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プロフィール

ぬくぬく先生 

Author:ぬくぬく先生 
開設当時は、1980年代吹奏楽コンクールの花輪・秋田南・就実・仁賀保・屋代等の素晴らしい演奏を後世に少しでも伝える事が出来ればいいなと思ってこのブログを始めたのですけど、いつのまにか「東方Project」がメインになってしまいました・・・
最近は「艦これ」も大好きです!!
吹奏楽も東方も自分が感じた事を少しでも後世の方に受け継がれるべきものが残せればいいかな・・と思っています。
ちなみに、「大好きプリキュア四天王」は、ドリーム・メロディ・ハッピー・ラブリーです。
ドリームとメロディは自分の中では既に殿堂入り状態ですけど、
現在はラブリー大好き!!のラブリー一辺倒です!!
リアル社会では、建築関係のクレーム&アフター責任者を専従し、毎日毎日クレーム対応に当たる日々です。
裏の顔は東方と吹奏楽とクラシック音楽一辺倒です・・・
特に特に大好きな作品は・・・プリキュア5とスイートとハピネスチャージです!!
ちなみに、奥様は・・・ミルキィローズとセーラームーン好きの管理人以上のおこちゃまです・・・
東方で大好きなキャラは、とにかく大好きキャラがてんこ盛りで、全員大好き!という感じなのですけど、特に、さとり様・ゆかりん(紫様)・早苗さん・こいしちゃん・アリスはお気に入りです!!
吹奏楽では・・ネリベルの「二つの交響的断章」と「アンティフォナーレ」、スパークの「ドラゴンの年」、リードの「オセロ」と第二組曲「ラティーノ・メキシカーナ」、パーシケッティーの「仮面舞踏会」、C・スミスの「ダンス・フォラトゥーラ」などが死ぬほど好きで、クラシック音楽では、ウォルトンの交響曲第1番と矢代秋雄の交響曲、プロコフィエフの交響曲第5番、アーノルドの交響曲第2番、第4番、ショスタコの交響曲第7番「レニングラード」、マーラーの交響曲第3番「夏の朝の夢」、ハンソンの交響曲第2番「ロマンティック」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」、ベルクの「ヴァイオリン協奏曲」、ラフマニノフの「交響的舞曲」などが大好きです!!
クラシック音楽を吹奏楽にアレンジし、そのコンクールヴァージョンの演奏としては・・・
1982年の就実高校の「幻想舞曲集」と
1987年の習志野高校の「ダフニスとクロエ」第二組曲の演奏、そして、
1987年の雄新中の「エルザの大聖堂への厳かな行列」が
まさに私の「原点」です。
最後に・・・
私の吹奏楽との関わりの真の意味での「原点」は・・・
1979年の市立川口高校の神がかり名演としか言いようがない
「二つの交響的断章」に尽きると思います!!


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オッフェンバックの喜歌劇「天国と地獄」(地獄のオルフェス)は冒頭部分とかクラリネットの華麗なカデンツァの部分や
美しい中間部のメロディーを耳にした事がないと感じる方でも、ラスト近くの「カンカン踊り」は、
クラシック音楽をほとんど聴かない人でも一度は必ずどこかで聴いたことがあるはずの非常に馴染み深いメロディーだと
思います。
昭和の頃の運動会やパチンコ屋さんのBGMとしては定番の音楽の一つだったと思います、
また文明堂のカステラのCMで使われるあの曲(カステラ1番、電話は2番……)といえば、「ああ、あの曲ね・・」とピンと
来られる方も多いのではないかと思います。

オッフェンバックは陽気でユーモアにあふれた音楽によってオペレッタ(軽い内容のオペラ)の分野で活躍し、
時代を代表するヒットメーカーとして19世紀後半にはスッペと共に大変な人気を誇っていました。
オッフェンバックのこうしたオペレッタや劇音楽は生涯に100以上作品を残しましたけど、今日ではほとんど忘れられていると
思います。
その中でも「ホフマン物語」・「美しきエレーヌ」などは今現在でも上演されているようですけど、オッフェンバックの生涯の
最大のヒット作品は喜歌劇「天国と地獄」といえるのかもしれないです。

「天国と地獄」はギリシア神話を元ネタにしていますけど、その内容は実はシャレと毒の利いたパロディ作品です。
元ネタとなっているのはギリシャ神話のオルフェオの物語で、
妻の死を悲しむ夫オルフェオが黄泉の国へ妻をとりもどしに行くというのが本来のストーリーです。
(似たような話としては日本の「古事記」にもそうし話がありました・・)
しかしオッフェンバックの作品では、オルフェオとエその妻の間柄は生前から既に冷え切っています。
夫も妻も共に浮気中で、今風にいうとダブル不倫という感じなのだと思います。
オルフェオは妻があの世へ旅立ち、「これであの毒妻から開放されて嬉しい~♪」とウキウキ気分になって
「これで気兼ねなく女遊びができる~」と遊びまくっていたら、さすがに世間から非難ごうごうのバッシングを受けてしまい、
世間体のために嫌々ながらしぶしぶ妻を取戻しにあの世に行くという大変毒のあるパロディーストーリーとなっています。
大人の男女のエゴと浮気心と大人の本音がむき出しになっている「天国と地獄」の音楽と序曲ですけど、
こんな毒のある曲が昭和の頃には純粋な子供たちの運動会で使われているというのも、結構シュールなものがあると
言えそうです。
天国と地獄のカンカン踊りの場面を自作のパロディーとして使用したのがサン・サーンスの組曲「動物の謝肉祭」の亀です。
カンカン踊りは速いテンポでどんちゃん騒ぎが展開されていくのですけど、サン・サーンスはわざととんでもないスローテンポで
設定し、オッフェンバックをあたかもドンカメ扱いしているかのような毒を効かせているサン・サーンス一流のウィットが
そこにはあるように感じられます。
言うならば元ネタのパロディーのそのまたパロディーといえそうです。
ショスタコーヴィッチの最後の交響曲の15番の第一楽章にてかなり露骨な形で執拗にロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル」の
スイス軍隊の行進を引用というかパロディー化していますけど、1990年代前半のアリナミンVのCMに
そのショスタコーヴィッチの交響曲第7番「レニングラード」~第一楽章のパロディーが、シュワちゃんによって
「チチーン、プイプイ」とパロディー化されていたのと似たような話なのかもしれないですね~

妻を取り戻しに地獄に赴いたオルフェオですけど、「妻を取り戻したければ後ろを絶対に振りかえってはいけない」と
神々から言われるのは古事記と同様ですけど、後ろで雷が鳴った事でついつい後ろを見てしまった事で
妻は戻らないという事になってしまい、オルフェオはウキウキして喜んで現世に戻り、地獄の妻も地獄で既に神々と
いい仲になっていましたので、まさに双方ウィンウィンという事で、最後は全員揃ってのどんちゃん騒ぎで幕が閉じられ、
そのどんちゃん騒ぎで使用されているのが「カンカン踊り」という事になります。

オッフェンバックの喜歌劇「天国と地獄」の序曲は、実は二つ存在している事は意外と知られていません。
一つはオッフェンバック自身が歌劇の改訂版に付けた非常に冗漫で長大な序曲で、
こちらの方はあまりにも長すぎて面白くないため、今日では演奏されることはまずありません。
そしてもう一つが、ビンダーという人が、オッフェンバックの喜歌劇「天国と地獄」の中の主要なメロディーを
要領良く繫ぎあわせて構成したもので、こちらの方が、今日演奏会やCDで聴かれる「天国と地獄」序曲なのです。
一般的に知られる喜歌劇「天国と地獄」序曲は、オッフェンバック自身が完全に作曲したものではなくて
後世の人が上手にアレンジしたものと言えるのです。
オッフェンバックの作品?と言われている中にバレエ音楽「パリの喜び」があるのですけど、このバレエは後年、
ロザンタールという指揮者がオッフェンバックの作品の中からおいしい場面をピックアップし序曲と23の楽曲で構成した
作品でもありますので、この「パリの喜び」は一般的にはオッフェンバック作曲=ロザンタール編曲と表記される事が多いです。

喜歌劇「天国と地獄」序曲の冒頭は陽気にのびのびと開始され、聴いているだけで楽しさ満開です~♪
この部分が静まった後に出てくるクラリネットの完全ソロによるカデンツァの華麗さは素晴らしいですし、オーボエのしっとりとした
ソロも聴かせどころたっぷりだと思います。
哀愁はあるけど何となく間が抜けているのも面白い感じはします。
そして比較的長い中間部に入るのですが、この部分もたっぷりと抒情的に歌い上げられていきます。
そしてこの中間部が終わると、いよいよお楽しみの「カンカン踊り」が始まり、
カンカン踊りが炸裂していき、おちゃらけとバカ陽気の中、賑やかに曲が閉じられます。
演奏時間も8分程度で手頃という事もあり、ファミリーコンサートではしばしば演奏される曲の一つでもあります。
バレエ音楽「パリの喜び」の方も楽しい音楽の連続ですし、もちろんかンカン踊りも登場しますけど、
ホフマンの舟歌の美しい部分もラストに登場しますし、聴いていて飽きることはないと思います。
「バリの喜び」をCDで聴く場合、デュトワ指揮/モントリオール響という素晴らしい名演があります。
日本では、このバレエ音楽「パリの喜び」は吹奏楽コンクールでは定番の大人気自由曲の一つですけど、プロの管弦楽団の
演奏会ではなぜかあまり演奏されないです。
これまで唯一聴いたのが新日本フィルの演奏会です。
新日本の演奏で面白かったのは、首席トロンボーン奏者の宮下宣子さんが、なぜか部分的にトロンボーンの席から
打楽器のガラガラを掛け持ちしていた事です。
アマチュアの吹奏楽の吹奏楽部では、管楽器奏者と打楽器奏者のかけもち演奏はたまに見かけることはありますけど
まさかプロの世界でそうした打楽器との掛け持ちは大変珍しい事であり、大変印象的でもありました。
吹奏楽コンクールでは、「バリの喜び」は現在でもレパートリーとして完全に定着していますよね。
序曲~ワルツ~マーチ~カンカンを演奏するのですけど、元のバレエ音楽と異なり、カンカン踊りで終わりますから、
何とってもすっきりとした終わり方のようにも感じます。


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喜歌劇「天国と地獄」序曲はたまにですけど、吹奏楽コンクールの全国大会でも自由曲として演奏されています。

この曲の名演というと多くの方は1999年の葛飾吹奏楽団を挙げられると思いますが、私しては1993年の
ヤマハ東京の方を推したいです。
ヤマハ東京は、葛飾吹奏楽団や1995年の伊予高校に比べると大変地味な演奏です。
だけど冒頭近くのクラリネットソロや中間部におけるソプラノサックスの抒情的で長いソロのうっとりとした陶酔感や
大人の音楽づくりは素晴らしいものがあると思いますし、この年はヤマハ浜松が不出場という幸運もあったと思いますが、
職場の部で金賞というのも当然だと思います。
ヤマハ東京以上にもっと地味な演奏ですけど、93年の基町高校の演奏も派手さは全く無いけど内省的な響きの充実感は
銅賞という結果で終わるにはもったいないものもあったと思います。

「響け! ユーフォニアム!」第一期の第一話にもこの天国と地獄の序曲がBGMとして流れてもいました~♪

実はこの曲は、麗奈と久美子が中学3年の時に臨んだ吹奏楽コンクールの自由曲でして、京都府大会で金賞を受賞
しながらもダメ金という事で関西大会代表に進めず、その際に麗奈は「口惜しくて死にそう・・」と涙を流すのですけど、
久美子は「本気で全国に行けると思っていたの?」と失言をしてしまい、麗奈からとんでもなくきつい眼差しを返され、
そうした一件が「響け・・」第一期序盤での久美子と麗奈のぎくしゃくした関係の遠因にもなっていたりもします。

久美子は第一期においては余計な一言ばかりついうっかりポロッ・・と口に出してしまい、一時は失言女王とすら揶揄されて
いたのも今となってはなつかしい話ですね~♪
あの夏祭り以降の麗奈と久美子の急速な接近と百合常態化も第一期の大きな見所の一つでもありました。


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天国と地獄の序曲の序盤ではクラリネットが無伴奏状態でのカデンツァによる完全ソロがあるのですけど、
クラリネットの無伴奏完全ソロのカデンツァというとリムスキー・コルサコフの「スペイン奇想曲」も大変印象的ですけど、
天国と地獄の方も奏者冥利に尽きると思います。

ららマジ器楽部によるラストのカンカン踊りのどんちゃん騒ぎも是非聴いてみたいですけど、クラリネット奏者の綾瀬凛が
奏でる喜歌劇「天国と地獄」序曲の完全ソロのカデンツァも是非ぜひ聴いてみたいですね~♪

綾瀬凛はなんとなくいつも怒っているみたいなイメージもありそうですけど、ソロを奏でる時には楽しそうな笑顔に
なるのかもしれないです。
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ヨハン・シュトラウスⅡ世というとニューイヤーコンサート等でおなじみのとおり「ワルツ」というイメージが強く、
美しく青きドナウ・ウィーンの森の物語・皇帝円舞曲などの傑作ワルツで日本でも大変馴染み深い作曲家ですけど、
ワルツ王としての側面以外でも「オペレッタ」においても大変人気が高く傑作作品もたくさん存在しています。
そうしたシュトラウスⅡ世が残したオペレッタにおいて特に人気が高くて傑作の誉れ高い作品が「こうもり」だと思います。

「こうもり」は音楽史的には「オペレッタ」というジャンルに属し、オペラから「笑い」の要素を強調して派生したとも言え、別名
「喜歌劇」とも呼ばれています。
そして喜歌劇としてはレハールの「メリーウィドウ」と並んでオペレッタの双璧作品とも称えられていて、その評価は
既に揺るぎないものになっていると思います。
オペレッタはクラシック音楽業界では、歌劇に比べると軽いとか軽薄とか言われがちであり、扱いは歌劇よりは格下というか
大衆用音楽劇とも思われがちなのかもしれないですし、通常オペレッタはミラノ・スカラ座、ウィーン国立歌劇場といった
名門オペラハウスでは上演されることはまずありえないのですけど、こうもりだけはその例外扱いでして、
ウィーン国立歌劇場では毎年12月31日に上演されることになっています。
オペレッタの中では別格の扱いを受けているオペレッタの最高作品ともいえますし、ウィーン国立歌劇場以外でも
特にドイツ語圏の歌劇場では年末年始の定番レパートリーの一つとして既に定着しています。

私自身、このシュトラウスⅡ世のこうもりは、その序曲を吹奏楽アレンジ版として初めて触れたのですけど、
恥ずかしい話、当初はこうもりというと獣としての蝙蝠の方を連想してしまい、森の動物たちをモチーフにした作品なのかな?と
勘違いをしていたものでした。
こうもりという題名の由来は、物語の軸が「こうもり博士の笑いの復讐」という事と思われます。
言うまでもなく獣の蝙蝠が主役でもなんでもなくて、人間喜劇のドタバタ作品というのが大まかな概要です。

喜歌劇「こうもり」のおおまかなストーリーは下記のとおりです。

その前に、このオペレッタの前段階の話として、今風にいうとコスプレ衣装という事もあるのかとは思います。

とある仮面舞踏会の帰り道、アイゼンシュタインは酔っぱらった友人ファルケ博士をこうもり姿のコスプレ衣装のまま道ばたに
置き去りにしてしまい、その醜態を多くの人たちに見られてしまい、その結果ファルケはみんなから「こうもり博士」と
呼ばれてしまっていて、ファルケはいつかアイゼンシュタインに仕返しをしたいと考えていたというのがこの喜歌劇の大前提
でもあります。

第1幕:アイゼンシュタイン邸の居間

ある年の大晦日、アイゼンシュタインは公務員を侮辱した罪で、五日間ですけど拘置所に収容される事になります。
ファルケ博士がそこにやってきて、「ロシアのオルロフスキー公爵邸で舞踏会が今晩開催されるので、しばしそこで楽しみ、
その後に拘置所に出向いて収監されればいい」とアドバイスします、
喜んだアイゼンシュタインが舞踏会に出かけた後、家に残された妻ロザリンデのところに元恋人のアルフレートがやって来ます。
ロザリンデは嫌がりながらもまんざらでもない様子でしたけし、アルフレートはロザリンデが自分の妻であるかのように
振る舞っています。
ちょうどそこに拘置所の所長フランクがアイゼンシュタインの収監にやってきます。
ロザリンデはこの人は実は自分の夫ではないと言いだせずにいて、結局アルフレートはアイゼンシュタインではないのに
収監されてしまいます。

第2幕:オルロフスキー公爵邸の舞踏会場

オルロフスキー公爵の舞踏会にアイゼンシュタインが来てみると、仮面を付けた美しいハンガリーの貴婦人を見つけ、
アイゼンシュタインはその貴婦人を口説きに掛ります。
実はこの舞踏会の参加者全員がグルでして、ファルケからの頼みによってみんなでアイゼンシュタインをだまそうとしている
状態でもありました。
その美しいハンガリーの貴婦人の正体はロザリンデでして、すべてはファルケ博士の仕組んだワナでもありました。
ロザリンデは口説かれるふりをしながら、アイゼンシュタインの懐中時計を奪います。
そしてこれが浮気の動かぬ証拠となる訳なのです。

第3幕:拘置所所長フランクの部屋
 
舞踏会の翌日、アイゼンシュタインが拘置所に出頭してみるとすでに見知らぬ男(アルフレート)が自分の代わりに
収監されている事に気が付きます。
拘置所の所長フランクから「昨晩、自宅で奥さんと一緒にいたこの男を連行して収監した」と聞いたアイゼンシュタインは、
ロザリンデの浮気を暴こうと弁護士に成りすまして様子を探ることにしました。
そこにロザリンデがやって来てアルフレートを拘置所から出してほしいとアイゼンシュタイン扮する弁護士に相談を始めます。
怒ったアイゼンシュタインが正体を明かし、妻・ロザリンでを責め立てると、「浮気には浮気を・・」みたいな感じで
ロザリンデは昨夜奪ったアルゼンシュタインの懐中時計を見せます。
浮気がバレて頭を抱えるアイゼンシュタインでしたけど、そこへファルケ博士が舞踏会の参加者とともに現れ、
すべては自分の仕組んだ芝居であった・・それはあの時のこうもりコスプレ放置事件に起因するちょっとした復讐劇ですよ・・と
事の顛末が明らかになり、
アイゼンシュタインは、とっさに「全てはシャンパンのせいだから赦して欲しい・・ロザリンデ」と言いだし、
なんとなく丸く収まったところで最後はロザリンデの歌う「シャンパンの歌」を全員で合唱してエンディングを迎えるというのが
大まかなあらすじです。

こうもりはオペレッタ全曲同様、序曲も大変有名です。単独でも頻繁に演奏されている素晴らしい名曲です。
序曲の演奏時間は8分ぐらいですので、管弦楽団の演奏会の一曲目としてうってつけといえそうです。
快活で明るい雰囲気の序奏に続くようにオーボエがやわらかなメロディを演奏します。
その後もオペレッタの中のたくさんのワルツが接続曲として続々と登場してきます。
曲の途中で6回響くチャイムの音やワルツやポルカ風音楽が展開され、楽しく明るい雰囲気で曲が閉じられます。

喜歌劇「こうもり」序曲はカイリエ等による吹奏楽アレンジ版も1970年代よりコンクール自由曲として演奏されていますけど、
最近ではオペレッタの音楽全体からおいしい部分をピックアップしたセレクト版も出版されていて、どちらかというと
序曲を演奏することよりはこのセレクト版の方が演奏機会が多いのかもしれないです。
最近の吹奏楽コンクールの全体的な傾向としては、邦人作品と歌劇からのセレクトといった事も挙げられそうですけど、
歌劇・オペレッタのセレクト版の先駆的意味合いとしては、1999年の北海道代表の大麻高校吹奏楽部による
プッチーニの歌劇「トゥーランドット」からのセレクト版なのかもしれないです。
あの演奏以降最近に至るまで、歌劇・オペレッタの抜粋版の自由曲の人気が続いている事を考えると、大麻高校の
トゥーランドットのあの素晴らしい名演の意義は現在に至るまで続いているようにも感じられます。
オペレッタのセレクト版としては、こうもり以外ではレハールの「メリーウィドウ」や「微笑みの国」なども印象的です。

喜歌劇「こうもり」序曲のカイリエ等による吹奏楽アレンジ版ですけど、この序曲は実はクラリネットパートに関しては
難曲中の難曲であり、あのあまりにもテンポが速い中での16分音符の炸裂は相当なテクニックが要求されますし、指使いは
大変難しいと断言できます。
こうもり序曲は幸い(?)演奏したことはありませんけど、カイリエアレンジ版のクラリネットのパート譜を見た限りでは
「とてもじゃないけど自分のこんな未熟なテクニックでは吹けそうにもない・・」とため息がでてしまうほどの難しさは
あると思います。
管弦楽作品の吹奏楽アレンジ版においてヴァイオリンパートのメロディーラインを主に担当するクラリネットパートの
16分音符等の速い動きが極めて難解で難しい曲の代表的事例として、たとえばプロコフィエフの
バレエ音楽「ロメオとジュリエット」~タイボルトの死、ショスタコーヴィチの交響曲第5番~終楽章、
ラヴェルのバレエ音楽「ダフネスとクロエ」第二組曲~全員の踊り、ハチャトゥリアンのバレエ音楽「ガイーヌ」~レスギンカ舞曲
など多数挙げられますけど、こうもり序曲の木管セクションの難しさは特に際立つものがあると思います。
たとえばですけど、タイボルトの死やショスタコーヴィチの5番あたりは、クラリネットセクションも音楽の勢いに乗れてしまえば
指も意外とスムーズに動いてくれますし、なによりもこうしたロシア系の曲は金管セクションが派手にとてつもない音量で
鳴らしていることも多々あり木管の細かい指の動きに多少難があってもあまりばれないという感じでもありますけど、
シュトラウスのこうもり序曲の場合は金管がそれほどがなりたてる曲では全くありませんし、クラリネットパートの細かい指の
動きはウインナワルツ的な優雅さと洗練さをなによりも求められますので、クラリネットのワルツの動きが少しでも
もたつくと即演奏崩壊につながりかねませんので、とにかくクラリネットパートには熟練した名人芸みたいなものを
求められる曲であったりもします。
この曲は私自身も吹奏楽コンクールで崩壊した演奏を何度も耳にしましたけど、クラリネットパートの指の細かい動きの
難しさがそのまま客席にまで伝わり、奏者だけでなくなんだか聴衆すらもオロオロしてしまうような演奏もかなりあったと
思います。

吹奏楽コンクールにおいて喜歌劇「こうもり」序曲の素晴らしい名演というと二つほど挙げたいです。
そしてこの二つの学校の演奏がいずれもコンクール評価としては銀賞で終わっていたことは、審査結果は水物であることと
日本の吹奏楽コンクール自体の驚異的なレヴェルの高さを意味しているのだと改めて感じたりもします。
そしてその二つのすてきな名演はいずれも1985年の全国大会でした。

広島の基町高校は、一部のオールド吹奏楽ファンの間では「基町トーン」という言葉で語られる事もあるのですけど、
柔らかいサウンド・優しい語り口・決して乱暴に鳴らさない・丁寧な音楽作り・温かい雰囲気というのが
その一つの特徴なのかなとも感じるのですが、
そうした「基町トーン」が最高潮に達した演奏が、1981年の序曲ハ調なのであり、85年のこうもり序曲と
いえるのだと思います。
1982年の歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲でもって長年に渡ってこの基町高校を指導・指揮されてこられた
増広先生の勇退の年という事になってしまい、全国大会の評価としては銀賞に留まりましたけど、
あのいかにも「おじいちゃんが優しい語り口で孫たちに民話を語っているような」温かい雰囲気が曲の随所から
感じられて、最後の普門館としては大変満足がいかれた演奏になっていたと思います。
あの優しくて温和な手作り雰囲気は、まさに増広先生=基町高校吹奏楽部のコンビによる「基町トーン」の
素晴らしい有終の美に相応しい演奏だったと思います。
惜しまれつつも増広先生は1982年の普門館を最後に勇退されましたが、
日本のスクールバンドの場合、往々にして長年実績を積み上げてきた優秀な指導者がその学校を離れてしまうと、
後任の先生がご苦労され、なかなかそれまでのような実績が上げにくいとか
中々いい演奏ができないとか、結果的に支部大会とか県大会で散ってしまうとか
後任の先生にとっては色々と悩まれる事も多いものだと思われます。
自分の個性というかカラーは早く出したいけど、なかなか前任の先生のカラーとか伝統みたいなものが立ちはだかってしまい、
自分としてのカラーが出せないまま、いつの間にかコンクールの表舞台から姿を消すという事例は珍しい話ではないと
思ったりもします。
そうした意味においては、基町高校の指揮者交代は公立学校としては理想的なものもあり、
増広先生の後を受け継いだ土居先生の演奏スタイルは「基町トーン」そのものであり、
それが遺憾なく発揮されていた演奏が85年の喜歌劇「こうもり」序曲だったと思います。
とにかくあのワルツは聴いていてとっても楽しかったし心地よかったです!
基町高校のこうもり序曲はテンポ設定が極めて良好で、過度に煽ることもなく平穏に楽しく優雅にワルツを心地よく
聴かせてくれていたことは本当に素晴らしかったです。
土居先生はその後何度か普門館での全国大会でその演奏を聴く事ができましたけど、いつ聴いても
「変わらぬ基町トーンをキープし続けていて、自分たちのサウンドはこれだっ!というものを持っていて
それが長年ずっとこうやって継承つれ続けているのはすごいものだ・・」と当時感心していたものです。
普門館のようにあんなにも広い会場でも、決して大音量とか過剰な表現はせずに、大変理性的で且つ
温かみが感じられる素敵な音楽を増広先生同様に全国大会でも聴衆に伝え続けていた事は大変立派な事だと
思いますし、まさに「公立高校の鑑」だと思います。

そして同年・・、1985年の中学の部においても雄新中学校による吹奏楽コンクールにおける決定的名演ともいえる
素晴らしいこうもり序曲の演奏が出ています。

1985年の中学の部は正直ちょっと停滞気味で84~85年の2年間の中学の部のレヴェルはちょっと下がり気味でもあったと
思います。
85年の中学の部においては、金賞の今津・出雲第二・大月東・湊など素晴らしい演奏もありましたけど、
例えば玉川学園中等部・伊勢崎第三・永山・津幡あたりは「この演奏が金賞なの・・?」と当日普門館で生演奏を聴いていた
私としてはそう感じてしまうほど、全体のレヴェルはちょっと低下傾向で特に銅賞チームの演奏は
「1960年代あたりにまでタイムスリップしたのかも・・??」と感じさせるものも多少はあったのかもしれないです。
そうした中、キラリ!と光る演奏がプログラムの最後に出現し、それが四国代表の雄新中学校でした!
課題曲Cの「シンフォニックファンファーレとマーチ」の中学生らしいのびやかさとチャーミングさとはつらつした雰囲気も
最高でしたけど、それ以上に自由曲のこうもり序曲の完璧な木管の驚異的テクニックとウインナワルツの楽しさと
オーボエのソロの美しさや全体にキビキビと躍動している溌溂とした明るさは「この日最高の演奏!」と感じさせるものは
間違いなくあったのになぜか審査結果は銀賞であり、「どうしてあの素晴らしい演奏が銀賞で、玉川学園みたいに
技術的未消化が目につき音楽的盛り上げに難があるあの演奏が金賞なの・・!?」と審査結果に納得いかないものを感じ、
「こうしたコンクールの審査結果は水物である・・」という事を実感させられたものでした。

雄新中学校なのですけど、鈴木清先生時代にこんなにも素晴らしい演奏を聴かせてくれているのに評価的には必ずしも
高い評価を受けていないのは私的には全然納得いかないです・・
もう少し高い評価を得ていても決しておかしくはないと感じています。

「雄新にしては少し消極的な演奏なのかも・・」とも感じてしまう1984年の「運命の力」は金賞で、
表現が積極果敢で各奏者のソロが素晴らしい1982年のスペイン奇想曲が銅賞で、演奏が情熱と楽しさ・明るさ・清涼感に
満ち溢れている1985~87年の3年間の演奏が銀賞という結果に終わっているのは、改めてコンクール審査は水物であると
感じざるを得ませんし、審査員の価値観・好き嫌いで随分と評価も変わってしまうものなのかもしれないです。

雄新が特に光り輝いていたのは、鈴木清先生時代の1985年~1987年の3年連続銀賞の頃なのかもしれないです。

1985年 課題曲C 自由曲/こうもり序曲

1986年 課題曲B 自由曲/ローマの謝肉祭序曲

1987年 課題曲E 自由曲/歌劇「ローエングリン」~エルザの大聖堂への厳かな行列

あの3年間は、本当に素晴らしい演奏を聴かせてくれていたと思いますし、評価は全て銀賞なのですけど、
私の中ではあの3年間の演奏は金賞以上のものがありますし、
何よりも「人の心にまっすぐと伝わる何か」は間違いなく残してくれていたと今でも確信しています。

その中でも特に1987年の「エルザの大聖堂への厳かな行列」は本当に素晴らしかったです!
あそこまで素晴らしい演奏を聴かせてくれたのに、あの演奏が審査結果で「銀賞」と発表された時は、心の底より
「審査員、全員くたばってしまえ!」とか「どういう耳を持ってどんな聴き方をすればあの演奏に金賞という評価をつけないのか
全く理解できない・・」と感じたものでした。





喜歌劇「こうもり」序曲の吹奏楽アレンジ版におけるクラリネットパートの指使いの難しさとハイテクニックは、
現役奏者の頃の私でも「演奏不可能・・」みたいな結論にならざるを得ないですけど、ららマジ器楽部のクラリネット担当の
綾瀬凛だったら余裕で楽々と吹きこなしそうです~♪

自分にも他人にも厳しい綾瀬凛ですけど、こんなかわいいJKさんだったら、私も是非ぜひ綾瀬凛からこうもり序曲の
とてつもないハイテクニックの指使いを教わってみたいです!


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怒っている綾瀬凛はいつもの綾瀬凛なのかもしれないですけど、一緒にこうもり序曲を練習していて
「一体いつになったらまともに吹けるのよ~!」と激怒されているのかもしれないですし、はたまた綾瀬凛自身が
カイリエ編曲の吹奏楽アレンジ版のクラリネットのパート譜を見て
「こんな大変な曲まともに吹ける訳ないじゃん!」とご機嫌ナナメになっている時なのかもしれないですし、
はたまたオペレッタのストーリー的には、妻がありながらも浮気ばかりしているアイゼンシュタインに対して
「この浮気者が~!!」と激高されているのかもしれないです。

なんだかこの雰囲気の綾瀬凛は、東方で例えると地獄の閻魔様の四季映姫様による地獄のお裁きで
「断罪~!!」とか「地獄行き!」の判決を下している時の雰囲気にも似ていそうです。


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綾瀬凛の普段のかわいらしさと怒っている時のギャップにも「すてきだね~♪」と感じてしまいそうです!

一つ後の記事がヨハン・シュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」に関するものですので、本記事においては、その父親の方の
ヨハン・シュトラウスⅠ世の「ラデツキー行進曲」について簡単に取り上げさせて頂きたいと思います。

マーチと言うと「吹奏楽」というイメージも大きいのかもしれないですけど、
管弦楽版のマーチにもたくさんの優れた作品が残されていて、例えばエルガーの行進曲「威風堂々第一番」とか
ウォルトンのグランドマーチ「クラウン・インペリアル」とかシベリウスの組曲「カレリア」~Ⅲ.行進曲風にとか
グリーグの組曲「十字軍の兵士シグール」~Ⅲ.勝利を讃える行進曲とかヴェルディのアイーダの大行進曲とか
シャブリエの楽しい行進曲とかプロコフィエフの体育祭行進曲(マーチ・スパルタキアーダ)や
ワーグナーのタンホイザー大行進曲やベルリオーズのハンガリー行進曲(ラコッツイ行進曲)や
サン・サーンスのフランス軍隊行進曲や英雄行進曲などたくさんの管弦楽による名曲マーチはあるのですけど、
優雅さと親しみやすさと世界的知名度というと 「ラデツキー行進曲」には敵わないのかも・・?とすら感じてしまいそうです。
ラデツキー行進曲はオーストリア共和国においては国家を象徴する曲でありますし、
国家的な行事や式典でたびたび演奏されていますし、
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるニューイヤーコンサートでは、
1958年以降は2005年を除いて、毎年プログラムのアンコールの最後の曲として必ず演奏される曲として
オーストリア国民の皆様に大変愛されている曲なのだと思います。
そうした意味においては、アメリカ人が「星条旗よ永遠なれ!」をアメリカ第二の国歌として愛しているのと
同じような感覚の曲なのだと思います。

ラデツキー行進曲は前述の通り、「ニューイヤーコンサート」におけるアンコール曲としてもう既にお馴染みの曲ですよね。
この曲が演奏されると、聴衆は手拍子をはじめるといったそんなお約束が確立されている曲だと思います。
クラシック音楽の演奏会で聴衆が自由に手拍子を送れる曲と言うのも極めて珍しいと思いますし、
指揮者の方もむしろ聴衆に対して「もっと手拍子頂戴よっ!」みたいに時に煽るような事が出来てしまうある意味大変貴重な
クラシック音楽なのだと思います。

ちなみにですけどこの行進曲の名前は「ラデツキ―」であって、よく日本で間違って発音・印刷されているように
「ラデッキー」ではありません・・・
「ツ」は小文字ではなくてあくまで大文字です。
この曲の出だしはダダダン・ダダダン・ダッ・ダッ・ダーンと景気良く開始されていき、
その後も大変軽快だけど力強いメロディーが展開されていきます。
中間部はいかにも優雅なワルツという感じで何やら気品のような香りさえします
行進曲なのですけどその雰囲気は優雅なワルツみたいにも聴こえますし、ウインナワルツというのか
舞踏会や晩餐会のBGMにも十分効果が発揮できそうな曲だとも思います。
そしてこの優雅な感覚はウイーン気質をそのまま象徴しているようにも感じられますし、オーストリアの皆様が
この曲を愛してやまないというのも当然なのだと思います。

このラデツキー行進曲は、吹奏楽にもアレンジされていて、
イベントとか卒業式・入学式、記念行事の入退場曲としては定番の一つにもなっているような気がします。
このラデツキ―行進曲とかスーザの星条旗よ永遠なれ!を一度でも吹いた事がある吹奏楽経験者は相当多いと思います。

そういう私自身も、ラデツキー行進曲は、吹奏楽アレンジ版で何度も何度も演奏しました。

感覚としては星条旗よ永遠なれ!はいかにもヤンキーみたいな庶民的なエネルギーに溢れているのに対して
ラデツキー行進曲は優雅で上品なエレガントさというものがあったと思いますし、この二つの曲は
国民から愛されていて第二の国歌に近いものがあるけど、曲自体の雰囲気は全然違うと言えるのかもしれないですね。

ラデツキー行進曲は、管弦楽の原曲の打楽器はティンパニ・小太鼓・大太鼓のみですけど、
吹奏楽アレンジ版では、シンバル・グロッケン・タンバリンも追加されていたような記憶があります。
冒頭のダダダン・ダダダン・ダッ・ダッ・ダーン・ダダダダダッタッダのすぐ後は、
原曲の管弦楽版では打楽器は入らないのですけど
吹奏楽版では、この後に、ティンパニ・大太鼓・シンバルがドスンとかなりバカでかい音を叩きこんでいました。
後にラデツキー行進曲を管弦楽版として聴いた時に
「どうして冒頭のあの場面で、打楽器がドスンと叩かないの?」と思ったものですけど、
それは吹奏楽アレンジ版しか知らない人のある意味勘違いでもありました。
管弦楽の原曲を吹奏楽アレンジ版として演奏された方は、勘違い防止のために、
吹奏楽版以外にも原曲もちゃんと聴いておきましょうね・・という感じなのかもしれないですね。
ちなみにですけど、私自身は例えばドヴォルザークの交響曲第8番第四楽章は、石田中学校の吹奏楽アレンジ版の演奏で
ずっと慣れ親しんでいて、数年後にこの交響曲を初めて管弦楽の原曲として聴いた時に
「どうして第四楽章に大太鼓・小太鼓・シンバルが入らないの・・?」と勘違いをしていたものでした・・

勘違いと言うと、ラデツキー行進曲の作曲者はヨハン・シュトラウスⅠ世なのですけど、
喜歌劇「こうもり」序曲とか春の声・美しき青きドナウ・南国のパラ等「十大ワルツ」の作曲家は
シュトラウスⅠ世の長男のヨハン・シュトラウスⅡ世であり、クラシック音楽等が何もわからなかった時代は、
このⅠ世とⅡ世は同一人物なんだと勝手に勘違いをしていた事もありました・・
これはいくらなんでもこっ恥ずかしい勘違いでもありました。

ちなみにですけど、ヨハン・シュトラウスⅡ世を代表する曲というのが、
「ウィーンの森の物語」と「皇帝円舞曲」とともにシュトラウス2世の三大ワルツに数えられ、
その中でも最高傑作とされ、作曲者およびウィンナ・ワルツの代名詞ともいわれる作品というのが 美しき青きドナウです。
ちなみに美しき青きドナウも前述のウィーンフィルのニューイヤーコンサートでは定番中の定番の曲で間違いなく
絶対に演奏される曲の一つです。
美しき青きドナウはドイツのあの大作曲家のブラームスも大好きな曲でして、ある時扇子にサインを求められた際に
ブラームスは、この美しき青きドナウのメロディーの楽譜を書き、そこに
「残念ながらブラームスの作にあらず・・」という一文を書き添えたというとってもすてきなエピソードを残しています。
ブラームスというと気難しい先生とか端正で真面目で厳格な性格という印象が強かったりもしますけど、ブラームスの師匠の
シューマンの奥様のクララ・シューマンとのシューマンの死後のプラトニックすぎる純愛とか
いかにもドイツ正統派の厳粛な音楽というイメージとはちょっと異なるような例えば大学祝典序曲やハイドンの主題による変奏曲
などたまに粋で楽しい作品も残されていますし、
ピゼーの歌劇「カルメン」が大好きで上演のたびに鑑賞に出かけたなどちょっと意外でお茶目な面もあったりするのは
ブラームスのすてきな人間性の所以なのかもしれないです。


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前述のとおり、ラデツキー行進曲はニューイヤーコンサートもそうですし、日本の管弦楽団のお正月公演や
吹奏楽アレンジ版における演奏会等でのアンコールでもお馴染みの曲ですけど、演奏中に結構な確率で
客席から自然に手拍子が入ることもあったりします。

私自身もラデツキー行進曲を演奏会のアンコール等で演奏したことはありますし、そのうち何度かは客席からの手拍子を
受けましたけど、実は私自身は客席からの手拍子は苦手であったりもします。
どうしてかというと、客席からの手拍子と指揮者の拍子には当然わずかですけどズレが生じていますし、
練習の際の指揮者のビートと客席からの手拍子のビートが噛み合わないと、なんだか自分自身吹いている時に混乱してしまう
という傾向はありました。

ららマジの指揮者は東奏学園器楽部創始者のひとりで3年生の草薙百花が務めていますけど、ららマジ器楽部みたいな
無茶苦茶な楽器編成をどうにかこうにか剛腕でまとめあげている百花の指揮の技量では、そんな聴衆からの手拍子による
ビートの狂いなんて全く気にも留めないという事なのかもしれないです。

ラデツキー行進曲は曲の中間部は静かで優雅なメロディーが続くのですけど、それでも一部の聴衆は手拍子を続けている
事も多々あり、あの違和感は指揮者にとっても奏者にとっても「ちょっと困ったかも・・」と感じなのかもしれないですけど、
百花はその点も的確にコントロールするのかもしれないです。

ウィーンフィルのニューイヤーコンサートでもたいていの指揮者はラデツキー行進曲の演奏時は曲の開始だけ指揮し、
それ以外は奏者に対する指揮ではなくて観客に対してジェスチャーで「もっと手拍子を!」とか
「ここは手拍子を控えて・・」と指示している事が多いようにも感じますけど、
ららマジの剛腕指揮者の百花も本番の演奏会の際は、そうした自由自在の応用がききまくった指揮さばきも見せてくれている
のかもしれないですね~♪


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それにしてもららマジ器楽部の皆様はすてきな美少女たちばかりですので、チューナーくん(自機プレイヤー)は
バレンタイン等のイベントの際はもてもてなのかもしれないですね~♪
「祝典序曲」というタイトルというと、いっちば~ん!有名なのは、ブラームスの「大学祝典序曲」ではないのかなと
思ったりもします。
この曲は何度聴いてもどことなく気難しくて幾分とっつきにくいブラームスの曲とは思えないほど
洒落っ気に富む楽しい曲だと思えます。
スッペやオッフェンバックの序曲と言っても何か通用しそうな雰囲気があるようにも感じられます。
ブラームスというと気難しい先生というイメージがありがちなのですけど、意外とこの御方はお茶目な面があったり純愛を貫く
といった要素もあったりしますし、ビゼーの歌劇「カルメン」が大好きで上演の度に見に行っていたりとか
ある時女性ファンより扇子へのサインを求められた際に、扇子にヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」のメロディーを
書いた上で「残念ながらブラームスの作に非ず・・」と記したり、少なくとも頑固一徹だけの作曲家では無かったようにも
感じられたりもします。
ブラームスは作曲パターンから言うと、楽しい曲を作曲している最中になぜか陰気で暗い曲を同時に
作曲するクセみたいなものもあるようでして、
この「大学祝典序曲」を作曲している最中に、「悲劇的序曲」という陰鬱な曲を後世の私達に残してくれたりもしています。
「祝典序曲」というとブラームス以外では
グラズノフ・イベール、チャイコフスキーの祝典序曲「1812年」なども大変印象的ですし、
邦人作品としては廣瀬量平・平井哲三郎の祝典序曲も大変素晴らしいですけど
(廣瀬量平の祝典序曲は後日吹奏楽にアレンジもされていて、全国大会でも演奏されていたりもします)
クラシック音楽・吹奏楽を通じていっちば~ん! 演奏頻度が高くて大人気の曲と言うと、誰が何と言っても
ショスタコーヴィッチの「祝典序曲」作品96ではないかと思います。
ショスタコーヴィッチの祝典序曲は1970年代から既に吹奏楽コンクールの自由曲としては定番中の定番の曲となっていて、
たくさんのチームによる吹奏楽版の名演がお披露目されています。

ショスタコーヴイッチの祝典序曲は、ともすれば深刻・悲愴感・重厚長大・悲劇的・政治とスターリンに生涯振り回された
悲劇の作曲家・本音と建前の二重言語を駆使したような難解な作品も多い中で、
例外的に明るく、どこまでも底抜けに楽しく進展し、開放感満点の素晴らしい小品だと思います。
演奏時間は大体7分前後ぐらいですけど、指揮者によっては6分を切るスピード感満点の解釈もあるようです。

ショスタコーヴィッチは、その生涯で二度ほど政治的にやばい状況を迎えます。
当時のソ連体制においては、国家権力によって睨まれたり、監視の対象になってしまうというやばい状況とはこれすなわち、
自身の処刑・シベリア流刑・強制収容所送り・秘密警察からの突然の連行などを意味しますし、
ショスタコーヴィッチ自身、1930年代には一時期本当に自分自身が逮捕されるという想定をして身辺整理をしていたことも
あるようですので、本当に相当やばい状況だったのかもしれないです。

本来、音楽とは作曲家の自由意思というか、自分はこのように感じたからこうした曲を作りたいという事が尊重されるのは
当然の事なのですけど、当時の共産党一党独裁のソ連にはそうした自由は無く、
「人民が喜びそうな外面的効果の高い音楽」を量産する事を求められ、自身の内面を描くといった抽象的な音楽は、
国家権力によって敬遠され、ひたすら外面的に明るい音楽を作曲する事が求められていました。
自由な音楽を求めてソ連体制を嫌って祖国からの亡命を求めたのがストラヴィンスキーとかプロコフィエフやラフマニノフでも
ありました。
ショスタコーヴィッチ自身は律儀にも祖国愛が強いのか、面倒な事を嫌ったのか、家族の反対にあったかは
よく分かりませんけど、生涯一度も亡命する事もなくその生涯をソ連体制の中で生き続け、
その生涯をソ連の中で閉じた方なのです。
本当は、マーラーみたいな音楽を書きたかった欲求もあったのかもしれませんけど、
時に自分の内面に忠実な作品を書き、それが国家からの批判を招き、その反動として外面効果が高い分かり易い曲を
反省作品として残すという御用作曲家みたいな面を持つという本当に苦労が絶えない人だったと思います。

やばい状況の内の一回目は、交響曲第4番やバレエ「明るい小川」を作曲していた頃の話です。
これらの音楽が「抽象的で訳がわからん」という事で睨まれ、その代償として作曲されたのが、
ショスタコーヴィッチの代表作、交響曲第5番「革命」というのも何だか皮肉なものを感じたりもします。
そしてやばい二回目は、第二次世界大戦終了後に、戦争勝利記念作として発表された交響曲第9番が要因だったりもします。
スターリンにとっては、「戦勝記念の交響曲は特別な存在であるべきである! なぜなら我々は戦勝国だからである。
祝祭的な交響曲は、合唱などを入れ大規模に国家の勝利を讃える必要がある」などと思ったかどうかはよく分かりませんが、
そうした気持ちは幾分は持っていたのかもしれません。
ショスタコーヴィッチの交響曲第9番が、合唱もスターリンを称える歌詞も何もなく、演奏時間も25分程度と短く、
その内容が表面的には軽快で洒落っ気に溢れたものであった事にスターリンは激怒し、
「俺の顔を潰しやがって」みたいな気持はどこかにあったかもしれません。
そして二回目のやばい状況を迎えてしまい、ソ連の公的新聞機関のプラウダを通して、名指しの批判を食らってしまいます。
ショスタコーヴィッチはこの危機に対しては、オラトリオ「森の歌」で大衆迎合用の分かり易い曲を提出し難を逃れています。
ちなみの「森の歌」の初版の歌詞のラストは「スターリン万歳!」との事です。
(スターリンの死後削除されています)

こういう状況の下、結果的にスターリンは1953年に逝去します。

スターリン死亡の翌年に、祝典序曲作品96が作曲されます。
この曲は、一応表面上は革命37周年記念とかボルガ=ドン運河竣工記念という名目で書き上げられていますけど、
これって少しおかしいようにも感じます。
革命37周年は中途半端な数字ですし、運河が完成したのは、祝典序曲作曲の2年か3年前の少し古い話でもあったりします。

うがった見方をすると、スターリンの死自体がショスタコーヴィッチにとっては「祝典」みたいな出来事だったのかもしれないです。
スターリンの死がショスタコーヴィッチにとってもソ連人民にとっても「祝典」である事をほのめかしたかったようにも
感じられたりもします。
同様なことは交響曲第10番にもいえそうです。
第一楽章から第三楽章までは陰気な雰囲気がぷんぷんなのですけど、第四楽章の中盤から唐突に明るい幸福感に
満ちた印象に激変します。
人間の死と言うのは本来悲しむべきことであるのに、スターリンという独裁者が死なないとソ連国民全体の幸福がやってこない
いう国家的な皮肉を謳い上げたようにもついつい聞こえてしまいます。

祝典序曲なのですけど、そうした曲の背景はいったん置いておいて、この曲の構成自体はとてもシンプルで
冒頭の金管による健康的な明るいファンファーレが華麗に吹奏され、ラスト近くのこの冒頭のファンファーレの再現に向けて
全楽器が燃え立つように突進するというシンプル イズ ベストを絵に描いたような作品だと思います。
冒頭のファンファーレの後すぐに出てくるクラリネットのソロが流麗で実に素晴らしいです。
ラストのファンファーレの再現部分で、バンダという金管別働隊も加わり華麗に曲は閉じられます。

曲の背景は何か面倒なものがありそうだけど、曲そのものはいたったシンプルで明るく楽しい曲という
ショスタコーヴィッチ自身の矛盾を立証したような作品と言えるのかもしれないです。

交響曲第4番・8番・10番とかチェロ協奏曲第2番とかヴァイオリン協奏曲第1番などのような
ショスタコーヴィッチの曲の中でも重苦しい曲を聴いた後で祝典序曲・ジャズ組曲とかバレエ音楽「ボルト―」とか
編曲作品ですけど「二人でお茶を」みたいな軽妙な曲を聴いてしまうと、
「本当に交響曲第4番を書いた方と祝典序曲を書いた人は同一人物なのか!?」と心の底から感じてしまいそうです。
人間の心の多様性とか「人は決して一つの感情だけで動くものではない」という事をショスタコーヴィッチ自身が生涯を
かけてその作品群を通して世に問うたとも換言できるのかもしれないです。
ショスタコーヴィイッチのこうした明るく軽い曲と深刻で悲劇的な曲を書けてしまう二面性は
高校の頃には既に何となく気が付いていました。
この事を吹奏楽部の同期で同じくクラリネットを吹いている奴に話してみると、
「それは中島みゆきも同じ、あんなジメジメと陰々滅々とした曲を書いてしまう人か、オールナイトニッポンのDJでは、
あんなに弾け飛んでしまうのだからな」といかにも中島みゆきファンらしいコメントを発していたのが印象に残っていますし、
意外とショスタコーヴィイッチの本質を突いているのかもしれないです。

ショスタコーヴィッチの「祝典序曲」はハンスバーガーによって吹奏楽用にもアレンジされ
現在でも吹奏楽コンクールの自由曲として演奏され続けています。
吹奏楽コンクールにおけるこの曲の名演として、1983年の白子ウィンドオーケストラや1989年の富山商業は強く推したいです。
やりたい放題のとんでもない珍演だけど、とてつもなく個性豊かな名演として1998年の西宮高校を挙げたいです。
指揮者の吉永陽一先生に、心の底から敬意を表したいですし、あの年の課題曲の「稲穂の波」の独特な間の取り方も
吉永先生の強烈な個性といえそうです。


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ショスタコーヴィッチの「祝典序曲」の最大のポイントであり聴かせどころは冒頭とラスト近くのトランペットによるファンファーレ
だと思うのですけと、
ららマジのトランペット奏者でもある亜里砂・エロイーズ・ボー=ボガードと
トランペットと見た目は大変良く似ているけど、実際は楽器の構造も音色もトランペットとはちょっと異なる楽器のコルネットの
奏者である浅野葉月によるそうした華麗なるファンファーレはぜひ聴いてみたいですね~♪

ららマジの浅野葉月はコルネットを担当している高校2年生のJKさんで、トランペットも兼任しています。

トランペットとコルネットは楽器の構造がまるで違うので、確かに見た目はよく似ているのですけど、
似て非なる楽器と言えそうです。
そして吹奏楽コンクールやプロの管弦楽団の演奏会等でも、部分的にコルネットを使用する場合は、トランペット奏者が
曲の途中で楽器を持ち替えることがほとんどです。
浅野葉月がトランペット兼任という設定は当然という事なのだと思います。

祝典序曲をこの二人による華麗なるファンファーレは相当見映えがしそうですね~♪

ららマジの器楽部におけるトランペットパートは実質的に浅野葉月と亜里砂・E.Bの二人と言えますけど、
浅野葉月は亜里砂・エロイーズ・ボー=ボガード(略して亜里砂・E.B)の隠れファンらしいという事で、浅野葉月にとっては
「あこがれの子と実質的に同じパートなんて大感激・・♪」という感じなのかもしれないです。
ドビュッシーは「映像」(イマージュ)という標題がつけられた曲を計3曲残しています。
そのうち2つはピアノ曲で、最後の映像第三集こそが1912年に作曲された管弦楽のための映像なのです。
「映像」というタイトルはバルトークの「二つの映像」という作品もあったりしますけど、ドビュッシーはピアノ曲も含めて
3作品も「映像」という作品を残している事からも、ドビュッシー自身がいかに「映像」というワードとイメージを大切に
していたのかが窺えると思います。
ちなみにドビュッシーが述べる「映像」というのは、今そこに見えている風景の事ではありません。
それはあくまでドビュッシーが目で見た風景に対してドビュッシーの心がいかにそれを感じ取ったのかという
ドビュッシー自身の心象風景ともいえそうです。
音楽史の中で印象派というくくりもあったりして、それに該当する主な作曲家と言うとドビュッシーとラヴェルが代表的だと
思うのですけど、例えば「スペイン風・祭り・カスタネットがリズミカルに大活躍」という共通項が挙げられる曲と言うと
ドビュッシーは映像~イベリアの街の道と田舎の道、祭りの日の朝、ラヴェルはスペイン狂詩曲~Ⅳ.祭りが挙げられると
思います。
なんとなくですけど、ラヴェルの「祭り」はお祭りに自ら参加して積極的に汗を流すという情熱と南国のけだるさという
動的な感覚もあったりする中で、ドビュッシーの方は、例えば「三つの夜想曲」~Ⅱ.祭りもそうなのですけど、
ドビュッシーが直接参加したお祭りの感覚というのではなくて、「私は自分の心の中でこのようにお祭りをイメージした」という
あくまで心象という心の風景を象っているようにも感じられたりもしますし、同じ印象派というくくりの中でも
意外とドビュッシーとラヴェルが目指していた方向性というものは真逆のモノもありそうなのかもしれないです。

ドビュッシーの映像(第三集~管弦楽のための) は、演奏時間もかなり長くて、全曲を演奏したら35分以上は掛ります。

構成は下記の通りです。

第一曲 ジーグ

第二曲 イベリア ~ Ⅰ.街の道と田舎の道 Ⅱ.夜の香り Ⅲ.祭りの日の朝

第三曲 春のロンド

第一曲から第三曲は、それぞれ違う国の民謡や民族的雰囲気・お国がらを素材にしていますけど、
例えばホルストが「日本組曲」においてお江戸日本橋・五木の子守唄などをそっくりそのまま転用したみたいなことはせず、
民謡等を安易に流用はせず入念に手の込んだ変容や仕掛けを曲の至る所に仕込んでいます。
日本組曲は異国情緒漂う曲と言うのは決して間違いではないと思うのですけど、例えば同じ異国情緒というテーマを
扱いながらも例えばラヴェルの「スペイン狂詩曲」などは、自分のスペインに対する想いをフランス人の感覚から
自己流に昇華したともいえそうなのに対して、ホルストの日本組曲は、そうした異国情緒を特に自分の気持ちに
照らし合わせるという事もなくて、レクチャーされた日本旋律をそっくりそのまんま使用している点がラヴェルとの大きな違いと
言えるのかもしれないです。

ジーグは、オーボエ・ダモーレというオーボエの仲間の楽器が奏でるメロディーと音色は、イギリスの民族楽器の
バッグバイブにちかいものを感じさせてくれていますし、春のロンドはフランス民謡の「もう森にはいかない」をモチーフに
巧みな変容がなされています。
私的には、イギリスをテーマにした「ジーグ」とフランスをテーマにした「春のロンド」よりも、スペインをテーマにした「イベリア」が、
リズム感のノリの良さとだるさが うまくミックスした感じがたまらず、私の中ではドビュッシーの管弦楽のための映像というと
第二曲のイベリアが一番印象的ですし大好きです!
プロの管弦楽団の演奏会においても、映像の全曲をやらないで「イベリア」のみ演奏するというパターンも結構多いと思います。
ちなみにですけど、ジーグもイベリアも春のロンドも作曲時期と初演された時期も楽譜の出版社も実はバラバラで
あったりもします。
イベリアの初演はさぞかし聴衆のウケはよかったのかな・・?と思ったりもするのですけど、実はあまり評判はよくなくて
ほとんどの聴衆はほとんどピンときていなかったというエピソードも意外だったりもします。

