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プロフィール

ぬくぬく先生 

Author:ぬくぬく先生 
開設当時は、1980年代吹奏楽コンクールの花輪・秋田南・就実・仁賀保・屋代等の素晴らしい演奏を後世に少しでも伝える事が出来ればいいなと思ってこのブログを始めたのですけど、いつのまにか「東方Project」がメインになってしまいました・・・
最近は「艦これ」も大好きです!!
吹奏楽も東方も自分が感じた事を少しでも後世の方に受け継がれるべきものが残せればいいかな・・と思っています。
ちなみに、「大好きプリキュア四天王」は、ドリーム・メロディ・ハッピー・ラブリーです。
ドリームとメロディは自分の中では既に殿堂入り状態ですけど、
現在はラブリー大好き!!のラブリー一辺倒です!!
リアル社会では、建築関係のクレーム&アフター責任者を専従し、毎日毎日クレーム対応に当たる日々です。
裏の顔は東方と吹奏楽とクラシック音楽一辺倒です・・・
特に特に大好きな作品は・・・プリキュア5とスイートとハピネスチャージです!!
ちなみに、奥様は・・・ミルキィローズとセーラームーン好きの管理人以上のおこちゃまです・・・
東方で大好きなキャラは、とにかく大好きキャラがてんこ盛りで、全員大好き!という感じなのですけど、特に、さとり様・ゆかりん(紫様)・早苗さん・こいしちゃん・アリスはお気に入りです!!
吹奏楽では・・ネリベルの「二つの交響的断章」と「アンティフォナーレ」、スパークの「ドラゴンの年」、リードの「オセロ」と第二組曲「ラティーノ・メキシカーナ」、パーシケッティーの「仮面舞踏会」、C・スミスの「ダンス・フォラトゥーラ」などが死ぬほど好きで、クラシック音楽では、ウォルトンの交響曲第1番と矢代秋雄の交響曲、プロコフィエフの交響曲第5番、アーノルドの交響曲第2番、第4番、ショスタコの交響曲第7番「レニングラード」、マーラーの交響曲第3番「夏の朝の夢」、ハンソンの交響曲第2番「ロマンティック」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」、ベルクの「ヴァイオリン協奏曲」、ラフマニノフの「交響的舞曲」などが大好きです!!
クラシック音楽を吹奏楽にアレンジし、そのコンクールヴァージョンの演奏としては・・・
1982年の就実高校の「幻想舞曲集」と
1987年の習志野高校の「ダフニスとクロエ」第二組曲の演奏、そして、
1987年の雄新中の「エルザの大聖堂への厳かな行列」が
まさに私の「原点」です。
最後に・・・
私の吹奏楽との関わりの真の意味での「原点」は・・・
1979年の市立川口高校の神がかり名演としか言いようがない
「二つの交響的断章」に尽きると思います!!


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昨年の春~初夏のころにかけて新型コロナウイルスの感染リスクが高まり全国に非常事態宣言が発令されていた頃は
三密回避とかソーシャルディスタンスの確保という事で、吹奏楽団もプロの管弦楽団もコンサートはほぼすべてが中止となって
いたのは当時はとても残念に感じていたものでした。
だけど新型コロナウイルスは主にマスクを着用しない状態での飛沫を伴う人と人との会話が主な要因になっていますので、
コンサート会場の客席は確かに三密ですけど、基本的にはクラシック音楽のコンサートホールでは人と人との会話は
避けることは全然可能ですし、おとなしく演奏を聴いて拍手をすれば別に他人との会話や接触をする必要はありませんので、
大体昨年の8月あたりからそうした規制も解除され、コンサートホールの収納人数のほぼ100%を収納して演奏会を開催しても
構わないという流れになっていたのは当然至極だと思いますし、
結果論になりますが、吹奏楽コンクールの開催も本当は問題なかったようにも感じられます。
ただ吹奏楽コンクールは早い地区では6月ぐらいから地区予選が開始されますし、練習での飛沫回避という問題は
今現在も完全には解消されてはいませんので、やはり当時の吹連の判断は正しかったといえそうです。
そしてできれば飛沫回避という観点からも吹奏楽コンクールにおける演奏終了とほぼ同時のあの過激で喧しい
ブラボーコールは規制すべき方向で検討して頂ければ幸いでもあったりします。

それにしても改めてですけど音楽は素晴らしいものですし、こうした生の演奏会を聴くことができるというのは本当にハッピーな
事なのだと痛感しています。

管弦楽団の演奏会を聴く楽しみの一つは、曲によっては管楽器のソロがたまらなく魅力的という事が多々ある事です。

吹奏楽で使用している楽器はほぼオール管楽器という事で、その響きは確かに華麗で色彩感に溢れてはいるのですけど
弦楽器+管楽器+打楽器の構成体である管弦楽の響きに到底敵わないというのはある意味当然の事だと思います。
管弦楽の場合、メロディーラインのメインは弦楽器であり、管楽器が果たす役割は、そのメインの管楽器に対する
スパイス的な役割という事でもありますので、管弦楽曲で管楽器がソロとして使用されると演奏効果が
吹奏楽の響きよりもかなり効果的に聴こえるのはその辺りに理由があるのかもしれないです。
私自身は一応はクラリネット奏者の経験の他に短期間ですけど打楽器奏者としての経験もあったりするせいか、
管弦楽団の演奏会でティンパニ以外の各種打楽器が多彩に使用される曲ですと、打楽器奏者の動きを
見るだけでなんだかとてもワクワクドキドキするものがあったりもします。

管弦楽曲のソロというと、これはあくまで私個人の好みですけど
ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」の冒頭のファゴットの超高音域で開始されるソロを思い出してしまいます。
作曲者としては、「鳴らない音を必死で出そうとする感覚」が欲しかったとの事ですが、
奏者にとっては迷惑千万という感覚もあるのかもしれないですけど、作曲当時の事情はどうか分かりませんけど、
今現在のファゴット奏者はあのような超高音域でも楽々と音を出してしまいますから、ストラヴィンスキーが求めた
悲壮感はあまり感じられない感じもあったりします。
だけどあの春の祭典の冒頭ファゴットソロの感覚はいつ聴いてもミステリアスさは伝わっていますね~♪

確か1985年頃のある演奏会のプログラムですが、「管弦楽の中のソロ楽器」と銘打たれた演奏会の企画がありまして、
要は管弦楽曲・交響曲で使用される「管楽器・打楽器のソロ」に焦点を当ててみようという企画だったと思います。
その演奏会で構成された曲目は、当然ながら管楽器奏者たちのソロがたくさん含まれる曲がかなり勢揃い
していましたので、あの時ソロを担当した管楽器奏者たちのプレッシャーはもしかしたら相当なものが
あったのかもしれないです。

どんな曲がプログラムとして構成されていたのかは、30年以上前の話で私もほとんど記憶に残っていないのですが、

〇オーボエ⇒イペール/交響組曲「寄港地」より、Ⅱ.チュニスからネフタへ

〇コールアングレ⇒ベルリオーズ/序曲「ローマの謝肉祭」

〇ティンパニ⇒小山清茂/管弦楽のための木挽き歌~Ⅳ.フィナーレ

〇ホルン⇒R・シュトラウス/交響詩「ティル・オイレンシュピゲールの愉快ないたずら」

〇トランペット ⇒ ムソルグスキー=ラヴェル編曲 / 組曲「展覧会の絵」~プロムナード

〇クラリネット⇒ガーシュイン/ラプソディー・イン・ブルー

〇フルート⇒ラヴェル/ バレエ音楽「ダフニスとクロエ」第二組曲~Ⅱ.パントマイム

などが組まれていました。

他にどんな管楽器のソロがあったのか、その曲目は何だったのか、そもそも指揮者と演奏団体は誰だったのか等の
情報は全然記憶にないのであいまいなのですが、
お客の入りもあまり良くないガラガラの客席での東京文化会館の夏の演奏会でしたが、とても楽しかった記憶は残っています。
当時はまだ都内にサントリーホール・東京芸術劇場・すみだトリフォニーホール・オーチャードホール等が
完成する前の時代でしたので、都内のプロの管弦楽団はN響を例外とするとほぼ例外なくほとんどの管弦楽団は
上野の東京文化会館を使用せざるを得ない時代であったというのも今では到底信じられない話ですね~

オーボエの「寄港地」については素晴らしい選曲だと思います。
オーボエのソロが有名な曲というと他にも例えばチャイコフスキーのバレエ音楽「白鳥の湖」とか
ボロディンの歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊りなども大変名高いものがあると思うのですけど、「寄港地」の第二曲の場合、
演奏時間3分半程度の中で、ほぼ丸ごとすべてオーボエのソロが朗々と響き渡っていますので
あんなにも長時間の単独ソロというのも極めて珍しいとも感じられますので、私にとっては
「管弦楽曲における管楽器のソロ」というと誰が何と言っても真っ先にイベールの交響組曲「寄港地」~Ⅱ.チュニス~ネフタを
思い出してしまいます!
余談ですけど、私自身はクラリネットは通算して9年間吹いていた事になりますけど、クラリネットが大活躍する管弦楽の作品
というと、私自身が実際に演奏経験があり尚且つソロを担当した曲と言うとリムスキー・コルサコフの「スペイン奇想曲」が
大変印象的です。
実際に吹いた事はないですけど、聴いていて「素晴らしいなぁ・・」とうっとりさせられるクラリネットソロがある曲と言うと
シベリウス作曲の交響曲第1番第一楽章の冒頭のクラリネットのとてつもなく長いソロが大変印象的でもあります!
あの部分のクラリネットには、シベリウスらしい「北欧のほのかなうすくらい情熱」が溢れ出ているようにも感じられ、
この曲のミニスコアを後日入手した私は、あの第一楽章冒頭のクラリネットソロを自分で吹いてみたりもしたものですけど、
なかなかあの「ほのかな情熱」みたいな音を引きだす事はできなかったです。

交響組曲「寄港地」なのですけど、イベールの第一次世界大戦中の海軍士官として地中海を航海した経験とかローマ留学中の
イタリア~スペイン~チュニジアの旅行時の経験が見事に曲に活かされていると思います。
イベールが地中海各地で受けた印象をそのまま組曲にまとめた「華麗なる音の絵巻」という感じが
非常に濃厚な一曲だと思います。
目を瞑って聴いていると蛇遣いの妖しい雰囲気とか情熱的な感じとかアラビアの砂漠とか
色々とイマジネーションが勝手に起きてくるのは、さすが・・・!!という感じです!
20世紀の作品なのに、こんなに分かり易くて粋で楽しい作品はあまり無いような気さえします。

この交響組曲は、下記の三曲から構成されています。

Ⅰ.ローマからパレルモへ

Ⅱ.チュニスからネフタへ

Ⅲ.ヴァレンシア

Ⅰ.ローマからパレルモへは、あまり印象に残らないのですが
Ⅱ.チュニスからネフタへの音楽は、まさに「アラビアンナイト」の世界で、
いかにも妖しげなヘビ遣いが、ドロドロと壺の中からへびを出そうとしている妖しい音楽です。
また、聴き方によっては、アラビアの妖しいお姉さん達が
何かだるそうに男を誘惑しているようにも聴くことも可能と言えば可能なのかもしれないですね・・
Ⅲ.のヴァレンシアは一転してスペインの情熱的なカラッとした晴天の音楽です。
後半のカスタネット・タンバリン・シロフォーン・ドラを交えた音楽の高まりとリズム感は情熱そのものです。

それにしてもⅡとⅢのオーボエ奏者は大変プレッシャーがかかる曲だと思います。

一つの楽章においてほぼ丸々と一つの楽器がソロとして使用されている曲は極めて珍しいと思いますし、
オーボエ奏者の腕の見せ所に尽きると思います。
またⅢにおいてもオーボエはソロとしても使用されていますし、オーボエの第一奏者と第二奏者のアンサンブルもありますし
組曲の間中は、オーボエ奏者は一瞬も気が休まる事は無いとすら感じてしまいます。

Ⅲのヴァレンシアの情熱の発散も実に素晴らしいと思います。

Ⅱ.チュニス~ネフタのオーボエのバックのリズムは、ラミッミミ、ラミラミ、ミッミ~という独特な4拍子+3拍子の変則リズム
なのですけど、あの少しギクシャクしたリズムを伴奏に奏でられるオーボエソロは本当に妖しく美しい響きなのだと思います。

そうそう、イベールは日本ともほんの少し関わりがありました。

1940年の「紀元節2600年」の際に日本政府から委嘱を受けて、記念作品として作曲されたのが「祝典序曲」です。
面白い事に、特に日本的なものを意識されて書かれた部分は全く皆無で純粋に喜びに溢れた音楽が14分近くも展開されます。

同じく紀元節の記念作品として委嘱を受けたイギリスのブリテンは
「シンフォニア・ダ・レクイエム」という鎮魂歌を日本政府に送り付け
当然のごとく当時の日本政府から演奏拒否&抗議の洗礼を受けていますが、それもまたブリテンらしい話だと思いますし、
ブリテンは第二次世界大戦後に来日した際に何事もなかったかのようにこの「シンフォニア・ダ・レクイエム」を
N響を使って演奏していたりもします。
ちなみにブリテンとは「青少年のための管弦楽入門」と歌劇「ピーター・グライムズ」で大変名高い御方です。

最後に、交響組曲「寄港地」というと吹奏楽コンクールでも1970年代以降定番の自由曲として今現在でも演奏され続け、
数多くのⅡ.チュニス~ネフタのオーボエソロがお披露目されています。
その中では、これはあくまで私個人の感想ですけど、1981年の習志野高校のオーボエソロを超える演奏は
いまだに出てこない感じがあります。
そのくらいあの習志野高校のオーボエ奏者は素晴らしかったですし、あの年の習志野高校が全国大会初出場とは
到底信じられないのびのびとした名演だったと思います。
新妻先生時代の習志野高校は洗練された美しいフランス音楽を得意にしていて、後年もダフニスとクロエ・海・スペイン狂詩曲
などの名演を残されていますけど、81年の寄港地の翌年の1982年だけはなぜか・・!?バーンズの「呪文とトッカータ」という
バリバリの吹奏楽オリジナル作品を後年の習志野では絶対あり得ないような凄まじい粗くてワイルドな音で豪快に
鳴り響かせていたのは今にして思うと逆にそ意外感がたまらないです~♪
(1995年にも寄港地を習志野高校は自由曲として取り上げていますけど、あれはすいません・・凡演でしたし結果も
1984年以来の銀賞という結果だったのは妥当だったといえそうです)





ららマジの器楽部においては前述の通り、オーボエ奏者はいなくてコールアングレ奏者の白石陽菜のみです。

多分ですけど、オーボエの音色が必要な場合は白石陽菜が楽器を掛け持ちしているのかもしれないです。

白石陽菜は高校2年生のJKさんで血液型はO型です~
気品と度胸あふれるおてんばなお嬢様という設定です~♪

コールアングレ(コーラングレ)は外見的にはオーボエと大変よく似た楽器です。
楽器の先端部が洋梨と形容されるように丸く膨らんでいるのが外観的な特徴で、オーボエよりはサイズは一回り大きいです。
指使いはオーボエとコールアングレは全く同じであり、コールアングレはオーボエより完全5度低い音が出ます。
オーボエは高音域が特に魅力的な音を発するのですけど、コールアングレはオーボエに比べて低い音域を奏でていて、
あの牧歌的だけどどこか内省的な低音域の音はとにかく渋くて魅力的です~♪
オーケストラではオーボエ奏者が持ち替えて演奏することが多いですし、吹奏楽コンクールでもオーボエ奏者が場面場面で
持ち替えることが比較的多いです。

普段はコールアングレを担当している白石陽菜がオーボエに持ち替えてどのように寄港地のチュニス~ネフタを妖しく
美しく響かせるのかは興味津々です~♪


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「響け! ユーフォニアム」第二期のオーボエ奏者はみぞれです。

「響け! ユーフォニアム」ではオーボエ奏者はみぞれ一人だけでしたけど、実際の吹奏楽コンクールでは2人奏者が
いる事がほとんどだと思います。
曲によっては一人の奏者がコールアングレ(イングリッシュホルン)を持ち替えする事も多々あったりします。

私的にはオーボエという楽器は人間の声に一番近くて、その音色は素晴らしい癒しの効果があると思いますし、
例えばボロディンの歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊りやイベールの交響組曲「寄港地」~Ⅱ.チュニスからネフタへや
チャイコフスキーのバレエ音楽「白鳥の湖」~第一幕への情景などの
あのオーボエのソロを聴くととてつもなくうっとりとさせられるものがあると思います。

オーボエという楽器はクラリネットほどではないにせよ、大変神経質な楽器であるとも言えると思います、
神経質というか大変デリケートと言った方がいいのかもしれないです。
そこにあるのはダブルリードの調整というものだと思いますし、前日まであんなに調子よく吹けていたのに翌日になったら
全然不調で音さえロクに出ない・・という大変好不調の波が激しい楽器とも言えると思います。

だからオーボエ奏者は練習する時間よりもリードを削ったり調整している時間の方が長いとよく揶揄されたりもするのです・・
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「コールアングレ」という楽器は、別名、コーラングレとかイングリッシュホルンとか呼ばれていますけど、
私はコールアングレという呼び方が一番馴染みがあるので、当ブログにおいてはこの表記とさせて頂きたいと思います。

管弦楽や吹奏楽の木管楽器とは、フルート・クラリネット・オーボエ・ファゴットが主に該当するのですけど、
(サックスは外見はメタル系楽器ですけど、先端のマウスピースに竹製のリードを装着し振動させて音を鳴らしますので、
サックスは木管楽器に分類されます。但しサックスは管弦楽ではあまり使用されることはないです。吹奏楽ではとてつもなく
重要なポジションを与えられています)
フルートはリードを使用しないメタル系楽器でありますけど分類上は木管楽器として扱われ、それに対して
クラリネット・サックス・オーボエ・ファゴットはリードを使用する木管楽器でもあります。
そのうち、クラリネット・バスクラ・コントラバスクラ・サックス系はマウスピースに一枚のリードを装着させて吹く
シングルリード楽器でもあるのに対して、オーボエ・コールアングレ・ファゴット・コントラファゴットは、上下の2枚のリードの
振動によって音を鳴らすダブルリード楽器であったりもします。

コールアングレ(コーラングレ)は外見的にはオーボエと大変よく似た楽器です。
楽器の先端部が洋梨と形容されるように丸く膨らんでいるのが外観的な特徴で、オーボエよりはサイズは一回り大きいです。
指使いはオーボエとコールアングレは全く同じであり、コールアングレはオーボエより完全5度低い音が出ます。
オーボエは高音域が特に魅力的な音を発するのですけど、コールアングレはオーボエに比べて低い音域を奏でていて、
あの牧歌的だけどどこか内省的な低音域の音はとにかく渋くて魅力的です~♪
オーケストラではオーボエ奏者が持ち替えて演奏することが多いですし、吹奏楽コンクールでもオーボエ奏者が場面場面で
持ち替えることが比較的多いです。
例えばボロディンの歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊りやベルリオーズの「幻想交響曲」~Ⅲ.野の風景などのように
オーボエのソロの後に休みなくコールアングレのソロが出てくる楽曲ですと、最初からオーボエとコールアングレの奏者を
持ち替えせずに単独で配置する事が一般的です。
余談ですけど、今現在はそうした事は全く無いのですけど、1980年代あたりまでてすと、吹奏楽コンクールにおいては、
部内にコールアングレを所有していないのに、ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」やボロディンのダッタン人の踊りを
選曲した際には、コールアングレの代用楽器としてソプラノサックスを充てる事例も多々あったりして、あの代用された音色を
聴くたびにガックリさせられたものです・・(汗)
(ららマジにはオーボエ奏者はいませんので、コールアングレ担当の白石陽菜が掛け持ちでオーボエも担当しているのかも
しれないです)
基本的にはセカンドのオーボエ奏者がコールアングレに持ち替えることが多いですけど、
管弦楽において3管以上の編成では最初からコールアングレを単独のパートとしてスコアに記載されている事が多いです。

私自身の経験楽器は吹奏楽でのクラリネットを9年間とアルトサックスの1年間ですけど、
今現在の視点で申し上げると、「好きな楽器を一から教えてあげるから吹いていいよ」と言われたりしたら、私自身は
多分ですけど迷うことなくコールアングレを選ぶと思います。
その理由はというと、音色と音域が心地よいし聴く人をうっとりさせられるし、あの内省的でやさしい牧歌的な響きは、
吹いていても自分自身で陶酔してしまうほどうっとりとさせられるものがあると思います。
独特の牧歌的でエキゾチックな響きゆえに、管弦楽や吹奏楽においてはおいしいソロ的な扱い方をされる場面も
多々ありますし、吹奏楽の視点で言うと、クラリネットはどうしても役割的に管弦楽のヴァイオリンパートの細かい動きを
そっくりそのままアレンジされてしまう事が多くて、その指の動きが大変なのに対して、オーボエやコールアングレは、
指揮者的にはそうした細かい動きよりも、目立つ所やソロにおいてのそうした独特な色彩と音色でもって、音楽に彩りと
スパイスを添えてあげて欲しい・・という要請の方が強いから、細かい指の動きを正確に吹くというクラリネットパートの役割
よりはむしろ「とにかく美しい音色をたっぷりと聴かせる」という役割を求められていたと思いますし、
オーボエやコールアングレは細かい指の動きに多少難があっても指揮者からは目をつぶってもらえていたというある意味
特権も多少はあったのかもしれないです。

管弦楽においてコールアングレをソロ的に用いた曲は、有名な所では、
ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界」第二楽章のように、大変美味しい場面で使われることが多いです。
確かに新世界のあの鄙びた美しくて牧歌的なコールアングレのソロは、いつ聴いても胸がジーンとしますよね~
コールアングレの楽器そのものの音色が非常に心地よいですし、オーボエに比べると音色は低音のハスキーなのですけど、
俳優に例えると中尾彬みたいな声に近いと思います。
音色だけで大変得をしている楽器というイメージがあると記すと、逆にダブルリード楽器奏者からは
「それはクラリネット奏者のひがみじゃん・・自分達だって日々のリード調整や美しい音色のキープは大変なんだから~!」と
お叱りを受けてしまいそうです・・

独特の牧歌的でエキゾチックな響きから、オーケストラにおいてはソロ的な扱い方をされる場面も少なくないですけど、
それでは具体的にコールアングレのソロを伴う楽曲にどんなものがあるのか新世界以外で挙げてみたいと思います。
歌謡曲では、古い話ですけどガロの「学生街の喫茶店」が有名なのかもしれないです。
管弦楽の分野では、最初にこの楽器を効果的に使用した例は、ハイドンの交響曲第22番「哲学者」だと思ったりもします。

〇H.ベルリオーズ / 幻想交響曲 ~Ⅲ.野の風景

第三楽章のオーボエとコールアングレの掛け合いの部分はかなり魅力的です。
遠くから聞こえる雷を表現するため、ティンパニ奏者4人による雷の描写も大変効果的ですし視覚効果も申し分ないと思います。
指揮者の解釈によっては、オーボエの高い響きをあえて舞台袖から吹かせてコールアングレの低音の響きをステージから
鳴らせて、その遠近感を会場が一体となって演出しているような事例もあったりします。

〇A.ボロディン / 歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊り

 囚われの身となったイーゴリ公の郷愁をイメージさせるオーボエのソロですけど、それに続くコールアングレのソロも大変
 美しくてとてもじゃないけどこの世の響きとは思えない美しさがあります。

〇フランク / 交響曲~第二楽章

〇ロドリーゴ / アランフェス協奏曲~第二楽章

〇ラヴェル / ピアノ協奏曲~第二楽章  同 / スペイン狂詩曲~Ⅳ.祭り

〇ドビュッシー / 管弦楽のための三つの交響的素描「海」~Ⅰ.海上の夜明けから真昼まで

〇ロッシーニ / 歌劇「ウィリアム・テル」序曲

 有名なスイス軍隊の行進の前の牧歌の部分のコールアングレの温和でのんびりとした雰囲気はとても美しいです。

〇J.シベリウス / トゥオネラの白鳥

〇レスピーギ / 交響詩「ローマの松」~Ⅳ.アッピア街道の松

 管弦楽曲史上最大の音響のるつぼと化す曲ですけど、冒頭はコールアングレの美しいソロから開始されます
 (合いの手を打つバスクラも大変いい仕事をしています)

〇M.ファリア / バレエ音楽「三角帽子」~粉屋の踊り

 ホルンの合いの手に導かれてコールアングレだけの音によるソロが朗々と奏されます。

吹奏楽では、小山清茂(前橋商業の大木隆明先生のアレンジ版)の吹奏楽のための木挽歌~Ⅰ.テーマの
コールアングレの長大なソロは鄙びて枯れた感覚が素晴らしいです。
他には、リードのロシアのクリスマス音楽、エル・カミーノ・レアル、スパークのドラゴンの年、
ローストのスパルタカスとカンタベリーコラールなどが大変印象的です。

全般的にはドヴォルザークの新世界のように抒情楽章で特に威力を発揮する楽器と言えそうです。

そしてコールアングレが大活躍する管弦楽曲と言うと私の一押しではベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」を推したいです!

ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」はこの曲ほどクラシック音楽初心者に向いている曲は無いかもと感じたりもします。
例えば、ハチャトゥーリアン/バレエ音楽「ガイーヌ」~剣の舞とか
ムソルグスキーの交響詩「はげ山の一夜」とかボロディンの歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊りとか
ホルストの組曲「惑星」~Ⅳ.木星とかラヴェルのボレロとかレスピーギの交響詩「ローマの松」~Ⅳ.アッピア街道の松とか
グローフェの組曲「グランドキャニオン」~山道を行く・豪雨などの曲と並んで
クラシック音楽の「夏休み親と子供のファミリーコンサート」の一曲として是非加えて欲しい曲の一つだとも思います。

曲自体7分半程度と時間的にも飽きが来ない適度な長さですし、冒頭の喧騒に続く前半のコールアングレの長大なソロで
聴衆をうっとりとさせ、中盤から後半にかけての楽しさ・激しさで盛り上げて、ラストも一気呵成に閉じるという感じで、
いかにもイタリアの血気盛んな舞曲という感じの曲といっても差し支えは無いと思います。
そしてこの曲の最大の聴かせどころは序盤のコールアングレの長大なソロだと思います。奏者にとっては大変
プレッシャーがかかりますけど遣り甲斐は相当あると思います。
どこかのんびりとしてるのだけど、ソロ以降に展開される舞曲の激しさを予感させるような静かな熱さも有していると思います。

序曲というと一般的には歌劇の前振りというのか、お笑いの世界で例えると、メインの出演者が登場するまでの前座担当だと
思いますが、この曲のタイトルが序曲「ローマの謝肉祭」となっていますので、
正式には歌劇「ローマの謝肉祭」序曲と言うのかな?と勘違いをされる方もいらっしゃるのかもしれないですので
少し補足をいたします。
ベルリオーズには、作曲に大変な情熱と心血を注いだ歌劇「ベンヴェヌート・チェッリーニ」という歌劇が
あるのですけど、これが興行的には大失敗してしまいます。
莫大な借金を背負い込み、せっかく作曲した曲も演奏される当てもなく、作曲者的には顔面蒼白という感じでもありました。
ベルリオーズは歌劇「ベンヴェヌート・チェッリーニ」自体には大変愛着があり、
「この歌劇をこのまま忘れられた曲として埋もれさせるにはなんか勿体無いものがある」として
この歌劇の主要な旋律を引用して単独の管弦楽曲へと編集するアイディアを思いつき、
その成果が序曲「ローマの謝肉祭」なのです。
それゆえに、この作品は単独の演奏会用序曲であり、「ローマの謝肉祭」という歌劇は存在しませんし、
歌劇「ローマの謝肉祭」序曲という曲は存在しません。

オーケストラの演奏会レパートリーとしては日本においても完全に定着した曲でもあり、
この序曲は恐らくですけど、かなりの頻度で演奏会に取り上げられています。
プログラムの一曲目としてはまさに「うってつけ」と言える一曲と言えるのだと思います。
やはりこの曲の最大の聴きどころは前述の通り前半のかなり長大なコールアングレのソロですけど、それ以外には
2台のタンバリンとトライアングルの融合も挙げたいと思います。
コールアングレのソロが終結し曲が騒々しくなってくると、
2台のタンバリンと一つのトライアングルがトリオとなって華やかな響きを演出しています。
この2台のタンバリンとトライアングルのシャカシャカ・・・というリズム感は、三つの打楽器が見事に融合しているようにも
聴こえたりもします。
あの部分は、いかにもこれから「祭りがはじまるぞー」みたいな雰囲気もあり、私は結構好きですね~♪


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ららマジの器楽部においては前述の通り、オーボエ奏者はいなくてコールアングレ奏者の白石陽菜のみです。

多分ですけど、オーボエの音色が必要な場合は白石陽菜が楽器を掛け持ちしているのかもしれないです。

白石陽菜は高校2年生のJKさんで血液型はO型です~
気品と度胸あふれるおてんばなお嬢様という設定です~♪


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一見いいところのお嬢様という雰囲気も有しながら、かなりやんちゃで活発なお転婆娘というのも楽しいですし、
お転婆ゆえに実は特技と趣味は木登りというのもとても楽しいです。

活発な女の子だけど、担当している楽器の音色はかなり内省的というギャップもすてきですね~♪

そして前髪をあげているためおでこがかなり目立っているのもとてもかわいいです~!
既に12月に入り師走という事ですけど、この時期のクラシック音楽の演奏会はほとんどの管弦楽団は第九・・・、
すなわちベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」の演奏がほぼ全てと言っても過言ではないのかもしれないです。
今年は新型コロナの感染リスク回避ということで、2~6月あたりはどの管弦楽団も予定されていた公演が中止となり、
興行収入がゼロという事になってしまい財政的に厳しい日本の管弦楽団においては更なる収益悪化に苦しまれていると
推察されます。
だけど夏場以降はぼちぼちと演奏活動を再開する楽団も増え、現在は各会場の50~100%までお客さんを入れても良いと
いう事になっていますし、元々師走というと第九の演奏がメインという事もあり、毎年この時期はどの管弦楽団も
第九というドル箱の稼ぎ時でもありますので、せめて今年前半の損益を少しでも回復できるように
どんどん稼いで頂きたいものです。

日本では「第九」といえば年末をイメージさせるものですが国外の第九事情はいかなるものがあるのでしょうか?
もともと「年末に第九を」というアイデアが芽吹いたのは1918年前後と言われ、
第一次世界大戦が終わって平和を願う声が高まった頃にドイツのライプツィヒで始まり、
その後は名門楽団であるライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が毎年の大晦日に「第九」を演奏し続けてきましたけど、
日本のように年末近くになると猫も杓子もどの管弦楽団も集中的に第九オンリーの公演ばかりという事は
決してないと思います。
日本では第二次世界大戦後の1947年にNHK交響楽団が、12月に3日連続の「第九コンサート」を行って絶賛され、
年末に「第九」を演奏する習慣へと受け継がれていきます。
日本で年末の「第九」が定着した由来として言えることは、
戦後の貧しかった管弦楽団が年末の臨時収入としてのボーナス獲得のために「第九」を演奏したことに由来するとする説が
有力のようです。
人気曲の第九を演奏すればお客が入りますし、第九演奏の最大のネックでもある合唱団については、
アマチュア・コーラスを使用すればコストを抑えられるし、チケットも合掌のメンバーがさばいてくれると良いことずくめという事で
年末といえば第九という土壌が形成されていったと思われます。
そして何よりも、第九が醸し出す崇高にして華麗な雰囲気が師走に日本人が寄せる感情に合致したことで「年末=第九」という
図式が定着したものと思われます。

ちなみにベートーヴェンの第九・・、交響曲第9番「合唱付」ですけど、ベートーヴェン以前の作曲家の交響曲に合唱を
入れた楽曲はほぼ皆無です。
(宗教音楽・カンタータは別ですけど純器楽曲としての交響曲に声楽を取り入れるという発想自体がありませんでした)
それではどうしてベートーヴェンは純粋な器楽曲としての交響曲に声楽を取り入れようとしたのでしょうか?
その答えとして有力なのは「作曲者の意図・メッセージを正確に伝えるためには歌詞を伴う声楽という言葉が必要だった」という
事なのですけど、音楽学者の中には
「いやいや・・そんな高尚な事ではなくて、第九を作曲していた頃のベートーヴェンは自身の聴力喪失や病気、パトロンの喪失、
弟たちとのもめごとや甥・カールの訴訟問題など問題が続出し金銭的に大変困っていた時期でもあり、
その頃、ロンドンフィルハーモニー協会から新しい交響曲の作曲依頼を受け、その報酬目当てに新作交響曲に取りかかった
ものの締切に間に合いそうもなく、既に三楽章まで作曲していた純器楽曲の交響曲ニ短調と
若い頃より作曲の構想を始めていたシラーの頌歌「歓喜に寄せて」に基づく合唱付きのドイツ交響曲という全く構想が
異なる二つの交響曲を締切に間に合わせるために強引にドッキングさせて完成させたいわば妥協の産物」であるという
説を唱える方もいたりして、実はこの説はある程度の合理性や状況証拠から見てもあながち眉唾物ではない・・と
思わせるものがありそうです。
ベートーヴェン以前のバロック時代のクラシック音楽事情は圧倒的に器楽よりも声楽が優位であり、歌劇において
歌手の名人芸を観客に見て貰う事が当時のドル箱であり、一般的には交響曲・序曲といった器楽曲は声楽曲よりも
格下という事があったと思います。
歌劇の序曲から発達したのがシンフォニアであり交響曲(シンフォニー)なのですけど、そうした交響曲といった器楽曲が
声楽曲よりも上位として認識され始めようになったのはハイドン・モーツアルト・ベートーヴェンの時代あたりからであり、
その時代になって初めて器楽の優位性が形成され、交響曲の分野が確立されていったと思われます。
そうした意味においてベートーヴェンが交響曲第9番のフィナーレにおいて4人のソロと合唱隊を伴う「声楽」を導入した
というのはある意味「せっかくここまで積重ねてきてやっと器楽の声楽よりも優位性が構築されたというのにどうしていまさら
交響曲にわざわざ声楽を入れてそんな先祖返りみたいな事をするの・・??」という解釈もありうるのかもしれないです。
もっともそうした交響曲に声楽を取り入れるという発想はその後、メンデルスゾーン・リスト・マーラー・ショスタコーヴィッチなどに
継承されていきます。

実はなのですけど、私自身はベートーヴェンの第九は苦手でもあったりします・・

第九は第四楽章の「歓喜の歌」というか合唱に入る部分が有名ですけど、この合唱の部分に辿りつくまでが非常に長く、
第1~3楽章が何か長く冗長に感じてしまう上に第四楽章に入っても、例の一番有名な歓喜の歌に入るまでが、
これまた長く、そして「歓喜の歌」の部分の合唱が終わって以降が、何となく歌舞伎の大見得っぽい感じで
私的にはとてつもなくしつこく感じてしまいます。
もっともそう感じてしまうのもある意味妥当であり、それが上記で述べた第九はニ短調の交響曲とドイツ交響曲を合体させた
ような曲であるという曲の経緯とリンクするものがあるのかもしれないです。
感覚としては1~3楽章のかなり難渋な雰囲気を聴いたうえで「歓喜の歌」の第四楽章に差し掛かるとなんともいえない違和感を
感じたりもしますし、唐突に難解な純器楽曲から声楽を伴う音楽への以降は少しばかり抵抗があったりもします。
同様な事はマーラーの交響曲第2番「復活」にもいえそうですけど、復活もある意味第九以上にしつこい音楽ですからね~

ちなみに私自身、ベートーヴェンの交響曲で最も大好きなのは交響曲第7番です。

第一楽章のオーボエの甘い伸ばしの音から始まるとろけるような音楽は冒頭で既にKOされたような感じですし、
第二楽章の重々しいけど美しい世界、第三楽章のホルンの雄叫びも素晴らしいですし、
圧巻の第四楽章のリズム感にて曲に陶酔状態となってしまいそうです。
ワーグナーはこの交響曲を「舞踏の神化」と評していましたけど、全くその通りだと思います、

あの第四楽章は、現在の「ダンスミュージック」にも匹敵するような躍動感・リズムの鋭さがあると思います。
同時に自然と体が揺れるというか、思わず踊りたくなってしまうようなノリノリ感がたまらない魅力だと思います。
クラシック音楽でしかもベートーヴェンというと、どうしても深刻・重厚長大・真面目という
イメージがあるのですが、ベートーヴェンの交響曲というとどうしても「運命」というイメージが強すぎて苦悩から歓喜へという
重厚で深刻という雰囲気ばかりが先行しそうですけど、交響曲第7番の特にあの第四楽章は、
ディスコとかクラブのダンスミュージックに勝るとも劣らない熱気があると思います。
もしかして、ベートーヴェン自身も一杯ワインをひっかけながら、悪酔い気分でこの交響曲を作曲していたのかもしれないです。

そんな訳で年末のクラシック音楽は第九ばかりですけど、私的には年末をクラシック音楽で一年を振り返り、
第九同様に合唱を伴う管弦楽の曲でもって盛大に楽しみたいと思うのならば、第九よりも20世紀に作曲されたC.オルフの
世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」の方が相応しいようにも感じられます。
ましてや今年は世界各地で新型コロナウイルスに苦しめられ、多くの方は「今年ほど嫌な年はなかった」と感じる方が
多いとは思うのですけど、そういう嫌な一年に対しては「最後に堅苦しくなくて盛大な合唱を伴うカルミナ・プラーナ」を聴いて
「嫌な事はきれいさっぱり忘れて新しい年に備えましょう」と思われたほうが宜しいのかもしれないです。

カルミナ・ブラーナのあの土俗的なエネルギーとか躍動する生命感は、せわしい年末にはピッタリのような気もしますし、
「よーし、来年も一丁頑張ってみるか・・・」というパワーを注入したいと思うのなら
第九よりはむしろこのオルフの曲の方がいいと思ったりもします。

オルフのカルミナ・ブラーナは、第一曲と終曲の「おお、運命の女神よ」の部分は大変有名で、
よくドラマとかCMでもこのメロディーが使用されています。
ももいろクローバーのセカンドアルバムでも使用されたこともあります。

この曲は複雑なリズムも和音もなく、20世紀中盤に作られたとは思えないほど、単純明快で分かり易くエネルギー爆発
みたいな曲ですので、年末に限らずどの季節でも、どんな地域でもこの曲は必ず受け入れられるほどの
普遍性を有している曲ですのでこの曲がもっともっと全世界で演奏され、
聴く方も演奏する方も歌う方も全員がハッピーな気持ちになって欲しいなーと思います。

少し専門的に述べると、この曲は劇的三部作「勝利」の中の一番最初の第一作に該当しまして、
正式名称は「世俗への讃歌、カルミナ・ブラーナ」と言われることが多いと思います。
有名なのはこの第一作のみでして、私自身は続編の第二作と第三作は私はいまだに聴いたことすらありません。

ベートーヴェンの第九は、通常の管弦楽の編成に4人の合唱ソリストに混成四部合唱が加わり、
打楽器もティンパニ以外に、大太鼓・シンバル・トライアングルも加わり
19世紀初めの作曲当時としては異例の大編成となっています。
オルフの世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」は、20世紀に作曲された曲なのですけど、難解という印象は皆無ですし、
不協和音・難しい表現は全く無く実にわかり易い曲です。
というか・・・楽譜を見れば一目瞭然なのですけど、全般的に♭・♯等の臨時記号があんまり出てきません。
前述のベートーヴェンの交響曲第9番もかなり大規模な編成ではあるのですけど、
カルミナ・ブラーナは、拡大編成の管弦楽団に加えて、
ソプラノ・カウンターテナー・バリトンの3人の合唱ソリストに、混成四部合唱、児童合唱が加わり
全編を通じて2台のピアノがいい活躍を見せてくれます。
(カウンターテナーの人は、1時間近い演奏時間で歌う個所は、前半の一曲だけで、
4分程度の自分の出番が終わったら、最後までお休みですので何かヒマそうで少し気の毒な感じもします・・・)
打楽器も、シロフォーン・2台のグロッケン・コンサートチャイム・鐘といった鍵盤楽器の他にカスタネット・タンバリン・ドラなどが
登場し色彩感に華を添えてくれます。
(第22曲に登場するカスタネットのカタカタと鳴るリズム感が大好きです)
第24~25曲にかけては部分的にティンバニ奏者も2人となりますし、第24曲は2台のグロッケンを
二人の奏者で派手に鳴らす部分もあったりして、演奏効果としてかなり高いものを感じたりもします。

世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」の構成は下記のとおりです。

導入部

第一部 春に

第二部 居酒屋にて

第三部 愛のささやき

最後に冒頭部分が再現され華麗に曲は閉じられます。

特に第三部 愛のささやきで結構きわどい歌詞が出てきますけど第一部でも結構やばそうな歌詞も出てきたりもします。
第二部はあまりエロい要素は少ないのてすけど、全体的には酔っぱらいの戯言みたいな感じもします。

一例をあげると・・・

第一部 第9曲 輪舞

ここで輪を作って踊っているのはすべて乙女たち。
でもこの夏中男がいらないだなんて、なんとしたこと?
さあ、こっちに来て、私の貴方。貴方を待ってるのよ。
おいで、おいで、僕の恋人よ、赤い唇をした可愛い娘、
来て、僕を元気にしておくれ!

この夏中男がいらないだなんてこと、あるわけがない!
甘いバラ色の唇よ・・

第三部 第19曲 もしも若い男が若い娘と一緒の部屋にいたら・・

もしも若い男女が小さな部屋で一夜をともにすれば
幸せな二人の結合が生まれるに違いない
そして、それとともに愛は高まっていく         
彼らの自制心は急激に消え失せ、疲労するまで
精力の続くかぎり、愛の営みが続けられるだろう
言葉にできない悦楽
手足で、腕で、唇で・・・・

第三部 第22曲 歓びの季節がやってきた

歓びの季節がやってきた!
おお、処女たちよ、さあ楽しむのだ!
おお、若者たちよ、体中が花と咲くようだ。
今や処女恋しさに身も心も燃え上がる。
新しい恋だ、私が死ぬほど参っているのは・・・

私が元気になるのは、恋の約束をするとき
私がしおれるのは、断らなければいけない時

寒い季節は男心も忍耐するが
春の息吹を感じれば、浮気心も目を覚ます。
私だけが遊び相手の
私の処女の絆
私の心を押しとめるのは
私のうぶな心。

おいで処女よ。
歓びの声と共に、
おいで、おいで、若くて美しい女よ。
私はもう死にそうだ・・・
おおーーー!! もーー、たまらない!

第三部 第23曲 いとしい御方

愛しいあなた
私のすべてをあなたに委ねるわ! 身も心も全部あなたにあげちゃいます!

歌詞的には少しきわどいものもありそうですね~♪

20世紀のクラシック音楽の名曲とは思えない歌詞も部分的にあったりもしますけど、
曲全体としては、生きる生命感というのか躍動感というのか人間の本性がむき出しに生き生きと描かれていて
なんか聴くだけでパワーが湧いてくる曲だと思います。

それにしても、第三部 第19曲 もしも若い男が若い娘と一緒の部屋にいたら・・の歌詞の世界は
そのものズバリといえそうですし、若い男女が一緒の部屋にいたらどうなってしまうかは火を見るよりも明らかそうですね~♪

やっぱり年末はこういうパワーあふれる少しエロい歌詞が伴う音楽を聴いて、今年起こった嫌な出来事はきれいさっぱり
忘れて新年を迎えたいものです。




今期・・2020年秋アニメは夏アニメの不作を吹っ飛ばさんばかりの力作揃いで質量ともにかなりの充実感がありました。

その中でも特に、おちこぼれフルーツタルト・くまクマ熊ベアー・ひぐらしのなく頃に(新作ver)・アサルトリリィ・魔女の旅々・
トニカクカワイイ・神様になった日・ご注文はうさぎですか??(三期)・戦翼のシグルドリーヴァ・無能なナナは
とってもよかったですし、毎週の放映がいつも楽しみでした~♪

そしてその中でも「トニカクカワイイ」は光っていたと思います。

成績優秀な主人公・由崎星空(ナサ)は、高校受験を控えた大雪の日に偶然道端で出会った少女・月読司に一目惚れする。ナサが彼女に声をかけようと道路を横断した際、トラックに轢かれてしまう。司は自らを犠牲にしてナサを助け名前も告げずに去っていこうとするが、彼女のその姿にかぐや姫を連想したナサは、事故で満身創痍の状態であるにも関わらず司を追いかけ、そのまま告白をする。司が「結婚してくれるなら付き合う」と返すと、ナサは即答で承諾する。その直後、ナサは気を失ってしまう。

その後、病室で目を覚ましたナサはリハビリと勉強に打ち込み、退院後に一浪で高校にトップ合格する。しかし高校に行く気になれず入学を辞退し、いつかまた司に会えることを期待して接客や配達のバイトに明け暮れる。再会できぬまま18歳になったある日、約束通り結婚をするために司がナサのもとに現れる。謎は多いが、こうして夫婦になったナサと司は、日常を共に過ごすことで夫婦の愛情を深めていく。

竹取物語の続編というか「かぐや姫を取り戻す物語」というのが連載漫画開始時の説明だったと思いますが、
この作品は現在も連載中で、司のミステリアスで謎的な要素も含めて、まだまだ「よくからない・・」みたいな要素も
かなり多いのですけど、私的には司が「トニカクカワイイ」以外の何物でもないですので、司の真の正体や目的とは何なのかは
一旦置いて、司とナサが真の夫婦の絆をどのように深めていくかは興味津々でありますし、アニメも残りの放映回数が
あとわずかになっていますので、残りも心して視聴させて頂きたいと思います。

司とナサはあの狭いアパートで二人暮らしとなっているのですけど、この狭いアパートで新婚の二人暮らしというのは
上記の世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」の第三部 第19曲 もしも若い男が若い娘と一緒の部屋にいたら・・の世界に
通ずるものが大なのかもしれないですね~♪
メディアの瞑想と復讐の踊りは、ギリシア悲劇「王女メディア」を題材にした作品です。
王女メディアのストーリーを素材にして20世紀のアメリカの作曲家、サミニュエル・バーバーが作り上げた音楽が
バレエ音楽「メディア」であり、そののバレエ音楽を更に単一楽章的にギュギュ~っと濃縮した音楽が
「メディアの瞑想と復讐の踊り」でもあります。

この曲は、一言で言うと、内面的心理ドラマの世界です。

本来は優しい女性であったはずのメディアがなぜここまでやらなければいけなかったのかその心の葛藤を描いた
心理的交響詩みたいなものだと思います。
前半は、静かな内面の葛藤の世界であるのに対して後半は、何かが弾けて「狂」の世界に突進していくメディアの狂気の世界を
見事に表現していると思います。
全体的に14分間程度に渡って最初から最後まで緊張の糸がピーンと張りつめられていると思いますし、この曲を聴くと
「弦楽のためのアダージョを作曲している人らしい緊張感と内面的葛藤に溢れた曲」と感じずにはいられないです。

このドラマのストーリーを簡単に記すと・・・

メディアは太陽神の末裔の女魔術師でありコルキスの王女でもあります。英雄イアソンと駆け落ちしてコリントに赴き、
そこで子供を授かり、平和に暮らしていました。
その後野心が捨てきれないイアソンは、リントの王女と結婚し、メディアをあっさりと捨ててしまいます。
嫉妬と復讐に燃えたメディアは、結婚の贈り物として毒をしこんだドレスを王女へ送り、
コリントの王女を殺害してしたばかりでなく、最後には自分の子供すらも殺してしまい、
竜に引かせたチャリオッツ(戦闘用2輪車)でコリントを去るというお話です。

これは午後1時台で放映されている昼ドラのドロドロや韓国の愛憎ドラマを超える位凄まじいドロドロ劇だと思います。
自分を捨てた夫に対する復讐として、その相手の女を殺すというパターンは古今東西よくある話だと思うのですが、
己の復讐のために自分の子供にまで手をかけてしまう点が母性を超えたメディアの狂気ともいえそうですけど、
メディア自体も決して喜んで我が子を殺した訳ではなくそこに至る経緯にはさまざまな心理的葛藤があったと思いますが、
そうした背景を認識したうえでメディアの瞑想と復讐の踊りを改めて聴くと
何となくその葛藤や経緯やメディアの決意が分かるような気がします。

冒頭からして既に緊張感たっぷりで、大変静かな開始なのですが、シロフォーンの不気味な表現が既に狂気を
醸し出しています。
中盤から後半は狂気の音楽が全開で、復讐に燃えたメディアの狂気が炸裂し迫力満点のスピード感あふれる音楽が
展開されていきます。
演奏時間は14分前後ですが、非常に音楽的中身が濃い曲なので、「長い」と感じ事は絶対にないと思います。

バーバーは、どららかというと内省的的な曲とか美しい抒情的な曲を得意にしたようにも思えますが、抒情的というと
その代表的な曲はヴァイオリン協奏曲なのだと思います。
この協奏曲はとても20世紀に作曲されたとは全く思えないロマンチックと美しさに溢れていて、
悪く言うと完全に時代遅れなのですけど、20世紀と言う
現代音楽という訳のわからん無調音楽が幅をきかせていた時代だからこそ、こうした純粋に美しい曲は、
かえって20世紀には光り輝くのかもしれません。
そうした事と同様な事は、協奏曲で言うと

〇ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番

〇コルンゴルド/ヴァイオリン協奏曲

にも言えるのかもしれないです。

バーバーの「ヴァイオリン協奏曲」は、第一楽章の出だしを聴くだけでも価値があると思います。
冒頭から、ため息ものの美しい音楽が静かに流れていきます。
第一と第二楽章は非常に静かで内省的な音楽なのですけど、この曲が更にユニークなのは第三楽章にありまして、
第三楽章は3分程度であっという間に終わってしまうのですけど、
第一・第二楽章とは全く対照的に、終始せわしく落ち着きなくあっという間に駆け抜けていきます。
何となくリムスキー・コルサコフの「熊蜂の飛行」みたいにハチがブンブン飛び交うような雰囲気の音楽です。
第一~第二楽章と第三楽章が全く正反対ですし、そのギャップがこの協奏曲を聴く一つの醍醐味なのかもしれませんね。

最後に・・余談ですけど
本記事にて久しぶりにバーバーの名前が出ましたので、バーバーの曲としては正直あまり知られていないのは
大変もったいなく感じる歌曲でもある「ノックスヴィル~1915年の夏」について簡単に記したいと思います。

この曲は、派手な部分は皆無です。
終始ゆったりとした音楽が展開され、ソプラノがゆっくりと管弦楽をバックに抒情的に淡々と歌い上げる音楽です。
全体でも20分程度の作品です。
元々は、ジェイムズ=エイシーという方の「ある家族の死」という長い散文詩にバーバーが曲を付けたものですけど、
一言で言うとノスタルジーを強く感じさせます。
遠い昔に家族で過ごした時間を、大人になって 「ああ、あの時の自分は実は幸せだったのだな・・・」と振り返るような
感覚の音楽です。
聴けば分かるのですが、この曲に葛藤もドラマも派手に盛り上がる部分も演出も派手な効果も何もありません。
過剰な期待をして聴くと、 あまりにも何もない淡々とした展開に落胆すると思いますが、
この「淡々とした何も無い感じ」に憂いとメランコリーさを感じます。
バーバー自身生まれたのが1910年ですけど、1915年と言うと5歳の頃だと思われます。
自分自身の子供の頃の記憶と原作の詩が何かリンクするものがあったのかもしれないです。

この曲に関しては、指揮者・管弦楽団で選ぶよりは ソプラノのソリストで選んだ方が断然いいと思います。
個人的には、ドーン=アップショー(ジンマン指揮)がいいと思います。

この曲は一度だけ生の演奏会で聴いたことがあります。
確か1995年頃だったと思いますが、東京交響楽団の定期演奏会で、指揮者は秋山和慶でした。
前半がこのバーバーの歌曲で 後半のメインがマーラーの交響曲第4番「大いなる喜びへの賛歌」でした。
マーラーの4番の第4楽章だけ、ソプラノが入りますけど、
この部分だけに高いギャラを払ってソプラノを呼びのも非効率と考えたのか(?)
前半にバーバーのこうしたウルトラマイナーな曲をカップリングしたのかもしれないです。

この曲、生で聴くといい子守歌というか即効で眠たくなりますね~♪
ハープという楽器はヴァイオリンと同様に大変優雅で美しい楽器だと思います。
そうした見た目の雰囲気の美しい楽器というイメージが定着しているのは、その形状や音色の美しさも大きいですけど、
ハープ奏者のほとんどが 女性奏者であるという事もあるのかもしれないです。

ハープがどうしてそんなに優雅に感じられるのかと言うと、グリッサンドといってずらっと並んだ弦を指で華麗に弾くというか
擦る様子はその幻想的で華麗な音の響きと合せて、視覚的にも聴覚的にも絶大なインパクトがありそうです。

ハープのグリッサンドが大変印象的な楽曲というと例えばですけど・・

〇ラヴェル / ダフニスとクロエ第二組曲(夜明け~パントマイム~全員の踊り)、マ・メール・ロワ

〇ベルリオーズ/ 幻想交響曲~Ⅱ.舞踏会

〇R.シュトラウス / 楽劇「サロメ」~七つのヴェールの踊り

〇リムスキー・コルサコフ / 交響組曲「シェヘラザート」、スペイン奇想曲

〇ドビュッシー / 三つの交響的素描「海」~特に第二楽章、三つの夜想曲~Ⅱ.祭り

などが挙げられそうですし、グリッサンド多様ではないものの、マーラーの交響曲第5番~Ⅳ.アダージェットにおける
弦楽合奏に対する伴奏的位置付けのハープの美しさはとても幽玄で素晴らしいです。

吹奏楽コンクールにおいて、ハープが使用OKという事でピアノと共に解禁になったのは1981年以降の話ですけど、
(その時にヴァイオリン・チェロ・チェレスタも使用可という事になっていましたけど、これらの楽器は現在の規定では
使用不可となっています)
ピアノが吹奏楽コンクールの場で大変効果的に使用された事例は、私自身が聴いた限りでは、1981年の
東北大会での大曲高校の自由曲の三善晃 / 交響三章~第二楽章だと思いますし、
ハープに関しては1981年と82年の埼玉県の市立川口高校の自作自演シリーズの「無言の変革」シリーズが
多分ですけど全国大会でハープが使用された第一号のような気もします。
今でこそハープは全国大会でラヴェル・ドビュッシーを自由曲にするチームの大半で用いられている楽器と思いますが、
ハ―プが吹奏楽コンクールで定番楽器として定着するのは実は平成以降の話だと思います。
ラヴェルのバレエ組曲「ダフニスとクロエ」は1970年代に一時期盛んに演奏されたものの、著作権の問題で
演奏しにくい状況があった中で、再度この曲がブレイクし現在まで引き続き大人気自由曲となっているきっかけを作った
演奏が1986年の埼玉栄高校の歴史的名演だと思うのですけど、この年の埼玉栄には実はハープは含まれておりません。
あの夜明けのハープの繊細でひそやかなグリッサンドの部分はクラリネット・エスクラ・フルート等で補い、あの細かい動きを
管楽器だけで見事に再現している様子は今にしてみると大変貴重なものがありそうです。
翌年の1987年の習志野高校の自由曲は同じくダフニスとクロエ第二組曲でしたけど、この時はⅡのパントマイムを前半に
チョイスした事情もあるからなのかハープは用いられ、あのグリッサンド奏法はかなりの演奏効果をもたらしていたと
思います。
だけど1988年までの昭和の頃の吹奏楽コンクールにおいては、ハープはまだまだ珍しい特殊楽器という雰囲気は
あったと思いますし、ハープが本格的にスクールバンドでも普通に使用されるのは平成に入って以降において、
常総学院がハープの魅力を存分に発揮させて、他校がそれを取り入れ始めて以降の話なのだと思います。

昭和の頃ですと、前述の通り吹奏楽団内にハープが無いチームがほとんどですので、クラシック音楽アレンジverを
吹奏楽で演奏する場合、ピアノで代用するか木管楽器を使ってうまくごまかすか、ヴィヴラフォーンで代用という事が
多かったと思います。
私自身母校の高校でリムスキー・コルサコフのスペイン奇想曲を演奏した際には、第Ⅳ曲のハープのあの華麗なカデンツァは
ヴィヴラフォーンで代用していましたし、ウインターボトムアレンジ版のスコアにも確か「ハープが無い場合はピアノ又は
ヴィヴラフォーンでの代用も可能」と記されていたと思います。
同じくリムスキー・コルサコフの交響組曲「シェエラザート」のⅡとⅣにおけるハープのグリッサンドの美しさは
大変素晴らしいものがあるのですけど、1973年の花輪高校と74年の秋田南高校のⅡ・カレンダー王子の物語においては、
ハープではなくてクラリネットをメインとする木管アンサンブルでもってハーブの代用を果たすというある意味苦労の痕が
うかがえるアレンジとなっていました。
1985年の関西大会にて、学校名はど忘れしてしまいましたけど、シェエラザート~終楽章を自由曲に選んだある学校は、
序盤のハープのグリッサンドの部分をなんと・・! ギターで代用するという凄まじい?荒業アレンジを披露していて、
後日この演奏を収録したブレーンのカスタムテープで聴いた際には、そのギターによるグリッサンドが終わった後に
会場内からのおーーーっというざわざわとしたどよめきがしっかり収録されていて、今にして思うと
これも古き良き時代の昭和の頃の吹奏楽コンクールの一コマといえるのかもしれないです。

ハープは共鳴胴の両端に2本の棹を立て、2本の先を結び、棹のうちの曲線状になった方と共鳴胴との間に
平行に弦を並べて弦を張っています。そしてこの弦を指で弾いて演奏します。
現代の西洋音楽において、独奏やオーケストラ、室内楽などで広く用いられているコンサートハープは、
ダブル・アクション・ペダル・ハープの事であります。
ダブル・アクション・ペダル・ハープは主に47本の弦を変ハ長調全音階で張られていて、ピアノに例えると、
黒鍵無しの状態で白鍵だけの音階で並んでいるようなものです。
そしてドレミファ・・の各音対して一つずつ合計7つのペダルが付いていて、それぞれ二段階に踏み分けて
一つの音を半音高めたり全音高めたりします。
ハープの弦は47本でペダルを踏まない状態で変ハ長調の全音階に調律されています。
ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シの各音に対して1つずつペダルを割り当て、それらのペダルを音階に合わせて設定することで
演奏できる仕組みになっています。
一例を言うと、例えばト長調の場合は、「ド・レ・ミ・♯ファ・ソ・ラ・シ」ですから、
まずは全てのペダルを1つ踏み変ハ長調から半音階上のハ長調にして、「ファ」のペダルだけもう1段踏み込み
半音上げればト長調になります。
ハープ奏者はそうしたペダルでの調律を演奏開始前もそうですし、曲の途中でも絶えず行っていますので、
見た目の手の優雅な動きとは対照的に、ペダルを踏む足は終始ドタバタしているという感じでもあります。
白鳥が優雅に泳いでいるその水面下では足をドタバタ動かしているという事に似ているのかもしれないです。

それゆえハープ奏者は優雅なイメージとは裏腹に人目に付かない所で大変な苦労が付き物で、左足で三つ、右足で四つと
計7つのペダルを絶えず忙しく操作をしないといけない大変さがあったりします。
おまけにハープ奏者は固い弦を指で弾き、時にグリッサンドしないといけないものですから、指先は常にマメ状態と化している
のが実はその日常でもあったりするそうです。
ハープ奏者の指はいつもタコが出来ている様なモノなそうで、指先があまりにも堅いと弦を弾く時に音が汚くなってしまう
こともあるそうでして、ハープ奏者は時に堅くなった自らの指先をヤスリで削るというのか研ぐ場合もあるそうです。
これはクラリネットやオーボエ奏者が日常的に行っているリード削りの難しさに匹敵する程デリケートなケアなのだと
思います。

とにかく、優雅で華麗なイメージがあるハープもなにかと裏では色々とご苦労が絶えないという事なのだと思います。


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「ららマジ」の舞台の器楽部におけるハープ奏者は3年生の南さくらです。

南さくらは器楽部を支える副部長で、振り回されることの多い苦労人でもあったりします。
器楽部創立メンバーの一人で、部長であり指揮者でもある草薙百花がメチャクチャな楽器編成を無理やりどうにかこうにか
まとめてしまう剛腕でもあったりしますので、そうした剛腕ぶりに不満がありそうな下級生たちを時に脅しつけ、
時に笑顔と愛嬌で押し通してしまうのがこの副部長兼ハープ奏者の南さくらといえそうです。
そしてららマジでは珍しい部類の眼鏡っ娘でもあったりします~♪

バトル時においては、グランドハープの形をした長弓を武器とし、光の矢を放って攻撃します。

演奏中は優雅な手の動きとは別に、足元では調音のためにペダル操作をするに当たっては、聴衆や指揮者の見えない所で
いろいろと苦労が尽きないのかもしれないです。
モーリス・ラヴェルというと世間一般では「ボレロ」、吹奏楽経験者の皆様にとっては「ダフニスとクロエ」第二組曲、
ピアノ奏者の皆様にとっては「夜のガスパール」・「ソナチネ」・「クープランの墓」やピアノ協奏曲なのかもしれないですけど、
「鏡」というピアノ組曲の中の一曲を後日ラヴェル自身が管弦楽版に編曲した「道化師の朝の歌」という楽曲も、8分程度と
短めの曲ですけど、そこにはラヴェルのエッセンスがぎゅぎゅっと詰まったすてきな管弦楽曲だと思います。

「道化師の朝の歌」の原曲は「鏡」というピアノ曲組曲です。

「鏡」は以下の5曲から構成されています。

Ⅰ.蛾

Ⅱ.悲しい鳥

Ⅲ.海原の小舟

Ⅳ.道化師の朝の歌

Ⅴ.鏡の谷

この5曲の中で、海原の小舟と道化師の歌がラヴェル自身によって管弦楽作品用にご仁アレンジされています。

ラヴェルと言うと、一般的にはオーケストラの魔術師と称賛され、管楽器の使用方法やオーケストレーションの巧みさから
リムスキーコルサコフやレスピーギと並んで作曲テクニックに秀でた天才というイメージがあります。
ラヴェルの作品リストを眺めると分かるのですが、これほどまでオーケストラの魔術師と言われた人でさえ、
実は最初から純粋に演奏会用管弦楽曲として作曲された作品は、「スペイン狂詩曲」ぐらいであり、
それ以外の作品は大別すると、バレエ音楽または原曲がピアノ曲を後日管弦楽用にアレンジしたものなのです。
ちなみに、ダフニスとクロエ、ボレロ、マ・メール・ロア、ラ・ヴァルスは元々はバレエ音楽で、
クープランの墓、亡き王女のためのパヴァーヌ、高雅にして感傷的なワルツは元々はピアノ曲であったりもします。

道化師の朝の歌は、ピアノ曲として聴く方が印象としては非常にすっきりと聴こえるようにも感じます。
リズムの鋭さ・けだるさ・すがすがしさ、一見矛盾する要素を内在させながらも
非常に生き生きと描いているところにこのピアノ曲の素晴らしさがあります。
ピアノ曲として「道化師の朝の歌」を聴く場合、
私的には小山実稚恵さんのラヴェルピアノ作品集のCDの演奏が非常にしっくりきますし大好きな演奏です。
「道化師の朝の歌」を管弦楽曲として聴く場合、ピアノ曲とは全然別の曲のようにも聴こえたりもします。
管弦楽版の場合、中間部のかなりけだるい部分のソロは主にファゴットが担当していますけど、このファゴットが実に
いい味を出していると思います。
ピアノ曲として聴くと、ついつい聞き流してしまう箇所なのですけど、 管弦楽曲として聴く場合、
あのファゴットソロの部分は、だるさとおとぼけ的要素が絶妙にミックスした感じが非常に素晴らしいと思います。
それでいて音楽全体が粋な感覚で洗練されているのが聴いていても実にアンニュイでリラックスできますし、
打楽器も、タンバリン・カスタネット・シロフォーン・トライアングル・小太鼓など多種多様な楽器を駆使し、
色彩感を出すのに良いスパイスの役割を果たしています。
特にカスタネットの響きはスペインからの風みたいなものも感じたりもします。
ラヴェルの作品って音楽評論家的に言うと、水・スペイン・子供・魔法の要素が欠かすことが出来ないエッセンスと
書かれることが多いですけど、 確かにラヴェルの作品には、「スペイン」という要素はかなり重要なウェイトを占めているようにも
感じられます。
それが最大限発揮されているのが「スペイン狂詩曲」だと思いますけど、「道化師の朝の歌」もあのリズム感は、
スペインの響き以外の何物でもありませんし、さすがバスク地方の血を受け継ぐ作曲家という感じが濃厚です。

そうそう、ラヴェルの要素って、個人的にいうと、前述の要素に加えて 「悪趣味」・「最後に奈落の底に突き落とす」という要素も
加味したいです。
それが象徴される作品が、「ラ・ヴァルス」・「ボレロ」・「左手のためのピアノ協奏曲」だと思います。
いずれも精密な作品ながらも、曲の最後の方でこれまで保っていた精密さ・美学・バランス感覚を
全て崩壊させるという手法は、悪趣味以外の何物でもないと思う時もあります。

道化師の朝の歌は、スペインの要素を濃厚に出しながらも、ラヴェルの悪趣味的要素と美的感覚がギリギリのところで
折り合った 不思議な作品なのかもしれないです。

道化師の朝の歌は吹奏楽verとしてもアレンジされていて、吹奏楽コンクールの自由曲としてたまに演奏されることもあります。
2019年現在で、過去の全国大会でこれまで8回自由曲として演奏されていますけど、
1979年の愛工大名電以外は正直あまり印象に残る演奏ではないですし、吹奏楽の色彩感ではなくて分厚い響きの方が
強調される傾向があり、どちらかというともっさりとした粋な感覚ではないちょっと冴えない演奏の方が多いのは、この曲を
正しく表現するには管弦楽でないとかなり厳しいというものがあるからなのかもしれないです。

その中にあって、吹奏楽コンクールの中で演奏された道化師の朝の歌としては、私の中で最も印象に残り素晴らしい演奏と
感じるのは1979年の愛工大名電(当時は名古屋電気高校という校名です) に尽きると思います。
1979年に名古屋電気高校の道化師の朝の歌は、ドイツ的な重厚感あるサウンドでフランス的繊細さは皆無ですけど、
かなり個性的な演奏を聴かせてくれていたのは大変印象的でした。
79年の名電のファゴット奏者はこの道化師の朝の歌において大変素晴らしいソロを聴かせてくれていた事は
大変印象的でした。
余談ですけど、名古屋電気高校=愛工大名電の1990年の矢代秋雄 / 交響曲~第四楽章の吹奏楽アレンジ版の演奏は、
序奏から展開部に入るまでのピッコロとファゴットのデュエットアンサンブルは「お見事!」としか言いようがない
素晴らしい二重奏を聴かせてくれていたのが大変印象的でした!
90年の名電のあのピッコロとファゴット奏者のお二人には当日の「アンサンブル大賞」を贈呈したい気分で
一杯でもありましたし、あの年の名電が銀賞とはあまりにも意外であり、
私としてはあの演奏は課題曲A / ランドスケイブの演奏を含めてグランプリクラスの金賞と予想していた事もあり、
あの評価は今でも納得いかないものがありますね・・

1979年の「道化師の朝の歌」演奏当時は学ランの男子校で、サウンドもかなり骨太のような印象もありました。
もしかしたらなのですけど、この当時には後に西武・巨人等で活躍され、ホークスの監督を務められている工藤公康投手が
在籍していたのかもしれないです。
愛工大名電はフーサ・ネリベル・バーンズ等の吹奏楽オリジナル曲を取り上げることも多々あり、
このチームの骨太サウンドを最大限発揮したネリベルの「交響的断章」やフーサの「プラハ1968」といった厳しい音楽の世界の
素晴らしく精緻な表現は素晴らしかったです。
当時の指揮者の松井先生というと私的にはやっぱりフーサのプラハ1968の印象が大変強いですし、この曲を初めて聴いたのが
1985年の松井先生指揮による素晴らしい名演でもありました。
それと個人的には1980年のパーシケッティの「吹奏楽のための仮面舞踏会」というあまりにもマニアックすぎる吹奏楽オリジナル
作品をあそこまで内省的に精密に表現されていた印象も捨てがたいものがあります。
反面、1977年と95年の「エル・サロン・メヒコ」とか1993年と96年の「ローマの祭り」のようにクラシックアレンジものを華麗に
鳴らしてみたり、矢代秋雄・名取吾郎・大栗裕等の邦人作品をきめ細かく仕上げたりとその多様性は「凄い・・」としか言いようが
ないと思います。
松井先生の音楽は、クラシック作品のアレンジものだったら、ワーグナー等の重厚な作品の方がぴったりのような気も
するのですけど、松井先生が全国大会でドイツ系を取り上げたのは、リエンチ序曲とトッカータとフーガニ短調だけというのも
今にして思うと「ちょっともったいないのかも・・」とすら感じてしまいそうです。

1979年の名電の「道化師の朝の歌」という選曲はこのチームにとっては珍しいタイプの選曲なのかもしれないです。
(フランス系としては、支部大会落ちでしたけど78年に「幻想交響曲」を取り上げ、94年には「ダフニスとクロエ」第二組曲を
自由曲に選んでいたりもします)
79年の名電の道化師の朝の歌は、意外とどんびしゃの演奏を聴かせてくれています。
当時の名電のサウンドは骨太で重厚なので、こうしたラヴェル作品との相性はいいはずはないのですけど、
ラヴェル自身、スペイン系の血が混ざっていて時に武骨な面も見せる事もあるのですけど、
名電の演奏はこうしたラヴェルの武骨な面を巧みに演出していたような気もします。
この演奏はどのパートもみな巧いのですけど、特に抜群に光っていたのはファゴットでした!
曲の中で何度もファゴットの完全ソロの箇所があるのですけど、全て完璧に決まっていましたし、
とぼけていて、悪趣味で、不気味で、姑息で、時には澄ましていて、多様な表情をファゴット奏者は実に見事に
演出していたと思います。





ららマジ器楽部のファゴット担当は橘レイナです。

アルトサックス担当の橘アンナは、レイナの双子の姉の方です。

橘レイナは、橘姉妹のミステリアスな可愛いお姉さんの方でしてアンナの双子の妹の方です。
バトル時の武器はファゴット型の狙撃銃で、複数の銃を同時に発射することもできるそうです。

お顔は双子という事でアンナとかなり似ている雰囲気もありますけど、アンナがボーイッシュな雰囲気なのに対して、
レイナの方はいかにも女の子という感じで、かわいらしい!というオーラに溢れていると思います。


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橘レイナのウェディングドレス姿です! 女の子の憧れのシンボルとしてのウェディング衣装がとてもよくお似合いだと
感じられます。


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同じく橘レイナのおしゃれな私服姿です!

