fc2ブログ

プロフィール

ぬくぬく先生 

Author:ぬくぬく先生 
開設当時は、1980年代吹奏楽コンクールの花輪・秋田南・就実・仁賀保・屋代等の素晴らしい演奏を後世に少しでも伝える事が出来ればいいなと思ってこのブログを始めたのですけど、いつのまにか「東方Project」がメインになってしまいました・・・
最近は「艦これ」も大好きです!!
吹奏楽も東方も自分が感じた事を少しでも後世の方に受け継がれるべきものが残せればいいかな・・と思っています。
ちなみに、「大好きプリキュア四天王」は、ドリーム・メロディ・ハッピー・ラブリーです。
ドリームとメロディは自分の中では既に殿堂入り状態ですけど、
現在はラブリー大好き!!のラブリー一辺倒です!!
リアル社会では、建築関係のクレーム&アフター責任者を専従し、毎日毎日クレーム対応に当たる日々です。
裏の顔は東方と吹奏楽とクラシック音楽一辺倒です・・・
特に特に大好きな作品は・・・プリキュア5とスイートとハピネスチャージです!!
ちなみに、奥様は・・・ミルキィローズとセーラームーン好きの管理人以上のおこちゃまです・・・
東方で大好きなキャラは、とにかく大好きキャラがてんこ盛りで、全員大好き!という感じなのですけど、特に、さとり様・ゆかりん(紫様)・早苗さん・こいしちゃん・アリスはお気に入りです!!
吹奏楽では・・ネリベルの「二つの交響的断章」と「アンティフォナーレ」、スパークの「ドラゴンの年」、リードの「オセロ」と第二組曲「ラティーノ・メキシカーナ」、パーシケッティーの「仮面舞踏会」、C・スミスの「ダンス・フォラトゥーラ」などが死ぬほど好きで、クラシック音楽では、ウォルトンの交響曲第1番と矢代秋雄の交響曲、プロコフィエフの交響曲第5番、アーノルドの交響曲第2番、第4番、ショスタコの交響曲第7番「レニングラード」、マーラーの交響曲第3番「夏の朝の夢」、ハンソンの交響曲第2番「ロマンティック」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」、ベルクの「ヴァイオリン協奏曲」、ラフマニノフの「交響的舞曲」などが大好きです!!
クラシック音楽を吹奏楽にアレンジし、そのコンクールヴァージョンの演奏としては・・・
1982年の就実高校の「幻想舞曲集」と
1987年の習志野高校の「ダフニスとクロエ」第二組曲の演奏、そして、
1987年の雄新中の「エルザの大聖堂への厳かな行列」が
まさに私の「原点」です。
最後に・・・
私の吹奏楽との関わりの真の意味での「原点」は・・・
1979年の市立川口高校の神がかり名演としか言いようがない
「二つの交響的断章」に尽きると思います!!


アクセスランキング

[ジャンルランキング]
日記
23位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
会社員・OL
6位
アクセスランキングを見る>>

最新記事


最新コメント


最新トラックバック


月別アーカイブ


カテゴリ


カレンダー

10 | 2021/11 | 12
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -

検索フォーム


マーチと言うと「吹奏楽」というイメージも大きいのかもしれないですけど、
管弦楽版のマーチにもたくさんの優れた作品が残されていて、例えばエルガーの行進曲「威風堂々第一番」とか
ウォルトンのグランドマーチ「クラウン・インペリアル」とかシベリウスの組曲「カレリア」~Ⅲ.行進曲風にとか
グリーグの組曲「十字軍の兵士シグール」~Ⅲ.勝利を讃える行進曲とかヴェルディのアイーダの大行進曲とか
シャブリエの楽しい行進曲とかプロコフィエフの体育祭行進曲(マーチ・スパルタキアーダ)や
ワーグナーのタンホイザー大行進曲やベルリオーズのハンガリー行進曲(ラコッツイ行進曲)や
サン・サーンスのフランス軍隊行進曲や英雄行進曲などたくさんの管弦楽による名曲マーチはあるのですけど、
優雅さと親しみやすさと世界的知名度というと 「ラデツキー行進曲」には敵わないのかも・・?とすら感じてしまいそうです。
ラデツキー行進曲はオーストリア共和国においては国家を象徴する曲でありますし、
国家的な行事や式典でたびたび演奏されていますし、
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるニューイヤーコンサートでは、
1958年以降は2005年を除いて、毎年プログラムのアンコールの最後の曲として必ず演奏される曲として
オーストリア国民の皆様に大変愛されている曲なのだと思います。
そうした意味においては、アメリカ人が「星条旗よ永遠なれ!」をアメリカ第二の国歌として愛しているのと
同じような感覚の曲なのだと思います。

ラデツキー行進曲は前述の通り、「ニューイヤーコンサート」におけるアンコール曲としてもう既にお馴染みの曲ですよね。
この曲が演奏されると、聴衆は手拍子をはじめるといったそんなお約束が確立されている曲だと思います。
クラシック音楽の演奏会で聴衆が自由に手拍子を送れる曲と言うのも極めて珍しいと思いますし、
指揮者の方もむしろ聴衆に対して「もっと手拍子頂戴よっ!」みたいに時に煽るような事が出来てしまうある意味大変貴重な
クラシック音楽なのだと思います。

ちなみにですけどこの行進曲の名前は「ラデツキ―」であって、よく日本で間違って発音・印刷されているように
「ラデッキー」ではありません・・・
「ツ」は小文字ではなくてあくまで大文字です。
この曲の出だしはダダダン・ダダダン・ダッ・ダッ・ダーンと景気良く開始されていき、
その後も大変軽快だけど力強いメロディーが展開されていきます。
中間部はいかにも優雅なワルツという感じで何やら気品のような香りさえします
行進曲なのですけどその雰囲気は優雅なワルツみたいにも聴こえますし、ウインナワルツというのか
舞踏会や晩餐会のBGMにも十分効果が発揮できそうな曲だとも思います。
そしてこの優雅な感覚はウイーン気質をそのまま象徴しているようにも感じられますし、オーストリアの皆様が
この曲を愛してやまないというのも当然なのだと思います。

このラデツキー行進曲は、吹奏楽にもアレンジされていて、
イベントとか卒業式・入学式、記念行事の入退場曲としては定番の一つにもなっているような気がします。
このラデツキ―行進曲とかスーザの星条旗よ永遠なれ!を一度でも吹いた事がある吹奏楽経験者は相当多いと思います。

そういう私自身も、ラデツキー行進曲は、吹奏楽アレンジ版で何度も何度も演奏しました。

感覚としては星条旗よ永遠なれ!はいかにもヤンキーみたいな庶民的なエネルギーに溢れているのに対して
ラデツキー行進曲は優雅で上品なエレガントさというものがあったと思いますし、この二つの曲は
国民から愛されていて第二の国歌に近いものがあるけど、曲自体の雰囲気は全然違うと言えるのかもしれないですね。

ラデツキー行進曲は、管弦楽の原曲の打楽器はティンパニ・小太鼓・大太鼓のみですけど、
吹奏楽アレンジ版では、シンバル・グロッケン・タンバリンも追加されていたような記憶があります。
冒頭のダダダン・ダダダン・ダッ・ダッ・ダーン・ダダダダダッタッダのすぐ後は、
原曲の管弦楽版では打楽器は入らないのですけど
吹奏楽版では、この後に、ティンパニ・大太鼓・シンバルがドスンとかなりバカでかい音を叩きこんでいました。
後にラデツキー行進曲を管弦楽版として聴いた時に
「どうして冒頭のあの場面で、打楽器がドスンと叩かないの?」と思ったものですけど、
それは吹奏楽アレンジ版しか知らない人のある意味勘違いでもありました。
管弦楽の原曲を吹奏楽アレンジ版として演奏された方は、勘違い防止のために、
吹奏楽版以外にも原曲もちゃんと聴いておきましょうね・・という感じなのかもしれないですね。
ちなみにですけど、私自身は例えばドヴォルザークの交響曲第8番第四楽章は、石田中学校の吹奏楽アレンジ版の演奏で
ずっと慣れ親しんでいて、数年後にこの交響曲を初めて管弦楽の原曲として聴いた時に
「どうして第四楽章に大太鼓・小太鼓・シンバルが入らないの・・?」と勘違いをしていたものでした・・

勘違いと言うと、ラデツキー行進曲の作曲者はヨハン・シュトラウスⅠ世なのですけど、
喜歌劇「こうもり」序曲とか春の声・美しき青きドナウ・南国のパラ等「十大ワルツ」の作曲家は
シュトラウスⅠ世の長男のヨハン・シュトラウスⅡ世であり、クラシック音楽等が何もわからなかった時代は、
このⅠ世とⅡ世は同一人物なんだと勝手に勘違いをしていた事もありました・・
これはいくらなんでもこっ恥ずかしい勘違いでもありました。

ちなみにですけど、ヨハン・シュトラウスⅡ世を代表する曲というのが、
「ウィーンの森の物語」と「皇帝円舞曲」とともにシュトラウス2世の三大ワルツに数えられ、
その中でも最高傑作とされ、作曲者およびウィンナ・ワルツの代名詞ともいわれる作品というのが 美しき青きドナウです。
ちなみに美しき青きドナウも前述のウィーンフィルのニューイヤーコンサートでは定番中の定番の曲で間違いなく
絶対に演奏される曲の一つです。
美しき青きドナウはドイツのあの大作曲家のブラームスも大好きな曲でして、ある時扇子にサインを求められた際に
ブラームスは、この美しき青きドナウのメロディーの楽譜を書き、そこに
「残念ながらブラームスの作にあらず・・」という一文を書き添えたというとってもすてきなエピソードを残しています。
ブラームスというと気難しい先生とか端正で真面目で厳格な性格という印象が強かったりもしますけど、ブラームスの師匠の
シューマンの奥様のクララ・シューマンとのシューマンの死後のプラトニックすぎる純愛とか
いかにもドイツ正統派の厳粛な音楽というイメージとはちょっと異なるような例えば大学祝典序曲やハイドンの主題による変奏曲
などたまに粋で楽しい作品も残されていますし、
ピゼーの歌劇「カルメン」が大好きで上演のたびに鑑賞に出かけたなどちょっと意外でお茶目な面もあったりするのは
ブラームスのすてきな人間性の所以なのかもしれないです。


_convert_20200229172629.jpg


前述のとおり、ラデツキー行進曲はニューイヤーコンサートもそうですし、日本の管弦楽団のお正月公演や
吹奏楽アレンジ版における演奏会等でのアンコールでもお馴染みの曲ですけど、演奏中に結構な確率で
客席から自然に手拍子が入ることもあったりします。

私自身もラデツキー行進曲を演奏会のアンコール等で演奏したことはありますし、そのうち何度かは客席からの手拍子を
受けましたけど、実は私自身は客席からの手拍子は苦手であったりもします。
どうしてかというと、客席からの手拍子と指揮者の拍子には当然わずかですけどズレが生じていますし、
練習の際の指揮者のビートと客席からの手拍子のビートが噛み合わないと、なんだか自分自身吹いている時に混乱してしまう
という傾向はありました。

ららマジの指揮者は東奏学園器楽部創始者のひとりで3年生の草薙百花が務めていますけど、ららマジ器楽部みたいな
無茶苦茶な楽器編成をどうにかこうにか剛腕でまとめあげている百花の指揮の技量では、そんな聴衆からの手拍子による
ビートの狂いなんて全く気にも留めないという事なのかもしれないです。

ラデツキー行進曲は曲の中間部は静かで優雅なメロディーが続くのですけど、それでも一部の聴衆は手拍子を続けている
事も多々あり、あの違和感は指揮者にとっても奏者にとっても「ちょっと困ったかも・・」と感じなのかもしれないですけど、
百花はその点も的確にコントロールするのかもしれないです。

ウィーンフィルのニューイヤーコンサートでもたいていの指揮者はラデツキー行進曲の演奏時は曲の開始だけ指揮し、
それ以外は奏者に対する指揮ではなくて観客に対してジェスチャーで「もっと手拍子を!」とか
「ここは手拍子を控えて・・」と指示している事が多いようにも感じますけど、
ららマジの剛腕指揮者の百花も本番の演奏会の際は、そうした自由自在の応用がききまくった指揮さばきも見せてくれている
のかもしれないですね~♪


_convert_20200229172703.jpg


それにしてもららマジ器楽部の皆様はすてきな美少女たちばかりですので、チューナーくん(自機プレイヤー)は
バレンタイン等のイベントの際はもてもてなのかもしれないですね~♪
スポンサーサイト



ヴァイオリンの奏法の基本は言うまでも無く弓の毛を弦でこする事なのですけど、それ以外の奏法の一つとして
挙げられるのが「ピッツィカート」だと思います。
ピッツィカートとは弦を指ではじくことによって音を出す演奏技法の事です。
ヴァイオリンの場合、ピッツィカートは弓を持つ右手で弦をはじくことが普通ですけど、例外的に
本来は弦を押さえる左手で弦をはじくという左手のピッツィカートを導入したパガニーニや
弾く際に弦を指板と垂直に強く引っ張って離して弦を指板にぶつけるバルトーク・ピッツィカートという奏法もあったりもします。

ピッツィカートは指でポン!と弾く感じなのですけど、弦のどの部分を弾くかによっても、はたまたどの指で弾くかによっても
音色は微妙に変化しますので、そのあたりは指揮者の好みも反映されるのかもしれないです。
ピッツィカートの弾けるようなポン!という音色で曲が開始される曲としては、メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」の
第一楽章を挙げたいと思いますし、ピッチカートはピッチカートでもバルトーク・ピッツィカートみたいな感じで
激しく叩く事で何やら不気味な雰囲気を醸し出している曲の事例としてマーラーの交響曲第7番「夜の歌」~第三楽章を
挙げたいと思います。

そうしたピッツィカートの奏法でもって一つの曲または一つの楽章を構成したという珍しい楽曲も稀にあったりします。

そうした曲として思い浮かぶのが一つがチャイコフスキーの交響曲第4番~第三楽章であり、
もう一つがL.ドリーブのバレエ組曲「シルヴィア」 ~Ⅲ.ピッツィカートだと思います。

チャイコフスキーの交響曲第4番~第三楽章は、コントラバスの超低音からヴァイオリンの高音まで、そして弱奏でも強奏でも、
ピッツィカートで楽章全てを駆け抜けていきます。
更に面白い事に弦楽器のピッツィカート、木管合奏のピッツィカート、金管合奏のピッツィカートがそれぞれ独立して演奏され、
最後にはそれら全てが一つになって融合するオーケストレーションの巧さは素晴らしいと感じます。

ドリーブのバレエの方のピッツィカートも大変面白いですし、とても楽しいです。

バレエ音楽というと、私自身としては、チャイコフスキーの三大バレエ(くるみ割り人形・白鳥の湖・眠りの森の美女)とか
ストラヴィンスキーの三大バレエ(火の鳥・ペトルーシュカ・春の祭典)というように ロシアというイメージがあるのですけど、
フランスのバレエ音楽も繊細で美しくて、ロシアバレエとは別の魅力もありどちらも素晴らしいと思います。

そうしたフランスバレエというと忘れてはいけない作曲の一人がL.ドリーブだと思います。
ドリーブはフランス・バレエ音楽の父とも称されていて、迫力や壮大さよりもむしろ優美で繊細な舞台音楽を残した事でも
知られています。
吹奏楽コンクールにおいて、ドリーブというとバレエ音楽「コッペリア」だと思います。
1985年に中村学園が全国大会で初めてこの曲を自由曲として取り上げ、マズルカ-ワルツ-チェルダッシュという構成も
巧みで編曲が大変優れている事もあり、翌年以降今日に至るまでコッペリアは定番自由曲の一つにもなっていると
思います。
中村学園の功績は、吹奏楽の世界における女子高チームのパイオニア的存在であり、コッペリアと1986年の自由曲でもあった
バレエ音楽「バリの喜び」を世に知らしめたという事が大変大きいと思ったりもします。
現在の吹奏楽コンクールにおける女子高の雄の一つが福岡県の精華女子なのですけど、中村学園も福岡の女子高である事を
考えると、福岡の女子高の偉大さを痛感せずにはいられないです。

ドリーブとチャイコフスキーは、何となくチャイコフスキーの方が大先輩のような感じもするのですけど、
実際は逆にチャイコフスキーの方がドリーブのバレエ音楽から影響を与えられた側面も多少はあったようでして、
チャイコフスキー自身はドリーブのバレエ「シルヴィア」を絶賛し、知人タネーエフに
「もし私がもっと早くこの作品を知っていたら、私は白鳥の湖を作曲しなかっただろう」と語ったエピソードが残されています。

ドリーブの「コッペリア」と「シルヴィア」は上記で触れた通り、 吹奏楽コンクールでは頻繁に演奏される人気曲の一つ
なのかもしれませんけど、 プロの管弦楽の演奏会ではあまり演奏されないようにも思えます・・・
私自身、この両曲の生演奏は新日本フィルの演奏以外聴いたことがありません。
特に「コッペリア」のマズルカ・ワルツ・チェルダッシュや「シルヴィア」のバッカスの行列は聴いていて本当に楽しい曲ですし
子供向けのファミリーコンサートには最適な曲だとは思いますので、もっと演奏頻度が上がってもいいような気もします。

バレエ音楽「シルヴィア」なのですけど、バレエの大筋はギリシア神話から題材を取っています。

ストーリーを簡単に記すと・・・・

羊飼いの青年アマンタが美しい妖精シルヴィアに恋してしまいます。
しかし、妖精と人間の恋愛はご法度で絶対的に禁じられた恋でもあります。
そんな二人を愛の神エロスが何とかしようと画策する中で、
悪しき狩人のオリオンがシルヴィアを奪い自分の洞窟にお持ち帰りをしてしまいます。
拉致されたシルヴィアはオリオンをお酒で酔いつぶし、 その隙にキューピットに助けられて洞窟から逃亡を図ります。
最後は愛の神エロスのとりなしにより、めでたくシルヴィアとアマンタは結ばれ めでたく結婚することになるといった
お話でもあります。

全体的に暗い影も無く明るく楽しい作品でハッピーエンディングで終るところがいいですね。

全体的な印象としては、平凡な普通のお話なのですけど
その意味では、「人形」をバレエの世界に持ち込み、人形を初めてバレエの主人公にしてしまった
「コッペリア」の方が斬新と言えるのかもしれまないです、
考えてみると、人形が主人公のバレエと言うと、圧倒的に有名なのはストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」なのですけど、
そうした意味ではドリーブはストラヴィンスキーの先駆者的存在だったのかもしれないです。
もっともドリーブの音楽はストラヴィンスキーのような過激・野蛮・ワイルドさとは全く別次元の洗練された平和な音楽です。

このバレエは、四つの曲から構成される組曲版としての方が音楽としてはお馴染みなのかもしれないです。

この組曲は下記の四曲から構成されています。

Ⅰ.前奏曲と狩の女神

Ⅱ.間奏曲とゆるやかなワルツ

Ⅲ.ピッツィカート

Ⅳ.バッカスの行列

Ⅰは、全体的にホルンが大活躍を見せていますね。冒頭のトランペットのファンファーレと絡むティンパニが格好いいです。
Ⅱは、いかにも抒情的なバレエの調べという感じで、主役がソロをゆったりと踊っているシーンが目に浮かんできそうです。
Ⅲのピッツィカートは前述のチャイコフスキーの交響曲第4番第三楽章のように
とにかく全体を弦を爪でポンポンと弾くピッツィカート奏法をかなり効果的に使用しています。
シルヴィアは以前Eテレでハイライトを放映した事があったと思いますが、 「ピットカート」の部分はバレリーナがソロで
可愛らしく可憐に踊っていたような記憶があります。
Ⅳは、とにかく楽しい曲で、ⅠのメロディーがⅣで再現されています。
トランペットの勇敢なファンファーレがかっこよくて、ラスト近くで一旦静まりかえり、そこからティンパニのソロが展開され
華麗に曲が閉じられますが、この際の金管セクションの和音の響」が実に見事にハモっていて、ドリーブのセンスの良さを
感じさせられます。

フランスのバレエ音楽と言うと、例えばラヴェルの「ダフニスとクロエ」みたいな豪華絢爛な音の絵巻を思い出してしまいますが、
こういうシンプルだけど楽しい曲も素晴らしいと思います。

吹奏楽コンクールの全国大会においては、シルヴィアはコッペリアよりははるかに演奏頻度は下がりますけど、
過去にいくつかのチームが自由曲として演奏をしています。
吹奏楽コンクールではⅣのバッカスの行列を選ぶことが多いのですけど、中には、1999年の松山南高校のように
ⅠとⅢのピッツィカートとⅣのバッカスの行列を組み合わせた珍しいパターンもあったりします。
そして松山南高校のピッツィカートは、当時私も普門館であの演奏を聴いていてびっくりしたのですけど、
あの弾ける感じをメインで奏でていたのはクラリネットではなくてマリンバ奏者でした!
松山南のⅢのピッツィカートは全体で1分程度の短いものでしたけど、それをマリンバ奏者がまるで協奏曲のように
ほぼ一人でメロディーラインを奏でていて、当時は聴いていて、多少の違和感はあったものの、それはそれで大変ユニークな
表現と感じましたし、あのマリンバ奏者は当日のソリスト賞を贈呈したい気持ちでもありました。
松山南高校吹奏楽部は、「出場すれば銅賞」とも揶揄されがちな四国代表チームとしては珍しく(?)銀賞という評価にも
なっていましたけど、あの評価は確かに銀と銅のボーダーラインだったのかもしれないですけど、
マリンバ奏者の奮闘にも救われたという印象もあったりしたものでした。

_convert_20191110022201.png

ららマジのヴァイオリン奏者の九条紗彩は高校1年生の女の子です~♪

自分に厳しく人にも厳しいプロ意識の高いヴァイオリン少女 という設定です。

自分にも周囲にも厳しいため、一見わがままだと誤解されることもありますけど、根は優しくて世話好きでもあります。
極度の照れ屋で自分の気持ちを素直に表現できないという事で、ららマジの中ではツンデレの一人と
言えそうです。

九条紗彩はヴァイオリンのプロを目指しており、神童と呼ばれるフルート奏者の菜々美に密かな憧れやライバル心を
抱いてもいます。

薄いバイオレットのロングヘアーですけど、おでこの露出がなんだかとてもかわいいです。

こういうおでこをしたツンデレ気味の美少女JKさんにデコビンを食らわしてやったら、その反応はなんだか
「私、気になります・・」という世界になりそうです・・

_convert_20191224103754.jpg

夕陽に佇むサンセット九条紗彩はとても美しいです~♪

九条紗彩のヴァイオリンというと優雅という印象もありますけど、L.ドリーブのバレエ組曲「シルヴィア」 第Ⅲ曲のピッツィカート
で弾ける雰囲気の九条紗彩も見てみたいな~という想いもありますね。
クラシック音楽の中で、もしかしたらなのですけど、全ての楽器の王様・女王というとそれはピアノなのかもしれないです。

ピアノはピアノソナタ等単独作品としても古今東西たくさんの素晴らしい名曲がありますし、ピアノ五重奏曲といった
室内アンサンブルとしてもその存在感は際立つものがありますし、
ピアノの存在感を最大限発揮したジャンルが管弦楽団と一台のピアノの対話とも言うべきピアノ協奏曲なのだと思います。

18~20世紀初頭までのクラシック音楽の作曲家の皆様たちは、ピアノを管弦楽団内の一つのパートとして使用する事自体が
ナンセンスな話であり、そうした使い方を奏者に指定する事自体がありえない話だったのかもしれないです。
例外としてはサン・サーンスの交響曲第3番「オルガン付」~第二楽章第二部でのピアノ一台で二人の奏者による
装飾音符による連弾ぐらいなのかもしれないです。
(あの部分は二人のピアノ奏者の出番はその数十秒の連弾の部分だけですので、二人とも基本的には退屈そうですね~)

管弦楽の世界では、上記で触れた通り、管弦楽にピアノを用いる場合は、ピアノ対管弦楽の対話という事で「協奏曲」としての
形式が用いられていましたけど、そうした風潮に大きな穴を開けたのが、バレエ音楽「春の祭典」でもってそれまでの
クラシック音楽界の常識をひっくり返したとも言われるストラヴィンスキーだと思います。

ストラヴィンスキーはその出世作のバレエ音楽「火の鳥」でも既にピアノを効果的に用いていましたけど、
その次の作品のバレエ音楽「ペトルーシュカ」でもって更にそうした考えを推し進めています。
ストラヴィンスキーは、管弦楽作品を創造する過程において、ピアノを協奏曲的な主役としての使い方ではなくて、
単なる管弦楽団内の一つの楽器としての役割に徹させる事で、むしろピアノの新しい価値と役割を認識させたような
感じもあったりします。
つまりピアノをあくまで管弦楽団内の一つの素材という事にし、管弦楽団内で例えばクラリネットパート、トランペットパート、
チェロパートがあるのと同じような感覚で「ピアノパート」というものを積極的に活用したという事において、
後世の作曲家に多大な影響を与えたと言えるのかもしれないです。

結果的に20世紀以降の管弦楽作品の中にもごく普通にピアノを管弦楽団内の一パートとして使用している作品も
たくさんありますし(特にバルトークやショスタコーヴィッチ、プロコフィエフに顕著なのかもしれないです)
それによって管弦楽団が醸し出せる音色の幅が広がり、表現の多様性がより大きくなったと言えそうです。

バレエ音楽「ペトルーシュカ」は、指揮者によっては楽団内のピアノ奏者ではなくて、外部からソリスト的にピアノ奏者を
招聘する事もあったりするほどピアノには大変大きな役割が与えられています。
(特にそれが最大限発揮しているのが第一場のロシアの踊りの場面と第四場なのだと思います)
聴き方によっては「このバレエ音楽はピアノ協奏曲なの・・?」と感じるくらいピアノは相当効果的に使用されていますけど、
この曲はピアノ協奏曲ではありませんし、あくまでピアノは管弦楽団内の一つのパートに留まっています。
例えばロシアの踊りの場面とか第3場において、ピアノ奏者の両手の扱いはどことなくですけど、打楽器のシロフォン・マリンバを
彷彿させるものがあるくらいメカニックであるのが大変印象的でもあります。
曲のメロディーラインをずっと担当しているとか目立つソロがあるとかそういう訳ではないのですけど、陰に表に
そのリズムの切れ味と音色の多彩さによって管弦楽全体のサポートに徹しているという印象もあるくらい、主役ではないけど
「いい仕事をしているね~♪」と感じさせるものが大ですし、むしろピアノ協奏曲以外のジャンルにおけるピアノの
無限の可能性を示唆した作品と言えるのは間違いないと思います。

そしてそうした管弦楽団内の一つのパートとしてのピアノの世界は、その後、例えば、レスピーギの交響詩「ローマの松」や
バルトークのパントマイム「中国の不思議な役人」や「舞踏組曲」等に受け継がれていき、
ショスタコーヴィッチの交響曲の中で更に開花したと言えそうです。

ショスタコーヴィッチの交響曲第5番は、プロコフィエフの交響曲第5番と共に「20世紀の数少ない名交響曲の一つ」だと
思いますが、その第一楽章の開始から中盤までは大変重たく悩み深い空気が流れています。
そしてその重たい第一楽章の空気を一変させ、曲の雰囲気をガラリと重い→活発さ、ゆるやか→速いへと変えるきっかけを
作っている楽器こそがピアノなのです!
ピアノの低音叩きつけから流れが一気に変り、中盤のクライマックスを開始させる大いなる呼び水としての役割を十分すぎる
ほど果たしているのが、結果的にこの交響曲全体ではわずか数十秒程度の出番に留まるピアノだと思います。
あの第一楽章を聴くと、改めてピアノという楽器は別にいつも主役でいる必要もない・・時にはこうした空気を変える役割だって
いいではないかという事を意識してしまいそうです。
ちなみに管弦楽団の現場では、ショスタコーヴィッチの交響曲第5番は全ての楽章にチェレスタパートもありますので、
ピアノ奏者とチェンバロ奏者は普通は兼任していますので、ピアノの出番が終わったらヒマ死という事ではなくて、
ちゃんとチェンバロとしての仕事も残されてはいます。





上記で出てきたショスタコーヴィッチの交響曲ですけど、当ブログの過去記事で何度か書いているように、
例えば交響曲第9番~第四・第五楽章とか交響曲第10番~終楽章、交響曲第7番「レニングラード」~第一楽章における
オーボエの掛け合いの場面などのように、ショスタコーヴィッチの交響曲においては、ファゴットはとてつもなく優遇されている
楽器と感じますし、その使い方は上記のピアノと同様に大変巧いと感じます。

そしてショスタコーヴィッチの交響曲第5番~第二楽章においてもファゴットは大変巧い使い方をされていて、
そうした使用を見るとファゴットの奥深さを改めて感じてしまいます。

ららマジの器楽部のファゴット担当の橘レイナです。

アルトサックス担当の橘アンナは、レイナの双子の姉の方です。

橘レイナは、橘姉妹のミステリアスな可愛いお姉さんの方でしてアンナの双子の妹の方です。
バトル時の武器はファゴット型の狙撃銃で、複数の銃を同時に発射することもできるそうです。

お顔は双子という事でアンナとかなり似ている雰囲気もありますけど、アンナがボーイッシュな雰囲気なのに対して、
レイナの方はいかにも女の子という感じで、かわいらしい!というオーラに溢れていると思います。

橘レイナが奏でるファゴットによるショスタコーヴィッチの交響曲の奥深い世界も味わってみたいですね~♪
J.シベリウスの交響詩「フィンランディア」は、本当に素晴らしい不滅の名曲だと思います!

この曲、過去において何度も生の演奏会で聴く機会に恵まれましたけど、何度聴いても、その都度ジ――ンと胸に
来るものがありますし、そのあたりはフィンランドの「第二の国歌」と呼ばれる由縁でもありますし、
作曲当時の、フィンランドに対するロシアの圧政に対する反骨心・反発力が曲の至る所から感じることが出来ます。
19世紀末において、当時の小国フィンランドが当時の大国であるロシアから真の独立を勝ち取ろうと
ロシアに色々な面で刃向っていた事には共感するものがありますし、日本人の判官びいきなのかもしれないです。
日本ではあまり知られていない事ですが、第二次世界大戦直前に、ドイツとソ連の協定により、
ソビエトはフィンランドを併合しても構わないという事になってしまい、スターリン率いるソ連は雪崩を打って
フィンランドに侵攻を図ります。
そして当時のフィンランドは、そうしたソ連軍の侵攻にすさまじい抵抗を示し、結果的には国家併合という事態は
回避する一定の成果は挙げています。
フィンランドという国家自体は別にナチス政権みたいな全体主義国家ではないけど、結果的に枢軸国側寄りの立場として
ソフィン戦争・冬戦争というソ連の侵略に対する国家的防御としての戦争を遂行せざるを得なくなってしまい、
戦後はソ連から賠償金を請求されてしまうという歴史的事実をご存知の日本人って多分ほとんどいないと思います。
(驚くべきことに国力をあげて短期間でこの賠償金を支払い完了させています・・・)

シベリウスが交響詩「フィンランディア」を作曲していた頃は、大国・ロシアの圧政に苦しみ
第二次世界大戦中は、ソ連からのドサクサ紛れの侵略と戦後の賠償責任に苦しみ、
要はフィンランドという国は、欧州とロシア(ソ連)の二つの巨大勢力の間に埋もれる小国の悲哀みたいな立ち位置の国家と
言えるのかもしれません。

だけどそうした小国はこのフィンランドもそうですけど、実にある意味したたかです!
否! 小国の知恵としてそうならざるを得なかったのだと思いますが、その小国は現代においては
「世界の一つのモデル国家」みたいな様相すら呈していると感じられます。
今現在では北欧の教育大国にして、IT大国としての地位は既に確立されていると思われますし、
有名な携帯電話メーカーノキアやオープンソースOSであるLinuxの故郷であり、
「フィンランド式」とかいう教育メソッドにおいては、教育産業からも注目を集めていたりもします。
ムーミンの故郷であることを知っている方も多いでしょうし、
サンタクロースへの手紙の届け先であると認識している人もいるかも知れません。
地理的にはそれほど広くは無いし人口も対して多くは無い小国なのですけど
「小さいけどキラリと輝く国家」の一つだと思われます。

1984年に当時の日本の首相・中曽根康弘氏は「フィンランド化」という表現を用い、
「日本が防衛努力を怠ると、フィンランドの様にソ連の属国になる」という事を言いたかったようですけど、
中曽根氏にとってみれば、フィンランドの過去の歴史とか、フィンランドの人民がいかに「血の汗」を流して
ソ連との戦いを凌ぎ、ソ連からの独立を果たしているという認識は薄かったと言えるのかもしれないですね・・

話がそれてしまいました・・・

シベリウスの交響詩「フィンランディア」のメロディーラインはシンプルながらも人の心を打つものが確実にあると思います。
特に中間部のあのメロディーは、何回聴いても胸にジーンとくるものがあります。
上記で書いた通り、フィンランドという国家自体が周辺の大国からの圧力に苦しみ続けたという歴史がありますので、
巨大な組織や国にも負けないで、自分たちの主張を伝え、それを貫き通す「心意気」みたいなものを感じさせてくれます。

シベリウスが作曲活動を開始した19世紀終盤の祖国フィンランドは
当時の強国で隣国でもあるロシアから様々な干渉&威圧を受け、その圧政に苦しんでいました。
当時の小国フィンランドが当時の大国であるロシアから真の独立を勝ち取ろうと
ロシアに色々な面で刃向っていた事に対する
一つの精神的な支えにもなっていた曲と言えることもできると思います。

交響詩「フィンランディア」の原曲は純粋な管弦楽曲で、楽譜の上では合唱は含まれておりません。
この交響詩「フィンランディア」に合唱が入った演奏と言うと
私の場合、オーマンディ指揮のフィラデルフィア管弦楽団を思い出してしまいます。
高校生ぐらいの時に、オーマンデイ指揮/フィラデルフィア管弦楽団による「名曲全集」というレコードが家の中にあり、
そのレコードには、例えば・・・

〇ケテルビー/ペルシャの市場にて

〇ブラームス/ハンガリー舞曲第5番

〇グリーグ/ペールギュント組曲より、朝

〇スケーターズワルツ

〇剣の舞

といった通俗名曲が数多く収録されていて、
そのレコードのB面の最後に収録されていた曲がシベリウスの交響詩「フィンランディア」だったのでした。
そのフィンランディアの演奏には、中間部とラストに壮大な合唱がオプションとして追加されていて、
合唱の効果には目を見張るものがあり、とてつもなく感動を呼び込んでいたと思います。
当時、この演奏がとても気に入り何度も何度も聴いていたのですが、
オーマンディ指揮以外のこの曲も聴いてみたいと思い、他の指揮者の演奏も幾つか聴いてみたのですが、
勿論、これらの演奏には合唱は入っていませんでした。
当時はあまりクラシック音楽の事はよく分からなかったし今現在のように詳しくは無かったものでして、
一番最初に耳にした合唱版のフィンランディアがシベリウスの原曲と思い込んでしまっていて、
合唱が無いフィンランディアには違和感を感じていたのかもしれないです。
今現在のように合唱が入らない普通の交響詩「フィンランディア」に耳が慣れてしまうと
合唱版を聴くと逆に違和感を感じてしまうのは皮肉な話なのかもしれないです。

私が高校一年の時、当時の音楽の教科書に、「フィンランディア」というタイトルで中間部のメロディーから構成された
歌が掲載されていて、その歌の歌詞というものが教科書に載っていました。
あの歌詞はどこから持ってきたのか正直よくわかりませんし、
オーマンディー等が用いていた合唱版としての歌詞を単純に邦訳したのか、それともオリジナルの歌詞として
付けたのかは今となっては分かりません。
だけど、あの歌詞はなかなか味わいがあるもので、今でもあの歌詞はよく覚えています。

その歌詞は、正確じゃないかもしれないですけど、記憶をたどると・・

オーロラ光る彼方の ましろき山を目指し
 
おおしく進む若者 その頬赤くはゆ 

険しき道の彼方に 望みと幸は満つ


北風すさぶこうやに 緑の森を求め
 
たくまし進む若者 そのむね広くはり

はてなき道の彼方に 望みと幸は満つ

といったものだと思いますが、この歌詞の世界とフィンランディアの世界が時代と国を超えて融合しているようにも
感じられたりもします。

合唱が入る交響詩「フィンランディア」は一度だけ生の演奏会で聴いたことがあります。

1996年の創立40周年を記念した日本フィルの「特別コンサート」でしたけど、この演奏会のラストで、
この合唱付きのフィンランディアが演奏され、大変強い感銘を受けたのが今でも忘れられません。
この特別コンサートは、
広上淳一・藤岡幸夫・沼尻竜典・小林研一郎・渡辺康雄といった代々の日本フィルの指揮者が次から次へと登場し、
ソリストも中村紘子など当時の有名ソリストが数多くの著名人が客演し
かなり豪華な内容だったと思います。
それにしてもあの記念コンサートのラストの合唱付きのフィンランディアはとても素晴らしかったですし、感銘性は高かったです!
あの演奏はまさに「私は誰にも屈しない!」という決然さが伝わり、素晴らしかったと思います!


_convert_20200615021928.jpg


最後にこれは思いっきり余談になってしまいますが、
全日本吹奏楽コンクールは、今現在はそうした制度は廃止になっているのですが、かつては
全国大会で5年連続金賞を受賞すると、6年目には全国大会で「特別演奏」という20分間自由に演奏が出来るという
大変な栄誉が与えられていたものですけど、
1981年の全国大会・高校の部では、玉川学園がその栄誉ある特別演奏をお披露目していました。
だけど、この玉川学園は、なぜか20分の持ち時間のうち、実に半分以上を部員たちによる「合唱」をお披露目し、
吹奏楽曲として演奏した曲は、シベリウスの交響詩「フィンランディア」だけだったのです!
私はこの玉川学園の普門館での特別演奏は生で聴いていないので、この時の玉川学園の「フィンランディア」が
合唱なしだったのか、それとも前半で合唱をされていたのと同様にフィンランディアの中間部とラストで
合唱を入れたのかどうかは今でもわかりません・・

もしもこの点についてご存知の方がいらっしゃいましたならば、是非教えて頂ければ幸いです!
M.イッポリトフ=イヴァーノフの組曲「コーカサスの風景」は、第Ⅳ曲「酋長の行列」はそこそこ有名なのかも
しれないですけど、それ以外の三つの楽章はあまり知られていないと思います。
イッポリトフ=イヴァーノフの組曲「コーカサスの風景」以外に作曲した曲は調べてみるといろいろとあるようですけど、
私自身はコーカサスの風景以外は聴いたことがないです。というかこの組曲自体、全曲が日本のプロのオーケストラの
演奏会で演奏されたことは私自身は聴いたことがないです。
(稀に「酋長の行列」がファミリーコンサートで演奏されることもあるようです)
音楽史的には典型的な「一発屋作曲家」なのかもしれないですけど、後世に受け継がれていく曲を何か一つだけでも
残せたことは作曲者冥利に尽きるのかもしれないです。
ちなみにイッポリトフ=イヴァーノフ はリムスキー・コルサコフの弟子で、1935年まで存命でしたので、
ロシア革命・スターリンの独裁など色々大変な時代を生きていたと思いますが、どちらかというとロシア5人組といった
伝統的なスタイルを継承されていた作曲家&音楽教育家という印象もあります。

組曲「コーカサスの風景」の中の「酋長の行列」は、子供の頃に実家のレコードボックスの中に
「オーマンディ指揮/フィラデルフィア管弦楽団 世界名曲ライブラリー」といったタイトルで
ハンガリー舞曲とか、アルルの女のファランドールの踊りとかフィンランディアとかスケターズワルツとか
ペルシャの市場にて等々の世界各国の小品名曲が収録されているレコードがあり、
「酋長の行列」は、このレコードの中に収録され、子供の頃からこの曲は耳に慣れ親しんでいたような印象もあります。

「酋長」というと、何となくアメリカのインディアンの部族長とか、頭の飾りがすごい部族の親方みたいなイメージがあるのですが、
イヴァーノフの曲のおかげて、私的には酋長というと、アメリカ西部劇のインディアンの部族長というよりも
中央アジアの騎馬民族の親方みたいなイメージの方が強かったです。
ちなみにですけど、イヴァーノフが意識した酋長というのは、中近東諸国の軍総司令官を指すとの事です。

イッポリトフ=イヴァーノフの組曲「コーカサスの風景」 は下記の4曲から構成されています。
演奏時間は大体23~25分くらいですけど、第一楽章だけで10分程度を要し、組曲としてのバランスはちょっと悪いです。

Ⅰ.峡谷にて

Ⅱ.村にて

Ⅲ.モスクにて

Ⅳ.酋長の行列

Ⅰの峡谷にては、大峡谷の雄大な自然の様子が描かれていて、冒頭のホルンが峡谷に響く郵便馬車のラッパのこだまを表し、
弦楽器によるひそやかな響きは小川のせせらぎを感じさせています。
クラリネットで奏でられる民謡風の主題はのどかで平和な雰囲気を感じさせてくれています。
Ⅱの村にては、エキゾチックでミステリアスな雰囲気を漂わせていて、東洋風の音楽というよりは中近東の雰囲気を
感じさせてくれています。コールアングレによる神秘的な響きも大変印象的です。
Ⅲのモスクにては、イスラム寺院での人々の祈りを表現していて、この楽章は木管楽器、ホルンとティンパニだけで演奏され、
弦楽器は使用されません。実質吹奏楽の響きですけど、雰囲気は華やかさよりは祈りの厳かな雰囲気の方が
強いです。オーボエに始まり、楽器を変えながら一つのメロディが単純に繰り返される単調な曲想ですけど、
単純だけでは割り切れない純朴な祈りの素朴さを強く感じます。
そして第Ⅳ曲が酋長の行列なのですが、この楽章だけは俄然盛り上がります。
メロディーラインが恐ろしいほどに単調で、何のひねりも変化もなく素朴そのものな曲なのですけど、
それがまた「シンプルイズベスト」を立証している感じもします。
全体的にピッコロの響きが極めて印象的で、中央アジア的な響きを感じるのですけど、この響きはどことなく
ボロディンの「ダッタン人の踊り」の雰囲気に近いものもありそうです。
ピッコロとファゴットで奏されるメロディがクラリネットの東洋的なメロディと溶け合い賑やかに曲が閉じられます、
それにしても「酋長の行列」は単調さと素朴さの中でもピッコロの響きがとても耳に焼きつきます!
ピッコロの旋律は思わず口ずさんでしまうほど親しみやすいのですけど、
この執拗で素朴な反復が曲自体の自然な盛り上がりに一役買っていると感じられます。

組曲「コーカサスの風景」は、1990年の黒澤明監督の「夢」において第Ⅱ曲の村にてを使用していたり、
はたまた1996年のコナミのゲームの「セクシーパロディウス」最終ステージのBGMとしてⅣの「酋長の行列」が使用されて
いたりもします。
この組曲が作曲されたのは1894年ですけど、当時は既にドビュッシーのような印象派の新しい音楽が登場していたり、
マーラーが交響曲第3番「夏の朝の夢」で100分を超える曲が作られていたり、
R・シュトラウスのような構築美のような音楽が世界各地で作られている中で、こうした素朴な曲が
ひっそりと作られていた事も興味深いものもあります、

組曲「コーカサスの風景」をCDまたはレコードで聴く場合、昔ならばフェドセーエフ指揮/モスクワ放送響の演奏が素晴らしく、
最近ですとグルシェンコ指揮/BBCフィルの素晴らしい演奏が出ています。

全日本吹奏楽コンクールにおいて組曲「コーカサスの風景」は2019年末時点でこれまで全国大会で3回演奏されています。
1997年頃の中学の部で、宮崎県の赤江東中学校がⅠとⅣの組合せで金賞を受賞しています。
97年の演奏は私も普門館で聴いていましたけど、素朴で中学生らしいのびのびとした演奏で大変好感を持ちましたけど、
曲自体は吹奏楽アレンジ版で聴いても「全体的に同じメロディーの反復が多い単調な曲」という印象はありましたけど、
やはりピッコロの響きが結構耳に残ったりもしたものでした。
赤江東中学校は1995年にマスネの組曲「絵のような風景」で全国大会初出場を果たし、この年の演奏も普門館で
聴きましたけど、演奏がたいへんおとなしく地味で単調で控えめな表現に、ちょっと抵抗感がありましたけど、2年後の
普門館は95年の消極性を払拭したのびやかさが感じられ、改めてスクールバンドの短期間の成長を実感させたられた
ものでした。

マニアックなネタですけど、この曲の全国大会初演は大変古くて、1964年の富士製鉄室蘭吹奏楽団の演奏が
吹奏楽コンクールでの初演でもあったりします。





組曲「コーカサスの風景」の酋長の行列のピッコロの東洋風な響きは大変印象的ですけど、
「ららマジ」でのピッコロ奏者はうざかわいい先輩の小田桐アミです~♪

小田切アミはピッコロを担当している3年生のJKさんで、ららマジ器楽部内ではダンサーも兼任しています。

アミは入部当初はシンバル担当だったものの、シンバルは普段はヒマだけど、
曲によってはシンバルの一つのバシャーン!という打撃音の効果で曲の雰囲気を劇的に一変させる事も多々あり、
しかもそれは曲の途中で・・という事で曲の開始から自分の出番がくるまでのあの独特なプレッシャーに耐えきれず、
担当楽器を途中からピッコロに変え、シンバルの後任として自分の後輩でもあり弟子でもある伊藤萌に引き継がせています。

小田桐アミはとにかくおしゃべり大好きのJKさんで、部内では一つのトラブルメーカーみたいな位置づけなのかもしれないです。
あらゆることを楽しむための発想力と行動力は抜群で、常に物事を前向きに楽しもうという発想が行動の基軸となっています。
婿養子の父親以外は家族全員おしゃべりという家庭で生まれ育った事もあり、
周囲からはうざかわいい~♪といわれる事も多いようです。

喜怒哀楽に富み、普段の言動からもかなりの自信家と思われますけど、意外と小心者だったりするなどのギャップも
垣間見せるあたりは萌え要素といえそうですし、最上級生だけどそうは見えない所もポイント高そうですね~♪

髪型は黒髪ツインテールで、制服は上着なし、ネクタイはリボンにアレンジしていて、
ふともも側に赤い二本線の入ったニーハイを着用していたりもします。

小田桐アミの奏でるピッコロによる「酋長の行列」の素朴な味合いも聴いてみたいものですね~♪


_convert_20200222184816.jpg


ららマジ器楽部30人のメンバーの中で、トロンボーン奏者兼コンサートマスターの地位にいるのが3年生のお姉さまの
星崎梨花です。

担当楽器はトロンボーンで、器楽部のコンミスを務める完璧超人で、器楽部創立メンバーの一人であったりもします。
武器のトロンボーン型の槍は突いたり切りつけたりするだけでなく小規模な爆風を放つこともできるそうです。

上記の小田桐アミと星崎梨花は同学年で共にららマジ器楽部の創立メンバーであるのですけど、この二人は
考え方も行動様式も極めて対照的というのが大変興味深い所でもあります。

_convert_20200222183937.jpg

_convert_20200222192808.jpg

ららマジは、2020年がゲーム配信開始から3周年という事で、当時は記念グッズが色々と販売されていて、
3周年記念グッズイラストも取り扱いがされていて、その一つが上記の梨花とアミの二人のイラストです。
そしてこの二人のイラストは何やら喧嘩をしているような感じというのも何かと妄想し甲斐があるようなネタ満載
なのかもしれないです。

アミと梨花は、性格も見た目も考え方も水と油なのかもしれないですし、
アミは音楽を楽しみながらみんなで作り上げていこうという感覚なのかもしれないですし、梨花は指揮者の統率の下、
個と全体の調和を図りながら一つの方針の下に音楽に取り組んでいくという事なのかもしれないです。

言い争いをしているようなアミと梨花は、アミが手にしている楽器が現在のピッコロではなくてシンバルであることを
考えると、ららマジ器楽部創設間もない頃の話で共にまだ1年生の頃の話で、
お互いが相互理解を図れていない頃の話なのかもしれないです。
アミは普段の言動的にふざけているように見えがちなJKさんですが、「楽しく音楽をやりたい」という気持ちは真剣そのもので、
そうした真剣さというのは梨花ともどこかでつながるものはあるのかもしれないです。

そうした二人の心の交流というのが魔法少女服を手に入れた後の二人のきずなの強さにもつながるのかもしれないです。


マンドリン

u-cr_convert_20210316234456.jpg

ウクレレ

「ウクレレ」、「マンドリン」はいずれも古楽器「リュート」を起源とするリュート属の小型の弦楽器です。

見た目の雰囲気は似ているようにも感じられますけど、その歴史も使われ方も全然異なっていて、「似て非なるもの」と
いえそうです。

「ウクレレ」とは、4本の弦を持つ小型の弦楽器で、19世紀後半にポルトガルからハワイへ持ち込まれた民族楽器がハワイで
独自に発展したとされています。
日本では高木ブーが奏でる楽器というイメージもありそうですけど、
伝統的なハワイの民族音楽をはじめとしたハワイアン音楽には欠かせない楽器といえます。

ウクレレとは、アコースティックギターが小さくなったような楽器で、
21インチ、23インチ、26インチのものがあり、21インチはソプラノウクレレと呼ばれ、初心者にはこのサイズが
お勧めと言えそうです。
23インチのものがコンサートウクレレで、一般的なウクレレと呼ばれるのはこのサイズのものです。
26インチはテナーウクレレと呼ばれ、低い音を出すことができます。
いずれの大きさのウクレレも、基本的奏法は4本の弦を弾いて演奏し指で直接弾く引き方が主流です。

「マンドリン」は、イタリアが発祥の弦楽器で、18世紀のイタリアで小型のリュート「マンドーラ」から発展したとされています。

ヴァイオリンと同等の音域の演奏に向いていますが、弓ではなく、ピックによって演奏されます。
弦楽器としては多い8弦が張られており、2弦ずつの構成となっているため、一見では4弦にも見えるのが特徴です。
マンドリンの全長は約60cm程度で、ナポリ型と呼ばれるボウルバック(ボディ背面が半球状のもの)タイプや、
ポルトガル型と呼ばれるフラットバック(ボディ背面が平らなもの)タイプがあります。
ボウルバックはおもにクラシック音楽で、フラットバックはおもにカントリーやブルーグラスなどの音楽ジャンルで
用いられることが多いです。

マンドリンなのですけど、稀にですけどオーケストラの管弦楽曲や交響曲でも用いられる事もあります。
但し、マンドリンは音量的にはかなり弱い楽器でもありますので、静かな部分やソロ的に使用される事が多いです。
管弦楽曲として使用された事例としては、レスピーギの交響詩「ローマの祭り」~Ⅲ.十月祭が挙げられますけど、
Ⅳの主顕祭のどんちゃん騒ぎの前のひそやかな場面にソロ的に使用されていて、大変効果的だと感じられます。
交響曲で使用された事例としては、マーラーの交響曲第7番「夜の歌」~第四楽章が挙げられると思います。
この第四楽章は全楽章の中で一番安らぎのある楽章で、オーケストラの世界では取り入れられることの少ない
ギターとマンドリンを同時に使用していて、ギターとマンドリンがオーケストラの中で同時共演という実に珍しいケースと
なっています。
この第四楽章は、ホルン以外の金管楽器は全て休みですので、10分程度のこの楽章の間に体力を取り戻しておいてという
作曲者の配慮があるのかもしれないです。
この楽章ではギターよりもマンドリンが非常に効果的に使用されていて、全体としてはセレナーデのようにも聴こえます。




ここから下記は少しららマジの話をさせて頂きたいと思います。というのも、ららマジではウクレレも登場しているからです。

東奏学園の30人の器楽部においてメンバー最年少は卯月幸という中学1年生のウクレレ担当のJCさんです。

器楽部のエレキギター担当の真中華の妹で、ウクレレのほかにヴォーカルも担当することもあるそうです。
バトル時には愛用のウクレレに似た形の片手剣で戦う事もあります。
中学一年と言う事でららマジの中ではかなり幼い雰囲気があるのですけど、そうした初々しいかわいらしさが
とってもすてきですね~♪

卯月幸は一応ウクレレ担当なのですけど、「東奏学園に進学したらお姉さまたちのようにすてきな楽器奏者になりたい」という
あこがれの気持ちをもって日々練習に励んでいるその初々しさも素晴らしいです。
そして卯月幸も確かに今はウクレレ担当ですけど、
「高校に上がる頃までには色々な楽器を一通り吹いて、どんな楽器が自分にあっているのか試してみたい」と
思っているのかもしれないです。

ららマジカードの何にも卯月幸がホルンやクラリネットを各先輩から教わっているシーンを示唆するものがあったりして、
こういうシーンはとってもいいなぁ・・と感じたりもします。


_繧ッ繝ゥ_convert_20191030002934


ららマジのクラリネット担当の綾瀬凜は真面目な優等生で後輩からはちょっぴり怖い先輩としても知られています。

真面目な厳格な性格で後輩からは少し怖がられている事を綾瀬凜本人はかなり気にしており、
後輩にやさしく接しようと心掛けていたりもするそうです。

私自身、吹奏楽部に入部しクラリネットを始めた中学一年の時には、綾瀬凜みたいにやさしく接してくれそうなお姉さま先輩は
ほぼ皆無でしたので(汗・・)
ららマジの綾瀬凛みたいなお姉さまに教わればもう少し上達したのかもしれないですね~

そしてそうしたやさしく接してあげようと意識している綾瀬凜から手ほどきを受けることができる卯月幸は幸せ者なのかも
しれないです。

卯月幸のような新入部員にとって一年生のうちからたくさんの楽器のレクチャーを受け、その中から
「この楽器が一番わたしにしっくりくるかも~」という楽器を発見できればとても素晴らしいと思いますね~♪
ショスタコーヴィチの交響曲というと圧倒的に交響曲第5番と交響曲第7番「レニングラード」が名高いですし、
特に5番の方は、プロコフィエフの5番・マーラーの5番・シベリウスの2番などと共に「20世紀に作曲された交響曲」としては
極めて人気が高く演奏頻度が高い素晴らしい名曲だと思います。

ショスタコーヴィチ好きの方ですと、交響曲としてはそれ以外にも9番や10番も根強い人気があるかとは思いますし、
コアなマニアックなショスタコーヴィチファンの皆さまですと、8番・13番・14番を推されると思いますし、
より病的な?ショスタコーヴィチ好きの方ですと交響曲第4番の謎めいた世界にはまる方もいるのかもしれないです。

ショスタコーヴィチの交響曲というと「政治に翻弄されて作曲者自身が真に伝えたいことを封印せざるを得なかったため
妥協的な作品が多い」という批評もあるのかもしれないですけど、そうした批判は一度でも交響曲第4番や10番や13番を
聴いていただけるといかに的外れであるかはご理解頂けるのかもしれないです。

ショスタコーヴィチの交響曲は本当に大雑把にざっくりというと、「音の絶対性」だけを追求したと思える純音楽的な曲といえる
交響曲第1番と生涯最後の交響曲でもある交響曲第15番のやはり音の絶対性を追求した純音楽の間に2~14番という
政治に翻弄された曲、メッセージ色を漂わせた曲、御用作曲家の要素がありそうな曲、政治からの批判に対して名誉回復的な
意味合いがありそうな曲、反体制的な香りもありそうな曲、第二次世界大戦という戦争の影が色濃く漂う曲などなど
さまざまな形式や心情を織り込んだ曲があるのですけど、交響曲第1番はそうした政治からの影響を一切感じさせない
あくまで音の絶対的価値観だけを追求した曲ともいえそうです。
同様なことは最後のシンフォニーでもある交響曲第15番にもいえそうですけど、15番のショスタコーヴィチは、
もしかして人生の終焉もみえてきて「最後に自分らしい曲を残しておこう・・」みたいな意識も多少はあったのかもしれないです。
最後の最後になってショスタコーヴィチ自身は自分自身の原点に立ち戻ったともいえそうです。

ショスタコーヴィチの交響曲第1番はわずか19歳の時に作曲されていて、
(厳密にいうと17歳の時点で既に第二楽章のスケッチも完成しています)
1925年5月6日、レニングラード音楽院作曲科の卒業試験において、2台ピアノ用に編曲した作品がまずはお披露目され、
翌年にレニングラードフィルにて初演が果たされています。
その初演は熱狂的な反応を得て大成功を収め、第2楽章がアンコール演奏されていますけど、ショスタコーヴィッチの
指導教員でもあったグラズノフは試演前に「和音がなっていない」と第一楽章冒頭部分等の訂正を要求し、一度は
ショスタコーヴィッチはしぶしぶその訂正に応じていますけど、最終的には初演前に元の形に戻され、グラズノフは気分を
損ねたというエピソードもあるそうです。
(グラズノフは確かに作曲家としては名高いですけど、ラフマニノフの交響曲第1番を無理解のまま指揮初演し大失敗に
導き、それによって長い間ラフマニノフは鬱病に悩まされますので、音楽教育家としてはダメな先生だったのかもしれないです。
ショスタコーヴィッチも自伝で師でもあるグラズノフに対しては時に辛辣におちょくっています・・)
当時レニングラードに客演していたブルーノ・ワルターは、この交響曲第1番に感銘を受けて1927年にベルリン・フィルを指揮して
国外初演を行い、それが契機となってオットー・クレンペラー、トスカニーニ、ストコフスキー、ベルクなどから賞賛され、
欧米諸国への紹介が行われるなど音楽界に衝撃的なデビューを果たすことになりました。
今現在でものちに大変な大ヒットクラシック音楽となった交響曲第5番よりもこの交響曲第1番の方を高く評価している人たちも
少なからず存在していることは、それだけこの交響曲第1番の意義が高いということなのかもしれないです。

この交響曲第1番は改めて聴くと奥が深いと感じますし、作曲者が19歳の時に書いたとは思えないほど
濃密な内容の曲だと思います。
ショスタコーヴィッチというとどうしても政治やスターリンに振り回されたという印象が付きまとうのですが、
この曲は、まだそうした政治との絡みが皆無の頃の作品なので、純粋に音楽を楽しもうとか新しいことに挑戦してみようという
気持ちが伝わってきて面白い曲だと思います。
楽しいという感覚の曲ではなくて、どちらかというと、無限の数学とかパズルゲームみたいな感覚の曲であり、
軽快さ・ウィットと無機質な操り人形みたいな感覚が混在した不思議な交響曲でもあるのですけど、
一見取っ付き難いような印象があったりするのもその後のショスタコーヴィチの「本音を隠して作曲活動をせざるを得ない」という
生き方を先取りしているようにも感じられなくはないです。
くすんだような第一楽章、ピアノが渋い働きを見せる第二楽章
瞑想的な第三楽章、そして第三楽章のラストから小太鼓のロールで第四楽章に繋がっていくのですけど
この第四楽章もも決して「楽しい」という感じではありません。
だけど何か純粋に音楽そのものをのびのびと楽しんでいるという感じが伝わってきていて、作風は全然異なるのですが
後の交響曲第9番の茶目っ気や皮肉にもリンクしているような気がします。
個人的には、第四楽章後半の大胆不敵なティンパニソロとそれに続くチェロのつぶやくような
くすんだソロの部分が大好きです。
その大胆なティンパニソロ直前には一旦激しく盛り上がりかなり紅潮した気分になりますけど、それが突然全和音により
休止し、静まり返った後でティンパニによる完全ソロによって強弱の変化を伴った不思議な音型を奏するのですけど、
あの大胆不敵な使い方がとても大好きであったりもします。
曲全体としてはミュートを付けたトランペットの使い方もとても巧みだと感じます。

この交響曲第1番は19歳の時に完成した作品番号10の若書きの曲ですけど、ショスタコーヴィッチにとって初めての交響曲
であることを考えると、凄い才能と感じてしまいます。
マーラーの交響曲第1番「巨人」も若書きで、初のシンフォニーにしては異常に完成度が高いとかよく言われますけど、
マーラーの巨人は、その前に書いたとされる北欧交響曲やイ短調交響曲もありますので、実質的には1番ではないのかも
しれないですけど、
(マーラーのこの二つの交響曲は破棄またはドレスデン絨毯空爆の際に焼失したといわれ、現在は影も形もありません)
純粋に10代のころの初交響曲としてこんなにも完成度の高い曲を残したショスタコーヴィッチの偉大さを改めて
感じてしまいます。


_convert_20200527202215.jpg


1991年にインパル指揮/都響でショスタコーヴィッチの交響曲第1番を聴いたことがあるのですが、凄まじい歴史的名演だったと
思います。
この演奏を聴くと、無限のパズルを一つ一つ解離していくというインパル流の解釈が感じられ当時はとても驚いたものでした。
演奏終了後、奏者は舞台から既に去っているのにただ一人インパルだけは、聴衆のカーテンコールに何度も何度も
応えているのがとても印象的でした。

吹奏楽コンクールとしてなんと驚くべきことにこの曲の第四楽章が全国大会で演奏されたこともあります。

それを演奏されたのはさすが・というか1979年の花輪高校吹奏楽部&小林久仁郎先生なのですけど、
カスタムテープを聴いた限りでは、課題曲B / プレリュードの静と動の対比も素晴らしいですけど、自由曲のこの
ショスタコーヴィッチの交響曲第1番~第四楽章も素晴らしい音楽域完成度だったと思います。
確かに部分的にトランペットの音色つぶれや破裂音やミスも目立つのですけど、小林先生の自由自在な解釈は
ショスタコーヴィッチの若かりし日の感情を瑞々しく反映したものだと思います。

ラスト近くのティンパニソロも原曲以上に大胆不敵な解釈をされていました!

この曲は21世紀にはいって湯本高校の全国大会演奏もありますけど、花輪高校の演奏には及ばなかっと思います。

個人的には1985年の東北大会で聴いた十和田高校によるこの曲の演奏も素晴らしいものがあったと思います。
トロンボーンは、スライドの伸び縮みで音程を調節する中音域の金管楽器の一つです。

トロンボーンは小編成でも大編成でもたいていの場合3人一組で構成される事が多く、
その構成は、ファースト・セカンド・バストロという感じなのですけど、バストロンボーンは楽器自体が
ファーストとセカンドと管の構造自体が違っているという感じです。

トロンボーンの爆発的なあの推進力とか大音量の迫力は見ていても大変気持ちがいいものです!

例えばレスピーギの交響詩「ローマの松」とかショスタコーヴィッチの交響曲第5番終楽章とか
マーラーの交響曲第1番「巨人」終楽章などのような管弦楽曲の中で「ここぞクライマックス!」という場面でのトロンボーンの
豪快な響きはトランペットと共に最大限発揮されていると感じられます。
トロンボーンは2本のU字管を互いに挿し込んだような形状をしていて、片方のU字管がスライドできるようになっており、
管の長さを変えることによって音の高さを調整するのが大きな特徴です。
このスライド機能というのはトロンボーンが最初に登場した時からの特徴でもあり、他の楽器にはない最大の特徴でも
あります。
最近ではそうした光景はまず見られないですけど、1970年代の吹奏楽コンクールの地区予選等では、下手くそな
トロンボーン奏者が演奏中にうっかりと勢い余ってスライドをポロリと床に落してしまった・・みたいな都市伝説もあったりも
します。
トランペットよりも1オクターブ低い中音域の金管楽器であり、複数本で奏でるハーモニーの美しさには定評があります。
トロンボーンのメロディーのはもりや美しさの代表的事例としてワーグナーの歌劇「タンホイザー」序曲、
ブラームスの交響曲第1番終楽章、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」~第二楽章、
マーラーの交響曲第2番「復活」第五楽章、マーラーの交響曲第3番「夏の朝の夢」~第一楽章などを挙げたいと思いますし、
吹奏楽オリジナル曲としては、リードのアルメニアンダンスパートⅡ~Ⅲ.ロリからの歌やチェザリーニのアルプスの詩、
バーンズの交響曲第2番~Ⅱ.中断された変奏曲などを挙げたいと思います。

唇の締め具合とスライド管の七つのポジショニングの併用で自由に半音階を奏でることが出来ますけど、
真のレガート奏法が大変難しい楽器でもあったりします。
強奏時の鋭く輝かしい迫力ある音色も素晴らしいですけど、弱奏時の暗くしめった音も大変幽玄で美しいです。

以前の当ブログのバルトークの「中国の不思議な役人」記事の際に、トロンボーン奏者二人によるソロ的部分はとてつもなく
しびれてかっこいい!と記させて頂きましたけど、それ以外に管弦楽曲でトロンボーンがソロ的に大活躍したり、とてつもなく
目立つ曲でどんな作品があるのか考えてみると・・・

M.ラヴェル / ボレロ

トロンボーンにとって大変難しい高音域でのソロが与えられています。
都市伝説化している話として、とある管弦楽団のトロンボーン奏者が指揮者より
「今度の演奏会で演奏するボレロのトロンボーンパートのソロを完璧に決めたら、君は明日から当団の正式メンバーとする」と
言われて本番に臨んだものの、結果は見事に外してしまい、その日のうちにトロンボーン奏者は失踪または自殺を
してしまったというネタが古くからあったりします。

リムスキー・コルサコフ / 序曲「ロシアの復活祭」

一般的にソロが指定されるのはファースト奏者ですけど、この曲においてはなぜかセカンド奏者が指定され、
中間部の朗々としたソロを神秘的に奏でられます。
セカンドトロンボーンはリムスキー・コルサコフに足を向けて寝られそうにないですね~

A.コープランド / バレエ組曲「ロデオ」~Ⅰ.カウボーイの休日

中間部に粋で洒落っ気たっぷりのユーモラスなソロが用意されています!