「イベリア」はどこがいいかというと全部いいのですが、聴きどころとしては、
①街の道と田舎の道の、ホルンの雄叫びとカスタネットのリズムの歯切れの良さ
②夜の香りのけだるい感じ(印象としては、ラヴェルの「スペイン狂詩曲」のハパネラと似ているような感じもします)
③祭りの日の朝の、「さーてこれから祭りが始まるぞ~!」という高揚感を背景にしながらも、そんなやる気を前面に
 出した感じではなくて、「少しかったるいけど、ま、テキトーにやってみるか・・・」というテキトーさとちゃらんぽらんさが
昇華されているあたりは素晴らしいと感じたりもします。
前述の通り、「祭りの日の朝」はラヴェルの「スペイン狂詩曲」のⅣ.祭りとタイトルはかぶるのですが、
ラヴェルは、情熱系なのに対して、ドビュッシーのちゃらんぽらんさが良く出ているのが両者の違いといえそうです。
街の道と田舎の道におけるカスタネットのリズミカルで情熱的な響きに乗っかる形でのクラリネットのスペインムードの
雰囲気もとてもエキゾチックですし、ホルンの高音域での雄叫びからも情熱の発散を感じさせてくれていると
思います。この曲でのトロンボーンの弱奏でのグリッサンド的な部分はなんだかムード歌謡みたいなけだるさも感じさせて
くれていると思いますし、全体的には南国のおおらかさに満ち溢れていると思います。
夜の香りのある種の官能的雰囲気はエキゾチックな雰囲気だと思います。そしてこの記事を書いている時に
「夜の香り」というのを何度か「嫁の香り」と打ち間違いをしてしまった私ですけど、嫁でも夜でもその香りはやっぱり
ある意味官能的なのかもしれないです。
夜の香りが終わりに近づくとチャイムの響きが清楚に響いてきますけど、あれはいかにも夜明けという感じが漂います。
そしてチャイムのカンコンという響きと共に祭りの日の朝が開始されますけど、街の道と田舎の道と同様に
クラリネットの高音の甲高い響きが期待感とおどけたような楽しさをあますところなく伝えていると思います。
シロフォーンの響きも生き生きとしていますし、ラスト近くのトロンボーンのグリッサンドの響きもとても心地よいと思います。

イベリアをCDで聴く場合は、個人的には、プレヴィン指揮の演奏がとても印象に残っています。

生演奏においては、井上道義指揮日本フィルの演奏では面白い試みがあり、
ジーグが終わると、演奏者は一旦立ち上がり、演奏曲目終了 イベリアが終わると・・・以下同文の
繰り返しで、指揮者としては、「この三曲は別物」という事をアピールしたかったのではないかと考えたりもしました。

イベリアはなんとなくですけど、「夏の暑い日にプールで水遊びを楽しみ、少し疲れたら、コーラを飲みながらイベリアの
夜の香りと祭りの日の朝のけだるさを楽しみつつ、この曲をBGMにしてウトウトと昼寝が出来れば最高の幸せなのかも~!?」と
感じたこともあったりしたものでした。

「イベリア」で使用される打楽器(特にカスタネット・シロフォーン・チャイム)は響かせ方が名人芸的に大変巧みに
書かれていますので非常に色彩的で効果的です。
それにしても祭りの日の朝のけだるさは、祭りと言う情熱というよりも
「朝日がなんだか眩しくて今日も一日かったるいよね~」とか「今日はお祭りか・・楽しそうだけど参加するのは
なんだか面倒くさそう・・」とか「遠くからそっと見学できればそれで十分なのかも・・?」というなんだか怠け者のの祭りの楽しみ方
みたいな要素も詰まっているようにも感じたりもします。
「三つの夜想曲」~Ⅱ.祭りは、中間部においてミュートを付けたトランペットによる音の遠近感の処理が大変巧みで、
「祭りのお神輿とか行列が近づいてくる・・」という雰囲気を見事に音楽として表現していると思いますけど、
イベリアの「祭りの日の朝」のクラリネットによるおどけたようなメロディーもそうした音の遠近感に近いような感覚も
あったりします。


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イベリアのⅠとⅢにおいてはクラリネットがソロとして大変重要な役割を果たしていると思います。

生き生きとした感じとスペインの南国のおおらかさがクラリネットの甲高い響きからよく伝わってきていると感じられます。

ららマジ器楽部によるイベリアのおおらかなスペインの響きも是非聴いてみたいですけど、クラリネット奏者の綾瀬凛が
奏でるイベリアのⅠとⅢの生き生きとしたソロも是非聴いてみたいものです~♪

綾瀬凛はなんとなくいつも怒っているみたいなイメージもありそうですけど、ソロを奏でる時には楽しそうな笑顔に
なるのかもしれないです。





クラシック音楽でカスタネットが使用された楽曲はたくさんあるのですけど、スペインの作曲家や
フランスやロシア等のスペイン以外の作曲家がスペインに憧れと敬意の気持ちを有してスペインを感覚的にイメージして
作られた曲が多いです。

カスタネットは木製の打楽器で、体鳴楽器に分類される打楽器の一つです。
スペインで特に発達した楽器であり、スペインの民族音楽に欠かすことはできない楽器であり、
スペインの舞踊フラメンコにおいては、今現在も踊り手にとっては必要不可欠な楽器でもあります。
カスタネットの情熱的なリズムの刻みは心地よいですし、あの躍動感は素晴らしいです~♪ あのカタカタと小気味よいリズムを
耳にしただけで既に気分は南欧気分になりそうです。
カスタネットは、手のひらに納まるくらいの丸い貝型の木片を2枚合わせ、これを打ち合わせることによって音を出す楽器
なのですけど、端にひもを通してつなげ、このひもに親指を通して楽器を保持したり2枚の開き具合を調整しますし、
基本的には音程がわずかに異なる二つのカスタネットを右手と左手の両方に持ち、一般的には音程が高い方のカスタネットを
右手に持つことがスタンタードです。

ららマジでカスタネットを担当しているのは奥村映という中性的な雰囲気の高校2年生のJKさんですけど、
カスタネットを使ったフラメンコが特技で、カスタネットの手入れも欠かさず行うとの事です。
ららマジの打楽器パートのトライアングル奏者はかなりの不思議ちゃんの女の子なのですけど、奥村映も少しそうした
不思議ちゃんみたいな雰囲気も無くはなく、どちらかというと男性的でもないし女の子そのものという感じでもないし、
少し不思議な中性的な女の子という印象もあったりします。
少しだけ鈍感な性格というのも、不思議ちゃん系としての浮世離れした性格の為せる業なのかもしれないです。

食べることも大好きで意外と大食い・・?という設定も大変面白いですけど、大食いキャラで少しミステリアスで
中性的な雰囲気を有するJKさんというと思い出すのは「ラーメン大好き小泉さん」の小泉さんなのですけど、
確かにあの二人はどことなくですけど雰囲気が似ているようにも感じられそうですね~♪
一つ後の記事もドビュッシーの管弦楽曲の映像~イベリアを取り上げておりますので、本記事では統一する意味で
同じくクロード・ドビュッシーの「小組曲」について少しばかり触れてみたいと思います。

ドビュッシーの「小組曲」はとても繊細で美しい曲で、Ⅰの小舟にては、ハープの伴奏にのったフルートの響きが
大変印象的で 以前CMでも使用されていました。
この小組曲は、交響組曲「春」やスコットランド風行進曲などと共にドビュッシーにとっては比較的初期の頃の作品なので
後年の海・映像・遊戯・歌劇「ぺリアスとメリザント」などのような大作ではないですけど、
わかりやすく親しみやすい雰囲気はよく伝わってきていると思います。
演奏時間も14分程度と短く、 プロの管弦楽団の「オールドビュッシープログラム」だと
第一曲目は、「牧神の午後への前奏曲」かこの「小組曲」が組まれる事が多いような気もします。

ドビュッシーの「小組曲」の元のオリジナル曲は四手のためのピアノ曲なのですけど、
ピアノ曲としてはほとんど注目されていなかったのですが、後年ピュッセルが管弦楽用にアレンジして以降急速に人気がでて、
この曲の演奏頻度も急速に高くなっていったようです。
ピュッセルのアレンジは大変巧妙でドビュッシーのエッセンスを心得ているので、まるでドビュッシー本人が
オーケストレーションしたかのような印象すらあります。
第一曲の小舟にてのフルートソロが示唆する通り木管楽器の使い方が絶妙だと思います。
デリケートで繊細な響きの中にドビュッシーの意図するナイーブさも秘められていて、アレンジの巧みさによって
元のピアノ曲が元々有していた魅力を更にスケールアップしているようにも感じられます。

この曲は以下の四つから構成されています。

Ⅰ.小舟にて

Ⅱ.行列

Ⅲ.メヌエット

Ⅳ.バレエ

Ⅰの小舟にては、冒頭から展開されるハープのアルペッジョにのったフルートソロが大変魅力的です。
印象としては夢見る乙女という感じもします。
Ⅱの行列は軽やかな行列という印象ですけど実は4曲の中では一番盛り上がる曲想でもあります。
ⅢはⅡとは対照的に古風な舞曲という印象です。
Ⅳはとても軽快で、タンバリンが小気味良いリズムを終始奏でているのが印象的です。

この曲は1986年頃、当時読響の常任指揮者だった三石精一さんの指揮の読響の東京厚生年金会館で開催された
名曲コンサートで初めて管弦楽作品として聴いたのが最初だったと思います。
この小組曲とラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲とドヴォルザークの交響曲第8番のプログラムが組まれていたと記憶
しています。
当時読響の名曲コンサート時の会場だった新宿の東京厚生年金会館は現在では既に解体されて
別の建物が建っていますけど、こういうところにも時代の変遷が感じられます。
当時の東京厚生年金会館も相当老朽化していましたけど、それよりももっと老朽化が進行している様な
新宿文化センターがいまだに現役ホールとして稼動しているのもある意味凄い話だと思います。

ドビュッシーの小組曲は吹奏楽にもアレンジされていて、全国大会でも2019年末時点で計5回自由曲として演奏されています。
吹奏楽でこの曲を演奏すると、実は違和感も感じたりもします。
というのも、ピュッセルのアレンジ管弦楽版の金管楽器はトロンボーン・チューバを外しているのに
吹奏楽アレンジ版には、この楽器を加えている他にユーフォニウムまで付け足していますので
厚化粧みたいな雰囲気もありますし、そのせいか吹奏楽でこの曲を演奏すると意外と分厚い響きになってしまい野暮ったく
聴こえがちでもあります。
管楽器だけの響きだとどうしてもデリケートな響きの再現はかなり制約がありそうな印象もあります。
1986年の東海大学第四高校は、その点はかなり考慮された演奏になっていますし、Ⅰの小舟にてのよく考えられた響きと
コントラバスクラを効果的に使用した響きはこの曲の吹奏楽アレンジ版としては一つの理想ともいえそうです。

この曲の吹奏楽アレンジ版としての全国大会初演は1979年の弘前南高校吹奏楽部でありますけど、
弘前南の演奏に関しては、BJ(バンドジャーナル)を読む限りでは、いわゆる音楽評論家と呼ばれる方でも
評価は真っ二つに分かれていて、音楽の専門家であっても感じ方は千差万別ですし、
コンクールでの評価というものは必ずしも絶対的なものではないんだな・・いう事を改めて感じたものです。

 例

 吉田友紀氏

 「聴いた感じでは、アンセルメ指揮の演奏に近い線を出している。
 ドビュッシーの音楽らしい雰囲気を再現していて、編曲・演奏共に立派である」

 上野晃氏

 「感覚のデリカシーはいずこへ、とても音色のディストリビューションまで手が回らずバランスを失ってしまった。
 分相応な指揮者の高望みから起きた破綻である」

私の感想としては吉田氏の方が全然的を得ていると思います。

弘前南の小組曲は私自身は大変デリケートな演奏で音色とパートバランスにも十分すぎるほど配慮されている演奏だと
思いますし、課題曲の「フェリスタス」における元気で溌剌とした明るい響きとの対照性も見事に表現されていると
感じられます。

管弦楽版としてはこの曲の名演は色々とありますけど、私的には
少し録音は古いけど、マルティノン指揮/フランス国立管弦楽団が素晴らしいですね。


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小組曲の最大の聴きどころはⅠの冒頭のフルートソロとハーブとの絡みだと思います。

そして小組曲の冒頭フルートソロは美少女が奏でるのが理想的だと思います。

そうした意味ではららマジのフルート奏者の結城菜々美はうってつけといえそうです!

結城菜々美は「ど根性で乗り切るぞ!期待の新人!」というのが売りのふわふわ熱血少女です~♪

明るく素直で、誰とでも仲良くなれるタイプで、根性さえあれば何でもできると考えている熱血系根性論者でもあり、
ときに無鉄砲な行動に出ることも多々あります。
音楽家の両親の影響で物心つく前からフルートに触れており、幼少期から数々のコンサートで最優秀賞を総なめ状態で
周囲から神童と呼ばれていましたけど、とある出来事により挫折してしまう過去の傷もあったりします。

根性論者、肉好き、運動神経抜群という側面と見た目のふわふわ~っとしたかわいらしさのギャップが
結城菜々美の際だの魅力なのかもしれないです。
灰色のニーハイを常に着用していて、ららマジの中ではすてきな絶対領域の持ち主であるのも大変素晴らしいですね~♪

フルートの結城菜々美は、チェロの阿達悠花、胡弓の有栖川 翼、グロッケンシュピールの神代 結菜、箏の橋本 ひかりと並ぶ
ららマジ屈指の美少女の一角だと思います~♪
(というか、ららマジに出てくるJCさん・JKさんはみんなとってもかわいいですよね~♪)


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チャイコフスキーのバレエ音楽と言うと、白鳥の湖とくるみ割り人形が抜きん出て有名なのかもしれないですけど、
私自身はチャイコフスキーの三大バレエというといっちば~ん!に大好きなのは「眠れる森の美女」です~♪
後述しますけど「眠りの森の美女」はバレエの上演時間は原作通りの音楽をまともにやると三時間でも終わりそうにも
ないくらいとてつもなく長く、初演時ですら原曲のバレエ音楽を部分的にカットしたくらいあまりにも長くて、
部分的に冗長すぎる場面もあったりしますので、「眠れる森の美女」の音楽をコンパクトにおいしい場面のみをピックアップして
聴きたい場合は組曲版をお楽しみ頂ければと思います。
この組曲版は5曲から構成されていますけど、全ての音楽が素晴らしいです!
特にⅠの序奏とリラの精、Ⅱのバラのアダージョが個人的には大好きですけど、Ⅴのワルツもいかにも「踊りのワルツ」という
雰囲気に溢れていて、あのワルツを聴くとなんだか無性に踊りたくなってしまうのは極めて自然なものがあるのかも
しれないです。

チャイコフスキーのバレエ組曲「眠れる森の美女」 は吹奏楽にもアレンジされていて、全国大会でも何度となく自由曲として
演奏されていますけど、白鳥の湖と違ってこの曲の吹奏楽版の名演はなかなか現れないですね・・
95年の兵庫高校・98年の亜細亜大学・2000年の米沢吹奏楽愛好会の演奏は、組曲版からの抜粋ではなくて
原曲の長大なバレエ音楽からの抜粋という事もあり、音楽上の構成や盛り上がりが一体どこにあるのか・・?という疑問が
私自身の中にも感じる点が多々あり、聴いていてもあまり面白さは感じませんでした。
2000年の全国大会で上野の東京文化会館で聴いた米沢吹奏楽愛好会の演奏は、率直に言うと音楽も音色もサウンドも
ぼやけていて靄が差し込めたような演奏で、生で聴いていた私自身も「この演奏はちょっと・・多分銅賞でしょ・・」と思っていたら
評価はまさかの金賞で「なんという甘い金賞・・この演奏のどこが金賞なのか全く理解できない・・この演奏を金賞にするなら
同じく東北代表の大曲のアンティフォナーレの方がよっぽと金賞に相応しい演奏じゃん・・」と当時はブーたれていたものでした。
組曲版の演奏としては、87年の中村学園の演奏が良い意味でも悪い意味でも印象的です。
結果的にこの演奏は松澤先生にとって最後の中村学園を率いての普門館になりましたけど、まるで1960年代に逆戻り
したかのような音量過剰と中村学園初登場時を思い出させるあのベタベタ演奏は、聴いていても
「これはかなり評価が分かれる演奏で、迫力と大音量が大好きな方にとっては大歓迎の演奏かもしれないけど、
チャイコフスキーらしいファンタジーを求める人にとっては聴いていてあまりにも痛すぎる演奏」と感じたものでした。
実際当時の審査結果もA評価の審査員と最低のEランクの審査員と評価は大きく分かれてしまい、結果的には銅賞という
評価になりましたけど、私自身も「銅賞は仕方ないよね・・」と感じたものでした。やはりあの演奏は今現在の視点で聴いても
特にバラのアダージョの許容範疇を超えた音量のオーバーブローは耳に痛すぎです・・

バレエ「眠れる森の美女」は以前N響でバレエのハイライト版を聴いたことがありますけど、美しくて洗練された音楽
なのですけど、やはり「ちょっといくらなんでも長すぎるし飽きる・・」と感じましたし、チャイコフスキーの元々のバレエの原曲も
3時間を悠に超えるあまりにも冗漫な音楽ですので、やっぱりこのバレエは5曲からなる管弦楽組曲版を聴くのが
無難なのかもしれないです。
(但しバレエとしての本質を知るためには原曲版を聴く必要はあるかとは思います)

そしてこの「眠れる森の美女」にはピアノ連弾版というものも出版されているのですね~♪

チャイコフスキーのバレエ組曲「眠れる森の美女」~Ⅱ.バラのアダージョ Ⅴ.ワルツの二曲のピアノ連弾版が
2014年のアニメ作品ですけど「四月は君の嘘」の第18話「心重ねる」の中でも登場していて、特にワルツの躍動感が
素晴らしくて、あの場面はなんだか無性に踊りたくなったり思わず指揮棒を手にして指揮したくなりそうな楽しい雰囲気に
溢れていたのが大変印象的でした~♪


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「四月は君の嘘」について語りだすと、とてもじゃないですけど一度や二度の記事では終わりそうにもないですので、
ここでは第18話のピアノ連弾についてのみ簡単に触れたいと思います。

音楽学校の胡桃ヶ丘中学校の一年生である凪に「間もなく開催される学園祭に、自分もピアノ連弾という形で
出演させてほしい」と依頼をした有馬公正ですけど、そこに秘められた意図として
「自分の演奏をかをりに届けたい」というものがありました。
一方凪は凪で、ピアニストとしては大先輩でもあり現在は一応はピアノの師匠でもある公正から何かを吸収したいという
想いもありますし、自分の演奏をやはりピアニストでもある兄に聴いてほしいし、現在はスランプ状態に陥っている兄に
何かを伝えたいという意図もあったと思います。
想いを胸に二人はステージに上がります。演奏自体は無難に練習通りスタートします。
しかし主に伴奏とリズムと副旋律を担当するサブであるはずの公生は練習時とはうって変わり、
異常に早いテンポと張りつめた雰囲気の演奏をわざと意図的に仕掛けてきて凪にプレッシャーをかけてきます。
しかし凪も負けてはいません!
公生に負けじと喰らいつき、壮絶な演奏がライブ感覚で展開されていきます。

凪 : (何考えてんのよ?サポートのあんたが何で私にがんがんプレッシャーかけてくんのよ!)

凪 : (嘘つき 詐欺師 バカ。練習と全然違うじゃん!リズムもひりつくような雰囲気も何もかも!)

凪 : (私はみんなみたいにプロになる憧れも音楽に全てを捧げる覚悟もないけど)
     (聞いてくれる人たちがいる。聞かせたい人たちがいる)

凪 : (弾く理由なんて今はそれでいいじゃん)

アニメ版の凪と公正のピアノ連弾は聴いているだけで楽しさ・躍動感・音楽の喜びが伝わってきました~♪
練習とは全然異なるテンポ設定や解釈をあえて本番にぶっつけ本番的に仕掛けてくる指揮者・ピアニストもいますし、
そうしたある意味極限状態の時こそ、指揮者もソリストも管弦楽の団員も一人一人に対して「極限状態での人の本能」が
出てくるのかもしれないですし、音楽家の生き様や個性が如実に表れていくものなのかもしれないです。
例えば、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番のアバド指揮・アルゲリッチがピアノソリストのライブ演奏においては、
指揮者もソリストも「やられたらやりかえす!」みたいな一触即発の音楽としてのバトルが展開されていき、とんでもない
劇的な迫力と気迫を生み出していますし、あの演奏は本来三楽章構成で35~38分程度掛かる演奏時間をなんと
30分を切ってしまう超絶スビートで駆け抜けていったりしたものでした!

凪と公正の眠れる森の美女のピアノ連弾もそうした音楽としての一触即発といった危険性をはらみながらも、その危険性が
「のびのびと自由に楽しく演奏している」という作用にいったのがよかったと思いますし、あのピアノ連弾は
聴いていてもわくわくさせられるものがありました~♪

ただ、指揮者とソリストが暴走してしまい取り残される形になったオーケストラの奏者たちにとってはたまったもんじゃない・・
という感じにはなりそうです。
プロの管弦楽団の演奏会の協奏曲の演奏において、聴衆からのウケは大変いいのに、演奏終了後になぜか醒めて
しらけ切っているバックの団員たちの姿が見られるのは、本番前の練習とは異なる演奏をした指揮者とソリストに対する
ささやかな抗議なのかもしれないです・・

さてさて、公正が本番中に仕掛けた理由というものは別にあったりもします・・

それはこの文化祭でのライブ配信を聴いているはずの、現在は病床にいるかをりに凪と公正のピアノ連弾をあえて
聴かせることで、病状の悪化により大好きなヴァイオリンを弾くことすらままならないかをりに再度音楽をあきらめないで
ほしいというメッセージを伝えるためでもありました。

このピアノ連弾後の病院でのかをりと公正の二人の会話も大変印象的です。

かをり : バイオリンの弾けないバイオリニストにこんなの聞かせるなんて

公正 : 未練が生まれたのは君のせいだ

公正 : だからもう一度チャンスを下さい。君と肩を並べるチャンスを下さい

公正 : もう一度僕と一緒に弾いてください

かをりの心の声 : (君はまた枯れた心に水をくれるのね)

「四月は君の嘘」はあまりにも哀しくてせつない話であり、かをりは結局は道半ばでわずか15歳の早すぎる死を迎え、
見ているだけでいたたまれない作品でもありますし、序盤の公正のぐすぐずぶりや、
かをりのあまりにも自由奔放すぎる言動や、公正とは隣の家同士の幼馴染であり、弟のような存在だった公生に対し、
次第に特別な感情を抱きはじめる椿の揺れ動く乙女心のいたたまれない甘酸っぱさなど、
正直2014年にこの作品を見ていた際は何度も何度も「もう視聴するのやめよう・・」と思っていたほどですけど、
第18話「心重ねる」の凪と公正のピアノ連弾があまりにも素晴らしかったもので、結局最終回まで視聴してしまった
ほどでもありました!


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改めてですけど「四月は君の嘘」について簡単に触れさせて頂きたいと思います。

「世界的なピアニストになるのが夢」だった母親の意志を継ぎ幼少期からピアノを始め、数々のコンクールで優勝するほどの
腕前をもっていた公生でしたけど、その母親のあまりにも厳しすぎる指導に音楽そのものに抵抗感を感じ始め、
自らの死期が近いと悟っていた母親の指導がむしろ虐待にすら近くなっていた頃のある日のコンクールで公正はついに
爆発してしまい「自分はお母さんに褒められたい一心で演奏していたんだ・・それなのに・・
お前なんか今すぐ死んでしまえばいいんだ!」と母親に生まれて初めて反抗をしてしまいます。
そしてその数日後に母親はこの世を去ります。
この出来事は公正にとって大きなトラウマになってしまい、ピアノの音が聞こえなくなってしまい、
それ以降コンクールはおろかピアノからも遠ざかっていきました。

そうしたとある春のある日に公正はヴァイオリニストの中学生のかをりに出会います。
公生にかをりは、ピアノから逃げているだけだと指摘し、自分のヴァイオリン演奏を観てもらったり、
コンクールに出場する機会を与えるなどしてなんとか公生にもう一度ピアノを弾いてもらおうと画策します。
そんな一生懸命なかをりに公生は次第に惹かれていきます。

かをりが公生に近づいたのは自身の病気が原因でした。自身の命が残り少ないことを知り、
やりたい事を実践しようと公生に近づき、ピアノを弾いてもらおうとしたのです。
物語が進むにつれかをりの病状も悪化していき、ヴァイオリン演奏語に倒れて再入院してしまいます。

そうした中でかをりが耳にしたのが上記の凪と公正のピアノ連弾でした。

その演奏が大きなきっかけともなり、かをりは自身の病気に諦めず治療のため手術を行うことを決意します。
公生は手術の日と同日にあるコンクールに意を決して出場し、
公生は母親とのトラウマから解放され見事演奏は成功し拍手喝采を浴びます。

しかしその手術の最中にかをりは帰らぬ人になってしまいます。

かをりを苦しめ命を奪った病気の正体は最後まで明かされませんでしたけど、おそらくは白血病と推察されます。

亡くなってしまったかをりですが、生前に公生宛の手紙を書いていました。そこにはかをりの今までの想いが綴られていました。

かをりは最初、公正の友人の渡が好きで協力して欲しいと公生に近づきました。
しかしそれは嘘であり、元々小学校の頃からコンクールなどで公生の存在を知っていたかをりは、
最初から渡ではなく公生のことが好きだったのです。
かをりは元々ピアノを演奏していましたが、公生にピアノ伴奏をしてもらい共にステージに立ちたいという理由で、
ヴァイオリニストに転向していたという過去がありました。

手紙には昔偶然一緒になった写真が同封されており、この写真を大事にしていたという事から、
かをりがいかに公生の事を思っていたのかが分かります。
とにかくせつなくて特に序盤の母親からの呪縛や最終回でのかをりの手紙のシーンなどは涙なしにはみられない
作品だと思います。


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凪はとってもかわいいですね~♪

ちょっとツンデレ風でもありますし、金髪ツインテもとてもかわいかったです!

「四月は君の嘘」の登場人物たちはみんな見ているだけでつらそうな設定のオンパレードですけど、凪の存在によって
だいぶ救われていたようにも感じられそうです。

バレエ「眠れる森の美女」はとてつもなく長くて、現在でも完全ノーカット版で上演される事はあまりないように思います。
各バレエ団の解釈&演出によって部分的なカット&編集がなされています。
ディアギレフがこのバレエを上演しようと企画した際は、そのあまりの長さを懸念し全幕のハイライトシーンをうまく集めた
一幕もののバレエとして企画しタイトルも「オーロラ姫の結婚」というタイトルに変更されていたりもします。

このバレエは、かなりメジャーですのでストーリーも結構知られてはいると思いますし、ディズニー映画としても親しまれていると
思います。

一応簡単に記しておくと・・・・

ある王様の、誕生したばかりの娘の命名式の際に、自分がその式に呼ばれていなかったことに立腹した
悪の精・カラボックスから「姫はやがて糸紡ぎの針を指に刺して死ぬ」と呪いをかけられてしまいますが、
善の精・リラが魔法の杖を持って現れ「カラボックスの呪いを解くことは出来ないが、指刺す事で百年の眠りについてしまう。
だけど一人の王子の愛のキスによって眠りから目覚める」と宣言されます。
そして100年後にすてきな出会いが待ち受けているといったのが大まかな概要です。

このバレエは前述の通りあまりにも長いため、音楽として演奏される場合は、演奏会用組曲版として演奏される事が多いです。

この組曲版は下記の5曲から構成されています。

Ⅰ.序奏とリラの精

Ⅱ.バラのアダージョ

Ⅲ.長靴をはいたネコと白いネコ

Ⅳ.パノラマ

Ⅴ.ワルツ

音楽としての密度は大変濃いと思いますし、特にラストのワルツが素晴らしいと思います。
Ⅰにおいては、冒頭が全楽器と太鼓関係の強打から開始されていきますが、そのクライマックスの場面では、
全楽器が咆哮し、ティンパニ+大太鼓がズドーンと叩き付け、シンバルがソロでガシャーンと鳴り
ドラが凄まじい大音響でドワワワワー―――ンと鳴り響かせています。
Ⅱも大体Ⅰと似たような音楽なのですけど、
Ⅱの場合、最初は弱奏でから開始し、徐々に音量が盛り上がっていき
最後はすさまじい大音量で閉じられます。
Ⅱのpp~fffに至る音楽的ダイナミックスレンジは相当幅広いものがありますね。
Ⅲは、オーボエのつぶやくような感じから開始されていきますが、何となくユーモラスな雰囲気もあったりします。
Ⅳのファンタジー感は素晴らしいですし、うっとりとさせられます。
Ⅴのワルツは、いかにもバレエの大団円みたいな雰囲気の音楽ですね。
個人的にはファゴットの音階を上下していくユニゾンがとても大好きです。

そうそう、これはかなり有名な話ですからご存知の人も多いかとは思いますが、
チャイコフスキーの代名詞とも言えるバレエ音楽「白鳥の湖」は初演は、惨憺たる大失敗に終わっています。
今現在の感覚でこのあまりにも素晴らしい数々のメロディーとかあの優雅な踊り、ドラマティックなストーリーを考えると
「どこに失敗する要素があるのかな?」と感じるのですけど、
白鳥の湖以前のバレエと言うものは「踊り」がメインで、音楽はあくまで添え物という感覚が大変強く、
当時は振付師とか演出家の命令によって作曲家がせっかく作り上げた曲そのものを
カットしたりメロディーラインを変更させられたり、他の曲に差し替えられるというのはかなりの日常茶飯事だったようですね。
それに対してチャイコフスキーはそうした当時のバレエ界の「音楽家冷淡な扱い」という事に異議を唱え、
当時としてはあまりにも革新的な音楽を作り上げたものの、肝心の振付がそうした新しい音楽に付いていけず
新しい感覚の音楽と古い時代の舞踏という大変なギャップが初演の大失敗という事に繋がっていったようです。
その体験からチャイコフスキーはバレエ音楽から足を洗い、この分野での曲は書こうとはしなくなるのでした。
数年後再度バレエ音楽の依頼が舞い込み、当初は頑なに拒否したものの、依頼者の熱い気持ちについつ負けてしまい、
「それならば・・」と思って作られたのがこの「眠れる森の美女」なのです。
チャイコフスキーとしては「白鳥の湖のリベンジ」といった気持ちも多少はあったのかもしれないです。

チャイコフスキーは意外と初演はコケるみたいな雰囲気もあり、白鳥の湖以外でも
例えば、交響曲第5番とかヴァイオリン協奏曲やビアノ協奏曲などは初演は惨憺たる失敗というのも今現在では
信じられないものがありそうです。


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ここから下記はほんのすこしだけ余談です。

当ブログでもたまに2018年の秋アニメの「色づく世界の明日から」について触れさせていただいておりますけど、
その第一話のエンディングシーンにて、くるくると舞うような感じになっている瞳美を見ていた際に、思わず
思い出してしまったのが冒頭の「四月は君の嘘」の第18話の凪と公正のピアノ連弾による「眠れる森の美女」のワルツの
場面でした~♪

あの時の瞳美ちゃんは、眠れる森の美女のヒロインのオーロラ姫に近いようでもあり、あのくるくると待っている様子は
ワルツを踊っているようでもありました~♪

「色が見えない」という事でモノログの世界の中にいる瞳美ちゃんがなぜか葵唯翔の描く絵だけは
カラーに見えるというのもすてきなファンタジーがあると思います。
瞳美がどうしてあの時、ワルツを踊るかのようにクルクル舞っていたのかというと、翔の描く絵を見た際に
久しぶりに色の感覚を取り戻し、モノクロの世界からカラーの色彩の世界を瞬間的に楽しめることができて思わず
小躍りしてしまったということなのだと思います。


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ここから下記はdream fantasy2
アミグリさんが過去に描かれた絵の転載&ご紹介コーナーです。

今回ご紹介させて頂く絵は「色づく世界の明日から」のヒロインの月白瞳美ちゃんです。

アミグリさんの描かれる月白瞳美ちゃんは、とても繊細で神秘的な印象を与える美少女のように感じられます!

まるで東方のさとり様のようにどことなく心、ここにあらずのようなもの寂しげな様子が伝わってきますし、
瞳美が今にも感極まって泣き出しそうな感じさえする「儚くてせつなくて、まるで砂糖菓子のように
ちょっと触れただけで壊れそう・・」といったとてつもなく繊細なものがとてもよく伝わっていると思います。

髪の繊細な描かれ方も素晴らしいですし、
左耳のアズライトの耳飾りも神秘的な雰囲気を高めているようにも感じられます。
ちなみにアミグリさんが描かれた瞳美ちゃんの制服は、2018年時点での南ヶ丘高校の制服ではなくて、
2078年時点の南ヶ丘高校の制服でもあったりします。
同じブレザー制服も祖母の琥珀が着るとやんちゃな雰囲気もあるけど、一応は孫の瞳美ちゃんが着ると
繊細なJKさんという印象を受けたりもします。
(60年後のおばあちゃんになっていた琥珀はいかにも落ち着いた雰囲気の女性になっています・・)
この寂しそうな視線を見るとなんだか見ている私までもがせつなくて甘酸っぱい気持ちにもなったりしますし、
こうやってたった一枚の絵なのですけど、見ている人に色々な感情をきちんと伝えることができている作品を拝見させて
頂くと本当に心の底から内省的な充実感を感じたりもします。

上記のアミグリさんが描かれた瞳美ちゃんは、その権利は全てこの瞳美の絵師様であるアミグリさんに帰するものであり、
当ブログにおける転載とご紹介は事前に全てアミグリさんからご了解を頂いたものであり、
アミグリさんからのご厚意で転載をさせて頂いておりますので、
無断お持ち帰りや無断コピーは絶対NGですので くれぐれも宜しくお願い申し上げます。

アミグリさん、本当にいつもすてきなイラストの転載を快諾して頂きありがとうございます!!

皆様の中で「こんなにもせつなそうな瞳美を描く人のブログってどんなもんなのだろ・・? 」などと興味がある方は、
是非是非アミグリさんのブログdream fantasy2  を ご覧になって頂きたいと思いますし、 宜しければ、当ブログだけではなくて、
是非アミグリさんの本家本元のブログdream fantasy2 に一度お越しして頂けると
アミグリさんのブログをご紹介させて頂いている私もとってもとっても嬉しいです!

アミグリさんが定期的に作品を投稿され続けている →アミグリさんのpixiv にも是非一度足を運んで頂ければ幸いです!

アミグリさんのpixiv
M.イッポリトフ=イヴァーノフの組曲「コーカサスの風景」は、第Ⅳ曲「酋長の行列」はそこそこ有名なのかも
しれないですけど、それ以外の三つの楽章はあまり知られていないと思います。
イッポリトフ=イヴァーノフの組曲「コーカサスの風景」以外に作曲した曲は調べてみるといろいろとあるようですけど、
私自身はコーカサスの風景以外は聴いたことがないです。というかこの組曲自体、全曲が日本のプロのオーケストラの
演奏会で演奏されたことは私自身は聴いたことがないです。
(稀に「酋長の行列」がファミリーコンサートで演奏されることもあるようです)
音楽史的には典型的な「一発屋作曲家」なのかもしれないですけど、後世に受け継がれていく曲を何か一つだけでも
残せたことは作曲者冥利に尽きるのかもしれないです。
ちなみにイッポリトフ=イヴァーノフ はリムスキー・コルサコフの弟子で、1935年まで存命でしたので、
ロシア革命・スターリンの独裁など色々大変な時代を生きていたと思いますが、どちらかというとロシア5人組といった
伝統的なスタイルを継承されていた作曲家&音楽教育家という印象もあります。

組曲「コーカサスの風景」の中の「酋長の行列」は、子供の頃に実家のレコードボックスの中に
「オーマンディ指揮/フィラデルフィア管弦楽団 世界名曲ライブラリー」といったタイトルで
ハンガリー舞曲とか、アルルの女のファランドールの踊りとかフィンランディアとかスケターズワルツとか
ペルシャの市場にて等々の世界各国の小品名曲が収録されているレコードがあり、
「酋長の行列」は、このレコードの中に収録され、子供の頃からこの曲は耳に慣れ親しんでいたような印象もあります。

「酋長」というと、何となくアメリカのインディアンの部族長とか、頭の飾りがすごい部族の親方みたいなイメージがあるのですが、
イヴァーノフの曲のおかげて、私的には酋長というと、アメリカ西部劇のインディアンの部族長というよりも
中央アジアの騎馬民族の親方みたいなイメージの方が強かったです。
ちなみにですけど、イヴァーノフが意識した酋長というのは、中近東諸国の軍総司令官を指すとの事です。

イッポリトフ=イヴァーノフの組曲「コーカサスの風景」 は下記の4曲から構成されています。
演奏時間は大体23~25分くらいですけど、第一楽章だけで10分程度を要し、組曲としてのバランスはちょっと悪いです。

Ⅰ.峡谷にて

Ⅱ.村にて

Ⅲ.モスクにて

Ⅳ.酋長の行列

Ⅰの峡谷にては、大峡谷の雄大な自然の様子が描かれていて、冒頭のホルンが峡谷に響く郵便馬車のラッパのこだまを表し、
弦楽器によるひそやかな響きは小川のせせらぎを感じさせています。
クラリネットで奏でられる民謡風の主題はのどかで平和な雰囲気を感じさせてくれています。
Ⅱの村にては、エキゾチックでミステリアスな雰囲気を漂わせていて、東洋風の音楽というよりは中近東の雰囲気を
感じさせてくれています。コールアングレによる神秘的な響きも大変印象的です。
Ⅲのモスクにては、イスラム寺院での人々の祈りを表現していて、この楽章は木管楽器、ホルンとティンパニだけで演奏され、
弦楽器は使用されません。実質吹奏楽の響きですけど、雰囲気は華やかさよりは祈りの厳かな雰囲気の方が
強いです。オーボエに始まり、楽器を変えながら一つのメロディが単純に繰り返される単調な曲想ですけど、
単純だけでは割り切れない純朴な祈りの素朴さを強く感じます。
そして第Ⅳ曲が酋長の行列なのですが、この楽章だけは俄然盛り上がります。
メロディーラインが恐ろしいほどに単調で、何のひねりも変化もなく素朴そのものな曲なのですけど、
それがまた「シンプルイズベスト」を立証している感じもします。
全体的にピッコロの響きが極めて印象的で、中央アジア的な響きを感じるのですけど、この響きはどことなく
ボロディンの「ダッタン人の踊り」の雰囲気に近いものもありそうです。
ピッコロとファゴットで奏されるメロディがクラリネットの東洋的なメロディと溶け合い賑やかに曲が閉じられます、
それにしても「酋長の行列」は単調さと素朴さの中でもピッコロの響きがとても耳に焼きつきます!
ピッコロの旋律は思わず口ずさんでしまうほど親しみやすいのですけど、
この執拗で素朴な反復が曲自体の自然な盛り上がりに一役買っていると感じられます。

組曲「コーカサスの風景」は、1990年の黒澤明監督の「夢」において第Ⅱ曲の村にてを使用していたり、
はたまた1996年のコナミのゲームの「セクシーパロディウス」最終ステージのBGMとしてⅣの「酋長の行列」が使用されて
いたりもします。
この組曲が作曲されたのは1894年ですけど、当時は既にドビュッシーのような印象派の新しい音楽が登場していたり、
マーラーが交響曲第3番「夏の朝の夢」で100分を超える曲が作られていたり、
R・シュトラウスのような構築美のような音楽が世界各地で作られている中で、こうした素朴な曲が
ひっそりと作られていた事も興味深いものもあります、

組曲「コーカサスの風景」をCDまたはレコードで聴く場合、昔ならばフェドセーエフ指揮/モスクワ放送響の演奏が素晴らしく、
最近ですとグルシェンコ指揮/BBCフィルの素晴らしい演奏が出ています。

全日本吹奏楽コンクールにおいて組曲「コーカサスの風景」は2019年末時点でこれまで全国大会で3回演奏されています。
1997年頃の中学の部で、宮崎県の赤江東中学校がⅠとⅣの組合せで金賞を受賞しています。
97年の演奏は私も普門館で聴いていましたけど、素朴で中学生らしいのびのびとした演奏で大変好感を持ちましたけど、
曲自体は吹奏楽アレンジ版で聴いても「全体的に同じメロディーの反復が多い単調な曲」という印象はありましたけど、
やはりピッコロの響きが結構耳に残ったりもしたものでした。
赤江東中学校は1995年にマスネの組曲「絵のような風景」で全国大会初出場を果たし、この年の演奏も普門館で
聴きましたけど、演奏がたいへんおとなしく地味で単調で控えめな表現に、ちょっと抵抗感がありましたけど、2年後の
普門館は95年の消極性を払拭したのびやかさが感じられ、改めてスクールバンドの短期間の成長を実感させたられた
ものでした。

マニアックなネタですけど、この曲の全国大会初演は大変古くて、1964年の富士製鉄室蘭吹奏楽団の演奏が
吹奏楽コンクールでの初演でもあったりします。





組曲「コーカサスの風景」の酋長の行列のピッコロの東洋風な響きは大変印象的ですけど、
「ららマジ」でのピッコロ奏者はうざかわいい先輩の小田桐アミです~♪

小田切アミはピッコロを担当している3年生のJKさんで、ららマジ器楽部内ではダンサーも兼任しています。

アミは入部当初はシンバル担当だったものの、シンバルは普段はヒマだけど、
曲によってはシンバルの一つのバシャーン!という打撃音の効果で曲の雰囲気を劇的に一変させる事も多々あり、
しかもそれは曲の途中で・・という事で曲の開始から自分の出番がくるまでのあの独特なプレッシャーに耐えきれず、
担当楽器を途中からピッコロに変え、シンバルの後任として自分の後輩でもあり弟子でもある伊藤萌に引き継がせています。

小田桐アミはとにかくおしゃべり大好きのJKさんで、部内では一つのトラブルメーカーみたいな位置づけなのかもしれないです。
あらゆることを楽しむための発想力と行動力は抜群で、常に物事を前向きに楽しもうという発想が行動の基軸となっています。
婿養子の父親以外は家族全員おしゃべりという家庭で生まれ育った事もあり、
周囲からはうざかわいい~♪といわれる事も多いようです。

喜怒哀楽に富み、普段の言動からもかなりの自信家と思われますけど、意外と小心者だったりするなどのギャップも
垣間見せるあたりは萌え要素といえそうですし、最上級生だけどそうは見えない所もポイント高そうですね~♪

髪型は黒髪ツインテールで、制服は上着なし、ネクタイはリボンにアレンジしていて、
ふともも側に赤い二本線の入ったニーハイを着用していたりもします。

小田桐アミの奏でるピッコロによる「酋長の行列」の素朴な味合いも聴いてみたいものですね~♪


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ららマジ器楽部30人のメンバーの中で、トロンボーン奏者兼コンサートマスターの地位にいるのが3年生のお姉さまの
星崎梨花です。

担当楽器はトロンボーンで、器楽部のコンミスを務める完璧超人で、器楽部創立メンバーの一人であったりもします。
武器のトロンボーン型の槍は突いたり切りつけたりするだけでなく小規模な爆風を放つこともできるそうです。

上記の小田桐アミと星崎梨花は同学年で共にららマジ器楽部の創立メンバーであるのですけど、この二人は
考え方も行動様式も極めて対照的というのが大変興味深い所でもあります。


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ららマジは、今年・・2020年がゲーム配信開始から3周年という事で、記念グッズが色々と販売されていて、
3周年記念グッズイラストも取り扱いがされていて、その一つが上記の梨花とアミの二人のイラストです。
そしてこの二人のイラストは何やら喧嘩をしているような感じというのも何かと妄想し甲斐があるようなネタ満載
なのかもしれないです。

アミと梨花は、性格も見た目も考え方も水と油なのかもしれないですし、
アミは音楽を楽しみながらみんなで作り上げていこうという感覚なのかもしれないですし、梨花は指揮者の統率の下、
個と全体の調和を図りながら一つの方針の下に音楽に取り組んでいくという事なのかもしれないです。

言い争いをしているようなアミと梨花は、アミが手にしている楽器が現在のピッコロではなくてシンバルであることを
考えると、ららマジ器楽部創設間もない頃の話で共にまだ1年生の頃の話で、
お互いが相互理解を図れていない頃の話なのかもしれないです。
アミは普段の言動的にふざけているように見えがちなJKさんですが、「楽しく音楽をやりたい」という気持ちは真剣そのもので、
そうした真剣さというのは梨花ともどこかでつながるものはあるのかもしれないです。

そうした二人の心の交流というのが魔法少女服を手に入れた後の二人のきずなの強さにもつながるのかもしれないです。
「人の死」というものを意識させるクラシック音楽は、例えばマーラーの交響曲第9番とかチャイコフスキーの
交響曲第6番「悲愴」やワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」の「神々のたそがれ」~ジークフリートの葬送行進曲や
R.シュトラウスの交響詩「死と変容」などのように古今東西かなりあると思いますし、
そうした「死」の表現としての楽器としては、
悲愴の第四楽章で「死」の象徴としてのドラが静かに不気味に鳴り響くこともありますし、
マーラーの交響曲第6番「悲劇的」~第四楽章のように、ハンマーが「打倒された英雄の死」を視覚的にも聴覚的にも絶大な
インパクトを残す事例もあったりします。

そうした死をモチーフにした管弦楽作品の中でも異彩を放ち、その死のオーケストレーションの巧みさが光る楽曲として
ベルリオーズの幻想交響曲~Ⅳ.断頭台への行進とR.シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
を挙げたいと思います。
この両曲に共通する点として大変興味深いのは、どちらの作品も曲の主人公が死刑に処せられ、その処刑シーンにおいて
断末魔の叫びをあげている楽器として使用されているのがクラリネットである事です。

よく言われる事ですが、ベルリオーズの「幻想交響曲」は音楽史を語る上では、途方もない奇跡的な曲だと感じます。

ベートーヴェン大先生が亡くなって、古典形式が主流の中、そのわずか3年後に幻想交響曲という
現在聴いても先進的な曲が生まれている訳ですのです本当に奇跡としかいいようがないと思います。

ベートーヴェンの時代、和音美とか形式美とか定められた形が尊重されていたと思いますが、
ベルリオーズの幻想の場合、 「自分の感じたままに書く!!それの何が悪い」という感じに形式を超越し、
和音的にも奇怪な響きや不協和音が結構至る所に炸裂しています。
ベルリオーズ以前にも、ベートーヴェンの交響曲第六番「田園」にみられるような標題音楽は色々ありましたが、
自分の妄想や欲望、自己顕示欲をグロテスクなまでに自分の交響曲に取り入れたのは
ベルリオーズが第1号といっても差し支えはないと思います。

この交響曲はあるゆる意味でいろいろと時代を先取りしていると思います。

幻想交響曲~Ⅳ.断頭台への行進は、主人公が夢の中で一方的に恋焦がれ片思いをしていた女性に対して、
嫉妬と独占欲と方向性を間違えた情熱の結果、ついに殺人を犯してしまい、裁判の結果死刑を宣告され、
断頭台へと引きずられていく場面のグロテスクな死への行進といったシーンが描かれていますけど、この楽章の最後で、
幻想交響曲全体を貫いている「恋人の主題」がクラリネットソロによる絶叫音として壮絶に表現されていて、
この絶叫音というものは換言すると「生きることへの執着と未練」を示唆しているのかもしれないです。
だけどこうした生きることへの未練は次の瞬間にオーケストラが狂暴にffで「ギロチンの落下」を表現し、その次の
弦楽器によるピッチカートは首が切り落され、ゴロリと地面に落ちた瞬間がとんでもなくグロテスクに描かれています。
当ブログで何度か、私自身大学での吹奏楽団にて初めて吹奏楽コンクールに出場した時の自由曲が
幻想交響曲~Ⅴ.魔女の夜宴-魔女のロンドと記しましたけど、この年の定期演奏会でも、第五楽章と合わせて
第四楽章の「断頭台への行進」も演奏しましたけど、その際に指揮者から何度も
「この音の場面はギロチンの刃が落ちる瞬間のリアルな描写であり、その次のピッチカート部分は首が斬首されてゴロリと
地面に落ちる瞬間をリアルに描いたもの」と説明され、
「フランス革命で斬首されたマリー・アントワネットの気持ちになって各自の気持ちを表現しなさい」と指揮者から無茶ぶり
されたものですけど、あのピッチカートの部分は実際に演奏してみると、
「あー、これは命が絶たれた瞬間なんだな・・」と実感させられたものです。
そして次の瞬間に二台のスネアドラムによるすさまじいロールが展開され、金管楽器が咆哮するのですけど、あの悪趣味は
さすがベルリオーズの常軌を逸した偏狭ぶりをまざまざと感じたものでした。

参考までにプーランクの歌劇「カルメン会修道女の対話」第三幕第四場においても、そうしたグロテスクなギロチンによる
処刑シーンが描写されています。

R.シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」のラストにおいてもこうした処刑シーンが
音楽として表現されています。

「ティル・オイレンシュピーゲル」というのは、14世紀頃のドイツに実在したとも言われるし単なる架空の人物とも
言われる事もあるその正体については定かでない伝説の奇人なのですけど、
その生涯の数奇な伝説を音楽の物語として「交響詩」という形で単一楽章として18分前後の曲として発表したのが
R.シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」という曲です。

ティル・オイレンシュピゲールは果たして何をやらかしたのかというと、少し性質が悪いとかちょっとやり過ぎみたいな感じも
あるのですけど、全体的にはたわいもない騒ぎと言えそうです。

具体的には・・

1.市場で牛馬を解き放ち、市場を大混乱に陥れる。

2.空飛ぶ靴でトンズラを図る

3.お坊さんの姿に化けてテキトーでいい加減な説法をして廻る。

4.美女を口説くがあっさりと振られる・・・

5.学者たちにテキトー論争を吹っかけ、学者たちを煙に巻きそのまま逃走・・・

そうやって各地をいたずら放浪して散々悪態ついたところで逮捕され、裁判に掛けられ、絞首刑の判決が下り、
そのまま息絶えるといったストーリーを大変巧みな構成力&楽器配分で表現したのがこの交響詩です。

この曲の最大の聴かせどころでもあり最難関の部分は、曲開始早々のホルン奏者によるソロだと思います。
以前、NHK交響楽団のホルン奏者へのインタビューの中で、
「今まで吹いた曲の中で一番プレッシャーが掛った曲は?」という質問と
「今まで吹いた曲の中で技術的に大変しんどくて難しかった曲は・・?」という質問に対して、
このR.シュトラウスのティルを挙げていたのは大変印象的ですし、逆にそれだけ奏者にとっても大変な曲だと思います。
この交響詩が作曲された頃に、 それまでの手締め式ではなくてペダルを足で踏む事で音程をコントロールする
ペダル式ティンパニが発明され世に出ていますけど、
そうしたペダルティンパニを最初に効果的に使用した曲の一つとして
この交響詩や同じくR.シュトラウスの歌劇「エレクトラ」・「バラの騎士」を指摘する見解が多いようです。

さてさて絞首刑判決後に、ベルリオーズの断頭台への行進と同様に公衆の目の前で公開処刑されたティルですけど、
その処刑時のティルの悲鳴というか絶叫音はまたまたクラリネットで表現されています。
クラリネットの吹奏楽コンクールにおけるリードミスの絶叫音は奏者にとっても聴衆にとっても痛い事故なのですけど、
ティルのクラリネットの表現による絶叫音というものは、ティルの後悔とクラリネット奏者のリードミスの怨念が
融合したものなのかもしれないですし、そうしたヒステリックな絶叫音にぴったりと楽器というのは、やはりピッコロよりは
クラリネットによる高音の表現のほうがぴったりなのかもしれないです。
処刑シーンのクラリネットによるティルの断末魔の叫びは計3回奏でられるのですけど、1回目から徐々に音量をpからfへと
上げていき、最後の三回目に至ってはオクターブを高くし、「息絶えた・・」ということを見事に音楽物語として表現していると
思います。
クラリネットのティルの悲鳴を示唆する高音の叫び声は、クラリネットの音域の限界を超えた超高音域のものであり、
クラリネット奏者にとっては無茶振りを超えた作曲者からの死刑宣告なのかもしれないです。

曲のラストでは、冒頭の親しみやすく温和なメロディーが再現されていて、
「ティルは確かに死んだけど、ティルのイタズラ魂は今でも生きている」とか
「ティルは永遠に不滅ですよ、みなさんの心の中に伝説として今後も生き続けていく」みたいな事を暗示しているようにも
感じられたりもします。




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ららマジ器楽部でクラリネットを担当しているのは、後輩にも自分にも厳しい先輩の綾瀬凛ですけど、
断頭台への行進とかティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずらの断末魔のクラリネットによる絶叫音は
綾瀬凛が奏でられたとたら、結構ツボにはいるのかもしれないですね~(♪
怒っている綾瀬凛はいつもの綾瀬凛なのかもしれないですけど、一緒に断頭台の行進などを練習していて
「一体いつになったらまともに吹けるのよ~!」と激怒されているのかもしれないですし、はたまた綾瀬凛自身が
クラリネットのパート譜を見て
「こんな大変な曲まともに吹ける訳ないじゃん!」とご機嫌ナナメになっている時なのかもしれないですし、
いたずらばかりやらかしているティルに対して「ちょっといい加減にしなさいよ~」とまたまた怒られている時なのかも
しれないです。

こうした断末魔の叫びを奏でている綾瀬凛は、東方で例えると地獄の閻魔様の四季映姫様による地獄のお裁きで
「断罪~!!」とか「地獄行き!」の判決を下している時の雰囲気にも似ていそうです。
一つ後の記事がH.ベルリオーズの「幻想交響曲」~Ⅳ.断頭台への行進に関する記事でもありますので、本記事では
幻想交響曲の続編とも言うべき知る人ぞ知る・・というかほとんど演奏もされませんし録音も限られている
「レリオ、生への回帰」に関して少しばかり触れさせて頂きたいと思います。

それにしても改めてですけど「幻想交響曲」の革新性は凄い・・としか言いようがないと思います。
どの点がすごいのかについては一つ後の記事で触れていますので、ここでは割愛させて頂きますけど、
幻想交響曲が作曲された3年前にあの楽聖・ベートーヴェン大先生がご逝去されたという事で、この二人の大作曲家の
活動時期が被っていたとは到底信じられないほど、この二人の作風はあまりにも大胆に異なっていますし、
幻想交響曲を今現在の感覚で聴いても、その革新性と大胆さには驚愕させられるばかりですし、
ベルリオーズの私生活や私情を自作作品に持ち込んだ作風は、むしろ後年のマーラーすらも凌ぐものがあるのかも
しれないです。

チャイコフスキーやフランクというと、循環形式という一つの主題が各楽章に受け継がれていく形式でもお馴染みですけど、
幻想交響曲の場合、曲全体を貫く恋人の主題が各楽章の中で色々変容していっているのが面白い所です。
この恋人の主題は、第四楽章「断頭台への行進」におけるギロチンの刃物が落ちてくる瞬間にも再現されますし、
第五楽章の「魔女の夜宴-魔女のロンド」においては、化け物となった恋人のなれの果てのテーマとして再現されています。