美少女はどんな衣装でもよく着こなしお似合いという事を立証していると思いますね~♪

橘レイナのソロによるラヴェルの「道化師の朝の歌」のファゴットのウィットに富み洗練されているけど、どことなくとぼけた
雰囲気のソロをぜひ聴いてみたいものですね~♪


スクールバンドの吹奏楽部の場合、基本的には、
打楽器パートは一般的には、ティンパニ奏者を頂点に、大太鼓・小太鼓(スネアドラム)・トムトム・ドラムセット等の太鼓系、
シンバル・サスペンダーシンバル・ドラなどの鳴り物系、
グロッケンシュピール・シロフォーン・ヴィヴラフォン・マリンバ・コンサートチャイム等の鍵盤打楽器系、
そしてタンバリン・トライアングル・カスタネット・マラカス・拍子木などの小物打楽器系、
そして場合によっては和太鼓といった特殊楽器やはたまたピアノなど、
打楽器奏者はマスターすべき楽器が大変多いというのが大きな特徴なのだと思います。

一般的な話で例外も多々あるのかもしれないですけど、音大等の音楽学校打楽器科の入試実技はティンパニではなくて
小太鼓で行われる事が多いようです。
スクールバンドの吹奏楽部の打楽器パートにおいても、打楽器奏法の基本は小太鼓とされていますし、打楽器パートの
日常の基礎練習においては、パート内全員で一斉に小太鼓の撥を持ち、全員で机や練習台に向けて撥を一心不乱に
正確に規則正しく打ち込む事がスタンダートなのだと思います。

小太鼓という打楽器は、直径35~36cmの皮を高さ16~17cm程度の胴の両面に張り、水平に保つかまたは若干奏者側に
やや下げてスタンドに固定し、それを奏者が二本の木の撥で叩きます。
裏面のやや薄い皮スレスレに張られた響き線(スネア)に共鳴してピリピリと鳴らせる事で、小太鼓特有の
ザーー、ザザッ~、ダダダッというパンチの効いた小気味よい音を出していたりもします。
腋のレバー操作によってこの響き線(スネア)を裏面の皮から放す事も可能で、その場合はザザッという打撃音ではなくて
ポコポコとやや乾いた音に変容します。

小太鼓はオーケストラの中ではリズムの先導を取る役割も果たしていますけど、特に吹奏楽のマーチにおけるリズムの切れの
良し悪しは小太鼓のリズム感によって大分変化するようにも感じられますし、管弦楽でもウインナワルツやダンスといった
音楽では絶大な効果が発揮されています。
特に大変盛り上がる場面での小太鼓のロール打ちの威力は半端無いものがあり、それが最大限発揮されるのが
戦争をモチーフにした曲であったり、ストラヴィンスキーの「兵士の物語」やベルクの歌劇「ヴォツェック」などのような兵隊もの
においても終始大活躍を見せてくれていると思います。
小太鼓はジャズ・ロックにも欠かせない楽器ですけど、ロックにおいてはドラムスセットといって小太鼓・トムトム・吊シンバル・
ハイハットシンバルがワンセットとしてロック全体のリズムを華麗にリードしていきます。

小太鼓が大活躍してとにかく目立ってかっこいい管弦楽曲というと、個人的には
プロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」~タイボルトの死とハチャトゥーリアンのバレエ音楽「ガイーヌ」の中から
剣の舞とレスギンカ舞曲を推したいです!

さてさて・・小太鼓が曲の開始から最後までソロ的に大活躍する曲と言うと最も有名であり「この曲以外ありえない!」と
誰しもが納得するのがM.ラヴェルの「ボレロ」だと思います。
限界的極限の小太鼓によるpppの弱奏から開始され、あのワンパターンな単調なリズムを担当楽器の増大・変化と
クレッシェンドのみで延々と15分近くも繰り返し、聴衆を最初からクライマックスのfffの変調とトゥッティまで飽きることなく
導いていき、聴衆を興奮とエクスタシーのるつぼと化してしまう「魔法」といっても過言ではないボレロではあるのですけど、
小太鼓奏者の緊張とプレッシャーは半端無いモノがありますし、この曲に小太鼓奏者が求められるのはテクニックではなくて、
プレッシャーに打ち勝つことができる強い己の内面なのかもしれないです。
ボレロの小太鼓に関して言うと、これ・・多分ですけどCDで聴いた限りでは分かる人は少ないのかもしれないですけど、
この曲の総譜を読み込んだり、はたまた生の演奏に行くと一目瞭然ではありますが、実はボレロの小太鼓は途中から
奏者は2名に増えます。
多分ですけどラヴェルとの意図を分析してみると、曲の後半からどんどん楽器が増え始め、小太鼓1台ではその増量する
音量に埋もれてしまうので、その音量不足の補強という狙いもあるのかもしれないです。

ボレロ以外に実は小太鼓が1台ではなくて2台で叩く楽曲もあったりします。

一例を挙げてみると・・

〇ロッシーニ / 歌劇「どろぼうかささぎ」序曲

この曲の冒頭は2台の小太鼓のロールから開始され、そののびやかなクレッシェンドは聴いていて爽快です!

〇ハチャトゥーリアン / バレエ音楽「ガイーヌ」~レスギンカ舞曲

レスギンカはオーケストラの生の演奏会で見た限りでは小太鼓は1台ですけど、吹奏楽アレンジ版において、
例えば藤田玄播と稲垣卓三のアレンジでは小太鼓は1台ですけど、林紀人アレンジではそれが2台に増強され、
そのうちの1台はリズムに対する合いの手を打つという感じですけど、最近の吹奏楽コンクールではほとんどの演奏では
レスギンカは小太鼓が2台で叩かれる事が多いです。

〇ショスタコーヴィッチ / 交響曲第7番「レニングラード」~第一楽章

第一楽章は、ある意味において、ラヴェルの「ボレロ」を参考にしているようにも感じられます。
小太鼓が終始一定のリズムを叩く中で、オーボエ・ファゴット・フルート・クラリネット等の管楽器のソロを
交えながら徐々に高潮していくスタイルを取っていて、
ボレロをパクったというよりはボレロのコロンブスの卵的なアィディアを新しい感覚で応用したとも言えるのだと思います。
オーボエとファゴットの掛け合いの部分が私的には大変気に入っています。
ボレロの場合、優雅に静かにゆったりと徐々に徐々に盛り上がっていくのですけど、
レニングラードの場合、かなり早い段階から金管セクションが咆哮し、小太鼓もいつの間にか2台目、3台目と加わっていき、
テンポもどんどんヒートアップしていき、最後は破綻するかのように全音で爆発していき、ボレロの部分は終焉を迎えます。
ラストは、小太鼓のボレロのような繰り返しのリズムが弱奏で刻まれる中、
ミュートを付けたトランペットの幾分寂しそうな感じというのか、
「まだまだ戦争は続いている」といった暗示のような感じで静かに閉じられるというのが
ショスタコーヴィッチとしてのリアルティー表現と言えるのかもしれないですね。
ラヴェルのボレロは、最後の最後で、それまで保っていた形式美を崩壊させるといったラヴェルの悪趣味を感じさせてくれます。
ショスタコーヴィッチの場合はそうした悪趣味というよりは、戦時中でないと書けないみたいなリアルティーの方が強いと
感じられます。

〇アーノルド / 序曲「ピータールー」

この曲は静かに開始されるのですけど、途中で小太鼓が乱入し、それが2台に増強されていき、曲も高潮化していきます。

〇ヒナスティラ / バレエ音楽「エスタンシア」~Ⅳ.終幕の踊り(マランボ)

とにかく集団発狂のごとく、2台の小太鼓・テナードラムとピアノのリズムに乗っかり全体がエキサイトにノリノリのダンスを
お披露目していきます。

吹奏楽オリジナル曲としては、フーサの「プラハのための音楽 1968年」の第Ⅲ曲から第Ⅳ曲・トッカータとコラールに
移行する際の2台または3台の小太鼓による凄まじいクレッシェンドのロールで曲想を盛り上げていき、その小太鼓のロールに
乗っかって金管楽器が爆発していきます!

逆に小太鼓の強奏でではなくて弱奏のデリケート極まりない効果的な使用事例として、リムスキー・コルサコフの
交響組曲「シェエラザート」~Ⅲ.王子と王女の物語だと思います。
そして第Ⅳ曲における強奏で小気味よいリズムの切れの小太鼓の扱いとは極めて対照的であり、このあたりは
さすがオーケストラの魔術師の元祖とも言えそうなリムスキー・コルサコフらしい話だと思います。


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冒頭で「打楽器奏者はマスターすべき楽器が大変多い」と記しましたけど、それはアニメ「響け! ユーフォニアム」でも
きちんと描かれていました。

一例を挙げてみると、一期と二期において自由曲で大太鼓を担当していた女の子は、二期の駅コンの際には
シンバルを担当していましたし、映画の中においては、トムトム兼小太鼓を担当していました。

一年生からコンクールメンバーに選出される事は大変難易度が高いと思いますが、一般的には
一年生で鍵盤打楽器かトライアングル等の小物、2年生で大太鼓かシンバルでリズムの要を担当し、3年生で
小太鼓またはティンパニという打楽器パートの花形を担当して卒業していくというのが一つのパターンなのかも
しれないですし、3年間でほとんどの打楽器は一度ぐらいは担当する機会がありそうという事で、打楽器パートは
打楽器パートとしての苦労も多いと言えそうです。
一つ後の記事が打楽器の「小太鼓」に関する内容ですので、小太鼓を取り上げたからには大太鼓とシンバルについても
取り上げたいと思いましたけど、あまりオーソドックスな事書いてもつまらないので、本記事においては
「シンバル付大太鼓」という大変珍しい打楽器について簡単に触れさせて頂きたいと思います。

というか・・シンバル付大太鼓を使用する楽曲って、私自身はマーラーの交響曲第1番「巨人」~第三楽楽章しか
知りませんし、1994年に来日公演を果たしたミハイル・プレトニョフ指揮のロシア・ナショナル管弦楽団の演奏会での
公園曲目の一つであったビゼーの組曲「アルルの女」の終曲・ファランドーレの踊りで、なぜか知りませんけど、
シンバル付大太鼓を使用し、本来は大太鼓とシンバル奏者と2名打楽器奏者を要するパートを1人で抑えていましたので、
当時は「このオーケストラは新設間もないから来日公演も経費を極限まで抑制しているのかな・・?」とふと余計な事を
考えたりもしました。
(実際、2曲目のラヴェルの「ダフニスとクロエ」第二組曲も本来は打楽器奏者が7~8人は必要なところ、なんと5人の
打楽器奏者が複数の打楽器を掛け持ちして舞台を右往左往していたのも大変印象的でもありました。

上記でマーラーの話が手ましたけど、マーラーの交響曲の世界では、ポストホルン・テノールホルン・ギター・マンドリンなどの
特殊楽器もかなり効果的に使用されていますけど、同時に打楽器をかなり多彩に使用し、
20世紀以降のクラシック音楽の世界の「打楽器重視」の姿勢を先取りしているようにも感じられます。
マーラーが活動していた19世紀から20世紀初頭では、異例だったシロフォン・グロッケンの鍵盤打楽器も
例えば交響曲第6番「悲劇的」に使用していますし、他にも、鈴とかコンサートチャイムとか二人の奏者を必要とする
ティンパニとか巨大ハンマーとかカウベル(牛の首に付ける鈴)など様々な特殊楽器を曲の中に取り入れています。

特に交響曲第6番「悲劇的」はあまりにも多種多様な打楽器を曲の中に入れた事で、当時の批評家から
「単なる視覚的効果・・」とか
「大袈裟・・」とか
「単なる見た目の演出」などと色々と批判を受け
例えばマーラーが警笛用ラッパを手にし、「しまった、こいつを入れるのを忘れていた! でもこれでこのラッパを使って
もう一つ交響曲が出来るぞ!」と叫んでいる風刺画が登場するほどでした。

いつの時代もこうした先駆的な実験者・創造者は絶えず批判は受けるものなのかもしれないです。

マーラーは「視覚的効果」という事ももしかしたら多少は意識していたのかもしれないです。
そのいい例が交響曲第6番「悲劇的」~第四楽章で使用される「巨大ハンマー」なのですけど、
あのハンマーが象徴する事は「その打撃音によって英雄は倒れる」→「死」なのですけど、
ハンマーを打楽器奏者が振り上げて床に置かれている木片にゴチー――――ン!!と当たる瞬間の衝撃音は
凄まじいインパクトがあると思います。
他にも交響曲第1番「巨人」~第四楽章のラスト近くにホルン奏者をスタンドアップさせ、ベルの部分を客席に向けて
吹かせたり、
交響曲第7番「夜の歌」~第四楽章の冒頭部分において、これは管弦楽では極めて珍しい事例なのですけど、
クラリネット・オーボエの木管楽器奏者に「ベルアップ」を求めていて
あの部分のクラリネット奏者は、通常は45度前後あたりの角度で吹くところを90度近い角度で吹く羽目になり、
あれは客席で見ていても相当目立つと思います。
他にも交響曲第3番「夏の朝の夢」~第三楽章においては、舞台裏から朗々と奏でられるテノールホルンの音色からは
夢をイメージさせてくれるのに対して、あの場面が終わった後に舞台上のトランペットが唐突に起床ラッパを鳴らしているのは
夢の世界から現実に世界に引き戻すという視覚的効果も狙っているように感じられますし、
交響曲第2番「復活」においても舞台裏から金管楽器を吹かせることで、天界の戦闘みたいなイメージを視覚的効果として
表現しているようにも感じたりもします。

私自身がマーラーの色々な交響曲を生の演奏会で聴いて「面白いな・・・」と感じたのは、
交響曲第1番「巨人」第三楽章で使用される「シンバル付大太鼓」もその一つなのかもしれないです。


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通常の演奏会ですと、シンバル奏者と大太鼓奏者は別です。
シンバルと大太鼓が同時に鳴る場合は、普通は奏者2名を必要とします。
マーラーの交響曲第1番~第三楽章の場合は、シンバル付大太鼓を使用し、一人で大太鼓とシンバルを鳴らしなさいという
指示がスコアに明記されています。
この「シンバル付大太鼓」とは何かというと、大太鼓の頂点部分にシンバルの片側が装着されている楽器の事であり、
一人の奏者が大太鼓の撥とシンバルのもう片側を持ってふたつの楽器を同時に演奏します。

これってどういう効果を意図し、奏者にどんなことを求めたのでしょうか・・?

生の演奏会見た限りでは、奏者もかなりやりにくそうな感じもありました。
左手にシンバルの片側を持ち、大太鼓に固定されたシンバルのもう片側と合わせて
更に右手に大太鼓の撥を持ち、同時に大太鼓を叩く必要がありますので、奏者はかなり面倒と思いますが、
こうした面倒なスタイルを取っているから大きな音量は出せませんし、結果的に随分と控えめな演奏になると思います。
この第三楽章は葬送行進曲でもありますので、あまり大きな音は求めないという事で、マーラーとしてはあえて
こうした面倒な手法を採用したともいえるのかもしれないです。

19世紀のイタリア・フランスの歌劇場などでは、オーケストラ・ピット内のスペースと、
打楽器奏者の人数を両方とも同時に 節約することを目的として、このシンバル付大太鼓を採用していたという事情も
あるのですけど、マーラーのメインの作曲の場所は交響曲であり決して歌」ではありませんので、
そうした節約も必要ない感じもありますので、その意図というのは、「作曲者のみぞ知る」という感じなのかもしれないです。


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通常のオーケストラにおいては、大太鼓(コンサートバスドラム)は言うまでもなく単独打楽器であり、頂点部分に
シンバルが取り付けられることはまずありえないですし、奏者は撥をバスドラムに叩きつけることのみに専念できます。

チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」~第三楽章において、4発のみシンバルと大太鼓が同時に鳴るシーンがあります。
面白いのは、チャイコフスキーのスコアの上では、
「シンバルは大太鼓にくっつけてはいけない」との注釈がわざわざあるとの事です。
注釈が付いているのは、チャイコフスキーがマーラーに自分の曲の指揮を依頼することが何度かあったらしいのですけど、
マーラーの「巨人」~第三楽章みたいに演奏されるのはちょっと嫌だな・・みたいな
チャイコフスキーの意図ももしかしたらあるのかもしれないですね。
その辺りはこの二人の巨匠の興味深いエピソードという事なのかもしれないですね~♪
ピアノ協奏曲というと、私自身これまで生演奏で聴いた中で機会が多かった曲はと言うと・・

〇チャイコフスキー/ピアノ協奏曲第1番

〇ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番  または パガニーニの主題による狂詩曲

〇ショパン/ピアノ協奏曲第1番

〇ラヴェル/左手のためのピアノ協奏曲 またはピアノ協奏曲(俗にいう左手と両手)

〇ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番「皇帝」

〇モーツアルト / ピアノ協奏曲第23番

〇プロコフィエフ / ピアノ協奏曲第3番

あたりがその候補曲なのかもしれないです。

ショパンのピアノ協奏曲第1番は青春の甘酸っぱい」感じが漂う瑞々しい協奏曲だと思います。

第一楽章の異常に長いオーケストラの序奏部分、第二・第三楽章に比べて明らかに長すぎるようにも感じられる第一楽章という
曲の構造的欠陥はあるものの、
(同じ事は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番にも言えるのかもしれないです)
ロマンスというワードがぴったりとしか言いようがない第二楽章のせつなさと甘美さ、
優しい決別」・優しさと甘美さのかたまりみたいな第三楽章などいずれの楽章も心に優しく響く音楽で、
私としては、この曲を聴く度にどことなくやさしい気持ちになれそうな気がします。
特に第二楽章の後半のピアノソロ部分とそれを支える管弦楽の伴奏部分の優しい対話に何か毎回聴く度にジーンとくるものは
ありますし、普段、吹奏楽とかプロコフィエフとかショスタコーヴィッチとかストラヴィンスキーばかり聴いていると、
たまにこういう単純で優しい甘美な音楽に触れると、思わずその美しさにはっ・・とさせられるものはあると思います。

この協奏曲ですけど、若かりし日のショパンが、ヨーロッパに演奏旅行に赴く前に、ワルシャワで開催された
告別演奏会で初演されています。
一説には、片思い中だったソプラノ歌手の女の子もこの演奏会に出演していたようです。
元々内気で恥ずかしがり屋な上に、十分な音量を持てないショパンはやがて、コンサートホールでの
管弦楽団との協奏曲という形式の演奏会を開催する事はなくなっていき、
もっぱら、サロンみたいな少ない人数での聴衆だけを対象にしたピアノ一台だけの独奏会みたいな形でしか
人前で演奏しないようになってしまいます。
それでもたまに弟子たちの前でこのピアノ協奏曲第1番を弾き語って、
「私は、この曲が大好きでした、昔はこんな曲を人前で演奏した事もあるのです・・・」と
しんみりとした口調で語っていた事もあるそうです。

この協奏曲は終始一貫して甘酸っぱい音楽が展開されていますし、「恋に恋する純粋な乙女のための音楽」みたいな香りが
全体的に漂っていると思いますし、「夢見る少女のための音楽」と言っても過言ではない感じがあります。
とあるピアノ教室を開いている先生に聞いた事があるのですけど、10代~20代前半のピアニストを目指している音大生や
音大生の卵たちが「オーケストラと協奏してみたい曲」としては、このショパンのピアノ協奏曲第1番は
断トツの一位というか、相当の人気協奏曲とのことです。
それは女性奏者ではそうした人気ランキングになりがちとのことですけど、男性の音大生にとっては、
弾きたい曲はショパンよりはどちらかというとリストやラフマニノフのピアノ協奏曲の方が人気があるとの事なそうです。
正直に私の本音を書いてしまうと、ショパンのピアノ協奏曲第1番だけは男に弾いて欲しくないですし、
おばさんピアニストにもあまり弾いて欲しくないですし、
10代~20代限定の美少女ピアニストだけしかこの協奏曲は弾いて欲しくないのかも・・という気持ちはあると思います。

個人的には、若い頃のアルゲリッチがソロを担当した演奏にすごく魅かれるものがあります。
他のピアニストにはない、独特のタッチが随所にありこの曲に対する造詣の深さを感じさせてくれます。
過去の生の演奏でショパンのピアノ協奏曲の圧倒的名演として最も印象に残ったのは、
1996年のデュトワ指揮/NHK交響楽団 ピアノ/アルゲリッチの奇跡的な顔合わせの演奏だと思います。
ご存知の人も多いと思いますが、デュトワとアルゲリッチは元夫婦で、
1970年代に二人がN響との共演で来日した際、成田空港で壮絶な夫婦喧嘩の末破局したとの事ですが、
それを考えると、まさにこの1996年の演奏はドタキャン公演以来の「幻の演奏会の再現」と
クラシック好きな人の間では、結構話題になったものです。

この時のN響の演奏会は、「リスナーが選ぶベスト曲目投票」で選出された曲目で、

〇道化師の朝の歌

〇ショパン/ピアノ協奏曲第1番

〇幻想交響曲

で構成され、アルゲリッチは、ショパンのソリストとして出演していました。

演奏は本当に素晴らしかったです!!

若い頃のタッチとほとんど変わらず、外見は魔女みたいに老けていても(失礼ですよね・・・)
感性はあまり変わっていないかのような演奏で、私は結構エキサイトしていました!
演奏終了後、意外と深々とペコペコ頭を下げているアルゲリッチの姿に何か多少の意外感はありましたけどね・・・
逆に言うと、アルゲリッチも随分と丸くなったものだと妙に感心したものです。

ショパンのピアノ協奏曲第1番は、第1番という表記がされていますが、実際は第2番の方が先に作曲されています。
第2番は、第1番と大体似たような構成・感じなのですが、1番のメロディーの豊かさには足元にも及ばないと思います。
ただ、第三楽章後半でホルンのファンファーレみたいなものも出てきて、
オーケストレーションが下手な事では有名なショパンにしては、幾分凝った感じにもなっています。

ショパンのピアノ協奏曲第1番は、オーケストレーションが貧弱とかピアノと管弦楽団との掛け合いの魅力が皆無とか
伴奏付きピアノ曲の領域に過ぎない・・とかかなり悪口や酷評を書かれることも多い曲ですが、
ショパンらしい線の細さや優しさを出すには、この位のバックでないとその瑞々しさを醸し出すのは
難しいと思うので、私としてはこのオーケストレーションで十分だと思います。
素晴らしいメロディーラインが続出のピアノソロパートに対して、バックのオーケストラは極度に「伸ばし」を多用した
伴奏になっていて、奏者の皆様は相当退屈で時間を強いられているのかもしれないです。
もっともそうした貧弱な伴奏だからこそ、華麗な独奏ピアノを際立たせる効果があり、演奏効果として十分すぎるほど
華麗さを発揮しているのかもしれないです。
後世の方がバックの管弦楽のオーケストレーションをアレンジした版もあったりしましたし、日本においてもお公家さん指揮者の
近衛秀麿さんがアレンジもあったりします。

オーケストレーションの巧みさが光る名人芸的な作曲家は基本的にはピアノも名人芸的にうまく弾きこなせる多いという
傾向は間違いなくあると思います。
というのも、作曲家にとってピアノとは大変便利な道具でもありますし、音域が広く少なくとも指10本程度の音は同時に
出せますので、作曲家にとっては音を確認しながら作曲活動とスコアに音符を記す事が出来ますので大変便利な楽器とも
いえそうです。
作曲家にとってはピアノを弾きながら作曲活動をするのは普通の光景だと思いますし、五線譜・ペン・ピアノが作曲活動の
上では三種の神器なのかもしれないです。
(もっとも最近はPCと作曲ソフトがあればそうした三種の神器は不要と思われますけどね・・)
そのためなのかオーケストレーションの名人は一般的にピアノも大変巧いという傾向が強いです。
その代表的事例としては、ラヴェル・ベートーヴェン・ハイドン・プッチーニ・リムスキー=コルサコフ、ストラヴィンスキー・
ブラームスなどが挙げられると思います。

さてさて、上記にて「オーケストレーションが巧い作曲家は大抵ピアノを弾くのも上手」と記しましたけど、その逆の事は
成立するものでしょうか・・?
つまり、ピアノの名人で作曲も出来る御方はオーケストレーションも巧い」という事は成立するものでしょうか・・?
その答えは一概には言えませんけど基本的にはノーといえるのかもしれないです。
その事例としてワーグナー・ベルリオーズ・シューマンなどが挙げられますけど、最もそれが当てはまるのが
上記で記してきたピアノ協奏曲第1番でお馴染みのショパンだと思います。
ショパンのピアノ協奏曲第1番を一度生演奏で聴くとよくわかると思いますけど、既に上記で記したとおり、華麗で雄弁な
ピアノ独奏に対してバックのオーケストラの寡黙な伴奏の貧弱さは一目瞭然だと感じざるを得ないです。
あの協奏曲は完全にピアノが主役であって指揮者とオーケストラの団員たちは、
もしかしたら・・? 「別に自分達いなくてもいいじゃん・・」と感じてしまうのかもしれないですね~


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ピアノ協奏曲第1番は基本的に二管編成なのですが、ホルンが4、トランペット2に対してトロンボーンが1という
やや変則的な編成を取っているのも面白い感じはあります。
トロンボーンは通常は、ファースト・セカンド・バストロと3本一組が基本ですので、わずか1本のみという構成は
結構珍しいものがあるといえそうです。

ショパンのピアノ協奏曲第1番のトロンボーンには特に重要と思われる聞かせどころは皆無と思うのですけど、
それでも同じパートのメンバーがいなくて自分一人・・というのは結構心細く感じるのかもしれないです。

美少女とトロンボーンというと印象的なのは「響け!ユーフォニアム」以外では、アニメ作品ではないのですけど、
2017年1月にリリースされた音と魔法の学園RPG「ららマジ」が大変印象的です~♪

ららマジのストーリーは、とある呪いにより廃部寸前となってしまった東奏学園器楽部を舞台に、
プレイヤーは器楽部員として登場する30人のヒロイン達を呪いから救い出し、彼女たちが再び演奏できるようにすることを
目指すように頑張るという内容です。

そして30人のJKさんのメンバーの中で、トロンボーン奏者兼コンサートマスターの地位にいるのが3年生のお姉さまの
星崎梨花です。
担当楽器はトロンボーンで、器楽部のコンミスを務める完璧超人で、器楽部創立メンバーの一人であったりもします。
武器のトロンボーン型の槍は突いたり切りつけたりするだけでなく小規模な爆風を放つこともできるそうです。

星崎梨花だったら、大規模なフル編成の管弦楽団の中でも、ららマジ器楽部の中でも、ショパンのピアノ協奏曲第1番の
バックのオーケストラで自分一人だけのトロンボーンパートだけであったとしても、存分に星崎梨花としての
存在感を示されるのかもしれないですね~♪
「tutti」というワードを耳にすると、アニメ「響け! ユーフォニアム」好きの皆様でしたら、
「あー、それは第一期のEDの曲だよね~」と言われるのかもしれないですけど、音楽用語的には
演奏している全ての奏者が同時に演奏する事であり、換言すると「総奏」であり、ソロの対義語ともいえそうです。

ソロ楽器でもって美しいメロディーラインを奏でるのも相当うっとりとさせられるものがありますけど、
中には、複数の同一楽器が同一メロディーを同じオクターブ(音域の高さ)で合せて奏でる場合があり、
これは音楽用語的には「ユニゾン」と呼ばれたりもします。

ユニゾンとは何かと言うと、音の高さが全く同一またはオクターブが一つ上かはたまた一つ下の音を複数の楽器で
演奏された状態の事を示します。
管弦楽団のヴァイオリンパートが全員で同一メロディ・同一の高さで揃えて演奏される事は、オーケストラの要とも
いえるのだと思います。
曲がソロ楽器の完全ソロで開始される場合も多々ありますけど、中には
例えばシューベルトの交響曲第8番(9番)「ザ・グレイト」のホルンやチャイコフスキーの交響曲第5番のクラリネットのように
ソロではなくて二本の管楽器による同一メロディ・同一の音域の高さでもって・・、つまり前述のユニゾンの状態から
ひそやかに開始される事例もあったりします。
それでは単独ソロで開始される場合と、二本の楽器によるユニゾンでの開始とではどのような違いがあるのでしょうか・・?
勿論人によって感じ方の違いは多少はあるかもしれないですけど、一本のソロ楽器として感じる響き方よりも
2本のユニゾンで吹いた方が響きがより幅広く深く感じられますし、演奏効果が高くなるようにも感じられます。
そしてなんとなくですけどソロよりもユニゾン状態で吹いた方が表現の自由度に制約が課される一方で、
例えばチャイコフスキーの交響曲第5番の冒頭の二本のクラリネットのメロディーは、そのメロディー自体が
交響曲全体を貫く循環主題ともなっているほど重要なモチーフにもなっていますので、そうしたモチーフの印象度が
ソロよりもユニゾンの方がはるかに強く感じられるという効果もありそうだと感じたりもします。

マーラーの交響曲はなんとなくイメージ的には複雑怪奇とか病んだ精神状態で書かれた錯綜・錯乱した曲というものが
あるのかもしれないですけど、実はマーラーの交響曲は臨時記号や極度な不協和音というものは意外と少なくて、
メロディーラインも複数の旋律を重なり合わせる感じではなくて、一つの旋律をシンプルに構成しているという事が
ほとんどなのかもしれないです。
そのせいなのか、マーラーの交響曲は初期作品においては結構ユニゾンを効果的に使用した楽曲もかなり多く、その最も
有名で音響効果が高い事例としては、交響曲第3番「夏の朝の夢」~第一楽章冒頭の8人のホルン奏者による
堂々としたユニゾンによる開始のインパクトはかなり強烈なものがありそうです。
冒頭でホルン奏者全員がややベルアップ気味に全員で同じ旋律を堂々と吹き鳴らす場あのユニゾンは、曲の開始早々
ノックアウトを食らったような強烈なインパクトは秘めていると思います。
第一楽章だけで35分程度もかかり、フィナーレの第六楽章も30分程度の演奏時間を要し、
曲全体の演奏時間も軽く100分を超えますけど、全体的には、朝=夜 人間界=自然界 現実=夢
現実=過去の記憶 生=死という相反するテーマを全て一つにまとめ上げたというか、
過去の記憶と現在の印象の全てを巻き込み直進していく巨大な「マーチ」という考え方も出来るのかもしれません。
人間が元々有している相反する矛盾する要素を「音楽」として反映させる意図があるんじゃないのかな・・とも感じたりもします。

マーラーの交響曲におけるユニゾンと言うと、3番の8本のホルンに比べると地味かもしれないですけど、
交響曲第4番「大いなる喜びへの讃歌」~第一楽章の6分前後に登場する4本のフルートによる超高音域の繊細な
ユニゾンも大変印象的です。
4人のフルート奏者が高音域でpp~fまでディミニエンドを繰り返すまるで妖精のダンスみたいなニュアンスは、多分あれは
フルートソロだけでは表現しにくいと思いますし、あれは4本のユニゾンであるからこそ可能なニュアンスなのかもしれないです。

ユニゾンというと冒頭でも記したとおり、チャイコフスキーの交響曲第5番~第一楽章冒頭の2本のクラリネットによるユニゾンも
大変印象的ではありますが、同じくチャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」の9分~10分目前後に延々と
展開される各2本ずつのフルートとオーボエの計4本による「愛のテーマ」のユニゾンもとても感傷的で胸にじーんと響きます。
同一楽器のユニゾンよりもはるかに難易度が上がるのが異なる楽器でのユニゾンなのですけど、そうした異なる楽器での
ユニゾンにおいて「実は最も音のニュアンス・音域・音量の微妙な調整が難しい」とされるのがオーボエとフルートでも
ありますので、あの長大なユニゾンの箇所に差し掛かると奏者もそうですけど指揮者もかなり大変なのだと思います。
しかもあのフルートとオーボエのユニゾンの最後には、なんとクラリネット2本までがそのユニゾンに加わり、計6本の
管楽器によって延々と感傷的で甘美なユニゾンが展開されますので、聴き応えは十分だと思います。

チャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」は「序曲」というタイトルが付いているのですけど、
印象としては「交響詩」みたいな雰囲気も濃厚です。
演奏時間が20分程度ですし、曲としてはかなり長いという印象もあります。
この20分の曲の中に、荘厳なコラール・愛のテーマ・諍い・人間の死・甘美さ・せつなさ・激しさなど
とにかく色々な要素が「これでもかっ!」とばかりに盛り込まれていて、聴いていて飽きる事はありません。
20分の曲の中に「出会い→喧騒→愛の逃避行→死」のストーリーがギュギュッ・・と詰め込まれていて、
目を閉じてこの曲を聴いているとシェークスピアのあの誇り高き戯曲の様々な名場面が浮かんでくるような感じすらあります。
特に素晴らしいのが冒頭のクラリネットをメインとする荘厳なコラールと中間部の「愛のテーマ」だと思います。
そしてその愛のテーマに上記のオーボエ・フルート・クラリネット、計6本の管楽器によるユニゾンが高らかにしっとりと
鳴り響いていきます。
その中間部の愛のテーマの盛り上がりの最後にはしっりとしたコールアングレのソロで締めてくれるのも素晴らしいです。
曲のラスト30秒前当たりのティンパニのロールをバックに金管を中心としたコラール風なエンディングも
哀しい死ではなくて「天国で二人は幸せに結ばれる・・」といった一つの「救い」が示唆されているようにも
感じられとっても素敵だと思います。
それと個人的な印象ですけど、前半や後半の展開部で登場するシンバルの凄まじい連打に次ぐ連打のあの迫力は
圧倒されるものもあったりします。

この幻想序曲なのですけど、シェイクスピアの原作から主に3つのテーマに絞って書かれています。

1.ローレンス修道士を表す宗教的で荘厳な序奏部
2.モンタギュー家とキュピレット家の争いを描写する第一主題
3.バルコニーのシーンに代表されるロメオとジュリエットの愛の場面を美しくまた悲しく歌う第二主題

前述の通り、1の冒頭場面のクラリネットをメインとする木管のコラールは神々しいですし、
2の激しさ・・特にシンバルの連打は大変印象的ですし、3の「愛のテーマ」の美しさ・ロマンティックは
この世のものとは思えない美しさがあると思います。

専門的な事を一言書くと、標題音楽でありながらソナタ形式を取っていて、
構成面でもひきしまった作品になっている点は「すごいな・・」と感心してしまいます。

この曲をCDで聴く場合、私が特に特にお勧めしたいのは、バーンスタイン指揮/ニューヨークフィルの演奏です!
この演奏はすごい・・すごすぎると思います。
(特に冒頭のクラリネットの音色はこの世のものとは思えないです・・中間部も大変美しいですし、聴き方によっては
退廃的なものすら感じさせています)


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吹奏楽オリジナル作品でもそうしたユニゾンを多用した楽曲は無数にありますけど、私的にはなぜかしりませんけど、
バーンズの交響曲第2番~第二楽章・中断された変奏曲における清楚なクラリネットのユニゾンとそれに続く
トランペットの(はもりがあるので厳密にはユニゾンではありませんけど)神々しいコラールのような響きが大変
印象的であったりもします。
(スパークの「ドラゴンの年」~Ⅱ.間奏曲の荘厳なユニゾンもすてきです・・)

バーンズの交響曲第2番~第二楽章・中断された変奏曲の出だしはオーボエのソロから開始され、それが
クラリネットからアルトサックスへと引き継がれます。
静かな部分が終わると、少し賑やかな部分が変奏されていきますが、それが一旦静まると
クラリネットのユニゾンをメインとする木管合奏による静粛なバッハみたいなコラールというか聖歌が奏でられます。
そして木管コラールがトランペットのユニゾンをメインとする金管コラールにバトンタッチされていきます。
とにかくこのユニゾンのコラールが美しくて何度聴いてもうっとりとさせられます。
この木管と金管によるコラールが終わると、 再びどんちゃん騒ぎが再開されますが、最後は冒頭のオーボエソロが再現され、
静かに閉じられます。

トランペットというと明るさ・華やかさ・喧噪を象徴する楽器でもあるのですけど、こうやってたまに静粛で神々しい祈りのような
コラール的なトランペットのユニゾンを耳にすると、普段がああいう響きだけに余計にしんみりとした情感を
楽しめそうです。

ここから下記はdream fantasy2
アミグリさんが過去に描かれた絵の転載&ご紹介コーナーです。

上記でトランペットのユニゾンについても触れさせて頂きましたので、ここはアニメ「響け! ユーフォニアム」のトランペット奏者
であり孤高で気高い高坂麗奈を取り上げない訳にはいかないです!

上記の絵は、アミグリさんが2018年6月に描かれた「響け! ユーフォニアム」の1年生トランペット奏者の高坂麗奈です!

麗奈はトランペット奏者なのですけど、あの凛とした雰囲気はもしも麗奈が金管楽器ではなくて木管楽器を選んだ場合は
オーボエが最もお似合いといえるのかもしれないです。

そしてこの高坂麗奈は、2018年7月に当ブログが迎えた「吹奏楽カテゴリ通算1000記事到達」を記念して
アミグリさんに事前にリクエストをして描いて頂いた記念碑的な作品でもあります!
ちなみに描かれた時期は2018年6月です!

アミグリさんの描かれた麗奈は、アニメ版の特に第一期で見せていたちょっと孤高で気高いオーラとプライドの高い麗奈という
要素を少し弱めて、第二期で見せていた麗奈本来のかわいらしさを感じさせているのだと思います。

北宇治高校の冬服の茶系統のセーラー服のかわいらしさに黒髪ロングの素晴らしさにつぶらでどこか訴えかけるような
瞳の吸い込まれ具合に微笑みの上品さなど
完成度の高さにはただただ脱帽するしかないと思いますし、
「この麗奈を描くのに一体どれだけご苦労をされたのだろう・・」と改めてアミグリさんには感謝の言葉しか出てこないです。
麗奈のこの流れるような黒髪ロングの美しさやキラキラ感も本当に充実していると思います。
笑顔もすてきですし、背景の音符やトランペットも「麗奈はミューズ=音楽の女神様みたい・・」といった雰囲気を
伝えているように思えてならないですね~!

上記のアミグリさんが描かれたノースリープの高坂麗奈の権利は、
全て上記作品の絵師様であられるアミグリさんに帰するものであり、当ブログにおける転載とご紹介は事前に全て
アミグリさんからご了解を頂いたものであり、アミグリさんからのご厚意で転載をさせて頂いておりますので、
無断お持ち帰りや無断コピーは絶対NGですので くれぐれも宜しくお願い申し上げます。

アミグリさん、本当にいつもすてきなイラストの転載を快諾して頂きありがとうございます!!

皆様の中で「こんなにも気高く美しい高坂麗奈を描かれる方のブログってどんなもんなのだろう? 」などと興味がある方は、
是非是非アミグリさんのブログdream fantasy2を ご覧になって頂きたいと思いますし、 宜しければ、当ブログだけではなくて、
是非アミグリさんの本家本元のブログdream fantasy2に一度お越しして頂けると アミグリさんのブログをご紹介させて頂いている私もとってもとっても嬉しいです!

アミグリさんが定期的に作品を投稿され続けている →アミグリさんのpixiv にも是非一度足を運んで頂ければ幸いです!

アミグリさんのpixiv

高坂麗奈のトランペットには独特の影と華麗さが秘められていますけど、ゆったりとしたコラール的なユニゾンを
他のトランペットパートの人たちとうまく合せながら奏でるのもとてもすてきだと思いますね~♪
8月真っ盛りという事で外は歩くだけでうだるような暑さです!

おまけに今年は新型コロナウィルスの事もあり、マスクを付けての外出は「新しい生活様式の確立」においてはほぼ必須と
なっているようですけど、息苦しいと蒸し暑さも感じられ、マスクを装着するだけで只でさえ暑い中、更に日々のストレスも
マシマシになりそうです。

そうした暑い夏を忘れさせ少しでも涼しく感じられそうな吹奏楽作品や管弦楽作品を挙げてみると、
吹奏楽オリジナル曲としてはパーシケッティーの「ああ、涼しい谷間」を強く推したいですし、管弦楽曲としては
アルヴェーンというスウェーデンの作曲家のスウェーデン狂詩曲「夏の徹夜祭」という曲を推したいです。
(余談ですけど、「なつのてつやさい」と入力するとワードでは「夏の鉄野菜」となってしまいます・・・)

日本では、スウェーデンの作曲家、アルヴェーンの知名度は「知る人ぞ知る」という扱いなのかもしれないですけど、
欧州のクラシック音楽界では、ヴィルヘルム・ステーンハンマルとともに、スウェーデンの主要な作曲家の一人という
評価は既に定着されていると思います。
5曲書かれた交響曲も再評価の声もあるみたいですけど、ごめんなさい・・この方の交響曲は一曲も聴いたことがないです・・
アルヴェーンは、どちらかというと作曲家というよりは指揮者としては著名だったようですね。
ちなみにアルヴェーンは、没年は1960年ですので、どちらかというと「最近まで生きられていたクラシック音楽の先生」
みたいな印象もあったりします。

日本のプロのオーケストラにおいて、アルヴェーンというと唯一演奏されるのが「夏の徹夜祭」という曲だと思います。

吹奏楽コンクールでも、吹奏楽アレンジ版として自由曲で演奏された事例は私も聞いたことは無いですし、
プロの管弦楽団の演奏でも、私自身もこの曲は、東京交響楽団のサマーコンサートでしか聴いたことがないです。

正式名称をスウェーデン狂詩曲第一番「夏至の徹夜祭」というこの曲は、曲自体は大変親しみやすく軽妙で
聴いていてとても愛くるしさも感じる洒落た粋な曲だと思います。
北欧の短い夏を「思いっきり楽しんでみよう!」みたいなおおらかさがあるのがすてきですし、北欧のどちらかというと
涼し気で短い夏を粋に涼しげに音楽として表現したラプソディーと言えそうです。
うだるような最近の日本の暑さにおいて、この曲を聴いてみると少しは癒しを感じられるとは思います。

冒頭のクラリネットがとってもいい味を出していると思います。

冒頭の弦楽器のピッチカートによるバレエ音楽風のリズムに乗って、
クラリネットなどの木管楽器によって奏でられる音楽がまさに短い夏のお祭りの始まりと言えるのかもしれないです。
スウェーデンでは、夏至祭のころが1年で最も気候のよい時期でもありますので、まさに、人々の夏を待ちかねた気分が
生き生きと描かれているとてもすてきな導入部だと思います。
中間部では一転、北欧特有の白夜の情景となり、コールアングレが奏でる哀愁を帯びたメロディーが
とてつもなく印象的です。あのコールアングレには何かうっとりとさせられるものが間違いなくあると思います。
後半からラストは、若者たちの踊りみたいな印象となり、音楽が高揚としていき、盛り上がった気分のまま
楽しく曲は閉じられます。
演奏時間は12分前後かな・・? この曲をCDで聴く場合、ネーメ・ヤルヴィ(パーヴォ・ヤルヴィの父親)指揮の
ストックホルム・フィルハーモニー交響楽団がお勧めです。

「夏の徹夜祭」の冒頭のクラリネットで奏でられるあのほのぼのとしたメロディーって
このアルヴェーンの「夏の徹夜祭」という曲を一度も聴いたことが無い方でも、多分ですけど、
「あれれ・・この曲どこかで聴いたことがあるのかも・・!?」と間違いなく思われるかもしれません。
と言うのも、あの冒頭部分を聴くと、NHKの「きょうの料理」のテーマ曲(→マリンバで奏でられるあの曲です!)に
似ているというか・・部分的には「なんかそっくりじゃん・・!」と思わせる部分も間違いなくあると思います・・
NHKの「きょうの料理」のテーマ曲の作曲者は、既にご逝去されたあのシンセサイザーの富田勲なのですけど、
地理的と時間を超えたクラシック版空耳アワーの世界と言えそうです。
クラシック音楽版空耳アワーと言うと最も名高いのが、ドヴォルザークの交響曲第8番~終楽章と童謡「黄金虫は金持ちだ」と
言えそうですけど、「きょうの料理」とアルヴェーンの「夏の徹夜祭」にも同様の事は言えそうです。

大変古い話になってしまいますけど、「のだめカンタービレ」という漫画・アニメにおいては大変珍しい
クラシック音楽をテーマにした作品がありましたが、
その中で、なぜかこの「きょうの料理」のあのテーマ音楽が登場する場面もあったりしました~♪

それは、アニメ版「のだめカンタービレ」第22話 において登場します。

憧れの千秋先輩が指揮者としてどんどん進化・成長を遂げている中、「自分だけ蚊帳の外・・」とあせるのだめが
マラドーナピアノコンクールに出る決意をし、そのコンクールで演奏した3曲のうち、最後の一曲が
ストラヴィンスキーの大変な難曲、「ペトルーシュカからの三章」だったのですけど、この曲の演奏中に、
なぜか、のだめの頭の中になぜか「きょうの料理」のテーマがなだれ込んでしまいます!
どうして唐突に「今日の料理」が乱入したのかと言うと、会場への移動中に聞いた携帯の着信音が「きょうの料理」であったという
事なのですけど、本番中にそれが頭に乱入するだけでなく、そっくりそのまま引用してしまうのもなんだかすごいものが
ありそうですし、「バカと天才は紙一重」を見事に示唆する話でもあったように感じられます。

のだめのストラヴィンスキーの「ペトルーシュカからの3章」を弾いていると、
「きょうの料理」のテーマが混ざってしまい、まさに演奏は収拾不能のごちゃ混ぜ状態になってしまいます!
原作的には、ペトルーシュカときょうの料理がごちゃまぜになって、
ピアノを弾いているというよりは、テキトーに即興で作曲してしまっているのがオチみたいな感じになっていましたけど、
アニメ版的にはきょうの料理のテーマをそのままペトルーシュカ風のタッチで演奏していたという感じになっていたのが
なんともポンコツ野生児ののだめらしいエピソードでもありました。

ちなみに「きょうの料理」の乱入シーンは原作漫画・アニメ版・ドラマ版ではそれぞれ微妙にニュアンスが違っていたりも
しますので、興味がある方はDVD等で比較してみるのも楽しいものがありそうです。


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アルヴェーンの「夏の徹夜祭」という原曲に似た感じの「きょうの料理」のテーマを
のだめがストラヴィンスキーの「ペトルーシュカからの三章」とごちゃ混ぜしてしまった!とも言えるのかもしれないです。

ストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」自体、ロシアの民謡を結構無許可状態で(?)
自作のバレエに強引に引用した曲でもありますので、のだめが即興で少しパクってもバチは当たらないかもしれないです・・

最後に話を「夏の徹夜祭」に戻しますと、
のだめのエピソードに象徴されるように、なんか「くすっ・・」みたいな雰囲気もあったりしますし、
「北欧の短い夏を精一杯楽しもう!!」という雰囲気はよく伝わってきますし、
ほのぼのした曲だと改めて感じてしまいそうです。



一つ後の記事がのだめカンタービレとアルヴェーンの「夏の徹夜祭」とNHKの「きょうの料理」のテーマ曲に関するもの
でしたので、本記事は統一する意味で「のだめカンタービレ」に実名で登場していた2005~08年のシーズンに
都響の常任指揮者を務められていたJ.デプリーストについて簡単に取り上げさせて頂きたいと思います。

惜しまれる事にJ.デプリーストは2013年に76歳でご逝去されています。

J.デブリーストは1960年代より既にアメリカ楽壇で頭角を表し、当時は黒人差別が平然と行われていた状況下でも
当時としては大変珍しかった一流のアメリカ楽壇の指揮者として認識と高い評価を受けていたという事は
称賛に値するものと思いますし、
なによりもデプリースト本人は26歳の時に急性灰白髄炎(ポリオ)に倒れたものの、その病を乗り越え、
病床からの復帰以降はバーンスタインに見出されてニューヨーク・フィルハーモニックの 1965-1966 シーズンの准指揮者に
就任しましたし、1969年、ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団を指揮しヨーロッパ・デビューを果たしてもいます。
1971年には、アンタル・ドラティによりワシントン・ナショナル交響楽団の准指揮者に任命されています。
そうした多大な功績もあり、2005年にはアメリカ国民芸術勲章を時の米国大統領、ジョージ・ブッシュより授与される栄典も
受けています。
ポリオの後遺症が生涯残った事もあり、指揮スタイルは座りながらの指揮または電動車椅子で舞台に登場し、
車椅子から指揮をされています。

私自身は都響を指揮するデブリーストは多分7~8回ほど東京文化会館・東京芸術劇場・サントリーホールで
聴く事が出来たのは大変幸せな事だったと思います。
最初にデプリーストを見たのは、1997年の都響の定期演奏会で、この時は小山実稚恵さん独奏のモーツアルトの
ピアノ協奏曲第24番とベートーヴェンの交響曲第7番のプログラムでしたけど、正直この時のお目当ては小山さんのピアノ
でしたので、「デプリースト・・誰それ・・??」という感じでしたが、特にベートーヴェンの交響曲第7番の生命力溢れる
生き生きとした自然な音楽の流れに一気に引き込まれ、一瞬でデプリーストのファンになってしまったほどでした!
1997年時点では、杖をついて舞台に登場し座って指揮をされるスタイルでしたけど、都響の常任指揮者に就任以降は
電動車椅子での舞台移動と車椅子からの指揮をされていました。
デプリーストの指揮自体は特に派手さとか全身を駆使しての動きというものはほぼ皆無でしたけど、大振りはしない
代りに奏者の自発性を大切にしつつ細部と全体のバランスを大切にしながらも、全体としての音楽の流れが実に自然であり、
自然体で音楽自身と対話をしているという印象もありました。
聴いていて妙に説得力があるというのか自然とデプリーストの考える音楽に引き寄せられてしまうという印象も
ありました。
都響とデプリーストの組合せで今でも鮮烈な印象があるのは、上記でも触れましたけどベートーヴェンの交響曲第7番と
ベルクのヴァイオリン協奏曲とマーラーの交響曲第1番「巨人」とショスタコーヴィッチの交響曲第12番「1917年」でした!
デプリーストの残したCDの録音としては、ヘルシンキ響とのショスタコーヴィッチシリーズとオレゴン交響楽団との膨大な
録音が大変印象的ですし、我が家にも実はデプリーストのオレゴン交響楽団のCDは結構たくさんあったりもします。

知名度的には確かに弱い指揮者なのかもしれないですけど、とにかくあの生き生きとした演奏のライブ演奏を何度か
聴く機会に恵まれたことは私にとっても大変な幸運でした!
無名指揮者でもそのライブ演奏が生き生きとした名演であるのならば、よっぽとメジャー指揮者の手抜きの凡演を
高いチケット払って聴かされるよりは数百倍も尊いものがあるのだと思います!

さてさて、そうしたジェイムズ・デプリーストですけど、なんと・・! 「のだめカンタービレ」の原作漫画・アニメ版、そしてドラマ版
においてそれぞれ実名で登場し、しかもドラマ版に至ってはデプリーストご本人様がご出演をされています!
のだめカンタービレの千秋が常任指揮者を勤めるルーマルレ・オーケストラ(架空)の音楽監督という役での登場という
事なのですけど、日本のアニメ・オーケストラに対してここまで多大な貢献をされた指揮者もいないのかな・・??とすら
感じさせてくれます!

2006年のテレビドラマ化の際にはオリジナル・サウンドトラック制作にも参加され、
ベートーヴェンの交響曲第7番第4楽章やブラームスの交響曲第1番などを、東京都交響楽団の演奏で自ら指揮を
されていました。
その楽曲を収録したCD「のだめオーケストラ」LIVE!はクラシックとしては異例の35万枚を超えるヒットを記録して大きな話題
を集めてもいました。
楽曲に携わるだけではなく原作には実名で登場しドラマでは本人役で出演するなど、
指揮者という立場を越えてのだめの世界に関わられ。
クラシック音楽を身近なものにしてくれたデプリーストの日本での多大な功績に改めて心から敬意を表したいと思います!


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2008年を最後にデプリーストは都響の常任指揮者を退任され、あの時は結構残念でした・・

デプリーストの前任指揮者が超大物指揮者のベルティーニ、そして後任指揮者がまたまた超大物のインパルでしたけど、
私個人としては名高い超大物指揮者よりもデプリーストの心温まるものがありながらもライブ感覚重視のあの
生き生きとした躍動感に勝るものは無い・・と感じています。
モラヴィアというかチェコの作曲家ヤナーチェクは、日本での知名度は今一つなのかもしれないですけど、
管弦楽曲においては狂詩曲「タラス・ブーリバ」・「シンフォニエッタ」等でお馴染みだと思いますし、歌曲では
「消えた男の日記」という作品も極めて面白いと思います。
ヤナーチェクはかなり膨大な作品を残されていて、合唱曲・歌曲・教会音楽・ピアノ曲・室内管弦楽といった分野が
活動のメインでもありましたし、最近では歌劇の分野の作品の再評価が進み
例えば「イェヌーファ」とか「利口な女狐の物語」などはかなり高い評価を受けるようになり、日本でも東京交響楽団が
「利口な女狐の物語」を演奏会形式として定期演奏会で演奏をしています。

吹奏楽経験者ならば、ヤナーチェクというと「シンフォニエッタ」というイメージが強いのかもしれないです。
(吹奏楽コンクールでの「シンフォニエッタ」の名演と言うと駒澤大学・関西学院大学・富山商業などいろいろあると思いますが、
私的には1991年の高岡商業を超越する名演はいまだに出てきていないようにも感じられます。
だけどあの演奏が銀賞という評価なのはいまだに納得いかないですね・・)


タラス・ブーリバ


子供の頃、実家の本棚に「ジュニア名作集」とかいって、小学生高学年から中学生を対象年齢にした
世界名作作品集みたいなシリーズ本が100冊近く置いていました。
原作を概ねそのまま紹介しているのですが、長編は適度にカットしながらダィジェスト版として
色々な世界各国の古今東西の名作を取り上げていました。

どのような話が収録されていたのかと言うと一例を挙げると・・

〇アラビアンナイト

〇デカメロン

〇三国志

〇水滸伝

〇シャーロックホームズシリーズ

〇罪と罰

〇復活

〇ジェイン・エア

〇ベニスの商人・ハムレット・ロミオとジュリエット

などなど色々と収録されていました。私の場合、こうしたダィジェスト版からまずは門戸を叩き
「カットされていない原作はどんな感じなのだろう・・」
「他の作品にどんなものがあるのか・・」
「同時代に他にどんな作品があったのかな」などと
色々興味を持ち、そこからある程度本を読むという習慣が中学の頃に出来ていたのかな・・とも思ったりもします。
その辺りは、吹奏楽コンクール耳にし「それではこの原曲はどんな感じなのだろう・・」とクラシック音楽に
興味を持つようになったのと理屈は同じなのかな・・とも思います。

1984年頃、東京文化会館で開催されたハインツ・レークナー指揮/読売日本交響楽団の
定期演奏会で演奏された曲目の中に、スラヴ狂詩曲「タラス・ブーリバ」という曲があり、
当日のコンサートパンフレットを読んでみて、「このタラス・ブーリバって、昔読んだジュニア名作集の中の
隊長ブーリバのことじゃん・・・」と気が付いたものでした。
あんな殺伐とした物語がジュニア向け名作集に収録されている事自体、すごい話なのかもしれないですね。
ちなみに「隊長ブーリバ」はアメリカで映画化もされています。

「隊長ブーリバ」の原作は、ロシアの文豪、ゴーゴリが執筆した小説「タラス・ブーリバ」なのですけど、
それに霊感を得てヤナーチェクが作曲したのが、このスラヴ狂詩曲「タラス・ブーリバ」なのです!

この管弦楽曲は、ゴーゴリ原作の小説を忠実に再現しているというか、
三つの印象的な部分をそれぞれ楽章として音楽の形に残しています。

この曲は下記の三つの楽章より構成をされています。

Ⅰ.アンドレイの死

Ⅱ.オスタップの死

Ⅲ.予言、そしてタラス・ブーリバの死

タイトル通り、主要登場人物は全員死んでしまう壮絶な話でもありまして、アンドレイ・オスタップ共にブーリバの息子です。
ちなみにタラス・ブーリバとは、ロシアのコサックで
当時対立していた隣国ポーランドと連日戦争と略奪に明け暮れているという背景があります。
もう少し細かく書くと、元々の経緯として、ポーランドのグリゴリー王子より
「自分たちに協力してトルコ軍を撃退すれば、ウクライナのステップを与える」という誓約があったにも関わらず
ブーリバたちのトルコ軍撃退をしたというのに、その約束は反故にされ、
ブーリバたちは土地を追われる事になってしまい、怒ったブーリバたちは、
グリゴリー王子の片腕を切り落として逃亡し、そのまま山岳地帯に拠点を構える事になります。

アンドレイは、敵国ポーランドの領主の娘と恋に落ち味方を裏切ってしまいます。アンドレイは後にブーリバ軍に捕えられ、
タラス・ブーリバは悩んだ末、「息子を許すことは出来ない」との結論に達し自らの手で息子を銃殺します・・・
この陰惨な話を音楽も忠実に再現し、
出だしのコールアングレのひそやかで悩み多いような雰囲気が、全てを象徴しています。
最後のチャイムの響きは、弔いの鐘を意味しているのかもしれません・・

オスタップはアンドレイと異なり終始父親に忠実なのですが、戦いの最中にポーランド軍に捕まり、公開処刑されてしまいます。
その処刑の最中、苦しさのあまり「おとうさん、どこにいるのですか!!」と絶叫し絶命するのですが、
群衆の中に「ここにいるぞ」というブーリバの声がこだまします。
曲の中で「マズルカ」らしき部分が聴こえますが、これはポーランドを象徴しているのでしょう。
ラストは、クラリネットの悲鳴のような高音の響きが耳をつんざきます。
これはオスタップの絶命を意味しているのでしょう・・・

第三曲は「予言、そしてタラス=ブーリバの死」ですが、
最終的にブーリバ自身もポーランドによって捕まり公開処刑されてしまいます。
その処刑方法は火あぶりなのですが、その炎の中でも
「炎も拷問もロシア人民を負かすことは出来ない」という言葉を最期に残して絶命します。
この第三曲は、全体の中でも中心的な部分なのですが、
全体的に「荒ぶる魂」とか「男泣き」という表現がぴったりの音楽です。
音楽としては、かなり武骨に荒っぽいタッチなのですけど、それが実にこの物語に合っていると思います。
第三曲は、前半の戦いの場面のアレグロの爽快さ、戦場にこだまする馬のわななきも
印象的なのですけど、後半は、チャイムに導かれたコラール的な部分が実に素晴らしいし胸にジーンときます。
男泣きという感じもするし、「今は負けたけど、お前たちに未来はない」みたいな宣言・誓いみたいなコラール的な部分も
訴えかけるものがあります。

この曲は、ゴーゴリの作品を音楽として再現し、魂の叫びみたいなものを音楽を通して訴えかける素晴らしい作品だと思います。
ただ音楽自体は極めて武骨で荒っぽいので、初めて聴く人は
「何て洗練も品もないガサツな曲・・」という印象をもたれがたなのかな・・とも思ったりもします。

CDで聴く場合、

〇ノイマン/チェコフィル

〇マッケラス/ウィーンフィルが素晴らしいと思うのですが、

荒っぽさ・武骨さだけではないガーディナー指揮の演奏も私は大好きです!
そしてこの演奏は高揚感が素晴らしく、確かにやや迫力に欠ける部分もあるのですが、
特に第三曲の何か爽やかな感じ、明るく澄み通ったような感覚や洗練さ、
青空の下で戦っているかのような雰囲気は、他の演奏では感じなかった点です。
タラス・ブーリバ以外の収録曲のラフマニノフの交響的舞曲も実にメランコリーで申し分のない名演だと思います。

狂詩曲「タラス・ブーリバ」はオルガンがいい働きをしています。
重厚感というか、地の底から響いてくる感じが実に曲にマッチしていると思います。

吹奏楽コンクールの全国大会においては、2019年時点で計5チームが、第三曲の予言、そしてタラス・ブーリバの死を
吹奏楽アレンジ版として自由曲として演奏しています。
その中では1983年の兵庫高校と1979年の福岡工大付属高校の演奏が双璧だと思います。

1983年の兵庫高校はコンクールの評価としては銀賞という結果なのですけど、
いやいや! この演奏を単に普通の銀賞として片づけるのは実にもったいない演奏だと思いますよ!
東海大一・兵庫・秋田南・茨城の銀賞は、私個人としては「限りなく金賞に近い価値のある銀賞」だと思いますし、
これらの銀賞チームの演奏は、間違いなく普門館の聴衆に「何か」を伝えていたと思います!!
以前この「タラス・ブーリバ」を全国大会で演奏した福岡工大付属と長岡吹奏楽団は、重量級・金管楽器の咆哮という
印象が強かったのですが、兵庫高校の演奏は、それらの方向性とは全く異なり
カラッと澄み渡るような明るさ、開放感、どこまでいっても明るい響きで演奏していたのが 非常に印象に残っています。
79年の福岡工大付属は、「男泣き」とか「魂の孤独」とか「悲愴感」みたいな「叫び!!」みたいな印象が大変強いのですが、
83年の兵庫高校は、どこまでいっても「晴天が続いている・・」みたいな「明るさ・爽やかさ」が
私個人としては大変強く印象に残っています。
原曲の管弦楽版の演奏は、例えばノイマン指揮などのようにどちらかというと福岡工大付属みたいな
粗削り・骨太みたいな傾向の演奏が多いようにも思えるのですが、
前述のガーディナー指揮の演奏のように、天空を舞うとか、カラッと日本晴れみたいな爽やかな
演奏もあったりするものですが、兵庫高校の演奏は、このガーディナー指揮に近いような印象が私の中にはあったりもします。
原曲の打楽器は、ティンパニ・チャイム・シンバル・小太鼓・トライアングル程度なのですが、
兵庫高校の演奏は、長岡吹奏楽団の浅井先生アレンジの楽譜を使用しながらも、浅井先生の解釈とは全く異なり、
曲の中に「シロフォーン」をかなり効果的に使用し、めまぐるしい感じもうまく出せていたようにも感じられます。

とにかくこの年の兵庫高校の「高揚感」は特筆に値すると思います!

兵庫高校の演奏は、「死」という陰鬱・厳粛・重たさという負のイメージではなくて
タイトルでもある「予言」、すなわち、この世にロシア民族がいる限り、自分たちは絶対に誰にも屈しない!という末代までの誓いを
高らかにのびのびと気持ちよく吹き上げているのが大変素晴らしいと思いますし、
ラスト近くの「弔いの鐘の音」すらも打ち消しようなこの「魂の叫び」が高らかに響き渡っていて
とても気持ちのいいものがあったと思います。
「楽譜」に表記されているものを単に「音の羅列」としてではなくて、そこに「自分達の気持ち」を高らかにナチュラルに
響かせたまさに素晴らしい名演だと私は思いますし、私はこの演奏は大好きですね!!

吉永陽一先生が兵庫高校を率いて普門館の全国大会に出場されたのは1983年が最後という事になってしまいます。
翌年の1984年の「フェスティヴァル・ヴァリエーション」も本当に素晴らしい演奏を聴かせてくれましたが、
84年はあの天理高校も同じ自由曲を演奏していたという不運(?)も重なり、結果的に84年の全国大会には
進めなかったのですけど、全国でも十分に通用する素晴らしい演奏を聴かせてくれていたと思います。
私はあの演奏は、日本ワールドレコード社によるカスタムテープでしか聴いていないのですけど、あの演奏は
生で聴いてみたかったですね!
だけど1984年の関西代表というと、淀工・天理も素晴らしい演奏でしたけど、同じくらい神戸高校の楽劇「サロメ」も
大変見事で艶っぽい演奏を聴かせてくれていたと思います。
吉永先生と言うと「下品でどこが悪いねん!」みたいにとにかく凄まじい個性の強さとアクの強さが漲っている
全国的にも大変有名な先生で、私・・育ちは東北と関東ですけど、
東北のスクールバンドに在籍中も、兵庫県の今津中学校の得津先生と、同じく兵庫県の兵庫高校の吉永先生の
名前は既に轟いていたような記憶がありますね!
そのくらいインパクトは強い先生だったと思います。
吉永先生は1986年以降は西宮高校に異動をされてしまうのですけど、西宮での全国大会出場がわずか2回に留まっている
という事実は大変勿体ないと思います。
それだけ「関西大会」が激戦である事の表れでもあるのですが、90年代の東京都大会・四国大会・中国大会・東北大会ならば、
吉永先生=西宮高校ぐらいの技術と表現力を有していたらなんなく支部大会を突破し
全国大会でも「俺が吉永だ!」みたいな個性的な演奏を聴かせてくれていたと思いますので、もったいないなと感じてしまいます。

1979年の福岡工大付属高校の演奏はとにかく熱い演奏です!

感情が、叫びが、気持ちの高ぶりがストレートに伝わってきます。
後年の洗練された福岡工大付属の演奏と同じ学校と思えないほど、音もサウンドも荒っぽいのですけど
「何かを伝えたい」という気持ちはストレートにガンガン伝わってきます。
課題曲はこの大会唯一の課題曲Dの「青春は限りなく」ですけど、木管セクションのひ弱さがかなり欠点として感じられます。
自由曲のタラス。ブーリバ~予言とタラス=ブーリバの死は、金管、特にトロンボーンの武骨な響きが半端なくすさまじいです!
金管セクションは音が割れる寸前までバリバリに鳴らしていますが、
その悲壮感が実にこの自由曲の叫びとマッチしていて、非常にたたみかれるような演奏を展開しています。
拙い部分は多々ある演奏なのですけど、聴いている者に何か」確実に伝えている演奏だと思います。
限りなく銅賞に近い演奏なのですけど、ギリギリのところで銀賞をキープ出来て良かったと思います。
音楽的充実感・感銘度はこの年の出場校の中ではトップクラスの素晴らしい表現力だと思います。


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最後に・・この曲は原曲も吹奏楽アレンジ版もとにかくティンパニがかっこいいです!

