズレ」というものはそこには無くて、やはり西洋合理主義のキッチリカッチリ感はあると感じます。
だけど、曲のメロディーラインの雰囲気自体は驚くほど良く似ているようにも聴こえます。
そう思える根拠は、そうですね・・・言葉にすると大変難しいのですけど「ゆったりとしたゆるいテンポ」が
例え本来の雅楽で演奏しても西洋楽器で演奏しても、大した違いは出ていないという事があると思えますし、
この極めてゆったりとしたテンポが、いかにも日本古来らしいメロディーを奏でる事に大変よく合っているからなのかなぁ・・とも
感じたものでした。

私自身、管弦楽版/近衛秀麿編曲の「越天楽」は、20世紀の間は聴いた事が無かったのですけど、
21世紀に入って間もなくの頃、ナクソスレーベルから、沼尻竜典指揮/都響の「邦人作品集」のCDが出て、
この中にこの「越天楽」が収録されていました!

最初聴いた時は、正直驚きました・・・
全く違和感がないのです・・・
以前何となく感覚で聴いていた雅楽としての「越天楽」を
西洋楽器の管弦楽版で聴いても、
それ程大きく変わったという感じは正直しませんでした。
演奏が、テンポがゆっくり気味で、非常に音色が洗練されているというせいもあるのかもしれませんけど、
とにかく意外な程違和感はありませんでした。

面白いもので、以前何かの実験番組か何かで、
雅楽のような和楽器で、チャイコフスキーの白鳥の湖とか
「ルスランとリュドミーラ」序曲をやっていたことがあるのですが、
当然のことながら、こちらは思いっきり「ヘンな」演奏でしたし違和感は相当なものがあったと感じました。
この違和感は、「日本人が能や文楽を西洋人が演じた時に感じる違和感」と似ているような気もします。
「越天楽」の管弦楽版を最初に聴こうと思った際の事前の予想としては、
上記のように例えばアメリカ人が歌舞伎とか能とか文楽を演じた時みたいな違和感を感じるのかなと
思っていましたけど、そうした違和感は全くありませんでした。
和の楽器で西洋の音楽を奏でる事と洋の楽器で和の音楽を奏でる事の違和感の違い・・・、
こうした「違和感の違い」というものはやはり面白いものだと思いますし、
そこには「日本人にしかわからない感覚」というものもあると思います。

黛敏郎にも「舞楽~BUGAKU」という「越天楽」と発想が同じような曲があるのですけど、
こちらもあまり違和感がないという印象はあります。
この曲を更に吹奏楽にアレンジして演奏した、1995年の秋田南高校の素晴らしい演奏しか
現在手許に無いから、一度じっくり原曲を聴いてみたいのですね。

そうそう・・この管弦楽版の「越天楽」なのですけど、実は第二次世界大戦前にこの曲を録音されていた
超大物指揮者がいましたね!
そう! それこそがストコフスキー指揮のフィラブルフィア管弦楽団でした。
ちなみにその音源はSPレコードです。
近衛秀麿が編曲し指揮した管弦楽版「越天楽」を聴いたストコフスキーが気に入ってコンサートでたまに演奏し、
こうやって録音まで残していたのですね!
ちなみにこのSPレコードは聴いたことがないのですけど、演奏自体はとっても興味がありますね。
日本の雅楽が戦前のアメリカの管弦楽で演奏され録音までされていたという事実は意外だけど、なんとなく
嬉しいものはあったりもしますね。


当ブログにおいては、12/10の記事にてマーラー/交響曲第3番「夏の朝の夢」の第三楽章をメインに語らさせて
頂きましたが、
少しだけ補足をいたしますと、
あの第三楽章における異例とも思えるポストホルン(またはミュートを付けたトランペット)の長大なソロは
合計二か所登場し、CDで聴く場合
(もちろん指揮者の解釈で大分時間にズレは生ずるとは思うのですが)
演奏時間15分の中で、演奏開始から7分目あたりに一度登場し、ここでは二回ほどメロディーラインが反復され、
そして12分目あたりで再度登場します。
この曲の生の演奏会の場合、第三楽章の長大なソロを担当するトランペット奏者は、基本的には
第一~第二楽章においては、舞台上の演奏には参加せず、第一楽章と第二楽章の要する演奏時間、大体一時間程度は
聴衆の目には触れない部隊の後ろとか横において、ずっと待機し、ひたすら自分の出番が来るのを待つことに
なるのですけど、
とにかくこの奏者の緊張感とかプレッシャーは大変なものがあると思います。
事実、2013年の新日本フィルの演奏会では、この部分の奏者は完璧に外していました・・・・
(あれは極めて印象&後味が悪いと思わざるを得ないです・・)
まさに「孤独との闘い」なのだと思います。
今現在は退任されていますが、N響の津堅さんは、あの部分を一時間以上の待機&プレッシャーにも打ち勝ち
大変見事な演奏をされていたのは、大変印象的でした!
後日テレビインタビューの中で、高潮した表情で嬉しそうに語られていたのも大変印象的でした!

12/10の記事でも書いた通り、あの部分は原曲の指示通りに「ポストホルン」を使用する場合もありますし、
ミュートを付けたトランペットで代用される場合もあります。



ミュート



あ・・・ミュートとは「弱音器」の事で、これを金管楽器のベルの先端に付けることで
音量を抑制しくすんだ音を生み出すという効果があります。

このミュートを表現的にも視覚的にも巧みに使用した交響曲の事例として、同じくマーラーの交響曲第1番「巨人」も
あるんじゃないのかな・・・?とも思ったりもします。
特に第四楽章において、トランペットの「ミュート」が結構効果的に使用されているようにも思えます。
このマーラーの「巨人」の第四楽章は、生の演奏会を聴くとよく分かるのですが、
4人のトランペット奏者たちが、何か慌ただしげにバタバタしている様子が窺えます。
実はこれは「ミュート」を付けては吹き、外しては吹き、さしてまたまた付けては吹きを
次から次へと繰り広げているのです。
見た感じは実に「せわしない」という印象があったりもしますけど、同時見た目には大変目立ちますので、
そのあたりの視聴的効果ももしかして作者として意図したのかもしれないですね・・・
以前、都響の演奏会だったと記憶していますが、
ここのトランペット奏者たちは、膝にはさんだミュートを右手で掴み取り、素早くベルの先端に取り付け
ミュートがいらない場面では、さっとミュートを外し、再度膝に挟む・・・
そんな事を第四楽章の前半辺りで何度も繰り返していた光景を目撃したこともあります。

やはり演奏者たちは、目に見えないところで
色々な苦労があるものですよね・・・

吹奏楽のトランペット奏者によると、このミュートを付けると
付けない場合に比べて高音が全然出しやすいという事で
まずは最初にミュートを装着し、ハイトーンの感覚を身に付け、それからミュートを外して吹いた方が
より本番で高音を外さないという話を聞いたことがあります。
ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」のように
ミュートの先端の穴に手をかざし、音をわざと「ワォンワォン」と揺らす奏法も稀にあったりもします。

「ミュート」というと音量を意図的に抑制する場合に使用されることが多いと思うのですが、
別にppの場面だけではなくて
意図的にミュートを付けたままffの演奏をし、
その「くすんだようなヘンな強奏」の音を作曲者が求める場合もあったりします。
そのいい例がムソルグスキー/ラヴェルの組曲「展覧会の絵」のサミュエルの場面だと思います。
あれは実に効果的で、トランペットのくすんだ金切音みたいな悲鳴が実に曲にマッチしていると思います。

そうそう、こういう「弱音器」は別にトランペットの専売特許ではなくて、
他の金管楽器、例えばホルン・トロンボーンにもあったりもしますし、
弦楽器にもあったりもします。
弦楽器の場合は、木・ゴム・金属といった素材を駒に装着し振動を抑える事で効果を発揮します。
弦楽器の弱音器仕様のいい例として
モーツアルトの交響曲第41番「ジュピター」第二楽章があるのかな・・・

あ、そうそう、「ミュート」は実はチューバにもあったりもします。
チューバのミュートはあまり使用例はないと思うのですけど、
マーラー/交響曲第9番第一楽章で、トロンボーンと対になって「不気味」という効果はそれなりに
出していると思います。
チューバのミュートは、実際にマーラーの9番で見た事がありますけどかなり巨大です!

トランペットのミュートなのですけど、私が初めて「トランペットのミュートっていいよねっ!」と実感したのは、
1979年の課題曲A/フェリスタスだと思います!
フェリスタスはどうしてもあのアルトサックスの惚れ惚れしちゃいそうなソロが大変印象的ではあるのですけど、
アルトサックスソロのメロディーが様々な形で変奏され曲が進行していく過程の中で、
曲が一旦静まりかえった後で、ミュートを付けたトランペットの短いスタカット風な刻みとそれに呼応するシロフォンが
とっても格好良かったと思います!

最後に・・・

クラシック音楽でトランペットのミュートの「効果的使用」を見せつけられたのは
ドビュッシーの「三つの夜想曲」~Ⅱ.祭りだと思います。

ドビュッシーの「夜想曲」~祭りは、
トランペットのミュートを付けた部分は、「遠くから祭りのお囃子が聴こえてくる・・・」
トランペットのミュートを外し小太鼓が加わると、「近くでお祭りの屋台のざわめきが聞こえる・・」みたいな
感覚も、私の中ではあったりもします。
あのあたりのドビュッシーの感覚はとてもお見事だと思いますね!!

こんな事を改めて書いてしまうと、結構古くからこのブログをご覧になって頂けた皆様からは
「え・・?」とか「え・・そうだったの・・?」と思われてしまうのかもしれないのですけど、
実はこのブログの管理人が絶対的に得意にしているジャンルというか、
「これだけは絶対に他人には負けない!」とか
「このジャンルを語らせたら語るネタはほぼ無限大」というジャンルは、実はなのですけど、
プリキュアでも東方Projectでもなく、実は「吹奏楽」でもなくて、
「クラシック音楽」なのです!!

このブログは、とにかく語るネタがストライクゾーンが狭いと言うのか、語れるネタが限られていて、
基本的には、吹奏楽・プリキュア・東方・ユーフォ・ガルパン・浦和の調ちゃん・デート・ア・ライブぐらいなのだと
思います。

このFC2でも、とにかく数多くの素敵なクラシック音楽語りのブログが一杯ありますし、
別に音楽自体の正規教育は全く受けていない私が、あくまで私自身の趣味の一環としてクラシック音楽を
語るのも果たしてそこにニーズはあるもんなのかなぁ・・と感じておりますので、
特にこのブログにおいては、専門的に深く「クラシック音楽」の事はそんなには語っておりませんし、
それは今後においてもこの方針は変える事はないと思います。

あくまで私がクラシック音楽の事を語る時って、これまでの過去記事の経緯をご覧頂ければわかる通り、
「吹奏楽」とセットする形で今後も時々ですけど
語らさせて頂きたいと思います。



響け!



私の場合、吹奏楽コンクールにおける原曲の「クラシック音楽」を吹奏楽用に「アレンジ」されたものを聴いて
その「原曲」を改めて聴くきっかけになった事が非常に多いのですよね。
勿論「吹奏楽」そのものも大好きなのですけど、
「クラシック音楽」という「深い森の中」に誘い込まれるきっかけを作った吹奏楽コンクールが
好きなのも、その辺りに原因があるのかもしれません。

そして特に多大な影響を与えてくれたのが、このブログでは既に何度もこの偉大なお名前を出してしまいますが、
秋田県の花輪高校吹奏楽部と当時の指揮者の小林先生だと思います。

このブログでも既に何度も何度も何度も繰り返し書いているのですけど、
私が「クラシック音楽の深い森の中」に迷い込むきっかけを作ってくれたのが
1982年の全日本吹奏楽コンクール・東北大会の花輪高校のウォルトン/交響曲第1番第四楽章の
圧倒的名演に心の底から感銘を受けたという事実なのですけど、
これ以外でも例えば・・・

ハチャトゥーリアンの交響曲第2番・同/第3番「シンフォニーポエム」
プロコフィエフの交響曲第3番
ベルクの三つの管弦楽曲
シチェドリンの交響曲第2番
ブリス/バレエ音楽「チェックメイト」
ラフマニノフ/交響曲第1番などは、全て花輪高校の吹奏楽コンクールの演奏がきっかけとなって
「花輪の演奏素晴らしいな・・・ではその原曲はどういう感じなんだろう・・」と色々と興味を持っていったのが
まさに始まりでしたし、それを起点にして・・・
「それ以外にこの作曲家はどんな曲を残しているのかな・・」
「この時代、他にはどんな作曲家がいたのかな・・」と
クラシック音楽の入り込む「きっかけ」を私に作ってくれたのが、この花輪高校吹奏楽部なのだと
今でも思っていますし、
それゆえ私は永遠に・・・
「花輪高校吹奏楽部よ、永遠なれ!!」といつでも感じていますし、そして心より遠き埼玉の地よりエールを
送り続けたいと思います!
今年は秋がとてつもなく短く感じられ、一気に「寒い冬」に突入したような気がします。
この一つ後の記事は、東方の素敵な雪女のレティさん記事なのですけど、まさに寒い事柄をネタにする際には
ピッタリの素敵な冬の妖怪さんだと思います。
今年に関しては、秋を司る「秋姉妹」の活躍が目立つ前に、問答無用でレティさんが秋姉妹を追い出してしまった
ような感じすらありますね・・・(笑・・)

年末の追い込みという事もあり、社内の工事車両・営業車両が全て出はらっている場合、
やむなく、まるでビザ屋の出前みたいなジャイロ(三輪バイク)で外を廻る事もあります。
事前にそれが分かっている場合は、ついつい「厚着」をしてしまいがちです。
昨日は、朝のあまりの寒さに嫌な予感がし、上は7枚も厚着を重ねてしまいました。
私の体型は典型的なスリム体型ですけど、さすがにこんなに重ね着をしてしまうと、
「あれれ・・・しばらく見ないうちに随分とぽっちゃりされましたね・・」となんとか言われてしまいそうな気もしますね・・(笑)
さすがにこれはやりすぎかもしれませんでした!
さすがに7枚も着込んでしまうと動きにくいし、何か外見がいかにも「着ぐるみ」被っているような感じでしたし、
なんか自分で自分に「お前はプリキュアショーの被り物かっ!?」とツッコミを入れたい気もします。

仕事が終わって家に戻り、あまりに寒いと速攻でお風呂に入る事もあるのですけど、
その際は、七枚の重ね着を脱衣所で一枚一枚脱いでいくことになるのですけど、
なんかこういう「七枚の着物を一枚一枚脱いでいくお話」というと、思い出すのは・・・
そう! 吹奏楽コンクールでは定番中の定番の人気自由曲の一つ、R.シュトラウス作曲の
楽劇「サロメ」~七つのヴェールの踊りだと思います!



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R.シュトラウスの楽劇「サロメ」は元々の出典は新約聖書です。
この新約聖書のサロメの話を題材にしたのがオスカー=ワイルドの戯曲であり、その戯曲をテキストにして
作曲されたのが、この楽劇「サロメ」なのです。
この戯曲・楽劇なのですけど、内容的に結構危ないものがあり、官能的要素も含まれていますし、
初演当時は何かと物議を醸した作品でもありますし、
一部の都市では上演禁止をくらったほどやばくて危険な要素はてんこ盛りの作品だと思います。

「七つのヴェールの踊り」は、楽劇「サロメ」の一部分なのですけど、
非常に重要な場面の音楽でもあるし、楽劇全体の一つのクライマックスシーンでもありますし、
楽劇全体を象徴する非常に重要な場面だと断言しても支障はないと思います。

七つのヴェールの踊り」は、R.シュトラウスも相当の思い入れがあったと思われます。
楽劇全体の作曲をほぼ終えた頃に、改めて、この楽劇全体を左右する重要な箇所の「七つのヴェールの踊り」を
じっくりと腰を入れて作曲している経緯もあったりします。

この楽劇の内容を簡単に要約すると・・・

舞台はユダヤのヘロデ王が君臨する宮廷・・
その宮廷の中には、ヘロデ王の悪政を厳しく批判する預言者ヨナカーンが幽閉されています。
サロメは、ヨナカーンに興味を抱き、色々とヨナカーンをあの手この手で誘惑するが
完全に無視されてしまう・・
ある日もサロメは義父であるヘロデ王から「踊り」を求められるが、最初は辞退してしまう。
だけどヘロデ王から「褒美にサロメの好きなものを何でもあげるから」と言われ、
引き受けてしまう。
そこで踊りを披露するのですが、そこで一枚一枚着ているものを脱いでいくシーンが
「七つのヴェールの踊り」なのです。
だからあの音楽は、あんなに異常に色っぽいというか艶っぽいのです。
そして踊りが終わった後、ヘロデ王から「お前が欲しいものは何だ」と問われ、迷うことなく
「ヨナカーンの首」と答えてしまうのです。
(サロメの母親は、ヘロデ王をたぶらかして再婚したとヨナカーンから色々と批判され、
 内心苦々しく思い、いつかヨナカーンを亡きものにしたいと思いもあり、
 この首の一件は母親からの入れ知恵という要素もありますけどね・・・)
そしてヨナカーンが斬首され、その首が運ばれてくると
サロメはそのヨナカーンの首にキスをしまくり、ハイテンション状態で恍惚となってしまう・・・
そしてそのあまりの狂気さに恐怖を感じたヘロデ王は、
周囲の武将に命じてサロメを殺してしまう・・・

やはり内容としては危険な内容ですしもキリスト教国にとっては「内容的に教義に反する」という事で
上演禁止にするのも分からくは無いのかなとも感じますね。

R.シュトラウスの「七つのヴェールの踊り」は約9分程度の作品ですけど、
冒頭とラスト以外はそれほど音量的に爆発するものではありません。
むしろオーボエ・フルート等のソロ楽器が大活躍し、全体として徐々に雰囲気を盛り上げていくというような感じの音楽です。
不思議な事ですが、目をつぶって聴いていると、
サロメが一枚一枚身に着けているものを脱いでいくという感覚が明確に伝わってきます。
全体的にオーボエの官能的な響きにゾクゾクさせられます。
また、タンバリンの控えめながらエロチックな響きにも魅力を感じます。
瞬間的に曲の「間」があったりもしますけど、この間の感覚が実に素晴らしいと思います。

サロメ役のソプラノ歌手が、演出によっては最後には全裸になるような過激さもあるようでして、
初演以来100年以上経った現在でもなにかと物議を醸しています。
例えば、2000年に新国立劇場でこの楽劇が初演されたときは、スポーツ新聞にすら取り上げられるほどなのです!
サロメ役の歌手は、その「七つのヴェールの踊り」の場面の約9分間踊ったあとに
長大なモノローグを歌わなければならず、サロメ役を演じきるのは至難の技だと感じますね!

最後に・・
楽劇「サロメ」のように、若い女の子が一枚ずつ七つのヴェールを脱いでいくから絵になるのであって、
こんな私が着ぶくれして帰宅時に七枚の重ね着を一枚ずつ脱いでいっても
全く「絵」にもなりませんよね・・・(苦笑・・)

ちなみに私は下は、ズボン下とかスパッツは絶対に穿きません・・・
何でかと言うと、
子供の頃、父親が一年中、ステテコとかももひき一丁で家の中をうろちょろしている光景を見ていて
「あんなみっともない格好は絶対にしたくない・・・」みたいなトラウマが゛
いまだにあるのかもしれませんよね・・・
まず初めに・・・

当ブログにおいてはどちらかというと堅めの感じのカテゴリでもあるクラシック音楽カテゴリなのですが、
実はなのですけど、今回のこの記事でもって初めてとある実験的な試みをさせて頂きたいと思っておます。
何かと言うと、こうしたクラシック音楽カテゴリと当ブログがいつも大変お世話になっている絵師様の素敵なイラストを
「コラボ」させて頂き、こうした比較的堅めの内容であっても、少しでもご覧頂けている皆様に
楽しんで頂ければとっても嬉しいものがあります!

ちなみにですけど、その絵師様とは、当ブログがいつも大変お世話になっていて、
もしかして、当ブログにおける最大のヒロインの一人ではないのかと思っている「五月雨日記」<仮の宿>の
素敵な管理人さんの風月時雨さんの事です!
風月時雨さんが先月、五月雨日記内に掲載されていた東方Projectの「プリズムリバー三姉妹」は、
ま・・この記事の一つ後の記事で語らさせて頂いてはいるのですけど、その三姉妹の中から、この記事においては
三姉妹の次女・メルランについて後程、風月時雨さんの素敵なイラストと合わせてご紹介をさせて
頂きたいと思っています。
ではどうして急にクラシック音楽カテゴリ記事に、東方のイラストを織り込ませようかと考えたのかと言うと、
風月時雨さんが描かれたメルランが手にしているのは、トランペットまたはコルネットなのですが、
(ちなみに風月時雨さんが描かれたトランペットは、現在主流のロータリー式ではなくて、ピストン式というのが
大変レトロでどこか懐かしい雰囲気を醸し出しているとも思います)
今回この記事で取り上げさせて頂くマーラー作曲/交響曲第3番第三楽章において、異例とも感じられる
トランペットのかなり長時間に及ぶソロが朗々と舞台裏から響いてくるのですけど
(後述しますけど、マーラーのスコア上での指定は「ポストホルン」という特殊楽器があのソロを担当する事に
なっているのですけど、この楽器自体が中々入手困難の上、演奏するのが大変難しい上に、不安定という事情もあり、
実際の生の演奏会では、トランペットまたはコルネットに弱音器=ミュートを付けて演奏する事が多いです!)
そのトランペットのソロはとてもこの世のものとは思えないような不思議な響きが感じられ、
聴き方によっては、まさに「幽霊」がトランペットを奏でているといった雰囲気も有しているように私には感じられます。
プリズムリバー三姉妹は、実は「生きている人間」ではなくて、幽霊・・ま、厳密に言うと騒霊(ポルターガイスト)なのですけど、
そうした幽霊のメルランが奏でる音というのは、まさに、マーラー/交響曲第3番第三楽章のあのトランペットの音に
近いものがあるんじゃないのかな・・?と私自身が勝手に妄想し、
その結果としてこうした記事が掲載されたという事になるのだと思います。


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マーラーの交響曲第3番は、私が知る限りにおいてというか、私が実演の生演奏回で聴いた限りにおいては
最も長い交響曲だと言えると思います。
事実、この交響曲は、現在は違いますけど一昔前までは「プロの管弦楽団が複数回以上実演した事がある
交響曲として世界最長の演奏時間」としてギネスブックに認定されていた事もあります。
演奏時間は約100分です。
第一楽章だけで、35分程度の演奏時間を要し、フィナーレの第六楽章も30分前後の
演奏時間を必要とします。
モーツアルトやハイドンの交響曲全曲すらも、この第一楽章の時間内に収まってしまうとてつもない交響曲と言えます。
第一楽章は35分前後、第二楽章は10分前後、第三楽章は15分前後、第四楽章は10分前後、第五楽章は5分程度、
そして終楽章の第六楽章は30近い演奏時間を要します。
この交響曲は、アルト独唱、児童合唱、女声合唱も加わるのですけど、実はこの100分近い演奏時間の中で
こうしたコーラスが入る部分は第四・第五楽章のみです。
しかも・・!かなりの大編成の女声合唱と児童合唱は5分程度の第五楽章しか出番はありません。
第四楽章では、アルトの独断場となっていますけど、第五楽章のアルトは、あくまで女声合唱と児童合唱の補助的な役割に
留まっていて、全体としては声楽曲でもあるのですけどアルトは影がうすいのかな・・?みたいな
印象もあったりします。
第五楽章が終わると、合唱陣は、その後30分前後は、自分の出番もなく、ひたすら舞台上の管弦楽団の演奏が
終了するまで「待機・・」みたいな状況にもなってしまうのがなんか少し気の毒な感じもありますね・・(笑)
指揮者によっては、曲の開始時から女声合唱と児童合唱をステージに登らせているパターンもあるようですけど、
私が聴いた都響・東京交響楽団や日本フィルなんかでは、
あまりにも長大な第一楽章が終わった後に、管弦楽の奏者を「休ませる」という意図もあるのかとは思いますが、
女声合唱と児童合唱をステージにのぼらせて、あまりにも長かった第一楽章の「休憩」みたいな役割を担わせているのかな・・?
とも思っています。

曲のタイトルは「夏の朝の夢」と私は表記させて頂いておりますが、
人によっては「夏の詩」とか「夏の夢」とか「牧神」とか「悦ばしき知識」とか「夏の真昼の夢」と言われている方も
いらっしゃるのかなとは思います。
最終的には楽章のタイトルや曲全体の標題も全て作曲者のマーラー自身によってボツとされ、
正式にはタイトルなしが正解なのかなとも思えます・
私的には、この交響曲はとにかく第六楽章が大好きなものでして、その印象がまさに「夏の朝の夢」というイメージがありまして、
当ブログのこの記事では「夏の朝の夢」という表題を採用させて頂きたいと思います。
実際、大友直人指揮の東京交響楽団の定期演奏会でも、この表記がなされていました。

この交響曲、異常に長いのですけど、CDで聴いても生の演奏会で聴いても
「長い」という印象は感じません。むしろ「心地良い」という感じさえします。
一番「巨人」・二番「復活」みたいな人間としての葛藤とか劇的なドラマという要素が少ない代わりに
自然の要素を盛り込んでいる為と思われますが、全体的には穏やかな印象を私自身は感じとります。
全体的には「ナチュラル」という表現がしっくりくるのかな・・とも思っています。
確かに、第一楽章とか第三楽章は少しとっつきにくい面もあると思います。
曲全体が混沌としているというのか、作曲者の意図が見えないとか「長いけど結局何が言いたいのかよく分からない・・」
みたいな印象を感じられる方も相当多いのかな・・?とも思ったりもします。

だけど、よーく聴いてみると、この二つの楽章は、特に第一楽章においては、朝=夜 人間界=自然界 現実=夢
現実=過去の記憶 生=死という相反するテーマを全て一つにまとめ上げたというか、
過去の記憶と現在の印象の全てを巻き込み行進していく巨大な「マーチ」という考え方も
出来るのかもしれません。
この曲を私が初めて生の演奏会で聴いたのは1997年の大友直人指揮の東京交響楽楽団でしたけど、
第一楽章の混沌・混乱の中で私が抱いたイメージと言うのは、
こうした過去と現実の全てを巻き込んだ「行進曲」というものでした。
それにしても、第一楽章の出だしは本当に強烈なインパクトがありますよね。
だって、ホルンが8本でユニゾンを高らかに鳴らしているのですから・・・・!
冒頭でホルン奏者全員がややベルアップ気味に全員で同じ旋律を堂々と吹き鳴らす場面だけで、
なんかノックアウトされたような感じすらあると思えます。
第一楽章だけを聴くと、「よくわからない・・」とか「意味不明・・」みたいな印象を持たれる方も多いとは思います。
そうですね・・この楽章は「精神分裂症」みたいな音楽に近い感じもあるのですけど、
人間が有している明るい面と陰鬱な面とか現実的な面と夢見がちな面などのように
「人間が元々有している相反する矛盾する要素」を「音楽」として反映させる意図があるんじゃないのかな・・とも
感じたりもしますね。

第三楽章は、夢と現実の対比が音楽として生き生きと表現されていると感じます。
この第三楽章も、生きるものと死者、神聖さと世俗さ、夢と現実を対比させつつその全てを
巻き込んだ巨大なマーチとして進軍していきます。
途中で、ポストホルンという殊楽器がかなりの長時間ソロ楽器として舞台裏または舞台袖、または客席後方から、
夢見るようなファンタジーを朗々と独奏しますが、こうした夢の感覚も長続きせず、夢から覚めて現実に引き戻されるような
感覚で、起床ラッパが突然鳴り響き、ドラ等の打楽器が咆哮する中で、曲が閉じられ
現実に舞い戻ってしまいます。
前述したとおり、実際の生の演奏会で私が聴いた限りでは、あの「ポストホルン」の場面は、やはりどの指揮者も
ポストホルンを採用しないで弱音器(ミュート)を付けたトランペットを使用していたケースが多かったと
思います。
ちなみにポストホルンは、音程が極めて合わせにくいとか不安定になりがちとか
長時間のソロは無理があるという楽器特有の欠点もありますので、トランペットまたはコルネットが代用というのは
むしろ正解だと思います。
前述したとおり、あの長大なソロの場面は、確かに夢見がちでもあるのですけど、あの舞台裏から響いてくるような音色は
やはりどう聴いても「生きている人間の音楽」じゃないのかな・・?とも感じますね。
あれは私としては何度聴いても「幽霊」が吹いているような音にしか聴こえないです・・・
そのくらいどこか幽玄で現実離れをしたソロであると思うのです。
あ、そうそう・・ちなみにですけど、サントリーホールや東京芸術劇場のようにパイプオルガンが設置されているホールですと、
高い位置にあるパイプオルガン付近から聴衆に見えるような形でソロを吹かせているケースもあったと
記憶しています。
そうですね・・・私としては、あの場面のイメージは「現実離れした幽霊」が吹いている感じが強いので、
出来ればあの場面は誰の目にも映らない舞台裏等の位置から霞がかかったような雰囲気で
吹いて欲しいなぁ・・みたいな希望もあったりもします!
この長大なソロの部分を生の演奏会で聴くと、本当に「うっとりと」いい気持に夢心地になるものですけど、
この夢見るような部分は、唐突に「起床ラッパ」によって中断され、
現実の世界に嫌でも戻されてしまうようなイメージも感じたりもします。
そういう意味ではあの「起床ラッパ」が意味するものって「現実への回帰」という事でもあるのかな・・??

思いっきり余談になってしまいますけど、アニメ「ガールズ&パンツァー」第4話にて、朝五時の集合時間に
極度の低血圧のために目覚める事が出来ないでいた冷泉麻子を
軍事おたくの秋山殿が「軍隊用の起床ラッパ」でもって麻子を叩き起こそうとしていた場面なんかは、
まさにこの「起床ラッパ」が現実の世界に引きずり戻すという事でもあり、
なんとなくですけどこのマーラー/交響曲第3番第三楽章をイメージさせるようなお話なのかな・・とも
ふと感じたものでした。

改めてですけど、この第三楽章は面白いと思います。幽霊みたいなポストホルンまたはトランペットのソロが
幽玄に鳴り響き、そうしたどこかこの世のものとは思えない響きを現実に強制的に引き戻すこの起床ラッパ・・
うーーむ、やっぱりこの交響曲の意図することの一つはこうした「夢と現実の交錯」なのかもしれないですね!

第四楽章は、アルトのソロが、第五楽章はアルトの独唱と女声コーラスと児童合唱が入りますが、
この二つの楽章は合わせてせいぜい15分程度です。
100分近い演奏時間でも、第一楽章が約35分、第六楽章が約30分、そしてコーラス隊も見せ場が少なく
演奏時間も短いという事で、初演当時からやはり「曲の構成のバランスが悪い」みたいな批判はあったとの事です。

第六楽章は、終始ゆったりとした音楽が展開されていきます。
この部分は、何か「夏の朝の夢」というか、これから現実としての一日が開始される前の
つかの間の幻影みたいな感覚が私の中にはあったりもします。
20代後半から30代前半にかけて、出勤する時間は大抵朝7時頃だったのですけど、
基本的にはいつも朝5時半頃に一度起きてシャワーを浴び、この第六楽章を聴いて、夢から現実に舞い戻るような
感覚で家を出ていた時期もあり、
これが特に夏場なんかは、妙に自分自身の気持ちとマッチするものがあり、
そうした事が特に第六楽章が好きという一因にもなっているのかな・・とも思ったりもします・・(笑)
特に第六楽章の終わり方は、かなりの特徴があって、一言で言うと「終わりそうで中々終わらない」
ラストの2台のティンパニによる巨神がのっしのっしと行進するような壮大さは一聴に値すると思います!

いずれにしてもこの曲はやはりすごいとしかいいようがないと思います。
何か「人類の遺産」という感じさえする交響曲だと思います。

この曲は、演奏時間も長いし、リハーサルは大変そうだし、指揮者の力量がストレートに出てくるし、
アルト・女声合唱・児童合唱は要するしで、費用は相当掛かると思います。
そのせいか、一番や五番と比べると演奏頻度は確実に下がると思われますが、そのせいか
この曲は中々生で聴く機会はありませんでした。
1996年のN響の特別演奏会にて、ズービン=メーター指揮で、この第三番を演奏するとの予告が
結構前からあり、期待を込めてサントリーホールでの前売り券を購入したのですが、
いざ当日行ってみると
「諸般の事情により、演奏曲目を巨人に変更する」との告知がされていて、
ものすごーーーーくガッカリした記憶があります。
払い戻し可とあったので、当然前売り券の代金は全額払い戻しされましたが、
かなりの数の人が払い戻しを受けていましたので、皆気持ちは私と同じだったのではないでしょうか?