小山清茂 / 管弦楽のための(吹奏楽のための)木挽歌~Ⅱ.盆踊り
(小山さんの作品としては鄙歌第2番にもトロンボーンのソロと強奏はもりがあったりもします)

C.アイヴズ / 交響曲第2番終楽章

ソロではないですけど、ラスト近くの豪快なメロディーラインをトロンボーンがほぼ独占状態で、あのメロディーを奏でる
トロンボーンパートは気分爽快だと思います!

トロンボーンの特徴は上記でも触れた通り、そのスライド操作にあるのですけど、スライド管をすべらせるように吹いたり、
グリッサンド気味に吹くとある時は不気味に、ある時はユーモラスな雰囲気を醸し出せると思います。
不気味な例がバルトークの「中国の不思議な役人」ですけど、ユーモラスな事例としてゾルダン・コダーイの
組曲「ハーリ・ヤーノシュ」を挙げたいと思います。

ゾルダン・コダーイというハンガリーの作曲家には、最近の吹奏楽コンクールでは、ハーリ・ヤーノシュよりはむしろ
ハンガリー民謡「くじゃく」による変奏曲とかガランダ舞曲の方が演奏頻度が高いのかもしれないですけど、
クラシック音楽に精通した皆様の感覚で言うと、コダーイは合唱の作曲の分野にも多大な貢献があり、
ハンガリーの民謡を世界に広めようとした貢献度と
学校の音楽教育に熱心であった御方という印象も実はあったりもします。
ちなみにですけど、ハンガリーは東欧圏なのですけど日本と少しだけ似ている点もあったりして、その一つが温泉文化が
定着している事や学校の数学の授業としてそろばんが採用されている点もありますし、
氏名表記が共通しているというのも面白い点だとも思います。
例えば日本において、鈴木一郎というと姓は鈴木で名前は一郎なのですけど、欧米の場合ですと、例えば
マイク・スミスの場合、マイクは名前でスミスが姓です。
要は日本と欧米は氏名の表記が全く真逆なのです。
その中でハンガリーの氏名表記は日本と同じであり、例えば上記のハーリ・ヤーノシュの場合、
ハーリが姓でヤーノシュが名前という事になります。
コダーイの組曲「ハーリ・ヤーノシュ」はハンガリーで親しまれているお伽噺の主人公であり、
若い頃の武勇伝を大ぼらを交えつつ語りかけるというのがお話の概要でもあったりします。
合戦でナポレオン皇帝を打ち負かしたり、ナポレオンの奥様のジョセフィーヌ皇后より
「今すぐ私と結婚して私とどこから駆け落ちして!」と誘惑された・・等の大嘘話がかなり出てくる楽しいお話でもあったりします・・

この組曲で最も有名なのがⅡの「ウィーンの音楽時計」だと思います。
冒頭いきなりコンサートチャイムとドラによって時計の音が描写されます。
時計と言うよりは、むしろ「ゼンマイ仕掛けのおもちゃ」みたいな感じもするのかもしれないです。
聴いていて実にハッピーな気持ちになれるとても楽しい曲です。
ちなみにこの曲、アニメ「のだめカンタービレ」でも何回か使用されています。

コダーイの組曲「ハーリ・ヤーノシュ」は下記の6曲から構成されています。

Ⅰ.序曲、お伽話は始まる

Ⅱ.ウィーンの音楽時計

Ⅲ.歌

Ⅳ.合戦とナポレオンの敗北

Ⅴ.間奏曲

Ⅵ.皇帝と廷臣たちの入場

Ⅰの冒頭においては、管弦楽団による壮大なくしゃみの音の模倣から開始されます。
これは「聞いている者がくしゃみをすれば、その話は本当のことである」というハンガリーの伝説をベースにしているそうです。
ⅢとⅤにハンガリーの民族楽器であるツィンバロンが使用されていることが際立っています。
そしてこの組曲において、管弦楽曲としては大変異例な事ですが、ⅡとⅣにおいては弦楽器は一切使用されていません。
吹奏楽コンクールにおいて、Ⅱ・Ⅳ・Ⅵの組合せによる自由曲の定番曲である事もある意味妥当といえそうです。

そしてこの組曲において全体的にトロンボーンは大活躍を見せています!

特にⅣの合戦とナポレオンの敗北におけるトロンボーン奏者による強烈なグリッサンド奏法は迫力満点ですけど、
これがまたとてつもなくユーモラスで楽しい表現となっています。
途中出てくるトロンボーンとチューバによって奏される主題は、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」のパロディです。
そして最後に出てくるアルトサックスのうらぶれたメロディーを伴奏として支えているトロンボーンの弱奏によるグリッサンドも
たいへんいい味を出していると思います~♪

このハーリ・ヤーノシュはトロンボーン冥利に尽きる曲であり、確かにトロンボーン奏者は大変ですけど、吹いていても
聴いていてもとてつもない爽快感があります。


_convert_20191023002651.png


美少女とトロンボーンというと印象的なのは「響け!ユーフォニアム」以外では、アニメ作品ではないのですけど、
2017年1月にリリースされた音と魔法の学園RPG「ららマジ」が大変印象的です~♪

ららマジのストーリーは、とある呪いにより廃部寸前となってしまった東奏学園器楽部を舞台に、
プレイヤーは器楽部員として登場する30人のヒロイン達を呪いから救い出し、彼女たちが再び演奏できるようにすることを
目指すように頑張るという内容です。

そして30人のJKさんのメンバーの中で、トロンボーン奏者兼コンサートマスターの地位にいるのが3年生のお姉さまの
星崎梨花です。
担当楽器はトロンボーンで、器楽部のコンミスを務める完璧超人で、器楽部創立メンバーの一人であったりもします。
武器のトロンボーン型の槍は突いたり切りつけたりするだけでなく小規模な爆風を放つこともできるそうです。





上記画像の星崎梨花はいかにも聡明でお勉強ができそう・・という雰囲気に溢れていると思います。

星崎梨花のゲーム上での声優さんは赤崎千夏さんと言う事で、赤崎さんは2019年度の夏アニメの一つである
「女子高生の無駄づかい」にてバカ役(田中望役)を怪演された御方であり、あのバカの
「なー、今からすげー事言ってもいい?」の
フレーズを聞くだけで田中の尋常でないバカ振りが見事に伝わってきたものですけど、
「ららマジ」ではそんな雰囲気を微塵も感じさせないばかりか、星崎梨花の声の雰囲気はいかにも聡明で頼りになる
上級生のお姉さまという雰囲気に溢れていますので、改めて声優さんの声の演技の素晴らしさには目を見張るものが
あると思います。

それにしても美少女がトロンボーンを奏でているシーンはとても素晴らしいと思いますし、星崎梨花のトロンボーンによる
「中国の不思議な役人」や組曲「ハーリ・ヤーノシュ」の爆演も聴いてみたいですね~♪
一週間前の月曜日の記事がプロコフィエフの交響曲第5番でしたけど、それに関連して本記事においては7番の方を
簡単に触れさせて頂きたいと思います。

改めてですけどプロコフィエフの交響曲は振れ幅が極めて大きいというのか、極端から極端に移りやすいというロシア人の
基本的パーソナリティーがそっくりそのまま適用される感じがしてならないですし、特に交響曲第1番「古典的」と交響曲第2番を
単純に聴き比べをすると「本当にこの2つの交響曲を作曲した人は同一人物なのか・・!?」と多分誰しもが感じられるのかも
しれないです。

プロコフィエフの交響曲は背景的には三つの側面があります。

1.ロシア時代(交響曲第1番)

プロコフィエフはロシア革命前の帝政ロシアの時代に生まれ育ち、このロシア時代に作曲した交響曲は第1番の古典的のみ
です。
そして古典交響曲の初演前後にロシア革命が起き、共産主義政権を嫌い「西洋の自由な空気を吸いたい」ということで
プロコフィエフはロシア革命直後に間もなく欧米に亡命します。
(亡命への道中立ち寄った日本では何度かピアノリサイタルも開催したりしています)

2.アメリカとヨーロッパへの亡命時代(交響曲第2~4番)

プロコフィエフは最初にアメリカに活動の拠点を構えますが、当時のアメリカの保守的な音楽事情に嫌気が差し、
その後フランスをはじめとするヨーロッパに活動の拠点を移します。
そしてこの欧米滞在時代に作曲された交響曲が交響曲第2~4番です。
それにしても欧米時代の2~4番の交響曲は悪趣味でグロテスクな傾向が大変強く、響きは鋭角的で不協和音と奇怪な響きに
溢れていて焦燥感に満ち溢れている様な感じも無くは無いです。
特に交響曲第2番~第一楽章のつんざくような金管楽器の鋭角的で耳をつんざくような響きはプロコフィエフの作品の
中でも特に異色だと思います。
交響曲第3番は歌劇「炎の天使」という中世の宗教裁判をベースにした魔女や悪魔が登場するオカルト的内容をベースにした
作品でもありますので、曲全体が怪奇でグロテスクな悪魔の歯ぎしりみたいな絶叫感が壮絶であったりもします。
(交響曲第3番は若き日のアバド・ムーティ・シャイーなどが取り上げ、1970年代辺りから「実は隠れた名曲なのかも・・」という
評価もあったりしますし、吹奏楽コンクールにおいて花輪高校が1981年の自由曲として選曲した事で一部のファンから
熱狂的な支持をうけた曲としても知られています)
交響曲第4番はプロコフィエフが残した計7つの交響曲の中でも最も評価が低く、曲自体のフルスコアの入手すら困難という
全く人気が無い曲なのですけど、実はこの交響曲には演奏時間25分程度の原典版と演奏時間が悠に40分を超える改訂版が
あるのですけど、これはどう聴いても演奏時間25分程度の原典版の方が軽快でわかりやすく、改訂版の無駄な箇所を
全て削除したら原典版に落ち着きそうな印象もあったりします。
上記で花輪高校の81年の自由曲の交響曲第3番第一楽章の話がでましたけど、東北大会のプログラムでは
誤表記で自由曲がプロコフィエフの交響曲第4番~第三楽章とされていましたけど、さすがにあのロシアマイナーシンフォニーを
得意とされた小林先生をもってしてもプロコフィエフの交響曲第4番はさすがに自由曲にはしないよね・・という感じなのかも
しれないです。
交響曲2~4番は単独での実演やCD化は極めてまれで、「プロコフィエフ交響曲全曲特集」という企画が組まれた時のみに
そのおこぼれに預かれるという印象すらあります。

3.ソ連復帰以降(交響曲第5~7番)

欧米時代の活動の行き詰まりもありましたし望郷の念が耐え難い面もあり、プロコフィエフは1933年に十数年ぶりに
祖国復帰を果たします。
復帰後はスターリンや当時のソ連音楽官僚の監視もありましたので、さすがに亡命時代のような過激な作品を作曲する
機会はかなり減っていましたけど、そこにあるのは欧米時代の過激路線からの脱却みたいなものもあったのかもしれないです。
そうした姿勢は交響曲第5番を聴くと鮮明に伝わってきそうです。
交響曲第5番は大変な名作交響曲としても有名で、ショスタコーヴィッチの交響曲第5番、マーラーの交響曲第5番、
シベリウスの交響曲第2番などと共に20世紀の名作交響曲として定着し、
現在でもCDや演奏会の公演曲目として完全に定着化していますし、忘れることなく演奏され続けています。
実際、プロコフィエフの交響曲第5番は客観的に見てもプロコフィエフの全交響曲の中でも抜きんでた存在であり、
公平に見てもそれまでの亡命時代の欧米で作曲された三つの交響曲と比べると、何の前触れも脈絡もなく突然途方もない
大ステップが果されたような感じがあり、先週の記事でも書いた通り第一楽章の冒頭からフィナーレのラスト数小節に至るまで
霊感と才気に溢れた何の気負いも過度な表現もない引き締まった音楽が展開されていきます。

交響曲第6番はあれだけの名作交響曲を作曲してすぐに連続して書かれているのですけど、プロコフィエフはまたまたここで
先祖返りをしてしまい? 少しグロテスクで訳のわからん音楽を展開し大変な不評を浴びてしまいます。
(難解でとっつきにくい第一楽章から一転してフィナーレの第三楽章のあまりにも軽いバカ騒ぎの違和感はどうしても
感じてしまいます。難渋な第一楽章、軽快なノリで場違いみたいなフィナーレの第三楽章、名作誉れ高い交響曲第5番の
すぐ後という意味ではショスタコーヴィッチの交響曲第6番とよく似ているようにも感じられます)

交響曲第2番第一楽章や交響曲第3番の響きと交響曲第5番の響きの違いというのは、あまりにも極端すぎるほどの違い
でもありますし、「本当に同一作曲者なのか?」と感じるほどのギャップの激しさは冒頭でもふれたとおり、
極端から極端に移りやすいロシア人の気性そのままなのかもしれないです。

そしてソ連復帰後最後の交響曲にしてプロコフィエフがその生涯で完全に完成したといえる最後の作品が
交響曲第7番「青春」嬰ハ短調なのです。
(小チェロ協奏曲は未完作品ですけど、死後にカバレフスキー等が補完しました、あの有名な一連の戦争ソナタともいわれる
ピアノソナタに次ぐ作品も作曲した形跡はあるそうですけど、未完成というのはとてももったいないです・・)
プロコフィエフは第二次世界大戦以降は体調を崩し気味で、交響曲第7番の頃には医者から仕事を禁止されるほど
健康状態は悪化していましけど、それでも作曲の筆は止まることなく続けられ、生涯最後の瞬間にぱっと美しい花を
咲かせたのがこの交響曲第7番「青春」嬰ハ短調だと思いますし、これが最後の作品ということから考えるとプロコフィエフの
白鳥の歌ともいえる作品だと思います。
それにしても交響曲第7番「青春」のこのわかりやすくて美しい作品はやはりどう聴いてもあの交響曲第2~3番や
スキタイ組曲、バレエ音楽「道化師」・「道楽息子」などと同一作曲家とは思えないです。

交響曲第7番「青春」嬰ハ短調は、ロシア国立放送児童部のために簡単で平易で短いミニシンフォニーを作曲してあげようと
考え、若い青少年の聴衆を意識したわかりやすい作風と
とてもじゃないけどこの交響曲初演の5ヶ月後に彼岸のかなたに旅立たれた人とは思えないほどのみずみずしい若々しさが
目立ちナイーブな青春の雰囲気がにじみ出ているということで、副題として「青春」と呼ばれることもあります。
(青春というタイトルは一説にはプロコフィエフが命名したという話もあるそうですけど、プロコフィエフが青春というタイトルは
かなり気に入っていたようです。ただ現在はこのタイトルで呼ばれることはあまりないと思われます)

第一楽章のナイーブで霊感溢れる開始部分に呼応するわかりやすい二つの主題、第二楽章のすがすがしいワルツ、
第三楽章の人の心にまっすぐとはいりこんでくるシンプルでわかりやすい素朴なメロディーライン、
そしていかにもプロコフィエフらしい推進力溢れるフィナーレの第四楽章と聴いていても全く飽きることはないと思いますし、
全体としてはすっきり感に溢れ聴きやすさという意味ではプロコフィエフの作品としては「ピーターと狼」に匹敵すると
感じられます。
第四楽章ではラスト直前のゆったりとした部分にてシロフォン・グロッケンといった鍵盤打楽器による執拗な反復部分があり、
この箇所はなんだか吹奏楽的にはネリベルの「二つの交響的断章」や「フェスティーヴォ」の執拗な鍵盤打楽器の反復を
彷彿してしまいそうです。

この交響曲がさらにユニークである点は、第四楽章ラスト数十小節の終わらせ方に作曲者自身による二つの版があり、
どちらを選ぶかは指揮者の判断に委ねられている事だと思います。
第4楽章の終結部は、弱奏のピチカートで消えるように終わる版と、強奏で終わるものの2種類があり、
後者は初演の指揮者でもあったサモスードの要望でオリジナルの終結部に20小節ほどが追加されたもので、
スコア上ではオプションの形で記されています。
私個人の好みですけどラストは後者のように派手に強奏で終わらせたほうが楽しいですし、すっきり感はあると思います。
静かに閉じてしまうとなんとなく死の影みたいなものがちらつきそうですけど、
プロコフィエフのそれまでの生涯の極端から極端にうつる作風からも静粛に閉じるよりはどんちゃん騒ぎのような感じで
閉じたほうが作曲者の生きざまにふさわしいようにも感じたりもします。
但し、プロコフィエフ自身はこの改訂版はあまり気に入らなかったようで、出版時にはオリジナルに戻すようにと
望んだとのことです。
一応二つの版も作曲者自身の手によるものですが、作曲者としては静かに終わる方を正式な最終決定版という認識で
いたようです。

この交響曲第7番が作曲される数年前の1948年に「ジダーノフ批判」によって、交響曲第6番などが批判の対象になったり、
ピアノソナタ6番、8番が演奏禁止となったり、前妻がスパイ行為をでっちあげられ収容所送りになったりと、
プロコフィエフはソ連当局からはこの時はかなり冷淡な仕打ちを受けています。
政府からの批判をかわすためわざと「青春交響曲」という名前を使いソ連政府の社会主義リアリズム路線に即した
わかりやすい簡明な曲を作ったいう説もあったりしますし、
海外では、この交響曲第7番の初演はオーマンディ指揮のフィラデルフィア管弦楽団によるもので、演奏自体は大変好評
でしたけど、「ソ連当局に迎合した作品」とか「晩年の懐古趣味が極端に反映されたもの」といった批判が沸き起こりましたけど、
この交響曲の真価はそうしたつまらない批判や憶測に関係なく、私たちの心の中に美しく根付いているものだと
私的には感じたりもします。

_convert_20191030000041.jpg

上記で青春交響曲第四楽章のエンディング直前のゆったりとした部分にて、シロフォンとグロッケンの鍵盤打楽器の
執拗な反復はなんだかネリベルの二つの交響的断章やフェスティーヴォのやはり同じく鍵盤打楽器の執拗な反復に
近いものありそうと記しましたけど、
ららマジで、グロッケンシュピール(鉄琴)を担当している高校3年生の女の子は、神代結菜お姉さまです~♪
神代結菜は器楽部創立メンバーの一人でもあります。

余裕たっぷりの柔らかな物腰、豊満なスタイルと、まさしくお姉さまといったタイプのすてきなJKさんですけど、
その醸し出される大人の魅力は、主人公のプレイヤーすらも惑わせてしまう魅力なのだと思います。
だけど昔から優雅ですてきなお姉さまだったという訳ではなくて、実は昔は孤独にさい悩まされ、心も荒んで荒れていた時期も
あったとの事で、その意味では酸いも甘いもわかるすてきなお姉さまという事なのだと思います。

誰にでも分け隔てなく優しく接しますけど、以前の孤独の反動からなのか好意を抱いた相手には
少々暴走気味な愛情表現を見せることもあるそうでして、
マイペースすぎるあまり、時に理由なく学校をサボるという悪癖もあるそうです。

私個人としては、是非ぜひ神代結菜お姉さまにネリベルの「二つの交響的断章」の冒頭における
チャイム・シロフォーン・グロッケンの3人による執拗な反復の美技を拝見させて頂きたいものですし、
クラシック音楽としてはプロコフィエフ / 交響曲第7番「青春」嬰ハ短調も奏でて頂きたいものです~♪

プロコフィエフ / 交響曲第7番「青春」嬰ハ短調は吹奏楽コンクールの全国大会では2019年時点では、1985年の三重大学
のみに留まっていますけど、あの三重大の演奏は相当ひどかったです・・
トランペットの破裂音と高音の音のはずしがお粗末すぎて興覚めでした。
前半で花輪高校のこともちらっとふれましたけど、プロコフィエフ / 交響曲第7番「青春」は実は2004年に関先生時代に
花輪高校が自由曲として演奏していたようですけど、残念ながら県大会どまりで終わっていたのは少し残念でしたけど、
小林先生時代に3番を演奏し、小林先生からバトンを受け継がれた関先生が7番を自由曲にされるというのも
なんだかとてもすてきなお話だと感じたりもします。
プロコフィエフの交響曲第5番は、みずみずしさと透明感と霊感に満ち溢れている
20世紀が残してくれた数少ない名交響曲の一つだと思います。
20世紀のロシア名交響曲というと、ショスタコーヴイッチの交響曲第5番とプロコフィエフの交響曲第5番は
絶対に外すことが出来ない名作中の名作だと思います。
プロコフィエフの交響曲は、第1番の「古典交響曲」は大変シンプルで明快でわかり易いのに、
次の交響曲第2番は、とにかく「悪趣味に満ち溢れ、終始不協和音と強奏で響き渡る」という感じになり、
更に交響曲第3番となると、オカルト色が強いというのか、悪趣味で極めて退廃的で、あの悪趣味的でグロテスクな表現の
連続は思いっきり評価が分かれると思います。
(私は1981年に花輪高校が全国大会で演奏したこのプロコフィエフの交響曲第3番~第一楽章でプロコフィエフの世界に
踏み入ったと言えると思います)
プロコフィエフの3番は悪趣味だけど同時にロシアの広大な自然さも感じるという大変稀有な雰囲気を聴かせてくれています。
ちなみに交響曲第2番第一楽章は冒頭からほぼ全てがffまみれで、弱音が出てくる箇所はわずか4小節程度に
留まっていて、そのくらい怪奇な響きが錯綜しまくっています。
だけど悪趣味でグロテスクな交響曲第2~4番を一気に聴いてしまった後で、交響曲第5番を聴くと、間違いなくですけど
「え・・これって2~4番を作った人と本当に同じ作曲家なの・・?」とか
「あまりにも違いがあり過ぎて、交響曲第2番と5番の共通性なんてほとんどない・・この人、
本当は多重人格なんじゃないの・・?」といった印象を持たれるのかもしれないです。
実際に私もそうでした! 上記でちらっと書いた通り
私の場合、吹奏楽から管弦楽という世界に入り込んだ事情があり、
一番最初に「プロコフィエフの交響曲」を知ったのは、1981年の花輪高校の第3番という特殊事情もあったのですけど、
最初に5番を聴いた時は、まさに「青天の霹靂」みたいな気分でした。
だってあまりにも違いがあり過ぎましたし、3番と5番が同じ作曲家とは到底思えないほどの明瞭すぎるほどの違いが
あると感じられます。
だけどすぐにあの霊感溢れる瑞々しい抒情性に取りつかれ、一気にこの曲の魅力に取りつかれたものでした。
ちなみにですけど、私がこの5番を聴くきっかけとなったのは、やはり吹奏楽でして、
1982年の全日本吹奏楽コンクールの東北大会にて秋田高校が演奏した第一楽章がそのきっかけを作ってくれたものでした!

言えることは、プロコフィエフの交響曲は、第2~4番、そして第6番の印象が極めて悪趣味・難解というせいもあるのですけど、
「どうもプロコフィエフの交響曲は悪趣味で好きになれない」という方も相当多いとは思うのですけど、
この交響曲第5番だけは万人から愛される資格があるのではないでしょうか・・・?

音楽解説書でもよく言われている事ですけど、何と言っても第三楽章の抒情性・美しさが本当に素晴らしいですね!!
第一楽章冒頭の霊感溢れる出たしも素晴らしいと思いますし、私はあのフルート等で奏でられる第一楽章の
テーマが流れるだけで相当気持ち的に引き締まるものがあったりもします。
第二楽章の快活さもお見事の一言に尽きると思います。

そして圧巻は第四楽章だと思います。

出たしが静かに開始されるのですけど、ホルンのポポポポポポポポという細かい刻みから開始される展開部以降は
一気にフィナーレにまで導いてくれる爽快さがあると思います。
終盤に打楽器のウッドブロックが出てきて、小太鼓とかなり面白い掛け合いを聴かせてくれます。
1990年代の後半に日本フィルの定期演奏会にて、プロコフィエフの交響曲第5番を目当てにサントリーホールまで
聴きに行ったのですけど、あいにく当日券はP席のみでした。
私の座席の位置はちょうど先程の小太鼓とウッドブロックの目の前と言う事で、
終楽章にてこの二つの楽器の掛け合いが始まった際はかなりエキサイトするものがありました!
すぐ目の前でこの楽器が音を出していてとてつもない生々しい感じはありましたけど、あの臨場感・ライブ感は
素晴らしいものがあったと思います。

この交響曲の終楽章は、聴き方によってはかなり面白いものがあると思います。

ラスト30秒くらい前だと思いますが、金管・打楽器が凄まじい叩き付けを見せ、次の瞬間から
ff→f→mp→ppと音をボリュームを落としていき、
そして、
ヴァイオリン2台・ヴィオラ2台・チェロ2台・コントラバス・ピアノ・ハープ・タンバリン・小太鼓以外の楽器は
唐突に沈黙し、上記の楽器のみによって、約10秒程度同じ音型を単調に繰り返し
そしてラストのラストで最後に全楽器が再登場し、一気呵成に曲を閉じていきます。

これは通常のシンフォニーの「クライマックス」とは明らかに異質な「アンチ・クライマックス」の世界だと思いますが、
やっぱり何か一つぐらい「仕掛け」をしないと気が済まないプロコフィエフらしい曲でもあるなと感じたものでした。

プロコフィエフの生涯最後の交響曲は、交響曲第7番「青春」というとっても可愛らしい曲です。
この曲においては難しい要素・不協和音・悪趣味な響きはほぼ皆無ですし、懐古趣味的な曲と言えるのかもしれません。
プロコフィエフは、若い頃はあんなに前衛音楽を好んで曲を作っていたのにその最後の交響曲が
ああした可憐でとてつもなく可愛い曲というのは極めて意外にも感じますし、
もしかしたら「子供の頃の記憶への幼児退行化」ともいえるものかもしれないです。

こういう前衛・悪趣味・奇怪から可愛い音楽への突然の変貌というのは、
晩年の「子供に戻る」という現象の表れと言えるのかもしれませんし、
「極端から極端へ動いてしまう」というロシア人の基本属性がそうさせるのかもしれないです。





昨年の吹奏楽コンクールは地区・県・支部・全国と全て中止なってしまいましたけど、奏者の皆様の失意を考えると
本当にいたたまれないものがありますけど、同時に聴き手にとってもコンクールでの「12分間のステージにすべてをかけてきた」
奏者の熱い演奏を聴く事ができなかったのは大変残念なものです。
本年度以降は無事に開催できることを心より祈念しています。

上記でプロコフィエフの交響曲第5番を取り上げましたが、実はこの素晴らしい名曲を知るきっかけになったのが
吹奏楽コンクールであり、1982年の東北大会にて秋田高校の吹奏楽アレンジ版におけるこの交響曲の第一楽章を聴いて
「なんと霊感に溢れた瑞々しい曲!」と感じ、これをきっかけにしてこの交響曲の素晴らしさにはまっていったという
感じでもあります。

吹奏楽コンクールは結果的に吹奏楽アレンジ版ではありますけど、クラシック音楽作品を自由曲にする事は
日常茶飯事ですが、そうした演奏をきっかけにして原曲の事をもっと知りたい・・聴いてみたい・・という事に繋がっていく
可能性もあると思いますので、そうした意味からも大変大切な音楽コンクールなのだと改めて感じたりもします。
一番最初にバルトークの「管弦楽のための協奏曲」というタイトルを耳にした際は微妙な違和感を感じたものです。

「協奏曲」と言うと、独奏楽器とバックの管弦楽団の音楽の対話というイメージがあるのですけど、
バルトークの管弦楽のための協奏曲は、独奏楽器と全体の対話というよりは、個々の楽器をコンチェルト風に
全体との調和を考えて扱ってみようという意図も透けて見えたりもします。
この「管弦楽のための協奏曲」というタイトルは、20世紀に入って以降色々な作曲家がこのタイトルで作品を残していますけど
私が知る限りでは最初にこのタイトルの作品を作曲した方ってヒンデミットなのかな・・・・?
このタイトルで圧倒的に有名なのは、言うまでも無く本記事のバルトークの作品なのですけど、
他にはどんな作曲家がこのタイトルで作品を残しているかと言うとコダーイ・シチェドリン・セッションズあたりだと思います。
ちなみに邦人作品ですと、三善晃の「管弦楽のための協奏曲」が大変名高いです!
バルトークの「管弦楽のための協奏曲」の第二楽章:対の遊びを聴くと
このタイトルの意味が何となく分かるような気がします。
ファゴット・クラリネット・フルート・オーボエ・トランペットの各楽器が2本ずつ対となって繊細なメロディーラインを
吹き、それが全体と鮮やかな対比を示しているような感じがありますし、
音の薄い部分又はソロ対トゥッティ(全奏)の対比を何か意図しているようにも思ったりもします。

バルトークの管弦楽のための協奏曲は、いわゆるクラシック音楽マニアの方達からは「オケコン」と呼ばれる事が多いですね~
オケコンとは何かと言うと、管弦楽のための協奏曲を英語読みした場合「オーケストラのためのコンチェルト」ですので、
その省略といえそうです。

クラシック音楽における他にも省略系として、一例を挙げると・・

ロメオとジュリエット ⇒ ロメジュリ

ダフニスとクロエ ⇒ ダフクロ

チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番 ⇒ チャイコン

メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲 ⇒ メンコン

バルトークの弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽 ⇒ 弦チェレ

春の祭典 ⇒ ハルサイ

指揮者のロジェストヴェンスキー ⇒ ロジェベン

日本の指揮者の小林研一郎 ⇒ コバケン

日本の指揮者で略称が定着しているのはコバケンさんだけなのかもしれないですけど、コバケンさんの場合、更にここに
「炎のコバケン」という名称もお馴染みなのかもしれないです。

フォーレの「ぺリアスとメリザント」誰もべリメリと呼ばないですし、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」は誰も
トリイゾとも呼びませんし、要は響きの良い語呂合わせなのかもしれないです。

バルトークの「管弦楽のための協奏曲」はバルトーク最晩年の作品の一つで、ナチスからの祖国侵略と迫害を回避して
アメリカに亡命したものの、保守的なアメリカ楽壇においてはバルトークの作風は全く受け入れられず、
バルトーク自身は日々の生活にも困窮するほどにもなってしまいました。
更に追い打ちをかけるように亡命前から既に健康を害していたバルトークは、アメリカの地において不治の病(白血病)に
蝕まれていて、管弦楽のための協奏曲が作曲された1943年頃は既に心身ともにボロボロの状態にあったものと
推察されます。
そうしたバルトークの困窮を見るに見かねた指揮者のクーセヴィッキーとライナーは、新曲の委嘱を受けるという名目で
多額の現金の援助を行い、バルトークはそれでもって病気の療養生活を送れるようになり、
一時的に往年の創作力と健康を取り戻したバルトークが世に送り出した曲が、20世紀の大人気管弦楽曲の一つであり、
バルトークの代表作の一つともなった「管弦楽のための協奏曲」なのです。
そしてバルトークは1943年8月15日~同年10月8日という超ハイスピードで全五楽章、演奏時間約38分の大作を
完成する事になります。
しかし、病魔はバルトークを忘れることも無く、結果的にその2年後の1945年にバルトークは世を去ります。
ちなみにバルトーク自身は、亡くなる直前まで作曲活動を病床のベッドの上からしていて、ピアノ協奏曲第3番も
亡くなるほんの寸前で完成されたほどでした。
バルトークのピアノ協奏曲第3番は、バルトークの完成した作品としては最後の作品という事になりますけど、その前向きな
希望と生命力溢れた音楽からはとてもじゃないけど作曲者はその時点では瀕死の病人であるという事は微塵も
感じられないです。

バルトークの「管弦楽のための協奏曲」は下記の五つの楽章から構成されています。

1.序章

Ⅱ.対の遊び

Ⅲ.悲歌

Ⅳ.中断された間奏曲

Ⅴ.終曲

Ⅰは金管楽器がとにかくかっこよくて爽快感と勢いに溢れています。
Ⅱの対の遊びは前述の通り、 オーボエ等の管楽器が2本ずつ対となって繊細なメロディーラインを奏で、
ソロ対トゥッティ(全奏)の対比のような様相を呈していきます。
最初にこのタイトルを耳にした時、「なんじゃそれ・・?」と感じたものでしたけど、生演奏を聴いてその意味が分かりました。
この楽章では、フルート・オーボエ・クラリネット・ファゴット・トランペットが各2本ずつペアになって
メロディーを奏でていき、また次のペアへとバトンタッチしていきます。
この曲を最初に聴いたのは、読売日本交響楽団の 今は亡き「東京厚生年金会館」での名曲シリーズだったと思います。
指揮は確か三石精一さんだったと思います。
Ⅲは全体的に大変重たく悲痛な響きに溢れています。
Ⅳは「中断された間奏曲」とのタイトルが付いていて、オーボエによるのんびりとした牧歌的な雰囲気から開始され、
クラリネットが奏するメロディーが こののんびりとした雰囲気を中断していくのがタイトルの由来と思われます。
そして最後には金管楽器が咆哮し、チューバが重苦しい地響きをたて、ドラがごわーんと鳴り響くという展開も大変
面白いものがあります。
Ⅳの中断された間奏曲は、バルトークがショスタコーヴィッチの交響曲第7番「レニングラード」第一楽章の延々とした繰り返しに
対する嫌味を込めたパロディーとも言われていて、確かに冒頭部分ののどかなメロディーがクラリネットによって破壊されていく
そのメロディーはレニングラードの第一楽章の繰り返しのあのメロディーに通ずるものがありそうですし、
金管楽器とドラによる咆哮は、そうしたショスタコーヴィッチの音楽を鼻でせせら笑うという毒にも聴こえなくもないです。
Ⅴの終曲はスピード感溢れる爽快な音楽です!
最初にこの曲をレコードで聴いたのが、ジョージ・セル指揮クリーヴランド交響楽団なのですけど、
今にして思うとセルの演奏ってなぜかⅤのラスト近くを少々カットして録音していて、最初に生演奏でこの曲を聴いた時、
「原曲に勝手に追加している」と感じたものでしたが、これは当たり前の話ですけど生の演奏の方が正しかった訳です。

Ⅳの「中断された間奏曲」というタイトルは、吹奏楽オリジナル曲ですけど、バーンズの交響曲第2番~Ⅱ.中断された変奏曲を
連想してしまいます。
Ⅲのフィナーレにおいては、中間部においてバリトンサックス⇒テナーサックス⇒アルトサックスとサックスセクションによる
ソロの受け渡しが展開されていき、更にファゴットのソロへと引き継がれます。
この辺りは、聴き方によっては、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」の「対の遊び」のエコーが響いてきそうです。

この曲はスピード感と推進力が魅力のⅠ・Ⅴも素晴らしいし、音自体の魅力が備わっているⅡとⅣも楽しいですし、
真ん中のⅢの悲劇的な雰囲気とシンメトリーが形成されているのも面白いと思います。
個人的には、Ⅱの「対の遊び」にてのファゴット→オーボエ→クラリネット→フルート→→トランペットがそれぞれ2本ずつ、
六度・三度・七度・五度・二度の音程を保ちながら次々と華麗なパッセージを繰り広げていく色彩と変化の組合せは
何度聴いても飽きないですね~♪




ららマジ器楽部のファゴット担当は橘レイナです。

アルトサックス担当の橘アンナは、レイナの双子の姉の方です。

橘レイナは、橘姉妹のミステリアスな可愛いお姉さんの方でしてアンナの双子の妹の方です。
バトル時の武器はファゴット型の狙撃銃で、複数の銃を同時に発射することもできるそうです。

お顔は双子という事でアンナとかなり似ている雰囲気もありますけど、アンナがボーイッシュな雰囲気なのに対して、
レイナの方はいかにも女の子という感じで、かわいらしい!というオーラに溢れていると思います。

バルトークの対の遊びでは2本使用されますけど、ららマジ器楽部内にはコントラファゴットもいますので、
持ち替えによって可能と言えそうです。


_convert_20191024173658.jpg


ららマジ器楽部のフルート奏者の結城菜々美は「ど根性で乗り切るぞ!期待の新人!」というのが売りの
ふわふわ熱血少女です~♪

明るく素直で、誰とでも仲良くなれるタイプで、根性さえあれば何でもできると考えている熱血系根性論者でもあり、
ときに無鉄砲な行動に出ることも多々あります。
音楽家の両親の影響で物心つく前からフルートに触れており、幼少期から数々のコンサートで最優秀賞を総なめ状態で
周囲から神童と呼ばれていましたけど、とある出来事により挫折してしまう過去の傷もあったりします。

根性論者、肉好き、運動神経抜群という側面と見た目のふわふわ~っとしたかわいらしさのギャップが
結城菜々美の際だの魅力なのかもしれないです。
灰色のニーハイを常に着用していて、ららマジの中ではすてきな絶対領域の持ち主であるのも大変素晴らしいですね~♪

ららマジ器楽部内ではフルート奏者は一人だけですので、対の遊びはちょっと無理なのかもしれないです。
それはクラリネット・オーボエにも同じ事が言えそうです。


_convert_20191119115248.png


ららマジのトランペット奏者でもある亜里砂・エロイーズ・ボー=ボガードと
トランペットと見た目は大変良く似ているけど、実際は楽器の構造も音色もトランペットとはちょっと異なる楽器のコルネットの
奏者である浅野葉月による華麗な対の遊びというのも大変興味深いです。

ららマジの浅野葉月はコルネットを担当している高校2年生のJKさんで、トランペットも兼任しています。

トランペットとコルネットは楽器の構造がまるで違うので、確かに見た目はよく似ているのですけど、
似て非なる楽器と言えそうです。
そして吹奏楽コンクールやプロの管弦楽団の演奏会等でも、部分的にコルネットを使用する場合は、トランペット奏者が
曲の途中で楽器を持ち替えることがほとんどです。
浅野葉月がトランペット兼任という設定は当然という事なのだと思います。

ららマジの器楽部におけるトランペットパートは実質的に浅野葉月と亜里砂・E.Bの二人と言えますけど、
浅野葉月は亜里砂・エロイーズ・ボー=ボガード(略して亜里砂・E.B)の隠れファンらしいという事で、浅野葉月にとっては
「あこがれの子と実質的に同じパートなんて大感激・・♪」という感じなのかもしれないです。
チャイコフスキーの「イタリア奇想曲」は聴いていても大変爽快な曲だと思います。
これまで生の演奏会では2~3回程度しか聴いたことが無いですけど、
交響曲第6番「悲愴」の重さと深刻な雰囲気や一連のバレエ音楽みたいなファンタジーは皆無ですけど、
文句なしに楽しい曲だと思います。

この曲のポイントの一つは冒頭のトランペットファンファーレなのかもしれないです。あのファンファーレを聴くだけで
気持ちよさとか南欧のおおらかさが伝わってきそうです。
このファンファーレは、チャイコフスキーがイタリア旅行中に滞在先のホテル近辺の騎兵隊宿舎から毎朝聴こえてきた
ファンファーレがモチーフになっているそうです。
オーボエで奏でられる6/8のメロディーは、イタリア民謡「美しい娘」に基づいているとの事です。
随所にイタリア要素が盛り込まれていますが、 メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」もそうなのですけど、
他国からきた旅行者が イタリアを訪れると、太陽サンサン! キュアサニーやで~!みたいに明るく陽気な曲を作る傾向に
あるみたいですが、それは何か分かるような気がします。
寒い国でもあるロシアのチャイコフスキーもそうでしたけど、ロシア以上に寒そうなフィンランドのシベリウスも
イタリア旅行をきっかけに曲の霊感や曲作りのヒントを得たというのも「なるほど~」という事なのかもしれないです。
私は残念ながらイタリアは行った事がありませんけど、 イタリアというと、真っ先に太陽とか陽気という言葉をついつい
連想してしまいます。
イタリアと言う陽気な気質が、普段はお高くむっつりされているエライ作曲家の先生達も
普段の自分という殻を打ち破ってしまう何かがイタリアの雰囲気にはあるのかもしれないです。
イタリアの作曲家の傾向として、深刻な交響曲よりは熱い歌の歌劇の方を伝統的に好むというのも国民性なのかも
しれないです。

チャイコフスキーは、交響曲第4番を作曲して交響曲第5番を作曲するまで約10年近くのブランクがありますけど、
その前後に自身の押しかけ女房による不本意な結婚→破綻・離婚→挫折と失望という人生の大きな試練があったのですが、
その癒しの旅としてイタリア旅行があったようですけど、離婚という大きなストレスから解放された喜びみたいなものが、
イタリアの風土・気質と融合して「イタリア奇想曲」みたいな大らかで楽しい曲が作られたのかもしれないです。
もっともこの頃は既にパトロンのメック夫人から、毎年莫大な額の年金(援助金)が懐に入っていて、
音楽院教授という一種のサラリーマン生活から解放され、音楽院の上司や周りの目を気にしないで自由に作曲が
できるようになったという要因も大きいのかもしれないですし、海外に色々と旅行する贅沢も可能になったという事なのだと
思います。

イタリア奇想曲なのですけど、中間部で、トロンボーンとトランペットの掛け合いの部分があるのですが、
結構この部分は奏者は大変だと思います。
生の演奏会で聴いた時も、トロンボーン奏者も必死でスライドさせていましたし、トランペット奏者も激しくピストンを
動かしていました。
全体的にタンバリンの音がどことなく南欧っぽいおおらかさが感じられます。
曲自体も15分程度の長さですし、管弦楽団の演奏会の一曲目として演奏するにはうってつけの一曲ともいえそうです。

この曲をCDやレコードで聴く場合、私にとって大変印象に残っている録音というと、
オーマンディー指揮のフィラデルフィア管弦楽団でした。
高校生の頃、このコンビのレコードは一枚1300円と当時としては破格の安さだったせいもあるのですが、
よくこの絶妙の組合せのレコードを聴いていました。
ダッタン人の踊りとかスペイン奇想曲とか、チャイコフスキーの三大バレエの組曲版とかこのイタリア奇想曲などなど
このコンビの華麗なる響きが素晴らしかったです。
オーマンディ/フィラデルフィア管のCDは色々と出てますが、昔のレコードの頃に収録されていて
CDには収録されていないという曲もありますので、当時の音源が復刻CD化して頂ければうれしいですね~

吹奏楽でも1970年代あたりまではイタリア奇想曲はコンクールの自由曲として定番曲の一つでしたね。
最近ではめったに演奏されなくなりましたけど、吹奏楽アレンジ版としてはウィンターボトム版とローランドゥ版のアレンジが
記憶に残っています。原曲は16分前後のため、吹奏楽コンクールで演奏する場合カットは必須ではありますけど、
どこの部分をカットすればいいのか?というのは指揮者にとっては結構悩ましい問題ではないかと思ったりもします。

イタリア奇想曲の吹奏楽コンクールでの名演というと1983年の出雲第一中学校を挙げたいですけど、それ以外に
2つほど印象に残っている演奏があります。

一つが1983年の中村学園です。

この年のBJの講評で、ある審査員が
「中村学園は女子高だけど、トランペット奏者が全員ガニマタ気味に吹いていたのが大変印象的である。
トランペットは本来立って吹くべきものだが、座って吹くと自然と足は左右に広がるものなので、
ああいうガニマタスタイルは理にかなっている」と大変面白い事を書かれていましたけど、言いたい事は分かる気はします。
当時の「日本の吹奏楽83」のレコードの裏ジャケットの中村学園のカラー写真を見ると「確かにそうなのかも・・」
という感じもあったりもします。
今現在の福岡県の名門女子高吹奏楽部と言うと、言うまでもなく精華女子高校なのですけど、
精華女子の演奏は私も何度もコンクールの生演奏を聴かせて頂きましたけど、見ている感じでは、
トランペットの女の子たちもそんなガニマタとかどこか力んでいるような感じとかは皆無に等しく
とてもナチュラルに吹いていて、見た目も大変洗練されていてスマートに吹いているみたいな印象も感じ受けたものです。

中村学園のイタリア奇想曲の冒頭のトランペットのファンファーレは少し外し気味で、そのとちった感じがむしろ昭和の頃の
おおらかさみたいなものも感じられます。

中村学園の課題曲も自由曲はファンファーレで開始されるのですけど、
課題曲も自由曲もその部分が決してカッチリと決まっていた訳では無く、どことなくあやふやな部分が感じられ、
部分的にトチっていたのは、前年の82年の中村学園は欧州遠征で吹奏楽コンクールに未参加でしたので、コンクールの勘が
少し鈍っていたのかもしれないです。
自由曲のイタリア奇想曲は、1980年のウィンザーの陽気な女房たち序曲で感じさせた中村学園の当時の弱点でも
ありそうな音とサウンドのべたべたしたような感じが前面に出てしまい、全体的に太陽サンサンのカラッとした雰囲気ではなくて
じめっとした感じでもあったのが惜しまれます。
課題曲の中間部は、アルトサックスのソロも含めて大変しっとりとした抒情的な香りも伝わり、その点はとてもよかったと
思いますが、アレグロ部分はもう少しスピード感を演出して欲しかったと感じます。
自由曲も決して下手な演奏ではないのですけど、どこか「ほわん・・」とした演奏になっていて
中間部のトランペットとトロンボーンの掛け合いの部分もどことなくモサッ・・とした雰囲気のまま曖昧な感じで
展開されていたのは中村学園らしくもないな・・とも感じていたものでした。
ただそうした弱点は翌年以降は見事に解消されていて、むしろキビキビとしたキレの良いスピード感が発揮され、
それが85年のコッペリアと86年のパリの喜びの歴史的名演につながっていったような印象もあります。

二つ目は1993年の伊予高校です。

93年の伊予高校の演奏と「銅賞」という審査結果を聴いてふと感じた事は、毎年変わる審査員による評価の判定基準の
一貫性とは果たして何なのかという事でもありました。
伊予高校は1991年にB/パリの喜びで念願の初金賞を受賞したのですけど、その演奏と評価は正直評価は分かれると思います。
ある人は「やり過ぎ・・・表現過剰、追い込み過ぎで煽り過ぎ」というマイナス評価をされる方も いると思いますし
ある人は「絶えず何かを精一杯伝えようとする表現の積極性は素晴らしい」とプラス評価をされる人もいると思います。
結果として1991年は金賞に輝いたのですけど、
1993年の演奏は、91年と93年の両方の演奏を聴いた人間の客観的な感想としては、
「どちらもほぼ同じような傾向の演奏で、技術的にもどちらの年も大差がない。プラスもマイナスもどちらの要素も持っている演奏」という感じでした。
結果的に91年は金賞、93年は銅賞という事になりましたけど、
吹奏楽コンクールの場合、毎年毎年審査員が変わり 少なくとも明確な「審査基準」が定まっていないから、
同じような傾向の演奏でも、年によって、審査員の好みによって 評価は変わるものはいかがなものかという事でも
あるかとは思います。

ちなみに私自身の感想・評価は91年も93年も文句なしの銅賞と言う感じではありました。

音楽というものに絶対的な価値基準は存在しない、人によって感想・捉え方・解釈は異なるという事を立証したような
演奏だったと思います。


_convert_20200216020637.jpg


イタリア奇想曲の最大のポイントはやはり冒頭のトランペットの高らかなファンファーレと言えそうです。

「ららマジ」のトランペット担当は、亜里砂・エロイーズ・ボー=ボガードです。

フランス生まれのクォーターで高校2年生のJKさんで、金髪ツインテールがとてもよくお似合いだと思います。
担当楽器はトランペットで、腕前はプロ並で、自分のかわいさが分かっているかのような小悪魔チックな振る舞いをするような
性格もまたまたとってもかわいいですね~♪

公式では「亜里砂・E・B」と略される事が多いです、

バトル時においてはトランペット型のアサルトライフルを武器とします。

ららマジ器楽部内には浅野葉月というコルネット奏者もいますので、ぜひぜひ亜里砂と葉月の二人による
イタリア奇想曲の冒頭のファンファーレを聴いてみたいものですね~♪





チャイコフスキーの「イタリア奇想曲」とショスタコーヴィッチの「祝典序曲」の最大のポイントであり聴かせどころは
トランペットによるファンファーレ だと思うのですけと、
ららマジのトランペット奏者でもある亜里砂・エロイーズ・ボー=ボガードと
トランペットと見た目は大変良く似ているけど、実際は楽器の構造も音色もトランペットとはちょっと異なる楽器のコルネットの
奏者である浅野葉月によるそうした華麗なるファンファーレはぜひ聴いてみたいですね~♪

ららマジの浅野葉月はコルネットを担当している高校2年生のJKさんで、トランペットも兼任しています。

トランペットとコルネットは楽器の構造がまるで違うので、確かに見た目はよく似ているのですけど、
似て非なる楽器と言えそうです。
そして吹奏楽コンクールやプロの管弦楽団の演奏会等でも、部分的にコルネットを使用する場合は、トランペット奏者が
曲の途中で楽器を持ち替えることがほとんどです。
浅野葉月がトランペット兼任という設定は当然という事なのだと思います。

この二人による華麗なるファンファーレは相当見映えがしそうですね~♪

ららマジの器楽部におけるトランペットパートは実質的に浅野葉月と亜里砂・E.Bの二人と言えますけど、
浅野葉月は亜里砂・エロイーズ・ボー=ボガード(略して亜里砂・E.B)の隠れファンらしいという事で、浅野葉月にとっては
「あこがれの子と実質的に同じパートなんて大感激・・♪」という感じなのかもしれないです。
チェコの作曲家ヤナーチェクは狂詩曲「タラス・ブーリバ」とか「シンフォニエッタ」等でお馴染みの作曲家だと思いますが、
最近では歌劇の分野の作品の再評価が進み、例えば「イェヌーファ」とか「利口な女狐の物語」などはかなり高い評価を
受けるようになり、日本でも東京交響楽団が「利口な女狐の物語」を演奏会形式として定期演奏会で演奏をしています。

吹奏楽経験者ならば、ヤナーチェクというと「シンフォニエッタ」がやはり一番の定番なのかもしれないです。

ヤナーチェクの作品の中にはかなり面白いものもいくつかあったりするのですけど、その最たるものが、
歌曲集「消えた男の日記」だと思います。

一般的にクラシック音楽の「歌曲集」というと、ピアノ伴奏にソプラノ1名またはテノール1名と言うのが
一つのパターンになっているのですけど、
この連作歌曲集の場合、テノール・ソプラノ・女声混成合唱にピアノという変成スタイルを取っているのが
極めて異例だと思います。

この歌曲集の内容もかなりある意味アブノーマルでして、
当時、交際と接触自体がタブーの対象だった「ジプシー女」にある農村の朴訥で素朴で真面目な農夫の青年が
たぶらかされて誘惑されてしまい、結局はそのジプシー女に凋落され
故郷の村を捨てて、そのジプシー女と駆け落ちし放浪の旅に出てしまい、
故郷から姿を消してしまったその真面目な農夫の青年が村に残した日記を題材にしています。
だからこの「日記」はあくまで村にいるまでの間の心の葛藤の記録であり村を去ってからの記録はではありません。
ちなみにその「日記」と言うのは、事実に基づいてはおりませんのでご注意を・・
あくまでこれは創作日記という扱いです・・
というか、もしもあれが事実だったら、ちょっと怖いのかもしれないです。

ちなみにこの歌曲集の訳詩ですけど少しだけ抜粋すると・・

第1曲

俺は若いジプシーに出会った、
雌鹿のように歩む娘に、
黒いお下げ髪は胸をおおい
底なしにきれいな目。
俺をじっと見つめてたが、
切株を飛び越えて消えた、
だがその残像は俺の頭に
日がな一日こびりついてた。

第11~12曲の抜粋

大地が枕で 空が上掛け、
露に濡れて冷えた手は太ももの間で温めるの・・

スカート1枚だけの娘はそのまま大地に横たわる
うぶな俺は泣きながら腰を下ろした。

薄暗いハンの木林に冷たい泉、黒髪のジプシー娘に真っ白な膝
この4つを生きてる限り、俺は決して忘れまい。

第21~22曲の抜粋

いとしい父さん
あんたの当ては外れた
俺が嫁にするのは、あんたが選ぶ娘じゃない。
過ちを犯した者はみな
その罪に苦しまねば・・
これからの運命も俺は避けない!

さらば、生まれ故郷よ   
さらば、わが村よ!
永遠の別れ、それが
俺に残された唯一の道。

1が出会い、11~12が一線を越えてしまった感じ、21~22が故郷を去る場面と言えるのだと思います。

全体的には痛い・・感じが伝わってきていると感じざるを得ないです。

この歌曲集は全部で22曲から構成されていますが
この第11~13曲で初めてこの青年とジプシー女が一線を超えるのですけど、この場面は結構濃厚に描かれています。
第13曲はピアノソロだけで、歌は一切入りません・・・
でもこのピアノが何とも濃厚で実にエロい(?)です・・・
どうしてこの大事な場面だけ歌が入らずピアノだけというのは、その解釈は聴き手に委ねられているといえそうですけど、
愛の誘惑には言葉は要らないという解釈なのかもしれないです。
そして次の第14曲では、ついにタブーを犯してしまった真面目な青年の罪悪感・虚脱感・けだるさが
実に見事にテノールで歌われています。

この歌曲集は設定が大変面白いと思います。

ある真面目な青年が、ある日突然村から忽然と姿を消してしまう。
そして、彼の部屋の机の上には、一冊の日記だけが残されていた・・・。

これって今風に言うと
「日々のストレスや不安等をブログで書き綴り、自分の中々本音で語ることが出来ない心情を
ネット上で吐露していた・・・
だけどこのブログもほとんど見る人も無く放置状態・・・
だけどそうした日々に嫌気が差し、自殺を決意・・・
死後に初めてそのブログが身内や知人に知ることになり
初めて故人の本音を知ることになった・・・」

そんな感じなのでしょうか・・・

ある意味時代の先取りという感じといえなくもないのかもしれないです。

ちなみにこの歌曲集を作曲している頃のヤナーチェクは、
30歳以上年下の夫と子供が既にいる女性に一方的に片思いをし
この女性との間に膨大な往復書簡が残されていますけど
この「消えた男の日記」のジプシー女とその年下女性との関連性を指摘する人もかなり多いみたいですね。

それにしても日記を付けている人はある意味怖い・・・

うちの奥様も実は日記を付けていて
ある日たまたまその日記をちら見してしまったのですけど(わざとじゃないですよ~)
至る所に私の名前が登場していたような気もしましたが、
何を書いているのか見たいような見たくないような・・・??
でもやはり少し怖い気が・・・

このブログのポンコツ管理人である「私」も一応は・・ブログと言う日記を付けていることになるのかもしれないですけど、
私の場合、どちらかというとアニメと美少女と東方等の感想や千葉ロッテマリーンズのことばかり書いていて、
実をいうと自分自身の内面の事を日々克明に記している訳では無いので、そんなには怖くは無いのかもしれないです・・


="_blank">2020-pacyuri-03_convert_20200528162259_convert_20200530011708.png


ここから下記はdream fantasy2
アミグリさんが描かれた絵の転載&ご紹介コーナーです。
上記で日記とか日記を克明につけている人はある意味少しばかり怖いのかも・・?と記しましたけど、幻想郷でマメに毎日
克明に日記をつけていそうなキャラって正直あまり思い浮かばないのですけど、
そうした数少ない几帳面で筆まめそうで、自分の記録を日々残しておくことにこだわりそうな御方はアリスとパチュリーさん
なのかもしれないです。
魔理沙も阿求によると日々の魔法のキノコの威力の結果を記録に残しているようですけど、魔理沙はさすがに自分の私生活の
日記を文章にするほど几帳面ではないのかもしれないです。
上記であげた名前はパチュリーさん・アリス・魔理沙となぜか魔法使い関連のキャラばかりになってしまいましたけど、
もしかしたら魔法使いという種族自体が意外と??几帳面なものなのかもしれないです。
(間違っても霊夢は日記なんて書きそうにもないですね~)

そしてこの3人の中でも克明な日記を残していそうなのは幻想郷最大の知識人の一人のパチュリーさんなのかもしれないです。

そうした訳で本日のアミグリさんの描かれた東方キャラは最も日記をつけていそうなパチュリーさんです~♪

上記のパチュリーさんはアミグリさんが2020年5月に描かれたパチュリーさんです。

このパチュリーさんは大人のパチュリーさんだと思います!

しっとりとした風情が感じられ、いかにも図書館の司書みたいな理性的で知的な雰囲気が柔らかく感じられます。

余談ですけど、2019年の秋アニメであり2020年の冬アニメでもあった「本好きのための下剋上~司書になるには手段を
選んではいられないです」のマインは、元々は日本人少女でしたけど、不慮の事故で死亡し転生した世界には、
一般家庭に流通している本がないため、本好きのマインは困り果て、
「それだったら自分で異世界で一から本づくりをすればいいじゃん!」というお話でもあるのですけど、
パチュリーさんがもしも本の無い世界に転生したとしたら、マインと同じような事をするのかもしれないです。

アミグリさんが過去に描かれたパチュリーさんの中には元気溢れる雰囲気もあり、
そうした溌剌としたパチュリーさんもすてきですけど、こうした大人の風格が感じられる物静かなパチュリーさんもとっても
素晴らしいと思います!

柔らかい眼差しに豊かな紫の長髪に読書を静かに楽しまれる様子は、やさしさに包まれた大人のパチュリーさんだと
思います。
こんなに柔和でやさしい眼差しでしっとりと見つめられたら、さすがにあのわがままおぜうさまも、いつもコソ泥ばかりする
魔理沙もあまり悪さは出来そうもないのかもしれないです。


sama-pache-dedsuyo!!_convert_20140724175502.png


続きましてアミグリさんが2014年7月に描かれたパチュリーさんです。

このパチュリーさんは色彩感に溢れとってもファンタスティックだと思いますし、とってもお美しいですし、
まさに夏の涼しげな美少女という雰囲気に溢れていると思います。

紫色をベースにしながらも部分的に水色を入れているため涼しげな印象をもたらしていると思います。
掲載当時のアミグリさん自身によるコメントでは
「フリルも透けている感じで塗ってみたけどどうでしょうかー」とありますけど、
その透明感こそが清涼感に繋がっていると思いますし、夏に相応しい涼風みたいに
爽やかな風が舞っているみたいな雰囲気が漂っていますし、川辺に佇む美少女という感じだと思います。

パチュリーさんは公式設定の上では、紅魔館地下に閉じ籠って一日中本を読み耽っていて
太陽とか日焼けとか真夏みたいなイメージは実はあんまりないのですけど、アミグリさんの手に掛かってしまうと、
こうした透明感・爽やかさ・清涼感が伝わってくるすてきな作品になってしまうのがとても素晴らしいと思います!


上記のアミグリさんが描かれたパチュリーさんの権利は、
全て上記作品の絵師様であられるアミグリさんに帰するものであり、当ブログにおける転載とご紹介は事前に全て
アミグリさんからご了解を頂いたものであり、アミグリさんからのご厚意で転載をさせて頂いておりますので、
無断お持ち帰りや無断コピーは絶対NGですので くれぐれも宜しくお願い申し上げます。

アミグリさん、本当にいつもすてきな絵の転載を快諾して頂きありがとうございます!!

皆様の中で「こんなにも美しいパチュリーさんを描かれる方のブログってどんなもんなのだろう? 」などと興味がある方は、
是非是非アミグリさんのブログdream fantasy2を ご覧になって頂きたいと思いますし、 宜しければ、当ブログだけではなくて、
是非アミグリさんの本家本元のブログdream fantasy2に一度お越しして頂けると アミグリさんのブログをご紹介させて頂いている私もとってもとっても嬉しいです!

アミグリさんが定期的に作品を投稿され続けている →アミグリさんのpixiv にも是非一度足を運んで頂ければ幸いです!