幻想交響曲が作曲されていた頃に使用されていた打楽器は基本的にはティンパニに限られ、
まれにシンバル・大太鼓・トライアングルが入る程度だったのですが、20世紀の打楽器主義を予感させるように、
幻想交響曲においては鐘・小太鼓も使用されていて、ティンパニも第三楽章の嵐の表現では四人の奏者を用いていますし、
第四・第五楽章では常に二人の奏者を用いていますし、第五楽章においては大太鼓も二人の奏者を使っています。
指揮者によっては、第四楽章の小太鼓を二人用いる場合もありますし、
第五楽章の最後のシンバルの打音を二人の奏者を使用する場合もあります。
一つ後の記事でも書いた通り、私自身、吹奏楽コンクールにて幻想交響曲~Ⅴ.魔女の夜宴-魔女のロンドを
演奏したことがありますけど、クラリネットの位置からもティンパニ2台と大太鼓2台の轟音は轟渡ってきていて、
あの迫力は悪趣味で奇怪な響きですけど、打楽器一つとっても時代を先取りした革新性は十分伝わってくるものは
間違いなくあると思います。
第三楽章は、コールアングレとオーボエのソロによる掛け合いが延々と続く訳ですけど、上記で触れた通り最後の方では
ティンパニ奏者を4人も使用し、野原を彷徨う描写の中で、このティンパニは「遠くからの落雷の響き」を演出しています。
一人に付き一台のティンパニーを割り当てていて、A♭・B♭・C・Fの四つの音を4人で叩きだしています。
この場面は音量のダイナミックスレンジも幅広く、pp~fの範囲でクレッシェンド・デクレッシェンドを展開させていて、
指揮者によってはこの場面に関しては、オーボエ奏者を舞台裏に配置させ、舞台裏から吹かせることで
「遠くから響いている・・・」という音の遠近感を演出させている事もあったりします。

冒頭から話がそれました・・話を「レリオ、生への回帰」に戻します。

「幻想交響曲」は姉妹作というか続編みたいな作品が存在し、それが叙情独白劇「レリオ、生への回帰」という作品です。
あまりにも有名な「幻想交響曲」の作品番号が、14-aとなっていますが、
「レリオ、生への回帰」の作品番号は、14-bとなっています。
ベルリオーズ自身は、スコア上で「出来れば幻想交響曲とレリオは続けて演奏される事が望ましい」と指示を出していますが、
実際にこの2曲がセットで続けて演奏される事はまずないと思います。
というか、無いです・・・
ちなみに日本でこの「レリオ、生への回帰」が初演されたのは平成に入ってからであり、
小林研一郎指揮/大阪フィルが多分初演だと思われます。

この「レリオ、生への回帰」は、ヘンというのか、幻想交響曲以上に常軌を逸した作品です。
55分の演奏時間の内、半分以上は、音楽ではなくてベルリオーズ自作のテキスト朗読によって費やされます。
このテキストというのも、ベルリオーズ自身の失恋体験をベースに書かれたものです。
幻想交響曲は、当時の人気女優、ハリエット・スミソンに対する苦しい片思いの恋から作曲されていますけど、
(後に一応この二人はめでたく結ばれます)
レリオ、生への回帰は、ピアニスト、マリーとの婚約解消という大変シビアな体験から生み出されています。

この曲、一度だけ、東京文化会館5階の音楽資料室でレコードを借り、聴いたことがあるのですけど
(ブーレーズ指揮だったような記憶があります)
テキスト朗読は外国語でさっぱり分からないし、印象としては「あまりにも散漫すぎてよくわからない」という感じでした。

幻想交響曲という音楽史に残るメジャーな曲で、現在でもプロの管弦楽団のレパートリーとして定着し続ける曲の
姉妹作というか続編にこんなヘンな曲があるという事実は、
ベルリオーズ自身ももしかしたら過去のこっ恥ずかしい思い出とか若かりし日の駄作という事で、もしかしたら
あまり触れてほしくない作品という扱いなのかもしれないです。

ベルリオーズは、幻想交響曲を含めて、交響曲の分野では、いわゆる古典的形式には全くとらわれない自由な形式の
作品ばかり残しているのは、さすが異端児という感じでもあります。

例えば・・・・

〇交響曲「イタリアのハロルド」 → 交響曲というタイトルですけど、実際はヴィオラ協奏曲という側面もありそうです。

〇劇的交響曲「ロメオとジュリエット」 → 大規模合唱を伴い、実際はカンタータに限りなく近いです。

〇葬送と勝利の交響曲 
 → この作品は吹奏楽のための交響曲であったりもします。オプションとして弦五部を入れることも可能です。
       
レリオ、生への回帰は下記の6曲から構成されています。

第1曲 漁師
第2曲 亡霊の合唱
第3曲 山賊の歌
第4曲 幸福の歌
第5曲 間奏曲
第6曲 嵐による幻想曲

第6曲の開始までは語り手のみが舞台の前に立ち、オーケストラ、独唱者、合唱団は舞台に下ろされたカーテンの裏で演奏をし、
第6曲を演奏する時に初めてカーテンが上げられます。

やはり相当ヘンな曲ですよね~

このヘンな曲は一度だけ、吹奏楽コンクールの自由曲として演奏されています。
1989年の東海大学第一中学校が、この「レリオ、生への回帰」を演奏しているとのことですけど、
一体どの部分をどうやって演奏したのでしょうか・・??
すごく気になりますけど、この年の東海大学第一中学校は東海大会ダメ金で全国に進めず、音源が残っていませんので、
今となっては確認の仕様がないのがちょっともったいないです。
ジュール・マスネというと最も有名な作品というと歌劇「タイス」や歌劇「マノン」や歌劇「ウェルテル」などの他に
組曲「絵のような風景」・組曲「アルザスの風景」などが挙げられると思いますけど、その中でも特に際立って有名なのが
歌劇「タイス」の一場面よりヴァイオリンのソロを伴う「タイスの瞑想曲」といえると思います。
タイスの瞑想曲は多分ですけどタイトルは知らなくてもそのメロディーが流れると多分ほとんどの皆様は
「どこかで聴いた事があるかも・・」とお感じになるのかもしれないです。

私にとってのマスネとは、高校3年の定期演奏会で演奏した曲目の一つでもある組曲「絵のような風景」でもあるのですけど、
後述しますけど、1980年の全日本吹奏楽コンクールで就実高校が演奏していたル・シッドのバレエ音楽の超名演が
とてつもなく強く印象に残っています。

J.マスネの 歌劇「ル・シッド」~バレエ音楽は実は知る人ぞ知る隠れた名作と言っても過言ではありませんし、
情熱的でもあるしロマンチックでもあるしけだるい部分あるし南国の太陽サンサンみたいに眩しい部分もあったりと、
かなり魅力的な曲です。
どうしてこの素晴らしい曲が世間一般にそれ程認知されていないのだろうと勿体無く感じたりもしますし、プロの管弦楽団の
演奏会でも上演曲目としてもっともっと取り上げて欲しい曲の一つでもあります。

歌劇「ル・シッド」はスペインを舞台としていて、そのバレエ音楽とは歌劇「ル・シッド」の第二幕に7曲から構成される
スペイン舞曲の音楽の事です。
マノンとかタイスはどちらかと言うと抒情的な香りが漂う作品なのですけど、ル・シッドは、マスネーにしては珍しく歴史的な
英雄伝の作品であり、そのためル・シッドはどちらかというと男ばかり目立ち、女性があまり出てこないような気もします。

ル・シッドのあらすじを簡単に記してみますと・・

ル・シッドとは君主または征服者」という意味なそうでして、スペインの騎士ロドリーグという11世紀に存在したという実在の人物がモデルになっていてこの歌劇の主人公を務めています。

ロドリーグにはシメーヌという恋人がいるのですが、親同士の権力抗争に巻き込まれ、ロドリーグはシメーヌの父を
決闘の末殺してしまいます。
シメーヌはショックを受け親の仇の憎しみと愛の板挟みで苦しみ、ロドリークを拒絶するようになります。
その後ロドリーグはムーア人との戦いの陣頭指揮を任されて出征します。
ロドリーグは戦死したとの報せが届き、皆落胆するのですが、それは誤報で、敵からもル・シッド=征服者と呼ばれる程の
活躍で勝利し、ロドリーグ達はやがて華やかに凱旋してきます。
人々は歓喜で出迎えますが、シメーヌへの罪の意識から自害しようとします。
国王は裁きをシメーヌに委ねますが、本心はロドリークを愛しているシメーヌはロドリークを赦し、その求愛を受け入れ
ラストはハッピーエンディングで締めくくられます。

ル・シッドにはグランドオペラ」の流儀にのっとって2幕に7曲からなるバレエが入っており、これが歌劇「ル・シッド」のバレエ音楽
と呼ばれる由縁でもあったりします、
同じような作品としては、グノーの歌劇「ファウスト」のバレエ音楽があります。
グノーのファウストのバレエ音楽も吹奏楽コンクールで一時期よく演奏されていたものでした。
(1982年の阪急百貨店と1997年の東京ガスの「ファウスト」のバレエ音楽はとても素晴らしかったです)
ちなみにですけど、2019年末時点で、ル・シッドのバレエ音楽とファウストのバレエ音楽は、吹奏楽コンクール全国大会にて
それぞれ5回ずつ自由曲として演奏をされています。

歌劇「ル・シッド」~バレエ音楽は約20分の演奏時間ですけど、内容が多彩で充実していて飽きることは全く無いです。
マスネーはフランス人なのですけど、音楽はスペインそのものです。
7曲から構成されますが、1・3・5・6・7曲が、いかにもスペインらしい華やかでリズミカルな部分から構成されていて、
2・4曲がけだるさ・抒情的なロマンを演出した部分であり、この対比も極めて鮮やかで面白いです。
特に1.3.6・7曲がそうなのですけど、曲の至る所「カスタネットが効果的に使用されていて、いかにもフラメンコ・闘牛みたいな
雰囲気とノリで華麗にカタカタ鳴らしているのが極めて印象的です。

J.マスネの歌劇「ル・シッド」~バレエ音楽は下記の7曲から構成されています。

Ⅰ.カスティリャーナ

Ⅱ..アンダルーサ

Ⅲ.アラゴネーサ

Ⅳ.オーバード(朝の歌)

Ⅴ..カタルーニャの踊り

Ⅵ.マドレーナの踊り

Ⅶ.ナ・ヴァーラの踊り

Ⅰの冒頭はカスタネットを伴ったインパクトのある演奏で曲は始まります。爽やかなメロディーが奏でられると劇的な演奏が
展開され再び爽やかなメロディーがカスタネットでリズムを取りながら奏でられ、
この繰り返しで曲は進行し最後は華やかで激しく曲は終わります。
Ⅱは静かにひそやかに開始され哀愁溢れた音楽がしっとりと展開されていきます。
Ⅲは明るく元気に非常にリズミカルで親しみ易いメロディーで、この曲でもカスタネットがかなり効果的に使用されています。
音楽の高揚感が実に素晴らしいです。
Ⅲのメロディーはラストの第7曲のナ・ヴァーラの踊りの部分で再現されます。
Ⅳはチャーミングでリズミカルな演奏ですけど、ⅠとⅢに比べるとすこしおとなしめです。最後は派手に終わります。
Ⅴは思わずはっ・・とするような新鮮な管弦楽団の音で始まり、スペイン風のリズムの高揚感としっとりとした響きが
交差します。
この部分は1987年の元吉原中学校の演奏でも選曲されていて、あの柔らかい響きは大変印象的でした。
Ⅵの冒頭のコールアングレとフルートの長い掛け合い的なソロで開始され、ここにハープが美しく絡み、
タンバリンのロールから派手な踊りへの部分へと進展していくのですが、実に情熱的というか、まさにフラメンコの世界です!
この部分のピッコロの使い方が実に巧いと思いますし、リズム感が実にノリノリで、聴く方まで自然に踊りたくなるような音楽が
展開され、ここでもカスタネットのリズミカルな響きは大変素晴らしいです。
ラストの「ナ・ヴァーラの踊り」はまさに圧巻です!
終始リズムに乗って生き生きとした音楽が展開されているのですけど、バックのリズムの打楽器はおそらくはプロヴァンス太鼓と
思われます。
プロヴァンス太鼓はビゼーの「アルルの女」のファランドーレの踊りで使用されていたりもします。
プロヴァンス太鼓はフランスの一種の民族楽器みたいなものですので、モチーフとしてスペイン舞踏を使いながらも
フランス魂は忘れないというマスネの気概なのかもしれないです。
そしてこのナ・ヴァ―ラの踊りにおいて後半のカスタネットの響きは、スペイン音楽というよりもむしろ「ラテンの血が騒ぐ」という
雰囲気すらありそうです。

ル・シッドのバレエ音楽をCDで聴く場合のお勧めの演奏は東芝EMIから出ている、ルイ・フレモー指揮/バーミンガム市響の
演奏が素晴らしいと思います。
カップリングも、マスネの絵のような風景とシャルパンティエの「イタリアの印象」ですので尚更よいです。
フレモーの指揮は一度だけ生演奏で聴いたことがあります。
1997年の日本フィルの演奏会だったのですけど、ラヴェルのピアノ協奏曲にボレロなどといった
フランス音楽系のプログラムでしたけど、とても色彩感溢れる演奏を聴かせてくれて楽しかったです。
フレモーは、ベルリンフィルでお馴染みのサイモン・ラトルが有名になる前に「バーミンガム市交響楽団」で音楽監督を務め、
同響の演奏能力を飛躍的に向上させ、ラトルにバトンタッチさせた事でも知られています。
フレモーは、第二次世界大戦中は、フランスの「レジスタンス闘士」としても大変苦労をされた方との事ですが、
中々気骨がある方なのかもしれませんね。

ここから下記は吹奏楽コンクールの話です。

当プログでは何度も何度も1982年の就実高校の「幻想舞曲集」の素晴らしい名演を語らさせて 頂いているのですけど
80年の「ル・シッド」も勝るとも劣らないとにかく素晴らしい演奏を聴かせてくれています。
私にとっての就実高校というとル・シッドと幻想舞曲が双璧といえそうです。
(81年のアラゴンや村松先生勇退の年の95年のキューバ舞曲も素晴らしい演奏です!)

1980年までの吹奏楽コンクールは中学・高校の部は45名までが上限で、1980年まではピアノ・ハープは使用禁止です。
翌年以降、奏者の上限は50名に増員され、ピアノ・ハーブの使用も可とされます。
そのため1980年の就実高校は45名編成ですし、自由曲の「マドリッドの踊り」のフルートとコールアングレのソロの
掛け合いの部分は原曲通りハープを使用してほしいという感じもあるのですけど、  ハープによる華麗なるグリッサンドみたいな
流れるような装飾音符ではなくて その代わりに、マリンバとヴィヴラフォーンで代用し、洗練さや繊細さには幾分欠ける
感じもなくは無いのですけど、
あまりにもフルートとコールアングレのソロが素晴らしいので、そんなつまらない事はほとんど気にならないです。
そしてこの二つの楽器のかなり長大なソロの部分が終わると大変生き生きとした躍動感あふれる場面へと
切り替わるのですけど、 そのダイナミックスレンジの幅広さは当時の高校の部の中でも超高校級の怒涛の名演だと
感じずにはいられないです。
特に木管楽器の細かい動きがほぼ完璧で、ピッコロの甲高い響きが実によくマッチしていると 思います。
打楽器セクションも大太鼓・シンバルがドスン!と打点がドンピシャですので、 大変心地よく感じます、
マドリッドの踊りの後半のカスタネットの響きが実にリズミカルで気持ちの良い鳴らし方をしているのが大変印象的です。
Ⅶのナ・ヴァ―ラの踊りは圧巻ですし文句のつけようがない演奏です。
厳密に言うとトランペットの破裂音が少し気になるとか、原曲ではプロヴァンス太鼓が入る部分を タンバリンで代用しているとか
細かい事を言うと色々あるかもしれないですけど、正直そうした小さい事はこの圧倒的名演の前では
単なる揚げ足取りなのだと思います。
この第Ⅶ曲ですけど、雰囲気は、まさに南仏の雲一つない青空の下で、楽しげにダンスに興じているという 感じなのですけど、
就実の演奏はまさにそんな感じです!!
とにかく一点の曇りもなく澄み切った爽快さが曲ににじみ出ていると思います。
ラスト近くのカスタネットの響きが実に切れていて、この部分も大変好感が持てます。

こういう素晴らしい演奏が本当にプログラム一番だったなんて今現在の視点では正直考えられないものがあります。
1980年の高校の部の金賞受賞チームのレヴェルは大変な高水準なのですけど、就実の演奏はそれを象徴するものであり、
この年の異常にレヴェルが高い高校の部のトップバッターとして本当に相応しい立派な演奏だったと思います。
プログラム一番というと前年の1979年の私の吹奏楽の「原点」とも言える市立川口高校の
ネリベル/二つの交響的断章も本当に素晴らしい演奏で、
市立川口も就実もどちらも甲乙つけ難いプログラム一番だったと思います。

本当にこの年の就実は素晴らしかったと思います。
課題曲のオーボエ、自由曲のコールアングレに代表されるソロ楽器も素晴らしいし、
全体の高度な技術も素晴らしいし、南国のカラっとした底抜けの明るさを爽やかに表現したその表現力も素晴らしいし
とにかく全部が素晴らしいと思います。





ここから下記はららマジに登場するカスタネット奏者の奥村映について少しばかり記したいと思います。

カスタネットは木製の打楽器で、体鳴楽器に分類される打楽器の一つです。
スペインで特に発達した楽器であり、スペインの民族音楽に欠かすことはできない楽器であり、
スペインの舞踊フラメンコにおいては、今現在も踊り手にとっては必要不可欠な楽器でもあります。
カスタネットの情熱的なリズムの刻みは心地よいですし、あの躍動感は素晴らしいです~♪ あのカタカタと小気味よいリズムを
耳にしただけで既に気分は南欧気分になりそうです。
カスタネットは、手のひらに納まるくらいの丸い貝型の木片を2枚合わせ、これを打ち合わせることによって音を出す楽器
なのですけど、端にひもを通してつなげ、このひもに親指を通して楽器を保持したり2枚の開き具合を調整しますし、
基本的には音程がわずかに異なる二つのカスタネットを右手と左手の両方に持ち、一般的には音程が高い方のカスタネットを
右手に持つことがスタンタードです。

ららマジでカスタネットを担当しているのは奥村映という中性的な雰囲気の高校2年生のJKさんでけど、
カスタネットを使ったフラメンコが特技で、カスタネットの手入れも欠かさず行うとの事です。
ららマジの打楽器パートのトライアングル奏者はかなりの不思議ちゃんの女の子なのですけど、奥村映も少しそうした
不思議ちゃんみたいな雰囲気も無くはなく、どちらかというと男性的でもないし女の子そのものという感じでもないし、
少し不思議な中性的な女の子という印象もあったりします。
少しだけ鈍感な性格というのも、不思議ちゃん系としての浮世離れした性格の為せる業なのかもしれないです。

奥村映の足は黒タイツで包まれていますけど、この黒タイツというのが理系のお姉さんっぽい雰囲気も出しているのかも
しれないです。


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カスタネット担当の奥村映はららマジ屈指の大食いキャラともいえそうですし、
食べるのが大好き~♪というすてきなJKさんであったりもします。

普段もそうですし、カスタネット叩いている時もどちらかというと無表情で中性的な雰囲気を醸し出していますけど、
食べている時は普通の女の子という印象でもありそうです。

少しミステリアスで長髪の美少女がおいしそうに大盛ラーメン食べている姿は「ラーメン大好き小泉さん」と被りそうですね~♪

ラーメン大好きで大食いの女の子は、小泉さんも奥村映も含めて意外と中性的な女の子が多いのかもしれないです。


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ららマジ器楽部のモデル地は東京都東大和市なのですけど、ららマジでは東大和市をモチーフにした東奏市が
舞台となっています。

ららマジにおいて何度か東大和駅をモデルにしたと思われる東奏駅が登場していますけど、ららマジの東奏駅は
とても幻想的で美しいと思います。

ちなみに現実の東大和駅は西武拝島線の東大和市駅の事なのですけど、
東大和市駅 は立川市との境界上にあり、多摩都市モノレール線は東大和市、西武拝島線は立川市となるそうです。
「女子高生の無駄づかい」の聖地である東村山市にある西武多摩湖線の武蔵大和駅は市域に近接していたりもします。



東京MXの深夜アニメの充実は本当に素晴らしいものがありますし、話題作や最新作やちょっとエロ系の深夜アニメが
ここで放映される事が多々ありますし、実は私自身地上波で視聴しているアニメ作品の放映局は、東京MXとテレビ埼玉が
ほとんどです。

さてさて、その東京MXの再放送枠において、本日・・、4月6日より懐かしのアニメ作品の放映が開始されます。

その作品が何かというと、毎週日曜日に放映されていたアニメ・世界名作劇場の中で1979年から一年間放映されていた
「赤毛のアン」です。
赤毛のアンは、初期の頃のアンのとてつもない夢見る少女の脳内妄想の世界やアンのとてつもないおしゃべりに
いささか閉口したものもありましたけど、親友のダイアナのかわいらしさや養父みたいな存在のマシュウの「そうさのう・・」と
いったおっとりとした存在感やアン自身の成長もあり、夢見る少女のすてきな成長がリリカルに描かれていて、
とても好感を感じていたものです。
後にアン自身の伴侶となるギルバードに対して、ギルバートが初期の頃にアンの事をにんじんとバカにした事もあり、
アンがそれに対して怒りを覚え石板をギルバードの頭に叩きつけていたシーンも大変印象的でした!
世界名作劇場というとフランダースの犬・家なき子(母を訪ねて三千里)・あらいぐまラスカルなどが大変印象的ですし、
当時の吹奏楽経験者の皆様の視点で言うと、これらの作品のOPがミュージックエイト等より吹奏楽アレンジ版楽譜として
出版されていて、私自身も中学の頃の文化祭等で、母を訪ねて三千里とかトム・ソーヤの冒険とかペリーヌ物語を
演奏した記憶があります。
大学の吹奏楽団でもなぜかしりませんけど当時の世界名作劇場で放映されていたポリアンナ物語とか若草物語のOPを
演奏していた記憶もあります。
そうした世界名作劇場のOPのアニソンはすてきな名曲が揃っているのですけど、そうした中にあって異彩を放っていたのは
その「赤毛のアン」のOPとEDだったと思います。
赤毛のアンのOPとEDも吹奏楽にアレンジされていてスコアも出ていて、私自身も赤毛のアンのOPのアニソンは
演奏した事はありますけど、吹いていても「あれれ・・? 前作のペリーヌ物語や家なき子の曲の雰囲気とは明らかに一線を
画しているなんだか普通のアニソンとは異なる曲」というのは当時から実はなんとなく感じ取ってはいました。
余談ですけど、ペリーヌ物語のペリーヌはほんとうに素晴らしい美少女さんで、ペリーヌ物語は毎週楽しみに
視聴させて頂いておりました。
ペリーヌ物語の原作は「家なき娘」といって家なき子の姉妹作に近いものがあるのですけど、原作は母親の死の場面から
開始されますが、アニメの上では開始から三か月近くはインドからフランスまでのペリーヌと母親の旅を描いていて、
今にして思うと原作には存在しないアニメオリジナルストーリーといえるのだと思います、

赤毛のアンのOPとEDがそれまでの世界名作劇場のアニソンの作風と少し異なると感じられるのも実は当たり前の話
なのかもしれないです。
だって赤毛のアンのOPやEDを作曲されていたのは、当時は既に邦人クラシック音楽作曲界の大御所にして
桐朋学園大学の学長を務められていた三善晃です!
三善晃というと当ブログでもこれまで何度も何度も秋田南高校・大曲高校・新屋高校・習志野高校・神奈川大学・常総学院等の
名演でお馴染みの「交響三章」の孤高の世界を作曲された偉大な先生とか
吹奏楽コンクールの世界でも深層の祭り、クロス・バイ・マーチといった不朽の名作課題曲を後世に残された事で
その御名前が登場していましたけど、実は「赤毛のアン」のOPやEDの曲も残されていました!

赤毛のアンのアニソンのファンタジー感やアルトサックスのソロの扱いの巧みさは三善晃っぽい感じもありそうです!

赤毛のアンの音楽担当は毛利蔵人なのですけど、毛利蔵人は三善晃の弟子に相当し、三善晃自身が赤毛のアンの
アニメ内のBGM担当作曲家として毛利蔵人を推薦し、結果的に一つのアニメ作品としてクラシック音楽作曲家の師弟コンビが
担当するという凄い結果になりました。

三善晃自身は「赤毛のアン」の中では、オープニングテーマ「きこえるかしら」とエンディングテーマ「さめないゆめ」、
挿入歌「あしたはどんな日」と同じく挿入歌の「森のとびらをあけて」・「花と花とは」を作曲しています。
挿入歌の「涙がこぼれても」と「忘れないで」と「ちょうちょみたいに」は毛利さんの作曲となっています。
1979年当時は既にたくさんの大胆で前衛的な作品を数多く発表されていた三善晃ですけど、「赤毛のアン」においては、
夢見る少女・アンにふさわしいロマンチックなアニソンを書かれています。
子供向けの単純な音楽に終わることはなく、他のアニソンとは一線を画する卓越した手法が用いらていて、
特に衝撃だったのは、アニソンなのにそのOP楽曲においては、小休止をはさんでいたり、アルトサックスという管楽器に
間奏中のソロの役割を与えていたことが挙げられると思います。
当ブログにおいて、私自身10年間の吹奏楽生活において中三の一年間のみアルトサックスを吹いていたと記しましたけど、
そのアルトサックス時代にはいうまでもなく「赤毛のアン」のOPの間奏のアルトサックスのソロを吹きましたけど、
吹いていても「なんという壮大でロマンチックな曲!」と感じていた反面、
従来のアニソンというと例えば宇宙戦艦ヤマトやマジンガーZ等の勇壮なイメージとは全く逆の面も有していて
「なんという個性的な曲!」と感じていたものでした。
但し、当時の私には赤毛のアンの作曲者の三善晃がどういう御方でどれだけ偉大な御方であるかという認識は微塵も
有していなくて、私自身が三善晃の偉大さを初めて知る事になったのは、その2年後の吹奏楽コンクール・東北大会で
大曲高校吹奏楽部が自由曲として演奏していた三善晃の「交響三章」がきっかけでもありました。
(「交響三章」の特に第一・第三楽章における「亡びの美学」のわびさびの響きは何度聴いても飽きることは全く無いです!)

それにしても「きこえるかしら」は今聴いても色褪せない斬新な曲想だと思います。

フランス近代音楽を思わせる色彩的な和声と楽器法もそうですし、現代音楽ではお馴染みであったものの
一般にはなじみが薄いテンプルブロックによるアクセントを意図的に強調していたり、
ピアノとハープ、チェレスタの雰囲気を大切にしていたり、はまた世界名作劇場シリーズとしては初めてアルトサックスを
使用していたりと、只者ではない雰囲気がアニソン一曲からも窺い知る事ができると思います。
EDではチェレスタとピアノの二重協奏曲かと錯覚するほど16分音符がスコアの両パートを埋め尽くしているのも
凄い・・としか言いようがないと思います。

クラシック音楽作曲家がアニソンも手掛けるというのは今現在は珍しくもなんともない話であり、例えば和田薫や
天野正道などでもお馴染みだと思います。
ちなみに天野正道はまだ無名時代に実は映画「うる星やつら1 オンリーユー」の音楽を担当されていますし、
「犬夜叉」の音楽等でもお馴染みの和田薫の奥様は「フレッシュプリキュア」のキュアパインでお馴染みの中川亜希子さんで
あったりもしますルン~♪

三善晃が「赤毛のアン」というアニソンを作曲されていたのも当時は意外だったのかもしれないですけど、私的にもっと
ぴっくりしたのは、三善晃が1988年に全日本吹奏楽コンクールの課題曲を作曲されていた事でもありました!

技術的に難解であると同時に音楽の内容の点で大変優れている課題曲の一つとして
大いに推したい課題曲が三善晃作曲1988年の課題曲A/吹奏楽のための「深層の祭り」です!

最初に三善晃が吹奏楽コンクールの課題曲を書き下ろしたと耳にした際は「え~、すごーい!」と感じたものでした。
(それは間宮芳生も全く同じでした)
三善晃というと1988年時点では既に日本のクラシック音楽作曲家の重鎮の一人であり、とてつもない大物先生であり、
交響三章・響紋・夏の錯乱・レクイエム・協奏的決闘・変容抒情短詩・管弦楽のための協奏曲や数多くの合唱曲を既に
作曲されていて、「そんな恐れ多くてこんなアマチュアを対象にした吹奏楽コンクールの課題曲を委嘱するなんて怖いかも・・」
といった雰囲気もあったと思いますけど、逆に言うとそれだけこの当時の吹奏楽コンクールは既に
大変なレヴェルの高さを有していましたので、こうした大御所の作曲家の先生に課題曲作品を委嘱しても
全然問題ないという感じだったのかもしれないです。

それにしてもこの吹奏楽のための「深層の祭り」はあまりにも奥が深くて音楽的内容が充実した素晴らしい名課題曲だと
思います。
演奏時間4分程度の決して長くは無い曲なのですけど、この4分程度の時間にはぎゅ~っと凝縮した
音楽的緊張感と張りつめた内省的充実感が漲っていると思いますし、
確かに聴いていて「楽しい」と感じる部類の曲では全然ないのですけど、あの精神的にピンと張りつめた空気が醸し出ている
曲だと思いますし、発表した場がたまたま吹奏楽コンクールの課題曲だったという感じでもあり、
この曲はブロの管弦楽団の定期演奏会の一曲目として(管弦楽と打楽器だけで)演奏しても全然遜色のない曲
なのだと思います。

「赤毛のアン」の再放送をご覧頂けた場合は、その音楽にも着目して頂けるととてもありがたいです!
クラシック音楽界における20世紀限定で誰もが一度ぐらいは聴いたことがあるかもしれない耳に残る印象的なメロディー
というと、例えばホルストの組曲「惑星」~木星、オルフの世俗カンタータ「カルミナ・プラーナ」、ラヴェルのボレロ、
ロドリーゴのアランフェス協奏曲~第二楽章など色々とあるかとは思いますが、その中でも突出して印象に残るメロディーは、
ハチャトゥーリアンのバレエ音楽「ガイーヌ」~剣の舞が挙げられると思いますし、
それ以外にも「どこかで聴いた事があるかも・・」と思われる曲として、ハチャトゥーリアンと同じ出身国であるソ連の作曲家の
カバレフスキーの組曲「道化師」~Ⅱ.道化師のギャロップが挙げられるのかもしれないです。

この曲は、昭和の頃の運動会(特に徒競走・リレー・大玉転がしの)BGMの定番中の定番ですし、テレビのBGMでも
子供が走っているシーンの音楽などとしても良く耳にします。
カバレフスキーとか組曲「道化師」と聞かれても「なにそれ・・?」と感じる方は大半だと思うのですけど、それでも
「道化師のギャロップ」のあの親しみやすくて底抜けに明るく楽しい2分程度の曲を耳にしたら
「あー、この曲どこかで聴いたことがある~」と多くの方が感じられるのかもしれないです。

組曲「道化師」の全曲を収録したCDも意外と少ないです。
私自身も結構最近までサヴァリッシュ指揮のCDと吹奏楽アレンジ版の東京佼成WOのCDしかしか手元にありませんでしたが、
Chandosレーベルより、ピアノ協奏曲第二番と組曲「道化師」が収録されたCDを入手できて
やっとこの曲のまともな演奏を聴くことが出来たものでした。

組曲「道化師」は1939年に作曲され、現代音楽バリバリの20世紀前半に作曲されたとは到底思えないほど、わかりやすくて
親しみやすさと明るさに包まれた楽しい音楽です。
組曲として計10曲から構成されていますけど、一曲一曲が1~2分半程度で構成され、全曲聴いたとしても飽きることはないと
思いますし、組曲全体としても演奏時間は16分程度です。
こんなに分り易いクラシック音楽は他にないとさえ思えますし、単純明快なメロディーと展開に終始し難しい部分は皆無です。

組曲「道化師」は元々は子供を対象とした児童劇「発明家と道化役者」の16曲からなら劇付随音楽の中から10曲を
選曲したものです。

この組曲は下記から構成されています。

第1曲 プロローグ
第2曲 ギャロップ(道化師のギャロップ)
第3曲 マーチ
第4曲 ワルツ
第5曲 パントマイム
第6曲 間奏曲
第7曲 リトルリリカルシーン
第8曲 ガヴォット
第9曲 スケルツォ
第10曲 エピローグ

Ⅱの「道化師のギャロップ」ばかりがやたらと有名ですが、
Ⅰの「プロローグ」とかⅨの「スケルツォ」とかⅩの「エピローグ」も聴いていても楽しさ満点で、
聴くだけでとてもハッピーな気持ちになれます。
個人的には、Ⅵの「リトルリリカルシーン」も50秒足らずの短い曲なのですが、
抒情性たっぷりのうっとりとするメロディーですので、是非一聴をお勧めしたいです。
Ⅹの「エピローグ」も大変楽しくてこのすてきな組曲を明るく締めくくるにはうってつけの曲だと思います。
この組曲は比較的小さい規模での管弦楽団でも演奏でき、使用される金管楽器もホルンとトランペットはそれぞれ2台で、
トロンボーンとチューバは1台のみという指定があります。
木管楽器も例えばフルートはピッコロと掛け持ちですし、オーボエもコールアングレと掛け持ち指定されています。
打楽器はティンパニ、シロフォン、トライアングル、タンブリン、スネアドラム、バスドラム、シンバルと結構多彩です。
そうそう、最後のエピローグにおいてピアノがかなり効果的に使用されていて、あれを聴くと
ショスタコーヴィチが交響曲第5番~第一楽章でかなり効果的にピアノを使用していた事例を彷彿とさせてくれますし、
そのあたりは「さすが20世紀に生きた現代の作曲家」という雰囲気はあると感じたりもします。

私自身、この組曲の生の演奏を聴いた事は今まで一度しかありません。
外山雄三指揮/N響の太田区アプリコでの演奏会が今まで唯一この曲を全曲で聴いた機会です。
この時は前半が道化師とハチャトゥーリアンのヴァイオリン協奏曲で、後半が確かシェエラザートという事で
オールロシアプログラムでしたけど、道化師を全曲聴くことができたのは大変貴重な経験でした。
「道化師のギャロップ」は単独でもファミリーコンサートや演奏会のアンコールで演奏されることは結構多いです。

カバレフスキーというと旧・ソ連においてはショスタコーヴィッチやハチャトゥーリアンと並んでソ連音楽界の大御所としても
活躍されていてさまざまな重要な役職にも付かれています。
道化師以外では歌劇「コラブルニヨン」序曲と交響曲第4番が私的にはとても大好きです。
バレエ音楽「ロメオとジュリエット」というとプロコフィエフというイメージがありますけど、実はカバレフスキーも同名の
バレエ音楽を残していたりもします。
コラブルニヨン序曲なのですけど、A-B-Aのシンプルな三部構成で冒頭からしてかなり強烈なインパクトがありまして、
全体を通して溌剌さ・明るさ・軽快さを感じさせてくれます。
シロフォーン・タンバリンをはじめとする打楽器の使い方も巧みだと思います。
全体的にリズムの切れが素晴らしいですし、とてつもなく歯切れの良い曲だと思いますし、
さすが道化師のギャロップの作曲者だなーと妙に感心してしまいます。
中間部も徐々に盛り上がっていく感じが実に単純明快で素晴らしいですし、ラスト近くで一旦静かになったあたりで、
管楽器とティンパニの掛け合いが実に面白いと思います。
ラストはかなり盛大に盛り上がり、ティンパニのズドンという一撃で終ります。
交響曲第4番は知る人ぞ知る曲という感じだとは思いますが、まるでベートーヴェンの交響曲第5番「運命」を聴いているかの
ような不幸のどん底から歓喜というものがわかりやすく伝わってきます。
第四楽章の幸福感一杯の勇壮なマーチが特に印象的です。
(この交響曲はカバレフスキー自作自演のレニングラードフィルのレコードがありましたけど、いまだにCD化されていないのは
ちょっともったいないです・・)

組曲「道化師」ですけど、2019年末時点で吹奏楽コンクール全国大会では計4回自由曲として演奏されています。

1981年に当時は豪快で重厚なサウンドが売りだった近畿大学がまさか「道化師」という軽い作品を自由曲で取り上げていた
事が極めて意外でした。1989年の双葉中学校の演奏はメンバーが40人以下の小さい編成でしたけど、とてもかわいく
チャーミングにまとめていたのが大変印象的でした。

だけど組曲「道化師」というと私的には1978年の弘前南高校の演奏が大変強く印象に残っています。

吹奏楽コンクールの全国大会と言うと、どうしても緊張とかプレッシャーとか委縮みたいな言葉がよく似合いそうなほど、
普段の実力とか練習の成果というものは発揮しにくい事は多々あるものなのですけど、
弘前南高校は、そうしたプレッシャーを微塵も感じさせない練習通りののびのびとした演奏を屈託なく聴かせてくれていて
こういう演奏は聴いている方も自然に微笑みが出てきそうなすてきな溌溂とした演奏でした。
のびのび演奏しているとか元気一杯とかチャーミングとか自然体な雰囲気みたいな感想の言葉がポンポンと出てきそうなくらい
躍動感溢れる演奏を聴かせてくれています。
今現在のコンクールの感覚で聴いてしまうと「雑すぎる・・」とか「粗いし細かい仕上がりが不十分」とか
「時々バランスが崩れ、部分的に音程が不安定」とか「音色が生々しすぎる」などのようなマイナスの評価も
あるのかとは思います。
そうしたマイナスポイントを埋めてしまうのに十分すぎるほどの素直さ・溌剌さ・のびのびとした雰囲気がこの演奏からは
自然に伝わってきます。
今現在の審査基準で言うと、とてもとても全国大会なんか出場出来ないし、
支部大会も難しいというか県大会レベルでも金賞は取れるのかな?みたいなものはあるとは思うのですけど、
今現在のコンクールでは絶対に望めないようなあの自然体での溌剌さというのは大いに価値があると思います。
自由曲の組曲「道化師」ですけど、課題曲で聴かせてくれたようなまとまりや統一感」はもう少し欲しかったような気もしますし、
全体的に音色がかなり粗いのが気にもなったりします。
部分的に音程が少し怪しいのもマイナスポイントなのかもしれないです。
特にⅠ.プロローグのシロフォンの最後の一音のピッチの悪さは楽器の不調にしては少し目に余るのかもしれないですし、
Ⅴのパントマイムも少しどんくさい感じというのか全体的に音色が重たい事も少し引っ掛かります。
しかし、Ⅴを除くと、ⅠとⅡとⅨとⅩはとにかく音色がどこまでも明るくて楽しくて、聴いているだけでとてつもなくハッピーな
気持ちになりますし、生きているだけでその内いい事があるのかも・・という気持ちに自然になれそうです。
この組曲は前述のとおり一つの児童用の音楽なのですけど、子供らしい「まっすくで純粋な気持ち」を曲の隅々にまで
表現出来て、聴く人に確実に楽しさや溌剌さを感じさせてくれた弘前南高校吹奏楽部の演奏に、
あの演奏から42年後の私から、最大限の敬意を表させて頂き、最大の賛辞の言葉を贈らさせて頂きたいと思います。

さてさて、実はなのですけど私自身も吹奏楽アレンジ版ですが、組曲「道化師」を抜粋版という形で演奏した経験があります。

高校二年の定期演奏会の時のクラシックアレンジステージで演奏した曲が組曲「道化師」からの抜粋と
チャイコフスキーの荘厳序曲「1812年」でした。
曲の難易度は圧倒的に1812年の方が高くて、特に1812年の金管奏者への負担が相当大きく金管奏者のエネルギーが
とてつもなく消費されるという事で、曲決めの際にも金管セクションから「もう一曲の方は極力金管に負担を掛けない軽めの
曲を選んでほしい」という強い要望もあり、チャイコフスキーと同じくロシア系で且つ金管奏者の負担が少ない曲
という事で組曲「道化師」が選ばれました。
当初は全曲演奏するという話もありましたけど、それだと1812年と演奏時間が大体同じになってしまうという事で
Ⅰ・Ⅱ・Ⅴ・Ⅶ・Ⅸ・Ⅹの抜粋となりました。
金管セクションにとってはⅡとⅩ以外はほぼ休みという事もあり大歓迎とされた選曲でして、
その分有り余ったエネルギーを金管奏者としては荘厳序曲「1812年」にぶつけられましたので
その意味ではとても良い選曲でした。
金管奏者にとっては楽な曲だったと思いますけど、クラリネットパートにとっては、金管セクションはそれでいいかもしれない
けど、Ⅱのリズミカルで速い部分の演奏は音を揃えるのが大変だし、遠く離れた位置にいるシロフォーンとの音を合せるのは
至難の業という事もあるし、Ⅸのスケルツォはほぼクラリネットとフルートのアンサンブルに近く、素早く動くソロクラとフルートに
対して適確に伴奏の後打ちをするのは意外と骨が折れる・・という大変さはあったと思いますし、
本音としては「只でさえ1812年のとんでもなく難解なあの16分音符を吹きこなす事だけで精一杯なのに、道化師で
さらに苦労させられるなんて・・」みたいな感じでもありました。
ただⅦのリトルリリカルシーンでしっとりとした抒情的なクラリネットのソロを担当していた上級生は実際の本番のステージでも
陶酔しているようにしっとりと吹いていたのが大変印象的でしたし、Ⅸのスケルツォでも練習ではほぼ99%ミスってばかり
いたのに、本番ではほぼ100%完璧に吹きこなしていて、あまりにも普段の練習と違っていたので、
後打ち伴奏担当のセカンド・サードのクラリネットの後輩たちは全員内心「やばい・・」と思っていたと思います。
Ⅹのエピソードでは、ピアノが大活躍するのですけど、当時の男子高校でピアノをほぼ完璧に弾きこなせる人って
トランペット奏者の3年生しかいなくて、トランペットとピアノの掛け持ちという大変珍しい離れ業をお披露目していたのも
今となってはなつかしいな~と感じたりもします。





ららマジにおけるクラリネット奏者は綾瀬凛という後輩からは怖がられているきょっと気難しくて、自分にも他人にも厳しい
雰囲気があるJKさんです。
キリッ・・!としていて後輩に対して厳しく接する雰囲気の綾瀬凜お姉さまの上記のようなちょっと怒ったような表情も
とてもかわいらしいものがありますけど、
同じパートに自分に厳しすぎる子がいたりするとちょっとつらいものがありそうですけど、ららマジの綾瀬凜みたいな
JKさんだったら、私は喜んで同じパート内で頑張らさせて頂きたいものです~♪

私自身、中学・高校・大学でクラリネットを主に吹いていたのですけど、中学と大学の時は私以外のクラリネット奏者は
全員女の子でしたけど、どちらかというと女の子のクラリネット奏者は生真面目で冗談があまり通用しない人が多いし、
言葉の揚げ足取りがうまいのかも・・という印象の子が多かったような印象はあります。
それは男子高校時代のクラリネットパートにも大体同じような事は言えたと感じられます。
クラリネット奏者・・、特にクラリネットを吹く女の子の不器用さ・頭の固さというものはもしかしたら全世界共通なのかも・・?
といったら綾瀬凜お姉さまに怒られてしまいそうです・・
(そう言えば、とあるブログの管理人さんも元・クラリネット奏者でしたけど、あの融通の利かない頑迷さと気難しさは
クラリネット奏者気質そのものだったと今にして思うと感じてしまいそうです・・)

綾瀬凛がしっとりと吹く組曲「道化師」のリトルリリカルシーンや元気溌剌のギャロップやスケルツォは是非ぜひ同一パートと
して一緒に吹かせて頂きたいものですね~♪
J.S.バッハの「 G線上のアリア」はタイトルにピンとこなくても一度ぐらいはどこかで聴いたことがあるメロディーだと思います。

卒業証書授与式や、葬送・追悼曲の定番であり、そのメロディーからは「清められた魂」みたいなものを感じます。
かつての確執を超えて32年ぶりに小澤征爾とNHK交響楽団が共演を果たしたときに、
阪神・淡路大震災犠牲者の追悼ために演奏した曲目の一つでもあったりします。

「G線上のアリア」はJ・S・バッハの作曲と表記されることは多いのですけど、実は半分は正解で半分は間違いなのかも
しれないです。
J・S・バッハはの作品目録にはG線上のアリアという曲名は存在しないというのか、あくまで「G線上のアリア」と世間一般で
言われている曲目は後年のヴァイオリニストのアウグスト・ウィルヘルミが、ヴァイオリンとピアノ用にアレンジしたいわば
編曲作品であり、元々の原曲は管弦楽組曲第3番二長調 BWV1068の第Ⅱ曲のエアーに相当します。

バッハの管弦楽組曲第3番 BWV1068は下記の5曲から構成されています。

Ⅰ.序曲

Ⅱ.エアー

Ⅲ.ガヴォット

Ⅳ.ブーレ

Ⅴ.ジーグ

原曲の楽器編成はトランペット3 ・ティンパニ ・オーボエ 2・ヴァイオリン 2パート・ヴィオラ
チェロ、コントラバス、チェンバロから構成される通奏低音と大変シンプルなものになっています。
最も有名な第二曲のエアーは弦楽器と通奏低音だけで演奏されます。

前述のとおり、後年のヴァイオリニスト、アウグスト・ウィルヘルミがJ・S・バッハの管弦樂組曲第3番二長調の2曲目を
ヴァイオリンとピアノのための演奏用に編曲し、
その第2曲目にーのエアーは、転調することにより、1曲を全てヴァイオリンの弦のG線のみで演奏するように
編曲したことにより「G線上のアリア」というアレンジ作品が世に生まれたことになります。
この「G線上のアリア」という通称は、ニ長調からハ長調に移調し編曲されたこちによって、
ヴァイオリンの4本ある弦のうち最低音の弦、G線のみで演奏できることに由来しています。

G線上のアリア(管弦楽組曲第3番~Ⅱ.エアー)は原曲版として聴いてもアレンジ版として聴いてもどちらも素晴らしいと
思います。
とにかく美しくて清楚でゆったりと流れる感覚は時の経過を忘れてしまいそうです。
以前なのですけど、とある顧客との打合せの場所としてとある喫茶店を指定され、その喫茶店に早めに到着して
その顧客が来るのを待っていたのですけど、店内で繰り返し流されていたのが、このバッハのG線上のアリアでして、
なぜか終始ずっと途絶えることなくこの曲をBGMとして流していて、そのあまりの美しさにうっとりしていたらいつの間にか
爆睡してしまい、その顧客より叩き起こされてしまうという大失態もしたものでした・・(汗)

そうそう、この「G線上のアリア」ですけど、読み方は厳密に言うとジーセンじょうのアリアではなくて「ゲーセン上のアリア」
でもあったりします。
恥ずかしい話ですけど、東北の田舎の地より上京し都内の大学の吹奏楽団に入団した当時の私は、
確かにその当時は既に花輪高校吹奏楽部や秋田南高校吹奏楽部による洗礼を受けていて、例えば
ベルクの「三つの管弦楽曲」とかウォルトンの交響曲第1番とか矢代秋雄の交響曲とか三善晃の交響三章とか
ストラヴィンスキーの春の祭典などバレエ三部作などは知っていたものの、例えばモーツアルトの交響曲第40番とか
ベートーヴェンの交響曲第7番とかシューベルトのグレイト交響曲とかブラームスの交響曲第1番なとといった
古典的名曲は実は聴いたことすらないという体たらくでもありましたし、クラシック音楽の楽典といった基礎の基礎も
全くわかっていない状態でもあり、当時の指揮者やコーチの皆様、はたまた同じクラリネットパートのお姉さまたちからは
「なんだこのいびつな知識のヘンな東北から来た山猿は・・!?」と思われていたのかもしれないです・・
当時の私はバッハの「G線上のアリア」をじーせん上のアリアと呼び、モーツアルトの「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」を
「アイネ・クライネ・ナハト・ミュージック」と呼び、周囲からの失笑を浴びていたものでした・・(汗)

吹奏楽や管弦楽で奏者のご経験がある方は、チューニング時に指揮者やコンマスから
「はい、ではアーの音出して~」とか「ベーの音で合わせて~」と言われることは日常風景なのですけど、
私自身中学生の時に吹奏楽部に入部し初めて全体合奏に参加した際に、指揮者から
「ベーの音出して」と言われて何を言っているのかさっぱりわからず、思わずあっかんべーをしてしまったら周囲から
やはり大失笑を食らったこともあったものでした・・

一般的に使われるドレミファソラシドは実はイタリア語です!