うまい奏者が担当するとティンパニの打点が見事にビシッ!と決まる感じがしていて、大変心地いいです!
シェークスピアの戯曲を音楽作品のモチーフにした楽曲は結構あるかとは思います。

その中で特に名高い作品はヴェルディの歌劇「オテロ」やプロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」であり、
R.シュトラウスの交響詩「マクベス」やチャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」や
メンデルスゾーンの劇付随音楽「真夏の夜の夢」も名作の誉れ高い傑作だと思います。
(吹奏楽オリジナル作品としてはA.リードの「オセロ」と「ハムレットへの音楽」が不滅の名曲だといえます)

上記の作品はどちらかというと悲劇的作品という雰囲気ですけど、そうした中、シェークスピアの喜劇とコメディとウィットに
溢れた作品を歌劇化した作品というとオットー・ニコライの歌劇「ウインザーの陽気な女房たち」が挙げられると思います。
ニコライ自身は39歳の若さで世を去り、その早すぎる死を惜しまれた御方なのですけど、実はウィーンフィルの創設指揮者
という経歴もあります。
歌劇「ウインザーの陽気な女房たち」はニコライ最後の歌劇作品であったりもします。
この歌劇自体もさすがにワーグナークラスの演奏頻度という訳ではありませんけど、世界各地で今現在も上演され続けていて、
その序曲は演奏時間が8分程度とコンパクトであるため、管弦楽団の演奏会における一曲目として演奏されることも
よくあります。
私自身、この序曲を生で聴いて印象的だったのは、レナルト指揮の新星日響とホルストシュタイン指揮のN響でした。
この歌劇の序曲は冒頭が大変ゆったりとしたテンポで開始されおおらかに情感たっぷりに歌い上げられ、中盤以降のアレグロは底抜けに楽しくて明るくて軽くてノリがよくて、それでいて品が良い素晴らしい名曲だと思います。
後述しますけどこの序曲はゴドフリーによる吹奏楽アレンジ版としても親しまれていて、過去の吹奏楽コンクールにおいても
ブリヂストン久留米・柳町中学校・東京ガス・嘉穂高校などの素晴らしい名演が残されていたりもします。
ただこの序曲の吹奏楽アレンジ版は、クラリネットパートは曲の開始から最後まで全く休みなく吹き続けなくてはいけないですし、
特にアレグロ以降は16分音符の早い運指を絶え間なく続けないといけないので、雰囲気としては大変マイルドでやさしい
感じなのに、クラリネットパートにとっては自修羅場と化している曲といえるのかもしれないです。

シェークスピアの戯曲は、私も一度読んでみたことはあるのですが、 一言で言うと、浮気者のバカ男と焼きもち妬きの亭主を
策略と機智で懲らしめる奥様方のユーモアを描いた作品なのですけど、 そうしたウイットが実に8分足らずの序曲に
集約されていると思います。

歌劇「ウインザーの陽気な女房たち」のざっくりとしたあらすじは下記のとおりです。

第一幕

フルート夫人とライヒ夫人は、スケベオヤジのオヤジ色男のファルスタッフ卿から、名前以外は一文字も変化がない
全くの同一のラブレターを貰った事に気が付くことからこの物語は開始されます。
今風に言うと、ブログコメントで複数の人たちに「どうせばれないだろう・・」と全く同じ文面のメッセージを送る事に
近いものがあるのかもしれないですね・・

二人の奥様達は、浮気者のファルスタッフを懲らしめる事とフルート夫人の旦那の過度な焼きもち妬きにお灸をすえる
という二つの目的を同時に達成する策略を目論むことになります。

そしてこの歌劇は二人の奥様たちによる浮気男への懲罰話と同時並行的にとある若き男女の恋話も進行していきます。

シュペアリッヒとカイアスは、ライヒの娘アンナに求婚しています。
アンナの父はシュペアリッヒを、アンナの母はカイアスをそれぞれ気に入っています。
しかしアンナ本人はフェントンに恋をしています。
フェントンという貧乏青年はライヒにアンナと結婚の許しを求めますけど、「貧乏人にうちの大事な娘はやれない!」と拒絶します。

そして歌劇では、フルート夫人とライヒ夫人の二人はファルスタッフの誘いに乗るふりをしてファルスタッフを罠にかけ
浮気者を懲らしめる事を画策し、計画を立案していきます。
まずはフルート夫人の焼きもち妬きのフルートに妻の逢い引きを匂わす手紙が送り付け、同時にファルスタッフに対して
「あなたの気持ちはたいへんありがたいです。今度一緒にお会いしませんか?」と誘惑の手紙も送り、ここに罠が成立します。
そして、のこのことファルスタッフが現れ、ファルスタッフは早速フルート夫人を口説き始めます。
ライヒ夫人は当初の打ち合わせ通り、「フルートが怒り狂ってこっちに向かっている。あたなはすぐに逃げて」と告げ、
フルート夫人はファルスタッフを用意していた洗濯籠の中に閉じ込めて隠します。
そして使用人たちに「その籠をテムズ川に投げ捨てる」ように依頼します。

そしてほぼ同時に激怒し嫉妬に狂ったフルートが現れ浮気相手の捜索を開始します。
しかしいくら探しても証拠は見つかりませんし、ファルスタッフは既に川に投げ捨てられているので証拠は何一つ出てきません。
疑いをかけられたことにフルート夫人は嘆き悲しみ、周りの者たちはフルートを責めます。
フルートは妻を疑ったことを後悔し「許してください」と謝罪しますけど、フルート夫人は「今日にも離婚よ!」と和解を拒絶します。

第二幕

テムズ川に放り込まれ風邪をひいたファルスタッフのもとに再びフルート夫人からお誘いの手紙が届けられます。
嬉しさのあまり酒場で一杯ひっかけご機嫌で歌を歌っていると、昨日の一件がありながらも実はまだ妻の浮気を疑っている
フルートが偽名を使ってファルスタッフに近づき、「謝礼金を出すのでフルート夫人を口説いてほしい」と依頼をします。

ある日のフルート家の部屋にて、またまたファルスタッフが再びフルート夫人を口説き始めます。
そこにまたもやライヒ夫人が入って来て、フルート夫人に「洗濯籠の件を知ったあなたの主人が鷹狩から戻ってくる」と伝えます。
そしてこの時のファルスタッフは太った叔母さんに女装をさせられ別室に隠されます。

そこにまたまた嫉妬にかられたフルートが登場し、妻の浮気相手の捜索を開始し、別室にて叔母さん(女装したファルセット)を
発見し「お前は誰だ~」とばかりにこん棒でぶん殴りボコボコにしてしまい、家から叩き出します。

第三幕

ライヒ夫妻、フルート夫妻、アンナは一緒に昼食を食べています。そしてこの時にようやくすべての種明かしがされ、
真相が明らかにされます。
フルートは妻に「浮気をしたのではないか?」と疑ったことを恥ずかしく思い、これまでの自らの疑り深い言動を大いに恥じ、
妻に心から謝罪し許しを乞います。
フルート夫人はすべてを受け入れ水に流し、そして皆で、「真夜中の公園にファルスタッフを呼び出して懲らしめる」ことを
提案します。
ライヒ夫人は、ウィンザーの森の狩人ハーンの伝説を語ります。そしてこの妖精伝説と仮装コスプレ大会を結び付け、
その場を借りてファルスタッフにお仕置きをし、同時についでに娘のアンナの結婚問題についてもケリを付けようと
画策します。そして一同は妖精に変装し、ファルスタッフは狩人ハーンに変装させて招待することにします。
この騒動に乗じて、ライヒ夫妻は娘のアンナを「それぞれのお気に入りと結婚させよう」と計画します。
ウインザーの森の妖精伝説として、同じ色の妖精同士が結ばれるというものもあり、
母(ライヒ夫人)は「赤い妖精に変装しなさい」、父は「緑の妖精に変装しなさい」とアンナに厳命します。
アンナは親に従うふりをして、事前にフェントンに白い妖精のコスプレをしてきて・・とお願いしてあり、アンナ自身は言うまでもなく
白い妖精のコスプレをしてフェントンと結婚することを決意します。

ここから先はお約束通りに展開され、妖精にコスプレした者たちは、「どうしてここに妖精がいるんだ・・」と実は臆病で迷信深い
ファルスタッフをポコポコにしてやつつけ痛めつけます。
ファルスタッフは逃げようとするところでフルート夫妻に種を明かされ、やっと騙されたことに気づきます。
皆は最後はファルスタッフを許し、アンナとフェントンも無事に結ばれ、全てがハッピーエンドで物語が閉じられます。

古今東西、どんな時代においても西洋でも東洋でも男ども、特にバカ旦那たちの浮気の虫と嫉妬深さは
似たようなものがありそうですね~♪
浮気がバレバレになっても、シラを切り通し、最後は「ごめんなさーーーい、二度と浮気はしませんから、お許しを! 御慈悲を!」と
なってしまうのは世の常なのかもしれないですし、男どものアホな浮気や嫉妬深さに困り果てながらも、さまざまな機知とウイットで
切り抜けていくのも女性たちの常なのかもしれないです。

前述のとおり、ニコライの歌劇「ウインザーの陽気な女房たち」序曲は吹奏楽コンクール全国大会でも何度も自由曲として
選ばれていて、特に1979年のブリヂストンタイヤ久留米と1983年の嘉穂高校はとても爽やかな演奏ですてきな
演奏でした。
1980年の中村学園もこの曲を自由曲にしていますけど、翌年のスペイン奇想曲以上にダーダー吹きで、リズムがかなり
甘くてスイートすぎる演奏になっていた事は大変惜しまれます。

この序曲の全国大会での最高の名演は1982年の長野県の柳町中学校なのかもしれないです。
(支部大会の小編成を含めると1993年の関東大会B部門の銚子商業の30人程度の少ない編成での名演は素晴らしかったです!)

課題曲Bの「序奏とアレグロ」はトランペットソロを含めて少し固さが感じられ、特段強い印象は無いのですけど、
アレグロに入ってからの安定度は半端無いものがあり、淡々と進展しているのですけど、淡泊という印象は無く、
スピード感と音の切れを終始保ったまま、最後までこの無機質な曲想を保ち続けているのは凄いと思いますし、
こんな難しい課題曲もほぼノーミスミスで集中度を保っていたのは賞賛に値すると思います。
最後のトロンボーン等による最後の三つの音が少しだけせせこましい印象はありましたけど、
指揮者の解釈としては「一気呵成にたたみかけるように終わらせたかった・・」という意図だったのかもしれないです。

一方、自由曲ですけど、課題曲との極端な対比が実に面白いし、指揮者もそれを狙っていたと思いますけど
課題曲の無機質なスピード感と自由曲の歌劇「ウインザーの陽気な女房たち」序曲というのんびり・おっとりとした感じの
極端な落差が実に素晴らしかったです。
歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲は、原曲のヴァイオリン部分を担当するクラリネットセクションは
ずっと吹きっぱなしという印象が強く、奏者は大変だっただろうなと思うのですけどと、
クラリネットセクションは、そうした大変さを全く感じさせず、むしろのびのびおおらかに吹いていたのがとても印象的でしたし、
曲全体としても流れが実に自然で申し分なかったと思います。
ラスト近くのピッコロの高音が、いかにも曲が終わるといった雰囲気を醸し出してくれていて
この序曲の素朴さ・楽しさを改めて私達に伝えてくれていたと思います。


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ここから下記はdream fantasy2
アミグリさんが過去に描かれた絵の転載&ご紹介コーナーです。

本日ご紹介させて頂くキャラは、上記の歌劇「ウインザーの陽気な女房たち」の第3幕において、ファルスタッフ以外の
ほぼ全員の登場人物が妖精姿にコスプレしていたという関連性もあるという事で、
アミグリさんが2019年6月に描かれたスターサファイアを皆様にお披露目させて頂きたいと思います。

スターサファイアの活躍舞台となっている東方三月精においては、スターやサニーたち光の三妖精が
お化け大会で妖怪姿にコスプレしていたり、はたまた霊夢を驚かせるために妖怪姿にコスプレしていたシーンも何度か
ありましたし、スターたち妖精にとっては「ウインザーの陽気な女房たち」で出てきたようなイタズラとかコスプレとか
誰かをびっくりさせるということはむしろ得意中の得意な事でもありますので、もしもあの歌劇の妖精役として
スターたち光の三妖精が登場していたら、すてきなイタズラをしまくってファルスタッフをびっくり仰天させていたのは
言うまでもないことなのかもしれないですね~♪
ちなみに「東方花映塚」においては、リリーホワイトたち妖精が四季映姫様のコスプレで登場していたシーンもありました!

アミグリさんの描かれたスターサファイアはとてつもなくかわいいですね~♪

スターのこの流れるように美しい黒髪ロングも前髪ぱっつんも、背景のお星さまのキラキラ仕様も圧巻の仕上がりだと
思います。
霊夢の髪のリボンを彷彿とさせる髪のリボンの大きさの強調や衣裳の青と白の色彩的対比もそうですし、
まるで妖精メイドさんみたいな白エプロンのチャーミングさとかスカートや袖のフリルのきめ細かさとか
スターの生足のかわいらしさや背中の羽根のバランス感覚などなど、とても初描きキャラとは思えないですし、
改めて「スターサファイアは幻想郷内のすてきな妖精ちゃんなんだ!」と改めて強く認識させられたものです。
ちょっとふっくらとしたお顔の輪郭は健康的で生命感溢れる妖精の力強さを
感じさせていると思いますし、背中の羽根がチルノの氷の羽根とはひと味違うようにも感じられたりもします。

このスターは見るからに愉快なイタズラしまくりしそうなお茶目さとかわいらしさに溢れていると思いますし、こんなスターが
コスプレしたとしたらどんぴしゃのはまり役ともいえそうです~♪

上記のアミグリさんが描かれたスターサファイアは、スターの絵師様であるアミグリさんに帰するものであり、
当ブログにおける転載とご紹介は事前に全てアミグリさんからご了解を頂いたものであり、
アミグリさんからのご厚意で転載をさせて頂いておりますので、
無断お持ち帰りや無断コピーは絶対NGですので くれぐれも宜しくお願い申し上げます。

アミグリさん、本当にいつもすてきなイラストの転載を快諾して頂きありがとうございます!!

皆様の中で「こんなにかわいいスターサファイアを描かれる方のブログってどんなもんなのだろう? 」などと
興味がある方は、 是非是非アミグリさんのブログdream fantasy2 を ご覧になって頂きたいと思いますし、 宜しければ、当ブログだけではなくて、
是非アミグリさんの本家本元のブログdream fantasy2 に一度お越しして頂けると アミグリさんのブログをご紹介させて頂いている私もとってもとっても嬉しいです!

アミグリさんが定期的に作品を投稿され続けている →アミグリさんのpixiv にも是非一度足を運んで頂ければ幸いです!

アミグリさんのpixiv

イタズラ妖精のことに思いをはせながら、シェークスピアの古典戯曲を楽しみ、ニコライのこの歌劇の序曲をおおらかに
聴くことができるというのは至福のひと時といえそうですね~♪
クロード・ドビュッシーの 管弦楽のための三つの交響的素描「海」は名曲の名に恥じない素晴らしい楽曲であり、
私的にはグリーグの劇付随音楽「ペール・ギュント」と共に全人類の文化遺産として登録しても全然違和感が無い曲にすら
感じたりもします。
海は「花鳥風月」を表す中では「風」に該当する一種の描写音楽といえるのかもしれないですけど、
例えばベートーヴェンの交響曲第6番「田園」やR.シュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」などのように直接的な風・嵐の
イメージを効果音の一つとして表現しているのに対して、ドビューシーの「海」が表現しているモノは、
表面的には風や波や太陽なのかもしれないですけど、どちらかというと「私がこのように感じたからこのように表現する」という
より主体性が強くなった一種の心象表現音楽と言えるのかもしれないです。
R.シュトラウスのアルプス交響曲はある意味描写音楽を究極化した作品ともいえそうなのですけど、あの曲は
グローフェの組曲「グランド・キャニオン」と異なり普通の描写音楽ではなくて、一見アルプスの一日を音楽として描きつつも
シュトラウスは「アルプスを見てこのように感じた」と言う事を鮮やかに心理描写しているようにも聴こえたりもします。
同じシュトラウスのシンフォニー作品でも「家庭交響曲」は家庭内の夫婦の性格の描写・子育て・夕食・夫婦喧嘩等なんだか
日常の生々しい光景のズバリ描写という感じもあり、音楽がどことなく生臭く聴こえたりもしますので、アルプス交響曲ほど
人気がないし演奏頻度がガクッ・・と下がるのはある意味当然なのかもしれないです。

C.ドビュッシーの管弦楽のための三つの交響的素描「海」は下記の三曲から構成されています。

Ⅰ.海上の夜明けから真昼まで

Ⅱ.波の戯れ

Ⅲ.風と海との対話

どの曲も大変緻密な構成と洗練されたデリカシー溢れる音楽で構成され、全てが名作に相応しい作品であり、
特にⅢ.風と海との対話は、吹奏楽コンクールにおいても1970年代後半から自由曲の定番として定着し、
2019年時点で既に全国大会で68チームが演奏をしています。
ただ海は大変な難曲である以上に原曲のあの繊細なデリカシーさを吹奏楽という管楽器の集合体で表現する事自体が
大変な制約がありますし、海を演奏する際には、繊細で洗練されたサウンドが何よりも求められますので、
私自身、吹奏楽コンクールでの海を聴いて完全に納得できて感動したという演奏は極めて少ないです。
今の所、吹奏楽コンクールの演奏で「なんと素晴らしい海!」と感動したのは1986年の習志野高校ぐらいに留まっています。

ドビュッシーの「海」について語り出すと止まりそうにもありませんし、Ⅲの「風と海との対話」における楽器間の繊細極まりない
対話や吹奏楽コンクールにおける過去の名演・珍演・迷演について書き出すと、とてもじゃないですけどこの記事は
終わりそうにもないものですので、本記事はⅠの「海上の夜明けから真昼まで」について三つほど簡単に記させて
頂きたいと思います。

それにしてもC.ドビュッシーの管弦楽のための三つの交響的素描「海」~Ⅰ.海上の夜明けから真昼まで の
描写力と繊細さは何度聴いても鳥肌が立つ想いです。
もちろん直接的な描写という訳ではなくて、ドビュッシー自身が想像した夜明け前の海や朝日が差し込む場面や
真昼のきらびやかなお日様の様子を各自の脳内妄想でさらにイメージしていく曲なのですけど、黙って目をつぶって
聴いているだけでも夜明け前から真昼のキラキラ輝く海面の様子が感じ取れますので、まるで絵画を見ているような
雰囲気でもありそうです。
私自身、海岸で夜明け~昇りゆく朝日は何度か見た事がありますが、船の上から見た海上から世が明けていく光景は
これまでの生涯で一度しか見た事がないです。
それが高校の時の北海道への修学旅行で、最終日の夕方に苫小牧を出発し、翌日の午後2時頃に仙台港に到着するまでの
フェリーの上から海上からのぼるご来光を拝めることができたのは大変貴重な経験だったと思いますし、
真っ暗な波の狭間から朝日がさーーっと差し込めていき、うっすらと徐々に明るくなっていく光景は
まさにドビュッシーが表現した「海上の夜明けから真昼まで 」の世界そのものだったと思います。
フェリーの船内は振動しくまくりで、大半の生徒たちは船酔いでゲロゲロ状態になっていて、多分ご来光とか海の夜明け
どころではなかったと思いますが、愚鈍な私は船酔いせずにあの素晴らしい夜明けと海からのぼる朝日を見ることが
出来たのは素晴らしかったですけど、翌日は耳の三半規管がおかしくなってしまい、なにもしていなくても自分の体が
常に揺れているような感覚になっていたものでした。
ちなみにフェリーでの朝食・昼食はなかったので、フェリー内の売店でカップヌードルを買って飢え?をしのいでいましたけど、
海の夜明けをながめながらすするカップラーメンの味は格別でした~♪
(「ラーメン大好き 小泉さん」にも一度くらいは味わってほしい感覚なのかもしれないです)
海上の夜明けから真昼まではCMのBGMとして使用されていた事もあり、その中では1987~89年頃に富士通のパソコンの
FMシリーズの映像とドビュッシーの音楽が大変印象的でしたし、そのCMのイメージキャラとして使用されていた女の子は
当時「スケバン刑事」等で人気絶頂だった南野陽子でもありました。

話がそれました・・ 音楽の上で、海上の夜明けから真昼までについて私自身がいいなぁ~と感じる点を三つほど
挙げてみたいと思います。

まず初めにこの楽章の冒頭なのですけど、
コントラバスとティンパニの弱奏でのトレモロを6拍の間響かせた後に、2台のハープのうち、まずはセカンドハープが
一拍目のFis(Ges)音をオクターブでピアニッシモで弾いた後に、それをなぞるかのようにファーストハープが
裏拍でひっそりと目立たぬように同じ音を弾くことから開始されます。
そしてセカンドハープが全音高いGis(AS)音をやはり弱音で弾くとファーストハーブも裏拍で同じ音をひっそりと目立たぬように
弾き、これが何度か繰り返されていきます。
こうした2台のハープが交互に音を刻みながら開始されるのですけど、
その繰り返しだけでほのかで深くて広い海の夜明けを表現してしまうドビュッシーのその感性の素晴らしさは
ただただ敬服するしかないです・・
(ハープ奏者の緊張感はすさまじいものがありそうです・・)

そして二つ目は、この楽章は全体で9分半ぐらいなのですけど、その7分目あたりで現れる16本のチェロによる
内省的で渋いメロディーラインにとてつもなくうっとりとさせられます。
通常、オーケストラの中ではチェロは8~10本程度使用され、ドビュッシーの時代~現代においては大体10本が標準です。
あのチェロのアンサンブルは分厚いチェロの響きが求められますので、本当は楽譜の指示通り
16台のチェロが欲しいのですが、プロの管弦楽団にも予算とか適正配置がありますので、その部分のためだけに
チェロ奏者を16人も配置する訳にはいかないのが実情でもあります。
それでは現場では一体そうした問題を処理するのかと言うと、二つほど対応方法があるようでして、
一つはドビュッシーの指定ではあの部分のチェロは16台となっていますが、本来の管弦楽の標準的配置のチェロ10人に対して
臨時のエキストラを2名ほど雇い、本来はチェロ4パート×4人で計16名のところを4パート×3人の計12名で対応するという
方法で、この方法が現在では標準になっているようです。
そしてもう一つは、これは日本でも都響や日本フィルでもお馴染みのフランス人指揮者のジャン・フルネが採用していた方法
なのですけど、その該当箇所になると、チェロに4パート×3人の計12名を配置する以外に、本来不足している4人分について
ヴィオラに応援要請をして、ヴィオラ奏者4人がチェロパートの該当箇所の譜面を奏でるというある意味荒業で対応
していたりもしています。
私自身、フルネ指揮での日本フィルや都響の「海」を聴いたことがありますけど、その時点ではそうした話は全く
知らなかったもので、自分の目と耳で確かめることはできなかったですけど、いかにもフルネらしい厳格な話と感じた
ものでした。
日本フィルのサンデーコンサートでフルネ指揮による海・寄港地・ダフニスとクロエ第二組曲等のオールフランスプログラムを
聴いたことがあるのですけど、そのデリカシー溢れる音楽は「さすが!」と感じたものですけど、フルネ本人はどこか
不満な様子で、通常、日本フィルのサンデーコンサートではアンコールも演奏されるのが普通なのですか、
あの時は打楽器奏者の足元にその日のプログラムでは使用しない筈のプロヴァンス太鼓が置かれていたので
「多分アンコール曲はビゼーのアルルの女のファランドーレの踊りなのかな・・?」と予想していたものですけど、
当日のフルネはカーテンコールも3回程度で切り上げ舞台裏に消えてしまいましたので、そのあたりも人柄は温厚だけど
演奏には厳しいフルネらしい話だと感じたものでした。
ちなみにフルネは90歳を過ぎた頃の2005年に現役引退をされていましたけど、あんなにも世界的な有名指揮者なのに
その引退公演は海外ではなくて、日本の東京都交響楽団というのも、むしろありがたい話だと当時は感じたものでした。
その時の引退公演の曲目は、ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番(ピアノは伊藤恵)、
ブラームスの交響曲第2番でした。

そして三つ目はラスト近くの真昼のきらびやかを示唆するサウンドの高揚感直前のコールアングレによる繊細なソロは
とてもじゃないけどこの世の響きとは思えない美しさを感じます。
(第三楽章の中間部のしっとりとしたソロはこの時はオーボエが奏でています)
そしてコールアングレのソロが終わったと同時に曲は徐々に高潮し盛り上がっていくのですけど、あの時のバックのリズムの
ティンパニの二本の撥による和音の叩きつけの切れ味の鋭さは感動ものだと思いますし、同時に響き渡るドラの高揚感も
圧巻だと思います。
それとこの「海」は一種の循環主題でもありますので、ⅠのテーマがⅢの最後でも再現されるのは曲の統一感というか
形式の美しさを感じさせられそうです。

とにかく「海」はドビュッシーが全人類に残した文化的遺産であるのは間違いないと思いますし、この曲を聴かないで
死んでいくのは大変勿体ないかも・・?といえるのかもしれないです。


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上記で触れたとおり、海の「海上の夜明けから真昼まで 」の冒頭はハープで奏でられるのですけど、ハープ奏者にとっては
緊張の一瞬だと思います。

「ららマジ」のハープ奏者は3年生の南さくらです。

南さくらは器楽部を支える副部長で、振り回されることの多い苦労人でもあったりします。
器楽部創立メンバーの一人で、部長であり指揮者でもある草薙百花がメチャクチャな楽器編成を無理やりどうにかこうにか
まとめてしまう剛腕でもあったりしますので、そうした剛腕ぶりに不満がありそうな下級生たちを時に脅しつけ、
時に笑顔と愛嬌で押し通してしまうのがこの副部長兼ハープ奏者の南さくらといえそうです。
そしてららマジでは珍しい部類の眼鏡っ娘でもあったりします~♪

そうした南さくらを持ってしても海の出だしはプレッシャー掛かりまくりなのかもしれないです。


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ドビュッシーの「海」は三つの楽章全てにコールアングレとオーボエに大変大事なソロがあります。

ららマジの器楽部においては、オーボエ奏者はいなくてコールアングレ奏者の白石陽菜のみです。

多分ですけど、オーボエの音色が必要な場合は白石陽菜が楽器を掛け持ちしているのかもしれないです。

白石陽菜は高校2年生のJKさんで血液型はO型で、気品と度胸あふれるおてんばなお嬢様という設定です。

海において時にオーボエ、時にコールアングレと掛け持ちしている白石陽菜も、本人自体がそうしたおいしいソロを
楽しみながら吹いているのかもしれないですね~♪
一般的にはリムスキー=コルサコフというと交響組曲「シェエラザート」やスペイン奇想曲やいかにもロシア国民楽派らしい
ロシアのおとぎ話・民話等に基づくロシアの歌劇の作曲者という印象が強いです。
リムスキー・コルサコフの管弦楽曲の作品は、シェエラザート・スペイン奇想曲・ロシアの復活祭などを別格にすると
多くの作品は歌劇からの組曲版としての抜粋という感じの作品が多いのが一つの特徴ともいえそうです。
そうしたロシアの民話をベースにした歌劇からの組曲版の中では、私的には雪娘・金鶏・ムラダなども印象的ですけど、
(吹奏楽コンクール的には歌劇「雪娘」~軽業師の踊り、歌劇「ムラダ」~ロシア貴族たちの入場などもたまに演奏されています)
組曲「サルタン皇帝の物語」が私の中では大変印象的ですし、大好きな作品です。
このすてきな組曲はほとんど世間には知られていない曲だと思いますし、知る人ぞ知る名曲に近いと思います。
吹奏楽ファンにとっては定番の曲目なのに、クラシックのプロの演奏会においてはほとんど演奏されない管弦楽曲として
レスピーギのバレエ音楽「シバの女王ベルキス」・ベルファゴール序曲・教会のステンドグラスや
アーノルドの「第六の幸運をもちらす宿」やピータールー序曲やコダーイのハンガリー民謡「くじゃく」による変奏曲などが
挙げられそうですけど、この組曲「サルタン皇帝の物語」もそうした曲の一つなのだと思います。
後述しますけど吹奏楽コンクールが大好きな皆様にとっては、サルタン皇帝の物語においては「三つの不思議」は
川本高校・大月東中学校・NEC玉川等の名演で大変馴染みがあるといえそうですし、吹奏楽ファンの皆様にとっては
むしろシェエラザートよりも馴染みが深いのかもしれないです。
2019年においてもこの三つの不思議は出雲第一中学校が自由曲に選んでいました。

組曲「サルタン皇帝の物語」は実は部分的には超ウルトラメジャーな曲なのかもしれません。
この組曲は作曲者自身が歌劇の中から三曲を抜粋したのですけど、歌劇「サルタン皇帝の物語」からの音画という
作品においては、組曲版としての三つの曲に+αされる形で入っているのが、
多分一度ぐらいはほとんどの方は耳にされたことがある馴染みのあるメロディーともいえそうな「熊蜂の飛行」という曲です。
多分ですけど、このタイトルは知らなくてもこの熊蜂の飛行のメロディーを耳にしたら
大抵の方は「ああ、あの曲ね」と感じられるのかもしれないですし比較的馴染みのあるメロディーだと思います。
ちなみに「熊蜂の飛行」は、冒頭個所で金管楽器と打楽器が使われるのみで、それ以外では金管と打楽器は使用されません。
熊蜂の飛行はヴァイオリンソロ版やフルートソロ版のアレンジもあったりしますけど、1982年の吹奏楽コンクールの
5年連続金賞を称える特別演奏にて、弘前南高校吹奏楽部があの伝説の名演のフォーレの組曲「ぺリアスとメリザントの他に
実はこの「熊蜂の飛行」も演奏していたりもしています。
私自身も、「サルタン皇帝の物語」は、1981年に川本高校が吹奏楽版で演奏した「三つの不思議」しか知りませんでしたが、
上京後に上野の東京文化会館の音楽資料室で、サルタン皇帝の物語による音画というレコードを初めて視聴した際に
「サルタン皇帝の物語に熊蜂の飛行も含まれていたんだ~!」と驚いたものです。
組曲「サルタン皇帝の物語」はアシュケナージやジンマン、アンセルメ等の素晴らしい名演が既に色々と録音
されているのですけど、こうした演奏には一般的には熊蜂の飛行は含まれず下記の三曲から構成されることが多いです。

Ⅰ.王の告別と出発

Ⅱ.海上に漂う樽の中の王妃

Ⅲ.三つの不思議

この組曲は、元々はプーシキンが書いた民話なのですけど、それを後日R.コルサコフがオペラ化し、
歌劇の中で使用した音楽を組曲としてまとめたものが組曲「サルタン皇帝の物語」なのです。
あらすじは一言で言うと悪い姉二人と心優しい末娘の勧善懲悪的な内容ですけど、現在ではロシア国内でも全く上演
されていないようでもあります。

内容をごく簡単に記しますと・・

サルタン皇帝は、自分のお妃選定の際に、候補となっていた豪商の三人姉妹のうち一番の末娘を選びます。
(皇帝といえども「お妃は若い娘の方がいいじゃん!」という感じなのかもしれないですね~)
おさまらないのは姉二人で、お決まりのごとく皇帝に向かってあることないこと中傷誹謗を吹き込み、
皇帝は結果的にそれを信じてしまい、王妃と生まれたばかりの王子を樽の中に入れて海に投げ捨ててしまいます。
三人姉妹のうち、長女と次女の性格が悪くて意地悪で、末娘のみ性格がよくて優しい子というのは古今東西の物語・民話
としては定番ネタなのかもしれないですね~
王妃たちは魔法の島に辿り着き、王子は王妃からのたっぷりの愛情を注がれその島の中で無事に成長を重ねていきます。
ある日島に熊蜂が襲来し白鳥に襲い掛かりますが王子はこれを撃退します。
(熊蜂の飛行はこの部分の音楽でもあります)
白鳥はいつか恩返しすることを約束して、王子に①金とエメラルドの木の実を運ぶリス ②33人の護衛兵 ③白鳥から変身した
美しい妃という「三つの不思議」という奇蹟を起こせる力を与えます。
王妃と王子は島民の願いで島の統治者となり、気高い精神を持った二人によって島は治まり平和な日々が流れていきます。
一方、サルタン皇帝は3人の船乗りから王子と王妃の事を聞き驚きます。
自らの讒言が明らかになることを恐れた二人の姉は必死で自らの嘘を覆い隠そうとするのですが、そこへ白鳥の魔法によって
蜂に変身した王子がやってきて二人の姉を懲らしめます。
その後真実を知ったサルタン皇帝は妃と王子を迎えに行くことになり、白鳥も王子の愛によって魔法が解けて
美しい王女の姿に戻り、王妃と王子は無事に元の鞘に収まり、めでたし、めでたしという感じのお話です。

第一曲の冒頭はトランペットのファンファーレによって開始されますけど、第三曲の「三つの不思議」の部分でもその
ファンファーレは再現されます。
交響組曲「シェエラザート」もそうした冒頭の主題を各楽章で再現させ使用していますので、リムスキー・コルサコフは
循環主題的に同じモチーフを繰り返し使う手法を好んでいたといえるのかもしれないです。
ちなみにサルタン皇帝の物語の場合は、Ⅰの冒頭のトランペットのバックとして小太鼓を使用し、Ⅲの三つの不思議においては
シンバルを使用していたりもします。

組曲「サルタン皇帝の物語」の管弦楽版の演奏で、私が好きなのはアシュケナージの指揮の演奏ですね。
特に「三つの不思議」の中間部はテンポが異常に遅く、クライマックスへ向けてじわじわとゆっくり盛り上がっていくあたりは
聴いていてとても感動性があったりもします。
残念ながら、この曲の管弦楽団による生の演奏は一度も聴いた事がありません。
アンコールで「熊蜂の飛行」のみ何回か聴いた事がある程度です。
一度でいいから、吹奏楽アレンジ版ではなくて原曲版としてのこの組曲を聴いてみたいな~と思うのですけど
この隠れた名曲は全然演奏されないのが本当に勿体無いです。

組曲「サルタン皇帝の物語」~Ⅲ.三つの不思議」は吹奏楽コンクールでも何度となく自由曲として演奏されています。

そしてこの三つの不思議を初めて吹奏楽コンクールで演奏し、全国大会で金賞に輝いていたのが1981年の
島根県・川本高校吹奏楽部です。
吹奏楽コンクールにおいて、R.コルサコフの作品の中で人気が高い作品と言うと、交響組曲「シェエラザート」と
スペイン奇想曲だったと思いますが、当時の吹奏楽界ではほとんど知られていなかったこの「サルタン皇帝の物語」を
知らしめて、この曲が小規模ではありますけどブレイクするきっかけを作り、
その後の大月東中や文教大とかNEC玉川の名演を生み出す大きなきっかけとなった意味においては
大変意義がある演奏だったと思います。
この年の川本高校のトランペットセクションは本当に極めて優秀で、冒頭のトランペットのファンファーレで
既にこの曲の魅力と演奏の素晴らしさに引きずり込まれたという印象が強いです。
まるで花輪高校みたいな柔らかく清潔な音を出しながらも同時に力強さ・たくましさも有していて
あの冒頭のトランペットの音だけで既に金賞当確みたいな雰囲気すらあったと思います。
金管セクション・・特にその中でもトランペットは、美しくかつたくましく響いていて、大変柔らかくて清潔でクリアな響きの中でも、
前進する力を絶えず全く見失っていない躍動感溢れる素晴らしいサウンドだったと思います。

川本高校の演奏のどこが優れていたかというと二つほど挙げたいと思います。

一つは、トランペットに限らず、オーボエ・クラリネット・フルート・アルトサックス等のソロ楽器が実に素晴らしかったですし、
中間部のオーボエのファンタジー感溢れる夢見るようなソロは本当に素晴らしかったですし、
クラリネットのソロもキラリと光り輝くものがありました。
原曲において中間部はオーボエの美しいソロに続いてヴァイオリンパートが魅力的なメロディーを奏でていきますけど、
吹奏楽アレンジ版においてはヴァイオリンパートはクラリネットのソロに置き換えられていて、川本高校のそのクラリネットの
ソロの部分がとにかくめちゃくちゃうまくて、美しさと清涼感を見事に聴衆に響かせていたと思います。
全体のサウンドが大変力強くて同時に美しいという大変驚異的なものを有しているうえに、更にソロ楽器が全体の壮麗さに
花を添えていたと思います。
木管の技術も素晴らしいの一言に尽きると思いますし、前半のやたらと指がくるくると廻る箇所も何の不安感も無く
聴かせてくれていました。
金管セクションもサウンドとしては結構鳴らしている方だと思うのですけど、
音が全体に大変上品なので少しもやかましいと感じさせないのは本当に素晴らしい事だと思います。
二つ目なのですけど、表現力、特に中間部において、じわじわとゆっくりと盛り上がっていく息の長いフレーズを
途中で音楽がだれることなく 徐々にゆっくりゆっくり盛り上げていき、最後は高らかに中間部の頂点に達した後で
短いアレグロで一気にクライマックスまで持っていき一気呵成に曲をエンディングさせたあの驚異的かつ感動的な
あの演出&表現力は、本当に素晴らしかったと思います。
あの息の長いフレーズの表現力の素晴らしさは1987年の雄新中の歌劇「ローエングリン」~エルザの大聖堂への厳かな行列に
匹敵する素晴らしい表現に溢れていたと思います。
打楽器も大変バランスに優れ、どちらというと控えめに鳴らしていたようにも感じられましたけど
前半のシロフォーンのお茶目でとぼけた感じとか小太鼓のノリの良さとかこのセクションも大変充実していたと思います。

金管セクション、特にトランペットの素晴らしさは特筆に値すると思いますし、全体的にとにかく素晴らしい演奏であり、
内省的に充実感溢れる中間部の表現でしたし、グランプリクラスの堂々たる金賞だと思います。

1981年の全国大会の高校の部ですけど、金銀銅のグループ表彰ではなくて、
1960年代のような順位制で審査した場合、1位~3位はどのチームになるのかな・・?と考えた時、あくまで個人的な意見ですが、

1位 天理
2位 川本
3位 磐城

あたりではないかと思います。
4位以下はかなり混戦ですね~
花輪・弘前南・市立川口・習志野・基町・福岡工大付属・嘉穂などが甲乙漬け難い演奏だったと思います。

当時の指揮者の谷口栄一先生ですけど、この先生は、私が生まれた頃は既に吹奏楽コンクールに出場されていたのに、
2017年まで一般の部にて現役で指揮もされていましたので、 これだけ長い期間吹奏楽コンクールに出場され続けている事は
本当に素晴らしい事ですし、同時に大変頭が下がる思いです。
谷口先生は川本高校を指揮指導されていた頃は、サルタン皇帝の物語というそれまで全く知られていなかった影の名曲を
全国の吹奏楽ファンの皆様に知らしめたという功績も大きいと思いますし、
サルタン皇帝の物語の他にも、例えば、歌劇「ピーター・グライムズ」~四つの海の間奏曲や
バルトクーの「かかし王子」、シュミットの「サロメの悲劇」といった曲を花輪高校等に先駆けて吹奏楽コンクールで
演奏していた事もかなりポイントが高いようにも感じられます。





組曲「サルタン皇帝の物語」~Ⅲ.三つの不思議の吹奏楽アレンジ版の中間部において、美しいソロを担っている
楽器の一つがクラリネットですけど、あのクラリネットのソロの箇所は何度聴いても、その美しくファンタジー感溢れるソロに
うっとりとさせられてしまいそうです。

ららマジ器楽部でクラリネットを担当している綾瀬凛はなんとなくいつも怒っているみたいなイメージもありそうですけど、
ソロを奏でる時には楽しそうな笑顔になるのかもしれないです。

綾瀬凛がソロを担当する「三つの不思議」も是非聴いてみたいですね~♪
オッフェンバックの喜歌劇「天国と地獄」(地獄のオルフェス)は冒頭部分とかクラリネットの華麗なカデンツァの部分や
美しい中間部のメロディーを耳にした事がないと感じる方でも、ラスト近くの「カンカン踊り」は、
クラシック音楽をほとんど聴かない人でも一度は必ずどこかで聴いたことがあるはずの非常に馴染み深いメロディーだと
思います。
昭和の頃の運動会やパチンコ屋さんのBGMとしては定番の音楽の一つだったと思います、
また文明堂のカステラのCMで使われるあの曲(カステラ1番、電話は2番……)といえば、「ああ、あの曲ね・・」とピンと
来られる方も多いのではないかと思います。

オッフェンバックは陽気でユーモアにあふれた音楽によってオペレッタ(軽い内容のオペラ)の分野で活躍し、
時代を代表するヒットメーカーとして19世紀後半にはスッペと共に大変な人気を誇っていました。
オッフェンバックのこうしたオペレッタや劇音楽は生涯に100以上作品を残しましたけど、今日ではほとんど忘れられていると
思います。
その中でも「ホフマン物語」・「美しきエレーヌ」などは今現在でも上演されているようですけど、オッフェンバックの生涯の
最大のヒット作品は喜歌劇「天国と地獄」といえるのかもしれないです。

「天国と地獄」はギリシア神話を元ネタにしていますけど、その内容は実はシャレと毒の利いたパロディ作品です。
元ネタとなっているのはギリシャ神話のオルフェオの物語で、
妻の死を悲しむ夫オルフェオが黄泉の国へ妻をとりもどしに行くというのが本来のストーリーです。
(似たような話としては日本の「古事記」にもそうし話がありました・・)
しかしオッフェンバックの作品では、オルフェオとエその妻の間柄は生前から既に冷え切っています。
夫も妻も共に浮気中で、今風にいうとダブル不倫という感じなのだと思います。
オルフェオは妻があの世へ旅立ち、「これであの毒妻から開放されて嬉しい~♪」とウキウキ気分になって
「これで気兼ねなく女遊びができる~」と遊びまくっていたら、さすがに世間から非難ごうごうのバッシングを受けてしまい、
世間体のために嫌々ながらしぶしぶ妻を取戻しにあの世に行くという大変毒のあるパロディーストーリーとなっています。
大人の男女のエゴと浮気心と大人の本音がむき出しになっている「天国と地獄」の音楽と序曲ですけど、
こんな毒のある曲が昭和の頃には純粋な子供たちの運動会で使われているというのも、結構シュールなものがあると
言えそうです。
天国と地獄のカンカン踊りの場面を自作のパロディーとして使用したのがサン・サーンスの組曲「動物の謝肉祭」の亀です。
カンカン踊りは速いテンポでどんちゃん騒ぎが展開されていくのですけど、サン・サーンスはわざととんでもないスローテンポで
設定し、オッフェンバックをあたかもドンカメ扱いしているかのような毒を効かせているサン・サーンス一流のウィットが
そこにはあるように感じられます。
言うならば元ネタのパロディーのそのまたパロディーといえそうです。
ショスタコーヴィッチの最後の交響曲の15番の第一楽章にてかなり露骨な形で執拗にロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル」の
スイス軍隊の行進を引用というかパロディー化していますけど、1990年代前半のアリナミンVのCMに
そのショスタコーヴィッチの交響曲第7番「レニングラード」~第一楽章のパロディーが、シュワちゃんによって
「チチーン、プイプイ」とパロディー化されていたのと似たような話なのかもしれないですね~

妻を取り戻しに地獄に赴いたオルフェオですけど、「妻を取り戻したければ後ろを絶対に振りかえってはいけない」と
神々から言われるのは古事記と同様ですけど、後ろで雷が鳴った事でついつい後ろを見てしまった事で
妻は戻らないという事になってしまい、オルフェオはウキウキして喜んで現世に戻り、地獄の妻も地獄で既に神々と
いい仲になっていましたので、まさに双方ウィンウィンという事で、最後は全員揃ってのどんちゃん騒ぎで幕が閉じられ、
そのどんちゃん騒ぎで使用されているのが「カンカン踊り」という事になります。

オッフェンバックの喜歌劇「天国と地獄」の序曲は、実は二つ存在している事は意外と知られていません。
一つはオッフェンバック自身が歌劇の改訂版に付けた非常に冗漫で長大な序曲で、
こちらの方はあまりにも長すぎて面白くないため、今日では演奏されることはまずありません。
そしてもう一つが、ビンダーという人が、オッフェンバックの喜歌劇「天国と地獄」の中の主要なメロディーを
要領良く繫ぎあわせて構成したもので、こちらの方が、今日演奏会やCDで聴かれる「天国と地獄」序曲なのです。
一般的に知られる喜歌劇「天国と地獄」序曲は、オッフェンバック自身が完全に作曲したものではなくて
後世の人が上手にアレンジしたものと言えるのです。
オッフェンバックの作品?と言われている中にバレエ音楽「パリの喜び」があるのですけど、このバレエは後年、
ロザンタールという指揮者がオッフェンバックの作品の中からおいしい場面をピックアップし序曲と23の楽曲で構成した
作品でもありますので、この「パリの喜び」は一般的にはオッフェンバック作曲=ロザンタール編曲と表記される事が多いです。

喜歌劇「天国と地獄」序曲の冒頭は陽気にのびのびと開始され、聴いているだけで楽しさ満開です~♪
この部分が静まった後に出てくるクラリネットの完全ソロによるカデンツァの華麗さは素晴らしいですし、オーボエのしっとりとした
ソロも聴かせどころたっぷりだと思います。
哀愁はあるけど何となく間が抜けているのも面白い感じはします。
そして比較的長い中間部に入るのですが、この部分もたっぷりと抒情的に歌い上げられていきます。
そしてこの中間部が終わると、いよいよお楽しみの「カンカン踊り」が始まり、
カンカン踊りが炸裂していき、おちゃらけとバカ陽気の中、賑やかに曲が閉じられます。
演奏時間も8分程度で手頃という事もあり、ファミリーコンサートではしばしば演奏される曲の一つでもあります。
バレエ音楽「パリの喜び」の方も楽しい音楽の連続ですし、もちろんかンカン踊りも登場しますけど、
ホフマンの舟歌の美しい部分もラストに登場しますし、聴いていて飽きることはないと思います。
「バリの喜び」をCDで聴く場合、デュトワ指揮/モントリオール響という素晴らしい名演があります。
日本では、このバレエ音楽「パリの喜び」は吹奏楽コンクールでは定番の大人気自由曲の一つですけど、プロの管弦楽団の
演奏会ではなぜかあまり演奏されないです。
これまで唯一聴いたのが新日本フィルの演奏会です。
新日本の演奏で面白かったのは、首席トロンボーン奏者の宮下宣子さんが、なぜか部分的にトロンボーンの席から
打楽器のガラガラを掛け持ちしていた事です。
アマチュアの吹奏楽の吹奏楽部では、管楽器奏者と打楽器奏者のかけもち演奏はたまに見かけることはありますけど
まさかプロの世界でそうした打楽器との掛け持ちは大変珍しい事であり、大変印象的でもありました。
吹奏楽コンクールでは、「バリの喜び」は現在でもレパートリーとして完全に定着していますよね。
序曲~ワルツ~マーチ~カンカンを演奏するのですけど、元のバレエ音楽と異なり、カンカン踊りで終わりますから、
何とってもすっきりとした終わり方のようにも感じます。


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喜歌劇「天国と地獄」序曲はたまにですけど、吹奏楽コンクールの全国大会でも自由曲として演奏されています。

この曲の名演というと多くの方は1999年の葛飾吹奏楽団を挙げられると思いますが、私しては1993年の
ヤマハ東京の方を推したいです。
ヤマハ東京は、葛飾吹奏楽団や1995年の伊予高校に比べると大変地味な演奏です。
だけど冒頭近くのクラリネットソロや中間部におけるソプラノサックスの抒情的で長いソロのうっとりとした陶酔感や
大人の音楽づくりは素晴らしいものがあると思いますし、この年はヤマハ浜松が不出場という幸運もあったと思いますが、
職場の部で金賞というのも当然だと思います。
ヤマハ東京以上にもっと地味な演奏ですけど、93年の基町高校の演奏も派手さは全く無いけど内省的な響きの充実感は
銅賞という結果で終わるにはもったいないものもあったと思います。

「響け! ユーフォニアム!」第一期の第一話にもこの天国と地獄の序曲がBGMとして流れてもいました~♪

実はこの曲は、麗奈と久美子が中学3年の時に臨んだ吹奏楽コンクールの自由曲でして、京都府大会で金賞を受賞
しながらもダメ金という事で関西大会代表に進めず、その際に麗奈は「口惜しくて死にそう・・」と涙を流すのですけど、
久美子は「本気で全国に行けると思っていたの?」と失言をしてしまい、麗奈からとんでもなくきつい眼差しを返され、
そうした一件が「響け・・」第一期序盤での久美子と麗奈のぎくしゃくした関係の遠因にもなっていたりもします。

久美子は第一期においては余計な一言ばかりついうっかりポロッ・・と口に出してしまい、一時は失言女王とすら揶揄されて
いたのも今となってはなつかしい話ですね~♪
あの夏祭り以降の麗奈と久美子の急速な接近と百合常態化も第一期の大きな見所の一つでもありました。


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天国と地獄の序曲の序盤ではクラリネットが無伴奏状態でのカデンツァによる完全ソロがあるのですけど、
クラリネットの無伴奏完全ソロのカデンツァというとリムスキー・コルサコフの「スペイン奇想曲」も大変印象的ですけど、
天国と地獄の方も奏者冥利に尽きると思います。

ららマジ器楽部によるラストのカンカン踊りのどんちゃん騒ぎも是非聴いてみたいですけど、クラリネット奏者の綾瀬凛が
奏でる喜歌劇「天国と地獄」序曲の完全ソロのカデンツァも是非ぜひ聴いてみたいですね~♪

綾瀬凛はなんとなくいつも怒っているみたいなイメージもありそうですけど、ソロを奏でる時には楽しそうな笑顔に
なるのかもしれないです。
ヨハン・シュトラウスⅡ世というとニューイヤーコンサート等でおなじみのとおり「ワルツ」というイメージが強く、
美しく青きドナウ・ウィーンの森の物語・皇帝円舞曲などの傑作ワルツで日本でも大変馴染み深い作曲家ですけど、
ワルツ王としての側面以外でも「オペレッタ」においても大変人気が高く傑作作品もたくさん存在しています。
そうしたシュトラウスⅡ世が残したオペレッタにおいて特に人気が高くて傑作の誉れ高い作品が「こうもり」だと思います。

「こうもり」は音楽史的には「オペレッタ」というジャンルに属し、オペラから「笑い」の要素を強調して派生したとも言え、別名
「喜歌劇」とも呼ばれています。
そして喜歌劇としてはレハールの「メリーウィドウ」と並んでオペレッタの双璧作品とも称えられていて、その評価は
既に揺るぎないものになっていると思います。
オペレッタはクラシック音楽業界では、歌劇に比べると軽いとか軽薄とか言われがちであり、扱いは歌劇よりは格下というか
大衆用音楽劇とも思われがちなのかもしれないですし、通常オペレッタはミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場といった
名門オペラハウスでは上演されることはまずありえないのですけど、こうもりだけはその例外扱いでして、
ウィーン国立歌劇場では毎年12月31日に上演されることになっています。
オペレッタの中では別格の扱いを受けているオペレッタの最高作品ともいえますし、ウィーン国立歌劇場以外でも
特にドイツ語圏の歌劇場では年末年始の定番レパートリーの一つとして既に定着しています。

私自身、このシュトラウスⅡ世のこうもりは、その序曲を吹奏楽アレンジ版として初めて触れたのですけど、
恥ずかしい話、当初はこうもりというと獣としての蝙蝠の方を連想してしまい、森の動物たちをモチーフにした作品なのかな?と
勘違いをしていたものでした。
こうもりという題名の由来は、物語の軸が「こうもり博士の笑いの復讐」という事と思われます。
言うまでもなく獣の蝙蝠が主役でもなんでもなくて、人間喜劇のドタバタ作品というのが大まかな概要です。

喜歌劇「こうもり」のおおまかなストーリーは下記のとおりです。

その前に、このオペレッタの前段階の話として、今風にいうとコスプレ衣装という事もあるのかとは思います。

とある仮面舞踏会の帰り道、アイゼンシュタインは酔っぱらった友人ファルケ博士をこうもり姿のコスプレ衣装のまま道ばたに
置き去りにしてしまい、その醜態を多くの人たちに見られてしまい、その結果ファルケはみんなから「こうもり博士」と
呼ばれてしまっていて、ファルケはいつかアイゼンシュタインに仕返しをしたいと考えていたというのがこの喜歌劇の大前提
でもあります。

第1幕:アイゼンシュタイン邸の居間

ある年の大晦日、アイゼンシュタインは公務員を侮辱した罪で、五日間ですけど拘置所に収容される事になります。
ファルケ博士がそこにやってきて、「ロシアのオルロフスキー公爵邸で舞踏会が今晩開催されるので、しばしそこで楽しみ、
その後に拘置所に出向いて収監されればいい」とアドバイスします、
喜んだアイゼンシュタインが舞踏会に出かけた後、家に残された妻ロザリンデのところに元恋人のアルフレートがやって来ます。
ロザリンデは嫌がりながらもまんざらでもない様子でしたけし、アルフレートはロザリンデが自分の妻であるかのように
振る舞っています。
ちょうどそこに拘置所の所長フランクがアイゼンシュタインの収監にやってきます。
ロザリンデはこの人は実は自分の夫ではないと言いだせずにいて、結局アルフレートはアイゼンシュタインではないのに
収監されてしまいます。

第2幕:オルロフスキー公爵邸の舞踏会場

オルロフスキー公爵の舞踏会にアイゼンシュタインが来てみると、仮面を付けた美しいハンガリーの貴婦人を見つけ、
アイゼンシュタインはその貴婦人を口説きに掛ります。
実はこの舞踏会の参加者全員がグルでして、ファルケからの頼みによってみんなでアイゼンシュタインをだまそうとしている
状態でもありました。
その美しいハンガリーの貴婦人の正体はロザリンデでして、すべてはファルケ博士の仕組んだワナでもありました。
ロザリンデは口説かれるふりをしながら、アイゼンシュタインの懐中時計を奪います。
そしてこれが浮気の動かぬ証拠となる訳なのです。

第3幕:拘置所所長フランクの部屋
 
舞踏会の翌日、アイゼンシュタインが拘置所に出頭してみるとすでに見知らぬ男(アルフレート)が自分の代わりに
収監されている事に気が付きます。
拘置所の所長フランクから「昨晩、自宅で奥さんと一緒にいたこの男を連行して収監した」と聞いたアイゼンシュタインは、
ロザリンデの浮気を暴こうと弁護士に成りすまして様子を探ることにしました。
そこにロザリンデがやって来てアルフレートを拘置所から出してほしいとアイゼンシュタイン扮する弁護士に相談を始めます。
怒ったアイゼンシュタインが正体を明かし、妻・ロザリンでを責め立てると、「浮気には浮気を・・」みたいな感じで
ロザリンデは昨夜奪ったアルゼンシュタインの懐中時計を見せます。
浮気がバレて頭を抱えるアイゼンシュタインでしたけど、そこへファルケ博士が舞踏会の参加者とともに現れ、
すべては自分の仕組んだ芝居であった・・それはあの時のこうもりコスプレ放置事件に起因するちょっとした復讐劇ですよ・・と
事の顛末が明らかになり、
アイゼンシュタインは、とっさに「全てはシャンパンのせいだから赦して欲しい・・ロザリンデ」と言いだし、
なんとなく丸く収まったところで最後はロザリンデの歌う「シャンパンの歌」を全員で合唱してエンディングを迎えるというのが
大まかなあらすじです。

こうもりはオペレッタ全曲同様、序曲も大変有名です。単独でも頻繁に演奏されている素晴らしい名曲です。
序曲の演奏時間は8分ぐらいですので、管弦楽団の演奏会の一曲目としてうってつけといえそうです。
快活で明るい雰囲気の序奏に続くようにオーボエがやわらかなメロディを演奏します。
その後もオペレッタの中のたくさんのワルツが接続曲として続々と登場してきます。
曲の途中で6回響くチャイムの音やワルツやポルカ風音楽が展開され、楽しく明るい雰囲気で曲が閉じられます。

喜歌劇「こうもり」序曲はカイリエ等による吹奏楽アレンジ版も1970年代よりコンクール自由曲として演奏されていますけど、
最近ではオペレッタの音楽全体からおいしい部分をピックアップしたセレクト版も出版されていて、どちらかというと
序曲を演奏することよりはこのセレクト版の方が演奏機会が多いのかもしれないです。
最近の吹奏楽コンクールの全体的な傾向としては、邦人作品と歌劇からのセレクトといった事も挙げられそうですけど、
歌劇・オペレッタのセレクト版の先駆的意味合いとしては、1999年の北海道代表の大麻高校吹奏楽部による
プッチーニの歌劇「トゥーランドット」からのセレクト版なのかもしれないです。
あの演奏以降最近に至るまで、歌劇・オペレッタの抜粋版の自由曲の人気が続いている事を考えると、大麻高校の
トゥーランドットのあの素晴らしい名演の意義は現在に至るまで続いているようにも感じられます。
オペレッタのセレクト版としては、こうもり以外ではレハールの「メリーウィドウ」や「微笑みの国」なども印象的です。

喜歌劇「こうもり」序曲のカイリエ等による吹奏楽アレンジ版ですけど、この序曲は実はクラリネットパートに関しては
難曲中の難曲であり、あのあまりにもテンポが速い中での16分音符の炸裂は相当なテクニックが要求されますし、指使いは
大変難しいと断言できます。
こうもり序曲は幸い(?)演奏したことはありませんけど、カイリエアレンジ版のクラリネットのパート譜を見た限りでは
「とてもじゃないけど自分のこんな未熟なテクニックでは吹けそうにもない・・」とため息がでてしまうほどの難しさは
あると思います。
管弦楽作品の吹奏楽アレンジ版においてヴァイオリンパートのメロディーラインを主に担当するクラリネットパートの
16分音符等の速い動きが極めて難解で難しい曲の代表的事例として、たとえばプロコフィエフの
バレエ音楽「ロメオとジュリエット」~タイボルトの死、ショスタコーヴィチの交響曲第5番~終楽章、
ラヴェルのバレエ音楽「ダフネスとクロエ」第二組曲~全員の踊り、ハチャトゥリアンのバレエ音楽「ガイーヌ」~レスギンカ舞曲
など多数挙げられますけど、こうもり序曲の木管セクションの難しさは特に際立つものがあると思います。
たとえばですけど、タイボルトの死やショスタコーヴィチの5番あたりは、クラリネットセクションも音楽の勢いに乗れてしまえば
指も意外とスムーズに動いてくれますし、なによりもこうしたロシア系の曲は金管セクションが派手にとてつもない音量で
鳴らしていることも多々あり木管の細かい指の動きに多少難があってもあまりばれないという感じでもありますけど、
シュトラウスのこうもり序曲の場合は金管がそれほどがなりたてる曲では全くありませんし、クラリネットパートの細かい指の
動きはウインナワルツ的な優雅さと洗練さをなによりも求められますので、クラリネットのワルツの動きが少しでも
もたつくと即演奏崩壊につながりかねませんので、とにかくクラリネットパートには熟練した名人芸みたいなものを
求められる曲であったりもします。
この曲は私自身も吹奏楽コンクールで崩壊した演奏を何度も耳にしましたけど、クラリネットパートの指の細かい動きの
難しさがそのまま客席にまで伝わり、奏者だけでなくなんだか聴衆すらもオロオロしてしまうような演奏もかなりあったと
思います。

吹奏楽コンクールにおいて喜歌劇「こうもり」序曲の素晴らしい名演というと二つほど挙げたいです。
そしてこの二つの学校の演奏がいずれもコンクール評価としては銀賞で終わっていたことは、審査結果は水物であることと
日本の吹奏楽コンクール自体の驚異的なレヴェルの高さを意味しているのだと改めて感じたりもします。
そしてその二つのすてきな名演はいずれも1985年の全国大会でした。

広島の基町高校は、一部のオールド吹奏楽ファンの間では「基町トーン」という言葉で語られる事もあるのですけど、
柔らかいサウンド・優しい語り口・決して乱暴に鳴らさない・丁寧な音楽作り・温かい雰囲気というのが
その一つの特徴なのかなとも感じるのですが、
そうした「基町トーン」が最高潮に達した演奏が、1981年の序曲ハ調なのであり、85年のこうもり序曲と
いえるのだと思います。
1982年の歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲でもって長年に渡ってこの基町高校を指導・指揮されてこられた
増広先生の勇退の年という事になってしまい、全国大会の評価としては銀賞に留まりましたけど、
あのいかにも「おじいちゃんが優しい語り口で孫たちに民話を語っているような」温かい雰囲気が曲の随所から
感じられて、最後の普門館としては大変満足がいかれた演奏になっていたと思います。
あの優しくて温和な手作り雰囲気は、まさに増広先生=基町高校吹奏楽部のコンビによる「基町トーン」の
素晴らしい有終の美に相応しい演奏だったと思います。
惜しまれつつも増広先生は1982年の普門館を最後に勇退されましたが、
日本のスクールバンドの場合、往々にして長年実績を積み上げてきた優秀な指導者がその学校を離れてしまうと、
後任の先生がご苦労され、なかなかそれまでのような実績が上げにくいとか
中々いい演奏ができないとか、結果的に支部大会とか県大会で散ってしまうとか
後任の先生にとっては色々と悩まれる事も多いものだと思われます。
自分の個性というかカラーは早く出したいけど、なかなか前任の先生のカラーとか伝統みたいなものが立ちはだかってしまい、
自分としてのカラーが出せないまま、いつの間にかコンクールの表舞台から姿を消すという事例は珍しい話ではないと
思ったりもします。
そうした意味においては、基町高校の指揮者交代は公立学校としては理想的なものもあり、
増広先生の後を受け継いだ土居先生の演奏スタイルは「基町トーン」そのものであり、
それが遺憾なく発揮されていた演奏が85年の喜歌劇「こうもり」序曲だったと思います。
とにかくあのワルツは聴いていてとっても楽しかったし心地よかったです!
基町高校のこうもり序曲はテンポ設定が極めて良好で、過度に煽ることもなく平穏に楽しく優雅にワルツを心地よく
聴かせてくれていたことは本当に素晴らしかったです。
土居先生はその後何度か普門館での全国大会でその演奏を聴く事ができましたけど、いつ聴いても
「変わらぬ基町トーンをキープし続けていて、自分たちのサウンドはこれだっ!というものを持っていて
それが長年ずっとこうやって継承つれ続けているのはすごいものだ・・」と当時感心していたものです。
普門館のようにあんなにも広い会場でも、決して大音量とか過剰な表現はせずに、大変理性的で且つ
温かみが感じられる素敵な音楽を増広先生同様に全国大会でも聴衆に伝え続けていた事は大変立派な事だと
思いますし、まさに「公立高校の鑑」だと思います。

そして同年・・、1985年の中学の部においても雄新中学校による吹奏楽コンクールにおける決定的名演ともいえる
素晴らしいこうもり序曲の演奏が出ています。

1985年の中学の部は正直ちょっと停滞気味で84~85年の2年間の中学の部のレヴェルはちょっと下がり気味でもあったと
思います。
85年の中学の部においては、金賞の今津・出雲第二・大月東・湊など素晴らしい演奏もありましたけど、
例えば玉川学園中等部・伊勢崎第三・永山・津幡あたりは「この演奏が金賞なの・・?」と当日普門館で生演奏を聴いていた
私としてはそう感じてしまうほど、全体のレヴェルはちょっと低下傾向で特に銅賞チームの演奏は
「1960年代あたりにまでタイムスリップしたのかも・・??」と感じさせるものも多少はあったのかもしれないです。
そうした中、キラリ!と光る演奏がプログラムの最後に出現し、それが四国代表の雄新中学校でした!
課題曲Cの「シンフォニックファンファーレとマーチ」の中学生らしいのびやかさとチャーミングさとはつらつした雰囲気も
最高でしたけど、それ以上に自由曲のこうもり序曲の完璧な木管の驚異的テクニックとウインナワルツの楽しさと
オーボエのソロの美しさや全体にキビキビと躍動している溌溂とした明るさは「この日最高の演奏!」と感じさせるものは
間違いなくあったのになぜか審査結果は銀賞であり、「どうしてあの素晴らしい演奏が銀賞で、玉川学園みたいに
技術的未消化が目につき音楽的盛り上げに難があるあの演奏が金賞なの・・!?」と審査結果に納得いかないものを感じ、
「こうしたコンクールの審査結果は水物である・・」という事を実感させられたものでした。

雄新中学校なのですけど、鈴木清先生時代にこんなにも素晴らしい演奏を聴かせてくれているのに評価的には必ずしも
高い評価を受けていないのは私的には全然納得いかないです・・
もう少し高い評価を得ていても決しておかしくはないと感じています。

「雄新にしては少し消極的な演奏なのかも・・」とも感じてしまう1984年の「運命の力」は金賞で、
表現が積極果敢で各奏者のソロが素晴らしい1982年のスペイン奇想曲が銅賞で、演奏が情熱と楽しさ・明るさ・清涼感に
満ち溢れている1985~87年の3年間の演奏が銀賞という結果に終わっているのは、改めてコンクール審査は水物であると
感じざるを得ませんし、審査員の価値観・好き嫌いで随分と評価も変わってしまうものなのかもしれないです。

雄新が特に光り輝いていたのは、鈴木清先生時代の1985年~1987年の3年連続銀賞の頃なのかもしれないです。

1985年 課題曲C 自由曲/こうもり序曲

1986年 課題曲B 自由曲/ローマの謝肉祭序曲

1987年 課題曲E 自由曲/歌劇「ローエングリン」~エルザの大聖堂への厳かな行列

あの3年間は、本当に素晴らしい演奏を聴かせてくれていたと思いますし、評価は全て銀賞なのですけど、
私の中ではあの3年間の演奏は金賞以上のものがありますし、
何よりも「人の心にまっすぐと伝わる何か」は間違いなく残してくれていたと今でも確信しています。

その中でも特に1987年の「エルザの大聖堂への厳かな行列」は本当に素晴らしかったです!
あそこまで素晴らしい演奏を聴かせてくれたのに、あの演奏が審査結果で「銀賞」と発表された時は、心の底より
「審査員、全員くたばってしまえ!」とか「どういう耳を持ってどんな聴き方をすればあの演奏に金賞という評価をつけないのか
全く理解できない・・」と感じたものでした。





喜歌劇「こうもり」序曲の吹奏楽アレンジ版におけるクラリネットパートの指使いの難しさとハイテクニックは、
現役奏者の頃の私でも「演奏不可能・・」みたいな結論にならざるを得ないですけど、ららマジ器楽部のクラリネット担当の
綾瀬凛だったら余裕で楽々と吹きこなしそうです~♪

自分にも他人にも厳しい綾瀬凛ですけど、こんなかわいいJKさんだったら、私も是非ぜひ綾瀬凛からこうもり序曲の
とてつもないハイテクニックの指使いを教わってみたいです!


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怒っている綾瀬凛はいつもの綾瀬凛なのかもしれないですけど、一緒にこうもり序曲を練習していて
「一体いつになったらまともに吹けるのよ~!」と激怒されているのかもしれないですし、はたまた綾瀬凛自身が
カイリエ編曲の吹奏楽アレンジ版のクラリネットのパート譜を見て
「こんな大変な曲まともに吹ける訳ないじゃん!」とご機嫌ナナメになっている時なのかもしれないですし、
はたまたオペレッタのストーリー的には、妻がありながらも浮気ばかりしているアイゼンシュタインに対して
「この浮気者が~!!」と激高されているのかもしれないです。

なんだかこの雰囲気の綾瀬凛は、東方で例えると地獄の閻魔様の四季映姫様による地獄のお裁きで
「断罪~!!」とか「地獄行き!」の判決を下している時の雰囲気にも似ていそうです。


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綾瀬凛の普段のかわいらしさと怒っている時のギャップにも「すてきだね~♪」と感じてしまいそうです!