結局この一年後にやっと大友直人指揮/東京交響楽団の東京芸術劇場での定期で
初めて聴くことが出来ました。
もっとも、アルトの当初予定されていた伊原直子さんが急病の為、急遽代役が
立てられていましたけどね・・・(泣・・)

交響曲第3番は、当初は合計七楽章構成として検討されていた時期もあったとの事です!
それですと演奏時間が120分近くにも達してしまい、
いくらなんでも長すぎるし、印象が散漫になってしまうと
判断されたかどうかは不明ですが、この第七楽章は、次の交響曲第四番「大いなる喜びへの讃歌」の
第四楽章として使用される事になります。
だけどこれは賢明な判断だったと思います。
だって、あの巨神が歩くような壮大な終わり方をした第六楽章の後で、あの「天国」のような響きの
第七楽章が続いてしまうと印象が散漫になってしまいますし、結果として「よく分らん交響曲」みたいな
扱いになっていたかもしれません。
マーラーの交響曲第4番第四楽章では、これまでの第1~第3楽章の調性と少し
バランスを崩しているように感じる箇所もあるのは、上記の理由と言うか、
無理やり交響曲第三番第七楽章に予定されたものを第四楽章にひっぱってきたからなのでしょう。
何かこれはこれで面白いものですよね。













さてさて・・ここからは既に恒例になっているのかもしれないのですけど、当ブログの素敵なブロとも様の
とっても素晴らしい「過去作品」の紹介コーナーです。
一つ後の記事の「プリズムリバー三姉妹」で既にご登場をされていますので、重複は避けますが、
当ブログの「素敵すぎるメインヒロイン」のお一人、風月時雨さんのプリズムリバー三姉妹から
トランペットを担当している次女の「メルラン」を今回改めてご紹介をさせて頂きたいと思います。
ちなみにですけど、三姉妹のうち残りの長女のルナサと三女のリリカについては、この一つ後の記事で
取り上げておりますし、風月時雨さんのこの二人の姉妹のイラストも転載をさせて頂いておりますので、
もしもまだご覧になっていない方がいらっしゃいましたならば、そちらの方もご覧頂きましたならば
とっても嬉しいです。

風月時雨さんはリフル社会では薬剤師を務めれ、また別のお顔として自作創作小説のライター兼絵師をされている
とってもとっても魅力的な御方です!
ちなみにですけどこのメルランは先月描かれたばかりの「出来立てほやほや」の素敵なイラストです。

風月時雨さんの掲載時の記事を一部引用させて頂きますと、

「この3姉妹は手足を使わずに楽器を演奏する程度の能力の持ち主、という事も
あり、全体的に楽器は持たせてない感じです。」

「彼女は1番女の子っぽくてふにゃっとした髪が印象的、全体的に色素は薄めな
感じの仕上がりかな。スカートの模様に気合い入ってるかと!リリカよりロリ
っぽくなったかもです(笑)そして片方だけボリュームのあるξ・∀・)の顔文字は
彼女にぴったりですね(笑)」

「ちなみに「リリカ」は薬に関わる職の方には結構馴染みがあるかと思います(笑)
…というのは!リリカは薬の名前にもあるのですよね。それで以前「リリカは
いらない子」と言われている事を知った時はとても残念に感じました。そういう
理由もあり(笑)リリカはちょっと贔屓目にしてて昔コンプティークに投稿した
事があり掲載頂けました!…薬剤師をやっているとこのリリカはもちろん、
フランドルテープでフランを連想する…のは私だけじゃないはず!?(笑)」

この辺りは大変興味深いものがありますね!

風月時雨さんもご指摘されている通り、
「プリズムリバー三姉妹」の能力は「手足を使わずに楽器を演奏する能力」なのですけど、
要は「ポルタ―ガイスト」としての才能を楽器に応用したという感じなんでしょうね。
ちなみに、プリズムリバーの演奏は、ルナサのヴァイオリン・メルランのトランペット・
リリカのキーボードと打楽器の三つの音しかしない訳という訳では無いのです。
阿求ちゃんが指摘しているように、
例えば二女のメルランが吹くトランペットの音は、トランペット単体の音ではなくて
「金管アンサンブル」のように幾つもの複数の音がしているとの事ですけど、
持っている楽器自体から音が鳴っているのではなくて
楽器自体はあくまで「象徴」という感じなのが面白いと思います。
プリズムリバー三姉妹が鳴らす「音」自体が「音の幽霊」という感じなのかもしれないですね。

そうした理由から上記の風月時雨さんのメルランのイラストも、一見すると楽器が勝手に宙を浮いているみたいとか
風月時雨さんがうっかり(?)楽器を吹くポーズを書き忘れたとかそんなのではないのです・・・(笑)
そうした楽器が単独でふわ~っと空を舞っているような雰囲気こそが、まさに「幽霊=騒霊」のなせる業という事で、
そうした不思議な感覚を幻想的に表現された素敵な一枚だと思いますし、まさにメルランに相応しいイラストだと
思います。
そして髪とかスカートとか全体的にふわ~っとした雰囲気も素敵にメルランを表現されていると思いますし、
あのスカートの模様のきめ細かさはさすが!だと思います。
余談ですけど、リリカというのは「薬」にも関係があるというご指摘は、さすが現役の薬剤師さん!だと思います!

上記のマーラー/交響曲第3番「夏の朝の夢」~第三楽章において既に散々、
あの楽章のとてつもなく長大なポストホルン(実際はトランペットまたはコルネットで代用されている事が多い・・)のソロは
まさに幽霊が奏でているような大変幻影的な音楽と記させて頂きましたが、
そう!
まさにあの「幽霊」みたいな雰囲気が、この風月時雨さんが描かれたメルランなのだと思います!

この素敵なメルランのイラストを見た瞬間の私の第一印象は、マーラーの3番の第三楽章の長大で
とても生きている人間が吹いているとは思えないトランペットのソロを幻想的に朗々と吹いているメルランというものでしたけど、
その印象は決して間違ってはいないと思います!
だって・・メルランは幽霊なのですから・・・(笑)

そうした私の脳内妄想を引き出してくれたのが、この風月時雨さんの描かれたメルランであり、
「素敵な妄想ネタのイラストを描いてくれてありがとうございます!」という感謝の気持ちで一杯ですね!

風月時雨さん! 今回は、というか今回もありがとうございました!

そしてどうしても私が書いてしまうマーラー関連記事とかクラシック音楽カテゴリは、
どうしても堅め?の記事になってしまう事が多いのですけど、
風月時雨さんの素敵なイラストを一枚添えるだけで、私的には、このカテゴリ記事も相当部分マイルドになったのかな・・?と
ちょびっと自負しております・・(笑)

最後に風月時雨さんが管理運営されているブログは、五月雨日記<仮の宿> です!!

とても魅力的なブログで、東方・プリキュアに限らずアニメ・漫画関係全般とか
ご自身の創作小説とか戦利品アイテムとか
他のブログの皆様との素敵な交流など、見ているだけで楽しめる事間違いなしの素敵なブログです!

どうぞ皆様! 一度是非この五月雨日記<仮の宿> にも足を運んで頂けますと、とっても嬉しいです!!
このブログの「クラシック音楽」カテゴリでは、結構このラフマニノフの「交響的舞曲」の事は
出てきますよね!
それだけ、私・・このブログの管理人は、この曲が大好きなのだと思います!

大変陳腐で月並みな言葉ではあるのですが、ラフマニノフの曲を聴くとなぜかいつも「郷愁」とか「メランコラリック」という
言葉が思い浮かびます。
なんかあの甘美で優しくせつないメロディを耳にしてしまうと
「確かにあのせつなくて甘いメロディは本当にいいもんだなぁ・・」としみじみ感じてしまいますね!

ラフマニノフ自身は第二次世界大変前後まで生きられた「20世紀の作曲家」なのですけど、
その作風は恐ろしいまでに「革新性」は全く無く、とても同年代にストラヴィンスキーとかプロコフィエフとかラヴェルとか
ウェーベルンがいたとは本当に信じられない程です。
あの作風はまさにロシア革命前とかロシア5人組の頃のようなまさに19世紀のロシア音楽の黄金時代の作風を
そのまんま20世紀に持ってきたという雰囲気が濃厚で、「伝統」とか「自分のスタイル」をきっちりと生涯守り続け、
頑なまでに自分のカラーというか信念を曲げずに生きていた方と言えるのだと思います。

ラフマニノフ自身も、ストラヴィンスキーやプロコフィエフと同じように革命とか共産党政権というものに嫌悪感を覚え、
「亡命」という祖国を離れる道を選せざるを得なかったのかもしれません。
プロコフィエフは一時的にソ連を離れて自由な欧米の空気を吸った事で、当初のスキタイ組曲とか交響曲第2番などの
ような過激な路線から「適度な洗練」とも言える路線変更と言う「お土産」を貰ったような感じもしなくはないのですが、
ラフマニノフは、ロシア時代の作品もアメリカへの亡命以降も作風的にはほとんど進化はしませんでした。
出世作のロシア時代に作曲されたピアノ協奏曲第2番で、「自分の進むべき路線はこれしかない」と決意し、
それをアメリカに亡命以降も頑なに貫いたと言えるのかもしれないです。
そしてそのラフマニノフの「進むべき路線」とはまさに「甘くてせつない狂おしいばかりのロマンティック」という事なのだと
思います。

アメリカに亡命以降の主要作品は、交響曲第3番・ピアノ協奏曲第3番・交響的舞曲ぐらい
なのですけど、これは生前は作曲家としての認知度よりも実はピアニストという演奏家としてのラフマニノフの認知度が
高い事情もあり、アメリカ亡命時代は基本的には演奏家としての生活が大変忙しく、作曲活動をしている時間が
あまりなかったというのも大きかったと思いますし、「亡命」という環境の変化によって、そしてアメリカという新しい環境に
実は馴染めていなくて、心の底では「確かに生活する上ではこの亡命は大切だったのだけど、
この新しい環境下においては、なかなか以前のような路線の曲を書きにくい・・」という事もあったのではないのかな・・とも
感じたりもします。
やはりああいう「甘くて切ない音楽」というのは生まれ育ったロシアの風土でないとなかなか書けないものなのかも
しれないですよね。

さてさて、このラフマニノフの「交響的舞曲」なのですけど、実質的に交響曲第4番と銘打っても良い位の大作で、
晩年の名作といっても良い素晴らしい名曲だと思います。
この曲は「郷愁」に満ち溢れていると思います!
戻りたくても戻れなかった祖国ロシアへのラフマニノフなりの「愛」を表現したかったようにも聴こえてなりません!
第一楽章中間部の哀愁溢れるソロはアルトサックスを使用しています。
この「アルトサックス使用」というのはかなり面白い試みだと思います。当時、「アルトサックス」は、
ジャズとかで使用されるのがメインでクラシック音楽の分野で使用されること自体極めて珍しい事でしたので
私自身もこの曲を最初に聴いた時は、その第一楽章のあの長大なアルトサックスのソロのあの甘い響きに
とてつもなく感銘を受けたものでした。
第一楽章の「ピアノ」も低音の支えが大変素晴らしいよい仕事をしていると思います。
例のアルトサックスのソロを伴奏で支えているのもこのピアノなのですけど、
何てあのメロディー、あんなに泣けてくるのだろう・・・・
あのメロディーは、ラフマニノフのように「故郷がありながら何らかの事情で帰ることが出来ない人間」にとっては
まさに「お涙ちょうだいの音楽」であり、
とにかく聴いていて確実に「泣けるもの」・「哀愁」は伝わってくると思います。

第二楽章は・・・、何か「寄せては漂う波」みたいな感じの不安定で陰鬱なワルツです。
楽章全体が「悪魔が私と一緒になって踊る・・・」みたいなニュアンスが大変良くイメージされ
「死の舞踏」みたいな陰鬱なワルツが小気味よく展開されているようにも聴き取れます。

第三楽章は、やはり中間部が大好きです。
なんだか「人生とははかない夢・・・愛は幻・・」とか「浜辺を漂う波」みたいな香りが漂います。
結構泣けてくるメロディーが「これでもか!!」とかなり執拗に繰り返されますが
何かあの切々としたメロディーがとっても印象に残りますし、
とにかく第一楽章同様泣けてくる音楽ですし、
やはり思いっきり「郷愁」が漂ってきます・・・・

第三楽章冒頭の「チャイム」の響きが実にいいですね・・・!!
シロフォーンも実に鋭角的な響きを聴かせてくれてとても大好きです。
曲のラストなのですけど、スコアの上ではドラ(タムタム)がゴワーーーーンと鳴り響いて余韻を残して終わるように
書かれていますけど指揮者によってこの辺りは解釈が割れているようにも感じられます。
ネーメ=ヤルヴィのようにドラをゴワーーーンと余韻を残す方もいますし、
マゼールのようにドラの余韻をまったく残さないでバサッと終わらせる方もいますし
このあたりは指揮者の好みなのかもしれないですね。

この曲の名盤として、私としては、マゼール指揮/ベルリンフィルを強く推したいと思います。

それにしても、この「交響的舞曲」は素晴らしい名作だと思います!

この「交響的舞曲」を実質的にラフマニノフの「最後の交響曲」として聴くと、
何かこの曲が生涯を通じて一番哀愁溢れる素敵な作品だなと強く感じす゛にはいられないと思います。

ちなみにですけど、ラフマニノフ本人は、この「交響的舞曲」の自作譜の最後のページにて
「私は神に感謝する・・・」という言葉を残しています。

そして余談ですけど、上記にて第一楽章の中間部で「アルトサックス」が長大な甘いソロをせつぜつと吹き上げていると
書きましたが、アルトサックスという楽器は、ジャズ・ポップス・吹奏楽がその主な活躍の舞台なのですけど、
時折こうしたクラシック音楽の分野でもこの楽器が使用されることがあったりもしします。

その代表例として・・・

〇組曲「アルルの女」第一組曲(ビゼー)

 →もの哀しさをアルトサックスがうまく醸し出していると思います。

〇組曲「展覧会の絵」~古城

 →ムソルグスキーの原曲をラヴェルがアレンジしたものですが、古城にて使用しています、
  やはり哀愁をうまく出しています。
  ラヴェルだからできた芸当で、武骨な作風のムソルグスキーではこうした繊細なオーケストレーションは
  無理なのかもしれないですね。

〇ボレロ(M.ラヴェル)

 →アルトサックスではなくて、何とソプラノサックスとテナーサックスがソロとして
  使用されます。テナーサックスのハスキーさが素晴らしいのですけど、このテナーサックスという楽器は
  もしかして人間の声に一番近いのかな・・?とも感じさせてくれる曲でもあるのかなとふと感じたものでした。

上記はの曲はフランス系のものばかりですが、(ちなみにサックスの発祥の地はフランスです!)
ロシアでも意外と使用されています。
プロコフィエフの交響組曲「キージェ中尉」・バレエ音楽「ロメオとジュリエット」でも
効果的に使用されています。
特にキージェ中尉では、その第四曲「トロイカ」でテナーサックスがコミカルにソロを演じています。
小澤征一指揮のように、このトロイカの部分にバリトンの声を使用する人がたまにいますが、
やはりこの部分はサックスでないと中々味が出てこないのかな・・?とも思います。

でもやっぱりロシアものというとラフマニノフの「交響的舞曲」~第一楽章のアルトサックスの効果的使用が
やはり断トツなのかもしれないですね。
クラシック音楽の世界では「ロメオとジュリエット」を題材にした曲と言うと
ベルリオーズの劇的交響曲「ロメオとジュリエット」もそれなりに有名なのかなとは思うのですけど、
圧倒的な知名度を誇るのは、誰が何と言ってもプロコフィエフのバレエ音楽が一番なのだと思われます。
20世紀の名作バレエという評価は既に定着済だと思いますし、
世界各国のバレエ団が日本上演をする際に、よくこの「ロメオとジュリエット」は上演されていますよね。

シェークスピア原作の戯曲は、ご存じの通り、悲劇的結末で終ってしまうのですけど、プロコフィエフの場合は、
何と・・・!!最初の構想の段階では、これを「ハッピーエンド」で終らせる構想を練っていたとの事です。
終幕でロメオが1分早く駆けつけジュリエットが生きていることに気付きハッピーエンドを迎える・・・・というもの
だったそうですけど、それではなぜプロコフィエフはあえてハッピーエンディングにしたのかその理由とは、
「生きているから踊れる・・・死んだら踊れない・・・」という理由との事です。
ちなみにプロコフィエフはこのバレエ音楽を作曲中に知人に書いた手紙の中で
「今、ジュリエットは第二幕の中を歩いています・・」という素敵な一文を記したというエピソードが残されているそうです。
さすがにこの有名な原作を曲解したハッピーエンディングはまずい・・・という事で、劇場サイドがプロフィエフに対して
「悲劇的結末もバレエと言う表現形態で十分表現・演出出来る・・」と説得し、
何とか原作通りの結末になったとのエピソードも残されています。

そうなんですよね!

やっぱり「ロメオとジュリエット」は若き青年と少女の「悲劇的な死」があるからこそ、その抒情性が光っているとも
思いますし、そうした「抒情性」とか「ロマンティックさ」を前面に出した香り高き作品こそが
今回取り上げさせて頂きますチャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」です!

この曲は「序曲」というタイトルが付いているのですけど、印象としては「交響詩」みたいな感じがいたします。
演奏時間が20分程度ですし、曲としては「かなり長い・・」みたいな印象もあります。
だけどこの20分の曲の中に、荘厳なコラール・愛のテーマ・諍い・人間の死・甘美さ・せつなさ・激しさなど
とにかく色々な要素が「これでもかっ!」とばかりに盛り込まれていて、
聴いていて飽きる事はありません。
20分の曲の中に「出会い→喧騒→愛の逃避行→死」のストーリーがギュギュッ・・と詰め込まれていて、
目を閉じてこの曲を聴いているとシェークスピアのあの誇り高き戯曲の様々な名場面が浮かんでくるような感じすらあります。
特に素晴らしいのが冒頭のクラリネットをメインとする荘厳なコラールと中間部の「愛のテーマ」だと
思います。
そして特に特に中間部の「愛のテーマ」の盛り上がりとかまさに「ロマンティックが延々と続いていく・・」みたいな
香り高き抒情性が素晴らしすぎます!
そしてラストのティンバニのロールを背景にした金管を中心としたコラール風なエンディングも
「哀しい死」ではなくて「天国で二人は幸せに結ばれる・・」みたいな何か一つの「救い」が示唆されているようにも
感じられ、とっても素敵だと思います。
それと個人的な印象ですけど、前半とか後半の展開部で登場する「シンバル」の凄まじい連打に次ぐ連打のあの迫力は
圧倒されるものもあったりします。

昔なのですけど、「もしも自分が死んだら・・」と考えた際に、
「自分の葬式では、焼香とか参列者退場の際のBGMとして最適な曲はチャイコフスキーの幻想序曲・ロメオとジュリエットが
相応しいのかもしれない。
この曲には、人の出会い・愛・諍い・運命の皮肉さ・荘厳な死といった人間の一生みたいなものが
凝縮されているし、あの中間部の愛のテーマの感動性とかラストの救いみたいな感じとか
全体を貫く透明感と荘厳さは、まさに告別式の雰囲気にぴったりなのかも・・」と考えた事もあったほとです・・(笑)

チャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」は、交響曲第一番と第二番の間に作曲された
比較的初期の作品なのですけど、とても若い頃の作品とは思えない完成度は既にあると思いますし、
私自身もチャイコフスキーの作品としては大好きな曲の一つです。
なお、チャイコフスキーはこの曲以外にシェイクスピアを題材とした曲として、幻想曲「テンペスト」、
幻想的序曲「ハムレット」を作曲しています。
但しテンペストもハムレットも中々実演されない大変マイナーな作品です。
(ちなみに私自身は、チャイコフスキーで特に大好きな曲は、交響曲第5番とバレエ組曲「眠りの森の美女」です!
そして・・これは既に「響け! ユーフォニアムカテゴリ」で書いたことでもあるのですけど、
私自身がトラウマを感じてしまうチャイコフスキーの曲は、スラブ行進曲です・・・)

この幻想序曲なのですけど、シェイクスピアの原作から主に3つのテーマに絞って書かれています。

1.ローレンス修道士を表す宗教的で荘厳な序奏部
2.モンタギュー家とキュピレット家の争いを描写する第一主題
3.バルコニーのシーンに代表されるロメオとジュリエットの愛の場面を美しくまた悲しく歌う第二主題

前述の通り、1の冒頭場面のクラリネットをメインとする木管のコラールは神々しいですし、
2の激しさ・・特にシンバルの連打は大変印象的ですし、3の「愛のテーマ」の美しさ・ロマンティックは
まさに「この世のものとは思えない美しさ」があると思います。

それと・・・専門的な事を一言書くと、標題音楽でありながらソナタ形式を取っていて、
構成面でもひきしまった作品になっている点は「すごいな・・」と感心してしまいます。

この曲をCDで聴く場合、私が特に特にお勧めしたいのは、バーンスタイン指揮/ニューヨークフィルの演奏です!
この演奏はすごい・・すごすぎると思います。
(特に冒頭のクラリネットの音色はこの世のものとは思えないです・・中間部も大変美しいですし、聴き方によっては
退廃的なものすら感じさせています)

最後に・・・この曲は何度か吹奏楽コンクール・全国大会でも演奏されているのですけど、
その中では1986年の下松高校の演奏は、結果的に銅賞なのですけど、
私個人としてはこの銅賞と言う結果は少し納得いかないものがあり、
演奏が「厳しい雰囲気の中に温かい心が伝わってくる」という素敵な演奏だったと思います。
抜きんでた技術とか圧倒的なサウンドを持っている訳でもなく、印象としては普通の先生と普通の生徒たちが、
普段の練習を精一杯頑張り、手作りの音楽を普門館でも誠実に発揮したという感じなのですけど、
この「普通さ」が結果的に実に新鮮と言うのか、「音楽が誠実・実直、素直」というプラスの要素を生んだような気もします。

生演奏の管弦楽団の演奏会を聴きに行く時の醍醐味の一つは、ライブ感と共に
オーケストラの発する大音響の爽快さもあるのかな・・と感じる事もあったりします。
クラシック音楽というとどうしても世間的には「お堅い」とか「生真面目」みたいな印象を持たれがちなのですけど、
中には男気溢れる豪快な作品もあったりして、聴くだけで「日頃のストレス発散!」みたいな感じの曲も実はあったりもします。
楽譜のfffに対して、管弦楽団のメンバーが「俺も、オレも、僕も、私も、自分も・・」とバカ丸出し風に
音量だけを目標に演奏するのも確かにどんなものなのかな・・とも思う時もあるのですけど、
何か気持ちを奮い立たせたい時とか、元気になりたい時とか、自分自身に喝を入れるために
管弦楽の大音量の音楽を聴いて気分をスカッとさせるのも決して悪くはないと思います。

大音量の曲というと、お勧めしたい曲が二つほどあります。

1.組曲「惑星」よりⅠ.火星(G.ホルスト)

出たしこそややミステリアスに始まり、弦楽器の刻みに乗ってトロンボーンが不気味に
メロディーを奏でますが、ホルンの絶叫の雄叫び以降は、すさまじい大音響が待っています。
金管楽器のリズムの刻みや金管セクションのメロディーラインがまるで放送事故みたいな世界を繰り広げていき、
それに小太鼓やティンパニ奏者2名やドラのリズムセクションの暴力的響きが加わっていきますので、
これはまさに「魑魅魍魎」の世界なのかもしれません。


2.交響詩「ローマの松」~Ⅳ.アッピア街道の松(O.レスピーギ)

これは前半と後半の対比がすさまじいものがあります。
前半は、コールアングレのソロを中心に展開されていきますが、
バンダ(金管楽器の別動隊)が客席又は舞台端が加わって以降は、華麗なる音の響きを展開させていきます。
そして、大太鼓による連打以降は、全楽器がひたすら楽譜の「ffff」の頂点を極めるために爆演が続いていき、
火星以上の大音量が展開されていきます。

CDでこれらの曲の大音量・大音響を忠実に再現することは難しいものがあると思いますが、
それを具現化した奇跡のような演奏も存在します。
火星は、レヴァイン指揮のシカゴ響がお勧めです!
アッピア街道の松は、バティス指揮のロイヤルフィルが圧倒的に素晴らしい名演を聴かせてくれます。

だけど思うのですが、
結局「ff」の醍醐味は、それを際立たせる「pp」の存在があるからこそ引き立つと思うのです。
火星も、それ以降の水星と金星の静かな神秘的な響きがあるからこそ、火星と木星が引き立つわけで
アッピア街道の松も、前半の静かさがあるから後半の爆発の効果が発揮されると思うのです。

要は「対比」の大切さ
音楽は、すべてが「大音量」だけでは成り立たないし、
ppがあるからffが生きると思うのです。

それは「人の道」も同じことなのかな・・・??
楽しいだけでは駄目で、辛い事があったりするから、たとえ瞬間的であっても「楽しさ」が
引き立つという事なのかもしれないですよね。

そうですね・・・音楽のダイナミックスと言うのは決して「音量」だけではないと思うのです。
要は、静かな部分と壮大に豪快に咆哮して鳴り響く部分の「静と動の対比の落差」なのだと思います。
もう一つ一例を挙げるとストラヴィンスキーのバレエ組曲「火の鳥」もそうした傾向があると思います。
この組曲は冒頭の序奏から「王女たちのロンド」あたりまでは、とにかくミステリアスで静かで美しい音楽が
延々と展開されていくのですけど、
「魔王カスチェイの凶悪な踊り」の場面に入ると、唐突に金管セクションのとてつもない大音量と
バスドラム・ティンパニ・シンバルによる打楽器の凶暴ですさまじい「ドスン!!」という打撃音から開始され、
それまでの「王女たちのロンド」との静けさとのあまりにも違いが前述の「とてつもない「ダイナミックスレンジの落差」を
呼び込んでいるのだと思います。
あの場面は、それまでの静かで美しい音楽を耳にしてウトウトし始めた聴衆のまさに眠りを覚ます
とてつもなく激しく暴力的な音楽であり、
あの「落差」はとにかくいつあの場面が始まってもゾクゾクさせられるものがありますね!

私自身のむかしむかしの話なのですけど、5月の連休中に
サントリーホール近辺をブラブラしていたら(→何ていう所を散策しているのでしょうね・・)
「当日券あります」の札があったので、曲目を見てみたら、
サン=サーンスの「動物の謝肉祭」・「火の鳥」とか書いてあったから、思わず当日券を買って入ってしまいました。

沼尻竜典さん指揮/新星日響だったと思いますが、
会場に入ってびっくりしました・・・
この日は「こどもの日、特別演奏会」という事で、小さな子供とその親たちばかりで
30過ぎの男が一人でノコノコ入れる雰囲気は全くありませんでした。
むしろ「こっ恥ずかしい」感で一杯でしたね(苦笑・・)

幼児用の演奏会ですので、演奏中も子供のはしゃぐ声が終始止まらない感じでしたが、
それはそれで仕方ないのかも・・・
何か貴重な経験だったと思いますし、幼児のみなさん達もそうやって物心が付く前からこんなクラシック音楽に
触れる機会が持てていた事はとても素晴らしい事なのだと思います。
沼尻さんと司会者の女の人の会話が何か面白かったのは今でも覚えています。
確か「指揮者のお仕事って儲かりまっか?」「ボチボチでんな!」というなぜか関西弁トークはとても楽しかったです!

動物の謝肉祭の「カッコー」では、クラリネット奏者が
カッコーのお面を付けて、舞台脇でライトアップされた状態で吹いていたのは何か印象に残っています。

でもこの日一番「なるほど」と思ったのは上記で書いた「火の鳥」でした。

前半は子供たちも退屈そうにしていましたが、例の「魔王カスチェイの凶悪な踊り」の部分で全体の「ドスン!」という
とてつもない強烈な音が鳴り響いた瞬間に、今まではしゃいでいた子供達が急にシーーンとなり、
ビクッとのけぞっていたようになったのは、さすが「ストラヴィンスキーのインパクト!」と感じたものでした!

帰りに、他の子供たちと同様にお土産のお菓子を係りの人から配られたのは、さすがに「トホホ」という感じでしたね(苦笑・・)
ロシアの作曲家、シチェドリンを知っている人はかなりのクラシック通なのかもしれませんよね。
正直日本ではほとんど馴染みが無い作曲家だと思います。
1990年代に吹奏楽に関係した人ならば、
シチェドリンと言うと、バレエ音楽「せむしの仔馬」の吹奏楽アレンジ版で
「あー、あの人ね・・」という反応があるかもしれません。
(1990年の川口アンサンブルリベルテの「せむしの仔馬」の演奏は実に素晴らしかったですね・・・)
シチェドリンは、実は現在も生存されていますが、2000年に交響曲第3番が作曲されて以降は
あまりその名前を耳にしていませんので、
もしかしたら創作活動からは遠ざかっているのかもしれません。
確か2009年頃に奥様とのツーショット写真がUPされていましたけど、写真で見た限りはまだまだお元気そう・・という
印象がありました。
旧ソ連時代は、ブレジネフ時代から1990年頃まで、ソ連作曲家同盟の議長もされているようですので
国内では大物なのかもしれませんね。但し1990年にこの議長職は解任されているのは、政治的な背景があるのかな・・?

シチェドリンというと、
やはり「せむしの仔馬」の音楽が素敵ですね。
ロシアバレエというと、メロディー豊かで抒情性に溢れているといイメージがありますが、
「せむしの仔馬」の場合、伝統的手法と前衛さの境界スレスレみたいな感じの部分も多々あり、
聴き方によっては「悪趣味」とも受け取れない部分も確かに無くはないのですけど、
才気煥発というか、発想力豊かと言うかかなり音楽に関してはスリリングで面白いと思います。
シチェドリンには、知る人ぞ知る交響曲第2番「25の前奏曲」という曲があるのですけど、
こちらは前衛的感覚と言うか、何か聴き方によってはシェーンベルクとかウェーベルンみたいな
無調的響きが炸裂しています。
出だしの金管楽器の咆哮からして凄まじいのですけど、
何か全体的に「訳の分からん面白さ」があると思います。
方向性としては、プロコフィエフの交響曲第2番に近いものがあるのかも・・・
シチェドリンの交響曲第二番の生演奏を一度聴いてみたいですね。
実は1986年の全日本吹奏楽コンクール・東北大会にて、秋田県代表の花輪高校がなんと
この曲を自由曲として取り上げましたが、あまりの斬新さ・過激さのせいか審査員に嫌われ、
東北代表として選ばれませんでした・・・
個人的感想ですが、山形南が代表になるのだったら、よっぽど花輪を選んだ方が
絶対に良かったと未だに私は思っています。
ま、全国に出場したとしても、1983年のベルク/三つの管弦楽曲同様、あまりにも斬新・鮮烈すぎて
やはり審査員からは嫌われてしまうような評価になると予想しますが、私はあの花輪の演奏は大好きです!