アミグリさんのpixiv

それにしてもパチュリーさんは存在自体が大変面白いものがありますし、魅力の尽きない魔法使いでもありますけど、
そうしたパチュリーさんがどうやってレミリア様の心をつかみ、紅魔館に居候を続けられるのかは一つの東方の謎でも
ありますけど、もしかしたら・・? パチュリーさんの日々の日記をもしも盗み見ることができるとしたら、
そうした経緯とか本心ではパチュリーさんはレミリア様のことをどのように評しているのかなどは興味津々ですね・・

だけどもしもパチュリーさんの日記を盗み見たことがばれてしまったら、怒り狂ったパチュリーさんからの本気の本気の
鉄拳制裁を受けるのは間違いなさそうです・・
本日は「こどもの日」ということで世間ではGW真っ最中でもあるのですけど、昨年のGWは日本中すべてが
緊急事態宣言の真っ只中ということでありホームスティが強烈に呼びかけられ、当時は全国各地の観光地やイベント会場に
閑古鳥が鳴きまくっていましたけど、今年のGWもワクチン接種が一般にはまだ開始されていない現状においては
まだまだホームスティが大切なのかもしれないです。
本来ですとGWの期間中は吹奏楽のスクールバンドの演奏会やプロの管弦楽団等の本格的な演奏会が目白押しで
楽団としてもイベント会社としても大きな稼ぎ時の一つなのかもしれないですけど、
こうした演奏会も収容人数に制約が課せられていることが多い現状では、とてもじゃないけど収益の確保というのも
大変ですし、聴くほうも正直言って「感染リスクが怖いし人込みは怖いしとてもじゃないけど音楽を楽しむどころではない」という
感じなのかもしれないので、なんとかワクチン接種が全面的に行き渡り、コロナ以前のような「当たり前の日常」が
戻ることを願うばかりです。

昨年は中止を余儀なくされた吹奏楽コンクールの満員ホールでの開催もそうですし、クラシック音楽もアイドルさん系も
バンドの皆様たちのライブ演奏も是非以前のように観客たちが密を気にすることもなくマスクを着用することもなく
満員の会場でそれぞれ音楽を楽しむ事ができるようないつもの当たり前の日常が戻ることがさすがに年内は難しいとしても、
ある程度枠線接種が行き渡ると予想される来年度以降はなんとか実現できればいいなぁ・・と切に感じたりもします。

こうやってしばらく吹奏楽やクラシック音楽の生演奏を聴かないでいると「たまには音楽をライブ感覚で聴いてみたいな~♪」と
感じてしまいます。

生演奏の管弦楽団の演奏会を聴きに行く時の醍醐味の一つは、ライブ感と共に オーケストラの発する大音響の爽快さも
あるのかもしれないです。
クラシック音楽というとどうしても世間的にはお堅いとか生真面目みたいな印象を持たれがちなのですけど、
中には男気溢れる豪快な作品もあったりして、聴くだけで日頃のストレス発散!みたいな感じの曲も実はあったりもします。
楽譜のfffに対して、管弦楽団のメンバーが「俺も、オレも、僕も、私も、自分も・・」とバカ丸出し風に
音量だけを目標に演奏する事も時にはいいものなのかもしれないですし、気持ちを奮い立たせたい時とか、
元気になりたい時とか、自分自身に喝を入れるために 管弦楽の大音量の音楽を聴いて気分をスカッとさせるのも
決して悪くはないと思います。

大音量の曲というと、お勧めしたい曲が二つほどあります。

1.組曲「惑星」~Ⅰ.火星(G.ホルスト)

冒頭こそややミステリアスに始まり、弦楽器の刻みに乗ってトロンボーンが不気味に
メロディーを奏でますが、ホルンの絶叫の雄叫び以降は、すさまじい大音響が待っています。
金管楽器のリズムの刻みや金管セクションのメロディーラインがまるで放送事故みたいな世界を繰り広げていき、
それに小太鼓やティンパニ奏者2名やドラのリズムセクションの暴力的響きが加わっていきますので、
まさに魑魅魍魎の世界なのかもしれません。

ホルストの「惑星」というと木星のあの美しい中間部の響きとか冒頭がやたらと有名ですけど、音量的には火星の
ボリュームは半端ないものがあります。

2.交響詩「ローマの松」~Ⅳ.アッピア街道の松(O.レスピーギ)

アッピア街道の松は前半と後半の対比がすさまじいものがあります。
前半は、コールアングレのソロを中心に展開されていきますが、
バンダ(金管楽器の別動隊)がが加わって以降は、華麗なる音の響きを展開させていきます。
そして、大太鼓による連打以降は、全楽器がひたすら楽譜のffffの頂点を極めるために爆演が続いていき、
火星以上の大音量が展開されていきます。

アッピア街道の松のバンダは視覚的にも聴覚的にも大変な演奏効果があり、ステージからの音とバンダの別動隊の音は、
ほんの瞬間的なものなのですけど、音のタイミングにずれが生じ、それが聴いていて
あ、何か遠くから鳴っているといった
ステージとは別の次元から音が響いてくるなど感覚的な面白さは感じます。
アッピア街道の松の後半は、「音の華麗なる絵巻とか音の暴力とか豪快など色々な形容詞を付けることが出来るくらい、
聴くだけでスカッとするものがあります。

CDでこれらの曲の大音量・大音響を忠実に再現することは難しいものがあると思いますが、
それを具現化した奇跡のような演奏も存在します。
火星は、レヴァイン指揮のシカゴ響がお勧めですし、アッピア街道の松は、ナクソスレーベルのバティス指揮のロイヤルフィルが
圧倒的に素晴らしい名演を聴かせてくれます。

思うのですけど、結局「ff」の醍醐味はそれを際立たせるppの存在があるからこそ引き立つと思うのです。
火星も、それ以降の水星と金星の静かな神秘的な響きがあるからこそ火星と木星が引き立つわけですし、
アッピア街道の松も、Ⅲのジャニコロの松の静かさとソロ楽器の美しい響きや鶯の清楚な鳴き声といった「静」の要素が
前面に出るからこそそれに続くアッピア街道の松の爆裂した音響の迫力が引き立つといえるのだと思います。

要は静と動、または弱と強の対比だと思います。 音楽は、すべてが大音量だけでは成り立たないですし、
ppがあるからffが生きると思うのです。

それは「人の道」も同じことなのかな・・?
楽しいだけでは飽きてしまうし、辛い事があったりするから、たとえ瞬間的であっても「楽しさ」が引き立つのかもしれないです。
それは音楽をテーマにもしていたスイートプリキュアで提示された「幸せと不幸は二つで一つ」ということにも
つながるのかもしれないです。

音楽のダイナミックスと言うのは決して音量だけではないと思うのです。
要は、静かな部分と壮大に豪快に咆哮して鳴り響く部分の「静と動の対比の落差」なのだと思います。

もう一つ一例を挙げるとストラヴィンスキーのバレエ組曲「火の鳥」もそうした感じの静と動のダイナミックスレンジの幅が
極めて広い曲の一つだと思います。
この組曲は冒頭の序奏から王女たちのロンドあたりまでは、とにかくミステリアスで静かで美しい音楽が
延々と展開されていくのですけど、
魔王カスチェイの凶悪な踊りの場面に入ると、唐突に金管セクションのとてつもない大音量と
バスドラム・ティンパニ・シンバルによる打楽器の凶暴ですさまじいドスン!!という打撃音から開始され、
それまでの「王女たちのロンド」との静けさとのあまりにも違いが前述の「とてつもないダイナミックスレンジの落差を
呼び込んでいるのだと思います。
あの場面は、それまでの静かで美しい音楽を耳にしてウトウトし始めた聴衆のまさに眠りを覚ます
とてつもなく激しく暴力的な音楽であり、
あの「落差」はとにかくいつあの場面が始まってもゾクゾクさせられるものがありますね~♪

この話は過去記事で何度か書いたことはあるのですけど、1990年代後半のとあるGW連休中に
サントリーホールでGW中のかき入れ時なのになぜか「当日券あります」の札がかけられていて、
公演曲目の中にストラヴィンスキーのバレエ組曲「火の鳥」という文字が見てたので、思わず衝動的に当日券を
購入してしまいました。

この公演は、「こどもの日スペシャル・ファミリーコンサート」という事で、沼尻竜典さん指揮/新星日響による
親子で楽しむ演奏会という事でしたけど、会場に入ってとにかくびっくり仰天したものでした。
本来はこうしたプロの管弦楽団の演奏会は、幼児・小さいお子さんの入場は制約されている事がほとんどなのですけど、
この日は小さいお子さんを対象とした親と子供のためのファミリー演奏会という事で、サントリーホールの客席にいたのは
1~7歳前後の小さいお子さんとその親たちばかりで、当時の私はまだ既婚者では無かったので
いい年した男性が家族連れでもなくてたった一人で客席に座っている事自体がなんだか異様な光景でしたし、
明らかに「浮いている感一杯でしたし、場違いもいい所でしたし、
ホール入った瞬間に「これはとんでもない勘違いをしてしまった・・」という想いで一杯でもありました・・

幼児用の演奏会ですので、演奏中も子供のはしゃぐ声が終始止まらない感じでしたが、それはむしろ当然なのだと思います。
通常のクラシック音楽の演奏会や吹奏楽コンクールですと、演奏中に騒いだりはしゃぐのは論外なのですけど、
演奏中に幼児たちのそうした声が普通に響き渡るコンサートというのは実に貴重な経験だったと思いますし、
幼児のみなさん達もそうやって物心が付く前からこんなクラシック音楽に触れる機会が持てていた事は、
むしろ素晴らしい事なのだと思います。
このファミリーコンサートは単に演奏だけして終わりという事ではなくて、指揮者の沼尻さんと司会の女の子の軽妙なトークも
あったり楽器紹介コーナーもあったり、はたまた質問コーナーという企画もあって、
その時の質問の「指揮者って儲かる職業なのですか~!?」と質問された沼尻さんはたじたじになりながらも
「ぼちぼちでんな~」と関西弁でツッコみ返しをされていたのは楽しかったです。

この時の親子で楽しむファミリーコンサートの曲目は、幼児が対象という事で親しみやすくてわかりやすい作品がメインで、
例えば、ロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル」序曲~スイス軍隊の行進とかスッペの軽騎兵序曲とか
サン・サーンスの組曲「動物の謝肉祭」とかチャイコフスキーの花のワルツとか当時のアニソンのテーマ曲などといった
どこかで聴いた事があるような楽しくて分かり易い曲目がメインでしたし、演奏会自体も子供さんの飽きがこないようにと
配慮したのか、チケットが安めの設定の代りに演奏時間も通常に比べて短めという感じでもありました。

この日一番「なるほどね~!」と思ったのはストラヴィンスキーのバレエ組曲「火の鳥」でした。

親しみやすい曲目ばかりの中で最後に演奏されていたのが火の鳥なのですけど、
やはりというのか案の定、小さいお子様にとっては「よくわからない・・」みたいな感じで、序奏から王女たちのロンドあたりでは
美しくて幻想的な音楽を子守り歌としてスヤスヤと爆睡しているお子さんたちが大変多くて、この火の鳥の演奏の時だけは
幼児たちの騒ぐ声もほぼ皆無でいつものクラシック演奏会のように客席はシーンと静まり返っていたものでした。
そして上記で触れた通り、「魔王カスチェイの凶悪な踊り」の部分でドスン!という
とてつもない強烈な音が鳴り響いた瞬間に、それまで深い眠りの世界に入っていた小さいお子さん達も
ビクッ!とのけぞっていたようになったのは、さすが「ストラヴィンスキーのダイナミックスレンジの幅広さの為せる業!」と
実感させられたものでした~♪
あの幼児たちのビクッ!とのけぞる光景はかなりのホール内で見られた光景でしたけど、雰囲気としては
椅子の上でくつろいでいたら突然電撃ショックが体内を巡ってきた~という感じなのかもしれないです。
あの椅子からピョンと跳ね上がるような光景は私にとってもインパクトがありますし、
「大変興味深い場面が実感できた~」と感じた瞬間でもありましたし、音楽の醍醐味の一つはダイナミックスレンジの幅広さを
味合う事という私の持論を立証できた瞬間でもあったと思っています。

魔王カスチェイの凶悪な踊りのインパクトの強さは、まさしく聴衆を眠りから覚ますのに相応しいと思いますし、
同様な事はよく言われる話でもありますけど、ハイドンの交響曲第94番「驚愕」~第二楽章にも共通する話なのだと思います。
魔王カスチェイの凶悪な踊りが終わった後に展開される子守歌の気高さ、フィナーレの高揚感も素晴らしいです!
特にフィナーレが始まる際のホルンソロの部分は、いつ聴いてもなんだかホッとするものはあります。
(魔法の国から現実へ帰還出来る安堵感のようにも聴こえます。)

とにかくこうした音楽のダイナミックスレンジの幅の広さを楽しむ事ができるコンサートが満員の聴衆を入れたホールで
普通に開催できる日々が戻ってきてくれることを願うばかりであります。




ここから先はdream fantasy2
アミグリさんが描かれた絵の転載&ご紹介コーナーです。

本記事は音楽のダイナミックスレンジの話とか「こどもの日のファミリーコンサート」という事でしたけど、
幻想郷において「こどもの日」がお似合いそうなのは、
レミリア様とか大ちゃんとか光の三妖精などもそうなのかもしれないですけど、
やはりそうしたイメージが強そうなのは幻想郷のおバカさんキャラとして既に定着し同時に愛されキャラでもある
妖精のチルノなのかもしれないです~♪

上記の水着チルノちゃんはアミグリさんが2018年8月の真夏の時期に描かれた作品です。

アミグリさんは実は2011年にも一度水着チルノを描かれているのですけど、この時はいかにも幼い雰囲気の
かわいい妖精ちゃんという感じでしたけど、なぜか胸だけはすてきに発育されている(??)そのギャップもとても
魅力的でしたが、上記の水着チルノは、2011年版水着チルノに比べると「10年の歳月の経過はチルノにも
成長の度合いを感じさせるものがあった」という事を改めて実感させてくれていたと思います。
アニメ塗りという事も多少は影響はあるのかもしれないですけど、この大人っぽい雰囲気は、
「いつまでもあたいは⑨のおバカさんじゃないよ~」とアミグリさんの筆を通してチルノは言いたかったのかもしれないですね!

この水着チルノは普段のチルノの青ワンピースをすてきに水着にも応用されていて、普段着とこの水着の間には
すてきな一体感があるようにも感じたものでした。
水色の羽も爽快で爽やかですね~♪
背景の水滴・羽・青の水着スカートに青のビキニという事で全体に「青=チルノ色」に染まっていると思うのですけど、
スカートや胸元の赤リボンや赤の腕輪の赤色が青とのすてきな対照性を感じさせてくれていて、
赤がすてきなアクセントになっていると思います。

今はまだ5月初旬ですけど、あと少しでうだるような夏の暑さも始まりそうでもありますので、季節的にもこの水着チルノは
うってつけなのだと思います。

上記のアミグリさんが描かれたチルノは、その権利は全てこの水着チルノを描かれたアミグリさんに
帰するものであり、当ブログにおける転載とご紹介は事前に全てアミグリさんからご了解を頂いたものであり、
アミグリさんからのご厚意で転載をさせて頂いておりますので、
無断お持ち帰りや無断コピーは絶対NGですので くれぐれも宜しくお願い申し上げます。

アミグリさん、本当にいつも素晴らしい絵の転載を快諾して頂きありがとうございます!!

皆様の中で「こんなにかわいい水着チルノを描かれる方のブログってどんなもんなのだろう? 」などと興味がある方は、
是非アミグリさんのブログdream fantasy2を ご覧になって頂きたいと思いますし、 宜しければ、当ブログだけではなくて、
是非アミグリさんの本家本元のブログdream fantasy2に一度お越しして頂けると アミグリさんのブログをご紹介させて頂いている私もとってもとっても嬉しいです!

アミグリさんが定期的に作品を投稿され続けている →アミグリさんのpixiv にも是非一度足を運んで頂ければ幸いです!

アミグリさんのpixiv

とにかくこどもの日に小さなお子さんも大きな大人の皆さまもマスクを外した状態で誰にはぱかることもなく大声で笑ったり
話す日が戻ってくる事を願うばかりです・・
クラシック音楽界における20世紀限定で誰もが一度ぐらいは聴いたことがあるかもしれない耳に残る印象的なメロディー
というと、例えばホルストの組曲「惑星」~木星、オルフの世俗カンタータ「カルミナ・プラーナ」、ラヴェルのボレロ、
ロドリーゴのアランフェス協奏曲~第二楽章など色々とあるかとは思いますが、その中でも突出して印象に残るメロディーは、
ハチャトゥーリアンのバレエ音楽「ガイーヌ」~剣の舞が挙げられると思いますし、
それ以外にも「どこかで聴いた事があるかも・・」と思われる曲として、ハチャトゥーリアンと同じ出身国であるソ連の作曲家の
カバレフスキーの組曲「道化師」~Ⅱ.道化師のギャロップが挙げられるのかもしれないです。

この曲は、昭和の頃の運動会(特に徒競走・リレー・大玉転がしの)BGMの定番中の定番ですし、テレビのBGMでも
子供が走っているシーンの音楽などとしても良く耳にします。
カバレフスキーとか組曲「道化師」と聞かれても「なにそれ・・?」と感じる方は大半だと思うのですけど、それでも
「道化師のギャロップ」のあの親しみやすくて底抜けに明るく楽しい2分程度の曲を耳にしたら
「あー、この曲どこかで聴いたことがある~」と多くの方が感じられるのかもしれないです。

組曲「道化師」の全曲を収録したCDも意外と少ないです。
私自身も結構最近までサヴァリッシュ指揮のCDと吹奏楽アレンジ版の東京佼成WOのCDしかしか手元にありませんでしたが、
Chandosレーベルより、ピアノ協奏曲第二番と組曲「道化師」が収録されたCDを入手できて
やっとこの曲のまともな演奏を聴くことが出来たものでした。

組曲「道化師」は1939年に作曲され、現代音楽バリバリの20世紀前半に作曲されたとは到底思えないほど、わかりやすくて
親しみやすさと明るさに包まれた楽しい音楽です。
組曲として計10曲から構成されていますけど、一曲一曲が1~2分半程度で構成され、全曲聴いたとしても飽きることはないと
思いますし、組曲全体としても演奏時間は16分程度です。
こんなに分り易いクラシック音楽は他にないとさえ思えますし、単純明快なメロディーと展開に終始し難しい部分は皆無です。

組曲「道化師」は元々は子供を対象とした児童劇「発明家と道化役者」の16曲からなら劇付随音楽の中から10曲を
選曲したものです。

この組曲は下記から構成されています。

第1曲 プロローグ
第2曲 ギャロップ(道化師のギャロップ)
第3曲 マーチ
第4曲 ワルツ
第5曲 パントマイム
第6曲 間奏曲
第7曲 リトルリリカルシーン
第8曲 ガヴォット
第9曲 スケルツォ
第10曲 エピローグ

Ⅱの「道化師のギャロップ」ばかりがやたらと有名ですが、
Ⅰの「プロローグ」とかⅨの「スケルツォ」とかⅩの「エピローグ」も聴いていても楽しさ満点で、
聴くだけでとてもハッピーな気持ちになれます。
個人的には、Ⅵの「リトルリリカルシーン」も50秒足らずの短い曲なのですが、
抒情性たっぷりのうっとりとするメロディーですので、是非一聴をお勧めしたいです。
Ⅹの「エピローグ」も大変楽しくてこのすてきな組曲を明るく締めくくるにはうってつけの曲だと思います。
この組曲は比較的小さい規模での管弦楽団でも演奏でき、使用される金管楽器もホルンとトランペットはそれぞれ2台で、
トロンボーンとチューバは1台のみという指定があります。
木管楽器も例えばフルートはピッコロと掛け持ちですし、オーボエもコールアングレと掛け持ち指定されています。
打楽器はティンパニ、シロフォン、トライアングル、タンブリン、スネアドラム、バスドラム、シンバルと結構多彩です。
そうそう、最後のエピローグにおいてピアノがかなり効果的に使用されていて、あれを聴くと
ショスタコーヴィチが交響曲第5番~第一楽章でかなり効果的にピアノを使用していた事例を彷彿とさせてくれますし、
そのあたりは「さすが20世紀に生きた現代の作曲家」という雰囲気はあると感じたりもします。

私自身、この組曲の生の演奏を聴いた事は今まで一度しかありません。
外山雄三指揮/N響の太田区アプリコでの演奏会が今まで唯一この曲を全曲で聴いた機会です。
この時は前半が道化師とハチャトゥーリアンのヴァイオリン協奏曲で、後半が確かシェエラザートという事で
オールロシアプログラムでしたけど、道化師を全曲聴くことができたのは大変貴重な経験でした。
「道化師のギャロップ」は単独でもファミリーコンサートや演奏会のアンコールで演奏されることは結構多いです。

カバレフスキーというと旧・ソ連においてはショスタコーヴィッチやハチャトゥーリアンと並んでソ連音楽界の大御所としても
活躍されていてさまざまな重要な役職にも付かれています。
道化師以外では歌劇「コラブルニヨン」序曲と交響曲第4番が私的にはとても大好きです。
バレエ音楽「ロメオとジュリエット」というとプロコフィエフというイメージがありますけど、実はカバレフスキーも同名の
バレエ音楽を残していたりもします。
コラブルニヨン序曲なのですけど、A-B-Aのシンプルな三部構成で冒頭からしてかなり強烈なインパクトがありまして、
全体を通して溌剌さ・明るさ・軽快さを感じさせてくれます。
シロフォーン・タンバリンをはじめとする打楽器の使い方も巧みだと思います。
全体的にリズムの切れが素晴らしいですし、とてつもなく歯切れの良い曲だと思いますし、
さすが道化師のギャロップの作曲者だなーと妙に感心してしまいます。
中間部も徐々に盛り上がっていく感じが実に単純明快で素晴らしいですし、ラスト近くで一旦静かになったあたりで、
管楽器とティンパニの掛け合いが実に面白いと思います。
ラストはかなり盛大に盛り上がり、ティンパニのズドンという一撃で終ります。
交響曲第4番は知る人ぞ知る曲という感じだとは思いますが、まるでベートーヴェンの交響曲第5番「運命」を聴いているかの
ような不幸のどん底から歓喜というものがわかりやすく伝わってきます。
第四楽章の幸福感一杯の勇壮なマーチが特に印象的です。
(この交響曲はカバレフスキー自作自演のレニングラードフィルのレコードがありましたけど、いまだにCD化されていないのは
ちょっともったいないです・・)

組曲「道化師」ですけど、2019年末時点で吹奏楽コンクール全国大会では計4回自由曲として演奏されています。

1981年に当時は豪快で重厚なサウンドが売りだった近畿大学がまさか「道化師」という軽い作品を自由曲で取り上げていた
事が極めて意外でした。1989年の双葉中学校の演奏はメンバーが40人以下の小さい編成でしたけど、とてもかわいく
チャーミングにまとめていたのが大変印象的でした。

だけど組曲「道化師」というと私的には1978年の弘前南高校の演奏が大変強く印象に残っています。

吹奏楽コンクールの全国大会と言うと、どうしても緊張とかプレッシャーとか委縮みたいな言葉がよく似合いそうなほど、
普段の実力とか練習の成果というものは発揮しにくい事は多々あるものなのですけど、
弘前南高校は、そうしたプレッシャーを微塵も感じさせない練習通りののびのびとした演奏を屈託なく聴かせてくれていて
こういう演奏は聴いている方も自然に微笑みが出てきそうなすてきな溌溂とした演奏でした。
のびのび演奏しているとか元気一杯とかチャーミングとか自然体な雰囲気みたいな感想の言葉がポンポンと出てきそうなくらい
躍動感溢れる演奏を聴かせてくれています。
今現在のコンクールの感覚で聴いてしまうと「雑すぎる・・」とか「粗いし細かい仕上がりが不十分」とか
「時々バランスが崩れ、部分的に音程が不安定」とか「音色が生々しすぎる」などのようなマイナスの評価も
あるのかとは思います。
そうしたマイナスポイントを埋めてしまうのに十分すぎるほどの素直さ・溌剌さ・のびのびとした雰囲気がこの演奏からは
自然に伝わってきます。
今現在の審査基準で言うと、とてもとても全国大会なんか出場出来ないし、
支部大会も難しいというか県大会レベルでも金賞は取れるのかな?みたいなものはあるとは思うのですけど、
今現在のコンクールでは絶対に望めないようなあの自然体での溌剌さというのは大いに価値があると思います。
自由曲の組曲「道化師」ですけど、課題曲で聴かせてくれたようなまとまりや統一感」はもう少し欲しかったような気もしますし、
全体的に音色がかなり粗いのが気にもなったりします。
部分的に音程が少し怪しいのもマイナスポイントなのかもしれないです。
特にⅠ.プロローグのシロフォンの最後の一音のピッチの悪さは楽器の不調にしては少し目に余るのかもしれないですし、
Ⅴのパントマイムも少しどんくさい感じというのか全体的に音色が重たい事も少し引っ掛かります。
しかし、Ⅴを除くと、ⅠとⅡとⅨとⅩはとにかく音色がどこまでも明るくて楽しくて、聴いているだけでとてつもなくハッピーな
気持ちになりますし、生きているだけでその内いい事があるのかも・・という気持ちに自然になれそうです。
この組曲は前述のとおり一つの児童用の音楽なのですけど、子供らしい「まっすくで純粋な気持ち」を曲の隅々にまで
表現出来て、聴く人に確実に楽しさや溌剌さを感じさせてくれた弘前南高校吹奏楽部の演奏に、
あの演奏から42年後の私から、最大限の敬意を表させて頂き、最大の賛辞の言葉を贈らさせて頂きたいと思います。

さてさて、実はなのですけど私自身も吹奏楽アレンジ版ですが、組曲「道化師」を抜粋版という形で演奏した経験があります。

高校二年の定期演奏会の時のクラシックアレンジステージで演奏した曲が組曲「道化師」からの抜粋と
チャイコフスキーの荘厳序曲「1812年」でした。
曲の難易度は圧倒的に1812年の方が高くて、特に1812年の金管奏者への負担が相当大きく金管奏者のエネルギーが
とてつもなく消費されるという事で、曲決めの際にも金管セクションから「もう一曲の方は極力金管に負担を掛けない軽めの
曲を選んでほしい」という強い要望もあり、チャイコフスキーと同じくロシア系で且つ金管奏者の負担が少ない曲
という事で組曲「道化師」が選ばれました。
当初は全曲演奏するという話もありましたけど、それだと1812年と演奏時間が大体同じになってしまうという事で
Ⅰ・Ⅱ・Ⅴ・Ⅶ・Ⅸ・Ⅹの抜粋となりました。
金管セクションにとってはⅡとⅩ以外はほぼ休みという事もあり大歓迎とされた選曲でして、
その分有り余ったエネルギーを金管奏者としては荘厳序曲「1812年」にぶつけられましたので
その意味ではとても良い選曲でした。
金管奏者にとっては楽な曲だったと思いますけど、クラリネットパートにとっては、金管セクションはそれでいいかもしれない
けど、Ⅱのリズミカルで速い部分の演奏は音を揃えるのが大変だし、遠く離れた位置にいるシロフォーンとの音を合せるのは
至難の業という事もあるし、Ⅸのスケルツォはほぼクラリネットとフルートのアンサンブルに近く、素早く動くソロクラとフルートに
対して適確に伴奏の後打ちをするのは意外と骨が折れる・・という大変さはあったと思いますし、
本音としては「只でさえ1812年のとんでもなく難解なあの16分音符を吹きこなす事だけで精一杯なのに、道化師で
さらに苦労させられるなんて・・」みたいな感じでもありました。
ただⅦのリトルリリカルシーンでしっとりとした抒情的なクラリネットのソロを担当していた上級生は実際の本番のステージでも
陶酔しているようにしっとりと吹いていたのが大変印象的でしたし、Ⅸのスケルツォでも練習ではほぼ99%ミスってばかり
いたのに、本番ではほぼ100%完璧に吹きこなしていて、あまりにも普段の練習と違っていたので、
後打ち伴奏担当のセカンド・サードのクラリネットの後輩たちは全員内心「やばい・・」と思っていたと思います。
Ⅹのエピソードでは、ピアノが大活躍するのですけど、当時の男子高校でピアノをほぼ完璧に弾きこなせる人って
トランペット奏者の3年生しかいなくて、トランペットとピアノの掛け持ちという大変珍しい離れ業をお披露目していたのも
今となってはなつかしいな~と感じたりもします。





ららマジにおけるクラリネット奏者は綾瀬凛という後輩からは怖がられているきょっと気難しくて、自分にも他人にも厳しい
雰囲気があるJKさんです。
キリッ・・!としていて後輩に対して厳しく接する雰囲気の綾瀬凜お姉さまの上記のようなちょっと怒ったような表情も
とてもかわいらしいものがありますけど、
同じパートに自分に厳しすぎる子がいたりするとちょっとつらいものがありそうですけど、ららマジの綾瀬凜みたいな
JKさんだったら、私は喜んで同じパート内で頑張らさせて頂きたいものです~♪

私自身、中学・高校・大学でクラリネットを主に吹いていたのですけど、中学と大学の時は私以外のクラリネット奏者は
全員女の子でしたけど、どちらかというと女の子のクラリネット奏者は生真面目で冗談があまり通用しない人が多いし、
言葉の揚げ足取りがうまいのかも・・という印象の子が多かったような印象はあります。
それは男子高校時代のクラリネットパートにも大体同じような事は言えたと感じられます。
クラリネット奏者・・、特にクラリネットを吹く女の子の不器用さ・頭の固さというものはもしかしたら全世界共通なのかも・・?
といったら綾瀬凜お姉さまに怒られてしまいそうです・・
(そう言えば、とあるブログの管理人さんも元・クラリネット奏者でしたけど、あの融通の利かない頑迷さと気難しさは
クラリネット奏者気質そのものだったと今にして思うと感じてしまいそうです・・)

綾瀬凛がしっとりと吹く組曲「道化師」のリトルリリカルシーンや元気溌剌のギャロップやスケルツォは是非ぜひ同一パートと
して一緒に吹かせて頂きたいものですね~♪
クラシック音楽の中にはめったに使用されない特殊楽器がスコアに指定されることもあったりして、
「ほとんど使用されない楽器だし、その曲のためだけに楽団内に常にこんな特殊楽器を置いていくのも面倒だよね・・」と
たまにあったりします。
そのいい例がメシアンの「トゥーランガリア交響曲」のオンド・マルトノというかなり特殊な電子楽器だと思いますが、
日本においてこのオンド・マルトノを演奏できる御方って原田節さん以外私は聞いたことがありませんし、万一原田さんが
ご逝去された場合、もしかしたら日本においてトゥーランガリア交響曲を演奏できなくなる可能性もあるのかもしれないです。
他にも、R.シュトラウスの「アルプス交響曲」や交響詩「ドン・キホーテ」やグローフェの組曲「グランド・キャニオン」で使用される
ウインドマシーンやサンダーマシーン(雷鳴の擬音を鳴らすために使用される楽器で大太鼓の中に、木やフェルトなどでできた
固い小玉を入れ太鼓を回転させて小玉を羊皮に打たせて雷を表現しています)
はたまた枠に吊るした薄い金属板を手で振動を与えたり叩いたりして鳴らすサンダーシートという特殊楽器も使用されていたり
します。
管楽器の中で演奏会においてはめったに使用されない特殊楽器というと例えば、ワーグナーチューバとかポストホルンや
テノールホルンなどがあったりもします。

そうした特殊楽器の中でも、金額的に相当高い割にはめったに使用されない楽器の代表格としてカリヨンが挙げられると
思います。


_convert_20200624023119.jpg


カリヨンとは要は教会の鐘みたいなものでして、厳密にいうと、
複数の鐘を組み合わせて旋律を演奏できるようにし鐘楼建築物に設置されたかなり大がかりな建造楽器ともいえそうな
ものですけど、ここで言うカリヨンとはカーンコーンと鳴り響く教会の鐘の事です。
大抵の場合2台で1つのセットをなしていることが多いです。

カリヨンが実際に使用された曲を演奏会等で聴いた事は、マーラーの交響曲第2番「復活」~第五楽章とか
J.ウィリアムズの「リバティファンファーレ」ぐらいしか記憶にありませんけど、コアな昭和の吹奏楽ファンの皆様にとって
カリヨンというとすぐに思い出すのは、そう! 誰がなんといっても埼玉県の市立川口高校吹奏楽部による
1981年~82年の「無言の変革」シリーズなのだと思います。
ちなみに82年の「そこに人の影は無かった」の方では、そのラストはカリヨンの音で静粛に閉じられます。
市立川口はその後、アトモスフェアやリードのオセロ・ハムレットでもカリヨンを使用し、特に1988年の「ハムレットへの音楽」の
終結部において2台のカリヨンによる壮麗な響きで普門館の聴衆をあっ・・と言わせていました。
(CDのあの演奏を聴くと、カリヨンがあまりにも強すぎでむしろ金管楽器の音すら消している大音響だと思います!)

さてさて、そうしたカリヨンを原曲の楽器として指定した名高い名曲と言えば、ベルリオーズの
「幻想交響曲」~Ⅴ.魔女の夜宴-魔女のロンド(ワルプルギスの夜の夢)に尽きると思います。

このⅤの前半において、弔いの「鐘」がコーンコーンと計11回も鳴り響き大変印象的です。
この場面は、片想いの女の子に恋焦がれるあまりついにその女の子を嫉妬の末に殺害し、裁判の結果絞首刑となり
地獄に叩き落された主人公を弔うシーンで奏でられ、かなり不気味な効果を上げています。
ちなみにこの場面においてチューバ等の重低音楽器によって奏でられるメロディーは、「グレゴリア聖歌」~怒りの日の旋律で
このメロディーに乗る形でカリヨンが不気味に且つ壮麗に鳴り響きます。
(この「怒りの日」のメロディーは後にラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」でも使用されています)
その弔いの鐘こそがベルリオーズの譜面上の指定ではカリヨンとされています。
ベルリオーズのスコア上の指定は あくまでカリヨン、つまり教会の鐘の音であり、
現在のオーケストラで使用される「コンサートチャイム」(つまりは「のど自慢」のカーンコーンという鐘の音)ではありません。

幻想交響」の実際の生の演奏会においては、大抵の場合、現代のコンサートチャイムが使用される事が多く、
カリヨンが使用された演奏会は若杉弘指揮の都響くらいしか記憶にないです。
幻想交響曲以外あまり使用事例がなくかつ価格が高いという事で、各オーケストラの楽器倉庫にはカリヨンは置かれて
いないのかもしれないですし、どうしても使用するという場合はレンタルしているのかもしれないです。

ベルリオーズの譜面上の指定では
「もしも教会の鐘を用意できない場合は、ピアノで代用しなさい」と書かれています。
もう少し細かく書くと「3オクターブの深いドとソの教会の鐘を用意しなさい、もしも用意できない場合は、ピアノの
2オクターブに渡る三つの低音で代用して演奏しなさい」と書かれているそうです。
実際には、この曲の第五楽章で鐘の代わりにピアノを代用品として使用されたケースは私自身は聴いた事はないです。

吹奏楽コンクールの世界では、 例えば「ダフニスとクロエ」第二組曲の夜明けの部分のハープをピアノで代用する事例は
無い事も無いのてすけど、さすがにカリヨンをピアノで代用なんてのは凄い事を思いつくと感じたものですし。
さすが異才、ベルリオーズ大先生という感じです。

第五楽章でカリヨンではなくて ピアノで代用したCDは私の知る限りでは3つほどあります。
一つが、ストコフスキー指揮のニューフィルハーモニアで、もう一つが、パルビローリ指揮/南西ドイツ放送響です。
他にもあの大巨匠のC.アバドは1983年の日本公演とその年のザルツブルク音楽祭においては、カリヨンもチャイムも使用せず
舞台裏からピアノでもって演奏していたそうです。
ちなみにこの年にアバドはシカゴ交響楽団との幻想交響曲の録音においては、ピアとは使用せず普通にチャイムを
使用していました。

感想はやっぱりカリヨンやコンサートチャイムの響きに耳が慣れているせいもあり、違和感は感じてしまいますけど、
音響効果としてはかなり新鮮です。
弔いというよりは地獄からの使者到来という雰囲気も感じたりもします。
どうしてもコンサートチャイムの済んだ清らかな音に慣れていますのですごく不思議な感じがします。

この3人の巨匠指揮者たちは どうしてあえて「ピアノ」で代用したのでしょうか・・?
指揮者のこだわりなのかな・・・
何か他人とは違う解釈をたまには取ってみたいと思ったのかな・・・?
はたまた、本当にオーケストラ内にカリヨンまたはコンサートチャイムが無かったのかな・・・??

そのあたりはもしかしたら興味津々なエピソードがあるのかもしれないです。
現在東京MXで再放送されているプリキュアシリーズはハートキャッチとスター☆トゥインクルですけど、
既にストーリーも概要も知り尽くしているのに、ついつい見てしまうのはそれだけ作品自体に魅力があるという事なのだと
思いますルン!
ルン!というとララちゃんですけど、再放送と言え毎週ララちゃんを見れるというのもなんだかとても楽しいものがありそうですルン!
間もなく、ユニ=キュアコスモも登場しそうなのでそれもまた楽しみです。

そしてハートキャッチも間もなくキュアサンシャインが登場しそうですけど、最近の再放送の流れがフレッシュ→ハートキャッチと
来ていますので、今年の秋ぐらいには多分ですけどこの再放送枠ではスイートが始まるのではないかと
予想しています。

スイートプリキュアというと個人的には響=キュアメロディが大好きなのですけど、エレンもセイレーン時代のさまざまな悪さも
プリキュアとして覚醒して、色々あった末に最後には「ごめんなさーい」と涙を流す事で全てが吹っ切れて以降は
かわいくて時におとぼけな子猫ちゃんみたいになったのはとてもよかったですね~♪
スイートの中盤~後半以降、キュアミューズの登場もそうでしたけど、
それ以上に意表をつかれたのはマヌケ三幹部であるトリオ ザ マイナーのメンバーの内、ファルセットが突然何の前触れも
前兆も無く豹変していたことはリアルタイムで見ていた時は驚かされたものでした!
(最終的にあの豹変は、ノイズに操られての事と判明していますけど
リアルタイムで見ていた時は、いきなり何の脈絡も無くの豹変ぶりに驚いたものです・・・)

「スイートプリキュア」は、序盤の印象と異なり、後半になればなるほど
「不幸と幸福は二つで一つ」とか
「世界に悲しみが溢れているように同時に楽しい事も色々と存在する」とか
「不幸は全否定されるものではなくて、幸せと一対を為すものであり、不幸も受け入れなくてはいけない現実である」とか
「相容れない他人も、対話・交流を深める事で、分かりあえることも可能」などという
かなり難しいテーマが描かれるようになります。
そして初代からドキドキの中では、(厳密に解釈すると違うのかもしれませんけど)
シリーズを通して、敵も味方も最終的に「殉職者」がゼロという大変優しい世界を最終決戦時に私達に提示をしてくれています。

そうした中、物語の後半でいきなりファルセットは豹変します・・・

それまでのファルセットというと

〇高音の歌声をたまに外す・・・

〇機嫌が悪い時によくセイレーンに頭上に乗られ、髪の毛をむしり取られた・・・

〇リーダーになった事が一度も無く、ネガトーンを召喚した事も一度も無い・・・

〇花見行って、上司のセイレーンの悪口を愚痴っていたのをセイレーンに聞かれ
 更に髪の毛をむしり取られる・・・

〇ハミィになぜか自分の職場(マイナーランド)の愚痴をこぼす・・・

〇女装してチャイナドレス衣装になってしまう・・・・

などみたいにどちらかというと「残念なマヌケ幹部」という感じだったのですけど、あの突然の豹変ぶりは意外でしたし、
ファルセットによって、半漁人の醜い容貌に変容させられ、挙句の果てに
ファルセットとノイズの部下にさせられてしまったパスドラとバリトンさんは気の毒な感じでした・・





ここで改めてファルセットとは本来どういう音楽用語なのかというと、簡単に下記に概略を示しますと。
(スイートプリキュアは音楽の街を舞台にしているため、かなりの音楽用語が色々と出てきたりもします)

「ファルセット」とはクラシック音楽上の声楽用語の一つで、本来の声帯から発声された声でのどは開かれしっかりとした共鳴を
伴った力強さを持ち、小さな声から非常に大きな声まで自由にコントロールできる声の事を示し、
日本で定着している裏声とは少し意味合いが違っていたりもします。
ファルセットの元々の意味は実は「偽りの声」というものでありますから、
スイートプリキュアの中盤まで、その本来の邪悪な素顔を隠し、中盤以降に本性を現したファルセットは
まさしく序盤から中盤までは偽りの声・偽りのキャラクターで通していたのかもしれないです。
(結果的にいうまでもなくファルセットはスイートの悪の親玉?でもあるノイズに操られていたという事が判明し、最終回あたりで
元の少しマヌケでやさしいファルセットに戻っていたのを見たときはなんだか不思議と安堵したものでした)

それにしてもこうした幼児アニメの世界で敵幹部の名前から、「その後の展開」を示唆するプリキュアの世界は
やはり奥が深いといえるのだと思いますルン!

クラシック音楽の声楽を伴う作品でこのファルセットを使用した作品として
例えば、ラヴェルの「三つの歌」とかストラヴィンスキーの「きつね」などがありますけど
個人的には一番分かり易い事例としてオルフの世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」を推したいと思います。
(カルミナブラーナは、このブログでも何度も登場していますね・・・・)
カルミナ・ブラーナ第二部「居酒屋にて」では、バリトンの方がファルセットを用いて歌う事もありますけど、
一番印象的なのは、第12曲の「昔、私は湖に住んでいた」でのテノールの方のファルセットです。
この部分は、テノールの方は、実声で歌う人は比較的少なく
大抵の方はファルセットを駆使して、少しコミカルで間が抜けた歌い方をされるパターンが多いようにも思われます。
それをよく表した演奏例が、プレヴィン指揮のロンドン響の演奏かな・・?
あのテノールのコミカルな謳い方はも明らかに実声ではなくてファルセットだと思いますし、あの歌い方はいたずら心に溢れて
実に素晴らしいと思います。

参考までにこの第12曲の歌詞を記すと・・・・

昔は私も美しい姿で湖に住んでいた。かつて白鳥だった頃は。
なのになんと哀れなこと、今は焼かれてただ真っ黒な姿になってしまった!
料理人は鉄串を回し、薪は私を強くあぶり、食卓係が私を酒宴に運ぶ。
皿の上に横たわり、飛ぶこともできない。
ぎしぎし砕く歯が見える!
ああ情けない、高い志もすっかり崩れて今はこの有様だ。

歌詞も何か少しマヌケですね・・・

いかにもスイートプリキュアでの序盤のファルセットさんみたいな雰囲気もありそうです。


o0639035811116793192_convert_20140928062545.jpg


喧嘩・裏切り・相互不信などという見方によっては大変嫌なテーマを分かり易くストレートにぶつけた直球勝負のシリーズが
「スイートプリキュア」の世界だったと思いますけど
リアルタイムで見ていた頃は、この辺りが少し「重たい・・」とか「子供には少し難しいかな・・」とも感じたものですけど
改めてこうやって見てみるとやっぱり「スイート」の世界もいいものですね~♪

響と奏の二人は、序盤は、プリキュア史上「最悪」とも言えるスタートを切ってしまいましたけど、
二人の離れていた気持ちが徐々にゆっくりと縮んでいき、二人の信頼関係が構築された時には、
エレンが加わり、三人の組曲が始まり、
そしてそれにアコが加わり、四人の組曲が奏でられていきました・

スイートの物語は、人々の連なり、絆、みんなで作られる調和から、物語がどんどん拡張していった印象があります。

音符がないなら創り出せばいい。
不幸のメロディの後に幸福のメロディを歌えばそれでいい・・・
不幸と幸せは二つで一つ・・・・
不幸だけを嘆いても意味が無いし、
幸せだけを求めてもいつの日か報いを受けてしまう・・・・

不幸に遭遇したら、いつの日にか再度「幸せ」が訪れるようにやりなおせばいい・・・・

そんな事なのだと思います。

やっぱり「スイート」の世界は想像以上に深いものがあるのだと思いますルン~♫
J.S.バッハの「 G線上のアリア」はタイトルにピンとこなくても一度ぐらいはどこかで聴いたことがあるメロディーだと思います。

卒業証書授与式や、葬送・追悼曲の定番であり、そのメロディーからは「清められた魂」みたいなものを感じます。
かつての確執を超えて32年ぶりに小澤征爾とNHK交響楽団が共演を果たしたときに、
阪神・淡路大震災犠牲者の追悼ために演奏した曲目の一つでもあったりします。

「G線上のアリア」はJ・S・バッハの作曲と表記されることは多いのですけど、実は半分は正解で半分は間違いなのかも
しれないです。
J・S・バッハはの作品目録にはG線上のアリアという曲名は存在しないというのか、あくまで「G線上のアリア」と世間一般で
言われている曲目は後年のヴァイオリニストのアウグスト・ウィルヘルミが、ヴァイオリンとピアノ用にアレンジしたいわば
編曲作品であり、元々の原曲は管弦楽組曲第3番二長調 BWV1068の第Ⅱ曲のエアーに相当します。

バッハの管弦楽組曲第3番 BWV1068は下記の5曲から構成されています。

Ⅰ.序曲

Ⅱ.エアー

Ⅲ.ガヴォット

Ⅳ.ブーレ

Ⅴ.ジーグ

原曲の楽器編成はトランペット3 ・ティンパニ ・オーボエ 2・ヴァイオリン 2パート・ヴィオラ
チェロ、コントラバス、チェンバロから構成される通奏低音と大変シンプルなものになっています。
最も有名な第二曲のエアーは弦楽器と通奏低音だけで演奏されます。

前述のとおり、後年のヴァイオリニスト、アウグスト・ウィルヘルミがJ・S・バッハの管弦樂組曲第3番二長調の2曲目を
ヴァイオリンとピアノのための演奏用に編曲し、
その第2曲目にーのエアーは、転調することにより、1曲を全てヴァイオリンの弦のG線のみで演奏するように
編曲したことにより「G線上のアリア」というアレンジ作品が世に生まれたことになります。
この「G線上のアリア」という通称は、ニ長調からハ長調に移調し編曲されたこちによって、
ヴァイオリンの4本ある弦のうち最低音の弦、G線のみで演奏できることに由来しています。

G線上のアリア(管弦楽組曲第3番~Ⅱ.エアー)は原曲版として聴いてもアレンジ版として聴いてもどちらも素晴らしいと
思います。
とにかく美しくて清楚でゆったりと流れる感覚は時の経過を忘れてしまいそうです。
以前なのですけど、とある顧客との打合せの場所としてとある喫茶店を指定され、その喫茶店に早めに到着して
その顧客が来るのを待っていたのですけど、店内で繰り返し流されていたのが、このバッハのG線上のアリアでして、
なぜか終始ずっと途絶えることなくこの曲をBGMとして流していて、そのあまりの美しさにうっとりしていたらいつの間にか
爆睡してしまい、その顧客より叩き起こされてしまうという大失態もしたものでした・・

そうそう、この「G線上のアリア」ですけど、読み方は厳密に言うとジーセンじょうのアリアではなくて「ゲーセン上のアリア」
でもあったりします。
恥ずかしい話ですけど、東北の田舎の地より上京し都内の大学の吹奏楽団に入団した当時の私は、
確かにその当時は既に花輪高校吹奏楽部や秋田南高校吹奏楽部による洗礼を受けていて、例えば
ベルクの「三つの管弦楽曲」とかウォルトンの交響曲第1番とか矢代秋雄の交響曲とか三善晃の交響三章とか
ストラヴィンスキーの春の祭典などバレエ三部作などは知っていたものの、例えばモーツアルトの交響曲第40番とか
ベートーヴェンの交響曲第7番とかシューベルトのグレイト交響曲とかブラームスの交響曲第1番なとといった
古典的名曲は実は聴いたことすらないという体たらくでもありましたし、クラシック音楽の楽典といった基礎の基礎も
全くわかっていない状態でもあり、当時の指揮者やコーチの皆様、はたまた同じクラリネットパートのお姉さまたちからは
「なんだこのいびつな知識のヘンな東北から来た山猿は・・!?」と思われていたのかもしれないです・・
当時の私はバッハの「G線上のアリア」をじーせん上のアリアと呼び、モーツアルトの「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」を
「アイネ・クライネ・ナハト・ミュージック」と呼び、周囲からの失笑を浴びていたものでした・・

吹奏楽や管弦楽で奏者のご経験がある方は、チューニング時に指揮者やコンマスから
「はい、ではアーの音出して~」とか「ベーの音で合わせて~」と言われることは日常風景なのですけど、
私自身中学生の時に吹奏楽部に入部し初めて全体合奏に参加した際に、指揮者から
「ベーの音出して」と言われて何を言っているのかさっぱりわからず、思わずあっかんべーをしてしまったら周囲から
やはり大失笑を食らったこともあったものでした・・

一般的に使われるドレミファソラシドは実はイタリア語です!

英語では「C・D・E・F・G・A・B・C」、ドイツ語では「C(ツェー)D(デー)E(エー)F(エフ)G(ゲー)A(アー)H(ハー)C(ツェー)」
という表記になります。
吹奏楽や管弦楽の練習においては、ドレミファという言い方ではなくて人によってはドイツ語のツェーとかアーとかゲーの
音を出してと言われることも多々ありますし、
チューニングにおいては、吹奏楽の世界では一般的にはA(アー)またはC(ツェー)の音で合わせることが多いです。

チューナーは英語で音名を示しているので、「C」なら「ド」のこと、「A」なら「ラ」のことになります。

上記で「G線上のアリア」はゲーセン上のアリアと読むというのはそうしたドイツ語表記がベースになっているというのを
わかったのは大学での吹奏楽団に入って以降というのもなんだかこっばずかしい話でもありました・・





バッハが残したG線上のアリア(管弦楽組曲第3番~Ⅱ.エアー)のヴァイオリンの美しい響きはとてもじゃないですけど、
この世の響きとはおもえないほどの美しさに溢れていますけど、
大人気スマホアプリゲーム&アニメのBanG Dream!においてもヴァイオリンが登場していたのはとても驚きでしたし、
その意外性がとても新鮮でもありました~♪

Morfonicaは、名門のお嬢様学校・月ノ森女子学園の一年生で結成されたガールズバンドグループなのですけど、このメンバー
5人の中では私的に大注目なのは、八潮瑠唯という BanG Dream!史上初のヴァイオリンパートを担当する
クールビューティの女の子です!
ドライな才媛JKさんですけど、ガールズバンドの中でのヴァイオリンという位置づけもサウンド的には実はとても興味津々でして、
これからの展開に注目させて頂きたいと思います。

Morfonicaのメンバーの苗字(倉田・八潮・桐ヶ谷・広町・二葉)は東京都品川区の地名に由来していたりもします。

rui-005_convert_20201127184257.png


ちなみにですけど、八潮瑠唯の声を務めるAyasaは、ガチのロックバイオリニストであったりもします。

八潮瑠唯は、アニメ上での設定は、月ノ森女子学園の1年生で、学年トップの成績をキープする才媛で、
大変ドライな性格で常にトップに立つことを目標にされていて、音楽を「無意味なもの」と一度は捨ててしまった経緯も
あったりします。

もしもバンドリのアニメ第四期が実現した場合は、Morfonicaや八潮瑠唯や八潮瑠唯が一度捨てた音楽をどうやって再び
向き合うようになったのかその経緯も明らかにされると嬉しいです。

どちらにしても、ガールズバンドの世界にヴァイオリンパートを新たに登場させた意義はかなり大きいように
感じたりもしますね~♪

八潮瑠唯が奏でるバッハのG線上のアリアの清楚な響きも聴いてみたいですね~♪
アメリカの作曲家、S・バーバーというと、映画「プラトーン」で一躍有名になった「弦楽のためのアダージョ」が抜きんでて
有名なのですけど、私個人としては、

○ヴァイオリン協奏曲

○バレエ音楽「メディア」~瞑想とメディアの復讐の踊り

○管弦楽のためのエッセイ第1番

○交響曲第1番

などの曲も是非聴いて頂ければとても嬉しく思います。

特にヴァイオリン協奏曲と「瞑想とメディアの復習の踊り」は20世紀に生み出された
最高傑作の音楽の一つと思えるくらい素晴らしい作品だと思います。
最近までバーバーという作曲家は交響曲は生涯に一曲しか残していないと思っていたら、実は交響曲2番も
作曲されていたそうです。
結果的に作曲者によって撤回・破棄されたそうですけど、実はパート譜が最近になって発見されCD化もされています。
ちなみに「夜間飛行」というバーバーの管弦楽曲は、この交響曲第2番第二楽章を改訂したものです。

バーバーというと個人的には「メディアの瞑想と復讐の踊り」が大好きです!
(吹奏楽コンクールでも1992年の近畿大学の名演などもあったりします)
あの絶妙なオーケストレーションと内省的な感覚はとにかく悪寒が走るものがありますし、あの内面的緊張感は何度聴いても
ゾクゾクさせられます。

さてさて、バーバーの序曲「悪口学校」ですけど、この曲結構大好きです。

最初は意味深でユニークなタイトルと思っていたのですけど、
この曲はイギリスの劇作家・シェリダンの小説「悪口学校」を題材にした劇音楽の序曲なのです。

曲自体は8分程度の短い曲ですし、
冒頭の金管とトライアングルのつんざくような開始される響きがラストでもそのまま再現されるのに対して、
抒情的な中間部は大変しっとりとした音楽で構成され、流麗な部分と美しい音楽が交互に展開されていく
大変分かり易い構成だと思います。

ちなみにこの劇のあらすじを簡単に記しておきますと・・

サーフェス家にはジョゼフとチャールズという兄弟がいますが、ジョゼフは真面目人間、チャールズは遊び人という評判で
あるものの、どちらの兄弟もマライアという若い美女に惚れています。
チャールズに惚れているレディ・スニアウェルはマライア狙いのジョゼフと結託し、
チャールズが派手好きな若妻レディ・ティーズルと不倫しているという噂を流してチャールズとマライアを引き離そうと画策します。
一方、久しぶりにロンドンに帰ってきたサーフェス兄弟のおじ、サー・オリヴァーは、二人の甥のどちらが相続人として
ふさわしいか変装して2人を試しましたけど、一見遊び人のチャールズのほうが偽善的なジョゼフよりはるかに親切であることが
わかり、チャールズを気に入ったりもします。
一方、ジョゼフはマライアに求婚しているにもかかわらずレディ・ティーズルを誘惑し不倫がバレて信用失墜となります。
レディ・スニアウェルと組んで失地回復を企むものの結局は失敗してサー・オリヴァーに廃嫡され、相続人の資格を失い
その後チャールズはマライアと結婚し大団円となります。

そうした感じのストーリーです。

一言で言うと、デマや悪口が横行するイギリス社交界を舞台に複雑な恋の駆け引きやら人間関係のもつれを絡めた
喜劇とも言えそうです。

冒頭の金管のつんざくようなややヒステリックな高音やそれに呼応するトライアングルの響きは、確かに欺瞞とか虚栄心
みたいなものを示唆するようにも聴こえます。

この曲を書いた時のバーバーは21歳の若さであり、とても若書きとは思えない精密で豊かな情感を感じさせてくれます。
それゆえなのか、バーバーは、ワルターやトスカニーニといった大指揮者から高い評価を受け
「弦楽のためのアダージョ」の初演指揮を担当したのは実はトスカニーニであったりもします。

私自身、今の所、この序曲「悪口学校」の生演奏は一度しか聴いたことがありません。

確か1996年の東京交響楽団の東京芸術劇場シリーズの演奏会だったと思いますが
現在名門・ニューヨークフィルの音楽監督を務めているアラン・ギルバードがまだそれほど有名で無い頃に東響に客演し、
「悪口学校」は一番最初に演奏していましたけど、やはりあの出だしが大変印象的でした。
他には、バルトークのヴァイオリン協奏曲とベルリオーズの幻想交響曲を演奏していましたけど
なぜか知りませんけど「悪口学校」の方が印象は強かったです。
ちなみにアラン・ギルバードの母親は日本人で、アメリカと日本のハーフの子供であり、
この時の演奏会では、確か、アラン・タケシ・ギルバードと表記されていたような記憶があります。
その後は、なぜか「タケシ」という名前の表記が出る事はなくなりましたけど、
日本人ハーフである事をあまり公開したくない事情でもその後出来たのかもしれないです。


_convert_20191112113639.jpg

序曲「悪口学校」の冒頭やエンディングのトライアングルの響きは大変印象的です。

改めていうのもなんですけど、トライアングルは金属の棒を三角形に曲げた形状の打楽器の一つです。

トライアングルは3つの角のうちの1つが閉じられず切断された状態の楽器であり、そのためトライアングルは
2ヶ所の曲部を持った1本の金属の棒と換言出来るのかもしれないです。
金属の棒というと強いて言うと近い打楽器はコンサートチャイムですけど、チャイムと異なり、トライアングルは
一定の音律(ピッチ)を持たないという大きな特徴もあったりします。

そもそも論としてどうしてトライアングルの形状は円形でもなく楕円形でも無く四角形でも無く、
一角が切断された三角形なのでしょうか・・?
その答えを探求して、ある科学者が色々と実験を試みたそうですけど、結論として、トライアングルは三角形の形状で
しかも一角が切断されていないとあのような天国的な色彩の透明感と繊細さに溢れた音色は出せなかったそうです。
開いていない角に紐あるいは金具を付けて吊し、金属の棒のばち(トライアングルビーター)で打つのが基本的奏法です。
専用スタンドに取り付けて演奏できるようにしたメーカーの製品もありますけど、この場合一人の奏者が同時に二台の
トライアングルを鳴らす事も可能ですし、実際私が見た中でも、1996年の東海大学第四高校の吹奏楽コンクール全国大会では
自由曲の交響詩「ローマの松」~Ⅳ.アッピア街道の松の際に、トライアングル奏者はそうした専用スタンドを用いて
一人で2つのトライアングルを壮麗に響かせていました。

トライアングルは全体が弱奏の場合に清楚に静粛にチーン・・と鳴らされるとその清らかで清潔で洗練された響きに
思わずジーンとくる時もありますし、
そうした代表的事例の楽曲として、スメタナの交響詩「モルダウ」の冒頭部分を挙げたいと思います。
同様な例としては、ドヴォルザークのスラブ舞曲第10番(厳密に書くと「スラブ舞曲」第2集から第2曲)も中間部における
トライアングルの清楚な響きはとても美しいです~♪
そしてピーター(撥)をトライアングルの三角形の一角に上下で激しく振ってヒステリックに鳴らせる時のトライアングルの
激情振りも人の心を揺さぶらざるを得ないのかもしれないです。
その激情例として、ショスタコーヴィッチの交響曲第5番と第10番のそれぞれ終楽章の終結部を挙げたいと思いますし、
マーラーの交響曲第1番「巨人」~第四楽章のエンディングにおいて、トライアングルは2名の奏者によってヒステリックに壮麗に
鳴り響き、あのエンディングの打楽器はティンパニ奏者2名による激しいロールもありますので、トライアングルと合わせて
相当な音響効果を感じたりもします。
そしてチャーミングでかわいい使われ方としては、シベリウスのカレリア組曲~Ⅲ.行進曲風にを推したいと思います。
トライアングルとタンバリンとの融合という意味では、ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」が素晴らしいです。

よくトライアングルは大変例えが悪いのですけど「どんなアホでも撥で叩けばチーンと音は鳴る」と言われたりもするのですけど、
実際はそうした事は全く無くて、一見すると簡単に扱えるように見えるのですが、
クラシック音楽で使用される打楽器の中では非常に熟練を要する楽器でもあったりします。
その音量をコントロールすることは大変難しくて熟練の技術を要しますし、時に演奏が困惑させられるような
大変困難な複雑なリズムも要求される事もあったりします。
その一つの事例がグリーグの劇付随音楽「ペール・ギュント」のアニトラの踊りや吹奏楽コンクールの課題曲ですけど
1983年の課題曲Bの白鳳狂詩曲と91年の課題曲Cのロックン・マーチなのかもしれないです。
白鳳狂詩曲とロックン・マーチは同じ作曲者でしたね・・藤掛さんの曲はトライアングル奏者泣かせなのかもしれないです。
トライアングルは意図的に指で楽器の一部に触れて振動を阻害し音色を変化させるという変化球もありますし、
打つ位置によっても微妙に音色を変化させることができますし、はたまたピーター(撥)の材質や重さによって音色の変化も
探究できます。
時に編み針、木製のビーターを作曲家が要求することもあったりします。

クラシック音楽におけるトライアングルというと有名な事例は、これは昔からよく言われている話ですけど、
リストのピアノ協奏曲第1番に尽きると言えるのかもしれないです。
19世紀頃までの協奏曲というと三楽章構成というのが定石であったのですけど、リストのピアノ協奏曲第1番は
第4楽章迄あることもそうですし、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」と同じ変ホ長調なのに、
全然調の印象が違うこともそうですし、全体の形式はソナタ形式を取っているものの即興的で自由な印象が大変強く。
冒頭の動機を後半部でも変形させ繰り返す事で曲全体の統一感を出し、循環主題の先取りをしているとも言うそうです。
そしてこの協奏曲において突出して個性的でユニークなのは、第3楽章において、当時は使用する事自体が大変珍しく
異例でもあったトライアングルをかなり効果的に用いていて、当時の音楽的常識を無視したかなり画期的な演出と
言えそうです。
(当時の交響曲・協奏曲のジャンルで使用される打楽器はティンパニのみという曲が多く、稀に大太鼓・シンバルが部分的に
使用される程度でもありました)
トライアングルがあまりにも活躍するので、当時の名高い音楽評論家のハンスリックから
「トライアングル協奏曲」とも当時は揶揄されたことでも有名であったりもします。

トライアングルは簡単に誰でも叩けば一応音は出るのですけど、その多様性と深さは打楽器の中でもミステリアスなものは
あるのかもしれないです。
上記の画像は、ららマジに登場するトライアングル奏者の月島塁ですけど、月島塁はららマジの中でも突出した
ちょっと変わった不思議ちゃんでもありますので、月島塁が器楽部でトライアングルを担当しているのも妥当なのかも
しれないです。

ここから下記は少しばかり余談です・・

トライアングルというと別に楽器だけがトライアングルではないです。

トライアングルと耳にして、テレビアニメ「プリパラ」に登場するユニットを思い出す方は最近のアニメファンであり、
かつて「キャンディーズ」の後輩ユニットとして売り出され一時期はキャンディーズjr(キャンディーズジュニア)とも呼ばれていた
三人組のアイドルユニットを思い出す方は昭和アイドルファンであり、
焼酎の商品名を挙げられた方はお酒好きという事なのかもしれないですね~
ちなみに焼酎のトライアングルは元々はキッコーマンが製造販売していた焼酎ですけど、実は2006年に事業譲渡され、
現在はサッポロビールが製造販売しているそうです。
そうそう・・私が子供の頃は世界の謎とかムーでお馴染みだったのは「バミューダ・トライアングル」という一種の都市伝説も
あったものでした・・


toraianguru-03_convert_20190620154908_convert_20190623194225.png


ここから先はdream fantasy2
アミグリさんが過去に描かれた絵の転載&ご紹介コーナーです。

上記のお話は「トライアングル」関連でしたけど、アミグリさんファンの皆様、そしてアイドルアニメ好きファンの皆様の
視点で申し上げると、トライアングルというとプリパラのユニットですよね~♪

そうした訳でdream fantasy2のアミグリさんが描かれたぴのん、かのん、じゅのんの3人から構成されるトライアングルの集合絵をご紹介させて
頂きたいと思います。

今回描かれたトライアングルの集合絵は「ライブをしているシーン」をアミグリさんとしてはイメージされたとの事ですけど、
そうしたライブとしての華やかさ・躍動感も申し分なく伝わっていると感じます。

ぴのんちゃん・かのんちゃん・じゅのんちゃんの3人は実は同一人物であり、とある人物が三位一体と言うのか一人三役を
見事に演じていて、そのとある人物のその正体こそが実は、真中らぁらの妹の真中のんであったという事が判明したのは
プリパラの第三期アニメ本編の最終回間際でもありました。
アニメ本編にて、真中のん役の声優さんが結果的にトライアングルの三人の声を演じたという事にもなるのですけど、
声優さんのそうした声の演技も素晴らしいですけど、アミグリさんのトライアングルの集合絵も見ている人に
「実はこの3人は同一人物である」という事を微塵も感じさせないキャラの違いを的確に表現されていて、こちらも声優さん
同様にそのご苦労に心の底から敬意を表させて頂きたいと思います。

改めて3人揃い踏みの集合絵として拝見させて頂きますと、今
回はキラキラ仕様が加わり、背景のアイドル空間的な華やかな雰囲気も加わり、今まさにライブをやっている~!といった
躍動感が見ているだけで伝わってきそうです。

この3人は確かに同一人物ではあるのですけど、三者三様のクールさ・明るさ・かわいらしさが伝わってきていて、3人の個性の違いも一枚の絵の中にぐぐっと盛り込まれているのも素晴らしいと思いました。

上記のアミグリさんが描かれたトライアングルの権利は、トライアングルの絵師様であるアミグリさんに
帰するものであり、当ブログにおける転載とご紹介は事前に全てアミグリさんからご了解を頂いたものであり、
アミグリさんからのご厚意で転載をさせて頂いておりますので、
無断お持ち帰りや無断コピーは絶対NGですので くれぐれも宜しくお願い申し上げます。

アミグリさん、いつもすてきな絵の転載を快諾して頂きありがとうございます!!

皆様の中で「こんなにかわいいトライアングルを描く人のブログってどんなもんなのだろう・・? 」などと興味がある方は、
是非是非アミグリさんのブログdream fantasy2  を ご覧になって頂きたいと思いますし、宜しければ、当ブログだけではなくて、
是非アミグリさんの本家本元のブログ dream fantasy2  に一度お越しして頂けると アミグリさんのブログをご紹介させて頂いている私も
とってもとっても嬉しいです!

アミグリさんが定期的に作品を投稿され続けている →アミグリさんのpixiv にも是非一度足を運んで頂ければ幸いです!

アミグリさんのpixiv

トライアングルは楽器としてもアイドルユニットとしても魅力たっぷりですね~♪
外山雄三の「管弦楽のためのラプソディー」は楽しい曲ですし、この曲を聴くとどこかわくわくさせられるものがありますし、
日本人としての血が自然体に騒ぐ曲と言えそうです。
日本人ならば絶対に知っているメロディーというか、民謡が次から次へと出てきて、音楽の宝箱みたいな感じもあります。
演奏時間は7分半程度なのですけど、この短い時間にぎゅーーっと濃縮された日本人の心のふるさとがあると思います。
ヘンな話ですけど、私が高校生の頃にまだ吹奏楽とかクラシック音楽がなんにもわかっていない頃、
作曲家&指揮者の外山雄三と若大将の加山雄三を混合していまして、「二人は兄弟・・?」という恥ずかしい勘違いを
起していた事もありました。
更に余談ですけど、私が大学生の頃の一つの隠語で「かやまゆうぞう」という言葉があり、これは何を意味するのかと言うと
学業成績で「可が山ほどあって優が三つ程度しか無い・・」ポンコツな成績という事なそうです。

管弦楽のためのラプソディーは、下記の日本の民謡が引用されています。

〇あんたがたどこさ

〇ソーラン節

〇炭鉱節

〇串本節

〇信濃追分

〇八木節

この曲って、出だしがとても印象的ですね!
(最初にこの曲を生で聴いた時は大変なインパクトがありました・・)
いきなり拍子木が打ち鳴らされお寺の鐘がゴーンと鳴り、 そこからトランペットによる「あんたがたどこさ」が始まります。

この曲自体構造はとてもシンプルでA-B-Aの三部構成を取り、
先程の冒頭から、「あんたがたどこさ」に対旋律として絡んでいく「ソーラン節」が出てきて、
炭坑節・串本節による展開までが序盤のAとし、フルートソロが延々と「信濃追分」を奏でるしっとりとした部分をBとすると、
終盤の八木節で盛り上がる部分がエンディングの盛り上がりと言えそうです。
終盤のエンディング部分においてハープが華麗にグリッサンドを聴かせてくれますけど、
この部分は、何か和の楽器と洋の楽器の見事な融合を象徴しているのだと思います。
この曲は、 うちわ太鼓・チャンチキ・鈴・和太鼓・締太鼓・拍子木という和の打楽器も登場しますし、
ティンパニ・ウッドブロック・ボンゴ・大太鼓といった洋の打楽器も登場します。
個人的には、Bの部分のしっとりとしたフルートソロがとても印象的ですし
日本人にしかわからない「郷愁」みたいなものも感じさせてくれますし、聴き方によっては泣かせる部分です。
ラスト近くの八木節は、「とことんやっちまえー!!」みたいな大変ノリが良い感じもして大変爽快な部分です。
(八木節に入る直前に打楽器奏者による「ヨ――ッ!」という威勢の良い掛け声も大変印象的です)

この曲は何度か聴いたことがありますし、
外山雄三自身の指揮による自作自演の演奏も聴いたことがあります。
この時の管弦楽団は日本フィルだったと思いますけど、
先程のフルートソロによる「信濃追分」が終わって、鈴が静かに響いている部分で
打楽器奏者による「ヨー―ッ!!」の掛け声はこの時は雄叫びのように聴こえたものです。
「ラプソディー」は何種類かの録音がありますけど、 この部分に声が入るのは聴いたことがありません。
という事は、このかけ声の指示は、外山氏自身の指示か元々は楽譜に書かれているのかはちょと不明です。

この曲は、NHK交響楽団の世界一周演奏旅行の際にアンコール曲としても演奏されたことがあるらしいです。
ちなみにN響の世界一周演奏旅行にソリストとして付き添ったのはまだ10代の中村紘子さんでもありました。
(中村紘子さんもまだお若いのにお亡くなりになられていたのは大変悲しい知らせでした・・)
ものすごくマニアックな話ですけど、この時のN響のチューバ奏者は
後に野庭高校吹奏楽部の指揮者としてその名を残す中澤忠雄先生とのことです。
2019年夏に開催されたN響ほっとコンサートにおいても、このラプソディーはアンコール曲として演奏されていて、
客席を熱狂させていました。
(このコンサートにおいては、ヒナステラのバレエ組曲「エスタンシア」~Ⅳ.マランボ(終幕の踊り)も演奏されていて、
改めてそれぞれの国の民族的音楽は聴き手をエキサイトさせる効果があると感じたものでした!)

管弦楽のためのラプソディーは、元々の原曲は22分を越すかなりの大作だったらしいです。
前述のN響世界一周演奏旅行を前にした練習の際に、当時のN響・指揮者岩城宏之氏によって、
「この部分は無駄・・・省いた方がかえって良い・・」みたいな判断で全体の70%近くカットされ
現在演奏される形は岩城氏によるカット版とのことです。
このカットされた部分は恐らく廃棄され、現在では影も形も残されていないという事です。
後に外山雄三は、岩城宏之に
「あの曲はあなたにカットされたおかげで適切な形となり、かえってクラシック曲としては異例のヒットになった」と
感謝の言葉を述べているとのことですけど、
果たして真意はどうなのかな・・・・??
作曲者としては複雑な心境なのかもしれないです。
そして管弦楽のためのラプソディーは吹奏楽にもアレンジされていて、たまにですけど吹奏楽コンクールの自由曲としても
演奏されてはいますが、まだ全国大会では演奏されていた事はないと思います。
惜しかったのは大変古い話ですけど1968年に当時の電電中国がこの管弦楽のためのラプソディーを自由曲に選んだものの
中国大会で消えてしまい全国での演奏は幻のモノになっていました。
(ちなみにこの時の代表はあの伝説の女子チームの林兼産業女子吹奏楽団です!)