一つ後の記事がヨハン・シュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」に関するものですので、本記事においては、その父親の方の
ヨハン・シュトラウスⅠ世の「ラデツキー行進曲」について簡単に取り上げさせて頂きたいと思います。

マーチと言うと「吹奏楽」というイメージも大きいのかもしれないですけど、
管弦楽版のマーチにもたくさんの優れた作品が残されていて、例えばエルガーの行進曲「威風堂々第一番」とか
ウォルトンのグランドマーチ「クラウン・インペリアル」とかシベリウスの組曲「カレリア」~Ⅲ.行進曲風にとか
グリーグの組曲「十字軍の兵士シグール」~Ⅲ.勝利を讃える行進曲とかヴェルディのアイーダの大行進曲とか
シャブリエの楽しい行進曲とかプロコフィエフの体育祭行進曲(マーチ・スパルタキアーダ)や
ワーグナーのタンホイザー大行進曲やベルリオーズのハンガリー行進曲(ラコッツイ行進曲)や
サン・サーンスのフランス軍隊行進曲や英雄行進曲などたくさんの管弦楽による名曲マーチはあるのですけど、
優雅さと親しみやすさと世界的知名度というと 「ラデツキー行進曲」には敵わないのかも・・?とすら感じてしまいそうです。
ラデツキー行進曲はオーストリア共和国においては国家を象徴する曲でありますし、
国家的な行事や式典でたびたび演奏されていますし、
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるニューイヤーコンサートでは、
1958年以降は2005年を除いて、毎年プログラムのアンコールの最後の曲として必ず演奏される曲として
オーストリア国民の皆様に大変愛されている曲なのだと思います。
そうした意味においては、アメリカ人が「星条旗よ永遠なれ!」をアメリカ第二の国歌として愛しているのと
同じような感覚の曲なのだと思います。

ラデツキー行進曲は前述の通り、「ニューイヤーコンサート」におけるアンコール曲としてもう既にお馴染みの曲ですよね。
この曲が演奏されると、聴衆は手拍子をはじめるといったそんなお約束が確立されている曲だと思います。
クラシック音楽の演奏会で聴衆が自由に手拍子を送れる曲と言うのも極めて珍しいと思いますし、
指揮者の方もむしろ聴衆に対して「もっと手拍子頂戴よっ!」みたいに時に煽るような事が出来てしまうある意味大変貴重な
クラシック音楽なのだと思います。

ちなみにですけどこの行進曲の名前は「ラデツキ―」であって、よく日本で間違って発音・印刷されているように
「ラデッキー」ではありません・・・
「ツ」は小文字ではなくてあくまで大文字です。
この曲の出だしはダダダン・ダダダン・ダッ・ダッ・ダーンと景気良く開始されていき、
その後も大変軽快だけど力強いメロディーが展開されていきます。
中間部はいかにも優雅なワルツという感じで何やら気品のような香りさえします
行進曲なのですけどその雰囲気は優雅なワルツみたいにも聴こえますし、ウインナワルツというのか
舞踏会や晩餐会のBGMにも十分効果が発揮できそうな曲だとも思います。
そしてこの優雅な感覚はウイーン気質をそのまま象徴しているようにも感じられますし、オーストリアの皆様が
この曲を愛してやまないというのも当然なのだと思います。

このラデツキー行進曲は、吹奏楽にもアレンジされていて、
イベントとか卒業式・入学式、記念行事の入退場曲としては定番の一つにもなっているような気がします。
このラデツキ―行進曲とかスーザの星条旗よ永遠なれ!を一度でも吹いた事がある吹奏楽経験者は相当多いと思います。

そういう私自身も、ラデツキー行進曲は、吹奏楽アレンジ版で何度も何度も演奏しました。

感覚としては星条旗よ永遠なれ!はいかにもヤンキーみたいな庶民的なエネルギーに溢れているのに対して
ラデツキー行進曲は優雅で上品なエレガントさというものがあったと思いますし、この二つの曲は
国民から愛されていて第二の国歌に近いものがあるけど、曲自体の雰囲気は全然違うと言えるのかもしれないですね。

ラデツキー行進曲は、管弦楽の原曲の打楽器はティンパニ・小太鼓・大太鼓のみですけど、
吹奏楽アレンジ版では、シンバル・グロッケン・タンバリンも追加されていたような記憶があります。
冒頭のダダダン・ダダダン・ダッ・ダッ・ダーン・ダダダダダッタッダのすぐ後は、
原曲の管弦楽版では打楽器は入らないのですけど
吹奏楽版では、この後に、ティンパニ・大太鼓・シンバルがドスンとかなりバカでかい音を叩きこんでいました。
後にラデツキー行進曲を管弦楽版として聴いた時に
「どうして冒頭のあの場面で、打楽器がドスンと叩かないの?」と思ったものですけど、
それは吹奏楽アレンジ版しか知らない人のある意味勘違いでもありました。
管弦楽の原曲を吹奏楽アレンジ版として演奏された方は、勘違い防止のために、
吹奏楽版以外にも原曲もちゃんと聴いておきましょうね・・という感じなのかもしれないですね。
ちなみにですけど、私自身は例えばドヴォルザークの交響曲第8番第四楽章は、石田中学校の吹奏楽アレンジ版の演奏で
ずっと慣れ親しんでいて、数年後にこの交響曲を初めて管弦楽の原曲として聴いた時に
「どうして第四楽章に大太鼓・小太鼓・シンバルが入らないの・・?」と勘違いをしていたものでした・・

勘違いと言うと、ラデツキー行進曲の作曲者はヨハン・シュトラウスⅠ世なのですけど、
喜歌劇「こうもり」序曲とか春の声・美しき青きドナウ・南国のパラ等「十大ワルツ」の作曲家は
シュトラウスⅠ世の長男のヨハン・シュトラウスⅡ世であり、クラシック音楽等が何もわからなかった時代は、
このⅠ世とⅡ世は同一人物なんだと勝手に勘違いをしていた事もありました・・
これはいくらなんでもこっ恥ずかしい勘違いでもありました。

ちなみにですけど、ヨハン・シュトラウスⅡ世を代表する曲というのが、
「ウィーンの森の物語」と「皇帝円舞曲」とともにシュトラウス2世の三大ワルツに数えられ、
その中でも最高傑作とされ、作曲者およびウィンナ・ワルツの代名詞ともいわれる作品というのが 美しき青きドナウです。
ちなみに美しき青きドナウも前述のウィーンフィルのニューイヤーコンサートでは定番中の定番の曲で間違いなく
絶対に演奏される曲の一つです。
美しき青きドナウはドイツのあの大作曲家のブラームスも大好きな曲でして、ある時扇子にサインを求められた際に
ブラームスは、この美しき青きドナウのメロディーの楽譜を書き、そこに
「残念ながらブラームスの作にあらず・・」という一文を書き添えたというとってもすてきなエピソードを残しています。
ブラームスというと気難しい先生とか端正で真面目で厳格な性格という印象が強かったりもしますけど、ブラームスの師匠の
シューマンの奥様のクララ・シューマンとのシューマンの死後のプラトニックすぎる純愛とか
いかにもドイツ正統派の厳粛な音楽というイメージとはちょっと異なるような例えば大学祝典序曲やハイドンの主題による変奏曲
などたまに粋で楽しい作品も残されていますし、
ピゼーの歌劇「カルメン」が大好きで上演のたびに鑑賞に出かけたなどちょっと意外でお茶目な面もあったりするのは
ブラームスのすてきな人間性の所以なのかもしれないです。


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前述のとおり、ラデツキー行進曲はニューイヤーコンサートもそうですし、日本の管弦楽団のお正月公演や
吹奏楽アレンジ版における演奏会等でのアンコールでもお馴染みの曲ですけど、演奏中に結構な確率で
客席から自然に手拍子が入ることもあったりします。

私自身もラデツキー行進曲を演奏会のアンコール等で演奏したことはありますし、そのうち何度かは客席からの手拍子を
受けましたけど、実は私自身は客席からの手拍子は苦手であったりもします。
どうしてかというと、客席からの手拍子と指揮者の拍子には当然わずかですけどズレが生じていますし、
練習の際の指揮者のビートと客席からの手拍子のビートが噛み合わないと、なんだか自分自身吹いている時に混乱してしまう
という傾向はありました。

ららマジの指揮者は東奏学園器楽部創始者のひとりで3年生の草薙百花が務めていますけど、ららマジ器楽部みたいな
無茶苦茶な楽器編成をどうにかこうにか剛腕でまとめあげている百花の指揮の技量では、そんな聴衆からの手拍子による
ビートの狂いなんて全く気にも留めないという事なのかもしれないです。

ラデツキー行進曲は曲の中間部は静かで優雅なメロディーが続くのですけど、それでも一部の聴衆は手拍子を続けている
事も多々あり、あの違和感は指揮者にとっても奏者にとっても「ちょっと困ったかも・・」と感じなのかもしれないですけど、
百花はその点も的確にコントロールするのかもしれないです。

ウィーンフィルのニューイヤーコンサートでもたいていの指揮者はラデツキー行進曲の演奏時は曲の開始だけ指揮し、
それ以外は奏者に対する指揮ではなくて観客に対してジェスチャーで「もっと手拍子を!」とか
「ここは手拍子を控えて・・」と指示している事が多いようにも感じますけど、
ららマジの剛腕指揮者の百花も本番の演奏会の際は、そうした自由自在の応用がききまくった指揮さばきも見せてくれている
のかもしれないですね~♪


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それにしてもららマジ器楽部の皆様はすてきな美少女たちばかりですので、チューナーくん(自機プレイヤー)は
バレンタイン等のイベントの際はもてもてなのかもしれないですね~♪
「祝典序曲」というタイトルというと、いっちば~ん!有名なのは、ブラームスの「大学祝典序曲」ではないのかなと
思ったりもします。
この曲は何度聴いてもどことなく気難しくて幾分とっつきにくいブラームスの曲とは思えないほど
洒落っ気に富む楽しい曲だと思えます。
スッペやオッフェンバックの序曲と言っても何か通用しそうな雰囲気があるようにも感じられます。
ブラームスというと気難しい先生というイメージがありがちなのですけど、意外とこの御方はお茶目な面があったり純愛を貫く
といった要素もあったりしますし、ビゼーの歌劇「カルメン」が大好きで上演の度に見に行っていたりとか
ある時女性ファンより扇子へのサインを求められた際に、扇子にヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」のメロディーを
書いた上で「残念ながらブラームスの作に非ず・・」と記したり、少なくとも頑固一徹だけの作曲家では無かったようにも
感じられたりもします。
ブラームスは作曲パターンから言うと、楽しい曲を作曲している最中になぜか陰気で暗い曲を同時に
作曲するクセみたいなものもあるようでして、
この「大学祝典序曲」を作曲している最中に、「悲劇的序曲」という陰鬱な曲を後世の私達に残してくれたりもしています。
「祝典序曲」というとブラームス以外では
グラズノフ・イベール、チャイコフスキーの祝典序曲「1812年」なども大変印象的ですし、
邦人作品としては廣瀬量平・平井哲三郎の祝典序曲も大変素晴らしいですけど
(廣瀬量平の祝典序曲は後日吹奏楽にアレンジもされていて、全国大会でも演奏されていたりもします)
クラシック音楽・吹奏楽を通じていっちば~ん! 演奏頻度が高くて大人気の曲と言うと、誰が何と言っても
ショスタコーヴィッチの「祝典序曲」作品96ではないかと思います。
ショスタコーヴィッチの祝典序曲は1970年代から既に吹奏楽コンクールの自由曲としては定番中の定番の曲となっていて、
たくさんのチームによる吹奏楽版の名演がお披露目されています。

ショスタコーヴイッチの祝典序曲は、ともすれば深刻・悲愴感・重厚長大・悲劇的・政治とスターリンに生涯振り回された
悲劇の作曲家・本音と建前の二重言語を駆使したような難解な作品も多い中で、
例外的に明るく、どこまでも底抜けに楽しく進展し、開放感満点の素晴らしい小品だと思います。
演奏時間は大体7分前後ぐらいですけど、指揮者によっては6分を切るスピード感満点の解釈もあるようです。

ショスタコーヴィッチは、その生涯で二度ほど政治的にやばい状況を迎えます。
当時のソ連体制においては、国家権力によって睨まれたり、監視の対象になってしまうというやばい状況とはこれすなわち、
自身の処刑・シベリア流刑・強制収容所送り・秘密警察からの突然の連行などを意味しますし、
ショスタコーヴィッチ自身、1930年代には一時期本当に自分自身が逮捕されるという想定をして身辺整理をしていたことも
あるようですので、本当に相当やばい状況だったのかもしれないです。

本来、音楽とは作曲家の自由意思というか、自分はこのように感じたからこうした曲を作りたいという事が尊重されるのは
当然の事なのですけど、当時の共産党一党独裁のソ連にはそうした自由は無く、
「人民が喜びそうな外面的効果の高い音楽」を量産する事を求められ、自身の内面を描くといった抽象的な音楽は、
国家権力によって敬遠され、ひたすら外面的に明るい音楽を作曲する事が求められていました。
自由な音楽を求めてソ連体制を嫌って祖国からの亡命を求めたのがストラヴィンスキーとかプロコフィエフやラフマニノフでも
ありました。
ショスタコーヴィッチ自身は律儀にも祖国愛が強いのか、面倒な事を嫌ったのか、家族の反対にあったかは
よく分かりませんけど、生涯一度も亡命する事もなくその生涯をソ連体制の中で生き続け、
その生涯をソ連の中で閉じた方なのです。
本当は、マーラーみたいな音楽を書きたかった欲求もあったのかもしれませんけど、
時に自分の内面に忠実な作品を書き、それが国家からの批判を招き、その反動として外面効果が高い分かり易い曲を
反省作品として残すという御用作曲家みたいな面を持つという本当に苦労が絶えない人だったと思います。

やばい状況の内の一回目は、交響曲第4番やバレエ「明るい小川」を作曲していた頃の話です。
これらの音楽が「抽象的で訳がわからん」という事で睨まれ、その代償として作曲されたのが、
ショスタコーヴィッチの代表作、交響曲第5番「革命」というのも何だか皮肉なものを感じたりもします。
そしてやばい二回目は、第二次世界大戦終了後に、戦争勝利記念作として発表された交響曲第9番が要因だったりもします。
スターリンにとっては、「戦勝記念の交響曲は特別な存在であるべきである! なぜなら我々は戦勝国だからである。
祝祭的な交響曲は、合唱などを入れ大規模に国家の勝利を讃える必要がある」などと思ったかどうかはよく分かりませんが、
そうした気持ちは幾分は持っていたのかもしれません。
ショスタコーヴィッチの交響曲第9番が、合唱もスターリンを称える歌詞も何もなく、演奏時間も25分程度と短く、
その内容が表面的には軽快で洒落っ気に溢れたものであった事にスターリンは激怒し、
「俺の顔を潰しやがって」みたいな気持はどこかにあったかもしれません。
そして二回目のやばい状況を迎えてしまい、ソ連の公的新聞機関のプラウダを通して、名指しの批判を食らってしまいます。
ショスタコーヴィッチはこの危機に対しては、オラトリオ「森の歌」で大衆迎合用の分かり易い曲を提出し難を逃れています。
ちなみの「森の歌」の初版の歌詞のラストは「スターリン万歳!」との事です。
(スターリンの死後削除されています)

こういう状況の下、結果的にスターリンは1953年に逝去します。

スターリン死亡の翌年に、祝典序曲作品96が作曲されます。
この曲は、一応表面上は革命37周年記念とかボルガ=ドン運河竣工記念という名目で書き上げられていますけど、
これって少しおかしいようにも感じます。
革命37周年は中途半端な数字ですし、運河が完成したのは、祝典序曲作曲の2年か3年前の少し古い話でもあったりします。

うがった見方をすると、スターリンの死自体がショスタコーヴィッチにとっては「祝典」みたいな出来事だったのかもしれないです。
スターリンの死がショスタコーヴィッチにとってもソ連人民にとっても「祝典」である事をほのめかしたかったようにも
感じられたりもします。
同様なことは交響曲第10番にもいえそうです。
第一楽章から第三楽章までは陰気な雰囲気がぷんぷんなのですけど、第四楽章の中盤から唐突に明るい幸福感に
満ちた印象に激変します。
人間の死と言うのは本来悲しむべきことであるのに、スターリンという独裁者が死なないとソ連国民全体の幸福がやってこない
いう国家的な皮肉を謳い上げたようにもついつい聞こえてしまいます。

祝典序曲なのですけど、そうした曲の背景はいったん置いておいて、この曲の構成自体はとてもシンプルで
冒頭の金管による健康的な明るいファンファーレが華麗に吹奏され、ラスト近くのこの冒頭のファンファーレの再現に向けて
全楽器が燃え立つように突進するというシンプル イズ ベストを絵に描いたような作品だと思います。
冒頭のファンファーレの後すぐに出てくるクラリネットのソロが流麗で実に素晴らしいです。
ラストのファンファーレの再現部分で、バンダという金管別働隊も加わり華麗に曲は閉じられます。

曲の背景は何か面倒なものがありそうだけど、曲そのものはいたったシンプルで明るく楽しい曲という
ショスタコーヴィッチ自身の矛盾を立証したような作品と言えるのかもしれないです。

交響曲第4番・8番・10番とかチェロ協奏曲第2番とかヴァイオリン協奏曲第1番などのような
ショスタコーヴィッチの曲の中でも重苦しい曲を聴いた後で祝典序曲・ジャズ組曲とかバレエ音楽「ボルト―」とか
編曲作品ですけど「二人でお茶を」みたいな軽妙な曲を聴いてしまうと、
「本当に交響曲第4番を書いた方と祝典序曲を書いた人は同一人物なのか!?」と心の底から感じてしまいそうです。
人間の心の多様性とか「人は決して一つの感情だけで動くものではない」という事をショスタコーヴィッチ自身が生涯を
かけてその作品群を通して世に問うたとも換言できるのかもしれないです。
ショスタコーヴィイッチのこうした明るく軽い曲と深刻で悲劇的な曲を書けてしまう二面性は
高校の頃には既に何となく気が付いていました。
この事を吹奏楽部の同期で同じくクラリネットを吹いている奴に話してみると、
「それは中島みゆきも同じ、あんなジメジメと陰々滅々とした曲を書いてしまう人か、オールナイトニッポンのDJでは、
あんなに弾け飛んでしまうのだからな」といかにも中島みゆきファンらしいコメントを発していたのが印象に残っていますし、
意外とショスタコーヴィイッチの本質を突いているのかもしれないです。

ショスタコーヴィッチの「祝典序曲」はハンスバーガーによって吹奏楽用にもアレンジされ
現在でも吹奏楽コンクールの自由曲として演奏され続けています。
吹奏楽コンクールにおけるこの曲の名演として、1983年の白子ウィンドオーケストラや1989年の富山商業は強く推したいです。
やりたい放題のとんでもない珍演だけど、とてつもなく個性豊かな名演として1998年の西宮高校を挙げたいです。
指揮者の吉永陽一先生に、心の底から敬意を表したいですし、あの年の課題曲の「稲穂の波」の独特な間の取り方も
吉永先生の強烈な個性といえそうです。


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ショスタコーヴィッチの「祝典序曲」の最大のポイントであり聴かせどころは冒頭とラスト近くのトランペットによるファンファーレ
だと思うのですけと、
ららマジのトランペット奏者でもある亜里砂・エロイーズ・ボー=ボガードと
トランペットと見た目は大変良く似ているけど、実際は楽器の構造も音色もトランペットとはちょっと異なる楽器のコルネットの
奏者である浅野葉月によるそうした華麗なるファンファーレはぜひ聴いてみたいですね~♪

ららマジの浅野葉月はコルネットを担当している高校2年生のJKさんで、トランペットも兼任しています。

トランペットとコルネットは楽器の構造がまるで違うので、確かに見た目はよく似ているのですけど、
似て非なる楽器と言えそうです。
そして吹奏楽コンクールやプロの管弦楽団の演奏会等でも、部分的にコルネットを使用する場合は、トランペット奏者が
曲の途中で楽器を持ち替えることがほとんどです。
浅野葉月がトランペット兼任という設定は当然という事なのだと思います。

祝典序曲をこの二人による華麗なるファンファーレは相当見映えがしそうですね~♪

ららマジの器楽部におけるトランペットパートは実質的に浅野葉月と亜里砂・E.Bの二人と言えますけど、
浅野葉月は亜里砂・エロイーズ・ボー=ボガード(略して亜里砂・E.B)の隠れファンらしいという事で、浅野葉月にとっては
「あこがれの子と実質的に同じパートなんて大感激・・♪」という感じなのかもしれないです。
ドビュッシーは「映像」(イマージュ)という標題がつけられた曲を計3曲残しています。
そのうち2つはピアノ曲で、最後の映像第三集こそが1912年に作曲された管弦楽のための映像なのです。
「映像」というタイトルはバルトークの「二つの映像」という作品もあったりしますけど、ドビュッシーはピアノ曲も含めて
3作品も「映像」という作品を残している事からも、ドビュッシー自身がいかに「映像」というワードとイメージを大切に
していたのかが窺えると思います。
ちなみにドビュッシーが述べる「映像」というのは、今そこに見えている風景の事ではありません。
それはあくまでドビュッシーが目で見た風景に対してドビュッシーの心がいかにそれを感じ取ったのかという
ドビュッシー自身の心象風景ともいえそうです。
音楽史の中で印象派というくくりもあったりして、それに該当する主な作曲家と言うとドビュッシーとラヴェルが代表的だと
思うのですけど、例えば「スペイン風・祭り・カスタネットがリズミカルに大活躍」という共通項が挙げられる曲と言うと
ドビュッシーは映像~イベリアの街の道と田舎の道、祭りの日の朝、ラヴェルはスペイン狂詩曲~Ⅳ.祭りが挙げられると
思います。
なんとなくですけど、ラヴェルの「祭り」はお祭りに自ら参加して積極的に汗を流すという情熱と南国のけだるさという
動的な感覚もあったりする中で、ドビュッシーの方は、例えば「三つの夜想曲」~Ⅱ.祭りもそうなのですけど、
ドビュッシーが直接参加したお祭りの感覚というのではなくて、「私は自分の心の中でこのようにお祭りをイメージした」という
あくまで心象という心の風景を象っているようにも感じられたりもしますし、同じ印象派というくくりの中でも
意外とドビュッシーとラヴェルが目指していた方向性というものは真逆のモノもありそうなのかもしれないです。

ドビュッシーの映像(第三集~管弦楽のための) は、演奏時間もかなり長くて、全曲を演奏したら35分以上は掛ります。

構成は下記の通りです。

第一曲 ジーグ

第二曲 イベリア ~ Ⅰ.街の道と田舎の道 Ⅱ.夜の香り Ⅲ.祭りの日の朝

第三曲 春のロンド

第一曲から第三曲は、それぞれ違う国の民謡や民族的雰囲気・お国がらを素材にしていますけど、
例えばホルストが「日本組曲」においてお江戸日本橋・五木の子守唄などをそっくりそのまま転用したみたいなことはせず、
民謡等を安易に流用はせず入念に手の込んだ変容や仕掛けを曲の至る所に仕込んでいます。
日本組曲は異国情緒漂う曲と言うのは決して間違いではないと思うのですけど、例えば同じ異国情緒というテーマを
扱いながらも例えばラヴェルの「スペイン狂詩曲」などは、自分のスペインに対する想いをフランス人の感覚から
自己流に昇華したともいえそうなのに対して、ホルストの日本組曲は、そうした異国情緒を特に自分の気持ちに
照らし合わせるという事もなくて、レクチャーされた日本旋律をそっくりそのまんま使用している点がラヴェルとの大きな違いと
言えるのかもしれないです。

ジーグは、オーボエ・ダモーレというオーボエの仲間の楽器が奏でるメロディーと音色は、イギリスの民族楽器の
バッグバイブにちかいものを感じさせてくれていますし、春のロンドはフランス民謡の「もう森にはいかない」をモチーフに
巧みな変容がなされています。
私的には、イギリスをテーマにした「ジーグ」とフランスをテーマにした「春のロンド」よりも、スペインをテーマにした「イベリア」が、
リズム感のノリの良さとだるさが うまくミックスした感じがたまらず、私の中ではドビュッシーの管弦楽のための映像というと
第二曲のイベリアが一番印象的ですし大好きです!
プロの管弦楽団の演奏会においても、映像の全曲をやらないで「イベリア」のみ演奏するというパターンも結構多いと思います。
ちなみにですけど、ジーグもイベリアも春のロンドも作曲時期と初演された時期も楽譜の出版社も実はバラバラで
あったりもします。
イベリアの初演はさぞかし聴衆のウケはよかったのかな・・?と思ったりもするのですけど、実はあまり評判はよくなくて
ほとんどの聴衆はほとんどピンときていなかったというエピソードも意外だったりもします。

「イベリア」はどこがいいかというと全部いいのですが、聴きどころとしては、
①街の道と田舎の道の、ホルンの雄叫びとカスタネットのリズムの歯切れの良さ
②夜の香りのけだるい感じ(印象としては、ラヴェルの「スペイン狂詩曲」のハパネラと似ているような感じもします)
③祭りの日の朝の、「さーてこれから祭りが始まるぞ~!」という高揚感を背景にしながらも、そんなやる気を前面に
 出した感じではなくて、「少しかったるいけど、ま、テキトーにやってみるか・・・」というテキトーさとちゃらんぽらんさが
昇華されているあたりは素晴らしいと感じたりもします。
前述の通り、「祭りの日の朝」はラヴェルの「スペイン狂詩曲」のⅣ.祭りとタイトルはかぶるのですが、
ラヴェルは、情熱系なのに対して、ドビュッシーのちゃらんぽらんさが良く出ているのが両者の違いといえそうです。
街の道と田舎の道におけるカスタネットのリズミカルで情熱的な響きに乗っかる形でのクラリネットのスペインムードの
雰囲気もとてもエキゾチックですし、ホルンの高音域での雄叫びからも情熱の発散を感じさせてくれていると
思います。この曲でのトロンボーンの弱奏でのグリッサンド的な部分はなんだかムード歌謡みたいなけだるさも感じさせて
くれていると思いますし、全体的には南国のおおらかさに満ち溢れていると思います。
夜の香りのある種の官能的雰囲気はエキゾチックな雰囲気だと思います。そしてこの記事を書いている時に
「夜の香り」というのを何度か「嫁の香り」と打ち間違いをしてしまった私ですけど、嫁でも夜でもその香りはやっぱり
ある意味官能的なのかもしれないです。
夜の香りが終わりに近づくとチャイムの響きが清楚に響いてきますけど、あれはいかにも夜明けという感じが漂います。
そしてチャイムのカンコンという響きと共に祭りの日の朝が開始されますけど、街の道と田舎の道と同様に
クラリネットの高音の甲高い響きが期待感とおどけたような楽しさをあますところなく伝えていると思います。
シロフォーンの響きも生き生きとしていますし、ラスト近くのトロンボーンのグリッサンドの響きもとても心地よいと思います。

イベリアをCDで聴く場合は、個人的には、プレヴィン指揮の演奏がとても印象に残っています。

生演奏においては、井上道義指揮日本フィルの演奏では面白い試みがあり、
ジーグが終わると、演奏者は一旦立ち上がり、演奏曲目終了 イベリアが終わると・・・以下同文の
繰り返しで、指揮者としては、「この三曲は別物」という事をアピールしたかったのではないかと考えたりもしました。

イベリアはなんとなくですけど、「夏の暑い日にプールで水遊びを楽しみ、少し疲れたら、コーラを飲みながらイベリアの
夜の香りと祭りの日の朝のけだるさを楽しみつつ、この曲をBGMにしてウトウトと昼寝が出来れば最高の幸せなのかも~!?」と
感じたこともあったりしたものでした。

「イベリア」で使用される打楽器(特にカスタネット・シロフォーン・チャイム)は響かせ方が名人芸的に大変巧みに
書かれていますので非常に色彩的で効果的です。
それにしても祭りの日の朝のけだるさは、祭りと言う情熱というよりも
「朝日がなんだか眩しくて今日も一日かったるいよね~」とか「今日はお祭りか・・楽しそうだけど参加するのは
なんだか面倒くさそう・・」とか「遠くからそっと見学できればそれで十分なのかも・・?」というなんだか怠け者のの祭りの楽しみ方
みたいな要素も詰まっているようにも感じたりもします。
「三つの夜想曲」~Ⅱ.祭りは、中間部においてミュートを付けたトランペットによる音の遠近感の処理が大変巧みで、
「祭りのお神輿とか行列が近づいてくる・・」という雰囲気を見事に音楽として表現していると思いますけど、
イベリアの「祭りの日の朝」のクラリネットによるおどけたようなメロディーもそうした音の遠近感に近いような感覚も
あったりします。


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イベリアのⅠとⅢにおいてはクラリネットがソロとして大変重要な役割を果たしていると思います。

生き生きとした感じとスペインの南国のおおらかさがクラリネットの甲高い響きからよく伝わってきていると感じられます。

ららマジ器楽部によるイベリアのおおらかなスペインの響きも是非聴いてみたいですけど、クラリネット奏者の綾瀬凛が
奏でるイベリアのⅠとⅢの生き生きとしたソロも是非聴いてみたいものです~♪

綾瀬凛はなんとなくいつも怒っているみたいなイメージもありそうですけど、ソロを奏でる時には楽しそうな笑顔に
なるのかもしれないです。





クラシック音楽でカスタネットが使用された楽曲はたくさんあるのですけど、スペインの作曲家や
フランスやロシア等のスペイン以外の作曲家がスペインに憧れと敬意の気持ちを有してスペインを感覚的にイメージして
作られた曲が多いです。

カスタネットは木製の打楽器で、体鳴楽器に分類される打楽器の一つです。
スペインで特に発達した楽器であり、スペインの民族音楽に欠かすことはできない楽器であり、
スペインの舞踊フラメンコにおいては、今現在も踊り手にとっては必要不可欠な楽器でもあります。
カスタネットの情熱的なリズムの刻みは心地よいですし、あの躍動感は素晴らしいです~♪ あのカタカタと小気味よいリズムを
耳にしただけで既に気分は南欧気分になりそうです。
カスタネットは、手のひらに納まるくらいの丸い貝型の木片を2枚合わせ、これを打ち合わせることによって音を出す楽器
なのですけど、端にひもを通してつなげ、このひもに親指を通して楽器を保持したり2枚の開き具合を調整しますし、
基本的には音程がわずかに異なる二つのカスタネットを右手と左手の両方に持ち、一般的には音程が高い方のカスタネットを
右手に持つことがスタンタードです。

ららマジでカスタネットを担当しているのは奥村映という中性的な雰囲気の高校2年生のJKさんですけど、
カスタネットを使ったフラメンコが特技で、カスタネットの手入れも欠かさず行うとの事です。
ららマジの打楽器パートのトライアングル奏者はかなりの不思議ちゃんの女の子なのですけど、奥村映も少しそうした
不思議ちゃんみたいな雰囲気も無くはなく、どちらかというと男性的でもないし女の子そのものという感じでもないし、
少し不思議な中性的な女の子という印象もあったりします。
少しだけ鈍感な性格というのも、不思議ちゃん系としての浮世離れした性格の為せる業なのかもしれないです。

食べることも大好きで意外と大食い・・?という設定も大変面白いですけど、大食いキャラで少しミステリアスで
中性的な雰囲気を有するJKさんというと思い出すのは「ラーメン大好き小泉さん」の小泉さんなのですけど、
確かにあの二人はどことなくですけど雰囲気が似ているようにも感じられそうですね~♪
一つ後の記事もドビュッシーの管弦楽曲の映像~イベリアを取り上げておりますので、本記事では統一する意味で
同じくクロード・ドビュッシーの「小組曲」について少しばかり触れてみたいと思います。

ドビュッシーの「小組曲」はとても繊細で美しい曲で、Ⅰの小舟にては、ハープの伴奏にのったフルートの響きが
大変印象的で 以前CMでも使用されていました。
この小組曲は、交響組曲「春」やスコットランド風行進曲などと共にドビュッシーにとっては比較的初期の頃の作品なので
後年の海・映像・遊戯・歌劇「ぺリアスとメリザント」などのような大作ではないですけど、
わかりやすく親しみやすい雰囲気はよく伝わってきていると思います。
演奏時間も14分程度と短く、 プロの管弦楽団の「オールドビュッシープログラム」だと
第一曲目は、「牧神の午後への前奏曲」かこの「小組曲」が組まれる事が多いような気もします。

ドビュッシーの「小組曲」の元のオリジナル曲は四手のためのピアノ曲なのですけど、
ピアノ曲としてはほとんど注目されていなかったのですが、後年ピュッセルが管弦楽用にアレンジして以降急速に人気がでて、
この曲の演奏頻度も急速に高くなっていったようです。
ピュッセルのアレンジは大変巧妙でドビュッシーのエッセンスを心得ているので、まるでドビュッシー本人が
オーケストレーションしたかのような印象すらあります。
第一曲の小舟にてのフルートソロが示唆する通り木管楽器の使い方が絶妙だと思います。
デリケートで繊細な響きの中にドビュッシーの意図するナイーブさも秘められていて、アレンジの巧みさによって
元のピアノ曲が元々有していた魅力を更にスケールアップしているようにも感じられます。

この曲は以下の四つから構成されています。

Ⅰ.小舟にて

Ⅱ.行列

Ⅲ.メヌエット

Ⅳ.バレエ

Ⅰの小舟にては、冒頭から展開されるハープのアルペッジョにのったフルートソロが大変魅力的です。
印象としては夢見る乙女という感じもします。
Ⅱの行列は軽やかな行列という印象ですけど実は4曲の中では一番盛り上がる曲想でもあります。
ⅢはⅡとは対照的に古風な舞曲という印象です。
Ⅳはとても軽快で、タンバリンが小気味良いリズムを終始奏でているのが印象的です。

この曲は1986年頃、当時読響の常任指揮者だった三石精一さんの指揮の読響の東京厚生年金会館で開催された
名曲コンサートで初めて管弦楽作品として聴いたのが最初だったと思います。
この小組曲とラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲とドヴォルザークの交響曲第8番のプログラムが組まれていたと記憶
しています。
当時読響の名曲コンサート時の会場だった新宿の東京厚生年金会館は現在では既に解体されて
別の建物が建っていますけど、こういうところにも時代の変遷が感じられます。
当時の東京厚生年金会館も相当老朽化していましたけど、それよりももっと老朽化が進行している様な
新宿文化センターがいまだに現役ホールとして稼動しているのもある意味凄い話だと思います。

ドビュッシーの小組曲は吹奏楽にもアレンジされていて、全国大会でも2019年末時点で計5回自由曲として演奏されています。
吹奏楽でこの曲を演奏すると、実は違和感も感じたりもします。
というのも、ピュッセルのアレンジ管弦楽版の金管楽器はトロンボーン・チューバを外しているのに
吹奏楽アレンジ版には、この楽器を加えている他にユーフォニウムまで付け足していますので
厚化粧みたいな雰囲気もありますし、そのせいか吹奏楽でこの曲を演奏すると意外と分厚い響きになってしまい野暮ったく
聴こえがちでもあります。
管楽器だけの響きだとどうしてもデリケートな響きの再現はかなり制約がありそうな印象もあります。
1986年の東海大学第四高校は、その点はかなり考慮された演奏になっていますし、Ⅰの小舟にてのよく考えられた響きと
コントラバスクラを効果的に使用した響きはこの曲の吹奏楽アレンジ版としては一つの理想ともいえそうです。

この曲の吹奏楽アレンジ版としての全国大会初演は1979年の弘前南高校吹奏楽部でありますけど、
弘前南の演奏に関しては、BJ(バンドジャーナル)を読む限りでは、いわゆる音楽評論家と呼ばれる方でも
評価は真っ二つに分かれていて、音楽の専門家であっても感じ方は千差万別ですし、
コンクールでの評価というものは必ずしも絶対的なものではないんだな・・いう事を改めて感じたものです。

 例

 吉田友紀氏

 「聴いた感じでは、アンセルメ指揮の演奏に近い線を出している。
 ドビュッシーの音楽らしい雰囲気を再現していて、編曲・演奏共に立派である」

 上野晃氏

 「感覚のデリカシーはいずこへ、とても音色のディストリビューションまで手が回らずバランスを失ってしまった。
 分相応な指揮者の高望みから起きた破綻である」

私の感想としては吉田氏の方が全然的を得ていると思います。

弘前南の小組曲は私自身は大変デリケートな演奏で音色とパートバランスにも十分すぎるほど配慮されている演奏だと
思いますし、課題曲の「フェリスタス」における元気で溌剌とした明るい響きとの対照性も見事に表現されていると
感じられます。

管弦楽版としてはこの曲の名演は色々とありますけど、私的には
少し録音は古いけど、マルティノン指揮/フランス国立管弦楽団が素晴らしいですね。


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小組曲の最大の聴きどころはⅠの冒頭のフルートソロとハーブとの絡みだと思います。

そして小組曲の冒頭フルートソロは美少女が奏でるのが理想的だと思います。

そうした意味ではららマジのフルート奏者の結城菜々美はうってつけといえそうです!

結城菜々美は「ど根性で乗り切るぞ!期待の新人!」というのが売りのふわふわ熱血少女です~♪

明るく素直で、誰とでも仲良くなれるタイプで、根性さえあれば何でもできると考えている熱血系根性論者でもあり、
ときに無鉄砲な行動に出ることも多々あります。
音楽家の両親の影響で物心つく前からフルートに触れており、幼少期から数々のコンサートで最優秀賞を総なめ状態で
周囲から神童と呼ばれていましたけど、とある出来事により挫折してしまう過去の傷もあったりします。

根性論者、肉好き、運動神経抜群という側面と見た目のふわふわ~っとしたかわいらしさのギャップが
結城菜々美の際だの魅力なのかもしれないです。
灰色のニーハイを常に着用していて、ららマジの中ではすてきな絶対領域の持ち主であるのも大変素晴らしいですね~♪

フルートの結城菜々美は、チェロの阿達悠花、胡弓の有栖川 翼、グロッケンシュピールの神代 結菜、箏の橋本 ひかりと並ぶ
ららマジ屈指の美少女の一角だと思います~♪
(というか、ららマジに出てくるJCさん・JKさんはみんなとってもかわいいですよね~♪)


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チャイコフスキーのバレエ音楽と言うと、白鳥の湖とくるみ割り人形が抜きん出て有名なのかもしれないですけど、
私自身はチャイコフスキーの三大バレエというといっちば~ん!に大好きなのは「眠れる森の美女」です~♪
後述しますけど「眠りの森の美女」はバレエの上演時間は原作通りの音楽をまともにやると三時間でも終わりそうにも
ないくらいとてつもなく長く、初演時ですら原曲のバレエ音楽を部分的にカットしたくらいあまりにも長くて、
部分的に冗長すぎる場面もあったりしますので、「眠れる森の美女」の音楽をコンパクトにおいしい場面のみをピックアップして
聴きたい場合は組曲版をお楽しみ頂ければと思います。
この組曲版は5曲から構成されていますけど、全ての音楽が素晴らしいです!
特にⅠの序奏とリラの精、Ⅱのバラのアダージョが個人的には大好きですけど、Ⅴのワルツもいかにも「踊りのワルツ」という
雰囲気に溢れていて、あのワルツを聴くとなんだか無性に踊りたくなってしまうのは極めて自然なものがあるのかも
しれないです。

チャイコフスキーのバレエ組曲「眠れる森の美女」 は吹奏楽にもアレンジされていて、全国大会でも何度となく自由曲として
演奏されていますけど、白鳥の湖と違ってこの曲の吹奏楽版の名演はなかなか現れないですね・・
95年の兵庫高校・98年の亜細亜大学・2000年の米沢吹奏楽愛好会の演奏は、組曲版からの抜粋ではなくて
原曲の長大なバレエ音楽からの抜粋という事もあり、音楽上の構成や盛り上がりが一体どこにあるのか・・?という疑問が
私自身の中にも感じる点が多々あり、聴いていてもあまり面白さは感じませんでした。
2000年の全国大会で上野の東京文化会館で聴いた米沢吹奏楽愛好会の演奏は、率直に言うと音楽も音色もサウンドも
ぼやけていて靄が差し込めたような演奏で、生で聴いていた私自身も「この演奏はちょっと・・多分銅賞でしょ・・」と思っていたら
評価はまさかの金賞で「なんという甘い金賞・・この演奏のどこが金賞なのか全く理解できない・・この演奏を金賞にするなら
同じく東北代表の大曲のアンティフォナーレの方がよっぽと金賞に相応しい演奏じゃん・・」と当時はブーたれていたものでした。
組曲版の演奏としては、87年の中村学園の演奏が良い意味でも悪い意味でも印象的です。
結果的にこの演奏は松澤先生にとって最後の中村学園を率いての普門館になりましたけど、まるで1960年代に逆戻り
したかのような音量過剰と中村学園初登場時を思い出させるあのベタベタ演奏は、聴いていても
「これはかなり評価が分かれる演奏で、迫力と大音量が大好きな方にとっては大歓迎の演奏かもしれないけど、
チャイコフスキーらしいファンタジーを求める人にとっては聴いていてあまりにも痛すぎる演奏」と感じたものでした。
実際当時の審査結果もA評価の審査員と最低のEランクの審査員と評価は大きく分かれてしまい、結果的には銅賞という
評価になりましたけど、私自身も「銅賞は仕方ないよね・・」と感じたものでした。やはりあの演奏は今現在の視点で聴いても
特にバラのアダージョの許容範疇を超えた音量のオーバーブローは耳に痛すぎです・・

バレエ「眠れる森の美女」は以前N響でバレエのハイライト版を聴いたことがありますけど、美しくて洗練された音楽
なのですけど、やはり「ちょっといくらなんでも長すぎるし飽きる・・」と感じましたし、チャイコフスキーの元々のバレエの原曲も
3時間を悠に超えるあまりにも冗漫な音楽ですので、やっぱりこのバレエは5曲からなる管弦楽組曲版を聴くのが
無難なのかもしれないです。
(但しバレエとしての本質を知るためには原曲版を聴く必要はあるかとは思います)

そしてこの「眠れる森の美女」にはピアノ連弾版というものも出版されているのですね~♪

チャイコフスキーのバレエ組曲「眠れる森の美女」~Ⅱ.バラのアダージョ Ⅴ.ワルツの二曲のピアノ連弾版が
2014年のアニメ作品ですけど「四月は君の嘘」の第18話「心重ねる」の中でも登場していて、特にワルツの躍動感が
素晴らしくて、あの場面はなんだか無性に踊りたくなったり思わず指揮棒を手にして指揮したくなりそうな楽しい雰囲気に
溢れていたのが大変印象的でした~♪


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「四月は君の嘘」について語りだすと、とてもじゃないですけど一度や二度の記事では終わりそうにもないですので、
ここでは第18話のピアノ連弾についてのみ簡単に触れたいと思います。

音楽学校の胡桃ヶ丘中学校の一年生である凪に「間もなく開催される学園祭に、自分もピアノ連弾という形で
出演させてほしい」と依頼をした有馬公正ですけど、そこに秘められた意図として
「自分の演奏をかをりに届けたい」というものがありました。
一方凪は凪で、ピアニストとしては大先輩でもあり現在は一応はピアノの師匠でもある公正から何かを吸収したいという
想いもありますし、自分の演奏をやはりピアニストでもある兄に聴いてほしいし、現在はスランプ状態に陥っている兄に
何かを伝えたいという意図もあったと思います。
想いを胸に二人はステージに上がります。演奏自体は無難に練習通りスタートします。
しかし主に伴奏とリズムと副旋律を担当するサブであるはずの公生は練習時とはうって変わり、
異常に早いテンポと張りつめた雰囲気の演奏をわざと意図的に仕掛けてきて凪にプレッシャーをかけてきます。
しかし凪も負けてはいません!
公生に負けじと喰らいつき、壮絶な演奏がライブ感覚で展開されていきます。

凪 : (何考えてんのよ?サポートのあんたが何で私にがんがんプレッシャーかけてくんのよ!)

凪 : (嘘つき 詐欺師 バカ。練習と全然違うじゃん!リズムもひりつくような雰囲気も何もかも!)

凪 : (私はみんなみたいにプロになる憧れも音楽に全てを捧げる覚悟もないけど)
     (聞いてくれる人たちがいる。聞かせたい人たちがいる)

凪 : (弾く理由なんて今はそれでいいじゃん)

アニメ版の凪と公正のピアノ連弾は聴いているだけで楽しさ・躍動感・音楽の喜びが伝わってきました~♪
練習とは全然異なるテンポ設定や解釈をあえて本番にぶっつけ本番的に仕掛けてくる指揮者・ピアニストもいますし、
そうしたある意味極限状態の時こそ、指揮者もソリストも管弦楽の団員も一人一人に対して「極限状態での人の本能」が
出てくるのかもしれないですし、音楽家の生き様や個性が如実に表れていくものなのかもしれないです。
例えば、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番のアバド指揮・アルゲリッチがピアノソリストのライブ演奏においては、
指揮者もソリストも「やられたらやりかえす!」みたいな一触即発の音楽としてのバトルが展開されていき、とんでもない
劇的な迫力と気迫を生み出していますし、あの演奏は本来三楽章構成で35~38分程度掛かる演奏時間をなんと
30分を切ってしまう超絶スビートで駆け抜けていったりしたものでした!

凪と公正の眠れる森の美女のピアノ連弾もそうした音楽としての一触即発といった危険性をはらみながらも、その危険性が
「のびのびと自由に楽しく演奏している」という作用にいったのがよかったと思いますし、あのピアノ連弾は
聴いていてもわくわくさせられるものがありました~♪

ただ、指揮者とソリストが暴走してしまい取り残される形になったオーケストラの奏者たちにとってはたまったもんじゃない・・
という感じにはなりそうです。
プロの管弦楽団の演奏会の協奏曲の演奏において、聴衆からのウケは大変いいのに、演奏終了後になぜか醒めて
しらけ切っているバックの団員たちの姿が見られるのは、本番前の練習とは異なる演奏をした指揮者とソリストに対する
ささやかな抗議なのかもしれないです・・

さてさて、公正が本番中に仕掛けた理由というものは別にあったりもします・・

それはこの文化祭でのライブ配信を聴いているはずの、現在は病床にいるかをりに凪と公正のピアノ連弾をあえて
聴かせることで、病状の悪化により大好きなヴァイオリンを弾くことすらままならないかをりに再度音楽をあきらめないで
ほしいというメッセージを伝えるためでもありました。

このピアノ連弾後の病院でのかをりと公正の二人の会話も大変印象的です。

かをり : バイオリンの弾けないバイオリニストにこんなの聞かせるなんて

公正 : 未練が生まれたのは君のせいだ

公正 : だからもう一度チャンスを下さい。君と肩を並べるチャンスを下さい

公正 : もう一度僕と一緒に弾いてください

かをりの心の声 : (君はまた枯れた心に水をくれるのね)

「四月は君の嘘」はあまりにも哀しくてせつない話であり、かをりは結局は道半ばでわずか15歳の早すぎる死を迎え、
見ているだけでいたたまれない作品でもありますし、序盤の公正のぐすぐずぶりや、
かをりのあまりにも自由奔放すぎる言動や、公正とは隣の家同士の幼馴染であり、弟のような存在だった公生に対し、
次第に特別な感情を抱きはじめる椿の揺れ動く乙女心のいたたまれない甘酸っぱさなど、
正直2014年にこの作品を見ていた際は何度も何度も「もう視聴するのやめよう・・」と思っていたほどですけど、
第18話「心重ねる」の凪と公正のピアノ連弾があまりにも素晴らしかったもので、結局最終回まで視聴してしまった
ほどでもありました!


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改めてですけど「四月は君の嘘」について簡単に触れさせて頂きたいと思います。

「世界的なピアニストになるのが夢」だった母親の意志を継ぎ幼少期からピアノを始め、数々のコンクールで優勝するほどの
腕前をもっていた公生でしたけど、その母親のあまりにも厳しすぎる指導に音楽そのものに抵抗感を感じ始め、
自らの死期が近いと悟っていた母親の指導がむしろ虐待にすら近くなっていた頃のある日のコンクールで公正はついに
爆発してしまい「自分はお母さんに褒められたい一心で演奏していたんだ・・それなのに・・
お前なんか今すぐ死んでしまえばいいんだ!」と母親に生まれて初めて反抗をしてしまいます。
そしてその数日後に母親はこの世を去ります。
この出来事は公正にとって大きなトラウマになってしまい、ピアノの音が聞こえなくなってしまい、
それ以降コンクールはおろかピアノからも遠ざかっていきました。

そうしたとある春のある日に公正はヴァイオリニストの中学生のかをりに出会います。
公生にかをりは、ピアノから逃げているだけだと指摘し、自分のヴァイオリン演奏を観てもらったり、
コンクールに出場する機会を与えるなどしてなんとか公生にもう一度ピアノを弾いてもらおうと画策します。
そんな一生懸命なかをりに公生は次第に惹かれていきます。

かをりが公生に近づいたのは自身の病気が原因でした。自身の命が残り少ないことを知り、
やりたい事を実践しようと公生に近づき、ピアノを弾いてもらおうとしたのです。
物語が進むにつれかをりの病状も悪化していき、ヴァイオリン演奏語に倒れて再入院してしまいます。

そうした中でかをりが耳にしたのが上記の凪と公正のピアノ連弾でした。

その演奏が大きなきっかけともなり、かをりは自身の病気に諦めず治療のため手術を行うことを決意します。
公生は手術の日と同日にあるコンクールに意を決して出場し、
公生は母親とのトラウマから解放され見事演奏は成功し拍手喝采を浴びます。

しかしその手術の最中にかをりは帰らぬ人になってしまいます。

かをりを苦しめ命を奪った病気の正体は最後まで明かされませんでしたけど、おそらくは白血病と推察されます。

亡くなってしまったかをりですが、生前に公生宛の手紙を書いていました。そこにはかをりの今までの想いが綴られていました。

かをりは最初、公正の友人の渡が好きで協力して欲しいと公生に近づきました。
しかしそれは嘘であり、元々小学校の頃からコンクールなどで公生の存在を知っていたかをりは、
最初から渡ではなく公生のことが好きだったのです。
かをりは元々ピアノを演奏していましたが、公生にピアノ伴奏をしてもらい共にステージに立ちたいという理由で、
ヴァイオリニストに転向していたという過去がありました。

手紙には昔偶然一緒になった写真が同封されており、この写真を大事にしていたという事から、
かをりがいかに公生の事を思っていたのかが分かります。
とにかくせつなくて特に序盤の母親からの呪縛や最終回でのかをりの手紙のシーンなどは涙なしにはみられない
作品だと思います。


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凪はとってもかわいいですね~♪

ちょっとツンデレ風でもありますし、金髪ツインテもとてもかわいかったです!

「四月は君の嘘」の登場人物たちはみんな見ているだけでつらそうな設定のオンパレードですけど、凪の存在によって
だいぶ救われていたようにも感じられそうです。

バレエ「眠れる森の美女」はとてつもなく長くて、現在でも完全ノーカット版で上演される事はあまりないように思います。
各バレエ団の解釈&演出によって部分的なカット&編集がなされています。
ディアギレフがこのバレエを上演しようと企画した際は、そのあまりの長さを懸念し全幕のハイライトシーンをうまく集めた
一幕もののバレエとして企画しタイトルも「オーロラ姫の結婚」というタイトルに変更されていたりもします。

このバレエは、かなりメジャーですのでストーリーも結構知られてはいると思いますし、ディズニー映画としても親しまれていると
思います。

一応簡単に記しておくと・・・・

ある王様の、誕生したばかりの娘の命名式の際に、自分がその式に呼ばれていなかったことに立腹した
悪の精・カラボックスから「姫はやがて糸紡ぎの針を指に刺して死ぬ」と呪いをかけられてしまいますが、
善の精・リラが魔法の杖を持って現れ「カラボックスの呪いを解くことは出来ないが、指刺す事で百年の眠りについてしまう。
だけど一人の王子の愛のキスによって眠りから目覚める」と宣言されます。
そして100年後にすてきな出会いが待ち受けているといったのが大まかな概要です。

このバレエは前述の通りあまりにも長いため、音楽として演奏される場合は、演奏会用組曲版として演奏される事が多いです。

この組曲版は下記の5曲から構成されています。

Ⅰ.序奏とリラの精

Ⅱ.バラのアダージョ

Ⅲ.長靴をはいたネコと白いネコ

Ⅳ.パノラマ

Ⅴ.ワルツ

音楽としての密度は大変濃いと思いますし、特にラストのワルツが素晴らしいと思います。
Ⅰにおいては、冒頭が全楽器と太鼓関係の強打から開始されていきますが、そのクライマックスの場面では、
全楽器が咆哮し、ティンパニ+大太鼓がズドーンと叩き付け、シンバルがソロでガシャーンと鳴り
ドラが凄まじい大音響でドワワワワー―――ンと鳴り響かせています。
Ⅱも大体Ⅰと似たような音楽なのですけど、
Ⅱの場合、最初は弱奏でから開始し、徐々に音量が盛り上がっていき
最後はすさまじい大音量で閉じられます。
Ⅱのpp~fffに至る音楽的ダイナミックスレンジは相当幅広いものがありますね。
Ⅲは、オーボエのつぶやくような感じから開始されていきますが、何となくユーモラスな雰囲気もあったりします。
Ⅳのファンタジー感は素晴らしいですし、うっとりとさせられます。
Ⅴのワルツは、いかにもバレエの大団円みたいな雰囲気の音楽ですね。
個人的にはファゴットの音階を上下していくユニゾンがとても大好きです。

そうそう、これはかなり有名な話ですからご存知の人も多いかとは思いますが、
チャイコフスキーの代名詞とも言えるバレエ音楽「白鳥の湖」は初演は、惨憺たる大失敗に終わっています。
今現在の感覚でこのあまりにも素晴らしい数々のメロディーとかあの優雅な踊り、ドラマティックなストーリーを考えると
「どこに失敗する要素があるのかな?」と感じるのですけど、
白鳥の湖以前のバレエと言うものは「踊り」がメインで、音楽はあくまで添え物という感覚が大変強く、
当時は振付師とか演出家の命令によって作曲家がせっかく作り上げた曲そのものを
カットしたりメロディーラインを変更させられたり、他の曲に差し替えられるというのはかなりの日常茶飯事だったようですね。
それに対してチャイコフスキーはそうした当時のバレエ界の「音楽家冷淡な扱い」という事に異議を唱え、
当時としてはあまりにも革新的な音楽を作り上げたものの、肝心の振付がそうした新しい音楽に付いていけず
新しい感覚の音楽と古い時代の舞踏という大変なギャップが初演の大失敗という事に繋がっていったようです。
その体験からチャイコフスキーはバレエ音楽から足を洗い、この分野での曲は書こうとはしなくなるのでした。
数年後再度バレエ音楽の依頼が舞い込み、当初は頑なに拒否したものの、依頼者の熱い気持ちについつ負けてしまい、
「それならば・・」と思って作られたのがこの「眠れる森の美女」なのです。
チャイコフスキーとしては「白鳥の湖のリベンジ」といった気持ちも多少はあったのかもしれないです。

チャイコフスキーは意外と初演はコケるみたいな雰囲気もあり、白鳥の湖以外でも
例えば、交響曲第5番とかヴァイオリン協奏曲やビアノ協奏曲などは初演は惨憺たる失敗というのも今現在では
信じられないものがありそうです。


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ここから下記はほんのすこしだけ余談です。

当ブログでもたまに2018年の秋アニメの「色づく世界の明日から」について触れさせていただいておりますけど、
その第一話のエンディングシーンにて、くるくると舞うような感じになっている瞳美を見ていた際に、思わず
思い出してしまったのが冒頭の「四月は君の嘘」の第18話の凪と公正のピアノ連弾による「眠れる森の美女」のワルツの
場面でした~♪

あの時の瞳美ちゃんは、眠れる森の美女のヒロインのオーロラ姫に近いようでもあり、あのくるくると待っている様子は
ワルツを踊っているようでもありました~♪

「色が見えない」という事でモノログの世界の中にいる瞳美ちゃんがなぜか葵唯翔の描く絵だけは
カラーに見えるというのもすてきなファンタジーがあると思います。
瞳美がどうしてあの時、ワルツを踊るかのようにクルクル舞っていたのかというと、翔の描く絵を見た際に
久しぶりに色の感覚を取り戻し、モノクロの世界からカラーの色彩の世界を瞬間的に楽しめることができて思わず
小躍りしてしまったということなのだと思います。


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ここから下記はdream fantasy2
アミグリさんが過去に描かれた絵の転載&ご紹介コーナーです。

今回ご紹介させて頂く絵は「色づく世界の明日から」のヒロインの月白瞳美ちゃんです。

アミグリさんの描かれる月白瞳美ちゃんは、とても繊細で神秘的な印象を与える美少女のように感じられます!

まるで東方のさとり様のようにどことなく心、ここにあらずのようなもの寂しげな様子が伝わってきますし、
瞳美が今にも感極まって泣き出しそうな感じさえする「儚くてせつなくて、まるで砂糖菓子のように
ちょっと触れただけで壊れそう・・」といったとてつもなく繊細なものがとてもよく伝わっていると思います。

髪の繊細な描かれ方も素晴らしいですし、
左耳のアズライトの耳飾りも神秘的な雰囲気を高めているようにも感じられます。
ちなみにアミグリさんが描かれた瞳美ちゃんの制服は、2018年時点での南ヶ丘高校の制服ではなくて、
2078年時点の南ヶ丘高校の制服でもあったりします。
同じブレザー制服も祖母の琥珀が着るとやんちゃな雰囲気もあるけど、一応は孫の瞳美ちゃんが着ると
繊細なJKさんという印象を受けたりもします。
(60年後のおばあちゃんになっていた琥珀はいかにも落ち着いた雰囲気の女性になっています・・)
この寂しそうな視線を見るとなんだか見ている私までもがせつなくて甘酸っぱい気持ちにもなったりしますし、
こうやってたった一枚の絵なのですけど、見ている人に色々な感情をきちんと伝えることができている作品を拝見させて
頂くと本当に心の底から内省的な充実感を感じたりもします。

上記のアミグリさんが描かれた瞳美ちゃんは、その権利は全てこの瞳美の絵師様であるアミグリさんに帰するものであり、
当ブログにおける転載とご紹介は事前に全てアミグリさんからご了解を頂いたものであり、
アミグリさんからのご厚意で転載をさせて頂いておりますので、
無断お持ち帰りや無断コピーは絶対NGですので くれぐれも宜しくお願い申し上げます。

アミグリさん、本当にいつもすてきなイラストの転載を快諾して頂きありがとうございます!!

皆様の中で「こんなにもせつなそうな瞳美を描く人のブログってどんなもんなのだろ・・? 」などと興味がある方は、
是非是非アミグリさんのブログdream fantasy2  を ご覧になって頂きたいと思いますし、 宜しければ、当ブログだけではなくて、
是非アミグリさんの本家本元のブログdream fantasy2 に一度お越しして頂けると
アミグリさんのブログをご紹介させて頂いている私もとってもとっても嬉しいです!

アミグリさんが定期的に作品を投稿され続けている →アミグリさんのpixiv にも是非一度足を運んで頂ければ幸いです!

アミグリさんのpixiv
M.イッポリトフ=イヴァーノフの組曲「コーカサスの風景」は、第Ⅳ曲「酋長の行列」はそこそこ有名なのかも
しれないですけど、それ以外の三つの楽章はあまり知られていないと思います。
イッポリトフ=イヴァーノフの組曲「コーカサスの風景」以外に作曲した曲は調べてみるといろいろとあるようですけど、
私自身はコーカサスの風景以外は聴いたことがないです。というかこの組曲自体、全曲が日本のプロのオーケストラの
演奏会で演奏されたことは私自身は聴いたことがないです。
(稀に「酋長の行列」がファミリーコンサートで演奏されることもあるようです)
音楽史的には典型的な「一発屋作曲家」なのかもしれないですけど、後世に受け継がれていく曲を何か一つだけでも
残せたことは作曲者冥利に尽きるのかもしれないです。
ちなみにイッポリトフ=イヴァーノフ はリムスキー・コルサコフの弟子で、1935年まで存命でしたので、
ロシア革命・スターリンの独裁など色々大変な時代を生きていたと思いますが、どちらかというとロシア5人組といった
伝統的なスタイルを継承されていた作曲家&音楽教育家という印象もあります。

組曲「コーカサスの風景」の中の「酋長の行列」は、子供の頃に実家のレコードボックスの中に
「オーマンディ指揮/フィラデルフィア管弦楽団 世界名曲ライブラリー」といったタイトルで
ハンガリー舞曲とか、アルルの女のファランドールの踊りとかフィンランディアとかスケターズワルツとか
ペルシャの市場にて等々の世界各国の小品名曲が収録されているレコードがあり、
「酋長の行列」は、このレコードの中に収録され、子供の頃からこの曲は耳に慣れ親しんでいたような印象もあります。

「酋長」というと、何となくアメリカのインディアンの部族長とか、頭の飾りがすごい部族の親方みたいなイメージがあるのですが、
イヴァーノフの曲のおかげて、私的には酋長というと、アメリカ西部劇のインディアンの部族長というよりも
中央アジアの騎馬民族の親方みたいなイメージの方が強かったです。
ちなみにですけど、イヴァーノフが意識した酋長というのは、中近東諸国の軍総司令官を指すとの事です。

イッポリトフ=イヴァーノフの組曲「コーカサスの風景」 は下記の4曲から構成されています。
演奏時間は大体23~25分くらいですけど、第一楽章だけで10分程度を要し、組曲としてのバランスはちょっと悪いです。

Ⅰ.峡谷にて

Ⅱ.村にて

Ⅲ.モスクにて

Ⅳ.酋長の行列

Ⅰの峡谷にては、大峡谷の雄大な自然の様子が描かれていて、冒頭のホルンが峡谷に響く郵便馬車のラッパのこだまを表し、
弦楽器によるひそやかな響きは小川のせせらぎを感じさせています。
クラリネットで奏でられる民謡風の主題はのどかで平和な雰囲気を感じさせてくれています。
Ⅱの村にては、エキゾチックでミステリアスな雰囲気を漂わせていて、東洋風の音楽というよりは中近東の雰囲気を
感じさせてくれています。コールアングレによる神秘的な響きも大変印象的です。
Ⅲのモスクにては、イスラム寺院での人々の祈りを表現していて、この楽章は木管楽器、ホルンとティンパニだけで演奏され、
弦楽器は使用されません。実質吹奏楽の響きですけど、雰囲気は華やかさよりは祈りの厳かな雰囲気の方が
強いです。オーボエに始まり、楽器を変えながら一つのメロディが単純に繰り返される単調な曲想ですけど、
単純だけでは割り切れない純朴な祈りの素朴さを強く感じます。
そして第Ⅳ曲が酋長の行列なのですが、この楽章だけは俄然盛り上がります。
メロディーラインが恐ろしいほどに単調で、何のひねりも変化もなく素朴そのものな曲なのですけど、
それがまた「シンプルイズベスト」を立証している感じもします。
全体的にピッコロの響きが極めて印象的で、中央アジア的な響きを感じるのですけど、この響きはどことなく
ボロディンの「ダッタン人の踊り」の雰囲気に近いものもありそうです。
ピッコロとファゴットで奏されるメロディがクラリネットの東洋的なメロディと溶け合い賑やかに曲が閉じられます、
それにしても「酋長の行列」は単調さと素朴さの中でもピッコロの響きがとても耳に焼きつきます!
ピッコロの旋律は思わず口ずさんでしまうほど親しみやすいのですけど、
この執拗で素朴な反復が曲自体の自然な盛り上がりに一役買っていると感じられます。

組曲「コーカサスの風景」は、1990年の黒澤明監督の「夢」において第Ⅱ曲の村にてを使用していたり、
はたまた1996年のコナミのゲームの「セクシーパロディウス」最終ステージのBGMとしてⅣの「酋長の行列」が使用されて
いたりもします。
この組曲が作曲されたのは1894年ですけど、当時は既にドビュッシーのような印象派の新しい音楽が登場していたり、
マーラーが交響曲第3番「夏の朝の夢」で100分を超える曲が作られていたり、
R・シュトラウスのような構築美のような音楽が世界各地で作られている中で、こうした素朴な曲が
ひっそりと作られていた事も興味深いものもあります、

組曲「コーカサスの風景」をCDまたはレコードで聴く場合、昔ならばフェドセーエフ指揮/モスクワ放送響の演奏が素晴らしく、
最近ですとグルシェンコ指揮/BBCフィルの素晴らしい演奏が出ています。

全日本吹奏楽コンクールにおいて組曲「コーカサスの風景」は2019年末時点でこれまで全国大会で3回演奏されています。
1997年頃の中学の部で、宮崎県の赤江東中学校がⅠとⅣの組合せで金賞を受賞しています。
97年の演奏は私も普門館で聴いていましたけど、素朴で中学生らしいのびのびとした演奏で大変好感を持ちましたけど、
曲自体は吹奏楽アレンジ版で聴いても「全体的に同じメロディーの反復が多い単調な曲」という印象はありましたけど、
やはりピッコロの響きが結構耳に残ったりもしたものでした。
赤江東中学校は1995年にマスネの組曲「絵のような風景」で全国大会初出場を果たし、この年の演奏も普門館で
聴きましたけど、演奏がたいへんおとなしく地味で単調で控えめな表現に、ちょっと抵抗感がありましたけど、2年後の
普門館は95年の消極性を払拭したのびやかさが感じられ、改めてスクールバンドの短期間の成長を実感させたられた
ものでした。

マニアックなネタですけど、この曲の全国大会初演は大変古くて、1964年の富士製鉄室蘭吹奏楽団の演奏が
吹奏楽コンクールでの初演でもあったりします。





組曲「コーカサスの風景」の酋長の行列のピッコロの東洋風な響きは大変印象的ですけど、
「ららマジ」でのピッコロ奏者はうざかわいい先輩の小田桐アミです~♪

小田切アミはピッコロを担当している3年生のJKさんで、ららマジ器楽部内ではダンサーも兼任しています。

アミは入部当初はシンバル担当だったものの、シンバルは普段はヒマだけど、
曲によってはシンバルの一つのバシャーン!という打撃音の効果で曲の雰囲気を劇的に一変させる事も多々あり、
しかもそれは曲の途中で・・という事で曲の開始から自分の出番がくるまでのあの独特なプレッシャーに耐えきれず、
担当楽器を途中からピッコロに変え、シンバルの後任として自分の後輩でもあり弟子でもある伊藤萌に引き継がせています。

小田桐アミはとにかくおしゃべり大好きのJKさんで、部内では一つのトラブルメーカーみたいな位置づけなのかもしれないです。
あらゆることを楽しむための発想力と行動力は抜群で、常に物事を前向きに楽しもうという発想が行動の基軸となっています。
婿養子の父親以外は家族全員おしゃべりという家庭で生まれ育った事もあり、
周囲からはうざかわいい~♪といわれる事も多いようです。

喜怒哀楽に富み、普段の言動からもかなりの自信家と思われますけど、意外と小心者だったりするなどのギャップも
垣間見せるあたりは萌え要素といえそうですし、最上級生だけどそうは見えない所もポイント高そうですね~♪

髪型は黒髪ツインテールで、制服は上着なし、ネクタイはリボンにアレンジしていて、
ふともも側に赤い二本線の入ったニーハイを着用していたりもします。

小田桐アミの奏でるピッコロによる「酋長の行列」の素朴な味合いも聴いてみたいものですね~♪


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ららマジ器楽部30人のメンバーの中で、トロンボーン奏者兼コンサートマスターの地位にいるのが3年生のお姉さまの
星崎梨花です。

担当楽器はトロンボーンで、器楽部のコンミスを務める完璧超人で、器楽部創立メンバーの一人であったりもします。
武器のトロンボーン型の槍は突いたり切りつけたりするだけでなく小規模な爆風を放つこともできるそうです。

上記の小田桐アミと星崎梨花は同学年で共にららマジ器楽部の創立メンバーであるのですけど、この二人は
考え方も行動様式も極めて対照的というのが大変興味深い所でもあります。


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ららマジは、今年・・2020年がゲーム配信開始から3周年という事で、記念グッズが色々と販売されていて、
3周年記念グッズイラストも取り扱いがされていて、その一つが上記の梨花とアミの二人のイラストです。
そしてこの二人のイラストは何やら喧嘩をしているような感じというのも何かと妄想し甲斐があるようなネタ満載
なのかもしれないです。

アミと梨花は、性格も見た目も考え方も水と油なのかもしれないですし、
アミは音楽を楽しみながらみんなで作り上げていこうという感覚なのかもしれないですし、梨花は指揮者の統率の下、
個と全体の調和を図りながら一つの方針の下に音楽に取り組んでいくという事なのかもしれないです。

言い争いをしているようなアミと梨花は、アミが手にしている楽器が現在のピッコロではなくてシンバルであることを
考えると、ららマジ器楽部創設間もない頃の話で共にまだ1年生の頃の話で、
お互いが相互理解を図れていない頃の話なのかもしれないです。
アミは普段の言動的にふざけているように見えがちなJKさんですが、「楽しく音楽をやりたい」という気持ちは真剣そのもので、
そうした真剣さというのは梨花ともどこかでつながるものはあるのかもしれないです。

そうした二人の心の交流というのが魔法少女服を手に入れた後の二人のきずなの強さにもつながるのかもしれないです。
「人の死」というものを意識させるクラシック音楽は、例えばマーラーの交響曲第9番とかチャイコフスキーの
交響曲第6番「悲愴」やワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」の「神々のたそがれ」~ジークフリートの葬送行進曲や
R.シュトラウスの交響詩「死と変容」などのように古今東西かなりあると思いますし、
そうした「死」の表現としての楽器としては、
悲愴の第四楽章で「死」の象徴としてのドラが静かに不気味に鳴り響くこともありますし、
マーラーの交響曲第6番「悲劇的」~第四楽章のように、ハンマーが「打倒された英雄の死」を視覚的にも聴覚的にも絶大な
インパクトを残す事例もあったりします。

そうした死をモチーフにした管弦楽作品の中でも異彩を放ち、その死のオーケストレーションの巧みさが光る楽曲として
ベルリオーズの幻想交響曲~Ⅳ.断頭台への行進とR.シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
を挙げたいと思います。
この両曲に共通する点として大変興味深いのは、どちらの作品も曲の主人公が死刑に処せられ、その処刑シーンにおいて
断末魔の叫びをあげている楽器として使用されているのがクラリネットである事です。

よく言われる事ですが、ベルリオーズの「幻想交響曲」は音楽史を語る上では、途方もない奇跡的な曲だと感じます。

ベートーヴェン大先生が亡くなって、古典形式が主流の中、そのわずか3年後に幻想交響曲という
現在聴いても先進的な曲が生まれている訳ですのです本当に奇跡としかいいようがないと思います。

ベートーヴェンの時代、和音美とか形式美とか定められた形が尊重されていたと思いますが、
ベルリオーズの幻想の場合、 「自分の感じたままに書く!!それの何が悪い」という感じに形式を超越し、
和音的にも奇怪な響きや不協和音が結構至る所に炸裂しています。
ベルリオーズ以前にも、ベートーヴェンの交響曲第六番「田園」にみられるような標題音楽は色々ありましたが、
自分の妄想や欲望、自己顕示欲をグロテスクなまでに自分の交響曲に取り入れたのは
ベルリオーズが第1号といっても差し支えはないと思います。

この交響曲はあるゆる意味でいろいろと時代を先取りしていると思います。

幻想交響曲~Ⅳ.断頭台への行進は、主人公が夢の中で一方的に恋焦がれ片思いをしていた女性に対して、
嫉妬と独占欲と方向性を間違えた情熱の結果、ついに殺人を犯してしまい、裁判の結果死刑を宣告され、
断頭台へと引きずられていく場面のグロテスクな死への行進といったシーンが描かれていますけど、この楽章の最後で、
幻想交響曲全体を貫いている「恋人の主題」がクラリネットソロによる絶叫音として壮絶に表現されていて、
この絶叫音というものは換言すると「生きることへの執着と未練」を示唆しているのかもしれないです。
だけどこうした生きることへの未練は次の瞬間にオーケストラが狂暴にffで「ギロチンの落下」を表現し、その次の
弦楽器によるピッチカートは首が切り落され、ゴロリと地面に落ちた瞬間がとんでもなくグロテスクに描かれています。
当ブログで何度か、私自身大学での吹奏楽団にて初めて吹奏楽コンクールに出場した時の自由曲が
幻想交響曲~Ⅴ.魔女の夜宴-魔女のロンドと記しましたけど、この年の定期演奏会でも、第五楽章と合わせて
第四楽章の「断頭台への行進」も演奏しましたけど、その際に指揮者から何度も
「この音の場面はギロチンの刃が落ちる瞬間のリアルな描写であり、その次のピッチカート部分は首が斬首されてゴロリと
地面に落ちる瞬間をリアルに描いたもの」と説明され、
「フランス革命で斬首されたマリー・アントワネットの気持ちになって各自の気持ちを表現しなさい」と指揮者から無茶ぶり
されたものですけど、あのピッチカートの部分は実際に演奏してみると、
「あー、これは命が絶たれた瞬間なんだな・・」と実感させられたものです。
そして次の瞬間に二台のスネアドラムによるすさまじいロールが展開され、金管楽器が咆哮するのですけど、あの悪趣味は
さすがベルリオーズの常軌を逸した偏狭ぶりをまざまざと感じたものでした。