何か話がそれてしまいました・・・

シチェドリンには、面白い作品があります。

ビゼーのあの有名な歌劇「カルメン」を、編曲と言う形でバレエ組曲にしたものです。
元々はバレエとしてのカルメンの舞台音楽をショスタコーヴイッチとハチャトゥーリアンという
当時のソ連の二大巨匠に依頼したものの二人のその大御所からは断られ、
仕方なく依頼者のバレエ団のプリマドンナのご主人であるシチェドリンに白羽の矢が立ったというのが作曲の経緯です。
でもハチャトゥーリアンに委嘱しても、
恐らくは民族舞踊炸裂のカルメンになってしまい、何かすさまじいミスマッチになりそうな感じは
しますけどね・・・

でもこのビゼー原作/シチェドリン編曲の「カルメン」はすごく興味深いと言うか面白い曲ですよ。
音楽の旋律はビゼーのあの有名な旋律が次から次へと出てくるのですが、印象は全く異なります。
何となく「精神病理学的な」音楽にも聴こえますし、心理ドラマのBGMのようにも聴こえます。
表現は大変悪いのですけど、曲自体どこか「病んでいる」みたいな印象すらあります。
あれ、面白い感覚だと思います。だってビゼーのあのあまりにも有名なカルメンのメロディーラインを曲の随所に
使っているのに、「あれれ・・ビゼーとは全然違う曲」みたいに感じさせてくれています。
これは「編曲」となっていますけど、シチェドリンの「創作」と言っても過言ではないとすら感じます。
ではなんで同じ素材を使用しながら、原作のビゼーと印象が全く異なるのかと言うと、この編曲版には色々と仕掛けがあり、
最大の特徴は、楽器編成にあると思います。
シチェドリンの編曲版の場合、膨大な打楽器セクションと弦楽器だけの編成で構成し、
管楽器は全て外しています。
だから感覚としては、音が生々しく感じるというか、弦のしなやかさと打楽器のむきだしの荒々しさが
ミックスされていて、最初は違和感はあるものの、慣れてくると
音がダイレクトに脳に届くという感じになります。
オルフの世俗カンタータ「カルミナ=プラーナ」には、
打楽器・二台のピアノ・合唱で構成され、弦管楽器が全て省略という版も存在するのですが
感覚としては、それに近いものがあると思います。
つまり、感情とか表現がストレートに伝わってくるというのか、
感情があらわにされて伝わってくるような印象があります。

やはり繰り返しになりますが、この曲は「編曲」というよりは、むしろビゼーの原曲をベースにした
シチェドリンのオリジナル曲と言っても過言ではないとさえ思います。

シチェドリンのカルメンの場合、出たしが非常に示唆的で、
コンサートチャイムの音で「ハバネラ」のメロディーが静かに奏でられますし、
冒頭から「あー、ビゼーの曲と思って聴いていると、とんでもない目にあうぞ」という事が象徴されていると
思います。
曲のラストも、コンサートチャイムの余韻の中、弦がpppで静かに閉じられます。
また意図は不明ですが、同じくビゼーの「アルルの女」のファランドーレの踊りが途中で乱入したり、
「アルカンの竜騎兵」の拍子が原曲の三拍子から変更になったりと
色々とやりたい放題してくれます。

あ、それとこの曲の最大の見所は打楽器奏者の持ち替えですね。
生でこの曲を聴くと分かるのですが、ティンパニーを含めて打楽器奏者は5名指定されているのですが、
多種多様な打楽器を色々と持ち替えているので、色々と大変だとは思います。
確かある奏者は、ヴィヴラフォーン・シロフォーン・小太鼓・シンバル・タンバリン・トライアングル・
ウッドブロックなどと次から次へと持ち替え、見ているだけで結構ハラハラします。

一度、現田茂夫指揮/読売日本の演奏会で
前半⇒シチェドリン版カルメン 後半⇒ビゼーの「カルメン」の演奏会形式というプログラムを
聴いたことがあるのですが、
やはり対比してみると、メロディーラインは同じなのに印象が全然異なり、
かなり面白かった印象があります。

それにしてもやはり「クラシック音楽」は奥深いものがありますし、人間の「繊細さ」には改めて感銘を受けてしまう
一つの事例なのかなぁ・・と思いますね!
既に忘れられがちなのですけど、実は当ブログは、そもそもが吹奏楽コンクールとクラシック音楽という
「音楽ブログ」みたいな事を予定していたはずなんですけど、
なぜかいつの間にか「プリキュア」と「東方Project」に溢れたブログに変貌を遂げていました・・(笑)

最近の東方語りにおいて「物部布都」について
「元ネタが石上神社の巫女さんで、山岸涼子先生の漫画の中では、あんなに儚い苦労続きの女性として
描かれていたのに、一体・・布都・・・一体あなたは東方の世界において幻想郷にやってきて以降は、
どうしてここまでポンコツ化してしまったのか・・・?」みたいな事を書いたと思うのですけど、
当ブログを本当にごく初期の頃からご覧になって頂いているほんの僅かな人たちの目からご覧になって頂くと、
「当初は音楽ブログとして始まり、結構固い音楽の事も記事にしていたこのブログが
どうしてこうなってしまったのか・・?」みたいに感じられる人もいるのかもしれないですが、
そうですね・・・・
私も物部布都の事を「このポンコツちゃんめっ・・!」と言う資格は無いのかもしれないですよね・・・(笑)

ま・・・一応うちのブログはなんだかんだ言っても「吹奏楽・クラシック音楽」は、ネタの一つとして立派な柱の一つに
なっていますし、クラシック音楽カテゴリもなんだかんだ言いながらも350本近く記事にしていますので、
今後もこのカテゴリは細々ではありますけど、書き続けていきたいと思います。

それと、うちのブログのクラシック音楽記事は、アーノルドとかウィリアム・シューマンとかアルヴェーンとか
かなりマイナーな作曲家の事ばっかり書いている傾向もなくは無いのですけど、
今回ばかりはたまーには「誰かは知っている・・」みたいなある程度の知名度&人気度がある曲を一つ
ごく簡単に取り上げさせて頂きたいと思います。


マーラーの交響曲第5番第四楽章「アダージェット」ですけど、この交響曲全体は聴いたことが無くても
第四楽章の認知度というのか「あれ・・? この曲どこかで聴いたことがある・・」という方は案外多いのかも
しれません。
この楽章は映画とかテレビのCMでも結構使用されている頻度は高いと思います。
一番有名な事例では、ビスコンティ監督の映画「ベニスに死す」だと思いますし、最近でもないけど、
JR東日本の東京駅改装のCMのBGMでもかなり効果的に使用されていました。

このアダージェットは本当に不思議な空間です。

聴いていて「儚い・・」とか「美しい・・」とか「耽美的なんだけどとにかく美的限界に達するほど美しい・・」みたいな
印象しかないです!
とにかくあの耽美的でこれほどまでに耳に優しい音楽は「他に無いんじゃないのかな・・?」とすら
感じてしまいます。
クラシック音楽でスケベ的要素満載の官能的な音楽は、私が知る限りにおいては、
R.シュトラウスの楽劇「サロメ」~七つのヴェールの踊りというサロメが着ているものを一枚一枚脱いでいく
あのドスケベ要素満載の曲だとも思うのですけど、
マーラーの「アダージェット」ほど聴いていて「儚い・・」とか「耽美的・・」という言葉しか出てこない音楽は無いとすら
思っています。

マーラーの交響曲第5番なのですけど、この第四楽章「アダージェット」は、
第一~三楽章と歓喜に包まれる第五楽章の間に挟まれた楽章なのですが、
単にそれまでの楽章の「激しさ」と第五楽章・ロンド=フィナーレのあの歓喜を繋ぐ「架け橋」とか「つなぎ役」という
役割に留まらない、独特の「安らぎ」という雰囲気を持った不思議な楽章です。
この第四楽章・アダージェットは、使用される楽器は弦楽器とハープだけですので、それまでの楽章で疲弊した管楽器を
休ませる意図もあるのかもしれないですね。

生の演奏会でもこの交響曲は何度か聴きました。
孤独な第一楽章、一瞬の勝利をつかんだものの、静かに終わる第二楽章、
次から次へと難題がふりかかり、綱渡りというのかまさに「薄氷を踏む思い」に満ちていそうな第三楽章を経ての
この第四楽章なのですけど、一番最初聴いた頃は、動と動の楽章の間に、
突然癒し系の音楽が乱入するような印象が私の中では拭い去る事が出来ずにいて、
正直作曲者の意図があまりよく分かりませんでした。
そうですね・・・率直な印象としては、他人の家にいきなりどかどかと上り込むような違和感みたいなものがあったと
思います。
だけど、例えばCD等であの第四楽章・アダージェットの部分だけを単独で聴いている内に
曲としてのあまりにも完成度が高いあの不思議な透明感・耽美感に感銘をし、このアダージェット自体が
「一つの完成された曲」という認識としてこの交響曲全体を見渡すと、
アダージェットが実は第五楽章の壮大な前奏曲なのではないのか・・?みたいな解釈も成り立ち、この解釈の上で
この交響曲第5番を聴いてみると改めて「なるほど・・」と感じるようにはなったと思います。

私個人の印象として、このアダージェットは、
生きている一人の人間が、過去を回顧し、現在においては既に逝去して彼岸の彼方の人たちを静かに振り返り、
語りかけているようなシーン、死者たちと生者の静かな晩餐会のような感覚もあったりします。
生きている人間が死者の幻影に対して
「あの時はこんな事があったよね・・」と時に恨みつらみで語りかけ、時に「あの時はこんな楽しい瞬間があったよね・・」と
優しい眼差しで語りかけているような印象があったりもします。

このアダージェットは、指揮者によって本当に解釈に差が出ますよね。

マーラーの愛弟子のワルターみたいにさくさくと速いテンポで進展させ、8分程度で曲を終わらせる解釈も
あるかと思えば、ハイティンクのように14分も時間を掛けて異常にテンポの遅い解釈を取っている方もいらっしゃり、
多様な解釈があると思います。
ちなみにですけど、私個人はワルターではなくてハイティンクみたいなゆったりと遅いテンポの方が大好きです!

この曲の作曲当時マーラーは、確か新婚ホヤホヤだったと思いますが、
第一楽章をいきなり不吉極まりない葬送行進曲で開始するあたりは、「一体なにを考えているの・・?」みたいな
印象がありますね・・・(笑)
この第一楽章の葬送行進曲のテーマは、前作の交響曲第4番「大いなる喜びへの賛歌」の
第一楽章でも使用されているのは面白いと思います。
ああした穏やかで「天国の生活」をイメージさせた交響曲第4番においても、
「実は、天国にも悪魔はいるのだよ」という事を描きたかったのかもしれませんよね。

最後に・・上記でマーラー解釈の多様性についてですけど、一つ極端な例があったりもします。

シェルヘン指揮・フランス国立放送響のマーラー/交響曲第5番なのですけど、
これは、カットとか珍解釈を語る上では避けられない、ある意味凄い演奏です・・・
マーラーの5番は、第三楽章が全五楽章の中で18分程度と一番長いのですけど、
なんとシェルヘンは、この楽章を5分程度にウルトラ強引なカットをしています。
つまり正味13分程度丸々カットしたことになります。
これって一体どんな意図や解釈があったのでしょう・・謎です。
この演奏は実はライブ録音だと思うのですが、
第三楽章で、奏者がカットのためだと思うのですが、慌てて譜面をめくる音らしきものまで
しっかりと収録されています。
そして面白いのが、演奏終了後は、ブラボーコールとブーイングがほぼ同時に沸き起こり、
「なるほどね・・・」と思ったりもします。 
「響け! ユーフォニアム(第二期)」第1話の中の挿入曲として使われたのが、
チャイコフスキーの交響曲第4番終楽章とボロディンの歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊りでしたけど、
改めてこの「ダッタン人の踊り」を聴いてみると、あのオーボエとコールアングレによる哀愁溢れるメロディーは
本当に胸にジ――ンと染み込んできますし、あの音楽を聴くだけでとつもなくせつなくて哀しくて、何かとっても
うっとりとさせられる気分になったりもします。
あれはまさに「名メロディー」の極限だと思います。

ボロディンの歌劇「イーゴリ公」なのですけど、ごく簡潔にあらすじを書くと、
イーゴリ公は、領土であるルーシの町へのダッタン人の侵攻を防ぎ、領民たちを防御するために、
先手を打つ形で、敵地に向けて遠征を開始しますが、結果的に戦闘にも負け、自らも囚われの身になってしまいます。
その後何とか脱出を図る事に成功し、故国に戻り、民からの大歓声を受けるという形で歌劇としての
幕が下ろされます。
前述のオーボエ&コールアングレの哀愁溢れるソロというのは、イーゴリ公の故国を思っての寂しさと自らのふがいなさを
嘆いた歌の部分で、ティンバニのソロで開始される勇猛果敢な部分は、
敵の将軍が落ち込むイーゴリ公を慰めようと、部下に命じ、ダッタン人の民族舞踊をお披露目させる場面です。
後半にかけてのイーゴリ公の敵地脱出を示唆する部分の音楽も、スピード感と迫力があり
大変申し分ない躍動感があります。

でもやっぱり「ダッタン人の踊り」は、あのオーボエとコールアングレのあの哀愁溢れるソロの部分に
尽きると思います!!
あのメロディーを創造したボロディンは、本当に素晴らしい仕事を後世に残してくれたと思います!
あの不思議な哀愁溢れるメロディーは、間違いなく人の心を打つ「何か」を秘めていると思います。
普段日常的にクラシック音楽を聴かない方であっても、あのメロディーラインは是非一度は聴いて頂きたいものがあります!
まさに「これぞ名曲!!」というオーラに溢れていると思います。

この歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊りは、高校に入学して間もない頃に、当時の吹奏楽部の上級生が
定期演奏会で演奏する曲目の一つでもありまして、この時がこの「ダッタン人の踊り」を知るきっかけに
なったものでした。
吹奏楽アレンジ版ではなくて、管弦楽版として初めて聴いたレコードは、
オーマンディー指揮/フィラデルフィア管弦楽団の演奏でした。
この「ダッタンの踊り」ですけど、あまりにも有名な通俗名曲のせいか、意外と生の演奏会では
耳にする機会が少なかったようにも思えます。
この曲は、「クラシック音楽入門編」としてはまさにうってつけの曲だと思いますし、
前半のオーボエとコールアングレのソロの哀愁溢れるメロディーライン、クラリネットソロ以降の民族舞曲みたいな雰囲気とか
踊りの激しさなどどれをとっても「名曲」の名に相応しい曲だと思います。
私の記憶としては、この曲は、外山雄三指揮/日本フィルとスヴェトラーノフ指揮/N響くらいしか生で聴いた記憶は
ないのですね、例えば、「親子連れファミリーコンサート」みたいな初心者用演奏会で取り上げたら
小さいお子さんなんかにも案外とウケはいいんじゃないのかな・・?と思いますね。

私自身が吹奏楽コンクールでこの「ダッタン人の踊り」を初めて生で聴いたのは、
1984年の全日本吹奏楽コンクール・全国大会で嘉穂高校の自由曲だと思います。
あの演奏は、正直演奏の出来は芳しくないですけど、やっぱりあのオーボエのはかなく哀愁漂うあのメロディーラインは
何か胸を打たれるものがありましたし、演奏は下手なんだけど、何かじーーんとこみあげるものがありました。

これまで当ブログで何度も書いた通り、私自身は、高校に入学した際は、中学の吹奏楽部時代のトラウマから
「音楽大嫌い! 吹奏楽はもっと大嫌い!!」という感じだったのですけど、
前出の通り、高校入学時に当時の吹奏楽部が練習していた曲の一つが、実はこの「ダッタン人の踊り」でして、
音楽室から流れてきたあの「ダッタン人の踊り」の例の哀愁溢れるメロディーについつい心が動き、
オーボエのソロの美しさとか全体的に武骨なんだけどとてつもない躍動感に何か魅了され、
入学当時は「高校に入ったら絶対に運動部に入る! 吹奏楽だけは絶対に御免こうむりたい!!」と固く決意していたはずでしたが、
「うーーん、吹奏楽部に入ってもいいんじゃないの・・?」とすこーーし気持ちが揺らいでいた時に、
新入生に対する「部活紹介」での吹奏楽部の
「うちの部には、音楽を指揮する先生はいない・・・・生徒の中から指揮者を選出し、自主的に音楽を
創り出していくスタイル」という説明に何か興味を惹かれ
ついつい・・・・・「練習見学会」に顔を出したのが、私が高校でも「吹奏楽部」に入部するきっかけになったものでした。

そうですね・・・だから、この「ダッタン人の踊り」に私自身が魅力を感じていなかったら、
もしも、高校入学当初に音楽室からあの曲が流れていなかったら、
私の吹奏楽部生活は本当に中学校だけで終わっていたのかもしれないですね・・・(笑)

吹奏楽コンクールでの「ダッタン人の踊り」は、全国大会でも何度も演奏されています。
私のようなオールド吹奏楽ファンの皆様ですと、歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊りというと、真っ先に名前が
出てくるのは、1983年の明石北高校じゃないのかな・・・?
明石北のあの「ダッタン人の踊り」は、これぞまさしく歴史的名演!!だと思います。
演奏のどこにも「弱み」がありませんし、フルート・オーボエ・コールアングレ・クラリネット等のソロもほぼ完璧で、
何よりもあのしっとりとした「情緒」は、本当に聴く者に「感涙」を与えさせてしまうほどの
とにかく「感動性」に溢れた素晴らしい名演だったと思います。

前述の通り、私自身の高校1年の定期演奏会で演奏した曲の一つがこの「ダッタン人の踊り」でして、
とにかくこの曲は技術的に大変難しかったですし、まさに「クラリネット奏者泣かせ」の曲だったと思います。
とにかく指揮者から連日怒られまくり、
打楽器は「なんでそんなに無神経にぶっ叩くんだ!お前らはどっかの応援団か!」とか
トランペットは「その高音の破裂音何とかしろ!」とか
低音セクションは「音楽の土台がそうやって不安定だから全体が不安定になるんだ」とか色々怒られまくりでしたけど、
クラリネットは・・・男子校ゆえ、致命的な奏者不足という事情もありましたけど、毎日のように
「論外!!」ととにかくバッサリ斬られまくりでした・・・
クラリネットの上級生なんか、結構遅い時間帯でも体育館とか教室で必死の形相で練習しまくっていた光景は
今でも忘れられないですね・・

最後に余談ですけど、
クラシック音楽には「裏名曲」というものもあると思います。知名度的には今一つなのだけど、「隠れた名曲」というか、
知る人ぞ知る名曲と言うのも意外とあるんじゃないのかな・・とも思えます。
「ダッタン人の踊り」でお馴染みのこのボロディンには、実は「交響曲第二番」という知る人ぞ知る素敵な名曲が
あったりもします。
そんなに派手な曲ではありませんし、内容的には地味な曲だと思いますが、
タイトルに「大地」と名付けたくなるほど、ロシアの広大な大地に根差す人々の息吹とか
自然の営みとか大地の恵みとか、そうしたものを何か意識したくなるような曲だと思います。
どちらかというと無骨な曲であり、構成とか技巧的に優れている曲ではないので
決して印象度が強い曲ではありません。
だけどこの曲を聴くと不思議に何か「自然への感謝」とか「大地への感謝」とかそうした言葉が自然に出てくるのです。
何か不思議と愛着のある曲です。

特に第三楽章のクラリネットの素朴なソロとそれに続くホルンののどかなソロがそれを象徴していると思います。
この第三楽章だけでも、この交響曲を聴く価値があると思える位、この曲の自然な雄大さが伝わってきます。
第四楽章に入ると、それまでの楽章の打楽器はティンパニだけでしたが、それに
シンバル・タンバリン・トライアングルが入ってきて、色彩的効果をもたらします。
この第四楽章は、大地に生きる人達の素朴な祭りとか踊りとかそうしたものが何か感じられます。
途中のトロンボーンによる威圧的なコラールも聴きどころの一つです。

だけど、この曲ほとんど生で聴けないのですよね。
日本の管弦楽団でこの曲を演奏した事は一度も聴いた事はありません。
1997年11月に国際フォーラムで、フェドセーエフ指揮/モスクワ放送響の演奏が
私がこれまで生で聴いた唯一の演奏です。
だけど、国際フォーラムのホールCは、正直音響が最悪に近く、とても音楽会を開催する場所ではないと
思いますので、その意味では少々勿体ない気もしました・・・
前半がこのボロディンの二番、後半がショスタコの五番という重量級プログラムでしたけど、
残響音が全くないホールでの演奏は、正直「今一つ・・・」という感想でした。

ボロディンには実は交響曲第三番というのもあります。
だけど、これは生前ほぼ未完成状態と言うか、わずかにスケッチが残されル程度で、生前ピアノで
この曲のピアノ版をボロディンが弾いているのを聴きとめたグラズノフが、その時の記憶を頼りに
第一楽章を仕上げ、別の小品を編曲して第二楽章に充てたという事なので、実質的には
グラズノフ作曲と言えるのかもしれませんね。
10月の中旬という事で、季節は夏の暑さ・残暑をとっくの昔に通り越してすっかり秋に入ってしまいました。

今年の「夏の暑さ」は結果的にそれほど大したことは無かったと思いますし、むしろ昨年に比べると
「まだましだった・・」みたいな印象が強いのですけど、それよりも他のカテゴリで散々既に書いてはいるのですけど
8月下旬から9月の異常な「長雨」には公私・・特に仕事上においては、本当に困らせられてばかりでした・・・

さてさて、そんな訳で少し「季節外れ」みたいな感じになってしまいますけど、
既に終わってしまった「今年の夏の思い出はいかが・・?」みたいなイメージで、
アルヴェーンというスウェーデンの作曲家のスウェーデン狂詩曲「夏の徹夜祭」という曲を簡単に取り上げさせて
頂きたいと思います。
(余談ですけど、「なつのてつやさい」と入力するとワードでは「夏の鉄野菜」となってしまいます・・・苦笑・・)

日本では、スウェーデンの作曲家、アルヴェーンの知名度は「知る人ぞ知る」という扱いなのかな・・?
5曲書かれた交響曲も再評価の声もあるみたいですけど、ごめんなさい・・この方の交響曲は一つも聴いたことがないです・・
アルヴェーンは、どちらかというと作曲家というよりは指揮者としては著名だったようですね。
ちなみにアルヴェーンは、没年は1960年ですので、どちらかというと「最近まで生きられていたクラシック音楽の先生」
みたいな印象もありますね。

そんな中、日本においてはアルヴェーンというと唯一演奏されるのが「夏の徹夜祭」という曲だと思います。
ま・・だけど滅多に演奏されない曲ですね・・・
吹奏楽コンクールでも、吹奏楽アレンジされて自由曲で演奏された事例は私も聞いたことは無いです。
私自身もこの曲は、東京交響楽団のサマーコンサートでしか聴いたことがないですね・・

正式名称をスウェーデン狂詩曲第一番「夏至の徹夜祭」というこの曲は、曲自体は大変親しみやすく軽妙で
聴いていてとても愛くるしさも感じる洒落た粋な曲だと思います。
北欧の短い夏を「思いっきり楽しんでみよう!」みたいなおおらかさがあるのが素敵ですね!
冒頭のクラリネットがとってもいい味を出していると思います。

冒頭の弦楽器のピッチカートによるバレエ音楽風のリズムに乗って、
クラリネットなどの木管楽器によって奏でられる音楽がまさに「短い夏のお祭り」の始まりと言えるのかも
しれないですね。
そして後述しますけど、あの冒頭のクラリネットのメロディーラインが、日本においては某国営放送のとある番組のテーマ曲に
よく似ていて、その曲は「のだめカンタービレ」でも登場していました・・(笑)
スウェーデンでは、夏至祭のころが1年で最も気候のよい時期でもありますので、まさに、人々の夏を待ちかねた気分が
生き生きと描かれている大変素敵な導入部だと思います。
中間部では一転、北欧特有の白夜の情景となり、コールアングレが奏でる哀愁を帯びたメロディーが
とてつもなく印象的です。あのコールアングレには何かうっとりとさせられるものが間違いなくあると思います。
後半からラストは、若者たちの踊りみたいな印象となり、音楽が高揚としていき、盛り上がった気分のまま
楽しく曲は閉じられます。
演奏時間は12分前後かな・・? この曲をCDで聴く場合、ネーメ=ヤルヴィ(パーヴォ=ヤルヴィの父親でもあります)指揮の
ストックホルム・フィルハーモニー交響楽団がお勧めです。
この演奏の音源は、BISレーベルというあの・・真っ黒い色のデザインでお馴染みの盤です。

だけど、この曲の冒頭のクラリネットで奏でられるあのほのぼのとしたメロディーって
このアルヴェーンの「夏の徹夜祭」という曲を一度も聴いたことが無い方でも、多分ですけど、
「あれれ・・この曲どこかで聴いたことがあるのかも・・!?」と間違いなく思われるかもしれません。
と言うのも、あの冒頭部分を聴くと、NHKの「今日の料理」のテーマ曲(→マリンバで奏でられるあの曲です・・)に
似ているというか・・部分的には「なんかそっくりじゃん・・!」と思わせる部分も間違いなくあると思います・・(笑)
NHKの「今日の料理」のテーマ曲の作曲者は、最近ご逝去されたあのシンセサイザーの富田勲氏なのですけど、
まさか・・・富田大先生がパクってしまう訳は・・ないですよね・・(笑)
あれは・・・・たまたま・・というか、何かの偶然なんでしょうね・・(笑)

大変古い話になってしまいますけど、
以前「のだめカンタービレ」という漫画・アニメにおいては大変珍しいクラシックをテーマにした作品がありましたが、
その中で、なぜかこの「きょうの料理」のあのテーマ音楽が登場する場面もあったりしました!

それは、「のだめカンタービレ」第10話 におけるコンクール本選のシーンで登場します。

憧れの千秋先輩が指揮者としてどんどん進化・成長を遂げている中、「自分だけ蚊帳の外・・」とあせるのだめが
マラドーナピアノコンクールに出る決意をし、そのコンクールで演奏した曲が
ストラヴィンスキーの大変な難曲、「ペトルーシュカからの三章」だったのですけど、この曲の演奏中に
なぜか・・・!!
のだめの頭の中になぜか「きょうの料理」のテーマがなだれ込んでしまったのです!
のだめがストラヴィンスキーの「ペトルーシュカからの3章」を弾いていると、
「きょうの料理」のテーマが混ざってしまい、まさに演奏は収拾不能のごちゃ混ぜ状態になってしまいます!
原作的には、ペトルーシュカときょうの料理がごちゃまぜになって、
ピアノを弾いているというよりは、テキトーに即興で作曲してしまっているのがオチみたいな感じになっていましたけど、
きょうのの料理のテーマをそのまんまペトルーシュカ風のタッチで演奏していたという感じになっていたのが
なんともポンコツ野生児ののだめらしいエピソードでもありました。



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そうですね・・あれは、アルヴェーンの「夏の徹夜祭」という原曲に似た感じの「きょうの料理」のテーマを
のだめがストラヴィンスキーの「ペトルーシュカからの三章」とごちゃ混ぜしてしまった!とも
言えるのかもしれないですね・・・(笑)
ま・・・ストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」自体、ロシアの民謡を結構無許可状態で(?)
自作のバレエに強引に引用した曲でもありますので、
少しぐらいパクってもバチは当たらないかもですよね・・・(苦笑・・)

ハリセン先生の家に泊まりこんで特訓を重ねるのだめですが、
一次予選・二次予選・三次予選と順調に進み、いよいよ本選にまで進んでいきます。
しかし前日に過労のため倒れてしまい、練習が足らずに暗譜し損なって
本選会場に向かう電車の中でうっかり耳にした「きょうの料理」のテーマソングが(乗客の携帯の着メロがきょうの料理でした・・)
頭に残ってしまい、本番の演奏の途中から、ペトルーシュカに「きょうの料理」がまさに
乱入してきた!という事になってしまったのでした・・・

確か、記憶ではこの原作漫画とアニメ版では、結構違いがあったような記憶があります・・・

最後に話を「夏の徹夜祭」に戻しますと、
こののだめのエピソードに象徴されるように、なんか「くすっ・・」みたいな雰囲気もあったりしますし、
「北欧の短い夏を精一杯楽しもう!!」という雰囲気はよく伝わってきますし、
ほのぼのした曲だな・・・とも感じてしまいますね・・・(笑)
深井史郎の「パロディー的四楽章」は正直知る人ぞ知る曲です。
数年前に、ナクソスレーベルから「深井史郎作品集」のCDがリリースされ、
この曲が少しだけ陽の目を見ることになったのは大変嬉しいものがあります。
(確か以前は山岡重信指揮/読売日本しか音源がなかっただけにとっても資料しても価値があると思います!)

改めてこの「パロディー的四楽章」を聴いてみると、「すごい!」としか言いようがないです!
とてもとても・・1930年代の帝国主義・軍国主義が蔓延し、委縮気味で自由の空気が薄い世相の中で、
こうした才気煥発で、音楽が自由自在で、知的好奇心に溢れ、モダンな曲が作られていたことに
驚きを感じずにはいられません!
この曲を現在の感覚で聴いても、全く違和感がないほど、
モダン感覚溢れる「斬新さ」を感じ取ります。
全体的にピアノを非常に効果的に使用しているのが極めて印象的です。

この曲は、作曲者の言葉を借りると、
「外国の作品の影響が及ぶことを恐れて、外国の優れた作品を学ぼうとしない者達への
風刺と警告を兼ねた作品」との事ですが、
確かに、この言葉通り、曲の至る所に、当時の諸外国の大御所の作品の断片が引用されたり、
曲のモチーフから発展させたりしています。

この曲は四楽章から構成され、

第一楽章 ファリア

第二楽章 ストラヴィンスキー

第三楽章 ラヴェル

第四楽章 ルーセル

と名付けられ、各楽章でタイトルの作曲者の作品が引用されたり、モチーフとして使用されています。
元々この曲は当初は五楽章構成として構成され、
二楽章と三楽章の間に、マリピエロという楽章があったのとことですが、
結局削除されました。

この曲は第二楽章と第四楽章が圧倒的に面白いです。
(正直、第三楽章は少々だるい・・・)
第二楽章・ストラヴィンスキーは、最初に聴いた時は、
春の祭典と幻想曲「花火」をパロディーにしたのかなと思っていたら、
春の祭典は正解だったものの他には第二組曲が使用されているとの事でした。

第四楽章は、さらに面白くなり、
タイトルは「ルーセル」となっていますが、実際にパロディーとしてのモチーフとして使用したのは、
バルトークの「舞踏組曲」です。
だけど、舞踏組曲のどの部分をパロディーにしたかは、正直今でも自分には分かりません・・・
それにしても、バルトークの曲をパクったくせに、タイトルがどうして「ルーセル」に転化したのでしようかね??
うーーん、思いっきり謎です!! (笑)
それもこの曲の一つの持ち味というか、茶目っ気なのでしようね。

この第四楽章は、ルーセルの曲を何一つモチーフにしてもいないのに、タイトル名だけルーセルの名を使用し、
バルトークの「舞踏組曲」をモチーフにしたと作曲者は言っているのですが、
実はこの楽章において、真の主題は、実は日本の「さくら、さくら」という曲なのです。
中間部の前において盛り上がる部分とか、ラスト近くでは、この「さくら、さくら」のメロディーは
かなり執拗に引用されていて、
思いっきり日本の曲をパロディ化しています。
そうですね・・この曲の真意は、もしかして・・
「外国の作品の勉強をして、影響を受けても構わないけど、
最終的には、あなた達自身の故郷の日本の事も忘れては駄目だよ」みたいなメッセージを
後世に作曲家の人達に伝えたかったんじゃないのかな・・?とふと思ったりもします。

それにしても本当に面白い曲です。

私がこの曲を知るきっかけとなったのが、
1982年の全日本吹奏楽コンクール・東北大会において、秋田南高校がこの第四楽章を演奏した事でした。
勿論吹奏楽アレンジバージョンですし、原曲で大活躍するピアノの代わりに
シロフォーン・ヴィヴラフォーン・マリンバといった鍵盤打楽器を大胆に使用し、
途中で、チャイニース風の音楽を展開するような才気煥発里自由さも見せてくれました。
そうですね! こうした天野正道のアレンジこそが深井史郎が求めていた「風刺と警告」をきちんと受け止めた一つの結果と
言えるのかもしれないですね。
この演奏は、ブレーン社から出ている
「レジェンダリーシリーズ・秋田南高校編」の中に収録されています。

秋田南の「パロディ的四楽章」の演奏は、金管楽器、特にトランペットセクションの硬質な音の響きが
個人的には引っかかるものがありますが、
それを埋めて帳消しにするほどの「知的さ」というのか
「練りに練られた音楽の巧みな構成感」は感じられます。
演奏が「知的好奇心の塊り」というのか「才気煥発」みたいな雰囲気濃厚の演奏だったと思います。
全体的には、秋田南の演奏は端正なつくりで堅実なのですけど、
何か妙に明るい感じもあったりします。
「明るい」というよりは「屈折した明るさ」なのかな・・・
何か素直になれない明るさというのか、開き直った明るさというのか
そんなものも何か感じ取ってしまいます。
このヘンな明るさは、やはり原曲のすこーし(?)ヘンなところに由来するものなのかも
しれませんよね。
私自身、武満徹氏の作品は正直苦手・・・・
感想を聞かれてても、「よく分からない・・」としか言いようがないです。
邦人現代音楽は、矢代秋雄・三善晃・松村禎三・黛敏郎・吉松隆の音楽は
自分にとっては大変共感度が高いのですけど、
「ノヴェンバーステップ」・「弦楽のためのレクイエム」など武光さんとしては比較的メジャーな作品も
自分にとっては「よくわからない・・・??」という感じです。

だけど武満徹の音楽で唯一共感できた作品が
「系図(Family Tree)~若い人たちのための音楽詩」です。
この曲は、管弦楽団と10~15歳程度の「少女」が語る事を前提とした朗読者から
構成されています。
曲の最後で、アコーディオンも入り、その牧歌的というか素朴な音色が実にいい味を出していると思います。