英語では「C・D・E・F・G・A・B・C」、ドイツ語では「C(ツェー)D(デー)E(エー)F(エフ)G(ゲー)A(アー)H(ハー)C(ツェー)」
という表記になります。
吹奏楽や管弦楽の練習においては、ドレミファという言い方ではなくて人によってはドイツ語のツェーとかアーとかゲーの
音を出してと言われることも多々ありますし、
チューニングにおいては、吹奏楽の世界では一般的にはA(アー)またはC(ツェー)の音で合わせることが多いです。

チューナーは英語で音名を示しているので、「C」なら「ド」のこと、「A」なら「ラ」のことになります。

上記で「G線上のアリア」はゲーセン上のアリアと読むというのはそうしたドイツ語表記がベースになっているというのを
わかったのは大学での吹奏楽団に入って以降というのもなんだかこっばずかしい話でもありました・・


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「G線上のアリア」は編曲版ではビアノとヴァイオリンから奏でられますけど、
ららマジのヴァイオリン奏者の九条紗彩は高校1年生の女の子です~♪

自分に厳しく人にも厳しいプロ意識の高いヴァイオリン少女 という設定です。

自分にも周囲にも厳しいため、一見わがままだと誤解されることもありますけど、根は優しくて世話好きでもあります。
極度の照れ屋で自分の気持ちを素直に表現できないという事で、ららマジの中ではツンデレの一人と
言えそうです。

九条紗彩はヴァイオリンのプロを目指しており、神童と呼ばれるフルート奏者の菜々美に密かな憧れやライバル心を
抱いてもいます。

薄いバイオレットのロングヘアーですけど、おでこの露出がなんだかとてもかわいいです。

こういうおでこをしたツンデレ気味の美少女JKさんにデコビンを食らわしてやったら、その反応はなんだか
「私、気になります・・」という世界になりそうですね・・

そして九条紗彩が奏でるバッハのG線上のアリアの清楚な響きも聴いてみたいですね~♪

実はなのですけど、おかげさまで本記事をもちまして「クラシック音楽カテゴリ」が通算400記事に到達をいたしました~♬

当ブログをご覧頂いている皆様の視点ですと
「いつも東方・艦これ・小泉さん・プリキュア・ごちうさといったアニメ・漫画・ゲーム作品の記事ばかり書いている
頭の悪そうな人がどうして時々専門的でお堅く真面目なクラシック音楽記事を書いているの・・??」と疑問に感じる方も
多いのかもしれないですけど、当ブログの管理人はもともと吹奏楽出身で、通算10年近く吹奏楽団でクラリネットを吹いていた
経験があり、そうした吹奏楽にどっぷりと浸かっていた時期に同時にクラシック音楽の奥深さに目覚めてしまい、
かなり若い時期から吹奏楽・クラシック音楽が大好きだったという事情が大きいのだと思います。
ブログというものは基本的には私はテキトーでいいと思っていますし、管理人が興味を持っていることや大好きなことを
好きなように書くのがブログと思っていますし、私自身誰かに見てもらうという事よりは、どちらかというと
自分自身の記録というか後年こうした記事を自分自身が振り返って見ることによって
「自分はこんなことに興味がありこのように考えていた」という自分史というのか自分の軌跡を目に見える形でなにか残して
おきたいというのが実はこのブログの最大の続ける動機であったりもします。
そして2016年以降はそれに加えて、「dream fantasy」の
アミグリさんが描かれた素晴らしくて美しい絵をとにかく一人でも多くの人に見てほしいという動機も加わりました。

人間というものは決して単純な生き物ではないと思いますし、趣味嗜好がある時期から変化するとか
昔はAという考え方に惹かれていたけど最近はAと相反するBという考えにより共感するようになったとか
格闘技や相撲といった男くさいスポーツが趣味だけど同時に家で萌えアニメを見るのが大好きということだってあると
思います。
人間にはそうした多様性があり、「あの人は✖✖だから」という一つの側面だけで判断できないのがむしろ人間らしいところでも
ありますし、当ブログのように前日は「ゆかりん大好き!」とか「小泉さんのあの不愛想さはすてき~♪」と書いていた管理人が
翌日にはガラリと趣向を変えたお堅い音楽記事を書くことはむしろ人間の人間たるゆえんだと思いますし、
人の心の深層にはもしかしたら相反するようなものもどちらも大好きになってしまうという複雑な多様性を持ち合わせている
のかもしれないです。
そしてブログというものはそうした人の多様性を発揮する場でも全然OKだと考えますし、そうした自分自身が大好きなことを
自由自在に書くことができる場というのがブログの良い点なのだと思います。
そしてテキトーに自由に気ままに書いているだから、誰かに読んでもらうために記事にするという趣旨ではなくて
あくまで自分のために書いているという事で、別に反響は特段気にしないようにしているという感じでもあります。

当ブログのはじまりは実は「音楽ブログ」であったという事をご存じの方はほぼ皆無だと思いますし、ブログ開設から
2年目を迎えたころあたりまでは、当ブログは実は典型的な閑古鳥ブログでして、一日の閲覧者は平均5~6人前後で、
最初に頂いたコメントはブログ開設から約一年後というありさまでもありましたけど、当時は例えば私自身が大好きで
吹奏楽・クラシック音楽の深い森の中に迷い込むきっかけにもなった花輪高校吹奏楽部・秋田南高校吹奏楽部・
就実高校吹奏楽部やウォルトンの交響曲第1番、矢代秋雄と松村禎三の交響曲やプロコフィエフの交響曲や
トゥリーナの幻想舞曲集などといった正直わかる人にしかわからない記事を自由気ままにテキトーに書いていて、
あの頃はむしろのびのびといい加減に書いていたようにも感じられます。
だけどそうしたマニアックな記事だけを書いていたらネタも枯渇しますので、当時としては
「十分音楽に関するどうしてもこれだけは書いておきたいというネタを記事にしたからあとはこの先ずっと放置でもいいかな・・?」
とも思ったりしましたけど、
「放置するのもなんだし、それでは音楽以外に自分が大好きなことを書くのもいいかも」と思うようにもなり、
それが2012~15年までのプリキュア路線、2016年から現在に至る東方路線になっていったと思いますし、同時に
2013年頃より偶然「dream fantasy」という素晴らしい
ブログに出会い、アミグリさんというすてきな絵師様の描かれた絵を一目で大好きになってしまい、東方路線とミックスさせる
形でもってアミグリさんの描かれた絵をご紹介させていただくという現在の路線に落ち着いております。

管理人の私自身は、吹奏楽もクラシック音楽も東方も艦これも小泉さんもプリキュアも埼玉も千葉ロッテマリーンズも
アミグリさんの絵もみんな大好きという事ですし、東方や最近のかわいい萌えアニメ作品や美少女JKさんアニメを楽しむのと
まったく同じ感覚で吹奏楽やちょっと堅めのクラシック音楽も楽しんでいますし、人が楽しむことにおいて
そうした境界は何もないものと考えています。

今後とも東方や小泉さんを語るときとまったく同じ感覚で少し堅めのクラシック音楽記事もこの先も語っていくことになるかとは
思いますので、今後も当ブログの吹奏楽やクラシック音楽カテゴリのほうも何卒宜しくお願いいたします。


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一時期、吹奏楽やクラシック音楽カテゴリ記事を書くと反響・アクセスががくっと低下するのでこれらの記事を避けていた
時期もありましたけど、前述のようにブログは誰かのためではなくてあくまで自分の軌跡の記録と趣味のためでも
ありますのでも最近はそうしたアクセス低下は気にしないようにしています。
そして最近の傾向として、これらの記事に「響け!ユーフォニアム」と「ららマジ」をミックスさせることで、少しだけ萌え要素や
わかりやすさも出てきたせいなのか、ここ最近はそうしたカテゴリ記事でもアクセスや反響が以前とは比べ物に
ならないほど大きくなっているのはとてもありがたいです~♪

ららマジ器楽部の編成はツッコミどころが満載ですね~♪

チューバは無いけどワーグナーチューバはあったり、オーボエは無いけどなぜかコールアングレはあったり、
ファゴットもコントラファゴットはあるけどなぜかバスクラがなかったり、
ベース・エレキ・ウクレレとギター系の楽器が三本もあったり、ユーフォニアムが管弦楽と同様に配置されていなかったり、
胡弓・箏といった邦楽器があったり、
30人編成なのに、ドラムス・グロッケンシュピール・和太鼓・トライアングル・タンバリン・カスタネット・シンバルの
打楽器セクションはかなり充実していたり、
なぜかシンセサイザーまであったり、基本的には吹奏楽の編成に近いけどなぜかヴァイオリンやチェロ・ハープも配置される
など現実ではあまりありえない編成ゆえにその自由さは素晴らしいものがあると思います。

奏者はドラムスとハープと箏を除くと基本的には全員スタンドアップして演奏していますけど、コントラファゴットは基本的には
立って演奏をする事が出来ないので、椅子に腰かけて演奏しているのは、「わかっているね~」という感じでもあります。

こうした自由な編成による自由な音楽は是非ぜひ聴いてみたいものです~♪
本日のファースト記事にて触れたとおり、おかげさまで本日をもちまして当ブログのクラシック音楽が400記事に到達
しましたけど、そのファースト記事においては特段クラシック音楽には触れていませんし、
せっかくのクラシック音楽カテゴリの節目ということでもありますので、本記事においては私の大好きな作曲家の一人でもある
ショスタコーヴィッチについて少しばかり取り上げさせて頂きたいと思います。

ショスタコーヴイッチの交響曲は、何と言っても圧倒的に交響曲第5番(革命)が有名ですし、
この交響曲第5番の人気&演奏頻度&録音頻度は突出していると思います。
当ブログにおいて、ショスタコーヴィッチの記事を書く際は、なぜかあまりにも有名な交響曲第5番ではなくて、
ファゴットが第四~第五楽章で大活躍する交響曲第9番や交響曲第7番「レニングラード」や交響曲第10番や
吹奏楽コンクールにおいて昔も今も定番曲である「祝典序曲」や吹奏楽経験者でないと聴いたことすらないと思われる
「民族舞曲」のことばかり触れているような気もしますので、ここは久しぶりに交響曲第5番を取り上げてみたいと思います。

ショスタコーヴィッチはその生涯で二度ほど政治的にやばい状況を迎えます。
当時のソ連体制においては、国家権力によって睨まれたり監視の対象になってしまうというやばい状況が即自身の
処刑・シベリア送り・強制収容所送りという悲惨な末路に直結していたものですし、
本来音楽というものは自由であり「自分はこのように感じたからこうした曲を作る!!」みたいな事が尊重されるのは
当然の事なのですけど、当時の共産党一党独裁のソ連にはそうした自由は無く、「人民が喜びそうな外面的効果の高い音楽」を
量産する事を求められ、スターリンや音楽官僚が喜びそうな曲を作ることが何よりも求められ、
作曲者自身の内面を描くといった抽象的な音楽は、国家権力によって敬遠されひたすら外面的に明るい音楽を作曲する事が
強く求められていました。
そうした国内状況だったからこそ自由な音楽を求めてソ連体制を嫌って祖国からの亡命を求めたのが
ストラヴィンスキーとかプロコフィエフと言えるのだと思います。
しかしショスタコーヴィッチは律儀にも祖国愛が強いのか、面倒な事を嫌ったのか、家族の反対にあったかは
よく分かりませんけど、生涯一度も亡命する事もなくその生涯において終始変わらずソ連体制の中で生き続け、
その生涯をソ連の中で閉じた方なのです。
本当は、マーラーみたいな音楽を書きたかった欲求もあったのかもしれませんけど、
(それを強く示唆させる音楽が交響曲第1番や交響曲第4番といえるのかもしれないです)
時に自分の内面に忠実な作品を書きそれが国家からの批判を招き、その反動として外面効果が高い分かり易い曲を残すという「御用作曲家」みたいな面を持つという事で、本当に苦労が絶えない人だったと思います。
だけどその反面。ショスタコーヴイッチの交響曲第4番や交響曲第15番を聴いてしまうと、
「もしかして、マーラーの音楽史的な後継者はシェーンベルクじゃなくて実はショスタコーヴィッチではないのか・・!?」とすらも
勘ぐってみたくもなりそうです。

ショスタコーヴィッチの政治的にやばい状況の内の一回目は交響曲第4番やバレエ「明るい小川」を作曲していた頃です。
これらの音楽が「抽象的で訳がわからん」という事で睨まれ、当時はソ連の御用新聞のプラウダや音楽官僚たちから
「音楽の荒唐無稽」というとてつもない大批判の大合唱を受け、ショスタコーヴィッチ自身も一時は、自身の逮捕・処刑・流刑を
覚悟した事があるというのはどうやら本当の事のようです。
その代償として作曲されたのが、ショスタヴィッチの代表作、交響曲第5番というのも皮肉な話であり不思議な感じがします。
そしてやばい二回目は、第二次世界大戦終了後に戦争勝利記念作として発表された交響曲第9番が要因となります。
スターリンにとっては、「この交響曲は特別な存在であるべきである。なぜなら我々は戦勝国だからである。
だからこの祝祭的な交響曲は、合唱などを入れ大規模に国家の勝利を讃える必要がある」などと命令したかどうかは
よく分かりませんが、そうした気持ちは幾分は持っていたのかもしれません。
だからこそこの第9交響曲が「洒落っ気に溢れた軽妙曲」であったことにスターリンは激怒し、
「俺の顔を潰しやがって・・・」みたいな気持はどこかにあったかもしれません。
そしてジターノフ批判という大批判キャンペーンが展開され、ショスタコーヴィッチはこの危機に対しては、
オラトリオ「森の歌」で大衆迎合用の分かり易い曲を提出し難を逃れています・・・
ちなみの「森の歌」の初版の歌詞のラストは「スターリン万歳!!」だそうです。
(スターリンの死後その讃美の歌詞は削除されています)

そうした色々複雑な背景&事情があった交響曲第5番ですけど、作曲者本人にとっては自分自身の生命が掛った
ある意味起死回生みたいな曲だったと思います。
音楽評論家の解説、指揮者の解釈によって様々な見解が分かれる曲ですし、事実様々なアプローチが可能な曲だと思います。
同時に、「ショスタコーヴイッチの証言」という本(実は創作物という見解も根強いようです)の一節にある通り
「終楽章は歓喜ではなくて、強制された歓喜の悲劇」という解釈も一理あるのかもしれません。

実際はどうなんでしょうか・・・?

この曲は生演奏で聴く機会が比較的多かったもので、何回か聴いた事はありますが、悲劇的な感じとか強制された
という印象はありませんでした。

当時の権力者・社会・自分を快く思わない人達とショスタコーヴィッチ自身が戦った結果としての讃歌を感じてしまいます。
終楽章は、「当時の権力者に迎合して彼らが気に入るような曲を書くのも一つの自由、それに反抗して
結果的に自分の命を縮めてしまうのも自由、それを選択するのは権力者自身ではなくて、自分自身なのだ!」
というようにも聴こえてしまいます。
作曲者自身が本当に「あの終楽章は強制された歓喜」というメッセージをこめたいのならば、
100人中45人程度は「確かにあの曲にはそうした意図があったんだ」という事を分からせるような曲の構成を取らないと
その真意は後世には確実に伝わらないような感じもあったりします。
ショスタコーヴイッチ自身がもしも仮に本当に「あの終楽章は歓喜では断じてない!!
あれは強制された歓喜の悲劇なのだ!!」という事を確実に伝えたいのならば、
そうしたメッセージを明瞭に曲に折り込むべきで、
そうした意図が伝えきれなかった時点で、それは実は作曲者の負けみたいな解釈も可能なのではないかと思ったりもします。
それが自由に出来る政治状況ではなかっのが当時のソ連=スターリン体制なのだという事は勿論百も承知しているのですけど、
そのくらい指揮者によって解釈や見解は分かれる曲なのかもしれないです。

ショスタコーヴィッチの交響曲は、19歳の時に作曲され、その自由な発想が今現在でも高く評価されている
交響曲第1番から開始されるのですけど、
2~3番においては、素材は御用作曲家みたいなものを使用しながらも音楽としての表現方法はかり自由という
実験的側面を有し、そして第4番においては自虐的でかなり内面的で分かりにくいものを残しています。
ここで改めて考えてみたい事があるのですけど、
確かに交響曲第4番を聴いたすぐ後にこの5番を聴いてしまうと、
「この両者の極端すぎる違いはなんなの・・!? この曲を作曲した人、本当に同一人物なの・・?」と感じるのかもしれないですけど、
もしもなのですけど、交響曲第4番を作曲した頃のショスタコーヴイッチ自身が、前述の政治的危機が仮に無かったとしても、
あまりにも2~4番のシンフォニーのウケの悪さや「自分の目指すべき方向性とは少し異なる・・」といった違和感を
既にショスタコーヴィ土自身が感じていて、
「自分が作りたい音楽はこうした前衛的方向性ではない」と既に悟った結果としての交響曲を残していた可能性も
あるのかもしれないですし、自身の命にかかわるようなヤバイ状況が無かったとしても、案外交響曲第5番は
作られていたような気さえします・・・
それは、古典的で明快で分かりやすい交響曲第1番を発表しながらも
亡命時代の2~4番で複雑怪奇で訳の分からん交響曲を残しつつも、ソ連復帰後の交響曲第5番であんなにも霊感と才気煥発に溢れた素晴らしい名曲を残したプロコフィエフともどこか重なる面はあるのかもしれないです。
プロコフィエフ自身も、交響曲第4番を作曲していた頃は、そのあまりのウケの悪さに対してショスタコーヴィッチ同様に
「いやいや、自分が目指したい方向性はこんな事ではない」と悟っていた可能性もあるかもしれないです。

それにしてもショスタコーヴィッチの交響曲第5番は、20世紀が生んだ名曲の一つだと思います。
ある意味、こんな分かりやすい曲は無いとすら感じてしまいます。
こんな曲を聴いていると、前述のショスタコーヴィッチ自身の真意とは果たして何なのかとか本当は何を言いたかったのか
みたいな事はどうでもよくなったりもします。
自分自身への問いみたいな第一楽章は冒頭から前半はゆったりとしたテンポで開始されるのですけど
前半は「本当に自分のやっている事は本当に正しいのだろうか・・他に選択肢は無いのだろうか・・」みたいな
かなりの深刻さが暗示されています。
面白いのは、ピアノの重低音が唐突に入る事で曲想とテンポをガラッと変えている点ですね・・
第二楽章は、何か「過去の自分との対話」みたいなものがイメージされます。
第三楽章は一転して瞑想的な音楽が15分ほど展開されていきます。
そして圧巻の第四楽章はティンパニが実に格好いいですし、ラストのトランペットとホルンの超高音&強奏は、
とにかくすさまじい迫力があります。

そして本記事の結論になってしまうのですけど、
何回聴いてもどう捻くれて解釈してもあの第四楽章に「悲劇性」は感じられませんし、ショスタコーヴィッチが回顧録で記した
「強制された歓喜の悲劇」には聴こえませんし、あれは私の感性ではどう聴いても「自問自答」にしか聴こえないです。


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ショスタコーヴィッチの交響曲第5番の終楽章はトランペット奏者にとってはあのとてつもないハイトーンがきつい曲だと
思います。
確かにあの強奏は管弦楽作品の中でも突出した大音響ですし、あのとてつもない大音量は奏者にとっては快楽では
あるのですけど、終楽章ラスト近くのトランペット奏者にとってはあんなハイトーンを大音量でほぼブレスも出来ない状態で
吹奏し続けるという事はとてつもない負担であり、大変なプレッシャーが掛かるとは思うのですけど、それでもあの
爽快感は何事にも耐えがたいものがありそうです。
とんでもないハイトーンの強奏ですので万一音でも外したら一発でバレてしまう曲で奏者にとってはやりがいでもありますし、
同時にプレッシャーのかかる曲でもあります。

「ららマジ」のトランペット担当は、亜里砂・エロイーズ・ボー=ボガードです。

フランス生まれのクォーターで高校2年生のJKさんで、金髪ツインテールがとてもよくお似合いだと思います。
担当楽器はトランペットで、腕前はプロ並で、自分のかわいさが分かっているかのような小悪魔チックな振る舞いをするような
性格もまたまたとってもかわいいですね~♪

公式では「亜里砂・E・B」と略される事が多いです、

バトル時においてはトランペット型のアサルトライフルを武器とします。

亜里砂・E・Bにとってもショスタコーヴィッチの交響曲第5番~終楽章は大変な曲でもあると思うのですけど、天才奏者の
亜里砂・E・Bにしてみれば挑戦のし甲斐がある曲だと思いますし、最後までミスらないで満足のいく演奏ができたとしたら
感極まるものがありそうですね~♪
チャイコフスキーの交響曲と言うと、一般的な感覚で言うと、交響曲第6番「悲愴」が一番有名だと思われますし、
交響曲5番も悲愴と同程度の演奏頻度もあると思います。
私自身、もしも「チャイコフスキーの交響曲で一番好きなの曲は?」と聞かれたら相当悩むと思います。
後味の悪い第四楽章と「ええじぇないか!」の集団発狂みたいな感じの第三楽章が大変印象的な悲愴ももちろん魅力的ですし、
交響曲第5番の全体を貫く循環主題とフィナーレの大団円の爽快さも素晴らしいですし、
4番の華麗さとメランコリーの対比も捨てがたいですし、1番「冬の日の幻想」の素朴さなど
どれもこれも素晴らしいものばかりで甲乙付け難い面は多々あるとは思うのですけど、私的にはいっちば~ん!と感じる
チャイコフスキーのシンフォニーは5番なのかな・・?と感じてしまいます。
(悲愴も素晴らしい名曲ですけど、フィナーレの恨みつらみ・この世への未練等後味の悪さはどうしても感じてしまいます・・)

ただ・・交響曲第4番の魅力も捨てがたいものは多々ありますし魅力は尽きない交響曲だと思います。

チャイコフスキーにとっても、この交響曲第4番は人生の転機の頃に作曲されたものでもありますし、
本人にとっても思い入れはあるような感じもします。
チャイコフスキーの交響曲は、1~3番とマンフレッド交響曲あたりまでは、
それほど際立った個性もあまり感じられませんし、事実演奏会で取り上げられる頻度も決して高くはないです。
しかし、交響曲4番以降は飛躍的に交響曲としての完成度が高くなり、CDに収録される頻度や演奏会で実際に
演奏される回数も1~3番に比べると急激にUPします。

この交響曲第4番の直前にチャイコフスキーは実は人生最大の危機を迎えています。
押しかけ女房的な女性に半ば強引に結婚を承諾したものの新婚生活は半年程度で破綻し、
チャイコフスキーはイタリアに逃避旅行をする羽目になってしまいます。
その時期は自伝によると自殺も一時考えたほど思いつめたらしいのですが、
イタリアの南国の太陽サンサンぶりに心が落ち着きを取り戻したかどうかは分かりませんが、
結果的に何とか立ち直って、再びロシアに戻りどうにかこうにか再び作曲活動が出来るようになるまで回復したのでした。
(結局その伴侶とはその後離婚が成立し、離婚以降は二人は永遠に顔を合わせることはなかったようです・・)

チャイコフスキーの交響曲4番とは、第一楽章~第二楽章の陰気さと第四楽章のフィナーレのバカ陽気の対称性が
あまりにも顕著過ぎとよく批判のタネにされていますけど、これって意外と単純な事で、
第一~第二楽章を作曲していた頃は、ロシアにいる頃の話で妻との離婚を巡る陰鬱な気分の頃の作曲なのかもしれないです。
そしてイタリア旅行中に妻から解放されて、同時に南国の陽気な気候に心もウキウキとなり、
第四楽章の感情爆発の壮麗なフィナーレをルンルン気分で作曲していたのかもしれないです。
この辺りは、あくまで推察ですので、正しい事実はよく分かりませんけど、
意外と正解じゃないのかな・・?というものが曲の隅々から感じられたりもします。

この交響曲第4番が作曲されている頃に、メック夫人と言うチャイコフスキーの人生に大きく関わる金持ち未亡人が登場します。
メック夫人は、年金という形で、チャイコフスキーに毎年定期的な莫大的な金銭援助をする事で、
チャイコフスキーは、特に仕事にあくせくしないで自分が書きたい音楽だけを作曲できる環境に置かれることになります。
チャイコフスキーが生きている頃は、ロシア5人組が活躍している時代とほぼリンクしているのですけど、
例えばボロディンは化学者として、リムスキーは音楽学校の先生として、それぞれに職業を持ち、
その合間に作曲活動をしていた環境とは大きく異なるものがあります。
ロシア5人組がどちらかというと泥臭い曲を残しているのに、チャイコフスキーはむしろヨーロッパの洗練された音楽を
彷彿とさせるよう作品が多いのは、音楽を作曲する環境の違いというのも多少はあるのかもしれないです。
(もちろんチャイコフスキーが作曲した曲の中には、いかにもロシアという感じの曲が多いのもこれまた事実です)
意外な事にチャイコフスキーはメック夫人と生涯一度も会う事は無く、二人の間には膨大な往復書簡が残されているだけです。
(一説には、メック夫人がチャイコフスキーの男色疑惑について調査をし、その結果は疑惑ありと判定だったため
年金を打ち切ったという説を唱える方もいるようではあります)

メック夫人とチャイコフスキーの往復書簡の手紙の中で、チャイコフスキーは交響曲第4番についてかなり細かく書いています。
チャイコフスキーの手紙では、この第一楽章については、
「運命と言うものは、幸福の実現を妨害させる冷酷な力であり、人々が幸せになれないように嫉妬深く見つめているます。
私達は、運命と妥協し嘆き悲しむ事しか出来ないと記しています。
第二楽章のメランコリー漂う雰囲気については、
「仕事、人生に疲れ、夜、本を読んでいてもついウトウトし、いつの間にか本を滑り落としてしまうような感覚」と表現したり
第四楽章については、「言葉の終わるところから音楽が始まる」とか色々と意味深な事を書いています。
この「言葉の終わるところから音楽が始まる」とはどういう意味なのでしょうか・・?
色々と解釈は出来ると思うのですけど、私の受け取り方としては、最後は理屈や論理ではなくて、
その人自身が「自分は幸せだ」と思っていればそれはそれでいいのではないか・・?という事ではないのかなと思ったりもします。
この言葉に前の文章にはどんな事が述べられているのかと言うと、
「あなた自身の中で、どんな喜びも見いだせないというのなら、進んで人の輪の中に入っていきなさい、
人々の喜びの輪の中に入って、そして自分も喜びなさい」と記されています。
どちらかというと人嫌いの傾向が無くも無かったチャイコフスキーをもってしても
「所詮、人は一人では生きていけない」という事を示唆してると言えるのかもしれないですね。

交響曲第4番は、循環主題の形式を取っていて、
第一楽章冒頭のホルンとファゴットのファンファーレは、第四楽章でも再現されています。
(循環主題と言うと次の作品の交響曲第5番の方がかなり顕著ですけど、この4番でも既にこの形式が用いられています)
第二楽章は、何といってもオーボエのメランコラリックなソロが秀逸です。
第三楽章のピッチカートは、奇抜さを感じてしまいます。なんとなくアラビアっぽい雰囲気も感じられますし、
音楽のアラベスクみたいな雰囲気もあるのだと思います。
圧巻は第四楽章で、怒涛としか言いようの無い激しい感情と喜びの感情が爆発しています。
第一~第三楽章で使用される打楽器はティンパニのみですけど、第四楽章で、シンバル・大太鼓・トライアングルの打楽器が
入りますが、ラスト近くにおけるシンバルの怒涛の連打は視覚的にも迫力満点です。
(あのシンバル連打は、同じくチャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」の中間部における
怒涛のシンバル連打を彷彿とさせてくれます)

この交響曲第4番を最初に耳にしたきっかけは、毎度のことですが私の場合吹奏楽コンクールでして、
吹奏楽コンクールにおいては、1970年代頃にチャイコフスキーの交響曲4番はフィナーレの第四楽章が自由曲として
演奏される事が大変多かったです。
第四楽章だけを聴いてしまうと、つい「チャイコフスキーの4番はどんちゃん騒ぎの喧騒なシンフォニーなのか・・?」と
誤解をされがちですので、もしも第四楽章を吹奏楽版で聴いてこの曲について興味を持たれたら、
是非是非原曲を全曲盤で聴いて頂きたいです。
ちなみにですけど、このチャイコフスキーの交響曲第4番第四楽章の吹奏楽コンクールにおいては、
オールドファンの皆様でしたら、福岡電波工業とか響南中学校と言われるのかもしれないですけど、
私としては、1978年の浜松工業とか85年の銅賞なんですけど伊予高校もお勧めしたい演奏です。
(福岡工業大学の演奏も大変印象的です)

上記で記したとおりこの交響曲は第四楽章で唐突に爆発炎上します。

まるで炎のような快進撃が展開され、そこには生きる喜びとか希望に満ち溢れています。

チャイコフスキーの手紙では、この楽章については前述のとおり、
「あなた自身の中で、どんな喜びも見いだせないというのなら、進んで人の輪の中に入っていきなさい、
人々の喜びの輪の中に入って、そして自分も喜びなさい・」
「言葉の終わるところから、音楽は始まっていく」
と記しているのですけど、この言葉を目にすると思い出してしまうのは、2011年に放映されていた「スイートプリキュア」です。


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前述のチャイコフスキーの言葉は、「スイートプリキュア」が一年間掛けて提示したテーマだとも思えます。

どういう事なのかというと、

音符がないなら創り出せばいい。
不幸のメロディの後に幸福のメロディを歌えばそれでいい・・・
不幸と幸せは二つで一つ・・・・
不幸だけを嘆いても意味が無いし、
幸せだけを求めてもいつの日か報いを受けてしまう。

不幸に遭遇したら、いつの日にか再度「幸せ」が訪れるようにやりなおせばいい。

そういう事なのだと思います。

チャイコフスキーの手紙のあの言葉と言うものは、
プリキュアに限らず、「人と人との関わり」においては何か共通するような気もします。

人間が抱えるストレス・悩みのほとんどは人間関係・対人関係なのかもしれないです。

「言った言わない・・・」
「あの時、自分はこういう意図でいったつもりなのに、相手には全く真逆に伝わっていた・・・」
「あの人は陰で自分の事を悪く言っている・・・」
「あの人は裏の顔と表の顔が違い過ぎる・・・」
「あの人を信じていたのに、自分は騙された・・・」
「どうして自分の気持ちがあの人には伝わらないのか・・」
「もうあの日には二度と帰れないのか・・」

色々とあると思うのです。そしてその原因も様々な背景があるのかもしれないです。

結局こうした人と人の間のトラブル・すれ違い・ストレスと言うものを解決する事は、
やはり直接、「その人と向き合っていくしかない」という事だと思いますし、
人間と言うものは時に面倒くさい事もあるけど、やはり人と関わっていかざるを得ないという事なのだと思います。

人と人の間のすれ違いの解決方法結は、その人に真正面からぶつかっていく事しかないようなないような気もします。

それがチャイコフスキーが述べていた「人の輪の中に入っていく」という事なのかもしれないです。


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上記でチャイコフスキーの交響曲第4番終楽章において、ラスト近くにおいて怒涛のシンバルの連打があると記しましたけど、
「ららマジ」でシンバルを担当するのは強心臓中学生の伊藤萌です~♪
伊藤萌はシンバルを担当しているクールで小さな中学3年生の女の子で、中学生ですけど東奏学園の器楽部でJKのお姉さまと
一緒に音楽を楽しんでいます。

クールな性格の後輩で、「・・・くるしゅうない、です。」など変わった口調でしゃべるのが個性でもあります。また落語を聞くのが
趣味というJCさんにしては大変珍しく渋い趣味を持っていたりもします。

先輩の小田桐アミを師と仰ぎアミのことを「師匠」と呼び慕っているのですけど、実を言うと小田桐アミは元々は
器楽部のシンバル奏者だったのですけど、シンバル奏者は時に「ここで怒涛の一撃を決める!」みたいなプレッシャーを
時に伴いますので、その重圧に耐えきれず、シンバル奏者の地位を後輩の伊藤萌に譲ったという経緯もあったりします。
そして小田桐アミはその後シンバルからピッコロ奏者にパート変更をしています。

アミがいなくなったシンバルは伊藤萌に継承されていますけど、伊藤萌は見た目の少し控えめな雰囲気とは全く異なり、
大変な強心臓の持ち主でプレッシャーに大変強く、「ここでシンバルの強烈な一撃が必要」という時にはしっかりと確実に
決めてくれる頼もしいJCさんであったりもします。

活発だけど小心者なアミと大人しいけど強心臓な萌の対比もとても面白いですね~♪

吹奏楽コンクールの規定においては、付属高校の場合、高校で部員が不足している場合は、付属中学校の生徒も
メンバーに加えてよいという規定があり、
それによって昭和の頃ですけど、明大明治・日大豊山・土佐女子高校などが高校の部だけど何人かの中学生が加わり
全国大会のステージに立ったという話もあったりします。

東奏学園器楽部ももしかしたらそんな感じだったのかもしれないですね。

伊藤萌以外には、ウクレレの卯月幸、エレキギターの卯月真中華、和太鼓の神田茜、鍵盤ハーモニカの瀬沢かなえ
といった中学生が東奏学園器楽部に在籍しています。

チャイコフスキーの交響曲第4番第四楽章のラスト近くにおけるシンバルの怒涛の連打は聴いていて視覚的にも迫力満点です。
シンバルで16分音符炸裂の怒涛のあの連打はクラシック音楽のジャンルでは大変珍しいと思います。

あの場面のシンバル奏者の体力的な負担と集中度とプレッシャーは相当なものがありますけど、強心臓の伊藤萌だったら
楽しみながらのびのびと連打しまくるのかもしれないですね~♪
「未完成」の交響曲は古今東西存在します。

どうして未完成の音楽作品が存在するのかと言うと、作曲半ばでその作品の完成を断念した事例や
作曲半ばで作曲者本人が死去した事例もありますし、事情はそれぞれあるのかもしれないです。
そしてそうした未完成の状態で残された交響曲作品の中でも、例えばシューベルトやブルックナー・マーラーのように
「形式としては未完成だけど一応1つの作品として解釈できなくもない状態まで仕上げられている作品」と言う事で
現在もプロの管弦楽団の演奏会におけるプログラムとして定着している作品もあれば、
「形式的にも音楽的内容の上でも全然物足りないし仕上がってもいない」と見なされ、演奏もほとんどされないという曲も
多数あったりします。

そうした未完成の音楽作品の中で一番有名なのは、何といってもシューベルトの交響曲第7番「未完成」ではないかと思います。

この曲は、後世の人が断片的に残された第三楽章のスケッチをベースに色々と補作完成させようとした事もありましたけど、
(往年の名作映画の「未完成交響楽」においても第三楽章の断片的スケッチを効果的に流していたのが大変印象的です)
結局は、神秘的としか言いようがない美しすぎる第二楽章だけでそっと終わらせるのが一番ベストだと思いますし、
その後にどんなスケルツォ&フィナーレが鳴ろうとも正直どうでもいいような感じさえします。
シューベルト自身、この美しい第一・第二楽章に続く楽章をどうすべきなのか悩んだ挙句
結局何もしないという結論に達したようにさえ感じます。
シューベルトの交響曲には未完成以外でも未完成状態の作品がありますので、シューベルトの交響曲観としては
「完成しない交響曲があってもそれはそれでいいのかも・・」という考えだったのかもしれないです。

他に完成していない交響曲と言うと、ブルックナー/交響曲第9番をあげたいと思います。
この交響曲は、終楽章は結局は完成していません。
ブルックナー自身、死の床でも何とか完成させようと色々と努力はしていたようです。
「テ・デウム」という合唱曲を終楽章に代用させようとした事もあったみたいです。
この交響曲自体、第一楽章と第三楽章がアダージョ 第二楽章がアレグロと言う事で、構成的に、緩ー急ー緩のシンメトリーを
形成していますし、何よりも第三楽章の完成度が極めて高いので、シューベルトの未完成と同様に、
音楽の形式としては未完成状態なのだけど、音楽の内容的に全然支障がないようにも感じますし、
あくまで形式的に交響曲として完成していないというだけの事であって、感覚的に完成したという解釈でも全然問題ないと
思ったりもします。
1984年の朝比奈隆指揮/読響の定期で、このブルックナーの9番が演奏されましたが、前半に「テ・デウム」を演奏していました。
改めて聴くと、第三楽章だけで十分で「テ・デウム」を終楽章に持ってくる必要はないという印象を当時強く感じたものです。
あの時の演奏会は演奏終了後のスタンディングオペレーションがすさまじくて、朝比奈さん自身も満足そうに何度も
舞台と舞台裏を往復されていて聴衆の声援に満足そうに応えられていたのは大変印象的でした。

マーラーの交響曲第10番もブルックナーの9番と同様の感覚もあり、第一楽章と第三楽章はほぽ完成し、
それ以外の楽章のメモも多数現存という事で、クックが補筆完成させていますが、
これはこれで十分マーラー自身の作曲とという事で通用すべきレベルだと思いますし、交響曲第10番を聴かずして
マーラーをかたる事なかれ・・と感じてしまいます。
マーラーが完全な形で完成させた最後の交響曲は交響曲第9番なのですけど、この曲は諦観・死への悟り・
この世の未練の浄化等が感じられる透明感溢れる一方で、死の予感に溢れた曲でもありまして、この交響曲第9番に
慣れ親しみすぎると、交響曲第10番を聴くとなんだか「一度死んだ人間がこの世に蘇ってきた・・」とか
「一度死んだ人間から見た現世の姿」みたいな感覚を感じたりもします。

未完成状態の交響曲で「これはちょっと通用しそうにも無いかな・・?」と感じるのがボロディンの交響曲第3番だと思います。

生前ボロディンがピアノで交響曲第3番のスケッチという事でグラズノフ達に聴かせ、ポロディンの死後、
その時の記憶をもとにグラズノフが第一楽章として構成し、第二楽章は、ボロディンの別の作品をグラズノフが
アレンジしたものですので、事実上、グラズノフ作曲のものとして聴いたほうがいいのかもしれないです。
エルガーの交響曲第3番も断片的なメモをベースに、ペインが無理やり補筆完成させたものですので、
これも実体はペイン作曲と言っても過言ではないかもしれないです。
チャイコフスキーの最後の交響曲と言うというまでもなく交響曲第6番「悲愴」ですけど、実は未完成作品ではありますが
交響曲第7番という作品もあったりはします。
交響曲第5番の次の交響曲として作曲が開始されのましたけど(曲のタイトルは「人生」というそうです)
途中でチャイコフスキーの気が変わり、ピアノ協奏曲という形式で作品を残そうとしています。
結局ピアノ協奏曲としても第一楽章のみ完成と言う事で未完成に終わり、この第一楽章だけ残された作品は
ピアノ協奏曲第3番と言う事で今でも稀に演奏・録音がされることもあるようです。
交響曲としては、ピアノ協奏曲第3番第一楽章を第一楽章に充て、残りの三つの楽章は他の作品を転用・補作したものを
当てていますけど、率直な感想としては「チャイコフスキーの交響曲は6番までとマンフレッド交響曲があればそれで十分」と
感じさせるものは間違いなくあると思ったりもします。

作曲家も、自分の「死」を意識したら、生前の間に過去の作品はきちんと整理をすべきなのかもしれないです・・
(シベリウスは交響曲第8番という作品も完成直前まで仕上げていたそうですけど、結局は生前に破棄したそうです)

シューベルトの「未完成」なのですけど、実はこの交響曲は、昭和~平成初期の頃のプロの管弦楽団の演奏会でも
CDの解説においても交響曲第8番「未完成」と表記されていました。
しかし今現在は8番と表記されることはほとんどなく、交響曲第7番「未完成」と表記されることが一般的です。
そして現時点では一応シューベルトの最後の交響曲とされている「ザ・グレート」交響曲に至っては、諸説入り混じっていて
第二次世界大戦前あたりまでは交響曲第7番と呼ばれていて、人によっては交響曲第9番説を唱えていたり、
はたまた「実はザ・グレートは交響曲第10番である」という事を唱えている人もいたりもします。
どうしてこんな事になったのかと言うと、シューベルトには未完成状態の作品が多い事に加えて、シューベルト自身が
手紙で「こんな交響曲を書いた」という言及があるものの、肝心の楽譜そのものが発見されず、
幻の存在とされてきた「グムンデン・ガスタイン交響曲」という謎の存在があったりするからです。
シューベルト自身もあの世で、自分の残してきた未完成作品と手紙のおかけで後世の音楽研究家の皆様にこんなにも
大混乱を引き起こしていたとは・・と苦笑いをされているのかもしれないです。

シューベルトの交響曲の表記は、交響曲第1番~6番までは何の問題もありません。

上記で触れたとおり、シューベルトの交響曲「ザ・グレート」は現在では交響曲第8番「ザ・グレート」として認識されていますが、
この交響曲は過去においても今現在でも諸説多々あるようでして、7番説・8番説・9番説・10番説が唱えられています。
7番説ですと、交響曲として完全な形で残された1~6番までを成立順に並べ、やはり完成されたザ・グレイトを
7番目の交響曲として位置づけし、シンフォニーの概念としては未完成状態である未完成交響曲を交響曲第8番として
解釈したという考え方です。
9番説というのが、交響曲第6番作曲後に作られ、一応全ての楽章のピアノスコアは現存し、ほんの一部だけ
オーケストレーションされたその後放棄された作品を交響曲第7番として認め、未完成交響曲を交響曲第8番とし、
「ザ・グレート」を交響曲第9番とする考えです。この説は平成前半まで日本の管弦楽団でもプログラム表記の際の
根拠になっていたと思われます。
そしてある意味珍説とも思われる第10番説なのですけど、これはシューベルト本人が手紙でその存在を示唆していて
幻の存在とされてきた「グムンデン・ガスタイン交響曲」という謎の存在を、その調性も作曲時期すらも明確になっていないけど
未完成交響曲の後にくる第9番として認定し、「ザ・グレート」を10番とするという説です。
現在においては、そのグムンデン・ガスタイン交響曲をその存在自体を疑問視する見解もありますし、
「ザ・グレイト」を作曲する前段階の下書的作品ではないのか・・?という意見も根強くありますので、この10番説を唱える人は
極めて少ないといえそうです。
(補足しますと、グムンデン・ガスタイン交響曲らしき作品と思われる筆写譜が後日発見されて、その曲の主題も長さも
ザ・グレートとよく似ているそうです。但しその筆写譜自体、偽物か本物かは意見が分かれているそうです・・)
1978年の国際シューベルト協会の見解としては、全ての楽章のピアノスコアは現存し、ほんの一部だけオーケストレーション
されその後放棄された作品と幻のサン品とも言えるグムンデン・ガスタイン交響曲の2曲をシューベルトの番号付交響曲から
外し、未完成交響曲を正式に交響曲第7番「未完成」とし、「ザ・グレート」を交響曲第8番と定め、これが今現在の
オーケストラのプログラム表記における根拠とされています。

シューベルトにしてみたら、放棄した作品や何気なく記した手紙の一節で後世の人たちがこんなにも苦労するとは
思ってもいなかったという事なのだと思います。

シューベルトの「ザ・グレイト」は多分ですけどシューベルト最後の交響曲であるとは思いますけど、
上記のマーラーの交響曲第9番でもちらっと触れましたけど、作曲家の場合、
「もしかしたらこの交響曲は自分の現在の体力や創造力等を考慮すると、これが最後の作品になってしまうのかもしれない」と
意識してしまうと、 何かしら死を意識した作品になってしまうのはある意味当然なのかもしれないです。
その最後の作品に何を伝えたいのかというそうした「ダイニングメッセージ」を意識して、その作曲家の最後の交響曲を
聴くという事は意外と興味深いのかもしれません。
自分自身の最後の交響曲に「死」の香りをプンプンと残して旅立った作曲家と言うと、チャイコフスキーとマーラーが
その典型例といえそうですし、私だったらここにマルコム・アーノルドを加えたいです。

私の感じ方としては、マーラーの交響曲第9番は、死を受け入れたとか、死に対しては諦観の感覚を持ち、
諦めの気持ちをもって潔く死を受け入れたから未練はないという感じがあったりもします。
特に第一楽章の冒頭の低音とミュートを付けたホルンとハープのあの独特な響きとか
そ第四楽章の「全ては空の下・・すべては消えてなくなる」みたいな音楽を聴いてしまうと
一度死んだはずの人間が何かの間違いで生き返ってしまい、
死者の感覚として「現世=この世」を見てしまう・・みたいな感覚も感じたりもします。
チャイコフスキーの場合は、いかにもこの世に未練たっぷりで、
「死にたくないよ、死にたくないよ・・、まだ自分にはやるべき事が残っているというのに・・」といったチャイコフスキーの
心の叫びがエコーしてくる感覚があります。
死の意識を自身の最後の交響曲に反映させたと思われる21世紀に逝去された、現代人・アーノルドの感覚は
どのようなものだったかと言うと、それは痛々しいとしか言いようがない音楽だと思います。
その点は、同じくイギリスの作曲家のヴォーン=ウィリアムズと何か近いものがありそうな気がします。
アーノルドもV.ウィリアムズも、共に交響曲第一番第一楽章冒頭で「高らかな希望」を謳い上げる事で作曲家生活を
スタートさせたのですけど、最後の交響曲第9番においては、二人とも長い道程の中で果たし得なかったものを思う苦渋、
または断念という気持ちを感じたりもします。
V.ウィリアムズの場合は、それが何とも言えない寂寥感を感じさせてくれます。
アーノルドの場合は少し違うような気がします。
第四楽章はずっと沈鬱で陰々滅々としたギスギスした荒涼感に閉ざされた音楽が20分以上延々と展開され、
正直聴くだけで自殺したくなるほど「痛い音楽」がかすかに鳴り響きますけど、ラストのラストで光がさーーっと
差し込んでくるように聴こえます。
最後にアーノルドが渾身の力を振り絞って希望の光を楽譜に残したような感覚があります。

同じ「死」を意識した交響曲でも、作曲者よって違いは相当出てくるものだと思われます。

最後に・・余談ですけどデンマークの偉大なる作曲家、ニールセンはその生涯に6曲の交響曲を残しました。
(日本においては、交響曲第4番「不滅」がやたらと有名ですよね~)
そしてニールセンの最後のシンフォニーは交響曲第6番「素朴なシンフォニー」という不思議な曲です。
上記で触れた通り、最後の交響曲というと、例えばマーラー/交響曲第9場番とかチャイコフスキーの「悲愴」のように
「死」を意識しがちなのかもしれないですけど、ニールセンの6番からは不思議とそうした死の要素はあまり感じさせません。
むしろ、音楽の楽しさ・軽快さというものを最後の最後で表現したかったのかもしれませんけど
重厚感・重苦しさ・悲痛さというものはあまりなく、気取らない自然さみたいな部分が非常によく出ていると思います。
一言で言うと「無邪気な交響曲」という感じなのかもしれないです。

この曲は以下の四楽章で構成されています。

Ⅰ.グロッケンで曲が開始され、大変愛くるしいです。

Ⅱ.ユーモレスク

Ⅲ.アダージョ

Ⅳ.変奏曲

この交響曲第6番の最大の特徴は第二楽章だと思います。
第二楽章は管弦楽のシンフォニーなのに、なんと使用される楽器は管楽器と打楽器のみで弦楽器は全く使用されません。
この楽章をCDで聴くと一目瞭然なのですけど、(当たり前ですけど)「吹奏楽の響き」のように聴こえます。
第三楽章の悲痛なアダージョも陰鬱という感じではなくて、死を言意識させる要素はあまりないようにも感じます。
そして第四楽章も、ラストは唐突にファゴットの持続音で閉じられます。

このラストのファゴットの響きを聴くと、唐突という感じもあるけど
一人の作曲家として「何かやり残したものがあった」みたいな何か少し後悔の念みたいなものは少しだけ伝わってくるような
気もします・・・


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上記にてニールセンの交響曲第6番「素朴なシンフォニー」終楽章の最後は唐突にファゴットの持続音で閉じられていて、
とてつもなく奇妙な感じがするし、自分の生涯において少しばかり「やり残したことがある・・」という未練の感情が
このファゴットの音からは感じられると記しましたけど、ららマジにおいてファゴットを担当されているのは、
サックス奏者の橘アンナの双子の妹の方の橘レイナです。

橘レイナの雰囲気は、姉のアンナ以上にクールでミステリアスな美少女だと思います~♪

そしてそうしたミステリアスな雰囲気は、ニールセンの交響曲第6番終楽章におけるファゴットの奇妙な持続音だけで
閉じられるという雰囲気につながるものがありそうです。


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シューベルトの交響曲第7番「未完成」の美しさはこの世のモノとは思えないのですけど、
特に第一楽章のフルート・オーボエ・クラリネットの木管アンサンブルの美しさは何度聴いてもゾクゾクさせられるものが
あります!

フルートの結城 菜々美は、チェロの阿達悠花、胡弓の有栖川 翼、グロッケンシュピールの神代 結菜、箏の橋本 ひかりと並ぶ
ららマジ屈指の美少女の一角だと思います~♪
(というか、ららマジに出てくるJCさん・JKさんはみんなとってもかわいいですよね~♪)
グスタフ・ホルストというと吹奏楽経験者の皆様の感覚で申し上げると、吹奏楽のための第一組曲と第二組曲という
吹奏楽オリジナル作品の中でも不滅の名曲を作曲された偉大なる作曲家という評価は既に確立していると思いますけど、
管弦楽作品としては組曲「惑星」という近代管弦楽曲の中で最も人気のある曲を後世に残されていて、
この素晴らしい名曲はイギリスの管弦楽曲を代表する曲と言えるのは間違いないですし、
特に第Ⅳ曲・木星の中間部のメロディーはクラシック音楽に全然興味がない方でもテレビCMのBGMなどでも大変馴染みが
あると思いますし、一度ぐらいはあの高揚感溢れる素晴らしいメロディーは「どこかで聴いたことがある・・」とお感じになると
思いますし、日本でも2004年に平原綾香の曲でもある「Jupiter」で木星の中間部のメロディーが使用された事でも
馴染みがあると思われます。
木星の中間部のメロディーは、イギリスの愛国歌やイングランド国教会の聖歌ともなっています。

組曲「惑星」はいうまでもなく太陽系の惑星をモチーフにしていますけど、「地球」がこの組曲の中に含まれていないのは
この曲は天文学としての惑星ではなくて占星術から着想を得たためでもあったりします。
ホルスト自身、若い頃はプロの管弦楽団でトロンボーン奏者として活躍していた時期もあり、そのせいなのか
金管楽器の扱い方は大変巧みですし、組曲「惑星」の第Ⅰ曲、火星の中に吹奏楽ではお馴染みのユーフォニアムにソロを
担当させているのも自身の金管奏者としての経験があるからなのかもしれないです。
そして第Ⅶ曲、海王星に女声合唱が使用されている事もあり、組曲「惑星」としての全曲演奏されることは意外と少ないという
事もあったりしますけど、録音・発売されているCDは膨大なものがあったりします。

組曲「惑星」は下記の7曲から構成されています。
(火星と水星の位置が入れ替わっていること以外は、各楽章は軌道長半径上で太陽から近い順番に配列されています)

Ⅰ.火星、戦争をもたらす者

Ⅱ.金星、平和をもたらす者

Ⅲ.水星、翼のある使者

Ⅳ.木星、快楽をもたらす者

Ⅴ.土星、老いをもたらす者

Ⅵ.天王星、魔術師

Ⅶ.海王星、神秘主義者

Ⅰの火星のホルンの雄叫びをはじめとする金管楽器群の咆哮にはいつ聴いてもスカッとさせられるものがあります。
落ち込んでいる時とか気分を奮い立たせたい時には、火星はうってつけだと思います。
火星の冒頭の「ダダダ・ダン・ダン・ダダ・ダン」という5拍子の執拗なリズムの繰り返しは、耳に残りますね~
特にレヴァイン指揮/シカゴ響の演奏の「火星」を聴いてしまうと、他の演奏が全て物足りなく聴こえてしまうほどの
大音響&大迫力があって、この演奏は是非是非お勧めしたいと思います。
上記で記した通り、火星の冒頭には「ユーフォニウム」と言う管弦楽の世界では馴染みがない楽器が使用され、
高音域のソロを朗々と響かせます。
組曲「惑星」はやはり第Ⅳ曲の木星が最も人気があるし、誰しもが一度は聴いた事があるクラシック曲だと思います。
快楽の神らしいスケールの大きく且つメロディーラインが親しみやすい展開がなされていきます。
特に中間部のあの堂々としたメロディーラインは感動すら覚えてしまいますし、あの高揚感は、エルガーの
行進曲「威風堂々」第一番の中間部とラストにおけるあの感動的な高揚感に勝るとも劣らないものがあると思います。
ホルンの勇壮なメロディーラインに乗っかる形のタンバリンも実にいい働きを見せていると思います。
天王星も大変面白いと思います。飛んで跳ねるような曲でもありますが、作曲者自身の多少の悪意というか
悪戯みたいな要素があるようにも感じられます。
天王星の終盤からラストの海王星に至るシロフォーンの扱い方はユニークですしある意味グロテスクですけど、大変
効果的だと思います。
終曲の海王星は一転して神秘の曲です。メロディーがほとんどなく空間を彷徨い続けるような感じです。
一見、無調音楽のように聴こえない事もないですし、調性すら喪失しているような印象すらあります。
ラスト近くで女声コーラスが入りますが、ただ「ウーウー」とハミングするだけです。
この女声コーラスもフェイドアウトというクラシックでは非常に珍しい終わらせ方をするのでその点でも印象的です。
実際の生の演奏会でも、女声コーラスは舞台に顔を出すことはなく、
舞台袖からハミングし、舞台袖→舞台裏→階段などと女声コーラスが移動する事で意図的に声量を落していき、最後は
消え入るように閉じられます。
最後の1小節に反復記号が記され、「この小節は音が静寂の中に消え入るまでリピートせよ」と書かれていますけど、
CDでの演奏はフェイドアウトして終わらせていくという方法を採用しています。
海王星の女声コーラスでの都市伝説というと、舞台袖→舞台裏→階段あたりとコーラス隊が移動を重ねても
声量がまだコンサート会場に届いていて、合唱指揮者が女声コーラスをエレベーターの中に導き、ドアを閉めて昇降させたら
やっと声量が会場に届かなくなり、無事に演奏が静かに終了したというエピソードもあったりするそうです。

20世紀の頃の音楽解説書においては、
ホルストが組曲「惑星」を作曲した頃は冥王星はまだ発見されておらず、海王星が終曲となったと記されている事がありますが、
組曲「惑星」完成後に新たに発見された冥王星について、実はホルスト自身もその新・惑星に大変興味を持っていて
冥王星をモチーフにした曲の作曲を開始したものの、未完成のままホルストは逝去してしまいます。
現実的な話で言うと、2006年8月の国際天文学連合総会における新定義において、冥王星が惑星から除外されてしまい、
名実ともに「海王星」が組曲「惑星」の終曲となった事は大変興味深いものはあります。

冥王星が惑星の一つとまだ定義付けられていた2000年に、冥王星を組曲に追加して現代的に補完しようとする試みもあり、
その中で最も有名なのが、ホルストの研究家でイギリス・ホルスト協会理事の作曲家コリン・マシューズによる
「冥王星、再生する者」なのだと思います。
コリン・マシューズによる「冥王星」は、ケント・ナガノから委嘱を受ける形でハレ管弦楽団のために作曲され、
2000年5月に初演されていたりもします、
冥王星は、海王星で使用した女声コーラスを再度用いている事と、全体的な雰囲気が海王星的な無調的空間を彷徨うな曲でも
ありますので、ホルストの惑星の続編としても現代的感覚を加味したと言う事でも大変面白い試みだと思いますし、
私的にはホルストの継承作品としては申し分のない曲であるように感じられます。
海王星も冥王星も特にメロディーらしい旋律も無く、宇宙空間を神秘的に漂っている共通点があるのが、違和感を感じさせない
理由なのかもしれないですし、冥王星のラストにおいて意表を突く形で女声コーラス―の強めのオ―ーという発声で
閉じられているのも大変面白いです。

上記の新定義で冥王星が惑星から除外されるニュースが広まると、マシューズの冥王星は注目度が高まり、
特に、サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏による「惑星(冥王星付き)の国内版は、
クラシック音楽としては異例の5日で1万枚という異例のセールスを記録し、
冥王星が惑星から外れることで、逆にその存在感を増すという妙な結果になった事も当時一部で話題になっていたものでした。
2000年の大友直人指揮/東京交響楽団の定期演奏会で
組曲「惑星」の演奏が終了と同時にマシューズの「冥王星」も演奏され、ほとんど違和感がなかった事はよく覚えています。


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組曲「惑星」は太陽系の惑星をモチーフにした曲ですけど、20世紀末近くにおいて、太陽系の惑星が一直線に並ぶとか
はたまた地球を中心にした十字架の形で並んでしまうグランドクロスが起きてしまい、その時が人類滅亡の日であると
やたらに煽る世紀末的な雰囲気も一時期ありましたね・・

当時爆発的に売れていた「ノストラダムスの大予言」においては、1986年に惑星一直線が起きて第三次世界大戦が
勃発するとか1999年8月に太陽系の惑星がグランドクロスを起し、その十字架の中心にいるのは地球自身で、
その年にこそまさに黙示録とか旧約聖書で提示されているような「最後の審判」が起き、全人類が滅亡するみたいな事を
盛んに煽り立てていて、当時の中学生・高校生たちあたりに相当のインパクトはあったのかな・・・と
今にして思うと感じる事があります。
結果的に1999年7月の「恐怖の大王が降臨」とか「全人類滅亡」と言うのはとてつもないガセネタであったというのは、
皆様、既にご存知の通りの話だと思います。

私が子供の頃は、人類滅亡の主要因は、宇宙人による地球侵略なんて荒唐無稽な事が
むしろ当時の子供たちの主なイメージと言えたのかもしれないです。
今現在は、地球の終焉というと核戦争の悲劇または地球規模の環境破壊が原因といえそうですけど、どちらにしても
惑星全体から眺めてみると、地球の存在自体がちっぽけなものですので、
理想論をあえていうと、地球全体規模で「それではどうすれば破壊の悲劇を防ぐことはできるのか」とか
「どうすれば世界各地で広がる貧富の差の拡大と格差拡大を防止できるのか」という事を考えることがも地球全体の
課題と言えそうですね。
クラシック音楽の中で、もしかしたらなのですけど、全ての楽器の王様・女王というとそれはピアノなのかもしれないです。

ピアノはピアノソナタ等単独作品としても古今東西たくさんの素晴らしい名曲がありますし、ピアノ五重奏曲といった
室内アンサンブルとしてもその存在感は際立つものがありますし、
ピアノの存在感を最大限発揮したジャンルが管弦楽団と一台のピアノの対話とも言うべきピアノ協奏曲なのだと思います。

18~20世紀初頭までのクラシック音楽の作曲家の皆様たちは、ピアノを管弦楽団内の一つのパートとして使用する事自体が
ナンセンスな話であり、そうした使い方を奏者に指定する事自体がありえない話だったのかもしれないです。
例外としてはサン・サーンスの交響曲第3番「オルガン付」~第二楽章第二部でのピアノ一台で二人の奏者による
装飾音符による連弾ぐらいなのかもしれないです。
(あの部分は二人のピアノ奏者の出番はその数十秒の連弾の部分だけですので、二人とも基本的には退屈そうですね~)

管弦楽の世界では、上記で触れた通り、管弦楽にピアノを用いる場合は、ピアノ対管弦楽の対話という事で「協奏曲」としての
形式が用いられていましたけど、そうした風潮に大きな穴を開けたのが、バレエ音楽「春の祭典」でもってそれまでの
クラシック音楽界の常識をひっくり返したとも言われるストラヴィンスキーだと思います。

ストラヴィンスキーはその出世作のバレエ音楽「火の鳥」でも既にピアノを効果的に用いていましたけど、
その次の作品のバレエ音楽「ペトルーシュカ」でもって更にそうした考えを推し進めています。
ストラヴィンスキーは、管弦楽作品を創造する過程において、ピアノを協奏曲的な主役としての使い方ではなくて、
単なる管弦楽団内の一つの楽器としての役割に徹させる事で、むしろピアノの新しい価値と役割を認識させたような
感じもあったりします。
つまりピアノをあくまで管弦楽団内の一つの素材という事にし、管弦楽団内で例えばクラリネットパート、トランペットパート、
チェロパートがあるのと同じような感覚で「ピアノパート」というものを積極的に活用したという事において、
後世の作曲家に多大な影響を与えたと言えるのかもしれないです。

結果的に20世紀以降の管弦楽作品の中にもごく普通にピアノを管弦楽団内の一パートとして使用している作品も
たくさんありますし(特にバルトークやショスタコーヴィッチ、プロコフィエフに顕著なのかもしれないです)
それによって管弦楽団が醸し出せる音色の幅が広がり、表現の多様性がより大きくなったと言えそうです。

バレエ音楽「ペトルーシュカ」は、指揮者によっては楽団内のピアノ奏者ではなくて、外部からソリスト的にピアノ奏者を
招聘する事もあったりするほどピアノには大変大きな役割が与えられています。
(特にそれが最大限発揮しているのが第一場のロシアの踊りの場面と第四場なのだと思います)
聴き方によっては「このバレエ音楽はピアノ協奏曲なの・・?」と感じるくらいピアノは相当効果的に使用されていますけど、
この曲はピアノ協奏曲ではありませんし、あくまでピアノは管弦楽団内の一つのパートに留まっています。
例えばロシアの踊りの場面とか第3場において、ピアノ奏者の両手の扱いはどことなくですけど、打楽器のシロフォン・マリンバを
彷彿させるものがあるくらいメカニックであるのが大変印象的でもあります。
曲のメロディーラインをずっと担当しているとか目立つソロがあるとかそういう訳ではないのですけど、陰に表に
そのリズムの切れ味と音色の多彩さによって管弦楽全体のサポートに徹しているという印象もあるくらい、主役ではないけど
「いい仕事をしているね~」と感じさせるものが大ですし、むしろピアノ協奏曲以外のジャンルにおけるピアノの無限の可能性を
示唆した作品と言えるのは間違いないと思います。

そしてそうした管弦楽団内の一つのパートとしてのピアノの世界は、その後、例えば、レスピーギの交響詩「ローマの松」や
バルトークのパントマイム「中国の不思議な役人」や「舞踏組曲」等に受け継がれていき、
ショスタコーヴィッチの交響曲の中で更に開花したと言えそうです。