参考までにプーランクの歌劇「カルメン会修道女の対話」第三幕第四場においても、そうしたグロテスクなギロチンによる
処刑シーンが描写されています。

R.シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」のラストにおいてもこうした処刑シーンが
音楽として表現されています。

「ティル・オイレンシュピーゲル」というのは、14世紀頃のドイツに実在したとも言われるし単なる架空の人物とも
言われる事もあるその正体については定かでない伝説の奇人なのですけど、
その生涯の数奇な伝説を音楽の物語として「交響詩」という形で単一楽章として18分前後の曲として発表したのが
R.シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」という曲です。

ティル・オイレンシュピゲールは果たして何をやらかしたのかというと、少し性質が悪いとかちょっとやり過ぎみたいな感じも
あるのですけど、全体的にはたわいもない騒ぎと言えそうです。

具体的には・・

1.市場で牛馬を解き放ち、市場を大混乱に陥れる。

2.空飛ぶ靴でトンズラを図る

3.お坊さんの姿に化けてテキトーでいい加減な説法をして廻る。

4.美女を口説くがあっさりと振られる・・・

5.学者たちにテキトー論争を吹っかけ、学者たちを煙に巻きそのまま逃走・・・

そうやって各地をいたずら放浪して散々悪態ついたところで逮捕され、裁判に掛けられ、絞首刑の判決が下り、
そのまま息絶えるといったストーリーを大変巧みな構成力&楽器配分で表現したのがこの交響詩です。

この曲の最大の聴かせどころでもあり最難関の部分は、曲開始早々のホルン奏者によるソロだと思います。
以前、NHK交響楽団のホルン奏者へのインタビューの中で、
「今まで吹いた曲の中で一番プレッシャーが掛った曲は?」という質問と
「今まで吹いた曲の中で技術的に大変しんどくて難しかった曲は・・?」という質問に対して、
このR.シュトラウスのティルを挙げていたのは大変印象的ですし、逆にそれだけ奏者にとっても大変な曲だと思います。
この交響詩が作曲された頃に、 それまでの手締め式ではなくてペダルを足で踏む事で音程をコントロールする
ペダル式ティンパニが発明され世に出ていますけど、
そうしたペダルティンパニを最初に効果的に使用した曲の一つとして
この交響詩や同じくR.シュトラウスの歌劇「エレクトラ」・「バラの騎士」を指摘する見解が多いようです。

さてさて絞首刑判決後に、ベルリオーズの断頭台への行進と同様に公衆の目の前で公開処刑されたティルですけど、
その処刑時のティルの悲鳴というか絶叫音はまたまたクラリネットで表現されています。
クラリネットの吹奏楽コンクールにおけるリードミスの絶叫音は奏者にとっても聴衆にとっても痛い事故なのですけど、
ティルのクラリネットの表現による絶叫音というものは、ティルの後悔とクラリネット奏者のリードミスの怨念が
融合したものなのかもしれないですし、そうしたヒステリックな絶叫音にぴったりと楽器というのは、やはりピッコロよりは
クラリネットによる高音の表現のほうがぴったりなのかもしれないです。
処刑シーンのクラリネットによるティルの断末魔の叫びは計3回奏でられるのですけど、1回目から徐々に音量をpからfへと
上げていき、最後の三回目に至ってはオクターブを高くし、「息絶えた・・」ということを見事に音楽物語として表現していると
思います。
クラリネットのティルの悲鳴を示唆する高音の叫び声は、クラリネットの音域の限界を超えた超高音域のものであり、
クラリネット奏者にとっては無茶振りを超えた作曲者からの死刑宣告なのかもしれないです。

曲のラストでは、冒頭の親しみやすく温和なメロディーが再現されていて、
「ティルは確かに死んだけど、ティルのイタズラ魂は今でも生きている」とか
「ティルは永遠に不滅ですよ、みなさんの心の中に伝説として今後も生き続けていく」みたいな事を暗示しているようにも
感じられたりもします。




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ららマジ器楽部でクラリネットを担当しているのは、後輩にも自分にも厳しい先輩の綾瀬凛ですけど、
断頭台への行進とかティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずらの断末魔のクラリネットによる絶叫音は
綾瀬凛が奏でられたとたら、結構ツボにはいるのかもしれないですね~(♪
怒っている綾瀬凛はいつもの綾瀬凛なのかもしれないですけど、一緒に断頭台の行進などを練習していて
「一体いつになったらまともに吹けるのよ~!」と激怒されているのかもしれないですし、はたまた綾瀬凛自身が
クラリネットのパート譜を見て
「こんな大変な曲まともに吹ける訳ないじゃん!」とご機嫌ナナメになっている時なのかもしれないですし、
いたずらばかりやらかしているティルに対して「ちょっといい加減にしなさいよ~」とまたまた怒られている時なのかも
しれないです。

こうした断末魔の叫びを奏でている綾瀬凛は、東方で例えると地獄の閻魔様の四季映姫様による地獄のお裁きで
「断罪~!!」とか「地獄行き!」の判決を下している時の雰囲気にも似ていそうです。
一つ後の記事がH.ベルリオーズの「幻想交響曲」~Ⅳ.断頭台への行進に関する記事でもありますので、本記事では
幻想交響曲の続編とも言うべき知る人ぞ知る・・というかほとんど演奏もされませんし録音も限られている
「レリオ、生への回帰」に関して少しばかり触れさせて頂きたいと思います。

それにしても改めてですけど「幻想交響曲」の革新性は凄い・・としか言いようがないと思います。
どの点がすごいのかについては一つ後の記事で触れていますので、ここでは割愛させて頂きますけど、
幻想交響曲が作曲された3年前にあの楽聖・ベートーヴェン大先生がご逝去されたという事で、この二人の大作曲家の
活動時期が被っていたとは到底信じられないほど、この二人の作風はあまりにも大胆に異なっていますし、
幻想交響曲を今現在の感覚で聴いても、その革新性と大胆さには驚愕させられるばかりですし、
ベルリオーズの私生活や私情を自作作品に持ち込んだ作風は、むしろ後年のマーラーすらも凌ぐものがあるのかも
しれないです。

チャイコフスキーやフランクというと、循環形式という一つの主題が各楽章に受け継がれていく形式でもお馴染みですけど、
幻想交響曲の場合、曲全体を貫く恋人の主題が各楽章の中で色々変容していっているのが面白い所です。
この恋人の主題は、第四楽章「断頭台への行進」におけるギロチンの刃物が落ちてくる瞬間にも再現されますし、
第五楽章の「魔女の夜宴-魔女のロンド」においては、化け物となった恋人のなれの果てのテーマとして再現されています。

幻想交響曲が作曲されていた頃に使用されていた打楽器は基本的にはティンパニに限られ、
まれにシンバル・大太鼓・トライアングルが入る程度だったのですが、20世紀の打楽器主義を予感させるように、
幻想交響曲においては鐘・小太鼓も使用されていて、ティンパニも第三楽章の嵐の表現では四人の奏者を用いていますし、
第四・第五楽章では常に二人の奏者を用いていますし、第五楽章においては大太鼓も二人の奏者を使っています。
指揮者によっては、第四楽章の小太鼓を二人用いる場合もありますし、
第五楽章の最後のシンバルの打音を二人の奏者を使用する場合もあります。
一つ後の記事でも書いた通り、私自身、吹奏楽コンクールにて幻想交響曲~Ⅴ.魔女の夜宴-魔女のロンドを
演奏したことがありますけど、クラリネットの位置からもティンパニ2台と大太鼓2台の轟音は轟渡ってきていて、
あの迫力は悪趣味で奇怪な響きですけど、打楽器一つとっても時代を先取りした革新性は十分伝わってくるものは
間違いなくあると思います。
第三楽章は、コールアングレとオーボエのソロによる掛け合いが延々と続く訳ですけど、上記で触れた通り最後の方では
ティンパニ奏者を4人も使用し、野原を彷徨う描写の中で、このティンパニは「遠くからの落雷の響き」を演出しています。
一人に付き一台のティンパニーを割り当てていて、A♭・B♭・C・Fの四つの音を4人で叩きだしています。
この場面は音量のダイナミックスレンジも幅広く、pp~fの範囲でクレッシェンド・デクレッシェンドを展開させていて、
指揮者によってはこの場面に関しては、オーボエ奏者を舞台裏に配置させ、舞台裏から吹かせることで
「遠くから響いている・・・」という音の遠近感を演出させている事もあったりします。

冒頭から話がそれました・・話を「レリオ、生への回帰」に戻します。

「幻想交響曲」は姉妹作というか続編みたいな作品が存在し、それが叙情独白劇「レリオ、生への回帰」という作品です。
あまりにも有名な「幻想交響曲」の作品番号が、14-aとなっていますが、
「レリオ、生への回帰」の作品番号は、14-bとなっています。
ベルリオーズ自身は、スコア上で「出来れば幻想交響曲とレリオは続けて演奏される事が望ましい」と指示を出していますが、
実際にこの2曲がセットで続けて演奏される事はまずないと思います。
というか、無いです・・・
ちなみに日本でこの「レリオ、生への回帰」が初演されたのは平成に入ってからであり、
小林研一郎指揮/大阪フィルが多分初演だと思われます。

この「レリオ、生への回帰」は、ヘンというのか、幻想交響曲以上に常軌を逸した作品です。
55分の演奏時間の内、半分以上は、音楽ではなくてベルリオーズ自作のテキスト朗読によって費やされます。
このテキストというのも、ベルリオーズ自身の失恋体験をベースに書かれたものです。
幻想交響曲は、当時の人気女優、ハリエット・スミソンに対する苦しい片思いの恋から作曲されていますけど、
(後に一応この二人はめでたく結ばれます)
レリオ、生への回帰は、ピアニスト、マリーとの婚約解消という大変シビアな体験から生み出されています。

この曲、一度だけ、東京文化会館5階の音楽資料室でレコードを借り、聴いたことがあるのですけど
(ブーレーズ指揮だったような記憶があります)
テキスト朗読は外国語でさっぱり分からないし、印象としては「あまりにも散漫すぎてよくわからない」という感じでした。

幻想交響曲という音楽史に残るメジャーな曲で、現在でもプロの管弦楽団のレパートリーとして定着し続ける曲の
姉妹作というか続編にこんなヘンな曲があるという事実は、
ベルリオーズ自身ももしかしたら過去のこっ恥ずかしい思い出とか若かりし日の駄作という事で、もしかしたら
あまり触れてほしくない作品という扱いなのかもしれないです。

ベルリオーズは、幻想交響曲を含めて、交響曲の分野では、いわゆる古典的形式には全くとらわれない自由な形式の
作品ばかり残しているのは、さすが異端児という感じでもあります。

例えば・・・・

〇交響曲「イタリアのハロルド」 → 交響曲というタイトルですけど、実際はヴィオラ協奏曲という側面もありそうです。

〇劇的交響曲「ロメオとジュリエット」 → 大規模合唱を伴い、実際はカンタータに限りなく近いです。

〇葬送と勝利の交響曲 
 → この作品は吹奏楽のための交響曲であったりもします。オプションとして弦五部を入れることも可能です。
       
レリオ、生への回帰は下記の6曲から構成されています。

第1曲 漁師
第2曲 亡霊の合唱
第3曲 山賊の歌
第4曲 幸福の歌
第5曲 間奏曲
第6曲 嵐による幻想曲

第6曲の開始までは語り手のみが舞台の前に立ち、オーケストラ、独唱者、合唱団は舞台に下ろされたカーテンの裏で演奏をし、
第6曲を演奏する時に初めてカーテンが上げられます。

やはり相当ヘンな曲ですよね~

このヘンな曲は一度だけ、吹奏楽コンクールの自由曲として演奏されています。
1989年の東海大学第一中学校が、この「レリオ、生への回帰」を演奏しているとのことですけど、
一体どの部分をどうやって演奏したのでしょうか・・??
すごく気になりますけど、この年の東海大学第一中学校は東海大会ダメ金で全国に進めず、音源が残っていませんので、
今となっては確認の仕様がないのがちょっともったいないです。
ジュール・マスネというと最も有名な作品というと歌劇「タイス」や歌劇「マノン」や歌劇「ウェルテル」などの他に
組曲「絵のような風景」・組曲「アルザスの風景」などが挙げられると思いますけど、その中でも特に際立って有名なのが
歌劇「タイス」の一場面よりヴァイオリンのソロを伴う「タイスの瞑想曲」といえると思います。
タイスの瞑想曲は多分ですけどタイトルは知らなくてもそのメロディーが流れると多分ほとんどの皆様は
「どこかで聴いた事があるかも・・」とお感じになるのかもしれないです。

私にとってのマスネとは、高校3年の定期演奏会で演奏した曲目の一つでもある組曲「絵のような風景」でもあるのですけど、
後述しますけど、1980年の全日本吹奏楽コンクールで就実高校が演奏していたル・シッドのバレエ音楽の超名演が
とてつもなく強く印象に残っています。

J.マスネの 歌劇「ル・シッド」~バレエ音楽は実は知る人ぞ知る隠れた名作と言っても過言ではありませんし、
情熱的でもあるしロマンチックでもあるしけだるい部分あるし南国の太陽サンサンみたいに眩しい部分もあったりと、
かなり魅力的な曲です。
どうしてこの素晴らしい曲が世間一般にそれ程認知されていないのだろうと勿体無く感じたりもしますし、プロの管弦楽団の
演奏会でも上演曲目としてもっともっと取り上げて欲しい曲の一つでもあります。

歌劇「ル・シッド」はスペインを舞台としていて、そのバレエ音楽とは歌劇「ル・シッド」の第二幕に7曲から構成される
スペイン舞曲の音楽の事です。
マノンとかタイスはどちらかと言うと抒情的な香りが漂う作品なのですけど、ル・シッドは、マスネーにしては珍しく歴史的な
英雄伝の作品であり、そのためル・シッドはどちらかというと男ばかり目立ち、女性があまり出てこないような気もします。

ル・シッドのあらすじを簡単に記してみますと・・

ル・シッドとは君主または征服者」という意味なそうでして、スペインの騎士ロドリーグという11世紀に存在したという実在の人物がモデルになっていてこの歌劇の主人公を務めています。

ロドリーグにはシメーヌという恋人がいるのですが、親同士の権力抗争に巻き込まれ、ロドリーグはシメーヌの父を
決闘の末殺してしまいます。
シメーヌはショックを受け親の仇の憎しみと愛の板挟みで苦しみ、ロドリークを拒絶するようになります。
その後ロドリーグはムーア人との戦いの陣頭指揮を任されて出征します。
ロドリーグは戦死したとの報せが届き、皆落胆するのですが、それは誤報で、敵からもル・シッド=征服者と呼ばれる程の
活躍で勝利し、ロドリーグ達はやがて華やかに凱旋してきます。
人々は歓喜で出迎えますが、シメーヌへの罪の意識から自害しようとします。
国王は裁きをシメーヌに委ねますが、本心はロドリークを愛しているシメーヌはロドリークを赦し、その求愛を受け入れ
ラストはハッピーエンディングで締めくくられます。

ル・シッドにはグランドオペラ」の流儀にのっとって2幕に7曲からなるバレエが入っており、これが歌劇「ル・シッド」のバレエ音楽
と呼ばれる由縁でもあったりします、
同じような作品としては、グノーの歌劇「ファウスト」のバレエ音楽があります。
グノーのファウストのバレエ音楽も吹奏楽コンクールで一時期よく演奏されていたものでした。
(1982年の阪急百貨店と1997年の東京ガスの「ファウスト」のバレエ音楽はとても素晴らしかったです)
ちなみにですけど、2019年末時点で、ル・シッドのバレエ音楽とファウストのバレエ音楽は、吹奏楽コンクール全国大会にて
それぞれ5回ずつ自由曲として演奏をされています。

歌劇「ル・シッド」~バレエ音楽は約20分の演奏時間ですけど、内容が多彩で充実していて飽きることは全く無いです。
マスネーはフランス人なのですけど、音楽はスペインそのものです。
7曲から構成されますが、1・3・5・6・7曲が、いかにもスペインらしい華やかでリズミカルな部分から構成されていて、
2・4曲がけだるさ・抒情的なロマンを演出した部分であり、この対比も極めて鮮やかで面白いです。
特に1.3.6・7曲がそうなのですけど、曲の至る所「カスタネットが効果的に使用されていて、いかにもフラメンコ・闘牛みたいな
雰囲気とノリで華麗にカタカタ鳴らしているのが極めて印象的です。

J.マスネの歌劇「ル・シッド」~バレエ音楽は下記の7曲から構成されています。

Ⅰ.カスティリャーナ

Ⅱ..アンダルーサ

Ⅲ.アラゴネーサ

Ⅳ.オーバード(朝の歌)

Ⅴ..カタルーニャの踊り

Ⅵ.マドレーナの踊り

Ⅶ.ナ・ヴァーラの踊り

Ⅰの冒頭はカスタネットを伴ったインパクトのある演奏で曲は始まります。爽やかなメロディーが奏でられると劇的な演奏が
展開され再び爽やかなメロディーがカスタネットでリズムを取りながら奏でられ、
この繰り返しで曲は進行し最後は華やかで激しく曲は終わります。
Ⅱは静かにひそやかに開始され哀愁溢れた音楽がしっとりと展開されていきます。
Ⅲは明るく元気に非常にリズミカルで親しみ易いメロディーで、この曲でもカスタネットがかなり効果的に使用されています。
音楽の高揚感が実に素晴らしいです。
Ⅲのメロディーはラストの第7曲のナ・ヴァーラの踊りの部分で再現されます。
Ⅳはチャーミングでリズミカルな演奏ですけど、ⅠとⅢに比べるとすこしおとなしめです。最後は派手に終わります。
Ⅴは思わずはっ・・とするような新鮮な管弦楽団の音で始まり、スペイン風のリズムの高揚感としっとりとした響きが
交差します。
この部分は1987年の元吉原中学校の演奏でも選曲されていて、あの柔らかい響きは大変印象的でした。
Ⅵの冒頭のコールアングレとフルートの長い掛け合い的なソロで開始され、ここにハープが美しく絡み、
タンバリンのロールから派手な踊りへの部分へと進展していくのですが、実に情熱的というか、まさにフラメンコの世界です!
この部分のピッコロの使い方が実に巧いと思いますし、リズム感が実にノリノリで、聴く方まで自然に踊りたくなるような音楽が
展開され、ここでもカスタネットのリズミカルな響きは大変素晴らしいです。
ラストの「ナ・ヴァーラの踊り」はまさに圧巻です!
終始リズムに乗って生き生きとした音楽が展開されているのですけど、バックのリズムの打楽器はおそらくはプロヴァンス太鼓と
思われます。
プロヴァンス太鼓はビゼーの「アルルの女」のファランドーレの踊りで使用されていたりもします。
プロヴァンス太鼓はフランスの一種の民族楽器みたいなものですので、モチーフとしてスペイン舞踏を使いながらも
フランス魂は忘れないというマスネの気概なのかもしれないです。
そしてこのナ・ヴァ―ラの踊りにおいて後半のカスタネットの響きは、スペイン音楽というよりもむしろ「ラテンの血が騒ぐ」という
雰囲気すらありそうです。

ル・シッドのバレエ音楽をCDで聴く場合のお勧めの演奏は東芝EMIから出ている、ルイ・フレモー指揮/バーミンガム市響の
演奏が素晴らしいと思います。
カップリングも、マスネの絵のような風景とシャルパンティエの「イタリアの印象」ですので尚更よいです。
フレモーの指揮は一度だけ生演奏で聴いたことがあります。
1997年の日本フィルの演奏会だったのですけど、ラヴェルのピアノ協奏曲にボレロなどといった
フランス音楽系のプログラムでしたけど、とても色彩感溢れる演奏を聴かせてくれて楽しかったです。
フレモーは、ベルリンフィルでお馴染みのサイモン・ラトルが有名になる前に「バーミンガム市交響楽団」で音楽監督を務め、
同響の演奏能力を飛躍的に向上させ、ラトルにバトンタッチさせた事でも知られています。
フレモーは、第二次世界大戦中は、フランスの「レジスタンス闘士」としても大変苦労をされた方との事ですが、
中々気骨がある方なのかもしれませんね。

ここから下記は吹奏楽コンクールの話です。

当プログでは何度も何度も1982年の就実高校の「幻想舞曲集」の素晴らしい名演を語らさせて 頂いているのですけど
80年の「ル・シッド」も勝るとも劣らないとにかく素晴らしい演奏を聴かせてくれています。
私にとっての就実高校というとル・シッドと幻想舞曲が双璧といえそうです。
(81年のアラゴンや村松先生勇退の年の95年のキューバ舞曲も素晴らしい演奏です!)

1980年までの吹奏楽コンクールは中学・高校の部は45名までが上限で、1980年まではピアノ・ハープは使用禁止です。
翌年以降、奏者の上限は50名に増員され、ピアノ・ハーブの使用も可とされます。
そのため1980年の就実高校は45名編成ですし、自由曲の「マドリッドの踊り」のフルートとコールアングレのソロの
掛け合いの部分は原曲通りハープを使用してほしいという感じもあるのですけど、  ハープによる華麗なるグリッサンドみたいな
流れるような装飾音符ではなくて その代わりに、マリンバとヴィヴラフォーンで代用し、洗練さや繊細さには幾分欠ける
感じもなくは無いのですけど、
あまりにもフルートとコールアングレのソロが素晴らしいので、そんなつまらない事はほとんど気にならないです。
そしてこの二つの楽器のかなり長大なソロの部分が終わると大変生き生きとした躍動感あふれる場面へと
切り替わるのですけど、 そのダイナミックスレンジの幅広さは当時の高校の部の中でも超高校級の怒涛の名演だと
感じずにはいられないです。
特に木管楽器の細かい動きがほぼ完璧で、ピッコロの甲高い響きが実によくマッチしていると 思います。
打楽器セクションも大太鼓・シンバルがドスン!と打点がドンピシャですので、 大変心地よく感じます、
マドリッドの踊りの後半のカスタネットの響きが実にリズミカルで気持ちの良い鳴らし方をしているのが大変印象的です。
Ⅶのナ・ヴァ―ラの踊りは圧巻ですし文句のつけようがない演奏です。
厳密に言うとトランペットの破裂音が少し気になるとか、原曲ではプロヴァンス太鼓が入る部分を タンバリンで代用しているとか
細かい事を言うと色々あるかもしれないですけど、正直そうした小さい事はこの圧倒的名演の前では
単なる揚げ足取りなのだと思います。
この第Ⅶ曲ですけど、雰囲気は、まさに南仏の雲一つない青空の下で、楽しげにダンスに興じているという 感じなのですけど、
就実の演奏はまさにそんな感じです!!
とにかく一点の曇りもなく澄み切った爽快さが曲ににじみ出ていると思います。
ラスト近くのカスタネットの響きが実に切れていて、この部分も大変好感が持てます。

こういう素晴らしい演奏が本当にプログラム一番だったなんて今現在の視点では正直考えられないものがあります。
1980年の高校の部の金賞受賞チームのレヴェルは大変な高水準なのですけど、就実の演奏はそれを象徴するものであり、
この年の異常にレヴェルが高い高校の部のトップバッターとして本当に相応しい立派な演奏だったと思います。
プログラム一番というと前年の1979年の私の吹奏楽の「原点」とも言える市立川口高校の
ネリベル/二つの交響的断章も本当に素晴らしい演奏で、
市立川口も就実もどちらも甲乙つけ難いプログラム一番だったと思います。

本当にこの年の就実は素晴らしかったと思います。
課題曲のオーボエ、自由曲のコールアングレに代表されるソロ楽器も素晴らしいし、
全体の高度な技術も素晴らしいし、南国のカラっとした底抜けの明るさを爽やかに表現したその表現力も素晴らしいし
とにかく全部が素晴らしいと思います。





ここから下記はららマジに登場するカスタネット奏者の奥村映について少しばかり記したいと思います。

カスタネットは木製の打楽器で、体鳴楽器に分類される打楽器の一つです。
スペインで特に発達した楽器であり、スペインの民族音楽に欠かすことはできない楽器であり、
スペインの舞踊フラメンコにおいては、今現在も踊り手にとっては必要不可欠な楽器でもあります。
カスタネットの情熱的なリズムの刻みは心地よいですし、あの躍動感は素晴らしいです~♪ あのカタカタと小気味よいリズムを
耳にしただけで既に気分は南欧気分になりそうです。
カスタネットは、手のひらに納まるくらいの丸い貝型の木片を2枚合わせ、これを打ち合わせることによって音を出す楽器
なのですけど、端にひもを通してつなげ、このひもに親指を通して楽器を保持したり2枚の開き具合を調整しますし、
基本的には音程がわずかに異なる二つのカスタネットを右手と左手の両方に持ち、一般的には音程が高い方のカスタネットを
右手に持つことがスタンタードです。

ららマジでカスタネットを担当しているのは奥村映という中性的な雰囲気の高校2年生のJKさんでけど、
カスタネットを使ったフラメンコが特技で、カスタネットの手入れも欠かさず行うとの事です。
ららマジの打楽器パートのトライアングル奏者はかなりの不思議ちゃんの女の子なのですけど、奥村映も少しそうした
不思議ちゃんみたいな雰囲気も無くはなく、どちらかというと男性的でもないし女の子そのものという感じでもないし、
少し不思議な中性的な女の子という印象もあったりします。
少しだけ鈍感な性格というのも、不思議ちゃん系としての浮世離れした性格の為せる業なのかもしれないです。

奥村映の足は黒タイツで包まれていますけど、この黒タイツというのが理系のお姉さんっぽい雰囲気も出しているのかも
しれないです。


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カスタネット担当の奥村映はららマジ屈指の大食いキャラともいえそうですし、
食べるのが大好き~♪というすてきなJKさんであったりもします。

普段もそうですし、カスタネット叩いている時もどちらかというと無表情で中性的な雰囲気を醸し出していますけど、
食べている時は普通の女の子という印象でもありそうです。

少しミステリアスで長髪の美少女がおいしそうに大盛ラーメン食べている姿は「ラーメン大好き小泉さん」と被りそうですね~♪

ラーメン大好きで大食いの女の子は、小泉さんも奥村映も含めて意外と中性的な女の子が多いのかもしれないです。


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ららマジ器楽部のモデル地は東京都東大和市なのですけど、ららマジでは東大和市をモチーフにした東奏市が
舞台となっています。

ららマジにおいて何度か東大和駅をモデルにしたと思われる東奏駅が登場していますけど、ららマジの東奏駅は
とても幻想的で美しいと思います。

ちなみに現実の東大和駅は西武拝島線の東大和市駅の事なのですけど、
東大和市駅 は立川市との境界上にあり、多摩都市モノレール線は東大和市、西武拝島線は立川市となるそうです。
「女子高生の無駄づかい」の聖地である東村山市にある西武多摩湖線の武蔵大和駅は市域に近接していたりもします。



東京MXの深夜アニメの充実は本当に素晴らしいものがありますし、話題作や最新作やちょっとエロ系の深夜アニメが
ここで放映される事が多々ありますし、実は私自身地上波で視聴しているアニメ作品の放映局は、東京MXとテレビ埼玉が
ほとんどです。

さてさて、その東京MXの再放送枠において、本日・・、4月6日より懐かしのアニメ作品の放映が開始されます。

その作品が何かというと、毎週日曜日に放映されていたアニメ・世界名作劇場の中で1979年から一年間放映されていた
「赤毛のアン」です。
赤毛のアンは、初期の頃のアンのとてつもない夢見る少女の脳内妄想の世界やアンのとてつもないおしゃべりに
いささか閉口したものもありましたけど、親友のダイアナのかわいらしさや養父みたいな存在のマシュウの「そうさのう・・」と
いったおっとりとした存在感やアン自身の成長もあり、夢見る少女のすてきな成長がリリカルに描かれていて、
とても好感を感じていたものです。
後にアン自身の伴侶となるギルバードに対して、ギルバートが初期の頃にアンの事をにんじんとバカにした事もあり、
アンがそれに対して怒りを覚え石板をギルバードの頭に叩きつけていたシーンも大変印象的でした!
世界名作劇場というとフランダースの犬・家なき子(母を訪ねて三千里)・あらいぐまラスカルなどが大変印象的ですし、
当時の吹奏楽経験者の皆様の視点で言うと、これらの作品のOPがミュージックエイト等より吹奏楽アレンジ版楽譜として
出版されていて、私自身も中学の頃の文化祭等で、母を訪ねて三千里とかトム・ソーヤの冒険とかペリーヌ物語を
演奏した記憶があります。
大学の吹奏楽団でもなぜかしりませんけど当時の世界名作劇場で放映されていたポリアンナ物語とか若草物語のOPを
演奏していた記憶もあります。
そうした世界名作劇場のOPのアニソンはすてきな名曲が揃っているのですけど、そうした中にあって異彩を放っていたのは
その「赤毛のアン」のOPとEDだったと思います。
赤毛のアンのOPとEDも吹奏楽にアレンジされていてスコアも出ていて、私自身も赤毛のアンのOPのアニソンは
演奏した事はありますけど、吹いていても「あれれ・・? 前作のペリーヌ物語や家なき子の曲の雰囲気とは明らかに一線を
画しているなんだか普通のアニソンとは異なる曲」というのは当時から実はなんとなく感じ取ってはいました。
余談ですけど、ペリーヌ物語のペリーヌはほんとうに素晴らしい美少女さんで、ペリーヌ物語は毎週楽しみに
視聴させて頂いておりました。
ペリーヌ物語の原作は「家なき娘」といって家なき子の姉妹作に近いものがあるのですけど、原作は母親の死の場面から
開始されますが、アニメの上では開始から三か月近くはインドからフランスまでのペリーヌと母親の旅を描いていて、
今にして思うと原作には存在しないアニメオリジナルストーリーといえるのだと思います、

赤毛のアンのOPとEDがそれまでの世界名作劇場のアニソンの作風と少し異なると感じられるのも実は当たり前の話
なのかもしれないです。
だって赤毛のアンのOPやEDを作曲されていたのは、当時は既に邦人クラシック音楽作曲界の大御所にして
桐朋学園大学の学長を務められていた三善晃です!
三善晃というと当ブログでもこれまで何度も何度も秋田南高校・大曲高校・新屋高校・習志野高校・神奈川大学・常総学院等の
名演でお馴染みの「交響三章」の孤高の世界を作曲された偉大な先生とか
吹奏楽コンクールの世界でも深層の祭り、クロス・バイ・マーチといった不朽の名作課題曲を後世に残された事で
その御名前が登場していましたけど、実は「赤毛のアン」のOPやEDの曲も残されていました!

赤毛のアンのアニソンのファンタジー感やアルトサックスのソロの扱いの巧みさは三善晃っぽい感じもありそうです!

赤毛のアンの音楽担当は毛利蔵人なのですけど、毛利蔵人は三善晃の弟子に相当し、三善晃自身が赤毛のアンの
アニメ内のBGM担当作曲家として毛利蔵人を推薦し、結果的に一つのアニメ作品としてクラシック音楽作曲家の師弟コンビが
担当するという凄い結果になりました。

三善晃自身は「赤毛のアン」の中では、オープニングテーマ「きこえるかしら」とエンディングテーマ「さめないゆめ」、
挿入歌「あしたはどんな日」と同じく挿入歌の「森のとびらをあけて」・「花と花とは」を作曲しています。
挿入歌の「涙がこぼれても」と「忘れないで」と「ちょうちょみたいに」は毛利さんの作曲となっています。
1979年当時は既にたくさんの大胆で前衛的な作品を数多く発表されていた三善晃ですけど、「赤毛のアン」においては、
夢見る少女・アンにふさわしいロマンチックなアニソンを書かれています。
子供向けの単純な音楽に終わることはなく、他のアニソンとは一線を画する卓越した手法が用いらていて、
特に衝撃だったのは、アニソンなのにそのOP楽曲においては、小休止をはさんでいたり、アルトサックスという管楽器に
間奏中のソロの役割を与えていたことが挙げられると思います。
当ブログにおいて、私自身10年間の吹奏楽生活において中三の一年間のみアルトサックスを吹いていたと記しましたけど、
そのアルトサックス時代にはいうまでもなく「赤毛のアン」のOPの間奏のアルトサックスのソロを吹きましたけど、
吹いていても「なんという壮大でロマンチックな曲!」と感じていた反面、
従来のアニソンというと例えば宇宙戦艦ヤマトやマジンガーZ等の勇壮なイメージとは全く逆の面も有していて
「なんという個性的な曲!」と感じていたものでした。
但し、当時の私には赤毛のアンの作曲者の三善晃がどういう御方でどれだけ偉大な御方であるかという認識は微塵も
有していなくて、私自身が三善晃の偉大さを初めて知る事になったのは、その2年後の吹奏楽コンクール・東北大会で
大曲高校吹奏楽部が自由曲として演奏していた三善晃の「交響三章」がきっかけでもありました。
(「交響三章」の特に第一・第三楽章における「亡びの美学」のわびさびの響きは何度聴いても飽きることは全く無いです!)

それにしても「きこえるかしら」は今聴いても色褪せない斬新な曲想だと思います。

フランス近代音楽を思わせる色彩的な和声と楽器法もそうですし、現代音楽ではお馴染みであったものの
一般にはなじみが薄いテンプルブロックによるアクセントを意図的に強調していたり、
ピアノとハープ、チェレスタの雰囲気を大切にしていたり、はまた世界名作劇場シリーズとしては初めてアルトサックスを
使用していたりと、只者ではない雰囲気がアニソン一曲からも窺い知る事ができると思います。
EDではチェレスタとピアノの二重協奏曲かと錯覚するほど16分音符がスコアの両パートを埋め尽くしているのも
凄い・・としか言いようがないと思います。

クラシック音楽作曲家がアニソンも手掛けるというのは今現在は珍しくもなんともない話であり、例えば和田薫や
天野正道などでもお馴染みだと思います。
ちなみに天野正道はまだ無名時代に実は映画「うる星やつら1 オンリーユー」の音楽を担当されていますし、
「犬夜叉」の音楽等でもお馴染みの和田薫の奥様は「フレッシュプリキュア」のキュアパインでお馴染みの中川亜希子さんで
あったりもしますルン~♪

三善晃が「赤毛のアン」というアニソンを作曲されていたのも当時は意外だったのかもしれないですけど、私的にもっと
ぴっくりしたのは、三善晃が1988年に全日本吹奏楽コンクールの課題曲を作曲されていた事でもありました!

技術的に難解であると同時に音楽の内容の点で大変優れている課題曲の一つとして
大いに推したい課題曲が三善晃作曲1988年の課題曲A/吹奏楽のための「深層の祭り」です!

最初に三善晃が吹奏楽コンクールの課題曲を書き下ろしたと耳にした際は「え~、すごーい!」と感じたものでした。
(それは間宮芳生も全く同じでした)
三善晃というと1988年時点では既に日本のクラシック音楽作曲家の重鎮の一人であり、とてつもない大物先生であり、
交響三章・響紋・夏の錯乱・レクイエム・協奏的決闘・変容抒情短詩・管弦楽のための協奏曲や数多くの合唱曲を既に
作曲されていて、「そんな恐れ多くてこんなアマチュアを対象にした吹奏楽コンクールの課題曲を委嘱するなんて怖いかも・・」
といった雰囲気もあったと思いますけど、逆に言うとそれだけこの当時の吹奏楽コンクールは既に
大変なレヴェルの高さを有していましたので、こうした大御所の作曲家の先生に課題曲作品を委嘱しても
全然問題ないという感じだったのかもしれないです。

それにしてもこの吹奏楽のための「深層の祭り」はあまりにも奥が深くて音楽的内容が充実した素晴らしい名課題曲だと
思います。
演奏時間4分程度の決して長くは無い曲なのですけど、この4分程度の時間にはぎゅ~っと凝縮した
音楽的緊張感と張りつめた内省的充実感が漲っていると思いますし、
確かに聴いていて「楽しい」と感じる部類の曲では全然ないのですけど、あの精神的にピンと張りつめた空気が醸し出ている
曲だと思いますし、発表した場がたまたま吹奏楽コンクールの課題曲だったという感じでもあり、
この曲はブロの管弦楽団の定期演奏会の一曲目として(管弦楽と打楽器だけで)演奏しても全然遜色のない曲
なのだと思います。

「赤毛のアン」の再放送をご覧頂けた場合は、その音楽にも着目して頂けるととてもありがたいです!
実はなのですけど、おかげさまで本記事をもちまして「クラシック音楽カテゴリ」が通算400記事に到達をいたしました~♬

当ブログをご覧頂いている皆様の視点ですと
「いつも東方・艦これ・小泉さん・プリキュア・ごちうさといったアニメ・漫画・ゲーム作品の記事ばかり書いている
頭の悪そうな人がどうして時々専門的でお堅く真面目なクラシック音楽記事を書いているの・・??」と疑問に感じる方も
多いのかもしれないですけど、当ブログの管理人はもともと吹奏楽出身で、通算10年近く吹奏楽団でクラリネットを吹いていた
経験があり、そうした吹奏楽にどっぷりと浸かっていた時期に同時にクラシック音楽の奥深さに目覚めてしまい、
かなり若い時期から吹奏楽・クラシック音楽が大好きだったという事情が大きいのだと思います。
ブログというものは基本的には私はテキトーでいいと思っていますし、管理人が興味を持っていることや大好きなことを
好きなように書くのがブログと思っていますし、私自身誰かに見てもらうという事よりは、どちらかというと
自分自身の記録というか後年こうした記事を自分自身が振り返って見ることによって
「自分はこんなことに興味がありこのように考えていた」という自分史というのか自分の軌跡を目に見える形でなにか残して
おきたいというのが実はこのブログの最大の続ける動機であったりもします。
そして2016年以降はそれに加えて、「dream fantasy」の
アミグリさんが描かれた素晴らしくて美しい絵をとにかく一人でも多くの人に見てほしいという動機も加わりました。

人間というものは決して単純な生き物ではないと思いますし、趣味嗜好がある時期から変化するとか
昔はAという考え方に惹かれていたけど最近はAと相反するBという考えにより共感するようになったとか
格闘技や相撲といった男くさいスポーツが趣味だけど同時に家で萌えアニメを見るのが大好きということだってあると
思います。
人間にはそうした多様性があり、「あの人は✖✖だから」という一つの側面だけで判断できないのがむしろ人間らしいところでも
ありますし、当ブログのように前日は「ゆかりん大好き!」とか「小泉さんのあの不愛想さはすてき~♪」と書いていた管理人が
翌日にはガラリと趣向を変えたお堅い音楽記事を書くことはむしろ人間の人間たるゆえんだと思いますし、
人の心の深層にはもしかしたら相反するようなものもどちらも大好きになってしまうという複雑な多様性を持ち合わせている
のかもしれないです。
そしてブログというものはそうした人の多様性を発揮する場でも全然OKだと考えますし、そうした自分自身が大好きなことを
自由自在に書くことができる場というのがブログの良い点なのだと思います。
そしてテキトーに自由に気ままに書いているだから、誰かに読んでもらうために記事にするという趣旨ではなくて
あくまで自分のために書いているという事で、別に反響は特段気にしないようにしているという感じでもあります。

当ブログのはじまりは実は「音楽ブログ」であったという事をご存じの方はほぼ皆無だと思いますし、ブログ開設から
2年目を迎えたころあたりまでは、当ブログは実は典型的な閑古鳥ブログでして、一日の閲覧者は平均5~6人前後で、
最初に頂いたコメントはブログ開設から約一年後というありさまでもありましたけど、当時は例えば私自身が大好きで
吹奏楽・クラシック音楽の深い森の中に迷い込むきっかけにもなった花輪高校吹奏楽部・秋田南高校吹奏楽部・
就実高校吹奏楽部やウォルトンの交響曲第1番、矢代秋雄と松村禎三の交響曲やプロコフィエフの交響曲や
トゥリーナの幻想舞曲集などといった正直わかる人にしかわからない記事を自由気ままにテキトーに書いていて、
あの頃はむしろのびのびといい加減に書いていたようにも感じられます。
だけどそうしたマニアックな記事だけを書いていたらネタも枯渇しますので、当時としては
「十分音楽に関するどうしてもこれだけは書いておきたいというネタを記事にしたからあとはこの先ずっと放置でもいいかな・・?」
とも思ったりしましたけど、
「放置するのもなんだし、それでは音楽以外に自分が大好きなことを書くのもいいかも」と思うようにもなり、
それが2012~15年までのプリキュア路線、2016年から現在に至る東方路線になっていったと思いますし、同時に
2013年頃より偶然「dream fantasy」という素晴らしい
ブログに出会い、アミグリさんというすてきな絵師様の描かれた絵を一目で大好きになってしまい、東方路線とミックスさせる
形でもってアミグリさんの描かれた絵をご紹介させていただくという現在の路線に落ち着いております。

管理人の私自身は、吹奏楽もクラシック音楽も東方も艦これも小泉さんもプリキュアも埼玉も千葉ロッテマリーンズも
アミグリさんの絵もみんな大好きという事ですし、東方や最近のかわいい萌えアニメ作品や美少女JKさんアニメを楽しむのと
まったく同じ感覚で吹奏楽やちょっと堅めのクラシック音楽も楽しんでいますし、人が楽しむことにおいて
そうした境界は何もないものと考えています。

今後とも東方や小泉さんを語るときとまったく同じ感覚で少し堅めのクラシック音楽記事もこの先も語っていくことになるかとは
思いますので、今後も当ブログの吹奏楽やクラシック音楽カテゴリのほうも何卒宜しくお願いいたします。


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一時期、吹奏楽やクラシック音楽カテゴリ記事を書くと反響・アクセスががくっと低下するのでこれらの記事を避けていた
時期もありましたけど、前述のようにブログは誰かのためではなくてあくまで自分の軌跡の記録と趣味のためでも
ありますのでも最近はそうしたアクセス低下は気にしないようにしています。
そして最近の傾向として、これらの記事に「響け!ユーフォニアム」と「ららマジ」をミックスさせることで、少しだけ萌え要素や
わかりやすさも出てきたせいなのか、ここ最近はそうしたカテゴリ記事でもアクセスや反響が以前とは比べ物に
ならないほど大きくなっているのはとてもありがたいです~♪

ららマジ器楽部の編成はツッコミどころが満載ですね~♪

チューバは無いけどワーグナーチューバはあったり、オーボエは無いけどなぜかコールアングレはあったり、
ファゴットもコントラファゴットはあるけどなぜかバスクラがなかったり、
ベース・エレキ・ウクレレとギター系の楽器が三本もあったり、ユーフォニアムが管弦楽と同様に配置されていなかったり、
胡弓・箏といった邦楽器があったり、
30人編成なのに、ドラムス・グロッケンシュピール・和太鼓・トライアングル・タンバリン・カスタネット・シンバルの
打楽器セクションはかなり充実していたり、
なぜかシンセサイザーまであったり、基本的には吹奏楽の編成に近いけどなぜかヴァイオリンやチェロ・ハープも配置される
など現実ではあまりありえない編成ゆえにその自由さは素晴らしいものがあると思います。

奏者はドラムスとハープと箏を除くと基本的には全員スタンドアップして演奏していますけど、コントラファゴットは基本的には
立って演奏をする事が出来ないので、椅子に腰かけて演奏しているのは、「わかっているね~」という感じでもあります。

こうした自由な編成による自由な音楽は是非ぜひ聴いてみたいものです~♪
本日のファースト記事にて触れたとおり、おかげさまで本日をもちまして当ブログのクラシック音楽が400記事に到達
しましたけど、そのファースト記事においては特段クラシック音楽には触れていませんし、
せっかくのクラシック音楽カテゴリの節目ということでもありますので、本記事においては私の大好きな作曲家の一人でもある
ショスタコーヴィッチについて少しばかり取り上げさせて頂きたいと思います。

ショスタコーヴイッチの交響曲は、何と言っても圧倒的に交響曲第5番(革命)が有名ですし、
この交響曲第5番の人気&演奏頻度&録音頻度は突出していると思います。
当ブログにおいて、ショスタコーヴィッチの記事を書く際は、なぜかあまりにも有名な交響曲第5番ではなくて、
ファゴットが第四~第五楽章で大活躍する交響曲第9番や交響曲第7番「レニングラード」や交響曲第10番や
吹奏楽コンクールにおいて昔も今も定番曲である「祝典序曲」や吹奏楽経験者でないと聴いたことすらないと思われる
「民族舞曲」のことばかり触れているような気もしますので、ここは久しぶりに交響曲第5番を取り上げてみたいと思います。

ショスタコーヴィッチはその生涯で二度ほど政治的にやばい状況を迎えます。
当時のソ連体制においては、国家権力によって睨まれたり監視の対象になってしまうというやばい状況が即自身の
処刑・シベリア送り・強制収容所送りという悲惨な末路に直結していたものですし、
本来音楽というものは自由であり「自分はこのように感じたからこうした曲を作る!!」みたいな事が尊重されるのは
当然の事なのですけど、当時の共産党一党独裁のソ連にはそうした自由は無く、「人民が喜びそうな外面的効果の高い音楽」を
量産する事を求められ、スターリンや音楽官僚が喜びそうな曲を作ることが何よりも求められ、
作曲者自身の内面を描くといった抽象的な音楽は、国家権力によって敬遠されひたすら外面的に明るい音楽を作曲する事が
強く求められていました。
そうした国内状況だったからこそ自由な音楽を求めてソ連体制を嫌って祖国からの亡命を求めたのが
ストラヴィンスキーとかプロコフィエフと言えるのだと思います。
しかしショスタコーヴィッチは律儀にも祖国愛が強いのか、面倒な事を嫌ったのか、家族の反対にあったかは
よく分かりませんけど、生涯一度も亡命する事もなくその生涯において終始変わらずソ連体制の中で生き続け、
その生涯をソ連の中で閉じた方なのです。
本当は、マーラーみたいな音楽を書きたかった欲求もあったのかもしれませんけど、
(それを強く示唆させる音楽が交響曲第1番や交響曲第4番といえるのかもしれないです)
時に自分の内面に忠実な作品を書きそれが国家からの批判を招き、その反動として外面効果が高い分かり易い曲を残すという「御用作曲家」みたいな面を持つという事で、本当に苦労が絶えない人だったと思います。
だけどその反面。ショスタコーヴイッチの交響曲第4番や交響曲第15番を聴いてしまうと、
「もしかして、マーラーの音楽史的な後継者はシェーンベルクじゃなくて実はショスタコーヴィッチではないのか・・!?」とすらも
勘ぐってみたくもなりそうです。

ショスタコーヴィッチの政治的にやばい状況の内の一回目は交響曲第4番やバレエ「明るい小川」を作曲していた頃です。
これらの音楽が「抽象的で訳がわからん」という事で睨まれ、当時はソ連の御用新聞のプラウダや音楽官僚たちから
「音楽の荒唐無稽」というとてつもない大批判の大合唱を受け、ショスタコーヴィッチ自身も一時は、自身の逮捕・処刑・流刑を
覚悟した事があるというのはどうやら本当の事のようです。
その代償として作曲されたのが、ショスタヴィッチの代表作、交響曲第5番というのも皮肉な話であり不思議な感じがします。
そしてやばい二回目は、第二次世界大戦終了後に戦争勝利記念作として発表された交響曲第9番が要因となります。
スターリンにとっては、「この交響曲は特別な存在であるべきである。なぜなら我々は戦勝国だからである。
だからこの祝祭的な交響曲は、合唱などを入れ大規模に国家の勝利を讃える必要がある」などと命令したかどうかは
よく分かりませんが、そうした気持ちは幾分は持っていたのかもしれません。
だからこそこの第9交響曲が「洒落っ気に溢れた軽妙曲」であったことにスターリンは激怒し、
「俺の顔を潰しやがって・・・」みたいな気持はどこかにあったかもしれません。
そしてジターノフ批判という大批判キャンペーンが展開され、ショスタコーヴィッチはこの危機に対しては、
オラトリオ「森の歌」で大衆迎合用の分かり易い曲を提出し難を逃れています・・・
ちなみの「森の歌」の初版の歌詞のラストは「スターリン万歳!!」だそうです。
(スターリンの死後その讃美の歌詞は削除されています)

そうした色々複雑な背景&事情があった交響曲第5番ですけど、作曲者本人にとっては自分自身の生命が掛った
ある意味起死回生みたいな曲だったと思います。
音楽評論家の解説、指揮者の解釈によって様々な見解が分かれる曲ですし、事実様々なアプローチが可能な曲だと思います。
同時に、「ショスタコーヴイッチの証言」という本(実は創作物という見解も根強いようです)の一節にある通り
「終楽章は歓喜ではなくて、強制された歓喜の悲劇」という解釈も一理あるのかもしれません。

実際はどうなんでしょうか・・・?

この曲は生演奏で聴く機会が比較的多かったもので、何回か聴いた事はありますが、悲劇的な感じとか強制された
という印象はありませんでした。

当時の権力者・社会・自分を快く思わない人達とショスタコーヴィッチ自身が戦った結果としての讃歌を感じてしまいます。
終楽章は、「当時の権力者に迎合して彼らが気に入るような曲を書くのも一つの自由、それに反抗して
結果的に自分の命を縮めてしまうのも自由、それを選択するのは権力者自身ではなくて、自分自身なのだ!」
というようにも聴こえてしまいます。
作曲者自身が本当に「あの終楽章は強制された歓喜」というメッセージをこめたいのならば、
100人中45人程度は「確かにあの曲にはそうした意図があったんだ」という事を分からせるような曲の構成を取らないと
その真意は後世には確実に伝わらないような感じもあったりします。
ショスタコーヴイッチ自身がもしも仮に本当に「あの終楽章は歓喜では断じてない!!
あれは強制された歓喜の悲劇なのだ!!」という事を確実に伝えたいのならば、
そうしたメッセージを明瞭に曲に折り込むべきで、
そうした意図が伝えきれなかった時点で、それは実は作曲者の負けみたいな解釈も可能なのではないかと思ったりもします。
それが自由に出来る政治状況ではなかっのが当時のソ連=スターリン体制なのだという事は勿論百も承知しているのですけど、
そのくらい指揮者によって解釈や見解は分かれる曲なのかもしれないです。

ショスタコーヴィッチの交響曲は、19歳の時に作曲され、その自由な発想が今現在でも高く評価されている
交響曲第1番から開始されるのですけど、
2~3番においては、素材は御用作曲家みたいなものを使用しながらも音楽としての表現方法はかり自由という
実験的側面を有し、そして第4番においては自虐的でかなり内面的で分かりにくいものを残しています。
ここで改めて考えてみたい事があるのですけど、
確かに交響曲第4番を聴いたすぐ後にこの5番を聴いてしまうと、
「この両者の極端すぎる違いはなんなの・・!? この曲を作曲した人、本当に同一人物なの・・?」と感じるのかもしれないですけど、
もしもなのですけど、交響曲第4番を作曲した頃のショスタコーヴイッチ自身が、前述の政治的危機が仮に無かったとしても、
あまりにも2~4番のシンフォニーのウケの悪さや「自分の目指すべき方向性とは少し異なる・・」といった違和感を
既にショスタコーヴィ土自身が感じていて、
「自分が作りたい音楽はこうした前衛的方向性ではない」と既に悟った結果としての交響曲を残していた可能性も
あるのかもしれないですし、自身の命にかかわるようなヤバイ状況が無かったとしても、案外交響曲第5番は
作られていたような気さえします・・・
それは、古典的で明快で分かりやすい交響曲第1番を発表しながらも
亡命時代の2~4番で複雑怪奇で訳の分からん交響曲を残しつつも、ソ連復帰後の交響曲第5番であんなにも霊感と才気煥発に溢れた素晴らしい名曲を残したプロコフィエフともどこか重なる面はあるのかもしれないです。
プロコフィエフ自身も、交響曲第4番を作曲していた頃は、そのあまりのウケの悪さに対してショスタコーヴィッチ同様に
「いやいや、自分が目指したい方向性はこんな事ではない」と悟っていた可能性もあるかもしれないです。

それにしてもショスタコーヴィッチの交響曲第5番は、20世紀が生んだ名曲の一つだと思います。
ある意味、こんな分かりやすい曲は無いとすら感じてしまいます。
こんな曲を聴いていると、前述のショスタコーヴィッチ自身の真意とは果たして何なのかとか本当は何を言いたかったのか
みたいな事はどうでもよくなったりもします。
自分自身への問いみたいな第一楽章は冒頭から前半はゆったりとしたテンポで開始されるのですけど
前半は「本当に自分のやっている事は本当に正しいのだろうか・・他に選択肢は無いのだろうか・・」みたいな
かなりの深刻さが暗示されています。
面白いのは、ピアノの重低音が唐突に入る事で曲想とテンポをガラッと変えている点ですね・・
第二楽章は、何か「過去の自分との対話」みたいなものがイメージされます。
第三楽章は一転して瞑想的な音楽が15分ほど展開されていきます。
そして圧巻の第四楽章はティンパニが実に格好いいですし、ラストのトランペットとホルンの超高音&強奏は、
とにかくすさまじい迫力があります。

そして本記事の結論になってしまうのですけど、
何回聴いてもどう捻くれて解釈してもあの第四楽章に「悲劇性」は感じられませんし、ショスタコーヴィッチが回顧録で記した
「強制された歓喜の悲劇」には聴こえませんし、あれは私の感性ではどう聴いても「自問自答」にしか聴こえないです。


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ショスタコーヴィッチの交響曲第5番の終楽章はトランペット奏者にとってはあのとてつもないハイトーンがきつい曲だと
思います。
確かにあの強奏は管弦楽作品の中でも突出した大音響ですし、あのとてつもない大音量は奏者にとっては快楽では
あるのですけど、終楽章ラスト近くのトランペット奏者にとってはあんなハイトーンを大音量でほぼブレスも出来ない状態で
吹奏し続けるという事はとてつもない負担であり、大変なプレッシャーが掛かるとは思うのですけど、それでもあの
爽快感は何事にも耐えがたいものがありそうです。
とんでもないハイトーンの強奏ですので万一音でも外したら一発でバレてしまう曲で奏者にとってはやりがいでもありますし、
同時にプレッシャーのかかる曲でもあります。

「ららマジ」のトランペット担当は、亜里砂・エロイーズ・ボー=ボガードです。

フランス生まれのクォーターで高校2年生のJKさんで、金髪ツインテールがとてもよくお似合いだと思います。
担当楽器はトランペットで、腕前はプロ並で、自分のかわいさが分かっているかのような小悪魔チックな振る舞いをするような
性格もまたまたとってもかわいいですね~♪

公式では「亜里砂・E・B」と略される事が多いです、

バトル時においてはトランペット型のアサルトライフルを武器とします。

亜里砂・E・Bにとってもショスタコーヴィッチの交響曲第5番~終楽章は大変な曲でもあると思うのですけど、天才奏者の
亜里砂・E・Bにしてみれば挑戦のし甲斐がある曲だと思いますし、最後までミスらないで満足のいく演奏ができたとしたら
感極まるものがありそうですね~♪
チャイコフスキーの交響曲と言うと、一般的な感覚で言うと、交響曲第6番「悲愴」が一番有名だと思われますし、
交響曲5番も悲愴と同程度の演奏頻度もあると思います。
私自身、もしも「チャイコフスキーの交響曲で一番好きなの曲は?」と聞かれたら相当悩むと思います。
後味の悪い第四楽章と「ええじぇないか!」の集団発狂みたいな感じの第三楽章が大変印象的な悲愴ももちろん魅力的ですし、
交響曲第5番の全体を貫く循環主題とフィナーレの大団円の爽快さも素晴らしいですし、
4番の華麗さとメランコリーの対比も捨てがたいですし、1番「冬の日の幻想」の素朴さなど
どれもこれも素晴らしいものばかりで甲乙付け難い面は多々あるとは思うのですけど、私的にはいっちば~ん!と感じる
チャイコフスキーのシンフォニーは5番なのかな・・?と感じてしまいます。
(悲愴も素晴らしい名曲ですけど、フィナーレの恨みつらみ・この世への未練等後味の悪さはどうしても感じてしまいます・・)

ただ・・交響曲第4番の魅力も捨てがたいものは多々ありますし魅力は尽きない交響曲だと思います。

チャイコフスキーにとっても、この交響曲第4番は人生の転機の頃に作曲されたものでもありますし、
本人にとっても思い入れはあるような感じもします。
チャイコフスキーの交響曲は、1~3番とマンフレッド交響曲あたりまでは、
それほど際立った個性もあまり感じられませんし、事実演奏会で取り上げられる頻度も決して高くはないです。
しかし、交響曲4番以降は飛躍的に交響曲としての完成度が高くなり、CDに収録される頻度や演奏会で実際に
演奏される回数も1~3番に比べると急激にUPします。

この交響曲第4番の直前にチャイコフスキーは実は人生最大の危機を迎えています。
押しかけ女房的な女性に半ば強引に結婚を承諾したものの新婚生活は半年程度で破綻し、
チャイコフスキーはイタリアに逃避旅行をする羽目になってしまいます。
その時期は自伝によると自殺も一時考えたほど思いつめたらしいのですが、
イタリアの南国の太陽サンサンぶりに心が落ち着きを取り戻したかどうかは分かりませんが、
結果的に何とか立ち直って、再びロシアに戻りどうにかこうにか再び作曲活動が出来るようになるまで回復したのでした。
(結局その伴侶とはその後離婚が成立し、離婚以降は二人は永遠に顔を合わせることはなかったようです・・)

チャイコフスキーの交響曲4番とは、第一楽章~第二楽章の陰気さと第四楽章のフィナーレのバカ陽気の対称性が
あまりにも顕著過ぎとよく批判のタネにされていますけど、これって意外と単純な事で、
第一~第二楽章を作曲していた頃は、ロシアにいる頃の話で妻との離婚を巡る陰鬱な気分の頃の作曲なのかもしれないです。
そしてイタリア旅行中に妻から解放されて、同時に南国の陽気な気候に心もウキウキとなり、
第四楽章の感情爆発の壮麗なフィナーレをルンルン気分で作曲していたのかもしれないです。
この辺りは、あくまで推察ですので、正しい事実はよく分かりませんけど、
意外と正解じゃないのかな・・?というものが曲の隅々から感じられたりもします。

この交響曲第4番が作曲されている頃に、メック夫人と言うチャイコフスキーの人生に大きく関わる金持ち未亡人が登場します。
メック夫人は、年金という形で、チャイコフスキーに毎年定期的な莫大的な金銭援助をする事で、
チャイコフスキーは、特に仕事にあくせくしないで自分が書きたい音楽だけを作曲できる環境に置かれることになります。
チャイコフスキーが生きている頃は、ロシア5人組が活躍している時代とほぼリンクしているのですけど、
例えばボロディンは化学者として、リムスキーは音楽学校の先生として、それぞれに職業を持ち、
その合間に作曲活動をしていた環境とは大きく異なるものがあります。
ロシア5人組がどちらかというと泥臭い曲を残しているのに、チャイコフスキーはむしろヨーロッパの洗練された音楽を
彷彿とさせるよう作品が多いのは、音楽を作曲する環境の違いというのも多少はあるのかもしれないです。
(もちろんチャイコフスキーが作曲した曲の中には、いかにもロシアという感じの曲が多いのもこれまた事実です)
意外な事にチャイコフスキーはメック夫人と生涯一度も会う事は無く、二人の間には膨大な往復書簡が残されているだけです。
(一説には、メック夫人がチャイコフスキーの男色疑惑について調査をし、その結果は疑惑ありと判定だったため
年金を打ち切ったという説を唱える方もいるようではあります)

メック夫人とチャイコフスキーの往復書簡の手紙の中で、チャイコフスキーは交響曲第4番についてかなり細かく書いています。
チャイコフスキーの手紙では、この第一楽章については、
「運命と言うものは、幸福の実現を妨害させる冷酷な力であり、人々が幸せになれないように嫉妬深く見つめているます。
私達は、運命と妥協し嘆き悲しむ事しか出来ないと記しています。
第二楽章のメランコリー漂う雰囲気については、
「仕事、人生に疲れ、夜、本を読んでいてもついウトウトし、いつの間にか本を滑り落としてしまうような感覚」と表現したり
第四楽章については、「言葉の終わるところから音楽が始まる」とか色々と意味深な事を書いています。
この「言葉の終わるところから音楽が始まる」とはどういう意味なのでしょうか・・?
色々と解釈は出来ると思うのですけど、私の受け取り方としては、最後は理屈や論理ではなくて、
その人自身が「自分は幸せだ」と思っていればそれはそれでいいのではないか・・?という事ではないのかなと思ったりもします。
この言葉に前の文章にはどんな事が述べられているのかと言うと、
「あなた自身の中で、どんな喜びも見いだせないというのなら、進んで人の輪の中に入っていきなさい、
人々の喜びの輪の中に入って、そして自分も喜びなさい」と記されています。
どちらかというと人嫌いの傾向が無くも無かったチャイコフスキーをもってしても
「所詮、人は一人では生きていけない」という事を示唆してると言えるのかもしれないですね。

交響曲第4番は、循環主題の形式を取っていて、
第一楽章冒頭のホルンとファゴットのファンファーレは、第四楽章でも再現されています。
(循環主題と言うと次の作品の交響曲第5番の方がかなり顕著ですけど、この4番でも既にこの形式が用いられています)
第二楽章は、何といってもオーボエのメランコラリックなソロが秀逸です。
第三楽章のピッチカートは、奇抜さを感じてしまいます。なんとなくアラビアっぽい雰囲気も感じられますし、
音楽のアラベスクみたいな雰囲気もあるのだと思います。
圧巻は第四楽章で、怒涛としか言いようの無い激しい感情と喜びの感情が爆発しています。
第一~第三楽章で使用される打楽器はティンパニのみですけど、第四楽章で、シンバル・大太鼓・トライアングルの打楽器が
入りますが、ラスト近くにおけるシンバルの怒涛の連打は視覚的にも迫力満点です。
(あのシンバル連打は、同じくチャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」の中間部における
怒涛のシンバル連打を彷彿とさせてくれます)

この交響曲第4番を最初に耳にしたきっかけは、毎度のことですが私の場合吹奏楽コンクールでして、
吹奏楽コンクールにおいては、1970年代頃にチャイコフスキーの交響曲4番はフィナーレの第四楽章が自由曲として
演奏される事が大変多かったです。
第四楽章だけを聴いてしまうと、つい「チャイコフスキーの4番はどんちゃん騒ぎの喧騒なシンフォニーなのか・・?」と
誤解をされがちですので、もしも第四楽章を吹奏楽版で聴いてこの曲について興味を持たれたら、
是非是非原曲を全曲盤で聴いて頂きたいです。
ちなみにですけど、このチャイコフスキーの交響曲第4番第四楽章の吹奏楽コンクールにおいては、
オールドファンの皆様でしたら、福岡電波工業とか響南中学校と言われるのかもしれないですけど、
私としては、1978年の浜松工業とか85年の銅賞なんですけど伊予高校もお勧めしたい演奏です。
(福岡工業大学の演奏も大変印象的です)

上記で記したとおりこの交響曲は第四楽章で唐突に爆発炎上します。

まるで炎のような快進撃が展開され、そこには生きる喜びとか希望に満ち溢れています。

チャイコフスキーの手紙では、この楽章については前述のとおり、
「あなた自身の中で、どんな喜びも見いだせないというのなら、進んで人の輪の中に入っていきなさい、
人々の喜びの輪の中に入って、そして自分も喜びなさい・」
「言葉の終わるところから、音楽は始まっていく」
と記しているのですけど、この言葉を目にすると思い出してしまうのは、2011年に放映されていた「スイートプリキュア」です。


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前述のチャイコフスキーの言葉は、「スイートプリキュア」が一年間掛けて提示したテーマだとも思えます。

どういう事なのかというと、

音符がないなら創り出せばいい。
不幸のメロディの後に幸福のメロディを歌えばそれでいい・・・
不幸と幸せは二つで一つ・・・・
不幸だけを嘆いても意味が無いし、
幸せだけを求めてもいつの日か報いを受けてしまう。

不幸に遭遇したら、いつの日にか再度「幸せ」が訪れるようにやりなおせばいい。

そういう事なのだと思います。

チャイコフスキーの手紙のあの言葉と言うものは、
プリキュアに限らず、「人と人との関わり」においては何か共通するような気もします。

人間が抱えるストレス・悩みのほとんどは人間関係・対人関係なのかもしれないです。

「言った言わない・・・」
「あの時、自分はこういう意図でいったつもりなのに、相手には全く真逆に伝わっていた・・・」
「あの人は陰で自分の事を悪く言っている・・・」
「あの人は裏の顔と表の顔が違い過ぎる・・・」
「あの人を信じていたのに、自分は騙された・・・」
「どうして自分の気持ちがあの人には伝わらないのか・・」
「もうあの日には二度と帰れないのか・・」

色々とあると思うのです。そしてその原因も様々な背景があるのかもしれないです。

結局こうした人と人の間のトラブル・すれ違い・ストレスと言うものを解決する事は、
やはり直接、「その人と向き合っていくしかない」という事だと思いますし、
人間と言うものは時に面倒くさい事もあるけど、やはり人と関わっていかざるを得ないという事なのだと思います。

人と人の間のすれ違いの解決方法結は、その人に真正面からぶつかっていく事しかないようなないような気もします。

それがチャイコフスキーが述べていた「人の輪の中に入っていく」という事なのかもしれないです。


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上記でチャイコフスキーの交響曲第4番終楽章において、ラスト近くにおいて怒涛のシンバルの連打があると記しましたけど、
「ららマジ」でシンバルを担当するのは強心臓中学生の伊藤萌です~♪
伊藤萌はシンバルを担当しているクールで小さな中学3年生の女の子で、中学生ですけど東奏学園の器楽部でJKのお姉さまと
一緒に音楽を楽しんでいます。

クールな性格の後輩で、「・・・くるしゅうない、です。」など変わった口調でしゃべるのが個性でもあります。また落語を聞くのが
趣味というJCさんにしては大変珍しく渋い趣味を持っていたりもします。

先輩の小田桐アミを師と仰ぎアミのことを「師匠」と呼び慕っているのですけど、実を言うと小田桐アミは元々は
器楽部のシンバル奏者だったのですけど、シンバル奏者は時に「ここで怒涛の一撃を決める!」みたいなプレッシャーを
時に伴いますので、その重圧に耐えきれず、シンバル奏者の地位を後輩の伊藤萌に譲ったという経緯もあったりします。
そして小田桐アミはその後シンバルからピッコロ奏者にパート変更をしています。

アミがいなくなったシンバルは伊藤萌に継承されていますけど、伊藤萌は見た目の少し控えめな雰囲気とは全く異なり、
大変な強心臓の持ち主でプレッシャーに大変強く、「ここでシンバルの強烈な一撃が必要」という時にはしっかりと確実に
決めてくれる頼もしいJCさんであったりもします。

活発だけど小心者なアミと大人しいけど強心臓な萌の対比もとても面白いですね~♪

吹奏楽コンクールの規定においては、付属高校の場合、高校で部員が不足している場合は、付属中学校の生徒も
メンバーに加えてよいという規定があり、
それによって昭和の頃ですけど、明大明治・日大豊山・土佐女子高校などが高校の部だけど何人かの中学生が加わり
全国大会のステージに立ったという話もあったりします。

東奏学園器楽部ももしかしたらそんな感じだったのかもしれないですね。

伊藤萌以外には、ウクレレの卯月幸、エレキギターの卯月真中華、和太鼓の神田茜、鍵盤ハーモニカの瀬沢かなえ
といった中学生が東奏学園器楽部に在籍しています。

チャイコフスキーの交響曲第4番第四楽章のラスト近くにおけるシンバルの怒涛の連打は聴いていて視覚的にも迫力満点です。
シンバルで16分音符炸裂の怒涛のあの連打はクラシック音楽のジャンルでは大変珍しいと思います。

あの場面のシンバル奏者の体力的な負担と集中度とプレッシャーは相当なものがありますけど、強心臓の伊藤萌だったら
楽しみながらのびのびと連打しまくるのかもしれないですね~♪
「未完成」の交響曲は古今東西存在します。

どうして未完成の音楽作品が存在するのかと言うと、作曲半ばでその作品の完成を断念した事例や
作曲半ばで作曲者本人が死去した事例もありますし、事情はそれぞれあるのかもしれないです。
そしてそうした未完成の状態で残された交響曲作品の中でも、例えばシューベルトやブルックナー・マーラーのように
「形式としては未完成だけど一応1つの作品として解釈できなくもない状態まで仕上げられている作品」と言う事で
現在もプロの管弦楽団の演奏会におけるプログラムとして定着している作品もあれば、
「形式的にも音楽的内容の上でも全然物足りないし仕上がってもいない」と見なされ、演奏もほとんどされないという曲も
多数あったりします。