外山雄三は、 作曲家というよりは指揮者としての名声の方が高い気もします。
この方の指揮も何度も見た事がありますけど、大変節度のあるオーソドックスな解釈をされます。
古い話ですけど、ある管弦楽団の演奏会でメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を予定したのですけど
当日の演奏会開始の数時間前になってソリストがキャンセルになってしまい、
たまたまサントリーホールに練習に来ていた五嶋みどりに
「急な話だが・・・」という無茶な代演要請も五嶋さんは快く受け、そのほとんどぶっつけ本番状態の
指揮をこなしたのが外山雄三というエピソードも残されています。

外山雄三の「管弦楽のためのラプソディー」以外の曲と言うと 色々作曲されているのですけど 、私的には

〇交響詩「まつら」

〇ヴァイオリン協奏曲第一番

〇交響曲「名古屋」

などが特に印象に残っていますね。

よく「管弦楽のためのラプソディー」は外山雄三作曲ではなくて、あれは外山氏のアレンジ作品だと言う人がいますけど、
私はこの曲は立派な「外山氏の曲」だと思っています。
例えは悪いかもしれないけど、
ドイツの学生歌を接続して作ったブラームスの「大学祝典序曲」みたいな曲だと思います。

組曲「惑星」で有名なホルストの曲の中に「日本組曲」という曲があるのですけど、
これは「日本民謡」をそのまま引用しただけの作品だと思うのですけど
(弦楽器が淡々と「ぼーやー、よいこーだーねんねーしーなーを歌いあげるふの部分は違和感丸出し・・・??)
この日本組曲と「ラプソディー」を聴くと同じ日本の民謡を素材にしても
共感度の違いによって曲の完成度は全然異なっていると思うのです。

だから、この曲はまぎれもない日本民謡をベースにした外山氏のオリジナル曲だと私は感じます。


_convert_20191211131536.jpg


管弦楽のためのラプソディーの大きな魅力は前半とラストの日本人としての血が騒ぐあの熱狂にあると思いますが、
そうした熱狂を呼び起こす前段階としての中間部のフルートの長大なしっとりとしたソロも大きな魅力だと思います!

フルートの結城 菜々美は、チェロの阿達悠花、胡弓の有栖川 翼、グロッケンシュピールの神代 結菜、箏の橋本 ひかりと並ぶ
ららマジ屈指の美少女の一角だと思います~♪
(というか、ららマジに出てくるJCさん・JKさんはみんなとってもかわいいですよね~♪)

ららマジのフルート奏者の結城 菜々美によるしっとりとしたソロも是非聴いてみたいですね~♪


本日より2月という事で寒さもこれからが本番なのだと思います。

皆様方におかれましては新型コロナウイルスもそうですけど、風邪やインフルエンザを発症されないように
くれぐれも体調管理にご留意して頂ければ幸いです。

クラシック音楽における真冬の音楽というとロシアや北欧諸国を中心に既にたくさんの名曲があるとは思いますが、
私的に大変印象に残るクラシック音楽のシンフォニーの分野での楽曲というとP.I.チャイコフスキー の
交響曲第1番「冬の日の幻想」 を推したいです!

チャイコフスキーの交響曲は圧倒的に交響曲第6番「悲愴」が有名ですし、演奏頻度も発売CDも群を抜いていると思いますし、
古今東西クラシック音楽人気交響曲のランキングにおいても確実に上位に来る曲の一つといえそうです。
悲愴の次に人気なのが交響曲第5番や4番といえそうですけど、私個人の好みでは、チャイコフスキーの交響曲は第5番が
大好きです。
(交響曲第5番第二楽章の長大なホルンソロや抒情的なメロディーライン、第三楽章のワルツ、第四楽章の大団円的コーダなど
聴きどころは満載だと思います)
チャイコフスキーの交響曲は4~6番は大変有名で演奏頻度でもCDやレコードの録音頻度もかなり多いのですけど、
交響曲1~3番やマンフレッド交響曲は4~6番に比べると極端に演奏頻度も下がりますし、どちらかというと交響曲全集という
企画があるからご厚意でついでに録音されたというパターンが多いのかもしれないです。
要は4~6番の人気交響曲と1~3番の不人気交響曲の落差はかなり激しいといえるのかもしれないです。
それだけに以前N響においてデュトワ指揮のチャイコフスキーの交響曲第1番「冬の日の幻想」が取り上げられた際は
とても嬉しかったです。

チャイコフスキー/交響曲第一番「冬の日の幻想」ですが、この曲に関しては正直何の解説も不要な曲だと思います。
というのもなぜかと曲のタイトルが全てを物語っていると思うからです。
第一楽章と第二楽章にもタイトルが付けられていますが、第三~第四楽章にはタイトルは付けられていません。
ちなみに第一楽章のタイトルは「冬の旅の幻想」、 第二楽章のタイトルは「荒涼たる土地、霧の深いところ」です。
この交響曲は、全体的に大変地味で印象的には大変うすい曲と言えそうで、不思議な透明感が全体を貫いていると思います。
この交響曲の全体的なイメージは霧とか靄がかかった「くすんだ灰色の雰囲気」と言えそうです。
全体的にくすんだ印象が非常に強く、深い森の中を一人孤独に彷徨い続けているような雰囲気を感じそうです。
全体的にはとてつもなく地味ながら、透明感と全体的にモヤモヤくすんだ印象と何やら相矛盾する二つの要素が
意外と巧みに融合した不思議な交響曲という感じがします。
決して真冬とか厳冬をイメージさせる曲ではないのですけど、くすんだロシア高原の真冬の光景というものは間違いなく
伝わってきそうです。
チャイコフスキー自身は意外にもこの曲を気に入っていたようで、パトロンのメック夫人にあてた手紙の中でも、
「多くの点で未熟ですが、後年の曲よりも実は内容的にも豊かなものがあります」と記しているほどです。

第一楽章は、ゆったりとした感じで開始されます。
ヴァイオリンの弱いトレモロに乗ってフルートとファゴットが民謡風な第一テーマを展開していくのですけど、
何か甘酸っぱいような懐かしいような不思議な感覚の音楽です。
中間部でやや盛り上がりますけど、ラストは弱奏で閉じられます。
第二楽章は、ファンタジー魂満載だと思います。
第三楽章の中間部のワルツのような雰囲気は、後年の交響曲第5番~第三楽章に近いものがありそうです。
ワルツというとチャイコフスキーの交響曲第3番「ポーランド」のワルツ的なマズルカの楽章も大変印象的ですけど、
実は交響曲第3番を作曲していた頃に制作に取り掛かっていたのがバレエ音楽「白鳥の湖」であり、両者のリズムの雰囲気は
明らかにボーランドのワルツの影響もあるのかもしれないです。
第四楽章は、第一~第三楽章で「霧」が立ち込めていたイメージだったのを、霧が徐々に晴れていくイメージを
幻想たっぷりに歌っているようにも思います。
この楽章で初めて大太鼓・シンバルも登場しますけど 、
全体に地味な曲の中で、この打楽器が出てくる箇所だけは幾分派手にも聴こえるような感じはあります。
第四楽章は、何となくボロディンの交響曲第二番の世界に通ずるものもあるような何かがあるような感じもあります。
終結部は霧が晴れ上がったイメージなのですけど、春はまだまだ遠いという雰囲気も感じられそうです。

この曲をCDで聴く場合、カラヤン指揮/ベルリンフィルとか、マゼール指揮/ウィーンフィルもいいですけど
リットン指揮/ボーンマス交響楽団や冒頭画像のムーティ指揮のフィラデルフィア管弦楽団も隠れた名演といえそうです。

このチャイコフスキーの交響曲第1番「冬の日の幻想」という大変地味な曲を吹奏楽にアレンジし、
吹奏楽コンクール全国大会にまで進み金賞を受賞したチームがあります。
それがこのブログでもしばしば登場する秋田県立花輪高校吹奏楽部なのですけど、花輪高校吹奏楽部は
なんと大変地味なこの交響曲の中でも特に印象が薄くてモヤモヤしているとしかいいようのない第一楽章を
自由曲として演奏しています。
吹奏楽コンクールでマイナーシンフォニーでウルトラ級に地味で演奏効果がほとんど無いこの交響曲において、
百歩譲ってシンバル・大太鼓が加わり金管楽器もされなりに活躍して少しは演奏効果が見込めそうな第四楽章を
自由曲にするならばなんとなくわかるのですけど、あのあまりにも地味で靄がかかったような第一楽章を取り上げたその
勇気には感服せさるを得ないです。
今現在だったら100%自由曲として選ばれることはない楽曲をかなり正攻法で内省的に表現をされている大変貴重な
演奏といえそうです。
ちなみに第四楽章は支部大会以上では1979年に全国大会にさまよえるオランダ人で全国大会出場を果たした
宮城県石巻中学校が1983年に自由曲として演奏し、あの演奏は私も県大会で聴きましたけど、
「なんという演奏効果が弱い地味な曲」と感じたものでした。
花輪高校の第一楽章の演奏はブレーン社から出ている「レジェンダリ―シリーズ」の中に収録されていますけど、
音が生々しいというか、弦楽器ではなくてオール管楽器のせいもありますしアレンジが今一つというせいもありますけど、
技術的には決して上手くはありません。
だけど何か妙に人のハートをつかむ演奏のようにも感じられますし、あの不思議な素朴感は重厚な雰囲気でもあるけど
どこかなつかしさも感じさせ不思議な感覚としかいいようがないです。

この時代の花輪高校吹奏楽部は小林久仁郎先生赴任前の演奏なのですけど、小林先生もマイナーロシアシンフォニー路線を
とことん追求されたり、時にベルクという無調音楽を自由曲に選ばれたりと「一体どこからあんなマイナー楽曲を
見つけてきたんだ・・」と印象が強かったものですけど、佐藤修一先生時代の花輪高校も大変ユニークな選曲を
されていると思います。

例えば・・・・

1973年の交響組曲「シェエラザート」は、吹奏楽でコンクールで演奏する場合、ほとんどが第四楽章を演奏するのに
花輪高校は、第二楽章・カレンダー王子の物語を演奏しているとか、
「展覧会の絵」は、吹奏楽コンクールの場合、ほぼ例外なく「キエフの大門」を演奏するのに
花輪高校は、プロムナード・グノーム・古城をメインに演奏しているとか
シベリウスの交響曲第二番も終楽章ではなくて、第一楽章を自由曲にしているなど
通好みのかり渋い選曲&解釈&演奏をされているのはまさに「伝説」の領域にはいりそうです。
小林先生の花輪ももっとすごい事になっていますけど、小林先生以前の時代の花輪高校の自由曲の選曲もすごいものが
ありますし、現在だったら絶対にありえない選曲の連続と言えそうです。

花輪高校吹奏楽部は佐藤修一先生時代に既に際立った個性を構築されていましたけど、それをさらに独自に進化継承
されていたのが小林先生なのだと思います。

小林先生の大変優れた指導の下、花輪高校は更に素晴らしい発展を遂げ、後世の私達に
とにかく素晴らしい名演の連続を残してくれたのでした。
1978年は、小林先生=花輪高校サウンドのスタートの年だったのですけど、そこから聴こえてくるサウンドと
音楽的解釈は、もう既に小林先生の個性が色濃く出ていたと思います。
振り返ってみると、小林先生にしても、プロの演奏家からこうした地方の音楽教師&吹奏楽部顧問への転身と言う事で
吹奏楽の指導実績も吹奏楽コンクールへの出場も何もかも初めてと言う中で
あそこまで優れた演奏を1年目から残されていたというのは、まさに驚愕に値するものがあると思います。
それでいて、1年目からああした「小林先生にしか創れない音楽」という「小林久仁郎ワールド」を赴任一年目から
遺憾なく発揮されていた事は、本当に素晴らしい事だと思います。
同じく「東北ブロックの宝」の秋田南の高橋紘一先生は1986年のコンクールをもって勇退されたのに、
小林先生は、その後花輪から秋田南へと異動され、当時は少し停滞気味だった秋田南を立派に立ち直らせて
1997年のコンクールまで現役指導者として辣腕を振るわれ、
花輪でも秋田南でもあまりにも偉大過ぎる実績と後世に絶対に受け継いでほしい「素晴らしすぎる名演」を残されましたので、
本当にまさに頭が下がる思いで一杯ですし、先生が2017年に永眠され彼岸の彼方に旅立たれたときは、
とても残念な想いをしたものでした。
以前から何度もこのブログで書いている通り、私自身はイギリスの作曲家、ウィリアム・ウォルトンの交響曲第1番ロ短調が
死ぬほど大好きです!!
この曲が有する「人の不安感に対しては不安を持って対処する・・・」といった魂の孤独の叫びは何かを感じずには
いられないですし、特に第四楽章の壮絶なフィナーレや特に特に二人のティンパニ奏者による強烈な叩きつけは
圧巻の一言に尽きると思います。
この交響曲第1番から約25年後に作曲された交響曲第2番は、交響曲第1番のような壮絶なドラマも葛藤もなく
名人芸的な作風を一人孤独に静かに楽しむといった心境が何となく窺えますし、1番の世界と2番の世界を結んでいるものは
何も無いと言っても過言ではないと思います。
そしてこのウォルトンの交響曲第1番は、当ブログでも過去記事で何度も何度も語らさせて頂いた通り、1982年の
全日本吹奏楽コンクール・東北大会にて秋田県代表の花輪高校の自由曲として演奏されていた曲目で、あの演奏を当時
高校生だった私が聴いてとてつもない感動と衝撃を受けてしまい、結果的にあの体験が現在に至るクラシック音楽と吹奏楽への
興味を持つようになった大きなきっかけだったのだと思います。
私自身が邦人音楽を少しは聴くようになったきっかけというのもあの年の東北大会の仁賀保高校による矢代秋雄の交響曲の
演奏でもありました。

ウィリアム・ウォルトンはかなり面白い作曲家でして、交響曲第1番とかヴィオラ協奏曲みたいに重厚な作品を残したと思えば、
例えば、ファサード組曲とか喜劇的序曲「スカピーノ」とか序曲「ポーツマスポイント」みたいに
妙にウィットに富んでいるというか軽妙な曲を書いたかと思えば
オラトリオ「ペルシャザールの饗宴」みたいにかなり複雑で大規模な編成の作品もあったりと
かなりヴァラエティー豊かな作曲家だったと思います。

映画音楽の分野にもかなり積極的に作品を残し、ヘンリー5世・リチャード3世・ハムレット・お気に召すままのような
シェークスピア映画の音楽とか
メジャー・バーバラとかバトル・オブ・ブリテンなどのような第二次世界大戦をテーマにした映画音楽も残しています。

そうした中で、軽い小品という位置づけになるかもしれませんし、ウォルトン自身の作品と言うよりは
パーマーという方が、ウォルトン作曲の「バトル・オブ・ブリテン」の中で映画音楽として採用されなかった部分を
メインに構成・アレンジしたのが「ア・ウォータイム・スケッチブック」という作品なのてす。

パーマー自身の構成・アレンジという意味では
本日のセカンド記事としても取上げたアーノルドの組曲「第六の幸福をもたらす宿」と経緯はよく似ているものがありそうです。
それにしても、ウォルトンとかアーノルドからこのパーマーという方は余程全幅の信頼があったのかもしれないです。
大抵の場合、作曲家は、劇音楽・バレエ・映画音楽から組曲版を作る場合は、本人自ら関わることが多いのですけど、
アーノルドやウォルトンは、ある程度お任せみたいな側面があったのかもしれませんし、それだけ全幅の信頼が寄せられていた
証といえそうです。

この「ア・ウォータイム・スケッチブック」は、曲の感じから想像すると戦時中の兵士の一コマというか、
戦場を一時離れた兵士の瞬間的な憩いの場を意図したような作品にも聴こえます。

この曲は、下記の8曲から構成されています。

Ⅰ.プロローグ
Ⅱ.自転車競争
Ⅲ.スケルツォ-ゲイ・ベルリン
Ⅳ.フォックストロット
Ⅴ.逃亡者たち
Ⅵ.恋人たち
Ⅶ.ストリップショー
Ⅷ.エピローグ

ⅠとⅧの音楽を聴くと、やっぱりグランドマーチ「クラウン・インペリアル」の作曲者だなぁ~という事を改めて痛感いたします。
この堂々とした感じ、威風堂々とした感じはエルガーのあの有名な行進曲の世界に繋がるものが間違いなくあると思います。
Ⅵの恋人たち(ラバース)もとても短い楽章だけど、全体的に大変ロマンチックな香りが漂いますし、
フルートソロが実に秀逸だと思います。

この曲で大変面白いのは、何と言ってもⅦの「ストリップショー」だと思います~♪

この曲はある意味すごいというのか、クラシック音楽で露骨に「ストリップショー」というエロいタイトルを付けていること自体
極めて珍しいし、その音楽も実にお下劣でというかいかにも「私は今脱いでいますよ~」と軽いけど妖艶な音楽そのものであり。
思わずニヤニヤしてしまいそうな音楽だと思います・
非常に古い話ですけど子供の頃に見ていた「ドリフターズ」の加藤茶の「ちょっとだけよ・・あんたも好きねー・・・・」の
「タブー」の世界そのままの音楽と言っても過言ではないと思います。
下着姿のお姉さんたちが、ゆっくりゆっくりと男どもを挑発しながらステージから観客席に向けて練り歩いていき、
そして一枚一枚身に着けているモノをあられもなく脱ぎ捨てていくという下世話なエロい音楽が管弦楽でもってエロっぽく
表現されているのは画期的だと思います。
そしてエロい音楽といっても腐っても交響曲第1番の作曲者でもありますので、エロさとクラシック音楽の厳格さのバランスを
保ちつつ、それでもどことなく高貴な雰囲気もなくはないというのがウォルトンの本領発揮しまくりという事になるのだと
思います。

それにしてもこの曲を作ったウォルトンが本当にあの交響曲第1番の「魂の孤独」を描いた方と同じ人というのは
凄いことだと思います。
ある意味、人の無限の可能性というのか愛すべき多様性をまざまざと感じさせてくれていると思います。


doa715_convert_20150814204247.jpg

doa728_convert_20150814204315.jpg

doa729_convert_20150814204350.jpg


ここから下記はちょっとした余談です。

上記でウォルトンの「ストリップショー」という女の子が一枚一枚着ているものを脱ぎ捨てていく音楽の描写がありましたけど、
R.シュトラウスの楽劇「サロメ」~七つのヴェールの踊りもサロメがヘロデ王の前で身にまとっている7枚の衣装を
一枚一枚脱いで妖艶に踊る音楽という音楽でありました~♪

アニメ作品でエロ系作品や深夜アニメでしたら、こうした女の子が服を脱いでいくというシーンはお約束シーンともいえますし、
視聴者としては「ごちそうさまでした~」という感じになるのかもしれないです。
また制服→体操着・水着へのお着換えという描写も見ている方にとっては「ありがたや~」という感じになりそうです。

そうした中、特段制服を全て脱ぎ捨てるとかそういう過激なエロさではないのですけど、私が大好きな
「デート・ア・ライブの第一期の中で、私が特に特に大好きで愛してやまない時崎狂三がスカートをずりおろしていくシーンの
あの濃厚なエロさはまさに「ストリップショー」そのものの世界なのかもしれないです~♪
アニメでは下着そのものは映りませんでしたけど、漫画版・小説の挿絵ではもろに映っていました・・

改めてですけど「デート・ア・ライブ」第一期の第7話にて、時崎狂三の初登場シーンのインパクトは壮絶なものが
あったと思います。

精霊が普通の高校生の振りをして高校に転入してくるストーリー自体が既にぶっ飛びものなのですけどね・・

それにしても第7話の時崎狂三の転校時の初登場シーンは本当にとてつもないインパクトがありました。

ちなみにこの第7話だけは、狂三は精霊の姿というよりは、人間体としての姿がメインとなっています。
狂三の外見は、正統派の美人さんで、口調も「・・ですわ」が特徴的な上品な言葉遣いであり、
顔の左半分を隠す長い黒髪が一つの特徴でもあるのですけど、
なんで左半分を隠しているかと言うと、狂三の左目は「時計」であったりもします。

主人公・士道に対する挨拶代りの第一声が、「私、精霊ですのよ」というのもリアルタイムで見ていた時は、
驚きでした!
最初にこのシーンを見た時は「なんて痛い子なんだ・・」と感じたものですけど、同時にあの可愛らしさにノックアウト
されたものでした!
その後の狂三のトチ狂ったシーン炸裂とか精霊体としてのあの「毒蛾」にも似たようなあの衣装とか
興奮してくると「きひひ・・」と高笑いをしていく様子を目の当たりにされてしまうと、
最初の頃の印象とトチ狂った精霊体としての狂三のすさまじいギャップにハートキャッチされてしまい、
それが今現在にまで至っているという感じでもあります。

原作小説のの第16巻を読んでみて、実に驚いたのですけど、まさかあの時崎狂三にああした壮絶な過去と因縁と、そして意図が
隠されていたとは、正直、これは私の予測の範疇を軽く超越していましたけど、
ああいう壮絶な原作としての展開を見せつけられると、嫌でもアニメ第三期とか新作映画の方もついつい
期待しちゃいますし、これだけコアなファン層が多い作品ですのでアニメは既に第三期まで制作放映されていますけど、
続編や最終編も是非見てみたいです!

第一期アニメ本編の第7話は、時崎狂三の時崎狂三による時崎狂三のための回と言っても全然過言ではないと思うのですが、
その中でも特に印象的なのは、多分、誰もがそう感じると思うのですけど
あのスカートをまくしあげていくシーンですね!!

主人公の士道は、妹が指令を務めるラタトスク機関によって、常にインカムを装備させられ、
その指示を仰いだ上での行動というのが基本パターンなのですけど、
狂三に最初に何を質問するのかというテーマに対して
①朝言っていた事は本当なのか?
②狂三は前はどの学校にいたんだ?
③狂三は今日はどんなパンツを穿いているんだ?
という三つのパターンを用意し、ラタトスク機関内での協議の結果、まずは②で様子を探ろうという結論に達し
それを士道にインカムで指示を出す際に間違って妹の五河 琴里がこの時に限って③の指示を出してしまい、
士道は本当に狂三に対して、③を質問してしまいます・・・

その際狂三は平然とクールな顔で「そんなに・・私のパンツ見たいのですか・・?」とぶっ飛び発言をした挙句、
スカートをスリスリと上にまくりあげようとしていったのです!

あのシーンは原作ではバッチリ見えてしまうのですけど、アニメでは確かに深夜アニメなのですけど、
あまりにもエロ濃厚なので見えそうで見えないという自主規制で終わってしまったのは大変勿体なかったです!

やはりあのシーンは何度見ても「ごちそうさま!」としか言いようがないある意味濃厚なストリップショーともいえそうです・・


doa766_convert_20150814204542.jpg


時崎狂三は、見た目は清楚な正統派美人さんだと思います。

どこをどう間違えるとああしたトチ狂ったキャラになってしまうのかあのギャップがとても斬新だと思います!

あの狂った精霊体としての狂三がとてつもなく私は魅かれてしまいます・・


doa737_convert_20150814204422.jpg

doa741_convert_20150814204505.jpg


転校初日の帰り際、士道の耳元で何やら囁く時崎狂三がとてつもなく妖しかったです。

この後、街で3人の不良に声を掛けられた狂三はその3人をあっけなく殺害してしまい、
(設定の上では、狂三は、この時点で既に1万人以上の人間を殺害している事になっています)
現場に急行したAST隊員(崇宮 真那)によって狂三はあっけなく殺害されてしまいます。
翌朝、何事も無かったかのように狂三は、普通に登校してくる・・・

昨日死んだはずなのに・・・・

果たして狂三の正体と目的は・・・なぜ狂三は何度殺しても何度でも生き返るのか・・
果たしてこいつは一体何者・・・

そういう感じで第7話は閉じられます。

そして物語は、第9話から第10話の前半まで一気に劇的に加速化していきます・・・・

精霊体としての時崎狂三の魅力に魅かれがちなのですけどこうやって改めて第7話を見てみると
人間体しての狂三もかなりの魅力を有していたと思います。

お堅いクラシック音楽でも深夜アニメ系でもこうした衣服脱ぎ脱ぎの場面は、たまにあってもいいものなのだと思います~♪

一つ前の記事がウォルトンということで、本記事においてはウォルトンと同じくイギリスの作曲家のアーノルドについて
触れさせて頂きたいと思います。

マルコム・アーノルドというと、日本の管弦楽団では滅多に演奏されませんけど
(たまに四つのスコットランド舞曲が演奏される程度なのかもしれないです・・)
吹奏楽コンクールにおいては1990年代において、序曲「ピータールー」と組曲「第六の幸福をもたらす宿」で一気にブレイクし、
その後交響曲第2番等のシンフォニーや他の作品も続々と吹奏楽にアレンジされ、今日に至っている感じがあります。
(ここ最近の全国大会でピータールーが演奏されないのはかなり残念です)
M.アーノルドに関して言うと、吹奏楽で大ブレイクする以前から管弦楽作品としてピータールーや交響曲第4番等が大好きで
当時は「日本ではほぼ無名の作曲家だからこそ、自分だけのアーノルドとしてこっそり楽しみたい・・」と思っていた私にとっては
当時の大ブレイクは痛し痒しでもありましたけど、吹奏楽をきっかけとしてアーノルドの素晴らしい作品の日本での認知度が
もっともっと高まって欲しいと切に願っております。
例えば、序曲「ピータールー」のあのあまりにも分かり易い音楽的展開は、この曲を全然知らない人が聴いたとしても
事前にこの曲の歴史的背景を1分程度レクチャーされただけで、
「この部分はあのシーンを音楽的に表現している」という事はすぐに頭に思い浮かびそうなほど、とても20世紀中盤に
作曲されたとは思えないわかりやすさと爽快さがあるのは間違いないと思います。

アーノルドは序曲「ピータールー」で一気にブレイクし、吹奏楽コンクールの人気曲として定番になりましたけど、
組曲「第六の幸福をもたらす宿」の方も、1996年に文教大学が自由曲として取り上げて以降は
一気に人気曲となり、今現在に至るまで支部大会・全国大会等で演奏され続けているのは大変ありがたいものがあると
思います。

私自身、この曲の事を何も知らないで最初に「第六の幸福をもたらす宿」というタイトルだけを聞いた時は、
ある貧乏人が幸せを求めて旅に出て、お金・貴金属・名誉・地位・不動産といった幸せはそれなりに手に入れたけど、
自分にとっての「幸せとは何なのか?」という自分探しの旅のお話なのかな・・・と勝手に妄想してしまいましたけど、
実際は全然違っていました。
実はこの組曲は映画音楽から後日抜粋・再構成をされた曲でもありまして、その映画の主な内容というものは、
第二次世界大戦下、日本軍に侵攻されつつある中国の小さな村・カンチェンを舞台に、
宣教師として赴任したイギリス女性グラディス・エイルワードを主人公に
多くの困難を乗り越え、最後に彼女としての「幸せ」を掴んでいくというお話です。
ちなみに映画のイギリス人宣教師というヒロインは、あの名女優、イングリット=バークマンが演じています。
中国の一つの考え方として、「人間には長命、富貴、健康、徳行、天寿」という五つの幸運があるけど、
これらとは別にもう一つ、その人自身が見つける、その人だけの「第6の幸運」があるとの事で、それをテーマにしたのが
映画「第六の幸福をもたらす宿」なのだそうです。

私自身、この映画は見た事が無いものでストーリーについて深く触れる事は出来ませんけど、
大雑把なあらすじやアーノルドの映画音楽を聴くと映画のワンシーンは容易に頭に思い浮かんできそうな感じもあります。

この映画億楽を管弦楽用組曲としてアレンジしたのが、バルマーという方です。
この方のアレンジとか「映画の中の長い音楽を上手に美味しいところ取り」をしたその構成力には脱帽するものがありますし、
本当に巧いと感じます。
この組曲版を聴くと、巧みに劇的要素とか緊張感とか美しい部分と激しい部分の対比をまとめあげていますけど、
他にもウォルトンの映画音楽(ウォータイムスケッチブック・ヘンリー五世・メジャーバーバラなど)の
映画音楽から組曲版へのアレンジも担当されていたとの事で、
アーノルドのみならず、イギリスクラシック音楽界の大御所、サーウィリアム=ウォルトンからの信頼も
相当厚かったと言えるのかもしれないです。

管弦楽組曲「第六の幸福をもたらす宿」は三つの楽章から構成されています。

Ⅰ.ロンドン・プレリュード

Ⅱ.ロマンチックな間奏曲

Ⅲ.ハッピーエンディング

Ⅰの豪快な開始と迫力、Ⅱのフルートソロをはじめとする抒情的な美しさにも魅かれるが大きいですけど、
この組曲は何と言っても、Ⅲ.ハッピーエンディングが素晴らしいと感じます。

ハッピーエンディング冒頭は「幸福感溢れる感じから開始されるものの、トロンボーンの強烈なグリッサンドとか
金管セクションのかなり悪趣味的なpp→fffの反復などかなり緊張感に溢れています。
この部分のラストのハープの華麗なるグリッサンドはとても印象的ですけど、そこに被せるような威圧的な金管セクションの響きもまた格別です。
そしてこの部分が終わると意外な展開が待ち受けています。
何かと言うと、マザーグースの数え歌みたいな一つの民謡とも言うべき「This Old Man」の旋律が出てきます。
最初は小太鼓の軽快なリズムに乗ってピッコロが軽快に謳い上げていくのですけど、この「This Old Man」の旋律は、
徐々に伴奏が増え、旋律はさまざまな楽器に移って計13回繰返され、
実に55小節に亘る息の長いクレシェンドで奏でられていきます。
個人的にはトロンボーンのソロみたいな歌い廻しがとても大好きです。
このトロンボーンを支えるティンパニの変則的な叩き方も極めて面白いです。
最後に14回目の繰り返しで一旦頂点を迎え、少しずつ静まり返るのですけど
この後は、この組曲の「テーマ音楽」みたいな主要メロディ―を感情的にたっぷりと歌い上げていき
ラストは情感たっぷりにかつ雄大に鳴り響き、華麗に閉じられます。
特に中間部のあの執拗なメロディーラインの繰り返しは一度聴いたら絶対に忘れない程耳に焼きつきそうですし、
あの繰り返し・反復はラヴェルのボレロやショスタコーヴィッチの交響曲第7番「レニングラード」~第一楽章の
執拗な反復の世界に極めて近いものがあるのかもしれないです。

アーノルドの交響曲第2番第四楽章も、ストレス発散にはうってこいの曲ですけど、ハッピーな感覚を味わいたいと思った時の
BGMとしてこのハッピーエンディングもそうした気分にはうってつけの一曲だと思います。

この曲をCDで聴く場合、ヒコックス指揮/ロンドン交響楽団の演奏が一番素晴らしいと思うのですけど
吹奏楽アレンジ版で聴く場合、1999年の狭山ヶ丘高校の演奏が申し分ないと思います。
1996年の文教大学の演奏は、例の「This Old Man」の旋律の繰り返しが終わって以降の
高らかな歌い上げの部分は、異常とも明らかにやり過ぎとか演出過剰とも感じてしまう程の遅いテンポ設定になり、
とてつもなく遅いテンポで、牛の歩みのようにゆったりと歌いあげていき、あの解釈は好き嫌い&評価は分かれると思いますが、
(事実、この年の文教大学の評価は珍しく銀賞に留まっています・・)
私自身は決して嫌いな解釈ではないです。

組曲「第六の幸福をもたらす宿」は、吹奏楽に関わった人ならば結構知名度は高いと思われますが、
純粋に管弦楽の作品としては、知名度はゼロに等しいのかもしれないです。
元々が映画音楽として作られた音楽を組曲版としてオーケストレーションされた訳なのですが、
演奏効果も高いし、非常に分り易いし明るいし、何よりもメロディーが親しみやすいから
オーケストラの演奏会曲目になっても決して遜色はない曲だと思います。


524c1d41_convert_20140812193635.jpg


ここから先はほんの少しだけ余談をさせて頂きます。

2014年に放映されていた「パネスチャージプリキュア」も、この物語は「第六の幸福をもたらす宿」同様に
主人公であるめぐみ(キュアラブリー)が
「自分にとっての幸せとはなんなのだろう・・?」といった事を見つけていく物語だったのかもしれないです。

その人自身が見つける、その人だけの「第6の幸運」というのも素晴らしいですし、
めぐみのように、他人の幸せは簡単に見つける事が出来ても
自分自身の幸せの在り方とか「自分って一体なんなのだろう・・?」といった事を中々見つける事が出来ないという
ある意味中々やっかいな物語でもありましたけど、
最終的にハピネスの物語の意義とは、幸せは自分が見つけ出していくものであり、それは案外身近に潜んでいるものという
事なのかもしれないですし、
人と人との出会いや男女の出会いや自分が本当にやりたいものを見つけるという事は、「たまたま・・」というちょっとした偶然
から広がっていくものとも言えるのかもしれないですし、
アーノルドの組曲「第六の幸福をもたらす宿」~Ⅲ.ハッピーエンディングの中間部の最初は、ほんの弱音から開始されて
いくけどそれが多くの楽器を巻き込んで最終的には壮大なクライマックスを築き上げていくのと
感覚的に近いものがあるのかもしれないですね~♪
昨年の春~初夏のころにかけて新型コロナウイルスの感染リスクが高まり全国に非常事態宣言が発令されていた頃は
三密回避とかソーシャルディスタンスの確保という事で、吹奏楽団もプロの管弦楽団もコンサートはほぼすべてが中止となって
いたのは当時はとても残念に感じていたものでした。
だけど新型コロナウイルスは主にマスクを着用しない状態での飛沫を伴う人と人との会話が主な要因になっていますので、
コンサート会場の客席は確かに三密ですけど、基本的にはクラシック音楽のコンサートホールでは人と人との会話は
避けることは全然可能ですし、おとなしく演奏を聴いて拍手をすれば別に他人との会話や接触をする必要はありませんので、
大体昨年の8月あたりからそうした規制も解除され、コンサートホールの収納人数のほぼ100%を収納して演奏会を開催しても
構わないという流れになっていたのは当然至極だと思いますし、
結果論になりますが、吹奏楽コンクールの開催も本当は問題なかったようにも感じられます。
ただ吹奏楽コンクールは早い地区では6月ぐらいから地区予選が開始されますし、練習での飛沫回避という問題は
今現在も完全には解消されてはいませんので、やはり当時の吹連の判断は正しかったといえそうです。
そしてできれば飛沫回避という観点からも吹奏楽コンクールにおける演奏終了とほぼ同時のあの過激で喧しい
ブラボーコールは規制すべき方向で検討して頂ければ幸いでもあったりします。

それにしても改めてですけど音楽は素晴らしいものですし、こうした生の演奏会を聴くことができるというのは本当にハッピーな
事なのだと痛感しています。

管弦楽団の演奏会を聴く楽しみの一つは、曲によっては管楽器のソロがたまらなく魅力的という事が多々ある事です。

吹奏楽で使用している楽器はほぼオール管楽器という事で、その響きは確かに華麗で色彩感に溢れてはいるのですけど
弦楽器+管楽器+打楽器の構成体である管弦楽の響きに到底敵わないというのはある意味当然の事だと思います。
管弦楽の場合、メロディーラインのメインは弦楽器であり、管楽器が果たす役割は、そのメインの管楽器に対する
スパイス的な役割という事でもありますので、管弦楽曲で管楽器がソロとして使用されると演奏効果が
吹奏楽の響きよりもかなり効果的に聴こえるのはその辺りに理由があるのかもしれないです。
私自身は一応はクラリネット奏者の経験の他に短期間ですけど打楽器奏者としての経験もあったりするせいか、
管弦楽団の演奏会でティンパニ以外の各種打楽器が多彩に使用される曲ですと、打楽器奏者の動きを
見るだけでなんだかとてもワクワクドキドキするものがあったりもします。

管弦楽曲のソロというと、これはあくまで私個人の好みですけど
ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」の冒頭のファゴットの超高音域で開始されるソロを思い出してしまいます。
作曲者としては、「鳴らない音を必死で出そうとする感覚」が欲しかったとの事ですが、
奏者にとっては迷惑千万という感覚もあるのかもしれないですけど、作曲当時の事情はどうか分かりませんけど、
今現在のファゴット奏者はあのような超高音域でも楽々と音を出してしまいますから、ストラヴィンスキーが求めた
悲壮感はあまり感じられない感じもあったりします。
だけどあの春の祭典の冒頭ファゴットソロの感覚はいつ聴いてもミステリアスさは伝わっていますね~♪

確か1985年頃のある演奏会のプログラムですが、「管弦楽の中のソロ楽器」と銘打たれた演奏会の企画がありまして、
要は管弦楽曲・交響曲で使用される「管楽器・打楽器のソロ」に焦点を当ててみようという企画だったと思います。
その演奏会で構成された曲目は、当然ながら管楽器奏者たちのソロがたくさん含まれる曲がかなり勢揃い
していましたので、あの時ソロを担当した管楽器奏者たちのプレッシャーはもしかしたら相当なものが
あったのかもしれないです。

どんな曲がプログラムとして構成されていたのかは、30年以上前の話で私もほとんど記憶に残っていないのですが、

〇オーボエ⇒イペール/交響組曲「寄港地」より、Ⅱ.チュニスからネフタへ

〇コールアングレ⇒ベルリオーズ/序曲「ローマの謝肉祭」

〇ティンパニ⇒小山清茂/管弦楽のための木挽き歌~Ⅳ.フィナーレ

〇ホルン⇒R・シュトラウス/交響詩「ティル・オイレンシュピゲールの愉快ないたずら」

〇トランペット ⇒ ムソルグスキー=ラヴェル編曲 / 組曲「展覧会の絵」~プロムナード

〇クラリネット⇒ガーシュイン/ラプソディー・イン・ブルー

〇フルート⇒ラヴェル/ バレエ音楽「ダフニスとクロエ」第二組曲~Ⅱ.パントマイム

などが組まれていました。

他にどんな管楽器のソロがあったのか、その曲目は何だったのか、そもそも指揮者と演奏団体は誰だったのか等の
情報は全然記憶にないのであいまいなのですが、
お客の入りもあまり良くないガラガラの客席での東京文化会館の夏の演奏会でしたが、とても楽しかった記憶は残っています。
当時はまだ都内にサントリーホール・東京芸術劇場・すみだトリフォニーホール・オーチャードホール等が
完成する前の時代でしたので、都内のプロの管弦楽団はN響を例外とするとほぼ例外なくほとんどの管弦楽団は
上野の東京文化会館を使用せざるを得ない時代であったというのも今では到底信じられない話ですね~

オーボエの「寄港地」については素晴らしい選曲だと思います。
オーボエのソロが有名な曲というと他にも例えばチャイコフスキーのバレエ音楽「白鳥の湖」とか
ボロディンの歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊りなども大変名高いものがあると思うのですけど、「寄港地」の第二曲の場合、
演奏時間3分半程度の中で、ほぼ丸ごとすべてオーボエのソロが朗々と響き渡っていますので
あんなにも長時間の単独ソロというのも極めて珍しいとも感じられますので、私にとっては
「管弦楽曲における管楽器のソロ」というと誰が何と言っても真っ先にイベールの交響組曲「寄港地」~Ⅱ.チュニス~ネフタを
思い出してしまいます!
余談ですけど、私自身はクラリネットは通算して9年間吹いていた事になりますけど、クラリネットが大活躍する管弦楽の作品
というと、私自身が実際に演奏経験があり尚且つソロを担当した曲と言うとリムスキー・コルサコフの「スペイン奇想曲」が
大変印象的です。
実際に吹いた事はないですけど、聴いていて「素晴らしいなぁ・・」とうっとりさせられるクラリネットソロがある曲と言うと
シベリウス作曲の交響曲第1番第一楽章の冒頭のクラリネットのとてつもなく長いソロが大変印象的でもあります!
あの部分のクラリネットには、シベリウスらしい「北欧のほのかなうすくらい情熱」が溢れ出ているようにも感じられ、
この曲のミニスコアを後日入手した私は、あの第一楽章冒頭のクラリネットソロを自分で吹いてみたりもしたものですけど、
なかなかあの「ほのかな情熱」みたいな音を引きだす事はできなかったです。

交響組曲「寄港地」なのですけど、イベールの第一次世界大戦中の海軍士官として地中海を航海した経験とかローマ留学中の
イタリア~スペイン~チュニジアの旅行時の経験が見事に曲に活かされていると思います。
イベールが地中海各地で受けた印象をそのまま組曲にまとめた「華麗なる音の絵巻」という感じが
非常に濃厚な一曲だと思います。
目を瞑って聴いていると蛇遣いの妖しい雰囲気とか情熱的な感じとかアラビアの砂漠とか
色々とイマジネーションが勝手に起きてくるのは、さすが・・・!!という感じです!
20世紀の作品なのに、こんなに分かり易くて粋で楽しい作品はあまり無いような気さえします。

この交響組曲は、下記の三曲から構成されています。

Ⅰ.ローマからパレルモへ

Ⅱ.チュニスからネフタへ

Ⅲ.ヴァレンシア

Ⅰ.ローマからパレルモへは、あまり印象に残らないのですが
Ⅱ.チュニスからネフタへの音楽は、まさに「アラビアンナイト」の世界で、
いかにも妖しげなヘビ遣いが、ドロドロと壺の中からへびを出そうとしている妖しい音楽です。
また、聴き方によっては、アラビアの妖しいお姉さん達が
何かだるそうに男を誘惑しているようにも聴くことも可能と言えば可能なのかもしれないですね・・
Ⅲ.のヴァレンシアは一転してスペインの情熱的なカラッとした晴天の音楽です。
後半のカスタネット・タンバリン・シロフォーン・ドラを交えた音楽の高まりとリズム感は情熱そのものです。

それにしてもⅡとⅢのオーボエ奏者は大変プレッシャーがかかる曲だと思います。

一つの楽章においてほぼ丸々と一つの楽器がソロとして使用されている曲は極めて珍しいと思いますし、
オーボエ奏者の腕の見せ所に尽きると思います。
またⅢにおいてもオーボエはソロとしても使用されていますし、オーボエの第一奏者と第二奏者のアンサンブルもありますし
組曲の間中は、オーボエ奏者は一瞬も気が休まる事は無いとすら感じてしまいます。

Ⅲのヴァレンシアの情熱の発散も実に素晴らしいと思います。

Ⅱ.チュニス~ネフタのオーボエのバックのリズムは、ラミッミミ、ラミラミ、ミッミ~という独特な4拍子+3拍子の変則リズム
なのですけど、あの少しギクシャクしたリズムを伴奏に奏でられるオーボエソロは本当に妖しく美しい響きなのだと思います。

そうそう、イベールは日本ともほんの少し関わりがありました。

1940年の「紀元節2600年」の際に日本政府から委嘱を受けて、記念作品として作曲されたのが「祝典序曲」です。
面白い事に、特に日本的なものを意識されて書かれた部分は全く皆無で純粋に喜びに溢れた音楽が14分近くも展開されます。

同じく紀元節の記念作品として委嘱を受けたイギリスのブリテンは
「シンフォニア・ダ・レクイエム」という鎮魂歌を日本政府に送り付け
当然のごとく当時の日本政府から演奏拒否&抗議の洗礼を受けていますが、それもまたブリテンらしい話だと思いますし、
ブリテンは第二次世界大戦後に来日した際に何事もなかったかのようにこの「シンフォニア・ダ・レクイエム」を
N響を使って演奏していたりもします。
ちなみにブリテンとは「青少年のための管弦楽入門」と歌劇「ピーター・グライムズ」で大変名高い御方です。

最後に、交響組曲「寄港地」というと吹奏楽コンクールでも1970年代以降定番の自由曲として今現在でも演奏され続け、
数多くのⅡ.チュニス~ネフタのオーボエソロがお披露目されています。
その中では、これはあくまで私個人の感想ですけど、1981年の習志野高校のオーボエソロを超える演奏は
いまだに出てこない感じがあります。
そのくらいあの習志野高校のオーボエ奏者は素晴らしかったですし、あの年の習志野高校が全国大会初出場とは
到底信じられないのびのびとした名演だったと思います。
新妻先生時代の習志野高校は洗練された美しいフランス音楽を得意にしていて、後年もダフニスとクロエ・海・スペイン狂詩曲
などの名演を残されていますけど、81年の寄港地の翌年の1982年だけはなぜか・・!?バーンズの「呪文とトッカータ」という
バリバリの吹奏楽オリジナル作品を後年の習志野では絶対あり得ないような凄まじい粗くてワイルドな音で豪快に
鳴り響かせていたのは今にして思うと逆にそ意外感がたまらないです~♪
(1995年にも寄港地を習志野高校は自由曲として取り上げていますけど、あれはすいません・・凡演でしたし結果も
1984年以来の銀賞という結果だったのは妥当だったといえそうです)





ららマジの器楽部においては前述の通り、オーボエ奏者はいなくてコールアングレ奏者の白石陽菜のみです。

多分ですけど、オーボエの音色が必要な場合は白石陽菜が楽器を掛け持ちしているのかもしれないです。

白石陽菜は高校2年生のJKさんで血液型はO型です~
気品と度胸あふれるおてんばなお嬢様という設定です~♪

コールアングレ(コーラングレ)は外見的にはオーボエと大変よく似た楽器です。
楽器の先端部が洋梨と形容されるように丸く膨らんでいるのが外観的な特徴で、オーボエよりはサイズは一回り大きいです。
指使いはオーボエとコールアングレは全く同じであり、コールアングレはオーボエより完全5度低い音が出ます。
オーボエは高音域が特に魅力的な音を発するのですけど、コールアングレはオーボエに比べて低い音域を奏でていて、
あの牧歌的だけどどこか内省的な低音域の音はとにかく渋くて魅力的です~♪
オーケストラではオーボエ奏者が持ち替えて演奏することが多いですし、吹奏楽コンクールでもオーボエ奏者が場面場面で
持ち替えることが比較的多いです。

普段はコールアングレを担当している白石陽菜がオーボエに持ち替えてどのように寄港地のチュニス~ネフタを妖しく
美しく響かせるのかは興味津々です~♪


aa91ee6e-s_convert_20180724125648.jpg


「響け! ユーフォニアム」第二期のオーボエ奏者はみぞれです。

「響け! ユーフォニアム」ではオーボエ奏者はみぞれ一人だけでしたけど、実際の吹奏楽コンクールでは2人奏者が
いる事がほとんどだと思います。
曲によっては一人の奏者がコールアングレ(イングリッシュホルン)を持ち替えする事も多々あったりします。

私的にはオーボエという楽器は人間の声に一番近くて、その音色は素晴らしい癒しの効果があると思いますし、
例えばボロディンの歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊りやイベールの交響組曲「寄港地」~Ⅱ.チュニスからネフタへや
チャイコフスキーのバレエ音楽「白鳥の湖」~第一幕への情景などの
あのオーボエのソロを聴くととてつもなくうっとりとさせられるものがあると思います。

オーボエという楽器はクラリネットほどではないにせよ、大変神経質な楽器であるとも言えると思います、
神経質というか大変デリケートと言った方がいいのかもしれないです。
そこにあるのはダブルリードの調整というものだと思いますし、前日まであんなに調子よく吹けていたのに翌日になったら
全然不調で音さえロクに出ない・・という大変好不調の波が激しい楽器とも言えると思います。

だからオーボエ奏者は練習する時間よりもリードを削ったり調整している時間の方が長いとよく揶揄されたりもするのです・・



「コールアングレ」という楽器は、別名、コーラングレとかイングリッシュホルンとか呼ばれていますけど、
私はコールアングレという呼び方が一番馴染みがあるので、当ブログにおいてはこの表記とさせて頂きたいと思います。

管弦楽や吹奏楽の木管楽器とは、フルート・クラリネット・オーボエ・ファゴットが主に該当するのですけど、
(サックスは外見はメタル系楽器ですけど、先端のマウスピースに竹製のリードを装着し振動させて音を鳴らしますので、
サックスは木管楽器に分類されます。但しサックスは管弦楽ではあまり使用されることはないです。吹奏楽ではとてつもなく
重要なポジションを与えられています)
フルートはリードを使用しないメタル系楽器でありますけど分類上は木管楽器として扱われ、それに対して
クラリネット・サックス・オーボエ・ファゴットはリードを使用する木管楽器でもあります。
そのうち、クラリネット・バスクラ・コントラバスクラ・サックス系はマウスピースに一枚のリードを装着させて吹く
シングルリード楽器でもあるのに対して、オーボエ・コールアングレ・ファゴット・コントラファゴットは、上下の2枚のリードの
振動によって音を鳴らすダブルリード楽器であったりもします。

コールアングレ(コーラングレ)は外見的にはオーボエと大変よく似た楽器です。
楽器の先端部が洋梨と形容されるように丸く膨らんでいるのが外観的な特徴で、オーボエよりはサイズは一回り大きいです。
指使いはオーボエとコールアングレは全く同じであり、コールアングレはオーボエより完全5度低い音が出ます。
オーボエは高音域が特に魅力的な音を発するのですけど、コールアングレはオーボエに比べて低い音域を奏でていて、
あの牧歌的だけどどこか内省的な低音域の音はとにかく渋くて魅力的です~♪
オーケストラではオーボエ奏者が持ち替えて演奏することが多いですし、吹奏楽コンクールでもオーボエ奏者が場面場面で
持ち替えることが比較的多いです。
例えばボロディンの歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊りやベルリオーズの「幻想交響曲」~Ⅲ.野の風景などのように
オーボエのソロの後に休みなくコールアングレのソロが出てくる楽曲ですと、最初からオーボエとコールアングレの奏者を
持ち替えせずに単独で配置する事が一般的です。
余談ですけど、今現在はそうした事は全く無いのですけど、1980年代あたりまでてすと、吹奏楽コンクールにおいては、
部内にコールアングレを所有していないのに、ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」やボロディンのダッタン人の踊りを
選曲した際には、コールアングレの代用楽器としてソプラノサックスを充てる事例も多々あったりして、あの代用された音色を
聴くたびにガックリさせられたものです・・(汗)
(ららマジにはオーボエ奏者はいませんので、コールアングレ担当の白石陽菜が掛け持ちでオーボエも担当しているのかも
しれないです)
基本的にはセカンドのオーボエ奏者がコールアングレに持ち替えることが多いですけど、
管弦楽において3管以上の編成では最初からコールアングレを単独のパートとしてスコアに記載されている事が多いです。

私自身の経験楽器は吹奏楽でのクラリネットを9年間とアルトサックスの1年間ですけど、
今現在の視点で申し上げると、「好きな楽器を一から教えてあげるから吹いていいよ」と言われたりしたら、私自身は
多分ですけど迷うことなくコールアングレを選ぶと思います。
その理由はというと、音色と音域が心地よいし聴く人をうっとりさせられるし、あの内省的でやさしい牧歌的な響きは、
吹いていても自分自身で陶酔してしまうほどうっとりとさせられるものがあると思います。
独特の牧歌的でエキゾチックな響きゆえに、管弦楽や吹奏楽においてはおいしいソロ的な扱い方をされる場面も
多々ありますし、吹奏楽の視点で言うと、クラリネットはどうしても役割的に管弦楽のヴァイオリンパートの細かい動きを
そっくりそのままアレンジされてしまう事が多くて、その指の動きが大変なのに対して、オーボエやコールアングレは、
指揮者的にはそうした細かい動きよりも、目立つ所やソロにおいてのそうした独特な色彩と音色でもって、音楽に彩りと
スパイスを添えてあげて欲しい・・という要請の方が強いから、細かい指の動きを正確に吹くというクラリネットパートの役割
よりはむしろ「とにかく美しい音色をたっぷりと聴かせる」という役割を求められていたと思いますし、
オーボエやコールアングレは細かい指の動きに多少難があっても指揮者からは目をつぶってもらえていたというある意味
特権も多少はあったのかもしれないです。

管弦楽においてコールアングレをソロ的に用いた曲は、有名な所では、
ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界」第二楽章のように、大変美味しい場面で使われることが多いです。
確かに新世界のあの鄙びた美しくて牧歌的なコールアングレのソロは、いつ聴いても胸がジーンとしますよね~
コールアングレの楽器そのものの音色が非常に心地よいですし、オーボエに比べると音色は低音のハスキーなのですけど、
俳優に例えると中尾彬みたいな声に近いと思います。
音色だけで大変得をしている楽器というイメージがあると記すと、逆にダブルリード楽器奏者からは
「それはクラリネット奏者のひがみじゃん・・自分達だって日々のリード調整や美しい音色のキープは大変なんだから~!」と
お叱りを受けてしまいそうです・・

独特の牧歌的でエキゾチックな響きから、オーケストラにおいてはソロ的な扱い方をされる場面も少なくないですけど、
それでは具体的にコールアングレのソロを伴う楽曲にどんなものがあるのか新世界以外で挙げてみたいと思います。
歌謡曲では、古い話ですけどガロの「学生街の喫茶店」が有名なのかもしれないです。
管弦楽の分野では、最初にこの楽器を効果的に使用した例は、ハイドンの交響曲第22番「哲学者」だと思ったりもします。

〇H.ベルリオーズ / 幻想交響曲 ~Ⅲ.野の風景

第三楽章のオーボエとコールアングレの掛け合いの部分はかなり魅力的です。
遠くから聞こえる雷を表現するため、ティンパニ奏者4人による雷の描写も大変効果的ですし視覚効果も申し分ないと思います。
指揮者の解釈によっては、オーボエの高い響きをあえて舞台袖から吹かせてコールアングレの低音の響きをステージから
鳴らせて、その遠近感を会場が一体となって演出しているような事例もあったりします。

〇A.ボロディン / 歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊り

 囚われの身となったイーゴリ公の郷愁をイメージさせるオーボエのソロですけど、それに続くコールアングレのソロも大変
 美しくてとてもじゃないけどこの世の響きとは思えない美しさがあります。

〇フランク / 交響曲~第二楽章

〇ロドリーゴ / アランフェス協奏曲~第二楽章

〇ラヴェル / ピアノ協奏曲~第二楽章  同 / スペイン狂詩曲~Ⅳ.祭り

〇ドビュッシー / 管弦楽のための三つの交響的素描「海」~Ⅰ.海上の夜明けから真昼まで

〇ロッシーニ / 歌劇「ウィリアム・テル」序曲

 有名なスイス軍隊の行進の前の牧歌の部分のコールアングレの温和でのんびりとした雰囲気はとても美しいです。

〇J.シベリウス / トゥオネラの白鳥

〇レスピーギ / 交響詩「ローマの松」~Ⅳ.アッピア街道の松

 管弦楽曲史上最大の音響のるつぼと化す曲ですけど、冒頭はコールアングレの美しいソロから開始されます
 (合いの手を打つバスクラも大変いい仕事をしています)

〇M.ファリア / バレエ音楽「三角帽子」~粉屋の踊り

 ホルンの合いの手に導かれてコールアングレだけの音によるソロが朗々と奏されます。

吹奏楽では、小山清茂(前橋商業の大木隆明先生のアレンジ版)の吹奏楽のための木挽歌~Ⅰ.テーマの
コールアングレの長大なソロは鄙びて枯れた感覚が素晴らしいです。
他には、リードのロシアのクリスマス音楽、エル・カミーノ・レアル、スパークのドラゴンの年、
ローストのスパルタカスとカンタベリーコラールなどが大変印象的です。

全般的にはドヴォルザークの新世界のように抒情楽章で特に威力を発揮する楽器と言えそうです。

そしてコールアングレが大活躍する管弦楽曲と言うと私の一押しではベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」を推したいです!

ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」はこの曲ほどクラシック音楽初心者に向いている曲は無いかもと感じたりもします。
例えば、ハチャトゥーリアン/バレエ音楽「ガイーヌ」~剣の舞とか
ムソルグスキーの交響詩「はげ山の一夜」とかボロディンの歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊りとか
ホルストの組曲「惑星」~Ⅳ.木星とかラヴェルのボレロとかレスピーギの交響詩「ローマの松」~Ⅳ.アッピア街道の松とか
グローフェの組曲「グランドキャニオン」~山道を行く・豪雨などの曲と並んで
クラシック音楽の「夏休み親と子供のファミリーコンサート」の一曲として是非加えて欲しい曲の一つだとも思います。

曲自体7分半程度と時間的にも飽きが来ない適度な長さですし、冒頭の喧騒に続く前半のコールアングレの長大なソロで
聴衆をうっとりとさせ、中盤から後半にかけての楽しさ・激しさで盛り上げて、ラストも一気呵成に閉じるという感じで、
いかにもイタリアの血気盛んな舞曲という感じの曲といっても差し支えは無いと思います。
そしてこの曲の最大の聴かせどころは序盤のコールアングレの長大なソロだと思います。奏者にとっては大変
プレッシャーがかかりますけど遣り甲斐は相当あると思います。
どこかのんびりとしてるのだけど、ソロ以降に展開される舞曲の激しさを予感させるような静かな熱さも有していると思います。

序曲というと一般的には歌劇の前振りというのか、お笑いの世界で例えると、メインの出演者が登場するまでの前座担当だと
思いますが、この曲のタイトルが序曲「ローマの謝肉祭」となっていますので、
正式には歌劇「ローマの謝肉祭」序曲と言うのかな?と勘違いをされる方もいらっしゃるのかもしれないですので
少し補足をいたします。
ベルリオーズには、作曲に大変な情熱と心血を注いだ歌劇「ベンヴェヌート・チェッリーニ」という歌劇が
あるのですけど、これが興行的には大失敗してしまいます。
莫大な借金を背負い込み、せっかく作曲した曲も演奏される当てもなく、作曲者的には顔面蒼白という感じでもありました。
ベルリオーズは歌劇「ベンヴェヌート・チェッリーニ」自体には大変愛着があり、
「この歌劇をこのまま忘れられた曲として埋もれさせるにはなんか勿体無いものがある」として
この歌劇の主要な旋律を引用して単独の管弦楽曲へと編集するアイディアを思いつき、
その成果が序曲「ローマの謝肉祭」なのです。
それゆえに、この作品は単独の演奏会用序曲であり、「ローマの謝肉祭」という歌劇は存在しませんし、
歌劇「ローマの謝肉祭」序曲という曲は存在しません。

オーケストラの演奏会レパートリーとしては日本においても完全に定着した曲でもあり、
この序曲は恐らくですけど、かなりの頻度で演奏会に取り上げられています。
プログラムの一曲目としてはまさに「うってつけ」と言える一曲と言えるのだと思います。
やはりこの曲の最大の聴きどころは前述の通り前半のかなり長大なコールアングレのソロですけど、それ以外には
2台のタンバリンとトライアングルの融合も挙げたいと思います。
コールアングレのソロが終結し曲が騒々しくなってくると、
2台のタンバリンと一つのトライアングルがトリオとなって華やかな響きを演出しています。
この2台のタンバリンとトライアングルのシャカシャカ・・・というリズム感は、三つの打楽器が見事に融合しているようにも
聴こえたりもします。
あの部分は、いかにもこれから「祭りがはじまるぞー」みたいな雰囲気もあり、私は結構好きですね~♪


_convert_20191120164851.jpg


ららマジの器楽部においては前述の通り、オーボエ奏者はいなくてコールアングレ奏者の白石陽菜のみです。

多分ですけど、オーボエの音色が必要な場合は白石陽菜が楽器を掛け持ちしているのかもしれないです。

白石陽菜は高校2年生のJKさんで血液型はO型です~
気品と度胸あふれるおてんばなお嬢様という設定です~♪


_convert_20191120164919.jpg


一見いいところのお嬢様という雰囲気も有しながら、かなりやんちゃで活発なお転婆娘というのも楽しいですし、
お転婆ゆえに実は特技と趣味は木登りというのもとても楽しいです。

活発な女の子だけど、担当している楽器の音色はかなり内省的というギャップもすてきですね~♪

そして前髪をあげているためおでこがかなり目立っているのもとてもかわいいです~!
メディアの瞑想と復讐の踊りは、ギリシア悲劇「王女メディア」を題材にした作品です。
王女メディアのストーリーを素材にして20世紀のアメリカの作曲家、サミニュエル・バーバーが作り上げた音楽が
バレエ音楽「メディア」であり、そののバレエ音楽を更に単一楽章的にギュギュ~っと濃縮した音楽が
「メディアの瞑想と復讐の踊り」でもあります。

この曲は、一言で言うと、内面的心理ドラマの世界です。

本来は優しい女性であったはずのメディアがなぜここまでやらなければいけなかったのかその心の葛藤を描いた
心理的交響詩みたいなものだと思います。
前半は、静かな内面の葛藤の世界であるのに対して後半は、何かが弾けて「狂」の世界に突進していくメディアの狂気の世界を
見事に表現していると思います。
全体的に14分間程度に渡って最初から最後まで緊張の糸がピーンと張りつめられていると思いますし、この曲を聴くと
「弦楽のためのアダージョを作曲している人らしい緊張感と内面的葛藤に溢れた曲」と感じずにはいられないです。

このドラマのストーリーを簡単に記すと・・・

メディアは太陽神の末裔の女魔術師でありコルキスの王女でもあります。英雄イアソンと駆け落ちしてコリントに赴き、
そこで子供を授かり、平和に暮らしていました。
その後野心が捨てきれないイアソンは、リントの王女と結婚し、メディアをあっさりと捨ててしまいます。
嫉妬と復讐に燃えたメディアは、結婚の贈り物として毒をしこんだドレスを王女へ送り、
コリントの王女を殺害してしたばかりでなく、最後には自分の子供すらも殺してしまい、
竜に引かせたチャリオッツ(戦闘用2輪車)でコリントを去るというお話です。

これは午後1時台で放映されている昼ドラのドロドロや韓国の愛憎ドラマを超える位凄まじいドロドロ劇だと思います。
自分を捨てた夫に対する復讐として、その相手の女を殺すというパターンは古今東西よくある話だと思うのですが、
己の復讐のために自分の子供にまで手をかけてしまう点が母性を超えたメディアの狂気ともいえそうですけど、
メディア自体も決して喜んで我が子を殺した訳ではなくそこに至る経緯にはさまざまな心理的葛藤があったと思いますが、
そうした背景を認識したうえでメディアの瞑想と復讐の踊りを改めて聴くと
何となくその葛藤や経緯やメディアの決意が分かるような気がします。

冒頭からして既に緊張感たっぷりで、大変静かな開始なのですが、シロフォーンの不気味な表現が既に狂気を
醸し出しています。
中盤から後半は狂気の音楽が全開で、復讐に燃えたメディアの狂気が炸裂し迫力満点のスピード感あふれる音楽が
展開されていきます。
演奏時間は14分前後ですが、非常に音楽的中身が濃い曲なので、「長い」と感じ事は絶対にないと思います。

バーバーは、どららかというと内省的的な曲とか美しい抒情的な曲を得意にしたようにも思えますが、抒情的というと
その代表的な曲はヴァイオリン協奏曲なのだと思います。
この協奏曲はとても20世紀に作曲されたとは全く思えないロマンチックと美しさに溢れていて、
悪く言うと完全に時代遅れなのですけど、20世紀と言う
現代音楽という訳のわからん無調音楽が幅をきかせていた時代だからこそ、こうした純粋に美しい曲は、
かえって20世紀には光り輝くのかもしれません。
そうした事と同様な事は、協奏曲で言うと

〇ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番

〇コルンゴルド/ヴァイオリン協奏曲

にも言えるのかもしれないです。

バーバーの「ヴァイオリン協奏曲」は、第一楽章の出だしを聴くだけでも価値があると思います。
冒頭から、ため息ものの美しい音楽が静かに流れていきます。
第一と第二楽章は非常に静かで内省的な音楽なのですけど、この曲が更にユニークなのは第三楽章にありまして、
第三楽章は3分程度であっという間に終わってしまうのですけど、
第一・第二楽章とは全く対照的に、終始せわしく落ち着きなくあっという間に駆け抜けていきます。
何となくリムスキー・コルサコフの「熊蜂の飛行」みたいにハチがブンブン飛び交うような雰囲気の音楽です。
第一~第二楽章と第三楽章が全く正反対ですし、そのギャップがこの協奏曲を聴く一つの醍醐味なのかもしれませんね。

最後に・・余談ですけど
本記事にて久しぶりにバーバーの名前が出ましたので、バーバーの曲としては正直あまり知られていないのは
大変もったいなく感じる歌曲でもある「ノックスヴィル~1915年の夏」について簡単に記したいと思います。

この曲は、派手な部分は皆無です。
終始ゆったりとした音楽が展開され、ソプラノがゆっくりと管弦楽をバックに抒情的に淡々と歌い上げる音楽です。
全体でも20分程度の作品です。
元々は、ジェイムズ=エイシーという方の「ある家族の死」という長い散文詩にバーバーが曲を付けたものですけど、
一言で言うとノスタルジーを強く感じさせます。
遠い昔に家族で過ごした時間を、大人になって 「ああ、あの時の自分は実は幸せだったのだな・・・」と振り返るような
感覚の音楽です。
聴けば分かるのですが、この曲に葛藤もドラマも派手に盛り上がる部分も演出も派手な効果も何もありません。
過剰な期待をして聴くと、 あまりにも何もない淡々とした展開に落胆すると思いますが、
この「淡々とした何も無い感じ」に憂いとメランコリーさを感じます。
バーバー自身生まれたのが1910年ですけど、1915年と言うと5歳の頃だと思われます。
自分自身の子供の頃の記憶と原作の詩が何かリンクするものがあったのかもしれないです。

この曲に関しては、指揮者・管弦楽団で選ぶよりは ソプラノのソリストで選んだ方が断然いいと思います。
個人的には、ドーン=アップショー(ジンマン指揮)がいいと思います。

この曲は一度だけ生の演奏会で聴いたことがあります。
確か1995年頃だったと思いますが、東京交響楽団の定期演奏会で、指揮者は秋山和慶でした。
前半がこのバーバーの歌曲で 後半のメインがマーラーの交響曲第4番「大いなる喜びへの賛歌」でした。
マーラーの4番の第4楽章だけ、ソプラノが入りますけど、
この部分だけに高いギャラを払ってソプラノを呼びのも非効率と考えたのか(?)
前半にバーバーのこうしたウルトラマイナーな曲をカップリングしたのかもしれないです。