ショスタコーヴィッチの交響曲第5番は、プロコフィエフの交響曲第5番と共に「20世紀の数少ない名交響曲の一つ」だと
思いますが、その第一楽章の開始から中盤までは大変重たく悩み深い空気が流れています。
そしてその重たい第一楽章の空気を一変させ、曲の雰囲気をガラリと重い→活発さ、ゆるやか→速いへと変えるきっかけを
作っている楽器こそがピアノなのです!
ピアノの低音叩きつけから流れが一気に変り、中盤のクライマックスを開始させる大いなる呼び水としての役割を十分すぎる
ほど果たしているのが、結果的にこの交響曲全体ではわずか数十秒程度の出番に留まるピアノだと思います。
あの第一楽章を聴くと、改めてピアノという楽器は別にいつも主役でいる必要もない・・時にはこうした空気を変える役割だって
いいではないかという事を意識してしまいそうです。
ちなみに管弦楽団の現場では、ショスタコーヴィッチの交響曲第5番は全ての楽章にチェレスタパートもありますので、
ピアノ奏者とチェンバロ奏者は普通は兼任していますので、ピアノの出番が終わったらヒマ死という事ではなくて、
ちゃんとチェンバロとしての仕事も残されてはいます。





上記で出てきたショスタコーヴィッチの交響曲ですけど、当ブログの過去記事で何度か書いているように、
例えば交響曲第9番~第四・第五楽章とか交響曲第10番~終楽章、交響曲第7番「レニングラード」~第一楽章における
オーボエの掛け合いの場面などのように、ショスタコーヴィッチの交響曲においては、ファゴットはとてつもなく優遇されている
楽器と感じますし、その使い方は上記のピアノと同様に大変巧いと感じます。

そしてショスタコーヴィッチの交響曲第5番~第二楽章においてもファゴットは大変巧い使い方をされていて、
そうした使用を見るとファゴットの奥深さを改めて感じてしまいます。

ららマジの器楽部のファゴット担当の橘レイナです。

アルトサックス担当の橘アンナは、レイナの双子の姉の方です。

橘レイナは、橘姉妹のミステリアスな可愛いお姉さんの方でしてアンナの双子の妹の方です。
バトル時の武器はファゴット型の狙撃銃で、複数の銃を同時に発射することもできるそうです。

お顔は双子という事でアンナとかなり似ている雰囲気もありますけど、アンナがボーイッシュな雰囲気なのに対して、
レイナの方はいかにも女の子という感じで、かわいらしい!というオーラに溢れていると思います。

橘レイナが奏でるファゴットによるショスタコーヴィッチの交響曲の奥深い世界も味わってみたいですね~♪

平成の頃に発売され、クラシック音楽のジャンルなのに異例の大ヒットアルバムとなった「カラヤン・アダージョ」に
象徴されるように、クラシック音楽の中には大変分かりやすくて人の心にまっすぐと伝わり、思わず涙ぐみそうな美しい
メロディーラインの曲もたくさんあったりします。
代表的な楽曲として、例えば、マーラーの交響曲第5番~第四楽章・アダージェットとかシューベルトの
交響曲第7番「未完成」~第二楽章とかマスカーニ:ーの歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」~間奏曲とか
バッフェルベルのカノンとかJ.S.バッハのG線上のアリア とかチャイコフスキーの弦楽セレナード ~第3楽章とか、
エルガーのエニグマ変奏曲~ニムロッドなどなど多数あると思います。

そしてこの世のモノとは思えないあまりにも美しすぎてジーンとなってしまうクラシック音楽のメロディーというと、
ラフマニノフの作品は絶対に避けては通れないと思います。
当ブログのクラシック音楽カテゴリの中でも、ラフマニノフは登場する機会はかなり多いと思うのですけど、
その中でも「そしてこの世のモノとは思えないあまりにも美しすぎる音楽」にぴったりと当てはまるのが
ピアノ協奏曲第2番(特に第一楽章と第二楽章)なのだと思います。
第一楽章の遠くから聞こえる鐘の音のような音の表現や第二楽章の甘くせつないメロディーラインと終わり近くの
弦楽器によるメロディーラインの再現とそれに対するピアノの絡みや第三楽章の決別とした凛々しい雰囲気など
全ての楽章が名曲の名に恥じない光り輝く素晴らしい曲だと思います。

そしてもちろんピアノ協奏曲第2番も素晴らしいですけど、それと同じくらいあまりにも美しいメロディーラインの連続と
郷愁とメランコラリー溢れるラフマニノフの管弦楽作品と言うと、

〇交響的舞曲

〇交響曲第2番

〇パガニーニの主題による狂詩曲

といった曲も強烈に推したいと思います。

交響的舞曲の第一楽章と第三楽章の中間部におけるあの郷愁感溢れるメランコリーと美しさ、
交響曲第2番第三楽章のどこまでも延々と続く甘くせつないメロディライン
パガニーニの主題による狂詩曲における第18変奏曲のあの美しさは本当に「素晴らしい!」としか言いようが無いです!
この世のものとは思えないはかない美しさに満ち溢れています。

ラフマニノフの作品は、ロシア革命勃発による亡命前と亡命後においても曲の雰囲気自体に大きな変化はないと
感じられます。
亡命後においては、ラフマニノフの祖国のロシアに対する想いと郷愁の要素がさらに加わり、そうした事が
この世モノとは到底思えないような美しさに繋がっているのかもしれないです。

1917年のロシア革命によりロシアはソビエト連邦という社会主義国家となり、国家体制が激変します。
元は貴族の血筋という事でそうした共産主義政権を嫌ったラフマニノフは、不本意ながらも祖国を離れアメリカへの亡命を
決断します。
似たような背景の作曲家というとプロコフィエフもそうなのですけど、プロコフィエフは一度亡命したものの、
祖国の事が忘れられずに、スターリン体制化のソ連に復帰をします。
それに対してラフマニノフは「一度決断した事は翻す事は出来ない」という元からの頑迷な性格もあったのかもしれないですし、
はたまたスターリン体制化の粛清と弾圧と統制まっしぐら状態の祖国に対する不信感もそこにはあったのかもしれないです。
結局ラフマニノフは亡命以降は一度も祖国に足を踏み入れる事も無く、祖国の事に対する郷愁の念は持ちつつも
その生涯を主にアメリカで過ごしています。
アメリカでは作曲家というよりはむしろコンサート・ピアニスト、つまり演奏家として活躍します。
ラフマニノフは2m以上の巨体で手も非常に大きく、指の関節も異常なほど柔軟でピアノを弾くには恵まれ過ぎた体格の
持ち主であり、その演奏技術も非常に高く、リストと並び称されるほど音楽史上有数のヴィルトゥオーゾとしても有名です。
そのため、亡命後のアメリカにおいては演奏家としての方が知名度が高く、ピアニスト・ラフマニノフとして評価される事の方が
大きかったそうです。
(似たような事例としては、作曲家としての顔よりも指揮者の顔としての方が高く評価されがちなバーンスタインとか
生前中は作曲家というよりは指揮者としての評価と名声が高かったマーラーと相通ずるものがあるのかもしれないです)
そのため、アメリカ亡命以降のラフマニノフは演奏家としての仕事があまりにも多忙過ぎて、作曲家としての時間を
なかなか持てなかったという事情もあり、アメリカ亡命以降の作品は、例えば、交響的舞曲・交響曲第3番・ピアノ協奏曲第4番、
そして本記事で少しばかり取り上げさせて頂く「パガニーニの主題による狂詩曲」などごく限られた作品に留まっています。

パガニーニの主題による狂詩曲』は、最晩年の作品の「交響的舞曲」と合わせてラフマニノフの望郷の念が
かなり色濃く出ていると言われています。

タイトルにはピアノという文字や協奏曲という形式も表記されていませんけど、実質的には変奏形式を伴ったピアノ協奏曲と
言えます。
曲自体は主題と第1変奏~第24変奏の形式で構成され、演奏時間は大体24分前後です。
管弦楽で演奏される主題にパガニーニのカプリース第24番を用いていて変奏自体はラフマニノフのオリジナルとなっています。
この種の変奏曲と言うのは一般的に最初に主題を奏でて、それに対して変奏が展開される傾向があるのですけど、
この曲は、堂々とした序奏の後に第一主題が奏でられ、第二主題に入る前に、そのパガニーニの元ネタの主題がピアノで
奏でられ、曲が一度中断されたような形の後で再度第二主題以降が展開されていきます。
単なる主題と変奏にならないようにラフマニノフも色々と曲の中に工夫をしていて、例えば曲の中に
グレゴリオ聖歌の「レクイエム」の怒りの日のテーマも取り入れるなど最初から最後まで飽きることはまずないと思います。

そしてこのラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」の中で最も有名な箇所は、誰が何と言っても
第18変奏Andante cantabile(アンダンテ・カンタービレ)だと思います。
パガニーニの主題の反行形を最初はピアノが独奏で演奏し、その後オーケストラがそれを受け継いで演奏するのですけど、
この第18変奏だけ演奏されることも多いほど、この第18変奏の人気は高いものがあり、テレビCMや映画でもBGMとして
何度も使用されています。

映画のBGMとして使用された事例として、

三つの恋の物語(1953)
ラプソディー(1954)
ある日どこかで(1980)
愛と死の間で(1991)
恋はデジャブ(1993)
麗しのサブリナ(1995)
ONIN(1998) といった作品が挙げられると思います。

それにしてもあの第18変奏曲は、本当に人の心に何かを伝えるものがあります。
いつ聴いても、何か涙が自然と出てきそうな不思議な哀愁・郷愁がそこには溢れていると思います。
この曲を全部聴くのはちょっとかったるい・・と感じられそうな方は是非ぜひ一度You tube等で第18変奏曲だけでも
聴いて頂ければ幸いです。
多分ですけど多くの人は「どこかで聴いたことがある」とか「あ、この曲がそうなのか~」と感じられると思います。

私が仙台の実家にいた頃、当時よく東北放送(関東で言うTBSラジオ)が掛けられていました。

日曜日の朝、東北放送では、当時「キューピー・バック・グラウンドミュージック」という音楽番組があり、
この番組のエンディングテーマがラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」の第18変奏曲だったのです。
当時は曲名も作曲者名も何も知らず、何となく聴いただけという感じでした。

この曲を知ったのは、1993年の5月の東京シティフィルのサントリーホールでの演奏会でした。
前半がハイドンの交響曲第101番「時計」とパガニーニの主題による狂詩曲、後半がチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」で、
ピアノソリストは中村紘子、指揮者は十束尚宏でした。
当時は、この「パガニーニの主題による狂詩曲」という曲は知りませんでした。
曲が開始されると、パガニーニのあの主題は結構有名ですので「あ、この主題は聴いたことがある」という感じでしたけど、
第18変奏が始まると本当に驚きました。
子供の時聴いた「キューピーバッググラウンドミュージック」のED曲が流れてきていて、
「あのメロディーは実はこの曲だったのか~!?」と改めて気が付き、懐かしいような、嬉しいような気持ちとなりました。
子供の頃の記憶は、数十年経過していても意外とはっきりと残っているものでもあるものですね。

当日のサントリーホールの演奏会は当日券で購入し、P席(演奏者の後側の席)でしたので、指揮者や中村紘子の表情は
間近で見ることが出来ました。
私の座席の目の前にバスドラム・シンバル・グロッケン等の打楽器が配置されていて、ちょうど私の座席の真正面が
グロッケンシュピールが配置されていて、一曲目のハイドンの時計は打楽器はティンパニのみですので、グロッケン奏者は
その際は配置されておらず、グロッケンの「「パガニーニの主題による狂詩曲」のパート譜面をマジマジとお目に掛かる事が
出来た事は大変貴重な経験だったと思います。
もっとも曲のほとんどは休符という指示でしたし、グロッケン自体は重要なソロがある訳ではないですけど、部分的に
スパイス的な役割も見せてくれていて、天国的な響きの色彩を時折目の前で伝えてくれていて、大変印象的でもありました。


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ららマジで、グロッケンシュピール(鉄琴)を担当している高校3年生の女の子は、神代結菜お姉さまです~♪
神代結菜は器楽部創立メンバーの一人でもあります。

余裕たっぷりの柔らかな物腰、豊満なスタイルと、まさしくお姉さまといったタイプのすてきなJKさんですけど、
その醸し出される大人の魅力は、主人公のプレイヤーすらも惑わせてしまう魅力なのだと思います。
だけど昔から優雅ですてきなお姉さまだったという訳ではなくて、実は昔は孤独にさい悩まされ、心も荒んで荒れていた時期も
あったとの事で、その意味では酸いも甘いもわかるすてきなお姉さまという事なのだと思います。

誰にでも分け隔てなく優しく接しますけど、以前の孤独の反動からなのか好意を抱いた相手には
少々暴走気味な愛情表現を見せることもあるそうでして、
マイペースすぎるあまり、時に理由なく学校をサボるという悪癖もあるそうです。

意外にも実は器楽部の部内でトップクラスの怪力の持ち主であったりもしまして、林檎を片手で握り潰せる七瀬沙希を
圧倒するほどの怪力でもあるそうです。

サントリーホールで私が体感したように、P席において私の目の前にグロッケン奏者の神代結菜のようなすてきなお姉さまが
配置されていたとしたら、音楽どころじゃないのかもしれないです・・


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私服の神代結菜お姉さまもとっても美しくて魅力的ですね~♪

以前、すみだトリフォニーホールで「地方オーケストラシリーズ」という企画があり、その時に招待されていたのが
関西フィルで、その時の曲目が、パガニーニのカプリース第24番の主題の弦楽合奏版、
ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲、交響曲第2番と実質的にオールラフマニノフプログラムでしたけど、
その時に大変印象的だったのは、一般的に現在の日本のプロの管弦楽団の金管楽器や打楽器はまだまだ男性奏者の方が
多いのに、関西フィルの当時の打楽器パート6人は、男性のティンパニ奏者以外の5人は全員若い女性奏者でしたので、
当時はそれが大変新鮮で印象的でした~♪

グロッケン・シンバル・スネアドラム・トライアングル等の打楽器が全員若い女の子というのは、今にして思うとららマジ器楽部を
彷彿とさせるものもありそうですね。
ショッピングモールとか大型商業施設等の1月1日~3日の初売りの際の定番のお正月用BGMとしては、
宮城道雄の「春の海」や雅楽「越天楽」は一つの定番なのかもしれないです。
この種の曲は日常にBGMとして店内で流したとしたら相当な違和感はあると思いますが、
正月と言うのんびりとしたおめでたい時間にこうした曲を流しても全然違和感はありませんし、気持ちとしては
「日本のお正月だよね~」という雰囲気はあると思います。

越天楽は元々は、龍笛・篳篥・笙などから構成される雅楽の曲で、宮廷音楽というのか雅楽の中では一番知名度がありますし、
和式の結婚式においては定番のBGMの一つだと思います。
越天楽は越古くから存在する雅楽ですが、日本と西洋の楽器の種類の違いはあるにせよ、基本的には弦楽器・管楽器・打楽器
から構成されています。
西洋の弦楽器に相当するのが、琵琶と筝であり、西洋の管楽器に相当するのが竜笛・笙・篳篥であり、打楽器に相当するのが
楽太鼓・鉦鼓と言えると思います。

「楽器の基本的構成が同じならば、越天楽を西洋楽器を使用した管弦楽に編曲にするといのもありではないのか?」という事を
思いつき実践されたのが近衛秀麿編曲の管弦楽版「越天楽」です。
近衛秀麿は元々お公家さんの一族でしたけど、西洋音楽もしっかりと勉強されていて、
楽器の移し替え・移調は、案外造作はなかったのかもしれません。
それでは具体的に元の越天楽の雅楽の楽器をどのように管弦楽で使用する楽器に置き換えたのかと言うと、
•笙→ヴァイオリン
•龍笛→フルート、ピッコロ
•篳篥→オーボエ、ソプラノサックス、トランペット、エスクラ(小クラリネット)、ヴィオラ、チェロ
•鞨鼓→スネアドラム
•鉦鼓→トライアングル
•太鼓→大太鼓
•箏→ホルン、ピアノ、クラリネット
•琵琶→ファゴット、チェロ となっています。

面白いのは琵琶をファゴットに置き換えた事だと思います。聴こえてくるのは確かにファゴットの音色ですけど、
なんとなく琵琶っぽく聴こえなくもないです。
龍笛をフルートに置き換えたのはそっくりそのまんまという感じもしますし、打楽器はほぼ忠実に置き換えているような
印象もあります。
箏をホルンやピアノに置き換えるちょっと意表をついたアレンジは、近衛秀麿が指揮者としての実地での経験を
活かしているようにも感じられます。

本物の雅楽によるオリジナルの越天楽も聴いたことがありますけど、単純に比較すると管弦楽編曲の越天楽との
違いは当然大きいです。管弦楽版の越天楽は何よりも音楽の作り方は西洋風そのものに聴こえます。
編曲者の近衛秀麿のできるだけ雅楽風に歌わせようとする意図は分かりますけど、
どうしても小節の頭で楽器同士が揃ってしまう感覚は強いと思います。
雅楽みたいな微妙なズレというのか「間」というものが必ずしも絶対的にそこにある訳ではなくて、
どうしても西洋合理主義に由来する「楽譜に書かれている事をまずは正確に正しく表現しよう」という感覚が
日本的なあいまいさ・微妙さ・わびさびの感覚を上回っているようにも感じられなくもないです。
一方で元の雅楽としての越天楽と管弦楽編曲版の越天楽の双方においての曲のメロディーラインの雰囲気自体は、
驚くほど良く似ているようにも聴こえます。
そう思える根拠は、言葉にすると大変難しいのですけど「ゆったりとしたゆるいテンポ」が
例え本来の雅楽で演奏しても西洋楽器で演奏しても、大した違いは出ていないという事があると思えますし、
この極めてゆったりとしたテンポが、いかにも日本古来らしいメロディーを奏でる事に大変よく合っているからなのかなぁ・・とも
感じたりもします。

私自身、管弦楽版の近衛秀麿編曲の「越天楽」はほとんど聴いたことがなかったのですけど、
21世紀に入って間もなくの頃、ナクソスレーベルから、沼尻竜典指揮/都響の「邦人作品集」のCDが出て、
この中にこの「越天楽」が収録されていました!

このCDを最初聴いた時は、正直驚きました。
全く違和感がなく、以前何となく感覚で聴いていた雅楽としての越天楽を西洋楽器の管弦楽版で聴いても、
それ程大きく変わったという感じは正直しませんでした。
演奏が、テンポがゆっくり気味で、非常に音色が洗練されているというせいもあるのかもしれませんけど、
意外なほどそこに違和感はありませんでした。

以前何かの実験番組か何かで、雅楽のような和楽器で、チャイコフスキーの白鳥の湖とか
グリンカの歌劇「ルスランとリュドミーラ」序曲を演奏しているのを見た事がありますけど、
この時は相当な違和感は感じたものでした。
この違和感というのは「能や文楽を金髪碧眼の西洋人が演じた時に日本人が感じる違和感」に近いものがあるのかも
しれないです。
越天楽の管弦楽版を最初に聴いた時の事前の予想としては。
上記のように例えばアメリカ人が歌舞伎とか能とか文楽を演じた時みたいな違和感を感じるのかなと
思っていましたけど、そうした違和感は全くありませんでした。
和の楽器で西洋の音楽を奏でる事と洋の楽器で和の音楽を奏でる事の違和感の違いは大変興味深いですし。
そこには「日本人にしかわからない感覚」というものもあると思います。

黛敏郎にも「舞楽~BUGAKU」という越天楽と発想が同じような曲があるのですけど、
こちらもあまり違和感がないという印象はあります。
この曲を更に吹奏楽にアレンジして演奏した1995年の秋田南高校の素晴らしい演奏もあるのですけど、この吹奏楽版舞楽も
聴いていて全く違和感は無いです。

この管弦楽版の「越天楽」なのですけど、実は第二次世界大戦前にこの曲を録音されていた超大物指揮者がいました!
それこそがストコフスキー指揮のフィラブルフィア管弦楽団でした。
ちなみにその音源はSPレコードです。
近衛秀麿が編曲し指揮した管弦楽版「越天楽」を聴いたストコフスキーが気に入ってコンサートで演奏し、
こうやって録音まで残していたのですね!
ちなみにこのSPレコードは聴いたことがないのですけど、演奏自体はとっても興味があります。
果たして沼尻さん指揮の都響の演奏に比べてそこに違和感はあるのかないのかは大変面白いものがありそうです。


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ここから下記は「ららマジ」の話です~♪

橋本ひかりは、箏を担当している高校3年生のJKさんです。

橋本ひかりは、身長が高くスタイルがよい美少女というよりは、ララマジ屈指の正統派美人さんだと思います!

同じ和楽器担当という有栖川翼とは対照的に、引っ込み思案で恥ずかしがり屋な性格で、
特に男性に関して強い苦手意識を持っているというのも、アニメ・ゲームにおける美少女キャラのこれまたすてきなお約束の
一つなのかもしれないです。

面倒見がよく器楽部の後輩からは大変慕われているそうです。

管弦楽版の越天楽の箏はホルン・ピアノ・クラリネットに置き換えられていますけど、元の雅楽として越天楽を聴くと、
箏の響きは古き日本の情緒みたいなものを感じさせてくれていると思います。
雅楽を管弦楽にアレンジする事もかなり大胆な発想ですけど、それ以上に大胆で無茶苦茶な編成のららマジ器楽部による
越天楽というのも面白いものがあるのかもしれないですね~♪
ヴァイオリンの奏法の基本は言うまでも無く弓の毛を弦でこする事なのですけど、それ以外の奏法の一つとして
挙げられるのが「ピッツィカート」だと思います。
ピッツィカートとは弦を指ではじくことによって音を出す演奏技法の事です。
ヴァイオリンの場合、ピッツィカートは弓を持つ右手で弦をはじくことが普通ですけど、例外的に
本来は弦を押さえる左手で弦をはじくという左手のピッツィカートを導入したパガニーニや
弾く際に弦を指板と垂直に強く引っ張って離して弦を指板にぶつけるバルトーク・ピッツィカートという奏法もあったりもします。

ピッツィカートは指でポン!と弾く感じなのですけど、弦のどの部分を弾くかによっても、はたまたどの指で弾くかによっても
音色は微妙に変化しますので、そのあたりは指揮者の好みも反映されるのかもしれないです。
ピッツィカートの弾けるようなポン!という音色で曲が開始される曲としては、メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」の
第一楽章を挙げたいと思いますし、ピッチカートはピッチカートでもバルトーク・ピッツィカートみたいな感じで
激しく叩く事で何やら不気味な雰囲気を醸し出している曲の事例としてマーラーの交響曲第7番「夜の歌」~第三楽章を
挙げたいと思います。

さてさて、そうしたピッツィカートの奏法でもって一つの曲または一つの楽章を構成したという珍しい楽曲も稀にあったりします。

そうした曲として思い浮かぶのが一つがチャイコフスキーの交響曲第4番~第三楽章であり、
もう一つがL.ドリーブのバレエ組曲「シルヴィア」 ~Ⅲ.ピッツィカートだと思います。

チャイコフスキーの交響曲第4番~第三楽章は、コントラバスの超低音からヴァイオリンの高音まで、そして弱奏でも強奏でも、
ピッツィカートで楽章全てを駆け抜けていきます。
更に面白い事に弦楽器のピッツィカート、木管合奏のピッツィカート、金管合奏のピッツィカートがそれぞれ独立して演奏され、
最後にはそれら全てが一つになって融合するオーケストレーションの巧さは素晴らしいと感じます。

ドリーブのバレエの方のピッツィカートも大変面白いですし、とても楽しいです。

バレエ音楽というと、私自身としては、チャイコフスキーの三大バレエ(くるみ割り人形・白鳥の湖・眠りの森の美女)とか
ストラヴィンスキーの三大バレエ(火の鳥・ペトルーシュカ・春の祭典)というように ロシアというイメージがあるのですけど、
フランスのバレエ音楽も繊細で美しくて、ロシアバレエとは別の魅力もありどちらも素晴らしいと思います。

そうしたフランスバレエというと忘れてはいけない作曲の一人がL.ドリーブだと思います。
ドリーブはフランス・バレエ音楽の父とも称されていて、迫力や壮大さよりもむしろ優美で繊細な舞台音楽を残した事でも
知られています。
吹奏楽コンクールにおいて、ドリーブというとバレエ音楽「コッペリア」だと思います。
1985年に中村学園が全国大会で初めてこの曲を自由曲として取り上げ、マズルカ-ワルツ-チェルダッシュという構成も
巧みで編曲が大変優れている事もあり、翌年以降今日に至るまでコッペリアは定番自由曲の一つにもなっていると
思います。
中村学園の功績は、吹奏楽の世界における女子高チームのパイオニア的存在であり、コッペリアと1986年の自由曲でもあった
バレエ音楽「バリの喜び」を世に知らしめたという事が大変大きいと思ったりもします。
現在の吹奏楽コンクールにおける女子高の雄の一つが福岡県の精華女子なのですけど、中村学園も福岡の女子高である事を
考えると、福岡の女子高の偉大さを痛感せずにはいられないです。

ドリーブとチャイコフスキーは、何となくチャイコフスキーの方が大先輩のような感じもするのですけど、
実際は逆にチャイコフスキーの方がドリーブのバレエ音楽から影響を与えられた側面も多少はあったようでして、
チャイコフスキー自身はドリーブのバレエ「シルヴィア」を絶賛し、知人タネーエフに
「もし私がもっと早くこの作品を知っていたら、私は白鳥の湖を作曲しなかっただろう」と語ったエピソードが残されています。

ドリーブの「コッペリア」と「シルヴィア」は上記で触れた通り、 吹奏楽コンクールでは頻繁に演奏される人気曲の一つ
なのかもしれませんけど、 プロの管弦楽の演奏会ではあまり演奏されないようにも思えます・・・
私自身、この両曲の生演奏は新日本フィルの演奏以外聴いたことがありません。
特に「コッペリア」のマズルカ・ワルツ・チェルダッシュや「シルヴィア」のバッカスの行列は聴いていて本当に楽しい曲ですし
子供向けのファミリーコンサートには最適な曲だとは思いますので、もっと演奏頻度が上がってもいいような気もします。

バレエ音楽「シルヴィア」なのですけど、バレエの大筋はギリシア神話から題材を取っています。

ストーリーを簡単に記すと・・・・

羊飼いの青年アマンタが美しい妖精シルヴィアに恋してしまいます。
しかし、妖精と人間の恋愛はご法度で絶対的に禁じられた恋でもあります。
そんな二人を愛の神エロスが何とかしようと画策する中で、
悪しき狩人のオリオンがシルヴィアを奪い自分の洞窟にお持ち帰りをしてしまいます。
拉致されたシルヴィアはオリオンをお酒で酔いつぶし、 その隙にキューピットに助けられて洞窟から逃亡を図ります。
最後は愛の神エロスのとりなしにより、めでたくシルヴィアとアマンタは結ばれ めでたく結婚することになるといった
お話でもあります。

全体的に暗い影も無く明るく楽しい作品でハッピーエンディングで終るところがいいですね。

全体的な印象としては、平凡な普通のお話なのですけど
その意味では、「人形」をバレエの世界に持ち込み、人形を初めてバレエの主人公にしてしまった
「コッペリア」の方が斬新と言えるのかもしれまないです、
考えてみると、人形が主人公のバレエと言うと、圧倒的に有名なのはストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」なのですけど、
そうした意味ではドリーブはストラヴィンスキーの先駆者的存在だったのかもしれないです。
もっともドリーブの音楽はストラヴィンスキーのような過激・野蛮・ワイルドさとは全く別次元の洗練された平和な音楽です。

このバレエは、四つの曲から構成される組曲版としての方が音楽としてはお馴染みなのかもしれないです。

この組曲は下記の四曲から構成されています。

Ⅰ.前奏曲と狩の女神

Ⅱ.間奏曲とゆるやかなワルツ

Ⅲ.ピッツィカート

Ⅳ.バッカスの行列

Ⅰは、全体的にホルンが大活躍を見せていますね。冒頭のトランペットのファンファーレと絡むティンパニが格好いいです。
Ⅱは、いかにも抒情的なバレエの調べという感じで、主役がソロをゆったりと踊っているシーンが目に浮かんできそうです。
Ⅲのピッツィカートは前述のチャイコフスキーの交響曲第4番第三楽章のように
とにかく全体を弦を爪でポンポンと弾くピッツィカート奏法をかなり効果的に使用しています。
シルヴィアは以前Eテレでハイライトを放映した事があったと思いますが、 「ピットカート」の部分はバレリーナがソロで
可愛らしく可憐に踊っていたような記憶があります。
Ⅳは、とにかく楽しい曲で、ⅠのメロディーがⅣで再現されています。
トランペットの勇敢なファンファーレがかっこよくて、ラスト近くで一旦静まりかえり、そこからティンパニのソロが展開され
華麗に曲が閉じられますが、この際の金管セクションの和音の響」が実に見事にハモっていて、ドリーブのセンスの良さを
感じさせられます。

フランスのバレエ音楽と言うと、例えばラヴェルの「ダフニスとクロエ」みたいな豪華絢爛な音の絵巻を思い出してしまいますが、
こういうシンプルだけど楽しい曲も素晴らしいと思います。

吹奏楽コンクールの全国大会においては、シルヴィアはコッペリアよりははるかに演奏頻度は下がりますけど、
過去にいくつかのチームが自由曲として演奏をしています。
吹奏楽コンクールではⅣのバッカスの行列を選ぶことが多いのですけど、中には、1999年の松山南高校のように
ⅠとⅢのピッツィカートとⅣのバッカスの行列を組み合わせた珍しいパターンもあったりします。
そして松山南高校のピッツィカートは、当時私も普門館であの演奏を聴いていてびっくりしたのですけど、
あの弾ける感じをメインで奏でていたのはクラリネットではなくてマリンバ奏者でした!
松山南のⅢのピッツィカートは全体で1分程度の短いものでしたけど、それをマリンバ奏者がまるで協奏曲のように
ほぼ一人でメロディーラインを奏でていて、当時は聴いていて、多少の違和感はあったものの、それはそれで大変ユニークな
表現と感じましたし、あのマリンバ奏者は当日のソリスト賞を贈呈したい気持ちでもありました。


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ららマジのヴァイオリン奏者の九条紗彩は高校1年生の女の子です~♪

自分に厳しく人にも厳しいプロ意識の高いヴァイオリン少女 という設定です。

自分にも周囲にも厳しいため、一見わがままだと誤解されることもありますけど、根は優しくて世話好きでもあります。
極度の照れ屋で自分の気持ちを素直に表現できないという事で、ららマジの中ではツンデレの一人と
言えそうです。

九条紗彩はヴァイオリンのプロを目指しており、神童と呼ばれるフルート奏者の菜々美に密かな憧れやライバル心を
抱いてもいます。

薄いバイオレットのロングヘアーですけど、おでこの露出がなんだかとてもかわいいです。

こういうおでこをしたツンデレ気味の美少女JKさんにデコビンを食らわしてやったら、その反応はなんだか
「私、気になります・・」という世界になりそうですね・・


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夕陽に佇むサンセット九条紗彩はとても美しいです~♪

九条紗彩のヴァイオリンというと優雅という印象もありますけど、L.ドリーブのバレエ組曲「シルヴィア」 第Ⅲ曲のピッツィカート
で弾ける雰囲気の九条紗彩も見てみたいな~という想いもありますね。
イギリスの作曲家、エルガーと言うと 日本では行進曲「威風堂々」第1番と小品ですけど「愛のあいさつ」などが
馴染み深いと思いますし、威風堂々のあの高貴でおおらかな中間部は多分ですけど、誰でも一度くらいは耳にした事が
あるはずと思われるぐらい日本でも大変有名なメロディーです。
私も威風堂々第1番はとても大好きな作品ですし、このブログで何度か語らさせて頂いた通り、高校の卒業式において、
卒業生の入退場の曲は私が在学していた頃は毎年、卒業式の会場の体育館の最後方部に位置していた吹奏楽部によって
エルガーの行進曲「威風堂々」第1番が演奏されていましたので、私自身この曲を聴くと「卒業」という言葉とか
卒業式の時には既に進学先が都内の学校と決まっていたので「これでようやく親元と東北の地を離れることができる」という
期待感と不安感が交錯した当時の甘酸っぱい気持ちをついつい思い出してしまいます。

エルガーは「音楽不毛の地」と18~19世紀の頃にフランス・ドイツ・イタリアなどから揶揄されていたイギリス出身なのですが、
エルガーの出現によってイギリスではパーセル以来の大作曲家が登場したと生前から大変な尊敬と敬愛を集めていて、
その遺した楽曲の多くは母国イギリスのみならず、世界中の演奏会で取り上げられていますし、
特に交響曲第1番や威風堂々第一番や愛のあいさつ、チェロ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、オラトリオ「ゲロンティアスの夢」
などは今現在も世界の管弦楽団においてはレパートリーとして定着していると思います。
イギリス人にとっては、威風堂々第1番は国歌であり、エルガーの存在は「国宝」とすら言えるのかもしれないです。
エルガー以降、イギリスの楽壇には、ヴォーン・ウィリアムズ、ホルスト、ブリテンなど著名な作曲家たちが続々と現れ、
そうした流れが当ブログのクラシック音楽カテゴリでは頻繁にその名前が登場しているマルコム・アーノルドへと
受け継がれているのかもしれないです。

さてさて、そうしたエルガーなのですけど、実は意外にもエルガーは正規の音楽教育はほとんど受けていません。
イギリスは昔も今も階級社会で階級間の格差が伝統的に存在する国ではあるのですが、エルガー自身は
いわゆる平民の子で、父親は楽器屋兼教会のオルガン奏者でもありましたけど、父親自身はエルガーにオルガン奏者を
継がせる気は全く無く、むしろ法律家になってほしいと願っていたようです。
エルガーは家が楽器屋という事もあり、小さい頃より音楽や楽器に慣れ親しんでいて、そこから音楽に色々と興味を
持つようになったものの、家庭の経済環境はそれほど裕福ではありませんので、音楽学校に進学して専門的に学ぶという事は
できなかった事もあり、ポケットにチーズとパンを入れて広場に赴き、そこで自然の風景と向き合いながら、ベートーヴェンや
モーツアルト・バッハ等の偉大なる作曲家が残した楽曲の総譜を分析・解釈していき、全くの独学で音楽を学んでいきます。
エルガーは神童というタイプではなくて、楽譜を読んで理解する能力に大変長けていたという事が言えるのだと思います。
そして驚くべき事に、基本的には独学でピアノ・ヴァイオリン・ファゴットといった楽器をマスターし、更には作曲法すらも
独自に習得をします。
エルガー本人はアカデミックな音楽教育を希望し、海外留学も望んでいたようですけど、それは結局果たされる事も無く
一時は父親の仕事を手伝ったり弁護士事務所の事務員としての仕事も余儀なくもされています。
細かい経緯は省略しますけど、その後、ヴァイオリン奏者としての仕事や合唱団の活動の指導や指揮、
そしてヴァイオリン教室を開いてそこでヴァイオリン講師を務めるなどして、30代の初めまでは決して裕福とはいえない
生活をしていました。

そうしたエルガーに人生最大の転記が訪れます!

前述の通りエルガーは生計のためにヴァイオリン奏者の他にヴァイオリン教室の講師も務めていて、その教室に
一人の美しい女性がエルガーのヴァイオリンの弟子になります。
その女性こそがキャロライン・アリスでして、出会ってから3年後に二人は結婚します。
エルガーにとってはこの結婚は一つの大冒険でもあったと思います。
というのもキャロライン・アリスはエルガーよりも8つも年上という事もありましたが、一番大きな障壁は
冒頭でも書いた通り、イギリスは今も昔も階級が存在するある意味格差社会でもあるのですけど、
エルガーは普通の平民の子であったのに対して、キャロライン・アリスの方は父親がサーの称号を持つ陸軍将校の娘という
いわば上流階級のお嬢さまであり、アリス自身はエルガーと出会う頃には既に詩人・作家としての地位をある程度確立し、
既に本も何冊か出版されているいわばエリートクラスの家庭の大切な令嬢でもありました。
そして輪を掛けて悪い状況なのは二人の宗教の違いという事もあり、アリスの家は先祖代々イギリス国教会系の
プロテスタントであるのに対して、エルガーの家系はカトリック教徒という事で、当然周辺の人達・・特にアリスの身内は
ほとんど全て二人の結婚には大反対をしていました。
当時はまだ無名の作曲家と陸軍少将の娘という身分格差から、アリスの親族は2人の仲を認めなかっ たため、
その反対を押し切っての結婚であり、実質的にアリスは親元からの勘当状態での結婚でもありました。
二人はごく質素なカトリックの略式の結婚式を挙げ、その婚約に際し、エルガーはアリスに
ヴァイオリンとピアノのための小品「愛のあいさつ」を贈呈していますけど、この曲は今現在でもエルガーの代表曲の一つとして
世界各地で愛され、現在も管弦楽団の演奏会のアンコール曲としては定番中の定番の曲でもあったりします。

エルガーはアリスとの結婚以降、本格的に作曲の勉強も始め、ここからたくさんの曲が生み出されていきます。
アリスは結婚以降は自らの詩人・作家としての活動は休止し、ひたすら夫のエルガーを献身的に支え、時に励まし
時に叱咤激励し、エルガーの作品を心から愛しその作品を称賛し、その生涯を閉じるまで変わる事なくエルガーを
精神的に支え続けます。
アリス自身は日記の中で「いかなる女性にとっても天才の世話を焼くというのは、生涯かかっても余りあるものである」という
偽らざる気持ちも吐露されています。
アリスのエルガーに対する信頼と下の階層と結婚した勇気は、エルガーにとってはプレッシャーというよりは精神的な支えと
なっていました。
アリスはエルガーの気分の浮き沈みをなだめ、音楽面では批評と称賛を惜しまず、
またビジネスマネージャー、社会的な秘書をこなし、管弦楽の楽譜用の紙に五線を引いて整理する作業すらも時に
行っていたようです。

エルガーの写真を見てみると、気品と威厳とやさしさに満ち溢れた雰囲気に満ち溢れています!
本当に「イギリス紳士のモデル」といっても過言ではないような感じです。
(立派な口髭や物静かで上品さが滲み出ていると思います)
平民出身のエルガーがそうしたすきのない紳士になったのも、もちろんアリスのてほどきもあったと思われますが、
それ以上にアリスの父親がサーの称号を持つ陸軍将校であったゆえに、それを意識したという事もあるのかもしれないです。
そしてエルガーはアリスとの結婚により、アリスからの献身的な支えや「アリスの父親と比較されてもアリスが恥ずかしく
ないような立派な紳士になろう!」といういい意味での緊張感とモチベーションの高さを得たと言えるのかもしれないです。
そして、オラトリオ「ゲロンティアスの夢」の成功によって結婚から約10年が過ぎた頃に、作曲家としての地位を確立し、
その後は順調に音楽に残るような素晴らしい名曲をたくさん世に生み出し、エルガー自身もサーの称号の他に
名誉音楽博士号、准男爵の称号を与えられたばかりでなく、1924年からは国王の音楽師範を務めるようになっています。

アリスは若い頃の写真を拝見すると、本当に天使みたい・・というのか「不思議の国のアリス」のような雰囲気を
醸し出されているようにも感じられます。
髪の大き目なリボンはなんだか東方の霊夢や藤原妹紅の印象に近いものもありそうです。
アリス自身は知的で物静かなレディであったらしいのですけど、時に情熱的にエルガーを生涯支え続けた気持ちがあった
からこそ、エルガーは世界的に著名な作曲家として音楽史にその名前を残せたと言えるのは間違いないと思います。
ちなみにアリスとエルガーの間に生まれた一人娘のキャリス・アイリーンは、母親のアリスののCarolineとAliceを繋げて
名づけられたものだそうです。
後述しますけど、アリスという名前はヨーロッパ圏では馴染み深い名前なそうですけど、意味としては少女とか献身的、知的
という事もあるそうです。
それはまさにエルガーの奥様のアリスに相応しい名前と言えるのかもしれないですね。

エルガーが残した楽曲の中で、妻・アリスに捧げた曲として最も有名なのが上記でも書いた通り、二人の婚約記念の曲でもある
「愛のあいさつ」ですけど、それ以外に「エニグマ変奏曲」も推したいと思います。

管弦楽のために作曲された単独の変奏曲のうちでは、ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」や
ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」と並べられるほど音楽的にも大変価値の高い作品です。
エニグマ変奏曲には、第9変奏の「ニムロッド」という大変美しくて感動的でメランコリーな部分が含まれているのですけど、
同様な事にラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」においてもその第18変奏の美しさは、とてもじゃないけど
この世のモノとは思えないものがあると言えます。

この曲のタイトルでもある「エニグマ=謎」なのですけど、「エニグマ」とはギリシア語で、なぞなぞ・謎かけ・謎解きといった
意味なそうです。
この曲には二つの謎の要素があり、 一つ目の謎は、「この変奏曲には、主題とは別の作品中に現われないものの、
全曲を通して 無言の伴奏をする別の主題が隠されている」 というエルガーの発言に基づいています。
その後多くの研究者がその「別の主題とは何なのか」解明しようとしていますが、
現在になってもその謎はいまだに解明されていないとの事です。
英国国歌「国王陛下万歳」とする説、スコットランド民謡「オールド・ラング・サイン」(蛍の光)であるとする説、
「エニグマ変奏曲」の初演コンサートで一緒に演奏されたモーツァルトの「交響曲第38番「プラハ」」がそうだとする説
など色々あるそうですが、 結論は未だに出ていないそうです。

これってもしかしてエルガーのいたずらなのかもしれないですし、作曲時にたまたま何となく口にした言葉が世間に
広まってしまい、 後になって 「いや、あれは特に何の意味もありませんでした」とはいいにくかったのかもしれないです。

二つ目の謎は、各変奏に付けられた意味ありげなイニシャルの事でして、
「そのイニシャルは一体誰なのか?」という事は既にほぼ解明されているようです。
そのイニシャルとは、エルガーの友人とか奥様とかエルガー自身とか弟子の氏名なのですけど、第13変奏の「(***)」の
部分だけは、 その***とは一体誰なのかについてはいまだに解明はされていないとの事です。

この曲は、氏名を公表されない14名の人物のスケッチを、主題と14の変奏によって表現した管弦楽曲とも換言出来そうです。
ちなみに第1変奏 のC.A.E. とはエルガーの奥様、アリスの事ですし
最後の第14変奏「終曲」  E.D.U. とは、エルガー自身です。

そしてこのエニグマ変奏曲にもアリスは深く関わっています。

エルガーがある時ピアノに向かって物思いにふけっていた時に、何気なく即興で弾いていたメロディーが
アリスの注意を惹き、「気に入ったのでもう1度繰り返して弾いてほしい」と頼まれたエルガーは、アリスを喜ばせるために、
その主題に基づいて即興的に変奏を弾き始め、各変奏を友人たちの音楽的肖像とし、
これを管弦楽曲に膨らませたものが「エニグマ変奏曲」の作曲の経緯とも言われています。
(第一変奏にアリスをもってくることが実にエルガーらしいですね~♪)

私的には、ティンパニを小刻みに叩く第4変奏と 第9変奏「ニムロッド」が大変大好きです。

この第9変奏「ニムロッド」は、何となくマーラーの交響曲第5番第四楽章「アタージエット」みたいに
瞑想的で、波打つようにゆったりと感情が動いていき 大変気高い雰囲気があり、 私はとても大好きな部分です。
エニグマ変奏曲は結構長くて30分くらいの曲なのですけど、 この「ニムロッド」を聴くだけでも価値があると思います。

この「ニムロッド」は単独作品としても大変人気が高く、 管弦楽団演奏会ののアンコール曲としても演奏される機会は多いです。
(私もよくこの曲は、特に日本フィルの演奏会でのアンコールで耳にしました)
イギリスでは11月11日のリメンバランス・デーにおいて、戦没者追悼記念碑の前で戦没者を追悼するために
王立軍楽隊によって必ずこの「ニムロッド」は 演奏されるようですし、
国家財政危機により解散を余儀なくされたギリシア国立管弦楽団の最後の演奏曲目はこの「ニムロッド」でした。
最近では吹奏楽コンクールでもこのエニグマ変奏曲が自由曲として演奏される事が多々ありますけど、吹奏楽版で聴いても
ニムロッドの美しさとラストのエルガー自身を表すE.D.Uの爽快さは素晴らしいと感じます。

ここから下記は少しばかり余談になりますけど、上記でちらっと触れた通り、「アリス」という名前は、
今現在も英語・フランス語圏で広く見られる女性の名前であり、
12世紀以降にイギリス・フランスで流行し、17世紀中頃までに廃れ19世紀中頃に復活した経緯があり、
特に1865年に発表された「不思議の国のアリス」の影響度は相当大きなものがあったと言えそうですし、それが
日本においてもアリスという名前が馴染み深い事の一つの要因になっているのかもしれないです。

「アリス」という言葉は「少女」の象徴や代名詞として使われていると指摘する専門家も相当数いるとの事ですし、
同時に知的さ・献身さという意味合いもあるとの事です。

そして「アリス」という名前はアニメ・ゲーム作品ではかなりの作品で既に登場している名前ですし、
それだけ知名度が高い名前というのか「ヨーロッパ的な名前」として定着しているのだと思います。
アリスと名が付くキャラは大体が金髪で色白な女の子というイメージもあるのかとは思います。
そこにあるのはやはり不思議の国のアリスの影響やイメージと言えると思うのですけど、
全体的にはとても可愛い子が多いと思います!
(後述しますけど、私にとっての「アリス」とは言うまでもなく東方屈指の金髪美少女のアリス・マーガトロイドに尽きると思います)


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アリスは本記事の趣旨でもあるエルガーの奥様のすてきなお名前であるのですけど、同時に日本ではアリスと言うと
少女の象徴みたいな雰囲気のキャラの名前に使われる事も多々あるようにも感じられます。
そうした事もあり、本記事においては、dream fantasy2 のアミグリさんが過去に描かれてきた「アリス」という名前の美少女の絵を幾つか転載&ご紹介を
させて頂きたいと思います。
そしてアミグリさんが描かれたアリスから皆様各自の豊かなイマジネーションで少女の面影や知的さを感じ取って
頂ければ幸いです。

上記の作品はアミグリさんが2009年12月に描かれたパンドラハーツのアリスです。

パンドラハーツとは不思議の国のアリス・鏡の国のアリス等の童話をモチーフにしたダークファンタジーと言え、
原作は月刊Gファンタジー連載のコミックで2015年まで連載が続けられ、一度アニメ化もされています。
不思議の国のアリスをモチーフにしている点においては「アリスSOS」の世界観に少しだけ共通するような感じもあります。

アリスはパンドラハーツのヒロインで、主人公と契約を交わした血染めの黒うさぎです。
可愛らしい容姿とは裏腹に、凶暴かつ男勝りで欲しいものは強引にでも手に入れたがる自己中心的な性格ですけど、
あれこれ考え込まないさっぱりした部分もあり、時折ツンデレな一面も見せるという
どちらかというと厄介な御方でもあります。

アミグリさんが描かれるパンドラハーツのアリスは、憂いを帯びた表情が大変印象的です。

アリスの長髪も大変美しいですし、フリルの描き方も巧いですね!

全体的にはアミグリさんが描かれるアリスからは、東方のさとり様みたいにどこなく「心、ここにあらず・・」みたいな
寂寥感も漂わせていると思います。
確かに表面的には乱暴でわがままなのかもしれないですけど、アリスは実は既に100年以上前に命を落としていて、
今現在のアリスは一言で言うと化け物みたいなものです。
そして、生前の記憶は、死亡時の殺され方がよほど屈辱的ださったのか悲劇的だったせいなのか、
記憶は全てアリスの意思で抹消しています。
だからアリスにとっては「果たして自分とは一体どんな存在だったのだろう・・」という自分に対する問いが頭を離れることも無く、
そうした背景がアミグリさんが見事にアリスの心象というのか心の内面を「絵」として表現されているのだと
思います。

パンドラハーツのアリスは2009年12月というアミグリさんのかなりの初期作品で、しかもこの作品は全て手描きという
アナログ作品なのです!
それでいてこんなにも完成度が高いという事は特筆に値するのだと思います。

そしてアリスの名高いセリフとして「やっと見つけた 私の手がかり…」というのがありますが、これはアリス自身が
生前の記憶を取り戻して自分の死の真相を初めて知ったという事に由来しています。
東方のゆゆ様も亡霊なのですけど、ゆゆ様は生前の記憶もはたしてあるのかないのかよく分からない御方ですし、
自分の死体が本当に桜の木の下で眠っているのかも実は分かっているのかわかっていないのか不明なのですけど、
そうした事がゆゆ様のあの特有のおっとりとした雰囲気にも繋がっているようにも感じるのですけど、
パンドラハーツのアリスの場合は、生前の記憶と自身の死の真相を知ったという事で、アミグリさんが表現されたような
「憂い」に繋がってるいると言えるのかもしれないです。


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続きましてアミグリさんが2015年6月に描かれた「きんいろモザイク」のアリス・カータレットです!

このきんいろモザイクの原作は漫画作品で、2013年と15年にアニメ化もされています。

この「きんいろモザイク」なのですけど、イギリスでホームステイを通じて友人となった日英両国の少女達が成長後、
日本で再会して繰り広げる物語をコメディタッチで描くというお話でもあるのですけど、
アリスのメインのお相手役ともいえる大宮忍もとってもかわいいキャラです!

大宮忍も可愛いけど、イギリスの自宅にホームステイしていた忍を慕って日本にやってきたアリスも
忍に負けないくらいかわいいですね~♪
外国人少女というとなんとなくですけど、大柄とか豊かなボディみたいなイメージもあったりするものですけど、
「きんいろモザイク」のアリスもそうですし、「ハナヤマタ」のハナもそうなのですが、
アニメで描かれる外国人少女が小柄でちびっこという設定が意外と多いと言うのもおもしろいものがあると思います。

アリスのストロベリーブロンドのツインテールと青の瞳がとってもかわいいですし、アリス=金髪少女みたいなイメージを
ストレートに絵にした設定とも言えると思います。

アミグリさんが描かれたこのアリスはとてもかわいいと思います!
金髪ツインテールというアリスの最大の魅力をアミグリさんが最大限かわいく描かれた作品といっても過言ではないと思います!
アリスの髪には常にかんざしが差されていますけど、これは忍がプレゼントしたものです。
ピンクのカーディガンもアリスにとてもよく似合っていると思います。
アリスのこのちびっこかわいい雰囲気がとてもすてきに描かれていると思います。

アミグリさんの描かれたアリスなのですけど、随分と背景が美しいなぁ・・と思っていたら、アミグリさんご自身は
「背景はクリップスタジオの素材ブラシでささっと描きました」との事でしたが、
これはささっ・・というレヴェルではないと思います!
アミグリさんの作品って、もちろんキャラの魅力を「アミグリワールド」を遺憾なく発揮して美しく幻想的に
描かれるのですけど、よーく見てみると背景の描かれた方も秀逸なものがたくさんあると思います。

そして同じ版権作品というカテゴリの中でも、アナログとデジタルとか描かれた時期の違いはあるものの、
パンドラハーツのアリスとの違いを見事に描き分けられているのも特筆に値するものがあると思いますし、
今更言うのも何ですけど「同じアリスという名前でも雰囲気とか世界観は全然違うものだ・・」という事を認識させてくれた
素晴らしい両作品だと思います。

そしてこのきんいろモザイクのアリスは、アリスの名前の象徴でもある「少女らしさ」がストレートに溢れていると
言えそうです。


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続きまして、アミグリさんが2019年11月に描かれたストレートヘアのアリスを皆様にご覧頂きたいと思います。

アミグリさんには、2018年の当ブログ開設記念日の際に記念絵として描いて頂いた金髪ウェーブの素晴らしい美少女・アリス
という素晴らしい名作が既に存在しているのですけど、
2019年のストレートヘアのアリスも本当に素晴らしい美少女・アリスを表現されていると感じられます。

2018年のアリスはしっとりとした洗練された大人のアリスまたはレディーの作法をしっかりと身につけた美少女・アリスという
印象が強かったですけど、2019年のストレートヘアのアリスは、大人の魅力というよりは「少女の純真さ」とか
清楚でナチュラルな雰囲気で、少女の面影をまだ色濃く残している大人へのステップを踏んでいる途中の美少女・アリスという
印象があったりもします。
2018年のアリスは少し斜めからのウェーブ髪でしたけど、2019年のストレートヘアのアリスは
真正面からのサラサラストレートヘアという事で、アリスの美しさを正攻法で正統派のスタイルで凛々しくかわいらしく
爽やかに表現されていて素晴らしいと感じます。
ストレートヘアというのはこうやって見てみると、ありのままとか飾らない自然体の雰囲気とか清楚な感じを見ている人に
印象としてもたらしているといえそうですし、アミグリさんの描かれたストレートヘアのアリスが
ウェーブ髪のアリスよりもより少女としての面影を強く感じさせているのは極めて妥当といえるのだと思います。
そして単純な赫赫としての比較というのか第一印象だけでいうと、ストレートヘアのアリスはより自然体な美しさを
もたらしていると言えるのかもしれないです。

外界の人間で言うと、JCさん・JKさんは校則で禁止されているからパーマやウェーブヘアは禁止という事で、
ストレートヘアにする事が多いけど、18歳以降高校を卒業するとウェーブやパーマといった大人の女性としてのおしゃれも
可能になるという事で、JKさんみたいなサラサラのストレートヘアもすてきだけど、同じくらい大人の魅力としてのウェーブも
すてきということだと思います。

全体の色彩が2018年のアリスよりもふんわりと柔らかく感じられるのも、より清楚な自然体のアリスの雰囲気を
醸し出しているようにも感じられます。

アリスというと立ち絵も公式書籍もほとんどがウェーブ髪なのですけど、こうしたストレートヘアもとてもよくお似合いで、
私もストレート髪のアリスもウェーブのアリスもどちらもとっても大好きです!
というか、アリスはどちらの髪型もとてもよくお似合いだと思いますし、
アミグリさんの描かれたウェーブ髪のアリスもストレート髪のアリスもどちらもとっても大好きです~♪

スカートのはしをつまんでいるのもとてもキュートだと思います。

それにしてもアミグリさんの描かれる美少女・アリスは素晴らしい!と改めて感じたものでした。
少女としての面影もそうですし、同時に知的さ・ひそやかさも見事に表現されていると思います。

上記のアミグリさんが描かれた3作品のアリスは、その権利は全てアリスの絵師様である
アミグリさんに帰するものであり、当ブログにおける転載とご紹介は事前に全てアミグリさんからご了解を頂いたものであり、
アミグリさんからのご厚意で転載をさせて頂いておりますので、
無断お持ち帰りや無断コピーは絶対NGですので くれぐれも宜しくお願い申し上げます。

アミグリさん、いつも素晴らしいイラストの転載を快諾して頂きありがとうございます!!

皆様の中で「こんなにも素晴らしい美少女・アリスを描く人のブログってどんな感じなのだろう・・? 」などと
興味がある方は、是非是非アミグリさんのブログdream fantasy2  を ご覧になって頂きたいと思いますし、 宜しければ、当ブログだけではなくて、
是非アミグリさんの本家本元のブログdream fantasy2  に一度お越しして頂けると アミグリさんのブログをご紹介させて頂いている私もとってもとっても嬉しいです!

アミグリさんが定期的に作品を投稿され続けている →アミグリさんのpixiv にも是非一度足を運んで頂ければ幸いです!

アミグリさんのpixiv

それでは本記事を最後までご覧頂きありがとうございました!