この曲は、そうですね・・曲そのものに惹かれたというよりは
朗読のテキストとなっている谷川俊太郎さんが書かれた「詩」に惹かれたという側面の方が強いと思います。

この曲は、ニューヨークフィルハーモニー創立150周年記念委嘱作品として作曲され、
その後日本でも、岩城宏之/N響とか小沢征爾/サイトウキネンとかデュトワ指揮/N響など
多くのオケが演奏し、現在でもたまにどこかのオケが演奏しているようです。
谷川俊太郎の「はだか」という詩集から
6編の詩をチョイスし、15歳前後の少女の視点から捉えた「家族」というものを
少女の一人称という形で管弦楽団をバックに朗読がされていく・・・
そんな曲がこの「系図」なのです・・・・
私自身は、この曲は生で聴いたことは一度もありませんけど、
確か1999年頃だったかな・・・・
当時教育テレビで放映されていた「N響アワー」を何気なく見ていると
この曲が、デュトワ指揮のもと演奏されていて、
曲自体というよりもその「詩」の世界に何となく興味が惹かれた事がきっかけでした。

で、その「詩」の中身なのですけど、
原文は全てひらがなで書かれていて、難しい内容ではないのですけど、
実はその中身が結構えぐい・・・・
これって実際の所、「家庭崩壊」を描いた作品なのではないかとさえ思ったものでした・・・
というか、まさに谷川さんや武満さんの意図もそんな感じらしく
「家族と言うものは、ある種の危険性を秘めていて、本来は外に向かって開かれるべき力が
内へ籠り閉ざされ、排他的になってしまい、それがひいては人種差別や国家主義に結びついて
しまう傾向がある。」
「人間社会の核となるべき家族の中から、外部世界と自由に対話する事が可能な
芯の自己というものの存在を考えてもらいたかった」
という事を演奏会のプログラムノートで述べているようです。

でも実際この「詩」の世界は実に危うい・・・・
「家族は美しい!」みたいな世界観ではなくて、
家族を構成する一人一人の「不安感」みたいなものを抉り出しているような感じも漂います。
(少なくとも自分自身はこの詩からそのように感じとります・・・)
不安を秘めた音楽と共に、詩が淡々と朗読されていきます・・・
お爺ちゃんの優しさや死の恐怖、不条理、家族の不和、焦燥、孤独、不安、夢などが
淡々と少女の視点から描かれています。
あの「詩」の中身では、この少女の母親は、「失踪」したという事になるのかもしれませんけど、別に後日談が
語られている訳ではないので、その辺りは正直よく分かりません。
なんか見方によっては、アル中気味の母親が育児放棄の上、何もかもが嫌になり別の世界へと
旅立っていった・・・そんな風にも解釈ができるのかも知れません。




系図




この曲の日本での初演と前述のデュトワ指揮の際に、詩の朗読を担当したのは
現在ではすっかり「スキャンダル女優」というか「毒母との確執」・「芸能界史上最短離婚記録」等で
お馴染みの遠野凪子(現、遠野なぎ子)です・・・・

デュトワの指揮による演奏会で遠野さんは、
どこかうつろで虚空を見つめるように語っていて、あどけないのだけど
何か言葉では語り尽くされないような「何か」を秘めているような雰囲気も感じられ、
何か妙に印象に残ったものでした。
当時の遠野さんは、NHK朝の連続ドラマ「すずらん」のヒロインを射止め
その後も色々なドラマ・映画に出演された才能ある女優さんだったのですけど、
後年明らかになった事によると
子役の時から、学校での壮絶ないじめに遭ったり、
遠野さんを生んだ実母との折り合いが大変悪く、
母親からは、「あんたが生まれてこなければ・・・」みたいなひどい言葉の暴力を日常的に
受け続けていたとの事です。
1999年のN響との共演の中では、既に遠野さんは母親との間に様々な問題を抱えていて、「確執」が
続いていた状態、
だけど、仕事の一つとして舞い込んできたのは、このような「家族」をテーマにした朗読・・・
遠野さん自身がこの時、果たしてどんな心境であったのか・・・・
舞台で「おかあさん・・おかあさん・・」とつぶやくように朗読しながらも、果たして彼女自身は
何を感じていたのか・・・・
その辺りはワイドショー的意味ではなくて、「心の深層」という事でなんか妙に引っかかったりもします。

「Family Tree」の第5曲「おかあさん」の詩を一部抜粋すると・・・・

ひるまがっこうからかえってきたら、
かれーつくりながらびーるのんでいた・・・

そこからおかあさんはでかけた
いまどこにいるの
おかあさん
もうでんしゃにのっているの
まだどこかあかるいところにいるの
だれとはなしをしているの
わたしともはなしをしてほしい
かえってきてほしいいますぐ
ないてもいいからおこっててもいいから

当時15歳前後の遠野さんがこの朗読時に何を感じ取っていたのかは本人以外分かりませんけど、
何かこの「意味深な詩」から遠野さん自身も
何かを感じ取っていたのでしょうか・・・・??
実は、当時のデュトワ指揮/遠野さん朗読のこの曲を録画したものは、いまだに捨てないで保管してあるのですけど、
表情は、「夢見る少女」では少なくともありませんね・・・・
ホント、「心ここにあらず」ではないけど、視点が宙を彷徨っているようにも
見えてしまいます・・・・

「Family Tree」を朗読した女の子が
当時から母親との確執を抱え、それから15年後ぐらいに
母親を告発する本を出版する事になったのですけど、
何か「無常」というのか「人生の皮肉」みたいなものをエピソードとして感じてしまいますね・・・・

だけどこの「系図~Family Tree」の第六曲「とおく」は最後の最後で「救い」があります・・・・

この「とおく」を抜粋すると・・・・

しらないうちにわたしはおばあさんになるのかしら
きょうのこともわすれてしまって
おちゃをのんでいるのかしら
ここよりももっととおいところで
そのとき、たったひとりでいいからすきなひとがいるといいな
そのひとはもうしんでてもいいから
どうしてもわすれられないおもいてがあるといいな
どこからかうみのにおいがしてくる
でもわたしはきっとうみよりももっととおくへいける。

何かとても意味深ですね・・・・
「たったひとりでいいから好きな人がいるといいな・・・どうしても忘れられない思い出があるといいな・・・」とは
何か色々と解釈の余地はありそうですけど、
当時の朗読者の遠野さんにとってもそれは同じ思いのはず・・・・
そして、同時になのですけど、男性の視点で見てみると「女の子というものはちょっと怖いものかな・・」とも
感じてしまう詩の世界だとも思いますね。
その女の子が「憧れ」の対象にしているのは、「今目の前で生きている人」ではなくて
彼女自身の「過去の遠い記憶」というものは、
人は・・・特に女の子なんかは「思い出だけでも生きていける・・」みたいなことを示唆しているのかな・・・??

生きる事は大変・・・・
家族を持つことはもっと大変・・・
そうした気持ちを抱えながら、私自身も、皆さま自身も、そして遠野さん自身も
これからずっと・・・死ぬまで歩き続けなくてはいけない・・・・
そういう事なんじゃないのかな・・・?

それが「人生」というもの・・・・
チェコの作曲家ヤナーチェクは
狂詩曲「タラス・ブーリバ」とか「シンフォニエッタ」等でお馴染みの作曲家だと思いますが、
最近では歌劇の分野の作品の再評価が進み
例えば「イェヌーファ」とか「利口な女狐の物語」などはかなり高い評価を受けるようになり
日本でも東京交響楽団が
「利口な女狐の物語」を演奏会形式として定期演奏会で演奏をしています。

吹奏楽経験者ならば、ヤナーチェクというと「シンフォニエッタ」がやはり一番の定番なのかな・・・

だけどヤナーチェクの作品の中には
かなり面白いものもいくつかあったりするのですけど
その最たるものが、歌曲集「消えた男の日記」なのかな・・・

一般的にクラシック音楽の「歌曲集」というと
ピアノ伴奏にソプラノ1名またはテノール1名と言うのが
一つのパターンになっているのですけど
この連作歌曲集の場合、テノール・ソプラノ・女声混成合唱にピアノという変成スタイルを取っているのが
極めて異例だと思います。

ま、この歌曲集の内容もかなりある意味アブノーマルでして、
当時、交際と接触自体がタブーの対象だった「ジプシー女」にある農村の朴訥で素朴で真面目な農夫の青年が
たぶらかされて誘惑されてしまい、
結局はそのジプシー女に凋落され
故郷の村を捨てて、そのジプシー女と駆け落ちし放浪の旅に出てしまい、
故郷から姿を消してしまったその真面目な農夫の青年が村に残した日記を
題材にしています。
だからこの「日記」はあくまで村にいるまでの間の心の葛藤の記録であり
村を去ってからの記録はではありません。
あ・・・ちなみにその「日記」と言うのは、事実に基づいてはおりませんのでご注意を・・
あくまでこれは創作日記という扱いです・・
というか、あれが事実だったら、ちょっと怖いのかも・・・??

ちなみにこの歌曲集の訳詩ですけど少しだけ抜粋すると・・

第1曲

俺は若いジプシーに出会った、
雌鹿のように歩む娘に、
黒いお下げ髪は胸をおおい
底なしにきれいな目。
俺をじっと見つめてたが、
切株を飛び越えて消えた、
だがその残像は俺の頭に
日がな一日こびりついてた。

第11~12曲の抜粋

大地が枕で 空が上掛け、
露に濡れて冷えた手は太ももの間で温めるの・・

スカート1枚だけの娘はそのまま大地に横たわる
うぶな俺は泣きながら腰を下ろした。

薄暗いハンの木林に冷たい泉、黒髪のジプシー娘に真っ白な膝
この4つを生きてる限り、俺は決して忘れまい。

第21~22曲の抜粋

いとしい父さん
あんたの当ては外れた
俺が嫁にするのは、あんたが選ぶ娘じゃない。
過ちを犯した者はみな
その罪に苦しまねば・・
これからの運命も俺は避けない!

さらば、生まれ故郷よ   
さらば、わが村よ!
永遠の別れ、それが
俺に残された唯一の道。

そうですね・・・1が出会い、11~12が一線を越えてしまった感じ、21~22が故郷を去る場面
と言えるのでしょうね・・

全体的には「痛い・・」感じが伝わってきますよね・・

この歌曲集は全部で22曲から構成されていますが
この第11~13曲で初めてこの青年とジプシー女が一線を超えるのですけど、この場面は結構濃厚に描かれています。
第13曲はピアノソロだけで、歌は一切入りません・・・
でもこのピアノが何とも濃厚で実にエロい(?)です・・・
何だろうな・・・
何でこの大事な場面だけ歌が入らずピアノだけなんだろう・・・
やはり「愛の誘惑」には「言葉」は要らないという事なんでしょうかね・・・・??
そして次の第14曲では、ついにタブーを犯してしまった真面目な青年の罪悪感・虚脱感・けだるさが
実に見事にテノールで歌われています。

でもこれって「設定」が大変面白いですよね。

ある真面目な青年が、ある日突然村から忽然と姿を消してしまう。
そして、彼の部屋の机の上には、一冊の日記だけが残されていた・・・。

これって今風に言うと
「日々のストレスや不安等をブログで書き綴り、自分の中々本音で語ることが出来ない心情を
ネット上で吐露していた・・・
だけどこのブログもほとんど見る人も無く放置状態・・・
だけどそうした日々に嫌気が差し、自殺を決意・・・
死後に初めてそのブログが身内や知人に知ることになり
初めて故人の本音を知ることになった・・・」

そんな感じなのでしょうか・・・

ある意味何か「時代の先取り」という感じもしますね・・・

ちなみにこの歌曲集を作曲している頃のヤナーチェクは、
30歳以上年下の夫と子供が既にいる女性に一方的に片思いをし
この女性との間に膨大な往復書簡が残されていますけど
この「消えた男の日記」のジプシー女とその年下女性との関連性を指摘する人もかなり多いみたいですね。

それにしても「日記」を付けている人はある意味怖い・・・

ま、うちの奥様も「日記」を付けていて
ある日たまたまその日記をちら見してしまったのですけど(わざとじゃないですよ・・苦笑・・)
何か至る所に「私の名前」が登場していたような気もしましたが、
うーーん、何を書いているのか見たいような見たくないような・・・・・
でもやはり少し怖い気が・・・(笑)

ま・・・このブログのポンコツ管理人である「私」も一応は・・ブログと言う「日記」を付けていることになるのかも
しれないですけど、
私の場合、どちらかというと・・・プリキュアと東方等の感想ばかりで、
自分自身の事を日々克明に記している訳では無いので、そんなには怖くは無いのかも・・??
ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」という管弦楽曲なのですけど、
この曲ほど「クラシック音楽初心者」に向いている曲は無いんじゃないのかな・・・とも思ったりもします。
そうですね・・・・例えば、ハチャトゥーリアン/バレエ音楽「ガイーヌ」~剣の舞とか
ムソルグスキーの交響詩「はげ山の一夜」とかボロディンの歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊りとか
ホルストの組曲「惑星」~Ⅳ.木星とかラヴェルのボレロとか
レスピーギの交響詩「ローマの松」~Ⅳ.アッピア街道の松とか
グローフェの組曲「グランドキャニオン」~山道を行く・豪雨などの曲と並んで
クラシック音楽の「夏休み親と子供のファミリーコンサート」の一曲として是非加えて欲しい曲の一つだとも
思います。

この曲、曲自体7分半程度と時間的にも飽きが来ない適度な長さですし、
冒頭の喧騒、そして前半のコールアングレの長大なソロで聴衆をうっとりとさせ、
中盤から後半にかけての楽しさ・激しさで盛り上げて、ラストも一気呵成に閉じるという感じで、
この曲を初めて聴くという方にもまさにお勧めしたい曲でもあります。
一言で言うと・・・いかにもイタリアの血気盛んな「舞曲」という感じの曲といっても差し支えは無いと思います。

「序曲」というと一般的には「歌劇」の前振りというのか、
そうですね・・お笑いの世界で例えると、メインの出演者が登場するまでの「前座担当」が場の空気を盛り上げておく・・
そうしたいわば「前祝い」みたいなものです。
この曲のタイトルが「ローマの謝肉祭」となっていますので、
「ふーーん、それじゃ、正式には歌劇"ローマの謝肉祭"序曲って言うんだ・・」みたいに勘違いをされる方も
いるかと思いますので、少し補足しておきますと・・・・
ベルリオーズには、作曲に大変な情熱と心血を注いだ歌劇「ベンヴェヌート・チェッリーニ」というオペラが
あるのですけど、これが興行的には大失敗!
莫大な借金を背負い込み、せっかく作曲した曲も演奏される当てもなく、まさに「トホホ・・」みたいな
感じに陥っていたのでした。
だけど歌劇「ベンヴェヌート・チェッリーニ」自体には大変愛着があり、
「この歌劇をこのまま忘れられた曲として埋もれさせるにはなんか勿体無いものがある・・」として
この歌劇の主要な旋律を引用して単独の管弦楽曲へと編集するアイディアを思いつき、
その成果がまさにこの序曲「ローマの謝肉祭」なのです。

だから・・・

この作品は、単独の演奏会用序曲であり、「ローマの謝肉祭」という歌劇は存在しませんし、
ましてや、歌劇「ローマの謝肉祭」序曲という曲は存在しません・・・

オーケストラの演奏会レパートリーとしては日本においても完全に定着した曲でもあり、
この序曲は恐らくですけど、かなりの頻度で演奏会に取り上げられています。
プログラムの一曲目としてはまさに「うってつけ」と言える一曲と言えるのだと思います。
やはりこの曲の最大の聴きどころは、前半のかなり長大なコールアングレのソロですね!
あの部分は、聴くだけでなんかうっとりさせられるような趣きがあると思います。
それとこの序曲のポイントは・・・・そうですね・・・私的には「2台のタンバリン」だと思います。

前述のコールアングレのソロが集結し、曲が騒々しくなってくると、
この2台のタンバリンと一つのトライアングルがトリオとなって華やかな響きを演出しています。
そうですね・・この2台のタンバリンとトライアングルの「シャカシャカ・・・」というリズム感は、まさに
三つの打楽器が見事に融合しているようにも聴こえたりもします。
何かあの部分は、いかにもこれから「祭りがはじまるぞー」みたいな雰囲気もあり、
私は結構好きですね。

タンバリンの奏法・叩き方は、基本的には・・・
①皮の部分を叩く

②全体を左右に揺すって振る

③皮の周囲の鈴の部分をこすってのロール奏法

の三つがありますけど、「ローマの謝肉祭」は基本的には①の奏法がメインです。

さてさて・・この「ローマの謝肉祭」以外で「タンバリン」が大活躍する管弦楽の曲って他に何があるのかな・・・??

ざっと思いつく限りでは・・・

〇ラヴェル/バレエ組曲「ダフニスとクロエ」第二組曲~Ⅲ.全員の踊り

〇レスピーギ/交響詩「ローマの祭り」~Ⅳ.主顕祭

〇ドヴォルザーク/序曲「謝肉祭」

〇チャイコフスキー/「くるみ割り人形」よりトレパーク

〇ホルスト/組曲「惑星」~Ⅳ.木星

〇リムスキー・コルサコフ/スペイン奇想曲

あたりかな・・・

そうそう、タンバリンというと、
ストラヴィンスキーがバレエ音楽「ペトルーシュカ」第四場の場面にて
ペトルーシュカがムーア人との喧嘩に負け、死の瞬間を象徴させる音として
タンバリンを使用しているのが中々ユニークです。
ストラヴィンスキーの指示は、
「タンバリンを両手で持って、床面に平行になるようにタンバリンを落としなさい・・」という
事なそうです。
この落下音が、ペトルーシュカという人形の首がもげる音と符合するとのことです。
勿論、ステージの床の材質とかコンサートホールの残響によって、高さの調整とか色々検討すべきことは
多いでしょうし、奏者は大変ですね・・・
実際にこの場面を演奏会と言うライヴで見てみると、あの瞬間は、まさに「ガシャッ!!」という壊れたような音が
かなり不気味に響きます・・・・

話をベルリオーズの「ローマの謝肉祭」に戻しますと、同じ打楽器を2台同時に鳴らすという曲も
意外と珍しいのかもしれませんね。
他には・・・レスピーギの交響詩「ローマの松」のアッピア街道の松では、クライマックス部分では
トライアングルが2台同時に鳴らされていたのが印象的です。
ベルリオーズで一番有名な曲と言うと、誰が何と言っても「幻想交響曲」なのですけど、
そうだ、この曲も・・・
第五楽章「ワルプルギスの夜の夢」においては、ティンパニ奏者2名 大太鼓奏者2名、そしてラストの最後の和音のみ
登場するシンバルも2人で鳴らしていましたね。
ちなみに・・・・第四楽章「断頭台への行進」も小太鼓は2名でのロール奏法で鳴らしていたのが
大変印象的です。

日本の年末はベートーヴェンの第九・・・すなわち交響曲第9番「合唱付き」ばかりが演奏されていて、
そうですね・・・正直この第九が今一つ苦手というか大嫌いな私としては、
年末年始に何か祝祭的な気分を求めたい時は、むしろ・・
カール=オルフの世俗カンタータ「カルミナ・プラーナ」の方が全然しっくりきます!

少し専門的に述べると、この曲は劇的三部作「勝利」の中の一番最初の第一作に該当しまして、
正式名称は「世俗への讃歌、カルミナ・プラーナ」と言われることが多いと思います。
だけど申し訳ないですけど、有名なのはこの第一作のみでして、私自身は続編の第二作と第三作は
いまだに聴いたことすらありません・・・

第九は、通常の管弦楽の編成に4人の合唱ソリストに混成四部合唱が加わり、
打楽器もティンパニ以外に、大太鼓・シンバル・トライアングルも加わり
19世紀初めの作曲当時としては異例の大編成となっています。
「カルミナ・プラーナ」は、20世紀に作曲された曲なのですけど、「難解」という印象は皆無ですし、
不協和音・難しい表現は全く無く実にわかり易い曲です。
というか・・・楽譜を見れば一目瞭然なのですけど、全般的に♭・♯等の臨時記号があんまり出てきません。
前述のベートーヴェンの交響曲第9番もかなり大規模な編成ではあるのですけど、
「カルミナ・プラーナ」は、拡大編成の管弦楽団に加えて、
ソプラノ・カウンターテナー・バリトンの3人の合唱ソリストに、混成四部合唱、児童合唱が加わり
全編を通じて2台のピアノがいい活躍を見せてくれます。
(カウンターテナーの人は、1時間近い演奏時間で歌う個所は、前半の一曲だけで、
4分程度の自分の出番が終わったら、最後までお休みですので何かヒマそうで少し気の毒な感じもします・・・)
打楽器も、シロフォーン・2台のグロッケン・コンサートチャイム・鐘といった鍵盤楽器
カスタネット・タンバリン・ドラなどが登場し
色彩感に華を添えてくれます。
(第22曲に登場するカスタネットのカタカタと鳴るリズム感が大好きです・・・)
そうそう・・第24~25曲にかけては部分的にティンバニ奏者も2人となりますし、第24曲なんかは2台のグロッケンを
二人の奏者で派手に鳴らす部分もあったりして、演奏効果としてかなり高いものを感じたりもします。

私がこの「カルミナ・プラーナ」という曲を知るきっかけは例によってやはり「吹奏楽コンクール」でした。
吹奏楽に詳しい方ですと、
「ああ、1990年の近畿大学の演奏ね・・」と言うかもしれませんが、
「カルミナ・プラーナ」の吹奏楽コンクールでの全国大会初演は、近畿大学ではありません!
実は・・・1984年の長岡吹奏楽団が全国初演でした!
私は、この長岡吹奏楽団の演奏を聴いて初めてこの曲の存在を知ることになったのです。

吹奏楽コンクールでは現在においては「カルミナ・プラーナ」はすっかりと自由曲レパートリーとして定着化していますけど、
それを定着化させるきっかけを作ったのが1990年の近畿大学ですので、
その意味では近大の貢献度は相当なものがあると思います。
1984年の長岡吹奏楽団の演奏は、
音色が柔らかすぎるというのか、もやーーッとした演奏で
あまり感銘度が高くないせいか、当時はほとんど話題にもなりませんでしたが、
今にして思うと「パイオニア」でしたね・・・

この曲を管弦楽版として初めてCDで聴いたのは
確かプレヴィン指揮のロンドン交響楽団だったと思います。
この曲は色々な名盤・名演があると思いますが、
個人的には、
①スラットキン指揮/セントルイス交響楽団
②プロムシュテット指揮/サンフランシスコ交響楽団がお気に入りです。

導入部分はかなり有名な部分で、この曲を知らなくても
ほとんどの方は、テレビCMとかバラエティー番組で一度は耳にされていると思います。
そのくらい「あ、この曲どこかで聴いたことがある」といった認知度は高いと
思われます。

この出だしと次の曲が導入部

そして、

第一部 春に

第二部 居酒屋にて

第三部 愛のささやき

最後に冒頭部分が再現され、華麗に曲は閉じられます。

特に第三部 愛のささやきで結構きわどい歌詞が出てきますけど
第一部でも結構やばい歌詞も出てきたりもします。
第二部はあまりエッチな要素は少ないのてすけど、全体的には酔っぱらいの戯言みたいな感じもします。

一例をあげると・・・

第一部 第9曲 輪舞

ここで輪を作って踊っているのはすべて乙女たち。
でもこの夏中男がいらないだなんて、なんとしたこと?
さあ、こっちに来て、私の貴方。貴方を待ってるのよ。
おいで、おいで、僕の恋人よ、赤い唇をした可愛い娘、
来て、僕を元気にしておくれ!

この夏中男がいらないだなんてこと、あるわけがない!
甘いバラ色の唇よ・・

第三部 第19曲 もしも若い男が若い娘と一緒の部屋にいたら・・

もしも若い男女が小さな部屋で一夜をともにすれば
幸せな二人の結合が生まれるに違いない
そして、それとともに愛は高まっていく         
彼らの自制心は急激に消え失せ、疲労するまで
精力の続くかぎり、愛の営みが続けられるだろう
言葉にできない悦楽
手足で、腕で、唇で・・・・

第三部 第22曲 歓びの季節がやってきた

歓びの季節がやってきた!
おお、処女たちよ、さあ楽しむのだ!
おお、若者たちよ、体中が花と咲くようだ。
今や処女恋しさに身も心も燃え上がる。
新しい恋だ、私が死ぬほど参っているのは・・・

私が元気になるのは、恋の約束をするとき
私がしおれるのは、断らなければいけない時

寒い季節は男心も忍耐するが
春の息吹を感じれば、浮気心も目を覚ます。
私だけが遊び相手の
私の処女の絆
私の心を押しとめるのは
私のうぶな心。

おいで処女よ。
歓びの声と共に、
おいで、おいで、若くて美しい女よ。
私はもう死にそうだ・・・
おおーーー!! もーー、たまらん!!

第三部 第23曲 いとしい御方

愛しいあなた
私のすべてをあなたに委ねるわ! 身も心も全部あげちゃう!

うーーーん、
やはり歌詞的には少しきわどいものがありますね・・・(笑)
ホント、20世紀のクラシック音楽の名曲とは思えない歌詞も部分的にあったりもしますけど、
曲全体としては、「生きる生命感」というのか「躍動感」というのか
「人間の本性」がむき出しに生き生きと描かれていて
なんか聴くだけでパワーが湧いてくる曲だと思います。

BISというレーベルから
この曲の「ピアノ+打楽器+合唱版」という管弦楽を抜かしたアレンジ版が出ているのですけど
管弦楽を外すと、打楽器セクションがむき出し状態となり
ものすごーく生々しい演奏になってしまうという事がわかりました。
管弦楽の役割をピアノが担っているのですけど
ピアノは「鍵盤楽器」でもあるので、
打楽器とピアノだけでは、
妙に迫力と荒々しい感じは伝わってくるのですけど
何かすごーーく抵抗感があり、
このCDはすぐに売却してしまいました・・・
確かこれは現在では廃盤扱いとなっていて入手困難になっていると思いますので
何か勿体ない事をしたような気もします・・・

戦術の通りこの曲は、吹奏楽コンクールの自由曲として完全に定着化していて
数多くの名演が生まれています。
ま、もっとも吹奏楽コンクールでの演奏の場合、
合唱は入りませんので、
気分としては、カラオケの伴奏を聴いているような違和感も確かに感じることがありますね。
名演もある一方で色々と「珍演」というか「迷演」もあったりします・・・
確か2000年の東京文化会館で開催された職場・一般の部の全国大会で
東北代表のJR東日本が、この曲を取り上げていたのですけど、
確か曲の途中で、打楽器セクションが、
なぜか唐突に片手にグラスを持ち始め、グラスとグラスでチンと合わせる形の「乾杯」の真似事という
パフォーマンスをなぜか全国大会の本番中のステージでやり始めて
当時の聴衆の度胆を抜いていた事は大変印象深いです。
ま、確かに演奏していた箇所は第二部の「居酒屋にて」でしたので、
その意図するところはわかるような気もしますけど、
演奏があまりにもお粗末でしたので、そうした演出はそうですね・・・
「あのね・・きみたち、そういう演出はもう少し上手くなったらやってよね・・」という感じもありましたけど
とにかくユニークな雰囲気は伝わりましたし、その是非は別としても大変面白い試みではありました。

プロの管弦楽団の演奏としては、
1997年3月15日の新宿文化センターで開催された、O.レナルト指揮/都響の演奏が断然素晴らしかったと
思います。
音楽を聴いていて、あんなに自分自身がノリノリというか
幸福感に包まれていたといたというのは、比較的珍しい方だと思いますので
相当素晴らしい演奏だったのだと思います。
特に第22曲のカスタネット奏者のお姉さんが
ノリノリに体を大きく揺らしながら
生き生きとリズムを刻んでいましたけど、その光景がなんか今でも脳裏をよぎることがあります・・・
このカスタネットのお姉さんは、
その翌年の、やはりレナルト指揮=都響のマーラー/復活でも
打楽器奏者として出ていましたし、
その後、N響の演奏会でも
ラヴェル/スペイン狂詩曲でシロフォーンとして、
武満徹/ファミリーツリーでヴィヴラフォーンを担当されていましたけど、
あの方は、フリー奏者というか、エキストラみたいな感じだったのでしょうね・・・

そうですね・・・・若い女の子というのか
吹奏楽コンクールで特にそうなのですけど、女子中学生・女子高生の若き乙女の皆様が
パーカスを一心不乱に無我夢中に気持ちよく演奏されている様子は
見ていてとっても気持ちがいいものがあります!!
私が初めてそういう経験をしたのは、高校生ぐらいの時だったかな・・・
自分自身も出場した吹奏楽コンクールの地区予選会場において、中学のB編成部門に出場していた
とある中学校の自由曲がファリアの「三角帽子」で
女の子のパーカスが、サスペンダーシンバルを鳴らしていた次の瞬間に、
ジャンパースカートのポケットに入れておいた「カスタネット」を鮮やかに鳴らしだし、
またまた次の瞬間にマリンバの位置まで奪取し、マリンバを軽快に鳴らし、
またまた数秒後にドラを叩きつけ
ラストは両手にタンバリンを持ってタンバリンを盛大に鳴らすというまさに「パーカス掛け持ちの荒業」ょ
お披露目してくれていて、
あれはまさに・・・当時男子校のポンコツクラリネット奏者であった私の目をまさに・・点にしてくれたものでした!!




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最後に・・・

このブログのブロとも様のお一人でもあられる「りえ太のなんでも日記」の管理人様でもあられるりえ太さん様は、
実は・・・
中学在籍中は吹奏楽部に在籍されていて、パーカッションを担当されていたとの事です!

りえ太さんと私は実はなのですけど「都大会予選」に出場されていた時期が被る年も2年ほどあり、
実は前からふとよぎってはいたのですけど、
当時本選出場をかけた「都大会予選」は普門館で数日間に渡って開催されていて、私もこの中学と高校の予選会は
何日間かは聴いていた事もありますので、
もしかしして・・
当時中学生のりえ太さんのチームの演奏をもしかして聴いていた可能性があります。

ま、それは今となっては確認のしようがないのですけど、
もしもですけど・・・
当時、某中学校のりえ太さんという「美少女打楽器奏者」が色々な打楽器を掛け持ちされていた光景を
私は見ていた可能性があると思うだけで
なんか・・・
「魔法つかいプリキュア」のみらいじゃありませんけど、
「わくわくもんだぁー!」という気持ちになったりもするものですね・・・・(笑)
6月の記事の中で先日N響を客演指揮されていたL.スラットキンについて記したのですけど、
Eテレの日曜PM21:00から放映されているN響の演奏会を収録した番組において、計3回に渡って
このスラットキン指揮による演奏が放映されていました。
1回目がこのブログでも記しましたけどプロコフィエエの交響曲第5番、二回目がブラームス
三回目がマーラーの交響曲第4番でした。
以前から何度も書いている通り、私自身は日曜出勤のため、日曜PM21:00以前に帰宅している事は
正直・・あんまりないかもですし、
日曜の帰宅時には、真っ先に録画しておいた「プリキュア」を見てしまうため、
中々まともにこのN響の番組を見る事も少ないのですけど、自分が興味がある曲とか大好きな曲が放映されていると
まともに見ちゃう時もあります。

6月の記事の中で「スラットキンがいつの間にか巨大化した風貌になっていて、なんだかトランプ候補みたい・・」とか
何とか書いていましたけど、
まったく失礼しちゃう話ですよね・・・(苦笑・・)
このポンコツ管理人は一体何を考えているのでしょうか・・・?
それと・・・1回目のプロフィエフの際は「なんか巨大化した・・」とも感じたのですけど、
意外な事に3回目の6/19のマーラーの際には、そんなに体格が巨大化した・・という印象は感じなかったのは
なんか不思議なものでした・・・

ま・・そんな訳で、今回はこのマーラー/交響曲第4番について簡単に記事にさせて頂きたいと思います。

マーラーの交響曲第4番は、正式タイトルはありません。
以前、読響と東京フィルの定期演奏会でこの曲を聴いた時、プログラムの表記で
「大いなる喜びへの讃歌」とありましたので、
それ以降何か自分自身もこのタイトルが気に入ってしまい、
ついついマーラー/交響曲第4番「大いなる喜びへの讃歌」と書きたくなってしまいます。
この交響曲が作曲されたのが1900年丁度で、まさに19世紀最後の年のシンフォニーです。
そして・・・マーラーは20世紀最初の年の1901年にあの第四楽章・アダージェットであまりにも有名な交響曲第5番を
作曲しています。
というか・・・このマーラーという御方は・・・
20世紀最初の交響曲の第一楽章冒頭をいきなり「葬送行進曲」風のトランペットのソロによるファンファーレで
開始させてしまう辺り、いかにもこの人らしいなぁ・・・と改めて思ってしまいます。
あ・・・そうそうこの交響曲第4番は大変意外かもしれませんけど、
世界初の全曲録音は、1930年5月28日・29日に近衛秀麿指揮の新交響楽団(現在のNHK交響楽団の前身)によって
果たされています。

マーラーの交響曲と言うと、一般的には・・・

〇「訳が分からない・・・難解・・・」

〇「感情の起伏が激しすぎ・・・突然怒りの表情を示したかと思えば、次の瞬間には泣き崩れていた・・」

〇「何か精神分裂症の音楽みたい・・・」

〇「聖なる部分と俗なる部分の落差が激しすぎる」

〇結局何を言いたいのかよく分からない・・・」

〇「複雑で曲があまりにも大規模過ぎて親近感に欠ける」

みたいな意見が多いと思います。

ま、確かにそういう意見は「確かに・・・ごもっとも・・・」としか言いようがない部分もありますし、
特に交響曲第6番~8番とか2番の復活あたりは
そうした指摘も当たっているような感じもします。

だけどそうしたマーラーの交響曲の中で例外的な位置づけが
この交響曲第4番「大いなる喜びへの讃歌」なのかもしれません。
この曲は、演奏時間が一時間を超える曲ばかりのマーラーの交響曲の中では
例外的に短く55分前後です。
(一番短いのは53分前後の巨人かな・・)
そしてこの交響曲の最大の特徴なのですけど、
使用する楽器の中で、トロンボーンとチューバという低音金管楽器を外しているため
「重量感」みたいな印象を回避し、天国的な色彩を強調している点が際立っていると思います。
だからこそ、第三楽章ラスト近くのクライマックスの部分でも
重厚感ではなくて、「天高く天女が舞い上がる」みたいな爽快感を感じさせてくれます。
この第三楽章ラストのクライマックスでは、
ティンパニー奏者の撥4本による「叩き付け」は極めて効果的で、演奏を引き締める効果も持っています。
あの場面のティンバニ奏者は、右手と左手にそれぞれ二本ずつの撥、計4本の撥で壮大に叩きつけをしていますけど、
あれは何度生で見ていても「かっこういい・・・!!」と惚れ惚れしちゃいます!