そうした未完成の音楽作品の中で一番有名なのは、何といってもシューベルトの交響曲第7番「未完成」ではないかと思います。

この曲は、後世の人が断片的に残された第三楽章のスケッチをベースに色々と補作完成させようとした事もありましたけど、
(往年の名作映画の「未完成交響楽」においても第三楽章の断片的スケッチを効果的に流していたのが大変印象的です)
結局は、神秘的としか言いようがない美しすぎる第二楽章だけでそっと終わらせるのが一番ベストだと思いますし、
その後にどんなスケルツォ&フィナーレが鳴ろうとも正直どうでもいいような感じさえします。
シューベルト自身、この美しい第一・第二楽章に続く楽章をどうすべきなのか悩んだ挙句
結局何もしないという結論に達したようにさえ感じます。
シューベルトの交響曲には未完成以外でも未完成状態の作品がありますので、シューベルトの交響曲観としては
「完成しない交響曲があってもそれはそれでいいのかも・・」という考えだったのかもしれないです。

他に完成していない交響曲と言うと、ブルックナー/交響曲第9番をあげたいと思います。
この交響曲は、終楽章は結局は完成していません。
ブルックナー自身、死の床でも何とか完成させようと色々と努力はしていたようです。
「テ・デウム」という合唱曲を終楽章に代用させようとした事もあったみたいです。
この交響曲自体、第一楽章と第三楽章がアダージョ 第二楽章がアレグロと言う事で、構成的に、緩ー急ー緩のシンメトリーを
形成していますし、何よりも第三楽章の完成度が極めて高いので、シューベルトの未完成と同様に、
音楽の形式としては未完成状態なのだけど、音楽の内容的に全然支障がないようにも感じますし、
あくまで形式的に交響曲として完成していないというだけの事であって、感覚的に完成したという解釈でも全然問題ないと
思ったりもします。
1984年の朝比奈隆指揮/読響の定期で、このブルックナーの9番が演奏されましたが、前半に「テ・デウム」を演奏していました。
改めて聴くと、第三楽章だけで十分で「テ・デウム」を終楽章に持ってくる必要はないという印象を当時強く感じたものです。
あの時の演奏会は演奏終了後のスタンディングオペレーションがすさまじくて、朝比奈さん自身も満足そうに何度も
舞台と舞台裏を往復されていて聴衆の声援に満足そうに応えられていたのは大変印象的でした。

マーラーの交響曲第10番もブルックナーの9番と同様の感覚もあり、第一楽章と第三楽章はほぽ完成し、
それ以外の楽章のメモも多数現存という事で、クックが補筆完成させていますが、
これはこれで十分マーラー自身の作曲とという事で通用すべきレベルだと思いますし、交響曲第10番を聴かずして
マーラーをかたる事なかれ・・と感じてしまいます。
マーラーが完全な形で完成させた最後の交響曲は交響曲第9番なのですけど、この曲は諦観・死への悟り・
この世の未練の浄化等が感じられる透明感溢れる一方で、死の予感に溢れた曲でもありまして、この交響曲第9番に
慣れ親しみすぎると、交響曲第10番を聴くとなんだか「一度死んだ人間がこの世に蘇ってきた・・」とか
「一度死んだ人間から見た現世の姿」みたいな感覚を感じたりもします。

未完成状態の交響曲で「これはちょっと通用しそうにも無いかな・・?」と感じるのがボロディンの交響曲第3番だと思います。

生前ボロディンがピアノで交響曲第3番のスケッチという事でグラズノフ達に聴かせ、ポロディンの死後、
その時の記憶をもとにグラズノフが第一楽章として構成し、第二楽章は、ボロディンの別の作品をグラズノフが
アレンジしたものですので、事実上、グラズノフ作曲のものとして聴いたほうがいいのかもしれないです。
エルガーの交響曲第3番も断片的なメモをベースに、ペインが無理やり補筆完成させたものですので、
これも実体はペイン作曲と言っても過言ではないかもしれないです。
チャイコフスキーの最後の交響曲と言うというまでもなく交響曲第6番「悲愴」ですけど、実は未完成作品ではありますが
交響曲第7番という作品もあったりはします。
交響曲第5番の次の交響曲として作曲が開始されのましたけど(曲のタイトルは「人生」というそうです)
途中でチャイコフスキーの気が変わり、ピアノ協奏曲という形式で作品を残そうとしています。
結局ピアノ協奏曲としても第一楽章のみ完成と言う事で未完成に終わり、この第一楽章だけ残された作品は
ピアノ協奏曲第3番と言う事で今でも稀に演奏・録音がされることもあるようです。
交響曲としては、ピアノ協奏曲第3番第一楽章を第一楽章に充て、残りの三つの楽章は他の作品を転用・補作したものを
当てていますけど、率直な感想としては「チャイコフスキーの交響曲は6番までとマンフレッド交響曲があればそれで十分」と
感じさせるものは間違いなくあると思ったりもします。

作曲家も、自分の「死」を意識したら、生前の間に過去の作品はきちんと整理をすべきなのかもしれないです・・
(シベリウスは交響曲第8番という作品も完成直前まで仕上げていたそうですけど、結局は生前に破棄したそうです)

シューベルトの「未完成」なのですけど、実はこの交響曲は、昭和~平成初期の頃のプロの管弦楽団の演奏会でも
CDの解説においても交響曲第8番「未完成」と表記されていました。
しかし今現在は8番と表記されることはほとんどなく、交響曲第7番「未完成」と表記されることが一般的です。
そして現時点では一応シューベルトの最後の交響曲とされている「ザ・グレート」交響曲に至っては、諸説入り混じっていて
第二次世界大戦前あたりまでは交響曲第7番と呼ばれていて、人によっては交響曲第9番説を唱えていたり、
はたまた「実はザ・グレートは交響曲第10番である」という事を唱えている人もいたりもします。
どうしてこんな事になったのかと言うと、シューベルトには未完成状態の作品が多い事に加えて、シューベルト自身が
手紙で「こんな交響曲を書いた」という言及があるものの、肝心の楽譜そのものが発見されず、
幻の存在とされてきた「グムンデン・ガスタイン交響曲」という謎の存在があったりするからです。
シューベルト自身もあの世で、自分の残してきた未完成作品と手紙のおかけで後世の音楽研究家の皆様にこんなにも
大混乱を引き起こしていたとは・・と苦笑いをされているのかもしれないです。

シューベルトの交響曲の表記は、交響曲第1番~6番までは何の問題もありません。

上記で触れたとおり、シューベルトの交響曲「ザ・グレート」は現在では交響曲第8番「ザ・グレート」として認識されていますが、
この交響曲は過去においても今現在でも諸説多々あるようでして、7番説・8番説・9番説・10番説が唱えられています。
7番説ですと、交響曲として完全な形で残された1~6番までを成立順に並べ、やはり完成されたザ・グレイトを
7番目の交響曲として位置づけし、シンフォニーの概念としては未完成状態である未完成交響曲を交響曲第8番として
解釈したという考え方です。
9番説というのが、交響曲第6番作曲後に作られ、一応全ての楽章のピアノスコアは現存し、ほんの一部だけ
オーケストレーションされたその後放棄された作品を交響曲第7番として認め、未完成交響曲を交響曲第8番とし、
「ザ・グレート」を交響曲第9番とする考えです。この説は平成前半まで日本の管弦楽団でもプログラム表記の際の
根拠になっていたと思われます。
そしてある意味珍説とも思われる第10番説なのですけど、これはシューベルト本人が手紙でその存在を示唆していて
幻の存在とされてきた「グムンデン・ガスタイン交響曲」という謎の存在を、その調性も作曲時期すらも明確になっていないけど
未完成交響曲の後にくる第9番として認定し、「ザ・グレート」を10番とするという説です。
現在においては、そのグムンデン・ガスタイン交響曲をその存在自体を疑問視する見解もありますし、
「ザ・グレイト」を作曲する前段階の下書的作品ではないのか・・?という意見も根強くありますので、この10番説を唱える人は
極めて少ないといえそうです。
(補足しますと、グムンデン・ガスタイン交響曲らしき作品と思われる筆写譜が後日発見されて、その曲の主題も長さも
ザ・グレートとよく似ているそうです。但しその筆写譜自体、偽物か本物かは意見が分かれているそうです・・)
1978年の国際シューベルト協会の見解としては、全ての楽章のピアノスコアは現存し、ほんの一部だけオーケストレーション
されその後放棄された作品と幻のサン品とも言えるグムンデン・ガスタイン交響曲の2曲をシューベルトの番号付交響曲から
外し、未完成交響曲を正式に交響曲第7番「未完成」とし、「ザ・グレート」を交響曲第8番と定め、これが今現在の
オーケストラのプログラム表記における根拠とされています。

シューベルトにしてみたら、放棄した作品や何気なく記した手紙の一節で後世の人たちがこんなにも苦労するとは
思ってもいなかったという事なのだと思います。

シューベルトの「ザ・グレイト」は多分ですけどシューベルト最後の交響曲であるとは思いますけど、
上記のマーラーの交響曲第9番でもちらっと触れましたけど、作曲家の場合、
「もしかしたらこの交響曲は自分の現在の体力や創造力等を考慮すると、これが最後の作品になってしまうのかもしれない」と
意識してしまうと、 何かしら死を意識した作品になってしまうのはある意味当然なのかもしれないです。
その最後の作品に何を伝えたいのかというそうした「ダイニングメッセージ」を意識して、その作曲家の最後の交響曲を
聴くという事は意外と興味深いのかもしれません。
自分自身の最後の交響曲に「死」の香りをプンプンと残して旅立った作曲家と言うと、チャイコフスキーとマーラーが
その典型例といえそうですし、私だったらここにマルコム・アーノルドを加えたいです。

私の感じ方としては、マーラーの交響曲第9番は、死を受け入れたとか、死に対しては諦観の感覚を持ち、
諦めの気持ちをもって潔く死を受け入れたから未練はないという感じがあったりもします。
特に第一楽章の冒頭の低音とミュートを付けたホルンとハープのあの独特な響きとか
そ第四楽章の「全ては空の下・・すべては消えてなくなる」みたいな音楽を聴いてしまうと
一度死んだはずの人間が何かの間違いで生き返ってしまい、
死者の感覚として「現世=この世」を見てしまう・・みたいな感覚も感じたりもします。
チャイコフスキーの場合は、いかにもこの世に未練たっぷりで、
「死にたくないよ、死にたくないよ・・、まだ自分にはやるべき事が残っているというのに・・」といったチャイコフスキーの
心の叫びがエコーしてくる感覚があります。
死の意識を自身の最後の交響曲に反映させたと思われる21世紀に逝去された、現代人・アーノルドの感覚は
どのようなものだったかと言うと、それは痛々しいとしか言いようがない音楽だと思います。
その点は、同じくイギリスの作曲家のヴォーン=ウィリアムズと何か近いものがありそうな気がします。
アーノルドもV.ウィリアムズも、共に交響曲第一番第一楽章冒頭で「高らかな希望」を謳い上げる事で作曲家生活を
スタートさせたのですけど、最後の交響曲第9番においては、二人とも長い道程の中で果たし得なかったものを思う苦渋、
または断念という気持ちを感じたりもします。
V.ウィリアムズの場合は、それが何とも言えない寂寥感を感じさせてくれます。
アーノルドの場合は少し違うような気がします。
第四楽章はずっと沈鬱で陰々滅々としたギスギスした荒涼感に閉ざされた音楽が20分以上延々と展開され、
正直聴くだけで自殺したくなるほど「痛い音楽」がかすかに鳴り響きますけど、ラストのラストで光がさーーっと
差し込んでくるように聴こえます。
最後にアーノルドが渾身の力を振り絞って希望の光を楽譜に残したような感覚があります。

同じ「死」を意識した交響曲でも、作曲者よって違いは相当出てくるものだと思われます。

最後に・・余談ですけどデンマークの偉大なる作曲家、ニールセンはその生涯に6曲の交響曲を残しました。
(日本においては、交響曲第4番「不滅」がやたらと有名ですよね~)
そしてニールセンの最後のシンフォニーは交響曲第6番「素朴なシンフォニー」という不思議な曲です。
上記で触れた通り、最後の交響曲というと、例えばマーラー/交響曲第9場番とかチャイコフスキーの「悲愴」のように
「死」を意識しがちなのかもしれないですけど、ニールセンの6番からは不思議とそうした死の要素はあまり感じさせません。
むしろ、音楽の楽しさ・軽快さというものを最後の最後で表現したかったのかもしれませんけど
重厚感・重苦しさ・悲痛さというものはあまりなく、気取らない自然さみたいな部分が非常によく出ていると思います。
一言で言うと「無邪気な交響曲」という感じなのかもしれないです。

この曲は以下の四楽章で構成されています。

Ⅰ.グロッケンで曲が開始され、大変愛くるしいです。

Ⅱ.ユーモレスク

Ⅲ.アダージョ

Ⅳ.変奏曲

この交響曲第6番の最大の特徴は第二楽章だと思います。
第二楽章は管弦楽のシンフォニーなのに、なんと使用される楽器は管楽器と打楽器のみで弦楽器は全く使用されません。
この楽章をCDで聴くと一目瞭然なのですけど、(当たり前ですけど)「吹奏楽の響き」のように聴こえます。
第三楽章の悲痛なアダージョも陰鬱という感じではなくて、死を言意識させる要素はあまりないようにも感じます。
そして第四楽章も、ラストは唐突にファゴットの持続音で閉じられます。

このラストのファゴットの響きを聴くと、唐突という感じもあるけど
一人の作曲家として「何かやり残したものがあった」みたいな何か少し後悔の念みたいなものは少しだけ伝わってくるような
気もします・・・


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上記にてニールセンの交響曲第6番「素朴なシンフォニー」終楽章の最後は唐突にファゴットの持続音で閉じられていて、
とてつもなく奇妙な感じがするし、自分の生涯において少しばかり「やり残したことがある・・」という未練の感情が
このファゴットの音からは感じられると記しましたけど、ららマジにおいてファゴットを担当されているのは、
サックス奏者の橘アンナの双子の妹の方の橘レイナです。

橘レイナの雰囲気は、姉のアンナ以上にクールでミステリアスな美少女だと思います~♪

そしてそうしたミステリアスな雰囲気は、ニールセンの交響曲第6番終楽章におけるファゴットの奇妙な持続音だけで
閉じられるという雰囲気につながるものがありそうです。


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シューベルトの交響曲第7番「未完成」の美しさはこの世のモノとは思えないのですけど、
特に第一楽章のフルート・オーボエ・クラリネットの木管アンサンブルの美しさは何度聴いてもゾクゾクさせられるものが
あります!

フルートの結城 菜々美は、チェロの阿達悠花、胡弓の有栖川 翼、グロッケンシュピールの神代 結菜、箏の橋本 ひかりと並ぶ
ららマジ屈指の美少女の一角だと思います~♪
(というか、ららマジに出てくるJCさん・JKさんはみんなとってもかわいいですよね~♪)
グスタフ・ホルストというと吹奏楽経験者の皆様の感覚で申し上げると、吹奏楽のための第一組曲と第二組曲という
吹奏楽オリジナル作品の中でも不滅の名曲を作曲された偉大なる作曲家という評価は既に確立していると思いますけど、
管弦楽作品としては組曲「惑星」という近代管弦楽曲の中で最も人気のある曲を後世に残されていて、
この素晴らしい名曲はイギリスの管弦楽曲を代表する曲と言えるのは間違いないですし、
特に第Ⅳ曲・木星の中間部のメロディーはクラシック音楽に全然興味がない方でもテレビCMのBGMなどでも大変馴染みが
あると思いますし、一度ぐらいはあの高揚感溢れる素晴らしいメロディーは「どこかで聴いたことがある・・」とお感じになると
思いますし、日本でも2004年に平原綾香の曲でもある「Jupiter」で木星の中間部のメロディーが使用された事でも
馴染みがあると思われます。
木星の中間部のメロディーは、イギリスの愛国歌やイングランド国教会の聖歌ともなっています。

組曲「惑星」はいうまでもなく太陽系の惑星をモチーフにしていますけど、「地球」がこの組曲の中に含まれていないのは
この曲は天文学としての惑星ではなくて占星術から着想を得たためでもあったりします。
ホルスト自身、若い頃はプロの管弦楽団でトロンボーン奏者として活躍していた時期もあり、そのせいなのか
金管楽器の扱い方は大変巧みですし、組曲「惑星」の第Ⅰ曲、火星の中に吹奏楽ではお馴染みのユーフォニアムにソロを
担当させているのも自身の金管奏者としての経験があるからなのかもしれないです。
そして第Ⅶ曲、海王星に女声合唱が使用されている事もあり、組曲「惑星」としての全曲演奏されることは意外と少ないという
事もあったりしますけど、録音・発売されているCDは膨大なものがあったりします。

組曲「惑星」は下記の7曲から構成されています。
(火星と水星の位置が入れ替わっていること以外は、各楽章は軌道長半径上で太陽から近い順番に配列されています)

Ⅰ.火星、戦争をもたらす者

Ⅱ.金星、平和をもたらす者

Ⅲ.水星、翼のある使者

Ⅳ.木星、快楽をもたらす者

Ⅴ.土星、老いをもたらす者

Ⅵ.天王星、魔術師

Ⅶ.海王星、神秘主義者

Ⅰの火星のホルンの雄叫びをはじめとする金管楽器群の咆哮にはいつ聴いてもスカッとさせられるものがあります。
落ち込んでいる時とか気分を奮い立たせたい時には、火星はうってつけだと思います。
火星の冒頭の「ダダダ・ダン・ダン・ダダ・ダン」という5拍子の執拗なリズムの繰り返しは、耳に残りますね~
特にレヴァイン指揮/シカゴ響の演奏の「火星」を聴いてしまうと、他の演奏が全て物足りなく聴こえてしまうほどの
大音響&大迫力があって、この演奏は是非是非お勧めしたいと思います。
上記で記した通り、火星の冒頭には「ユーフォニウム」と言う管弦楽の世界では馴染みがない楽器が使用され、
高音域のソロを朗々と響かせます。
組曲「惑星」はやはり第Ⅳ曲の木星が最も人気があるし、誰しもが一度は聴いた事があるクラシック曲だと思います。
快楽の神らしいスケールの大きく且つメロディーラインが親しみやすい展開がなされていきます。
特に中間部のあの堂々としたメロディーラインは感動すら覚えてしまいますし、あの高揚感は、エルガーの
行進曲「威風堂々」第一番の中間部とラストにおけるあの感動的な高揚感に勝るとも劣らないものがあると思います。
ホルンの勇壮なメロディーラインに乗っかる形のタンバリンも実にいい働きを見せていると思います。
天王星も大変面白いと思います。飛んで跳ねるような曲でもありますが、作曲者自身の多少の悪意というか
悪戯みたいな要素があるようにも感じられます。
天王星の終盤からラストの海王星に至るシロフォーンの扱い方はユニークですしある意味グロテスクですけど、大変
効果的だと思います。
終曲の海王星は一転して神秘の曲です。メロディーがほとんどなく空間を彷徨い続けるような感じです。
一見、無調音楽のように聴こえない事もないですし、調性すら喪失しているような印象すらあります。
ラスト近くで女声コーラスが入りますが、ただ「ウーウー」とハミングするだけです。
この女声コーラスもフェイドアウトというクラシックでは非常に珍しい終わらせ方をするのでその点でも印象的です。
実際の生の演奏会でも、女声コーラスは舞台に顔を出すことはなく、
舞台袖からハミングし、舞台袖→舞台裏→階段などと女声コーラスが移動する事で意図的に声量を落していき、最後は
消え入るように閉じられます。
最後の1小節に反復記号が記され、「この小節は音が静寂の中に消え入るまでリピートせよ」と書かれていますけど、
CDでの演奏はフェイドアウトして終わらせていくという方法を採用しています。
海王星の女声コーラスでの都市伝説というと、舞台袖→舞台裏→階段あたりとコーラス隊が移動を重ねても
声量がまだコンサート会場に届いていて、合唱指揮者が女声コーラスをエレベーターの中に導き、ドアを閉めて昇降させたら
やっと声量が会場に届かなくなり、無事に演奏が静かに終了したというエピソードもあったりするそうです。

20世紀の頃の音楽解説書においては、
ホルストが組曲「惑星」を作曲した頃は冥王星はまだ発見されておらず、海王星が終曲となったと記されている事がありますが、
組曲「惑星」完成後に新たに発見された冥王星について、実はホルスト自身もその新・惑星に大変興味を持っていて
冥王星をモチーフにした曲の作曲を開始したものの、未完成のままホルストは逝去してしまいます。
現実的な話で言うと、2006年8月の国際天文学連合総会における新定義において、冥王星が惑星から除外されてしまい、
名実ともに「海王星」が組曲「惑星」の終曲となった事は大変興味深いものはあります。

冥王星が惑星の一つとまだ定義付けられていた2000年に、冥王星を組曲に追加して現代的に補完しようとする試みもあり、
その中で最も有名なのが、ホルストの研究家でイギリス・ホルスト協会理事の作曲家コリン・マシューズによる
「冥王星、再生する者」なのだと思います。
コリン・マシューズによる「冥王星」は、ケント・ナガノから委嘱を受ける形でハレ管弦楽団のために作曲され、
2000年5月に初演されていたりもします、
冥王星は、海王星で使用した女声コーラスを再度用いている事と、全体的な雰囲気が海王星的な無調的空間を彷徨うな曲でも
ありますので、ホルストの惑星の続編としても現代的感覚を加味したと言う事でも大変面白い試みだと思いますし、
私的にはホルストの継承作品としては申し分のない曲であるように感じられます。
海王星も冥王星も特にメロディーらしい旋律も無く、宇宙空間を神秘的に漂っている共通点があるのが、違和感を感じさせない
理由なのかもしれないですし、冥王星のラストにおいて意表を突く形で女声コーラス―の強めのオ―ーという発声で
閉じられているのも大変面白いです。

上記の新定義で冥王星が惑星から除外されるニュースが広まると、マシューズの冥王星は注目度が高まり、
特に、サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏による「惑星(冥王星付き)の国内版は、
クラシック音楽としては異例の5日で1万枚という異例のセールスを記録し、
冥王星が惑星から外れることで、逆にその存在感を増すという妙な結果になった事も当時一部で話題になっていたものでした。
2000年の大友直人指揮/東京交響楽団の定期演奏会で
組曲「惑星」の演奏が終了と同時にマシューズの「冥王星」も演奏され、ほとんど違和感がなかった事はよく覚えています。


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組曲「惑星」は太陽系の惑星をモチーフにした曲ですけど、20世紀末近くにおいて、太陽系の惑星が一直線に並ぶとか
はたまた地球を中心にした十字架の形で並んでしまうグランドクロスが起きてしまい、その時が人類滅亡の日であると
やたらに煽る世紀末的な雰囲気も一時期ありましたね・・

当時爆発的に売れていた「ノストラダムスの大予言」においては、1986年に惑星一直線が起きて第三次世界大戦が
勃発するとか1999年8月に太陽系の惑星がグランドクロスを起し、その十字架の中心にいるのは地球自身で、
その年にこそまさに黙示録とか旧約聖書で提示されているような「最後の審判」が起き、全人類が滅亡するみたいな事を
盛んに煽り立てていて、当時の中学生・高校生たちあたりに相当のインパクトはあったのかな・・・と
今にして思うと感じる事があります。
結果的に1999年7月の「恐怖の大王が降臨」とか「全人類滅亡」と言うのはとてつもないガセネタであったというのは、
皆様、既にご存知の通りの話だと思います。

私が子供の頃は、人類滅亡の主要因は、宇宙人による地球侵略なんて荒唐無稽な事が
むしろ当時の子供たちの主なイメージと言えたのかもしれないです。
今現在は、地球の終焉というと核戦争の悲劇または地球規模の環境破壊が原因といえそうですけど、どちらにしても
惑星全体から眺めてみると、地球の存在自体がちっぽけなものですので、
理想論をあえていうと、地球全体規模で「それではどうすれば破壊の悲劇を防ぐことはできるのか」とか
「どうすれば世界各地で広がる貧富の差の拡大と格差拡大を防止できるのか」という事を考えることがも地球全体の
課題と言えそうですね。
クラシック音楽の中で、もしかしたらなのですけど、全ての楽器の王様・女王というとそれはピアノなのかもしれないです。

ピアノはピアノソナタ等単独作品としても古今東西たくさんの素晴らしい名曲がありますし、ピアノ五重奏曲といった
室内アンサンブルとしてもその存在感は際立つものがありますし、
ピアノの存在感を最大限発揮したジャンルが管弦楽団と一台のピアノの対話とも言うべきピアノ協奏曲なのだと思います。

18~20世紀初頭までのクラシック音楽の作曲家の皆様たちは、ピアノを管弦楽団内の一つのパートとして使用する事自体が
ナンセンスな話であり、そうした使い方を奏者に指定する事自体がありえない話だったのかもしれないです。
例外としてはサン・サーンスの交響曲第3番「オルガン付」~第二楽章第二部でのピアノ一台で二人の奏者による
装飾音符による連弾ぐらいなのかもしれないです。
(あの部分は二人のピアノ奏者の出番はその数十秒の連弾の部分だけですので、二人とも基本的には退屈そうですね~)

管弦楽の世界では、上記で触れた通り、管弦楽にピアノを用いる場合は、ピアノ対管弦楽の対話という事で「協奏曲」としての
形式が用いられていましたけど、そうした風潮に大きな穴を開けたのが、バレエ音楽「春の祭典」でもってそれまでの
クラシック音楽界の常識をひっくり返したとも言われるストラヴィンスキーだと思います。

ストラヴィンスキーはその出世作のバレエ音楽「火の鳥」でも既にピアノを効果的に用いていましたけど、
その次の作品のバレエ音楽「ペトルーシュカ」でもって更にそうした考えを推し進めています。
ストラヴィンスキーは、管弦楽作品を創造する過程において、ピアノを協奏曲的な主役としての使い方ではなくて、
単なる管弦楽団内の一つの楽器としての役割に徹させる事で、むしろピアノの新しい価値と役割を認識させたような
感じもあったりします。
つまりピアノをあくまで管弦楽団内の一つの素材という事にし、管弦楽団内で例えばクラリネットパート、トランペットパート、
チェロパートがあるのと同じような感覚で「ピアノパート」というものを積極的に活用したという事において、
後世の作曲家に多大な影響を与えたと言えるのかもしれないです。

結果的に20世紀以降の管弦楽作品の中にもごく普通にピアノを管弦楽団内の一パートとして使用している作品も
たくさんありますし(特にバルトークやショスタコーヴィッチ、プロコフィエフに顕著なのかもしれないです)
それによって管弦楽団が醸し出せる音色の幅が広がり、表現の多様性がより大きくなったと言えそうです。

バレエ音楽「ペトルーシュカ」は、指揮者によっては楽団内のピアノ奏者ではなくて、外部からソリスト的にピアノ奏者を
招聘する事もあったりするほどピアノには大変大きな役割が与えられています。
(特にそれが最大限発揮しているのが第一場のロシアの踊りの場面と第四場なのだと思います)
聴き方によっては「このバレエ音楽はピアノ協奏曲なの・・?」と感じるくらいピアノは相当効果的に使用されていますけど、
この曲はピアノ協奏曲ではありませんし、あくまでピアノは管弦楽団内の一つのパートに留まっています。
例えばロシアの踊りの場面とか第3場において、ピアノ奏者の両手の扱いはどことなくですけど、打楽器のシロフォン・マリンバを
彷彿させるものがあるくらいメカニックであるのが大変印象的でもあります。
曲のメロディーラインをずっと担当しているとか目立つソロがあるとかそういう訳ではないのですけど、陰に表に
そのリズムの切れ味と音色の多彩さによって管弦楽全体のサポートに徹しているという印象もあるくらい、主役ではないけど
「いい仕事をしているね~」と感じさせるものが大ですし、むしろピアノ協奏曲以外のジャンルにおけるピアノの無限の可能性を
示唆した作品と言えるのは間違いないと思います。

そしてそうした管弦楽団内の一つのパートとしてのピアノの世界は、その後、例えば、レスピーギの交響詩「ローマの松」や
バルトークのパントマイム「中国の不思議な役人」や「舞踏組曲」等に受け継がれていき、
ショスタコーヴィッチの交響曲の中で更に開花したと言えそうです。

ショスタコーヴィッチの交響曲第5番は、プロコフィエフの交響曲第5番と共に「20世紀の数少ない名交響曲の一つ」だと
思いますが、その第一楽章の開始から中盤までは大変重たく悩み深い空気が流れています。
そしてその重たい第一楽章の空気を一変させ、曲の雰囲気をガラリと重い→活発さ、ゆるやか→速いへと変えるきっかけを
作っている楽器こそがピアノなのです!
ピアノの低音叩きつけから流れが一気に変り、中盤のクライマックスを開始させる大いなる呼び水としての役割を十分すぎる
ほど果たしているのが、結果的にこの交響曲全体ではわずか数十秒程度の出番に留まるピアノだと思います。
あの第一楽章を聴くと、改めてピアノという楽器は別にいつも主役でいる必要もない・・時にはこうした空気を変える役割だって
いいではないかという事を意識してしまいそうです。
ちなみに管弦楽団の現場では、ショスタコーヴィッチの交響曲第5番は全ての楽章にチェレスタパートもありますので、
ピアノ奏者とチェンバロ奏者は普通は兼任していますので、ピアノの出番が終わったらヒマ死という事ではなくて、
ちゃんとチェンバロとしての仕事も残されてはいます。





上記で出てきたショスタコーヴィッチの交響曲ですけど、当ブログの過去記事で何度か書いているように、
例えば交響曲第9番~第四・第五楽章とか交響曲第10番~終楽章、交響曲第7番「レニングラード」~第一楽章における
オーボエの掛け合いの場面などのように、ショスタコーヴィッチの交響曲においては、ファゴットはとてつもなく優遇されている
楽器と感じますし、その使い方は上記のピアノと同様に大変巧いと感じます。

そしてショスタコーヴィッチの交響曲第5番~第二楽章においてもファゴットは大変巧い使い方をされていて、
そうした使用を見るとファゴットの奥深さを改めて感じてしまいます。

ららマジの器楽部のファゴット担当の橘レイナです。

アルトサックス担当の橘アンナは、レイナの双子の姉の方です。

橘レイナは、橘姉妹のミステリアスな可愛いお姉さんの方でしてアンナの双子の妹の方です。
バトル時の武器はファゴット型の狙撃銃で、複数の銃を同時に発射することもできるそうです。

お顔は双子という事でアンナとかなり似ている雰囲気もありますけど、アンナがボーイッシュな雰囲気なのに対して、
レイナの方はいかにも女の子という感じで、かわいらしい!というオーラに溢れていると思います。

橘レイナが奏でるファゴットによるショスタコーヴィッチの交響曲の奥深い世界も味わってみたいですね~♪

平成の頃に発売され、クラシック音楽のジャンルなのに異例の大ヒットアルバムとなった「カラヤン・アダージョ」に
象徴されるように、クラシック音楽の中には大変分かりやすくて人の心にまっすぐと伝わり、思わず涙ぐみそうな美しい
メロディーラインの曲もたくさんあったりします。
代表的な楽曲として、例えば、マーラーの交響曲第5番~第四楽章・アダージェットとかシューベルトの
交響曲第7番「未完成」~第二楽章とかマスカーニ:ーの歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」~間奏曲とか
バッフェルベルのカノンとかJ.S.バッハのG線上のアリア とかチャイコフスキーの弦楽セレナード ~第3楽章とか、
エルガーのエニグマ変奏曲~ニムロッドなどなど多数あると思います。

そしてこの世のモノとは思えないあまりにも美しすぎてジーンとなってしまうクラシック音楽のメロディーというと、
ラフマニノフの作品は絶対に避けては通れないと思います。
当ブログのクラシック音楽カテゴリの中でも、ラフマニノフは登場する機会はかなり多いと思うのですけど、
その中でも「そしてこの世のモノとは思えないあまりにも美しすぎる音楽」にぴったりと当てはまるのが
ピアノ協奏曲第2番(特に第一楽章と第二楽章)なのだと思います。
第一楽章の遠くから聞こえる鐘の音のような音の表現や第二楽章の甘くせつないメロディーラインと終わり近くの
弦楽器によるメロディーラインの再現とそれに対するピアノの絡みや第三楽章の決別とした凛々しい雰囲気など
全ての楽章が名曲の名に恥じない光り輝く素晴らしい曲だと思います。

そしてもちろんピアノ協奏曲第2番も素晴らしいですけど、それと同じくらいあまりにも美しいメロディーラインの連続と
郷愁とメランコラリー溢れるラフマニノフの管弦楽作品と言うと、

〇交響的舞曲

〇交響曲第2番

〇パガニーニの主題による狂詩曲

といった曲も強烈に推したいと思います。

交響的舞曲の第一楽章と第三楽章の中間部におけるあの郷愁感溢れるメランコリーと美しさ、
交響曲第2番第三楽章のどこまでも延々と続く甘くせつないメロディライン
パガニーニの主題による狂詩曲における第18変奏曲のあの美しさは本当に「素晴らしい!」としか言いようが無いです!
この世のものとは思えないはかない美しさに満ち溢れています。

ラフマニノフの作品は、ロシア革命勃発による亡命前と亡命後においても曲の雰囲気自体に大きな変化はないと
感じられます。
亡命後においては、ラフマニノフの祖国のロシアに対する想いと郷愁の要素がさらに加わり、そうした事が
この世モノとは到底思えないような美しさに繋がっているのかもしれないです。

1917年のロシア革命によりロシアはソビエト連邦という社会主義国家となり、国家体制が激変します。
元は貴族の血筋という事でそうした共産主義政権を嫌ったラフマニノフは、不本意ながらも祖国を離れアメリカへの亡命を
決断します。
似たような背景の作曲家というとプロコフィエフもそうなのですけど、プロコフィエフは一度亡命したものの、
祖国の事が忘れられずに、スターリン体制化のソ連に復帰をします。
それに対してラフマニノフは「一度決断した事は翻す事は出来ない」という元からの頑迷な性格もあったのかもしれないですし、
はたまたスターリン体制化の粛清と弾圧と統制まっしぐら状態の祖国に対する不信感もそこにはあったのかもしれないです。
結局ラフマニノフは亡命以降は一度も祖国に足を踏み入れる事も無く、祖国の事に対する郷愁の念は持ちつつも
その生涯を主にアメリカで過ごしています。
アメリカでは作曲家というよりはむしろコンサート・ピアニスト、つまり演奏家として活躍します。
ラフマニノフは2m以上の巨体で手も非常に大きく、指の関節も異常なほど柔軟でピアノを弾くには恵まれ過ぎた体格の
持ち主であり、その演奏技術も非常に高く、リストと並び称されるほど音楽史上有数のヴィルトゥオーゾとしても有名です。
そのため、亡命後のアメリカにおいては演奏家としての方が知名度が高く、ピアニスト・ラフマニノフとして評価される事の方が
大きかったそうです。
(似たような事例としては、作曲家としての顔よりも指揮者の顔としての方が高く評価されがちなバーンスタインとか
生前中は作曲家というよりは指揮者としての評価と名声が高かったマーラーと相通ずるものがあるのかもしれないです)
そのため、アメリカ亡命以降のラフマニノフは演奏家としての仕事があまりにも多忙過ぎて、作曲家としての時間を
なかなか持てなかったという事情もあり、アメリカ亡命以降の作品は、例えば、交響的舞曲・交響曲第3番・ピアノ協奏曲第4番、
そして本記事で少しばかり取り上げさせて頂く「パガニーニの主題による狂詩曲」などごく限られた作品に留まっています。

パガニーニの主題による狂詩曲』は、最晩年の作品の「交響的舞曲」と合わせてラフマニノフの望郷の念が
かなり色濃く出ていると言われています。

タイトルにはピアノという文字や協奏曲という形式も表記されていませんけど、実質的には変奏形式を伴ったピアノ協奏曲と
言えます。
曲自体は主題と第1変奏~第24変奏の形式で構成され、演奏時間は大体24分前後です。
管弦楽で演奏される主題にパガニーニのカプリース第24番を用いていて変奏自体はラフマニノフのオリジナルとなっています。
この種の変奏曲と言うのは一般的に最初に主題を奏でて、それに対して変奏が展開される傾向があるのですけど、
この曲は、堂々とした序奏の後に第一主題が奏でられ、第二主題に入る前に、そのパガニーニの元ネタの主題がピアノで
奏でられ、曲が一度中断されたような形の後で再度第二主題以降が展開されていきます。
単なる主題と変奏にならないようにラフマニノフも色々と曲の中に工夫をしていて、例えば曲の中に
グレゴリオ聖歌の「レクイエム」の怒りの日のテーマも取り入れるなど最初から最後まで飽きることはまずないと思います。

そしてこのラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」の中で最も有名な箇所は、誰が何と言っても
第18変奏Andante cantabile(アンダンテ・カンタービレ)だと思います。
パガニーニの主題の反行形を最初はピアノが独奏で演奏し、その後オーケストラがそれを受け継いで演奏するのですけど、
この第18変奏だけ演奏されることも多いほど、この第18変奏の人気は高いものがあり、テレビCMや映画でもBGMとして
何度も使用されています。

映画のBGMとして使用された事例として、

三つの恋の物語(1953)
ラプソディー(1954)
ある日どこかで(1980)
愛と死の間で(1991)
恋はデジャブ(1993)
麗しのサブリナ(1995)
ONIN(1998) といった作品が挙げられると思います。

それにしてもあの第18変奏曲は、本当に人の心に何かを伝えるものがあります。
いつ聴いても、何か涙が自然と出てきそうな不思議な哀愁・郷愁がそこには溢れていると思います。
この曲を全部聴くのはちょっとかったるい・・と感じられそうな方は是非ぜひ一度You tube等で第18変奏曲だけでも
聴いて頂ければ幸いです。
多分ですけど多くの人は「どこかで聴いたことがある」とか「あ、この曲がそうなのか~」と感じられると思います。

私が仙台の実家にいた頃、当時よく東北放送(関東で言うTBSラジオ)が掛けられていました。

日曜日の朝、東北放送では、当時「キューピー・バック・グラウンドミュージック」という音楽番組があり、
この番組のエンディングテーマがラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」の第18変奏曲だったのです。
当時は曲名も作曲者名も何も知らず、何となく聴いただけという感じでした。

この曲を知ったのは、1993年の5月の東京シティフィルのサントリーホールでの演奏会でした。
前半がハイドンの交響曲第101番「時計」とパガニーニの主題による狂詩曲、後半がチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」で、
ピアノソリストは中村紘子、指揮者は十束尚宏でした。
当時は、この「パガニーニの主題による狂詩曲」という曲は知りませんでした。
曲が開始されると、パガニーニのあの主題は結構有名ですので「あ、この主題は聴いたことがある」という感じでしたけど、
第18変奏が始まると本当に驚きました。
子供の時聴いた「キューピーバッググラウンドミュージック」のED曲が流れてきていて、
「あのメロディーは実はこの曲だったのか~!?」と改めて気が付き、懐かしいような、嬉しいような気持ちとなりました。
子供の頃の記憶は、数十年経過していても意外とはっきりと残っているものでもあるものですね。

当日のサントリーホールの演奏会は当日券で購入し、P席(演奏者の後側の席)でしたので、指揮者や中村紘子の表情は
間近で見ることが出来ました。
私の座席の目の前にバスドラム・シンバル・グロッケン等の打楽器が配置されていて、ちょうど私の座席の真正面が
グロッケンシュピールが配置されていて、一曲目のハイドンの時計は打楽器はティンパニのみですので、グロッケン奏者は
その際は配置されておらず、グロッケンの「「パガニーニの主題による狂詩曲」のパート譜面をマジマジとお目に掛かる事が
出来た事は大変貴重な経験だったと思います。
もっとも曲のほとんどは休符という指示でしたし、グロッケン自体は重要なソロがある訳ではないですけど、部分的に
スパイス的な役割も見せてくれていて、天国的な響きの色彩を時折目の前で伝えてくれていて、大変印象的でもありました。


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ららマジで、グロッケンシュピール(鉄琴)を担当している高校3年生の女の子は、神代結菜お姉さまです~♪
神代結菜は器楽部創立メンバーの一人でもあります。

余裕たっぷりの柔らかな物腰、豊満なスタイルと、まさしくお姉さまといったタイプのすてきなJKさんですけど、
その醸し出される大人の魅力は、主人公のプレイヤーすらも惑わせてしまう魅力なのだと思います。
だけど昔から優雅ですてきなお姉さまだったという訳ではなくて、実は昔は孤独にさい悩まされ、心も荒んで荒れていた時期も
あったとの事で、その意味では酸いも甘いもわかるすてきなお姉さまという事なのだと思います。

誰にでも分け隔てなく優しく接しますけど、以前の孤独の反動からなのか好意を抱いた相手には
少々暴走気味な愛情表現を見せることもあるそうでして、
マイペースすぎるあまり、時に理由なく学校をサボるという悪癖もあるそうです。

意外にも実は器楽部の部内でトップクラスの怪力の持ち主であったりもしまして、林檎を片手で握り潰せる七瀬沙希を
圧倒するほどの怪力でもあるそうです。

サントリーホールで私が体感したように、P席において私の目の前にグロッケン奏者の神代結菜のようなすてきなお姉さまが
配置されていたとしたら、音楽どころじゃないのかもしれないです・・


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私服の神代結菜お姉さまもとっても美しくて魅力的ですね~♪

以前、すみだトリフォニーホールで「地方オーケストラシリーズ」という企画があり、その時に招待されていたのが
関西フィルで、その時の曲目が、パガニーニのカプリース第24番の主題の弦楽合奏版、
ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲、交響曲第2番と実質的にオールラフマニノフプログラムでしたけど、
その時に大変印象的だったのは、一般的に現在の日本のプロの管弦楽団の金管楽器や打楽器はまだまだ男性奏者の方が
多いのに、関西フィルの当時の打楽器パート6人は、男性のティンパニ奏者以外の5人は全員若い女性奏者でしたので、
当時はそれが大変新鮮で印象的でした~♪

グロッケン・シンバル・スネアドラム・トライアングル等の打楽器が全員若い女の子というのは、今にして思うとららマジ器楽部を
彷彿とさせるものもありそうですね。
ショッピングモールとか大型商業施設等の1月1日~3日の初売りの際の定番のお正月用BGMとしては、
宮城道雄の「春の海」や雅楽「越天楽」は一つの定番なのかもしれないです。
この種の曲は日常にBGMとして店内で流したとしたら相当な違和感はあると思いますが、
正月と言うのんびりとしたおめでたい時間にこうした曲を流しても全然違和感はありませんし、気持ちとしては
「日本のお正月だよね~」という雰囲気はあると思います。

越天楽は元々は、龍笛・篳篥・笙などから構成される雅楽の曲で、宮廷音楽というのか雅楽の中では一番知名度がありますし、
和式の結婚式においては定番のBGMの一つだと思います。
越天楽は越古くから存在する雅楽ですが、日本と西洋の楽器の種類の違いはあるにせよ、基本的には弦楽器・管楽器・打楽器
から構成されています。
西洋の弦楽器に相当するのが、琵琶と筝であり、西洋の管楽器に相当するのが竜笛・笙・篳篥であり、打楽器に相当するのが
楽太鼓・鉦鼓と言えると思います。

「楽器の基本的構成が同じならば、越天楽を西洋楽器を使用した管弦楽に編曲にするといのもありではないのか?」という事を
思いつき実践されたのが近衛秀麿編曲の管弦楽版「越天楽」です。
近衛秀麿は元々お公家さんの一族でしたけど、西洋音楽もしっかりと勉強されていて、
楽器の移し替え・移調は、案外造作はなかったのかもしれません。
それでは具体的に元の越天楽の雅楽の楽器をどのように管弦楽で使用する楽器に置き換えたのかと言うと、
•笙→ヴァイオリン
•龍笛→フルート、ピッコロ
•篳篥→オーボエ、ソプラノサックス、トランペット、エスクラ(小クラリネット)、ヴィオラ、チェロ
•鞨鼓→スネアドラム
•鉦鼓→トライアングル
•太鼓→大太鼓
•箏→ホルン、ピアノ、クラリネット
•琵琶→ファゴット、チェロ となっています。

面白いのは琵琶をファゴットに置き換えた事だと思います。聴こえてくるのは確かにファゴットの音色ですけど、
なんとなく琵琶っぽく聴こえなくもないです。
龍笛をフルートに置き換えたのはそっくりそのまんまという感じもしますし、打楽器はほぼ忠実に置き換えているような
印象もあります。
箏をホルンやピアノに置き換えるちょっと意表をついたアレンジは、近衛秀麿が指揮者としての実地での経験を
活かしているようにも感じられます。

本物の雅楽によるオリジナルの越天楽も聴いたことがありますけど、単純に比較すると管弦楽編曲の越天楽との
違いは当然大きいです。管弦楽版の越天楽は何よりも音楽の作り方は西洋風そのものに聴こえます。
編曲者の近衛秀麿のできるだけ雅楽風に歌わせようとする意図は分かりますけど、
どうしても小節の頭で楽器同士が揃ってしまう感覚は強いと思います。
雅楽みたいな微妙なズレというのか「間」というものが必ずしも絶対的にそこにある訳ではなくて、
どうしても西洋合理主義に由来する「楽譜に書かれている事をまずは正確に正しく表現しよう」という感覚が
日本的なあいまいさ・微妙さ・わびさびの感覚を上回っているようにも感じられなくもないです。
一方で元の雅楽としての越天楽と管弦楽編曲版の越天楽の双方においての曲のメロディーラインの雰囲気自体は、
驚くほど良く似ているようにも聴こえます。
そう思える根拠は、言葉にすると大変難しいのですけど「ゆったりとしたゆるいテンポ」が
例え本来の雅楽で演奏しても西洋楽器で演奏しても、大した違いは出ていないという事があると思えますし、
この極めてゆったりとしたテンポが、いかにも日本古来らしいメロディーを奏でる事に大変よく合っているからなのかなぁ・・とも
感じたりもします。

私自身、管弦楽版の近衛秀麿編曲の「越天楽」はほとんど聴いたことがなかったのですけど、
21世紀に入って間もなくの頃、ナクソスレーベルから、沼尻竜典指揮/都響の「邦人作品集」のCDが出て、
この中にこの「越天楽」が収録されていました!

このCDを最初聴いた時は、正直驚きました。
全く違和感がなく、以前何となく感覚で聴いていた雅楽としての越天楽を西洋楽器の管弦楽版で聴いても、
それ程大きく変わったという感じは正直しませんでした。
演奏が、テンポがゆっくり気味で、非常に音色が洗練されているというせいもあるのかもしれませんけど、
意外なほどそこに違和感はありませんでした。

以前何かの実験番組か何かで、雅楽のような和楽器で、チャイコフスキーの白鳥の湖とか
グリンカの歌劇「ルスランとリュドミーラ」序曲を演奏しているのを見た事がありますけど、
この時は相当な違和感は感じたものでした。
この違和感というのは「能や文楽を金髪碧眼の西洋人が演じた時に日本人が感じる違和感」に近いものがあるのかも
しれないです。
越天楽の管弦楽版を最初に聴いた時の事前の予想としては。
上記のように例えばアメリカ人が歌舞伎とか能とか文楽を演じた時みたいな違和感を感じるのかなと
思っていましたけど、そうした違和感は全くありませんでした。
和の楽器で西洋の音楽を奏でる事と洋の楽器で和の音楽を奏でる事の違和感の違いは大変興味深いですし。
そこには「日本人にしかわからない感覚」というものもあると思います。

黛敏郎にも「舞楽~BUGAKU」という越天楽と発想が同じような曲があるのですけど、
こちらもあまり違和感がないという印象はあります。
この曲を更に吹奏楽にアレンジして演奏した1995年の秋田南高校の素晴らしい演奏もあるのですけど、この吹奏楽版舞楽も
聴いていて全く違和感は無いです。

この管弦楽版の「越天楽」なのですけど、実は第二次世界大戦前にこの曲を録音されていた超大物指揮者がいました!
それこそがストコフスキー指揮のフィラブルフィア管弦楽団でした。
ちなみにその音源はSPレコードです。
近衛秀麿が編曲し指揮した管弦楽版「越天楽」を聴いたストコフスキーが気に入ってコンサートで演奏し、
こうやって録音まで残していたのですね!
ちなみにこのSPレコードは聴いたことがないのですけど、演奏自体はとっても興味があります。
果たして沼尻さん指揮の都響の演奏に比べてそこに違和感はあるのかないのかは大変面白いものがありそうです。


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ここから下記は「ららマジ」の話です~♪

橋本ひかりは、箏を担当している高校3年生のJKさんです。

橋本ひかりは、身長が高くスタイルがよい美少女というよりは、ララマジ屈指の正統派美人さんだと思います!

同じ和楽器担当という有栖川翼とは対照的に、引っ込み思案で恥ずかしがり屋な性格で、
特に男性に関して強い苦手意識を持っているというのも、アニメ・ゲームにおける美少女キャラのこれまたすてきなお約束の
一つなのかもしれないです。

面倒見がよく器楽部の後輩からは大変慕われているそうです。

管弦楽版の越天楽の箏はホルン・ピアノ・クラリネットに置き換えられていますけど、元の雅楽として越天楽を聴くと、
箏の響きは古き日本の情緒みたいなものを感じさせてくれていると思います。
雅楽を管弦楽にアレンジする事もかなり大胆な発想ですけど、それ以上に大胆で無茶苦茶な編成のららマジ器楽部による
越天楽というのも面白いものがあるのかもしれないですね~♪
ヴァイオリンの奏法の基本は言うまでも無く弓の毛を弦でこする事なのですけど、それ以外の奏法の一つとして
挙げられるのが「ピッツィカート」だと思います。
ピッツィカートとは弦を指ではじくことによって音を出す演奏技法の事です。
ヴァイオリンの場合、ピッツィカートは弓を持つ右手で弦をはじくことが普通ですけど、例外的に
本来は弦を押さえる左手で弦をはじくという左手のピッツィカートを導入したパガニーニや
弾く際に弦を指板と垂直に強く引っ張って離して弦を指板にぶつけるバルトーク・ピッツィカートという奏法もあったりもします。

ピッツィカートは指でポン!と弾く感じなのですけど、弦のどの部分を弾くかによっても、はたまたどの指で弾くかによっても
音色は微妙に変化しますので、そのあたりは指揮者の好みも反映されるのかもしれないです。
ピッツィカートの弾けるようなポン!という音色で曲が開始される曲としては、メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」の
第一楽章を挙げたいと思いますし、ピッチカートはピッチカートでもバルトーク・ピッツィカートみたいな感じで
激しく叩く事で何やら不気味な雰囲気を醸し出している曲の事例としてマーラーの交響曲第7番「夜の歌」~第三楽章を
挙げたいと思います。

さてさて、そうしたピッツィカートの奏法でもって一つの曲または一つの楽章を構成したという珍しい楽曲も稀にあったりします。

そうした曲として思い浮かぶのが一つがチャイコフスキーの交響曲第4番~第三楽章であり、
もう一つがL.ドリーブのバレエ組曲「シルヴィア」 ~Ⅲ.ピッツィカートだと思います。

チャイコフスキーの交響曲第4番~第三楽章は、コントラバスの超低音からヴァイオリンの高音まで、そして弱奏でも強奏でも、
ピッツィカートで楽章全てを駆け抜けていきます。
更に面白い事に弦楽器のピッツィカート、木管合奏のピッツィカート、金管合奏のピッツィカートがそれぞれ独立して演奏され、
最後にはそれら全てが一つになって融合するオーケストレーションの巧さは素晴らしいと感じます。

ドリーブのバレエの方のピッツィカートも大変面白いですし、とても楽しいです。

バレエ音楽というと、私自身としては、チャイコフスキーの三大バレエ(くるみ割り人形・白鳥の湖・眠りの森の美女)とか
ストラヴィンスキーの三大バレエ(火の鳥・ペトルーシュカ・春の祭典)というように ロシアというイメージがあるのですけど、
フランスのバレエ音楽も繊細で美しくて、ロシアバレエとは別の魅力もありどちらも素晴らしいと思います。

そうしたフランスバレエというと忘れてはいけない作曲の一人がL.ドリーブだと思います。
ドリーブはフランス・バレエ音楽の父とも称されていて、迫力や壮大さよりもむしろ優美で繊細な舞台音楽を残した事でも
知られています。
吹奏楽コンクールにおいて、ドリーブというとバレエ音楽「コッペリア」だと思います。
1985年に中村学園が全国大会で初めてこの曲を自由曲として取り上げ、マズルカ-ワルツ-チェルダッシュという構成も
巧みで編曲が大変優れている事もあり、翌年以降今日に至るまでコッペリアは定番自由曲の一つにもなっていると
思います。
中村学園の功績は、吹奏楽の世界における女子高チームのパイオニア的存在であり、コッペリアと1986年の自由曲でもあった
バレエ音楽「バリの喜び」を世に知らしめたという事が大変大きいと思ったりもします。
現在の吹奏楽コンクールにおける女子高の雄の一つが福岡県の精華女子なのですけど、中村学園も福岡の女子高である事を
考えると、福岡の女子高の偉大さを痛感せずにはいられないです。

ドリーブとチャイコフスキーは、何となくチャイコフスキーの方が大先輩のような感じもするのですけど、
実際は逆にチャイコフスキーの方がドリーブのバレエ音楽から影響を与えられた側面も多少はあったようでして、
チャイコフスキー自身はドリーブのバレエ「シルヴィア」を絶賛し、知人タネーエフに
「もし私がもっと早くこの作品を知っていたら、私は白鳥の湖を作曲しなかっただろう」と語ったエピソードが残されています。

ドリーブの「コッペリア」と「シルヴィア」は上記で触れた通り、 吹奏楽コンクールでは頻繁に演奏される人気曲の一つ
なのかもしれませんけど、 プロの管弦楽の演奏会ではあまり演奏されないようにも思えます・・・
私自身、この両曲の生演奏は新日本フィルの演奏以外聴いたことがありません。
特に「コッペリア」のマズルカ・ワルツ・チェルダッシュや「シルヴィア」のバッカスの行列は聴いていて本当に楽しい曲ですし
子供向けのファミリーコンサートには最適な曲だとは思いますので、もっと演奏頻度が上がってもいいような気もします。

バレエ音楽「シルヴィア」なのですけど、バレエの大筋はギリシア神話から題材を取っています。

ストーリーを簡単に記すと・・・・

羊飼いの青年アマンタが美しい妖精シルヴィアに恋してしまいます。
しかし、妖精と人間の恋愛はご法度で絶対的に禁じられた恋でもあります。
そんな二人を愛の神エロスが何とかしようと画策する中で、
悪しき狩人のオリオンがシルヴィアを奪い自分の洞窟にお持ち帰りをしてしまいます。
拉致されたシルヴィアはオリオンをお酒で酔いつぶし、 その隙にキューピットに助けられて洞窟から逃亡を図ります。
最後は愛の神エロスのとりなしにより、めでたくシルヴィアとアマンタは結ばれ めでたく結婚することになるといった
お話でもあります。

全体的に暗い影も無く明るく楽しい作品でハッピーエンディングで終るところがいいですね。

全体的な印象としては、平凡な普通のお話なのですけど
その意味では、「人形」をバレエの世界に持ち込み、人形を初めてバレエの主人公にしてしまった
「コッペリア」の方が斬新と言えるのかもしれまないです、
考えてみると、人形が主人公のバレエと言うと、圧倒的に有名なのはストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」なのですけど、
そうした意味ではドリーブはストラヴィンスキーの先駆者的存在だったのかもしれないです。
もっともドリーブの音楽はストラヴィンスキーのような過激・野蛮・ワイルドさとは全く別次元の洗練された平和な音楽です。

このバレエは、四つの曲から構成される組曲版としての方が音楽としてはお馴染みなのかもしれないです。

この組曲は下記の四曲から構成されています。

Ⅰ.前奏曲と狩の女神

Ⅱ.間奏曲とゆるやかなワルツ

Ⅲ.ピッツィカート

Ⅳ.バッカスの行列

Ⅰは、全体的にホルンが大活躍を見せていますね。冒頭のトランペットのファンファーレと絡むティンパニが格好いいです。
Ⅱは、いかにも抒情的なバレエの調べという感じで、主役がソロをゆったりと踊っているシーンが目に浮かんできそうです。
Ⅲのピッツィカートは前述のチャイコフスキーの交響曲第4番第三楽章のように
とにかく全体を弦を爪でポンポンと弾くピッツィカート奏法をかなり効果的に使用しています。
シルヴィアは以前Eテレでハイライトを放映した事があったと思いますが、 「ピットカート」の部分はバレリーナがソロで
可愛らしく可憐に踊っていたような記憶があります。
Ⅳは、とにかく楽しい曲で、ⅠのメロディーがⅣで再現されています。
トランペットの勇敢なファンファーレがかっこよくて、ラスト近くで一旦静まりかえり、そこからティンパニのソロが展開され
華麗に曲が閉じられますが、この際の金管セクションの和音の響」が実に見事にハモっていて、ドリーブのセンスの良さを
感じさせられます。

フランスのバレエ音楽と言うと、例えばラヴェルの「ダフニスとクロエ」みたいな豪華絢爛な音の絵巻を思い出してしまいますが、
こういうシンプルだけど楽しい曲も素晴らしいと思います。

吹奏楽コンクールの全国大会においては、シルヴィアはコッペリアよりははるかに演奏頻度は下がりますけど、
過去にいくつかのチームが自由曲として演奏をしています。
吹奏楽コンクールではⅣのバッカスの行列を選ぶことが多いのですけど、中には、1999年の松山南高校のように
ⅠとⅢのピッツィカートとⅣのバッカスの行列を組み合わせた珍しいパターンもあったりします。
そして松山南高校のピッツィカートは、当時私も普門館であの演奏を聴いていてびっくりしたのですけど、
あの弾ける感じをメインで奏でていたのはクラリネットではなくてマリンバ奏者でした!
松山南のⅢのピッツィカートは全体で1分程度の短いものでしたけど、それをマリンバ奏者がまるで協奏曲のように
ほぼ一人でメロディーラインを奏でていて、当時は聴いていて、多少の違和感はあったものの、それはそれで大変ユニークな
表現と感じましたし、あのマリンバ奏者は当日のソリスト賞を贈呈したい気持ちでもありました。


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ららマジのヴァイオリン奏者の九条紗彩は高校1年生の女の子です~♪

自分に厳しく人にも厳しいプロ意識の高いヴァイオリン少女 という設定です。

自分にも周囲にも厳しいため、一見わがままだと誤解されることもありますけど、根は優しくて世話好きでもあります。
極度の照れ屋で自分の気持ちを素直に表現できないという事で、ららマジの中ではツンデレの一人と
言えそうです。

九条紗彩はヴァイオリンのプロを目指しており、神童と呼ばれるフルート奏者の菜々美に密かな憧れやライバル心を
抱いてもいます。

薄いバイオレットのロングヘアーですけど、おでこの露出がなんだかとてもかわいいです。

こういうおでこをしたツンデレ気味の美少女JKさんにデコビンを食らわしてやったら、その反応はなんだか
「私、気になります・・」という世界になりそうですね・・


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夕陽に佇むサンセット九条紗彩はとても美しいです~♪

九条紗彩のヴァイオリンというと優雅という印象もありますけど、L.ドリーブのバレエ組曲「シルヴィア」 第Ⅲ曲のピッツィカート
で弾ける雰囲気の九条紗彩も見てみたいな~という想いもありますね。
イギリスの作曲家、エルガーと言うと 日本では行進曲「威風堂々」第1番と小品ですけど「愛のあいさつ」などが
馴染み深いと思いますし、威風堂々のあの高貴でおおらかな中間部は多分ですけど、誰でも一度くらいは耳にした事が
あるはずと思われるぐらい日本でも大変有名なメロディーです。
私も威風堂々第1番はとても大好きな作品ですし、このブログで何度か語らさせて頂いた通り、高校の卒業式において、
卒業生の入退場の曲は私が在学していた頃は毎年、卒業式の会場の体育館の最後方部に位置していた吹奏楽部によって
エルガーの行進曲「威風堂々」第1番が演奏されていましたので、私自身この曲を聴くと「卒業」という言葉とか
卒業式の時には既に進学先が都内の学校と決まっていたので「これでようやく親元と東北の地を離れることができる」という
期待感と不安感が交錯した当時の甘酸っぱい気持ちをついつい思い出してしまいます。

エルガーは「音楽不毛の地」と18~19世紀の頃にフランス・ドイツ・イタリアなどから揶揄されていたイギリス出身なのですが、
エルガーの出現によってイギリスではパーセル以来の大作曲家が登場したと生前から大変な尊敬と敬愛を集めていて、
その遺した楽曲の多くは母国イギリスのみならず、世界中の演奏会で取り上げられていますし、
特に交響曲第1番や威風堂々第一番や愛のあいさつ、チェロ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、オラトリオ「ゲロンティアスの夢」
などは今現在も世界の管弦楽団においてはレパートリーとして定着していると思います。
イギリス人にとっては、威風堂々第1番は国歌であり、エルガーの存在は「国宝」とすら言えるのかもしれないです。
エルガー以降、イギリスの楽壇には、ヴォーン・ウィリアムズ、ホルスト、ブリテンなど著名な作曲家たちが続々と現れ、
そうした流れが当ブログのクラシック音楽カテゴリでは頻繁にその名前が登場しているマルコム・アーノルドへと
受け継がれているのかもしれないです。

さてさて、そうしたエルガーなのですけど、実は意外にもエルガーは正規の音楽教育はほとんど受けていません。
イギリスは昔も今も階級社会で階級間の格差が伝統的に存在する国ではあるのですが、エルガー自身は
いわゆる平民の子で、父親は楽器屋兼教会のオルガン奏者でもありましたけど、父親自身はエルガーにオルガン奏者を
継がせる気は全く無く、むしろ法律家になってほしいと願っていたようです。
エルガーは家が楽器屋という事もあり、小さい頃より音楽や楽器に慣れ親しんでいて、そこから音楽に色々と興味を
持つようになったものの、家庭の経済環境はそれほど裕福ではありませんので、音楽学校に進学して専門的に学ぶという事は
できなかった事もあり、ポケットにチーズとパンを入れて広場に赴き、そこで自然の風景と向き合いながら、ベートーヴェンや
モーツアルト・バッハ等の偉大なる作曲家が残した楽曲の総譜を分析・解釈していき、全くの独学で音楽を学んでいきます。
エルガーは神童というタイプではなくて、楽譜を読んで理解する能力に大変長けていたという事が言えるのだと思います。
そして驚くべき事に、基本的には独学でピアノ・ヴァイオリン・ファゴットといった楽器をマスターし、更には作曲法すらも
独自に習得をします。
エルガー本人はアカデミックな音楽教育を希望し、海外留学も望んでいたようですけど、それは結局果たされる事も無く
一時は父親の仕事を手伝ったり弁護士事務所の事務員としての仕事も余儀なくもされています。
細かい経緯は省略しますけど、その後、ヴァイオリン奏者としての仕事や合唱団の活動の指導や指揮、
そしてヴァイオリン教室を開いてそこでヴァイオリン講師を務めるなどして、30代の初めまでは決して裕福とはいえない
生活をしていました。

そうしたエルガーに人生最大の転記が訪れます!

前述の通りエルガーは生計のためにヴァイオリン奏者の他にヴァイオリン教室の講師も務めていて、その教室に
一人の美しい女性がエルガーのヴァイオリンの弟子になります。
その女性こそがキャロライン・アリスでして、出会ってから3年後に二人は結婚します。
エルガーにとってはこの結婚は一つの大冒険でもあったと思います。
というのもキャロライン・アリスはエルガーよりも8つも年上という事もありましたが、一番大きな障壁は
冒頭でも書いた通り、イギリスは今も昔も階級が存在するある意味格差社会でもあるのですけど、
エルガーは普通の平民の子であったのに対して、キャロライン・アリスの方は父親がサーの称号を持つ陸軍将校の娘という
いわば上流階級のお嬢さまであり、アリス自身はエルガーと出会う頃には既に詩人・作家としての地位をある程度確立し、
既に本も何冊か出版されているいわばエリートクラスの家庭の大切な令嬢でもありました。
そして輪を掛けて悪い状況なのは二人の宗教の違いという事もあり、アリスの家は先祖代々イギリス国教会系の
プロテスタントであるのに対して、エルガーの家系はカトリック教徒という事で、当然周辺の人達・・特にアリスの身内は
ほとんど全て二人の結婚には大反対をしていました。
当時はまだ無名の作曲家と陸軍少将の娘という身分格差から、アリスの親族は2人の仲を認めなかっ たため、
その反対を押し切っての結婚であり、実質的にアリスは親元からの勘当状態での結婚でもありました。
二人はごく質素なカトリックの略式の結婚式を挙げ、その婚約に際し、エルガーはアリスに
ヴァイオリンとピアノのための小品「愛のあいさつ」を贈呈していますけど、この曲は今現在でもエルガーの代表曲の一つとして
世界各地で愛され、現在も管弦楽団の演奏会のアンコール曲としては定番中の定番の曲でもあったりします。

エルガーはアリスとの結婚以降、本格的に作曲の勉強も始め、ここからたくさんの曲が生み出されていきます。
アリスは結婚以降は自らの詩人・作家としての活動は休止し、ひたすら夫のエルガーを献身的に支え、時に励まし
時に叱咤激励し、エルガーの作品を心から愛しその作品を称賛し、その生涯を閉じるまで変わる事なくエルガーを
精神的に支え続けます。
アリス自身は日記の中で「いかなる女性にとっても天才の世話を焼くというのは、生涯かかっても余りあるものである」という
偽らざる気持ちも吐露されています。
アリスのエルガーに対する信頼と下の階層と結婚した勇気は、エルガーにとってはプレッシャーというよりは精神的な支えと
なっていました。
アリスはエルガーの気分の浮き沈みをなだめ、音楽面では批評と称賛を惜しまず、
またビジネスマネージャー、社会的な秘書をこなし、管弦楽の楽譜用の紙に五線を引いて整理する作業すらも時に
行っていたようです。

エルガーの写真を見てみると、気品と威厳とやさしさに満ち溢れた雰囲気に満ち溢れています!
本当に「イギリス紳士のモデル」といっても過言ではないような感じです。
(立派な口髭や物静かで上品さが滲み出ていると思います)
平民出身のエルガーがそうしたすきのない紳士になったのも、もちろんアリスのてほどきもあったと思われますが、
それ以上にアリスの父親がサーの称号を持つ陸軍将校であったゆえに、それを意識したという事もあるのかもしれないです。
そしてエルガーはアリスとの結婚により、アリスからの献身的な支えや「アリスの父親と比較されてもアリスが恥ずかしく
ないような立派な紳士になろう!」といういい意味での緊張感とモチベーションの高さを得たと言えるのかもしれないです。
そして、オラトリオ「ゲロンティアスの夢」の成功によって結婚から約10年が過ぎた頃に、作曲家としての地位を確立し、
その後は順調に音楽に残るような素晴らしい名曲をたくさん世に生み出し、エルガー自身もサーの称号の他に
名誉音楽博士号、准男爵の称号を与えられたばかりでなく、1924年からは国王の音楽師範を務めるようになっています。

アリスは若い頃の写真を拝見すると、本当に天使みたい・・というのか「不思議の国のアリス」のような雰囲気を
醸し出されているようにも感じられます。
髪の大き目なリボンはなんだか東方の霊夢や藤原妹紅の印象に近いものもありそうです。
アリス自身は知的で物静かなレディであったらしいのですけど、時に情熱的にエルガーを生涯支え続けた気持ちがあった
からこそ、エルガーは世界的に著名な作曲家として音楽史にその名前を残せたと言えるのは間違いないと思います。
ちなみにアリスとエルガーの間に生まれた一人娘のキャリス・アイリーンは、母親のアリスののCarolineとAliceを繋げて
名づけられたものだそうです。
後述しますけど、アリスという名前はヨーロッパ圏では馴染み深い名前なそうですけど、意味としては少女とか献身的、知的
という事もあるそうです。
それはまさにエルガーの奥様のアリスに相応しい名前と言えるのかもしれないですね。

エルガーが残した楽曲の中で、妻・アリスに捧げた曲として最も有名なのが上記でも書いた通り、二人の婚約記念の曲でもある
「愛のあいさつ」ですけど、それ以外に「エニグマ変奏曲」も推したいと思います。

管弦楽のために作曲された単独の変奏曲のうちでは、ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」や
ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」と並べられるほど音楽的にも大変価値の高い作品です。
エニグマ変奏曲には、第9変奏の「ニムロッド」という大変美しくて感動的でメランコリーな部分が含まれているのですけど、
同様な事にラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」においてもその第18変奏の美しさは、とてもじゃないけど
この世のモノとは思えないものがあると言えます。

この曲のタイトルでもある「エニグマ=謎」なのですけど、「エニグマ」とはギリシア語で、なぞなぞ・謎かけ・謎解きといった
意味なそうです。
この曲には二つの謎の要素があり、 一つ目の謎は、「この変奏曲には、主題とは別の作品中に現われないものの、
全曲を通して 無言の伴奏をする別の主題が隠されている」 というエルガーの発言に基づいています。
その後多くの研究者がその「別の主題とは何なのか」解明しようとしていますが、
現在になってもその謎はいまだに解明されていないとの事です。
英国国歌「国王陛下万歳」とする説、スコットランド民謡「オールド・ラング・サイン」(蛍の光)であるとする説、
「エニグマ変奏曲」の初演コンサートで一緒に演奏されたモーツァルトの「交響曲第38番「プラハ」」がそうだとする説
など色々あるそうですが、 結論は未だに出ていないそうです。

これってもしかしてエルガーのいたずらなのかもしれないですし、作曲時にたまたま何となく口にした言葉が世間に
広まってしまい、 後になって 「いや、あれは特に何の意味もありませんでした」とはいいにくかったのかもしれないです。

二つ目の謎は、各変奏に付けられた意味ありげなイニシャルの事でして、
「そのイニシャルは一体誰なのか?」という事は既にほぼ解明されているようです。
そのイニシャルとは、エルガーの友人とか奥様とかエルガー自身とか弟子の氏名なのですけど、第13変奏の「(***)」の
部分だけは、 その***とは一体誰なのかについてはいまだに解明はされていないとの事です。

この曲は、氏名を公表されない14名の人物のスケッチを、主題と14の変奏によって表現した管弦楽曲とも換言出来そうです。
ちなみに第1変奏 のC.A.E. とはエルガーの奥様、アリスの事ですし
最後の第14変奏「終曲」  E.D.U. とは、エルガー自身です。

そしてこのエニグマ変奏曲にもアリスは深く関わっています。

エルガーがある時ピアノに向かって物思いにふけっていた時に、何気なく即興で弾いていたメロディーが
アリスの注意を惹き、「気に入ったのでもう1度繰り返して弾いてほしい」と頼まれたエルガーは、アリスを喜ばせるために、
その主題に基づいて即興的に変奏を弾き始め、各変奏を友人たちの音楽的肖像とし、
これを管弦楽曲に膨らませたものが「エニグマ変奏曲」の作曲の経緯とも言われています。
(第一変奏にアリスをもってくることが実にエルガーらしいですね~♪)

私的には、ティンパニを小刻みに叩く第4変奏と 第9変奏「ニムロッド」が大変大好きです。

この第9変奏「ニムロッド」は、何となくマーラーの交響曲第5番第四楽章「アタージエット」みたいに
瞑想的で、波打つようにゆったりと感情が動いていき 大変気高い雰囲気があり、 私はとても大好きな部分です。
エニグマ変奏曲は結構長くて30分くらいの曲なのですけど、 この「ニムロッド」を聴くだけでも価値があると思います。

この「ニムロッド」は単独作品としても大変人気が高く、 管弦楽団演奏会ののアンコール曲としても演奏される機会は多いです。
(私もよくこの曲は、特に日本フィルの演奏会でのアンコールで耳にしました)
イギリスでは11月11日のリメンバランス・デーにおいて、戦没者追悼記念碑の前で戦没者を追悼するために
王立軍楽隊によって必ずこの「ニムロッド」は 演奏されるようですし、
国家財政危機により解散を余儀なくされたギリシア国立管弦楽団の最後の演奏曲目はこの「ニムロッド」でした。
最近では吹奏楽コンクールでもこのエニグマ変奏曲が自由曲として演奏される事が多々ありますけど、吹奏楽版で聴いても
ニムロッドの美しさとラストのエルガー自身を表すE.D.Uの爽快さは素晴らしいと感じます。

ここから下記は少しばかり余談になりますけど、上記でちらっと触れた通り、「アリス」という名前は、
今現在も英語・フランス語圏で広く見られる女性の名前であり、
12世紀以降にイギリス・フランスで流行し、17世紀中頃までに廃れ19世紀中頃に復活した経緯があり、
特に1865年に発表された「不思議の国のアリス」の影響度は相当大きなものがあったと言えそうですし、それが
日本においてもアリスという名前が馴染み深い事の一つの要因になっているのかもしれないです。

「アリス」という言葉は「少女」の象徴や代名詞として使われていると指摘する専門家も相当数いるとの事ですし、
同時に知的さ・献身さという意味合いもあるとの事です。

そして「アリス」という名前はアニメ・ゲーム作品ではかなりの作品で既に登場している名前ですし、
それだけ知名度が高い名前というのか「ヨーロッパ的な名前」として定着しているのだと思います。
アリスと名が付くキャラは大体が金髪で色白な女の子というイメージもあるのかとは思います。
そこにあるのはやはり不思議の国のアリスの影響やイメージと言えると思うのですけど、
全体的にはとても可愛い子が多いと思います!
(後述しますけど、私にとっての「アリス」とは言うまでもなく東方屈指の金髪美少女のアリス・マーガトロイドに尽きると思います)


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アリスは本記事の趣旨でもあるエルガーの奥様のすてきなお名前であるのですけど、同時に日本ではアリスと言うと
少女の象徴みたいな雰囲気のキャラの名前に使われる事も多々あるようにも感じられます。
そうした事もあり、本記事においては、dream fantasy2 のアミグリさんが過去に描かれてきた「アリス」という名前の美少女の絵を幾つか転載&ご紹介を
させて頂きたいと思います。
そしてアミグリさんが描かれたアリスから皆様各自の豊かなイマジネーションで少女の面影や知的さを感じ取って
頂ければ幸いです。

上記の作品はアミグリさんが2009年12月に描かれたパンドラハーツのアリスです。

パンドラハーツとは不思議の国のアリス・鏡の国のアリス等の童話をモチーフにしたダークファンタジーと言え、
原作は月刊Gファンタジー連載のコミックで2015年まで連載が続けられ、一度アニメ化もされています。
不思議の国のアリスをモチーフにしている点においては「アリスSOS」の世界観に少しだけ共通するような感じもあります。

アリスはパンドラハーツのヒロインで、主人公と契約を交わした血染めの黒うさぎです。
可愛らしい容姿とは裏腹に、凶暴かつ男勝りで欲しいものは強引にでも手に入れたがる自己中心的な性格ですけど、
あれこれ考え込まないさっぱりした部分もあり、時折ツンデレな一面も見せるという
どちらかというと厄介な御方でもあります。

アミグリさんが描かれるパンドラハーツのアリスは、憂いを帯びた表情が大変印象的です。

アリスの長髪も大変美しいですし、フリルの描き方も巧いですね!