やっぱりアリスは美少女としての大いなる象徴といえそうですね~♪
当ブログで「忘れられた作曲家」とか「音楽史の歴史の中で埋没してしまった作曲家」という何度かアメリカの作曲家の
ウィリアム・シューマンの事を何度か取り上げさせて頂きましたけど、忘れられた作曲家というと
E.W.コルンゴルド もそうした作曲家の一人なのかもしれないです。

コルンゴルドは、正直あまり知名度はないかもしれないですし、知る人ぞ知る作曲家という印象もありますけど、
実は結構最近再評価が進んでいる作曲家でもあります。
そして幼少の頃より神童とか天才・モーツアルトの再来とも言われていたりもしまして、
10歳で作曲したカンタータ「水の精、黄金」を聴いた作曲家で指揮者のマーラーは「天才だ!」と称賛し、
マーラーの推薦によってコルンゴルトの指導にあたった作曲家ツェムリンスキーはその脅威の才能に接して
「どっちが教える立場なのかわからなくなる」と告白していたエピソードも残されているそうです。
1920年代~30年代の初期に大活躍をし、オーストリア楽壇の第一人者としての名声を誇った時期もあります。
しかし、コルンゴルドは、元々ユダヤ系のため、ナチスのオーストリア併合に伴って迫害を懸念し、
追われるようにアメリカへ亡命してしまいます。
しかし、アメリカ亡命後は当時極めて保守的なアメリカクラシック音楽業界の冷たい壁にその才能を封鎖され、
(その辺りはアメリカ亡命後にやはりアメリカの楽壇で冷遇され、大変困窮した晩年を過ごしていたバルトークと似ている面は
あります。)
アメリカ移住後は、純粋なクラシック音楽作曲では飯は食えそうにもないと考えたコルンゴルドは、生活の糧として
ハリウッドの映画音楽の制作への転向を決意し、映画音楽制作のためにハリウッドへの移住を決断します。
モーツァルトにも比肩される才能が、ウィーンを離れてハリウッドという映画の都へと活躍の場を移したことになります。
「海賊ブラッド」とか「ロビンフッドの冒険」などの映画のBGMを担当し、ハリウッドでは高い評価を受けるようになりました。
今現在の感覚で言うと「スターウォーズ」等でお馴染みのジョン・ウィリアムズの先駆者的存在という評価も成立すると思います。
アメリカで21本の映画音楽を作曲し、「風雲児アドヴァース」)と「ロビンフッドの冒険」でアカデミー作曲賞も受賞しています。
その関係でアメリカを中心にコルンゴルト=ハリウッド映画音楽の大御所という評価が定着しているようにも感じられます。

第二次世界大戦後に再びヨーロッパに戻ってクラシック音楽業界への出戻りを希望したものの、当時の欧州の楽壇は、
「アメリカの手先」とか「ハリウッドにクラシックの魂を売った人間」などという不当な評価を受け続け、
晩年は冷遇された生活だったようです。
第二次世界大戦後のヨーロッパの音楽事情は無機質な現代音楽が主流となり、
ロマンティックなコルンゴルトの作風は時代送れという辛辣な評価も受けていたようです。

アメリカのハリウッド音楽以外ではその作品も人物も忘れられつつあったコルンゴルドでしたけど、
その死後しばらく経過して、交響曲とかヴァイオリン協奏曲とか歌劇「死の都」が再評価され始め
現在では、マーラーとシェーンベルクの間の世代の代表的な作曲家の一人という評価が定まりつつあるような感じもします。

私が、なぜこのコルンゴルドを知る事になったかというと、1995年12月のNHK交響楽団Cプロにて、
シャルル・デュトワの指揮で、コダーイ/組曲「ハーリ=ヤーノシュ」とプロコフィエフ/交響曲第5番と共に演奏されたのが
このコルンゴルドのヴァイオリン協奏曲で、当時は、「こんな作曲家聞いたこともない」という感じだったのですけど、
この曲が終わる頃には、この協奏曲の虜になり、あまりにも抒情的で美しすぎる音楽の展開にメロメロになってしまい、
演奏会終了後に、すぐに渋谷のタワーレコードに駆け込み、この協奏曲のCDを買ってしまったほどでした。

コルンゴルドのヴァイオリン協奏曲は第一~第三の全ての楽章のメロディーラインがあまりにも美しすぎて、
その甘くてせつない抒情的な雰囲気は、バーバーのヴァイオリン協奏曲やラフマニノフのピアノ協奏曲第2番や交響曲第2番に
通ずるものはあると思います。
悪く言うと、映画音楽の効果的なBGMにも聴こえてしまうほど、実に耳に心地よい音楽なのです。
第二楽章が実に素晴らしく、美的限界を通り越したとしか言いようが無い美しいメロディーが展開されていきます。
第三楽章が、これまた圧巻で、「宇宙戦艦ヤマト」みたいな堂々としたアレグロで進んでいき、
ハリウッド映画の大団円のBGMみたいに格好いい終わり方をします。
バーバーのヴァイオリン協奏曲の第三楽章がが3分程度でセカセカ進んでいくのとは対照的に、
コルンゴルドの第三楽章は、たっぷりと歌い上げなおかつスケール満点で格好いいと言うことなしの素晴らしい音楽を
展開していきます。
だけど、お堅い音楽評論家さん的には「これは安っぽい映画音楽」という評価になってしまいがちですし、事実その初演時も
評論家から「時代錯誤」と酷評されていますけど、私的には別にレトロな雰囲気があったとしても
メロディーラインが美しく、人に何かを伝えられるのならそれはそれでいいのではないの・・?という感想です。
この協奏曲はまだ知名度も低いのかもしれないですけど、是非ぜひたくさんの皆様に聴いて欲しいですし、この曲の真価が
一人でも多くの皆様に伝わって頂ければありがたいです。

この曲は日本フィルで井上道義指揮/渡辺玲子の独奏でも聴いたことがありますけど、デュトワと違って
いかにもやんちゃ坊主みたいな感じの演奏で豪快な演奏を聴かせてくれていましたけど悪くはなかったです。

シェーンベルク等の無調現代音楽が幅を利かせている1930年~40年代に、こうした美しい抒情的な音楽が
作曲されていたとは、音楽史的には一つの奇跡なのかもしれないです。

この協奏曲をCDで聴く場合、シャハム独奏/プレヴィン指揮・ロンドン響が圧倒的に名演だと思います。


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ららマジのヴァイオリン奏者の九条紗彩は高校1年生の女の子です~♪

自分に厳しく人にも厳しいプロ意識の高いヴァイオリン少女 という設定です。

自分にも周囲にも厳しいため、一見わがままだと誤解されることもありますけど、根は優しくて世話好きでもあります。
極度の照れ屋で自分の気持ちを素直に表現できないという事で、ららマジの中ではツンデレの一人と
言えそうです。

九条紗彩はヴァイオリンのプロを目指しており、神童と呼ばれるフルート奏者の菜々美に密かな憧れやライバル心を
抱いてもいます。

薄いバイオレットのロングヘアーですけど、おでこの露出がなんだかとてもかわいいです。

こういうおでこをしたツンデレ気味の美少女JKさんにデコビンを食らわしてやったら、その反応はなんだか
「私、気になります・・」という世界になりそうですね・・


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九条紗彩は自己表現がちょっと苦手なツンデレ系美少女ですけど、この笑顔もかわいくてすてきですね~♪

九条紗彩ソリストによるコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲の演奏も聴いてみたい気はしますね~!
クラリネットと言うと甘美的でせつなくて、時にやさしく時に厳しく時に底抜けに明るく響く音色ですけど、
吹奏楽においては管弦楽におけるヴァイオリンパート的な主要メロディー担当という事が多いせいもあり、
管弦楽作品のアレンジものではたくさんのソロがあったりしますけど、吹奏楽オリジナル作品においては、
クラリネットのウルトラ超目立つソロというのは、オーボエやトランペット等の花形楽器に比べるとちょっと少ないのかも・・?と
感じることもあったりします。
それでも例えば、1977年の課題曲Cの「ディスコ・キッド」とかスミスのダンス・フォラトゥーラとかリードのジュビラント序曲とか
バーンズの交響曲第3番などなどたくさんあったりもします。
上記でバーンズの名前が出てきましたけど、バーンズの日本において知名度がググッと上がる事になったあの不朽の名作の
アルヴァマー序曲のラスト近くのクラリネットのとんでもない速いスピードでの16分音符の連続は、あれはまさしく
クラリネット奏者泣かせだと思います・・

管弦楽作品ではクラリネットソロで目立つ曲はかなりありますよね~

一例を挙げてみると・・

〇ガーシュイン / ラプソディー・イン・ブルー

〇J.シベリウス / 交響曲第1番~第一楽章

〇チャイコフスキー / 交響曲第6番「悲愴」~第一楽章

〇ラフマニノフ / 交響曲第2番~第三楽章

〇M.ラヴェル / ボレロ 「ダフニスとクロエ」第二組曲~全員の踊り

〇ボロディン / 中央アジアの草原にて、歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊り、交響曲第2番~第三楽章

〇D.ショスタコーヴィッチ / 祝典序曲

〇ベルリオーズ / 幻想交響曲~Ⅴ.魔女の夜宴-魔女のロンド

でも、クラリネットというと全ジャンルを通して申し上げると日本では最も馴染み深いフレーズは、フランス童謡でもある
「クラリネットをこわしちゃった」なのかもしれないですね。
あの童謡で出てくる「オ・パッキャマラード」というのは、Au pas camaradeと書くフランス語なのですが、
「友よ一緒に行こう」とか「足並みを揃えよう」というのが本来の意味なそうでして、
原文の意味だと日本語の歌詞とは少しズレてしまいそうです。

そしてクラリネットが大活躍する楽曲と言うと、吹奏楽オリジナル作品ではないし、厳密にいうと管弦楽作品では
ないのですけど、ガイーヌの「剣の舞」でお馴染みのアラム・ハチャトゥーリアンが作曲したバレエ音楽「スパルタクス」を
ハンスバーガーが吹奏楽用にアレンジ・編集した作品である「スリーダンスエピソード」を推したいです!
このスリーダンスエピソードを初めて耳にしたのは高校の吹奏楽コンクール県大会でして、他校が演奏していたこの曲を耳にし、
長大なクラリネットのソロのかっこよさに度胆を抜かれてしまった・・というのがなれそめです。

スパルタクスというと、1990年以降は、ヤン・バン・ローストの交響詩「スパルタクス」の方が演奏頻度も人気も高そうですけど、
ハチャトゥーリアンのバレエ音楽もローストの交響詩もあの壮大な歴史ロマンと迫力は素晴らしいと思います。
スパルタカスとは、共和政ローマ期の剣闘士で、スパルタクスの反乱と称される第三次奴隷戦争の指導者という事でも
有名であり、世界史を選択された方は一度は聞いたことがある歴史上の名前なのかもしれないです。

このスパルタカスを題材にした作品は色々とあると思いますが、一番有名なのは、映画とテレビドラマなのかもしれないです。
音楽の分野では、ハチャトゥーリアンのバレエ音楽が一番有名なのかもしれませんけど、同じバレエ音楽のガイーヌと比べると
知名度とか演奏頻度はぐっと下がるのかもしれないです。
このスパルタカスは、バレエの作品としてボリショイ劇場やその他のロシアおよび旧ソ連のバレエ団のレパートリーにおいて
今でも上演機会はあるという話は耳にした事がありますけど、日本ではほとんど上演されていないと思います。
ハチャトゥーリアンは、このバレエ音楽の中から、三つの管弦楽組曲を生み出したのですけど
この曲は生の演奏会では私自身は聴いたことがありません。
(読売日本響を指揮したロジェストヴェンスキーがこの曲を演奏したというのは耳にしたことがありました)
生前、読売日本響を指揮したハチャトゥーリアンがガイーヌと共にこのスバルタクスを演奏したらしく、
ガイーヌの方は日テレでその自作自演の様子を一部見た事がありますけど、その際にはスパルタクスの自作自演の演奏は
放映されていなかったのがちょっと勿体無かったです。

スパルタクスのバレエ音楽からの三つの組曲版は、CDでは、ヤルヴィ指揮/スコットランド国立管弦楽団の演奏が、
私にとっては馴染みがあります。

この組曲版の構成は下記の通りです。

組曲第1番

序奏 - ニンフの踊り
エギナとハルモディウスのアダージョ
エギナとバッカナリアのヴァリアシオン
情景とクロタルムスの踊り
ガディスの娘の踊り - スパルタクスの勝利

組曲第2番

スパルタクスとフリーギアのアダージョ
商人たちの入場 - ローマの遊女の踊り
全体の踊り
スパルタクスの入場 - 口論
ハルモディウスの裏切り
海賊の踊り

組曲第3番

ギリシャの奴隷の踊り
エジプトの少女の踊り
夜の出来事
フリーギアの踊り - 別れの場面
競技場にて

という構成ですけど、少し冗長に感じる部分もあったりします。

このバレエ音楽「スパルタクス」ですけど、吹奏楽経験者にとっては、ハンスバーガー編曲による「スリーダンスエピソード」という
アレンジ物の方が馴染みがあるのかもしれませんよね。

これは、膨大な曲の中からハンスバーガーが美味しいところをピックアップし
「三つの舞踏エピソード」という形で編集したものですけど、
確かにヤルヴィの原曲版を聴いた後で、このハンスバーガー編曲によるスリーダンスエピソードを聴くと、
「確かにバレエ音楽のいいとこ取りをしたな」という感じが濃厚であったりもします。
私的にはハチャトゥーリアンの「スパルタクス」は、「スパルタクスとフリーギアのアダージョ」が一番
音楽的に優れていて聴きどころ満載と思っているのですけど
ハンスパーカーの「スリーダンスエピソード」にはその部分は取り上げられていませんので
少し勿体ないような気はします。

このハンスバーガーによる吹奏楽アレンジ版のスリーダンスエピソードは下記から構成されています。

Ⅰ.ギリシア奴隷の踊り 商人たちの入場  ローマの遊女の踊り ジェネラルダンス

Ⅱ.フリージアの踊り エジプトの少女の踊り

Ⅲ.若きトラキア人の剣舞

そして上記で書いた通り、ⅠとⅡにおいてはクラリネットにとっては異例の優遇!とすら感じられる長大なソロが用意されていて、
ゆったりとたっふりと歌い上げるシーンがあったり華麗なカデンツァ風ソロがあったりと、クラリネット奏者にとっては
クラリネット冥利に尽きるソロがたくさん用意されていて、クラリネット奏者だったら一度ぐらいはあのソロを吹いてみたい!と
感じさせるものは間違いなくあると思います。

吹奏楽コンクールでは、このスリーダンスエピソードを全国大会初演したのは1978年の天理高校です。
(谷口先生にとっては最後の天理高校での全国になりましたけど、同時に谷口先生にとっても最後の普門館になっていました)
天理高校のカットは、私自身が初めて県大会で聴いた時の演奏とほぼ同じカットを採用していて、
Ⅰの前半のみを演奏しクラリネットのソロが終わったところで残りはカットし、そしてⅡも同様に前半でカットし、
最後のⅢで華々しく終わらせるという構成でもありました。
この曲の構成・カットとしては、1989年の関東一高のように、Ⅱをメインにし、Ⅰの最後の曲で終らせるというパターンも
ありましたし、都大会の足立吹奏楽団のようにⅠの前半を壮麗に鳴らし、中盤から後半はⅡのクラリネットソロをメインにし、
静かに閉じるというパターンもありました。
最近ではもハンスバーガー編曲よりは、仲田守氏のアレンジの方が演奏される傾向にあるのかもしれないです。

最後に・・

上記でクラリネットのカデンツァ風と記しましたけど、管弦楽作品においてクラリネットのカデンツァ風ソロが置かれているのは、
リムスキー・コルサコフのスペイン奇想曲です!
この曲は5曲から構成されていますけど、ⅠとⅢのメロディーラインと音楽の流れは大体同じです。
ただ大変面白いのは、Ⅰのソロはクラリネットが担当し、Ⅲのソロはヴァイオリンが担当し、ⅠとⅢにおいてクラリネットと
ヴァイオリンがまるで攻守交代をしているようでもあり大変面白いです。
それとⅠは静かに閉じられますけど、Ⅲはffで壮麗に閉じられているのも粋な演出だと思います。
そしてⅣにおいては、クラリネットに大変な見せ場が用意されていて、フルートやハープの華麗なカデンツァも素晴らしいの
ですけど、それ以上に第Ⅳ曲のクラリネットによる伴奏無しの完全ソロのカデンツァは大変プレッシャーは掛りますけど、
クラリネット奏者冥利に尽きると思います!





ららマジにおけるクラリネット奏者は綾瀬凛という後輩からは怖がられている少し気難しくて、自分にも他人にも厳しい
雰囲気があるJKさんです。
キリッ・・!としていて後輩に対して厳しく接する雰囲気の綾瀬凜お姉さまの上記のようなちょっと怒ったような表情も
とてもかわいらしいものがありますけど、
同じパートに自分に厳しすぎる子がいたりするとちょっとつらいものがありそうですけど、ららマジの綾瀬凜みたいな
JKさんだったら、私は喜んで同じパート内で頑張らさせて頂きたいものです~♪

クラリネットを吹く女の子の不器用さ・頭の固さというものはもしかしたら全世界共通なのかも・・?といったら綾瀬凜に
怒られてしまいそうです・・
(そう言えば、とあるブログの管理人さんも元・クラリネット奏者でしたけど、あの融通の利かない頑迷さはクラリネット奏者
気質そのものだったと今にして思うと感じてしまいそうです・・)

綾瀬凛がソロを吹くスパルタカス~スリーダンスエピソードやスペイン奇想曲での華麗なるソロを聴いて
うっとりするのもいいかもしれないですね~♪
フランスの作曲家でオネゲルたちフランス六人組の一人でもあるダリウス・ミヨーというと、私的に印象深い曲というと、
吹奏楽オリジナル作品ともいえるフランス組曲であったりもしますし(後に管弦楽作品としてアレンジされています)
これは合作作品ではありますけど、エッフェル塔の花嫁花婿・ジャンヌの扇と言えますけど、その中でも
かなり風代わりで変則的な編成の作品ではありますけど、バレエ音楽「世界の創造」は一度聴いたら忘れられないですね~
この曲、まだ10代か20代の頃に一度だけ管弦楽団ではなくて吹奏楽団の演奏会で一度だけ実際の演奏会で聴いたことが
ありますけど、 その不思議な感覚、ジャズの要素、サックスのけだるい雰囲気に魅了された記憶があります。
曲は16分程度とそれほど長くもありませんし、色々と変化に富んでいますし、
ジャズっぽい洒落た要素も多々ありますので飽きる事はないと思います。
ミヨーの作曲の意図としては「アフリカ人の視点から描いた天地創造」とのことです。
1920年代にアメリカ訪問中に本場のジャズを初めて耳にし大きな衝撃を受け、
パリで活動していたスウェーデン・バレエ団からバレエ音楽の新作を依嘱されると、ミヨーは1923年に
いくつかの楽章にジャズを取り入れてバレエ「世界の創造」を作曲し、
これを6つの連続した場面からなる全1幕のバレエとして上演させたという作曲の経緯があります。
曲の雰囲気はモダンジャズという感じもあるのですけど、同時代にラヴェルも例えば「左手のためのピアノ協奏曲」に
ジャズ的要素をかなり盛り込んでいた作品を作曲していますので、当時としてはアメリカのジャズがヨーロッパのクラシック音楽
にも多大な影響をもたらしているのだと思います。

ミヨーのバレエ音楽「世界の創造」はどんな音楽解説書を読んでも、ジャンルの扱いは「管弦楽作品」となっていますが、
この曲は限りなく吹奏楽オリジナル曲」に近いと言えそうです。
(前述の通り、これまで唯一実演で聴いた際は吹奏楽団の演奏会によるものです)

CDで聴くとそんな感じはしないのですけど、実際の楽器編成はかなり小規模でかつ変則的編成でして、
具体的にその楽器編成として、

フルート2(第1フルートはピッコロと持ち替え)
オーボエ1
クラリネット2
ファゴット1
アルトサクソフォーン1
トランペット2
ホルン1
トロンボーン1
打楽器1名 (ティンパニ、シンバル、スネアドラム、テナードラム、プロヴァンス太鼓、ウッドブロック、メタルブロック、
足踏み式のシンバル付バスドラム)
※ティンパニ以外の楽器はドラムセットのように組み合わせて演奏するそうです
ピアノ
ソロヴァイオリン2
チェロ1
コントラバス1

17名の奏者のうち、14名が管楽器と打楽器・ピアノ 、3名が弦楽器ですから、
管弦楽曲とも吹奏楽作品とも両方とも言えるのかもしれませんけど、数の論理では吹奏楽に限りなく近いといえそうです。

それを言うとヘンデルの「王宮の花火の音楽」も吹奏楽曲になってしまうのかもしれないですけど、
王宮の花火の音楽には一応弦楽合奏もオプションとして付いていますので、
さすがにこの曲は古典的な管弦楽曲と言えそうです。

管弦楽曲の中でも例えば交響曲や組曲のとある楽章において、弦楽器を意図的に省いて管楽器と打楽器だけの構成とする
作品も稀にあったりしまして、その代表的事例がコダーイの組曲「ハーリ・ヤーノシュ」~Ⅱ.ウィーンの音楽時計や
ヴォーン・ウィリアムズの交響曲第8番~第二楽章、ニールセンの交響曲第6番~第二楽章などが挙げられると思います。

ミヨーの「フランス組曲」やバレエ音楽「世界の創造」はある意味、吹奏楽曲でもあり管弦楽曲でもあるのですけど、
ミヨーと同様にフランス人で、吹奏楽とも管弦楽ともどちらにも取れそうな曲があったりもします。
それがメシアンの「我、死者たちの復活を待ち望む」という曲なのですけど、この曲はバリバリの現代音楽です!
そしてこのフランスの偉大なる現代音楽の作曲家、メシアンの曲を過去に一度だけ吹奏楽コンクールで演奏したチームが
あったものです!
(2019年現在、メシアンのあの難曲を吹奏楽コンクールで演奏したのは後述しますけど、1995年の一度限りです!
そして多分ですけど今後もあの曲を演奏するチームは出現しないと思います)
その曲を演奏したのは、今現在は都立片倉を率いて全国大会で何度も金賞に輝いている馬場先生の
片倉高校の前の赴任校、都立永山高校時代における1995年の自由曲がその唯一の事例です。

「我、死者達の復活を待ち望む」は「トゥーランガリア交響曲」や「鳥の歌」三部作と並ぶメシアンの代表作品の一つです。
というか、なんでこんな複雑怪奇な曲を自由曲にしようと思ったのでしょうかねぇ・・・
馬場先生の思い切った挑戦はすごいものがありますし、あの演奏を都大会と全国大会で二度も聴く事が出来た私は
とてつもなく貴重な経験をさせて頂いたと今でも思っています、

当時のBJのインタビュー記事で馬場先生は
「1995年は阪神淡路大震災・オウム事件などで世相が大きく悲しく揺れた年であり、
そういう年だからこそ何かメッセージを後世に残しておきたかった」みたいな事を言われていましたけど
その辺りは過去も現在もメッセージ性の強い曲を大変アクが強く個性的に、かつ音楽的にまとめられる馬場先生らしい
お言葉だと思います。

だけどあのメシアンですよ~!!

あのメシアンを吹奏楽コンクールの自由曲にしてしまうなんて、かつて1983年に花輪高校が自由曲に、
無調音楽全開のベルク/三つの管弦楽曲を選んだ時とか
秋田南高校がやはりベルクの歌劇「ルル」組曲を自由曲に選んだとかと同じくらいのインパクトがある思います。
現代音楽の当時の生き神的存在で、ブーレーズも信奉していたあのメシアンの曲を吹奏楽コンクールでチャレンジするとは
今現在の視点で考えてみても「大変な決断とチャレンジ魂」という印象が強いです。

メシアンの「我、死者達の復活を待ち望む」という曲は、1996年2月号のBJの記事においては、
クラシックアレンジ作品ではなくて「吹奏楽オリジナル作品」として分類されていたのは正直驚きました。

だけどよく考えてみると、確かに間違いではないのですよね。
この曲はかなりの特殊編成でして、楽器編成の中に弦楽器は一切使用されていませんし管楽器と打楽器のみでの構成です。
しかもその打楽器と言うのも、都立永山の実演を聴いた際も、まさに「驚き!!」という感じでしたけど、
チャイム・ゴング・ドラを複数個も使い、曲そのものがドラが終始ごわーーーーんと轟音を立て、チャイムがチャイニース風な
色彩の音楽を誘導しているみたいな感じでした。
普門館の舞台の上に、とてつもない数の大小のドラがずらーーーっと並んでいたという印象が大変強いです・・

確かに弦楽器を使用していないから、分類上は「吹奏楽作品」と言えるのかもしれませんけど、
あのメシアン大先生のあの曲を「吹奏楽オリジナル作品」として計上してしまうBJ編集部にも当時は「何と言う大胆な・・」と
感じていたものです。


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ららマジの東奏学園器楽部の部員は30人ですけど、
「ららマジ」は吹奏楽部ではなくて器楽部と言う事で、楽器仕様に制約が無いと言う事で、出てくる楽器も
吹奏楽ではありえない編成のワーグナーチューバ・箏・胡弓・ピアニカ・リコーダー・エレキベース・シンセサイザー・
ウクレレなども登場しているのは自由さがあってとてもすてきだと思います。

器楽部創立メンバーの一人で、部長であり指揮者でもある草薙百花がそうしたメチャクチャな楽器編成を
無理やりどうにかこうにかまとめてしまっているのですけど、
ららマジの器楽部の楽器編成は「各楽器に奏者が1名」ということですので、部員が30人ということで、つまりは
30の楽器で音楽が奏でられるという事になると思います。

上記でミヨーの世界の創造について少し触れましたけど、ミヨーのあの曲はヴァイオリンの奏者2人を除くと、
各楽器の奏者は1人と言う事になります。
厳密にいうと、フルートとトランペットの奏者は2人と指定されていますけど、これはトランペットとコルネット、
フルートとピッコロと分ければいいと思いますし、ららマジ器楽部にはトランペットとコルネット、フルートとピッコロと
どちらの奏者もいますので問題なさそうですね~
指揮者の草薙百花が色々とアレンジを加えて、ららマジ器楽部で使用される楽器を無理やりどうにかこうにか
「世界の創造」というとてつもなく変則的な編成作品を素材に音楽づくりをするのもこれはこれで面白い話なのかも
しれないですね~♪
東方Projectの世界には結構姉妹はいたりもします。

その中でも、スカーレット姉妹・古明地姉妹・綿月姉妹・秋姉妹は血の繋がりある実の姉妹関係と思われますし、
依神姉妹は顔も性格も全然似てないですけど、設定上は双子姉妹とされています。
九十九姉妹の二人は雰囲気的には大変よく似ていますけど、血の繋がりの無い義理の姉妹関係でもありますし、
はたまたプリズムリバー3姉妹にいたっては、3人とも既にこの世のモノではなくて幽霊ですし、この3人の間には
生前も含めて血縁関係は全く無く全くの他人同士という関係でもあったりします。

さてさて、「ららマジ」の東奏学園器楽部の30人の部員の中では二組の姉妹がいます。

一組目は卯月姉妹で、二人ともまだ中学生です。二人ともJCさんらしいかわいらしさに溢れていますけど、中一の
卯月幸のロリロリッとした雰囲気はたまらないですね~♪
二組目は高校3年の橘姉妹で、この二人は双子の姉妹でもあります。二人とも顔立ちはよく似ていて、少しクール系でも
ありますけど、姉のアンナのボーイシュな感じと妹のレイナの正統派美少女としてのかわいらしさはどちらも
素晴らしいですね~♪





当ブログのららマジ関連記事では初めての登場となる器楽部のファゴット担当の橘レイナです。

アルトサックス担当の橘アンナは、レイナの双子の姉の方です。

橘レイナは、橘姉妹のミステリアスな可愛いお姉さんの方でしてアンナの双子の妹の方です。
バトル時の武器はファゴット型の狙撃銃で、複数の銃を同時に発射することもできるそうです。

お顔は双子という事でアンナとかなり似ている雰囲気もありますけど、アンナがボーイッシュな雰囲気なのに対して、
レイナの方はいかにも女の子という感じで、かわいらしい!というオーラに溢れていると思います。


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こちらは橘アンナで、ららマジの器楽部の中ではアルトサックスを担当しています。

学園内に多数の橘アンナファンを持つ学園きっての王子様キャラの人気者で、趣味は妹のレイナとのデートと演劇鑑賞でも
あったりします。

見た目がボーイシュという事で、女の子から見れば「すてきなお兄様~」みたいな憧れの対象なのかもしれないですけど、
確かに橘アンナのボーイシュな美少女ぶりは、
プリキュアでいうならばキラキラ☆プリキュアアラモードの男装麗人ともいえそなキュアショコラ=剣城あきらといえそうですし、
「女子高生の無駄づかい」的には一奏なのかもしれないです。


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橘姉妹はすてきなお姉さま姉妹という感じでもありそうですけど、卯月姉妹は中学生組という事で、美人さん姉妹というよりは
かわいい系姉妹といえそうです。

卯月真中華(うづきまなか)は、東奏学園器楽部でエレキギターを担当している中学3年生の女の子です。

東奏学園器楽部のメンバーにはこの卯月真中華を含めて何人かの中等部のJCさんも入っていて、
そうした中学生組をリードするエレキギターを扱う中学3年生の女の子が卯月真中華でもあります。
器楽部員で構成されたバンド「フロウライン」のギター担当で地元のライブハウスでは有名人との事です。

妹の幸はポニーテールがよくお似合いですけど、姉の卯月真中華はツインテールがとってもかわいいです~♪





卯月幸という中学1年生のウクレレ担当のJCさんです。

器楽部のエレキギター担当の真中華の妹で、ウクレレのほかにヴォーカルも担当することもあるそうです。

中学一年と言う事でららマジの中ではかなり幼い雰囲気があるのですけど、そうした初々しいかわいらしさが
とってもすてきですね~♪

卯月幸は一応ウクレレ担当なのですけど、「東奏学園に進学したらお姉さまたちのようにすてきな楽器奏者になりたい」という
あこがれの気持ちをもって日々練習に励んでいるその初々しさも素晴らしいです。


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ここから下記は「クラシック音楽」カテゴリに相応しいように、ららマジのすてきな美少女JKさんの橘レイナが担当する
ファゴットについて少しばかり触れさせて頂きたいと思います。

ファゴットもオーボエ同様にリードが上下2枚から構成されているという事で「ダブルリード楽器」という位置づけです。

ファゴットの音は基本的には低音楽器という位置づけなのですけど、あの独特のユーモラスな音は、
時に陰鬱に時にユーモラスに時にモノ哀しくと様々な表情を見せてくれる事が出来るのが素晴らしいと思います。

ファゴットで私が個人的に最も感じる効果的な使用事例として、
ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」の冒頭のファゴットの超高音域ソロで開始される場面を挙げたいです。
作曲者としては、「鳴らない音を必死で出そうとする感覚」が欲しかったとの事ですが、
奏者にとっては迷惑千万という感覚もあるのかもしれないですけど、作曲当時の事情はどうか分かりませんけど、
今現在のファゴット奏者はあのような超高音域でも楽々と音を出してしまいますから、ストラヴィンスキーが求めた
「悲壮感」はあまり感じられない感じもあったりします。
だけどあの春の祭典の冒頭ファゴットソロの感覚はいつ聴いてもミステリアスさは伝わっていますね~!

大変面白い使用事例としては、ショスタコーヴィッチの交響曲第9番を推したいです。
第四楽章の金管の重苦しい導入部に続くファゴットの悲痛で長大なソロは、
聴いていて魅力もありますし、いたたまれない・・みたいな哀しさ・憂鬱・メランコリーに溢れているのですけど
第五楽章に入ると、先程まで悲痛なソロを展開していたファゴットが唐突に何の脈絡も必然性も無く
軽いノリのひょうひょうとしたメロディーを展開していく構成になっています。
あの唐突な変化を醸し出せる事が出来るというのもファゴットの一つの魅力なのかもしれないですね。
ショスタコ―ヴィッチは交響曲第9番を作曲している頃は、丁度第二次世界大戦がソ連の勝利のうちに終結し、
嫌でも国家的祝典交響曲を書かないとまずいのではないかという目に見えないプレッシャーを各作曲家が感じていた
時期に符合するのかもしれないです。
初演当時、恐らく聴衆は、ショスタコーヴィッチの新しい交響曲は、ソ連の勝利を祝う大国家的祝典交響曲みたいなもの
(合唱付き? 別働ファンファーレ隊あり? 演奏時間120分?)を予想していたのかもしれません。
少なくとも当時のソ連の絶対的独裁者のスターリンのご機嫌を損ねるような曲だけは書いてはヤバいのかも・・という雰囲気は
あったと思われます。
それを見事にすっぽかして出来た曲が、この25分程度の軽量級の交響曲第9番だったのです!
第一楽章のいかにも軽いノリやトロンボーンのダメだしみたいな展開
第二・三楽章の可愛らしい展開もいいのですが、
前述の通り、第四楽章の金管の重苦しい導入部に続くファゴットの悲痛で長大なソロは、
これはこれで聴いていて魅力もありますし「少しいたたまれない・・」みたいな哀しさ・憂鬱・メランコリーに溢れているのですけど
第五楽章に入ると、先程まで悲痛なソロを展開していたファゴットが唐突に何の脈絡も必然性も無く
軽いノリのメロディーを展開していく構成になっています。
ショスタコーヴィッチ自身も戦争に疲れ果てて、とても面倒くさくて国家を讃える大交響曲なんて
作曲する気になれなくて、こうした脱力系というか、おもちゃ箱みたいな曲を思わず書いてしまったのかもしれないですけど、
この交響曲第9番は確かに重厚長大な深刻な内容の曲ではなくて曲の隅から隅まで
才気煥発みたいな冗談とウィットと楽しさに溢れていて洒落っ気溢れるとてもすてきな交響曲だと思います。
だけど後日この交響曲第9番は大変な批判を浴びてしまい、ショスタコーヴィッチはその後9年近くも交響曲を作曲する
事から遠ざかってもしまいます。
(ショスタコーヴィッチはスターリンの死後、直ちにスターリンをテーマにしたようにも思える交響曲第10番を発表しています)

ショスタコーヴィッチは交響曲第9番以外でも自作のシンフォニーの中ではファゴットをかなり効果的に使用していまして、
他には、交響曲第5番~第二楽章の少しとぼけた感じのスケルツォや交響曲第7番「レニングラード」~第一楽章における
オーボエとの掛け合い的なソロや交響曲第10番~第四楽章のやはりちょっととぼけた感じのユーモアあふれるソロも
「使い方が巧みだよね~」と感じさせるものは大だと思います。

他にクラシック音楽でファゴットが効果的に使用された楽曲をいくつか挙げてみますと・・

P.チャイコフスキー / バレエ音楽「白鳥の湖」 ~四羽の白鳥たちの踊り

P.デュカス / 交響詩「魔法使いの弟子」

G.マーラー / 交響曲第5番~第五楽章 同 / 交響曲第9番~第二楽章

I.ストラヴィンスキー / バレエ組曲「火の鳥」~子守り歌

M.ラヴェル / 道化師の朝の歌
(ラヴェルの「ピアノ協奏曲」~第三楽章のファゴットのとんでもない快速スピードによるとてつもなく超速指使いは
奏者殺しではありますけど、聴いている方としてはあのスリリングさと粋な雰囲気はたまらないです!)

G.ホルスト / 組曲「惑星」~天王星

B.バルトーク / 舞踏組曲~第一曲

余談ですけど、デンマークの作曲家のニールセンが残した最後のシンフォニーである交響曲第6番の終楽章の
エンディングは唐突な形でファゴットの持続音によって閉じられます。

吹奏楽ですと、1988年吹奏楽コンクール課題曲Aの深層の祭りの冒頭や
グールドのアメリカンサリュート~ジョニーが凱旋する時、ジェイガーの第二組曲の第三曲、
バーンズの交響曲第3番~第三楽章などが大変印象的です。
他にもネリベルの「二つの交響的断章」におけるオーボエとファゴットの掛け合いも聴いていて惚れ惚れしそうですし、
クロード・スミスの「フェスティヴァル・ヴァリエーション」における中間部のファゴットソロも大変気持ちがいいです、
フェスティヴァル・ヴァリエーションというと、ららマジ絡みでいうと、開始早々の箇所でピッコロとファゴットが気持ちよさそうに
主旋律を奏でているバックのアルトサックスの小気味よいリズムの合いの手は名人芸の粋に達していると思います。
その部分のピッコロ・ファゴット・アルトサックスに関しては、1984年の天理高校のうまさを超えるチームは、2019年時点で
精華女子高校を含めていまだに超越する演奏が表れていないほど、84年の天理の演奏は素晴らしかったです。

それでは最後に、ららマジのファゴットの橘レイナのとってもかわいいカードを是非ご覧頂きたいと思います!


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橘レイナのウェディングドレス姿です! 女の子の憧れのシンボルとしてのウェディング衣装がとてもよくお似合いだと
感じられます。


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同じく橘レイナのおしゃれな私服姿です!

美少女はどんな衣装でもよく着こなしお似合いという事を立証していると思いますね~♪


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最後に、東奏学園の制服姿の橘レイナです。

制服姿だとJKさんらしいかわいらしさに溢れていますね~♪

そして橘レイナのソロによるショスタコーヴィッチの交響曲第9番~第四・第五楽章の長大なソロと楽章をまたいだ際の
変化も是非聴いてみたいです!
鳩(野ばと)は「平和の象徴」というイメージがありますし、ハト派と言う言葉に象徴される通り穏健・中道・軍事力行使を抑制・
話し合いによって紛争を解決という雰囲気もありそうですし、
日常的には神社の境内や公園など人間がたくさんいる場所でも平気で人間に近づいてくるという印象もありそうです。
ちなみに鳩の平均寿命は大体10年程度と言う事で、鳩の天敵は日本社会においてはカラスと猫なそうです。
街中で鳩の死骸をあまり見かけないのは、鳩には帰巣本能が備わっていて、死期が近いと悟った鳩はあまり外に出なくなり、
そのまま巣で死を迎えるからという説もあるようです。


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ポッポッポッ~、鳩ポッボ~という童謡がありますけど、鳩はどんな鳴き声で鳴くものなのでしょうか?

鳩にはたくさんの種類がいて鳴き声にも微妙に違いがありますけど、馴染み深いのは童謡にもある通りポッポーなのかも
しれないですけど、それ以外にも、クックー・クックー、ゴロッポ・ゴロッポ、デッデー・ポッポーといった鳴き声が
挙げられると思います。
(クックー・クックーというと桜田淳子の「ようこそここへ~クックー・クックー」の「わたしの青い鳥」を思い出す・・なんて記すと
管理人が昭和育ちである事がバレバレになってしまいそうです・・汗)

鳩の鳴き声というとどことなくとぼけた雰囲気とか平和な雰囲気という印象もありそうですけど、そうした鳩(野ばと)の鳴き声を
モチーフにしたクラシック音楽の楽曲もあったりします、

1/6の記事の中でアニメ「響け!ユーフォニアム」に関連する形で、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」について
触れさせて頂きましたけど、ドヴォルザークと言うと
交響曲第9番「新世界より」とか弦楽四重奏曲「アメリカ」とかチェロ協奏曲とかスラヴ舞曲集とかユーモレスクばかりが
有名曲扱いになってしまうのですけど、他にも例えば交響曲第7番とか交響曲第8番とか序曲「謝肉祭」とか
スケルツォ・カプリチオ―ソなどのようなすてきな名曲もたくさんあったりします。
しかもあの哀愁溢れるあの優しく美しいメロディーは郷愁を誘うものであり、日本人の感覚に合いそうでもあり、
すてきなメロディーメーカーといえるのかもしれないです。
そうしたドヴォルザークの数々の名作の中では、少し知名度は低く演奏頻度は下がるのかもしれないですけど、
上記で触れた通り、鳩の鳴き声をモチーフに扱った交響詩も残しています。
そしてその作品が本記事で取り上げさせて頂くA.ドヴォルザーク作曲の交響詩「野ばと」です。

交響詩「野ばと」は、単独の交響詩という形ではなくて「四つの交響詩」という連作交響詩という形でまとめられていて、
野ばとはその四番目の交響詩に該当します。
(連作交響詩というと、実は「モルダウ」ばかりやたらと有名になっていますけど、スメタナの我が祖国は、全6作品から
構成される連作交響詩でもあり、モルダウは二番目のの交響詩であったりします)
ドヴォルザークの四つの交響詩のモチーフは、4曲とも全てチェコの国民詩人エルベンがチェコに伝わる民話・民謡を
詩のかたちでまとめた詩集「花束」に由来しています。
この「花束」から「水の精」「真昼の魔女」「金の紡ぎ車」「野ばと」の4つをとりあげて連続して交響詩にしているのが
四つの交響詩という作品であり、野ばとはその最後の作品という事になります。

この四曲ともその内容は、全て殺人や人の死絡みの曲ばかりで、その内容もかなりえぐいものばかりです。
Ⅰの「水の精」は、親の反対を押し切って人間界とは別の世界の水界の王様と結婚した娘が、その後
子供を残したまま一時的に里帰りしたものの、親に止められ水界に戻れず、娘がいつまでたっても
帰ってこない事に腹を立てた水界の王が嵐を起こし、子供の首を切って娘の家の前に捨て去ったという
結構グロテスクなお話でもあります。
Ⅱの「真昼の魔女」は、子どもの躾に禁句であるはずの「魔女」の名前を、安易に出してしまい、その結果、
本来悪意のない者の名前を出したことで、見せしめとなり、子供を亡くしてしまう母親の哀しいお話でもあったりします。
Ⅲの「金の紡ぎ車」はシンデレラに少しばかり似ているのかもしれないです。
権力者に見染められた娘に起こる悲劇の話でもあるのですけど、義理の母娘によって一旦は殺害
されてしまう娘でしたが、最終的には魔女によって生き返る事が出来、金の紡ぎ車によって義理の母娘の悪行が全て
ばれてしまい、最後は王様とその娘は無事に結ばれるというお話で四つの交響詩の中では唯一のハッピーエンディングを
迎えます。

そして、四番目の交響詩が「野ばと」なのですけど、その内容は現在の感覚で言うとお昼のワイドショーの恰好のネタに
されそうなお話でもありまして、今だったら週刊誌の紙面広告で
「若き妻が夫を毒殺!」とか「夫を殺して喪が明けないうちから年下の若いイケメンと恋に落ちる・・」とか
「良心の呵責に耐えかねて自殺」というセンセーショナルな文字に溢れるのかもしれないです。

野ばとのお話を簡単に記してみますと・・

「自分が毒殺した夫の葬儀で偽りの涙を流していた若い未亡人が、年下の若い男に言い寄られると、すぐに喪服を脱いで
男と激しく愛し合ってしまい、そのまま二人は結婚してしまいます。
しばらくすると亡き夫の墓の前に1本の樫の木が育ち、そこに野ばとが巣を作ります。
妻が夫の墓の前に行くと、その鳩は、悲しげに、そして妻を責めるように鳴いていました。
さすがに夫殺しをした妻は良心の呵責に耐えきれなくなり、精神的苦痛を味わう日を送りますが、
鳩の悲しそうな鳴き声を聴くごとに、だんだん精神状態がおかしくなり、ついに自らの手で自らの命を絶ってしまいます」
そうした感じの物語だったと思います。

この交響詩は音楽もかなり分かり易く場面転換が極めて明快ですので、未亡人の心の変化が一目瞭然という感じもあります。

曲は物語の展開に沿った切れ目のはっきりした5つの部分から構成されています。

第1部:アンダンテ、葬送行進曲

この部分は若い未亡人が夫の棺に涙を流しながら悲しみに暮れた様子で葬儀を取り仕切っている様子が窺えます。
(前述の通り、夫の死因は妻による毒殺です)

第2部:アレグロ- アンダンテ

そこに年下のイケメン男子が出没し、まだうら若き未亡人を口説きに掛ります、音楽からも未亡人が満更でもない様子も
感じ取れます。

第3部:モルトヴィヴァーチェ- アレグロ

そして若き未亡人はその年下イケメンと再婚し、音楽は幸せそうな結婚式の場面の音楽を奏でます。
 
第4部:アンダンテ 

未亡人が毒殺した亡き夫の墓の上に樫の木が生えて育ち、そこへ野ばとがやって来て悲しく鳴き良心の呵責に
耐えきれなくなった未亡人は発狂し身投げをして絶命します。

第5部:アンダンテ (エピローグ:終曲)

第1部が変奏されて曲が進み繰り返されます。1部では短調だった音楽が終曲では長調に転じた事で、死ぬ間際に後悔と
良心の呵責に苦しんだことが天に認められ、未亡人の罪は最後には赦されたという解釈も可能なのかもしれないです。

冒頭の葬送行進曲風な箇所は、その未亡人の夫殺しの動機に何があったのかは語られていませんけど、
毒殺してしまった後悔よりは、むしろ薄笑いとか「ざまーみやがれ!」みたいな気持も感じ取れそうですね。
第2部のトランペットの明るい音色は年下のイケメン男子の出現を示唆し、
第3部の二人の結婚式の場面は「スラヴ舞曲集」を彷彿とさせる華やかさも感じさせてくれるのですけど、
第4部の野ばとが哀しげに鳴く場面は、フルートとハープでもって哀しみが表現されるのですが、これがまたなんともせつない
気持ちにさせられます。せつないというか取り返しの付かない事をしてしまった・・といった後悔の感情なのかもしれないです。
終曲は決して後味が悪いという雰囲気で終らせるのではなくて、天国から毒殺された亡き夫が
「もういいよ・・君は現世で十分苦しんだ・・僕は君の全てを赦す」みたいな感じで「救済」を暗示した終わらせ方には
どこかホッ・・とさせられるものもありそうです。
これがマーラーやショスタコーヴィッチだと後味の悪い曲想で閉じられそうですけど、そうさせないのは、さすが人柄が
温かくて信仰心に厚いドヴォルザークの人徳のなせる業なのかもしれないです。

ちなみに、ドヴォルザーク自身は、プライヴェートの趣味は、鉄道と鳩の飼育だったそうです。

鳩というと平和でのんびりした鳥という印象もあるのかもしれないですけど、感じ方によってはこんなにも内省的な響きにも
聴こえてしまうのは、これまた音楽の多様性と言えるのかもしれないです。
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トライアングルは、金属の棒を三角形に曲げた形状の打楽器の一つです。

トライアングルは3つの角のうちの1つが閉じられず切断された状態の楽器であり、そのためトライアングルは
2ヶ所の曲部を持った1本の金属の棒と換言出来るのかもしれないです。
金属の棒というと強いて言うと近い打楽器はコンサートチャイムですけど、チャイムと異なり、トライアングルは
一定の音律(ピッチ)を持たないという大きな特徴もあったりします。

そもそも論としてどうしてトライアングルの形状は円形でもなく楕円形でも無く四角形でも無く、
一角が切断された三角形なのでしょうか・・?
その答えを探求して、ある科学者が色々と実験を試みたそうですけど、結論として、トライアングルは三角形の形状で
しかも一角が切断されていないとあのような天国的な色彩の透明感と繊細さに溢れた音色は出せなかったそうです。

開いていない角に紐あるいは金具を付けて吊し、金属の棒のばち(トライアングルビーター)で打つのが基本的奏法です。
専用スタンドに取り付けて演奏できるようにしたメーカーの製品もありますけど、この場合一人の奏者が同時に二台の
トライアングルを鳴らす事も可能ですし、実際私が見た中でも、1996年の東海大学第四高校の吹奏楽コンクール全国大会では
自由曲の交響詩「ローマの松」~Ⅳ.アッピア街道の松の際に、トライアングル奏者は、そうした専用スタンドを用いて
一人で2つのトライアングルを壮麗に響かせていました。

トライアングルは全体が弱奏の場合に清楚に静粛にチーン・・と鳴らされるとその清らかで清潔で洗練された響きに
思わずジーンとくる時もありますし、
そうした代表的事例の楽曲として、スメタナの交響詩「モルダウ」の冒頭部分を挙げたいと思います。
同様な例としては、ドヴォルザークのスラブ舞曲第10番(厳密に書くと「スラブ舞曲」第2集から第2曲)も中間部における
トライアングルの清楚な響きはとても美しいです~♪
そしてピーター(撥)をトライアングルの三角形の一角に上下で激しく振ってヒステリックに鳴らせる時のトライアングルの
激情振りも人の心を揺さぶらざるを得ないのかもしれないです。
その激情例として、ショスタコーヴィッチの交響曲第5番と第10番のそれぞれ終楽章の終結部を挙げたいと思いますし、
マーラーの交響曲第1番「巨人」~第四楽章のエンディングにおいて、トライアングルは2名の奏者によってヒステリックに壮麗に
鳴り響き、あのエンディングの打楽器はティンパニ奏者2名による激しいロールもありますので、トライアングルと合わせって
相当な音響効果を感じたりもします。
そしてチャーミングでかわいい使われ方としては、シベリウスのカレリア組曲~Ⅲ.行進曲風にを推したいと思います。
トライアングルとタンバリンとの融合という意味では、ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」が素晴らしいです。

よくトライアングルは大変例えが悪いのですけど「どんなアホでも撥で叩けばチーンと音は鳴る」と言われたりもするのですけど、
実際はそうした事は全く無くて、一見すると簡単に扱えるように見えるのですが、
クラシック音楽で使用される打楽器の中では非常に熟練を要する楽器でもあったりします。
その音量をコントロールすることは大変難しくて熟練の技術を要しますし、時に演奏が困惑させられるような
大変困難な複雑なリズムも要求される事もあったりします。
その一つの事例がグリーグの劇付随音楽「ペール・ギュント」のアニトラの踊りや吹奏楽コンクールの課題曲ですけど
1983年の課題曲Bの白鳳狂詩曲と91年の課題曲Cのロックン・マーチなのかもしれないです。
あ・・白鳳狂詩曲とロックン・マーチは同じ作曲者でしたね・・藤掛さんの曲はトライアングル奏者泣かせなのかも・・??
そうそう、トライアングルは意図的に指で楽器の一部に触れて振動を阻害し音色を変化させるという変化球もありますし、
打つ位置によっても微妙に音色を変化させることができますし、はたまたピーター(撥)の材質や重さによって音色の変化も
探究できます。
時に編み針、木製のビーターを作曲家が要求することもあったりします。

トライアングルは簡単に誰でも叩けば一応音は出るのですけど、その多様性と深さは打楽器の中でもミステリアスなものは
あるのかもしれないです。
冒頭のららマジに出てくるJKさんは、トライアングル奏者の月島塁ですけど、月島塁はららマジの中でも突出した
ちょっと変わった不思議ちゃんでもありますので、月島塁が器楽部でトライアングルを担当しているのも妥当なのかも
しれないです。

高校一年の地区予選の際に、うちの学校は課題曲にAの「イリュージョン」を選び、地区予選通過時に
審査員講評用紙でのとある審査員からの演奏コメントの中に
「課題曲の中間部のトライアングルの叩き方が極めて無神経で粗雑・・君の叩いたチーンと言う音色は客席2階にまで
響いてくるのだからもう少し考えて叩きなさい」と書かれていたものがありました。
当時課題曲でトライアングルを担当されていたのは3年生の先輩でしたけど、それを読みかなりブーたれていましたけど、
その先輩なりに何か感じるものがあったのか、県大会までの三週間の練習の中で、色々と叩き方を研究されていたようでも
ありました。
そして県大会での演奏が無事に終わり、そのトライアングルの先輩は自分達後輩に対して
「どだっ! 俺のトライアングルの音色は・・! 地区予選よりは数段の進化だろ! どだっ! まいったか~」みたいな事を口走り
嬉しそうにされていましたけど、後日予選と県大会の課題曲中間部のトライアングルのチーンという音を聴いても
「どこが変ったんだろ・・??」という感じでしたけど、本人がそれで満足というのならそれでいいと思いますし、何よりも
あの課題曲の中間部のトライアングルなんて別に目立つ箇所ではないのだけど、トライアングルの繊細な音は
ホール2階席でもきちんと届くということだけはなんとなく理解したものでした。
吹奏楽コンクールで昔も今も大人気自由曲の一つのラヴェルの「ダフニスとクロエ」第二組曲~Ⅲ.全員の踊りの部分で、
よく聴いてみると、後半に掛けて、サスペンダーシンバル→カスタネット→タンバリン→トライアングルと掛け合いの箇所が
あるのですけど、あの場面はバックもよく鳴っているのに、トライアングルのチーンという響きは普門館の客席にも
しっかりと伝わっていますので、ここからもトライアングルの音色は繊細だけど同時に遠くにもきちんと響いてくる不思議な
楽器といえるのだと思います。
(その不思議さこそがららマジのトライアングル奏者の月島塁にも被っているのかもしれないです~♪)


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そしてクラシック音楽におけるトライアングルというと有名な事例は、これは昔からよく言われている話ですけど、
リストのピアノ協奏曲第1番に尽きると言えるのかもしれないです。
19世紀頃までの協奏曲というと三楽章構成というのが定石であったのですけど、リストのピアノ協奏曲第1番は
第4楽章迄あることもそうですし、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」と同じ変ホ長調なのに、
全然調の印象が違うこともそうですし、全体の形式はソナタ形式を取っているものの即興的で自由な印象が大変強く。
冒頭の動機を後半部でも変形させ繰り返す事で曲全体の統一感を出し、循環主題の先取りをしているとも言うそうです。
そしてこの協奏曲において突出して個性的でユニークなのは、第3楽章において、当時は使用する事自体が大変珍しく
異例でもあったトライアングルをかなり効果的に用いていて、当時の音楽的常識を無視したかなり画期的な演出と
言えそうです。
(当時の交響曲・協奏曲のジャンルで使用される打楽器はティンパニのみという曲が多く、稀に大太鼓・シンバルが部分的に
使用される程度でもありました)
トライアングルがあまりにも活躍するので、当時の名高い音楽評論家のハンスリックから
「トライアングル協奏曲」とも当時は揶揄されたことでも有名であったりもします。

ハンスリックという高名な評論家は、当時の楽壇の人気を二分していたブラームスとワーグナーの中では、
ブラームスを強く擁護し評価していたのに対して、
ワーグナーと、「ワグネリアン」と称されるワーグナーに近いと目された人物には、上記のリストも含めて徹底的な批判を
加えています。
ワーグナーはそれに大変立腹し、ワーグナー自身が作曲した楽劇「『ニュルンベルクのマイスタージンガー」において、
ハンスリックを無粋なニュルンベルク市の書記ベックメッサーという役のモデルとして仕立て、
そのベックメッサーの設定は「常に不機嫌そうに接し、些細なミスや間違いを見逃さないようにどうでもいい事にばかり
文句をつける小役人」という事にして、ベックメッサーに対する強烈な嫌味とあてこすりをしていたりもするのですけど、
ワーグナーに心酔するものの、そうした粋な芸当が全くできないブルックナーは、
絶えずハンスリックの攻撃にさらされ続け、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に
「陛下、どうかお願いですのでハンスリックの口を塞いでください・・」と哀れに懇願するしかできませんでした・・
ハンスリックはブラームスの音楽を高く評価していましたけど、実はブラームス自身は
「ハンスリックの書いた批評を読むと、実は彼は私の音楽を理解していないのではないかと思ってしまう」という趣旨のコメントを
残してもいたりもするそうです。

リストの娘がコジマと言う女性であり、
ワーグナーというとビューローという指揮者とコジマの存在を外す訳にはいかないです。
ビューローは、当初はワーグナー派の代表的存在でしたけど、ビューローの妻・コジマとワーグナーは、平たく言うと
できちゃいまして不倫関係に陥り、その結果、ビューローとコジマは離婚し、その後ワーグナーとコジマは結婚した経緯が
ありました。
その後、ビューローはワーグナーから離れてブラームスとの親交を深めその作品を積極的に取り上げるようになるのですが、
亡くなるまでビューローはワーグナーの楽曲には愛着があった節もありましたし、
自分の私生活と音楽は別という考えも多少はあったのかもしれないです。

クラシック音楽の作曲家・指揮者・音楽評論家というとお堅いとか高貴というイメージはあるかとは思うのですけど、
そうした先生方も所詮は人の子・・という事で「人生いろいろ~」みたいなエピソードも残されているという事なのですね。

ららマジの不思議少女の月島塁も「人生いろいろ~」と言う事でそうした少しミステリアスで他人と異なる所も
すてきだと思いますし、ららマジには個性溢れるたくさんのJKさん・JCさんがいる中で、
月島塁のそうした不思議ちゃんという個性もまた大変尊いと言う事なのだと思います。

改めて月島塁について記しますと、月島塁は高校2年生のJKさんで担当楽器はトライアングルです。
不思議系の雑誌を読んだり、占いが趣味のちょっと電波な不思議ちゃんでもあります。
バトル時には、棒をステッキにし、トライアングルから発動される魔法攻撃でもって攻撃を仕掛けます。

月島塁はちょっと変わった不思議なJKさんですけど、そうした月島塁が奏でるトライアングルの音色は、果たしてどんな音色を
奏でてくれるのか興味津々ですし、
19世紀において古典的形式のお手本みたいなピアノ協奏曲のジャンルにおいて「楽章の中にトライアングルをかなり効果的に
響かせている」というリストのピアノ協奏曲第1番第三楽章を月島塁だったらどのように感じて、どのように表現してくれるのか
というのも大変面白いものがありそうです。

そしてトライアングルというと別に楽器だけがトライアングルではないです。

人生いろいろ、トライアングルもいろいろ~♪という事なのだと思います。

上記は打楽器の一つのトライアングルのお話でしたけど、トライアングルと耳にして、
テレビアニメ「プリパラ」に登場するユニットを思い出す方は最近のアニメファンであり、
かつて「キャンディーズ」の後輩ユニットとして売り出され一時期はキャンディーズjr(キャンディーズジュニア)とも呼ばれていた
三人組のアイドルユニットを思い出す方は昭和アイドルファンであり、
焼酎の商品名を挙げられた方はお酒好きという事なのかもしれないですね~
ちなみに焼酎のトライアングルは元々はキッコーマンが製造販売していた焼酎ですけど、実は2006年に事業譲渡され、
現在はサッポロビールが製造販売しているそうです。
そうそう・・私が子供の頃は世界の謎とかムーでお馴染みだったのは「バミューダ・トライアングル」という一種の都市伝説も
あったものでした・・


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ここから下記はdream fantasyのアミグリさんが
描かれたイラストのご紹介コーナーです。

上記のお話は「トライアングル」関連でしたけど、アミグリさんファンの皆様、そしてアイドルアニメ好きファンの皆様の
視点で申し上げると、トライアングルというとプリパラのユニットですよね~♪

そうした訳でdream fantasyのアミグリさんが
描かれたぴのん、かのん、じゅのんの3人から構成されるトライアングルの集合絵をご紹介させて頂きたいと思います。
下記のらぁら・そふぃ・みれぃのソラミスマイルの3人の集合絵もとても華やかですてきでしたけど、
ぴのん、かのん、じゅのんの3人も3人揃い踏みの集合絵は更に豪華絢爛さがマシマシになり
とっても華やかで鮮やかだと思います。

今回描かれたトライアングルの集合絵は「ライブをしているシーン」をアミグリさんとしてはイメージされたとの事ですけど、
そうしたライブとしての華やかさ・躍動感も申し分なく伝わっていると感じます。

ぴのんちゃん・かのんちゃん・じゅのんちゃんの3人は実は同一人物であり、とある人物が三位一体と言うのか一人三役を
見事に演じていて、そのとある人物のその正体こそが実は、真中らぁらの妹の真中のんであったという事が判明したのは
プリパラの第三期アニメ本編の最終回間際でもありました。
アニメ本編にて、真中のん役の声優さんが結果的にトライアングルの三人の声を演じたという事にもなるのですけど、
声優さんのそうした声の演技も素晴らしいですけど、アミグリさんのトライアングルの集合絵も見ている人に
「実はこの3人は同一人物である」という事を微塵も感じさせないキャラの違いを的確に表現されていて、こちらも声優さん
同様にそのご苦労に心の底から敬意を表させて頂きたいと思います。

改めて3人揃い踏みの集合絵として拝見させて頂きますと、今
回はキラキラ仕様が加わり、背景のアイドル空間的な華やかな雰囲気も加わり、今まさにライブをやっている~!といった
躍動感が見ているだけで伝わってきそうです。

この3人は確かに同一人物ではあるのですけど、三者三様のクールさ・明るさ・かわいらしさが伝わってきていて、3人の個性の違いも一枚の絵の中にぐぐっと盛り込まれているのも素晴らしいと思いました。


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続きましてアミグリさんが描かれたプリパラ集合絵の中から、2018年3月に描かれた「ソラミスマイル」の3人の集合絵です。

上記のトライアングルの3人よりもこの3人の方がお姉さんっぽく感じられるのは、トライアングルの正体は
真中のんという真中らぁらの妹が3人のキャラを演じていて実は同一人物であるという事が大きいのかもしれないです。

みれぃのネコ耳っぽいお団子もらぁらの髪にちょこんと乗ったシルクハットもとってもかわいいものがあると思いますし、
プリパラの中でも王道中の王道のこの三人が勢揃いしたソラミスマイルの集合絵は、とても華やかで
見ているだけでもハッピーな気持ちになれてしまいそうなすてきな集合絵だと改めて感じたものでした。

上記で触れた通り、アミグリさんの絵は、どちらかというとキャラ一人を描く傾向が強い中、
こうした集合絵というか複数キャラを描かれる作品も大変珍しいものがありますので、
そうした意味においても大変貴重な作品と言えるのだと思います。

アミグリさんがこのソラミスマイルを描かれ掲載していた頃が丁度dream fantasy開設10周年という大きな節目でも
ありましたので、ソラミスマイルの3人がアミグリさんに対して「おめでとう! ここまでよく頑張ったね!」と
言われているようにも感じられそうです。
らぁらがメインにでーんと位置していますけど、らぁらの決め台詞でもある「かしこまっ!」と言いたそうな雰囲気もあり、
とにかくこの華やかさが申し分ないと思います。

上記のアミグリさんが描かれたプリパラ集合絵のその権利は上記作品の絵師様である
アミグリさんに帰するものであり、当ブログにおける転載とご紹介は事前に全てアミグリさんからご了解を頂いたものであり、
アミグリさんからのご厚意で転載をさせて頂いておりますので、
無断お持ち帰りや無断コピーは絶対NGですので くれぐれも宜しくお願い申し上げます。

アミグリさん、本当にいつもすてきなイラストの転載を快諾して頂きありがとうございます!!