この曲、生で聴くといい子守歌というか即効で眠たくなりますね~♪
ハープという楽器はヴァイオリンと同様に大変優雅で美しい楽器だと思います。
そうした見た目の雰囲気の美しい楽器というイメージが定着しているのは、その形状や音色の美しさも大きいですけど、
ハープ奏者のほとんどが 女性奏者であるという事もあるのかもしれないです。

ハープがどうしてそんなに優雅に感じられるのかと言うと、グリッサンドといってずらっと並んだ弦を指で華麗に弾くというか
擦る様子はその幻想的で華麗な音の響きと合せて、視覚的にも聴覚的にも絶大なインパクトがありそうです。

ハープのグリッサンドが大変印象的な楽曲というと例えばですけど・・

〇ラヴェル / ダフニスとクロエ第二組曲(夜明け~パントマイム~全員の踊り)、マ・メール・ロワ

〇ベルリオーズ/ 幻想交響曲~Ⅱ.舞踏会

〇R.シュトラウス / 楽劇「サロメ」~七つのヴェールの踊り

〇リムスキー・コルサコフ / 交響組曲「シェヘラザート」、スペイン奇想曲

〇ドビュッシー / 三つの交響的素描「海」~特に第二楽章、三つの夜想曲~Ⅱ.祭り

などが挙げられそうですし、グリッサンド多様ではないものの、マーラーの交響曲第5番~Ⅳ.アダージェットにおける
弦楽合奏に対する伴奏的位置付けのハープの美しさはとても幽玄で素晴らしいです。

吹奏楽コンクールにおいて、ハープが使用OKという事でピアノと共に解禁になったのは1981年以降の話ですけど、
(その時にヴァイオリン・チェロ・チェレスタも使用可という事になっていましたけど、これらの楽器は現在の規定では
使用不可となっています)
ピアノが吹奏楽コンクールの場で大変効果的に使用された事例は、私自身が聴いた限りでは、1981年の
東北大会での大曲高校の自由曲の三善晃 / 交響三章~第二楽章だと思いますし、
ハープに関しては1981年と82年の埼玉県の市立川口高校の自作自演シリーズの「無言の変革」シリーズが
多分ですけど全国大会でハープが使用された第一号のような気もします。
今でこそハープは全国大会でラヴェル・ドビュッシーを自由曲にするチームの大半で用いられている楽器と思いますが、
ハ―プが吹奏楽コンクールで定番楽器として定着するのは実は平成以降の話だと思います。
ラヴェルのバレエ組曲「ダフニスとクロエ」は1970年代に一時期盛んに演奏されたものの、著作権の問題で
演奏しにくい状況があった中で、再度この曲がブレイクし現在まで引き続き大人気自由曲となっているきっかけを作った
演奏が1986年の埼玉栄高校の歴史的名演だと思うのですけど、この年の埼玉栄には実はハープは含まれておりません。
あの夜明けのハープの繊細でひそやかなグリッサンドの部分はクラリネット・エスクラ・フルート等で補い、あの細かい動きを
管楽器だけで見事に再現している様子は今にしてみると大変貴重なものがありそうです。
翌年の1987年の習志野高校の自由曲は同じくダフニスとクロエ第二組曲でしたけど、この時はⅡのパントマイムを前半に
チョイスした事情もあるからなのかハープは用いられ、あのグリッサンド奏法はかなりの演奏効果をもたらしていたと
思います。
だけど1988年までの昭和の頃の吹奏楽コンクールにおいては、ハープはまだまだ珍しい特殊楽器という雰囲気は
あったと思いますし、ハープが本格的にスクールバンドでも普通に使用されるのは平成に入って以降において、
常総学院がハープの魅力を存分に発揮させて、他校がそれを取り入れ始めて以降の話なのだと思います。

昭和の頃ですと、前述の通り吹奏楽団内にハープが無いチームがほとんどですので、クラシック音楽アレンジverを
吹奏楽で演奏する場合、ピアノで代用するか木管楽器を使ってうまくごまかすか、ヴィヴラフォーンで代用という事が
多かったと思います。
私自身母校の高校でリムスキー・コルサコフのスペイン奇想曲を演奏した際には、第Ⅳ曲のハープのあの華麗なカデンツァは
ヴィヴラフォーンで代用していましたし、ウインターボトムアレンジ版のスコアにも確か「ハープが無い場合はピアノ又は
ヴィヴラフォーンでの代用も可能」と記されていたと思います。
同じくリムスキー・コルサコフの交響組曲「シェエラザート」のⅡとⅣにおけるハープのグリッサンドの美しさは
大変素晴らしいものがあるのですけど、1973年の花輪高校と74年の秋田南高校のⅡ・カレンダー王子の物語においては、
ハープではなくてクラリネットをメインとする木管アンサンブルでもってハーブの代用を果たすというある意味苦労の痕が
うかがえるアレンジとなっていました。
1985年の関西大会にて、学校名はど忘れしてしまいましたけど、シェエラザート~終楽章を自由曲に選んだある学校は、
序盤のハープのグリッサンドの部分をなんと・・! ギターで代用するという凄まじい?荒業アレンジを披露していて、
後日この演奏を収録したブレーンのカスタムテープで聴いた際には、そのギターによるグリッサンドが終わった後に
会場内からのおーーーっというざわざわとしたどよめきがしっかり収録されていて、今にして思うと
これも古き良き時代の昭和の頃の吹奏楽コンクールの一コマといえるのかもしれないです。

ハープは共鳴胴の両端に2本の棹を立て、2本の先を結び、棹のうちの曲線状になった方と共鳴胴との間に
平行に弦を並べて弦を張っています。そしてこの弦を指で弾いて演奏します。
現代の西洋音楽において、独奏やオーケストラ、室内楽などで広く用いられているコンサートハープは、
ダブル・アクション・ペダル・ハープの事であります。
ダブル・アクション・ペダル・ハープは主に47本の弦を変ハ長調全音階で張られていて、ピアノに例えると、
黒鍵無しの状態で白鍵だけの音階で並んでいるようなものです。
そしてドレミファ・・の各音対して一つずつ合計7つのペダルが付いていて、それぞれ二段階に踏み分けて
一つの音を半音高めたり全音高めたりします。
ハープの弦は47本でペダルを踏まない状態で変ハ長調の全音階に調律されています。
ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シの各音に対して1つずつペダルを割り当て、それらのペダルを音階に合わせて設定することで
演奏できる仕組みになっています。
一例を言うと、例えばト長調の場合は、「ド・レ・ミ・♯ファ・ソ・ラ・シ」ですから、
まずは全てのペダルを1つ踏み変ハ長調から半音階上のハ長調にして、「ファ」のペダルだけもう1段踏み込み
半音上げればト長調になります。
ハープ奏者はそうしたペダルでの調律を演奏開始前もそうですし、曲の途中でも絶えず行っていますので、
見た目の手の優雅な動きとは対照的に、ペダルを踏む足は終始ドタバタしているという感じでもあります。
白鳥が優雅に泳いでいるその水面下では足をドタバタ動かしているという事に似ているのかもしれないです。

それゆえハープ奏者は優雅なイメージとは裏腹に人目に付かない所で大変な苦労が付き物で、左足で三つ、右足で四つと
計7つのペダルを絶えず忙しく操作をしないといけない大変さがあったりします。
おまけにハープ奏者は固い弦を指で弾き、時にグリッサンドしないといけないものですから、指先は常にマメ状態と化している
のが実はその日常でもあったりするそうです。
ハープ奏者の指はいつもタコが出来ている様なモノなそうで、指先があまりにも堅いと弦を弾く時に音が汚くなってしまう
こともあるそうでして、ハープ奏者は時に堅くなった自らの指先をヤスリで削るというのか研ぐ場合もあるそうです。
これはクラリネットやオーボエ奏者が日常的に行っているリード削りの難しさに匹敵する程デリケートなケアなのだと
思います。

とにかく、優雅で華麗なイメージがあるハープもなにかと裏では色々とご苦労が絶えないという事なのだと思います。


_convert_20191112114146.jpg


「ららマジ」の舞台の器楽部におけるハープ奏者は3年生の南さくらです。

南さくらは器楽部を支える副部長で、振り回されることの多い苦労人でもあったりします。
器楽部創立メンバーの一人で、部長であり指揮者でもある草薙百花がメチャクチャな楽器編成を無理やりどうにかこうにか
まとめてしまう剛腕でもあったりしますので、そうした剛腕ぶりに不満がありそうな下級生たちを時に脅しつけ、
時に笑顔と愛嬌で押し通してしまうのがこの副部長兼ハープ奏者の南さくらといえそうです。
そしてららマジでは珍しい部類の眼鏡っ娘でもあったりします~♪

バトル時においては、グランドハープの形をした長弓を武器とし、光の矢を放って攻撃します。

演奏中は優雅な手の動きとは別に、足元では調音のためにペダル操作をするに当たっては、聴衆や指揮者の見えない所で
いろいろと苦労が尽きないのかもしれないです。
モーリス・ラヴェルというと世間一般では「ボレロ」、吹奏楽経験者の皆様にとっては「ダフニスとクロエ」第二組曲、
ピアノ奏者の皆様にとっては「夜のガスパール」・「ソナチネ」・「クープランの墓」やピアノ協奏曲なのかもしれないですけど、
「鏡」というピアノ組曲の中の一曲を後日ラヴェル自身が管弦楽版に編曲した「道化師の朝の歌」という楽曲も、8分程度と
短めの曲ですけど、そこにはラヴェルのエッセンスがぎゅぎゅっと詰まったすてきな管弦楽曲だと思います。

「道化師の朝の歌」の原曲は「鏡」というピアノ曲組曲です。

「鏡」は以下の5曲から構成されています。

Ⅰ.蛾

Ⅱ.悲しい鳥

Ⅲ.海原の小舟

Ⅳ.道化師の朝の歌

Ⅴ.鏡の谷

この5曲の中で、海原の小舟と道化師の歌がラヴェル自身によって管弦楽作品用にご仁アレンジされています。

ラヴェルと言うと、一般的にはオーケストラの魔術師と称賛され、管楽器の使用方法やオーケストレーションの巧みさから
リムスキーコルサコフやレスピーギと並んで作曲テクニックに秀でた天才というイメージがあります。
ラヴェルの作品リストを眺めると分かるのですが、これほどまでオーケストラの魔術師と言われた人でさえ、
実は最初から純粋に演奏会用管弦楽曲として作曲された作品は、「スペイン狂詩曲」ぐらいであり、
それ以外の作品は大別すると、バレエ音楽または原曲がピアノ曲を後日管弦楽用にアレンジしたものなのです。
ちなみに、ダフニスとクロエ、ボレロ、マ・メール・ロア、ラ・ヴァルスは元々はバレエ音楽で、
クープランの墓、亡き王女のためのパヴァーヌ、高雅にして感傷的なワルツは元々はピアノ曲であったりもします。

道化師の朝の歌は、ピアノ曲として聴く方が印象としては非常にすっきりと聴こえるようにも感じます。
リズムの鋭さ・けだるさ・すがすがしさ、一見矛盾する要素を内在させながらも
非常に生き生きと描いているところにこのピアノ曲の素晴らしさがあります。
ピアノ曲として「道化師の朝の歌」を聴く場合、
私的には小山実稚恵さんのラヴェルピアノ作品集のCDの演奏が非常にしっくりきますし大好きな演奏です。
「道化師の朝の歌」を管弦楽曲として聴く場合、ピアノ曲とは全然別の曲のようにも聴こえたりもします。
管弦楽版の場合、中間部のかなりけだるい部分のソロは主にファゴットが担当していますけど、このファゴットが実に
いい味を出していると思います。
ピアノ曲として聴くと、ついつい聞き流してしまう箇所なのですけど、 管弦楽曲として聴く場合、
あのファゴットソロの部分は、だるさとおとぼけ的要素が絶妙にミックスした感じが非常に素晴らしいと思います。
それでいて音楽全体が粋な感覚で洗練されているのが聴いていても実にアンニュイでリラックスできますし、
打楽器も、タンバリン・カスタネット・シロフォーン・トライアングル・小太鼓など多種多様な楽器を駆使し、
色彩感を出すのに良いスパイスの役割を果たしています。
特にカスタネットの響きはスペインからの風みたいなものも感じたりもします。
ラヴェルの作品って音楽評論家的に言うと、水・スペイン・子供・魔法の要素が欠かすことが出来ないエッセンスと
書かれることが多いですけど、 確かにラヴェルの作品には、「スペイン」という要素はかなり重要なウェイトを占めているようにも
感じられます。
それが最大限発揮されているのが「スペイン狂詩曲」だと思いますけど、「道化師の朝の歌」もあのリズム感は、
スペインの響き以外の何物でもありませんし、さすがバスク地方の血を受け継ぐ作曲家という感じが濃厚です。

そうそう、ラヴェルの要素って、個人的にいうと、前述の要素に加えて 「悪趣味」・「最後に奈落の底に突き落とす」という要素も
加味したいです。
それが象徴される作品が、「ラ・ヴァルス」・「ボレロ」・「左手のためのピアノ協奏曲」だと思います。
いずれも精密な作品ながらも、曲の最後の方でこれまで保っていた精密さ・美学・バランス感覚を
全て崩壊させるという手法は、悪趣味以外の何物でもないと思う時もあります。

道化師の朝の歌は、スペインの要素を濃厚に出しながらも、ラヴェルの悪趣味的要素と美的感覚がギリギリのところで
折り合った 不思議な作品なのかもしれないです。

道化師の朝の歌は吹奏楽verとしてもアレンジされていて、吹奏楽コンクールの自由曲としてたまに演奏されることもあります。
2019年現在で、過去の全国大会でこれまで8回自由曲として演奏されていますけど、
1979年の愛工大名電以外は正直あまり印象に残る演奏ではないですし、吹奏楽の色彩感ではなくて分厚い響きの方が
強調される傾向があり、どちらかというともっさりとした粋な感覚ではないちょっと冴えない演奏の方が多いのは、この曲を
正しく表現するには管弦楽でないとかなり厳しいというものがあるからなのかもしれないです。

その中にあって、吹奏楽コンクールの中で演奏された道化師の朝の歌としては、私の中で最も印象に残り素晴らしい演奏と
感じるのは1979年の愛工大名電(当時は名古屋電気高校という校名です) に尽きると思います。
1979年に名古屋電気高校の道化師の朝の歌は、ドイツ的な重厚感あるサウンドでフランス的繊細さは皆無ですけど、
かなり個性的な演奏を聴かせてくれていたのは大変印象的でした。
79年の名電のファゴット奏者はこの道化師の朝の歌において大変素晴らしいソロを聴かせてくれていた事は
大変印象的でした。
余談ですけど、名古屋電気高校=愛工大名電の1990年の矢代秋雄 / 交響曲~第四楽章の吹奏楽アレンジ版の演奏は、
序奏から展開部に入るまでのピッコロとファゴットのデュエットアンサンブルは「お見事!」としか言いようがない
素晴らしい二重奏を聴かせてくれていたのが大変印象的でした!
90年の名電のあのピッコロとファゴット奏者のお二人には当日の「アンサンブル大賞」を贈呈したい気分で
一杯でもありましたし、あの年の名電が銀賞とはあまりにも意外であり、
私としてはあの演奏は課題曲A / ランドスケイブの演奏を含めてグランプリクラスの金賞と予想していた事もあり、
あの評価は今でも納得いかないものがありますね・・

1979年の「道化師の朝の歌」演奏当時は学ランの男子校で、サウンドもかなり骨太のような印象もありました。
もしかしたらなのですけど、この当時には後に西武・巨人等で活躍され、ホークスの監督を務められている工藤公康投手が
在籍していたのかもしれないです。
愛工大名電はフーサ・ネリベル・バーンズ等の吹奏楽オリジナル曲を取り上げることも多々あり、
このチームの骨太サウンドを最大限発揮したネリベルの「交響的断章」やフーサの「プラハ1968」といった厳しい音楽の世界の
素晴らしく精緻な表現は素晴らしかったです。
当時の指揮者の松井先生というと私的にはやっぱりフーサのプラハ1968の印象が大変強いですし、この曲を初めて聴いたのが
1985年の松井先生指揮による素晴らしい名演でもありました。
それと個人的には1980年のパーシケッティの「吹奏楽のための仮面舞踏会」というあまりにもマニアックすぎる吹奏楽オリジナル
作品をあそこまで内省的に精密に表現されていた印象も捨てがたいものがあります。
反面、1977年と95年の「エル・サロン・メヒコ」とか1993年と96年の「ローマの祭り」のようにクラシックアレンジものを華麗に
鳴らしてみたり、矢代秋雄・名取吾郎・大栗裕等の邦人作品をきめ細かく仕上げたりとその多様性は「凄い・・」としか言いようが
ないと思います。
松井先生の音楽は、クラシック作品のアレンジものだったら、ワーグナー等の重厚な作品の方がぴったりのような気も
するのですけど、松井先生が全国大会でドイツ系を取り上げたのは、リエンチ序曲とトッカータとフーガニ短調だけというのも
今にして思うと「ちょっともったいないのかも・・」とすら感じてしまいそうです。

1979年の名電の「道化師の朝の歌」という選曲はこのチームにとっては珍しいタイプの選曲なのかもしれないです。
(フランス系としては、支部大会落ちでしたけど78年に「幻想交響曲」を取り上げ、94年には「ダフニスとクロエ」第二組曲を
自由曲に選んでいたりもします)
79年の名電の道化師の朝の歌は、意外とどんびしゃの演奏を聴かせてくれています。
当時の名電のサウンドは骨太で重厚なので、こうしたラヴェル作品との相性はいいはずはないのですけど、
ラヴェル自身、スペイン系の血が混ざっていて時に武骨な面も見せる事もあるのですけど、
名電の演奏はこうしたラヴェルの武骨な面を巧みに演出していたような気もします。
この演奏はどのパートもみな巧いのですけど、特に抜群に光っていたのはファゴットでした!
曲の中で何度もファゴットの完全ソロの箇所があるのですけど、全て完璧に決まっていましたし、
とぼけていて、悪趣味で、不気味で、姑息で、時には澄ましていて、多様な表情をファゴット奏者は実に見事に
演出していたと思います。





ららマジ器楽部のファゴット担当は橘レイナです。

アルトサックス担当の橘アンナは、レイナの双子の姉の方です。

橘レイナは、橘姉妹のミステリアスな可愛いお姉さんの方でしてアンナの双子の妹の方です。
バトル時の武器はファゴット型の狙撃銃で、複数の銃を同時に発射することもできるそうです。

お顔は双子という事でアンナとかなり似ている雰囲気もありますけど、アンナがボーイッシュな雰囲気なのに対して、
レイナの方はいかにも女の子という感じで、かわいらしい!というオーラに溢れていると思います。


_convert_20191204160742.jpg


橘レイナのウェディングドレス姿です! 女の子の憧れのシンボルとしてのウェディング衣装がとてもよくお似合いだと
感じられます。


_convert_20191204160809.jpg


同じく橘レイナのおしゃれな私服姿です!

美少女はどんな衣装でもよく着こなしお似合いという事を立証していると思いますね~♪

橘レイナのソロによるラヴェルの「道化師の朝の歌」のファゴットのウィットに富み洗練されているけど、どことなくとぼけた
雰囲気のソロをぜひ聴いてみたいものですね~♪


スクールバンドの吹奏楽部の場合、基本的には、
打楽器パートは一般的には、ティンパニ奏者を頂点に、大太鼓・小太鼓(スネアドラム)・トムトム・ドラムセット等の太鼓系、
シンバル・サスペンダーシンバル・ドラなどの鳴り物系、
グロッケンシュピール・シロフォーン・ヴィヴラフォン・マリンバ・コンサートチャイム等の鍵盤打楽器系、
そしてタンバリン・トライアングル・カスタネット・マラカス・拍子木などの小物打楽器系、
そして場合によっては和太鼓といった特殊楽器やはたまたピアノなど、
打楽器奏者はマスターすべき楽器が大変多いというのが大きな特徴なのだと思います。

一般的な話で例外も多々あるのかもしれないですけど、音大等の音楽学校打楽器科の入試実技はティンパニではなくて
小太鼓で行われる事が多いようです。
スクールバンドの吹奏楽部の打楽器パートにおいても、打楽器奏法の基本は小太鼓とされていますし、打楽器パートの
日常の基礎練習においては、パート内全員で一斉に小太鼓の撥を持ち、全員で机や練習台に向けて撥を一心不乱に
正確に規則正しく打ち込む事がスタンダートなのだと思います。

小太鼓という打楽器は、直径35~36cmの皮を高さ16~17cm程度の胴の両面に張り、水平に保つかまたは若干奏者側に
やや下げてスタンドに固定し、それを奏者が二本の木の撥で叩きます。
裏面のやや薄い皮スレスレに張られた響き線(スネア)に共鳴してピリピリと鳴らせる事で、小太鼓特有の
ザーー、ザザッ~、ダダダッというパンチの効いた小気味よい音を出していたりもします。
腋のレバー操作によってこの響き線(スネア)を裏面の皮から放す事も可能で、その場合はザザッという打撃音ではなくて
ポコポコとやや乾いた音に変容します。

小太鼓はオーケストラの中ではリズムの先導を取る役割も果たしていますけど、特に吹奏楽のマーチにおけるリズムの切れの
良し悪しは小太鼓のリズム感によって大分変化するようにも感じられますし、管弦楽でもウインナワルツやダンスといった
音楽では絶大な効果が発揮されています。
特に大変盛り上がる場面での小太鼓のロール打ちの威力は半端無いものがあり、それが最大限発揮されるのが
戦争をモチーフにした曲であったり、ストラヴィンスキーの「兵士の物語」やベルクの歌劇「ヴォツェック」などのような兵隊もの
においても終始大活躍を見せてくれていると思います。
小太鼓はジャズ・ロックにも欠かせない楽器ですけど、ロックにおいてはドラムスセットといって小太鼓・トムトム・吊シンバル・
ハイハットシンバルがワンセットとしてロック全体のリズムを華麗にリードしていきます。

小太鼓が大活躍してとにかく目立ってかっこいい管弦楽曲というと、個人的には
プロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」~タイボルトの死とハチャトゥーリアンのバレエ音楽「ガイーヌ」の中から
剣の舞とレスギンカ舞曲を推したいです!

さてさて・・小太鼓が曲の開始から最後までソロ的に大活躍する曲と言うと最も有名であり「この曲以外ありえない!」と
誰しもが納得するのがM.ラヴェルの「ボレロ」だと思います。
限界的極限の小太鼓によるpppの弱奏から開始され、あのワンパターンな単調なリズムを担当楽器の増大・変化と
クレッシェンドのみで延々と15分近くも繰り返し、聴衆を最初からクライマックスのfffの変調とトゥッティまで飽きることなく
導いていき、聴衆を興奮とエクスタシーのるつぼと化してしまう「魔法」といっても過言ではないボレロではあるのですけど、
小太鼓奏者の緊張とプレッシャーは半端無いモノがありますし、この曲に小太鼓奏者が求められるのはテクニックではなくて、
プレッシャーに打ち勝つことができる強い己の内面なのかもしれないです。
ボレロの小太鼓に関して言うと、これ・・多分ですけどCDで聴いた限りでは分かる人は少ないのかもしれないですけど、
この曲の総譜を読み込んだり、はたまた生の演奏に行くと一目瞭然ではありますが、実はボレロの小太鼓は途中から
奏者は2名に増えます。
多分ですけどラヴェルとの意図を分析してみると、曲の後半からどんどん楽器が増え始め、小太鼓1台ではその増量する
音量に埋もれてしまうので、その音量不足の補強という狙いもあるのかもしれないです。

ボレロ以外に実は小太鼓が1台ではなくて2台で叩く楽曲もあったりします。

一例を挙げてみると・・

〇ロッシーニ / 歌劇「どろぼうかささぎ」序曲

この曲の冒頭は2台の小太鼓のロールから開始され、そののびやかなクレッシェンドは聴いていて爽快です!

〇ハチャトゥーリアン / バレエ音楽「ガイーヌ」~レスギンカ舞曲

レスギンカはオーケストラの生の演奏会で見た限りでは小太鼓は1台ですけど、吹奏楽アレンジ版において、
例えば藤田玄播と稲垣卓三のアレンジでは小太鼓は1台ですけど、林紀人アレンジではそれが2台に増強され、
そのうちの1台はリズムに対する合いの手を打つという感じですけど、最近の吹奏楽コンクールではほとんどの演奏では
レスギンカは小太鼓が2台で叩かれる事が多いです。

〇ショスタコーヴィッチ / 交響曲第7番「レニングラード」~第一楽章

第一楽章は、ある意味において、ラヴェルの「ボレロ」を参考にしているようにも感じられます。
小太鼓が終始一定のリズムを叩く中で、オーボエ・ファゴット・フルート・クラリネット等の管楽器のソロを
交えながら徐々に高潮していくスタイルを取っていて、
ボレロをパクったというよりはボレロのコロンブスの卵的なアィディアを新しい感覚で応用したとも言えるのだと思います。
オーボエとファゴットの掛け合いの部分が私的には大変気に入っています。
ボレロの場合、優雅に静かにゆったりと徐々に徐々に盛り上がっていくのですけど、
レニングラードの場合、かなり早い段階から金管セクションが咆哮し、小太鼓もいつの間にか2台目、3台目と加わっていき、
テンポもどんどんヒートアップしていき、最後は破綻するかのように全音で爆発していき、ボレロの部分は終焉を迎えます。
ラストは、小太鼓のボレロのような繰り返しのリズムが弱奏で刻まれる中、
ミュートを付けたトランペットの幾分寂しそうな感じというのか、
「まだまだ戦争は続いている」といった暗示のような感じで静かに閉じられるというのが
ショスタコーヴィッチとしてのリアルティー表現と言えるのかもしれないですね。
ラヴェルのボレロは、最後の最後で、それまで保っていた形式美を崩壊させるといったラヴェルの悪趣味を感じさせてくれます。
ショスタコーヴィッチの場合はそうした悪趣味というよりは、戦時中でないと書けないみたいなリアルティーの方が強いと
感じられます。

〇アーノルド / 序曲「ピータールー」

この曲は静かに開始されるのですけど、途中で小太鼓が乱入し、それが2台に増強されていき、曲も高潮化していきます。

〇ヒナスティラ / バレエ音楽「エスタンシア」~Ⅳ.終幕の踊り(マランボ)

とにかく集団発狂のごとく、2台の小太鼓・テナードラムとピアノのリズムに乗っかり全体がエキサイトにノリノリのダンスを
お披露目していきます。

吹奏楽オリジナル曲としては、フーサの「プラハのための音楽 1968年」の第Ⅲ曲から第Ⅳ曲・トッカータとコラールに
移行する際の2台または3台の小太鼓による凄まじいクレッシェンドのロールで曲想を盛り上げていき、その小太鼓のロールに
乗っかって金管楽器が爆発していきます!

逆に小太鼓の強奏でではなくて弱奏のデリケート極まりない効果的な使用事例として、リムスキー・コルサコフの
交響組曲「シェエラザート」~Ⅲ.王子と王女の物語だと思います。
そして第Ⅳ曲における強奏で小気味よいリズムの切れの小太鼓の扱いとは極めて対照的であり、このあたりは
さすがオーケストラの魔術師の元祖とも言えそうなリムスキー・コルサコフらしい話だと思います。


_convert_20200614014026.jpg

_convert_20200614013935.jpg

73dd4d9e_convert_20150707202052.jpg


冒頭で「打楽器奏者はマスターすべき楽器が大変多い」と記しましたけど、それはアニメ「響け! ユーフォニアム」でも
きちんと描かれていました。

一例を挙げてみると、一期と二期において自由曲で大太鼓を担当していた女の子は、二期の駅コンの際には
シンバルを担当していましたし、映画の中においては、トムトム兼小太鼓を担当していました。

一年生からコンクールメンバーに選出される事は大変難易度が高いと思いますが、一般的には
一年生で鍵盤打楽器かトライアングル等の小物、2年生で大太鼓かシンバルでリズムの要を担当し、3年生で
小太鼓またはティンパニという打楽器パートの花形を担当して卒業していくというのが一つのパターンなのかも
しれないですし、3年間でほとんどの打楽器は一度ぐらいは担当する機会がありそうという事で、打楽器パートは
打楽器パートとしての苦労も多いと言えそうです。
一つ後の記事が打楽器の「小太鼓」に関する内容ですので、小太鼓を取り上げたからには大太鼓とシンバルについても
取り上げたいと思いましたけど、あまりオーソドックスな事書いてもつまらないので、本記事においては
「シンバル付大太鼓」という大変珍しい打楽器について簡単に触れさせて頂きたいと思います。

というか・・シンバル付大太鼓を使用する楽曲って、私自身はマーラーの交響曲第1番「巨人」~第三楽楽章しか
知りませんし、1994年に来日公演を果たしたミハイル・プレトニョフ指揮のロシア・ナショナル管弦楽団の演奏会での
公園曲目の一つであったビゼーの組曲「アルルの女」の終曲・ファランドーレの踊りで、なぜか知りませんけど、
シンバル付大太鼓を使用し、本来は大太鼓とシンバル奏者と2名打楽器奏者を要するパートを1人で抑えていましたので、
当時は「このオーケストラは新設間もないから来日公演も経費を極限まで抑制しているのかな・・?」とふと余計な事を
考えたりもしました。
(実際、2曲目のラヴェルの「ダフニスとクロエ」第二組曲も本来は打楽器奏者が7~8人は必要なところ、なんと5人の
打楽器奏者が複数の打楽器を掛け持ちして舞台を右往左往していたのも大変印象的でもありました。

上記でマーラーの話が手ましたけど、マーラーの交響曲の世界では、ポストホルン・テノールホルン・ギター・マンドリンなどの
特殊楽器もかなり効果的に使用されていますけど、同時に打楽器をかなり多彩に使用し、
20世紀以降のクラシック音楽の世界の「打楽器重視」の姿勢を先取りしているようにも感じられます。
マーラーが活動していた19世紀から20世紀初頭では、異例だったシロフォン・グロッケンの鍵盤打楽器も
例えば交響曲第6番「悲劇的」に使用していますし、他にも、鈴とかコンサートチャイムとか二人の奏者を必要とする
ティンパニとか巨大ハンマーとかカウベル(牛の首に付ける鈴)など様々な特殊楽器を曲の中に取り入れています。

特に交響曲第6番「悲劇的」はあまりにも多種多様な打楽器を曲の中に入れた事で、当時の批評家から
「単なる視覚的効果・・」とか
「大袈裟・・」とか
「単なる見た目の演出」などと色々と批判を受け
例えばマーラーが警笛用ラッパを手にし、「しまった、こいつを入れるのを忘れていた! でもこれでこのラッパを使って
もう一つ交響曲が出来るぞ!」と叫んでいる風刺画が登場するほどでした。

いつの時代もこうした先駆的な実験者・創造者は絶えず批判は受けるものなのかもしれないです。

マーラーは「視覚的効果」という事ももしかしたら多少は意識していたのかもしれないです。
そのいい例が交響曲第6番「悲劇的」~第四楽章で使用される「巨大ハンマー」なのですけど、
あのハンマーが象徴する事は「その打撃音によって英雄は倒れる」→「死」なのですけど、
ハンマーを打楽器奏者が振り上げて床に置かれている木片にゴチー――――ン!!と当たる瞬間の衝撃音は
凄まじいインパクトがあると思います。
他にも交響曲第1番「巨人」~第四楽章のラスト近くにホルン奏者をスタンドアップさせ、ベルの部分を客席に向けて
吹かせたり、
交響曲第7番「夜の歌」~第四楽章の冒頭部分において、これは管弦楽では極めて珍しい事例なのですけど、
クラリネット・オーボエの木管楽器奏者に「ベルアップ」を求めていて
あの部分のクラリネット奏者は、通常は45度前後あたりの角度で吹くところを90度近い角度で吹く羽目になり、
あれは客席で見ていても相当目立つと思います。
他にも交響曲第3番「夏の朝の夢」~第三楽章においては、舞台裏から朗々と奏でられるテノールホルンの音色からは
夢をイメージさせてくれるのに対して、あの場面が終わった後に舞台上のトランペットが唐突に起床ラッパを鳴らしているのは
夢の世界から現実に世界に引き戻すという視覚的効果も狙っているように感じられますし、
交響曲第2番「復活」においても舞台裏から金管楽器を吹かせることで、天界の戦闘みたいなイメージを視覚的効果として
表現しているようにも感じたりもします。

私自身がマーラーの色々な交響曲を生の演奏会で聴いて「面白いな・・・」と感じたのは、
交響曲第1番「巨人」第三楽章で使用される「シンバル付大太鼓」もその一つなのかもしれないです。


cym.jpg


通常の演奏会ですと、シンバル奏者と大太鼓奏者は別です。
シンバルと大太鼓が同時に鳴る場合は、普通は奏者2名を必要とします。
マーラーの交響曲第1番~第三楽章の場合は、シンバル付大太鼓を使用し、一人で大太鼓とシンバルを鳴らしなさいという
指示がスコアに明記されています。
この「シンバル付大太鼓」とは何かというと、大太鼓の頂点部分にシンバルの片側が装着されている楽器の事であり、
一人の奏者が大太鼓の撥とシンバルのもう片側を持ってふたつの楽器を同時に演奏します。

これってどういう効果を意図し、奏者にどんなことを求めたのでしょうか・・?

生の演奏会見た限りでは、奏者もかなりやりにくそうな感じもありました。
左手にシンバルの片側を持ち、大太鼓に固定されたシンバルのもう片側と合わせて
更に右手に大太鼓の撥を持ち、同時に大太鼓を叩く必要がありますので、奏者はかなり面倒と思いますが、
こうした面倒なスタイルを取っているから大きな音量は出せませんし、結果的に随分と控えめな演奏になると思います。
この第三楽章は葬送行進曲でもありますので、あまり大きな音は求めないという事で、マーラーとしてはあえて
こうした面倒な手法を採用したともいえるのかもしれないです。

19世紀のイタリア・フランスの歌劇場などでは、オーケストラ・ピット内のスペースと、
打楽器奏者の人数を両方とも同時に 節約することを目的として、このシンバル付大太鼓を採用していたという事情も
あるのですけど、マーラーのメインの作曲の場所は交響曲であり決して歌」ではありませんので、
そうした節約も必要ない感じもありますので、その意図というのは、「作曲者のみぞ知る」という感じなのかもしれないです。


dram_convert_20200619144027.jpg


通常のオーケストラにおいては、大太鼓(コンサートバスドラム)は言うまでもなく単独打楽器であり、頂点部分に
シンバルが取り付けられることはまずありえないですし、奏者は撥をバスドラムに叩きつけることのみに専念できます。

チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」~第三楽章において、4発のみシンバルと大太鼓が同時に鳴るシーンがあります。
面白いのは、チャイコフスキーのスコアの上では、
「シンバルは大太鼓にくっつけてはいけない」との注釈がわざわざあるとの事です。
注釈が付いているのは、チャイコフスキーがマーラーに自分の曲の指揮を依頼することが何度かあったらしいのですけど、
マーラーの「巨人」~第三楽章みたいに演奏されるのはちょっと嫌だな・・みたいな
チャイコフスキーの意図ももしかしたらあるのかもしれないですね。
その辺りはこの二人の巨匠の興味深いエピソードという事なのかもしれないですね~♪
ピアノ協奏曲というと、私自身これまで生演奏で聴いた中で機会が多かった曲はと言うと・・

〇チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番

〇ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番  または パガニーニの主題による狂詩曲

〇ショパン/ピアノ協奏曲第1番

〇ラヴェル/左手のためのピアノ協奏曲 またはピアノ協奏曲(俗にいう左手と両手)

〇ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番「皇帝」

〇モーツアルト / ピアノ協奏曲第23番

〇プロコフィエフ / ピアノ協奏曲第3番

あたりがその候補曲なのかもしれないです。

ショパンのピアノ協奏曲第1番は青春の甘酸っぱい」感じが漂う瑞々しい協奏曲だと思います。

第一楽章の異常に長いオーケストラの序奏部分、第二・第三楽章に比べて明らかに長すぎるようにも感じられる第一楽章という
曲の構造的欠陥はあるものの、
(同じ事は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番にも言えるのかもしれないです)
ロマンスというワードがぴったりとしか言いようがない第二楽章のせつなさと甘美さ、
優しい決別」・優しさと甘美さのかたまりみたいな第三楽章などいずれの楽章も心に優しく響く音楽で、
私としては、この曲を聴く度にどことなくやさしい気持ちになれそうな気がします。
特に第二楽章の後半のピアノソロ部分とそれを支える管弦楽の伴奏部分の優しい対話に何か毎回聴く度にジーンとくるものは
ありますし、普段、吹奏楽とかプロコフィエフとかショスタコーヴィッチとかストラヴィンスキーばかり聴いていると、
たまにこういう単純で優しい甘美な音楽に触れると、思わずその美しさにはっ・・とさせられるものはあると思います。

この協奏曲ですけど、若かりし日のショパンが、ヨーロッパに演奏旅行に赴く前に、ワルシャワで開催された
告別演奏会で初演されています。
一説には、片思い中だったソプラノ歌手の女の子もこの演奏会に出演していたようです。
元々内気で恥ずかしがり屋な上に、十分な音量を持てないショパンはやがて、コンサートホールでの
管弦楽団との協奏曲という形式の演奏会を開催する事はなくなっていき、
もっぱら、サロンみたいな少ない人数での聴衆だけを対象にしたピアノ一台だけの独奏会みたいな形でしか
人前で演奏しないようになってしまいます。
それでもたまに弟子たちの前でこのピアノ協奏曲第1番を弾き語って、
「私は、この曲が大好きでした、昔はこんな曲を人前で演奏した事もあるのです・・・」と
しんみりとした口調で語っていた事もあるそうです。

この協奏曲は終始一貫して甘酸っぱい音楽が展開されていますし、「恋に恋する純粋な乙女のための音楽」みたいな香りが
全体的に漂っていると思いますし、「夢見る少女のための音楽」と言っても過言ではない感じがあります。
とあるピアノ教室を開いている先生に聞いた事があるのですけど、10代~20代前半のピアニストを目指している音大生や
音大生の卵たちが「オーケストラと協奏してみたい曲」としては、このショパンのピアノ協奏曲第1番は
断トツの一位というか、相当の人気協奏曲とのことです。
それは女性奏者ではそうした人気ランキングになりがちとのことですけど、男性の音大生にとっては、
弾きたい曲はショパンよりはどちらかというとリストやラフマニノフのピアノ協奏曲の方が人気があるとの事なそうです。
正直に私の本音を書いてしまうと、ショパンのピアノ協奏曲第1番だけは男に弾いて欲しくないですし、
おばさんピアニストにもあまり弾いて欲しくないですし、
10代~20代限定の美少女ピアニストだけしかこの協奏曲は弾いて欲しくないのかも・・という気持ちはあると思います。

個人的には、若い頃のアルゲリッチがソロを担当した演奏にすごく魅かれるものがあります。
他のピアニストにはない、独特のタッチが随所にありこの曲に対する造詣の深さを感じさせてくれます。
過去の生の演奏でショパンのピアノ協奏曲の圧倒的名演として最も印象に残ったのは、
1996年のデュトワ指揮/NHK交響楽団 ピアノ/アルゲリッチの奇跡的な顔合わせの演奏だと思います。
ご存知の人も多いと思いますが、デュトワとアルゲリッチは元夫婦で、
1970年代に二人がN響との共演で来日した際、成田空港で壮絶な夫婦喧嘩の末破局したとの事ですが、
それを考えると、まさにこの1996年の演奏はドタキャン公演以来の「幻の演奏会の再現」と
クラシック好きな人の間では、結構話題になったものです。

この時のN響の演奏会は、「リスナーが選ぶベスト曲目投票」で選出された曲目で、

〇道化師の朝の歌

〇ショパン/ピアノ協奏曲第1番

〇幻想交響曲

で構成され、アルゲリッチは、ショパンのソリストとして出演していました。

演奏は本当に素晴らしかったです!!

若い頃のタッチとほとんど変わらず、外見は魔女みたいに老けていても(失礼ですよね・・・)
感性はあまり変わっていないかのような演奏で、私は結構エキサイトしていました!
演奏終了後、意外と深々とペコペコ頭を下げているアルゲリッチの姿に何か多少の意外感はありましたけどね・・・
逆に言うと、アルゲリッチも随分と丸くなったものだと妙に感心したものです。

ショパンのピアノ協奏曲第1番は、第1番という表記がされていますが、実際は第2番の方が先に作曲されています。
第2番は、第1番と大体似たような構成・感じなのですが、1番のメロディーの豊かさには足元にも及ばないと思います。
ただ、第三楽章後半でホルンのファンファーレみたいなものも出てきて、
オーケストレーションが下手な事では有名なショパンにしては、幾分凝った感じにもなっています。

ショパンのピアノ協奏曲第1番は、オーケストレーションが貧弱とかピアノと管弦楽団との掛け合いの魅力が皆無とか
伴奏付きピアノ曲の領域に過ぎない・・とかかなり悪口や酷評を書かれることも多い曲ですが、
ショパンらしい線の細さや優しさを出すには、この位のバックでないとその瑞々しさを醸し出すのは
難しいと思うので、私としてはこのオーケストレーションで十分だと思います。
素晴らしいメロディーラインが続出のピアノソロパートに対して、バックのオーケストラは極度に「伸ばし」を多用した
伴奏になっていて、奏者の皆様は相当退屈で時間を強いられているのかもしれないです。
もっともそうした貧弱な伴奏だからこそ、華麗な独奏ピアノを際立たせる効果があり、演奏効果として十分すぎるほど
華麗さを発揮しているのかもしれないです。
後世の方がバックの管弦楽のオーケストレーションをアレンジした版もあったりしましたし、日本においてもお公家さん指揮者の
近衛秀麿さんがアレンジもあったりします。

オーケストレーションの巧みさが光る名人芸的な作曲家は基本的にはピアノも名人芸的にうまく弾きこなせる多いという
傾向は間違いなくあると思います。
というのも、作曲家にとってピアノとは大変便利な道具でもありますし、音域が広く少なくとも指10本程度の音は同時に
出せますので、作曲家にとっては音を確認しながら作曲活動とスコアに音符を記す事が出来ますので大変便利な楽器とも
いえそうです。
作曲家にとってはピアノを弾きながら作曲活動をするのは普通の光景だと思いますし、五線譜・ペン・ピアノが作曲活動の
上では三種の神器なのかもしれないです。
(もっとも最近はPCと作曲ソフトがあればそうした三種の神器は不要と思われますけどね・・)
そのためなのかオーケストレーションの名人は一般的にピアノも大変巧いという傾向が強いです。
その代表的事例としては、ラヴェル・ベートーヴェン・ハイドン・プッチーニ・リムスキー=コルサコフ、ストラヴィンスキー・
ブラームスなどが挙げられると思います。

さてさて、上記にて「オーケストレーションが巧い作曲家は大抵ピアノを弾くのも上手」と記しましたけど、その逆の事は
成立するものでしょうか・・?
つまり、ピアノの名人で作曲も出来る御方はオーケストレーションも巧い」という事は成立するものでしょうか・・?
その答えは一概には言えませんけど基本的にはノーといえるのかもしれないです。
その事例としてワーグナー・ベルリオーズ・シューマンなどが挙げられますけど、最もそれが当てはまるのが
上記で記してきたピアノ協奏曲第1番でお馴染みのショパンだと思います。
ショパンのピアノ協奏曲第1番を一度生演奏で聴くとよくわかると思いますけど、既に上記で記したとおり、華麗で雄弁な
ピアノ独奏に対してバックのオーケストラの寡黙な伴奏の貧弱さは一目瞭然だと感じざるを得ないです。
あの協奏曲は完全にピアノが主役であって指揮者とオーケストラの団員たちは、
もしかしたら・・? 「別に自分達いなくてもいいじゃん・・」と感じてしまうのかもしれないですね~


_convert_20191023002651.png


ピアノ協奏曲第1番は基本的に二管編成なのですが、ホルンが4、トランペット2に対してトロンボーンが1という
やや変則的な編成を取っているのも面白い感じはあります。
トロンボーンは通常は、ファースト・セカンド・バストロと3本一組が基本ですので、わずか1本のみという構成は
結構珍しいものがあるといえそうです。

ショパンのピアノ協奏曲第1番のトロンボーンには特に重要と思われる聞かせどころは皆無と思うのですけど、
それでも同じパートのメンバーがいなくて自分一人・・というのは結構心細く感じるのかもしれないです。

美少女とトロンボーンというと印象的なのは「響け!ユーフォニアム」以外では、アニメ作品ではないのですけど、
2017年1月にリリースされた音と魔法の学園RPG「ららマジ」が大変印象的です~♪

ららマジのストーリーは、とある呪いにより廃部寸前となってしまった東奏学園器楽部を舞台に、
プレイヤーは器楽部員として登場する30人のヒロイン達を呪いから救い出し、彼女たちが再び演奏できるようにすることを
目指すように頑張るという内容です。

そして30人のJKさんのメンバーの中で、トロンボーン奏者兼コンサートマスターの地位にいるのが3年生のお姉さまの
星崎梨花です。
担当楽器はトロンボーンで、器楽部のコンミスを務める完璧超人で、器楽部創立メンバーの一人であったりもします。
武器のトロンボーン型の槍は突いたり切りつけたりするだけでなく小規模な爆風を放つこともできるそうです。

星崎梨花だったら、大規模なフル編成の管弦楽団の中でも、ららマジ器楽部の中でも、ショパンのピアノ協奏曲第1番の
バックのオーケストラで自分一人だけのトロンボーンパートだけであったとしても、存分に星崎梨花としての
存在感を示されるのかもしれないですね~♪
8月真っ盛りという事で外は歩くだけでうだるような暑さです!

おまけに今年は新型コロナウィルスの事もあり、マスクを付けての外出は「新しい生活様式の確立」においてはほぼ必須と
なっているようですけど、息苦しいと蒸し暑さも感じられ、マスクを装着するだけで只でさえ暑い中、更に日々のストレスも
マシマシになりそうです。

そうした暑い夏を忘れさせ少しでも涼しく感じられそうな吹奏楽作品や管弦楽作品を挙げてみると、
吹奏楽オリジナル曲としてはパーシケッティーの「ああ、涼しい谷間」を強く推したいですし、管弦楽曲としては
アルヴェーンというスウェーデンの作曲家のスウェーデン狂詩曲「夏の徹夜祭」という曲を推したいです。
(余談ですけど、「なつのてつやさい」と入力するとワードでは「夏の鉄野菜」となってしまいます・・・)

日本では、スウェーデンの作曲家、アルヴェーンの知名度は「知る人ぞ知る」という扱いなのかもしれないですけど、
欧州のクラシック音楽界では、ヴィルヘルム・ステーンハンマルとともに、スウェーデンの主要な作曲家の一人という
評価は既に定着されていると思います。
5曲書かれた交響曲も再評価の声もあるみたいですけど、ごめんなさい・・この方の交響曲は一曲も聴いたことがないです・・
アルヴェーンは、どちらかというと作曲家というよりは指揮者としては著名だったようですね。
ちなみにアルヴェーンは、没年は1960年ですので、どちらかというと「最近まで生きられていたクラシック音楽の先生」
みたいな印象もあったりします。

日本のプロのオーケストラにおいて、アルヴェーンというと唯一演奏されるのが「夏の徹夜祭」という曲だと思います。

吹奏楽コンクールでも、吹奏楽アレンジ版として自由曲で演奏された事例は私も聞いたことは無いですし、
プロの管弦楽団の演奏でも、私自身もこの曲は、東京交響楽団のサマーコンサートでしか聴いたことがないです。

正式名称をスウェーデン狂詩曲第一番「夏至の徹夜祭」というこの曲は、曲自体は大変親しみやすく軽妙で
聴いていてとても愛くるしさも感じる洒落た粋な曲だと思います。
北欧の短い夏を「思いっきり楽しんでみよう!」みたいなおおらかさがあるのがすてきですし、北欧のどちらかというと
涼し気で短い夏を粋に涼しげに音楽として表現したラプソディーと言えそうです。
うだるような最近の日本の暑さにおいて、この曲を聴いてみると少しは癒しを感じられるとは思います。

冒頭のクラリネットがとってもいい味を出していると思います。

冒頭の弦楽器のピッチカートによるバレエ音楽風のリズムに乗って、
クラリネットなどの木管楽器によって奏でられる音楽がまさに短い夏のお祭りの始まりと言えるのかもしれないです。
スウェーデンでは、夏至祭のころが1年で最も気候のよい時期でもありますので、まさに、人々の夏を待ちかねた気分が
生き生きと描かれているとてもすてきな導入部だと思います。
中間部では一転、北欧特有の白夜の情景となり、コールアングレが奏でる哀愁を帯びたメロディーが
とてつもなく印象的です。あのコールアングレには何かうっとりとさせられるものが間違いなくあると思います。
後半からラストは、若者たちの踊りみたいな印象となり、音楽が高揚としていき、盛り上がった気分のまま
楽しく曲は閉じられます。
演奏時間は12分前後かな・・? この曲をCDで聴く場合、ネーメ・ヤルヴィ(パーヴォ・ヤルヴィの父親)指揮の
ストックホルム・フィルハーモニー交響楽団がお勧めです。

「夏の徹夜祭」の冒頭のクラリネットで奏でられるあのほのぼのとしたメロディーって
このアルヴェーンの「夏の徹夜祭」という曲を一度も聴いたことが無い方でも、多分ですけど、
「あれれ・・この曲どこかで聴いたことがあるのかも・・!?」と間違いなく思われるかもしれません。
と言うのも、あの冒頭部分を聴くと、NHKの「きょうの料理」のテーマ曲(→マリンバで奏でられるあの曲です!)に
似ているというか・・部分的には「なんかそっくりじゃん・・!」と思わせる部分も間違いなくあると思います・・
NHKの「きょうの料理」のテーマ曲の作曲者は、既にご逝去されたあのシンセサイザーの富田勲なのですけど、
地理的と時間を超えたクラシック版空耳アワーの世界と言えそうです。
クラシック音楽版空耳アワーと言うと最も名高いのが、ドヴォルザークの交響曲第8番~終楽章と童謡「黄金虫は金持ちだ」と
言えそうですけど、「きょうの料理」とアルヴェーンの「夏の徹夜祭」にも同様の事は言えそうです。

大変古い話になってしまいますけど、「のだめカンタービレ」という漫画・アニメにおいては大変珍しい
クラシック音楽をテーマにした作品がありましたが、
その中で、なぜかこの「きょうの料理」のあのテーマ音楽が登場する場面もあったりしました~♪

それは、アニメ版「のだめカンタービレ」第22話 において登場します。

憧れの千秋先輩が指揮者としてどんどん進化・成長を遂げている中、「自分だけ蚊帳の外・・」とあせるのだめが
マラドーナピアノコンクールに出る決意をし、そのコンクールで演奏した3曲のうち、最後の一曲が
ストラヴィンスキーの大変な難曲、「ペトルーシュカからの三章」だったのですけど、この曲の演奏中に、
なぜか、のだめの頭の中になぜか「きょうの料理」のテーマがなだれ込んでしまいます!
どうして唐突に「今日の料理」が乱入したのかと言うと、会場への移動中に聞いた携帯の着信音が「きょうの料理」であったという
事なのですけど、本番中にそれが頭に乱入するだけでなく、そっくりそのまま引用してしまうのもなんだかすごいものが
ありそうですし、「バカと天才は紙一重」を見事に示唆する話でもあったように感じられます。

のだめのストラヴィンスキーの「ペトルーシュカからの3章」を弾いていると、
「きょうの料理」のテーマが混ざってしまい、まさに演奏は収拾不能のごちゃ混ぜ状態になってしまいます!
原作的には、ペトルーシュカときょうの料理がごちゃまぜになって、
ピアノを弾いているというよりは、テキトーに即興で作曲してしまっているのがオチみたいな感じになっていましたけど、
アニメ版的にはきょうの料理のテーマをそのままペトルーシュカ風のタッチで演奏していたという感じになっていたのが
なんともポンコツ野生児ののだめらしいエピソードでもありました。

ちなみに「きょうの料理」の乱入シーンは原作漫画・アニメ版・ドラマ版ではそれぞれ微妙にニュアンスが違っていたりも
しますので、興味がある方はDVD等で比較してみるのも楽しいものがありそうです。


縺ョ縺溘y繧\convert_20161001173012


アルヴェーンの「夏の徹夜祭」という原曲に似た感じの「きょうの料理」のテーマを
のだめがストラヴィンスキーの「ペトルーシュカからの三章」とごちゃ混ぜしてしまった!とも言えるのかもしれないです。

ストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」自体、ロシアの民謡を結構無許可状態で(?)
自作のバレエに強引に引用した曲でもありますので、のだめが即興で少しパクってもバチは当たらないかもしれないです・・

最後に話を「夏の徹夜祭」に戻しますと、
のだめのエピソードに象徴されるように、なんか「くすっ・・」みたいな雰囲気もあったりしますし、
「北欧の短い夏を精一杯楽しもう!!」という雰囲気はよく伝わってきますし、
ほのぼのした曲だと改めて感じてしまいそうです。



一つ後の記事がのだめカンタービレとアルヴェーンの「夏の徹夜祭」とNHKの「きょうの料理」のテーマ曲に関するもの
でしたので、本記事は統一する意味で「のだめカンタービレ」に実名で登場していた2005~08年のシーズンに
都響の常任指揮者を務められていたJ.デプリーストについて簡単に取り上げさせて頂きたいと思います。

惜しまれる事にJ.デプリーストは2013年に76歳でご逝去されています。

J.デブリーストは1960年代より既にアメリカ楽壇で頭角を表し、当時は黒人差別が平然と行われていた状況下でも
当時としては大変珍しかった一流のアメリカ楽壇の指揮者として認識と高い評価を受けていたという事は
称賛に値するものと思いますし、
なによりもデプリースト本人は26歳の時に急性灰白髄炎(ポリオ)に倒れたものの、その病を乗り越え、
病床からの復帰以降はバーンスタインに見出されてニューヨーク・フィルハーモニックの 1965-1966 シーズンの准指揮者に
就任しましたし、1969年、ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団を指揮しヨーロッパ・デビューを果たしてもいます。
1971年には、アンタル・ドラティによりワシントン・ナショナル交響楽団の准指揮者に任命されています。
そうした多大な功績もあり、2005年にはアメリカ国民芸術勲章を時の米国大統領、ジョージ・ブッシュより授与される栄典も
受けています。
ポリオの後遺症が生涯残った事もあり、指揮スタイルは座りながらの指揮または電動車椅子で舞台に登場し、
車椅子から指揮をされています。

私自身は都響を指揮するデブリーストは多分7~8回ほど東京文化会館・東京芸術劇場・サントリーホールで
聴く事が出来たのは大変幸せな事だったと思います。
最初にデプリーストを見たのは、1997年の都響の定期演奏会で、この時は小山実稚恵さん独奏のモーツアルトの
ピアノ協奏曲第24番とベートーヴェンの交響曲第7番のプログラムでしたけど、正直この時のお目当ては小山さんのピアノ
でしたので、「デプリースト・・誰それ・・??」という感じでしたが、特にベートーヴェンの交響曲第7番の生命力溢れる
生き生きとした自然な音楽の流れに一気に引き込まれ、一瞬でデプリーストのファンになってしまったほどでした!
1997年時点では、杖をついて舞台に登場し座って指揮をされるスタイルでしたけど、都響の常任指揮者に就任以降は
電動車椅子での舞台移動と車椅子からの指揮をされていました。
デプリーストの指揮自体は特に派手さとか全身を駆使しての動きというものはほぼ皆無でしたけど、大振りはしない
代りに奏者の自発性を大切にしつつ細部と全体のバランスを大切にしながらも、全体としての音楽の流れが実に自然であり、
自然体で音楽自身と対話をしているという印象もありました。
聴いていて妙に説得力があるというのか自然とデプリーストの考える音楽に引き寄せられてしまうという印象も
ありました。
都響とデプリーストの組合せで今でも鮮烈な印象があるのは、上記でも触れましたけどベートーヴェンの交響曲第7番と
ベルクのヴァイオリン協奏曲とマーラーの交響曲第1番「巨人」とショスタコーヴィッチの交響曲第12番「1917年」でした!
デプリーストの残したCDの録音としては、ヘルシンキ響とのショスタコーヴィッチシリーズとオレゴン交響楽団との膨大な
録音が大変印象的ですし、我が家にも実はデプリーストのオレゴン交響楽団のCDは結構たくさんあったりもします。

知名度的には確かに弱い指揮者なのかもしれないですけど、とにかくあの生き生きとした演奏のライブ演奏を何度か
聴く機会に恵まれたことは私にとっても大変な幸運でした!
無名指揮者でもそのライブ演奏が生き生きとした名演であるのならば、よっぽとメジャー指揮者の手抜きの凡演を
高いチケット払って聴かされるよりは数百倍も尊いものがあるのだと思います!

さてさて、そうしたジェイムズ・デプリーストですけど、なんと・・! 「のだめカンタービレ」の原作漫画・アニメ版、そしてドラマ版
においてそれぞれ実名で登場し、しかもドラマ版に至ってはデプリーストご本人様がご出演をされています!
のだめカンタービレの千秋が常任指揮者を勤めるルーマルレ・オーケストラ(架空)の音楽監督という役での登場という
事なのですけど、日本のアニメ・オーケストラに対してここまで多大な貢献をされた指揮者もいないのかな・・??とすら
感じさせてくれます!

2006年のテレビドラマ化の際にはオリジナル・サウンドトラック制作にも参加され、
ベートーヴェンの交響曲第7番第4楽章やブラームスの交響曲第1番などを、東京都交響楽団の演奏で自ら指揮を
されていました。
その楽曲を収録したCD「のだめオーケストラ」LIVE!はクラシックとしては異例の35万枚を超えるヒットを記録して大きな話題
を集めてもいました。
楽曲に携わるだけではなく原作には実名で登場しドラマでは本人役で出演するなど、
指揮者という立場を越えてのだめの世界に関わられ。
クラシック音楽を身近なものにしてくれたデプリーストの日本での多大な功績に改めて心から敬意を表したいと思います!


_convert_20200517194004.jpg


2008年を最後にデプリーストは都響の常任指揮者を退任され、あの時は結構残念でした・・

デプリーストの前任指揮者が超大物指揮者のベルティーニ、そして後任指揮者がまたまた超大物のインパルでしたけど、
私個人としては名高い超大物指揮者よりもデプリーストの心温まるものがありながらもライブ感覚重視のあの
生き生きとした躍動感に勝るものは無い・・と感じています。
モラヴィアというかチェコの作曲家ヤナーチェクは、日本での知名度は今一つなのかもしれないですけど、
管弦楽曲においては狂詩曲「タラス・ブーリバ」・「シンフォニエッタ」等でお馴染みだと思いますし、歌曲では
「消えた男の日記」という作品も極めて面白いと思います。
ヤナーチェクはかなり膨大な作品を残されていて、合唱曲・歌曲・教会音楽・ピアノ曲・室内管弦楽といった分野が
活動のメインでもありましたし、最近では歌劇の分野の作品の再評価が進み
例えば「イェヌーファ」とか「利口な女狐の物語」などはかなり高い評価を受けるようになり、日本でも東京交響楽団が
「利口な女狐の物語」を演奏会形式として定期演奏会で演奏をしています。

吹奏楽経験者ならば、ヤナーチェクというと「シンフォニエッタ」というイメージが強いのかもしれないです。
(吹奏楽コンクールでの「シンフォニエッタ」の名演と言うと駒澤大学・関西学院大学・富山商業などいろいろあると思いますが、
私的には1991年の高岡商業を超越する名演はいまだに出てきていないようにも感じられます。
だけどあの演奏が銀賞という評価なのはいまだに納得いかないですね・・)


タラス・ブーリバ


子供の頃、実家の本棚に「ジュニア名作集」とかいって、小学生高学年から中学生を対象年齢にした
世界名作作品集みたいなシリーズ本が100冊近く置いていました。
原作を概ねそのまま紹介しているのですが、長編は適度にカットしながらダィジェスト版として
色々な世界各国の古今東西の名作を取り上げていました。

どのような話が収録されていたのかと言うと一例を挙げると・・

〇アラビアンナイト

〇デカメロン

〇三国志

〇水滸伝

〇シャーロックホームズシリーズ

〇罪と罰

〇復活

〇ジェイン・エア

〇ベニスの商人・ハムレット・ロミオとジュリエット

などなど色々と収録されていました。私の場合、こうしたダィジェスト版からまずは門戸を叩き
「カットされていない原作はどんな感じなのだろう・・」
「他の作品にどんなものがあるのか・・」
「同時代に他にどんな作品があったのかな」などと
色々興味を持ち、そこからある程度本を読むという習慣が中学の頃に出来ていたのかな・・とも思ったりもします。
その辺りは、吹奏楽コンクール耳にし「それではこの原曲はどんな感じなのだろう・・」とクラシック音楽に
興味を持つようになったのと理屈は同じなのかな・・とも思います。

1984年頃、東京文化会館で開催されたハインツ・レークナー指揮/読売日本交響楽団の
定期演奏会で演奏された曲目の中に、スラヴ狂詩曲「タラス・ブーリバ」という曲があり、
当日のコンサートパンフレットを読んでみて、「このタラス・ブーリバって、昔読んだジュニア名作集の中の
隊長ブーリバのことじゃん・・・」と気が付いたものでした。
あんな殺伐とした物語がジュニア向け名作集に収録されている事自体、すごい話なのかもしれないですね。
ちなみに「隊長ブーリバ」はアメリカで映画化もされています。

「隊長ブーリバ」の原作は、ロシアの文豪、ゴーゴリが執筆した小説「タラス・ブーリバ」なのですけど、
それに霊感を得てヤナーチェクが作曲したのが、このスラヴ狂詩曲「タラス・ブーリバ」なのです!

この管弦楽曲は、ゴーゴリ原作の小説を忠実に再現しているというか、
三つの印象的な部分をそれぞれ楽章として音楽の形に残しています。

この曲は下記の三つの楽章より構成をされています。

Ⅰ.アンドレイの死

Ⅱ.オスタップの死

Ⅲ.予言、そしてタラス・ブーリバの死

タイトル通り、主要登場人物は全員死んでしまう壮絶な話でもありまして、アンドレイ・オスタップ共にブーリバの息子です。
ちなみにタラス・ブーリバとは、ロシアのコサックで
当時対立していた隣国ポーランドと連日戦争と略奪に明け暮れているという背景があります。
もう少し細かく書くと、元々の経緯として、ポーランドのグリゴリー王子より
「自分たちに協力してトルコ軍を撃退すれば、ウクライナのステップを与える」という誓約があったにも関わらず
ブーリバたちのトルコ軍撃退をしたというのに、その約束は反故にされ、
ブーリバたちは土地を追われる事になってしまい、怒ったブーリバたちは、
グリゴリー王子の片腕を切り落として逃亡し、そのまま山岳地帯に拠点を構える事になります。

アンドレイは、敵国ポーランドの領主の娘と恋に落ち味方を裏切ってしまいます。アンドレイは後にブーリバ軍に捕えられ、
タラス・ブーリバは悩んだ末、「息子を許すことは出来ない」との結論に達し自らの手で息子を銃殺します・・・
この陰惨な話を音楽も忠実に再現し、
出だしのコールアングレのひそやかで悩み多いような雰囲気が、全てを象徴しています。
最後のチャイムの響きは、弔いの鐘を意味しているのかもしれません・・

オスタップはアンドレイと異なり終始父親に忠実なのですが、戦いの最中にポーランド軍に捕まり、公開処刑されてしまいます。
その処刑の最中、苦しさのあまり「おとうさん、どこにいるのですか!!」と絶叫し絶命するのですが、
群衆の中に「ここにいるぞ」というブーリバの声がこだまします。
曲の中で「マズルカ」らしき部分が聴こえますが、これはポーランドを象徴しているのでしょう。
ラストは、クラリネットの悲鳴のような高音の響きが耳をつんざきます。
これはオスタップの絶命を意味しているのでしょう・・・

第三曲は「予言、そしてタラス=ブーリバの死」ですが、
最終的にブーリバ自身もポーランドによって捕まり公開処刑されてしまいます。
その処刑方法は火あぶりなのですが、その炎の中でも
「炎も拷問もロシア人民を負かすことは出来ない」という言葉を最期に残して絶命します。
この第三曲は、全体の中でも中心的な部分なのですが、
全体的に「荒ぶる魂」とか「男泣き」という表現がぴったりの音楽です。
音楽としては、かなり武骨に荒っぽいタッチなのですけど、それが実にこの物語に合っていると思います。
第三曲は、前半の戦いの場面のアレグロの爽快さ、戦場にこだまする馬のわななきも
印象的なのですけど、後半は、チャイムに導かれたコラール的な部分が実に素晴らしいし胸にジーンときます。
男泣きという感じもするし、「今は負けたけど、お前たちに未来はない」みたいな宣言・誓いみたいなコラール的な部分も
訴えかけるものがあります。

この曲は、ゴーゴリの作品を音楽として再現し、魂の叫びみたいなものを音楽を通して訴えかける素晴らしい作品だと思います。
ただ音楽自体は極めて武骨で荒っぽいので、初めて聴く人は
「何て洗練も品もないガサツな曲・・」という印象をもたれがたなのかな・・とも思ったりもします。

CDで聴く場合、

〇ノイマン/チェコフィル

〇マッケラス/ウィーンフィルが素晴らしいと思うのですが、

荒っぽさ・武骨さだけではないガーディナー指揮の演奏も私は大好きです!
そしてこの演奏は高揚感が素晴らしく、確かにやや迫力に欠ける部分もあるのですが、
特に第三曲の何か爽やかな感じ、明るく澄み通ったような感覚や洗練さ、
青空の下で戦っているかのような雰囲気は、他の演奏では感じなかった点です。
タラス・ブーリバ以外の収録曲のラフマニノフの交響的舞曲も実にメランコリーで申し分のない名演だと思います。

狂詩曲「タラス・ブーリバ」はオルガンがいい働きをしています。
重厚感というか、地の底から響いてくる感じが実に曲にマッチしていると思います。

吹奏楽コンクールの全国大会においては、2019年時点で計5チームが、第三曲の予言、そしてタラス・ブーリバの死を
吹奏楽アレンジ版として自由曲として演奏しています。
その中では1983年の兵庫高校と1979年の福岡工大付属高校の演奏が双璧だと思います。

1983年の兵庫高校はコンクールの評価としては銀賞という結果なのですけど、
いやいや! この演奏を単に普通の銀賞として片づけるのは実にもったいない演奏だと思いますよ!
東海大一・兵庫・秋田南・茨城の銀賞は、私個人としては「限りなく金賞に近い価値のある銀賞」だと思いますし、
これらの銀賞チームの演奏は、間違いなく普門館の聴衆に「何か」を伝えていたと思います!!
以前この「タラス・ブーリバ」を全国大会で演奏した福岡工大付属と長岡吹奏楽団は、重量級・金管楽器の咆哮という
印象が強かったのですが、兵庫高校の演奏は、それらの方向性とは全く異なり
カラッと澄み渡るような明るさ、開放感、どこまでいっても明るい響きで演奏していたのが 非常に印象に残っています。
79年の福岡工大付属は、「男泣き」とか「魂の孤独」とか「悲愴感」みたいな「叫び!!」みたいな印象が大変強いのですが、
83年の兵庫高校は、どこまでいっても「晴天が続いている・・」みたいな「明るさ・爽やかさ」が
私個人としては大変強く印象に残っています。
原曲の管弦楽版の演奏は、例えばノイマン指揮などのようにどちらかというと福岡工大付属みたいな
粗削り・骨太みたいな傾向の演奏が多いようにも思えるのですが、
前述のガーディナー指揮の演奏のように、天空を舞うとか、カラッと日本晴れみたいな爽やかな
演奏もあったりするものですが、兵庫高校の演奏は、このガーディナー指揮に近いような印象が私の中にはあったりもします。
原曲の打楽器は、ティンパニ・チャイム・シンバル・小太鼓・トライアングル程度なのですが、
兵庫高校の演奏は、長岡吹奏楽団の浅井先生アレンジの楽譜を使用しながらも、浅井先生の解釈とは全く異なり、
曲の中に「シロフォーン」をかなり効果的に使用し、めまぐるしい感じもうまく出せていたようにも感じられます。

とにかくこの年の兵庫高校の「高揚感」は特筆に値すると思います!