全体的にはアミグリさんが描かれるアリスからは、東方のさとり様みたいにどこなく「心、ここにあらず・・」みたいな
寂寥感も漂わせていると思います。
確かに表面的には乱暴でわがままなのかもしれないですけど、アリスは実は既に100年以上前に命を落としていて、
今現在のアリスは一言で言うと化け物みたいなものです。
そして、生前の記憶は、死亡時の殺され方がよほど屈辱的ださったのか悲劇的だったせいなのか、
記憶は全てアリスの意思で抹消しています。
だからアリスにとっては「果たして自分とは一体どんな存在だったのだろう・・」という自分に対する問いが頭を離れることも無く、
そうした背景がアミグリさんが見事にアリスの心象というのか心の内面を「絵」として表現されているのだと
思います。

パンドラハーツのアリスは2009年12月というアミグリさんのかなりの初期作品で、しかもこの作品は全て手描きという
アナログ作品なのです!
それでいてこんなにも完成度が高いという事は特筆に値するのだと思います。

そしてアリスの名高いセリフとして「やっと見つけた 私の手がかり…」というのがありますが、これはアリス自身が
生前の記憶を取り戻して自分の死の真相を初めて知ったという事に由来しています。
東方のゆゆ様も亡霊なのですけど、ゆゆ様は生前の記憶もはたしてあるのかないのかよく分からない御方ですし、
自分の死体が本当に桜の木の下で眠っているのかも実は分かっているのかわかっていないのか不明なのですけど、
そうした事がゆゆ様のあの特有のおっとりとした雰囲気にも繋がっているようにも感じるのですけど、
パンドラハーツのアリスの場合は、生前の記憶と自身の死の真相を知ったという事で、アミグリさんが表現されたような
「憂い」に繋がってるいると言えるのかもしれないです。


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続きましてアミグリさんが2015年6月に描かれた「きんいろモザイク」のアリス・カータレットです!

このきんいろモザイクの原作は漫画作品で、2013年と15年にアニメ化もされています。

この「きんいろモザイク」なのですけど、イギリスでホームステイを通じて友人となった日英両国の少女達が成長後、
日本で再会して繰り広げる物語をコメディタッチで描くというお話でもあるのですけど、
アリスのメインのお相手役ともいえる大宮忍もとってもかわいいキャラです!

大宮忍も可愛いけど、イギリスの自宅にホームステイしていた忍を慕って日本にやってきたアリスも
忍に負けないくらいかわいいですね~♪
外国人少女というとなんとなくですけど、大柄とか豊かなボディみたいなイメージもあったりするものですけど、
「きんいろモザイク」のアリスもそうですし、「ハナヤマタ」のハナもそうなのですが、
アニメで描かれる外国人少女が小柄でちびっこという設定が意外と多いと言うのもおもしろいものがあると思います。

アリスのストロベリーブロンドのツインテールと青の瞳がとってもかわいいですし、アリス=金髪少女みたいなイメージを
ストレートに絵にした設定とも言えると思います。

アミグリさんが描かれたこのアリスはとてもかわいいと思います!
金髪ツインテールというアリスの最大の魅力をアミグリさんが最大限かわいく描かれた作品といっても過言ではないと思います!
アリスの髪には常にかんざしが差されていますけど、これは忍がプレゼントしたものです。
ピンクのカーディガンもアリスにとてもよく似合っていると思います。
アリスのこのちびっこかわいい雰囲気がとてもすてきに描かれていると思います。

アミグリさんの描かれたアリスなのですけど、随分と背景が美しいなぁ・・と思っていたら、アミグリさんご自身は
「背景はクリップスタジオの素材ブラシでささっと描きました」との事でしたが、
これはささっ・・というレヴェルではないと思います!
アミグリさんの作品って、もちろんキャラの魅力を「アミグリワールド」を遺憾なく発揮して美しく幻想的に
描かれるのですけど、よーく見てみると背景の描かれた方も秀逸なものがたくさんあると思います。

そして同じ版権作品というカテゴリの中でも、アナログとデジタルとか描かれた時期の違いはあるものの、
パンドラハーツのアリスとの違いを見事に描き分けられているのも特筆に値するものがあると思いますし、
今更言うのも何ですけど「同じアリスという名前でも雰囲気とか世界観は全然違うものだ・・」という事を認識させてくれた
素晴らしい両作品だと思います。

そしてこのきんいろモザイクのアリスは、アリスの名前の象徴でもある「少女らしさ」がストレートに溢れていると
言えそうです。


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続きまして、アミグリさんが2019年11月に描かれたストレートヘアのアリスを皆様にご覧頂きたいと思います。

アミグリさんには、2018年の当ブログ開設記念日の際に記念絵として描いて頂いた金髪ウェーブの素晴らしい美少女・アリス
という素晴らしい名作が既に存在しているのですけど、
2019年のストレートヘアのアリスも本当に素晴らしい美少女・アリスを表現されていると感じられます。

2018年のアリスはしっとりとした洗練された大人のアリスまたはレディーの作法をしっかりと身につけた美少女・アリスという
印象が強かったですけど、2019年のストレートヘアのアリスは、大人の魅力というよりは「少女の純真さ」とか
清楚でナチュラルな雰囲気で、少女の面影をまだ色濃く残している大人へのステップを踏んでいる途中の美少女・アリスという
印象があったりもします。
2018年のアリスは少し斜めからのウェーブ髪でしたけど、2019年のストレートヘアのアリスは
真正面からのサラサラストレートヘアという事で、アリスの美しさを正攻法で正統派のスタイルで凛々しくかわいらしく
爽やかに表現されていて素晴らしいと感じます。
ストレートヘアというのはこうやって見てみると、ありのままとか飾らない自然体の雰囲気とか清楚な感じを見ている人に
印象としてもたらしているといえそうですし、アミグリさんの描かれたストレートヘアのアリスが
ウェーブ髪のアリスよりもより少女としての面影を強く感じさせているのは極めて妥当といえるのだと思います。
そして単純な赫赫としての比較というのか第一印象だけでいうと、ストレートヘアのアリスはより自然体な美しさを
もたらしていると言えるのかもしれないです。

外界の人間で言うと、JCさん・JKさんは校則で禁止されているからパーマやウェーブヘアは禁止という事で、
ストレートヘアにする事が多いけど、18歳以降高校を卒業するとウェーブやパーマといった大人の女性としてのおしゃれも
可能になるという事で、JKさんみたいなサラサラのストレートヘアもすてきだけど、同じくらい大人の魅力としてのウェーブも
すてきということだと思います。

全体の色彩が2018年のアリスよりもふんわりと柔らかく感じられるのも、より清楚な自然体のアリスの雰囲気を
醸し出しているようにも感じられます。

アリスというと立ち絵も公式書籍もほとんどがウェーブ髪なのですけど、こうしたストレートヘアもとてもよくお似合いで、
私もストレート髪のアリスもウェーブのアリスもどちらもとっても大好きです!
というか、アリスはどちらの髪型もとてもよくお似合いだと思いますし、
アミグリさんの描かれたウェーブ髪のアリスもストレート髪のアリスもどちらもとっても大好きです~♪

スカートのはしをつまんでいるのもとてもキュートだと思います。

それにしてもアミグリさんの描かれる美少女・アリスは素晴らしい!と改めて感じたものでした。
少女としての面影もそうですし、同時に知的さ・ひそやかさも見事に表現されていると思います。

上記のアミグリさんが描かれた3作品のアリスは、その権利は全てアリスの絵師様である
アミグリさんに帰するものであり、当ブログにおける転載とご紹介は事前に全てアミグリさんからご了解を頂いたものであり、
アミグリさんからのご厚意で転載をさせて頂いておりますので、
無断お持ち帰りや無断コピーは絶対NGですので くれぐれも宜しくお願い申し上げます。

アミグリさん、いつも素晴らしいイラストの転載を快諾して頂きありがとうございます!!

皆様の中で「こんなにも素晴らしい美少女・アリスを描く人のブログってどんな感じなのだろう・・? 」などと
興味がある方は、是非是非アミグリさんのブログdream fantasy2  を ご覧になって頂きたいと思いますし、 宜しければ、当ブログだけではなくて、
是非アミグリさんの本家本元のブログdream fantasy2  に一度お越しして頂けると アミグリさんのブログをご紹介させて頂いている私もとってもとっても嬉しいです!

アミグリさんが定期的に作品を投稿され続けている →アミグリさんのpixiv にも是非一度足を運んで頂ければ幸いです!

アミグリさんのpixiv

それでは本記事を最後までご覧頂きありがとうございました!

やっぱりアリスは美少女としての大いなる象徴といえそうですね~♪
当ブログで「忘れられた作曲家」とか「音楽史の歴史の中で埋没してしまった作曲家」という何度かアメリカの作曲家の
ウィリアム・シューマンの事を何度か取り上げさせて頂きましたけど、忘れられた作曲家というと
E.W.コルンゴルド もそうした作曲家の一人なのかもしれないです。

コルンゴルドは、正直あまり知名度はないかもしれないですし、知る人ぞ知る作曲家という印象もありますけど、
実は結構最近再評価が進んでいる作曲家でもあります。
そして幼少の頃より神童とか天才・モーツアルトの再来とも言われていたりもしまして、
10歳で作曲したカンタータ「水の精、黄金」を聴いた作曲家で指揮者のマーラーは「天才だ!」と称賛し、
マーラーの推薦によってコルンゴルトの指導にあたった作曲家ツェムリンスキーはその脅威の才能に接して
「どっちが教える立場なのかわからなくなる」と告白していたエピソードも残されているそうです。
1920年代~30年代の初期に大活躍をし、オーストリア楽壇の第一人者としての名声を誇った時期もあります。
しかし、コルンゴルドは、元々ユダヤ系のため、ナチスのオーストリア併合に伴って迫害を懸念し、
追われるようにアメリカへ亡命してしまいます。
しかし、アメリカ亡命後は当時極めて保守的なアメリカクラシック音楽業界の冷たい壁にその才能を封鎖され、
(その辺りはアメリカ亡命後にやはりアメリカの楽壇で冷遇され、大変困窮した晩年を過ごしていたバルトークと似ている面は
あります。)
アメリカ移住後は、純粋なクラシック音楽作曲では飯は食えそうにもないと考えたコルンゴルドは、生活の糧として
ハリウッドの映画音楽の制作への転向を決意し、映画音楽制作のためにハリウッドへの移住を決断します。
モーツァルトにも比肩される才能が、ウィーンを離れてハリウッドという映画の都へと活躍の場を移したことになります。
「海賊ブラッド」とか「ロビンフッドの冒険」などの映画のBGMを担当し、ハリウッドでは高い評価を受けるようになりました。
今現在の感覚で言うと「スターウォーズ」等でお馴染みのジョン・ウィリアムズの先駆者的存在という評価も成立すると思います。
アメリカで21本の映画音楽を作曲し、「風雲児アドヴァース」)と「ロビンフッドの冒険」でアカデミー作曲賞も受賞しています。
その関係でアメリカを中心にコルンゴルト=ハリウッド映画音楽の大御所という評価が定着しているようにも感じられます。

第二次世界大戦後に再びヨーロッパに戻ってクラシック音楽業界への出戻りを希望したものの、当時の欧州の楽壇は、
「アメリカの手先」とか「ハリウッドにクラシックの魂を売った人間」などという不当な評価を受け続け、
晩年は冷遇された生活だったようです。
第二次世界大戦後のヨーロッパの音楽事情は無機質な現代音楽が主流となり、
ロマンティックなコルンゴルトの作風は時代送れという辛辣な評価も受けていたようです。

アメリカのハリウッド音楽以外ではその作品も人物も忘れられつつあったコルンゴルドでしたけど、
その死後しばらく経過して、交響曲とかヴァイオリン協奏曲とか歌劇「死の都」が再評価され始め
現在では、マーラーとシェーンベルクの間の世代の代表的な作曲家の一人という評価が定まりつつあるような感じもします。

私が、なぜこのコルンゴルドを知る事になったかというと、1995年12月のNHK交響楽団Cプロにて、
シャルル・デュトワの指揮で、コダーイ/組曲「ハーリ=ヤーノシュ」とプロコフィエフ/交響曲第5番と共に演奏されたのが
このコルンゴルドのヴァイオリン協奏曲で、当時は、「こんな作曲家聞いたこともない」という感じだったのですけど、
この曲が終わる頃には、この協奏曲の虜になり、あまりにも抒情的で美しすぎる音楽の展開にメロメロになってしまい、
演奏会終了後に、すぐに渋谷のタワーレコードに駆け込み、この協奏曲のCDを買ってしまったほどでした。

コルンゴルドのヴァイオリン協奏曲は第一~第三の全ての楽章のメロディーラインがあまりにも美しすぎて、
その甘くてせつない抒情的な雰囲気は、バーバーのヴァイオリン協奏曲やラフマニノフのピアノ協奏曲第2番や交響曲第2番に
通ずるものはあると思います。
悪く言うと、映画音楽の効果的なBGMにも聴こえてしまうほど、実に耳に心地よい音楽なのです。
第二楽章が実に素晴らしく、美的限界を通り越したとしか言いようが無い美しいメロディーが展開されていきます。
第三楽章が、これまた圧巻で、「宇宙戦艦ヤマト」みたいな堂々としたアレグロで進んでいき、
ハリウッド映画の大団円のBGMみたいに格好いい終わり方をします。
バーバーのヴァイオリン協奏曲の第三楽章がが3分程度でセカセカ進んでいくのとは対照的に、
コルンゴルドの第三楽章は、たっぷりと歌い上げなおかつスケール満点で格好いいと言うことなしの素晴らしい音楽を
展開していきます。
だけど、お堅い音楽評論家さん的には「これは安っぽい映画音楽」という評価になってしまいがちですし、事実その初演時も
評論家から「時代錯誤」と酷評されていますけど、私的には別にレトロな雰囲気があったとしても
メロディーラインが美しく、人に何かを伝えられるのならそれはそれでいいのではないの・・?という感想です。
この協奏曲はまだ知名度も低いのかもしれないですけど、是非ぜひたくさんの皆様に聴いて欲しいですし、この曲の真価が
一人でも多くの皆様に伝わって頂ければありがたいです。

この曲は日本フィルで井上道義指揮/渡辺玲子の独奏でも聴いたことがありますけど、デュトワと違って
いかにもやんちゃ坊主みたいな感じの演奏で豪快な演奏を聴かせてくれていましたけど悪くはなかったです。

シェーンベルク等の無調現代音楽が幅を利かせている1930年~40年代に、こうした美しい抒情的な音楽が
作曲されていたとは、音楽史的には一つの奇跡なのかもしれないです。

この協奏曲をCDで聴く場合、シャハム独奏/プレヴィン指揮・ロンドン響が圧倒的に名演だと思います。


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ららマジのヴァイオリン奏者の九条紗彩は高校1年生の女の子です~♪

自分に厳しく人にも厳しいプロ意識の高いヴァイオリン少女 という設定です。

自分にも周囲にも厳しいため、一見わがままだと誤解されることもありますけど、根は優しくて世話好きでもあります。
極度の照れ屋で自分の気持ちを素直に表現できないという事で、ららマジの中ではツンデレの一人と
言えそうです。

九条紗彩はヴァイオリンのプロを目指しており、神童と呼ばれるフルート奏者の菜々美に密かな憧れやライバル心を
抱いてもいます。

薄いバイオレットのロングヘアーですけど、おでこの露出がなんだかとてもかわいいです。

こういうおでこをしたツンデレ気味の美少女JKさんにデコビンを食らわしてやったら、その反応はなんだか
「私、気になります・・」という世界になりそうですね・・


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九条紗彩は自己表現がちょっと苦手なツンデレ系美少女ですけど、この笑顔もかわいくてすてきですね~♪

九条紗彩ソリストによるコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲の演奏も聴いてみたい気はしますね~!
クラリネットと言うと甘美的でせつなくて、時にやさしく時に厳しく時に底抜けに明るく響く音色ですけど、
吹奏楽においては管弦楽におけるヴァイオリンパート的な主要メロディー担当という事が多いせいもあり、
管弦楽作品のアレンジものではたくさんのソロがあったりしますけど、吹奏楽オリジナル作品においては、
クラリネットのウルトラ超目立つソロというのは、オーボエやトランペット等の花形楽器に比べるとちょっと少ないのかも・・?と
感じることもあったりします。
それでも例えば、1977年の課題曲Cの「ディスコ・キッド」とかスミスのダンス・フォラトゥーラとかリードのジュビラント序曲とか
バーンズの交響曲第3番などなどたくさんあったりもします。
上記でバーンズの名前が出てきましたけど、バーンズの日本において知名度がググッと上がる事になったあの不朽の名作の
アルヴァマー序曲のラスト近くのクラリネットのとんでもない速いスピードでの16分音符の連続は、あれはまさしく
クラリネット奏者泣かせだと思います・・

管弦楽作品ではクラリネットソロで目立つ曲はかなりありますよね~

一例を挙げてみると・・

〇ガーシュイン / ラプソディー・イン・ブルー

〇J.シベリウス / 交響曲第1番~第一楽章

〇チャイコフスキー / 交響曲第6番「悲愴」~第一楽章

〇ラフマニノフ / 交響曲第2番~第三楽章

〇M.ラヴェル / ボレロ 「ダフニスとクロエ」第二組曲~全員の踊り

〇ボロディン / 中央アジアの草原にて、歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊り、交響曲第2番~第三楽章

〇D.ショスタコーヴィッチ / 祝典序曲

〇ベルリオーズ / 幻想交響曲~Ⅴ.魔女の夜宴-魔女のロンド

でも、クラリネットというと全ジャンルを通して申し上げると日本では最も馴染み深いフレーズは、フランス童謡でもある
「クラリネットをこわしちゃった」なのかもしれないですね。
あの童謡で出てくる「オ・パッキャマラード」というのは、Au pas camaradeと書くフランス語なのですが、
「友よ一緒に行こう」とか「足並みを揃えよう」というのが本来の意味なそうでして、
原文の意味だと日本語の歌詞とは少しズレてしまいそうです。

そしてクラリネットが大活躍する楽曲と言うと、吹奏楽オリジナル作品ではないし、厳密にいうと管弦楽作品では
ないのですけど、ガイーヌの「剣の舞」でお馴染みのアラム・ハチャトゥーリアンが作曲したバレエ音楽「スパルタクス」を
ハンスバーガーが吹奏楽用にアレンジ・編集した作品である「スリーダンスエピソード」を推したいです!
このスリーダンスエピソードを初めて耳にしたのは高校の吹奏楽コンクール県大会でして、他校が演奏していたこの曲を耳にし、
長大なクラリネットのソロのかっこよさに度胆を抜かれてしまった・・というのがなれそめです。

スパルタクスというと、1990年以降は、ヤン・バン・ローストの交響詩「スパルタクス」の方が演奏頻度も人気も高そうですけど、
ハチャトゥーリアンのバレエ音楽もローストの交響詩もあの壮大な歴史ロマンと迫力は素晴らしいと思います。
スパルタカスとは、共和政ローマ期の剣闘士で、スパルタクスの反乱と称される第三次奴隷戦争の指導者という事でも
有名であり、世界史を選択された方は一度は聞いたことがある歴史上の名前なのかもしれないです。

このスパルタカスを題材にした作品は色々とあると思いますが、一番有名なのは、映画とテレビドラマなのかもしれないです。
音楽の分野では、ハチャトゥーリアンのバレエ音楽が一番有名なのかもしれませんけど、同じバレエ音楽のガイーヌと比べると
知名度とか演奏頻度はぐっと下がるのかもしれないです。
このスパルタカスは、バレエの作品としてボリショイ劇場やその他のロシアおよび旧ソ連のバレエ団のレパートリーにおいて
今でも上演機会はあるという話は耳にした事がありますけど、日本ではほとんど上演されていないと思います。
ハチャトゥーリアンは、このバレエ音楽の中から、三つの管弦楽組曲を生み出したのですけど
この曲は生の演奏会では私自身は聴いたことがありません。
(読売日本響を指揮したロジェストヴェンスキーがこの曲を演奏したというのは耳にしたことがありました)
生前、読売日本響を指揮したハチャトゥーリアンがガイーヌと共にこのスバルタクスを演奏したらしく、
ガイーヌの方は日テレでその自作自演の様子を一部見た事がありますけど、その際にはスパルタクスの自作自演の演奏は
放映されていなかったのがちょっと勿体無かったです。

スパルタクスのバレエ音楽からの三つの組曲版は、CDでは、ヤルヴィ指揮/スコットランド国立管弦楽団の演奏が、
私にとっては馴染みがあります。

この組曲版の構成は下記の通りです。

組曲第1番

序奏 - ニンフの踊り
エギナとハルモディウスのアダージョ
エギナとバッカナリアのヴァリアシオン
情景とクロタルムスの踊り
ガディスの娘の踊り - スパルタクスの勝利

組曲第2番

スパルタクスとフリーギアのアダージョ
商人たちの入場 - ローマの遊女の踊り
全体の踊り
スパルタクスの入場 - 口論
ハルモディウスの裏切り
海賊の踊り

組曲第3番

ギリシャの奴隷の踊り
エジプトの少女の踊り
夜の出来事
フリーギアの踊り - 別れの場面
競技場にて

という構成ですけど、少し冗長に感じる部分もあったりします。

このバレエ音楽「スパルタクス」ですけど、吹奏楽経験者にとっては、ハンスバーガー編曲による「スリーダンスエピソード」という
アレンジ物の方が馴染みがあるのかもしれませんよね。

これは、膨大な曲の中からハンスバーガーが美味しいところをピックアップし
「三つの舞踏エピソード」という形で編集したものですけど、
確かにヤルヴィの原曲版を聴いた後で、このハンスバーガー編曲によるスリーダンスエピソードを聴くと、
「確かにバレエ音楽のいいとこ取りをしたな」という感じが濃厚であったりもします。
私的にはハチャトゥーリアンの「スパルタクス」は、「スパルタクスとフリーギアのアダージョ」が一番
音楽的に優れていて聴きどころ満載と思っているのですけど
ハンスパーカーの「スリーダンスエピソード」にはその部分は取り上げられていませんので
少し勿体ないような気はします。

このハンスバーガーによる吹奏楽アレンジ版のスリーダンスエピソードは下記から構成されています。

Ⅰ.ギリシア奴隷の踊り 商人たちの入場  ローマの遊女の踊り ジェネラルダンス

Ⅱ.フリージアの踊り エジプトの少女の踊り

Ⅲ.若きトラキア人の剣舞

そして上記で書いた通り、ⅠとⅡにおいてはクラリネットにとっては異例の優遇!とすら感じられる長大なソロが用意されていて、
ゆったりとたっふりと歌い上げるシーンがあったり華麗なカデンツァ風ソロがあったりと、クラリネット奏者にとっては
クラリネット冥利に尽きるソロがたくさん用意されていて、クラリネット奏者だったら一度ぐらいはあのソロを吹いてみたい!と
感じさせるものは間違いなくあると思います。

吹奏楽コンクールでは、このスリーダンスエピソードを全国大会初演したのは1978年の天理高校です。
(谷口先生にとっては最後の天理高校での全国になりましたけど、同時に谷口先生にとっても最後の普門館になっていました)
天理高校のカットは、私自身が初めて県大会で聴いた時の演奏とほぼ同じカットを採用していて、
Ⅰの前半のみを演奏しクラリネットのソロが終わったところで残りはカットし、そしてⅡも同様に前半でカットし、
最後のⅢで華々しく終わらせるという構成でもありました。
この曲の構成・カットとしては、1989年の関東一高のように、Ⅱをメインにし、Ⅰの最後の曲で終らせるというパターンも
ありましたし、都大会の足立吹奏楽団のようにⅠの前半を壮麗に鳴らし、中盤から後半はⅡのクラリネットソロをメインにし、
静かに閉じるというパターンもありました。
最近ではもハンスバーガー編曲よりは、仲田守氏のアレンジの方が演奏される傾向にあるのかもしれないです。

最後に・・

上記でクラリネットのカデンツァ風と記しましたけど、管弦楽作品においてクラリネットのカデンツァ風ソロが置かれているのは、
リムスキー・コルサコフのスペイン奇想曲です!
この曲は5曲から構成されていますけど、ⅠとⅢのメロディーラインと音楽の流れは大体同じです。
ただ大変面白いのは、Ⅰのソロはクラリネットが担当し、Ⅲのソロはヴァイオリンが担当し、ⅠとⅢにおいてクラリネットと
ヴァイオリンがまるで攻守交代をしているようでもあり大変面白いです。
それとⅠは静かに閉じられますけど、Ⅲはffで壮麗に閉じられているのも粋な演出だと思います。
そしてⅣにおいては、クラリネットに大変な見せ場が用意されていて、フルートやハープの華麗なカデンツァも素晴らしいの
ですけど、それ以上に第Ⅳ曲のクラリネットによる伴奏無しの完全ソロのカデンツァは大変プレッシャーは掛りますけど、
クラリネット奏者冥利に尽きると思います!





ららマジにおけるクラリネット奏者は綾瀬凛という後輩からは怖がられている少し気難しくて、自分にも他人にも厳しい
雰囲気があるJKさんです。
キリッ・・!としていて後輩に対して厳しく接する雰囲気の綾瀬凜お姉さまの上記のようなちょっと怒ったような表情も
とてもかわいらしいものがありますけど、
同じパートに自分に厳しすぎる子がいたりするとちょっとつらいものがありそうですけど、ららマジの綾瀬凜みたいな
JKさんだったら、私は喜んで同じパート内で頑張らさせて頂きたいものです~♪

クラリネットを吹く女の子の不器用さ・頭の固さというものはもしかしたら全世界共通なのかも・・?といったら綾瀬凜に
怒られてしまいそうです・・
(そう言えば、とあるブログの管理人さんも元・クラリネット奏者でしたけど、あの融通の利かない頑迷さはクラリネット奏者
気質そのものだったと今にして思うと感じてしまいそうです・・)

綾瀬凛がソロを吹くスパルタカス~スリーダンスエピソードやスペイン奇想曲での華麗なるソロを聴いて
うっとりするのもいいかもしれないですね~♪
フランスの作曲家でオネゲルたちフランス六人組の一人でもあるダリウス・ミヨーというと、私的に印象深い曲というと、
吹奏楽オリジナル作品ともいえるフランス組曲であったりもしますし(後に管弦楽作品としてアレンジされています)
これは合作作品ではありますけど、エッフェル塔の花嫁花婿・ジャンヌの扇と言えますけど、その中でも
かなり風代わりで変則的な編成の作品ではありますけど、バレエ音楽「世界の創造」は一度聴いたら忘れられないですね~
この曲、まだ10代か20代の頃に一度だけ管弦楽団ではなくて吹奏楽団の演奏会で一度だけ実際の演奏会で聴いたことが
ありますけど、 その不思議な感覚、ジャズの要素、サックスのけだるい雰囲気に魅了された記憶があります。
曲は16分程度とそれほど長くもありませんし、色々と変化に富んでいますし、
ジャズっぽい洒落た要素も多々ありますので飽きる事はないと思います。
ミヨーの作曲の意図としては「アフリカ人の視点から描いた天地創造」とのことです。
1920年代にアメリカ訪問中に本場のジャズを初めて耳にし大きな衝撃を受け、
パリで活動していたスウェーデン・バレエ団からバレエ音楽の新作を依嘱されると、ミヨーは1923年に
いくつかの楽章にジャズを取り入れてバレエ「世界の創造」を作曲し、
これを6つの連続した場面からなる全1幕のバレエとして上演させたという作曲の経緯があります。
曲の雰囲気はモダンジャズという感じもあるのですけど、同時代にラヴェルも例えば「左手のためのピアノ協奏曲」に
ジャズ的要素をかなり盛り込んでいた作品を作曲していますので、当時としてはアメリカのジャズがヨーロッパのクラシック音楽
にも多大な影響をもたらしているのだと思います。

ミヨーのバレエ音楽「世界の創造」はどんな音楽解説書を読んでも、ジャンルの扱いは「管弦楽作品」となっていますが、
この曲は限りなく吹奏楽オリジナル曲」に近いと言えそうです。
(前述の通り、これまで唯一実演で聴いた際は吹奏楽団の演奏会によるものです)

CDで聴くとそんな感じはしないのですけど、実際の楽器編成はかなり小規模でかつ変則的編成でして、
具体的にその楽器編成として、

フルート2(第1フルートはピッコロと持ち替え)
オーボエ1
クラリネット2
ファゴット1
アルトサクソフォーン1
トランペット2
ホルン1
トロンボーン1
打楽器1名 (ティンパニ、シンバル、スネアドラム、テナードラム、プロヴァンス太鼓、ウッドブロック、メタルブロック、
足踏み式のシンバル付バスドラム)
※ティンパニ以外の楽器はドラムセットのように組み合わせて演奏するそうです
ピアノ
ソロヴァイオリン2
チェロ1
コントラバス1

17名の奏者のうち、14名が管楽器と打楽器・ピアノ 、3名が弦楽器ですから、
管弦楽曲とも吹奏楽作品とも両方とも言えるのかもしれませんけど、数の論理では吹奏楽に限りなく近いといえそうです。

それを言うとヘンデルの「王宮の花火の音楽」も吹奏楽曲になってしまうのかもしれないですけど、
王宮の花火の音楽には一応弦楽合奏もオプションとして付いていますので、
さすがにこの曲は古典的な管弦楽曲と言えそうです。

管弦楽曲の中でも例えば交響曲や組曲のとある楽章において、弦楽器を意図的に省いて管楽器と打楽器だけの構成とする
作品も稀にあったりしまして、その代表的事例がコダーイの組曲「ハーリ・ヤーノシュ」~Ⅱ.ウィーンの音楽時計や
ヴォーン・ウィリアムズの交響曲第8番~第二楽章、ニールセンの交響曲第6番~第二楽章などが挙げられると思います。

ミヨーの「フランス組曲」やバレエ音楽「世界の創造」はある意味、吹奏楽曲でもあり管弦楽曲でもあるのですけど、
ミヨーと同様にフランス人で、吹奏楽とも管弦楽ともどちらにも取れそうな曲があったりもします。
それがメシアンの「我、死者たちの復活を待ち望む」という曲なのですけど、この曲はバリバリの現代音楽です!
そしてこのフランスの偉大なる現代音楽の作曲家、メシアンの曲を過去に一度だけ吹奏楽コンクールで演奏したチームが
あったものです!
(2019年現在、メシアンのあの難曲を吹奏楽コンクールで演奏したのは後述しますけど、1995年の一度限りです!
そして多分ですけど今後もあの曲を演奏するチームは出現しないと思います)
その曲を演奏したのは、今現在は都立片倉を率いて全国大会で何度も金賞に輝いている馬場先生の
片倉高校の前の赴任校、都立永山高校時代における1995年の自由曲がその唯一の事例です。

「我、死者達の復活を待ち望む」は「トゥーランガリア交響曲」や「鳥の歌」三部作と並ぶメシアンの代表作品の一つです。
というか、なんでこんな複雑怪奇な曲を自由曲にしようと思ったのでしょうかねぇ・・・
馬場先生の思い切った挑戦はすごいものがありますし、あの演奏を都大会と全国大会で二度も聴く事が出来た私は
とてつもなく貴重な経験をさせて頂いたと今でも思っています、

当時のBJのインタビュー記事で馬場先生は
「1995年は阪神淡路大震災・オウム事件などで世相が大きく悲しく揺れた年であり、
そういう年だからこそ何かメッセージを後世に残しておきたかった」みたいな事を言われていましたけど
その辺りは過去も現在もメッセージ性の強い曲を大変アクが強く個性的に、かつ音楽的にまとめられる馬場先生らしい
お言葉だと思います。

だけどあのメシアンですよ~!!

あのメシアンを吹奏楽コンクールの自由曲にしてしまうなんて、かつて1983年に花輪高校が自由曲に、
無調音楽全開のベルク/三つの管弦楽曲を選んだ時とか
秋田南高校がやはりベルクの歌劇「ルル」組曲を自由曲に選んだとかと同じくらいのインパクトがある思います。
現代音楽の当時の生き神的存在で、ブーレーズも信奉していたあのメシアンの曲を吹奏楽コンクールでチャレンジするとは
今現在の視点で考えてみても「大変な決断とチャレンジ魂」という印象が強いです。

メシアンの「我、死者達の復活を待ち望む」という曲は、1996年2月号のBJの記事においては、
クラシックアレンジ作品ではなくて「吹奏楽オリジナル作品」として分類されていたのは正直驚きました。

だけどよく考えてみると、確かに間違いではないのですよね。
この曲はかなりの特殊編成でして、楽器編成の中に弦楽器は一切使用されていませんし管楽器と打楽器のみでの構成です。
しかもその打楽器と言うのも、都立永山の実演を聴いた際も、まさに「驚き!!」という感じでしたけど、
チャイム・ゴング・ドラを複数個も使い、曲そのものがドラが終始ごわーーーーんと轟音を立て、チャイムがチャイニース風な
色彩の音楽を誘導しているみたいな感じでした。
普門館の舞台の上に、とてつもない数の大小のドラがずらーーーっと並んでいたという印象が大変強いです・・

確かに弦楽器を使用していないから、分類上は「吹奏楽作品」と言えるのかもしれませんけど、
あのメシアン大先生のあの曲を「吹奏楽オリジナル作品」として計上してしまうBJ編集部にも当時は「何と言う大胆な・・」と
感じていたものです。


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ららマジの東奏学園器楽部の部員は30人ですけど、
「ららマジ」は吹奏楽部ではなくて器楽部と言う事で、楽器仕様に制約が無いと言う事で、出てくる楽器も
吹奏楽ではありえない編成のワーグナーチューバ・箏・胡弓・ピアニカ・リコーダー・エレキベース・シンセサイザー・
ウクレレなども登場しているのは自由さがあってとてもすてきだと思います。

器楽部創立メンバーの一人で、部長であり指揮者でもある草薙百花がそうしたメチャクチャな楽器編成を
無理やりどうにかこうにかまとめてしまっているのですけど、
ららマジの器楽部の楽器編成は「各楽器に奏者が1名」ということですので、部員が30人ということで、つまりは
30の楽器で音楽が奏でられるという事になると思います。

上記でミヨーの世界の創造について少し触れましたけど、ミヨーのあの曲はヴァイオリンの奏者2人を除くと、
各楽器の奏者は1人と言う事になります。
厳密にいうと、フルートとトランペットの奏者は2人と指定されていますけど、これはトランペットとコルネット、
フルートとピッコロと分ければいいと思いますし、ららマジ器楽部にはトランペットとコルネット、フルートとピッコロと
どちらの奏者もいますので問題なさそうですね~
指揮者の草薙百花が色々とアレンジを加えて、ららマジ器楽部で使用される楽器を無理やりどうにかこうにか
「世界の創造」というとてつもなく変則的な編成作品を素材に音楽づくりをするのもこれはこれで面白い話なのかも
しれないですね~♪
東方Projectの世界には結構姉妹はいたりもします。

その中でも、スカーレット姉妹・古明地姉妹・綿月姉妹・秋姉妹は血の繋がりある実の姉妹関係と思われますし、
依神姉妹は顔も性格も全然似てないですけど、設定上は双子姉妹とされています。
九十九姉妹の二人は雰囲気的には大変よく似ていますけど、血の繋がりの無い義理の姉妹関係でもありますし、
はたまたプリズムリバー3姉妹にいたっては、3人とも既にこの世のモノではなくて幽霊ですし、この3人の間には
生前も含めて血縁関係は全く無く全くの他人同士という関係でもあったりします。

さてさて、「ららマジ」の東奏学園器楽部の30人の部員の中では二組の姉妹がいます。

一組目は卯月姉妹で、二人ともまだ中学生です。二人ともJCさんらしいかわいらしさに溢れていますけど、中一の
卯月幸のロリロリッとした雰囲気はたまらないですね~♪
二組目は高校3年の橘姉妹で、この二人は双子の姉妹でもあります。二人とも顔立ちはよく似ていて、少しクール系でも
ありますけど、姉のアンナのボーイシュな感じと妹のレイナの正統派美少女としてのかわいらしさはどちらも
素晴らしいですね~♪





当ブログのららマジ関連記事では初めての登場となる器楽部のファゴット担当の橘レイナです。

アルトサックス担当の橘アンナは、レイナの双子の姉の方です。

橘レイナは、橘姉妹のミステリアスな可愛いお姉さんの方でしてアンナの双子の妹の方です。
バトル時の武器はファゴット型の狙撃銃で、複数の銃を同時に発射することもできるそうです。

お顔は双子という事でアンナとかなり似ている雰囲気もありますけど、アンナがボーイッシュな雰囲気なのに対して、
レイナの方はいかにも女の子という感じで、かわいらしい!というオーラに溢れていると思います。


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こちらは橘アンナで、ららマジの器楽部の中ではアルトサックスを担当しています。

学園内に多数の橘アンナファンを持つ学園きっての王子様キャラの人気者で、趣味は妹のレイナとのデートと演劇鑑賞でも
あったりします。

見た目がボーイシュという事で、女の子から見れば「すてきなお兄様~」みたいな憧れの対象なのかもしれないですけど、
確かに橘アンナのボーイシュな美少女ぶりは、
プリキュアでいうならばキラキラ☆プリキュアアラモードの男装麗人ともいえそなキュアショコラ=剣城あきらといえそうですし、
「女子高生の無駄づかい」的には一奏なのかもしれないです。


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橘姉妹はすてきなお姉さま姉妹という感じでもありそうですけど、卯月姉妹は中学生組という事で、美人さん姉妹というよりは
かわいい系姉妹といえそうです。

卯月真中華(うづきまなか)は、東奏学園器楽部でエレキギターを担当している中学3年生の女の子です。

東奏学園器楽部のメンバーにはこの卯月真中華を含めて何人かの中等部のJCさんも入っていて、
そうした中学生組をリードするエレキギターを扱う中学3年生の女の子が卯月真中華でもあります。
器楽部員で構成されたバンド「フロウライン」のギター担当で地元のライブハウスでは有名人との事です。

妹の幸はポニーテールがよくお似合いですけど、姉の卯月真中華はツインテールがとってもかわいいです~♪





卯月幸という中学1年生のウクレレ担当のJCさんです。

器楽部のエレキギター担当の真中華の妹で、ウクレレのほかにヴォーカルも担当することもあるそうです。

中学一年と言う事でららマジの中ではかなり幼い雰囲気があるのですけど、そうした初々しいかわいらしさが
とってもすてきですね~♪

卯月幸は一応ウクレレ担当なのですけど、「東奏学園に進学したらお姉さまたちのようにすてきな楽器奏者になりたい」という
あこがれの気持ちをもって日々練習に励んでいるその初々しさも素晴らしいです。


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ここから下記は「クラシック音楽」カテゴリに相応しいように、ららマジのすてきな美少女JKさんの橘レイナが担当する
ファゴットについて少しばかり触れさせて頂きたいと思います。

ファゴットもオーボエ同様にリードが上下2枚から構成されているという事で「ダブルリード楽器」という位置づけです。

ファゴットの音は基本的には低音楽器という位置づけなのですけど、あの独特のユーモラスな音は、
時に陰鬱に時にユーモラスに時にモノ哀しくと様々な表情を見せてくれる事が出来るのが素晴らしいと思います。

ファゴットで私が個人的に最も感じる効果的な使用事例として、
ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」の冒頭のファゴットの超高音域ソロで開始される場面を挙げたいです。
作曲者としては、「鳴らない音を必死で出そうとする感覚」が欲しかったとの事ですが、
奏者にとっては迷惑千万という感覚もあるのかもしれないですけど、作曲当時の事情はどうか分かりませんけど、
今現在のファゴット奏者はあのような超高音域でも楽々と音を出してしまいますから、ストラヴィンスキーが求めた
「悲壮感」はあまり感じられない感じもあったりします。
だけどあの春の祭典の冒頭ファゴットソロの感覚はいつ聴いてもミステリアスさは伝わっていますね~!

大変面白い使用事例としては、ショスタコーヴィッチの交響曲第9番を推したいです。
第四楽章の金管の重苦しい導入部に続くファゴットの悲痛で長大なソロは、
聴いていて魅力もありますし、いたたまれない・・みたいな哀しさ・憂鬱・メランコリーに溢れているのですけど
第五楽章に入ると、先程まで悲痛なソロを展開していたファゴットが唐突に何の脈絡も必然性も無く
軽いノリのひょうひょうとしたメロディーを展開していく構成になっています。
あの唐突な変化を醸し出せる事が出来るというのもファゴットの一つの魅力なのかもしれないですね。
ショスタコ―ヴィッチは交響曲第9番を作曲している頃は、丁度第二次世界大戦がソ連の勝利のうちに終結し、
嫌でも国家的祝典交響曲を書かないとまずいのではないかという目に見えないプレッシャーを各作曲家が感じていた
時期に符合するのかもしれないです。
初演当時、恐らく聴衆は、ショスタコーヴィッチの新しい交響曲は、ソ連の勝利を祝う大国家的祝典交響曲みたいなもの
(合唱付き? 別働ファンファーレ隊あり? 演奏時間120分?)を予想していたのかもしれません。
少なくとも当時のソ連の絶対的独裁者のスターリンのご機嫌を損ねるような曲だけは書いてはヤバいのかも・・という雰囲気は
あったと思われます。
それを見事にすっぽかして出来た曲が、この25分程度の軽量級の交響曲第9番だったのです!
第一楽章のいかにも軽いノリやトロンボーンのダメだしみたいな展開
第二・三楽章の可愛らしい展開もいいのですが、
前述の通り、第四楽章の金管の重苦しい導入部に続くファゴットの悲痛で長大なソロは、
これはこれで聴いていて魅力もありますし「少しいたたまれない・・」みたいな哀しさ・憂鬱・メランコリーに溢れているのですけど
第五楽章に入ると、先程まで悲痛なソロを展開していたファゴットが唐突に何の脈絡も必然性も無く
軽いノリのメロディーを展開していく構成になっています。
ショスタコーヴィッチ自身も戦争に疲れ果てて、とても面倒くさくて国家を讃える大交響曲なんて
作曲する気になれなくて、こうした脱力系というか、おもちゃ箱みたいな曲を思わず書いてしまったのかもしれないですけど、
この交響曲第9番は確かに重厚長大な深刻な内容の曲ではなくて曲の隅から隅まで
才気煥発みたいな冗談とウィットと楽しさに溢れていて洒落っ気溢れるとてもすてきな交響曲だと思います。
だけど後日この交響曲第9番は大変な批判を浴びてしまい、ショスタコーヴィッチはその後9年近くも交響曲を作曲する
事から遠ざかってもしまいます。
(ショスタコーヴィッチはスターリンの死後、直ちにスターリンをテーマにしたようにも思える交響曲第10番を発表しています)

ショスタコーヴィッチは交響曲第9番以外でも自作のシンフォニーの中ではファゴットをかなり効果的に使用していまして、
他には、交響曲第5番~第二楽章の少しとぼけた感じのスケルツォや交響曲第7番「レニングラード」~第一楽章における
オーボエとの掛け合い的なソロや交響曲第10番~第四楽章のやはりちょっととぼけた感じのユーモアあふれるソロも
「使い方が巧みだよね~」と感じさせるものは大だと思います。

他にクラシック音楽でファゴットが効果的に使用された楽曲をいくつか挙げてみますと・・

P.チャイコフスキー / バレエ音楽「白鳥の湖」 ~四羽の白鳥たちの踊り

P.デュカス / 交響詩「魔法使いの弟子」

G.マーラー / 交響曲第5番~第五楽章 同 / 交響曲第9番~第二楽章

I.ストラヴィンスキー / バレエ組曲「火の鳥」~子守り歌

M.ラヴェル / 道化師の朝の歌
(ラヴェルの「ピアノ協奏曲」~第三楽章のファゴットのとんでもない快速スピードによるとてつもなく超速指使いは
奏者殺しではありますけど、聴いている方としてはあのスリリングさと粋な雰囲気はたまらないです!)

G.ホルスト / 組曲「惑星」~天王星

B.バルトーク / 舞踏組曲~第一曲

余談ですけど、デンマークの作曲家のニールセンが残した最後のシンフォニーである交響曲第6番の終楽章の
エンディングは唐突な形でファゴットの持続音によって閉じられます。

吹奏楽ですと、1988年吹奏楽コンクール課題曲Aの深層の祭りの冒頭や
グールドのアメリカンサリュート~ジョニーが凱旋する時、ジェイガーの第二組曲の第三曲、
バーンズの交響曲第3番~第三楽章などが大変印象的です。
他にもネリベルの「二つの交響的断章」におけるオーボエとファゴットの掛け合いも聴いていて惚れ惚れしそうですし、
クロード・スミスの「フェスティヴァル・ヴァリエーション」における中間部のファゴットソロも大変気持ちがいいです、
フェスティヴァル・ヴァリエーションというと、ららマジ絡みでいうと、開始早々の箇所でピッコロとファゴットが気持ちよさそうに
主旋律を奏でているバックのアルトサックスの小気味よいリズムの合いの手は名人芸の粋に達していると思います。
その部分のピッコロ・ファゴット・アルトサックスに関しては、1984年の天理高校のうまさを超えるチームは、2019年時点で
精華女子高校を含めていまだに超越する演奏が表れていないほど、84年の天理の演奏は素晴らしかったです。

それでは最後に、ららマジのファゴットの橘レイナのとってもかわいいカードを是非ご覧頂きたいと思います!


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橘レイナのウェディングドレス姿です! 女の子の憧れのシンボルとしてのウェディング衣装がとてもよくお似合いだと
感じられます。


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同じく橘レイナのおしゃれな私服姿です!

美少女はどんな衣装でもよく着こなしお似合いという事を立証していると思いますね~♪


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最後に、東奏学園の制服姿の橘レイナです。

制服姿だとJKさんらしいかわいらしさに溢れていますね~♪

そして橘レイナのソロによるショスタコーヴィッチの交響曲第9番~第四・第五楽章の長大なソロと楽章をまたいだ際の
変化も是非聴いてみたいです!
鳩(野ばと)は「平和の象徴」というイメージがありますし、ハト派と言う言葉に象徴される通り穏健・中道・軍事力行使を抑制・
話し合いによって紛争を解決という雰囲気もありそうですし、
日常的には神社の境内や公園など人間がたくさんいる場所でも平気で人間に近づいてくるという印象もありそうです。
ちなみに鳩の平均寿命は大体10年程度と言う事で、鳩の天敵は日本社会においてはカラスと猫なそうです。
街中で鳩の死骸をあまり見かけないのは、鳩には帰巣本能が備わっていて、死期が近いと悟った鳩はあまり外に出なくなり、
そのまま巣で死を迎えるからという説もあるようです。


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ポッポッポッ~、鳩ポッボ~という童謡がありますけど、鳩はどんな鳴き声で鳴くものなのでしょうか?

鳩にはたくさんの種類がいて鳴き声にも微妙に違いがありますけど、馴染み深いのは童謡にもある通りポッポーなのかも
しれないですけど、それ以外にも、クックー・クックー、ゴロッポ・ゴロッポ、デッデー・ポッポーといった鳴き声が
挙げられると思います。
(クックー・クックーというと桜田淳子の「ようこそここへ~クックー・クックー」の「わたしの青い鳥」を思い出す・・なんて記すと
管理人が昭和育ちである事がバレバレになってしまいそうです・・汗)

鳩の鳴き声というとどことなくとぼけた雰囲気とか平和な雰囲気という印象もありそうですけど、そうした鳩(野ばと)の鳴き声を
モチーフにしたクラシック音楽の楽曲もあったりします、

1/6の記事の中でアニメ「響け!ユーフォニアム」に関連する形で、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」について
触れさせて頂きましたけど、ドヴォルザークと言うと
交響曲第9番「新世界より」とか弦楽四重奏曲「アメリカ」とかチェロ協奏曲とかスラヴ舞曲集とかユーモレスクばかりが
有名曲扱いになってしまうのですけど、他にも例えば交響曲第7番とか交響曲第8番とか序曲「謝肉祭」とか
スケルツォ・カプリチオ―ソなどのようなすてきな名曲もたくさんあったりします。
しかもあの哀愁溢れるあの優しく美しいメロディーは郷愁を誘うものであり、日本人の感覚に合いそうでもあり、
すてきなメロディーメーカーといえるのかもしれないです。
そうしたドヴォルザークの数々の名作の中では、少し知名度は低く演奏頻度は下がるのかもしれないですけど、
上記で触れた通り、鳩の鳴き声をモチーフに扱った交響詩も残しています。
そしてその作品が本記事で取り上げさせて頂くA.ドヴォルザーク作曲の交響詩「野ばと」です。

交響詩「野ばと」は、単独の交響詩という形ではなくて「四つの交響詩」という連作交響詩という形でまとめられていて、
野ばとはその四番目の交響詩に該当します。
(連作交響詩というと、実は「モルダウ」ばかりやたらと有名になっていますけど、スメタナの我が祖国は、全6作品から
構成される連作交響詩でもあり、モルダウは二番目のの交響詩であったりします)
ドヴォルザークの四つの交響詩のモチーフは、4曲とも全てチェコの国民詩人エルベンがチェコに伝わる民話・民謡を
詩のかたちでまとめた詩集「花束」に由来しています。
この「花束」から「水の精」「真昼の魔女」「金の紡ぎ車」「野ばと」の4つをとりあげて連続して交響詩にしているのが
四つの交響詩という作品であり、野ばとはその最後の作品という事になります。

この四曲ともその内容は、全て殺人や人の死絡みの曲ばかりで、その内容もかなりえぐいものばかりです。
Ⅰの「水の精」は、親の反対を押し切って人間界とは別の世界の水界の王様と結婚した娘が、その後
子供を残したまま一時的に里帰りしたものの、親に止められ水界に戻れず、娘がいつまでたっても
帰ってこない事に腹を立てた水界の王が嵐を起こし、子供の首を切って娘の家の前に捨て去ったという
結構グロテスクなお話でもあります。
Ⅱの「真昼の魔女」は、子どもの躾に禁句であるはずの「魔女」の名前を、安易に出してしまい、その結果、
本来悪意のない者の名前を出したことで、見せしめとなり、子供を亡くしてしまう母親の哀しいお話でもあったりします。
Ⅲの「金の紡ぎ車」はシンデレラに少しばかり似ているのかもしれないです。
権力者に見染められた娘に起こる悲劇の話でもあるのですけど、義理の母娘によって一旦は殺害
されてしまう娘でしたが、最終的には魔女によって生き返る事が出来、金の紡ぎ車によって義理の母娘の悪行が全て
ばれてしまい、最後は王様とその娘は無事に結ばれるというお話で四つの交響詩の中では唯一のハッピーエンディングを
迎えます。

そして、四番目の交響詩が「野ばと」なのですけど、その内容は現在の感覚で言うとお昼のワイドショーの恰好のネタに
されそうなお話でもありまして、今だったら週刊誌の紙面広告で
「若き妻が夫を毒殺!」とか「夫を殺して喪が明けないうちから年下の若いイケメンと恋に落ちる・・」とか
「良心の呵責に耐えかねて自殺」というセンセーショナルな文字に溢れるのかもしれないです。

野ばとのお話を簡単に記してみますと・・

「自分が毒殺した夫の葬儀で偽りの涙を流していた若い未亡人が、年下の若い男に言い寄られると、すぐに喪服を脱いで
男と激しく愛し合ってしまい、そのまま二人は結婚してしまいます。
しばらくすると亡き夫の墓の前に1本の樫の木が育ち、そこに野ばとが巣を作ります。
妻が夫の墓の前に行くと、その鳩は、悲しげに、そして妻を責めるように鳴いていました。
さすがに夫殺しをした妻は良心の呵責に耐えきれなくなり、精神的苦痛を味わう日を送りますが、
鳩の悲しそうな鳴き声を聴くごとに、だんだん精神状態がおかしくなり、ついに自らの手で自らの命を絶ってしまいます」
そうした感じの物語だったと思います。

この交響詩は音楽もかなり分かり易く場面転換が極めて明快ですので、未亡人の心の変化が一目瞭然という感じもあります。

曲は物語の展開に沿った切れ目のはっきりした5つの部分から構成されています。

第1部:アンダンテ、葬送行進曲

この部分は若い未亡人が夫の棺に涙を流しながら悲しみに暮れた様子で葬儀を取り仕切っている様子が窺えます。
(前述の通り、夫の死因は妻による毒殺です)

第2部:アレグロ- アンダンテ

そこに年下のイケメン男子が出没し、まだうら若き未亡人を口説きに掛ります、音楽からも未亡人が満更でもない様子も
感じ取れます。

第3部:モルトヴィヴァーチェ- アレグロ

そして若き未亡人はその年下イケメンと再婚し、音楽は幸せそうな結婚式の場面の音楽を奏でます。
 
第4部:アンダンテ 

未亡人が毒殺した亡き夫の墓の上に樫の木が生えて育ち、そこへ野ばとがやって来て悲しく鳴き良心の呵責に
耐えきれなくなった未亡人は発狂し身投げをして絶命します。

第5部:アンダンテ (エピローグ:終曲)

第1部が変奏されて曲が進み繰り返されます。1部では短調だった音楽が終曲では長調に転じた事で、死ぬ間際に後悔と
良心の呵責に苦しんだことが天に認められ、未亡人の罪は最後には赦されたという解釈も可能なのかもしれないです。

冒頭の葬送行進曲風な箇所は、その未亡人の夫殺しの動機に何があったのかは語られていませんけど、
毒殺してしまった後悔よりは、むしろ薄笑いとか「ざまーみやがれ!」みたいな気持も感じ取れそうですね。
第2部のトランペットの明るい音色は年下のイケメン男子の出現を示唆し、
第3部の二人の結婚式の場面は「スラヴ舞曲集」を彷彿とさせる華やかさも感じさせてくれるのですけど、
第4部の野ばとが哀しげに鳴く場面は、フルートとハープでもって哀しみが表現されるのですが、これがまたなんともせつない
気持ちにさせられます。せつないというか取り返しの付かない事をしてしまった・・といった後悔の感情なのかもしれないです。
終曲は決して後味が悪いという雰囲気で終らせるのではなくて、天国から毒殺された亡き夫が
「もういいよ・・君は現世で十分苦しんだ・・僕は君の全てを赦す」みたいな感じで「救済」を暗示した終わらせ方には
どこかホッ・・とさせられるものもありそうです。
これがマーラーやショスタコーヴィッチだと後味の悪い曲想で閉じられそうですけど、そうさせないのは、さすが人柄が
温かくて信仰心に厚いドヴォルザークの人徳のなせる業なのかもしれないです。

ちなみに、ドヴォルザーク自身は、プライヴェートの趣味は、鉄道と鳩の飼育だったそうです。

鳩というと平和でのんびりした鳥という印象もあるのかもしれないですけど、感じ方によってはこんなにも内省的な響きにも
聴こえてしまうのは、これまた音楽の多様性と言えるのかもしれないです。
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トライアングルは、金属の棒を三角形に曲げた形状の打楽器の一つです。

トライアングルは3つの角のうちの1つが閉じられず切断された状態の楽器であり、そのためトライアングルは
2ヶ所の曲部を持った1本の金属の棒と換言出来るのかもしれないです。
金属の棒というと強いて言うと近い打楽器はコンサートチャイムですけど、チャイムと異なり、トライアングルは
一定の音律(ピッチ)を持たないという大きな特徴もあったりします。

そもそも論としてどうしてトライアングルの形状は円形でもなく楕円形でも無く四角形でも無く、
一角が切断された三角形なのでしょうか・・?
その答えを探求して、ある科学者が色々と実験を試みたそうですけど、結論として、トライアングルは三角形の形状で
しかも一角が切断されていないとあのような天国的な色彩の透明感と繊細さに溢れた音色は出せなかったそうです。

開いていない角に紐あるいは金具を付けて吊し、金属の棒のばち(トライアングルビーター)で打つのが基本的奏法です。
専用スタンドに取り付けて演奏できるようにしたメーカーの製品もありますけど、この場合一人の奏者が同時に二台の
トライアングルを鳴らす事も可能ですし、実際私が見た中でも、1996年の東海大学第四高校の吹奏楽コンクール全国大会では
自由曲の交響詩「ローマの松」~Ⅳ.アッピア街道の松の際に、トライアングル奏者は、そうした専用スタンドを用いて
一人で2つのトライアングルを壮麗に響かせていました。

トライアングルは全体が弱奏の場合に清楚に静粛にチーン・・と鳴らされるとその清らかで清潔で洗練された響きに
思わずジーンとくる時もありますし、
そうした代表的事例の楽曲として、スメタナの交響詩「モルダウ」の冒頭部分を挙げたいと思います。
同様な例としては、ドヴォルザークのスラブ舞曲第10番(厳密に書くと「スラブ舞曲」第2集から第2曲)も中間部における
トライアングルの清楚な響きはとても美しいです~♪
そしてピーター(撥)をトライアングルの三角形の一角に上下で激しく振ってヒステリックに鳴らせる時のトライアングルの
激情振りも人の心を揺さぶらざるを得ないのかもしれないです。
その激情例として、ショスタコーヴィッチの交響曲第5番と第10番のそれぞれ終楽章の終結部を挙げたいと思いますし、
マーラーの交響曲第1番「巨人」~第四楽章のエンディングにおいて、トライアングルは2名の奏者によってヒステリックに壮麗に
鳴り響き、あのエンディングの打楽器はティンパニ奏者2名による激しいロールもありますので、トライアングルと合わせって
相当な音響効果を感じたりもします。
そしてチャーミングでかわいい使われ方としては、シベリウスのカレリア組曲~Ⅲ.行進曲風にを推したいと思います。
トライアングルとタンバリンとの融合という意味では、ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」が素晴らしいです。

よくトライアングルは大変例えが悪いのですけど「どんなアホでも撥で叩けばチーンと音は鳴る」と言われたりもするのですけど、
実際はそうした事は全く無くて、一見すると簡単に扱えるように見えるのですが、
クラシック音楽で使用される打楽器の中では非常に熟練を要する楽器でもあったりします。
その音量をコントロールすることは大変難しくて熟練の技術を要しますし、時に演奏が困惑させられるような
大変困難な複雑なリズムも要求される事もあったりします。
その一つの事例がグリーグの劇付随音楽「ペール・ギュント」のアニトラの踊りや吹奏楽コンクールの課題曲ですけど
1983年の課題曲Bの白鳳狂詩曲と91年の課題曲Cのロックン・マーチなのかもしれないです。
あ・・白鳳狂詩曲とロックン・マーチは同じ作曲者でしたね・・藤掛さんの曲はトライアングル奏者泣かせなのかも・・??
そうそう、トライアングルは意図的に指で楽器の一部に触れて振動を阻害し音色を変化させるという変化球もありますし、
打つ位置によっても微妙に音色を変化させることができますし、はたまたピーター(撥)の材質や重さによって音色の変化も
探究できます。
時に編み針、木製のビーターを作曲家が要求することもあったりします。

トライアングルは簡単に誰でも叩けば一応音は出るのですけど、その多様性と深さは打楽器の中でもミステリアスなものは
あるのかもしれないです。
冒頭のららマジに出てくるJKさんは、トライアングル奏者の月島塁ですけど、月島塁はららマジの中でも突出した
ちょっと変わった不思議ちゃんでもありますので、月島塁が器楽部でトライアングルを担当しているのも妥当なのかも
しれないです。

高校一年の地区予選の際に、うちの学校は課題曲にAの「イリュージョン」を選び、地区予選通過時に
審査員講評用紙でのとある審査員からの演奏コメントの中に
「課題曲の中間部のトライアングルの叩き方が極めて無神経で粗雑・・君の叩いたチーンと言う音色は客席2階にまで
響いてくるのだからもう少し考えて叩きなさい」と書かれていたものがありました。
当時課題曲でトライアングルを担当されていたのは3年生の先輩でしたけど、それを読みかなりブーたれていましたけど、
その先輩なりに何か感じるものがあったのか、県大会までの三週間の練習の中で、色々と叩き方を研究されていたようでも
ありました。
そして県大会での演奏が無事に終わり、そのトライアングルの先輩は自分達後輩に対して
「どだっ! 俺のトライアングルの音色は・・! 地区予選よりは数段の進化だろ! どだっ! まいったか~」みたいな事を口走り
嬉しそうにされていましたけど、後日予選と県大会の課題曲中間部のトライアングルのチーンという音を聴いても
「どこが変ったんだろ・・??」という感じでしたけど、本人がそれで満足というのならそれでいいと思いますし、何よりも
あの課題曲の中間部のトライアングルなんて別に目立つ箇所ではないのだけど、トライアングルの繊細な音は
ホール2階席でもきちんと届くということだけはなんとなく理解したものでした。
吹奏楽コンクールで昔も今も大人気自由曲の一つのラヴェルの「ダフニスとクロエ」第二組曲~Ⅲ.全員の踊りの部分で、
よく聴いてみると、後半に掛けて、サスペンダーシンバル→カスタネット→タンバリン→トライアングルと掛け合いの箇所が
あるのですけど、あの場面はバックもよく鳴っているのに、トライアングルのチーンという響きは普門館の客席にも
しっかりと伝わっていますので、ここからもトライアングルの音色は繊細だけど同時に遠くにもきちんと響いてくる不思議な
楽器といえるのだと思います。
(その不思議さこそがららマジのトライアングル奏者の月島塁にも被っているのかもしれないです~♪)


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そしてクラシック音楽におけるトライアングルというと有名な事例は、これは昔からよく言われている話ですけど、
リストのピアノ協奏曲第1番に尽きると言えるのかもしれないです。
19世紀頃までの協奏曲というと三楽章構成というのが定石であったのですけど、リストのピアノ協奏曲第1番は
第4楽章迄あることもそうですし、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」と同じ変ホ長調なのに、
全然調の印象が違うこともそうですし、全体の形式はソナタ形式を取っているものの即興的で自由な印象が大変強く。
冒頭の動機を後半部でも変形させ繰り返す事で曲全体の統一感を出し、循環主題の先取りをしているとも言うそうです。
そしてこの協奏曲において突出して個性的でユニークなのは、第3楽章において、当時は使用する事自体が大変珍しく
異例でもあったトライアングルをかなり効果的に用いていて、当時の音楽的常識を無視したかなり画期的な演出と
言えそうです。
(当時の交響曲・協奏曲のジャンルで使用される打楽器はティンパニのみという曲が多く、稀に大太鼓・シンバルが部分的に
使用される程度でもありました)
トライアングルがあまりにも活躍するので、当時の名高い音楽評論家のハンスリックから
「トライアングル協奏曲」とも当時は揶揄されたことでも有名であったりもします。

ハンスリックという高名な評論家は、当時の楽壇の人気を二分していたブラームスとワーグナーの中では、
ブラームスを強く擁護し評価していたのに対して、
ワーグナーと、「ワグネリアン」と称されるワーグナーに近いと目された人物には、上記のリストも含めて徹底的な批判を
加えています。
ワーグナーはそれに大変立腹し、ワーグナー自身が作曲した楽劇「『ニュルンベルクのマイスタージンガー」において、
ハンスリックを無粋なニュルンベルク市の書記ベックメッサーという役のモデルとして仕立て、
そのベックメッサーの設定は「常に不機嫌そうに接し、些細なミスや間違いを見逃さないようにどうでもいい事にばかり
文句をつける小役人」という事にして、ベックメッサーに対する強烈な嫌味とあてこすりをしていたりもするのですけど、
ワーグナーに心酔するものの、そうした粋な芸当が全くできないブルックナーは、
絶えずハンスリックの攻撃にさらされ続け、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に
「陛下、どうかお願いですのでハンスリックの口を塞いでください・・」と哀れに懇願するしかできませんでした・・
ハンスリックはブラームスの音楽を高く評価していましたけど、実はブラームス自身は
「ハンスリックの書いた批評を読むと、実は彼は私の音楽を理解していないのではないかと思ってしまう」という趣旨のコメントを
残してもいたりもするそうです。

リストの娘がコジマと言う女性であり、
ワーグナーというとビューローという指揮者とコジマの存在を外す訳にはいかないです。
ビューローは、当初はワーグナー派の代表的存在でしたけど、ビューローの妻・コジマとワーグナーは、平たく言うと
できちゃいまして不倫関係に陥り、その結果、ビューローとコジマは離婚し、その後ワーグナーとコジマは結婚した経緯が
ありました。
その後、ビューローはワーグナーから離れてブラームスとの親交を深めその作品を積極的に取り上げるようになるのですが、
亡くなるまでビューローはワーグナーの楽曲には愛着があった節もありましたし、
自分の私生活と音楽は別という考えも多少はあったのかもしれないです。

クラシック音楽の作曲家・指揮者・音楽評論家というとお堅いとか高貴というイメージはあるかとは思うのですけど、
そうした先生方も所詮は人の子・・という事で「人生いろいろ~」みたいなエピソードも残されているという事なのですね。

ららマジの不思議少女の月島塁も「人生いろいろ~」と言う事でそうした少しミステリアスで他人と異なる所も
すてきだと思いますし、ららマジには個性溢れるたくさんのJKさん・JCさんがいる中で、
月島塁のそうした不思議ちゃんという個性もまた大変尊いと言う事なのだと思います。

改めて月島塁について記しますと、月島塁は高校2年生のJKさんで担当楽器はトライアングルです。
不思議系の雑誌を読んだり、占いが趣味のちょっと電波な不思議ちゃんでもあります。
バトル時には、棒をステッキにし、トライアングルから発動される魔法攻撃でもって攻撃を仕掛けます。

月島塁はちょっと変わった不思議なJKさんですけど、そうした月島塁が奏でるトライアングルの音色は、果たしてどんな音色を
奏でてくれるのか興味津々ですし、
19世紀において古典的形式のお手本みたいなピアノ協奏曲のジャンルにおいて「楽章の中にトライアングルをかなり効果的に
響かせている」というリストのピアノ協奏曲第1番第三楽章を月島塁だったらどのように感じて、どのように表現してくれるのか
というのも大変面白いものがありそうです。

そしてトライアングルというと別に楽器だけがトライアングルではないです。

人生いろいろ、トライアングルもいろいろ~♪という事なのだと思います。

上記は打楽器の一つのトライアングルのお話でしたけど、トライアングルと耳にして、
テレビアニメ「プリパラ」に登場するユニットを思い出す方は最近のアニメファンであり、
かつて「キャンディーズ」の後輩ユニットとして売り出され一時期はキャンディーズjr(キャンディーズジュニア)とも呼ばれていた
三人組のアイドルユニットを思い出す方は昭和アイドルファンであり、
焼酎の商品名を挙げられた方はお酒好きという事なのかもしれないですね~
ちなみに焼酎のトライアングルは元々はキッコーマンが製造販売していた焼酎ですけど、実は2006年に事業譲渡され、
現在はサッポロビールが製造販売しているそうです。
そうそう・・私が子供の頃は世界の謎とかムーでお馴染みだったのは「バミューダ・トライアングル」という一種の都市伝説も
あったものでした・・


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ここから下記はdream fantasyのアミグリさんが
描かれたイラストのご紹介コーナーです。

上記のお話は「トライアングル」関連でしたけど、アミグリさんファンの皆様、そしてアイドルアニメ好きファンの皆様の
視点で申し上げると、トライアングルというとプリパラのユニットですよね~♪

そうした訳でdream fantasyのアミグリさんが
描かれたぴのん、かのん、じゅのんの3人から構成されるトライアングルの集合絵をご紹介させて頂きたいと思います。
下記のらぁら・そふぃ・みれぃのソラミスマイルの3人の集合絵もとても華やかですてきでしたけど、
ぴのん、かのん、じゅのんの3人も3人揃い踏みの集合絵は更に豪華絢爛さがマシマシになり
とっても華やかで鮮やかだと思います。

今回描かれたトライアングルの集合絵は「ライブをしているシーン」をアミグリさんとしてはイメージされたとの事ですけど、
そうしたライブとしての華やかさ・躍動感も申し分なく伝わっていると感じます。

ぴのんちゃん・かのんちゃん・じゅのんちゃんの3人は実は同一人物であり、とある人物が三位一体と言うのか一人三役を
見事に演じていて、そのとある人物のその正体こそが実は、真中らぁらの妹の真中のんであったという事が判明したのは
プリパラの第三期アニメ本編の最終回間際でもありました。
アニメ本編にて、真中のん役の声優さんが結果的にトライアングルの三人の声を演じたという事にもなるのですけど、
声優さんのそうした声の演技も素晴らしいですけど、アミグリさんのトライアングルの集合絵も見ている人に
「実はこの3人は同一人物である」という事を微塵も感じさせないキャラの違いを的確に表現されていて、こちらも声優さん
同様にそのご苦労に心の底から敬意を表させて頂きたいと思います。

改めて3人揃い踏みの集合絵として拝見させて頂きますと、今
回はキラキラ仕様が加わり、背景のアイドル空間的な華やかな雰囲気も加わり、今まさにライブをやっている~!といった
躍動感が見ているだけで伝わってきそうです。

この3人は確かに同一人物ではあるのですけど、三者三様のクールさ・明るさ・かわいらしさが伝わってきていて、3人の個性の違いも一枚の絵の中にぐぐっと盛り込まれているのも素晴らしいと思いました。


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続きましてアミグリさんが描かれたプリパラ集合絵の中から、2018年3月に描かれた「ソラミスマイル」の3人の集合絵です。

上記のトライアングルの3人よりもこの3人の方がお姉さんっぽく感じられるのは、トライアングルの正体は
真中のんという真中らぁらの妹が3人のキャラを演じていて実は同一人物であるという事が大きいのかもしれないです。

みれぃのネコ耳っぽいお団子もらぁらの髪にちょこんと乗ったシルクハットもとってもかわいいものがあると思いますし、
プリパラの中でも王道中の王道のこの三人が勢揃いしたソラミスマイルの集合絵は、とても華やかで
見ているだけでもハッピーな気持ちになれてしまいそうなすてきな集合絵だと改めて感じたものでした。

上記で触れた通り、アミグリさんの絵は、どちらかというとキャラ一人を描く傾向が強い中、
こうした集合絵というか複数キャラを描かれる作品も大変珍しいものがありますので、
そうした意味においても大変貴重な作品と言えるのだと思います。

アミグリさんがこのソラミスマイルを描かれ掲載していた頃が丁度dream fantasy開設10周年という大きな節目でも
ありましたので、ソラミスマイルの3人がアミグリさんに対して「おめでとう! ここまでよく頑張ったね!」と
言われているようにも感じられそうです。
らぁらがメインにでーんと位置していますけど、らぁらの決め台詞でもある「かしこまっ!」と言いたそうな雰囲気もあり、
とにかくこの華やかさが申し分ないと思います。

上記のアミグリさんが描かれたプリパラ集合絵のその権利は上記作品の絵師様である
アミグリさんに帰するものであり、当ブログにおける転載とご紹介は事前に全てアミグリさんからご了解を頂いたものであり、
アミグリさんからのご厚意で転載をさせて頂いておりますので、
無断お持ち帰りや無断コピーは絶対NGですので くれぐれも宜しくお願い申し上げます。

アミグリさん、本当にいつもすてきなイラストの転載を快諾して頂きありがとうございます!!