アミグリさんのブログ「dream fantasy」は、
東方・艦これ等の版権作品の二次創作作品やオリジナル作品など
すてきなな作品が一杯いっぱい詰まっている宝石箱みたいなとっても素晴らしいブログです!
皆様の中で「こんなにかわいいトライアングルを描く人のブログってどんなもんなのだろう・・? 」などと興味がある方は、
是非是非アミグリさんのブログ dream fantasy  を
ご覧になって頂きたいと思いますし、宜しければ、当ブログだけではなくて、
是非アミグリさんの本家本元のブログ dream fantasy  に一度お越しして頂けると
アミグリさんのブログをご紹介させて頂いている私もとってもとっても嬉しいです!

アミグリさんが定期的に作品を投稿され続けている →アミグリさんのpixiv にも是非一度足を運んで頂ければ幸いです!

アミグリさんのpixiv

それでは最後まで本記事を読んで頂きありがとうございました!
本記事はA.ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」の記事なのですけど、
私自身がドヴォルザークの交響曲でいっちば~ん!大好きな曲というと実は「新世界より」ではなくて、
実は交響曲第7番です!
ドヴォルザークの7番は知名度は低いのかもしれないですけど、その内容の充実は素晴らしいものがあり、
雰囲気としては「大変厳しい状況や困難さを克服し、なんとか自立で頑張ってみよう!」みたいな決然としたものを
感じさせてくれていると思います。
ドヴォルザークの7番は演奏会では「新世界より」に比べると格段に演奏頻度が下がるのはちょいともったいない感じは
しますし、交響曲第8番や 交響曲第9番「新世界より」は7番に比べると演奏機会も発売されているCDも断トツに上ですので、
7番の方ももう少し注目度が上がればいいなぁと思ったりもします。
交響曲第7番は内容が大変シリアスさと厳しさを有していますけど、交響曲第6番は全体的には
「この世のありとあらゆるハッピーを手に入れた!」みたいな幸福感が全体を支配し、この6番ももっともっと知れ渡って欲しいと
願ってやまないです。

それにしてもドヴォルザークという作曲家は、日本人好みのメロディーを多く作曲した「屈指のメロディーメーカー」という
印象があります。

一例を挙げると・・

〇交響曲第9番「新世界より」~第二楽章

〇ユーモレスク

〇弦楽四重奏曲「アメリカ」(弦楽四重奏曲第12番)

〇チェロ協奏曲

〇スラブ舞曲(特に第Ⅱ集の第二曲のあの泣けるメロディーラインは名曲の名に恥じないと思います!)

など色々あると思います。

ドヴォルザークのあの哀愁溢れるメロディーラインは日本人好みだと思いますし、不思議な郷愁の感情を感じてしまいます。
日本人好みの哀愁・秋みたいな感覚・しっとり感が伝わり、どこなく田園地帯の静かな秋といった色彩も
音楽から伝わっているように感じられます。
どうしてこんなにも美しくすてきなメロディーをドヴォルザークは書けたのかと言うと、多分それはドヴォルザーク本人の
信仰心が厚く真面目で常識的で温かい人柄に起因するのかもしれないです。
肉屋の長男として生まれ、幼少の頃より大変貧しい生活を送り、正規の音楽教育もなかなか受けることができず、
恩師等の援助等によってなんとか音楽学校を卒業できたものの、生活のために奏者として教師として仕事を時に掛け持ちし、
若い頃はかなり貧しく大変な時期を過ごされてもいます。
そして結婚後も、長男・長女・次男を小さい頃に亡くしたりするなど、かなり苦労の絶えない人だったのかもしれないです。
だけどそうした貧乏・苦労を知っているからこそ、どこか人間味あふれた温かい音楽をあんなにもたくさん残すことが
出来たといえるのかもしれないです。
ドヴォルザークが交響曲第9番「新世界より」を作曲した背景に、アメリカのナショナル音楽院より
「ぜひ渡米して2年程度当学院の院長に就任して欲しい」という要請を受け、初めは強く固辞したものの、プラハの学校での
年収の実に25倍近くの報酬を提示され、アメリカに渡ったというエピソードもドヴォルザークの経済事情を考えると
当然なのかもしれないです。
だけどそのアメリカ生活での環境で、さらにすてきな作品を後世に残す結果となったのはとても幸いだったと言えるのかも
しれないです。

冒頭でドヴォルザークは交響曲第9番「新世界より」よりも交響曲第7番の方が好みと書いてしまいましたけど、
交響曲第9番「新世界より」は古今東西人気交響曲の投票を行ったとしたら、確実にベスト10に入りそうな曲ですし
名曲の資格を有する本当に素晴らしい傑作だと思います。
オーケストラの演奏会で最も頻繁に演奏されるレパートリーの一つでもありますし、
日本においてはベートーヴェンの交響曲第5番「運命」、シューベルトの交響曲第7(8)番「未完成」と並んで
3大交響曲と呼ばれることもありますし、事実、現在はやっているかどうかは分かりませんけど、読売日本交響楽団が、
世界の三大名交響曲と銘打ってサマーコンサートを開催していましたが、その三大交響曲とは運命と未完成と新世界でした。

交響曲第9番「新世界より」は今現在は言うまでもなく交響曲第9番という呼び名が定着していますけど、実は第二次世界大戦
あたりまではこの交響曲は交響曲第5番と呼ばれていました。
それは作曲した古い順から1番・2番・・としていく通常のナンバーリングではなくて、出版社の都合によりその出版順により
第5番と呼ばれていた事も大きいですし、それ以上に第二次世界大戦前後あたりまでは、ドヴォルザークの交響曲第1~4番は
マイナーすぎて世間にほとんど知れ渡っていなかったという事情もあるようです。
その後作曲順に番号が整理され、現在では「新世界より」は第9番として定着しています。

ドヴォルザークの初めての交響曲は、交響曲第1番「ズロニッツェの鐘」という曲なのですけど、この交響曲は
ドヴォルザークの若書きということもありましたし、作曲コンクールへの応募作品と言う事で短期間で書き上げたという事もあり、
コンクール落選後に主催者から交響曲第1番「ズロニッツェの鐘」の総譜が返却されなかったという事もあり、
元々作曲した作品に対しては大変厳しく自分が納得いかない曲は容赦なく破棄する癖もあったドヴォルザークは、
「交響曲第1番は自分が破棄したのかもしれない」と考えていたのかもしれないですし、案外もしかしたら
そうした曲を作曲していた事自体忘れていたのかは定かではないのですけど、ドヴォルザークは
交響曲第9番「新世界より」 完成後の自筆のスコアにははっきりと「交響曲第8番」と記していたそうですから、
少なくともドヴォルザークの頭の中では交響曲第1番「ズロニッツェの鐘」は認知していなかったという事なのかもしれないです。

上記で書いた通り、私自身この交響曲は高校の頃まではそれほど大好きという感じでもなかったですし、
「同じドヴォルザークならば、交響曲第8番とか第7番の方がはるかに内容的にも優れているのに、どうして新世界ばかり
人気があるのかな・・?」と 少々ひねくれた考えを持っていたものです・・・
第二楽章のあの「家路」の哀愁溢れるメロディーとか第四楽章冒頭のトロンボーン等による堂々としたメロディーが
あまりにも音楽の授業とかCMとかテレビのBGMで多用され過ぎたせいなのか、新世界を聴いても「またか・・」みたいな感じ
になってしまい、名曲過ぎて逆に敬遠気味だったのかもしれないです。
そうした考えが一転したのは、大学の吹奏楽団に入部して以降だと思います。
ある時、トロンボーンの先輩との会話の中からなぜかドヴォルザークの話になってしまい、
「この作曲家の交響曲の中では断然7番がいいと思うのですけど・・・」みたいな事を口走ったら、その先輩より
無言で練習場内に置かれていたケルテス指揮/ウィーンフィルのレコードを差し出され(当時はCDが普及していない時代です)
「騙されたと思ってこのケルテスの新世界を聴いてみてからそういう戯言を言ってみなさい」と一喝され、
しぶしぶこのレコードを聴いてみたら、「なるほど、そういう事か・・」と目からウロコ状態となったものです。
ケルテス指揮の演奏は現在の視点で聴いても、斬新というか音楽のダイナミックスレンジが幅広いし
自由自在に表現している感じが伝わり、音楽の教科書に掲載されている名曲みたいな堅苦しいイメージの音楽ではなくて
とにかく「生き生きとしている」・「面白い」・「古めかしい教科書くさくない演奏」・「新鮮」という感覚が強くて、
結果として、一人の指揮者の演奏がきっかけで、今まで敬遠していた音楽が好きになる事の典型例みたいな
感じになってしまいました。

ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」なのですけど、未だにこの曲について少々誤解をされている人もいるようです。
その誤解とは何かと言うと、
ドヴォルザークがアメリカという当時としては「新大陸=新世界」に音楽院長として赴き、
原住民であるアメリカインディアンの民謡からヒントを受けて、それを引用しても第二楽章の家路のメロディーを作曲したという
話がよく語られているのですけど(私自身、中学の音楽の授業ではそのように教わっていました・・)
それはとんでもない大嘘ですからね~
ドヴォルザーク自身は、この交響曲作曲に当たっては、別にインディアンの音楽や黒人音楽からの引用は一切ありません。
アメリカの黒人音楽が、ドヴォルザークの故郷ボヘミアの音楽に似ていることに刺激を受け、
アメリカと言う新世界から故郷ボヘミアへ向けて作られた完全オリジナル作品というのが正解のような気がしますし、
「新世界より」という副題は、新世界アメリカから故郷ボヘミアへ向けてのメッセージといった意味なのかもしれないです。

あくまで私の個人的な感想ですけど、この交響曲は第一楽章が一番好きです。
壮大さ・自然への賛美・人間への愛情、郷愁といった色々な感情が荒ぶっては引いていくみたいな気持ちになりそうです。
フィナーレも壮大で聴き応えがありますし、最後の和音のフェルマータを静かに閉じていく意外な終わらせ方も
面白いと思いますし、第三楽章の舞曲みたいなところも聴いていて気分爽快です。
やっぱりこの交響曲の最大の聴きどころは、誰が何と言ってもあの泣ける第二楽章、特にコールアングレの長大なソロ
なのだと思います、
確かにCMや販促CDとか教科書とかTV番組のBGM等で使用され過ぎというせいもあり、商業ベースに乗せられ過ぎみたいな
感覚も無い事は無いのですけど、あの第二楽章のコールアングレのソロは聴くだけで「何か」を感じさせてくれていると
思います。
ラフマニノフみたいな甘酸っぱい郷愁とか後ろめたい後悔の気持ちみたいな感じては無く、気分としてはもう少し前向きな感じも
あったりします。

交響曲第9番「新世界より」のあるある話としてよくネタにされている話が、
シンバルは全曲を通して第四楽章の一打ちしか出番がなく、第四楽章のその出番がくるまでシンバル奏者はじっと待って
いなければいけないので、ついついその待機時間の長さに負けてしまい、演奏中に寝てしまって第四楽章の唯一の出番を
スルーしてしまったとか、第一~第四楽章まで終始出番がある弦楽器や大変なソロがあり重圧のかかるコールアングレの
奏者とわずか一か所しかないシンバル奏者のギャラは実は全て一律平等であるのが管弦楽団のルールであるという事が
あったりもします。
このあたりを少しフォローさせて頂きますと、シンバルについては確かにシンバルだけなら第四楽章の一打ちだけですけど、
実際の演奏会では、この新世界交響曲の打楽器はティンパニと第四楽章のシンバル以外では第三楽章のトライアングルも
ありますので、大抵の場合シンバルとトライアングルは一人の奏者が兼任する事がほとんどなので、
「わずか一か所のみの出番なのに貰うギャラはヴァイオリンやコールアングレと同じ」というのは間違っていますし、
それに出番が一か所のみという意味では実はチューバも同じで、チューバの出番は第二楽章冒頭のわずか10小節のみです。
ただ、シンバルの一打ちについては、その一打ちが弱音指定であるためか、寝過ごした・楽器を落として舞台上を転がした
といった都市伝説が存在するのも面白い話だと思います。

第四楽章におけるシンバルなのですけど、上記で全楽章で出番は第四楽章のわずか一打ちだけでしかもとてつもない
弱音指定なのであまり目立たないと記しましたけど、このシンバルの一打ちは大変難しい個所だと感じたりもします。
人によっては「シンバルはどなアホでも叩けば音は鳴る」と思われるのかもしれないですけど、そうした誤解は
新世界のシンバルの一打ちにかける難しさを見て頂けると溶けると思います。
そのシンバルの一打なのですけど、譜面上は二分音符+全音符+四部音符がタイで結ばれた譜面上は、mfのアタックの
後に7拍分の余韻が指示されています。
そうした作曲者からの指示をいかに音にするかというのは指揮者ではなくて実際にシンバルをあわせる奏者の腕の見せ所
なのだと思います。それをどのように料理するかを考えるという事自体、シンバル奏者=どんなアホでも叩けば音は出る
という訳ではないという事を立証しているのだと思います。
さてさて・・そうしたドヴォルザークからの厄介な指示を現場でどのように音にするか、その方法として考えられるのは
1.合せシンバル的にタイミングよくアタックする
2.左手のシンバルの内側側面を右側シンバルのエッジに擦り合わせる
3.片方のシンバルを吊るしシンバル的に片手で持ち、別の手で手にしたマレットで軽くたたく
という事がありそうですけど、実際の演奏会でシンバル奏者が実践しているのは2の方法が多いように思えます。
2の方法はタイミングが命だと思ったりもします。

第二楽章のコールアングレのソロは、本当にこの世の物とは思えないほどの「美しいメロディー」なのですけど、
こんなに美しい叙情楽章も大変貴重なものがあると思います。他にどんな美しすぎる抒情楽章があるのかさっと思いつく所で
列挙してみますと・・

〇ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番第二楽章

〇コルンゴールド/ヴァイオリン協奏曲第二楽章

〇バーバー/ヴァイオリン協奏曲第二楽章

〇モーツアルト/ピアノ協奏曲第23番第二楽章

〇プロコフィエフ/交響曲第5番第三楽章

〇シューベルト/ 交響曲第7番「未完成」第二楽章

〇マーラー/ 交響曲第5番第四楽章・アダージェット

〇  同 / 交響曲第6番「悲劇的」第三楽章

〇チャイコフスキー / 交響曲第5番第二楽章

など色々とあるのですけど、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」の第二楽章は、別格みたいな感じもありますね。
「新世界より」の第二楽章は、コールアングレのソロばかり注目が集まりがちですけど、
この楽器の延々と長いソロの後のクラリネットとフルートに受け継がれていく部分も相当美しいものがあると思います。
終盤近くに、チェロを中心とする弦楽合奏の中で、突然メロディーが瞬間的に途切れて 一瞬何秒かの沈黙が
二か所ほどあるのですけど、あれを最初に生演奏で聴いた時は思わずはっ・・となるほどの息をひそめてしまうような
美的限界があるようにも感じられます。


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ららマジの器楽部においては、オーボエ奏者はいなくてコールアングレ奏者の白石陽菜のみです。

多分ですけど、オーボエの音色が必要な場合は白石陽菜が楽器を掛け持ちしているのかもしれないです。

白石陽菜は高校2年生のJKさんで血液型はO型です。
気品と度胸あふれるおてんばなお嬢様という設定です~♪

一見いいところのお嬢様という雰囲気も有しながら、かなりやんちゃで活発なお転婆娘というのも楽しいですし、
お転婆ゆえに実は特技と趣味は木登りというのもとても楽しいです。

活発な女の子だけど、担当している楽器の音色はかなり内省的というギャップもすてきですね~♪

そして前髪をあげているためおでこがかなり目立っているのもとてもかわいいです~!

吹奏楽コンクールにおいては稀にドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」 ~第四楽章が自由曲として演奏される事も
あったりしますけど、本来は第四楽章はティンパニとわずか一打のシンバルのみですけど、ライゼン編曲の吹奏楽版だと、
ここにシロフォーン・大太鼓・小太鼓も加わり、本来は第四楽章では登場しないはずのチューバもかなり低音を響かせていたりも
しています。
聴き方によっては結構無茶苦茶なアレンジですけど、ららマジ器楽部の楽器編成もかなり無茶苦茶ですので、
ららマジ器楽部がもしもA.ドヴォルザーク / 交響曲第9番「新世界より」 を演奏したらとても面白そうですけど、
第二楽章のコールアングレのソロはこの白石陽菜がしっとりと美しく決めてくれそうですね~♪



リコーダーは縦笛の一種で、息を吹き込んで発音して、穴を指で塞いで音程を決める楽器です。

12世紀頃に楽器として登場し、ルネサンス期~バロック期のヨーロッパで隆盛を極めたものの、18世紀に
横笛としてのフルートが登場して以降は18世紀以降は急速にオーケストラの中では消滅していきます。
もともとはクラシック音楽の楽器でしたけど、オーケストラが巨大化するに至って大音量が出ないという理由から、
クラシック音楽の楽器としては廃れていったという歴史もあったりします。
シェークスピアが活躍していた時代がリコーダー全盛の時代ともいえるのですけど、例えばハムレットのセリフの中にも
「リコーダーはうそをつくのと同じくらい易しいぞ。親指や他の指で穴をおさえ、息を吹き込めば最高の音楽になるぞ」という
セリフも実はあったりもします。

単に息を吹き込むだけで容易に音を出すことができるのですけど、その理由として、フルートのように唇の振動で
音を出すのではなくて、楽器の頭部の栓(ブロック)と管壁の隙間から吹き込まれた息が、鋭い切り口にあたって
ホイッスルの原理と同じように音を発する事が挙げられます。
上記で触れた通り、クラシック音楽の分野ではフルートの地位にとって代わられ存在意義と活躍場所を失ったかのように
見えたのですけど、現代の日本においては、
小学校低学年でも簡単な演奏が可能である上、構造がシンプルでプラスチックを用いると安価に量産できることもあって、
小学校や中学校の音楽の授業で主にソプラノリコーダーとアルトリコーダーが使われていたりもします。
(捨てる神あれば拾う神あり・・という感じなのかもしれないです)

アニメ二次創作や同人系の分野では、リコーダーというと、ロリ・ランドセルと共に幼女の必須アイテム・
他の楽器に比べて深く口にくわえる事から、リコーダーを吹く事がとある行為を示唆するもの・・とか
男子中学生が好きな女の子と間接キスをするために誰もいない教室に忍び込んで、その女の子のリコーダーを
こっそり吹く・・といった誤った使用方法やイメージもあるようですけど、よいこの皆様はそんなヘンな妄想でリコーダーを
悪用したらダメですよ~(汗・・)


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「ららマジ」において、リコーダーを担当されているのは高校3年のJKさんの園田乃愛です。
(乃愛というと「ラーメン大好き小泉さん」のモブキャラの乃愛ちゃんを思い出してしまいそうです・・)
演奏会の演出を一手に引き受ける最上級生であり、器楽部創立メンバーの一人でもあります。
担当楽器はリコーダーで、楽器初心者の下級生の星にもなっているそうです。
(リコーダー自体が楽器初心者にとっては最も扱いやすい楽器の一つなのかもしれないです)
趣味はTVゲームで、はね髪がとってもかわいいですし、とてもじゃないけど高校3年生に見えない幼い雰囲気が
とってもかわいいですね~

バトル時ではリコーダー型の杖を振って星型のエネルギーを飛ばして攻撃するそうです。


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今年の10月後半以降当ブログでよく出てくる「ららマジ」なのですけど、これはアニメ作品でなくてスマホ向けの
2017年1月にリリースされた音と魔法の学園RPGです。
ららマジのストーリーは、とある呪いにより廃部寸前となってしまった東奏学園器楽部を舞台に、
プレイヤーは器楽部員として登場する30人のヒロイン達を呪いから救い出し、彼女たちが再び演奏できるようにすることを
目指すように頑張るという内容です。

東奏学園器楽部の部員は30人ですけど、
「ららマジ」は吹奏楽部ではなくて器楽部と言う事で、楽器仕様に制約が無いと言う事で、出てくる楽器も
吹奏楽ではありえない編成のワーグナーチューバ・箏・胡弓・チェロ・リコーダー・エレキベース・エレキギター・シンセサイザー・
ウクレレなども登場しているのは自由さがあってとてもすてきだと思います。

私自身、中学校以降はずっと吹奏楽部に所属していましたけど、小学校の頃の放課後課外活動として、
週に2~3回程度の練習を行う管楽器クラブに所属し、そこでは打楽器(主にティンパニ・ヴィヴラフォーン・シンバル等)を
担当していました。
当時の感覚としては「こうした大人数での合奏するのだったら、叩く楽器よりも吹く楽器の方が面白そうだし、より音楽に
参加しているという意識がありそう・・」と感じ、中学入学以降に吹奏楽部の門を叩いたのですけど、これが結果的に
間違いだったのかそうではなかったのかは今となってはよく分からないですけど、結果的に音楽を知るきっかけになったのは
確実なのでそれはそれで結果オーライなのかもしれないです。

小学校の管楽器クラブはららマジと同じくらい編成が自由自在で、主なメロディーライン担当楽器は、上記でも出てきた
リコーダーと、ピアニカ(鍵盤ハーモニカ)とアコーディオンだったと思います。
そこにトランペット・トロンボーン・クラリネット・サックス・チューバ等の管楽器や打楽器が加わり、なぜかしりませんけど、
そこに更に足踏みオルガンも加わっていましたので、奏でられるサウンドの響きは今にして思うと相当奇妙だったのかも
しれないですけど、運動会での鼓笛隊と合せる形での入場行進の演奏とか学芸会での演奏お披露目とか
年に3~4回程度開催されたお楽しみ演奏会等での合奏やそこでの練習はとにかく「楽しかった!」としか言いようが
なかったと思います。
指導する先生も細かい事はあまり気にされないで、「とにかくみんなのやりたいように吹いていいよ~」という感じで
のびのびと楽しんで吹いていたと思いますし、楽器編成がららマジと同じくらいてんでバラバラでしたけど、
そこから奏でられる音楽は、むしろ自由自在な気ままさだったのかもしれないです。
こういうのを「楽しむ音楽」というのかもしれないです。

そして中学校の吹奏楽部に入部して気付いた事は、音楽は音楽でも自由自在に気ままに楽しんで奏でる音楽と
厳しい規律と指揮者による厳格なコントロール下に置かれ、編成も厳密に定められている「吹奏楽部」という
管理された音楽の二種類があるものだ・・という事でもありました。

今となってはその二つの音楽にもそれぞれ長所短所もあるのですけど、忘れて欲しくないのは、やっぱり奏者の自発性と
音楽をする楽しみといえそうですし、そうした意味においてはららマジのメンバーはそれぞれ自発性と音楽を楽しむ心を
有しているのがすてきだな・・と感じたりもしますね。
一般的にフルートというと、美少女が奏でる楽器というイメージもあるのかもしれないですし、昔も今も吹奏楽部においては、
楽器振り分けの際には女の子には大人気の楽器の一つだと思います。
フルートは美少女が吹くイメージが強いせいか、きらびやか、かわいいと言う雰囲気がありそうですね~♪

フルートというと両腕を上げて奏でる横笛楽器で、銀色または金色の金属製の筒に複雑なキー装置を備えた横笛と言えます。
今現在はフルートというと横に構えて吹く楽器というのは既に一般化されていると思うのですけど、
実はJ.Sバッハとかヴィヴァルディ等のバロック時代においては、フルートという楽器は実は現在一般にリコーダーと呼ばれる
縦笛の事を指していました。
実際バッハの若い頃は横笛楽器としてのフルートという楽器はそれほど定着はしていなかったようです。
バッハの若い頃は上記で書いた通り、フルート=リコーダーという縦笛楽器であったのですけど、現在の感覚で言うと、
リコーダーというのは、誰にでも手軽に音が出せる学校教育の場で主に使用される楽器とか
はたまた妄想アニメ等で、モテない男子高校生が誰もいない教室でこっそりと憧れのクラスメイトのJKさんのリコーダーを
吹いて「間接キスができた・・」といって涙ぐむシーンでお馴染みなのかもしれないですけど(汗・・)
バロック時代は今現在と違って、リコーダーというのは管弦楽の主要楽器の一つという立ち位置でもあったようです。

バッハを崇拝していたフリードリヒ大王が横笛としてのフルートを愛用していたというエピソードからわかるように、
バッハの青年期以降は、縦笛のリコーダーにとってかわってフルートがその役割を担うようになり、そこに楽器としての
劇的な改良が施され現在のフルートの形になっていきます。

フルートという楽器は今現在はほとんど金属製になっていますけど、人によっては
「あんなメタルの楽器がどうして木管楽器に分類されるの~?」と疑問に感じられるのかもしれないですけど、
確かに初期の頃は木製フルートもあり今現在も稀に木製フルートを使用されるプロ奏者もいます。
クラリネットやオーボエはリードという薄片を息で震わせて音を出し、ホルンやトランペット等の金管楽器は唇を震わせて
音を出します。
フルートはクラリネットやオーボエのような物理的なリードはないですけど、
頭部管唄口のエッジに向け息を出して空気を振動させるという「エアリード」と呼ばれる空気の渦流を作る仕組みがあります。
吹き込んだ息をエアリードが音にして出しているので、フルートは金属製でも木管楽器に分類される訳なのです。
メタル系楽器と言うとサックスも木管楽器に分類されますけど、サックスの先端はマウスピースであり、マウスピースに
薄い木片のリードを装着させて吹くので木管楽器として分類されます。

クラリネットやオーボエと違って発音にリードを用いないため、他の木管楽器よりもタンギングの柔軟性は高く、
運動性能も木管楽器の中では最も高く、クラリネットやオーボエだと大苦戦する速い指使いの楽曲も比較的容易に
吹く事ができます。
(音色が安定し速いパッセージも難なくこなせるという事で指揮者からは愛される楽器なのかもしれないですね~)
フルートの音量は小さいのですけど、高音域は倍音が少なく明瞭で澄んだ音と言う事で、
管弦楽でも吹奏楽でもサウンドの中に埋没する事は少なく、その音は埋もれることなく明瞭に聞こえてくる傾向は強いです。

埼玉ネタで申し上げると、埼玉県所沢市に村松フルート製作所という楽器メーカーがあります。
昔も今も全て手作りなので1ヶ月に400本程度しか生産できないが、プロの6割以上が村松フルート製作所のフルートを使用
しているという話もあるそうです。
村松フルート製作所のフルートは最も優れたフルートの一つとしてミュンヘン市立楽器博物館に永久保存されているほどで、
換言すると埼玉の隠れ名産品とも言えそうです。
当ブログではよく「埼玉は何の名物も銘菓もないし、あるのは十万石まんじゅうだけ・・」と自嘲的に書いたりもしていますけど、
実は世界に誇るべきフルート製作メーカーが存在しているというのは、埼玉県民の私にとっても大変誇らしい話といえそうです。

吹奏楽部に入部希望をしてくる新入部員たちの中での人気楽器は、トランペット・トロンボーン・アルトサックスだと思いますが、
女の子にとって一番人気のパートはフルートと言えるのかもしれないですね。
フルートのイメージは優雅で華麗であり、全体合奏の中では目立たない方なのかもしれないですけど、随所においしいソロが
用意されている事も多々あり、音程が安定している事もありますし、万一ミストーンをしても元々の音量が弱いという事もあり、
あまり目立つことも無く、指揮者からはどちらかというと優等生扱いされる事が多いのかもしれないです。

フルートは前述のとおり、とても清らかな音色で美しく、美しいメロディーをソロ的に奏でる管弦楽曲も古今東西多数
存在しています。
フルートがソロ的に扱われている管弦楽曲を少しばかり挙げさせて頂きますと・・・

ビゼー / アルルの女第二組曲~Ⅲ,メヌエット

M,ラヴェル / バレエ音楽「ダフニスとクロエ」第二組曲~Ⅱ,パントマイム

G,グリーグ / 劇付随音楽「ペール・ギュント」~朝

G,フォーレ / 組曲「ぺリアスとメリザント」~Ⅲ,シチリア舞曲

C,ドビュッシー / 牧神の午後への前奏曲

C.サン・サーンス / 組曲「動物の謝肉祭」~鳥かご

個人的な趣味ですけど、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」の第一幕冒頭の細かい動きはフルートによって
主に進行されていきますけど、あのフルートの細かい動きは結構ツボにはいっています。
吹奏楽オリジナル作品では、チャンスの「呪文と踊り」の冒頭ソロの重々しい響きもとても渋くてすてきです。

そうした中、フルートが管弦楽の中で朗々と長大なソロを奏でるというと私的には、ラヴェルのダフニスとクロエを
推したいです。
バレエ音楽「ダフニスとクロエ」は、副題は三部から成る舞踏交響曲というのは少し意外でもあったりします。
(どう聴いてもシンフォニーには聴こえないです・・)
組曲版としての第一組曲(Ⅰ.夜想曲 Ⅱ.間奏曲 Ⅲ.戦いの踊り)はバレエの第一部と第二部から構成されています。
あくまで私個人の主観ですけど第一組曲は冗漫で退屈で聴いているだけで眠くなりそうです。
一度だけこのバレエ音楽を全曲ノーカット版をデュトワ指揮/N響で聴いた事があるのですけど、
第一部と第二部は退屈で死にそうでした。
このバレエ音楽は純粋な管弦楽曲ではなくて、バックに歌詞を伴わない合唱が入り、
合唱が管弦楽の響きの中に入り込んでくると、管弦楽の精緻でひそやかなな響きを楽しんでいる時に、
コーラスがその響きに水を差すような印象があり、私個人としてはこのバレエに関しては、合唱が入らない版の「第二組曲」を
聴けばそれで十分みたいな感想も実はあったりします。
余談ですけど、デュトワ指揮/N響のダフニスとクロエ全曲版の演奏の最中に、震度5程度の結構強い揺れの地震発生という
ハプニングが発生し、会場内は結構ザワザワとした雰囲気に一時なったのですけど、
デュトワも奏者も合唱も誰一人動揺することなくそのまま自然体で演奏を続けていたのは、プロは違う!と感じたものでした。

第二組曲は、Ⅰ.夜明け Ⅱ.パントマイム Ⅲ.全員の踊りの三曲から構成されていますけど、
Ⅰの夜明けの「ひそやかさ」は素晴らしいですし、冒頭のフルートとハープによって奏でられる鳥のさえずりの部分は、
指揮者と管弦楽団にとっては腕の見せ所だと思いますし、指揮者の「美的センス」が真正面から問われそうです。
そしてⅡのパントマイムは長大で美しくひそやかなフルートソロはこの世の響きとは思えない幽玄で美しい響きに満ち溢れて
いると思います。
吹奏楽コンクールにおいては、1987年の習志野高校の超名演とフルートソロの美しさが圧巻です!
Ⅲの全員の踊りはまさに華麗なる音の絵巻の世界で絢爛豪華なサウンドが展開されていきます。
全員の踊りは打楽器はかなり使用されていて、ティンパニ・大太鼓・サスペンダーシンバル・スネアドラム・カスタネット・
トライアングル・タンバリンの7人の打楽器奏者が同時に音を出している箇所もあったと思います。

フルートソロというとビゼーのアルルの女のメヌエットも美しさの極みだと思います。

メヌエットはハープの伴奏に支えられて、フルートが牧歌的なソロを展開していくのどかな曲なのですけど、
突然管弦楽がフルートソロを遮るようにダン・ダン・ダン・ダーと鳴らす箇所があるのですけど、小学校の音楽の授業の
名曲鑑賞においてこの曲が掛けられ、そうした場面になると結構児童たちはどよめいたいたものでした。
アルルの女のメヌエットは曲がそれ程ダイナミックスレンジの広い曲とは思えないのですが、子供の感性は意外と
鋭敏なのかもしれないですね。

アルルの女~メヌエットのように、ppの部分から突然ffの大咆哮の代表的音楽として
ハイドンの交響曲第94番「驚愕」~第二楽章が取り上げられますけど、
現代人の感覚から言うと、別にそれは驚愕でも何でもないのですけど、確かに18世紀の貴族・貴婦人を
主な聴衆とした演奏会としては、「びっくり」だったのかもしれませんね~
第二楽章は単調なメロディーが二回展開され聴衆がウトウトする頃に、全ての楽器とティンパニが突然ffでダン!!と
奏でるのですけど、当時の聴衆としてはそれは驚愕だけど、20~21世紀の聴衆にとってはそれはもはや驚愕でもなんでも
ないと言えそうです。
ppから急激なfffへの展開の曲というのは腐るほどある訳ですし、
別に「アルルの女」がそれ程すごい曲とは思いませんけど、子供にはこのくらいが丁度いいのかもしれないです。
そうした意味においては、音楽のダイナミックスと言うのは決して「音量」だけではないと思いますし、
要は、静かな部分と壮大に豪快に咆哮して鳴り響く部分の「静と動の対比の落差」なのだと思います。


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「ららマジ」に登場する一年生のフルート奏者の結城菜々美については、一度バルトークの舞踏組曲と二つの肖像記事の際に
レビューをさせて頂きましたが、結城菜々美はららマジのメインヒロインの一人というのか実質的な主人公キャラでもありますし、
本記事がフルートに関するものでしたので、再度改めてレビューさせて頂きたいと思います。

フルート奏者の結城菜々美は「ど根性で乗り切るぞ!期待の新人!」というのが売りのふわふわ熱血少女です~♪

明るく素直で、誰とでも仲良くなれるタイプで、根性さえあれば何でもできると考えている熱血系根性論者でもあり、
ときに無鉄砲な行動に出ることも多々あります。
音楽家の両親の影響で物心つく前からフルートに触れており、幼少期から数々のコンサートで最優秀賞を総なめ状態で
周囲から神童と呼ばれていましたけど、とある出来事により挫折してしまう過去の傷もあったりします。

根性論者、肉好き、運動神経抜群という側面と見た目のふわふわ~っとしたかわいらしさのギャップが
結城菜々美の際だの魅力なのかもしれないです。
灰色のニーハイを常に着用していて、ららマジの中ではすてきな絶対領域の持ち主であるのも大変素晴らしいですね~♪


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結城菜々美は私服姿もとてもかわいいです~♪ 太腿が眩しすぎます・・


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クリスマスのサンタコスプレもかわいいですし、よくお似合いですね~♪


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制服姿ですべって転倒する場面もとてもかわいいです~♪

美少女は時にこうしたドジっ子要素も必要なのかもしれないです。


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フルートという楽器はやはり美少女が奏でるのが一番相応しいのかもしれないです。

結城菜々美の奏でるダフニスとクロエ~パントマイムやアルルの女~メヌエットの美しいソロを聴いて、
心癒されたいものです~♪



「コールアングレ」という楽器は、別名、コーラングレとかイングリッシュホルンとか呼ばれていますけど、
私はコールアングレという呼び方が一番馴染みがあるので、当ブログにおいてはこの表記とさせて頂きたいと思います。

管弦楽や吹奏楽の木管楽器とは、フルート・クラリネット・オーボエ・ファゴットが主に該当するのですけど、
(サックスは外見はメタル系楽器ですけど、先端のマウスピースに竹製のリードを装着し振動させて音を鳴らしますので、
サックスは木管楽器に分類されます。但しサックスは管弦楽ではあまり使用されることはないです。吹奏楽ではとてつもなく
重要なポジションを与えられています)
フルートはリードを使用しないメタル系楽器でありますけど分類上は木管楽器として扱われ、それに対して
クラリネット・サックス・オーボエ・ファゴットはリードを使用する木管楽器でもあります。
そのうち、クラリネット・バスクラ・コントラバスクラ・サックス系はマウスピースに一枚のリードを装着させて吹く
シングルリード楽器でもあるのに対して、オーボエ・コールアングレ・ファゴット・コントラファゴットは、上下の2枚のリードの
振動によって音を鳴らすダブルリード楽器であったりもします。

コールアングレ(コーラングレ)は外見的にはオーボエと大変よく似た楽器です。
楽器の先端部が洋梨と形容されるように丸く膨らんでいるのが外観的な特徴で、オーボエよりはサイズは一回り大きいです。
指使いはオーボエとコールアングレは全く同じであり、コールアングレはオーボエより完全5度低い音が出ます。
オーボエは高音域が特に魅力的な音を発するのですけど、コールアングレはオーボエに比べて低い音域を奏でていて、
あの牧歌的だけどどこか内省的な低音域の音はとにかく渋くて魅力的です~♪
オーケストラではオーボエ奏者が持ち替えて演奏することが多いですし、吹奏楽コンクールでもオーボエ奏者が場面場面で
持ち替えることが比較的多いです。
例えばボロディンの歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊りやベルリオーズの「幻想交響曲」~Ⅲ.野の風景などのように
オーボエのソロの後に休みなくコールアングレのソロが出てくる楽曲ですと、最初からオーボエとコールアングレの奏者を
持ち替えせずに単独で配置する事が一般的です。
余談ですけど、今現在はそうした事は全く無いのですけど、1980年代あたりまでてすと、吹奏楽コンクールにおいては、
部内にコールアングレを所有していないのに、ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」やボロディンのダッタン人の踊りを
選曲した際には、コールアングレの代用楽器としてソプラノサックスを充てる事例も多々あったりして、あの代用された音色を
聴くたびにガックリさせられたものです・・(汗)
(ららマジにはオーボエ奏者はいませんので、コールアングレ担当の白石陽菜が掛け持ちでオーボエも担当しているのかも
しれないです)
基本的にはセカンドのオーボエ奏者がコールアングレに持ち替えることが多いですけど、
管弦楽において3管以上の編成では最初からコールアングレを単独のパートとしてスコアに記載されている事が多いです。

私自身の経験楽器は吹奏楽でのクラリネットを9年間とアルトサックスの1年間ですけど、
今現在の視点で申し上げると、「好きな楽器を一から教えてあげるから吹いていいよ」と言われたりしたら、私自身は
多分ですけど迷うことなくコールアングレを選ぶと思います。
その理由はというと、音色と音域が心地よいし聴く人をうっとりさせられるし、あの内省的でやさしい牧歌的な響きは、
吹いていても自分自身で陶酔してしまうほどうっとりとさせられるものがあると思います。
独特の牧歌的でエキゾチックな響きゆえに、管弦楽や吹奏楽においてはおいしいソロ的な扱い方をされる場面も
多々ありますし、吹奏楽の視点で言うと、クラリネットはどうしても役割的に管弦楽のヴァイオリンパートの細かい動きを
そっくりそのままアレンジされてしまう事が多くて、その指の動きが大変なのに対して、オーボエやコールアングレは、
指揮者的にはそうした細かい動きよりも、目立つ所やソロにおいてのそうした独特な色彩と音色でもって、音楽に彩りと
スパイスを添えてあげて欲しい・・という要請の方が強いから、細かい指の動きを正確に吹くというクラリネットパートの役割
よりはむしろ「とにかく美しい音色をたっぷりと聴かせる」という役割を求められていたと思いますし、
オーボエやコールアングレは細かい指の動きに多少難があっても指揮者からは目をつぶってもらえていたというある意味
特権も多少はあったのかもしれないです。

管弦楽においてコールアングレをソロ的に用いた曲は、有名な所では、
ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界」第二楽章のように、大変美味しい場面で使われることが多いです。
確かに新世界のあの鄙びた美しくて牧歌的なコールアングレのソロは、いつ聴いても胸がジーンとしますよね~
コールアングレの楽器そのものの音色が非常に心地よいですし、オーボエに比べると音色は低音のハスキーなのですけど、
俳優に例えると中尾彬みたいな声に近いと思います。
音色だけで大変得をしている楽器というイメージがあると記すと、逆にダブルリード楽器奏者からは
「それはクラリネット奏者のひがみじゃん・・自分達だって日々のリード調整や美しい音色のキープは大変なんだから~!」と
お叱りを受けてしまいそうです・・

独特の牧歌的でエキゾチックな響きから、オーケストラにおいてはソロ的な扱い方をされる場面も少なくないですけど、
それでは具体的にコールアングレのソロを伴う楽曲にどんなものがあるのか新世界以外で挙げてみたいと思います。
歌謡曲では、古い話ですけどガロの「学生街の喫茶店」が有名なのかもしれないです。
管弦楽の分野では、最初にこの楽器を効果的に使用した例は、ハイドンの交響曲第22番「哲学者」だと思ったりもします。

〇H.ベルリオーズ / 幻想交響曲 ~Ⅲ.野の風景

第三楽章のオーボエとコールアングレの掛け合いの部分はかなり魅力的です。
遠くから聞こえる雷を表現するため、ティンパニ奏者4人による雷の描写も大変効果的ですし視覚効果も申し分ないと思います。
指揮者の解釈によっては、オーボエの高い響きをあえて舞台袖から吹かせてコールアングレの低音の響きをステージから
鳴らせて、その遠近感を会場が一体となって演出しているような事例もあったりします。

〇A.ボロディン / 歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊り

 囚われの身となったイーゴリ公の郷愁をイメージさせるオーボエのソロですけど、それに続くコールアングレのソロも大変
 美しくてとてもじゃないけどこの世の響きとは思えない美しさがあります。

〇フランク / 交響曲~第二楽章

〇ロドリーゴ / アランフェス協奏曲~第二楽章

〇ラヴェル / ピアノ協奏曲~第二楽章  同 / スペイン狂詩曲~Ⅳ.祭り

〇ドビュッシー / 管弦楽のための三つの交響的素描「海」~Ⅰ.海上の夜明けから真昼まで

〇ロッシーニ / 歌劇「ウィリアム・テル」序曲

 有名なスイス軍隊の行進の前の牧歌の部分のコールアングレの温和でのんびりとした雰囲気はとても美しいです。

〇J.シベリウス / トゥオネラの白鳥

〇レスピーギ / 交響詩「ローマの松」~Ⅳ.アッピア街道の松

 管弦楽曲史上最大の音響のるつぼと化す曲ですけど、冒頭はコールアングレの美しいソロから開始されます
 (合いの手を打つバスクラも大変いい仕事をしています)

〇M.ファリア / バレエ音楽「三角帽子」~粉屋の踊り

 ホルンの合いの手に導かれてコールアングレだけの音によるソロが朗々と奏されます。

吹奏楽では、小山清茂(前橋商業の大木隆明先生のアレンジ版)の吹奏楽のための木挽歌~Ⅰ.テーマの
コールアングレの長大なソロは鄙びて枯れた感覚が素晴らしいです。
他には、リードのロシアのクリスマス音楽、エル・カミーノ・レアル、スパークのドラゴンの年、
ローストのスパルタカスとカンタベリーコラールなどが大変印象的です。

全般的にはドヴォルザークの新世界のように抒情楽章で特に威力を発揮する楽器と言えそうです。

そしてコールアングレが大活躍する管弦楽曲と言うと私の一押しではベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」を推したいです!

ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」はこの曲ほどクラシック音楽初心者に向いている曲は無いかもと感じたりもします。
例えば、ハチャトゥーリアン/バレエ音楽「ガイーヌ」~剣の舞とか
ムソルグスキーの交響詩「はげ山の一夜」とかボロディンの歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊りとか
ホルストの組曲「惑星」~Ⅳ.木星とかラヴェルのボレロとかレスピーギの交響詩「ローマの松」~Ⅳ.アッピア街道の松とか
グローフェの組曲「グランドキャニオン」~山道を行く・豪雨などの曲と並んで
クラシック音楽の「夏休み親と子供のファミリーコンサート」の一曲として是非加えて欲しい曲の一つだとも思います。

曲自体7分半程度と時間的にも飽きが来ない適度な長さですし、冒頭の喧騒に続く前半のコールアングレの長大なソロで
聴衆をうっとりとさせ、中盤から後半にかけての楽しさ・激しさで盛り上げて、ラストも一気呵成に閉じるという感じで、
いかにもイタリアの血気盛んな舞曲という感じの曲といっても差し支えは無いと思います。
そしてこの曲の最大の聴かせどころは序盤のコールアングレの長大なソロだと思います。奏者にとっては大変
プレッシャーがかかりますけど遣り甲斐は相当あると思います。
どこかのんびりとしてるのだけど、ソロ以降に展開される舞曲の激しさを予感させるような静かな熱さも有していると思います。

序曲というと一般的には歌劇の前振りというのか、お笑いの世界で例えると、メインの出演者が登場するまでの前座担当だと
思いますが、この曲のタイトルが序曲「ローマの謝肉祭」となっていますので、
正式には歌劇「ローマの謝肉祭」序曲と言うのかな?と勘違いをされる方もいらっしゃるのかもしれないですので
少し補足をいたします。
ベルリオーズには、作曲に大変な情熱と心血を注いだ歌劇「ベンヴェヌート・チェッリーニ」という歌劇が
あるのですけど、これが興行的には大失敗してしまいます。
莫大な借金を背負い込み、せっかく作曲した曲も演奏される当てもなく、作曲者的には顔面蒼白という感じでもありました。
ベルリオーズは歌劇「ベンヴェヌート・チェッリーニ」自体には大変愛着があり、
「この歌劇をこのまま忘れられた曲として埋もれさせるにはなんか勿体無いものがある」として
この歌劇の主要な旋律を引用して単独の管弦楽曲へと編集するアイディアを思いつき、
その成果が序曲「ローマの謝肉祭」なのです。
それゆえに、この作品は単独の演奏会用序曲であり、「ローマの謝肉祭」という歌劇は存在しませんし、
歌劇「ローマの謝肉祭」序曲という曲は存在しません。

オーケストラの演奏会レパートリーとしては日本においても完全に定着した曲でもあり、
この序曲は恐らくですけど、かなりの頻度で演奏会に取り上げられています。
プログラムの一曲目としてはまさに「うってつけ」と言える一曲と言えるのだと思います。
やはりこの曲の最大の聴きどころは前述の通り前半のかなり長大なコールアングレのソロですけど、それ以外には
2台のタンバリンとトライアングルの融合も挙げたいと思います。
コールアングレのソロが終結し曲が騒々しくなってくると、
2台のタンバリンと一つのトライアングルがトリオとなって華やかな響きを演出しています。
この2台のタンバリンとトライアングルのシャカシャカ・・・というリズム感は、三つの打楽器が見事に融合しているようにも
聴こえたりもします。
あの部分は、いかにもこれから「祭りがはじまるぞー」みたいな雰囲気もあり、私は結構好きですね~♪


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ららマジの器楽部においては前述の通り、オーボエ奏者はいなくてコールアングレ奏者の白石陽菜のみです。

多分ですけど、オーボエの音色が必要な場合は白石陽菜が楽器を掛け持ちしているのかもしれないです。

白石陽菜は高校2年生のJKさんで血液型はO型です~
気品と度胸あふれるおてんばなお嬢様という設定です~♪


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一見いいところのお嬢様という雰囲気も有しながら、かなりやんちゃで活発なお転婆娘というのも楽しいですし、
お転婆ゆえに実は特技と趣味は木登りというのもとても楽しいです。

活発な女の子だけど、担当している楽器の音色はかなり内省的というギャップもすてきですね~♪

そして前髪をあげているためおでこがかなり目立っているのもとてもかわいいです~!