兵庫高校の演奏は、「死」という陰鬱・厳粛・重たさという負のイメージではなくて
タイトルでもある「予言」、すなわち、この世にロシア民族がいる限り、自分たちは絶対に誰にも屈しない!という末代までの誓いを
高らかにのびのびと気持ちよく吹き上げているのが大変素晴らしいと思いますし、
ラスト近くの「弔いの鐘の音」すらも打ち消しようなこの「魂の叫び」が高らかに響き渡っていて
とても気持ちのいいものがあったと思います。
「楽譜」に表記されているものを単に「音の羅列」としてではなくて、そこに「自分達の気持ち」を高らかにナチュラルに
響かせたまさに素晴らしい名演だと私は思いますし、私はこの演奏は大好きですね!!

吉永陽一先生が兵庫高校を率いて普門館の全国大会に出場されたのは1983年が最後という事になってしまいます。
翌年の1984年の「フェスティヴァル・ヴァリエーション」も本当に素晴らしい演奏を聴かせてくれましたが、
84年はあの天理高校も同じ自由曲を演奏していたという不運(?)も重なり、結果的に84年の全国大会には
進めなかったのですけど、全国でも十分に通用する素晴らしい演奏を聴かせてくれていたと思います。
私はあの演奏は、日本ワールドレコード社によるカスタムテープでしか聴いていないのですけど、あの演奏は
生で聴いてみたかったですね!
だけど1984年の関西代表というと、淀工・天理も素晴らしい演奏でしたけど、同じくらい神戸高校の楽劇「サロメ」も
大変見事で艶っぽい演奏を聴かせてくれていたと思います。
吉永先生と言うと「下品でどこが悪いねん!」みたいにとにかく凄まじい個性の強さとアクの強さが漲っている
全国的にも大変有名な先生で、私・・育ちは東北と関東ですけど、
東北のスクールバンドに在籍中も、兵庫県の今津中学校の得津先生と、同じく兵庫県の兵庫高校の吉永先生の
名前は既に轟いていたような記憶がありますね!
そのくらいインパクトは強い先生だったと思います。
吉永先生は1986年以降は西宮高校に異動をされてしまうのですけど、西宮での全国大会出場がわずか2回に留まっている
という事実は大変勿体ないと思います。
それだけ「関西大会」が激戦である事の表れでもあるのですが、90年代の東京都大会・四国大会・中国大会・東北大会ならば、
吉永先生=西宮高校ぐらいの技術と表現力を有していたらなんなく支部大会を突破し
全国大会でも「俺が吉永だ!」みたいな個性的な演奏を聴かせてくれていたと思いますので、もったいないなと感じてしまいます。

1979年の福岡工大付属高校の演奏はとにかく熱い演奏です!

感情が、叫びが、気持ちの高ぶりがストレートに伝わってきます。
後年の洗練された福岡工大付属の演奏と同じ学校と思えないほど、音もサウンドも荒っぽいのですけど
「何かを伝えたい」という気持ちはストレートにガンガン伝わってきます。
課題曲はこの大会唯一の課題曲Dの「青春は限りなく」ですけど、木管セクションのひ弱さがかなり欠点として感じられます。
自由曲のタラス。ブーリバ~予言とタラス=ブーリバの死は、金管、特にトロンボーンの武骨な響きが半端なくすさまじいです!
金管セクションは音が割れる寸前までバリバリに鳴らしていますが、
その悲壮感が実にこの自由曲の叫びとマッチしていて、非常にたたみかれるような演奏を展開しています。
拙い部分は多々ある演奏なのですけど、聴いている者に何か」確実に伝えている演奏だと思います。
限りなく銅賞に近い演奏なのですけど、ギリギリのところで銀賞をキープ出来て良かったと思います。
音楽的充実感・感銘度はこの年の出場校の中ではトップクラスの素晴らしい表現力だと思います。


ce261f9e-s_convert_20180724125459.jpg


最後に・・この曲は原曲も吹奏楽アレンジ版もとにかくティンパニがかっこいいです!

うまい奏者が担当するとティンパニの打点が見事にビシッ!と決まる感じがしていて、大変心地いいです!
シェークスピアの戯曲を音楽作品のモチーフにした楽曲は結構あるかとは思います。

その中で特に名高い作品はヴェルディの歌劇「オテロ」やプロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」であり、
R.シュトラウスの交響詩「マクベス」やチャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」や
メンデルスゾーンの劇付随音楽「真夏の夜の夢」も名作の誉れ高い傑作だと思います。
(吹奏楽オリジナル作品としてはA.リードの「オセロ」と「ハムレットへの音楽」が不滅の名曲だといえます)

上記の作品はどちらかというと悲劇的作品という雰囲気ですけど、そうした中、シェークスピアの喜劇とコメディとウィットに
溢れた作品を歌劇化した作品というとオットー・ニコライの歌劇「ウインザーの陽気な女房たち」が挙げられると思います。
ニコライ自身は39歳の若さで世を去り、その早すぎる死を惜しまれた御方なのですけど、実はウィーンフィルの創設指揮者
という経歴もあります。
歌劇「ウインザーの陽気な女房たち」はニコライ最後の歌劇作品であったりもします。
この歌劇自体もさすがにワーグナークラスの演奏頻度という訳ではありませんけど、世界各地で今現在も上演され続けていて、
その序曲は演奏時間が8分程度とコンパクトであるため、管弦楽団の演奏会における一曲目として演奏されることも
よくあります。
私自身、この序曲を生で聴いて印象的だったのは、レナルト指揮の新星日響とホルストシュタイン指揮のN響でした。
この歌劇の序曲は冒頭が大変ゆったりとしたテンポで開始されおおらかに情感たっぷりに歌い上げられ、中盤以降のアレグロは底抜けに楽しくて明るくて軽くてノリがよくて、それでいて品が良い素晴らしい名曲だと思います。
後述しますけどこの序曲はゴドフリーによる吹奏楽アレンジ版としても親しまれていて、過去の吹奏楽コンクールにおいても
ブリヂストン久留米・柳町中学校・東京ガス・嘉穂高校などの素晴らしい名演が残されていたりもします。
ただこの序曲の吹奏楽アレンジ版は、クラリネットパートは曲の開始から最後まで全く休みなく吹き続けなくてはいけないですし、
特にアレグロ以降は16分音符の早い運指を絶え間なく続けないといけないので、雰囲気としては大変マイルドでやさしい
感じなのに、クラリネットパートにとっては自修羅場と化している曲といえるのかもしれないです。

シェークスピアの戯曲は、私も一度読んでみたことはあるのですが、 一言で言うと、浮気者のバカ男と焼きもち妬きの亭主を
策略と機智で懲らしめる奥様方のユーモアを描いた作品なのですけど、 そうしたウイットが実に8分足らずの序曲に
集約されていると思います。

歌劇「ウインザーの陽気な女房たち」のざっくりとしたあらすじは下記のとおりです。

第一幕

フルート夫人とライヒ夫人は、スケベオヤジのオヤジ色男のファルスタッフ卿から、名前以外は一文字も変化がない
全くの同一のラブレターを貰った事に気が付くことからこの物語は開始されます。
今風に言うと、ブログコメントで複数の人たちに「どうせばれないだろう・・」と全く同じ文面のメッセージを送る事に
近いものがあるのかもしれないですね・・

二人の奥様達は、浮気者のファルスタッフを懲らしめる事とフルート夫人の旦那の過度な焼きもち妬きにお灸をすえる
という二つの目的を同時に達成する策略を目論むことになります。

そしてこの歌劇は二人の奥様たちによる浮気男への懲罰話と同時並行的にとある若き男女の恋話も進行していきます。

シュペアリッヒとカイアスは、ライヒの娘アンナに求婚しています。
アンナの父はシュペアリッヒを、アンナの母はカイアスをそれぞれ気に入っています。
しかしアンナ本人はフェントンに恋をしています。
フェントンという貧乏青年はライヒにアンナと結婚の許しを求めますけど、「貧乏人にうちの大事な娘はやれない!」と拒絶します。

そして歌劇では、フルート夫人とライヒ夫人の二人はファルスタッフの誘いに乗るふりをしてファルスタッフを罠にかけ
浮気者を懲らしめる事を画策し、計画を立案していきます。
まずはフルート夫人の焼きもち妬きのフルートに妻の逢い引きを匂わす手紙が送り付け、同時にファルスタッフに対して
「あなたの気持ちはたいへんありがたいです。今度一緒にお会いしませんか?」と誘惑の手紙も送り、ここに罠が成立します。
そして、のこのことファルスタッフが現れ、ファルスタッフは早速フルート夫人を口説き始めます。
ライヒ夫人は当初の打ち合わせ通り、「フルートが怒り狂ってこっちに向かっている。あたなはすぐに逃げて」と告げ、
フルート夫人はファルスタッフを用意していた洗濯籠の中に閉じ込めて隠します。
そして使用人たちに「その籠をテムズ川に投げ捨てる」ように依頼します。

そしてほぼ同時に激怒し嫉妬に狂ったフルートが現れ浮気相手の捜索を開始します。
しかしいくら探しても証拠は見つかりませんし、ファルスタッフは既に川に投げ捨てられているので証拠は何一つ出てきません。
疑いをかけられたことにフルート夫人は嘆き悲しみ、周りの者たちはフルートを責めます。
フルートは妻を疑ったことを後悔し「許してください」と謝罪しますけど、フルート夫人は「今日にも離婚よ!」と和解を拒絶します。

第二幕

テムズ川に放り込まれ風邪をひいたファルスタッフのもとに再びフルート夫人からお誘いの手紙が届けられます。
嬉しさのあまり酒場で一杯ひっかけご機嫌で歌を歌っていると、昨日の一件がありながらも実はまだ妻の浮気を疑っている
フルートが偽名を使ってファルスタッフに近づき、「謝礼金を出すのでフルート夫人を口説いてほしい」と依頼をします。

ある日のフルート家の部屋にて、またまたファルスタッフが再びフルート夫人を口説き始めます。
そこにまたもやライヒ夫人が入って来て、フルート夫人に「洗濯籠の件を知ったあなたの主人が鷹狩から戻ってくる」と伝えます。
そしてこの時のファルスタッフは太った叔母さんに女装をさせられ別室に隠されます。

そこにまたまた嫉妬にかられたフルートが登場し、妻の浮気相手の捜索を開始し、別室にて叔母さん(女装したファルセット)を
発見し「お前は誰だ~」とばかりにこん棒でぶん殴りボコボコにしてしまい、家から叩き出します。

第三幕

ライヒ夫妻、フルート夫妻、アンナは一緒に昼食を食べています。そしてこの時にようやくすべての種明かしがされ、
真相が明らかにされます。
フルートは妻に「浮気をしたのではないか?」と疑ったことを恥ずかしく思い、これまでの自らの疑り深い言動を大いに恥じ、
妻に心から謝罪し許しを乞います。
フルート夫人はすべてを受け入れ水に流し、そして皆で、「真夜中の公園にファルスタッフを呼び出して懲らしめる」ことを
提案します。
ライヒ夫人は、ウィンザーの森の狩人ハーンの伝説を語ります。そしてこの妖精伝説と仮装コスプレ大会を結び付け、
その場を借りてファルスタッフにお仕置きをし、同時についでに娘のアンナの結婚問題についてもケリを付けようと
画策します。そして一同は妖精に変装し、ファルスタッフは狩人ハーンに変装させて招待することにします。
この騒動に乗じて、ライヒ夫妻は娘のアンナを「それぞれのお気に入りと結婚させよう」と計画します。
ウインザーの森の妖精伝説として、同じ色の妖精同士が結ばれるというものもあり、
母(ライヒ夫人)は「赤い妖精に変装しなさい」、父は「緑の妖精に変装しなさい」とアンナに厳命します。
アンナは親に従うふりをして、事前にフェントンに白い妖精のコスプレをしてきて・・とお願いしてあり、アンナ自身は言うまでもなく
白い妖精のコスプレをしてフェントンと結婚することを決意します。

ここから先はお約束通りに展開され、妖精にコスプレした者たちは、「どうしてここに妖精がいるんだ・・」と実は臆病で迷信深い
ファルスタッフをポコポコにしてやつつけ痛めつけます。
ファルスタッフは逃げようとするところでフルート夫妻に種を明かされ、やっと騙されたことに気づきます。
皆は最後はファルスタッフを許し、アンナとフェントンも無事に結ばれ、全てがハッピーエンドで物語が閉じられます。

古今東西、どんな時代においても西洋でも東洋でも男ども、特にバカ旦那たちの浮気の虫と嫉妬深さは
似たようなものがありそうですね~♪
浮気がバレバレになっても、シラを切り通し、最後は「ごめんなさーーーい、二度と浮気はしませんから、お許しを! 御慈悲を!」と
なってしまうのは世の常なのかもしれないですし、男どものアホな浮気や嫉妬深さに困り果てながらも、さまざまな機知とウイットで
切り抜けていくのも女性たちの常なのかもしれないです。

前述のとおり、ニコライの歌劇「ウインザーの陽気な女房たち」序曲は吹奏楽コンクール全国大会でも何度も自由曲として
選ばれていて、特に1979年のブリヂストンタイヤ久留米と1983年の嘉穂高校はとても爽やかな演奏ですてきな
演奏でした。
1980年の中村学園もこの曲を自由曲にしていますけど、翌年のスペイン奇想曲以上にダーダー吹きで、リズムがかなり
甘くてスイートすぎる演奏になっていた事は大変惜しまれます。

この序曲の全国大会での最高の名演は1982年の長野県の柳町中学校なのかもしれないです。
(支部大会の小編成を含めると1993年の関東大会B部門の銚子商業の30人程度の少ない編成での名演は素晴らしかったです!)

課題曲Bの「序奏とアレグロ」はトランペットソロを含めて少し固さが感じられ、特段強い印象は無いのですけど、
アレグロに入ってからの安定度は半端無いものがあり、淡々と進展しているのですけど、淡泊という印象は無く、
スピード感と音の切れを終始保ったまま、最後までこの無機質な曲想を保ち続けているのは凄いと思いますし、
こんな難しい課題曲もほぼノーミスミスで集中度を保っていたのは賞賛に値すると思います。
最後のトロンボーン等による最後の三つの音が少しだけせせこましい印象はありましたけど、
指揮者の解釈としては「一気呵成にたたみかけるように終わらせたかった・・」という意図だったのかもしれないです。

一方、自由曲ですけど、課題曲との極端な対比が実に面白いし、指揮者もそれを狙っていたと思いますけど
課題曲の無機質なスピード感と自由曲の歌劇「ウインザーの陽気な女房たち」序曲というのんびり・おっとりとした感じの
極端な落差が実に素晴らしかったです。
歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲は、原曲のヴァイオリン部分を担当するクラリネットセクションは
ずっと吹きっぱなしという印象が強く、奏者は大変だっただろうなと思うのですけどと、
クラリネットセクションは、そうした大変さを全く感じさせず、むしろのびのびおおらかに吹いていたのがとても印象的でしたし、
曲全体としても流れが実に自然で申し分なかったと思います。
ラスト近くのピッコロの高音が、いかにも曲が終わるといった雰囲気を醸し出してくれていて
この序曲の素朴さ・楽しさを改めて私達に伝えてくれていたと思います。


20190611-suta-sahulaia-02_convert_20190611225229_convert_20190612001217.png


ここから下記はdream fantasy2
アミグリさんが過去に描かれた絵の転載&ご紹介コーナーです。

本日ご紹介させて頂くキャラは、上記の歌劇「ウインザーの陽気な女房たち」の第3幕において、ファルスタッフ以外の
ほぼ全員の登場人物が妖精姿にコスプレしていたという関連性もあるという事で、
アミグリさんが2019年6月に描かれたスターサファイアを皆様にお披露目させて頂きたいと思います。

スターサファイアの活躍舞台となっている東方三月精においては、スターやサニーたち光の三妖精が
お化け大会で妖怪姿にコスプレしていたり、はたまた霊夢を驚かせるために妖怪姿にコスプレしていたシーンも何度か
ありましたし、スターたち妖精にとっては「ウインザーの陽気な女房たち」で出てきたようなイタズラとかコスプレとか
誰かをびっくりさせるということはむしろ得意中の得意な事でもありますので、もしもあの歌劇の妖精役として
スターたち光の三妖精が登場していたら、すてきなイタズラをしまくってファルスタッフをびっくり仰天させていたのは
言うまでもないことなのかもしれないですね~♪
ちなみに「東方花映塚」においては、リリーホワイトたち妖精が四季映姫様のコスプレで登場していたシーンもありました!

アミグリさんの描かれたスターサファイアはとてつもなくかわいいですね~♪

スターのこの流れるように美しい黒髪ロングも前髪ぱっつんも、背景のお星さまのキラキラ仕様も圧巻の仕上がりだと
思います。
霊夢の髪のリボンを彷彿とさせる髪のリボンの大きさの強調や衣裳の青と白の色彩的対比もそうですし、
まるで妖精メイドさんみたいな白エプロンのチャーミングさとかスカートや袖のフリルのきめ細かさとか
スターの生足のかわいらしさや背中の羽根のバランス感覚などなど、とても初描きキャラとは思えないですし、
改めて「スターサファイアは幻想郷内のすてきな妖精ちゃんなんだ!」と改めて強く認識させられたものです。
ちょっとふっくらとしたお顔の輪郭は健康的で生命感溢れる妖精の力強さを
感じさせていると思いますし、背中の羽根がチルノの氷の羽根とはひと味違うようにも感じられたりもします。

このスターは見るからに愉快なイタズラしまくりしそうなお茶目さとかわいらしさに溢れていると思いますし、こんなスターが
コスプレしたとしたらどんぴしゃのはまり役ともいえそうです~♪

上記のアミグリさんが描かれたスターサファイアは、スターの絵師様であるアミグリさんに帰するものであり、
当ブログにおける転載とご紹介は事前に全てアミグリさんからご了解を頂いたものであり、
アミグリさんからのご厚意で転載をさせて頂いておりますので、
無断お持ち帰りや無断コピーは絶対NGですので くれぐれも宜しくお願い申し上げます。

アミグリさん、本当にいつもすてきなイラストの転載を快諾して頂きありがとうございます!!

皆様の中で「こんなにかわいいスターサファイアを描かれる方のブログってどんなもんなのだろう? 」などと
興味がある方は、 是非是非アミグリさんのブログdream fantasy2 を ご覧になって頂きたいと思いますし、 宜しければ、当ブログだけではなくて、
是非アミグリさんの本家本元のブログdream fantasy2 に一度お越しして頂けると アミグリさんのブログをご紹介させて頂いている私もとってもとっても嬉しいです!

アミグリさんが定期的に作品を投稿され続けている →アミグリさんのpixiv にも是非一度足を運んで頂ければ幸いです!

アミグリさんのpixiv

イタズラ妖精のことに思いをはせながら、シェークスピアの古典戯曲を楽しみ、ニコライのこの歌劇の序曲をおおらかに
聴くことができるというのは至福のひと時といえそうですね~♪
クロード・ドビュッシーの 管弦楽のための三つの交響的素描「海」は名曲の名に恥じない素晴らしい楽曲であり、
私的にはグリーグの劇付随音楽「ペール・ギュント」と共に全人類の文化遺産として登録しても全然違和感が無い曲にすら
感じたりもします。
海は「花鳥風月」を表す中では「風」に該当する一種の描写音楽といえるのかもしれないですけど、
例えばベートーヴェンの交響曲第6番「田園」やR.シュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」などのように直接的な風・嵐の
イメージを効果音の一つとして表現しているのに対して、ドビューシーの「海」が表現しているモノは、
表面的には風や波や太陽なのかもしれないですけど、どちらかというと「私がこのように感じたからこのように表現する」という
より主体性が強くなった一種の心象表現音楽と言えるのかもしれないです。
R.シュトラウスのアルプス交響曲はある意味描写音楽を究極化した作品ともいえそうなのですけど、あの曲は
グローフェの組曲「グランド・キャニオン」と異なり普通の描写音楽ではなくて、一見アルプスの一日を音楽として描きつつも
シュトラウスは「アルプスを見てこのように感じた」と言う事を鮮やかに心理描写しているようにも聴こえたりもします。
同じシュトラウスのシンフォニー作品でも「家庭交響曲」は家庭内の夫婦の性格の描写・子育て・夕食・夫婦喧嘩等なんだか
日常の生々しい光景のズバリ描写という感じもあり、音楽がどことなく生臭く聴こえたりもしますので、アルプス交響曲ほど
人気がないし演奏頻度がガクッ・・と下がるのはある意味当然なのかもしれないです。

C.ドビュッシーの管弦楽のための三つの交響的素描「海」は下記の三曲から構成されています。

Ⅰ.海上の夜明けから真昼まで

Ⅱ.波の戯れ

Ⅲ.風と海との対話

どの曲も大変緻密な構成と洗練されたデリカシー溢れる音楽で構成され、全てが名作に相応しい作品であり、
特にⅢ.風と海との対話は、吹奏楽コンクールにおいても1970年代後半から自由曲の定番として定着し、
2019年時点で既に全国大会で68チームが演奏をしています。
ただ海は大変な難曲である以上に原曲のあの繊細なデリカシーさを吹奏楽という管楽器の集合体で表現する事自体が
大変な制約がありますし、海を演奏する際には、繊細で洗練されたサウンドが何よりも求められますので、
私自身、吹奏楽コンクールでの海を聴いて完全に納得できて感動したという演奏は極めて少ないです。
今の所、吹奏楽コンクールの演奏で「なんと素晴らしい海!」と感動したのは1986年の習志野高校ぐらいに留まっています。

ドビュッシーの「海」について語り出すと止まりそうにもありませんし、Ⅲの「風と海との対話」における楽器間の繊細極まりない
対話や吹奏楽コンクールにおける過去の名演・珍演・迷演について書き出すと、とてもじゃないですけどこの記事は
終わりそうにもないものですので、本記事はⅠの「海上の夜明けから真昼まで」について三つほど簡単に記させて
頂きたいと思います。

それにしてもC.ドビュッシーの管弦楽のための三つの交響的素描「海」~Ⅰ.海上の夜明けから真昼まで の
描写力と繊細さは何度聴いても鳥肌が立つ想いです。
もちろん直接的な描写という訳ではなくて、ドビュッシー自身が想像した夜明け前の海や朝日が差し込む場面や
真昼のきらびやかなお日様の様子を各自の脳内妄想でさらにイメージしていく曲なのですけど、黙って目をつぶって
聴いているだけでも夜明け前から真昼のキラキラ輝く海面の様子が感じ取れますので、まるで絵画を見ているような
雰囲気でもありそうです。
私自身、海岸で夜明け~昇りゆく朝日は何度か見た事がありますが、船の上から見た海上から世が明けていく光景は
これまでの生涯で一度しか見た事がないです。
それが高校の時の北海道への修学旅行で、最終日の夕方に苫小牧を出発し、翌日の午後2時頃に仙台港に到着するまでの
フェリーの上から海上からのぼるご来光を拝めることができたのは大変貴重な経験だったと思いますし、
真っ暗な波の狭間から朝日がさーーっと差し込めていき、うっすらと徐々に明るくなっていく光景は
まさにドビュッシーが表現した「海上の夜明けから真昼まで 」の世界そのものだったと思います。
フェリーの船内は振動しくまくりで、大半の生徒たちは船酔いでゲロゲロ状態になっていて、多分ご来光とか海の夜明け
どころではなかったと思いますが、愚鈍な私は船酔いせずにあの素晴らしい夜明けと海からのぼる朝日を見ることが
出来たのは素晴らしかったですけど、翌日は耳の三半規管がおかしくなってしまい、なにもしていなくても自分の体が
常に揺れているような感覚になっていたものでした。
ちなみにフェリーでの朝食・昼食はなかったので、フェリー内の売店でカップヌードルを買って飢え?をしのいでいましたけど、
海の夜明けをながめながらすするカップラーメンの味は格別でした~♪
(「ラーメン大好き 小泉さん」にも一度くらいは味わってほしい感覚なのかもしれないです)
海上の夜明けから真昼まではCMのBGMとして使用されていた事もあり、その中では1987~89年頃に富士通のパソコンの
FMシリーズの映像とドビュッシーの音楽が大変印象的でしたし、そのCMのイメージキャラとして使用されていた女の子は
当時「スケバン刑事」等で人気絶頂だった南野陽子でもありました。

話がそれました・・ 音楽の上で、海上の夜明けから真昼までについて私自身がいいなぁ~と感じる点を三つほど
挙げてみたいと思います。

まず初めにこの楽章の冒頭なのですけど、
コントラバスとティンパニの弱奏でのトレモロを6拍の間響かせた後に、2台のハープのうち、まずはセカンドハープが
一拍目のFis(Ges)音をオクターブでピアニッシモで弾いた後に、それをなぞるかのようにファーストハープが
裏拍でひっそりと目立たぬように同じ音を弾くことから開始されます。
そしてセカンドハープが全音高いGis(AS)音をやはり弱音で弾くとファーストハーブも裏拍で同じ音をひっそりと目立たぬように
弾き、これが何度か繰り返されていきます。
こうした2台のハープが交互に音を刻みながら開始されるのですけど、
その繰り返しだけでほのかで深くて広い海の夜明けを表現してしまうドビュッシーのその感性の素晴らしさは
ただただ敬服するしかないです・・
(ハープ奏者の緊張感はすさまじいものがありそうです・・)

そして二つ目は、この楽章は全体で9分半ぐらいなのですけど、その7分目あたりで現れる16本のチェロによる
内省的で渋いメロディーラインにとてつもなくうっとりとさせられます。
通常、オーケストラの中ではチェロは8~10本程度使用され、ドビュッシーの時代~現代においては大体10本が標準です。
あのチェロのアンサンブルは分厚いチェロの響きが求められますので、本当は楽譜の指示通り
16台のチェロが欲しいのですが、プロの管弦楽団にも予算とか適正配置がありますので、その部分のためだけに
チェロ奏者を16人も配置する訳にはいかないのが実情でもあります。
それでは現場では一体そうした問題を処理するのかと言うと、二つほど対応方法があるようでして、
一つはドビュッシーの指定ではあの部分のチェロは16台となっていますが、本来の管弦楽の標準的配置のチェロ10人に対して
臨時のエキストラを2名ほど雇い、本来はチェロ4パート×4人で計16名のところを4パート×3人の計12名で対応するという
方法で、この方法が現在では標準になっているようです。
そしてもう一つは、これは日本でも都響や日本フィルでもお馴染みのフランス人指揮者のジャン・フルネが採用していた方法
なのですけど、その該当箇所になると、チェロに4パート×3人の計12名を配置する以外に、本来不足している4人分について
ヴィオラに応援要請をして、ヴィオラ奏者4人がチェロパートの該当箇所の譜面を奏でるというある意味荒業で対応
していたりもしています。
私自身、フルネ指揮での日本フィルや都響の「海」を聴いたことがありますけど、その時点ではそうした話は全く
知らなかったもので、自分の目と耳で確かめることはできなかったですけど、いかにもフルネらしい厳格な話と感じた
ものでした。
日本フィルのサンデーコンサートでフルネ指揮による海・寄港地・ダフニスとクロエ第二組曲等のオールフランスプログラムを
聴いたことがあるのですけど、そのデリカシー溢れる音楽は「さすが!」と感じたものですけど、フルネ本人はどこか
不満な様子で、通常、日本フィルのサンデーコンサートではアンコールも演奏されるのが普通なのですか、
あの時は打楽器奏者の足元にその日のプログラムでは使用しない筈のプロヴァンス太鼓が置かれていたので
「多分アンコール曲はビゼーのアルルの女のファランドーレの踊りなのかな・・?」と予想していたものですけど、
当日のフルネはカーテンコールも3回程度で切り上げ舞台裏に消えてしまいましたので、そのあたりも人柄は温厚だけど
演奏には厳しいフルネらしい話だと感じたものでした。
ちなみにフルネは90歳を過ぎた頃の2005年に現役引退をされていましたけど、あんなにも世界的な有名指揮者なのに
その引退公演は海外ではなくて、日本の東京都交響楽団というのも、むしろありがたい話だと当時は感じたものでした。
その時の引退公演の曲目は、ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番(ピアノは伊藤恵)、
ブラームスの交響曲第2番でした。

そして三つ目はラスト近くの真昼のきらびやかを示唆するサウンドの高揚感直前のコールアングレによる繊細なソロは
とてもじゃないけどこの世の響きとは思えない美しさを感じます。
(第三楽章の中間部のしっとりとしたソロはこの時はオーボエが奏でています)
そしてコールアングレのソロが終わったと同時に曲は徐々に高潮し盛り上がっていくのですけど、あの時のバックのリズムの
ティンパニの二本の撥による和音の叩きつけの切れ味の鋭さは感動ものだと思いますし、同時に響き渡るドラの高揚感も
圧巻だと思います。
それとこの「海」は一種の循環主題でもありますので、ⅠのテーマがⅢの最後でも再現されるのは曲の統一感というか
形式の美しさを感じさせられそうです。

とにかく「海」はドビュッシーが全人類に残した文化的遺産であるのは間違いないと思いますし、この曲を聴かないで
死んでいくのは大変勿体ないかも・・?といえるのかもしれないです。


_convert_20191112114146.jpg


上記で触れたとおり、海の「海上の夜明けから真昼まで 」の冒頭はハープで奏でられるのですけど、ハープ奏者にとっては
緊張の一瞬だと思います。

「ららマジ」のハープ奏者は3年生の南さくらです。

南さくらは器楽部を支える副部長で、振り回されることの多い苦労人でもあったりします。
器楽部創立メンバーの一人で、部長であり指揮者でもある草薙百花がメチャクチャな楽器編成を無理やりどうにかこうにか
まとめてしまう剛腕でもあったりしますので、そうした剛腕ぶりに不満がありそうな下級生たちを時に脅しつけ、
時に笑顔と愛嬌で押し通してしまうのがこの副部長兼ハープ奏者の南さくらといえそうです。
そしてららマジでは珍しい部類の眼鏡っ娘でもあったりします~♪

そうした南さくらを持ってしても海の出だしはプレッシャー掛かりまくりなのかもしれないです。


_convert_20191120164851.jpg


ドビュッシーの「海」は三つの楽章全てにコールアングレとオーボエに大変大事なソロがあります。

ららマジの器楽部においては、オーボエ奏者はいなくてコールアングレ奏者の白石陽菜のみです。

多分ですけど、オーボエの音色が必要な場合は白石陽菜が楽器を掛け持ちしているのかもしれないです。

白石陽菜は高校2年生のJKさんで血液型はO型で、気品と度胸あふれるおてんばなお嬢様という設定です。

海において時にオーボエ、時にコールアングレと掛け持ちしている白石陽菜も、本人自体がそうしたおいしいソロを
楽しみながら吹いているのかもしれないですね~♪
一般的にはリムスキー=コルサコフというと交響組曲「シェエラザート」やスペイン奇想曲やいかにもロシア国民楽派らしい
ロシアのおとぎ話・民話等に基づくロシアの歌劇の作曲者という印象が強いです。
リムスキー・コルサコフの管弦楽曲の作品は、シェエラザート・スペイン奇想曲・ロシアの復活祭などを別格にすると
多くの作品は歌劇からの組曲版としての抜粋という感じの作品が多いのが一つの特徴ともいえそうです。
そうしたロシアの民話をベースにした歌劇からの組曲版の中では、私的には雪娘・金鶏・ムラダなども印象的ですけど、
(吹奏楽コンクール的には歌劇「雪娘」~軽業師の踊り、歌劇「ムラダ」~ロシア貴族たちの入場などもたまに演奏されています)
組曲「サルタン皇帝の物語」が私の中では大変印象的ですし、大好きな作品です。
このすてきな組曲はほとんど世間には知られていない曲だと思いますし、知る人ぞ知る名曲に近いと思います。
吹奏楽ファンにとっては定番の曲目なのに、クラシックのプロの演奏会においてはほとんど演奏されない管弦楽曲として
レスピーギのバレエ音楽「シバの女王ベルキス」・ベルファゴール序曲・教会のステンドグラスや
アーノルドの「第六の幸運をもちらす宿」やピータールー序曲やコダーイのハンガリー民謡「くじゃく」による変奏曲などが
挙げられそうですけど、この組曲「サルタン皇帝の物語」もそうした曲の一つなのだと思います。
後述しますけど吹奏楽コンクールが大好きな皆様にとっては、サルタン皇帝の物語においては「三つの不思議」は
川本高校・大月東中学校・NEC玉川等の名演で大変馴染みがあるといえそうですし、吹奏楽ファンの皆様にとっては
むしろシェエラザートよりも馴染みが深いのかもしれないです。
2019年においてもこの三つの不思議は出雲第一中学校が自由曲に選んでいました。

組曲「サルタン皇帝の物語」は実は部分的には超ウルトラメジャーな曲なのかもしれません。
この組曲は作曲者自身が歌劇の中から三曲を抜粋したのですけど、歌劇「サルタン皇帝の物語」からの音画という
作品においては、組曲版としての三つの曲に+αされる形で入っているのが、
多分一度ぐらいはほとんどの方は耳にされたことがある馴染みのあるメロディーともいえそうな「熊蜂の飛行」という曲です。
多分ですけど、このタイトルは知らなくてもこの熊蜂の飛行のメロディーを耳にしたら
大抵の方は「ああ、あの曲ね」と感じられるのかもしれないですし比較的馴染みのあるメロディーだと思います。
ちなみに「熊蜂の飛行」は、冒頭個所で金管楽器と打楽器が使われるのみで、それ以外では金管と打楽器は使用されません。
熊蜂の飛行はヴァイオリンソロ版やフルートソロ版のアレンジもあったりしますけど、1982年の吹奏楽コンクールの
5年連続金賞を称える特別演奏にて、弘前南高校吹奏楽部があの伝説の名演のフォーレの組曲「ぺリアスとメリザントの他に
実はこの「熊蜂の飛行」も演奏していたりもしています。
私自身も、「サルタン皇帝の物語」は、1981年に川本高校が吹奏楽版で演奏した「三つの不思議」しか知りませんでしたが、
上京後に上野の東京文化会館の音楽資料室で、サルタン皇帝の物語による音画というレコードを初めて視聴した際に
「サルタン皇帝の物語に熊蜂の飛行も含まれていたんだ~!」と驚いたものです。
組曲「サルタン皇帝の物語」はアシュケナージやジンマン、アンセルメ等の素晴らしい名演が既に色々と録音
されているのですけど、こうした演奏には一般的には熊蜂の飛行は含まれず下記の三曲から構成されることが多いです。

Ⅰ.王の告別と出発

Ⅱ.海上に漂う樽の中の王妃

Ⅲ.三つの不思議

この組曲は、元々はプーシキンが書いた民話なのですけど、それを後日R.コルサコフがオペラ化し、
歌劇の中で使用した音楽を組曲としてまとめたものが組曲「サルタン皇帝の物語」なのです。
あらすじは一言で言うと悪い姉二人と心優しい末娘の勧善懲悪的な内容ですけど、現在ではロシア国内でも全く上演
されていないようでもあります。

内容をごく簡単に記しますと・・

サルタン皇帝は、自分のお妃選定の際に、候補となっていた豪商の三人姉妹のうち一番の末娘を選びます。
(皇帝といえども「お妃は若い娘の方がいいじゃん!」という感じなのかもしれないですね~)
おさまらないのは姉二人で、お決まりのごとく皇帝に向かってあることないこと中傷誹謗を吹き込み、
皇帝は結果的にそれを信じてしまい、王妃と生まれたばかりの王子を樽の中に入れて海に投げ捨ててしまいます。
三人姉妹のうち、長女と次女の性格が悪くて意地悪で、末娘のみ性格がよくて優しい子というのは古今東西の物語・民話
としては定番ネタなのかもしれないですね~
王妃たちは魔法の島に辿り着き、王子は王妃からのたっぷりの愛情を注がれその島の中で無事に成長を重ねていきます。
ある日島に熊蜂が襲来し白鳥に襲い掛かりますが王子はこれを撃退します。
(熊蜂の飛行はこの部分の音楽でもあります)
白鳥はいつか恩返しすることを約束して、王子に①金とエメラルドの木の実を運ぶリス ②33人の護衛兵 ③白鳥から変身した
美しい妃という「三つの不思議」という奇蹟を起こせる力を与えます。
王妃と王子は島民の願いで島の統治者となり、気高い精神を持った二人によって島は治まり平和な日々が流れていきます。
一方、サルタン皇帝は3人の船乗りから王子と王妃の事を聞き驚きます。
自らの讒言が明らかになることを恐れた二人の姉は必死で自らの嘘を覆い隠そうとするのですが、そこへ白鳥の魔法によって
蜂に変身した王子がやってきて二人の姉を懲らしめます。
その後真実を知ったサルタン皇帝は妃と王子を迎えに行くことになり、白鳥も王子の愛によって魔法が解けて
美しい王女の姿に戻り、王妃と王子は無事に元の鞘に収まり、めでたし、めでたしという感じのお話です。

第一曲の冒頭はトランペットのファンファーレによって開始されますけど、第三曲の「三つの不思議」の部分でもその
ファンファーレは再現されます。
交響組曲「シェエラザート」もそうした冒頭の主題を各楽章で再現させ使用していますので、リムスキー・コルサコフは
循環主題的に同じモチーフを繰り返し使う手法を好んでいたといえるのかもしれないです。
ちなみにサルタン皇帝の物語の場合は、Ⅰの冒頭のトランペットのバックとして小太鼓を使用し、Ⅲの三つの不思議においては
シンバルを使用していたりもします。

組曲「サルタン皇帝の物語」の管弦楽版の演奏で、私が好きなのはアシュケナージの指揮の演奏ですね。
特に「三つの不思議」の中間部はテンポが異常に遅く、クライマックスへ向けてじわじわとゆっくり盛り上がっていくあたりは
聴いていてとても感動性があったりもします。
残念ながら、この曲の管弦楽団による生の演奏は一度も聴いた事がありません。
アンコールで「熊蜂の飛行」のみ何回か聴いた事がある程度です。
一度でいいから、吹奏楽アレンジ版ではなくて原曲版としてのこの組曲を聴いてみたいな~と思うのですけど
この隠れた名曲は全然演奏されないのが本当に勿体無いです。

組曲「サルタン皇帝の物語」~Ⅲ.三つの不思議」は吹奏楽コンクールでも何度となく自由曲として演奏されています。

そしてこの三つの不思議を初めて吹奏楽コンクールで演奏し、全国大会で金賞に輝いていたのが1981年の
島根県・川本高校吹奏楽部です。
吹奏楽コンクールにおいて、R.コルサコフの作品の中で人気が高い作品と言うと、交響組曲「シェエラザート」と
スペイン奇想曲だったと思いますが、当時の吹奏楽界ではほとんど知られていなかったこの「サルタン皇帝の物語」を
知らしめて、この曲が小規模ではありますけどブレイクするきっかけを作り、
その後の大月東中や文教大とかNEC玉川の名演を生み出す大きなきっかけとなった意味においては
大変意義がある演奏だったと思います。
この年の川本高校のトランペットセクションは本当に極めて優秀で、冒頭のトランペットのファンファーレで
既にこの曲の魅力と演奏の素晴らしさに引きずり込まれたという印象が強いです。
まるで花輪高校みたいな柔らかく清潔な音を出しながらも同時に力強さ・たくましさも有していて
あの冒頭のトランペットの音だけで既に金賞当確みたいな雰囲気すらあったと思います。
金管セクション・・特にその中でもトランペットは、美しくかつたくましく響いていて、大変柔らかくて清潔でクリアな響きの中でも、
前進する力を絶えず全く見失っていない躍動感溢れる素晴らしいサウンドだったと思います。

川本高校の演奏のどこが優れていたかというと二つほど挙げたいと思います。

一つは、トランペットに限らず、オーボエ・クラリネット・フルート・アルトサックス等のソロ楽器が実に素晴らしかったですし、
中間部のオーボエのファンタジー感溢れる夢見るようなソロは本当に素晴らしかったですし、
クラリネットのソロもキラリと光り輝くものがありました。
原曲において中間部はオーボエの美しいソロに続いてヴァイオリンパートが魅力的なメロディーを奏でていきますけど、
吹奏楽アレンジ版においてはヴァイオリンパートはクラリネットのソロに置き換えられていて、川本高校のそのクラリネットの
ソロの部分がとにかくめちゃくちゃうまくて、美しさと清涼感を見事に聴衆に響かせていたと思います。
全体のサウンドが大変力強くて同時に美しいという大変驚異的なものを有しているうえに、更にソロ楽器が全体の壮麗さに
花を添えていたと思います。
木管の技術も素晴らしいの一言に尽きると思いますし、前半のやたらと指がくるくると廻る箇所も何の不安感も無く
聴かせてくれていました。
金管セクションもサウンドとしては結構鳴らしている方だと思うのですけど、
音が全体に大変上品なので少しもやかましいと感じさせないのは本当に素晴らしい事だと思います。
二つ目なのですけど、表現力、特に中間部において、じわじわとゆっくりと盛り上がっていく息の長いフレーズを
途中で音楽がだれることなく 徐々にゆっくりゆっくり盛り上げていき、最後は高らかに中間部の頂点に達した後で
短いアレグロで一気にクライマックスまで持っていき一気呵成に曲をエンディングさせたあの驚異的かつ感動的な
あの演出&表現力は、本当に素晴らしかったと思います。
あの息の長いフレーズの表現力の素晴らしさは1987年の雄新中の歌劇「ローエングリン」~エルザの大聖堂への厳かな行列に
匹敵する素晴らしい表現に溢れていたと思います。
打楽器も大変バランスに優れ、どちらというと控えめに鳴らしていたようにも感じられましたけど
前半のシロフォーンのお茶目でとぼけた感じとか小太鼓のノリの良さとかこのセクションも大変充実していたと思います。

金管セクション、特にトランペットの素晴らしさは特筆に値すると思いますし、全体的にとにかく素晴らしい演奏であり、
内省的に充実感溢れる中間部の表現でしたし、グランプリクラスの堂々たる金賞だと思います。

1981年の全国大会の高校の部ですけど、金銀銅のグループ表彰ではなくて、
1960年代のような順位制で審査した場合、1位~3位はどのチームになるのかな・・?と考えた時、あくまで個人的な意見ですが、

1位 天理
2位 川本
3位 磐城

あたりではないかと思います。
4位以下はかなり混戦ですね~
花輪・弘前南・市立川口・習志野・基町・福岡工大付属・嘉穂などが甲乙漬け難い演奏だったと思います。

当時の指揮者の谷口栄一先生ですけど、この先生は、私が生まれた頃は既に吹奏楽コンクールに出場されていたのに、
2017年まで一般の部にて現役で指揮もされていましたので、 これだけ長い期間吹奏楽コンクールに出場され続けている事は
本当に素晴らしい事ですし、同時に大変頭が下がる思いです。
谷口先生は川本高校を指揮指導されていた頃は、サルタン皇帝の物語というそれまで全く知られていなかった影の名曲を
全国の吹奏楽ファンの皆様に知らしめたという功績も大きいと思いますし、
サルタン皇帝の物語の他にも、例えば、歌劇「ピーター・グライムズ」~四つの海の間奏曲や
バルトクーの「かかし王子」、シュミットの「サロメの悲劇」といった曲を花輪高校等に先駆けて吹奏楽コンクールで
演奏していた事もかなりポイントが高いようにも感じられます。





組曲「サルタン皇帝の物語」~Ⅲ.三つの不思議の吹奏楽アレンジ版の中間部において、美しいソロを担っている
楽器の一つがクラリネットですけど、あのクラリネットのソロの箇所は何度聴いても、その美しくファンタジー感溢れるソロに
うっとりとさせられてしまいそうです。

ららマジ器楽部でクラリネットを担当している綾瀬凛はなんとなくいつも怒っているみたいなイメージもありそうですけど、
ソロを奏でる時には楽しそうな笑顔になるのかもしれないです。

綾瀬凛がソロを担当する「三つの不思議」も是非聴いてみたいですね~♪
オッフェンバックの喜歌劇「天国と地獄」(地獄のオルフェス)は冒頭部分とかクラリネットの華麗なカデンツァの部分や
美しい中間部のメロディーを耳にした事がないと感じる方でも、ラスト近くの「カンカン踊り」は、
クラシック音楽をほとんど聴かない人でも一度は必ずどこかで聴いたことがあるはずの非常に馴染み深いメロディーだと
思います。
昭和の頃の運動会やパチンコ屋さんのBGMとしては定番の音楽の一つだったと思います、
また文明堂のカステラのCMで使われるあの曲(カステラ1番、電話は2番……)といえば、「ああ、あの曲ね・・」とピンと
来られる方も多いのではないかと思います。

オッフェンバックは陽気でユーモアにあふれた音楽によってオペレッタ(軽い内容のオペラ)の分野で活躍し、
時代を代表するヒットメーカーとして19世紀後半にはスッペと共に大変な人気を誇っていました。
オッフェンバックのこうしたオペレッタや劇音楽は生涯に100以上作品を残しましたけど、今日ではほとんど忘れられていると
思います。
その中でも「ホフマン物語」・「美しきエレーヌ」などは今現在でも上演されているようですけど、オッフェンバックの生涯の
最大のヒット作品は喜歌劇「天国と地獄」といえるのかもしれないです。

「天国と地獄」はギリシア神話を元ネタにしていますけど、その内容は実はシャレと毒の利いたパロディ作品です。
元ネタとなっているのはギリシャ神話のオルフェオの物語で、
妻の死を悲しむ夫オルフェオが黄泉の国へ妻をとりもどしに行くというのが本来のストーリーです。
(似たような話としては日本の「古事記」にもそうし話がありました・・)
しかしオッフェンバックの作品では、オルフェオとエその妻の間柄は生前から既に冷え切っています。
夫も妻も共に浮気中で、今風にいうとダブル不倫という感じなのだと思います。
オルフェオは妻があの世へ旅立ち、「これであの毒妻から開放されて嬉しい~♪」とウキウキ気分になって
「これで気兼ねなく女遊びができる~」と遊びまくっていたら、さすがに世間から非難ごうごうのバッシングを受けてしまい、
世間体のために嫌々ながらしぶしぶ妻を取戻しにあの世に行くという大変毒のあるパロディーストーリーとなっています。
大人の男女のエゴと浮気心と大人の本音がむき出しになっている「天国と地獄」の音楽と序曲ですけど、
こんな毒のある曲が昭和の頃には純粋な子供たちの運動会で使われているというのも、結構シュールなものがあると
言えそうです。
天国と地獄のカンカン踊りの場面を自作のパロディーとして使用したのがサン・サーンスの組曲「動物の謝肉祭」の亀です。
カンカン踊りは速いテンポでどんちゃん騒ぎが展開されていくのですけど、サン・サーンスはわざととんでもないスローテンポで
設定し、オッフェンバックをあたかもドンカメ扱いしているかのような毒を効かせているサン・サーンス一流のウィットが
そこにはあるように感じられます。
言うならば元ネタのパロディーのそのまたパロディーといえそうです。
ショスタコーヴィッチの最後の交響曲の15番の第一楽章にてかなり露骨な形で執拗にロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル」の
スイス軍隊の行進を引用というかパロディー化していますけど、1990年代前半のアリナミンVのCMに
そのショスタコーヴィッチの交響曲第7番「レニングラード」~第一楽章のパロディーが、シュワちゃんによって
「チチーン、プイプイ」とパロディー化されていたのと似たような話なのかもしれないですね~

妻を取り戻しに地獄に赴いたオルフェオですけど、「妻を取り戻したければ後ろを絶対に振りかえってはいけない」と
神々から言われるのは古事記と同様ですけど、後ろで雷が鳴った事でついつい後ろを見てしまった事で
妻は戻らないという事になってしまい、オルフェオはウキウキして喜んで現世に戻り、地獄の妻も地獄で既に神々と
いい仲になっていましたので、まさに双方ウィンウィンという事で、最後は全員揃ってのどんちゃん騒ぎで幕が閉じられ、
そのどんちゃん騒ぎで使用されているのが「カンカン踊り」という事になります。

オッフェンバックの喜歌劇「天国と地獄」の序曲は、実は二つ存在している事は意外と知られていません。
一つはオッフェンバック自身が歌劇の改訂版に付けた非常に冗漫で長大な序曲で、
こちらの方はあまりにも長すぎて面白くないため、今日では演奏されることはまずありません。
そしてもう一つが、ビンダーという人が、オッフェンバックの喜歌劇「天国と地獄」の中の主要なメロディーを
要領良く繫ぎあわせて構成したもので、こちらの方が、今日演奏会やCDで聴かれる「天国と地獄」序曲なのです。
一般的に知られる喜歌劇「天国と地獄」序曲は、オッフェンバック自身が完全に作曲したものではなくて
後世の人が上手にアレンジしたものと言えるのです。
オッフェンバックの作品?と言われている中にバレエ音楽「パリの喜び」があるのですけど、このバレエは後年、
ロザンタールという指揮者がオッフェンバックの作品の中からおいしい場面をピックアップし序曲と23の楽曲で構成した
作品でもありますので、この「パリの喜び」は一般的にはオッフェンバック作曲=ロザンタール編曲と表記される事が多いです。

喜歌劇「天国と地獄」序曲の冒頭は陽気にのびのびと開始され、聴いているだけで楽しさ満開です~♪
この部分が静まった後に出てくるクラリネットの完全ソロによるカデンツァの華麗さは素晴らしいですし、オーボエのしっとりとした
ソロも聴かせどころたっぷりだと思います。
哀愁はあるけど何となく間が抜けているのも面白い感じはします。
そして比較的長い中間部に入るのですが、この部分もたっぷりと抒情的に歌い上げられていきます。
そしてこの中間部が終わると、いよいよお楽しみの「カンカン踊り」が始まり、
カンカン踊りが炸裂していき、おちゃらけとバカ陽気の中、賑やかに曲が閉じられます。
演奏時間も8分程度で手頃という事もあり、ファミリーコンサートではしばしば演奏される曲の一つでもあります。
バレエ音楽「パリの喜び」の方も楽しい音楽の連続ですし、もちろんかンカン踊りも登場しますけど、
ホフマンの舟歌の美しい部分もラストに登場しますし、聴いていて飽きることはないと思います。
「バリの喜び」をCDで聴く場合、デュトワ指揮/モントリオール響という素晴らしい名演があります。
日本では、このバレエ音楽「パリの喜び」は吹奏楽コンクールでは定番の大人気自由曲の一つですけど、プロの管弦楽団の
演奏会ではなぜかあまり演奏されないです。
これまで唯一聴いたのが新日本フィルの演奏会です。
新日本の演奏で面白かったのは、首席トロンボーン奏者の宮下宣子さんが、なぜか部分的にトロンボーンの席から
打楽器のガラガラを掛け持ちしていた事です。
アマチュアの吹奏楽の吹奏楽部では、管楽器奏者と打楽器奏者のかけもち演奏はたまに見かけることはありますけど
まさかプロの世界でそうした打楽器との掛け持ちは大変珍しい事であり、大変印象的でもありました。
吹奏楽コンクールでは、「バリの喜び」は現在でもレパートリーとして完全に定着していますよね。
序曲~ワルツ~マーチ~カンカンを演奏するのですけど、元のバレエ音楽と異なり、カンカン踊りで終わりますから、
何とってもすっきりとした終わり方のようにも感じます。


21a8fd67-s.jpg

7dbd8333-s.jpg


喜歌劇「天国と地獄」序曲はたまにですけど、吹奏楽コンクールの全国大会でも自由曲として演奏されています。

この曲の名演というと多くの方は1999年の葛飾吹奏楽団を挙げられると思いますが、私しては1993年の
ヤマハ東京の方を推したいです。
ヤマハ東京は、葛飾吹奏楽団や1995年の伊予高校に比べると大変地味な演奏です。
だけど冒頭近くのクラリネットソロや中間部におけるソプラノサックスの抒情的で長いソロのうっとりとした陶酔感や
大人の音楽づくりは素晴らしいものがあると思いますし、この年はヤマハ浜松が不出場という幸運もあったと思いますが、
職場の部で金賞というのも当然だと思います。
ヤマハ東京以上にもっと地味な演奏ですけど、93年の基町高校の演奏も派手さは全く無いけど内省的な響きの充実感は
銅賞という結果で終わるにはもったいないものもあったと思います。

「響け! ユーフォニアム!」第一期の第一話にもこの天国と地獄の序曲がBGMとして流れてもいました~♪

実はこの曲は、麗奈と久美子が中学3年の時に臨んだ吹奏楽コンクールの自由曲でして、京都府大会で金賞を受賞
しながらもダメ金という事で関西大会代表に進めず、その際に麗奈は「口惜しくて死にそう・・」と涙を流すのですけど、
久美子は「本気で全国に行けると思っていたの?」と失言をしてしまい、麗奈からとんでもなくきつい眼差しを返され、
そうした一件が「響け・・」第一期序盤での久美子と麗奈のぎくしゃくした関係の遠因にもなっていたりもします。

久美子は第一期においては余計な一言ばかりついうっかりポロッ・・と口に出してしまい、一時は失言女王とすら揶揄されて
いたのも今となってはなつかしい話ですね~♪
あの夏祭り以降の麗奈と久美子の急速な接近と百合常態化も第一期の大きな見所の一つでもありました。


_convert_20200212014740.jpg


天国と地獄の序曲の序盤ではクラリネットが無伴奏状態でのカデンツァによる完全ソロがあるのですけど、
クラリネットの無伴奏完全ソロのカデンツァというとリムスキー・コルサコフの「スペイン奇想曲」も大変印象的ですけど、
天国と地獄の方も奏者冥利に尽きると思います。

ららマジ器楽部によるラストのカンカン踊りのどんちゃん騒ぎも是非聴いてみたいですけど、クラリネット奏者の綾瀬凛が
奏でる喜歌劇「天国と地獄」序曲の完全ソロのカデンツァも是非ぜひ聴いてみたいですね~♪

綾瀬凛はなんとなくいつも怒っているみたいなイメージもありそうですけど、ソロを奏でる時には楽しそうな笑顔に
なるのかもしれないです。
ヨハン・シュトラウスⅡ世というとニューイヤーコンサート等でおなじみのとおり「ワルツ」というイメージが強く、
美しく青きドナウ・ウィーンの森の物語・皇帝円舞曲などの傑作ワルツで日本でも大変馴染み深い作曲家ですけど、
ワルツ王としての側面以外でも「オペレッタ」においても大変人気が高く傑作作品もたくさん存在しています。
そうしたシュトラウスⅡ世が残したオペレッタにおいて特に人気が高くて傑作の誉れ高い作品が「こうもり」だと思います。

「こうもり」は音楽史的には「オペレッタ」というジャンルに属し、オペラから「笑い」の要素を強調して派生したとも言え、別名
「喜歌劇」とも呼ばれています。
そして喜歌劇としてはレハールの「メリーウィドウ」と並んでオペレッタの双璧作品とも称えられていて、その評価は
既に揺るぎないものになっていると思います。
オペレッタはクラシック音楽業界では、歌劇に比べると軽いとか軽薄とか言われがちであり、扱いは歌劇よりは格下というか
大衆用音楽劇とも思われがちなのかもしれないですし、通常オペレッタはミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場といった
名門オペラハウスでは上演されることはまずありえないのですけど、こうもりだけはその例外扱いでして、
ウィーン国立歌劇場では毎年12月31日に上演されることになっています。
オペレッタの中では別格の扱いを受けているオペレッタの最高作品ともいえますし、ウィーン国立歌劇場以外でも
特にドイツ語圏の歌劇場では年末年始の定番レパートリーの一つとして既に定着しています。

私自身、このシュトラウスⅡ世のこうもりは、その序曲を吹奏楽アレンジ版として初めて触れたのですけど、
恥ずかしい話、当初はこうもりというと獣としての蝙蝠の方を連想してしまい、森の動物たちをモチーフにした作品なのかな?と
勘違いをしていたものでした。
こうもりという題名の由来は、物語の軸が「こうもり博士の笑いの復讐」という事と思われます。
言うまでもなく獣の蝙蝠が主役でもなんでもなくて、人間喜劇のドタバタ作品というのが大まかな概要です。

喜歌劇「こうもり」のおおまかなストーリーは下記のとおりです。

その前に、このオペレッタの前段階の話として、今風にいうとコスプレ衣装という事もあるのかとは思います。

とある仮面舞踏会の帰り道、アイゼンシュタインは酔っぱらった友人ファルケ博士をこうもり姿のコスプレ衣装のまま道ばたに
置き去りにしてしまい、その醜態を多くの人たちに見られてしまい、その結果ファルケはみんなから「こうもり博士」と
呼ばれてしまっていて、ファルケはいつかアイゼンシュタインに仕返しをしたいと考えていたというのがこの喜歌劇の大前提
でもあります。

第1幕:アイゼンシュタイン邸の居間

ある年の大晦日、アイゼンシュタインは公務員を侮辱した罪で、五日間ですけど拘置所に収容される事になります。
ファルケ博士がそこにやってきて、「ロシアのオルロフスキー公爵邸で舞踏会が今晩開催されるので、しばしそこで楽しみ、
その後に拘置所に出向いて収監されればいい」とアドバイスします、
喜んだアイゼンシュタインが舞踏会に出かけた後、家に残された妻ロザリンデのところに元恋人のアルフレートがやって来ます。
ロザリンデは嫌がりながらもまんざらでもない様子でしたけし、アルフレートはロザリンデが自分の妻であるかのように
振る舞っています。
ちょうどそこに拘置所の所長フランクがアイゼンシュタインの収監にやってきます。
ロザリンデはこの人は実は自分の夫ではないと言いだせずにいて、結局アルフレートはアイゼンシュタインではないのに
収監されてしまいます。

第2幕:オルロフスキー公爵邸の舞踏会場

オルロフスキー公爵の舞踏会にアイゼンシュタインが来てみると、仮面を付けた美しいハンガリーの貴婦人を見つけ、
アイゼンシュタインはその貴婦人を口説きに掛ります。
実はこの舞踏会の参加者全員がグルでして、ファルケからの頼みによってみんなでアイゼンシュタインをだまそうとしている
状態でもありました。
その美しいハンガリーの貴婦人の正体はロザリンデでして、すべてはファルケ博士の仕組んだワナでもありました。
ロザリンデは口説かれるふりをしながら、アイゼンシュタインの懐中時計を奪います。
そしてこれが浮気の動かぬ証拠となる訳なのです。

第3幕:拘置所所長フランクの部屋
 
舞踏会の翌日、アイゼンシュタインが拘置所に出頭してみるとすでに見知らぬ男(アルフレート)が自分の代わりに
収監されている事に気が付きます。
拘置所の所長フランクから「昨晩、自宅で奥さんと一緒にいたこの男を連行して収監した」と聞いたアイゼンシュタインは、
ロザリンデの浮気を暴こうと弁護士に成りすまして様子を探ることにしました。
そこにロザリンデがやって来てアルフレートを拘置所から出してほしいとアイゼンシュタイン扮する弁護士に相談を始めます。
怒ったアイゼンシュタインが正体を明かし、妻・ロザリンでを責め立てると、「浮気には浮気を・・」みたいな感じで
ロザリンデは昨夜奪ったアルゼンシュタインの懐中時計を見せます。
浮気がバレて頭を抱えるアイゼンシュタインでしたけど、そこへファルケ博士が舞踏会の参加者とともに現れ、
すべては自分の仕組んだ芝居であった・・それはあの時のこうもりコスプレ放置事件に起因するちょっとした復讐劇ですよ・・と
事の顛末が明らかになり、
アイゼンシュタインは、とっさに「全てはシャンパンのせいだから赦して欲しい・・ロザリンデ」と言いだし、
なんとなく丸く収まったところで最後はロザリンデの歌う「シャンパンの歌」を全員で合唱してエンディングを迎えるというのが
大まかなあらすじです。

こうもりはオペレッタ全曲同様、序曲も大変有名です。単独でも頻繁に演奏されている素晴らしい名曲です。
序曲の演奏時間は8分ぐらいですので、管弦楽団の演奏会の一曲目としてうってつけといえそうです。
快活で明るい雰囲気の序奏に続くようにオーボエがやわらかなメロディを演奏します。
その後もオペレッタの中のたくさんのワルツが接続曲として続々と登場してきます。
曲の途中で6回響くチャイムの音やワルツやポルカ風音楽が展開され、楽しく明るい雰囲気で曲が閉じられます。

喜歌劇「こうもり」序曲はカイリエ等による吹奏楽アレンジ版も1970年代よりコンクール自由曲として演奏されていますけど、
最近ではオペレッタの音楽全体からおいしい部分をピックアップしたセレクト版も出版されていて、どちらかというと
序曲を演奏することよりはこのセレクト版の方が演奏機会が多いのかもしれないです。
最近の吹奏楽コンクールの全体的な傾向としては、邦人作品と歌劇からのセレクトといった事も挙げられそうですけど、
歌劇・オペレッタのセレクト版の先駆的意味合いとしては、1999年の北海道代表の大麻高校吹奏楽部による
プッチーニの歌劇「トゥーランドット」からのセレクト版なのかもしれないです。
あの演奏以降最近に至るまで、歌劇・オペレッタの抜粋版の自由曲の人気が続いている事を考えると、大麻高校の
トゥーランドットのあの素晴らしい名演の意義は現在に至るまで続いているようにも感じられます。
オペレッタのセレクト版としては、こうもり以外ではレハールの「メリーウィドウ」や「微笑みの国」なども印象的です。

喜歌劇「こうもり」序曲のカイリエ等による吹奏楽アレンジ版ですけど、この序曲は実はクラリネットパートに関しては
難曲中の難曲であり、あのあまりにもテンポが速い中での16分音符の炸裂は相当なテクニックが要求されますし、指使いは
大変難しいと断言できます。
こうもり序曲は幸い(?)演奏したことはありませんけど、カイリエアレンジ版のクラリネットのパート譜を見た限りでは
「とてもじゃないけど自分のこんな未熟なテクニックでは吹けそうにもない・・」とため息がでてしまうほどの難しさは
あると思います。
管弦楽作品の吹奏楽アレンジ版においてヴァイオリンパートのメロディーラインを主に担当するクラリネットパートの
16分音符等の速い動きが極めて難解で難しい曲の代表的事例として、たとえばプロコフィエフの
バレエ音楽「ロメオとジュリエット」~タイボルトの死、ショスタコーヴィチの交響曲第5番~終楽章、
ラヴェルのバレエ音楽「ダフネスとクロエ」第二組曲~全員の踊り、ハチャトゥリアンのバレエ音楽「ガイーヌ」~レスギンカ舞曲
など多数挙げられますけど、こうもり序曲の木管セクションの難しさは特に際立つものがあると思います。
たとえばですけど、タイボルトの死やショスタコーヴィチの5番あたりは、クラリネットセクションも音楽の勢いに乗れてしまえば
指も意外とスムーズに動いてくれますし、なによりもこうしたロシア系の曲は金管セクションが派手にとてつもない音量で
鳴らしていることも多々あり木管の細かい指の動きに多少難があってもあまりばれないという感じでもありますけど、
シュトラウスのこうもり序曲の場合は金管がそれほどがなりたてる曲では全くありませんし、クラリネットパートの細かい指の
動きはウインナワルツ的な優雅さと洗練さをなによりも求められますので、クラリネットのワルツの動きが少しでも
もたつくと即演奏崩壊につながりかねませんので、とにかくクラリネットパートには熟練した名人芸みたいなものを
求められる曲であったりもします。
この曲は私自身も吹奏楽コンクールで崩壊した演奏を何度も耳にしましたけど、クラリネットパートの指の細かい動きの
難しさがそのまま客席にまで伝わり、奏者だけでなくなんだか聴衆すらもオロオロしてしまうような演奏もかなりあったと
思います。

吹奏楽コンクールにおいて喜歌劇「こうもり」序曲の素晴らしい名演というと二つほど挙げたいです。
そしてこの二つの学校の演奏がいずれもコンクール評価としては銀賞で終わっていたことは、審査結果は水物であることと
日本の吹奏楽コンクール自体の驚異的なレヴェルの高さを意味しているのだと改めて感じたりもします。
そしてその二つのすてきな名演はいずれも1985年の全国大会でした。

広島の基町高校は、一部のオールド吹奏楽ファンの間では「基町トーン」という言葉で語られる事もあるのですけど、
柔らかいサウンド・優しい語り口・決して乱暴に鳴らさない・丁寧な音楽作り・温かい雰囲気というのが
その一つの特徴なのかなとも感じるのですが、
そうした「基町トーン」が最高潮に達した演奏が、1981年の序曲ハ調なのであり、85年のこうもり序曲と
いえるのだと思います。
1982年の歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲でもって長年に渡ってこの基町高校を指導・指揮されてこられた
増広先生の勇退の年という事になってしまい、全国大会の評価としては銀賞に留まりましたけど、
あのいかにも「おじいちゃんが優しい語り口で孫たちに民話を語っているような」温かい雰囲気が曲の随所から
感じられて、最後の普門館としては大変満足がいかれた演奏になっていたと思います。
あの優しくて温和な手作り雰囲気は、まさに増広先生=基町高校吹奏楽部のコンビによる「基町トーン」の
素晴らしい有終の美に相応しい演奏だったと思います。
惜しまれつつも増広先生は1982年の普門館を最後に勇退されましたが、
日本のスクールバンドの場合、往々にして長年実績を積み上げてきた優秀な指導者がその学校を離れてしまうと、
後任の先生がご苦労され、なかなかそれまでのような実績が上げにくいとか
中々いい演奏ができないとか、結果的に支部大会とか県大会で散ってしまうとか
後任の先生にとっては色々と悩まれる事も多いものだと思われます。
自分の個性というかカラーは早く出したいけど、なかなか前任の先生のカラーとか伝統みたいなものが立ちはだかってしまい、
自分としてのカラーが出せないまま、いつの間にかコンクールの表舞台から姿を消すという事例は珍しい話ではないと
思ったりもします。
そうした意味においては、基町高校の指揮者交代は公立学校としては理想的なものもあり、
増広先生の後を受け継いだ土居先生の演奏スタイルは「基町トーン」そのものであり、
それが遺憾なく発揮されていた演奏が85年の喜歌劇「こうもり」序曲だったと思います。
とにかくあのワルツは聴いていてとっても楽しかったし心地よかったです!
基町高校のこうもり序曲はテンポ設定が極めて良好で、過度に煽ることもなく平穏に楽しく優雅にワルツを心地よく
聴かせてくれていたことは本当に素晴らしかったです。
土居先生はその後何度か普門館での全国大会でその演奏を聴く事ができましたけど、いつ聴いても
「変わらぬ基町トーンをキープし続けていて、自分たちのサウンドはこれだっ!というものを持っていて
それが長年ずっとこうやって継承つれ続けているのはすごいものだ・・」と当時感心していたものです。
普門館のようにあんなにも広い会場でも、決して大音量とか過剰な表現はせずに、大変理性的で且つ
温かみが感じられる素敵な音楽を増広先生同様に全国大会でも聴衆に伝え続けていた事は大変立派な事だと
思いますし、まさに「公立高校の鑑」だと思います。

そして同年・・、1985年の中学の部においても雄新中学校による吹奏楽コンクールにおける決定的名演ともいえる
素晴らしいこうもり序曲の演奏が出ています。

1985年の中学の部は正直ちょっと停滞気味で84~85年の2年間の中学の部のレヴェルはちょっと下がり気味でもあったと
思います。
85年の中学の部においては、金賞の今津・出雲第二・大月東・湊など素晴らしい演奏もありましたけど、
例えば玉川学園中等部・伊勢崎第三・永山・津幡あたりは「この演奏が金賞なの・・?」と当日普門館で生演奏を聴いていた
私としてはそう感じてしまうほど、全体のレヴェルはちょっと低下傾向で特に銅賞チームの演奏は
「1960年代あたりにまでタイムスリップしたのかも・・??」と感じさせるものも多少はあったのかもしれないです。
そうした中、キラリ!と光る演奏がプログラムの最後に出現し、それが四国代表の雄新中学校でした!
課題曲Cの「シンフォニックファンファーレとマーチ」の中学生らしいのびやかさとチャーミングさとはつらつした雰囲気も
最高でしたけど、それ以上に自由曲のこうもり序曲の完璧な木管の驚異的テクニックとウインナワルツの楽しさと
オーボエのソロの美しさや全体にキビキビと躍動している溌溂とした明るさは「この日最高の演奏!」と感じさせるものは
間違いなくあったのになぜか審査結果は銀賞であり、「どうしてあの素晴らしい演奏が銀賞で、玉川学園みたいに
技術的未消化が目につき音楽的盛り上げに難があるあの演奏が金賞なの・・!?」と審査結果に納得いかないものを感じ、
「こうしたコンクールの審査結果は水物である・・」という事を実感させられたものでした。

雄新中学校なのですけど、鈴木清先生時代にこんなにも素晴らしい演奏を聴かせてくれているのに評価的には必ずしも
高い評価を受けていないのは私的には全然納得いかないです・・
もう少し高い評価を得ていても決しておかしくはないと感じています。

「雄新にしては少し消極的な演奏なのかも・・」とも感じてしまう1984年の「運命の力」は金賞で、
表現が積極果敢で各奏者のソロが素晴らしい1982年のスペイン奇想曲が銅賞で、演奏が情熱と楽しさ・明るさ・清涼感に
満ち溢れている1985~87年の3年間の演奏が銀賞という結果に終わっているのは、改めてコンクール審査は水物であると
感じざるを得ませんし、審査員の価値観・好き嫌いで随分と評価も変わってしまうものなのかもしれないです。

雄新が特に光り輝いていたのは、鈴木清先生時代の1985年~1987年の3年連続銀賞の頃なのかもしれないです。

1985年 課題曲C 自由曲/こうもり序曲

1986年 課題曲B 自由曲/ローマの謝肉祭序曲

1987年 課題曲E 自由曲/歌劇「ローエングリン」~エルザの大聖堂への厳かな行列

あの3年間は、本当に素晴らしい演奏を聴かせてくれていたと思いますし、評価は全て銀賞なのですけど、
私の中ではあの3年間の演奏は金賞以上のものがありますし、
何よりも「人の心にまっすぐと伝わる何か」は間違いなく残してくれていたと今でも確信しています。

その中でも特に1987年の「エルザの大聖堂への厳かな行列」は本当に素晴らしかったです!
あそこまで素晴らしい演奏を聴かせてくれたのに、あの演奏が審査結果で「銀賞」と発表された時は、心の底より
「審査員、全員くたばってしまえ!」とか「どういう耳を持ってどんな聴き方をすればあの演奏に金賞という評価をつけないのか
全く理解できない・・」と感じたものでした。





喜歌劇「こうもり」序曲の吹奏楽アレンジ版におけるクラリネットパートの指使いの難しさとハイテクニックは、
現役奏者の頃の私でも「演奏不可能・・」みたいな結論にならざるを得ないですけど、ららマジ器楽部のクラリネット担当の
綾瀬凛だったら余裕で楽々と吹きこなしそうです~♪

自分にも他人にも厳しい綾瀬凛ですけど、こんなかわいいJKさんだったら、私も是非ぜひ綾瀬凛からこうもり序曲の
とてつもないハイテクニックの指使いを教わってみたいです!