この交響曲の冒頭は、何と「鈴」をシャシャシャと控えめに鳴らす部分から開始され
この曲が何か「メルヘンチックだな・・・」と聴き手に感じさせるには十分な効果があると思います。
この鈴は第四楽章でも再現されます。
交響曲のジャンルで「鈴」を用いるのは極めて異例で、
他に鈴を使用した例と言うと、L・モーツアルトの「そりすべり」くらいしか思いつきませんけど、
マーラー自身も、この曲は
「今までの自分の曲とは何か違うものがある」ということを冒頭から聴衆にアピールしたい意図もあったのかも
しれませんよね。
ちなみにこの曲の初演は大変不評だったようですが、R.シュトラウスがこの交響曲の再演と指揮を希望し、
この第一楽章の冒頭の「鈴」という特殊楽器を使用させるために
わざわざR.シュトラウス宛にマーラーから小包を発送したというエピソードも残されています。
ま、こうした特殊楽器を一旦スコアに買いてしまうと、
後世の演奏家とか指揮者とか楽団事務スタッフがその特殊楽器の調達に苦労するという話の先駆け
みたいなものですね・・・

第二楽章は、ヴァイオリンによる不気味なソロがありますけど、
この部分は、通常は普通の楽器より高めに調弦されたやや甲高い響きの楽器を使用し、
この為、このソロを担当するコンサートマスターは、この部分のためだけにもう一台ヴァイオリンを
用意しておくことが多いみたいです。
この部分はマーラーは、「死神が私と踊る」と記したそうですけど、
まさにそうした表現がぴったりの箇所です。

第三楽章は20分近くと長大なのですけど
終始ゆったりとした音楽です。
この楽章は私も大好きで、
確か1999年のパスカル=ヴェロ指揮/新星日本の演奏では、この部分のテンポを極端に落とし
異常にゆっくりとした音楽を展開していきましたけど、
何か聴いていてこの時の演奏は妙にじーーんと胸にくるものがあり、
涙線を妙に刺激させられるというのか、聴いていて「溢れる感情の高まり」に
自分自身が驚いたしまったという経験があります。
この楽章はオーボエのソロが極めて印象深く、それをバックで支えているファゴットが実にいい仕事をしているのが
大変印象的です。

第四楽章でソプラノのソロが入ります。
実はマーラー自身は、交響曲第3番「夏の朝の夢」を作曲中、最初の構想として
「3番は7楽章構成にしよう」と考え、第7楽章目に現行の交響曲第4番第四楽章の部分を使おうと
予定していました。
だけど結局あまりにも3番は長すぎ
(第一楽章で既に40分を使ってしまうし、第6楽章終了時点で既に演奏時間100分になってしまう・・)
交響曲第3番は6楽章構成とし、
未使用の7楽章部分をそのまんま交響曲第4番第4楽章として使用した経緯があるのが
何とも言えず面白いものがあります。
ちなみに第一楽章では、なぜか唐突に次の交響曲である第5番第一楽章の「葬送」の部分が
紛れ込んだりもします・・・

第4楽章のソプラノのソリストをいつ舞台に出すかと言うのは、指揮者によってまちまちです。
私が初めてこの交響曲を聴いた時(シュワルツ指揮/東京フィル)、
ソプラノを第一楽章からずっと舞台上で待機させていましたので、
ソプラノの人は、約45分程度ひたすら自分の出番を舞台上で待機している状態でしたので、
こちらも何か気の毒な感じはしました。
ほとんどの指揮者の場合、大抵第三楽章からソプラノを舞台上に待機させるというパターンが
多いのですけどね。
中には・・・第三楽章を閉じたと同時に、舞台袖からソプラノ歌手がゆっくりと歩きながら、第四楽章を
歌いだすという演出をされていた指揮者もいました。

ま、この辺りは指揮者の考え方というのか解釈の違いもあるのかもしれないですよね。

そしてこの第四楽章のソプラノ歌手がメルヘンチックに歌い上げているその歌詞なんですけど、
あれは・・・実は結構グロテスクです・・・
あんなメルヘンに溢れ、まるで「天国」みたいな音楽みたいに聴こえる歌声の歌詞がまさかああした内容とは・・と
最初にあの訳詩を読んだ時は、正直びっくりしたものです。

ちなみにその訳詩を一部抜粋してみると・・・

ヨハネは仔羊を小屋から放して、
屠殺者ヘロデスはそれを待ち受ける。
我らは寛容で純潔な
一匹のかわいらしい仔羊を
死へと愛らしいその身を捧げ、犠牲にする。
聖ルカは牛を
ためらいもなく、犠牲にさせなさる。
天上の酒蔵には、
ワインは1ヘラーもかからない。
ここでは天使たちがパンを焼くのだ。

牡鹿や兎や
みんなそこの辺りを
楽しそうに走り回り
獣肉の断食日がやって来たら
あらゆる魚が喜んでやって来る!
ペテロ様が網と餌とを持って
天上の生け簀へと
いそいそといらっしゃる。
マルタ様が料理人におなりになるのだ。

ま・・・マーラー交響曲自体が、生=死、昼=夜、現実=理想といったある意味「対称性」をテーマにしているような感じも
するので、そういう意味においては、まさしく現実=理想、現世=天国の対称性をもしかしたら
意図しているのかもしれないですよね。

最後に・・・・これは私個人のお勧めなのですけど、
もしもマーラーの交響曲について興味があるけど実はまだマーラーを聴いたことが無いという御方は
是非是非・・・この4番かもしくは1番の「巨人」から聴き始める事をお勧めしたいと思います。
4番は大変わかり易く親しみやすく書かれていますので、
「マーラー入門編」としては最適と言えるのかもしれませんよね。
そうそう・・・間違ってもいきなり、第6番・第7番・第9番から聴き始める事はお勧めできないですね・・・
特に・・・6番を一番最初に聴いてしまうと多分ですけど・・・
「マーラー、大っ嫌い!!!」みたいな印象を持ってしまうのかも・・・??

ちなみにですけど、ま・・これは過去記事でも散々書いていますけど
私のマーラー初体験は、実はやっぱり吹奏楽コンクールでした。
一番最初に聴いたのが1982年の東北大会の八戸高校の1番「巨人」第四楽章で、
二回目に聴いたのが・・磐城高校の第3番第一楽章という感じで・・・
そうですね・・・いかにも自分らしいなぁ・・と思ってしまいますね・・・・(笑)

ちなみに・・・原曲を初めて生のオーケストラで聴いたのは、5番でした。
「キリスト教」と言うものは、なんだかんだ言っても西洋文化における支柱的存在なのだs思います。
人々の精神的支えというよりは生活の一部と言っても過言ではない感じもあります。

その点、日本と言う国は世界においても極めて珍しい無宗教の国・・・
否! 無宗教というよりは「多宗教の国」という感じなのかもしれません。
よく言われるように、クリスマスでキリスト教みたいなイベントを楽しみ、大晦日にはお寺の除夜の鐘に耳を傾け、
そして新年が明けると神社で初詣・・・!!
うーーん、世界的においてはこうした宗教に対してこれほどまで無節操な国は無いのかな・・とも思ってしまいますけど、
それは日本古来の伝統的な「八百万の神々の国」でありますし、
無宗教・無節操というよりは、むしろ・・・「多様な宗教観を全部包み込んでしまう寛容性のある国」と言った方が
いいのかもしれません。
最近このブログでやたらとネタにしている「東方Project」も、実際・・・ZUN神主様がとどのような意図をお持ちなのかは、
私にはよく分かりませんけど、
「東方の世界」をこうした「多様性とか寛容性とか様々な価値観を全ておおらかに受容する事の素晴らしさ」みたいな
事を実は意図しているという解釈ももしかしたらありなのかも・・・??
実際、世界の人たちが「こうした多様性・寛容性」を持つだけで随分と世界観がガラリと変わっていくような
気もするのですけどね・・・

さてさて・・・西洋の「キリスト教」の場合、精神的支え・生活の一部という意味以外においても
文学や絵画、音楽といった芸術面にも多大な影響を及ぼしているようにも感じられますし、
「聖書」の中に記されているお話を題材にしてクラシック音楽が創られている事例も結構多いようにも思われます。

そうですね・・・聖書を題材にしたクラシック音楽って実は結構ありまして、一例をあげると・・・・

ハイドンのオラトリオ「天地創造」

F.シュミットのオラトリオ「七つの封印の書」

バッハの「マタイ受難曲」・「ヨハネ受難曲」

ヘンデルのオラトリオ「メサイア」→これは「ハレルヤコーラス」が際立って有名ですよね!

メンデルスゾーンのオラトリオ「エリア」

シェーンベルクのオペラ「モーゼとアロン」

などが挙げられると思います。
しかし上記の曲はいずれもオラトリオというのか「カンタータ」に近いような感じで比較的
宗教色が濃厚でどちらかというととっつきにくいようなイメージが私の中ではあったりもします。
というか・・・これらの曲はあまりにも重厚過ぎて、世俗にまみれた私なんかが聴いても
正直・・・あんまり面白くは感じないものです・・・(苦笑・・)

さてさて・・・そうした中でも、比較的わかり易い音楽でストーリー性があり、
しかもその物語が結構面白そう・・というと意外と限られてしまうのかな・・・
ま・・私的には、黛敏郎が音楽を担当された映画「天地創造」なんかはかなり面白いと思いますし、
吹奏楽にアレンジもされた「ノアの箱舟」と「メインテーマ」の部分はとっても
優れていると思います。
ま・・・映画音楽ではなくて「歌劇」とか「楽劇」というジャンルにおいては、
「聖書」を題材にしたわかり易い音楽というと、
そうですね・・・・・
R.シュトラウスの楽劇「サロメ」~七つのヴェールの踊り
サン・サーンスの歌劇「サムソンとデリラ」~バッカナールを
強くお勧めしたいですね!!

R.シュトラウスの楽劇「サロメ」も実は元々の出典は新約聖書です。
この新約聖書のサロメの話を題材にしたのがオスカー=ワイルドの戯曲であり、その戯曲をテキストに
作曲されたのが、この楽劇「サロメ」なのです。
だけど、この話、結構危ないものがあり、官能的要素も含まれていますし、
初演当時は何かと物議を醸した作品でもありますし、
一部の都市では上演禁止をくらったほど危ない要素はてんこ盛りの作品です。

「七つのヴェールの踊り」は、楽劇「サロメ」の一部分なのですけど、
非常に重要な場面の音楽でもあるし、楽劇全体の一つのクライマックスシーンでもあります。
ま、恐らくは楽劇全体を象徴するシーンだと思います。

「七つのヴェールの踊り」は、R.シュトラウスも相当の思い入れがあったと思われます。
楽劇全体の作曲をほぼ終えた頃に、
改めて、この楽劇全体を左右する重要な箇所の「七つのヴェールの踊り」を
じっくりと腰を入れて作曲している経緯があったりもします。

この歌劇の内容を簡単に要約すると・・・

舞台はユダヤのヘロデ王が君臨する宮廷・・
その宮廷の中には、ヘロデ王の悪政を厳しく批判する預言者ヨナカーンが幽閉されています。
サロメは、ヨナカーンに興味を抱き、
色々とヨナカーンをあの手この手で誘惑するが
完全に無視されてしまう・・
ある日もサロメは義父であるヘロデ王から「踊り」を求められるが、
最初は辞退してしまう。
だけどヘロデ王から
「褒美にサロメの好きなものを何でもあげるから」と言われ、
引き受けてしまう。
そこで踊りを披露するのですが、そこで一枚一枚着ているものを脱いでいくシーンが
「七つのヴェールの踊り」なのです。
だからあの音楽は、あんなに異常に色っぽいというか艶っぽいのです。
そして踊りが終わった後、ヘロデ王から
「お前が欲しいものは何だ」と問われ、迷うことなく
「ヨナカーンの首」と答えてしまうのです。
(サロメの母親は、ヘロデ王をたぶらかして再婚したとヨナカーンから色々と批判され、
 内心苦々しく思い、いつかヨナカーンを亡きものにしたいと思いもあり、
 この首の一件は母親からの入れ知恵という要素もありますけどね・・・)
そしてヨナカーンが斬首され、その首が運ばれてくると
サロメはそのヨナカーンの首にキスをしまくり、ハイテンション状態で恍惚となってしまう・・・
そしてそのあまりの狂気さに恐怖を感じたヘロデ王は、
周囲の武将に命じてサロメを殺してしまう・・・

やはりこうやって文章にしても
かなり危ない世界の領域の話ですよね。

R.シュトラウスの「七つのヴェールの踊り」は約9分程度の作品ですけど、
出たしとラスト以外はそれほど音量的に爆発するものはありません。
むしろオーボエ・フルート等のソロ楽器が大活躍し、
全体として徐々に雰囲気を盛り上げていくというような感じの音楽です。
不思議な事ですが、目をつぶって聴いていると、
ホントまじで一枚一枚身に着けているものを脱いでいくという意識が明確に伝わってきます。
全体的にオーボエの官能的な響きにゾクゾクさせられます。
また、タンバリンの控えめながらエロチックな響きにも魅力を感じます。
瞬間的に曲の「間」があったりもしますけど、
この間の感覚が実に素晴らしいと思います。

この曲は解釈としては、テンポを少し落として、じっくりやんわりと徐々に盛り上げていった方が
いいようにも感じられます。

続きましてサン=サーンスの歌劇「サムソンとデリラ」なのですけど、
この話自体は、やはり出典が旧約聖書であり、
色々な映画監督が昔も現在も結構題材にしているようですね。

でもこの物語もなかなか興味深いですよね。

簡単に要約すると・・・

イスラエルの民は長い間ペリシテ人に抑圧され苦しんでいた。
ある時、イスラエルにサムソンという怪力の赤ん坊が誕生し、成長するな否や
ライオンを素手で倒したり、ペリシテの軍隊を一人で散々にやっつけたり、
怪力を武器に大活躍をしていた。
ある時、サムソンは、デリラという絶世の美女に一目惚れしてしまうが、
それに目を付けたペリシテ人はデリラを買収し、そそのかし、
何とかサムソンの怪力の秘密を暴いて来いと命令されてしまう。
寝物語の中、デリラは何とかサムソンの怪力の秘密はその長髪にあると知り、
サムソンが爆睡している間にサムソンの髪をちょんぎってしまう・・・
そしてサムソンは結果的に怪力を失い、ペリシテに捕えられ、目をつぶされ視力を奪われ、
牢の中で石臼をひかされる日々を過ごしてしまう・・・
ある日、ペリシテの神々のお祭りが開催されることになり、サムソンは
見世物として、いたぶられながら祭壇に引きずり出されてしまう・・・
だけど、牢の中に閉じ込められている間にサムソンには再び髪が伸び始め、
最後は、怪力を再度発揮し、祭壇の二本の柱を破壊し、祭壇をなぎ倒してしまい、
多くのペリシテ人と共に祭壇の下敷きになってしまい、
復讐を成し遂げた・・・

この話、旧約聖書で読むと比較的淡々と描かれているのですけど、
映画として見てみると、
デリラが実に色っぽい感じ・・・
いかにも「誘惑する悪いお姉さん」的な感じで描かれています。
だけどデリラ自身、本当は心底サムソンが好きだったという感じでもあります。

サン=サーンスは、この旧約聖書を題材に不朽の名作オペラを完成させ、
今日に至るまでフランスオペラの貴重なレパートリーの一つとして完全に
定着させています。

「バッカナール」は、この歌劇の中の盛り上がる部分の一つで、
要はサムソンを捕えた祝賀会の宴会のどんちゃん騒ぎを描写した部分です。
歌劇の中でも大変有名な部分でもあります。
オーボエのいかにも妖しい雰囲気のソロで開始され、
中東の音楽のような雰囲気の音楽が展開されていきます。
カスタネットのリズム感溢れる響きが実に楽しいです。
中間部もたっぷりと歌われ、ラストも一気にヒートアップします。
ラスト近辺はホルンが大活躍します。
7分程度の曲なのですけど、妖しさ・楽しさ・歌・追い込みなどの要素がてんこ盛りで
飽きることはまずないと思います。

CDで「バッカナール」のみを聴く場合、デュトワ指揮/モントリオール響の素晴らしい名演が
個人的にはお勧めです。

なお、このバッカナールは、
2007年頃のフィギュアスケートにて、安藤美姫がショートプログラムで選曲した曲です。

そうですね・・・・・・妖しい誘惑するお姉さんは、古今東西問わず怖いという事を
立証した作品と言えるのかもしれないですよね・・・(笑)
昨日に続いてのL.スラットキンの話です。
というか、その①は「スラットキンはいつあんなに巨大化してしまったの・・?」という何だかしょうもない話で終わってしまい、
肝心要の「プロコフィエフの交響曲」の事には一言も触れないで終わってしまいましたので、
今回のその②ではその辺りをごく簡単に補足をさせて頂きたいと思います。

というか、いきなり話は横道にまたまたそれてしまいますけど、
1986年のサントリーホールのこけら落しで来日した際のスラットキンのスタイルは、比較的中肉中背という感じで、
演奏・楽曲の解釈自体も大変オーソドックスで、どちらかというと「野性味」というよりは「スマートさ・洗練された感じ」という
印象がありました。
勿論スラットキンの当時の手兵のセントルイス交響楽団も上手かったと思いますけど、
どちらかというと、「初めてあのサントリーホールの素晴らしすぎる残響音の素晴らしさの魅力」に圧倒されたという方が
強かったのかもしれないですね。

私が学生の頃は、クラシック音楽の演奏会場と言うと「東京文化会館」しか無いという感じでした。
外国から来日したオーケストラは、都内の場合は、東京文化会館や昭和女子大学記念講堂というパターンが多く、
こんな音響の悪いホールで演奏するなんて、せっかく遠路はるばると来たのに何だか気の毒という
感じも当時はあったものです。
国内の東京都内に拠点を構えるオーケストラは、演奏会のほとんどが東京文化会館で行っておりましたので、
当時は毎日どこかのオーケストラが
東京文化会館で演奏会を開催しているという印象すらあったものです。
当時の私は、典型的な貧乏学生でしたので、東京文化会館の場合、ほとんどのオーケストラが
「学生券」を出していましたので、4階や5階の右の位置が学生券の位置であり、
コントラバス奏者の顔がよく見えないあの学生席の位置から当時はよく聴いていたものです。
そう言えば、N響もNHKホールの最上階が学生券の指定席でしたが、確かここは
一枚1050円位だったような記憶があります。
当時の読売日本交響楽団は、定期演奏会は東京文化会館、名曲シリーズは
新宿の厚生年金会館でしたけど、両方共に音響は最悪でしたので、当時の奏者は今にして思うと、
少し気の毒な感じもありましたね。
ちなみに今現在は、この新宿厚生年金会館は既に解体されています・・・
なんかここにも「時代の経過」を感じてしまいますね。

さてさて・・・スラットキンのプロコフィエフの交響曲第5番ですけど、
「よく鳴っているな・・」という印象です。
第一楽章と第三楽章のドラ(タムタム)の地響きみたいな「ごわわわーーーーん」という響きが
テレビからもよーーく伝わってきました。
第一楽章冒頭の瑞々しい感じとか第三楽章の「美しさ」とか
第四楽章のラストのクライマックスまで一気に畳み掛けるあの「推進力」とか
聴いていて「飽きない!!」という印象でした。
スラットキンの指揮ぶりも大柄な体格なんだけど極度な大振りは控えていて、
そのエネルギーとか推進力は「ここぞ!!」とという時にのも温存し、抒情的に聴かせる箇所では、むしろ
しっとりとした指揮振りでしたので、
やはり音楽としての「陰影」がくっきりと出ているような香りもあり、
私はこういう演奏は結構大好きです。
N響が過去に演奏したプロコフィエフの交響曲第5番は、確か・・1995年辺りに生で聴いたデュトワ指揮の演奏が
とっても印象に残っているのですけど、
デュトワの場合は、論理的にまとめ、スラットキンの場合は「感覚」でまとめあげているという感じでした。

プロコフィエフの交響曲第5番は、本当にみずみずしさと透明感と霊感に満ち溢れている
20世紀が残してくれた数少ない名交響曲の一つだと思います。
20世紀のロシア名交響曲というと、ショスタコーイッチの5番とこのプロコフィエフの交響曲第5番は
絶対に外すことが出来ない本当に「名作中の名作」だと思います。
プロコフィエフの交響曲は、第1番の「古典交響曲」は大変シンプルで明快でわかり易いのに、
次の交響曲第2番は、とにかく「悪趣味に満ち溢れ、終始不協和音と強奏で響き渡る」という感じになり、
更に交響曲第3番となると、オカルト色が強いというのか、悪趣味で極めて退廃的・・・
だけど同時にロシアの広大な自然さも感じるという大変稀有な雰囲気を聴かせてくれています。
ちなみに交響曲第2番第一楽章なんて、ほぼ全てがffまみれで、弱音が出てくる箇所なんて
確か4小節くらいだけだったのかも・・
そのくらい怪奇な響きが錯綜しまくっています。
だけど2~4番を一気に聴いてしまった後で、この交響曲第5番を聴くと、間違いなくですけど・・
「え・・これって2~4番を作った人と本当に同じ作曲家なの・・?」とか
「あまりにも違いがあり過ぎて、交響曲第2番と5番の共通性なんてほとんどない・・この人、
本当は多重人格なんじゃないの・・?」
みたいな印象を持たれると思います。
実際に私もそうでした!
私の場合、吹奏楽から管弦楽という世界に入り込んだ事情があり、
一番最初に「プロコフィエフの交響曲」を知ったのは、1981年の花輪高校の第3番という特殊事情もあったのですけど、
とにかく最初に5番を聴いた時は、まさに「青天の霹靂」みたいな気分でした。
だって・・・あまりにも違いがあり過ぎるのですから・・・
だけどすぐにあの霊感溢れる瑞々しい抒情性に取りつかれ、一気にこの曲の魅力に取りつかれたものでした。
ちなみにですけど、私がこの5番を聴くきっかけとなったのは、やはり吹奏楽でして、
1982年の全日本吹奏楽コンクールの東北大会にて秋田高校が演奏したがそのきっかけを作ってくれたものでした!

ま・・とにかく・・
プロコフィエフの交響曲は、第2~4番、そして第6番の印象が極めて悪趣味・難解というせいもあるのですけど、
「どうもプロコフィエフの交響曲は好きになれない・・」という方も相当多いとはおもうのですけど、
この交響曲第5番だけは万人から愛される資格があるのではないでしょうか・・・?

よく解説書でも言われている事ですけど
何と言っても第三楽章の抒情性・美しさが本当に素晴らしいですね!!
第一楽章冒頭の霊感溢れる出たしも素晴らしいと思いますし、私はあのフルート等で奏でられる第一楽章の
テーマが流れるだけでなんか気持ちは引き締まりますね・・・
第二楽章の快活さもお見事の一言に尽きると思います。

そして圧巻は第四楽章ですね・・・・

出たしが静かに開始されるのですけど、
ホルンのポポポポポポポポという細かい刻みから開始される展開部は
一気にフィナーレにまで導いてくれる爽快さがあると思います。
終盤に打楽器の「ウッドブロック」が出てきて、小太鼓とかなり面白い掛け合いを聴かせてくれます。
日本フィルの定期だったかな・・・・
このプロコの曲を目当てにサントリーホールまで聴きに行ったのですけど
あいにく当日券はP席のみ・・・・
座席の位置はちょうど先程の「小太鼓とウッドブロック」のまさに目の前でした・・・・
終楽章にてこの二つの楽器の掛け合いが始まった際は
かなりエキサイトしましたね・・・・・
だって自分の目の前でこの楽器が音を出しているのですから・・・・
ま、確かにすごーく生々しい感じはあったのですけどもとてつもないライヴ感を味合う事は
出来たと思います。

この交響曲の終楽章は、聴き方によってはかなり面白いものがあると思います。

ラスト30秒くらい前だと思いますが、
金管・打楽器が凄まじい叩き付けを見せ、次の瞬間から
ff→f→mp→ppと音をボリュームを落としていき、
そして、
ヴァイオリン2台・ヴィオラ2台・チェロ2台・コントラバス・ピアノ・ハープ・タンバリン・小太鼓以外の楽器は
唐突に沈黙し、
上記の楽器のみによって、約10秒程度同じ音型を単調に繰り返し
そしてラストのラストで
最後に全楽器が再登場し、一気呵成に曲を閉じていきます。

これは通常のシンフォニーの「クライマックス」とは明らかに異質な
「アンチ・クライマックス」の世界だと思いますが、
やっぱり何か一つぐらい「仕掛け」をしないと気が済まないプロコフィエフらしい曲でもあるな・・・と
何か思ったりもしますね。

最後に・・・

プロコフィエフの生涯最後の交響曲は、交響曲第7番「青春」というとっても可愛らしい曲です。
この曲においては難しい要素・不協和音・悪趣味な響きはほぼ皆無です。
まさに「懐古趣味的」な曲と言えるのかもしれません。
プロコフィエフは、若い頃はあんなに前衛音楽を好んで曲を作っていたのにその最後の交響曲が
ああした「可憐でとてつもなく可愛い曲」というのは極めて意外にも感じますし、
悪く言うと・・「子供の頃の記憶への幼児退行化」ともいえるものかもしれないですね。

だけど・・・

こういう前衛・悪趣味・奇怪から可愛い音楽への突然の変貌というのは、
晩年の「子供に戻る」という現象の表れと言えるのかもしれませんし、
「極端から極端へ動いてしまう」というロシア人の「基本属性」がそうさせるのかもしれないですよね。
少し古いお話で恐縮なのですけど、先日、6/5(日)のPM21:00過ぎからのEテレにて
L.スラットキン指揮/NHK交響楽団によるS.プロコフィエフの交響曲第5番の演奏が放映されていました。
そうですね・・
最初にあれを見た際は、
「このなんかでっぷりと太った指揮者って誰・・・? どっかで見たことある顔なんだけど思い出せない・・・
あれ誰なんだろう・・
多分生でも見たことあるんだけどな・・
なんかこの雰囲気は・・・今全米で話題の人でもある共和党のあのトランプ候補の風貌に何となく似ているな・・」と
感じたものでした。
そして演奏終了後に字幕で「L.スラットキン」という文字を見た際に、
「そうそう・・!! 確かにあのお顔はスラットキンだ!! なんか懐かしい!! だけど久しぶりに見たら随分と
でかくなったもんだ・・」と感じましたし、
やはりあの雰囲気はトランプ候補に似ているなぁ・・と感じたものでした。
多分ですけど、私がスラットキンを最後に生で見たのは、1999年の冬のNHKホールでのN響定期演奏会
だったと思いますけど、
うーーん・・あの時ってこんなに丸っこい御方でしたっけ・・・?
多分ですけど、その後随分と・・・・「巨大化」されたような感じがありますね・・・(笑)

さてさて・・私がこのL.スラットキンを初めて見たのが、1986年の秋だったと思います。
その頃は、ちょうど日本のクラシック音楽のまさに「殿堂」とも言える「サントリーホール」がオープンした時期でもあり、
まさにサントリーホールのこけら落しお披露目演奏月間の真っ盛りの頃で、
スラットキン指揮/セントルイス交響楽団の日本公演が丁度このこけら落し月間の最後の日曜日の演奏会だったと
思います。
この頃の背景なのですけど、
アメリカのオーケストラは、シカゴ響とかニューヨークフィルとかサンフランシスコ響とかフィラデルフィア管とか
ボストン響とかミネソタ管とかクリーブランド管とかビッツバーク響とか
とにかく世界的な「名門オーケストラ」が多く、
その中でも特に、シカゴ・ニューヨーク・ボストン・フィラデルフィア・クリーブランドの5つのオーケストラが
「全米5大オーケストラ」という高い評価を受けていたと思います。
そうした中・・・1983年のタイム誌による全米オーケストラランキングにおいては、
1.シカゴ響 2.セントルイス響 3.ボストン響 4.フィラデルフィア管 5.ロサンゼルスフィル 6.クリーブランド管 
7.ニューヨーク・フィル 8.サンフランシスコ響と発表され、
全米オーケストラの間に「激震」が走ったとの事です。
というのも、今まで誰もマークせず名門オーケストラという認識もされていなかった無名の「セントルイス交響楽団」が
いきなり何の前触れもなく唐突に2位にランキングされ、
一気にセントルイスの音楽監督であったスラットキンに注目が集まり、一躍「時の人」になったという経緯が
当時はあったのです。
ちなみにこの発表に、当時フィラデルフィアの音楽監督であったムーティが激怒したというのは有名な話です・・・

さてさて・・・私にとっては、初めてのサントリーホール、初めての外国オーケストラを聴くという事で
まさにわくわくの期待感でサントリーホールに行ったのですけど、
全く期待を裏切らない素晴らしい演奏だったと思います。
音響と言うか、残響音がこんなに違うなんて・・・という
衝撃が今でも鮮明に頭に残っています。
公演曲の第一曲が、コープランド/バレエ組曲「ロデオ」だったのですけど、
その第一曲の「カウボーイの休日」はタイトル通り、けたたましい音で始まるので
そのせいもあったと思うのですが、
「音がこんなに斬新だったなんて・・・」とか「音楽会場という器が違うだけでこんなに音楽は躍動するものなのか・・」など、
当時は本当に新鮮な感動で一杯でした・・・

正直今サントリーホールで聴いても、耳がもう慣れてしまっているので
当時のような残響だけで感動することはありません。
だけど、サントリーホールはオープンしてから30年以上経過しても
独特の生命感溢れる響きや木の優しさは伝わってきますね。

大好きな演奏ホールの一つです。

セントルイス響の後半の曲は、ショスタコの5番でしたが、
バーンスタインのような熱気溢れる演奏を予想していましたが、意外と
クールな感じがし、何かメッセージを伝えたいという事が感じられた演奏だったような
印象があります。
終結部は、「権力者に迎合して自由を得た振りをするのか、逆らって己自身を抹殺されても
内面の自由を得るかは、お前たち一人一人の選択だ」という
メッセージが何となく感じられた瞬間もありました。
この曲を聴いてそう感じることはあまりないのですけどね・・・

セントルイス響のアンコールは、フィガロの結婚でしたが、
指先一つで自由に表現しているような感じがしましたし、もう一つのアンコール曲の
バーンスタインの「キャンディード」序曲は、まさにアメリカ!!という感じでした。

正直、当時はサントリーホールを使用するのは主に海外オケの日本公演の時程度かなと
思ったものですが、今みたいに都内のオケが日常的にサントリーホールを使用するとは
予想もしていませんでした。
全く時代というものは確実に「変化」していくものですよね。

それを象徴していたのが、まさに先日Eテレで久しぶりにそのお姿をお披露目してくれたスラットキンなのかな・・とも
感じたものです。
最初にスラットキンを見た時は「有望な若手の一人」とか「若き指揮者」みたいなイメージもありましたし、
どちらかというと「細身」という雰囲気はあったのですけどね・・・(笑)

前述のコープランドですけど、その代表曲の一つが「市民のためのファンファーレ」です。
この「市民のためのファンファーレ」もいかにもアメリカの映画音楽みたいな感じだと思います。
輝かしい金管楽器のファンファーレにティンパニー・ドラが響き渡る雄大なスケールの音楽そのものです。
「努力すればできない事は何もない、いつかはその夢が叶う」というキャッチフレーズが
いかにも似合いそうな音楽だと思います。
コープランドの交響曲第三番の第四楽章の冒頭は、何とこの「市民のためのファンファーレ」が
そのまんま転用されます。
この交響曲第三番は、正直「知る人ぞ知る隠れた名曲」だと思うのですけど、
いかんせん、全然演奏されない・・・(泣・・)
この交響曲は一度だけ生演奏を聴いたことがあるのですけど、
それがあのスラットキン指揮/N響だったのです。
あの演奏は本当に素晴らしかったですね!! いかにも「胡散臭いインチキ国家アメリカ」っぽい曲、そして演奏なのですけど、
このインチキっぽい感じがまさに「アメリカ」そのものであり、
私はあの演奏、本当に大好きでした!!