アミグリさんのブログ「dream fantasy」は、
東方・艦これ等の版権作品の二次創作作品やオリジナル作品など
すてきなな作品が一杯いっぱい詰まっている宝石箱みたいなとっても素晴らしいブログです!
皆様の中で「こんなにかわいいトライアングルを描く人のブログってどんなもんなのだろう・・? 」などと興味がある方は、
是非是非アミグリさんのブログ dream fantasy  を
ご覧になって頂きたいと思いますし、宜しければ、当ブログだけではなくて、
是非アミグリさんの本家本元のブログ dream fantasy  に一度お越しして頂けると
アミグリさんのブログをご紹介させて頂いている私もとってもとっても嬉しいです!

アミグリさんが定期的に作品を投稿され続けている →アミグリさんのpixiv にも是非一度足を運んで頂ければ幸いです!

アミグリさんのpixiv

それでは最後まで本記事を読んで頂きありがとうございました!
本記事はA.ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」の記事なのですけど、
私自身がドヴォルザークの交響曲でいっちば~ん!大好きな曲というと実は「新世界より」ではなくて、
実は交響曲第7番です!
ドヴォルザークの7番は知名度は低いのかもしれないですけど、その内容の充実は素晴らしいものがあり、
雰囲気としては「大変厳しい状況や困難さを克服し、なんとか自立で頑張ってみよう!」みたいな決然としたものを
感じさせてくれていると思います。
ドヴォルザークの7番は演奏会では「新世界より」に比べると格段に演奏頻度が下がるのはちょいともったいない感じは
しますし、交響曲第8番や 交響曲第9番「新世界より」は7番に比べると演奏機会も発売されているCDも断トツに上ですので、
7番の方ももう少し注目度が上がればいいなぁと思ったりもします。
交響曲第7番は内容が大変シリアスさと厳しさを有していますけど、交響曲第6番は全体的には
「この世のありとあらゆるハッピーを手に入れた!」みたいな幸福感が全体を支配し、この6番ももっともっと知れ渡って欲しいと
願ってやまないです。

それにしてもドヴォルザークという作曲家は、日本人好みのメロディーを多く作曲した「屈指のメロディーメーカー」という
印象があります。

一例を挙げると・・

〇交響曲第9番「新世界より」~第二楽章

〇ユーモレスク

〇弦楽四重奏曲「アメリカ」(弦楽四重奏曲第12番)

〇チェロ協奏曲

〇スラブ舞曲(特に第Ⅱ集の第二曲のあの泣けるメロディーラインは名曲の名に恥じないと思います!)

など色々あると思います。

ドヴォルザークのあの哀愁溢れるメロディーラインは日本人好みだと思いますし、不思議な郷愁の感情を感じてしまいます。
日本人好みの哀愁・秋みたいな感覚・しっとり感が伝わり、どこなく田園地帯の静かな秋といった色彩も
音楽から伝わっているように感じられます。
どうしてこんなにも美しくすてきなメロディーをドヴォルザークは書けたのかと言うと、多分それはドヴォルザーク本人の
信仰心が厚く真面目で常識的で温かい人柄に起因するのかもしれないです。
肉屋の長男として生まれ、幼少の頃より大変貧しい生活を送り、正規の音楽教育もなかなか受けることができず、
恩師等の援助等によってなんとか音楽学校を卒業できたものの、生活のために奏者として教師として仕事を時に掛け持ちし、
若い頃はかなり貧しく大変な時期を過ごされてもいます。
そして結婚後も、長男・長女・次男を小さい頃に亡くしたりするなど、かなり苦労の絶えない人だったのかもしれないです。
だけどそうした貧乏・苦労を知っているからこそ、どこか人間味あふれた温かい音楽をあんなにもたくさん残すことが
出来たといえるのかもしれないです。
ドヴォルザークが交響曲第9番「新世界より」を作曲した背景に、アメリカのナショナル音楽院より
「ぜひ渡米して2年程度当学院の院長に就任して欲しい」という要請を受け、初めは強く固辞したものの、プラハの学校での
年収の実に25倍近くの報酬を提示され、アメリカに渡ったというエピソードもドヴォルザークの経済事情を考えると
当然なのかもしれないです。
だけどそのアメリカ生活での環境で、さらにすてきな作品を後世に残す結果となったのはとても幸いだったと言えるのかも
しれないです。

冒頭でドヴォルザークは交響曲第9番「新世界より」よりも交響曲第7番の方が好みと書いてしまいましたけど、
交響曲第9番「新世界より」は古今東西人気交響曲の投票を行ったとしたら、確実にベスト10に入りそうな曲ですし
名曲の資格を有する本当に素晴らしい傑作だと思います。
オーケストラの演奏会で最も頻繁に演奏されるレパートリーの一つでもありますし、
日本においてはベートーヴェンの交響曲第5番「運命」、シューベルトの交響曲第7(8)番「未完成」と並んで
3大交響曲と呼ばれることもありますし、事実、現在はやっているかどうかは分かりませんけど、読売日本交響楽団が、
世界の三大名交響曲と銘打ってサマーコンサートを開催していましたが、その三大交響曲とは運命と未完成と新世界でした。

交響曲第9番「新世界より」は今現在は言うまでもなく交響曲第9番という呼び名が定着していますけど、実は第二次世界大戦
あたりまではこの交響曲は交響曲第5番と呼ばれていました。
それは作曲した古い順から1番・2番・・としていく通常のナンバーリングではなくて、出版社の都合によりその出版順により
第5番と呼ばれていた事も大きいですし、それ以上に第二次世界大戦前後あたりまでは、ドヴォルザークの交響曲第1~4番は
マイナーすぎて世間にほとんど知れ渡っていなかったという事情もあるようです。
その後作曲順に番号が整理され、現在では「新世界より」は第9番として定着しています。

ドヴォルザークの初めての交響曲は、交響曲第1番「ズロニッツェの鐘」という曲なのですけど、この交響曲は
ドヴォルザークの若書きということもありましたし、作曲コンクールへの応募作品と言う事で短期間で書き上げたという事もあり、
コンクール落選後に主催者から交響曲第1番「ズロニッツェの鐘」の総譜が返却されなかったという事もあり、
元々作曲した作品に対しては大変厳しく自分が納得いかない曲は容赦なく破棄する癖もあったドヴォルザークは、
「交響曲第1番は自分が破棄したのかもしれない」と考えていたのかもしれないですし、案外もしかしたら
そうした曲を作曲していた事自体忘れていたのかは定かではないのですけど、ドヴォルザークは
交響曲第9番「新世界より」 完成後の自筆のスコアにははっきりと「交響曲第8番」と記していたそうですから、
少なくともドヴォルザークの頭の中では交響曲第1番「ズロニッツェの鐘」は認知していなかったという事なのかもしれないです。

上記で書いた通り、私自身この交響曲は高校の頃まではそれほど大好きという感じでもなかったですし、
「同じドヴォルザークならば、交響曲第8番とか第7番の方がはるかに内容的にも優れているのに、どうして新世界ばかり
人気があるのかな・・?」と 少々ひねくれた考えを持っていたものです・・・
第二楽章のあの「家路」の哀愁溢れるメロディーとか第四楽章冒頭のトロンボーン等による堂々としたメロディーが
あまりにも音楽の授業とかCMとかテレビのBGMで多用され過ぎたせいなのか、新世界を聴いても「またか・・」みたいな感じ
になってしまい、名曲過ぎて逆に敬遠気味だったのかもしれないです。
そうした考えが一転したのは、大学の吹奏楽団に入部して以降だと思います。
ある時、トロンボーンの先輩との会話の中からなぜかドヴォルザークの話になってしまい、
「この作曲家の交響曲の中では断然7番がいいと思うのですけど・・・」みたいな事を口走ったら、その先輩より
無言で練習場内に置かれていたケルテス指揮/ウィーンフィルのレコードを差し出され(当時はCDが普及していない時代です)
「騙されたと思ってこのケルテスの新世界を聴いてみてからそういう戯言を言ってみなさい」と一喝され、
しぶしぶこのレコードを聴いてみたら、「なるほど、そういう事か・・」と目からウロコ状態となったものです。
ケルテス指揮の演奏は現在の視点で聴いても、斬新というか音楽のダイナミックスレンジが幅広いし
自由自在に表現している感じが伝わり、音楽の教科書に掲載されている名曲みたいな堅苦しいイメージの音楽ではなくて
とにかく「生き生きとしている」・「面白い」・「古めかしい教科書くさくない演奏」・「新鮮」という感覚が強くて、
結果として、一人の指揮者の演奏がきっかけで、今まで敬遠していた音楽が好きになる事の典型例みたいな
感じになってしまいました。

ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」なのですけど、未だにこの曲について少々誤解をされている人もいるようです。
その誤解とは何かと言うと、
ドヴォルザークがアメリカという当時としては「新大陸=新世界」に音楽院長として赴き、
原住民であるアメリカインディアンの民謡からヒントを受けて、それを引用しても第二楽章の家路のメロディーを作曲したという
話がよく語られているのですけど(私自身、中学の音楽の授業ではそのように教わっていました・・)
それはとんでもない大嘘ですからね~
ドヴォルザーク自身は、この交響曲作曲に当たっては、別にインディアンの音楽や黒人音楽からの引用は一切ありません。
アメリカの黒人音楽が、ドヴォルザークの故郷ボヘミアの音楽に似ていることに刺激を受け、
アメリカと言う新世界から故郷ボヘミアへ向けて作られた完全オリジナル作品というのが正解のような気がしますし、
「新世界より」という副題は、新世界アメリカから故郷ボヘミアへ向けてのメッセージといった意味なのかもしれないです。

あくまで私の個人的な感想ですけど、この交響曲は第一楽章が一番好きです。
壮大さ・自然への賛美・人間への愛情、郷愁といった色々な感情が荒ぶっては引いていくみたいな気持ちになりそうです。
フィナーレも壮大で聴き応えがありますし、最後の和音のフェルマータを静かに閉じていく意外な終わらせ方も
面白いと思いますし、第三楽章の舞曲みたいなところも聴いていて気分爽快です。
やっぱりこの交響曲の最大の聴きどころは、誰が何と言ってもあの泣ける第二楽章、特にコールアングレの長大なソロ
なのだと思います、
確かにCMや販促CDとか教科書とかTV番組のBGM等で使用され過ぎというせいもあり、商業ベースに乗せられ過ぎみたいな
感覚も無い事は無いのですけど、あの第二楽章のコールアングレのソロは聴くだけで「何か」を感じさせてくれていると
思います。
ラフマニノフみたいな甘酸っぱい郷愁とか後ろめたい後悔の気持ちみたいな感じては無く、気分としてはもう少し前向きな感じも
あったりします。

交響曲第9番「新世界より」のあるある話としてよくネタにされている話が、
シンバルは全曲を通して第四楽章の一打ちしか出番がなく、第四楽章のその出番がくるまでシンバル奏者はじっと待って
いなければいけないので、ついついその待機時間の長さに負けてしまい、演奏中に寝てしまって第四楽章の唯一の出番を
スルーしてしまったとか、第一~第四楽章まで終始出番がある弦楽器や大変なソロがあり重圧のかかるコールアングレの
奏者とわずか一か所しかないシンバル奏者のギャラは実は全て一律平等であるのが管弦楽団のルールであるという事が
あったりもします。
このあたりを少しフォローさせて頂きますと、シンバルについては確かにシンバルだけなら第四楽章の一打ちだけですけど、
実際の演奏会では、この新世界交響曲の打楽器はティンパニと第四楽章のシンバル以外では第三楽章のトライアングルも
ありますので、大抵の場合シンバルとトライアングルは一人の奏者が兼任する事がほとんどなので、
「わずか一か所のみの出番なのに貰うギャラはヴァイオリンやコールアングレと同じ」というのは間違っていますし、
それに出番が一か所のみという意味では実はチューバも同じで、チューバの出番は第二楽章冒頭のわずか10小節のみです。
ただ、シンバルの一打ちについては、その一打ちが弱音指定であるためか、寝過ごした・楽器を落として舞台上を転がした
といった都市伝説が存在するのも面白い話だと思います。

第四楽章におけるシンバルなのですけど、上記で全楽章で出番は第四楽章のわずか一打ちだけでしかもとてつもない
弱音指定なのであまり目立たないと記しましたけど、このシンバルの一打ちは大変難しい個所だと感じたりもします。
人によっては「シンバルはどなアホでも叩けば音は鳴る」と思われるのかもしれないですけど、そうした誤解は
新世界のシンバルの一打ちにかける難しさを見て頂けると溶けると思います。
そのシンバルの一打なのですけど、譜面上は二分音符+全音符+四部音符がタイで結ばれた譜面上は、mfのアタックの
後に7拍分の余韻が指示されています。
そうした作曲者からの指示をいかに音にするかというのは指揮者ではなくて実際にシンバルをあわせる奏者の腕の見せ所
なのだと思います。それをどのように料理するかを考えるという事自体、シンバル奏者=どんなアホでも叩けば音は出る
という訳ではないという事を立証しているのだと思います。
さてさて・・そうしたドヴォルザークからの厄介な指示を現場でどのように音にするか、その方法として考えられるのは
1.合せシンバル的にタイミングよくアタックする
2.左手のシンバルの内側側面を右側シンバルのエッジに擦り合わせる
3.片方のシンバルを吊るしシンバル的に片手で持ち、別の手で手にしたマレットで軽くたたく
という事がありそうですけど、実際の演奏会でシンバル奏者が実践しているのは2の方法が多いように思えます。
2の方法はタイミングが命だと思ったりもします。

第二楽章のコールアングレのソロは、本当にこの世の物とは思えないほどの「美しいメロディー」なのですけど、
こんなに美しい叙情楽章も大変貴重なものがあると思います。他にどんな美しすぎる抒情楽章があるのかさっと思いつく所で
列挙してみますと・・

〇ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番第二楽章

〇コルンゴールド/ヴァイオリン協奏曲第二楽章

〇バーバー/ヴァイオリン協奏曲第二楽章

〇モーツアルト/ピアノ協奏曲第23番第二楽章

〇プロコフィエフ/交響曲第5番第三楽章

〇シューベルト/ 交響曲第7番「未完成」第二楽章

〇マーラー/ 交響曲第5番第四楽章・アダージェット

〇  同 / 交響曲第6番「悲劇的」第三楽章

〇チャイコフスキー / 交響曲第5番第二楽章

など色々とあるのですけど、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」の第二楽章は、別格みたいな感じもありますね。
「新世界より」の第二楽章は、コールアングレのソロばかり注目が集まりがちですけど、
この楽器の延々と長いソロの後のクラリネットとフルートに受け継がれていく部分も相当美しいものがあると思います。
終盤近くに、チェロを中心とする弦楽合奏の中で、突然メロディーが瞬間的に途切れて 一瞬何秒かの沈黙が
二か所ほどあるのですけど、あれを最初に生演奏で聴いた時は思わずはっ・・となるほどの息をひそめてしまうような
美的限界があるようにも感じられます。


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ららマジの器楽部においては、オーボエ奏者はいなくてコールアングレ奏者の白石陽菜のみです。

多分ですけど、オーボエの音色が必要な場合は白石陽菜が楽器を掛け持ちしているのかもしれないです。

白石陽菜は高校2年生のJKさんで血液型はO型です。
気品と度胸あふれるおてんばなお嬢様という設定です~♪

一見いいところのお嬢様という雰囲気も有しながら、かなりやんちゃで活発なお転婆娘というのも楽しいですし、
お転婆ゆえに実は特技と趣味は木登りというのもとても楽しいです。

活発な女の子だけど、担当している楽器の音色はかなり内省的というギャップもすてきですね~♪

そして前髪をあげているためおでこがかなり目立っているのもとてもかわいいです~!

吹奏楽コンクールにおいては稀にドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」 ~第四楽章が自由曲として演奏される事も
あったりしますけど、本来は第四楽章はティンパニとわずか一打のシンバルのみですけど、ライゼン編曲の吹奏楽版だと、
ここにシロフォーン・大太鼓・小太鼓も加わり、本来は第四楽章では登場しないはずのチューバもかなり低音を響かせていたりも
しています。
聴き方によっては結構無茶苦茶なアレンジですけど、ららマジ器楽部の楽器編成もかなり無茶苦茶ですので、
ららマジ器楽部がもしもA.ドヴォルザーク / 交響曲第9番「新世界より」 を演奏したらとても面白そうですけど、
第二楽章のコールアングレのソロはこの白石陽菜がしっとりと美しく決めてくれそうですね~♪



リコーダーは縦笛の一種で、息を吹き込んで発音して、穴を指で塞いで音程を決める楽器です。

12世紀頃に楽器として登場し、ルネサンス期~バロック期のヨーロッパで隆盛を極めたものの、18世紀に
横笛としてのフルートが登場して以降は18世紀以降は急速にオーケストラの中では消滅していきます。
もともとはクラシック音楽の楽器でしたけど、オーケストラが巨大化するに至って大音量が出ないという理由から、
クラシック音楽の楽器としては廃れていったという歴史もあったりします。
シェークスピアが活躍していた時代がリコーダー全盛の時代ともいえるのですけど、例えばハムレットのセリフの中にも
「リコーダーはうそをつくのと同じくらい易しいぞ。親指や他の指で穴をおさえ、息を吹き込めば最高の音楽になるぞ」という
セリフも実はあったりもします。

単に息を吹き込むだけで容易に音を出すことができるのですけど、その理由として、フルートのように唇の振動で
音を出すのではなくて、楽器の頭部の栓(ブロック)と管壁の隙間から吹き込まれた息が、鋭い切り口にあたって
ホイッスルの原理と同じように音を発する事が挙げられます。
上記で触れた通り、クラシック音楽の分野ではフルートの地位にとって代わられ存在意義と活躍場所を失ったかのように
見えたのですけど、現代の日本においては、
小学校低学年でも簡単な演奏が可能である上、構造がシンプルでプラスチックを用いると安価に量産できることもあって、
小学校や中学校の音楽の授業で主にソプラノリコーダーとアルトリコーダーが使われていたりもします。
(捨てる神あれば拾う神あり・・という感じなのかもしれないです)

アニメ二次創作や同人系の分野では、リコーダーというと、ロリ・ランドセルと共に幼女の必須アイテム・
他の楽器に比べて深く口にくわえる事から、リコーダーを吹く事がとある行為を示唆するもの・・とか
男子中学生が好きな女の子と間接キスをするために誰もいない教室に忍び込んで、その女の子のリコーダーを
こっそり吹く・・といった誤った使用方法やイメージもあるようですけど、よいこの皆様はそんなヘンな妄想でリコーダーを
悪用したらダメですよ~(汗・・)


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「ららマジ」において、リコーダーを担当されているのは高校3年のJKさんの園田乃愛です。
(乃愛というと「ラーメン大好き小泉さん」のモブキャラの乃愛ちゃんを思い出してしまいそうです・・)
演奏会の演出を一手に引き受ける最上級生であり、器楽部創立メンバーの一人でもあります。
担当楽器はリコーダーで、楽器初心者の下級生の星にもなっているそうです。
(リコーダー自体が楽器初心者にとっては最も扱いやすい楽器の一つなのかもしれないです)
趣味はTVゲームで、はね髪がとってもかわいいですし、とてもじゃないけど高校3年生に見えない幼い雰囲気が
とってもかわいいですね~

バトル時ではリコーダー型の杖を振って星型のエネルギーを飛ばして攻撃するそうです。


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今年の10月後半以降当ブログでよく出てくる「ららマジ」なのですけど、これはアニメ作品でなくてスマホ向けの
2017年1月にリリースされた音と魔法の学園RPGです。
ららマジのストーリーは、とある呪いにより廃部寸前となってしまった東奏学園器楽部を舞台に、
プレイヤーは器楽部員として登場する30人のヒロイン達を呪いから救い出し、彼女たちが再び演奏できるようにすることを
目指すように頑張るという内容です。

東奏学園器楽部の部員は30人ですけど、
「ららマジ」は吹奏楽部ではなくて器楽部と言う事で、楽器仕様に制約が無いと言う事で、出てくる楽器も
吹奏楽ではありえない編成のワーグナーチューバ・箏・胡弓・チェロ・リコーダー・エレキベース・エレキギター・シンセサイザー・
ウクレレなども登場しているのは自由さがあってとてもすてきだと思います。

私自身、中学校以降はずっと吹奏楽部に所属していましたけど、小学校の頃の放課後課外活動として、
週に2~3回程度の練習を行う管楽器クラブに所属し、そこでは打楽器(主にティンパニ・ヴィヴラフォーン・シンバル等)を
担当していました。
当時の感覚としては「こうした大人数での合奏するのだったら、叩く楽器よりも吹く楽器の方が面白そうだし、より音楽に
参加しているという意識がありそう・・」と感じ、中学入学以降に吹奏楽部の門を叩いたのですけど、これが結果的に
間違いだったのかそうではなかったのかは今となってはよく分からないですけど、結果的に音楽を知るきっかけになったのは
確実なのでそれはそれで結果オーライなのかもしれないです。

小学校の管楽器クラブはららマジと同じくらい編成が自由自在で、主なメロディーライン担当楽器は、上記でも出てきた
リコーダーと、ピアニカ(鍵盤ハーモニカ)とアコーディオンだったと思います。
そこにトランペット・トロンボーン・クラリネット・サックス・チューバ等の管楽器や打楽器が加わり、なぜかしりませんけど、
そこに更に足踏みオルガンも加わっていましたので、奏でられるサウンドの響きは今にして思うと相当奇妙だったのかも
しれないですけど、運動会での鼓笛隊と合せる形での入場行進の演奏とか学芸会での演奏お披露目とか
年に3~4回程度開催されたお楽しみ演奏会等での合奏やそこでの練習はとにかく「楽しかった!」としか言いようが
なかったと思います。
指導する先生も細かい事はあまり気にされないで、「とにかくみんなのやりたいように吹いていいよ~」という感じで
のびのびと楽しんで吹いていたと思いますし、楽器編成がららマジと同じくらいてんでバラバラでしたけど、
そこから奏でられる音楽は、むしろ自由自在な気ままさだったのかもしれないです。
こういうのを「楽しむ音楽」というのかもしれないです。

そして中学校の吹奏楽部に入部して気付いた事は、音楽は音楽でも自由自在に気ままに楽しんで奏でる音楽と
厳しい規律と指揮者による厳格なコントロール下に置かれ、編成も厳密に定められている「吹奏楽部」という
管理された音楽の二種類があるものだ・・という事でもありました。

今となってはその二つの音楽にもそれぞれ長所短所もあるのですけど、忘れて欲しくないのは、やっぱり奏者の自発性と
音楽をする楽しみといえそうですし、そうした意味においてはららマジのメンバーはそれぞれ自発性と音楽を楽しむ心を
有しているのがすてきだな・・と感じたりもしますね。
一般的にフルートというと、美少女が奏でる楽器というイメージもあるのかもしれないですし、昔も今も吹奏楽部においては、
楽器振り分けの際には女の子には大人気の楽器の一つだと思います。
フルートは美少女が吹くイメージが強いせいか、きらびやか、かわいいと言う雰囲気がありそうですね~♪

フルートというと両腕を上げて奏でる横笛楽器で、銀色または金色の金属製の筒に複雑なキー装置を備えた横笛と言えます。
今現在はフルートというと横に構えて吹く楽器というのは既に一般化されていると思うのですけど、
実はJ.Sバッハとかヴィヴァルディ等のバロック時代においては、フルートという楽器は実は現在一般にリコーダーと呼ばれる
縦笛の事を指していました。
実際バッハの若い頃は横笛楽器としてのフルートという楽器はそれほど定着はしていなかったようです。
バッハの若い頃は上記で書いた通り、フルート=リコーダーという縦笛楽器であったのですけど、現在の感覚で言うと、
リコーダーというのは、誰にでも手軽に音が出せる学校教育の場で主に使用される楽器とか
はたまた妄想アニメ等で、モテない男子高校生が誰もいない教室でこっそりと憧れのクラスメイトのJKさんのリコーダーを
吹いて「間接キスができた・・」といって涙ぐむシーンでお馴染みなのかもしれないですけど(汗・・)
バロック時代は今現在と違って、リコーダーというのは管弦楽の主要楽器の一つという立ち位置でもあったようです。

バッハを崇拝していたフリードリヒ大王が横笛としてのフルートを愛用していたというエピソードからわかるように、
バッハの青年期以降は、縦笛のリコーダーにとってかわってフルートがその役割を担うようになり、そこに楽器としての
劇的な改良が施され現在のフルートの形になっていきます。

フルートという楽器は今現在はほとんど金属製になっていますけど、人によっては
「あんなメタルの楽器がどうして木管楽器に分類されるの~?」と疑問に感じられるのかもしれないですけど、
確かに初期の頃は木製フルートもあり今現在も稀に木製フルートを使用されるプロ奏者もいます。
クラリネットやオーボエはリードという薄片を息で震わせて音を出し、ホルンやトランペット等の金管楽器は唇を震わせて
音を出します。
フルートはクラリネットやオーボエのような物理的なリードはないですけど、
頭部管唄口のエッジに向け息を出して空気を振動させるという「エアリード」と呼ばれる空気の渦流を作る仕組みがあります。
吹き込んだ息をエアリードが音にして出しているので、フルートは金属製でも木管楽器に分類される訳なのです。
メタル系楽器と言うとサックスも木管楽器に分類されますけど、サックスの先端はマウスピースであり、マウスピースに
薄い木片のリードを装着させて吹くので木管楽器として分類されます。

クラリネットやオーボエと違って発音にリードを用いないため、他の木管楽器よりもタンギングの柔軟性は高く、
運動性能も木管楽器の中では最も高く、クラリネットやオーボエだと大苦戦する速い指使いの楽曲も比較的容易に
吹く事ができます。
(音色が安定し速いパッセージも難なくこなせるという事で指揮者からは愛される楽器なのかもしれないですね~)
フルートの音量は小さいのですけど、高音域は倍音が少なく明瞭で澄んだ音と言う事で、
管弦楽でも吹奏楽でもサウンドの中に埋没する事は少なく、その音は埋もれることなく明瞭に聞こえてくる傾向は強いです。

埼玉ネタで申し上げると、埼玉県所沢市に村松フルート製作所という楽器メーカーがあります。
昔も今も全て手作りなので1ヶ月に400本程度しか生産できないが、プロの6割以上が村松フルート製作所のフルートを使用
しているという話もあるそうです。
村松フルート製作所のフルートは最も優れたフルートの一つとしてミュンヘン市立楽器博物館に永久保存されているほどで、
換言すると埼玉の隠れ名産品とも言えそうです。
当ブログではよく「埼玉は何の名物も銘菓もないし、あるのは十万石まんじゅうだけ・・」と自嘲的に書いたりもしていますけど、
実は世界に誇るべきフルート製作メーカーが存在しているというのは、埼玉県民の私にとっても大変誇らしい話といえそうです。

吹奏楽部に入部希望をしてくる新入部員たちの中での人気楽器は、トランペット・トロンボーン・アルトサックスだと思いますが、
女の子にとって一番人気のパートはフルートと言えるのかもしれないですね。
フルートのイメージは優雅で華麗であり、全体合奏の中では目立たない方なのかもしれないですけど、随所においしいソロが
用意されている事も多々あり、音程が安定している事もありますし、万一ミストーンをしても元々の音量が弱いという事もあり、
あまり目立つことも無く、指揮者からはどちらかというと優等生扱いされる事が多いのかもしれないです。

フルートは前述のとおり、とても清らかな音色で美しく、美しいメロディーをソロ的に奏でる管弦楽曲も古今東西多数
存在しています。
フルートがソロ的に扱われている管弦楽曲を少しばかり挙げさせて頂きますと・・・

ビゼー / アルルの女第二組曲~Ⅲ,メヌエット

M,ラヴェル / バレエ音楽「ダフニスとクロエ」第二組曲~Ⅱ,パントマイム

G,グリーグ / 劇付随音楽「ペール・ギュント」~朝

G,フォーレ / 組曲「ぺリアスとメリザント」~Ⅲ,シチリア舞曲

C,ドビュッシー / 牧神の午後への前奏曲

C.サン・サーンス / 組曲「動物の謝肉祭」~鳥かご

個人的な趣味ですけど、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」の第一幕冒頭の細かい動きはフルートによって
主に進行されていきますけど、あのフルートの細かい動きは結構ツボにはいっています。
吹奏楽オリジナル作品では、チャンスの「呪文と踊り」の冒頭ソロの重々しい響きもとても渋くてすてきです。

そうした中、フルートが管弦楽の中で朗々と長大なソロを奏でるというと私的には、ラヴェルのダフニスとクロエを
推したいです。
バレエ音楽「ダフニスとクロエ」は、副題は三部から成る舞踏交響曲というのは少し意外でもあったりします。
(どう聴いてもシンフォニーには聴こえないです・・)
組曲版としての第一組曲(Ⅰ.夜想曲 Ⅱ.間奏曲 Ⅲ.戦いの踊り)はバレエの第一部と第二部から構成されています。
あくまで私個人の主観ですけど第一組曲は冗漫で退屈で聴いているだけで眠くなりそうです。
一度だけこのバレエ音楽を全曲ノーカット版をデュトワ指揮/N響で聴いた事があるのですけど、
第一部と第二部は退屈で死にそうでした。
このバレエ音楽は純粋な管弦楽曲ではなくて、バックに歌詞を伴わない合唱が入り、
合唱が管弦楽の響きの中に入り込んでくると、管弦楽の精緻でひそやかなな響きを楽しんでいる時に、
コーラスがその響きに水を差すような印象があり、私個人としてはこのバレエに関しては、合唱が入らない版の「第二組曲」を
聴けばそれで十分みたいな感想も実はあったりします。
余談ですけど、デュトワ指揮/N響のダフニスとクロエ全曲版の演奏の最中に、震度5程度の結構強い揺れの地震発生という
ハプニングが発生し、会場内は結構ザワザワとした雰囲気に一時なったのですけど、
デュトワも奏者も合唱も誰一人動揺することなくそのまま自然体で演奏を続けていたのは、プロは違う!と感じたものでした。

第二組曲は、Ⅰ.夜明け Ⅱ.パントマイム Ⅲ.全員の踊りの三曲から構成されていますけど、
Ⅰの夜明けの「ひそやかさ」は素晴らしいですし、冒頭のフルートとハープによって奏でられる鳥のさえずりの部分は、
指揮者と管弦楽団にとっては腕の見せ所だと思いますし、指揮者の「美的センス」が真正面から問われそうです。
そしてⅡのパントマイムは長大で美しくひそやかなフルートソロはこの世の響きとは思えない幽玄で美しい響きに満ち溢れて
いると思います。
吹奏楽コンクールにおいては、1987年の習志野高校の超名演とフルートソロの美しさが圧巻です!
Ⅲの全員の踊りはまさに華麗なる音の絵巻の世界で絢爛豪華なサウンドが展開されていきます。
全員の踊りは打楽器はかなり使用されていて、ティンパニ・大太鼓・サスペンダーシンバル・スネアドラム・カスタネット・
トライアングル・タンバリンの7人の打楽器奏者が同時に音を出している箇所もあったと思います。

フルートソロというとビゼーのアルルの女のメヌエットも美しさの極みだと思います。

メヌエットはハープの伴奏に支えられて、フルートが牧歌的なソロを展開していくのどかな曲なのですけど、
突然管弦楽がフルートソロを遮るようにダン・ダン・ダン・ダーと鳴らす箇所があるのですけど、小学校の音楽の授業の
名曲鑑賞においてこの曲が掛けられ、そうした場面になると結構児童たちはどよめいたいたものでした。
アルルの女のメヌエットは曲がそれ程ダイナミックスレンジの広い曲とは思えないのですが、子供の感性は意外と
鋭敏なのかもしれないですね。

アルルの女~メヌエットのように、ppの部分から突然ffの大咆哮の代表的音楽として
ハイドンの交響曲第94番「驚愕」~第二楽章が取り上げられますけど、
現代人の感覚から言うと、別にそれは驚愕でも何でもないのですけど、確かに18世紀の貴族・貴婦人を
主な聴衆とした演奏会としては、「びっくり」だったのかもしれませんね~
第二楽章は単調なメロディーが二回展開され聴衆がウトウトする頃に、全ての楽器とティンパニが突然ffでダン!!と
奏でるのですけど、当時の聴衆としてはそれは驚愕だけど、20~21世紀の聴衆にとってはそれはもはや驚愕でもなんでも
ないと言えそうです。
ppから急激なfffへの展開の曲というのは腐るほどある訳ですし、
別に「アルルの女」がそれ程すごい曲とは思いませんけど、子供にはこのくらいが丁度いいのかもしれないです。
そうした意味においては、音楽のダイナミックスと言うのは決して「音量」だけではないと思いますし、
要は、静かな部分と壮大に豪快に咆哮して鳴り響く部分の「静と動の対比の落差」なのだと思います。


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「ららマジ」に登場する一年生のフルート奏者の結城菜々美については、一度バルトークの舞踏組曲と二つの肖像記事の際に
レビューをさせて頂きましたが、結城菜々美はららマジのメインヒロインの一人というのか実質的な主人公キャラでもありますし、
本記事がフルートに関するものでしたので、再度改めてレビューさせて頂きたいと思います。

フルート奏者の結城菜々美は「ど根性で乗り切るぞ!期待の新人!」というのが売りのふわふわ熱血少女です~♪

明るく素直で、誰とでも仲良くなれるタイプで、根性さえあれば何でもできると考えている熱血系根性論者でもあり、
ときに無鉄砲な行動に出ることも多々あります。
音楽家の両親の影響で物心つく前からフルートに触れており、幼少期から数々のコンサートで最優秀賞を総なめ状態で
周囲から神童と呼ばれていましたけど、とある出来事により挫折してしまう過去の傷もあったりします。

根性論者、肉好き、運動神経抜群という側面と見た目のふわふわ~っとしたかわいらしさのギャップが
結城菜々美の際だの魅力なのかもしれないです。
灰色のニーハイを常に着用していて、ららマジの中ではすてきな絶対領域の持ち主であるのも大変素晴らしいですね~♪


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結城菜々美は私服姿もとてもかわいいです~♪ 太腿が眩しすぎます・・


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クリスマスのサンタコスプレもかわいいですし、よくお似合いですね~♪


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制服姿ですべって転倒する場面もとてもかわいいです~♪

美少女は時にこうしたドジっ子要素も必要なのかもしれないです。


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フルートという楽器はやはり美少女が奏でるのが一番相応しいのかもしれないです。

結城菜々美の奏でるダフニスとクロエ~パントマイムやアルルの女~メヌエットの美しいソロを聴いて、
心癒されたいものです~♪



カスタネットというとなんとなくですけど「どんなアホでも叩けば音は出る簡単な楽器」という誤ったイメージがありそうな
打楽器なのかもしれないですけど、実際に管弦楽や吹奏楽で使用されるカスタネットの奏法は大変難しく、
私自身、高校3年の時の定期演奏会で演奏した曲目の一つがリムスキー・コルサコフの「スペイン奇想曲」だったのですけど、
あの時もパーカッションパートで特に第5曲でカスタネットを担当していた奏者は、あの独特な切れ味鋭いカスタネットの
リズム感を出すために相当裏では苦労していたと思いますし、朝練習や全体練習が終わった後でも一人黙々と
カタカタとカスタネットを刻んでいた光景が大変印象的でもありますし、ああした光景を見ると言えることはカスタネットは
決して簡単な楽器ではないし、少なくともどんなアホでもすぐに全体練習に参加できるような簡単な楽器ではないと思いますし、
同様な事はトライアングルにも言えると思います。
(トライアンクルについては、来年・・1月12日の当ブログ記事で改めてじっくり語らさせて頂きたいと思っています。)

カスタネットは木製の打楽器で、体鳴楽器に分類される打楽器の一つです。
スペインで特に発達した楽器であり、スペインの民族音楽に欠かすことはできない楽器であり、
スペインの舞踊フラメンコにおいては、今現在も踊り手にとっては必要不可欠な楽器でもあります。
カスタネットの情熱的なリズムの刻みは心地よいですし、あの躍動感は素晴らしいです~♪ あのカタカタと小気味よいリズムを
耳にしただけで既に気分は南欧気分になりそうです。
カスタネットは、手のひらに納まるくらいの丸い貝型の木片を2枚合わせ、これを打ち合わせることによって音を出す楽器
なのですけど、端にひもを通してつなげ、このひもに親指を通して楽器を保持したり2枚の開き具合を調整しますし、
基本的には音程がわずかに異なる二つのカスタネットを右手と左手の両方に持ち、一般的には音程が高い方のカスタネットを
右手に持つことがスタンタードです。

ららマジでカスタネットを担当しているのは奥村映という中性的な雰囲気の高校2年生のJKさんでけど、
カスタネットを使ったフラメンコが特技で、カスタネットの手入れも欠かさず行うとの事です。
ららマジの打楽器パートのトライアングル奏者はかなりの不思議ちゃんの女の子なのですけど、奥村映も少しそうした
不思議ちゃんみたいな雰囲気も無くはなく、どちらかというと男性的でもないし女の子そのものという感じでもないし、
少し不思議な中性的な女の子という印象もあったりします。
少しだけ鈍感な性格というのも、不思議ちゃん系としての浮世離れした性格の為せる業なのかもしれないです。

食べることも大好きで意外と大食い・・?という設定も大変面白いですけど、後述しますが、大食いキャラで少しミステリアスで
中性的な雰囲気を有するJKさんというと思い出すのは「ラーメン大好き小泉さん」の小泉さんなのですけど、
確かにあの二人はどことなくですけど雰囲気が似ているようにも感じられそうですね~♪

おばあちゃんっ子で、年齢にそぐわない独特のセンスを持つという点は、今年の夏アニメの「女子高生の無駄づかい」で
登場していたおばあちゃんっ子のロリを彷彿とさせるものがありそうです。
バトル時においては、自身の周囲に浮かぶカスタネットを放って攻撃したりもします。


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上記でもチラっと触れたのですけど、どういう訳か日本においては「カスタネット=簡単」とか
「どんなアホでもすぐに合奏に参加できる」という間違ったイメージが浸透しているのは、多分ですけど、
上記画像の「教育用カスタネット」の存在があるのかもしれないです。

教育用カスタネットは、小学校の教育用楽器または幼児のおもちゃとしてよく見られているのですけど、
本来のカスタネットと違って口を開いたままの楽器ですし打ち合わせるだけで簡単に演奏できるため、今でも幼児または
小学校低学年の音楽の教育に使用されていたりもします。
今現在では100均のおもちゃコーナーでも売られている事もあったりします。
この教育用カスタネットは赤と青の二つの部分から構成されることが多いですけど、赤い方に突起があり
これを下とすることが多いように思われます。

確かにこの教育用カスタネットは簡単に音は出ますけど、実際に管弦楽団や吹奏楽コンクールで使用されるカスタネットは
この教育用の安物楽器ではありませんし、フラメンコのダンサーが使用されているのは、冒頭画像の奥村映が
両手に持っている本来のカスタネットです。


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より演奏を簡便にし、速いリズムが演奏できるようにしたカスタネットとして柄付きカスタネット、コンサートカスタネットが
あります。
管弦楽団の演奏会や吹奏楽コンクールで使用されるカスタネットは上記の柄付カスタネットの方が多いと思います。

柄付きカスタネットは、柄を持って膝の上で叩き、ロール奏法の場合は人差指をカスタネットの上まで伸ばし、
カスタネットが膝と人差指に交互に当たるように、手首と腕を上手く使ってカスタネットを上下に動かし、左右の手は
交互に均等に動かします。

クラシック音楽でカスタネットが使用された楽曲はたくさんあるのですけど、やはりスペインの作曲家とか
フランスやロシア等のスペイン以外の作曲家がスペインに憧れと敬意の気持ちを有してスペインを感覚的にイメージして
作られた曲が多いです。

具体的にいくつかカスタネット使用の楽曲を挙げてみると・・

C.サン・サーンス / 歌劇「サムソンとデリラ」

R.シュトラウス / 楽劇「サロメ」~七つのヴェールの踊り

リムスキー・コルサコフ / スペイン奇想曲

C.ドビュッシー / 管弦楽のための映像第Ⅱ集・第二曲・イベリア
(特に街の道と田舎の道のカスタネットの切れ味鋭い躍動感は素晴らしいです!)

J.イベール / 交響組曲「寄港地」~Ⅲ.ヴァレンシア

M.ラヴェル / 道化師の朝の歌 ・ スペイン狂詩曲~Ⅳ.祭り

S.プロコフィエフ / ピアノ協奏曲第3番

アルベニス / スペイン組曲
(アルベニスはスペインの作曲家ですので、本場のノリはとにかく圧巻です!)

M.ファリア / バレエ音楽「三角帽子」

J.マスネ / 歌劇「ル・シッド」~バレエ音楽

チャイコフスキー / バレエ音楽「白鳥の湖」~スペインの踊り

B.ブリテン / ソワレミュージカル~Ⅳ.ボレロ

C.オルフ / 世俗カンタータ「カルミナ・プラーナ」~第三部・第8曲・今こそ愉悦の季節

吹奏楽オリジナル作品ですと、A.リードの「エル・カミーノ・レアル」と第二組曲「ラティーナ・メキシカーナ」が
大変印象的です!

こうやって列挙しただけでもスペインの澄み切った青空と情熱が目に浮かびそうですね~♪


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話を再度「ららマジ」にもどしますと、カスタネット担当の奥村映はららマジ屈指の大食いキャラともいえそうですし、
食べるのが大好き~♪というすてきなJKさんであったりもします。

普段もそうですし、カスタネット叩いている時もどちらかというと無表情で中性的な雰囲気を醸し出していますけど、
食べている時は普通の女の子という印象でもありそうです。


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大盛ラーメンを食べている奥村映もとてもかわいいですね~♪

少しミステリアスで長髪の美少女がおいしそうに大盛ラーメン食べている姿は、やっぱり「ラーメン大好き小泉さん」と
被りそうですね~♪

ラーメン大好きで大食いの女の子は、小泉さんも奥村映も含めて意外と中性的な女の子が多いのかもしれないです。


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上記はららマジのお話でしたけど、奥村映が食べているラーメンはなんだか秋葉原の野郎ラーメンの
メガ豚野郎みたいなボリュームがありそうですね~

2018年の冬アニメの「ラーメン大好き 小泉さん」の第9話においてもこの秋葉原の野郎ラーメンが登場し、
そこで登場していたラーメンは「メガ豚野郎」でした~!
メガ豚野郎のチャーシューは、噛み応えのあるしっかりした肉ですし、適度な柔らかさもあって旨味が一気に口内を駆け巡る
感じは圧巻だと思います!
チャーシューの厚みとボリュームも素晴らしいですけど、肉と野菜の壁が崩れかけたところでようやく麺に到達しますけど、
あのボリュームは特筆すべきものがあると思います。

とてつもないボリュームのメガ豚野郎であっても、小泉さんは普通に来店している所は「さすがラーメン女王!」と
感じてしまいますし、圧倒的な勢いであっという間に完食してしまう小泉さんは
やっぱり只者ではないですね~

そして奥村映も秋葉原の野郎ラーメンで、美味しそうにメガ豚野郎を完食されて、小泉さん同様にふはーとされているのかも
しれないですね~♪



「ららマジ」の舞台の器楽部におけるハープ奏者は3年生の南さくらです。

南さくらは器楽部を支える副部長で、振り回されることの多い苦労人でもあったりします。
器楽部創立メンバーの一人で、部長であり指揮者でもある草薙百花がメチャクチャな楽器編成を無理やりどうにかこうにか
まとめてしまう剛腕でもあったりしますので、そうした剛腕ぶりに不満がありそうな下級生たちを時に脅しつけ、
時に笑顔と愛嬌で押し通してしまうのがこの副部長兼ハープ奏者の南さくらといえそうです。
そしてららマジでは珍しい部類の眼鏡っ娘でもあったりします~♪

バトル時においては、グランドハープの形をした長弓を武器とし、光の矢を放って攻撃します。


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ハープという楽器はヴァイオリンと同様に大変優雅で美しい楽器だと思います。

そうした美しい楽器というイメージが定着しているのは、その形状や音色の美しさも大きいですけど、ハープ奏者のほとんどが
女性奏者であるという事もあるのかもしれないです。

ハープは共鳴胴の両端に2本の棹を立て、2本の先を結び、棹のうちの曲線状になった方と共鳴胴との間に
平行に弦を並べて弦を張っています。そしてこの弦を指で弾いて演奏します。
現代の西洋音楽において、独奏やオーケストラ、室内楽などで広く用いられているコンサートハープは、
ダブル・アクション・ペダル・ハープの事であり、ららマジの南さくらが奏でているハーブも
恐らくはこのダブル・アクション・ペダル・ハープのだと思われます。
ダブル・アクション・ペダル・ハープは主に47本の弦を変ハ長調全音階で張られていて、ピアノに例えると、
黒鍵無しの状態で白鍵だけの音階で並んでいるようなものです。
そしてドレミファ・・の各音対して一つずつ合計7つのペダルが付いていて、それぞれ二段階に踏み分けて
一つの音を半音高めたり全音高めたりします。
それゆえハープ奏者は優雅なイメージとは裏腹に人目に付かない所で大変な苦労が付き物で、左足で三つ、右足で四つと
計7つのペダルを絶えず忙しく操作をしないといけない大変さがあったりします。
おまけにハープ奏者は固い弦を指で弾き、時にグリッサンドしないといけないものですから、指先は常にマメ状態と化している
のが実はその日常でもあったりするそうです。

そうした意味ではららマジのハープ奏者の南さくらも色々とご苦労が尽きない・・という感じなのかもしれないです。

ダブル・アクション・ペダル・ハープは、ペダル操作が大変という事で、それに代わる楽器として
半音ごとに弦が張られたペダル無しの半音階ハープが制作され(音楽史的にはクロマティック・ハープと言われています)
ハープ奏者は実に78本も張られた弦に眼が廻ってしまい、とてもじゃないけど演奏不可・・という事で
結局は廃れてしまい現在においては忘れられた楽器と化しています。
(これは両手全ての指を使用し、現在では幻の楽器と化している宮城道雄制作の八十弦箏と似ているのかもしれないです・・)

さてさて歴史に埋もれたペダル無しの半音階ハープ(クロマティック・ハープ) は、プレイエル社が開発・制作した楽器でして、
それは当時既に一定の地位を築いていたエラール社のダブル・アクション・ペダル・ハープに対抗した経緯があったりもします。
プレイエル社はこの楽器の普及のため、1904年に音楽院でのコンクールのための楽曲をドビュッシーに委嘱します。
それを受けてドビュッシーは、1904年に「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」というハープ独奏と弦楽合奏のための作品を作曲します。
ドビュッシー自身は特段半音階ハープを気に入ったわけでなく、楽器性能としてはむしろペダル・ハープの方が優れていると
考えていたようでありまして、初演自体は半音階ハープ(クロマティック・ハープ)が使用されたものの、
今日ではこの作品を演奏する場合はほとんどペダル・ハープで演奏されています。
ちなみにですけど・・、エラール社はドビュッシー作曲の「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」に対抗してラヴェルに
ペダル・ハープの優位を示すための作品を委嘱し、その結果生まれたのが「序奏とアレグロ」という
ハープとフルート、クラリネットおよび弦楽四重奏のための七重奏曲というこれまた名作であったりもします。

C.ドビュッシー / 神聖な舞曲と世俗的な舞曲は大変優雅な作品で、前半の神聖な舞曲における穏やかな美しさと
後半の世俗的な舞曲における生き生きとした躍動感の対比が素晴らしく鮮やかです。

ここから下記は少しばかり余談ですけど、吹奏楽オリジナル作品の中に、「セント・アンソニー・ヴァリエーション」で
お馴染みのヒルが作曲した作品に、上記のドビュッシーのハーブと弦楽のために作曲した名曲と全く同じタイトルの作品が
あったりもします。

ヒルのその曲を2019年時点で全国大会で唯一演奏したのが1981年の高岡商業であったりもします。

この年の高岡商業は、ヒルの「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」という大変珍しくて今でもほとんど演奏されない
吹奏楽オリジナル作品を自由曲に選んでいます。
この当時は吹奏楽オリジナル作品や邦人作品での全国出場が少し珍しく感じられた時代でもありましたので、
こうしたマイナーなオリジナル曲での全国大会出場は大変立派な事だと今更ながら感じたりもします。

この年の高岡商業は運悪くプログラム一番でした。

1979年の市立川口とか80年の就実のようにプログラム1番という不利な条件を全く不利に感じさせない素晴らしい名演が
重なったという事もあると思いますが、1981年の高岡商業の演奏を聴く限りにおいては
「ブログラム一番は大変で不利なのかも。。」とつくづく感じてしまいます。
音が普門館の会場にストレートに響いてこない印象がありますし、普門館の広い空間を彷徨っているという印象があります。
全体的に音が硬いというせいもあり、サウンドも表現もぎこちない感じがしたものでした。
プログラム一番というコンディションの問題もあったと思いますし、朝一番というプレッシャーもあったと思います。
音が硬質で音がストレートに伝わってこない感じは痛いほどあります。
自由曲のヒルの神聖な舞曲と世俗的な舞曲」という楽曲自体が、「「セント・アンソニー・ヴァリエーション」と比べると
音楽の構成が大変抽象的で、あまり面白いと思わないし、何を意図しているのかよく分からないという曲でもありましたし、
曲自体で損をしているような雰囲気すらあったのは惜しまれますし、
これだけ実力あるチームがこうした不本意な演奏で終ってしまったのは勿体無いと感じたものですし、
選曲ミスの範疇と言えるのかもしれないです。
全般的に、ティンパニのゴツゴツした叩き方が何か印象を悪くしているようにも感じられましたし、
課題曲B「コラージュ」も和太鼓が叩き過ぎという印象もありました。

ただ印象に残っている点は、自由曲のラストが意外な終わり方というか、
曲が一旦盛り上がったところで静かになり、ラストはシロフォーンの弱々しいソロで終わるという
所は、何か意表をつかれるものもあり、その点は印象に残っています。

全く想定外の閉じられ方で、なんかヘンだけど面白い閉じ方と感じていたものでした。


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南さくらは、ららマジでは珍しい部類の眼鏡っ娘ですけど、南さくらは眼鏡を掛けても眼鏡を掛けていなくても
すてきなお姉さまだと思います~♪

アニメや漫画では「まるで牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡を掛けた冴えない女の子が眼鏡を外すととてつもない
すてきな美少女になる」というのは一つの鉄板ネタのようにも感じられるのですけど、
私自身がそうした女の子のすてきな変化を最初に感じた作品というのは映画「ロッキー」の中に登場している
エイドリアンなのかもしれないです。
エイドリアンは映画の中ではとても内気でおどおどした女の子であまり主体性というものは感じさせなかったのですけど、
とあるシーンにてロッキーから「眼鏡を外してみて・・美しい・・」とかなんとか言われた事が一つのきっかけとなり、
その後徐々にすてきな変化を見せてくれていたと思います。
地味で内気なエイドリアンは「メガネを取ると美人」という定番ネタの一つの伝説として君臨しているのかもしれないです。
ロッキーと付き合うようになって自信をつけたエイドリアンは眼鏡を外すようになり服装も以前より華やかになるのですけど、
これは女の子のすてきな変化とも言うべき一つのシンデレラストーリーの伝説と言えるのかもしれないです。

さてさて、それでは日本のアニメにおいて、そうした「眼鏡をかけた冴えない女の子が眼鏡を外すと実はすてきな美少女」という
典型的なキャラとしてどんなすてきな女の子がいたものでしょうか・・?
思い浮かぶ範囲で下記に少しばかり挙げさせて頂きますと・・

アララ・ココア(NG騎士ラムネ&40)

レディ・アン(新機動戦記ガンダムW )

ティラ・ミス(爆れつハンター)

東城 綾(いちご100%)

ニーナ・アインシュタイン(コードギアス 反逆のルルーシュ)

委員長(瀬戸の花嫁)

藤崎 綾(To LOVEる -とらぶる-)

メイリン(黒執事)

槇島 沙織(俺の妹がこんなに可愛いわけがない)

天王寺 渚(Aチャンネル)

クーリエ(モーレツ宇宙海賊)

鈴原 泉水子(RDG レッドデータガール)

星 七海(アイドルメモリーズ)

この中では私的にいっちば~ん!と感じさせるのはいちご100%の東城 綾だと思います!

東城 綾は、性格はおしとやかな恥ずかしがり屋でかなりのドジっ娘で、「普通の人間の三倍は転んでいる」と
廻りからも言われているのですけど、それでいて眼鏡を外すと普段の地味な印象が劇的に変化し、
とてつもない美少女になってしまうあの素晴らしき変化は、まさしく
「眼鏡をかけたさえない女の子が眼鏡を外すと実はすてきな美少女」というネタの典型事例なのだと思ったりもしますね~♪
クラシック音楽や吹奏楽で使用される打楽器の一つであるシンバルは、
楽曲のクライマックスや激しく盛り上がる部分でバシャーン!と派手に壮麗に鳴り響く事が多いのですけど
あれってかなりの演奏効果があると思います。
例えばですけど、管弦楽曲史上もしかしたら最も音量が大きくて派手に鳴り響く曲の一つがレスピーギの
交響詩「ローマの松」~Ⅳ.アッピア街道の松だと思うのですけど、金管セクションやバンダの派手で華麗なる響きと
ドラやトライアングルが派手に鳴り響き、バスドラムが狂ったように連打する音響のるつぼと化した中でもあのシンバルによる
激しい打合せによるバシャーン!!という響きは胸をすく想いがあります。
このアッピア街道の松とオルフの世俗カンタータ「カルミナ・プラーナ」は、とにかくストレスが溜まりに溜まっていて、
何かスカ‐‐ッ!!と爽快な発散気分を味わいたい時に強くお勧めしたい曲ですね~♪
このシンバルは楽器としての歴史も古くて旧約聖書の中にも
「ヘブライの民は歓声を上げ、シンバル・角笛・ラッパを鳴らした」との記述がみられますし、新約聖書の中でも
「たとえ人や神の言葉を私が使ったとしても、そこに愛がなければ、喧しいドラやシンバルと同じである」という記述も
あったりします。

シンバルと言うと、イメージ的には
打楽器奏者が両手に約40㎝程度の黄銅色の円板を激しく打ち合わせるという感じがしますが、
これは一般的には「クラッシュ・シンバル」(または合わせシンバル)と呼ばれています。
(錫と銅の合金から構成されていて、その配分比率は音色にも微妙に影響するそうです)


シンバル


上記はクラッシュ・シンバルという合せシンバルですけど、
基本的には、片方を上から下へ、もう片方を動かし、こすらせるようにして打ち合わせます。
非常に小さな音から一打ちでオーケストラ全体をも制するほどの大きな音まで出すことができる表現力があります。

非常に小さい音の代表的例としては、

〇ドヴォルザーク/交響曲第9番「新世界より」第四楽章

〇ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番第三楽章

があると思います。


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上記は「サスペンダーシンバル」と呼ばれるものですけど、
1枚のシンバルを吊すかホルダにゆるく固定して小太鼓や木琴、鉄琴のバチで叩くのが一般的です。
例えば、マーラー/交響曲第1番「巨人」第四楽章冒頭のように撥で激しく叩きつける事もありますし、
ドビュッシーが多用しているように、マレットによるトレモロ奏法で徐々にクレッシェンドしていく方法もあります。

こうやって見るとシンバルも色々と無限の可能性を秘めている楽器なのかもしれませんね。

ちなみに「ハイハットシンバル」と呼ばれるものは、
2枚のシンバルを水平にホルダに固定して、1枚を上下に動くようにしてペダル装置で操作するものであり、
ドラムセットの中で用いられていますし、ジャズ・ポップス・ロックと幅広く使用されています。
最近ではバンドリ等におけるガールズバンドにおいて、ドラマーが小気味よくペダル操作をしているシーンは
とてもかわいいものがありますね~♪

クラッシュシンバルというと私的には、芥川也寸志の「交響管弦楽のための音楽」~第二楽章の冒頭を思い出してしまいます。
静粛で無機質なリズムの反復の多い第一楽章が終わって第二楽章が開始される際にさの冒頭で、
シンバルが単独で「ジャーン」と打ち合わせられる所から開始され、金管楽器の大変印象的なファンファーレ風なメロディーへと
連なっていくのですけどあのシンバルは目立ちますしとてつもなくかっこういいです!
吹奏楽アレンジ版ですが私自身が高校三年の定期演奏会で吹いた経験もあり、そうした印象が強いのかもしれないです。

吹奏楽オリジナル作品でシンバルが使用されない曲を探す方が難しいと感じるくらい、吹奏楽の打楽器パートでは
必要不可欠な楽器の一つですけど、その中でも特に挙げておきたい曲として・・

〇天野正道/交響組曲第2番「GR」

 浜松交響吹奏楽団の演奏に馴染みがあるせいか、
 この曲のラスト近くでシンバルがソロ的に「ジャーン」という打ち鳴らしが大変印象的です。

〇リード/オセロ

 1987年の札幌白石高校の演奏が大変印象的でした、
 クラッシュ・シンバルの場合、奏者によっては余韻とか視覚的効果を意図して
 打ち鳴らしと同時に腕を上にあげて、シンバルを頭上で左右に開くという事も結構多いと
 思います。
 札幌白石のシンバル奏者は、シンバルを打ち鳴らした次の瞬間に、両手のシンバルを頭上にはあげずに、
 シンバルの裏面を左右の手に持ったまま、手の向きを逆にし、
 シンバルの表面にさっと替えるというハイテクニックを披露してくれ、
 裏面から表面にさっと替える際に、楽器がキラリと金色に光り輝いていたのが会場の客席からもはっきりと分かり、
 大変な見映えがありました!

〇サンライズマーチ(1982年全日本吹奏楽コンクール課題曲D)

この課題曲の冒頭はシンバルソロによるバシャーン!という打撃音から開始されますので、シンバル奏者にとっては
 大変なプレッシャーが掛る曲であり、あの重圧と緊張感は相当なものがあると思います。
 地区予選等で下手くそなチームがこの課題曲の冒頭で、シンバル奏者がスカッと空振りし、次のトランペットによる
 ファンファーレがメロメロになってしまった光景は当時何度か目撃したものでした!

クラシック音楽で、クラッシュシンバルが活躍する曲で印象的な曲と言うと冒頭で取り上げたローマの松~アッピア街道の松
以外においては・・・

〇チャイコフスキー/交響曲第4番第四楽章

〇   同      /交響曲第6番「悲愴」第三楽章

〇   同      /幻想序曲「ロメオとジュリエット」

〇ビゼー / カルメン組曲より、トレアドール(第一幕への前奏曲)

〇ショスタコーヴイッチ/交響曲第5番~第一楽章・第四楽章

チャイコフスキーの交響曲第4番は、第一~第三楽章までに使用される打楽器はティンパニのみですけど、
第四楽章で、シンバル・大太鼓・トライアングルの打楽器が入りますが、
特にラスト近くにおけるシンバルの怒涛の連打は、聴いていて視覚的にも迫力満点です。
シンバルで16分音符炸裂の怒涛のあの連打はクラシック音楽のジャンルでは大変珍しいと思います。
(あのシンバル連打は、同じくチャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」の中間部における
怒涛のシンバル連打を彷彿とさせてくれます)

サスペンダーシンバルとしては、ハチャトゥーリアンのバレエ音楽「ガイーヌ」~剣の舞の叩きつけが大変印象的です!

ドビュッシーの三つの交響的素描「海」~Ⅰ.海上の夜明けから真昼まで と Ⅲ.風と海との対話における
サスペンダーシンバルのあの繊細な微音のうねりは一聴の価値があると思いますし、奏者にはなによりもデリケートな
神経が求められそうで、あれを聴くと「どんなアホでもシンバルは叩けば音は出る簡単な楽器」であるという俗説が
いかに理に適っていないかよく分かると思います。





「ららマジ」でシンバルを担当するのは強心臓中学生の伊藤萌です~♪
伊藤萌はシンバルを担当しているクールで小さな中学3年生の女の子で、中学生ですけど東奏学園の器楽部でJKのお姉さまと
一緒に音楽を楽しんでいます。

クールな性格の後輩で、「・・・くるしゅうない、です。」など変わった口調でしゃべるのが個性でもあります。また落語を聞くのが
趣味というJCさんにしては大変珍しく渋い趣味を持っていたりもします。

先輩の小田桐アミを師と仰ぎアミのことを「師匠」と呼び慕っているのですけど、実を言うと小田桐アミは元々は
器楽部のシンバル奏者だったのですけど、シンバル奏者は時に「ここで怒涛の一撃を決める!」みたいなプレッシャーを
時に伴いますので、その重圧に耐えきれず、シンバル奏者の地位を後輩の伊藤萌に譲ったという経緯もあったりします。
そして小田桐アミはその後シンバルからピッコロ奏者にパート変更をしています。

アミがいなくなったシンバルは伊藤萌に継承されていますけど、伊藤萌は見た目の少し控えめな雰囲気とは全く異なり、
大変な強心臓の持ち主でプレッシャーに大変強く、「ここでシンバルの強烈な一撃が必要」という時にはしっかりと確実に
決めてくれる頼もしいJCさんであったりもします。

活発だけど小心者なアミと大人しいけど強心臓な萌の対比もとても面白いですね~♪


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吹奏楽コンクールの規定においては、付属高校の場合、高校で部員が不足している場合は、付属中学校の生徒も
メンバーに加えてよいという規定があり、
それによって昭和の頃ですけど、明大明治・日大豊山・土佐女子高校などが高校の部だけど何人かの中学生が加わり
全国大会のステージに立ったという話もあったりします。

東奏学園器楽部ももしかしたらそんな感じだったのかもしれないですね。

ちなみに、伊藤萌以外には、ウクレレの卯月幸、エレキギターの卯月真中華、和太鼓の神田茜、鍵盤ハーモニカの瀬沢かなえ
といった中学生が東奏学園器楽部に在籍しています。

本記事の一つ前の記事においては、伊藤萌の師匠の小田桐アミについて取り上げておりますので、こちらの方も
ご覧頂けると大変ありがたいです。

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