_convert_20200227124716.jpg


怒っている綾瀬凛はいつもの綾瀬凛なのかもしれないですけど、一緒にこうもり序曲を練習していて
「一体いつになったらまともに吹けるのよ~!」と激怒されているのかもしれないですし、はたまた綾瀬凛自身が
カイリエ編曲の吹奏楽アレンジ版のクラリネットのパート譜を見て
「こんな大変な曲まともに吹ける訳ないじゃん!」とご機嫌ナナメになっている時なのかもしれないですし、
はたまたオペレッタのストーリー的には、妻がありながらも浮気ばかりしているアイゼンシュタインに対して
「この浮気者が~!!」と激高されているのかもしれないです。

なんだかこの雰囲気の綾瀬凛は、東方で例えると地獄の閻魔様の四季映姫様による地獄のお裁きで
「断罪~!!」とか「地獄行き!」の判決を下している時の雰囲気にも似ていそうです。


_convert_20200227124841.jpg


綾瀬凛の普段のかわいらしさと怒っている時のギャップにも「すてきだね~♪」と感じてしまいそうです!

「祝典序曲」というタイトルというと、いっちば~ん!有名なのは、ブラームスの「大学祝典序曲」ではないのかなと
思ったりもします。
この曲は何度聴いてもどことなく気難しくて幾分とっつきにくいブラームスの曲とは思えないほど
洒落っ気に富む楽しい曲だと思えます。
スッペやオッフェンバックの序曲と言っても何か通用しそうな雰囲気があるようにも感じられます。
ブラームスというと気難しい先生というイメージがありがちなのですけど、意外とこの御方はお茶目な面があったり純愛を貫く
といった要素もあったりしますし、ビゼーの歌劇「カルメン」が大好きで上演の度に見に行っていたりとか
ある時女性ファンより扇子へのサインを求められた際に、扇子にヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」のメロディーを
書いた上で「残念ながらブラームスの作に非ず・・」と記したり、少なくとも頑固一徹だけの作曲家では無かったようにも
感じられたりもします。
ブラームスは作曲パターンから言うと、楽しい曲を作曲している最中になぜか陰気で暗い曲を同時に
作曲するクセみたいなものもあるようでして、
この「大学祝典序曲」を作曲している最中に、「悲劇的序曲」という陰鬱な曲を後世の私達に残してくれたりもしています。
「祝典序曲」というとブラームス以外では
グラズノフ・イベール、チャイコフスキーの祝典序曲「1812年」なども大変印象的ですし、
邦人作品としては廣瀬量平・平井哲三郎の祝典序曲も大変素晴らしいですけど
(廣瀬量平の祝典序曲は後日吹奏楽にアレンジもされていて、全国大会でも演奏されていたりもします)
クラシック音楽・吹奏楽を通じていっちば~ん! 演奏頻度が高くて大人気の曲と言うと、誰が何と言っても
ショスタコーヴィッチの「祝典序曲」作品96ではないかと思います。
ショスタコーヴィッチの祝典序曲は1970年代から既に吹奏楽コンクールの自由曲としては定番中の定番の曲となっていて、
たくさんのチームによる吹奏楽版の名演がお披露目されています。

ショスタコーヴイッチの祝典序曲は、ともすれば深刻・悲愴感・重厚長大・悲劇的・政治とスターリンに生涯振り回された
悲劇の作曲家・本音と建前の二重言語を駆使したような難解な作品も多い中で、
例外的に明るく、どこまでも底抜けに楽しく進展し、開放感満点の素晴らしい小品だと思います。
演奏時間は大体7分前後ぐらいですけど、指揮者によっては6分を切るスピード感満点の解釈もあるようです。

ショスタコーヴィッチは、その生涯で二度ほど政治的にやばい状況を迎えます。
当時のソ連体制においては、国家権力によって睨まれたり、監視の対象になってしまうというやばい状況とはこれすなわち、
自身の処刑・シベリア流刑・強制収容所送り・秘密警察からの突然の連行などを意味しますし、
ショスタコーヴィッチ自身、1930年代には一時期本当に自分自身が逮捕されるという想定をして身辺整理をしていたことも
あるようですので、本当に相当やばい状況だったのかもしれないです。

本来、音楽とは作曲家の自由意思というか、自分はこのように感じたからこうした曲を作りたいという事が尊重されるのは
当然の事なのですけど、当時の共産党一党独裁のソ連にはそうした自由は無く、
「人民が喜びそうな外面的効果の高い音楽」を量産する事を求められ、自身の内面を描くといった抽象的な音楽は、
国家権力によって敬遠され、ひたすら外面的に明るい音楽を作曲する事が求められていました。
自由な音楽を求めてソ連体制を嫌って祖国からの亡命を求めたのがストラヴィンスキーとかプロコフィエフやラフマニノフでも
ありました。
ショスタコーヴィッチ自身は律儀にも祖国愛が強いのか、面倒な事を嫌ったのか、家族の反対にあったかは
よく分かりませんけど、生涯一度も亡命する事もなくその生涯をソ連体制の中で生き続け、
その生涯をソ連の中で閉じた方なのです。
本当は、マーラーみたいな音楽を書きたかった欲求もあったのかもしれませんけど、
時に自分の内面に忠実な作品を書き、それが国家からの批判を招き、その反動として外面効果が高い分かり易い曲を
反省作品として残すという御用作曲家みたいな面を持つという本当に苦労が絶えない人だったと思います。

やばい状況の内の一回目は、交響曲第4番やバレエ「明るい小川」を作曲していた頃の話です。
これらの音楽が「抽象的で訳がわからん」という事で睨まれ、その代償として作曲されたのが、
ショスタコーヴィッチの代表作、交響曲第5番「革命」というのも何だか皮肉なものを感じたりもします。
そしてやばい二回目は、第二次世界大戦終了後に、戦争勝利記念作として発表された交響曲第9番が要因だったりもします。
スターリンにとっては、「戦勝記念の交響曲は特別な存在であるべきである! なぜなら我々は戦勝国だからである。
祝祭的な交響曲は、合唱などを入れ大規模に国家の勝利を讃える必要がある」などと思ったかどうかはよく分かりませんが、
そうした気持ちは幾分は持っていたのかもしれません。
ショスタコーヴィッチの交響曲第9番が、合唱もスターリンを称える歌詞も何もなく、演奏時間も25分程度と短く、
その内容が表面的には軽快で洒落っ気に溢れたものであった事にスターリンは激怒し、
「俺の顔を潰しやがって」みたいな気持はどこかにあったかもしれません。
そして二回目のやばい状況を迎えてしまい、ソ連の公的新聞機関のプラウダを通して、名指しの批判を食らってしまいます。
ショスタコーヴィッチはこの危機に対しては、オラトリオ「森の歌」で大衆迎合用の分かり易い曲を提出し難を逃れています。
ちなみの「森の歌」の初版の歌詞のラストは「スターリン万歳!」との事です。
(スターリンの死後削除されています)

こういう状況の下、結果的にスターリンは1953年に逝去します。

スターリン死亡の翌年に、祝典序曲作品96が作曲されます。
この曲は、一応表面上は革命37周年記念とかボルガ=ドン運河竣工記念という名目で書き上げられていますけど、
これって少しおかしいようにも感じます。
革命37周年は中途半端な数字ですし、運河が完成したのは、祝典序曲作曲の2年か3年前の少し古い話でもあったりします。

うがった見方をすると、スターリンの死自体がショスタコーヴィッチにとっては「祝典」みたいな出来事だったのかもしれないです。
スターリンの死がショスタコーヴィッチにとってもソ連人民にとっても「祝典」である事をほのめかしたかったようにも
感じられたりもします。
同様なことは交響曲第10番にもいえそうです。
第一楽章から第三楽章までは陰気な雰囲気がぷんぷんなのですけど、第四楽章の中盤から唐突に明るい幸福感に
満ちた印象に激変します。
人間の死と言うのは本来悲しむべきことであるのに、スターリンという独裁者が死なないとソ連国民全体の幸福がやってこない
いう国家的な皮肉を謳い上げたようにもついつい聞こえてしまいます。

祝典序曲なのですけど、そうした曲の背景はいったん置いておいて、この曲の構成自体はとてもシンプルで
冒頭の金管による健康的な明るいファンファーレが華麗に吹奏され、ラスト近くのこの冒頭のファンファーレの再現に向けて
全楽器が燃え立つように突進するというシンプル イズ ベストを絵に描いたような作品だと思います。
冒頭のファンファーレの後すぐに出てくるクラリネットのソロが流麗で実に素晴らしいです。
ラストのファンファーレの再現部分で、バンダという金管別働隊も加わり華麗に曲は閉じられます。

曲の背景は何か面倒なものがありそうだけど、曲そのものはいたったシンプルで明るく楽しい曲という
ショスタコーヴィッチ自身の矛盾を立証したような作品と言えるのかもしれないです。

交響曲第4番・8番・10番とかチェロ協奏曲第2番とかヴァイオリン協奏曲第1番などのような
ショスタコーヴィッチの曲の中でも重苦しい曲を聴いた後で祝典序曲・ジャズ組曲とかバレエ音楽「ボルト―」とか
編曲作品ですけど「二人でお茶を」みたいな軽妙な曲を聴いてしまうと、
「本当に交響曲第4番を書いた方と祝典序曲を書いた人は同一人物なのか!?」と心の底から感じてしまいそうです。
人間の心の多様性とか「人は決して一つの感情だけで動くものではない」という事をショスタコーヴィッチ自身が生涯を
かけてその作品群を通して世に問うたとも換言できるのかもしれないです。
ショスタコーヴィイッチのこうした明るく軽い曲と深刻で悲劇的な曲を書けてしまう二面性は
高校の頃には既に何となく気が付いていました。
この事を吹奏楽部の同期で同じくクラリネットを吹いている奴に話してみると、
「それは中島みゆきも同じ、あんなジメジメと陰々滅々とした曲を書いてしまう人か、オールナイトニッポンのDJでは、
あんなに弾け飛んでしまうのだからな」といかにも中島みゆきファンらしいコメントを発していたのが印象に残っていますし、
意外とショスタコーヴィイッチの本質を突いているのかもしれないです。

ショスタコーヴィッチの「祝典序曲」はハンスバーガーによって吹奏楽用にもアレンジされ
現在でも吹奏楽コンクールの自由曲として演奏され続けています。
吹奏楽コンクールにおけるこの曲の名演として、1983年の白子ウィンドオーケストラや1989年の富山商業は強く推したいです。
やりたい放題のとんでもない珍演だけど、とてつもなく個性豊かな名演として1998年の西宮高校を挙げたいです。
指揮者の吉永陽一先生に、心の底から敬意を表したいですし、あの年の課題曲の「稲穂の波」の独特な間の取り方も
吉永先生の強烈な個性といえそうです。


_convert_20191119115248.png


ショスタコーヴィッチの「祝典序曲」の最大のポイントであり聴かせどころは冒頭とラスト近くのトランペットによるファンファーレ
だと思うのですけと、
ららマジのトランペット奏者でもある亜里砂・エロイーズ・ボー=ボガードと
トランペットと見た目は大変良く似ているけど、実際は楽器の構造も音色もトランペットとはちょっと異なる楽器のコルネットの
奏者である浅野葉月によるそうした華麗なるファンファーレはぜひ聴いてみたいですね~♪

ららマジの浅野葉月はコルネットを担当している高校2年生のJKさんで、トランペットも兼任しています。

トランペットとコルネットは楽器の構造がまるで違うので、確かに見た目はよく似ているのですけど、
似て非なる楽器と言えそうです。
そして吹奏楽コンクールやプロの管弦楽団の演奏会等でも、部分的にコルネットを使用する場合は、トランペット奏者が
曲の途中で楽器を持ち替えることがほとんどです。
浅野葉月がトランペット兼任という設定は当然という事なのだと思います。

祝典序曲をこの二人による華麗なるファンファーレは相当見映えがしそうですね~♪

ららマジの器楽部におけるトランペットパートは実質的に浅野葉月と亜里砂・E.Bの二人と言えますけど、
浅野葉月は亜里砂・エロイーズ・ボー=ボガード(略して亜里砂・E.B)の隠れファンらしいという事で、浅野葉月にとっては
「あこがれの子と実質的に同じパートなんて大感激・・♪」という感じなのかもしれないです。
ドビュッシーは「映像」(イマージュ)という標題がつけられた曲を計3曲残しています。
そのうち2つはピアノ曲で、最後の映像第三集こそが1912年に作曲された管弦楽のための映像なのです。
「映像」というタイトルはバルトークの「二つの映像」という作品もあったりしますけど、ドビュッシーはピアノ曲も含めて
3作品も「映像」という作品を残している事からも、ドビュッシー自身がいかに「映像」というワードとイメージを大切に
していたのかが窺えると思います。
ちなみにドビュッシーが述べる「映像」というのは、今そこに見えている風景の事ではありません。
それはあくまでドビュッシーが目で見た風景に対してドビュッシーの心がいかにそれを感じ取ったのかという
ドビュッシー自身の心象風景ともいえそうです。
音楽史の中で印象派というくくりもあったりして、それに該当する主な作曲家と言うとドビュッシーとラヴェルが代表的だと
思うのですけど、例えば「スペイン風・祭り・カスタネットがリズミカルに大活躍」という共通項が挙げられる曲と言うと
ドビュッシーは映像~イベリアの街の道と田舎の道、祭りの日の朝、ラヴェルはスペイン狂詩曲~Ⅳ.祭りが挙げられると
思います。
なんとなくですけど、ラヴェルの「祭り」はお祭りに自ら参加して積極的に汗を流すという情熱と南国のけだるさという
動的な感覚もあったりする中で、ドビュッシーの方は、例えば「三つの夜想曲」~Ⅱ.祭りもそうなのですけど、
ドビュッシーが直接参加したお祭りの感覚というのではなくて、「私は自分の心の中でこのようにお祭りをイメージした」という
あくまで心象という心の風景を象っているようにも感じられたりもしますし、同じ印象派というくくりの中でも
意外とドビュッシーとラヴェルが目指していた方向性というものは真逆のモノもありそうなのかもしれないです。

ドビュッシーの映像(第三集~管弦楽のための) は、演奏時間もかなり長くて、全曲を演奏したら35分以上は掛ります。

構成は下記の通りです。

第一曲 ジーグ

第二曲 イベリア ~ Ⅰ.街の道と田舎の道 Ⅱ.夜の香り Ⅲ.祭りの日の朝

第三曲 春のロンド

第一曲から第三曲は、それぞれ違う国の民謡や民族的雰囲気・お国がらを素材にしていますけど、
例えばホルストが「日本組曲」においてお江戸日本橋・五木の子守唄などをそっくりそのまま転用したみたいなことはせず、
民謡等を安易に流用はせず入念に手の込んだ変容や仕掛けを曲の至る所に仕込んでいます。
日本組曲は異国情緒漂う曲と言うのは決して間違いではないと思うのですけど、例えば同じ異国情緒というテーマを
扱いながらも例えばラヴェルの「スペイン狂詩曲」などは、自分のスペインに対する想いをフランス人の感覚から
自己流に昇華したともいえそうなのに対して、ホルストの日本組曲は、そうした異国情緒を特に自分の気持ちに
照らし合わせるという事もなくて、レクチャーされた日本旋律をそっくりそのまんま使用している点がラヴェルとの大きな違いと
言えるのかもしれないです。

ジーグは、オーボエ・ダモーレというオーボエの仲間の楽器が奏でるメロディーと音色は、イギリスの民族楽器の
バッグバイブにちかいものを感じさせてくれていますし、春のロンドはフランス民謡の「もう森にはいかない」をモチーフに
巧みな変容がなされています。
私的には、イギリスをテーマにした「ジーグ」とフランスをテーマにした「春のロンド」よりも、スペインをテーマにした「イベリア」が、
リズム感のノリの良さとだるさが うまくミックスした感じがたまらず、私の中ではドビュッシーの管弦楽のための映像というと
第二曲のイベリアが一番印象的ですし大好きです!
プロの管弦楽団の演奏会においても、映像の全曲をやらないで「イベリア」のみ演奏するというパターンも結構多いと思います。
ちなみにですけど、ジーグもイベリアも春のロンドも作曲時期と初演された時期も楽譜の出版社も実はバラバラで
あったりもします。
イベリアの初演はさぞかし聴衆のウケはよかったのかな・・?と思ったりもするのですけど、実はあまり評判はよくなくて
ほとんどの聴衆はほとんどピンときていなかったというエピソードも意外だったりもします。

「イベリア」はどこがいいかというと全部いいのですが、聴きどころとしては、
①街の道と田舎の道の、ホルンの雄叫びとカスタネットのリズムの歯切れの良さ
②夜の香りのけだるい感じ(印象としては、ラヴェルの「スペイン狂詩曲」のハパネラと似ているような感じもします)
③祭りの日の朝の、「さーてこれから祭りが始まるぞ~!」という高揚感を背景にしながらも、そんなやる気を前面に
 出した感じではなくて、「少しかったるいけど、ま、テキトーにやってみるか・・・」というテキトーさとちゃらんぽらんさが
昇華されているあたりは素晴らしいと感じたりもします。
前述の通り、「祭りの日の朝」はラヴェルの「スペイン狂詩曲」のⅣ.祭りとタイトルはかぶるのですが、
ラヴェルは、情熱系なのに対して、ドビュッシーのちゃらんぽらんさが良く出ているのが両者の違いといえそうです。
街の道と田舎の道におけるカスタネットのリズミカルで情熱的な響きに乗っかる形でのクラリネットのスペインムードの
雰囲気もとてもエキゾチックですし、ホルンの高音域での雄叫びからも情熱の発散を感じさせてくれていると
思います。この曲でのトロンボーンの弱奏でのグリッサンド的な部分はなんだかムード歌謡みたいなけだるさも感じさせて
くれていると思いますし、全体的には南国のおおらかさに満ち溢れていると思います。
夜の香りのある種の官能的雰囲気はエキゾチックな雰囲気だと思います。そしてこの記事を書いている時に
「夜の香り」というのを何度か「嫁の香り」と打ち間違いをしてしまった私ですけど、嫁でも夜でもその香りはやっぱり
ある意味官能的なのかもしれないです。
夜の香りが終わりに近づくとチャイムの響きが清楚に響いてきますけど、あれはいかにも夜明けという感じが漂います。
そしてチャイムのカンコンという響きと共に祭りの日の朝が開始されますけど、街の道と田舎の道と同様に
クラリネットの高音の甲高い響きが期待感とおどけたような楽しさをあますところなく伝えていると思います。
シロフォーンの響きも生き生きとしていますし、ラスト近くのトロンボーンのグリッサンドの響きもとても心地よいと思います。

イベリアをCDで聴く場合は、個人的には、プレヴィン指揮の演奏がとても印象に残っています。

生演奏においては、井上道義指揮日本フィルの演奏では面白い試みがあり、
ジーグが終わると、演奏者は一旦立ち上がり、演奏曲目終了 イベリアが終わると・・・以下同文の
繰り返しで、指揮者としては、「この三曲は別物」という事をアピールしたかったのではないかと考えたりもしました。

イベリアはなんとなくですけど、「夏の暑い日にプールで水遊びを楽しみ、少し疲れたら、コーラを飲みながらイベリアの
夜の香りと祭りの日の朝のけだるさを楽しみつつ、この曲をBGMにしてウトウトと昼寝が出来れば最高の幸せなのかも~!?」と
感じたこともあったりしたものでした。

「イベリア」で使用される打楽器(特にカスタネット・シロフォーン・チャイム)は響かせ方が名人芸的に大変巧みに
書かれていますので非常に色彩的で効果的です。
それにしても祭りの日の朝のけだるさは、祭りと言う情熱というよりも
「朝日がなんだか眩しくて今日も一日かったるいよね~」とか「今日はお祭りか・・楽しそうだけど参加するのは
なんだか面倒くさそう・・」とか「遠くからそっと見学できればそれで十分なのかも・・?」というなんだか怠け者のの祭りの楽しみ方
みたいな要素も詰まっているようにも感じたりもします。
「三つの夜想曲」~Ⅱ.祭りは、中間部においてミュートを付けたトランペットによる音の遠近感の処理が大変巧みで、
「祭りのお神輿とか行列が近づいてくる・・」という雰囲気を見事に音楽として表現していると思いますけど、
イベリアの「祭りの日の朝」のクラリネットによるおどけたようなメロディーもそうした音の遠近感に近いような感覚も
あったりします。


_convert_20200212015043.jpg


イベリアのⅠとⅢにおいてはクラリネットがソロとして大変重要な役割を果たしていると思います。

生き生きとした感じとスペインの南国のおおらかさがクラリネットの甲高い響きからよく伝わってきていると感じられます。

ららマジ器楽部によるイベリアのおおらかなスペインの響きも是非聴いてみたいですけど、クラリネット奏者の綾瀬凛が
奏でるイベリアのⅠとⅢの生き生きとしたソロも是非聴いてみたいものです~♪

綾瀬凛はなんとなくいつも怒っているみたいなイメージもありそうですけど、ソロを奏でる時には楽しそうな笑顔に
なるのかもしれないです。





クラシック音楽でカスタネットが使用された楽曲はたくさんあるのですけど、スペインの作曲家や
フランスやロシア等のスペイン以外の作曲家がスペインに憧れと敬意の気持ちを有してスペインを感覚的にイメージして
作られた曲が多いです。

カスタネットは木製の打楽器で、体鳴楽器に分類される打楽器の一つです。
スペインで特に発達した楽器であり、スペインの民族音楽に欠かすことはできない楽器であり、
スペインの舞踊フラメンコにおいては、今現在も踊り手にとっては必要不可欠な楽器でもあります。
カスタネットの情熱的なリズムの刻みは心地よいですし、あの躍動感は素晴らしいです~♪ あのカタカタと小気味よいリズムを
耳にしただけで既に気分は南欧気分になりそうです。
カスタネットは、手のひらに納まるくらいの丸い貝型の木片を2枚合わせ、これを打ち合わせることによって音を出す楽器
なのですけど、端にひもを通してつなげ、このひもに親指を通して楽器を保持したり2枚の開き具合を調整しますし、
基本的には音程がわずかに異なる二つのカスタネットを右手と左手の両方に持ち、一般的には音程が高い方のカスタネットを
右手に持つことがスタンタードです。

ららマジでカスタネットを担当しているのは奥村映という中性的な雰囲気の高校2年生のJKさんですけど、
カスタネットを使ったフラメンコが特技で、カスタネットの手入れも欠かさず行うとの事です。
ららマジの打楽器パートのトライアングル奏者はかなりの不思議ちゃんの女の子なのですけど、奥村映も少しそうした
不思議ちゃんみたいな雰囲気も無くはなく、どちらかというと男性的でもないし女の子そのものという感じでもないし、
少し不思議な中性的な女の子という印象もあったりします。
少しだけ鈍感な性格というのも、不思議ちゃん系としての浮世離れした性格の為せる業なのかもしれないです。

食べることも大好きで意外と大食い・・?という設定も大変面白いですけど、大食いキャラで少しミステリアスで
中性的な雰囲気を有するJKさんというと思い出すのは「ラーメン大好き小泉さん」の小泉さんなのですけど、
確かにあの二人はどことなくですけど雰囲気が似ているようにも感じられそうですね~♪
一つ後の記事もドビュッシーの管弦楽曲の映像~イベリアを取り上げておりますので、本記事では統一する意味で
同じくクロード・ドビュッシーの「小組曲」について少しばかり触れてみたいと思います。

ドビュッシーの「小組曲」はとても繊細で美しい曲で、Ⅰの小舟にては、ハープの伴奏にのったフルートの響きが
大変印象的で 以前CMでも使用されていました。
この小組曲は、交響組曲「春」やスコットランド風行進曲などと共にドビュッシーにとっては比較的初期の頃の作品なので
後年の海・映像・遊戯・歌劇「ぺリアスとメリザント」などのような大作ではないですけど、
わかりやすく親しみやすい雰囲気はよく伝わってきていると思います。
演奏時間も14分程度と短く、 プロの管弦楽団の「オールドビュッシープログラム」だと
第一曲目は、「牧神の午後への前奏曲」かこの「小組曲」が組まれる事が多いような気もします。

ドビュッシーの「小組曲」の元のオリジナル曲は四手のためのピアノ曲なのですけど、
ピアノ曲としてはほとんど注目されていなかったのですが、後年ピュッセルが管弦楽用にアレンジして以降急速に人気がでて、
この曲の演奏頻度も急速に高くなっていったようです。
ピュッセルのアレンジは大変巧妙でドビュッシーのエッセンスを心得ているので、まるでドビュッシー本人が
オーケストレーションしたかのような印象すらあります。
第一曲の小舟にてのフルートソロが示唆する通り木管楽器の使い方が絶妙だと思います。
デリケートで繊細な響きの中にドビュッシーの意図するナイーブさも秘められていて、アレンジの巧みさによって
元のピアノ曲が元々有していた魅力を更にスケールアップしているようにも感じられます。

この曲は以下の四つから構成されています。

Ⅰ.小舟にて

Ⅱ.行列

Ⅲ.メヌエット

Ⅳ.バレエ

Ⅰの小舟にては、冒頭から展開されるハープのアルペッジョにのったフルートソロが大変魅力的です。
印象としては夢見る乙女という感じもします。
Ⅱの行列は軽やかな行列という印象ですけど実は4曲の中では一番盛り上がる曲想でもあります。
ⅢはⅡとは対照的に古風な舞曲という印象です。
Ⅳはとても軽快で、タンバリンが小気味良いリズムを終始奏でているのが印象的です。

この曲は1986年頃、当時読響の常任指揮者だった三石精一さんの指揮の読響の東京厚生年金会館で開催された
名曲コンサートで初めて管弦楽作品として聴いたのが最初だったと思います。
この小組曲とラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲とドヴォルザークの交響曲第8番のプログラムが組まれていたと記憶
しています。
当時読響の名曲コンサート時の会場だった新宿の東京厚生年金会館は現在では既に解体されて
別の建物が建っていますけど、こういうところにも時代の変遷が感じられます。
当時の東京厚生年金会館も相当老朽化していましたけど、それよりももっと老朽化が進行している様な
新宿文化センターがいまだに現役ホールとして稼動しているのもある意味凄い話だと思います。

ドビュッシーの小組曲は吹奏楽にもアレンジされていて、全国大会でも2019年末時点で計5回自由曲として演奏されています。
吹奏楽でこの曲を演奏すると、実は違和感も感じたりもします。
というのも、ピュッセルのアレンジ管弦楽版の金管楽器はトロンボーン・チューバを外しているのに
吹奏楽アレンジ版には、この楽器を加えている他にユーフォニウムまで付け足していますので
厚化粧みたいな雰囲気もありますし、そのせいか吹奏楽でこの曲を演奏すると意外と分厚い響きになってしまい野暮ったく
聴こえがちでもあります。
管楽器だけの響きだとどうしてもデリケートな響きの再現はかなり制約がありそうな印象もあります。
1986年の東海大学第四高校は、その点はかなり考慮された演奏になっていますし、Ⅰの小舟にてのよく考えられた響きと
コントラバスクラを効果的に使用した響きはこの曲の吹奏楽アレンジ版としては一つの理想ともいえそうです。

この曲の吹奏楽アレンジ版としての全国大会初演は1979年の弘前南高校吹奏楽部でありますけど、
弘前南の演奏に関しては、BJ(バンドジャーナル)を読む限りでは、いわゆる音楽評論家と呼ばれる方でも
評価は真っ二つに分かれていて、音楽の専門家であっても感じ方は千差万別ですし、
コンクールでの評価というものは必ずしも絶対的なものではないんだな・・いう事を改めて感じたものです。

 例

 吉田友紀氏

 「聴いた感じでは、アンセルメ指揮の演奏に近い線を出している。
 ドビュッシーの音楽らしい雰囲気を再現していて、編曲・演奏共に立派である」

 上野晃氏

 「感覚のデリカシーはいずこへ、とても音色のディストリビューションまで手が回らずバランスを失ってしまった。
 分相応な指揮者の高望みから起きた破綻である」

私の感想としては吉田氏の方が全然的を得ていると思います。

弘前南の小組曲は私自身は大変デリケートな演奏で音色とパートバランスにも十分すぎるほど配慮されている演奏だと
思いますし、課題曲の「フェリスタス」における元気で溌剌とした明るい響きとの対照性も見事に表現されていると
感じられます。

管弦楽版としてはこの曲の名演は色々とありますけど、私的には
少し録音は古いけど、マルティノン指揮/フランス国立管弦楽団が素晴らしいですね。


_convert_20191024173633.jpg

_convert_20191211131536.jpg


小組曲の最大の聴きどころはⅠの冒頭のフルートソロとハーブとの絡みだと思います。

そして小組曲の冒頭フルートソロは美少女が奏でるのが理想的だと思います。

そうした意味ではららマジのフルート奏者の結城菜々美はうってつけといえそうです!

結城菜々美は「ど根性で乗り切るぞ!期待の新人!」というのが売りのふわふわ熱血少女です~♪

明るく素直で、誰とでも仲良くなれるタイプで、根性さえあれば何でもできると考えている熱血系根性論者でもあり、
ときに無鉄砲な行動に出ることも多々あります。
音楽家の両親の影響で物心つく前からフルートに触れており、幼少期から数々のコンサートで最優秀賞を総なめ状態で
周囲から神童と呼ばれていましたけど、とある出来事により挫折してしまう過去の傷もあったりします。

根性論者、肉好き、運動神経抜群という側面と見た目のふわふわ~っとしたかわいらしさのギャップが
結城菜々美の際だの魅力なのかもしれないです。
灰色のニーハイを常に着用していて、ららマジの中ではすてきな絶対領域の持ち主であるのも大変素晴らしいですね~♪

フルートの結城菜々美は、チェロの阿達悠花、胡弓の有栖川 翼、グロッケンシュピールの神代 結菜、箏の橋本 ひかりと並ぶ
ららマジ屈指の美少女の一角だと思います~♪
(というか、ららマジに出てくるJCさん・JKさんはみんなとってもかわいいですよね~♪)


fead5a6f-s_convert_20200303124621.jpg


チャイコフスキーのバレエ音楽と言うと、白鳥の湖とくるみ割り人形が抜きん出て有名なのかもしれないですけど、
私自身はチャイコフスキーの三大バレエというといっちば~ん!に大好きなのは「眠れる森の美女」です~♪
後述しますけど「眠りの森の美女」はバレエの上演時間は原作通りの音楽をまともにやると三時間でも終わりそうにも
ないくらいとてつもなく長く、初演時ですら原曲のバレエ音楽を部分的にカットしたくらいあまりにも長くて、
部分的に冗長すぎる場面もあったりしますので、「眠れる森の美女」の音楽をコンパクトにおいしい場面のみをピックアップして
聴きたい場合は組曲版をお楽しみ頂ければと思います。
この組曲版は5曲から構成されていますけど、全ての音楽が素晴らしいです!
特にⅠの序奏とリラの精、Ⅱのバラのアダージョが個人的には大好きですけど、Ⅴのワルツもいかにも「踊りのワルツ」という
雰囲気に溢れていて、あのワルツを聴くとなんだか無性に踊りたくなってしまうのは極めて自然なものがあるのかも
しれないです。

チャイコフスキーのバレエ組曲「眠れる森の美女」 は吹奏楽にもアレンジされていて、全国大会でも何度となく自由曲として
演奏されていますけど、白鳥の湖と違ってこの曲の吹奏楽版の名演はなかなか現れないですね・・
95年の兵庫高校・98年の亜細亜大学・2000年の米沢吹奏楽愛好会の演奏は、組曲版からの抜粋ではなくて
原曲の長大なバレエ音楽からの抜粋という事もあり、音楽上の構成や盛り上がりが一体どこにあるのか・・?という疑問が
私自身の中にも感じる点が多々あり、聴いていてもあまり面白さは感じませんでした。
2000年の全国大会で上野の東京文化会館で聴いた米沢吹奏楽愛好会の演奏は、率直に言うと音楽も音色もサウンドも
ぼやけていて靄が差し込めたような演奏で、生で聴いていた私自身も「この演奏はちょっと・・多分銅賞でしょ・・」と思っていたら
評価はまさかの金賞で「なんという甘い金賞・・この演奏のどこが金賞なのか全く理解できない・・この演奏を金賞にするなら
同じく東北代表の大曲のアンティフォナーレの方がよっぽと金賞に相応しい演奏じゃん・・」と当時はブーたれていたものでした。
組曲版の演奏としては、87年の中村学園の演奏が良い意味でも悪い意味でも印象的です。
結果的にこの演奏は松澤先生にとって最後の中村学園を率いての普門館になりましたけど、まるで1960年代に逆戻り
したかのような音量過剰と中村学園初登場時を思い出させるあのベタベタ演奏は、聴いていても
「これはかなり評価が分かれる演奏で、迫力と大音量が大好きな方にとっては大歓迎の演奏かもしれないけど、
チャイコフスキーらしいファンタジーを求める人にとっては聴いていてあまりにも痛すぎる演奏」と感じたものでした。
実際当時の審査結果もA評価の審査員と最低のEランクの審査員と評価は大きく分かれてしまい、結果的には銅賞という
評価になりましたけど、私自身も「銅賞は仕方ないよね・・」と感じたものでした。やはりあの演奏は今現在の視点で聴いても
特にバラのアダージョの許容範疇を超えた音量のオーバーブローは耳に痛すぎです・・

バレエ「眠れる森の美女」は以前N響でバレエのハイライト版を聴いたことがありますけど、美しくて洗練された音楽
なのですけど、やはり「ちょっといくらなんでも長すぎるし飽きる・・」と感じましたし、チャイコフスキーの元々のバレエの原曲も
3時間を悠に超えるあまりにも冗漫な音楽ですので、やっぱりこのバレエは5曲からなる管弦楽組曲版を聴くのが
無難なのかもしれないです。
(但しバレエとしての本質を知るためには原曲版を聴く必要はあるかとは思います)

そしてこの「眠れる森の美女」にはピアノ連弾版というものも出版されているのですね~♪

チャイコフスキーのバレエ組曲「眠れる森の美女」~Ⅱ.バラのアダージョ Ⅴ.ワルツの二曲のピアノ連弾版が
2014年のアニメ作品ですけど「四月は君の嘘」の第18話「心重ねる」の中でも登場していて、特にワルツの躍動感が
素晴らしくて、あの場面はなんだか無性に踊りたくなったり思わず指揮棒を手にして指揮したくなりそうな楽しい雰囲気に
溢れていたのが大変印象的でした~♪


2e6d3b73-s_convert_20200303124504.jpg


「四月は君の嘘」について語りだすと、とてもじゃないですけど一度や二度の記事では終わりそうにもないですので、
ここでは第18話のピアノ連弾についてのみ簡単に触れたいと思います。

音楽学校の胡桃ヶ丘中学校の一年生である凪に「間もなく開催される学園祭に、自分もピアノ連弾という形で
出演させてほしい」と依頼をした有馬公正ですけど、そこに秘められた意図として
「自分の演奏をかをりに届けたい」というものがありました。
一方凪は凪で、ピアニストとしては大先輩でもあり現在は一応はピアノの師匠でもある公正から何かを吸収したいという
想いもありますし、自分の演奏をやはりピアニストでもある兄に聴いてほしいし、現在はスランプ状態に陥っている兄に
何かを伝えたいという意図もあったと思います。
想いを胸に二人はステージに上がります。演奏自体は無難に練習通りスタートします。
しかし主に伴奏とリズムと副旋律を担当するサブであるはずの公生は練習時とはうって変わり、
異常に早いテンポと張りつめた雰囲気の演奏をわざと意図的に仕掛けてきて凪にプレッシャーをかけてきます。
しかし凪も負けてはいません!
公生に負けじと喰らいつき、壮絶な演奏がライブ感覚で展開されていきます。

凪 : (何考えてんのよ?サポートのあんたが何で私にがんがんプレッシャーかけてくんのよ!)

凪 : (嘘つき 詐欺師 バカ。練習と全然違うじゃん!リズムもひりつくような雰囲気も何もかも!)

凪 : (私はみんなみたいにプロになる憧れも音楽に全てを捧げる覚悟もないけど)
     (聞いてくれる人たちがいる。聞かせたい人たちがいる)

凪 : (弾く理由なんて今はそれでいいじゃん)

アニメ版の凪と公正のピアノ連弾は聴いているだけで楽しさ・躍動感・音楽の喜びが伝わってきました~♪
練習とは全然異なるテンポ設定や解釈をあえて本番にぶっつけ本番的に仕掛けてくる指揮者・ピアニストもいますし、
そうしたある意味極限状態の時こそ、指揮者もソリストも管弦楽の団員も一人一人に対して「極限状態での人の本能」が
出てくるのかもしれないですし、音楽家の生き様や個性が如実に表れていくものなのかもしれないです。
例えば、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番のアバド指揮・アルゲリッチがピアノソリストのライブ演奏においては、
指揮者もソリストも「やられたらやりかえす!」みたいな一触即発の音楽としてのバトルが展開されていき、とんでもない
劇的な迫力と気迫を生み出していますし、あの演奏は本来三楽章構成で35~38分程度掛かる演奏時間をなんと
30分を切ってしまう超絶スビートで駆け抜けていったりしたものでした!

凪と公正の眠れる森の美女のピアノ連弾もそうした音楽としての一触即発といった危険性をはらみながらも、その危険性が
「のびのびと自由に楽しく演奏している」という作用にいったのがよかったと思いますし、あのピアノ連弾は
聴いていてもわくわくさせられるものがありました~♪

ただ、指揮者とソリストが暴走してしまい取り残される形になったオーケストラの奏者たちにとってはたまったもんじゃない・・
という感じにはなりそうです。
プロの管弦楽団の演奏会の協奏曲の演奏において、聴衆からのウケは大変いいのに、演奏終了後になぜか醒めて
しらけ切っているバックの団員たちの姿が見られるのは、本番前の練習とは異なる演奏をした指揮者とソリストに対する
ささやかな抗議なのかもしれないです・・

さてさて、公正が本番中に仕掛けた理由というものは別にあったりもします・・

それはこの文化祭でのライブ配信を聴いているはずの、現在は病床にいるかをりに凪と公正のピアノ連弾をあえて
聴かせることで、病状の悪化により大好きなヴァイオリンを弾くことすらままならないかをりに再度音楽をあきらめないで
ほしいというメッセージを伝えるためでもありました。

このピアノ連弾後の病院でのかをりと公正の二人の会話も大変印象的です。

かをり : バイオリンの弾けないバイオリニストにこんなの聞かせるなんて

公正 : 未練が生まれたのは君のせいだ

公正 : だからもう一度チャンスを下さい。君と肩を並べるチャンスを下さい

公正 : もう一度僕と一緒に弾いてください

かをりの心の声 : (君はまた枯れた心に水をくれるのね)

「四月は君の嘘」はあまりにも哀しくてせつない話であり、かをりは結局は道半ばでわずか15歳の早すぎる死を迎え、
見ているだけでいたたまれない作品でもありますし、序盤の公正のぐすぐずぶりや、
かをりのあまりにも自由奔放すぎる言動や、公正とは隣の家同士の幼馴染であり、弟のような存在だった公生に対し、
次第に特別な感情を抱きはじめる椿の揺れ動く乙女心のいたたまれない甘酸っぱさなど、
正直2014年にこの作品を見ていた際は何度も何度も「もう視聴するのやめよう・・」と思っていたほどですけど、
第18話「心重ねる」の凪と公正のピアノ連弾があまりにも素晴らしかったもので、結局最終回まで視聴してしまった
ほどでもありました!


f862de86-s_convert_20200303124604.jpg

e8652164-s_convert_20200303124549.jpg


改めてですけど「四月は君の嘘」について簡単に触れさせて頂きたいと思います。

「世界的なピアニストになるのが夢」だった母親の意志を継ぎ幼少期からピアノを始め、数々のコンクールで優勝するほどの
腕前をもっていた公生でしたけど、その母親のあまりにも厳しすぎる指導に音楽そのものに抵抗感を感じ始め、
自らの死期が近いと悟っていた母親の指導がむしろ虐待にすら近くなっていた頃のある日のコンクールで公正はついに
爆発してしまい「自分はお母さんに褒められたい一心で演奏していたんだ・・それなのに・・
お前なんか今すぐ死んでしまえばいいんだ!」と母親に生まれて初めて反抗をしてしまいます。
そしてその数日後に母親はこの世を去ります。
この出来事は公正にとって大きなトラウマになってしまい、ピアノの音が聞こえなくなってしまい、
それ以降コンクールはおろかピアノからも遠ざかっていきました。

そうしたとある春のある日に公正はヴァイオリニストの中学生のかをりに出会います。
公生にかをりは、ピアノから逃げているだけだと指摘し、自分のヴァイオリン演奏を観てもらったり、
コンクールに出場する機会を与えるなどしてなんとか公生にもう一度ピアノを弾いてもらおうと画策します。
そんな一生懸命なかをりに公生は次第に惹かれていきます。

かをりが公生に近づいたのは自身の病気が原因でした。自身の命が残り少ないことを知り、
やりたい事を実践しようと公生に近づき、ピアノを弾いてもらおうとしたのです。
物語が進むにつれかをりの病状も悪化していき、ヴァイオリン演奏語に倒れて再入院してしまいます。

そうした中でかをりが耳にしたのが上記の凪と公正のピアノ連弾でした。

その演奏が大きなきっかけともなり、かをりは自身の病気に諦めず治療のため手術を行うことを決意します。
公生は手術の日と同日にあるコンクールに意を決して出場し、
公生は母親とのトラウマから解放され見事演奏は成功し拍手喝采を浴びます。

しかしその手術の最中にかをりは帰らぬ人になってしまいます。

かをりを苦しめ命を奪った病気の正体は最後まで明かされませんでしたけど、おそらくは白血病と推察されます。

亡くなってしまったかをりですが、生前に公生宛の手紙を書いていました。そこにはかをりの今までの想いが綴られていました。

かをりは最初、公正の友人の渡が好きで協力して欲しいと公生に近づきました。
しかしそれは嘘であり、元々小学校の頃からコンクールなどで公生の存在を知っていたかをりは、
最初から渡ではなく公生のことが好きだったのです。
かをりは元々ピアノを演奏していましたが、公生にピアノ伴奏をしてもらい共にステージに立ちたいという理由で、
ヴァイオリニストに転向していたという過去がありました。

手紙には昔偶然一緒になった写真が同封されており、この写真を大事にしていたという事から、
かをりがいかに公生の事を思っていたのかが分かります。
とにかくせつなくて特に序盤の母親からの呪縛や最終回でのかをりの手紙のシーンなどは涙なしにはみられない
作品だと思います。


_convert_20200304014923.jpg


凪はとってもかわいいですね~♪

ちょっとツンデレ風でもありますし、金髪ツインテもとてもかわいかったです!

「四月は君の嘘」の登場人物たちはみんな見ているだけでつらそうな設定のオンパレードですけど、凪の存在によって
だいぶ救われていたようにも感じられそうです。

バレエ「眠れる森の美女」はとてつもなく長くて、現在でも完全ノーカット版で上演される事はあまりないように思います。
各バレエ団の解釈&演出によって部分的なカット&編集がなされています。
ディアギレフがこのバレエを上演しようと企画した際は、そのあまりの長さを懸念し全幕のハイライトシーンをうまく集めた
一幕もののバレエとして企画しタイトルも「オーロラ姫の結婚」というタイトルに変更されていたりもします。

このバレエは、かなりメジャーですのでストーリーも結構知られてはいると思いますし、ディズニー映画としても親しまれていると
思います。

一応簡単に記しておくと・・・・

ある王様の、誕生したばかりの娘の命名式の際に、自分がその式に呼ばれていなかったことに立腹した
悪の精・カラボックスから「姫はやがて糸紡ぎの針を指に刺して死ぬ」と呪いをかけられてしまいますが、
善の精・リラが魔法の杖を持って現れ「カラボックスの呪いを解くことは出来ないが、指刺す事で百年の眠りについてしまう。
だけど一人の王子の愛のキスによって眠りから目覚める」と宣言されます。
そして100年後にすてきな出会いが待ち受けているといったのが大まかな概要です。

このバレエは前述の通りあまりにも長いため、音楽として演奏される場合は、演奏会用組曲版として演奏される事が多いです。

この組曲版は下記の5曲から構成されています。

Ⅰ.序奏とリラの精

Ⅱ.バラのアダージョ

Ⅲ.長靴をはいたネコと白いネコ

Ⅳ.パノラマ

Ⅴ.ワルツ

音楽としての密度は大変濃いと思いますし、特にラストのワルツが素晴らしいと思います。
Ⅰにおいては、冒頭が全楽器と太鼓関係の強打から開始されていきますが、そのクライマックスの場面では、
全楽器が咆哮し、ティンパニ+大太鼓がズドーンと叩き付け、シンバルがソロでガシャーンと鳴り
ドラが凄まじい大音響でドワワワワー―――ンと鳴り響かせています。
Ⅱも大体Ⅰと似たような音楽なのですけど、
Ⅱの場合、最初は弱奏でから開始し、徐々に音量が盛り上がっていき
最後はすさまじい大音量で閉じられます。
Ⅱのpp~fffに至る音楽的ダイナミックスレンジは相当幅広いものがありますね。
Ⅲは、オーボエのつぶやくような感じから開始されていきますが、何となくユーモラスな雰囲気もあったりします。
Ⅳのファンタジー感は素晴らしいですし、うっとりとさせられます。
Ⅴのワルツは、いかにもバレエの大団円みたいな雰囲気の音楽ですね。
個人的にはファゴットの音階を上下していくユニゾンがとても大好きです。

そうそう、これはかなり有名な話ですからご存知の人も多いかとは思いますが、
チャイコフスキーの代名詞とも言えるバレエ音楽「白鳥の湖」は初演は、惨憺たる大失敗に終わっています。
今現在の感覚でこのあまりにも素晴らしい数々のメロディーとかあの優雅な踊り、ドラマティックなストーリーを考えると
「どこに失敗する要素があるのかな?」と感じるのですけど、
白鳥の湖以前のバレエと言うものは「踊り」がメインで、音楽はあくまで添え物という感覚が大変強く、
当時は振付師とか演出家の命令によって作曲家がせっかく作り上げた曲そのものを
カットしたりメロディーラインを変更させられたり、他の曲に差し替えられるというのはかなりの日常茶飯事だったようですね。
それに対してチャイコフスキーはそうした当時のバレエ界の「音楽家冷淡な扱い」という事に異議を唱え、
当時としてはあまりにも革新的な音楽を作り上げたものの、肝心の振付がそうした新しい音楽に付いていけず
新しい感覚の音楽と古い時代の舞踏という大変なギャップが初演の大失敗という事に繋がっていったようです。
その体験からチャイコフスキーはバレエ音楽から足を洗い、この分野での曲は書こうとはしなくなるのでした。
数年後再度バレエ音楽の依頼が舞い込み、当初は頑なに拒否したものの、依頼者の熱い気持ちについつ負けてしまい、
「それならば・・」と思って作られたのがこの「眠れる森の美女」なのです。
チャイコフスキーとしては「白鳥の湖のリベンジ」といった気持ちも多少はあったのかもしれないです。

チャイコフスキーは意外と初演はコケるみたいな雰囲気もあり、白鳥の湖以外でも
例えば、交響曲第5番とかヴァイオリン協奏曲やビアノ協奏曲などは初演は惨憺たる失敗というのも今現在では
信じられないものがありそうです。


_convert_20200304015007.jpg

_convert_20200304015043.jpg


ここから下記はほんのすこしだけ余談です。

当ブログでもたまに2018年の秋アニメの「色づく世界の明日から」について触れさせていただいておりますけど、
その第一話のエンディングシーンにて、くるくると舞うような感じになっている瞳美を見ていた際に、思わず
思い出してしまったのが冒頭の「四月は君の嘘」の第18話の凪と公正のピアノ連弾による「眠れる森の美女」のワルツの
場面でした~♪

あの時の瞳美ちゃんは、眠れる森の美女のヒロインのオーロラ姫に近いようでもあり、あのくるくると待っている様子は
ワルツを踊っているようでもありました~♪

「色が見えない」という事でモノログの世界の中にいる瞳美ちゃんがなぜか葵唯翔の描く絵だけは
カラーに見えるというのもすてきなファンタジーがあると思います。
瞳美がどうしてあの時、ワルツを踊るかのようにクルクル舞っていたのかというと、翔の描く絵を見た際に
久しぶりに色の感覚を取り戻し、モノクロの世界からカラーの色彩の世界を瞬間的に楽しめることができて思わず
小躍りしてしまったということなのだと思います。


hitomicyan-03_convert_20181215160141_convert_20181216180415.png


ここから下記はdream fantasy2
アミグリさんが過去に描かれた絵の転載&ご紹介コーナーです。

今回ご紹介させて頂く絵は「色づく世界の明日から」のヒロインの月白瞳美ちゃんです。

アミグリさんの描かれる月白瞳美ちゃんは、とても繊細で神秘的な印象を与える美少女のように感じられます!

まるで東方のさとり様のようにどことなく心、ここにあらずのようなもの寂しげな様子が伝わってきますし、
瞳美が今にも感極まって泣き出しそうな感じさえする「儚くてせつなくて、まるで砂糖菓子のように
ちょっと触れただけで壊れそう・・」といったとてつもなく繊細なものがとてもよく伝わっていると思います。

髪の繊細な描かれ方も素晴らしいですし、
左耳のアズライトの耳飾りも神秘的な雰囲気を高めているようにも感じられます。
ちなみにアミグリさんが描かれた瞳美ちゃんの制服は、2018年時点での南ヶ丘高校の制服ではなくて、
2078年時点の南ヶ丘高校の制服でもあったりします。
同じブレザー制服も祖母の琥珀が着るとやんちゃな雰囲気もあるけど、一応は孫の瞳美ちゃんが着ると
繊細なJKさんという印象を受けたりもします。
(60年後のおばあちゃんになっていた琥珀はいかにも落ち着いた雰囲気の女性になっています・・)
この寂しそうな視線を見るとなんだか見ている私までもがせつなくて甘酸っぱい気持ちにもなったりしますし、
こうやってたった一枚の絵なのですけど、見ている人に色々な感情をきちんと伝えることができている作品を拝見させて
頂くと本当に心の底から内省的な充実感を感じたりもします。

上記のアミグリさんが描かれた瞳美ちゃんは、その権利は全てこの瞳美の絵師様であるアミグリさんに帰するものであり、
当ブログにおける転載とご紹介は事前に全てアミグリさんからご了解を頂いたものであり、
アミグリさんからのご厚意で転載をさせて頂いておりますので、
無断お持ち帰りや無断コピーは絶対NGですので くれぐれも宜しくお願い申し上げます。

アミグリさん、本当にいつもすてきなイラストの転載を快諾して頂きありがとうございます!!

皆様の中で「こんなにもせつなそうな瞳美を描く人のブログってどんなもんなのだろ・・? 」などと興味がある方は、
是非是非アミグリさんのブログdream fantasy2  を ご覧になって頂きたいと思いますし、 宜しければ、当ブログだけではなくて、
是非アミグリさんの本家本元のブログdream fantasy2 に一度お越しして頂けると
アミグリさんのブログをご紹介させて頂いている私もとってもとっても嬉しいです!

アミグリさんが定期的に作品を投稿され続けている →アミグリさんのpixiv にも是非一度足を運んで頂ければ幸いです!