確か・・・あの時のスラットキンは、あんなに巨大化していなかったような気がしますので、
巨大化したのは多分・・・・21世紀に入ってからの話なのかもしれないですよね。
実はすごい久しぶりの「クラシック音楽カテゴリ」です・・・

この一つ後の記事が東方Projectの「アリス・マーガトロイド」なのですけど、
アリスと言うと「魔法使い」というよりはどちらかと言うと私にとっては「人形使い」みたいな方のイメージが
強いです。

さてさて・・・・この「人形使い」というと、すぐ頭の中に入ってきた音楽がありまして、
それがI.ストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」なのです。

私がこのストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」を知るきっかけとなったのが、
1976年の全日本吹奏楽コンクールでの秋田南高校の超名演なのですけど、
この吹奏楽での「ペトルーシュカ」の演奏は、今現在聴いても凄いと思いますし、全く色褪せてはいないと
感じます。
当時の編成は、45人以内の編成という制約があり、
当時は楽器編成の中に、ハープ・ピアノを入れることは禁じられていましたし、
この学校のティンパニーはペダル式ではなく、ボロボロの手締め式・・・
条件は正直良くはなかったのですが、
よく管楽器の響きだけで、この「ペトルーシュカ」の世界を再現出来たものと
今聴いてみても「感動」ものです・・・
ま、確かに音は荒いし、トランペットの音は硬いし
ラストのトランペットソロは外しまくっているし、
確かに現在の価値基準では「うーーん」という部分もあるとは思います。
だけど、この演奏の躍動感と生命感は大変充実していますし、
ホント、全体的に大変生き生きとしていますし、
リズムセクションのビートが大変有効のせいか、全体的に飛んで跳ねるような感覚が
非常にシャープです。
一言で言うと、何か「屈折した明るさ」が滲み出ている素晴らしい演奏だと思います。

この演奏、「秋田南、レジェンダリー」にも収録されていませんし、
今のところCD化されていませんので、
この演奏知らない人が多すぎるのですよね・・・
是非おすすめしたい演奏です。

この曲を知るきっかけが上記の通り、吹奏楽のアレンジ版なのですけど、
原曲を初めて聴いたのは、確か1990年代に入ってからでしたね・・・意外と遅い・・・
デュトワ指揮のN響でしたけど、
このオケの演奏を聴いて非常に驚いたことがあります。
何かと言うと、
「意外と音楽が洗練されている・・・何かフランス音楽みたい・・・」というものでした。
ま、もっともデュトワ指揮というせいもあったと思いますが、
ストラヴィンスキーというと、どうしてもあの過激な「春の祭典」のイメージが濃厚でしたので、
改めて「ペトルーシュカ」を生で落ち着いて聴いてみると
意外と芸が細かい曲なんだなーという事がよーく分かりました。

ストラヴィンスキーバレエ三部作というと、
火の鳥・ペトルーシュカ・春の祭典なのですけど、
火の鳥の最後のページを仕上げている時に
「異教徒の祭典が開かれ、いけにえの少女が死ぬまで踊り続ける」という夢を見たストラヴィンスキーが
これをヒントに作曲したのが「春の祭典」であり、
「春の祭典」の作曲を始めた頃、気分転換にピアノ協奏曲を書いている途中で
「糸をほどかれた操り人形が、恋をし、ライバルの人形に喧嘩を挑み、散々やっつけられ
オーケストラとトランペットがどんちゃん騒ぎを始める」という夢を見たストラヴィンスキーが
この夢をベースに書き上げたのが「ペトルーシュカ」なのですけど、
「春の祭典」も「ペトルーシュカ」も作曲者の瞬間的な「夢」がベースとなっているのは
大変興味がある話ですね。

ペトルーシュカのバレエは四場から構成されていて、

第一場 復活祭の市場

第二場 ペトルーシュカの部屋

第三場 ムーア人の部屋

第四場 復活祭の市場(夕方)

という風に復活祭の日の一日を背景とし、魔術師によって
ペトルーシュカ・ムーア人・バレリーナの女の子の三体の人形に生命が吹き込まれ、
ペトルーシュカはバレリーナの女の子に惹かれ、色々とちよっかいを出すが見向きもされない・・・
ムーア人の方は、豪華な部屋でバレリーナの女の子と楽しく遊んでいて、
それに嫉妬したペトルーシュカがムーア人に喧嘩を仕掛けるが、
逆に散々にやっつけられ、最後はムーア人の剣で切り裂かれてしまう・・・
最後に、ペトルーシュカ人形の残骸を見つけた魔術師は、
「しょーがねーな」と言う感じで人形を引きずって帰るものの
その途中でペトルーシュカの亡霊が現れ、
魔術師は逃げ帰ってしまう・・・

こんな感じのストーリーだったと思いますが、
何となく、「ピノキオ」の世界に通じるというのか、
人形が悩むという存在的矛盾が最後まで残り、
「ペトルーシュカの存在意義とは何・・??」というテーマの論争まで起こったらしいです。

音楽自体は、それ程「難しい」とか「複雑」という印象は無く
かなり聴きやすい分かり易い音楽なのですけど、
音楽史的には「複調」を初めて音楽に導入した意義の大きさを評価する事もかなりいるみたいです。
でもなんで聴きやすいかと言うと、
実はこのバレエ音楽、相当部分、「ロシア民謡」の引用というか、パクリがあるみたいですね。
ストラヴィンスキーとしては、
「別に民謡をそのまんま使っている訳じゃないからいいじゃーん」みたいな事を言っているみたいですけど
他人の曲も自分の曲も
「俺のものは俺のモノ」みたいな大らかな荒っぽいロシア人そのものみたいな人ですよね・・・(笑)

諸井誠氏の著書に「現代音楽は怖くない」という名著があるのですけど、
この中で、諸井氏は面白い事を指摘しています。
チャイコフスキー・ストラヴィンスキー・バルトークのバレエ音楽(歌劇)には、
時代と場所を超えて「対応関係」があると言われていますが、
確かに「なるほど」と感じる部分もあります。
諸井氏が言われるには、

白鳥の湖⇒火の鳥⇒青髭公の城

くるみ割り人形⇒ペトルーシュカ⇒かかし王子

眠りの森の美女⇒春の祭典⇒中国の不思議な役人

にそれぞれ対応性・関連性があり、それが時代と国を超えて三人の作曲家に音楽的インスピレーションを
与えることで受け継がれているという事になのですけど、
確かに、眠りの森と春の祭典と中国の不思議な役人には、
「美少女」という共通のキーワードがありますし、
くるみ割りとペトルーシュカとかかし王子は「人形」という共通のキーワードがありますし、
白鳥の湖と火の鳥は「鳥」がキーワードになっていて、青髭公も含めて三つとも
「おとぎ話」をベースにしている背景がありますからね。

確かに面白い指摘だと思います。

ところで、「ペトルーシュカ」には色々と版があるみたいで、
生演奏を聴くと、指揮者によって違いが色々あったりして面白い面もあります。
個人的には、ラストがトランペットのソロで終わる版の方がしっくりくる感じは
あるのですが、
版によっては、どんちゃん騒ぎで終わらせるものもありますし、
指揮者の解釈によって、随分と印象も変わるような感じもしますね。

前作「火の鳥」が何となくですけど、ドビュッシーの作品に近いような感覚があり、
どちらかというとファンタジー感漂う曲で
次作「春の祭典」がバーバリズム炸裂で、人間の野生の本性が大爆発するする感じ濃厚である事を
考えると、やはり「ペトルーシュカ」はファンタジーと野生の中間的な感じもし、
自分としては、割と聴きやすいイメージを持っています。
「火の鳥」は途中眠くなってしまうようなだるい箇所もありますし、
「春の祭典」は終始音の暴力なので、
やはりこの「ペトルーシュカ」は一番バランスが取れているようにも感じられます。

ただこの「ペトルーシュカ」はリズムの扱いとか調の扱いは、かなり凝りに凝っていて
音楽史的にはかなり画期的な作品と言われています。

だけど、私としては「ペトルーシュカ」の一つの魅力は、打楽器の扱いがとても面白いという事を
あげたいと思います。

その例として・・・

1.第1場の「ロシアの踊り」

 ピアノの扱いもかなり斬新なのですけど、面白いのはシロフォーンの扱い方・・・
 曲の開始から30秒を過ぎたあたりのシロフォーンのメロディーは、何か一見複調にも聴こえるのですけど
 実際は、「ラソソソ・ラソソソ」という単調な音を叩いているだなそうです。
 この聴かせ方は何か面白い・・・

2.第4場のペトルーシュカの死の瞬間の演出

 人形のペトルーシュカが倒れて死ぬ瞬間のイメージを演出しているのは、実はタンバリンの音です。
 実際の生の演奏会やCDを聴くと、この場面のタンバリンの叩き方は色々な解釈や演出があるみたい
 ですけど、
 ストラヴィンスキーの指示は、
 「タンバリンを両手で持って、床面に平行になるようにタンバリンを落としなさい・・」という
 事なそうです。
 勿論、ステージの床の材質とかコンサートホールの残響によって、高さの調整とか色々検討すべきことは
 多いかもしれませんが、
 これは正直CDを聴いただけでは分かりませんよね・・・
 
他にも場が変わるごとにロングドラムでロールされる演出もかなり面白いと思います。


さてさて・・・この「ペトルーシュカ」なのですけど、
魔術師というのか魔法使いによって「人形」に「魂」が吹き込まれたというのが面白いと思います。
東方Projectの人形使いというか魔法使いのアリスは、同様に人形に魂を入れて、人形を自由自在に操っているのですけど、
この人形自体に「主体性」というのか「意思」はあんまり感じられません。
アリスから何かを命令されて初めて動くという感じで、
アリスから指示されないことは人形自体はやりませんし、余計なことは一切しない・・・・
文字通りの「操り人形」という感じが強いです。
一方、「ペトルーシュカ」の場合は、その辺りが違っていて、人形自体が「自分はこうしたい!!」みたいな明確な意思を
有していて、
だからこそ結果的に・・・
バレリーナの人形に横恋慕したり、
「おまえはただの人形なのだから、身分相応におとなしくしていろ」という魔術師を、ペトルーシュカは睨みつけたりするのです!

なんていうのかな・・・・

操り人形の糸から解放され、バレリーナを愛した瞬間に
ペトルーシュカという「人形」は、ま・・・あくまで擬人的なものなんでしょうけど
「人間」になったといえるのかもしれません。

第四場のラスト近くにて、ペトルーシュカは、「何」に対して「怒り」を感じ、あそこまで暴れたのかというと
色々と解釈は分かれるのかもしれないですけど、

魔術師が、ペトルーシュカにムーア人と喧嘩させてもポロ負けさせるような力しか元々与えていなかったから・・・

バレリーナに振られたことに対する自分自身への嫌悪感・・・

ムーア人にポコポコにされた屈辱感・・・

ま、確かに色々とあるとは思います。

だけど・・・最終的には・・・・

魔術師の「これは人形だ、これは人形劇だ」という警官に対する釈明のこの言葉に
最終的には「怒り」を感じてしまったと言えるのかもしれません。

自分の存在は結局は・・・魔術師によって作られた存在に過ぎず、
「自分はひとりの人間であること」を完全否定されたという「抗議」みたいな意味があったのかもしれません。

「こんなつらい気持ちになるなら・・・心なんかいらなかった」
そうした事を本当は・・・・
「メッセージ」として伝えたかったのかな・・・とも思ってしまいますね。

そして・・・・このペトルーシュカが示唆するものは、別に「操り人形」だけではない・・・・

現代社会において、「学歴が・・」とか「世間体が・・」とか「ちゃんと働かないと・・」みたいな
目に見えない糸で操られている私たち一人ひとりが実は・・・
ペトルーシュカと対して変わりがないのでは・・・・??
「自分たちの存在意義とは・・??」みたいな事を模索している人形ではないのかな・・・とも感じたりもしますね。
 矢代秋雄の「交響曲」は、邦人シンフォニーの中でもトップクラスの名曲だと
 思います。
 毎年のように新進気鋭の若手作曲家とかベテランの作曲家の方が新作交響曲を発表されているのですけど
 ま大半は・・・・初演で演奏されてその後誰にも演奏されないでいつの間にか忘れ去られるというパターンが
 大変多い中、
 初演から何十年が経過した後でも引き続きこうやって定期的に演奏され続けている邦人の交響曲は
 大変貴重なものがあると思います。
 本当にこれは素晴らしい事だと思います。
 それに・・・矢代秋雄/交響曲は、吹奏楽にもアレンジされて、今現在も本当に数多くのアマチュアのスクールバンド等が
 この曲に挑み、そして素晴らしい名演を残し続けている事は本当に嬉しいものがあります。

 やっぱり・・・・素晴らしい名曲というのは、こうやって後世に受け継がれていくものなんですね・・・

 この事は既に何度もこのブログに記しているのですけど
 私自身が「クラシック音楽」という大変深い森の中に迷い込むきっかけとなったのが
 1982年の全日本吹奏楽コンクールの東北大会・・・・
 そして中でも・・・
 花輪高校が演奏したウィリアム=ウォルトンの交響曲第1番と
 仁賀保高校が演奏した矢代秋雄の交響曲と
 秋田高校が演奏したプロコフィエフの交響曲第5番がまさに・・
 私がそうした「深い森の中」に迷い込む直接のきっかけを作ってくれた曲なのでした!!
 
 さてさて・・・話を矢代秋雄/交響曲に戻します。

 この曲は、変拍子・不協和音の炸裂など難しい側面がある一方、第一楽章のテーマが
 「循環主題」のように、第三楽章で提示され、第四楽章の終曲部のコラールでも高らかに
 再現されるなど、分り易い面も多々あります。
 特に第四楽章のあの金管楽器による清らかなコラールは本当に・・・胸にしみるものがあります・・・・
 あのコラールとか循環主題を聴いてしまうと、やはり矢代秋雄はフランス留学時代はメシアンに師事した事も
 あるのですけど、作風は・・・・フランクに何か近いものがあったりするな・・・と感じてしまいますね。
 個人的には、第二楽章のティンパニの「テンヤ・テンヤ・テテンヤ・テンヤ」という特徴ある
 リズムが大好きですし、二楽章のこの特徴あるリズムを前面に出したティンパニとシロフォンとピアノの
 掛け合いは特に大好きですね。
 あの第二楽章のシロフォン奏者は本当に技術的に大変ですけど、とてつもない見せ場&叩き甲斐はあると思います。
 あれは本当に奏者冥利に尽きますね!!
 ちなみに・・・
 あの、「テンヤ、テンヤ、テンテンヤ、テンヤ」(6/8+(2/8+6/8)というリズム形は、作曲当時に朝日新聞で
 連載されていた獅子文六の小説「自由学校」の神楽のシーンからヒントを得たとの事です。
 第三楽章の冒頭のコールアングレの寂寥・・とした響きが実に味わい深いですし、
 途中で執拗に繰り返される打楽器の掛け合い(ティンパニ→シンバル→トムトム→大太鼓→→ウッドブロック)が
 大変効果的だと思いますし、この楽章は・・・・何か・・「和風の夜想曲」という感じもありますね。
 第四楽章はまさに圧巻で、全曲の白眉だと思いますし、
 前半の静けさ、後半のアレグロ、その静と動の対比が実に鮮やかですね。
 個人的には・・・・
 第四楽章の前半のホルンの雄叫びとアレグロに入る前のコンサートチャイムの寂寥感溢れる鐘の響きが
 特に特に大好きな箇所です・・・・

 矢代秋雄の交響曲は、私が所有してるものは、
 ①渡部暁雄指揮の日本フィル
 ②佐藤功太郎指揮の都響
 ③湯浅卓雄指揮のナクソス盤

 ですけど、いずれの盤もそれぞれいい所があってどれも素晴らしいのですけど
 やはり渡辺暁雄の日本フィルの演奏が圧倒的に素晴らしいですね・・・!!
 しかもこの録音、ライヴ演奏なんですよね・・・・
 ライヴであそこまで精密な作りが出来てしまうとは・・・・
 とにかく凄まじいほど完成度と集中度が高い名演だと思います。

 ちなみに・・・・

 広上淳一指揮の日本フィルで、この交響曲を聴いたことがありますけど、
 あれも緊張感溢れる素晴らしい演奏でした。

 矢代秋雄自身は、かなり若い時期にお亡くなりになっているのですね。
 矢代秋雄の作品は、正直この交響曲とピアノ協奏曲と交響的作品しか聴いたことがないのですが、
 それはそうなのです。
 だって、この方は恐ろしいほどの寡作家で、生涯の作品リストも極めて少ないとのことで、
 管弦楽曲はせいぜい10曲程度とのことです。
 だけど、矢代秋雄はこの「交響曲」一曲だけでも、十分すぎるものさえあると思います。
 とにかく、この交響曲と以前書いた事がありますがピアノ協奏曲の二曲でもって
 後世に永遠に受け継がれていくべき素晴らしい名曲を残されたと思います。

 改めてですけど・・・
 第二楽章のあの「「テンヤ・テンヤ・テテンヤ・テンヤ」という特徴あるリズムは本当に面白いですよね!
 特にシロフォンが絡む場面はとっても聴き応えはあるのですけど、
 あれって二回ほど同じような場面が出てくるのですけど
 一回目は、シロフォン+ティンパニ+ピアノですけど
 二回目になるとトランペットがこれに更に絡んで来て、ますます面白い感じになります。
 
 第四楽章もまさに圧巻ですし、終結部の清純な金管コラールがとっても印象的ですけど
 第三楽章の静粛さも最近は結構ツボに入っています。
 そうですね・・・
 私が10代~30代の頃ってこの第三楽章は正直・・・「ちょっと退屈・・・」みたいに感じもしたのですけど
 最近は・・幾分趣向が変化したせいなのか、この第三楽章もとてつもなく大好きです。
 冒頭のコールアングレの長大なソロも素晴らしいですし、
 ラストの消え去るようなフルートソロも素晴らしいのですけど 
 中間部の打楽器の執拗な掛け合いが何度も繰り返されて、この掛け合いに乗っかる形での
 弦楽器とホルンのクライマックスでの響きと雄叫びは
 何度聴いてもじーーんと感じてしまいます。
 あの打楽器の掛け合いなのですけど、正直・・・レコードを聴いただけでは当時よく分からなかった・・・・
 だけど・・・1986年にこの交響曲を初めて生で聴いて
 あの打楽器の掛け合いは、ティンパニ→シンバル→トムトム→大太鼓→ウッドブロックを担当する5人の奏者が
 あの執拗な繰り返しを干出しているのだと分かったものでした。
 やっぱりこういうのって・・・・
 ライヴ感覚で無いと分からないかもですね・・・

 そうですね・・・・感覚で言うと・・・最近このブログでも記事にしたチャンスの「呪文と踊り」の打楽器の掛け合いの部分と
 少しだけ近いものがありそうな感じもあります。

 そしてあの打楽器の執拗な繰り返しの掛け合いは、最初は弱く弱く開始され、段々と怨霊が大きくなり
 そのクライマックスで最高潮の音量に達していきます。
 そして再度ゆっくりと音量が弱められていき、最後は消えるようにその掛け合いが集結します。
 その最後の方で第一楽章の「主題」が再登場し、その主題と共に奏でられるチャイムの弱音の響きが
 とっても印象的です。
 それにしてもあの打楽器の掛け合いの部分は、音の強弱のコントロールとん雰囲気のキープとか
 奏者にとってはとてつもなく高いモチベーションとテンションが求められそうですね。

 最後に・・・

 そのティンパニ→シンバル→トムトム→大太鼓→ウッドブロックの掛け合いなのですけど
 その楽器を見てみると・・・・




これは「ティンパニ」
昔は手締め式でしたけど、最近は足元のペダルで音程を調整するペダル式が圧倒的な主流です。
普通は4台で一組です。

通常の曲は、一人の奏者が一組のティンパニを担当しますけど
例えば・・・・
世俗カンタータ「カルミナ・プラーナ」のように曲の途中で別の奏者がその一組のティンパニの演奏に参加し
二人の奏者が一組のティンパニを担当する場合もありますし、
ウォルトンの1番とかホルストの組曲「惑星」とかマーラーの交響曲第1・3・6・9番などのように二人の奏者が
二組のティンパニを叩く場合もあります。


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これは「シンバル」
通常は「合わせシンバル」が主流ですけど、中には「サスペンダーシンバル」と言って
吊し上げて、ロール奏法でクレッシェンドしていく感じのものもあります。


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これは「トムトム」です。

現在ではダンス音楽やジャズでも使用されており、ヘッドが両面または片面のみに張られている2種類があります。
サイズは大小さまざまで、音程を変えて複数個を使用する事が多いです。


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これは「大太鼓」

ズドン!!という打点を叩きこむ感じがとっても重量感がありますね!



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これは「ウッドブロック」です。

木魚が楽器として変化したものが始まりとも言われていますので、
先日チャンスの「呪文と踊り」で取り上げた「テンプル・ブロック」に極めて近い楽器なのだと思います。

この後の記事が、東方Projectの「光の三妖精」の一人である愛すべきいたずら妖精ちゃんの「サニーミルク」なのですけど、
この「サニーミルク」の事を書いていたら、
なんかやたらと妙に頭の中で鳴り響いていた曲が一つありました。
それが何かと言うと・・・
R.シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」という曲です。

ま・・・妖精・サニーミルクたちのいたずらは・・・本当に可愛くてほとんどが笑って許せちゃうような他愛のないものばかりですし、
そのいたずらもどこか間が抜けていて
なんかいかにも・・・・愛すべきポンコツ妖精ちゃんのしょーもないいたずらみたいな感じで
いたずらの被害に遭った方もなんか思わずクスッ・・となって・・・「あらあら・・・しょうがないわね・・・」みたいな感じで
笑って許せてしまうような微笑ましい雰囲気もあったりもします。

R.シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」も
何となくですけど・・・・そうした雰囲気に近いような感じもあったりします。
「ティル・オイレンシュピーゲル」というのは、14世紀頃のドイツに実在したとも言われるし単なる架空の人物とも
言われる事もあるし、要は、その正体については定かでない伝説の奇人なのですけど、
その生涯の数奇な伝説を「音楽の物語」として「交響詩」という形で単一楽章として18分前後の曲として発表したのが
このR.シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」という曲なのです。
この曲は・・・R.シュトラウスの交響詩の中では屈指の人気を誇り、
「ドン・ファン」・「ツァラトゥストラかく語りき」と並んで大変演奏頻度も高い曲だと思いますし、
今現在も日本各地のオーケストラのレパートリーとして完全に定着している曲の一つだと思います。
それと・・・
吹奏楽コンクールのアレンジものとしても昔から大変人気が高く、今現在もよく自由曲として選ばれる事は
多い曲の一つです。
この曲の最大の聴かせどころでもあり最難関の部分は・・・やはりなんといっても・・・
曲開始早々のホルン奏者によるソロだと思います。
以前、NHK交響楽団のホルン奏者へのインタビューの中で、
「今まで吹いた曲の中で一番プレッシャーが掛った曲は?」という質問と
「今まで吹いた曲の中で技術的に大変しんどくて難しかった曲は・・?」という質問に対して、
このR.シュトラウスの「ティル・・・」を挙げていたのは大変印象的ですし、逆にそれだけ奏者にとっても大変な曲だと
思います。
ちなみに・・・このティルですけど・・・
ラスト近くのクラリネットの「ティルの悲鳴」を示唆する高音の叫び声は・・・・あれは・・・
元・クラリネット奏者から言わせて頂くと・・・
クラリネットの限界を超えた超高音域のものであり、あれはまさに・・・クラリネット奏者にとっては
無茶振りだと思います・・・(苦笑・・・)
だけど、吹奏楽コンクールにおいては、あの超難関のホルンのソロとかクラリネットの超ウルトラ高音域なんて
みんな易々と吹いてしまうんですよね・・・・
あれ・・凄い・・!!と思いますよ・・・ホントに・・・・

この交響詩ですけど出だしのあの温和で柔らかい感じがじつにいいですね!!
あれはまさしく・・・
「これからおとぎ話が始まりますよ・・」みたいなプロローグみたいな感じがして実に素晴らしいと思います。
あのメロディーラインはとっても親しみやすいですね!
あと、ちなみにですけど、この交響詩が作曲された頃に、
それまでの手締め式ではなくてペダルを足で踏む事で音程をコントロールする「ペダル式ティンパニ」が発明され
世に出ていますけど、
そうしたペダルティンパニを最初に効果的に使用した曲の一つとして
この交響詩とか同じくR.シュトラウスの歌劇「エレクトラ」・「バラの騎士」を指摘する見解が多いようです。

さてさて・・・ティル・オイレンシュピゲールですけど、
果たして一体何をやらかしたのか・・・?
そのイタズラですけど、そうですね・・・やっている事は前述の東方のサニーミルクよりは
少し性質が悪い・・・ちょっとやり過ぎ・・・みたいな感じもあるのかな・・・?
ま・・・全体的にはたわいもないといえるのかもしれないけど・・・

例えば・・・・

1.市場で牛馬を解き放ち、市場を大混乱に陥れる。

2.空飛ぶ靴でトンズラを図る

3.お坊さんの姿に化けてテキトーでいい加減な説法をして廻る。

4.美女を口説くがあっさりと振られる・・・

5.学者たちにテキトー論争を吹っかけ、学者たちを煙に巻きそのまま逃走・・・

ま・・・そうやって各地をいたずら放浪して散々悪態ついたところで逮捕され、裁判に掛けられ
「絞首刑」の判決が下り、そのまま息絶える・・・・
そんな感じのストーリーを大変巧みな構成力&楽器配分で表現したのがこの交響詩なのかな・・・とも
思います。
前述のクラリネットの高音の悲鳴というのは、絞首台でのティルの悲鳴です。
だけど曲のラストでは、冒頭のあの親しみやすく温和なメロディーが再現されていて、
そうですね・・・何となくですけど・・
「ティルは確かに死んだけど、ティルのイタズラ魂は今でも生きている」とか
「ティルは永遠に不滅ですよ・・・みなさんの心の中に伝説として今後も生き続けていく」みたいな事を暗示しているようにも
感じられたりもします。

とにかく、曲のイメージが大変し易い曲で、この部分はこの場面というようなイメージが瞬間瞬間で沸き起こるような
感じもあり、
大変分かり易くて親しみやすい音楽だと思いますし、これが人気の所以なのかもしれないですね。

ちなみにですけど、前述の通り、この曲は昔から吹奏楽コンクールにおいても人気が高い曲の一つですけど、
この曲をコンクールで演奏すると、時間制約の関係上、どうしても大胆にカットせざるを得なくなり、
そうですね・・・・
聴き方によっては・・・
ティルはまだ2つか3つしかイタズラをしていないのに処刑されてしまった・・みたいな印象もあったりもしますね・・・

最後に・・・

この曲ですけど打楽器の一つに「ガラガラ」というのか「ラチェット」という大変珍しいおもちゃみたいなものを
使用しています。


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木板式とハンドル式の二つのタイプがありますけど、かなり目立った音を出しています。

ちなみにですけど・・・

このラチェットをこの曲以外で効果的に使用した曲って・・・・
他には・・・
そうですね・・レスピーギの交響詩「ローマの松」がありますけど、
正直他にはあんまり印象にないです。
作曲家としても使いにくい楽器という感じなのかもしれないですよね。


一つ前の記事の「1981年全日本吹奏楽コンクール・磐城高校」に関連して
バルトークのバレエ音楽「中国の不思議な役人」について少しだけ書かさせて頂きたいと思います。
そして・・・後半において
この曲に関連した私の「脳内妄想」なんかも簡単に書いてみたいと思います・・・(苦笑・・)

今、私、「バレエ音楽」みたいな表記をしましたけど、
この作品は普通の一般的なバレエではありません。
一幕もののパントマイムなのです。
しかもその内容は極めて過激です。
あまりに過激過ぎて、初演が中々出来ず、初演後も多くの劇場から
上演禁止処分を食らい、
中々陽の目を見ることが出来なかったいわくつきの作品でもあります。

ストーリーは、簡単に述べると・・・

ある荒廃した都市のスラム街で、ならず者達に売春を強要されていた少女が
ある日も客を取っていた・・・
最初の客は、金のない若者 そしてとぼけた老人
そして最後に来たのは謎の官吏
その官吏は少女に
ひらたく言うと「やらせろ、やらせろ」と迫り
そのあまりの必死さに少女は恐怖を感じ、ならず者たちはその官吏をしばり首にして
殺そうとした・・・
だけど「その少女とやるまでは死んでも死にきれない」とその官吏は
首を宙吊りにされても体が光り輝き、死なない・・・
少女はさすがに不憫に感じ、
宙からおろし優しく抱きしめてやらせてあげると
その官吏は満足したのか、やっとあの世に旅立った・・・

そんな感じのストーリーです。
これはどーみても一般的な「バレエ」ではありませんよね・・・(笑)
だけどそこにあるのは
スラム街という社会でしぶとく生き続ける底辺の人達の生きるたくましさと
スラム街の怪しさ
その辺りのおどろおどろしさと民衆の生きる力が
このバレエ音楽には全体を通して貫かれています。

最初にこの音楽を聴いたのは1987年の東京文化会館の日本フィルの定期演奏会でしたけど
ホントまじでぶったまげました・・・
その「すさまじいバイタリティーと逞しさ、野蛮さ」に
一発で魅了されてしまいました。
このバレエ音楽、出たしからすさまじい荒々しさがあり、
いかにも都会の片隅の底辺で生きる人たちを暗示させています。
コールアングレで演奏されるとぼけた老人の表現も魅力的です。
少女に「やらせろ」と追いかけ迫るシーンは、
トロンボーンのソロとそれに続く激しい行き詰る管楽器の響きで
荒々しく表現されています。

この曲、全体的にソロとしての管楽器の使い方が非常に巧みで、
クラリネットの高音の絶叫
とぼけた感じのコールアングレ
けだるいオーボエ
荒々しいトロンボーンなどと
かなり効果的に使用しています。

バレエ音楽としては、30分程度の非常に短いもので、
更にトロンボーンのソロ以降の激しい部分で終わらせる組曲版もあります。
演奏会ではこの組曲版で派手に終わらせることが多いのですが、
出来ればラスト近くに合唱(といってもウーウーとハミングするだけですが・・)が入る
全曲盤が断然いいです。

この曲をCDで聴く場合、色々と名演が多く選ぶのに困るのですが、
アバドやドホナーニの指揮とか
1971年のブーレーズの指揮の演奏もいいのですけど
個人的には、ショルティー/シカゴ響が圧倒的に素晴らしい演奏を残しています。

この一幕のパントマイムを何とか現代社会に置き換えて
リバイバル上演できないかな・・・?? なーーんて風にもたまーに思ったりもしています・・・
例えば、格差社会が極端に広がり、社会は上流階級と底辺階級にはっきりと分かれ、
舞台は底辺社会の売春ビル・・・
そうした中にふらりと上流階級の世間知らずの若き官僚がふらりとやってきて
売春宿のとある少女が何か気になってしまう・・・

なんかそうしたものを映像化できないのかな・・・と考えたりもします。

そうですね・・・

自分の脳内妄想としては・・・・・・

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ここは22世紀の日本・・・・

ここはある意味理想国家となっている・・・世界各国からも賞賛はされているようだ。
街のいたる所を歩いても塵一つなく全てが「整然と」されている。
整然と立ち並ぶ巨大高層ビルに一軒一軒の敷地面積がやたらと広いお屋敷群・・・
そういわゆる「エリート階級」と呼ばれる支配層が居住するエリアにおいては全てがそうなのだ・・・
このエリアにはいわゆる犯罪も問題も何もない・・・
だって・・・そうならないようにあらかじめ予定調和がされているからなのだ。
だけど・・・そうしたエリアには
僕たち「平民層」は一歩も足を踏み知れることは許されていない。

そう・・・

この時代・・・エリート階級と平民たちが暮らす底辺階級というとてつもない「格差」が普通に存在している社会と言うものは
最早「当たり前」になっているのだ・・・
誰も特に疑問を感じることなく暮らしている。
歴史の教科書をひも解いてみると、21世紀中盤あたりから、ま・・これは世界共通現象ではあるのだが
それまで「社会」を支えていた「中間階級」が全面的に没落し
世の中全体が「持つもの」と「持たざるもの」という相反する価値観で対峙する二つの階層が生み出す
とてつもない「格差」というものが生み出されたというのだが、
ま・・これは・・・ある意味「歴史の自明」という感じもしないではない。
だけど21世紀の場合、それがかなり極端な形で現れてしまったのだ・・・・
僕たちの時代においては、エリート階級対底辺階級の構成比は10:90と言われている。
だけど、エリート階級が所有する冨の割合は、全体の99.99999%以上とも言われている。
そう・・僕たち底辺層は、この自体においては何も所有していないのだ・・
だけど・・・
僕たちの生活自体はある程度「保証」をされている。
そういうヘンな時代でもあるのだ・・
多分だけど、21世紀の人間から見ると「奇妙な社会」とか「底辺層は飼いならされた存在」に
見られてしまうだろう・・
だけど仕方がないのだ・・・
そのように自分たちは既に飼いならされてしまっているのだ・・
どういう事か・・・
この時代、既に技術革新は凄まじくて、ほとんどの労働者というものは不要になっていったのだ・・・
ドライバー・工事現場の職人・工場労働者・サービススタッフ
そして・・・販売手法と言うものはとっくの昔にほぼ100%ネットにとって代わられている。
そう・・「働く事」自体が既に不要なものになっていたのだ・・・
この時代の日本政府はどうやって国家の「財政」を稼ぎ出しているのか・・・
それはほとんどが「知的財産」とか「アィディア」で生み出されている・・・
例えば・・・
頭にほんの少しセンサーを照らすだけで、その人間の過去の行動・言葉・見てきたもの・聞いてきたものを
全て・・・本当に全て把握させられてしまうシステムとか
その人間が過去・現在どういう場所に滞在し、どの場所に何分いたかを全て記録し、今現在どこにいるのかを
全て記録してしまうシステムとか
国土全体に目では見えない「バリアー」を張り、諸外国からどんな攻撃を受けても、それを跳ね返すばかりでなく
その攻撃されたミサイル等自体をそれを発射した国に送り戻してしまうある意味鉄壁の防御システムとか
そうしたシステムを友好国のみにレンタルし、その管理使用料で莫大な利益を稼ぎ出しているのだ。
そしてその前提として・・・
国家の「エネルギー」としてもとてつもないものも開発していた・・・
すなわち・・・
21世紀でいう所の「太陽光」を更に飛躍的に進化させ、昔はソーラーパネルを屋根全体に設置して
やっとこさっとこその家一軒分のエネルギーしか得られなかったのに
この時代においては、10㎝×10㎝程度のパネル一枚で、家一軒分の発電量を生み出すことは
最早当たり前になっていたのだ。
しかも・・! そうやって生み出したエネルギーを「蓄電」し、
過去では信じられない話なのだが、単一乾電池程度の蓄電装置で工場一棟分全体の使用電量を生み出していることは
最早当たり前の事なのだ。
そういう訳で・・・
一部のほんの限られた人達が生み出した技術によってこの国家・社会が支えられていて
そうした技術に関連した人たちがそうしたエリート階級を構成し、
一部の人たちの「頭脳」でもって残り90%の生活を支えていると言っても過言ではないのだ。

だけど・・・

さっきも言ったけど、そうした底辺階級大部分の人たちって、別に普段はやる事ないんだよね・・・

何でかと言うと、さっきも言ったけど
生産ラインとかサービスシステムとかほとんど全てコンピューターやロボットがやっているから
別に自分達の存在意義はないんだよね。
僕たちの生活は基本的にはほぼ全て国家から「保証」をされている。
僕たちは16歳を過ぎると政府から「一枚のカード」を手渡される。
そのカードは僕たちは「魔法のカード」と呼んでいるのだが、毎月月初になると
自動的に一定のポイントが付与される。
そうそう・・・この時代はほとんど「貨幣」というものは流通していない。
ほぼ全てこうしたカードによるその場のポイント決済が全てなんだ・・・
あるお店で何かモノを買ったら、その買った分がポイントから差し引かれていく。
そのポイント額なんだけど、
そうだね・・・21世紀初めのこの国の価値で言ったら大体毎月35万円くらいといった感じだろうか・・・
おっと・・・そんな月額35万円なんて言うと、過去の人達はびっくりしちゃうよね。
だけど違うんだ・・・
僕たちの時代は、既に消費税とか固定資産税とか住民税とかガソリン税とかそうしたほとんど全ての税金は
廃止になっている。
だけど・・・その代わりに「人頭税」みたいなものでまとめて一気に徴収されてしまう。
そうなんだ・・・月初に確かに35万ぐらい入ってくるのだけど入ったと同時に大体そうだな・・・12万ぐらいすぐに
差し引かれてしまう。
だから残った23万ぐらいで生活をしなくちゃいけないんだ。
僕たちは普段は「働く」ことは基本的にはしていない。
だって・・・仕事がないのだし、政府が別にしなくていいと言っているのだから仕方がないだろ・・・
政府の言い分としては、
要は・・
君達の存在価値というものは、「消費」をすることだけでいい・・との事らしい・・・
カードのポイントで何かモノを買ったりサービスを受けたりして、それでもらったお金を社会に同時に還元しろという事
らしいね。
あ・・・言っておくけど、このポイントはその月に使い切らないといけないんだ。
翌月に繰り越しと言うものは一切認められないし、カードに例え10万ぐらい残っていても月初の段階で
一瞬にゼロになってしまうんだ・・・
仕事は特段しないというけど、
ま・・月に4~6日くらいは、政府から例えば・・・
「ここの地区の清掃活動に入って欲しい」とか
「この地区には今月外国の要人が来るから、その警備員の一人として任務にあたって欲しい」とか
ま・・・色々くるけどね・・・
ま、それは・・たまに仕事をする事で「退屈しのぎ」になっているのかもしれない。
僕たちは普段は特に何もしていない・・・
何をしているかと言うと・・・別に何もしていないよね・・・(苦笑・・)
ゲームして遊んだり、昔のアニメとかドラマのソフトを見たりしているけど、とにかく・・・膨大な数のソフトもあるから
別に退屈とは思わないね・・・
何か悪く言うと確かに飼い殺されているのかもしれないよね。
だけど・・・・
なんか昔読んだ本によると、21世紀前半~中盤は持つものと持たざる者の「格差」がとにかくひどかったみたいだね。
で・・なんか色々と一悶着とか闘争があった末に、色々な技術革新という影響もあったけど、
今日のようなシステムに落ち着いたんだよね・・・
そう・・・・
結局は・・・一部の「持つ者」がほとんど大半の「持たざる者」の面倒と言うのか、最低限の「生活保証」をする
という方向になっちゃたんだよね・・・
代わりに・・・・
僕たち平民層と言うか底辺層は、いわゆる「選挙権」とか「参政権」みたいなものは放棄しているんだよね・・・
ま・・・それも悪くはないか・・・
別に働かなくても・・・別に難しい事を考えなくても
テキトーに遊んでゲームでもしてテキトーに消費して一定の生活は保証されているし
遊んででても生涯の生活は成り立っているんだよね・・・
ま・・・古代ローマのポピュリズムが堕落した際の市民が求めた「パンとサーカス」みたいなもんだよね・・・
このこ時代の頃の僕たちにとって「政府」とは・・・要は・・・「信託の対象先」ということなんじゃないのかな・・・?
あなた達にこの国の現在と未来を全て託すからその代わりに今現在の僕たちの生活もちゃんと
見ていてね・・・
保証さえちゃんとやってくれれば別にあなた達に何も文句は言わない・・・
だって・・・・
僕たちはこうした生活を十分に楽しんているし、別に不満は何も無いのだから・・・
だけどね・・・・
時たま、確かに鬱陶しくは感じるよ。
だって・・・基本的に僕たちの生活は全て管理というのか、監視されている側面もあるから・・・
さっきさ・・カードの話をしたけど、同時に僕たちは16歳になったと同時に
強制的に24時間装着していないといけない「腕時計」みたいなものも渡される。
これってある意味凄いアイテムだよね。
だって・・・
24時間中、僕たちが今どこにいてどういう所で過ごしていたのかという情報が全部つっつ抜けになってしまうんだよね。
前述の脳内記憶の掘り起しシステムと合せて
この時代、僕たちの世界では過去にあったような「犯罪」といものはほぼ皆無・・・・
だってさ・・・アリバイが全部白日のもとにさらちゃうのだから悪い事しようがないんだよね・・・(苦笑・・・)
だからさ・・・
僕たちは全て政府の意のまま操られているのかもしれないんだよね・・・
そう・・・彼らにとって
僕たちの存在なんて結局は、1.消費の対象 2.子孫を残す事である程度の人口を維持
こうした役割しか期待されていないんだよね。
ま・・・それでもいいか・・・、確かに生活自体に不自由はないからね。
そうそう・・・さっきの腕時計なんだけど、あれってさ・・・一種の「健康管理」にも使用されているんだよね・・・
あれでもって、血圧とかコレステロール値とか健康上の数値も日々把握されていて
数値が悪くなったり健康上何かしらの問題がある場合は、早めに病院に行かされるんだよね。
21世紀の日本の財政は、そうした医療と年金で財政が破綻しかけと聞いた事があるけど、
この時代においては、まず「年金」については、結局は・・さっきの「カード」に振込された月初のお金で
全てをうまくやりなさいという事で解決・・・
医療については・・・そうだね・・、この時代においては、腕時計のシステムによって
僕たち平民層にとってはどちらかというと「予防医療」を重視されている。
要は・・・お前ら病気にあんまりなるなよ・・・みたいな感じだね。
そしてエリート階級の人達なんかは、どちらかというとそうした予防医療よりも実際に病気になった後の
「治療」の方が優先されているのかな・・・

こうした事は、21世紀の人たちから見ると・・・それは「自由」なんかじゃない・・・と言われちゃうかもしれないよね。

だけど・・・

本人たちがそうした価値観なんだからそれでいいじゃないか・・・と思うしかないんだよね・・・

自分達の今の生活は、衣食住みたいな人間の基本的欲望はほぼ完璧に満たされているよね。
別に普段仕事なんかしていないから出世欲とん向上欲とか
自分を見て欲しい! 認めて欲しい欲なんかはこの時代はほぼ皆無じゃないのかな・・・?
だけど・・・
そういう時代でも、多分21世紀の人達に比べても大して変わりがないのは・・・・
否! むしろ「普遍的」なのは・・・
「性欲」だけ・・・という感じになってしまうのかも・・
ま・・・これはある意味仕方ないよね・・・だってこれこそが僕たちの「生きる本能」なんだもん・・・
僕たちの時代は、平民エリアは、家賃はタダなんだけど、政府が指定した低層アパートとか平屋で暮らすことが多い。
エリート層のあの超高層マンションとか広大なお屋敷とか隅から隅まで清掃された美しい街並みに比べると
僕たちが居住するスペースはかなり薄汚いのかもしれない。
だけど・・・ま・・・これは政府の・・ま・・・「黙認」というのか
「お前ら、別にそうした事をやってもいいけどあまり大がかりにやるなよ・・何か問題あればすぐに摘発するからな・・」
みたいな感じで・・・
ま・・・細々としたもんなんだけど、
底辺層の中には・・・1950年代あたりまで確かに存在していた昔の「赤線」みたいな事をその平民層が暮らす
居住スペースの中でやっている人達もいるんだ・・・
ま・・・こういう全てが管理された時代でも・・・
人間と言うものの「ドスケベ」という「本能」は残っているという事なんだよね。
実は・・・
僕自身もそうした売春組織みたいな事を小規模ながら運営している・・・
ま・・あくまで退屈しのぎみたいなもんだけどね・・・
だけどこれって面白いもんで・・・
普段は・・エリート階層に所属し、普段の日常は小難しそうな顔してプログラミングなんかしている
あの超高層タワーに住んでいる人達なんかも
この赤線地帯では「ただのスケベオヤジ」になってしまうんだよね・・・・
あれってなんか面白いよね・・・

そうそう・・・先日もなんかヘンな話があったんだ・・・
年は30代ぐらいかな・・・なんか官僚というのか役人くさい奴が一人こっそりと・・・客として表れて
「だれかいい娘はいないのか」と聞いてくるんだ。
その時・・・店内には女の子は2~3人しかいなかったけど、
その役人さんは、なんかしらないけどエミという女の子がお気に召したみたい・・・
このエミなんだけどさぁ―、
エミ自身は「あたいは10代後半・・」とか言っているんだけど
「おまえのどこが10代なんだ・・」という感じではあるんだよね・・・
だけどこのエミなんだけど、確かに顔はロリっぽいのだけど体は妙に妖艶なんだよね・・・
あの「アンバランスな感じ」が一部の人にウケるのかな・・・
だけどエミ自身は・・・「あんな役人嫌い!」とかいってお相手を拒否しちゃうんだよね・・・
だけどそのお役人さんは、エミとやりたくてやりたくて仕方がないみたいで盛んにエミを口説くんだけど
エミは完璧嫌がっている・・・
だけど・・・
そのお役人さんは・・・唐突に切れだし、こんな狭い店内でエミを追いかけ始めたんだよね・・・
さてさて・・あの時はちょっとした修羅場というのか、鬼ごっこが発生し
なんかヘンに鬼気迫る表情でエミを追っかけまわしているんだよね・・・
なんかあの感じは・・・
ちょっと古い話なんだけど、20世紀に作曲されたというバルトークという方の「中国の不思議な役人」
そのまんまの世界だったんた゜よね・・・
バルトークの場合は、あまりにもそのお役人さんがしつこくて、ならず者たちは
その役人さんを吊し上げてしまって首を絞めたんだけど、その役人さんの体が急に不気味に青白く光りだし
それでもその役人さんは「やらせろ、やらせろ・・」とか言ってるんだよね・・・
その役人さんをさすがに可哀想に感じた少女がその役人さんをおろして抱きしめてやらせてあげたら
やっと成仏した・・・そんな話だったけど
こちらの世界でもなんか似たような感じだったよな・・・
結局・・・エミが根負けしてしまって結局はその役人さんのされるがままになってしまったようたけど、
そうだね・・・
結局は・・・人間がいくらシステム的に進化を遂げたとしても
こういう「本能」というものは・・・変わりがないっちゅーことだよね・・・

ま・・・そうした話は・・色々とあるんだけど、ま・・今回はこの辺でやめておこう・・・・


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しょーもない私の「脳内妄想」・・・・大変失礼をいたしました・・・(苦笑・・・)

中学校の頃の音楽の授業だったかな・・・?
B.ブリテンの「青少年のための管弦楽入門」(「パーセルの主題による変奏曲とフーガ」が正式タイトルです・・・)という
管弦楽曲を音楽鑑賞の時間に聴いた時、
音楽の教科書の中にこの曲で使用する楽器の事が結構細かく書かれていて
ま・・・当時吹奏楽部員であった自分にとってはごく当たり前の風景だったのですけど
弦楽器・管楽器・打楽器が写真と共に色々と紹介されていて結構興味深かった印象があります。
この曲の中で使用される「打楽器」として・・・

ティンパニ
大太鼓とシンバル
タンブリンとトライアングル
小太鼓とウッドブロック(木魚)
シロフォン(木琴)
カスタネットとタムタム(銅鑼)
ムチ

が記されていて、当時生徒達の間でも・・・

「え・・・ムチって・・・あの懲罰用のビシャピシャ叩きつけるもの・・?」とか
「え・・・あのSM道具がこんなクラシック音楽でも使用されるの・・?」とか何か・・・・ヘンな方向で盛り上がっていたものです。

そうですね・・・

確かに「ムチ」というと革で床を叩きつける際のあの「ピシャッ!!」みたいな音をイメージする人も多いのかもしれませんけど、
実際にブリテンの「青少年のための管弦楽入門」という曲を耳をダンボのようにして細かく聴いたとしても
そうした「ピシャッ!!」みたいな音は聴こえてこないと思います。

ま・・・そりゃそうなんですよね・・・(苦笑・・)

ま・・・私自身もそれは後でわかった事なのですけど、
クラシック音楽上での「ムチ」という楽器は、別にあのSMアイテムという訳ではなくて・・・・(苦笑・・)
何と言えばいいのかな・・・?
拍子木を大きくしたものと言うのか・・・
細長い2枚の木の板を合せてバン!!という音を鳴らすもの・・・みたいな楽器です。

私が前述のブリテンのこの曲を最初に生で聴いたのは、確か尾高忠明さん指揮の読売日本交響楽団
だったかな・・・
確か私が上京したての頃だから1984年頃の話だと思いますが。
この演奏を生で聴いて前述の「ムチ」の謎は解けたという感じでした・・・(笑)
オケによっては、ティンパニー以外の打楽器は、3人しか使用していませんので
打楽器奏者は、大太鼓・小太鼓・シンバル・ドラ・ムチ・シロフォーン・
ウッドブロック・サスペンダーシンバルなど多種多様な打楽器を掛け持ちで演奏しますので
結構大変だと思います。
特に「ムチ」の場合は・・・・
前述の通り、細長い板を結構派手にというか・・・視聴効果たっぷりに叩き付けますし、見た目にもかなり目立っていると
思いますので、奏者としては叩きがいがあると思います。

だけど、この「ムチ」をもっと効果的に使用した曲があります。

それは何かと言うと、ラヴェルの「ピアノ協奏曲」です。
この第一楽章の冒頭で、この「ムチ」がバシッ!!と叩かれていきなり曲が開始されますので
ピアノ奏者もバックのオケも大変だと思います。
最初にこの曲を生で聴いた時、
その「意外さ」にドキモを抜かれたものですし、
「何じゃこの曲・・・まるで猫だましみたいな曲だな」とも思ったものでした。
随分昔に、お相撲さんの舞の海が、立会いの時に、相手の意表を突くために
目の前で急に手のひらをバーンと叩いて音を出して、相手をびっくりさせてその隙に
上手を取るという戦法がありましたが、
まさにクラシック版猫だましという感じです。
この「ムチ」は第三楽章でも再度使用されます。

ブリテンの曲と違ってラヴェルの「ピアノ協奏曲」第一楽章冒頭の場合は、そのムチがバシッと叩かれると同時に
曲が開始されますので
あれ・・・奏者のプレッシャーはかなり大変なものがあると思います。

ラヴェルのピアノ協奏曲は、全般的には第一・第三楽章の才気煥発的な茶目っ気
第二楽章のファンタジーの対比が非常に面白く、
18分程度の短い曲なのですが、聴かせどころ満載の曲です。
特に第二楽章のコールアングレの長いソロは、奏者の腕の見せ所ですし、
その陶酔感たっぷりの夢心地にはホント、うっとりさせられます。
ちなみにですけど・・・・第三楽章の主題は、なんと・・・あの映画「ゴジラ」のテーマ音楽に大変よく似ています。

このラヴェルのピアノ協奏曲を沼尻竜典指揮/新星日本交響楽団で、梯剛之さんという全盲のソリストと共演した
演奏を聴いた事がありますが、
「あの難しい出だしをどうするのかな・・・・ソリストは目が見えない方だし、ムチ奏者との兼ね合いもあるし・・」と
思っていた所・・・
ムチが叩かれる寸前に、指揮者がピアノの蓋にコツコツと拳骨で
たたいて合図を送り、ムチもピアノもバックのオーケストラも何の乱れもなく演奏が展開されていったのは
「さすが」という感じでした!!

そうですね・・・吹奏楽オリジナル作品ですと、この「ムチ」をかなり効果的に使用した曲として
チャンスの「呪文と踊り」とか
バーンズの「呪文とトッカータ」(祈りとトッカータ)
などがあると思います。


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うーーむ、どうも最近・・・「呪文」というと・・・「キュアップ・ラパパ」というどこかの「魔法使い」のアニメを
連想してしまう私は・・・・
「プリキュア」の見過ぎ・・・という感じなのかも・・・(苦笑・・・)
新年初めて聴いたクラシック音楽は、意外にも・・・ショパン/ピアノ協奏曲第1番でした。

このブログを以前からご覧になっている方からすると

「えーーーもいつも聴いているのはプリキュアのサントラ盤とソング集じゃないの・・・?」

「ダンスフォラトゥーラといった吹奏楽の爆音系とかマーラーとかショスタコみたいな少しひねくれた曲ばっかり
聴いているんじゃないの・・・?」

「ショパンなんて・・・・全然相応しくないし似合わない・・・」

みたいな感想をお持ちになる方もいるのではないのかな・・・と思ったりもしますけど
ま・・・こういうポンコツ管理人でも
ショパン/ピアノ協奏曲第1番みたいな清純で瑞々しい音楽を聴きたくなる事もありますので・・・(笑・・)
そう言えば・・・・
昨年は新年初めて聴いたクラシック音楽は、ショスタコーヴイッチ/交響曲第7番「レニングラード」
一昨年はプロコフィエフ/ピアノ協奏曲第3番という
音量バリバリの壮大な音楽という感じのものでしたけど
ショパンみたいにとっても可憐で恥ずかしがり屋さんみたいな曲を新年早々聴くなんて・・・
これはいよいよ「退行現象」ということで、いよいよ・・・・前期高齢者に向けての第一歩の始まり・・・という
感じなのかな・・・・(苦笑・・)
だけどこういう瑞々しい甘くてせつない曲を聴くのもたまにはいいものですね・・・・

でもショパンのピアノ協奏曲第一番って、ホント「青春の甘酸っぱい」感じ満載の曲ですね。
異常にながいオーケストラの序奏部分
第二・第三楽章に比べて明らかに長すぎるようにも感じられる第一楽章
(同じ事は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番にも言えるのですけど・・)
「ロマンス」というタイトルにぴったりとしか言いようがない第二楽章のせつなさ・・
「優しい決別」・「優しさと甘美さのかたまり」みたいな第三楽章・・・・
いずれの楽章も心に優しく響く音楽で、自分としては、この曲を聴く度に何か「優しい」気持ちに
なれそうな気がします。
私としては、第二楽章の後半のピアノソロ部分とそれを支える管弦楽の伴奏部分の
優しい対話に何か毎回聴く度に「じーん」とします。
普段、吹奏楽とかプロコフィエフとかショスタコーヴィッチとかストラヴィンスキーばかり聴いていると、
たまにこういう単純で優しい甘い
音楽に触れると、何か「はっ・・・・」とするものはありますね。

この協奏曲ですけど、若かりしショパンがヨーロッパに演奏旅行に赴く前に、ワルシャワで開催された
告別演奏会で初演されています。
一説には・・・・片思い中だった女の子もこの演奏会に出演していたみたいですね・・・
だけど・・・
元々内気で恥ずかしがり屋な上に、十分な音量を持てないショパンはやがて、コンサートホールでの
管弦楽団との「協奏」みたいな事はあんまりしなくなり
もっぱら、サロンみたいな少ない人数での聴衆だけを対象にしたピアノ一台だけの独奏会みたいな形でしか
人前で演奏しないようになってしまいます。
だけど・・・
たまーーにですけど、弟子たちの前でこのピアノ協奏曲第1番を弾き語って、
「私は・・・この曲が大好きでした・・昔は・・・こんな曲を人前で演奏した事もあるのです・・・」と
しんみりとした口調で語っていた事もあるそうです。

この協奏曲は・・・前述の通り、本当に終始一貫して甘酸っぱい音楽が展開されています。

そうですね・・・・この音楽は・・・・まさに・・・
「恋に恋する純粋な乙女のための音楽」みたいな香りが漂います。
そう・・・
「夢見る少女のための音楽」と言っても過言ではない感じがあります。
実際・・・これは聞いた話なんですけど、
10代~20代前半のピアニストを目指している音大生とか音大生の卵たちが
「オーケストラと協奏してみたい曲」としては断トツの一位というか、相当の人気協奏曲のようですね。
でもなんかそれは本当によく分かる気がします。
そうですね・・・・
正直に私の「本音」を書いてしまうと、
この協奏曲だけは、男に弾いて欲しくない・・・・
おばさんピアニストにもあんまり弾いて欲しくない・・・・
せいぜい・・・・30代前半までの女性限定で弾いて欲しいな・・・みたいな気持があったりもします。

個人的には、若い頃のアルゲリッチがソロを担当した演奏にすごく魅かれるものがあります。
他のピアニストにはない、独特のタッチが随所にあり、
この曲に対する造詣の深さを感じさせてくれます。
日本人の演奏では、仲道育代さんのビクター盤が好きです。
この曲の生の演奏は、それこそ腐るほど聴いていますが、
正直あまり「これぞ!!」と絶対的にお勧めの演奏はありません。
強いて言うと、1996年9月の読売との共演の小山実稚恵さんが一番よかったかな・・・

だけど、生の演奏で最も印象に残ったのは、
1996年のデュトワ指揮/NHK交響楽団 ピアノ/アルゲリッチの奇跡的な顔合わせの演奏だと思います。
ご存知の人も多いと思いますが、デュトワとアルゲリッチは元夫婦で、
1970年代に二人がN響との共演で来日した際、成田空港で壮絶な夫婦喧嘩の末破局したとの
事ですが、それを考えると・・・まさにこの1996年の演奏は・・・
ドタキャン公演以来の「幻の演奏会の再現」と
クラシック好きな人の間では、結構話題になったものです。
確かこの時のN響の演奏会は、「リスナーが選ぶベスト曲目投票」で選出された曲目で、

〇道化師の朝の歌

〇ショパン/ピアノ協奏曲第1番

〇幻想交響曲

で構成され、アルゲリッチは、ショパンのソリストとして出演していました。

演奏は本当に素晴らしかったです!!

若い頃のタッチとほとんど変わらず、外見は魔女みたいに老けていても(苦笑・・・失礼ですよね・・・)
感性はあまり変わっていないかのような演奏で、私は結構エキサイトしていました・・・
演奏終了後、意外と深々とペコペコ頭を下げているアルゲリッチの姿に何か多少の意外感は
ありましたけどね・・・
ま・・・逆に言うと・・・アルゲリッチも随分と丸くなったものだ・・・と妙に感心したものです・・・

ショパンのピアノ協奏曲第1番は、第1番という表記がされていますが、
実際は第2番の方が先に作曲されています。
第2番は、第1番と大体似たような構成・感じなのですが、1番のメロディーの豊かさには
足元にも及ばないと思います。
ただ、第三楽章後半でホルンのファンファーレみたいなものも出てきて、
オーケストレーションが下手で有名なショパンにしては、幾分凝った感じにもなっています。

よく第1番は、オーケストレーションが貧弱とかオケとの掛け合いの魅力が皆無とか
伴奏付きピアノ曲の領域とか悪口を書かれることも多いこの曲ですが、
ショパンらしい線の細さや優しさを出すには、この位のバックでないとその「瑞々しさ」を醸し出すのは
難しいと思うので、自分としては、特にこのオーケストレーションで十分だと思います。
ただ、第1番は基本的に二管編成なのですが、ホルンが4に対して、トロンボーンが1という
やや変則的な編成を取っているのがなんか面白い感じはあります。

ま・・・たまーーにはこういうショパンの瑞々しい音楽でも聴いて・・・
そうですね・・・
気持ちだけでも「瑞々しい感性」は忘れずにいたいものですね!!
12/28(月)はお休み・・
そして・・・12/29(火)がやっと御用納めで、これでもってとりあえず一年間の仕事、お疲れ様でしたっ!!という
感じになります。
12/30は残務処理の為、ほんのすこーーしだけサービス出勤なのかも・・・・
ま・・・それにしても・・・11月後半から12月のクリスマス辺りまでこんなにバタバタした年は近年ではあんまり
なかったようにも思えます・・・
12月上旬辺りから、そうですね・・・正直、ヘロヘロ状態になっていて
ホント、みっともない話ですけど、
10秒間瞳を閉じていると・・・・立っている状態でも寝てしまう・・みたいな感じにすら陥っていた時期も
ありました。
このブログは基本的には「年中無休・毎日更新」を一つの方針にしてきていたのですけど
12月に関しては、四日ほど更新をサボってしまった程でした・・・
ま・・・こうした未更新とかブログ自体の放置とかコメントの放置とか
自分にしては・・・珍しいな・・・という感じの12月の運営状況でした。
ま・・・だけど自分二ヵ月間に渡って取り組んでいた仕事もなんとか無事に任務完了できましたっ!!
一時は・・・
「あーー、どうしよう・・・今年はマジで年内に完了できそうもない・・・マジでやばい・・・」という感じでしたけど
12月下旬からの「火事場の馬鹿力」が功を奏したみたいで
とにかく・・・
なんとか無事に終わる事が出来そうで正直・・・一安心という感じです。

ま・・・・とにかく・・・!!
12/30~1/5の一週間の長期休暇の間は、のんびりと過ごしたいものですっ!!
具体的には・・・・
ま・・・言うまでも無く「プリキュア三昧」の日々なのかな・・・(苦笑・・)
そうですね・・・・
二日間に渡って「ハピネスチャージプリキュア」の第1話かに最終話までぜーーんぶ一気に視聴し
一日は・・・初代から現役の姫プリまでの歴代プリキュアを各シリーズ2~3話程度
見てみたいものです!!
時間があれば・・・・お正月にMOVIXにて引き続き公開していれば
「ガールズ&パンツァー」の映画も再度見てみたいな・・とも思っていますし、
年末にちょこちょこ購入しておいた東方関係の本とか同人誌なんかもじっくり読んでみたいな・・と思っています。
え・・・??
うちの奥様ですか・・・??
うーーーん、あのお方は・・・
お正月は毎年毎年そうなのですけど、とにかくどこにも行きたがらない・・・
「家で何もしないでボケっ・・としているのが一番・・・」との事で、
私もそういう所が大好きですっ!!(苦笑・・・)

さてさて・・・

この話は昨年の同じ時期にも書いたと思うのですけど
今年もほぼ同じような体感をしたので、またまた性懲りもなく書いてみたい事があります。
何かと言うと・・・
イギリスの作曲家、マルコム=アーノルドが残してくれた交響曲第2番は、
車での移動の間のBGMとしてはまさしくうってつけ・・・そして第四楽章は・・・
まさに・・・
「エクスタシーの極み!!」と言えるのかもしれないという事です。

12/9の記事で書いた通り、仙台の日帰り出張の際とか
先日の12/23の都内一斉顧客廻りの際の都内横断の際とか
12/24のイブの日の再度の仙台日帰り出張の際とか
車での移動時間の際は、とにかく、このアーノルドの交響曲を流し続け
とにかく・・・
自分自身に「あともう少しで終わり・・・頑張って・・」みたいな喝を入れるのにはとにかく大変な効果が
あったと思います。

この交響曲はBGMとして聞流すには「うってつけ」の曲ですね。
特に第四楽章のスピード感と爽快感は半端ない感じ・・・
ショスタコーピッチのような「内面性」とか「メッセージ色」は正直皆無の曲ですし、
悪く言うと映画音楽というかイージーリスリングみたいな曲という側面もある20世紀の交響曲ですから、
聴いていて、運転の支障になる要素は・・・あんまりないですね・・・・

アーノルドの交響曲作品って、
多分音楽評論家のエライ先生たちの視点からは
「これは安っぽい映画音楽・・・・」
「何のメッセージ色も訴えるものも無い・・・・単に色彩感とか外見的派手さのみを狙った
音楽的価値の乏しい作品」と
酷評される事は間違いないと思うのですけど、
私としては、
「別に安っぽくたって、メッセージ色が無くたって、新しい技法が無くたって、
聴いていて、楽しい!!と感じれば別にそれでいいじゃん・・・・」と思ってしまいますね・・・・
別に「音楽」とは「芸術的素描」だけを求める必要もないと思いますし、
何も難しい事を考えずに、聞き流すだけでも何となくの楽しさ・ウキウキ感・ドキドキ感が伝われば
それだけで十分・・・・
そういう曲がたまにはあってもいいじゃないか・・と思いますけどね・・・・

アーノルド自身若い頃はロンドンフィルに所属していた時期もあり、トランペット奏者を務めていた
そうです。
これは何となく分りますよね。
アーノルドの交響曲第2番・第4番・第5番に親しんでしまうと、いかにアーノルドが管楽器、
特に金管楽器の使い方が巧みで、どうすればより高い演奏効果が得られるのかを熟知しているのが
よーーく伝わってきます。

交響曲第1番は、実は新婚間もない頃の作品であり、同時に作曲家として生きていこうと決意をした時期とも
重なっているようです。
だからこそ第一楽章冒頭の「高らかな気持ち」が表現され、
フィナーレで「決意に満ちた感じ」が出されていると思うのです。
だけど船出による「気負い」が少々感じられるのも少々痛い所・・・

その点、次作の交響曲第2番では、そうした気負いも取れ、実にストレートでシャープな感覚の曲が
生まれる事となります。
第1番が少々肩に力が入りまくったホルンの壮大なファンファーレで開始されるのに対して、
第2番は、何か「ダッ、タッターン・・」と「膝かっくん」を食らったみたいな脱力した感じから始まり、第一楽章は
終始穏やかな表情で終わります。
リズム感の面白さと遊び心の第二楽章を経て、
長大なアダージョ楽章の第三楽章へと至るのですが、この楽章が実に陰鬱というか、
いかにも「夜の世界」・「暗黒の世界」みたいな感覚の音楽なのです。
中間部に大きく盛り上がる部分があるのですが、これも何か悲愴感が漂います。
そして第四楽章のフィナーレへと至るのですが、これがまた元気が良くてスピード感があって
豪快に金管楽器が鳴り響く「華麗な音の絵巻」という感じの音楽なのです。
この楽章を聴いてしまうと、
「じゃあ、先程までの夜の音楽の第三楽章とは一体なんだったの?」という感じになってしまうのですが、
そんな細かい事や伝統的手法に全然こだわらないのがアーノルドの良い所。
楽章ごとに突然表情が変わってしまうのは、アーノルドのシンフォニーの世界の特徴であり
その「突然さ」がアーノルドを聴く楽しみの一つだと思うのです。

個人的には第四楽章の爽快感にしびれます・・・
あのスピード感はたまらない魅力ですよね。
切れ味も抜群!!
ラストの音楽的高まりは・・・まさしく「エクスタシーの極み」といっても決して過言ではないと思います。
特にラスト近くのティンパニーソロは、多分ティンパニー奏者冥利に尽きるとおもいますね・・・・
あのソロから辺りの金管楽器の爆発的咆哮は、多分奏者は相当爽快であり、たまらないと思います。
ま、聴いている方も「気分スッキリ!!」という感じになれますね・・・
あの第四楽章のラスト近くのティンパニーソロとか
ウィリアム=ウォルトンの交響曲第一番第四楽章の二人の奏者によるティンパニーの叩き付けなんかは・・・・
あれは一度是非経験したいものですね・・・・
あれを打点を完璧にビシッと決めて叩けたら
「何かもう死んでもいい・・・・」みたいな恍惚感というかエクスタシーに浸れそう・・・・

と思っていたら・・・・
先日・・・
なんと、久しぶりにアルトサックスとティンパニを叩く機会に恵まれ、
実際に、このアーノルドの交響曲第2番~第四楽章の終結部のティンパニを自分自身で叩く事が
ほんの少しの時間ですけど持つ事ができました・・・

やっぱり・・・!!