アミグリさんのpixiv
「人の死」というものを意識させるクラシック音楽は、例えばマーラーの交響曲第9番とかチャイコフスキーの
交響曲第6番「悲愴」やワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」の「神々のたそがれ」~ジークフリートの葬送行進曲や
R.シュトラウスの交響詩「死と変容」などのように古今東西かなりあると思いますし、
そうした「死」の表現としての楽器としては、
悲愴の第四楽章で「死」の象徴としてのドラが静かに不気味に鳴り響くこともありますし、
マーラーの交響曲第6番「悲劇的」~第四楽章のように、ハンマーが「打倒された英雄の死」を視覚的にも聴覚的にも絶大な
インパクトを残す事例もあったりします。

そうした死をモチーフにした管弦楽作品の中でも異彩を放ち、その死のオーケストレーションの巧みさが光る楽曲として
ベルリオーズの幻想交響曲~Ⅳ.断頭台への行進とR.シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
を挙げたいと思います。
この両曲に共通する点として大変興味深いのは、どちらの作品も曲の主人公が死刑に処せられ、その処刑シーンにおいて
断末魔の叫びをあげている楽器として使用されているのがクラリネットである事です。

よく言われる事ですが、ベルリオーズの「幻想交響曲」は音楽史を語る上では、途方もない奇跡的な曲だと感じます。

ベートーヴェン大先生が亡くなって、古典形式が主流の中、そのわずか3年後に幻想交響曲という
現在聴いても先進的な曲が生まれている訳ですのです本当に奇跡としかいいようがないと思います。

ベートーヴェンの時代、和音美とか形式美とか定められた形が尊重されていたと思いますが、
ベルリオーズの幻想の場合、 「自分の感じたままに書く!!それの何が悪い」という感じに形式を超越し、
和音的にも奇怪な響きや不協和音が結構至る所に炸裂しています。
ベルリオーズ以前にも、ベートーヴェンの交響曲第六番「田園」にみられるような標題音楽は色々ありましたが、
自分の妄想や欲望、自己顕示欲をグロテスクなまでに自分の交響曲に取り入れたのは
ベルリオーズが第1号といっても差し支えはないと思います。

この交響曲はあるゆる意味でいろいろと時代を先取りしていると思います。

幻想交響曲~Ⅳ.断頭台への行進は、主人公が夢の中で一方的に恋焦がれ片思いをしていた女性に対して、
嫉妬と独占欲と方向性を間違えた情熱の結果、ついに殺人を犯してしまい、裁判の結果死刑を宣告され、
断頭台へと引きずられていく場面のグロテスクな死への行進といったシーンが描かれていますけど、この楽章の最後で、
幻想交響曲全体を貫いている「恋人の主題」がクラリネットソロによる絶叫音として壮絶に表現されていて、
この絶叫音というものは換言すると「生きることへの執着と未練」を示唆しているのかもしれないです。
だけどこうした生きることへの未練は次の瞬間にオーケストラが狂暴にffで「ギロチンの落下」を表現し、その次の
弦楽器によるピッチカートは首が切り落され、ゴロリと地面に落ちた瞬間がとんでもなくグロテスクに描かれています。
当ブログで何度か、私自身大学での吹奏楽団にて初めて吹奏楽コンクールに出場した時の自由曲が
幻想交響曲~Ⅴ.魔女の夜宴-魔女のロンドと記しましたけど、この年の定期演奏会でも、第五楽章と合わせて
第四楽章の「断頭台への行進」も演奏しましたけど、その際に指揮者から何度も
「この音の場面はギロチンの刃が落ちる瞬間のリアルな描写であり、その次のピッチカート部分は首が斬首されてゴロリと
地面に落ちる瞬間をリアルに描いたもの」と説明され、
「フランス革命で斬首されたマリー・アントワネットの気持ちになって各自の気持ちを表現しなさい」と指揮者から無茶ぶり
されたものですけど、あのピッチカートの部分は実際に演奏してみると、
「あー、これは命が絶たれた瞬間なんだな・・」と実感させられたものです。
そして次の瞬間に二台のスネアドラムによるすさまじいロールが展開され、金管楽器が咆哮するのですけど、あの悪趣味は
さすがベルリオーズの常軌を逸した偏狭ぶりをまざまざと感じたものでした。

参考までにプーランクの歌劇「カルメン会修道女の対話」第三幕第四場においても、そうしたグロテスクなギロチンによる
処刑シーンが描写されています。

R.シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」のラストにおいてもこうした処刑シーンが
音楽として表現されています。

「ティル・オイレンシュピーゲル」というのは、14世紀頃のドイツに実在したとも言われるし単なる架空の人物とも
言われる事もあるその正体については定かでない伝説の奇人なのですけど、
その生涯の数奇な伝説を音楽の物語として「交響詩」という形で単一楽章として18分前後の曲として発表したのが
R.シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」という曲です。

ティル・オイレンシュピゲールは果たして何をやらかしたのかというと、少し性質が悪いとかちょっとやり過ぎみたいな感じも
あるのですけど、全体的にはたわいもない騒ぎと言えそうです。

具体的には・・

1.市場で牛馬を解き放ち、市場を大混乱に陥れる。

2.空飛ぶ靴でトンズラを図る

3.お坊さんの姿に化けてテキトーでいい加減な説法をして廻る。

4.美女を口説くがあっさりと振られる・・・

5.学者たちにテキトー論争を吹っかけ、学者たちを煙に巻きそのまま逃走・・・

そうやって各地をいたずら放浪して散々悪態ついたところで逮捕され、裁判に掛けられ、絞首刑の判決が下り、
そのまま息絶えるといったストーリーを大変巧みな構成力&楽器配分で表現したのがこの交響詩です。

この曲の最大の聴かせどころでもあり最難関の部分は、曲開始早々のホルン奏者によるソロだと思います。
以前、NHK交響楽団のホルン奏者へのインタビューの中で、
「今まで吹いた曲の中で一番プレッシャーが掛った曲は?」という質問と
「今まで吹いた曲の中で技術的に大変しんどくて難しかった曲は・・?」という質問に対して、
このR.シュトラウスのティルを挙げていたのは大変印象的ですし、逆にそれだけ奏者にとっても大変な曲だと思います。
この交響詩が作曲された頃に、 それまでの手締め式ではなくてペダルを足で踏む事で音程をコントロールする
ペダル式ティンパニが発明され世に出ていますけど、
そうしたペダルティンパニを最初に効果的に使用した曲の一つとして
この交響詩や同じくR.シュトラウスの歌劇「エレクトラ」・「バラの騎士」を指摘する見解が多いようです。

さてさて絞首刑判決後に、ベルリオーズの断頭台への行進と同様に公衆の目の前で公開処刑されたティルですけど、
その処刑時のティルの悲鳴というか絶叫音はまたまたクラリネットで表現されています。
クラリネットの吹奏楽コンクールにおけるリードミスの絶叫音は奏者にとっても聴衆にとっても痛い事故なのですけど、
ティルのクラリネットの表現による絶叫音というものは、ティルの後悔とクラリネット奏者のリードミスの怨念が
融合したものなのかもしれないですし、そうしたヒステリックな絶叫音にぴったりと楽器というのは、やはりピッコロよりは
クラリネットによる高音の表現のほうがぴったりなのかもしれないです。
処刑シーンのクラリネットによるティルの断末魔の叫びは計3回奏でられるのですけど、1回目から徐々に音量をpからfへと
上げていき、最後の三回目に至ってはオクターブを高くし、「息絶えた・・」ということを見事に音楽物語として表現していると
思います。
クラリネットのティルの悲鳴を示唆する高音の叫び声は、クラリネットの音域の限界を超えた超高音域のものであり、
クラリネット奏者にとっては無茶振りを超えた作曲者からの死刑宣告なのかもしれないです。

曲のラストでは、冒頭の親しみやすく温和なメロディーが再現されていて、
「ティルは確かに死んだけど、ティルのイタズラ魂は今でも生きている」とか
「ティルは永遠に不滅ですよ、みなさんの心の中に伝説として今後も生き続けていく」みたいな事を暗示しているようにも
感じられたりもします。




_convert_20200227124716.jpg


ららマジ器楽部でクラリネットを担当しているのは、後輩にも自分にも厳しい先輩の綾瀬凛ですけど、
断頭台への行進とかティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずらの断末魔のクラリネットによる絶叫音は
綾瀬凛が奏でられたとたら、結構ツボにはいるのかもしれないですね~(♪
怒っている綾瀬凛はいつもの綾瀬凛なのかもしれないですけど、一緒に断頭台の行進などを練習していて
「一体いつになったらまともに吹けるのよ~!」と激怒されているのかもしれないですし、はたまた綾瀬凛自身が
クラリネットのパート譜を見て
「こんな大変な曲まともに吹ける訳ないじゃん!」とご機嫌ナナメになっている時なのかもしれないですし、
いたずらばかりやらかしているティルに対して「ちょっといい加減にしなさいよ~」とまたまた怒られている時なのかも
しれないです。

こうした断末魔の叫びを奏でている綾瀬凛は、東方で例えると地獄の閻魔様の四季映姫様による地獄のお裁きで
「断罪~!!」とか「地獄行き!」の判決を下している時の雰囲気にも似ていそうです。
一つ後の記事がH.ベルリオーズの「幻想交響曲」~Ⅳ.断頭台への行進に関する記事でもありますので、本記事では
幻想交響曲の続編とも言うべき知る人ぞ知る・・というかほとんど演奏もされませんし録音も限られている
「レリオ、生への回帰」に関して少しばかり触れさせて頂きたいと思います。

それにしても改めてですけど「幻想交響曲」の革新性は凄い・・としか言いようがないと思います。
どの点がすごいのかについては一つ後の記事で触れていますので、ここでは割愛させて頂きますけど、
幻想交響曲が作曲された3年前にあの楽聖・ベートーヴェン大先生がご逝去されたという事で、この二人の大作曲家の
活動時期が被っていたとは到底信じられないほど、この二人の作風はあまりにも大胆に異なっていますし、
幻想交響曲を今現在の感覚で聴いても、その革新性と大胆さには驚愕させられるばかりですし、
ベルリオーズの私生活や私情を自作作品に持ち込んだ作風は、むしろ後年のマーラーすらも凌ぐものがあるのかも
しれないです。

チャイコフスキーやフランクというと、循環形式という一つの主題が各楽章に受け継がれていく形式でもお馴染みですけど、
幻想交響曲の場合、曲全体を貫く恋人の主題が各楽章の中で色々変容していっているのが面白い所です。
この恋人の主題は、第四楽章「断頭台への行進」におけるギロチンの刃物が落ちてくる瞬間にも再現されますし、
第五楽章の「魔女の夜宴-魔女のロンド」においては、化け物となった恋人のなれの果てのテーマとして再現されています。

幻想交響曲が作曲されていた頃に使用されていた打楽器は基本的にはティンパニに限られ、
まれにシンバル・大太鼓・トライアングルが入る程度だったのですが、20世紀の打楽器主義を予感させるように、
幻想交響曲においては鐘・小太鼓も使用されていて、ティンパニも第三楽章の嵐の表現では四人の奏者を用いていますし、
第四・第五楽章では常に二人の奏者を用いていますし、第五楽章においては大太鼓も二人の奏者を使っています。
指揮者によっては、第四楽章の小太鼓を二人用いる場合もありますし、
第五楽章の最後のシンバルの打音を二人の奏者を使用する場合もあります。
一つ後の記事でも書いた通り、私自身、吹奏楽コンクールにて幻想交響曲~Ⅴ.魔女の夜宴-魔女のロンドを
演奏したことがありますけど、クラリネットの位置からもティンパニ2台と大太鼓2台の轟音は轟渡ってきていて、
あの迫力は悪趣味で奇怪な響きですけど、打楽器一つとっても時代を先取りした革新性は十分伝わってくるものは
間違いなくあると思います。
第三楽章は、コールアングレとオーボエのソロによる掛け合いが延々と続く訳ですけど、上記で触れた通り最後の方では
ティンパニ奏者を4人も使用し、野原を彷徨う描写の中で、このティンパニは「遠くからの落雷の響き」を演出しています。
一人に付き一台のティンパニーを割り当てていて、A♭・B♭・C・Fの四つの音を4人で叩きだしています。
この場面は音量のダイナミックスレンジも幅広く、pp~fの範囲でクレッシェンド・デクレッシェンドを展開させていて、
指揮者によってはこの場面に関しては、オーボエ奏者を舞台裏に配置させ、舞台裏から吹かせることで
「遠くから響いている・・・」という音の遠近感を演出させている事もあったりします。

冒頭から話がそれました・・話を「レリオ、生への回帰」に戻します。

「幻想交響曲」は姉妹作というか続編みたいな作品が存在し、それが叙情独白劇「レリオ、生への回帰」という作品です。
あまりにも有名な「幻想交響曲」の作品番号が、14-aとなっていますが、
「レリオ、生への回帰」の作品番号は、14-bとなっています。
ベルリオーズ自身は、スコア上で「出来れば幻想交響曲とレリオは続けて演奏される事が望ましい」と指示を出していますが、
実際にこの2曲がセットで続けて演奏される事はまずないと思います。
というか、無いです・・・
ちなみに日本でこの「レリオ、生への回帰」が初演されたのは平成に入ってからであり、
小林研一郎指揮/大阪フィルが多分初演だと思われます。

この「レリオ、生への回帰」は、ヘンというのか、幻想交響曲以上に常軌を逸した作品です。
55分の演奏時間の内、半分以上は、音楽ではなくてベルリオーズ自作のテキスト朗読によって費やされます。
このテキストというのも、ベルリオーズ自身の失恋体験をベースに書かれたものです。
幻想交響曲は、当時の人気女優、ハリエット・スミソンに対する苦しい片思いの恋から作曲されていますけど、
(後に一応この二人はめでたく結ばれます)
レリオ、生への回帰は、ピアニスト、マリーとの婚約解消という大変シビアな体験から生み出されています。

この曲、一度だけ、東京文化会館5階の音楽資料室でレコードを借り、聴いたことがあるのですけど
(ブーレーズ指揮だったような記憶があります)
テキスト朗読は外国語でさっぱり分からないし、印象としては「あまりにも散漫すぎてよくわからない」という感じでした。

幻想交響曲という音楽史に残るメジャーな曲で、現在でもプロの管弦楽団のレパートリーとして定着し続ける曲の
姉妹作というか続編にこんなヘンな曲があるという事実は、
ベルリオーズ自身ももしかしたら過去のこっ恥ずかしい思い出とか若かりし日の駄作という事で、もしかしたら
あまり触れてほしくない作品という扱いなのかもしれないです。

ベルリオーズは、幻想交響曲を含めて、交響曲の分野では、いわゆる古典的形式には全くとらわれない自由な形式の
作品ばかり残しているのは、さすが異端児という感じでもあります。

例えば・・・・

〇交響曲「イタリアのハロルド」 → 交響曲というタイトルですけど、実際はヴィオラ協奏曲という側面もありそうです。

〇劇的交響曲「ロメオとジュリエット」 → 大規模合唱を伴い、実際はカンタータに限りなく近いです。

〇葬送と勝利の交響曲 
 → この作品は吹奏楽のための交響曲であったりもします。オプションとして弦五部を入れることも可能です。
       
レリオ、生への回帰は下記の6曲から構成されています。

第1曲 漁師
第2曲 亡霊の合唱
第3曲 山賊の歌
第4曲 幸福の歌
第5曲 間奏曲
第6曲 嵐による幻想曲

第6曲の開始までは語り手のみが舞台の前に立ち、オーケストラ、独唱者、合唱団は舞台に下ろされたカーテンの裏で演奏をし、
第6曲を演奏する時に初めてカーテンが上げられます。

やはり相当ヘンな曲ですよね~

このヘンな曲は一度だけ、吹奏楽コンクールの自由曲として演奏されています。
1989年の東海大学第一中学校が、この「レリオ、生への回帰」を演奏しているとのことですけど、
一体どの部分をどうやって演奏したのでしょうか・・??
すごく気になりますけど、この年の東海大学第一中学校は東海大会ダメ金で全国に進めず、音源が残っていませんので、
今となっては確認の仕様がないのがちょっともったいないです。
ジュール・マスネというと最も有名な作品というと歌劇「タイス」や歌劇「マノン」や歌劇「ウェルテル」などの他に
組曲「絵のような風景」・組曲「アルザスの風景」などが挙げられると思いますけど、その中でも特に際立って有名なのが
歌劇「タイス」の一場面よりヴァイオリンのソロを伴う「タイスの瞑想曲」といえると思います。
タイスの瞑想曲は多分ですけどタイトルは知らなくてもそのメロディーが流れると多分ほとんどの皆様は
「どこかで聴いた事があるかも・・」とお感じになるのかもしれないです。

私にとってのマスネとは、高校3年の定期演奏会で演奏した曲目の一つでもある組曲「絵のような風景」でもあるのですけど、
後述しますけど、1980年の全日本吹奏楽コンクールで就実高校が演奏していたル・シッドのバレエ音楽の超名演が
とてつもなく強く印象に残っています。

J.マスネの 歌劇「ル・シッド」~バレエ音楽は実は知る人ぞ知る隠れた名作と言っても過言ではありませんし、
情熱的でもあるしロマンチックでもあるしけだるい部分あるし南国の太陽サンサンみたいに眩しい部分もあったりと、
かなり魅力的な曲です。
どうしてこの素晴らしい曲が世間一般にそれ程認知されていないのだろうと勿体無く感じたりもしますし、プロの管弦楽団の
演奏会でも上演曲目としてもっともっと取り上げて欲しい曲の一つでもあります。

歌劇「ル・シッド」はスペインを舞台としていて、そのバレエ音楽とは歌劇「ル・シッド」の第二幕に7曲から構成される
スペイン舞曲の音楽の事です。
マノンとかタイスはどちらかと言うと抒情的な香りが漂う作品なのですけど、ル・シッドは、マスネーにしては珍しく歴史的な
英雄伝の作品であり、そのためル・シッドはどちらかというと男ばかり目立ち、女性があまり出てこないような気もします。

ル・シッドのあらすじを簡単に記してみますと・・

ル・シッドとは君主または征服者」という意味なそうでして、スペインの騎士ロドリーグという11世紀に存在したという実在の人物がモデルになっていてこの歌劇の主人公を務めています。

ロドリーグにはシメーヌという恋人がいるのですが、親同士の権力抗争に巻き込まれ、ロドリーグはシメーヌの父を
決闘の末殺してしまいます。
シメーヌはショックを受け親の仇の憎しみと愛の板挟みで苦しみ、ロドリークを拒絶するようになります。
その後ロドリーグはムーア人との戦いの陣頭指揮を任されて出征します。
ロドリーグは戦死したとの報せが届き、皆落胆するのですが、それは誤報で、敵からもル・シッド=征服者と呼ばれる程の
活躍で勝利し、ロドリーグ達はやがて華やかに凱旋してきます。
人々は歓喜で出迎えますが、シメーヌへの罪の意識から自害しようとします。
国王は裁きをシメーヌに委ねますが、本心はロドリークを愛しているシメーヌはロドリークを赦し、その求愛を受け入れ
ラストはハッピーエンディングで締めくくられます。

ル・シッドにはグランドオペラ」の流儀にのっとって2幕に7曲からなるバレエが入っており、これが歌劇「ル・シッド」のバレエ音楽
と呼ばれる由縁でもあったりします、
同じような作品としては、グノーの歌劇「ファウスト」のバレエ音楽があります。
グノーのファウストのバレエ音楽も吹奏楽コンクールで一時期よく演奏されていたものでした。
(1982年の阪急百貨店と1997年の東京ガスの「ファウスト」のバレエ音楽はとても素晴らしかったです)
ちなみにですけど、2019年末時点で、ル・シッドのバレエ音楽とファウストのバレエ音楽は、吹奏楽コンクール全国大会にて
それぞれ5回ずつ自由曲として演奏をされています。

歌劇「ル・シッド」~バレエ音楽は約20分の演奏時間ですけど、内容が多彩で充実していて飽きることは全く無いです。
マスネーはフランス人なのですけど、音楽はスペインそのものです。
7曲から構成されますが、1・3・5・6・7曲が、いかにもスペインらしい華やかでリズミカルな部分から構成されていて、
2・4曲がけだるさ・抒情的なロマンを演出した部分であり、この対比も極めて鮮やかで面白いです。
特に1.3.6・7曲がそうなのですけど、曲の至る所「カスタネットが効果的に使用されていて、いかにもフラメンコ・闘牛みたいな
雰囲気とノリで華麗にカタカタ鳴らしているのが極めて印象的です。

J.マスネの歌劇「ル・シッド」~バレエ音楽は下記の7曲から構成されています。

Ⅰ.カスティリャーナ

Ⅱ..アンダルーサ

Ⅲ.アラゴネーサ

Ⅳ.オーバード(朝の歌)

Ⅴ..カタルーニャの踊り

Ⅵ.マドレーナの踊り

Ⅶ.ナ・ヴァーラの踊り

Ⅰの冒頭はカスタネットを伴ったインパクトのある演奏で曲は始まります。爽やかなメロディーが奏でられると劇的な演奏が
展開され再び爽やかなメロディーがカスタネットでリズムを取りながら奏でられ、
この繰り返しで曲は進行し最後は華やかで激しく曲は終わります。
Ⅱは静かにひそやかに開始され哀愁溢れた音楽がしっとりと展開されていきます。
Ⅲは明るく元気に非常にリズミカルで親しみ易いメロディーで、この曲でもカスタネットがかなり効果的に使用されています。
音楽の高揚感が実に素晴らしいです。
Ⅲのメロディーはラストの第7曲のナ・ヴァーラの踊りの部分で再現されます。
Ⅳはチャーミングでリズミカルな演奏ですけど、ⅠとⅢに比べるとすこしおとなしめです。最後は派手に終わります。
Ⅴは思わずはっ・・とするような新鮮な管弦楽団の音で始まり、スペイン風のリズムの高揚感としっとりとした響きが
交差します。
この部分は1987年の元吉原中学校の演奏でも選曲されていて、あの柔らかい響きは大変印象的でした。
Ⅵの冒頭のコールアングレとフルートの長い掛け合い的なソロで開始され、ここにハープが美しく絡み、
タンバリンのロールから派手な踊りへの部分へと進展していくのですが、実に情熱的というか、まさにフラメンコの世界です!
この部分のピッコロの使い方が実に巧いと思いますし、リズム感が実にノリノリで、聴く方まで自然に踊りたくなるような音楽が
展開され、ここでもカスタネットのリズミカルな響きは大変素晴らしいです。
ラストの「ナ・ヴァーラの踊り」はまさに圧巻です!
終始リズムに乗って生き生きとした音楽が展開されているのですけど、バックのリズムの打楽器はおそらくはプロヴァンス太鼓と
思われます。
プロヴァンス太鼓はビゼーの「アルルの女」のファランドーレの踊りで使用されていたりもします。
プロヴァンス太鼓はフランスの一種の民族楽器みたいなものですので、モチーフとしてスペイン舞踏を使いながらも
フランス魂は忘れないというマスネの気概なのかもしれないです。
そしてこのナ・ヴァ―ラの踊りにおいて後半のカスタネットの響きは、スペイン音楽というよりもむしろ「ラテンの血が騒ぐ」という
雰囲気すらありそうです。

ル・シッドのバレエ音楽をCDで聴く場合のお勧めの演奏は東芝EMIから出ている、ルイ・フレモー指揮/バーミンガム市響の
演奏が素晴らしいと思います。
カップリングも、マスネの絵のような風景とシャルパンティエの「イタリアの印象」ですので尚更よいです。
フレモーの指揮は一度だけ生演奏で聴いたことがあります。
1997年の日本フィルの演奏会だったのですけど、ラヴェルのピアノ協奏曲にボレロなどといった
フランス音楽系のプログラムでしたけど、とても色彩感溢れる演奏を聴かせてくれて楽しかったです。
フレモーは、ベルリンフィルでお馴染みのサイモン・ラトルが有名になる前に「バーミンガム市交響楽団」で音楽監督を務め、
同響の演奏能力を飛躍的に向上させ、ラトルにバトンタッチさせた事でも知られています。
フレモーは、第二次世界大戦中は、フランスの「レジスタンス闘士」としても大変苦労をされた方との事ですが、
中々気骨がある方なのかもしれませんね。

ここから下記は吹奏楽コンクールの話です。

当プログでは何度も何度も1982年の就実高校の「幻想舞曲集」の素晴らしい名演を語らさせて 頂いているのですけど
80年の「ル・シッド」も勝るとも劣らないとにかく素晴らしい演奏を聴かせてくれています。
私にとっての就実高校というとル・シッドと幻想舞曲が双璧といえそうです。
(81年のアラゴンや村松先生勇退の年の95年のキューバ舞曲も素晴らしい演奏です!)

1980年までの吹奏楽コンクールは中学・高校の部は45名までが上限で、1980年まではピアノ・ハープは使用禁止です。
翌年以降、奏者の上限は50名に増員され、ピアノ・ハーブの使用も可とされます。
そのため1980年の就実高校は45名編成ですし、自由曲の「マドリッドの踊り」のフルートとコールアングレのソロの
掛け合いの部分は原曲通りハープを使用してほしいという感じもあるのですけど、  ハープによる華麗なるグリッサンドみたいな
流れるような装飾音符ではなくて その代わりに、マリンバとヴィヴラフォーンで代用し、洗練さや繊細さには幾分欠ける
感じもなくは無いのですけど、
あまりにもフルートとコールアングレのソロが素晴らしいので、そんなつまらない事はほとんど気にならないです。
そしてこの二つの楽器のかなり長大なソロの部分が終わると大変生き生きとした躍動感あふれる場面へと
切り替わるのですけど、 そのダイナミックスレンジの幅広さは当時の高校の部の中でも超高校級の怒涛の名演だと
感じずにはいられないです。
特に木管楽器の細かい動きがほぼ完璧で、ピッコロの甲高い響きが実によくマッチしていると 思います。
打楽器セクションも大太鼓・シンバルがドスン!と打点がドンピシャですので、 大変心地よく感じます、
マドリッドの踊りの後半のカスタネットの響きが実にリズミカルで気持ちの良い鳴らし方をしているのが大変印象的です。
Ⅶのナ・ヴァ―ラの踊りは圧巻ですし文句のつけようがない演奏です。
厳密に言うとトランペットの破裂音が少し気になるとか、原曲ではプロヴァンス太鼓が入る部分を タンバリンで代用しているとか
細かい事を言うと色々あるかもしれないですけど、正直そうした小さい事はこの圧倒的名演の前では
単なる揚げ足取りなのだと思います。
この第Ⅶ曲ですけど、雰囲気は、まさに南仏の雲一つない青空の下で、楽しげにダンスに興じているという 感じなのですけど、
就実の演奏はまさにそんな感じです!!
とにかく一点の曇りもなく澄み切った爽快さが曲ににじみ出ていると思います。
ラスト近くのカスタネットの響きが実に切れていて、この部分も大変好感が持てます。

こういう素晴らしい演奏が本当にプログラム一番だったなんて今現在の視点では正直考えられないものがあります。
1980年の高校の部の金賞受賞チームのレヴェルは大変な高水準なのですけど、就実の演奏はそれを象徴するものであり、
この年の異常にレヴェルが高い高校の部のトップバッターとして本当に相応しい立派な演奏だったと思います。
プログラム一番というと前年の1979年の私の吹奏楽の「原点」とも言える市立川口高校の
ネリベル/二つの交響的断章も本当に素晴らしい演奏で、
市立川口も就実もどちらも甲乙つけ難いプログラム一番だったと思います。

本当にこの年の就実は素晴らしかったと思います。
課題曲のオーボエ、自由曲のコールアングレに代表されるソロ楽器も素晴らしいし、
全体の高度な技術も素晴らしいし、南国のカラっとした底抜けの明るさを爽やかに表現したその表現力も素晴らしいし
とにかく全部が素晴らしいと思います。





ここから下記はららマジに登場するカスタネット奏者の奥村映について少しばかり記したいと思います。

カスタネットは木製の打楽器で、体鳴楽器に分類される打楽器の一つです。
スペインで特に発達した楽器であり、スペインの民族音楽に欠かすことはできない楽器であり、
スペインの舞踊フラメンコにおいては、今現在も踊り手にとっては必要不可欠な楽器でもあります。
カスタネットの情熱的なリズムの刻みは心地よいですし、あの躍動感は素晴らしいです~♪ あのカタカタと小気味よいリズムを
耳にしただけで既に気分は南欧気分になりそうです。
カスタネットは、手のひらに納まるくらいの丸い貝型の木片を2枚合わせ、これを打ち合わせることによって音を出す楽器
なのですけど、端にひもを通してつなげ、このひもに親指を通して楽器を保持したり2枚の開き具合を調整しますし、
基本的には音程がわずかに異なる二つのカスタネットを右手と左手の両方に持ち、一般的には音程が高い方のカスタネットを
右手に持つことがスタンタードです。

ららマジでカスタネットを担当しているのは奥村映という中性的な雰囲気の高校2年生のJKさんでけど、
カスタネットを使ったフラメンコが特技で、カスタネットの手入れも欠かさず行うとの事です。
ららマジの打楽器パートのトライアングル奏者はかなりの不思議ちゃんの女の子なのですけど、奥村映も少しそうした
不思議ちゃんみたいな雰囲気も無くはなく、どちらかというと男性的でもないし女の子そのものという感じでもないし、
少し不思議な中性的な女の子という印象もあったりします。
少しだけ鈍感な性格というのも、不思議ちゃん系としての浮世離れした性格の為せる業なのかもしれないです。

奥村映の足は黒タイツで包まれていますけど、この黒タイツというのが理系のお姉さんっぽい雰囲気も出しているのかも
しれないです。


_convert_20200210185208.png

_convert_20191113155117.jpg


カスタネット担当の奥村映はららマジ屈指の大食いキャラともいえそうですし、
食べるのが大好き~♪というすてきなJKさんであったりもします。

普段もそうですし、カスタネット叩いている時もどちらかというと無表情で中性的な雰囲気を醸し出していますけど、
食べている時は普通の女の子という印象でもありそうです。

少しミステリアスで長髪の美少女がおいしそうに大盛ラーメン食べている姿は「ラーメン大好き小泉さん」と被りそうですね~♪

ラーメン大好きで大食いの女の子は、小泉さんも奥村映も含めて意外と中性的な女の子が多いのかもしれないです。


_convert_20200210185109.jpg


ららマジ器楽部のモデル地は東京都東大和市なのですけど、ららマジでは東大和市をモチーフにした東奏市が
舞台となっています。

ららマジにおいて何度か東大和駅をモデルにしたと思われる東奏駅が登場していますけど、ららマジの東奏駅は
とても幻想的で美しいと思います。

ちなみに現実の東大和駅は西武拝島線の東大和市駅の事なのですけど、
東大和市駅 は立川市との境界上にあり、多摩都市モノレール線は東大和市、西武拝島線は立川市となるそうです。
「女子高生の無駄づかい」の聖地である東村山市にある西武多摩湖線の武蔵大和駅は市域に近接していたりもします。



東京MXの深夜アニメの充実は本当に素晴らしいものがありますし、話題作や最新作やちょっとエロ系の深夜アニメが
ここで放映される事が多々ありますし、実は私自身地上波で視聴しているアニメ作品の放映局は、東京MXとテレビ埼玉が
ほとんどです。

さてさて、その東京MXの再放送枠において、本日・・、4月6日より懐かしのアニメ作品の放映が開始されます。

その作品が何かというと、毎週日曜日に放映されていたアニメ・世界名作劇場の中で1979年から一年間放映されていた
「赤毛のアン」です。
赤毛のアンは、初期の頃のアンのとてつもない夢見る少女の脳内妄想の世界やアンのとてつもないおしゃべりに
いささか閉口したものもありましたけど、親友のダイアナのかわいらしさや養父みたいな存在のマシュウの「そうさのう・・」と
いったおっとりとした存在感やアン自身の成長もあり、夢見る少女のすてきな成長がリリカルに描かれていて、
とても好感を感じていたものです。
後にアン自身の伴侶となるギルバードに対して、ギルバートが初期の頃にアンの事をにんじんとバカにした事もあり、
アンがそれに対して怒りを覚え石板をギルバードの頭に叩きつけていたシーンも大変印象的でした!
世界名作劇場というとフランダースの犬・家なき子(母を訪ねて三千里)・あらいぐまラスカルなどが大変印象的ですし、
当時の吹奏楽経験者の皆様の視点で言うと、これらの作品のOPがミュージックエイト等より吹奏楽アレンジ版楽譜として
出版されていて、私自身も中学の頃の文化祭等で、母を訪ねて三千里とかトム・ソーヤの冒険とかペリーヌ物語を
演奏した記憶があります。
大学の吹奏楽団でもなぜかしりませんけど当時の世界名作劇場で放映されていたポリアンナ物語とか若草物語のOPを
演奏していた記憶もあります。
そうした世界名作劇場のOPのアニソンはすてきな名曲が揃っているのですけど、そうした中にあって異彩を放っていたのは
その「赤毛のアン」のOPとEDだったと思います。
赤毛のアンのOPとEDも吹奏楽にアレンジされていてスコアも出ていて、私自身も赤毛のアンのOPのアニソンは
演奏した事はありますけど、吹いていても「あれれ・・? 前作のペリーヌ物語や家なき子の曲の雰囲気とは明らかに一線を
画しているなんだか普通のアニソンとは異なる曲」というのは当時から実はなんとなく感じ取ってはいました。
余談ですけど、ペリーヌ物語のペリーヌはほんとうに素晴らしい美少女さんで、ペリーヌ物語は毎週楽しみに
視聴させて頂いておりました。
ペリーヌ物語の原作は「家なき娘」といって家なき子の姉妹作に近いものがあるのですけど、原作は母親の死の場面から
開始されますが、アニメの上では開始から三か月近くはインドからフランスまでのペリーヌと母親の旅を描いていて、
今にして思うと原作には存在しないアニメオリジナルストーリーといえるのだと思います、

赤毛のアンのOPとEDがそれまでの世界名作劇場のアニソンの作風と少し異なると感じられるのも実は当たり前の話
なのかもしれないです。
だって赤毛のアンのOPやEDを作曲されていたのは、当時は既に邦人クラシック音楽作曲界の大御所にして
桐朋学園大学の学長を務められていた三善晃です!
三善晃というと当ブログでもこれまで何度も何度も秋田南高校・大曲高校・新屋高校・習志野高校・神奈川大学・常総学院等の
名演でお馴染みの「交響三章」の孤高の世界を作曲された偉大な先生とか
吹奏楽コンクールの世界でも深層の祭り、クロス・バイ・マーチといった不朽の名作課題曲を後世に残された事で
その御名前が登場していましたけど、実は「赤毛のアン」のOPやEDの曲も残されていました!

赤毛のアンのアニソンのファンタジー感やアルトサックスのソロの扱いの巧みさは三善晃っぽい感じもありそうです!

赤毛のアンの音楽担当は毛利蔵人なのですけど、毛利蔵人は三善晃の弟子に相当し、三善晃自身が赤毛のアンの
アニメ内のBGM担当作曲家として毛利蔵人を推薦し、結果的に一つのアニメ作品としてクラシック音楽作曲家の師弟コンビが
担当するという凄い結果になりました。

三善晃自身は「赤毛のアン」の中では、オープニングテーマ「きこえるかしら」とエンディングテーマ「さめないゆめ」、
挿入歌「あしたはどんな日」と同じく挿入歌の「森のとびらをあけて」・「花と花とは」を作曲しています。
挿入歌の「涙がこぼれても」と「忘れないで」と「ちょうちょみたいに」は毛利さんの作曲となっています。
1979年当時は既にたくさんの大胆で前衛的な作品を数多く発表されていた三善晃ですけど、「赤毛のアン」においては、
夢見る少女・アンにふさわしいロマンチックなアニソンを書かれています。
子供向けの単純な音楽に終わることはなく、他のアニソンとは一線を画する卓越した手法が用いらていて、
特に衝撃だったのは、アニソンなのにそのOP楽曲においては、小休止をはさんでいたり、アルトサックスという管楽器に
間奏中のソロの役割を与えていたことが挙げられると思います。
当ブログにおいて、私自身10年間の吹奏楽生活において中三の一年間のみアルトサックスを吹いていたと記しましたけど、
そのアルトサックス時代にはいうまでもなく「赤毛のアン」のOPの間奏のアルトサックスのソロを吹きましたけど、
吹いていても「なんという壮大でロマンチックな曲!」と感じていた反面、
従来のアニソンというと例えば宇宙戦艦ヤマトやマジンガーZ等の勇壮なイメージとは全く逆の面も有していて
「なんという個性的な曲!」と感じていたものでした。
但し、当時の私には赤毛のアンの作曲者の三善晃がどういう御方でどれだけ偉大な御方であるかという認識は微塵も
有していなくて、私自身が三善晃の偉大さを初めて知る事になったのは、その2年後の吹奏楽コンクール・東北大会で
大曲高校吹奏楽部が自由曲として演奏していた三善晃の「交響三章」がきっかけでもありました。
(「交響三章」の特に第一・第三楽章における「亡びの美学」のわびさびの響きは何度聴いても飽きることは全く無いです!)

それにしても「きこえるかしら」は今聴いても色褪せない斬新な曲想だと思います。

フランス近代音楽を思わせる色彩的な和声と楽器法もそうですし、現代音楽ではお馴染みであったものの
一般にはなじみが薄いテンプルブロックによるアクセントを意図的に強調していたり、
ピアノとハープ、チェレスタの雰囲気を大切にしていたり、はまた世界名作劇場シリーズとしては初めてアルトサックスを
使用していたりと、只者ではない雰囲気がアニソン一曲からも窺い知る事ができると思います。
EDではチェレスタとピアノの二重協奏曲かと錯覚するほど16分音符がスコアの両パートを埋め尽くしているのも
凄い・・としか言いようがないと思います。

クラシック音楽作曲家がアニソンも手掛けるというのは今現在は珍しくもなんともない話であり、例えば和田薫や
天野正道などでもお馴染みだと思います。
ちなみに天野正道はまだ無名時代に実は映画「うる星やつら1 オンリーユー」の音楽を担当されていますし、
「犬夜叉」の音楽等でもお馴染みの和田薫の奥様は「フレッシュプリキュア」のキュアパインでお馴染みの中川亜希子さんで
あったりもしますルン~♪

三善晃が「赤毛のアン」というアニソンを作曲されていたのも当時は意外だったのかもしれないですけど、私的にもっと
ぴっくりしたのは、三善晃が1988年に全日本吹奏楽コンクールの課題曲を作曲されていた事でもありました!

技術的に難解であると同時に音楽の内容の点で大変優れている課題曲の一つとして
大いに推したい課題曲が三善晃作曲1988年の課題曲A/吹奏楽のための「深層の祭り」です!

最初に三善晃が吹奏楽コンクールの課題曲を書き下ろしたと耳にした際は「え~、すごーい!」と感じたものでした。
(それは間宮芳生も全く同じでした)
三善晃というと1988年時点では既に日本のクラシック音楽作曲家の重鎮の一人であり、とてつもない大物先生であり、
交響三章・響紋・夏の錯乱・レクイエム・協奏的決闘・変容抒情短詩・管弦楽のための協奏曲や数多くの合唱曲を既に
作曲されていて、「そんな恐れ多くてこんなアマチュアを対象にした吹奏楽コンクールの課題曲を委嘱するなんて怖いかも・・」
といった雰囲気もあったと思いますけど、逆に言うとそれだけこの当時の吹奏楽コンクールは既に
大変なレヴェルの高さを有していましたので、こうした大御所の作曲家の先生に課題曲作品を委嘱しても
全然問題ないという感じだったのかもしれないです。

それにしてもこの吹奏楽のための「深層の祭り」はあまりにも奥が深くて音楽的内容が充実した素晴らしい名課題曲だと
思います。
演奏時間4分程度の決して長くは無い曲なのですけど、この4分程度の時間にはぎゅ~っと凝縮した
音楽的緊張感と張りつめた内省的充実感が漲っていると思いますし、
確かに聴いていて「楽しい」と感じる部類の曲では全然ないのですけど、あの精神的にピンと張りつめた空気が醸し出ている
曲だと思いますし、発表した場がたまたま吹奏楽コンクールの課題曲だったという感じでもあり、
この曲はブロの管弦楽団の定期演奏会の一曲目として(管弦楽と打楽器だけで)演奏しても全然遜色のない曲
なのだと思います。

「赤毛のアン」の再放送をご覧頂けた場合は、その音楽にも着目して頂けるととてもありがたいです!
実はなのですけど、おかげさまで本記事をもちまして「クラシック音楽カテゴリ」が通算400記事に到達をいたしました~♬

当ブログをご覧頂いている皆様の視点ですと
「いつも東方・艦これ・小泉さん・プリキュア・ごちうさといったアニメ・漫画・ゲーム作品の記事ばかり書いている
頭の悪そうな人がどうして時々専門的でお堅く真面目なクラシック音楽記事を書いているの・・??」と疑問に感じる方も
多いのかもしれないですけど、当ブログの管理人はもともと吹奏楽出身で、通算10年近く吹奏楽団でクラリネットを吹いていた
経験があり、そうした吹奏楽にどっぷりと浸かっていた時期に同時にクラシック音楽の奥深さに目覚めてしまい、
かなり若い時期から吹奏楽・クラシック音楽が大好きだったという事情が大きいのだと思います。
ブログというものは基本的には私はテキトーでいいと思っていますし、管理人が興味を持っていることや大好きなことを
好きなように書くのがブログと思っていますし、私自身誰かに見てもらうという事よりは、どちらかというと
自分自身の記録というか後年こうした記事を自分自身が振り返って見ることによって
「自分はこんなことに興味がありこのように考えていた」という自分史というのか自分の軌跡を目に見える形でなにか残して
おきたいというのが実はこのブログの最大の続ける動機であったりもします。
そして2016年以降はそれに加えて、「dream fantasy」の
アミグリさんが描かれた素晴らしくて美しい絵をとにかく一人でも多くの人に見てほしいという動機も加わりました。

人間というものは決して単純な生き物ではないと思いますし、趣味嗜好がある時期から変化するとか
昔はAという考え方に惹かれていたけど最近はAと相反するBという考えにより共感するようになったとか
格闘技や相撲といった男くさいスポーツが趣味だけど同時に家で萌えアニメを見るのが大好きということだってあると
思います。
人間にはそうした多様性があり、「あの人は✖✖だから」という一つの側面だけで判断できないのがむしろ人間らしいところでも
ありますし、当ブログのように前日は「ゆかりん大好き!」とか「小泉さんのあの不愛想さはすてき~♪」と書いていた管理人が
翌日にはガラリと趣向を変えたお堅い音楽記事を書くことはむしろ人間の人間たるゆえんだと思いますし、
人の心の深層にはもしかしたら相反するようなものもどちらも大好きになってしまうという複雑な多様性を持ち合わせている
のかもしれないです。
そしてブログというものはそうした人の多様性を発揮する場でも全然OKだと考えますし、そうした自分自身が大好きなことを
自由自在に書くことができる場というのがブログの良い点なのだと思います。
そしてテキトーに自由に気ままに書いているだから、誰かに読んでもらうために記事にするという趣旨ではなくて
あくまで自分のために書いているという事で、別に反響は特段気にしないようにしているという感じでもあります。

当ブログのはじまりは実は「音楽ブログ」であったという事をご存じの方はほぼ皆無だと思いますし、ブログ開設から
2年目を迎えたころあたりまでは、当ブログは実は典型的な閑古鳥ブログでして、一日の閲覧者は平均5~6人前後で、
最初に頂いたコメントはブログ開設から約一年後というありさまでもありましたけど、当時は例えば私自身が大好きで
吹奏楽・クラシック音楽の深い森の中に迷い込むきっかけにもなった花輪高校吹奏楽部・秋田南高校吹奏楽部・
就実高校吹奏楽部やウォルトンの交響曲第1番、矢代秋雄と松村禎三の交響曲やプロコフィエフの交響曲や
トゥリーナの幻想舞曲集などといった正直わかる人にしかわからない記事を自由気ままにテキトーに書いていて、
あの頃はむしろのびのびといい加減に書いていたようにも感じられます。
だけどそうしたマニアックな記事だけを書いていたらネタも枯渇しますので、当時としては
「十分音楽に関するどうしてもこれだけは書いておきたいというネタを記事にしたからあとはこの先ずっと放置でもいいかな・・?」
とも思ったりしましたけど、
「放置するのもなんだし、それでは音楽以外に自分が大好きなことを書くのもいいかも」と思うようにもなり、
それが2012~15年までのプリキュア路線、2016年から現在に至る東方路線になっていったと思いますし、同時に
2013年頃より偶然「dream fantasy」という素晴らしい
ブログに出会い、アミグリさんというすてきな絵師様の描かれた絵を一目で大好きになってしまい、東方路線とミックスさせる
形でもってアミグリさんの描かれた絵をご紹介させていただくという現在の路線に落ち着いております。

管理人の私自身は、吹奏楽もクラシック音楽も東方も艦これも小泉さんもプリキュアも埼玉も千葉ロッテマリーンズも
アミグリさんの絵もみんな大好きという事ですし、東方や最近のかわいい萌えアニメ作品や美少女JKさんアニメを楽しむのと
まったく同じ感覚で吹奏楽やちょっと堅めのクラシック音楽も楽しんでいますし、人が楽しむことにおいて
そうした境界は何もないものと考えています。

今後とも東方や小泉さんを語るときとまったく同じ感覚で少し堅めのクラシック音楽記事もこの先も語っていくことになるかとは
思いますので、今後も当ブログの吹奏楽やクラシック音楽カテゴリのほうも何卒宜しくお願いいたします。


_convert_20191225175231.png

_convert_20191225175255.png


一時期、吹奏楽やクラシック音楽カテゴリ記事を書くと反響・アクセスががくっと低下するのでこれらの記事を避けていた
時期もありましたけど、前述のようにブログは誰かのためではなくてあくまで自分の軌跡の記録と趣味のためでも
ありますのでも最近はそうしたアクセス低下は気にしないようにしています。
そして最近の傾向として、これらの記事に「響け!ユーフォニアム」と「ららマジ」をミックスさせることで、少しだけ萌え要素や
わかりやすさも出てきたせいなのか、ここ最近はそうしたカテゴリ記事でもアクセスや反響が以前とは比べ物に
ならないほど大きくなっているのはとてもありがたいです~♪

ららマジ器楽部の編成はツッコミどころが満載ですね~♪

チューバは無いけどワーグナーチューバはあったり、オーボエは無いけどなぜかコールアングレはあったり、
ファゴットもコントラファゴットはあるけどなぜかバスクラがなかったり、
ベース・エレキ・ウクレレとギター系の楽器が三本もあったり、ユーフォニアムが管弦楽と同様に配置されていなかったり、
胡弓・箏といった邦楽器があったり、
30人編成なのに、ドラムス・グロッケンシュピール・和太鼓・トライアングル・タンバリン・カスタネット・シンバルの
打楽器セクションはかなり充実していたり、
なぜかシンセサイザーまであったり、基本的には吹奏楽の編成に近いけどなぜかヴァイオリンやチェロ・ハープも配置される
など現実ではあまりありえない編成ゆえにその自由さは素晴らしいものがあると思います。

奏者はドラムスとハープと箏を除くと基本的には全員スタンドアップして演奏していますけど、コントラファゴットは基本的には
立って演奏をする事が出来ないので、椅子に腰かけて演奏しているのは、「わかっているね~」という感じでもあります。

こうした自由な編成による自由な音楽は是非ぜひ聴いてみたいものです~♪
本日のファースト記事にて触れたとおり、おかげさまで本日をもちまして当ブログのクラシック音楽が400記事に到達
しましたけど、そのファースト記事においては特段クラシック音楽には触れていませんし、
せっかくのクラシック音楽カテゴリの節目ということでもありますので、本記事においては私の大好きな作曲家の一人でもある
ショスタコーヴィッチについて少しばかり取り上げさせて頂きたいと思います。

ショスタコーヴイッチの交響曲は、何と言っても圧倒的に交響曲第5番(革命)が有名ですし、
この交響曲第5番の人気&演奏頻度&録音頻度は突出していると思います。
当ブログにおいて、ショスタコーヴィッチの記事を書く際は、なぜかあまりにも有名な交響曲第5番ではなくて、
ファゴットが第四~第五楽章で大活躍する交響曲第9番や交響曲第7番「レニングラード」や交響曲第10番や
吹奏楽コンクールにおいて昔も今も定番曲である「祝典序曲」や吹奏楽経験者でないと聴いたことすらないと思われる
「民族舞曲」のことばかり触れているような気もしますので、ここは久しぶりに交響曲第5番を取り上げてみたいと思います。

ショスタコーヴィッチはその生涯で二度ほど政治的にやばい状況を迎えます。
当時のソ連体制においては、国家権力によって睨まれたり監視の対象になってしまうというやばい状況が即自身の
処刑・シベリア送り・強制収容所送りという悲惨な末路に直結していたものですし、
本来音楽というものは自由であり「自分はこのように感じたからこうした曲を作る!!」みたいな事が尊重されるのは
当然の事なのですけど、当時の共産党一党独裁のソ連にはそうした自由は無く、「人民が喜びそうな外面的効果の高い音楽」を
量産する事を求められ、スターリンや音楽官僚が喜びそうな曲を作ることが何よりも求められ、
作曲者自身の内面を描くといった抽象的な音楽は、国家権力によって敬遠されひたすら外面的に明るい音楽を作曲する事が
強く求められていました。
そうした国内状況だったからこそ自由な音楽を求めてソ連体制を嫌って祖国からの亡命を求めたのが
ストラヴィンスキーとかプロコフィエフと言えるのだと思います。
しかしショスタコーヴィッチは律儀にも祖国愛が強いのか、面倒な事を嫌ったのか、家族の反対にあったかは
よく分かりませんけど、生涯一度も亡命する事もなくその生涯において終始変わらずソ連体制の中で生き続け、
その生涯をソ連の中で閉じた方なのです。
本当は、マーラーみたいな音楽を書きたかった欲求もあったのかもしれませんけど、
(それを強く示唆させる音楽が交響曲第1番や交響曲第4番といえるのかもしれないです)
時に自分の内面に忠実な作品を書きそれが国家からの批判を招き、その反動として外面効果が高い分かり易い曲を残すという「御用作曲家」みたいな面を持つという事で、本当に苦労が絶えない人だったと思います。
だけどその反面。ショスタコーヴイッチの交響曲第4番や交響曲第15番を聴いてしまうと、
「もしかして、マーラーの音楽史的な後継者はシェーンベルクじゃなくて実はショスタコーヴィッチではないのか・・!?」とすらも
勘ぐってみたくもなりそうです。

ショスタコーヴィッチの政治的にやばい状況の内の一回目は交響曲第4番やバレエ「明るい小川」を作曲していた頃です。
これらの音楽が「抽象的で訳がわからん」という事で睨まれ、当時はソ連の御用新聞のプラウダや音楽官僚たちから
「音楽の荒唐無稽」というとてつもない大批判の大合唱を受け、ショスタコーヴィッチ自身も一時は、自身の逮捕・処刑・流刑を
覚悟した事があるというのはどうやら本当の事のようです。
その代償として作曲されたのが、ショスタヴィッチの代表作、交響曲第5番というのも皮肉な話であり不思議な感じがします。
そしてやばい二回目は、第二次世界大戦終了後に戦争勝利記念作として発表された交響曲第9番が要因となります。
スターリンにとっては、「この交響曲は特別な存在であるべきである。なぜなら我々は戦勝国だからである。
だからこの祝祭的な交響曲は、合唱などを入れ大規模に国家の勝利を讃える必要がある」などと命令したかどうかは
よく分かりませんが、そうした気持ちは幾分は持っていたのかもしれません。
だからこそこの第9交響曲が「洒落っ気に溢れた軽妙曲」であったことにスターリンは激怒し、
「俺の顔を潰しやがって・・・」みたいな気持はどこかにあったかもしれません。
そしてジターノフ批判という大批判キャンペーンが展開され、ショスタコーヴィッチはこの危機に対しては、
オラトリオ「森の歌」で大衆迎合用の分かり易い曲を提出し難を逃れています・・・
ちなみの「森の歌」の初版の歌詞のラストは「スターリン万歳!!」だそうです。
(スターリンの死後その讃美の歌詞は削除されています)

そうした色々複雑な背景&事情があった交響曲第5番ですけど、作曲者本人にとっては自分自身の生命が掛った
ある意味起死回生みたいな曲だったと思います。
音楽評論家の解説、指揮者の解釈によって様々な見解が分かれる曲ですし、事実様々なアプローチが可能な曲だと思います。
同時に、「ショスタコーヴイッチの証言」という本(実は創作物という見解も根強いようです)の一節にある通り
「終楽章は歓喜ではなくて、強制された歓喜の悲劇」という解釈も一理あるのかもしれません。

実際はどうなんでしょうか・・・?

この曲は生演奏で聴く機会が比較的多かったもので、何回か聴いた事はありますが、悲劇的な感じとか強制された
という印象はありませんでした。

当時の権力者・社会・自分を快く思わない人達とショスタコーヴィッチ自身が戦った結果としての讃歌を感じてしまいます。
終楽章は、「当時の権力者に迎合して彼らが気に入るような曲を書くのも一つの自由、それに反抗して
結果的に自分の命を縮めてしまうのも自由、それを選択するのは権力者自身ではなくて、自分自身なのだ!」
というようにも聴こえてしまいます。
作曲者自身が本当に「あの終楽章は強制された歓喜」というメッセージをこめたいのならば、
100人中45人程度は「確かにあの曲にはそうした意図があったんだ」という事を分からせるような曲の構成を取らないと
その真意は後世には確実に伝わらないような感じもあったりします。
ショスタコーヴイッチ自身がもしも仮に本当に「あの終楽章は歓喜では断じてない!!
あれは強制された歓喜の悲劇なのだ!!」という事を確実に伝えたいのならば、
そうしたメッセージを明瞭に曲に折り込むべきで、
そうした意図が伝えきれなかった時点で、それは実は作曲者の負けみたいな解釈も可能なのではないかと思ったりもします。
それが自由に出来る政治状況ではなかっのが当時のソ連=スターリン体制なのだという事は勿論百も承知しているのですけど、
そのくらい指揮者によって解釈や見解は分かれる曲なのかもしれないです。

ショスタコーヴィッチの交響曲は、19歳の時に作曲され、その自由な発想が今現在でも高く評価されている
交響曲第1番から開始されるのですけど、
2~3番においては、素材は御用作曲家みたいなものを使用しながらも音楽としての表現方法はかり自由という
実験的側面を有し、そして第4番においては自虐的でかなり内面的で分かりにくいものを残しています。
ここで改めて考えてみたい事があるのですけど、
確かに交響曲第4番を聴いたすぐ後にこの5番を聴いてしまうと、
「この両者の極端すぎる違いはなんなの・・!? この曲を作曲した人、本当に同一人物なの・・?」と感じるのかもしれないですけど、
もしもなのですけど、交響曲第4番を作曲した頃のショスタコーヴイッチ自身が、前述の政治的危機が仮に無かったとしても、
あまりにも2~4番のシンフォニーのウケの悪さや「自分の目指すべき方向性とは少し異なる・・」といった違和感を
既にショスタコーヴィ土自身が感じていて、
「自分が作りたい音楽はこうした前衛的方向性ではない」と既に悟った結果としての交響曲を残していた可能性も
あるのかもしれないですし、自身の命にかかわるようなヤバイ状況が無かったとしても、案外交響曲第5番は
作られていたような気さえします・・・
それは、古典的で明快で分かりやすい交響曲第1番を発表しながらも
亡命時代の2~4番で複雑怪奇で訳の分からん交響曲を残しつつも、ソ連復帰後の交響曲第5番であんなにも霊感と才気煥発に溢れた素晴らしい名曲を残したプロコフィエフともどこか重なる面はあるのかもしれないです。
プロコフィエフ自身も、交響曲第4番を作曲していた頃は、そのあまりのウケの悪さに対してショスタコーヴィッチ同様に
「いやいや、自分が目指したい方向性はこんな事ではない」と悟っていた可能性もあるかもしれないです。

それにしてもショスタコーヴィッチの交響曲第5番は、20世紀が生んだ名曲の一つだと思います。
ある意味、こんな分かりやすい曲は無いとすら感じてしまいます。
こんな曲を聴いていると、前述のショスタコーヴィッチ自身の真意とは果たして何なのかとか本当は何を言いたかったのか
みたいな事はどうでもよくなったりもします。
自分自身への問いみたいな第一楽章は冒頭から前半はゆったりとしたテンポで開始されるのですけど
前半は「本当に自分のやっている事は本当に正しいのだろうか・・他に選択肢は無いのだろうか・・」みたいな
かなりの深刻さが暗示されています。
面白いのは、ピアノの重低音が唐突に入る事で曲想とテンポをガラッと変えている点ですね・・
第二楽章は、何か「過去の自分との対話」みたいなものがイメージされます。
第三楽章は一転して瞑想的な音楽が15分ほど展開されていきます。
そして圧巻の第四楽章はティンパニが実に格好いいですし、ラストのトランペットとホルンの超高音&強奏は、
とにかくすさまじい迫力があります。

そして本記事の結論になってしまうのですけど、
何回聴いてもどう捻くれて解釈してもあの第四楽章に「悲劇性」は感じられませんし、ショスタコーヴィッチが回顧録で記した
「強制された歓喜の悲劇」には聴こえませんし、あれは私の感性ではどう聴いても「自問自答」にしか聴こえないです。


E繝サB_convert_20191118023535


ショスタコーヴィッチの交響曲第5番の終楽章はトランペット奏者にとってはあのとてつもないハイトーンがきつい曲だと
思います。
確かにあの強奏は管弦楽作品の中でも突出した大音響ですし、あのとてつもない大音量は奏者にとっては快楽では
あるのですけど、終楽章ラスト近くのトランペット奏者にとってはあんなハイトーンを大音量でほぼブレスも出来ない状態で
吹奏し続けるという事はとてつもない負担であり、大変なプレッシャーが掛かるとは思うのですけど、それでもあの
爽快感は何事にも耐えがたいものがありそうです。
とんでもないハイトーンの強奏ですので万一音でも外したら一発でバレてしまう曲で奏者にとってはやりがいでもありますし、
同時にプレッシャーのかかる曲でもあります。

「ららマジ」のトランペット担当は、亜里砂・エロイーズ・ボー=ボガードです。

フランス生まれのクォーターで高校2年生のJKさんで、金髪ツインテールがとてもよくお似合いだと思います。
担当楽器はトランペットで、腕前はプロ並で、自分のかわいさが分かっているかのような小悪魔チックな振る舞いをするような
性格もまたまたとってもかわいいですね~♪

公式では「亜里砂・E・B」と略される事が多いです、

バトル時においてはトランペット型のアサルトライフルを武器とします。

亜里砂・E・Bにとってもショスタコーヴィッチの交響曲第5番~終楽章は大変な曲でもあると思うのですけど、天才奏者の
亜里砂・E・Bにしてみれば挑戦のし甲斐がある曲だと思いますし、最後までミスらないで満足のいく演奏ができたとしたら
感極まるものがありそうですね~♪
チャイコフスキーの交響曲と言うと、一般的な感覚で言うと、交響曲第6番「悲愴」が一番有名だと思われますし、
交響曲5番も悲愴と同程度の演奏頻度もあると思います。
私自身、もしも「チャイコフスキーの交響曲で一番好きなの曲は?」と聞かれたら相当悩むと思います。
後味の悪い第四楽章と「ええじぇないか!」の集団発狂みたいな感じの第三楽章が大変印象的な悲愴ももちろん魅力的ですし、
交響曲第5番の全体を貫く循環主題とフィナーレの大団円の爽快さも素晴らしいですし、
4番の華麗さとメランコリーの対比も捨てがたいですし、1番「冬の日の幻想」の素朴さなど
どれもこれも素晴らしいものばかりで甲乙付け難い面は多々あるとは思うのですけど、私的にはいっちば~ん!と感じる
チャイコフスキーのシンフォニーは5番なのかな・・?と感じてしまいます。
(悲愴も素晴らしい名曲ですけど、フィナーレの恨みつらみ・この世への未練等後味の悪さはどうしても感じてしまいます・・)

ただ・・交響曲第4番の魅力も捨てがたいものは多々ありますし魅力は尽きない交響曲だと思います。

チャイコフスキーにとっても、この交響曲第4番は人生の転機の頃に作曲されたものでもありますし、
本人にとっても思い入れはあるような感じもします。
チャイコフスキーの交響曲は、1~3番とマンフレッド交響曲あたりまでは、
それほど際立った個性もあまり感じられませんし、事実演奏会で取り上げられる頻度も決して高くはないです。
しかし、交響曲4番以降は飛躍的に交響曲としての完成度が高くなり、CDに収録される頻度や演奏会で実際に
演奏される回数も1~3番に比べると急激にUPします。

この交響曲第4番の直前にチャイコフスキーは実は人生最大の危機を迎えています。
押しかけ女房的な女性に半ば強引に結婚を承諾したものの新婚生活は半年程度で破綻し、
チャイコフスキーはイタリアに逃避旅行をする羽目になってしまいます。
その時期は自伝によると自殺も一時考えたほど思いつめたらしいのですが、
イタリアの南国の太陽サンサンぶりに心が落ち着きを取り戻したかどうかは分かりませんが、
結果的に何とか立ち直って、再びロシアに戻りどうにかこうにか再び作曲活動が出来るようになるまで回復したのでした。
(結局その伴侶とはその後離婚が成立し、離婚以降は二人は永遠に顔を合わせることはなかったようです・・)

チャイコフスキーの交響曲4番とは、第一楽章~第二楽章の陰気さと第四楽章のフィナーレのバカ陽気の対称性が
あまりにも顕著過ぎとよく批判のタネにされていますけど、これって意外と単純な事で、
第一~第二楽章を作曲していた頃は、ロシアにいる頃の話で妻との離婚を巡る陰鬱な気分の頃の作曲なのかもしれないです。
そしてイタリア旅行中に妻から解放されて、同時に南国の陽気な気候に心もウキウキとなり、
第四楽章の感情爆発の壮麗なフィナーレをルンルン気分で作曲していたのかもしれないです。
この辺りは、あくまで推察ですので、正しい事実はよく分かりませんけど、
意外と正解じゃないのかな・・?というものが曲の隅々から感じられたりもします。

この交響曲第4番が作曲されている頃に、メック夫人と言うチャイコフスキーの人生に大きく関わる金持ち未亡人が登場します。
メック夫人は、年金という形で、チャイコフスキーに毎年定期的な莫大的な金銭援助をする事で、
チャイコフスキーは、特に仕事にあくせくしないで自分が書きたい音楽だけを作曲できる環境に置かれることになります。
チャイコフスキーが生きている頃は、ロシア5人組が活躍している時代とほぼリンクしているのですけど、
例えばボロディンは化学者として、リムスキーは音楽学校の先生として、それぞれに職業を持ち、
その合間に作曲活動をしていた環境とは大きく異なるものがあります。
ロシア5人組がどちらかというと泥臭い曲を残しているのに、チャイコフスキーはむしろヨーロッパの洗練された音楽を
彷彿とさせるよう作品が多いのは、音楽を作曲する環境の違いというのも多少はあるのかもしれないです。
(もちろんチャイコフスキーが作曲した曲の中には、いかにもロシアという感じの曲が多いのもこれまた事実です)
意外な事にチャイコフスキーはメック夫人と生涯一度も会う事は無く、二人の間には膨大な往復書簡が残されているだけです。
(一説には、メック夫人がチャイコフスキーの男色疑惑について調査をし、その結果は疑惑ありと判定だったため
年金を打ち切ったという説を唱える方もいるようではあります)

メック夫人とチャイコフスキーの往復書簡の手紙の中で、チャイコフスキーは交響曲第4番についてかなり細かく書いています。
チャイコフスキーの手紙では、この第一楽章については、
「運命と言うものは、幸福の実現を妨害させる冷酷な力であり、人々が幸せになれないように嫉妬深く見つめているます。
私達は、運命と妥協し嘆き悲しむ事しか出来ないと記しています。
第二楽章のメランコリー漂う雰囲気については、
「仕事、人生に疲れ、夜、本を読んでいてもついウトウトし、いつの間にか本を滑り落としてしまうような感覚」と表現したり
第四楽章については、「言葉の終わるところから音楽が始まる」とか色々と意味深な事を書いています。
この「言葉の終わるところから音楽が始まる」とはどういう意味なのでしょうか・・?
色々と解釈は出来ると思うのですけど、私の受け取り方としては、最後は理屈や論理ではなくて、
その人自身が「自分は幸せだ」と思っていればそれはそれでいいのではないか・・?という事ではないのかなと思ったりもします。
この言葉に前の文章にはどんな事が述べられているのかと言うと、
「あなた自身の中で、どんな喜びも見いだせないというのなら、進んで人の輪の中に入っていきなさい、
人々の喜びの輪の中に入って、そして自分も喜びなさい」と記されています。
どちらかというと人嫌いの傾向が無くも無かったチャイコフスキーをもってしても
「所詮、人は一人では生きていけない」という事を示唆してると言えるのかもしれないですね。

交響曲第4番は、循環主題の形式を取っていて、
第一楽章冒頭のホルンとファゴットのファンファーレは、第四楽章でも再現されています。
(循環主題と言うと次の作品の交響曲第5番の方がかなり顕著ですけど、この4番でも既にこの形式が用いられています)
第二楽章は、何といってもオーボエのメランコラリックなソロが秀逸です。
第三楽章のピッチカートは、奇抜さを感じてしまいます。なんとなくアラビアっぽい雰囲気も感じられますし、
音楽のアラベスクみたいな雰囲気もあるのだと思います。
圧巻は第四楽章で、怒涛としか言いようの無い激しい感情と喜びの感情が爆発しています。
第一~第三楽章で使用される打楽器はティンパニのみですけど、第四楽章で、シンバル・大太鼓・トライアングルの打楽器が
入りますが、ラスト近くにおけるシンバルの怒涛の連打は視覚的にも迫力満点です。
(あのシンバル連打は、同じくチャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」の中間部における
怒涛のシンバル連打を彷彿とさせてくれます)

この交響曲第4番を最初に耳にしたきっかけは、毎度のことですが私の場合吹奏楽コンクールでして、
吹奏楽コンクールにおいては、1970年代頃にチャイコフスキーの交響曲4番はフィナーレの第四楽章が自由曲として
演奏される事が大変多かったです。
第四楽章だけを聴いてしまうと、つい「チャイコフスキーの4番はどんちゃん騒ぎの喧騒なシンフォニーなのか・・?」と
誤解をされがちですので、もしも第四楽章を吹奏楽版で聴いてこの曲について興味を持たれたら、
是非是非原曲を全曲盤で聴いて頂きたいです。
ちなみにですけど、このチャイコフスキーの交響曲第4番第四楽章の吹奏楽コンクールにおいては、
オールドファンの皆様でしたら、福岡電波工業とか響南中学校と言われるのかもしれないですけど、
私としては、1978年の浜松工業とか85年の銅賞なんですけど伊予高校もお勧めしたい演奏です。
(福岡工業大学の演奏も大変印象的です)

上記で記したとおりこの交響曲は第四楽章で唐突に爆発炎上します。

まるで炎のような快進撃が展開され、そこには生きる喜びとか希望に満ち溢れています。

チャイコフスキーの手紙では、この楽章については前述のとおり、
「あなた自身の中で、どんな喜びも見いだせないというのなら、進んで人の輪の中に入っていきなさい、
人々の喜びの輪の中に入って、そして自分も喜びなさい・」
「言葉の終わるところから、音楽は始まっていく」
と記しているのですけど、この言葉を目にすると思い出してしまうのは、2011年に放映されていた「スイートプリキュア」です。


4e726efc_convert_20170504140202.jpg


前述のチャイコフスキーの言葉は、「スイートプリキュア」が一年間掛けて提示したテーマだとも思えます。

どういう事なのかというと、

音符がないなら創り出せばいい。
不幸のメロディの後に幸福のメロディを歌えばそれでいい・・・
不幸と幸せは二つで一つ・・・・
不幸だけを嘆いても意味が無いし、
幸せだけを求めてもいつの日か報いを受けてしまう。

不幸に遭遇したら、いつの日にか再度「幸せ」が訪れるようにやりなおせばいい。

そういう事なのだと思います。

チャイコフスキーの手紙のあの言葉と言うものは、
プリキュアに限らず、「人と人との関わり」においては何か共通するような気もします。

人間が抱えるストレス・悩みのほとんどは人間関係・対人関係なのかもしれないです。

「言った言わない・・・」
「あの時、自分はこういう意図でいったつもりなのに、相手には全く真逆に伝わっていた・・・」
「あの人は陰で自分の事を悪く言っている・・・」
「あの人は裏の顔と表の顔が違い過ぎる・・・」
「あの人を信じていたのに、自分は騙された・・・」
「どうして自分の気持ちがあの人には伝わらないのか・・」
「もうあの日には二度と帰れないのか・・」

色々とあると思うのです。そしてその原因も様々な背景があるのかもしれないです。

結局こうした人と人の間のトラブル・すれ違い・ストレスと言うものを解決する事は、
やはり直接、「その人と向き合っていくしかない」という事だと思いますし、
人間と言うものは時に面倒くさい事もあるけど、やはり人と関わっていかざるを得ないという事なのだと思います。

人と人の間のすれ違いの解決方法結は、その人に真正面からぶつかっていく事しかないようなないような気もします。

それがチャイコフスキーが述べていた「人の輪の中に入っていく」という事なのかもしれないです。


_convert_20191104201818.jpg


上記でチャイコフスキーの交響曲第4番終楽章において、ラスト近くにおいて怒涛のシンバルの連打があると記しましたけど、
「ららマジ」でシンバルを担当するのは強心臓中学生の伊藤萌です~♪
伊藤萌はシンバルを担当しているクールで小さな中学3年生の女の子で、中学生ですけど東奏学園の器楽部でJKのお姉さまと
一緒に音楽を楽しんでいます。

クールな性格の後輩で、「・・・くるしゅうない、です。」など変わった口調でしゃべるのが個性でもあります。また落語を聞くのが
趣味というJCさんにしては大変珍しく渋い趣味を持っていたりもします。

先輩の小田桐アミを師と仰ぎアミのことを「師匠」と呼び慕っているのですけど、実を言うと小田桐アミは元々は
器楽部のシンバル奏者だったのですけど、シンバル奏者は時に「ここで怒涛の一撃を決める!」みたいなプレッシャーを
時に伴いますので、その重圧に耐えきれず、シンバル奏者の地位を後輩の伊藤萌に譲ったという経緯もあったりします。
そして小田桐アミはその後シンバルからピッコロ奏者にパート変更をしています。

アミがいなくなったシンバルは伊藤萌に継承されていますけど、伊藤萌は見た目の少し控えめな雰囲気とは全く異なり、
大変な強心臓の持ち主でプレッシャーに大変強く、「ここでシンバルの強烈な一撃が必要」という時にはしっかりと確実に
決めてくれる頼もしいJCさんであったりもします。

活発だけど小心者なアミと大人しいけど強心臓な萌の対比もとても面白いですね~♪

吹奏楽コンクールの規定においては、付属高校の場合、高校で部員が不足している場合は、付属中学校の生徒も
メンバーに加えてよいという規定があり、
それによって昭和の頃ですけど、明大明治・日大豊山・土佐女子高校などが高校の部だけど何人かの中学生が加わり
全国大会のステージに立ったという話もあったりします。

東奏学園器楽部ももしかしたらそんな感じだったのかもしれないですね。

伊藤萌以外には、ウクレレの卯月幸、エレキギターの卯月真中華、和太鼓の神田茜、鍵盤ハーモニカの瀬沢かなえ
といった中学生が東奏学園器楽部に在籍しています。

チャイコフスキーの交響曲第4番第四楽章のラスト近くにおけるシンバルの怒涛の連打は聴いていて視覚的にも迫力満点です。
シンバルで16分音符炸裂の怒涛のあの連打はクラシック音楽のジャンルでは大変珍しいと思います。

あの場面のシンバル奏者の体力的な負担と集中度とプレッシャーは相当なものがありますけど、強心臓の伊藤萌だったら
楽しみながらのびのびと連打しまくるのかもしれないですね~♪

 | BLOG TOP |  NEXT»»