あれは・・・叩いている方はとてつもなく気持ちがいいですね!!

あの時の私は・・・・

「その時、私は命を落としても構わないと思った・・」
(by 「響け! ユーフォニアム 第8話より)

ま・・・その話は、この次の記事で語っています・・・
管弦楽の作品を吹奏楽としてアレンジされる事は全然珍しくないのですけど
その逆のパターン・・・・
吹奏楽オリジナル曲を管弦楽曲にアレンジしてしまうという事も
たまーにですけどあったりします。
その代表的な例が伊藤康英の吹奏楽のための交響詩「ぐるりよざ」を作曲者本人の手で
管弦楽ヴァージョンにアレンジしたケースなのかな・・・?
他にもそうですね・・・
K.フーサの「プラハのための音楽1968」とか「この地球を神と崇める」なんていう素晴らしい古典的名曲を
管弦楽作品としてアレンジした事例もありましたね。
「プラハのための音楽1968」の管弦楽版は、マルコポーロから出ていたCDを持っているのですけど
この演奏・・・申し訳ないけどスカですね・・・
聴いていて全然何も伝わるものが無いし、淡々と無機質に音楽が進行するだけ・・・という印象があります。
「この地球を神と崇める」の管弦楽版は、確か数年前に下野竜也さんが振られていましたね。
熱い指揮者の下野さんですので、これは是非とも生で聴いてみたかったです。

さてさて・・・そうした吹奏楽作品を管弦楽にアレンジした最初の曲って何だろう・・・?

正直この回答は分かりませんけど、その先駆者的ケースなのが
ヴォーン=ウィリアムズの「イギリス民謡組曲」なのかもしれませんよね。
この曲は1923年に吹奏楽作品として作曲され、確か・・・翌年の1924年にジェイコブによって管弦楽曲化されたと
記憶しています。
でもこの「イギリス民謡組曲」ですけど、本当に素晴らしい名曲ですよね!!
曲の至る所にどこかで聴いたことがあるような親しみやすいメロディーがちりばめられていて
聴いているだけで
別に私はイギリス人ではないのですけど「懐かしいな・・・」みたいな感覚になるからとても不思議な気がします。
あくまで個人的な意見なのですけど
古典的な吹奏楽オリジナル作品の名曲中の名曲作品を三つあげなさいと言われたら迷う事なく
リードのアルメニアンダンスパートⅠとホルストの吹奏楽のための第一組曲と
そして・・・このヴォーン=ウィリアムズのイギリス民謡組曲を推したいと思います。

このイギリス民謡組曲ですけど、下記の三曲から構成されています。

Ⅰ.行進曲「今度の日曜日で17才」

Ⅱ.間奏曲「私の素敵な人」

Ⅲ.行進曲「サマーセットからの歌」

実はこの組曲は元々は四曲から構成されていて、四曲の中の第二曲である行進曲「海の歌」はその後
この組曲から分離され
独立した曲になったのですけど
逆にその方がよかったかも・・・
だって三楽章構成で急-緩-急という現行の構成の方が音楽としてのまとまりがあるような気がしますね。
それに行進曲「海の歌」はかなり元気があるマーチですから
現行の「イギリス民謡組曲」のあのしっとりとした感じの中に組み込んでしまうと、もしかして
違和感があるような感じもしますね。
この組曲ですけど、大編成をイメージしたような曲ではなくて元々30人前後の編成を前提にして
作曲されています。
打楽器もティンパニ・大太鼓・シンバル・小太鼓・トライアングルのみですので、
ま・・確かに最近の吹奏楽オリジナル作品のあの華麗なる響きに耳が慣れてしまうと
とてつもなく地味に聴こえてしまうのかもしれませんけど
あのほのぼのとした地味な感じが実にたまらないと思います!!

第一曲 行進曲「今度の日曜日で私は17才」
第二曲 間奏曲「私の素敵な人」
第三曲 行進曲「サマーセットからの歌」

全体的に生き生きとした可愛らしい小品なのですが、民謡をベースにしてあるせいか
何だかとても「懐かしい」という香りもします。
特に第二曲の後半からのしみじみとしたメロディーは少し泣けてくる感じもします。
第三曲のマーチも本当に気品さと愛くるしい感じがマッチしていて
素晴らしいと思います。

組曲「惑星」で有名なホルストとヴォーン=ウィリアムズは友人関係だったという事ですが、
そのせいなのかわかりませんが、
イギリス民謡組曲の第三曲「サマーセットからの歌」のメロディーが
ホルストの「サマーセット狂詩曲」にも使用されていたりします。
ま、これは民謡をベースにしているのだから、どちらかがどちらかの作風に
影響を与えたとか、主題を拝借したという訳ではないのですが、
何となく両者の親交振りが垣間見えるような気もします。

ところで、ヴォーン=ウィリアムズって作曲家は
若い頃は、ラヴェルにも師事したことがあるそうですね。
これは少々意外でした。
だって作風が全く異なる人同士ですし・・・
事実ラヴェル自身、ヴォーン=ウィリアムズを評して
「自分の弟子の中で唯一自分の作風の影響を受けなかった人」としていますが、
これはとても面白いエピソードですね。
確かに・・・ラヴェルとヴォーン=ウイリアムズの作風って全然共通点と言うか接点がありそうも
無いですからね・・
ま・・ヴォーン=ウィリアムス自身は、「ラヴェルのように書きたくとも、そんなセンスも才能も自分には全く
無かった・・・」とトホホ・・・・なコメントを後日残していますけどね・・

結果的にヴォーン=ウィリアムズは、自分の生きる道として「民謡」をテーマに
していますが、これは正解だったと思いますし、その選択こそが
ヴォーン=ウィリアムスを後世に残る作曲家としたのでしょうね。

この作曲家の交響曲は、正直あまり演奏会では聴いた事がないのですが、
交響曲第一番「海の交響曲」は日本フィルで聴いた事があります。
出だしの合唱のインパクトが強すぎて、後の展開は正直あまり印象にないです。
個人的には、晩年の作品となりますが、南極交響曲の次の
交響曲第8番が、分り易さとパズルを解くような感覚が混ざったような感覚の曲であり
結構好きです。

さてさて・・・この「イギリス民謡組曲」なのですけど、どちらかと言うと吹奏楽原典版の方が
親しみがあるような気もするのですけど
管弦楽ヴァージョンの方も中々素晴らしいものがあると思います。
全体的な印象は・・・そうですね・・・単純に比較してみても大きく際立った差は無いと思いますが
例えば第Ⅱ曲において吹奏楽版ではトランペットにソロの役割を与えているのに
管弦楽版ではクラリネットが担当という風に幾分のニュアンスの差はあるのですけど
どちらも「素朴」な感じは漂っています。
私は吹奏楽版も管弦楽版も両方とも大好きです。
ちなみに・・・
管弦楽版としては、マリナー指揮/アカデミー室内管弦楽団の演奏が大変素朴な味わいがあり
同時に録音も優れているので
お勧めしたいです。
長年に渡って「吹奏楽コンクール」を聴き続けていると
たまにですけど、クラシックアレンジものにおいて、
「え・・・この作曲家って・・・誰・・??  聞いた事すらない・・・」みたいな作曲家の曲を自由曲に選ぶチームもあったりして
その辺りは大変興味深いものがあります。
そのいい例がカヒッゼの「イタリア狂詩曲」なのかな・・・・
最初にあれを聴いた時は・・・正直思いっきりぶったまげました・・・
だって、まさにイタリア民謡「フニクリ・フニクラ」をもろにそのまんま執拗に「これでもかっ!!」というくらい
引用しまくっていましたからね・・・
コンクールでの演奏がきっかけとなってその曲とかその作曲家の曲を知る事になったのは
色々とあるのですけど
(前述のイタリア狂詩曲を聴いた次の日には・・私は・・この曲が収録されたCDを探しに渋谷・池袋・秋葉原を
転々としたものです・・・ま・・結局秋葉原の石丸電気で無事に発見しました!!)
作曲家の名前すら聞いた事が無いというのはどちらかと言うと少ないケースだと思います。
なぜなら吹奏楽コンクールの支部大会・全国大会と言うと、ほとんどの場合は、アレンジ系の曲を自由曲に
選ぶ場合は、ある程度は知名度がある作曲家を選ぶ傾向が大変強いですからね。

そんな中・・・

「ええーーー、この作曲家って誰・・・?? 聞いた事すらない!!」の筆頭格は、
私にとっては、
1985年に秋田県の花輪高校吹奏楽部が自由曲に選んだガジべコフという作曲家の交響曲第2番でした!!

というか・・・当時の普門館の会場にいた人の中で「ガジべコフ」という作曲家の事をご存知の方って
もしかしたら・・
多分一人もいなかったのかも・・・??

勿論、そういう自分も全然知らない・・・聞いた事すらないという感じでした。
後日、大学の吹奏楽団の人達に「ガべペコフって誰??」と聞いても
全員が「誰それ・・・?? 名前すら聞いた事が無い」という反応でした。

この年の花輪高校の演奏は本当に素晴らしいもので、まさしく「名演」に相応しい演奏だったと思います。
しかも・・・
この演奏、プログラム一番なのですよ!!
朝一番という大変シビアな条件にも関わらずあの生き生きとした演奏、金管セクションの重厚感溢れる演奏、
木管のしなり・・・
聴いていて全く文句がつけようがない演奏で、とにかく素晴らしい演奏だったと思います。
だけど・・・
あの素晴らしい演奏の評価はなぜか・・・「銅賞」なんですよね・・・
ま・・・この話は既にこのブログでは何度も語り尽くしていますし
「私が吹奏楽コンクールの中で一番納得がいかない銅賞」とかなり執拗に記事にしていますので、
ま・・・その辺りは今回は割愛をさせて頂きますけど
「あの演奏のどこが銅賞なんだ!! どこをどう捻くれて聴けば銅賞という評価を出せるんじゃ――!!」と
当時とにかく思いっきりブーたれていたものです・・・(苦笑・・)

だけどそれにしても花輪高校の当時の指揮者の小林久仁郎先生ですけど
ハチャトゥーリアンの交響曲第3番「シンフォニーポエム」と言い
このガジべコフといい、
一体どうすればこうした「埋もれたマイナーシンフォニー」の名曲を探し当てるのでしようかね・・・
小林先生の功績は腐るほどあるのですけど、その一つが
「シンフォニーポエム」を吹奏楽コンクールの定番自由曲の一つとなるきっかけを作ったという事があると思います。

このガジべコフに関しては、
そうですね・・・その後私も色々と調べたのですけど、結局なんにも分かりませんでした。
かろうしで判明したのは、

1.1974年に既に55歳の若さで逝去

2.正式には、スルタン=ガジべコフという名前

3.アゼルバィジャン共和国の作曲家兼音楽院教授

このくらいでした・・・

他にどんな曲があるのか、代表作はなんなのか、誰に師事したのか等は・・
そうですね・・・
今現在もさっぱりわかりません・・・

花輪高校が演奏した交響曲第2番なのですけど、
今の所、私自身、この曲の管弦楽版の原曲は聴いた事がありません。
というか・・・
そもそもレコード等の音源ってこの曲にあるのかな・・??
それすら不明なのです・・

この話、以前も書いたと思うのですけど、大学時代貧乏学生の典型だった私は・・・
聴きたくともお金がないもので
中々吹奏楽作品とかクラシック音楽のレコードを買う事が出来ないものでした・・・
当時は・・・CDがやっと世に普及したばかりで、国内盤はなんと・・・一枚3000~3500円と言う今では
信じられない値がついていました・・・・
そういう時、大変便利な施設がありまして、
それが何かと言うと都内の上野にある「東京文化会館」の五階にある「音楽資料室」でした!!
ここは本当に貧乏学生にとってはありがたい場所でして、
クラシック音楽・吹奏楽に関しては・・・
多分・・・「無いレコード・CDは無い」と言えるかもしれないほど資料が豊富で
これかなんと・・・!!
無料で聴くことができるのです!!
聴き方は、資料室内に鑑賞ルームがあって、ヘッドホンを使用して、借りたレコードを聴くことが出来ました。
勿論、室外への貸し出しは不可なのですけど
とにかく・・タダでこういう山ほどあるレコードを聴くことが出来るのですから
本当に貧乏学生にはありがたかったですね!!

ま・・・レコードをレンタルする際、膨大なインデックスの中から「聴きたい曲」を探すのは
かなり大変でしたけど、
逆に言うとそれだけ膨大な資料があるという事でもあります。
一応、一回3枚まで、込んでいる時は2枚までという規約はあるのですけど、
正直・・そんなに込んでいる日というのはあんまりなかったような記憶があります。
レコードを借りる際に希望すれば、その曲の楽譜・総譜も貸してくれましたので、ホント、色々いい勉強は
させて貰ったと思います。

だけど・・・・

この上野の音楽資料室をもってしても・・・

「ガジペコフ」という作曲家の交響曲第2番、またはこの作曲家の他の作品はないものかと色々と調べたのですけど
回答は・・・
「該当なし」というものでした・・・

ガジべコフの交響曲第2番は、吹奏楽アレンジ版ですけど
ブレーン社から出ている「レジェンダリーシリーズ・花輪高校編」に収録されています。

だけど・・・

結局・・・ガジべコフって一体誰なんだぁーーという疑問は・・・この30年近くなんにも解決できていないです・・・・

最後に・・・・

余談ですけど、
私が上野の音楽資料室を訪れる際ってほとんどは、大学の吹奏楽団の両国での練習場からの帰り道という
パターンが多くて
大抵の場合、クラリネットが入った楽器ケースと譜面を手にしている事が多いせいか
音楽資料室のおばさま達に、
入室の際の学生証提示の時(学生席と一般席の二つがありましたね・・・)
「あれ・・・○○大学・・じゃー、音楽学科の学生さん?」と聞かれる事がよくありましたけど
「いえ、法学部」と答えると・・・
「え・・マジで・・・??」という表情になっていたのが大変印象的でした・・・

ま・・・確かに・・・大学の時は、音楽の事しか勉強しなかったですよね・・・(苦笑・・)

11/22(日)の事ですが、あの日はいつも通り出勤で、とにかく朝から晩までずーーーっと忙しいという感じで
終始時間に追われ、イライラしっ放し・・・という感じでした・・・
帰宅したのがPM10:30頃だったかな・・
あの時はとにかく無性に疲れていて
「いいや・・もう早く寝よう・・・明日も仕事で出勤だし・・」と思っていたのですけど
何気なくテレビのリモコンを廻してみると
Eテレでどこかで聴いたようなメロディーが流れてきます。
「あれれ、この曲・・、あ、そうだ!! マーラーの交響曲第一番・巨人の第四楽章だ!!」と思ったのですけど
残念ながら、
演奏は終盤に入っていて
ホルン奏者全員がスタンドアップしている場面まで既に突入していました・・

あ・・・なんか勿体無かったな・・

Eテレでマーラーの1番をやると分かっていたら・・・あと20分早く帰社して
せめて第四楽章は全部聴きたかったですね・・・
ま・・・だけど、私が「巨人」で一番好きなのは第一楽章の霧の中での夜明けみたいな感じと
第三楽章の挫折感なんですけどね・・

振り返ってみると・・・

私自身が「マーラー」を一番最初に生演奏で聴いたのはいつなんた゜ろう・・・とふと思ったら・・
意外でしたけど、またまた「吹奏楽コンクール」でした。
このブログでも何度も何度もかなり執拗に
1982年の全日本吹奏楽コンクール・東北大会の花輪高校のウォルトン/交響曲第1番の事を記事にしているのですけど、
その1982年の東北大会にて
青森県代表としてこのコンクールに出場した八戸高校の自由曲が
このマーラー/交響曲第1番「巨人」第四楽章でした。
あ・・・この八戸高校のマーラーの巨人は何となくですけど今でも記憶にはありますよ・・・
何て言うのかな・・・
荒ぶる感じと優しい感じが「交錯」している・・みたいな印象はありました。
だけど・・・
その八戸高校の演奏ですけど、細かい点は全然記憶にないのですよね・・・
具体的には・・・・
この曲はティンパニ奏者は2名なのですけど、八戸の吹奏楽アレンジ版では何名で演奏していたかとか、
この交響曲をプロのオーケストラが演奏すると、大抵の場合、11/22のEテレの放映もそうでしたけど、
マーラーの譜面の指示通り、ラスト近くでホルン奏者が全員「スタンドアップ」して高らかに吹き鳴らすのですけど
果たして八戸高校の演奏はそういう事をしていたか・・・
その辺りは・・・
うーーーん、全く記憶にないですね・・・
ま・・・あのコンクールの演奏から既に33年の歳月が経過していますので、それを私の「ポンコツ脳のメモリ」に
期待する方が無理なのかもしれないですね・・・(苦笑・・)

ちなみにですけど・・・

あの第四楽章においては、ホルン奏者がエンディング近くで突然スタンドアップして吹くというのは
オケの世界では定番になっているようにも感じられますが
(私が過去に生演奏で聴いた巨人は、全て例外なくホルンは全員起立していました・・・)
中には・・・
小林研一郎指揮/新生日響のようにホルンの他にトランペット・トロンボーンもスタンドアップした事例もありましたし、
確か・・・・
金聖響/都響においては、
ホルン奏者はスタンドアップだけに留まらず全員「ベルアップ」までさせられていましたので
視覚的には確かに効果はあったかもしれないですけど、
あれ、奏者はかなり大変かもしれないですよね・・・
チャイコフスキーと言うと
「三大バレエ」がかなり名高いと思いますけど
このバレエにも色々な「プリンセス」が登場しますよね。
「白鳥の湖」ではオデット姫とか「眠りの森の美女」ではオーロラ姫とかが登場していましたよね。
チャイコフスキーの三大バレエなのですけど、上演時間はどれも長めで
白鳥の湖は2時間半程度、眠りの森の美女は何と軽く3時間を超えます。
くるみ割り人形が一番コンパクトにまとまり、90分前後です。

「眠りの森の美女」ですけど
とにかくバレエ全体はとてつもなく長いです!!
BGMとしてのバレエ音楽もとてつもなく長大で、全曲を聴くと多分、飽きると思います・・・・
音楽的にはとてつもなく冗漫な感じもします・・・
ま、現在でも「全幕上演」でも完全ノーカット版で上演される事はあまりないように思います。
各バレエ団の解釈&演出によって部分的なカット&編集がなされていると思われます。
例えば、ディアギレフがこのバレエを上演しようと企画した際は、
そのあまりの長さを嫌がり、全幕のハイライトシーンをうまく集めた一幕もののバレエとして企画し
タイトルも「オーロラ姫の結婚」というタイトルに変更されています・・・・

このバレエは、かなりメジャーですのでストーリーも結構知られてはいると
思います。
ま、ディズニー映画にもなっていますからね。
一応簡単に記しておくと・・・・

ある王様の、誕生したばかりの娘の命名式の際に、
自分がその式に呼ばれていなかったことに立腹した悪の精・カラボックスから
「姫はやがて糸紡ぎの針を指に刺して死ぬ」と呪いをかけられてしまいますが、
善の精・リラが魔法の杖を持って現れ
「カラボックスの呪いを解くことは出来ないが、指を指すことで百年の眠りについてしまう。
だけど一人の王子の愛のキスによって眠りから目覚める」と宣言されます。

そして100年後に、素敵な出会いが待っていた・・そしてそこには・・・

ま、そんな感じのお話ですね。

このバレエは前述の通りあまりにも長い為、
音楽として演奏される場合は、演奏会用組曲版として演奏される事が多いです。
ちなみにこの組曲版は、

Ⅰ.序奏とリラの精

Ⅱ.バラのアダージョ

Ⅲ.長靴をはいたネコと白いネコ

Ⅳ.パノラマ

Ⅴ.ワルツ

という構成になっています。
音楽としての密度は大変濃いと思います。
特にラストの「ワルツ」が素晴らしいと思います。
Ⅰにおいては、冒頭が全楽器と太鼓関係の強打からかなり印象的に開始されていきますが
そのクライマックスの場面では、
全楽器が咆哮し、ティンパニー+大太鼓がズドーンと叩き付け
シンバルがソロでガシャーンと鳴り
ドラが凄まじい大音響でドワワワワー―――ンと鳴り響かせています。
Ⅱも大体Ⅰと似たような音楽なのですけど、
Ⅱの場合、最初は弱奏でから開始し、徐々に音量が盛り上がっていき
最後はすさまじい大音量でフィナーレします・・・
Ⅱのpp~fffに至る音楽的ダイナミックスレンジは相当幅広いものがありますね。
Ⅲは、オーボエのつぶやくような感じから開始されていきますが
何となくユーモラスな雰囲気もあったりします。
Ⅳのファンタジー感は素晴らしいですね、本当にうっとりとさせられます。
Ⅴのワルツは、いかにもバレエの大団円みたいな雰囲気の音楽ですね。
個人的にはファゴットの音階を上下していくユニゾンがとても大好きです。
この「眠りの森の美女」~ワルツですけど、なぜか知らないのですけど、うちの近くのスーパー・マルエツにおいて
よくこのワルツが流れています。
何かこのワルツを聴くだけで気分は・・・「ウルトラハッピー」になってしまいそうですね・・・(笑)

この曲を生で聴いたことは、意外と少ないですね・・・・
沼尻竜典指揮/日本フィルとスヴェトラーノフ指揮/N響ぐらいかな・・・・
この素敵なバレエ組曲を聴く場合
とても気に入っている演奏があります。
カラヤン指揮/ウィンフィルなのですけど、録音は、私が生まれる以前のすごく古いものですけど
この優雅な演奏、すごーく気に入っています。
特にワルツの優雅さが素晴らしいですね!!

そうそう、これはかなり有名な話ですからご存知の人も多いかとは思いますが、
チャイコフスキーの代名詞とも言えるバレエ音楽「白鳥の湖」は初演は、惨憺たる大失敗に終わっています。
今現在の感覚でこのあまりにも素晴らしい数々のメロディーとかあの優雅な踊り、
そしてドラマティックなストーリーを考えると
「どこに失敗する要素があるねん・・」と関西弁でツッコみたくもなるのですけど、
白鳥の湖以前のバレエと言うものは「踊り」がメインで、音楽はあくまで添え物という感覚が大変強く、
当時は・・・振付師とか演出家の命令によって作曲家がせっかく作り上げた曲そのものを
カットしたりメロディーラインを変更させられたり、他の曲に差し替えられるというのはかなりの日常茶飯事だったようですね。
それに対してチャイコフスキーは
そうした当時のバレエ界の「音楽家冷淡な扱い」という事に異議を唱え、
当時としてはあまりにも革新的な音楽を作り上げたものの、肝心の振付がそうした新しい音楽に付いていけず
新しい感覚の音楽と古い時代の舞踏という大変なギャップが
そうした初演の大失敗という事に繋がっていったそうです・・・
そして・・数年もの間、チャイコフスキーはバレエ音楽から足を洗い、この分野での曲は書こうとはしなくなるのでした・・

だけど再度バレエ音楽の依頼が舞い込み、当初は頑なに拒否したものの、
依頼者の熱い気持ちについつ負けてしまい、
「それならば・・」と思って作られたのがこの「眠りの森の美女」なのです。
多分ですけど・・・チャイコフスキーとしては「白鳥の湖のリベンジ・・!!」みたいな気持も多少はあったのかも
しれないですよね・・・

ま・・だけどこのバレエは初演は大成功でしたから、ホント、良かったですよね!!

チャイコフスキーは意外と初演はコケるみたいな雰囲気もあり、
例えば・・・交響曲第5番とかヴァイオリン協奏曲は・・・結構というかかなりの不評だったみたいですね・・・
うーーん、なんか今では信じられない話なのかも・・?
毎年そうなのですけど、吹奏楽専門雑誌「バンドシャーナル」においては、
2月号あたりに
10年間で演奏された自由曲の一覧表という大変貴重なデータ集計を掲載してくれています。
あれって、始まった時からそうなのですけど
吹奏楽オリジナル作品・クラシックアレンジもの・邦人作品と三つのジャンルに分類されていますけど
そうですね・・・
やっぱりここ数年の「邦人作品」の躍進はまさに目覚ましいものがありますね。
正直こうした状況は、私が現役奏者だった頃はまずありえない話でしたし
(当時は邦人作品を自由曲にする事自体が一つの冒険だったみたいな雰囲気もあったほどでしたね・・)
21世紀初めの頃ですら、邦人作品はそれほど人気があるとは思えなかったような印象がありました。
ま・・・こういう状況を打開した最大の功労者は
やっぱり・・・天野正道氏なのかもしれませんよね。
ホント、天野氏はアレンジャーとしての才能も大変優れたものがありますけど
それ以上に作曲家としてのあの溢れんばかりの才能の煌きはまさに・・・
なんか現在の吹奏楽界の太陽みたいな存在なのかな・・と思ったりもします。
ま、それ以前に天野正道氏は、秋田南高校在籍時代から音大時代に
既に・・・
ストラヴィンスキー/春の祭典 三善晃/交響三章 矢代秋雄/交響曲等のアレンジを完成していた事実が
驚き以外の何者でもないです・・・!!

吹奏楽コンクールの成績以外でも、やっぱり「秋田県の吹奏楽」には
私は・・・昔も今現在も・・・
「脱帽」と「敬意を表す」以外の言葉が出てきませんね・・!!
本当に素晴らしい吹奏楽県だと思います。

さてさて・・・

前述のBJの自由曲分類ですけど
過去のBJのバックナンバーを見ていると、たまーーに面白い事も発見したりもします。

その一つなのですけど、
フランスの偉大なる現代音楽の作曲家、メシアンの曲を過去に一度だけ
吹奏楽コンクールで演奏したチームがありましたけど、
そう・・・今現在は都立片倉を率いて全国大会で何度も金賞に輝いている馬場先生の
片倉の前の赴任校、都立永山の1995年の自由曲がまさにその唯一の事例です。
その曲とは・・・・
「我ら、死者達の復活を待ち望む」というメシアンにとっては「トゥーランガリア交響曲」や「鳥の歌」三部作と並ぶ
メシアンの代表作品の一つです。
というか・・・
なんでこんな複雑怪奇な曲を自由曲にしようと思ったのでしょうか・・・!!

いやいや、これは馬場先生の思い切った挑戦はホント、すごいものがありましたね・・・

たしか当時のBJのインタビュー記事で馬場先生は
「1995年は阪神淡路大震災・オウム事件などで世相が大きく悲しく揺れた年・・・
そういう年だからこそ何かメッセージを後世に残しておきたかった・・・」みたいな事を言われていましたけど
さすが、その辺りは過去も現在も
そうしたメッセージ性の強い曲を大変アクが強く個性的に、かつ音楽的にまとめられる馬場先生らしい
お言葉ですね・・

だけど・・・メシアンですよ・・・・

あのメシアンを吹奏楽コンクールの自由曲にしてしまうなんて、
そうですね・・・
これは、かつて1983年に花輪高校が自由曲に、
あの無調音楽全開のベルク/三つの管弦楽曲を選んだ時とか
秋田南がやはりベルクの歌劇「ルル」組曲を自由曲に選んだとかと同じくらいのインパクトが
私の中にはありました・・・
だって・・・現代音楽の当時の生き神的存在で、ブーレーズも信奉していたあのメシアンの曲ですよ・・!!
そうですね・・・
正直、今現在の視点で考えてみても「すごい・・・大変な決断とチャレンジ魂」という感じですよね。

だけど、面白い事にこのメシアンの「我ら、死者達の復活を待ち望む」という曲は
なんと・・・・
1996年2月号の記事においては、
この曲はクラシックアレンジものではなくて「吹奏楽オリジナル作品」として分類されているのですよね!!
あれを見た時は正直驚きました・・・
なんか思わず関西弁で
「なんであれが吹奏楽オリジナル作品やねん・・!!」とツッコみたい気分でしたね・・・(苦笑・・)

あ・・、だけどよーーく考えてみると
確かに間違いではないのですよね・・・
だって、あの曲はかなりの特殊編成でして、楽器編成の中になんと・・・弦楽器は一切使用されていません!!
管楽器と打楽器のみでの構成です。
しかもその打楽器と言うのも・・・・
ま、都立永山の実演を聴いた際も、まさに「驚き!!」という感じでしたけど、
チャイム・ゴング・ドラを複数個も使い
なんか曲そのものがドラが終始ごわーーーーんと轟音を立て、チャイムがチャイニース風な
色彩の音楽を誘導しているみたいな感じでした。
なんか・・・普門館の舞台の上に、とてつもない数の大小のドラがずらーーーっと並んでいた・・・
そんな印象が大変強いです・・

ま・・・・確かに弦楽器を使用していないから、ま・・・そりゃ分類上は「吹奏楽作品」と言えるのかも
しれませんけど、
あのメシアン大先生のあの曲を
「吹奏楽オリジナル作品」として計上してしまうBJ編集部も・・・ま・・・ちとアレなのかな・・・(苦笑・・)

もしもですけど・・・

ま・・・ほぼ100%ありえない話ですけど
ストラヴィンスキーの「管楽器のためのシンフォニー」とか
やはり曲に弦楽器を使用しないミヨーのバレエ音楽「世界の創造」(厳密にはチェロとコントラバスが各1台あります・・)を
自由曲に選ぶチームが出た場合
あの分類はやっぱり、吹奏楽作品という事になるのかな・・・

ちなみに・・メシアンのあの曲は1997年以降は、やっぱり「クラシックアレンジもの」として確か分類されていたような
記憶があります・・
ま、私・・・昔も今もBJはコンクール掲載記事の号しか買いませんので・・・

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