カスタネットというとなんとなくですけど「どんなアホでも叩けば音は出る簡単な楽器」という誤ったイメージがありそうな
打楽器なのかもしれないですけど、実際に管弦楽や吹奏楽で使用されるカスタネットの奏法は大変難しく、
私自身、高校3年の時の定期演奏会で演奏した曲目の一つがリムスキー・コルサコフの「スペイン奇想曲」だったのですけど、
あの時もパーカッションパートで特に第5曲でカスタネットを担当していた奏者は、あの独特な切れ味鋭いカスタネットの
リズム感を出すために相当裏では苦労していたと思いますし、朝練習や全体練習が終わった後でも一人黙々と
カタカタとカスタネットを刻んでいた光景が大変印象的でもありますし、ああした光景を見ると言えることはカスタネットは
決して簡単な楽器ではないし、少なくともどんなアホでもすぐに全体練習に参加できるような簡単な楽器ではないと思いますし、
同様な事はトライアングルにも言えると思います。
(トライアンクルについては、来年・・1月12日の当ブログ記事で改めてじっくり語らさせて頂きたいと思っています。)

カスタネットは木製の打楽器で、体鳴楽器に分類される打楽器の一つです。
スペインで特に発達した楽器であり、スペインの民族音楽に欠かすことはできない楽器であり、
スペインの舞踊フラメンコにおいては、今現在も踊り手にとっては必要不可欠な楽器でもあります。
カスタネットの情熱的なリズムの刻みは心地よいですし、あの躍動感は素晴らしいです~♪ あのカタカタと小気味よいリズムを
耳にしただけで既に気分は南欧気分になりそうです。
カスタネットは、手のひらに納まるくらいの丸い貝型の木片を2枚合わせ、これを打ち合わせることによって音を出す楽器
なのですけど、端にひもを通してつなげ、このひもに親指を通して楽器を保持したり2枚の開き具合を調整しますし、
基本的には音程がわずかに異なる二つのカスタネットを右手と左手の両方に持ち、一般的には音程が高い方のカスタネットを
右手に持つことがスタンタードです。

ららマジでカスタネットを担当しているのは奥村映という中性的な雰囲気の高校2年生のJKさんでけど、
カスタネットを使ったフラメンコが特技で、カスタネットの手入れも欠かさず行うとの事です。
ららマジの打楽器パートのトライアングル奏者はかなりの不思議ちゃんの女の子なのですけど、奥村映も少しそうした
不思議ちゃんみたいな雰囲気も無くはなく、どちらかというと男性的でもないし女の子そのものという感じでもないし、
少し不思議な中性的な女の子という印象もあったりします。
少しだけ鈍感な性格というのも、不思議ちゃん系としての浮世離れした性格の為せる業なのかもしれないです。

食べることも大好きで意外と大食い・・?という設定も大変面白いですけど、後述しますが、大食いキャラで少しミステリアスで
中性的な雰囲気を有するJKさんというと思い出すのは「ラーメン大好き小泉さん」の小泉さんなのですけど、
確かにあの二人はどことなくですけど雰囲気が似ているようにも感じられそうですね~♪

おばあちゃんっ子で、年齢にそぐわない独特のセンスを持つという点は、今年の夏アニメの「女子高生の無駄づかい」で
登場していたおばあちゃんっ子のロリを彷彿とさせるものがありそうです。
バトル時においては、自身の周囲に浮かぶカスタネットを放って攻撃したりもします。


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上記でもチラっと触れたのですけど、どういう訳か日本においては「カスタネット=簡単」とか
「どんなアホでもすぐに合奏に参加できる」という間違ったイメージが浸透しているのは、多分ですけど、
上記画像の「教育用カスタネット」の存在があるのかもしれないです。

教育用カスタネットは、小学校の教育用楽器または幼児のおもちゃとしてよく見られているのですけど、
本来のカスタネットと違って口を開いたままの楽器ですし打ち合わせるだけで簡単に演奏できるため、今でも幼児または
小学校低学年の音楽の教育に使用されていたりもします。
今現在では100均のおもちゃコーナーでも売られている事もあったりします。
この教育用カスタネットは赤と青の二つの部分から構成されることが多いですけど、赤い方に突起があり
これを下とすることが多いように思われます。

確かにこの教育用カスタネットは簡単に音は出ますけど、実際に管弦楽団や吹奏楽コンクールで使用されるカスタネットは
この教育用の安物楽器ではありませんし、フラメンコのダンサーが使用されているのは、冒頭画像の奥村映が
両手に持っている本来のカスタネットです。


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より演奏を簡便にし、速いリズムが演奏できるようにしたカスタネットとして柄付きカスタネット、コンサートカスタネットが
あります。
管弦楽団の演奏会や吹奏楽コンクールで使用されるカスタネットは上記の柄付カスタネットの方が多いと思います。

柄付きカスタネットは、柄を持って膝の上で叩き、ロール奏法の場合は人差指をカスタネットの上まで伸ばし、
カスタネットが膝と人差指に交互に当たるように、手首と腕を上手く使ってカスタネットを上下に動かし、左右の手は
交互に均等に動かします。

クラシック音楽でカスタネットが使用された楽曲はたくさんあるのですけど、やはりスペインの作曲家とか
フランスやロシア等のスペイン以外の作曲家がスペインに憧れと敬意の気持ちを有してスペインを感覚的にイメージして
作られた曲が多いです。

具体的にいくつかカスタネット使用の楽曲を挙げてみると・・

C.サン・サーンス / 歌劇「サムソンとデリラ」

R.シュトラウス / 楽劇「サロメ」~七つのヴェールの踊り

リムスキー・コルサコフ / スペイン奇想曲

C.ドビュッシー / 管弦楽のための映像第Ⅱ集・第二曲・イベリア
(特に街の道と田舎の道のカスタネットの切れ味鋭い躍動感は素晴らしいです!)

J.イベール / 交響組曲「寄港地」~Ⅲ.ヴァレンシア

M.ラヴェル / 道化師の朝の歌 ・ スペイン狂詩曲~Ⅳ.祭り

S.プロコフィエフ / ピアノ協奏曲第3番

アルベニス / スペイン組曲
(アルベニスはスペインの作曲家ですので、本場のノリはとにかく圧巻です!)

M.ファリア / バレエ音楽「三角帽子」

J.マスネ / 歌劇「ル・シッド」~バレエ音楽

チャイコフスキー / バレエ音楽「白鳥の湖」~スペインの踊り

B.ブリテン / ソワレミュージカル~Ⅳ.ボレロ

C.オルフ / 世俗カンタータ「カルミナ・プラーナ」~第三部・第8曲・今こそ愉悦の季節

吹奏楽オリジナル作品ですと、A.リードの「エル・カミーノ・レアル」と第二組曲「ラティーナ・メキシカーナ」が
大変印象的です!

こうやって列挙しただけでもスペインの澄み切った青空と情熱が目に浮かびそうですね~♪


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話を再度「ららマジ」にもどしますと、カスタネット担当の奥村映はららマジ屈指の大食いキャラともいえそうですし、
食べるのが大好き~♪というすてきなJKさんであったりもします。

普段もそうですし、カスタネット叩いている時もどちらかというと無表情で中性的な雰囲気を醸し出していますけど、
食べている時は普通の女の子という印象でもありそうです。


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大盛ラーメンを食べている奥村映もとてもかわいいですね~♪

少しミステリアスで長髪の美少女がおいしそうに大盛ラーメン食べている姿は、やっぱり「ラーメン大好き小泉さん」と
被りそうですね~♪

ラーメン大好きで大食いの女の子は、小泉さんも奥村映も含めて意外と中性的な女の子が多いのかもしれないです。


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上記はららマジのお話でしたけど、奥村映が食べているラーメンはなんだか秋葉原の野郎ラーメンの
メガ豚野郎みたいなボリュームがありそうですね~

2018年の冬アニメの「ラーメン大好き 小泉さん」の第9話においてもこの秋葉原の野郎ラーメンが登場し、
そこで登場していたラーメンは「メガ豚野郎」でした~!
メガ豚野郎のチャーシューは、噛み応えのあるしっかりした肉ですし、適度な柔らかさもあって旨味が一気に口内を駆け巡る
感じは圧巻だと思います!
チャーシューの厚みとボリュームも素晴らしいですけど、肉と野菜の壁が崩れかけたところでようやく麺に到達しますけど、
あのボリュームは特筆すべきものがあると思います。

とてつもないボリュームのメガ豚野郎であっても、小泉さんは普通に来店している所は「さすがラーメン女王!」と
感じてしまいますし、圧倒的な勢いであっという間に完食してしまう小泉さんは
やっぱり只者ではないですね~

そして奥村映も秋葉原の野郎ラーメンで、美味しそうにメガ豚野郎を完食されて、小泉さん同様にふはーとされているのかも
しれないですね~♪



「ららマジ」の舞台の器楽部におけるハープ奏者は3年生の南さくらです。

南さくらは器楽部を支える副部長で、振り回されることの多い苦労人でもあったりします。
器楽部創立メンバーの一人で、部長であり指揮者でもある草薙百花がメチャクチャな楽器編成を無理やりどうにかこうにか
まとめてしまう剛腕でもあったりしますので、そうした剛腕ぶりに不満がありそうな下級生たちを時に脅しつけ、
時に笑顔と愛嬌で押し通してしまうのがこの副部長兼ハープ奏者の南さくらといえそうです。
そしてららマジでは珍しい部類の眼鏡っ娘でもあったりします~♪

バトル時においては、グランドハープの形をした長弓を武器とし、光の矢を放って攻撃します。


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ハープという楽器はヴァイオリンと同様に大変優雅で美しい楽器だと思います。

そうした美しい楽器というイメージが定着しているのは、その形状や音色の美しさも大きいですけど、ハープ奏者のほとんどが
女性奏者であるという事もあるのかもしれないです。

ハープは共鳴胴の両端に2本の棹を立て、2本の先を結び、棹のうちの曲線状になった方と共鳴胴との間に
平行に弦を並べて弦を張っています。そしてこの弦を指で弾いて演奏します。
現代の西洋音楽において、独奏やオーケストラ、室内楽などで広く用いられているコンサートハープは、
ダブル・アクション・ペダル・ハープの事であり、ららマジの南さくらが奏でているハーブも
恐らくはこのダブル・アクション・ペダル・ハープのだと思われます。
ダブル・アクション・ペダル・ハープは主に47本の弦を変ハ長調全音階で張られていて、ピアノに例えると、
黒鍵無しの状態で白鍵だけの音階で並んでいるようなものです。
そしてドレミファ・・の各音対して一つずつ合計7つのペダルが付いていて、それぞれ二段階に踏み分けて
一つの音を半音高めたり全音高めたりします。
それゆえハープ奏者は優雅なイメージとは裏腹に人目に付かない所で大変な苦労が付き物で、左足で三つ、右足で四つと
計7つのペダルを絶えず忙しく操作をしないといけない大変さがあったりします。
おまけにハープ奏者は固い弦を指で弾き、時にグリッサンドしないといけないものですから、指先は常にマメ状態と化している
のが実はその日常でもあったりするそうです。

そうした意味ではららマジのハープ奏者の南さくらも色々とご苦労が尽きない・・という感じなのかもしれないです。

ダブル・アクション・ペダル・ハープは、ペダル操作が大変という事で、それに代わる楽器として
半音ごとに弦が張られたペダル無しの半音階ハープが制作され(音楽史的にはクロマティック・ハープと言われています)
ハープ奏者は実に78本も張られた弦に眼が廻ってしまい、とてもじゃないけど演奏不可・・という事で
結局は廃れてしまい現在においては忘れられた楽器と化しています。
(これは両手全ての指を使用し、現在では幻の楽器と化している宮城道雄制作の八十弦箏と似ているのかもしれないです・・)

さてさて歴史に埋もれたペダル無しの半音階ハープ(クロマティック・ハープ) は、プレイエル社が開発・制作した楽器でして、
それは当時既に一定の地位を築いていたエラール社のダブル・アクション・ペダル・ハープに対抗した経緯があったりもします。
プレイエル社はこの楽器の普及のため、1904年に音楽院でのコンクールのための楽曲をドビュッシーに委嘱します。
それを受けてドビュッシーは、1904年に「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」というハープ独奏と弦楽合奏のための作品を作曲します。
ドビュッシー自身は特段半音階ハープを気に入ったわけでなく、楽器性能としてはむしろペダル・ハープの方が優れていると
考えていたようでありまして、初演自体は半音階ハープ(クロマティック・ハープ)が使用されたものの、
今日ではこの作品を演奏する場合はほとんどペダル・ハープで演奏されています。
ちなみにですけど・・、エラール社はドビュッシー作曲の「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」に対抗してラヴェルに
ペダル・ハープの優位を示すための作品を委嘱し、その結果生まれたのが「序奏とアレグロ」という
ハープとフルート、クラリネットおよび弦楽四重奏のための七重奏曲というこれまた名作であったりもします。

C.ドビュッシー / 神聖な舞曲と世俗的な舞曲は大変優雅な作品で、前半の神聖な舞曲における穏やかな美しさと
後半の世俗的な舞曲における生き生きとした躍動感の対比が素晴らしく鮮やかです。

ここから下記は少しばかり余談ですけど、吹奏楽オリジナル作品の中に、「セント・アンソニー・ヴァリエーション」で
お馴染みのヒルが作曲した作品に、上記のドビュッシーのハーブと弦楽のために作曲した名曲と全く同じタイトルの作品が
あったりもします。

ヒルのその曲を2019年時点で全国大会で唯一演奏したのが1981年の高岡商業であったりもします。

この年の高岡商業は、ヒルの「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」という大変珍しくて今でもほとんど演奏されない
吹奏楽オリジナル作品を自由曲に選んでいます。
この当時は吹奏楽オリジナル作品や邦人作品での全国出場が少し珍しく感じられた時代でもありましたので、
こうしたマイナーなオリジナル曲での全国大会出場は大変立派な事だと今更ながら感じたりもします。

この年の高岡商業は運悪くプログラム一番でした。

1979年の市立川口とか80年の就実のようにプログラム1番という不利な条件を全く不利に感じさせない素晴らしい名演が
重なったという事もあると思いますが、1981年の高岡商業の演奏を聴く限りにおいては
「ブログラム一番は大変で不利なのかも。。」とつくづく感じてしまいます。
音が普門館の会場にストレートに響いてこない印象がありますし、普門館の広い空間を彷徨っているという印象があります。
全体的に音が硬いというせいもあり、サウンドも表現もぎこちない感じがしたものでした。
プログラム一番というコンディションの問題もあったと思いますし、朝一番というプレッシャーもあったと思います。
音が硬質で音がストレートに伝わってこない感じは痛いほどあります。
自由曲のヒルの神聖な舞曲と世俗的な舞曲」という楽曲自体が、「「セント・アンソニー・ヴァリエーション」と比べると
音楽の構成が大変抽象的で、あまり面白いと思わないし、何を意図しているのかよく分からないという曲でもありましたし、
曲自体で損をしているような雰囲気すらあったのは惜しまれますし、
これだけ実力あるチームがこうした不本意な演奏で終ってしまったのは勿体無いと感じたものですし、
選曲ミスの範疇と言えるのかもしれないです。
全般的に、ティンパニのゴツゴツした叩き方が何か印象を悪くしているようにも感じられましたし、
課題曲B「コラージュ」も和太鼓が叩き過ぎという印象もありました。

ただ印象に残っている点は、自由曲のラストが意外な終わり方というか、
曲が一旦盛り上がったところで静かになり、ラストはシロフォーンの弱々しいソロで終わるという
所は、何か意表をつかれるものもあり、その点は印象に残っています。

全く想定外の閉じられ方で、なんかヘンだけど面白い閉じ方と感じていたものでした。


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南さくらは、ららマジでは珍しい部類の眼鏡っ娘ですけど、南さくらは眼鏡を掛けても眼鏡を掛けていなくても
すてきなお姉さまだと思います~♪

アニメや漫画では「まるで牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡を掛けた冴えない女の子が眼鏡を外すととてつもない
すてきな美少女になる」というのは一つの鉄板ネタのようにも感じられるのですけど、
私自身がそうした女の子のすてきな変化を最初に感じた作品というのは映画「ロッキー」の中に登場している
エイドリアンなのかもしれないです。
エイドリアンは映画の中ではとても内気でおどおどした女の子であまり主体性というものは感じさせなかったのですけど、
とあるシーンにてロッキーから「眼鏡を外してみて・・美しい・・」とかなんとか言われた事が一つのきっかけとなり、
その後徐々にすてきな変化を見せてくれていたと思います。
地味で内気なエイドリアンは「メガネを取ると美人」という定番ネタの一つの伝説として君臨しているのかもしれないです。
ロッキーと付き合うようになって自信をつけたエイドリアンは眼鏡を外すようになり服装も以前より華やかになるのですけど、
これは女の子のすてきな変化とも言うべき一つのシンデレラストーリーの伝説と言えるのかもしれないです。

さてさて、それでは日本のアニメにおいて、そうした「眼鏡をかけた冴えない女の子が眼鏡を外すと実はすてきな美少女」という
典型的なキャラとしてどんなすてきな女の子がいたものでしょうか・・?
思い浮かぶ範囲で下記に少しばかり挙げさせて頂きますと・・

アララ・ココア(NG騎士ラムネ&40)

レディ・アン(新機動戦記ガンダムW )

ティラ・ミス(爆れつハンター)

東城 綾(いちご100%)

ニーナ・アインシュタイン(コードギアス 反逆のルルーシュ)

委員長(瀬戸の花嫁)

藤崎 綾(To LOVEる -とらぶる-)

メイリン(黒執事)

槇島 沙織(俺の妹がこんなに可愛いわけがない)

天王寺 渚(Aチャンネル)

クーリエ(モーレツ宇宙海賊)

鈴原 泉水子(RDG レッドデータガール)

星 七海(アイドルメモリーズ)

この中では私的にいっちば~ん!と感じさせるのはいちご100%の東城 綾だと思います!

東城 綾は、性格はおしとやかな恥ずかしがり屋でかなりのドジっ娘で、「普通の人間の三倍は転んでいる」と
廻りからも言われているのですけど、それでいて眼鏡を外すと普段の地味な印象が劇的に変化し、
とてつもない美少女になってしまうあの素晴らしき変化は、まさしく
「眼鏡をかけたさえない女の子が眼鏡を外すと実はすてきな美少女」というネタの典型事例なのだと思ったりもしますね~♪
クラシック音楽や吹奏楽で使用される打楽器の一つであるシンバルは、
楽曲のクライマックスや激しく盛り上がる部分でバシャーン!と派手に壮麗に鳴り響く事が多いのですけど
あれってかなりの演奏効果があると思います。
例えばですけど、管弦楽曲史上もしかしたら最も音量が大きくて派手に鳴り響く曲の一つがレスピーギの
交響詩「ローマの松」~Ⅳ.アッピア街道の松だと思うのですけど、金管セクションやバンダの派手で華麗なる響きと
ドラやトライアングルが派手に鳴り響き、バスドラムが狂ったように連打する音響のるつぼと化した中でもあのシンバルによる
激しい打合せによるバシャーン!!という響きは胸をすく想いがあります。
このアッピア街道の松とオルフの世俗カンタータ「カルミナ・プラーナ」は、とにかくストレスが溜まりに溜まっていて、
何かスカ‐‐ッ!!と爽快な発散気分を味わいたい時に強くお勧めしたい曲ですね~♪
このシンバルは楽器としての歴史も古くて旧約聖書の中にも
「ヘブライの民は歓声を上げ、シンバル・角笛・ラッパを鳴らした」との記述がみられますし、新約聖書の中でも
「たとえ人や神の言葉を私が使ったとしても、そこに愛がなければ、喧しいドラやシンバルと同じである」という記述も
あったりします。

シンバルと言うと、イメージ的には
打楽器奏者が両手に約40㎝程度の黄銅色の円板を激しく打ち合わせるという感じがしますが、
これは一般的には「クラッシュ・シンバル」(または合わせシンバル)と呼ばれています。
(錫と銅の合金から構成されていて、その配分比率は音色にも微妙に影響するそうです)


シンバル


上記はクラッシュ・シンバルという合せシンバルですけど、
基本的には、片方を上から下へ、もう片方を動かし、こすらせるようにして打ち合わせます。
非常に小さな音から一打ちでオーケストラ全体をも制するほどの大きな音まで出すことができる表現力があります。

非常に小さい音の代表的例としては、

〇ドヴォルザーク/交響曲第9番「新世界より」第四楽章

〇ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番第三楽章

があると思います。


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上記は「サスペンダーシンバル」と呼ばれるものですけど、
1枚のシンバルを吊すかホルダにゆるく固定して小太鼓や木琴、鉄琴のバチで叩くのが一般的です。
例えば、マーラー/交響曲第1番「巨人」第四楽章冒頭のように撥で激しく叩きつける事もありますし、
ドビュッシーが多用しているように、マレットによるトレモロ奏法で徐々にクレッシェンドしていく方法もあります。

こうやって見るとシンバルも色々と無限の可能性を秘めている楽器なのかもしれませんね。

ちなみに「ハイハットシンバル」と呼ばれるものは、
2枚のシンバルを水平にホルダに固定して、1枚を上下に動くようにしてペダル装置で操作するものであり、
ドラムセットの中で用いられていますし、ジャズ・ポップス・ロックと幅広く使用されています。
最近ではバンドリ等におけるガールズバンドにおいて、ドラマーが小気味よくペダル操作をしているシーンは
とてもかわいいものがありますね~♪

クラッシュシンバルというと私的には、芥川也寸志の「交響管弦楽のための音楽」~第二楽章の冒頭を思い出してしまいます。
静粛で無機質なリズムの反復の多い第一楽章が終わって第二楽章が開始される際にさの冒頭で、
シンバルが単独で「ジャーン」と打ち合わせられる所から開始され、金管楽器の大変印象的なファンファーレ風なメロディーへと
連なっていくのですけどあのシンバルは目立ちますしとてつもなくかっこういいです!
吹奏楽アレンジ版ですが私自身が高校三年の定期演奏会で吹いた経験もあり、そうした印象が強いのかもしれないです。

吹奏楽オリジナル作品でシンバルが使用されない曲を探す方が難しいと感じるくらい、吹奏楽の打楽器パートでは
必要不可欠な楽器の一つですけど、その中でも特に挙げておきたい曲として・・

〇天野正道/交響組曲第2番「GR」

 浜松交響吹奏楽団の演奏に馴染みがあるせいか、
 この曲のラスト近くでシンバルがソロ的に「ジャーン」という打ち鳴らしが大変印象的です。

〇リード/オセロ

 1987年の札幌白石高校の演奏が大変印象的でした、
 クラッシュ・シンバルの場合、奏者によっては余韻とか視覚的効果を意図して
 打ち鳴らしと同時に腕を上にあげて、シンバルを頭上で左右に開くという事も結構多いと
 思います。
 札幌白石のシンバル奏者は、シンバルを打ち鳴らした次の瞬間に、両手のシンバルを頭上にはあげずに、
 シンバルの裏面を左右の手に持ったまま、手の向きを逆にし、
 シンバルの表面にさっと替えるというハイテクニックを披露してくれ、
 裏面から表面にさっと替える際に、楽器がキラリと金色に光り輝いていたのが会場の客席からもはっきりと分かり、
 大変な見映えがありました!

〇サンライズマーチ(1982年全日本吹奏楽コンクール課題曲D)

この課題曲の冒頭はシンバルソロによるバシャーン!という打撃音から開始されますので、シンバル奏者にとっては
 大変なプレッシャーが掛る曲であり、あの重圧と緊張感は相当なものがあると思います。
 地区予選等で下手くそなチームがこの課題曲の冒頭で、シンバル奏者がスカッと空振りし、次のトランペットによる
 ファンファーレがメロメロになってしまった光景は当時何度か目撃したものでした!

クラシック音楽で、クラッシュシンバルが活躍する曲で印象的な曲と言うと冒頭で取り上げたローマの松~アッピア街道の松
以外においては・・・

〇チャイコフスキー/交響曲第4番第四楽章

〇   同      /交響曲第6番「悲愴」第三楽章

〇   同      /幻想序曲「ロメオとジュリエット」

〇ビゼー / カルメン組曲より、トレアドール(第一幕への前奏曲)

〇ショスタコーヴイッチ/交響曲第5番~第一楽章・第四楽章

チャイコフスキーの交響曲第4番は、第一~第三楽章までに使用される打楽器はティンパニのみですけど、
第四楽章で、シンバル・大太鼓・トライアングルの打楽器が入りますが、
特にラスト近くにおけるシンバルの怒涛の連打は、聴いていて視覚的にも迫力満点です。
シンバルで16分音符炸裂の怒涛のあの連打はクラシック音楽のジャンルでは大変珍しいと思います。
(あのシンバル連打は、同じくチャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」の中間部における
怒涛のシンバル連打を彷彿とさせてくれます)

サスペンダーシンバルとしては、ハチャトゥーリアンのバレエ音楽「ガイーヌ」~剣の舞の叩きつけが大変印象的です!

ドビュッシーの三つの交響的素描「海」~Ⅰ.海上の夜明けから真昼まで と Ⅲ.風と海との対話における
サスペンダーシンバルのあの繊細な微音のうねりは一聴の価値があると思いますし、奏者にはなによりもデリケートな
神経が求められそうで、あれを聴くと「どんなアホでもシンバルは叩けば音は出る簡単な楽器」であるという俗説が
いかに理に適っていないかよく分かると思います。





「ららマジ」でシンバルを担当するのは強心臓中学生の伊藤萌です~♪
伊藤萌はシンバルを担当しているクールで小さな中学3年生の女の子で、中学生ですけど東奏学園の器楽部でJKのお姉さまと
一緒に音楽を楽しんでいます。

クールな性格の後輩で、「・・・くるしゅうない、です。」など変わった口調でしゃべるのが個性でもあります。また落語を聞くのが
趣味というJCさんにしては大変珍しく渋い趣味を持っていたりもします。

先輩の小田桐アミを師と仰ぎアミのことを「師匠」と呼び慕っているのですけど、実を言うと小田桐アミは元々は
器楽部のシンバル奏者だったのですけど、シンバル奏者は時に「ここで怒涛の一撃を決める!」みたいなプレッシャーを
時に伴いますので、その重圧に耐えきれず、シンバル奏者の地位を後輩の伊藤萌に譲ったという経緯もあったりします。
そして小田桐アミはその後シンバルからピッコロ奏者にパート変更をしています。

アミがいなくなったシンバルは伊藤萌に継承されていますけど、伊藤萌は見た目の少し控えめな雰囲気とは全く異なり、
大変な強心臓の持ち主でプレッシャーに大変強く、「ここでシンバルの強烈な一撃が必要」という時にはしっかりと確実に
決めてくれる頼もしいJCさんであったりもします。

活発だけど小心者なアミと大人しいけど強心臓な萌の対比もとても面白いですね~♪


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吹奏楽コンクールの規定においては、付属高校の場合、高校で部員が不足している場合は、付属中学校の生徒も
メンバーに加えてよいという規定があり、
それによって昭和の頃ですけど、明大明治・日大豊山・土佐女子高校などが高校の部だけど何人かの中学生が加わり
全国大会のステージに立ったという話もあったりします。

東奏学園器楽部ももしかしたらそんな感じだったのかもしれないですね。

ちなみに、伊藤萌以外には、ウクレレの卯月幸、エレキギターの卯月真中華、和太鼓の神田茜、鍵盤ハーモニカの瀬沢かなえ
といった中学生が東奏学園器楽部に在籍しています。

本記事の一つ前の記事においては、伊藤萌の師匠の小田桐アミについて取り上げておりますので、こちらの方も
ご覧頂けると大変ありがたいです。
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P・デュカス作曲の交響詩「魔法使いの弟子」の正式タイトルは、ゲーテによる交響的スケルツォ「魔法使いの弟子」という事で
スケルツォのタイトルに相応しくとても自由で生き生きとした楽曲であり標題を巧みに音楽を通じて表現していると思います。
この楽曲はファゴットがソロ楽器として大活躍を果たしていますけど、ファゴットと同じくらい鍵盤打楽器の一つである
グロッケンシュピールも大活躍をしていて、音楽の色彩的効果を更に豊かにしていると感じられます。
冒頭画像の「ららマジ」の神代結菜は、担当楽器としてグロッケンシュピールを奏でていますけど、
プロの管弦楽団の定期演奏会や吹奏楽コンクールの演奏においても、デュカスの魔法使いの弟子はよく演奏されていますが、
その時もファゴット同様にグロッケンシュピール奏者の機敏な動きを見るたびに感動をしてしまいます。

グロッケンシュピールは一般的なイメージでは鉄琴だと思いますし、一種の鍵盤打楽器なのですけど、
音楽史的にはチェレスタのように形の鉄琴を箱に収めたような鍵盤型グロッケンシュピールというタイプも存在したりもします。
吹奏楽コンクールにおける魔法使いの弟子は、ほとんどの場合鉄琴でもってあの部分は演奏されていますけど、
稀にチェレスタが使用されることもあるようです。

交響詩「魔法使いの弟子」の作曲家のポール・デュカスは、かなりの寡作家です。
本来は相当数の作品を作曲していると推察されるのですけど、デュカス本人がかなりの完璧主義者であり、
最終的に納得いかない作品は生前全て破棄したという経緯もあり、現在デュカス本人の作品として残っているのは
わずか13作品程度と言われているそうです。
魔法使いの弟子以外に残されている作品として、交響曲ハ長調と
バレエ音楽「ラ・ペリ」(ペリのファンファーレとしても親しまれています)ぐらいしかないのかもしれないですけど、
魔法使いの弟子一曲だけで後世に名前を残した作曲家とも言えると思います。
デュカスはむしろ作曲家というよりはパリ音楽院の教授という側面が強く、作曲家の先生として業績を残したと言えるのかも
しれないです。
マーラーが亡くなる寸前にパリで開催された演奏会の際にマーラーの交響曲第2番「復活」が演奏された際、
デュカスは、ドビュッシー・ピエルネといった当時のフランスの有名な作曲家と共に第一楽章終了と同時に憤然と席を立って
帰ってしまったというエピソードを残しています。
伝統的なフランス音楽の大御所としては、「マーラーごときの音楽で音楽の都・パリを汚されてたまるものか!」という
なにかアピールをされたかったのかもしれないです。

「魔法使いの弟子」は、その音楽を聴くだけでストーリーが頭に中に自然と浮かびますから、デュカスの描写力と想像力には
感服するものがあります。
スケルツォという正式タイトルからは少しくだけた感じの曲想と思われがちですし、全体を通して大変分かりやすくて
親しみやすいメロディーラインの連続なのですけど、曲想そのものは古典的形式美の楽曲構成がなされていて、
どちらかとうと堅固な楽曲構成という印象があります。
ドビュッシーに影響された全音音階の多用など伝統的な要素とモダンな要素が見事に融合していて、
古典的な形式美と19世紀末~20世紀初頭のドビュッシー・ラヴェルに代表される印象主義という新しい音楽が
大変バランスよく調和されていると感じられます。
魔法使いの弟子はそうした意味ではラヴェルの作品の先駆的作品みたいなものという評価も成立するのかもしれないです。

「魔法使いの弟子」の簡単なストーリーなのですけど、ある所に魔法使いの先生とポンコツなお弟子さんがいたのですけど、
魔法使いの先生が外出した際に弟子が留守番をすることになるのですが、
未熟な弟子は魔法を使ってほうきに水汲みをさせて、「自分ってやればできるじゃん!すごーい!」と調子こいたものの、
弟子は実は魔法の解き方を知らなかったため、水瓶がいっぱいになってもほうきの水汲みを止めさせる事ができず、
部屋が水浸しになってしまいます。
「これはやばい・・溺れて死ぬのかも・・」と感じた時に魔法使いの先生が戻ってきて
呪文を解いてもらってようやくほうきが元に戻るという内容でもあります。

このストーリーが意外と世に知られている背景としてディズニー映画「ファンタジア」の存在があるのかもしれないです。
「ファンタジア」は、オーケストラによるクラシック音楽をバックとしたアニメーションによる8編の物語集なのですけど、
ディズニー長編アニメーション第3作であり、史上初のステレオ音声作品であったりもします。
上映時間は当時の公開版で120分を超える当時としては異例の超大作と言えますし、
11人の監督、120人以上のアニメーター、103人編成のオーケストラなど、投入されたスタッフはのべ1000人、
描き上げられた原画100万枚、録音テープの長さ42万フィート、制作期間3年と前例のないスケールでの製作となっています。
一部を除いて、台詞は一切用いられていないのも特徴です。
このファンタジアで取り上げられたクラシック音楽は、春の祭典・ベートーヴェンの田園・くるみ割り人形・時の踊り・はげ山の一夜
など計8作品ですが、その中でもっとも有名なのがデュカスの「魔法使いの弟子」とも言えると思います。
というのも ミッキーマウスが「魔法使いの弟子」役を演技したことにより、ファンタジアの知名度と評価は決定的なものになったと
いえるのかもしれないです。
ちなみに「ファンタジア」全ての音楽演奏は、レオポルド・ストコフスキー指揮・フィラデルフィア管弦楽団が担当しています。
ファンタジアの中の魔法使いの弟子の部分においては、原曲のイメージ通り話が進み。
ミッキーマウスが魔法をかけてバケツに水をくませたまではよかったものの魔法の止め方が分からず、
部屋に水が溢れおぼれそうになったところを師匠が駆けつけ命拾いをしたというストーリーが巧みに表現されています。

魔法使いの弟子は、冒頭で触れたとおり、ある二つの楽器を非常に効果的に使っています。
一つはファゴットなのですけど、ファゴットは曲によっては重厚で悲惨な雰囲気をもたらす効果があるかと思えば
(例としてチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」第一楽章冒頭が挙げられます)、その一方で曲によっては茶目っ気と
ユーモアと皮肉たっぷりに表現出来ますし(例としてショスタコーヴィッチの交響曲第9番~第五楽章が挙げられます)
はたまたチャイコフスキーのバレエ音楽「くるみ割り人形」のように異国情緒をもたらす効果もあります。
「魔法使いの弟子」の場合は、明らかに茶目っ気たっぷりという感じして、弟子が調子こいている様子が生き生きと
ファゴットの少しとぼけた雰囲気によって表現されていると思います。
そしてもう一つの楽器は、グロッケンです。
グロッケンとは要は鉄琴なのですけど、この曲はかなりの部分で鉄琴を効果的に用い、
普段はあまり目立たないグロッケン奏者に活躍の場を与えます。
同時に、この曲はグロッケン奏者泣かせというか、かなりのテクニックを非常に要し、かなり難しいテクニックを要求しています。

交響詩「魔法使いの弟子」は全体的には、楽しさと魔法と言うミステリアスさを両方醸し出している曲といえると思います。
同時に指揮者の構成美・演出力も求められますので、軽い通俗曲と考えてなめてかかると大変痛い目に遭う曲と言えるのだと
思われます。

吹奏楽コンクールにおいては、1970年代から最近に至るまでコンスタントに全国大会で自由曲として選ばれています。

吹奏楽コンクールでの魔法使いの弟子の決定的名演と言うと二つほど挙げたいと思います。
ひとつは1986年の足立第十四中学校の演奏で、もう一つは残念ながら関東大会でダメ金になってしまい全国大会に
進めなかったものの1993年の常総学院の演奏は名演というレヴェルを軽く超越したものであり、あの演奏は
私も当時在住していた山梨から川崎の産業会館まで駆けつけ聴かさせて頂きましたけど、いまだに
「どうして常総学院はダメ金なの~? 市立柏のあのスカスカ演奏を代表にするのならば余程常総の方が代表に
相応しいじゃん!」と当時は審査結果を聞いてぶーたれたものです・・
1986年の足立十四中の演奏は、伸び伸びと吹いているせいか、音楽が実に自然にすんなりと耳に入ってくる感じでした。
伸び伸びしているのだけど決してふわっとした演奏ではなくて、音楽の切れやシャープな感じや躍動感が見事に決まっていて、
物語としての音楽的速度はかなり速かったようにも記憶しています。

常総学院も足立第十四中もファゴットもグロッケンも大変見事な演奏を聴かせてくれていたと思います。

違いとして、足立十四中のグロッケンは鍵盤打楽器としてのグロッケンで、その形状は冒頭画像のららマジの神代結菜が
使用しているスタンド付のグロッケンです。
私の記憶では、常総学院のグロッケンシュピールは鍵盤打楽器としてではなくて、チェレスタに近い形状の
鍵盤型グロッケンシュピールを用いていたと思います。
(前年のアルプス交響曲でも使用していた楽器と同じなのかもしれないです)

鍵盤打楽器としてのグロッケンは、1980年代以降はどのチームも台というかスタンド付のグロッケンを使用していましたけど、
中学~高校時代の私の記憶では、貧乏公立校の多くはグロッケンを使用する際にはスタンド付という高い楽器ではなくて
教室で使うような机とか安っぽい折り畳みのスチール製パイプ椅子を2台設置して、その上に鍵盤鉄琴を置いて、
撥で叩くというスタイルが多かったような印象もあります。

余談ですけど鉄琴(グロッケンシュピール)が大変効果的に使用されるクラシック音楽の楽曲として、魔法使いの弟子以外では
シベリウスの交響曲第4番~第四楽章を挙げたいです。
シベリウスの交響曲第4番は大変わかりにくい渋すぎる難渋な曲で、第一~第三楽章のあの難解な雰囲気は
私も実はいまだにさっぱり理解できません・・
だけど第四楽章に入ると、突然グロッケンシュピールが登場してきて、天国的な美しい音色を奏でていて、
それまでの音楽があまりにも難解すぎたため、第四楽章に入ると唐突に「地獄から天国にやってきた」みたいな感覚を
感じたりもしますね。


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ららマジで、グロッケンシュピール(鉄琴)を担当している高校3年生の女の子は、神代結菜お姉さまです~♪
神代結菜は器楽部創立メンバーの一人でもあります。

余裕たっぷりの柔らかな物腰、豊満なスタイルと、まさしくお姉さまといったタイプのすてきなJKさんですけど、
その醸し出される大人の魅力は、主人公のプレイヤーすらも惑わせてしまう魅力なのだと思います。
だけど昔から優雅ですてきなお姉さまだったという訳ではなくて、実は昔は孤独にさい悩まされ、心も荒んで荒れていた時期も
あったとの事で、その意味では酸いも甘いもわかるすてきなお姉さまという事なのだと思います。

誰にでも分け隔てなく優しく接しますけど、以前の孤独の反動からなのか好意を抱いた相手には
少々暴走気味な愛情表現を見せることもあるそうでして、
マイペースすぎるあまり、時に理由なく学校をサボるという悪癖もあるそうです。

以外にも実は器楽部の部内でトップクラスの怪力の持ち主であったりもしまして、林檎を片手で握り潰せる七瀬沙希を
圧倒するほどの怪力でもあるそうです。
コントラファゴット担当の七瀬沙希については、昨日の記事で取り上げさせて頂いております・・


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「魔法使いの弟子」のグロッケンシュピール奏者は大変なテクニックと離れ業を求められるのですけど、
神代結菜お姉さまが奏でられるとまさに神業の如くの壮絶テクニックをお披露目されるのかもしれないです。

私個人としては、是非ぜひ神代結菜お姉さまにネリベルの「二つの交響的断章」の冒頭における
チャイム・シロフォーン・グロッケンの3人による執拗な反復の美技を拝見させて頂きたいものです!

そして神代結菜お姉さまは、演奏中の姿もすてきですけど私服もまたまたとても魅力的な御方だと思いますね~♪
モーリス・ラヴェルの協奏曲というと言うまでもなくピアノ協奏曲と左手のためのピアノ協奏曲が双璧なのかもしれないです。
そしてこの両協奏曲はほぼ同時期に作曲され、比較的晩年の作品の部類に入るという共通項もあったりします。

ピアノ協奏曲はいかにもラヴェルらしい作品だと思います。
茶目っ気・洒落っ気、抒情性に美しいコールアングレの長いソロ、遊び心など、どちらかというと明るい感じの作風だと思います。
この曲を生演奏で聴くと分るのですが、オーケストラの編成はかなり小規模です。
管楽器については、E♭クラリネット・クラリネット・フルート・オーボエ・コールアングレ・トランペット・トロンボーンは
各1本だけでチューバはありません。ファゴットとホルンのみ2本です。
第三楽章のファゴットのあの驚異的に早いパッセージは人間の限界を超えている超絶テクニックといえそうです。
打楽器は、大太鼓、小太鼓、シンバル、タムタム、トライアングル、ウッドブロック、ムチの各種楽器を基本的には
2人の奏者が掛け持ちで担当しています。

ラヴェルのピアノ協奏曲は、全般的には第一・第三楽章の才気煥発的な茶目っ気と第二楽章のファンタジーの対比が
非常に面白く、18分程度の短い曲なのですが聴かせどころ満載の曲です。
特に第二楽章のコールアングレの長いソロは奏者の腕の見せ所ですし、陶酔感たっぷりの夢心地にはうっとりさせられます。
第一楽章の冒頭は、まるで猫だましの如く、ムチ(合わせ板)のバチン!という打撃音から開始されるのですけど、
あの部分はドキッ・・!とさせられますし、意表を突かれるところが大変ユニークだと思います。
ちなみに第三楽章のメロディーラインは、映画「ゴジラ」のあのゴジラのテーマ音楽とかなり酷似しているようにも聴こえますが、
その辺りは「言われてみると確かにそのように聴こえる」という空耳アワーの世界なのかもしれないです。

ピアノ協奏曲は、茶目っ気に溢れた才気煥発な作品といえそうですけど、対照的に左手のためのピアノ協奏曲は
オーケストラの編成はフル編成のかなり大規模な編成となっていますけど、そこから醸し出される音楽は、
聴きかたによってはかなり陰気くさい雰囲気でもあり、ラヴェルの性格の悪さを暗示しているのかもしれないです。
この左手のための協奏曲や舞踏詩「ラ・ヴァルス」の世紀末的な暗さ・厭世観は、むしろマーラーの後期交響曲の世界に
近いと言えるのかもしれないです。
ラヴェルと言うと一般的には、洗練の極み・フランス音楽のエスプリを集大成したものとか優雅とかエレガントというイメージを
持たれがちなのかもしれないですけど、悪意を持って解釈して左手のためのピアノ協奏曲やラ・ヴァルスを演奏すると
意外と根暗で重たい曲にもなってしまうのが大変面白い感じはあったりもします。
(インパル指揮の演奏を聴くとあまりにも重すぎて、ラヴェルの暗さはマーラーやショスタコーヴィッチに繋がるものがある
のかもしれない・・という事を感じさせてくれたりもします)

「左手のためのピアノ協奏曲」は、前述の通り陰鬱な雰囲気もあるのですけど、ジャズ的なリズムの面白さも感じますし、
打楽器の扱いもかなり自由なものを感じたりもします。
「ボレロ」はラヴェルの代表作の一つなのですけど、ボレロもよく聴いてみると、延々と同じリズムが楽器を変えつつ
繰り返され反復されていくのですけど、最後の最後で調性を変化させ、それまで続いてきた同一のメロディーラインを
変化させ、それまで保っていた形式美を自ら手によって崩壊させているような悪趣味を感じたりもします。
あくまて個人的な感想なのですが、舞踏詩「ラ・ヴァルス」の世界でも左手のためのピアノ協奏曲においても
最後の最後でそれまでキープしてきた形式美を自らの手でぶち壊し、奏者全員と聴衆を一人残らず奈落の底に突き落とす
ようなイメージすらあるように感じられます。
ラ・ヴァルスは一見華やかにも感じる反面、相当程度の根暗的要素も感じられます。
ボレロ同様に最後の最後で転落するように終わる感覚は、この世の「明」を全て剥がし取って地獄に
真っ逆さまに落ちていくという感覚に近いものがあるのですが、
実は左手のためのピアノ協奏曲もそれに近いような感覚があるように感じたりもします。
冒頭のドロドロした感じは、ラ・ヴァルスの出だしの感覚にも何となく似ているようにも感じるのですけど、
あのドロドロとした箇所はコントラファゴットのソロによって奏でられています。
コントラファゴットはかなりの重低音楽器で野太い音が特徴でもあるのですけど、曲によってはのんびりと惚けたような感じにも
なるのですけど、ラヴェルの左手のための協奏曲は、コントラファゴットを使用する事で、陰気さ・奇妙さ・違和感みたいなものを
大変巧みに演出しているようにも感じられます。
ちなみにこの協奏曲はこのジャンルとしては大変珍しい事に単一楽章構成です。
冒頭の重たい感じ→ジャズ風の軽い感じ→ピアノの自由自在なカデンツァ→ゆったりとした雰囲気→ピアノカデンツァ
→ラストの形式美の崩壊によるエンディングという感じで展開していきます。

この曲を最初に聴いたのは、上野の東京文化会館での東京交響楽団の定期演奏会だったと思います。
指揮者は記憶にないのですが、ソリストは花房晴美さんでした。
CDで聴くと、とても左腕一本で弾いているようには思えなかったのですが、本当に左手一本で奏でていましたので、
驚いたものです。花房さんの右手は終始椅子を握っているようにも見えました。
この曲はソリストによっても表現方法は色々あるみたいで、小山実稚恵さんが弾くと、割とカラっとしている明るい色彩に
聴こえますけど、館野泉さんが弾くとどす暗いものになってしまうように聴こえたりもします。

左手のためのピアノ協奏曲は第一次世界大戦で右手を失ったピアニストがラヴェルに委嘱して作られた作品なのですが、
委嘱者本人は、「私には一つの音符も理解できません」と演奏拒否をしているのは、ラヴェルに対して大変失礼な話であり、
曲の内容があまりにも難しすぎて自信がなかったせいなのかもしれないです。
同じような「左手のためのピアノ協奏曲」の作曲者として他にもプロコフィエフ・ブリテン・シュトラウスがいますけど、
こちらは全然知名度はないです・・

実は、この左手のためのピアノ協奏曲を吹奏楽用にアレンジして全日本吹奏楽コンクールの
全国大会に出場したチーム(川越奏和)もあったりします。
さすがにこれは少々無理があり、聴いていて少々「痛い」感じもしました。
そう言えば以前、ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」を吹奏楽にアレンジしたNTT中国は、
ピアノが全然目立たないし、ピアノを特段ソロとしても使用していないので違和感は感じたものです。

2005年の全国大会・高校の部において、埼玉栄高校が「ショパン・エチュード」を自由曲に選び、
伊奈学園総合高校がラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」を自由曲に選び、当時埼玉県代表チームによる
ピアノ対決と一部で話題になっていましたけど、両校ともにピアノという楽器をソロ的にも打楽器的にもスパイス的にも
使用していない感じがあり、私的には「なんのためにピアノをメインとしている曲を自由曲にしたのかな・・?」と
感じたものでした。
ピアノ協奏曲みたいなジャンルは、当たり前の話ですけど、吹奏楽アレンジ版という変化球で楽しむよりは、
オーケストラによる原曲をそのまま楽しむ事の方が断然宜しいのかもしれないです。
ただラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」の最大の聴かせどころである第18変奏曲の部分は、吹奏楽の
tuttiの響きで聴いてもジーーン・・となってしまいのですよね~


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さてさて、話はまたまた「ららマジ」になるのですけど、ららマジの30人の器楽部においては、
コントラファゴット担当のJKさんもいたりもします。
吹奏楽コンクールにおいては、コントラファゴットを使用するチームは珍しい方だと思いますし、コントラファゴットの価格は
一台最低でも100万程度はするとてつもなく高価な楽器であったりもします。
どちらかというとファゴット奏者が掛け持ちで吹く事が多いと思われますけど、ららマジの世界では七瀬沙希が単独で
担当しています。
そしてららマジの器楽部では七瀬沙希以外にもファゴットを専任で吹く奏者も存在しています。

七瀬沙希はアイドル級のスタイルとルックス、男子顔負けの怪力を併せ持つJKさんなのですけど、
バトル時においてはコントラファゴット型の大剣を豪快に振り回して戦うスタイルを取っています。

木管楽器において、コントラファゴットはコントラバスクラ以上に重たい楽器で、コンサート会場の客席からコントラファゴットを
見ると、なんだかとてつもなくデカそうなものを抱えているという印象があります。
七瀬沙希が怪力設定であるというのも、コントラファゴットの属性ゆえなのかもしれないです。


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上記で語らさせて頂きましたラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲のドロドロっとした音色は実は、コントラファゴットによって
奏でられた響きなのですけど、コントラファゴットという楽器はファゴット同様、
上下に組み合わされた2枚のリードによって音を出すダブルリードの管楽器です。

コントラファゴットは、ファゴットの倍の管長を持ち、1オクターブ低い音を出し、
一般的にオーケストラ、吹奏楽で使用される木管楽器の中で最も低い音が出すことができ、
最低音を補強させる木管楽器でもあったりします。
ファゴットの中にコントラファゴットを補強しますと、木管低音の音が更に充実して豊かな響きになると感じられます。
それにしてもコントラファゴットの重低音は最初の印象は「なんだかモゴモゴいっている・・」みたいな感じもあり、
不気味さ・ミステリアスさも感じられ、そうした音色はラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲の冒頭の少し悪趣味的な響きには
うってつけなのかもしれないです。

コントラファゴットの管長は6メートル近くに及ぶため4回管を折り曲げて製作されています。
楽器本体の重さは6㎏程度あり大変重いため、ストラップではなくエンドピンで楽器を支えることが多く、
吹奏楽コンクールでこの楽器が使用される場合は、奏者は特注のイスを使用する事も多々あるようです。

リードはファゴットのリードより一回り大きなものを使用し、形状はファゴットのリードとほぼ同じなものの振動面が広い特質が
あります。

クラシック音楽作品でコントラファゴットが使用される事例として、上記でレビューいたしましたラヴェルの
左手のためのピアノ協奏曲の冒頭のソロを担当し、その導入部においてはあの少し不気味だけどどことなくとぼけた雰囲気は
とてもいい味を出していると思います。
ラヴェルと言うと、組曲「マ・メール・ロワ」の中の「美女と野獣の対話」 においては、
クラリネットで表現する美女に対して、野獣を表現する楽器が実はコントラファゴットであったりもします。
今度当ブログでデュカスの魔法使いの弟子を取り上げさせて頂き、この中でファゴットとグロッケンシュピールの効果的使用
について触れますけど、、コントラファゴットもファゴットを補強する楽器として使用され、こちらもいい味を出しています。
吹奏楽コンクールにおいて定番中の定番の大人気自由曲のR.シュトラウスの楽劇「サロメ」~七つのヴェールの踊りにおいて
コントラファゴット奏者に対してはとてつもない超絶技巧を要する曲としても一部では有名です。

それ以外でクラシック音楽作品でコントラファゴットが効果的に使用されている曲の事例として、
ホルスト 組曲「惑星」より天王星においては、ファゴットと掛け合いのソロがありますし、
ストラヴィンスキー バレエ音楽「春の祭典」 においては、コントラファゴットが2本使用され、重低音の構成に大変大きな役割を
担っています。
ショスタコーヴィッチの交響曲第7番「レニングラード」の第2楽章においては、バスクラリネットとの二重奏があったりもしますし、
矢代秋雄の交響曲~第四楽章冒頭は、実はコントラファゴットによって奏でられています。
吹奏楽オリジナル作品としてはバーンズの交響曲第3番において、大変効果的に用いられています。


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七瀬沙希はアイドル級のスタイルとルックスが持ち味なのですけど、ららマジの器楽部にはアイドル級のかわいいJKさんが
ごろごろしているので、差別化を図る意味で怪力設定があるのかもしれないですね。

上記で触れたとおり、コントラファゴット自体が大変重いので、それを支えるためにはある程度の怪力も
必要なのかもしれないですね~♪
怪力の名に違わずコントラファゴットを武器としても振り回すようでもありますが、七瀬沙希の1つ上の先輩に
バリサクを凄まじいスピードで振り回す橘 アンナというお姉さまもいますので、
どっちもどっち・・という感じなのかもしれないです。

スポーツが大好きで運動神経に優れている特性もありますので、運動会等では重宝されそうですね~
街中を行進しながら演奏するマーチングバンドにおいて、スーザフォンとは低音を支える重要楽器であり、
ひときわ目立つ大きな朝顔を前方に向け力強い低音を響かせています。

スーザフォンとは、マーチングバンドにおいてチューバの代用品として、低音を支える大変重要な楽器です。
どうしてマーチングでチューバを使用しないかと言うと、理由は明白でして、
単純にチューバはあまりにも重たくて、それを抱えたまま吹きながら行進出来ないからです。


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マーチングでは行進時に演奏しやすい楽器は不可欠です。
そのような要請から工夫されて出来たのがヘリコーンという楽器です。
チューバのように腕で持たずに、肩で担ぎ、管が身体の周りに巻きついているようなタイプの楽器でした。
要「歩きながら吹ける楽器が必要だったという事です。
19世紀の軍楽隊においてはヘリコーンは既に使用されていましたけど、朝顔部分は普通のチューバのように設計されていて、
先端はそれほど広くも無く、朝顔部分は奏者のななめ左上を向いていました。

そうしたヘリコーンを元に作られた楽器が、アメリカのマーチ王と呼ばれた.スーザの名にちなんで「スーザフォン」と
呼ばれた楽器の始まりです。
スーザは自身の指揮するアメリカ海兵隊の軍楽隊で当初へリコーンを使用したものの、上記で触れた通り
ベルというか朝顔の先端部分が奏者の斜め左上方のため音が響いてこないという欠点を克服するため
「スーザフォン」をつくりあげ、朝顔の部分を従来よりもぐっと広げ、しかもその向きを自由に調節できるようにし、
しかも音が常に奏者の頭上から真正面に響くように改良し、マーチングバンドにおけるスーザフォンの価値を
決定的にしたのです。

スーザフォンは担いで歩きながら吹くものですけど、開発当時は真鍮で形成され、重さは大体12㎏前後と言われています。
現在のスーザフォンは、朝顔部分はプラスチックで形成されることが多く、それにより軽量化され
現在の重量は8~9㎏程度に抑制され、これによって奏者の負担も大分軽減されました。

マーチングやマーチングコンテストにおいてはスーザフォンは絶対に欠かす事の出来ない重要楽器の一つですけど、
吹奏楽コンクールにおいてはスーザフォンが使用される事はまずないです。
私の出身高校の貧乏県立高校でもロータリーチューバではなくて昔ながらのピストン式チューバが2台しか学校備品に
ありませんでしたけど、そのうちの1台が故障し修理に出した時の代用楽器として稀にチューバ奏者が使用していましたけど、
吹奏楽コンクールや演奏会で使用される事はなかったです。
ただマーチングのパレードの際とか高校野球の応援の際には大活躍をしていたと思います。
一度だけ吹奏楽コンクールの地区予選で、前年までは25名以内のCクラスに出場していた学校が無理してAクラスに出場して
いた際に、よほど楽器がなかったのか、チューバ3人のうち1名がスーザフォンを使用していたのが記憶に残っている程度です。


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上記で触れた通り、アメリカのマーチ王のスーザが開発・考案した金管低音楽器がスーザフォンなのですけど、
それと同様に作曲家が開発・考案した金管低音楽器が「ワーグナーチューバ」という楽器です。
ワーグナーは自作の楽劇だけを専用に演奏する劇場をバイロイトに建設し、そのこけら落しの作品として
自作の「ニーベルングの指環」四部作の作曲を急いでもいました。
その際にニーベルングの指環という北欧神話に基づく総合芸術としての楽劇が従来の歌劇とは違う事を聴衆に
印象付けるために「今までとは異なる重厚な低音の音色が欲しい」という動機で開発されたのが
ワーグナーチューバという楽器です。

バイロイト祝祭劇場の構造が管弦楽をすっぽりと舞台下に収められるスタイルになっていましたので、
そこから湧き上がるような荘厳と壮大な響きとしては「一種の混合楽器がいいのではないか」と考え、その結果考案されたのが
ホルンと同系のマウスピースを持ち、ホルンとチューバの中間とも言える形状をし、縦に長い楕円形の形状で
3つまたは5つのロータリー式バルブを備えた金管楽器ともいえるワーグナーチューバだったのでした。
見た目はチューバまたはユーフォニアムとよく似ていますけど、演奏自体はホルン奏者が掛け持ちする事が多いです。
音色はまるくて柔らかい響きのホルンと鋭く力強く響くトロンボーンの中間という感じもあり、両楽器の音色の特色を
一つの楽器で発揮しているという感じもあります。
音程が少し不安定という欠点もあり、ホルンの場合音程や音色の微調整はベル部分に入れた手や指先でなんとか
なったりもするのですけど、ワーグナーチューバはそうした事ができないので、楽器としては少し扱いにくい楽器という
感じでもありそうです。
またホルン奏者が掛け持ちして吹く事が多いため、ホルン奏者がワーグナーチューバを吹く時には
「ホルンを吹いている時とどこか感触が違う・・」と違和感を感じがちというのも考えてみれば当たり前の話といえそうです。
私自身、まれにクラリネットとバスクラを一つの曲で掛け持ちで吹いた事もありましたけど、クラリネットからバスクラに
持ち替えた時は「あれ・・なんかいつもと全然感覚が違う・・」とやはり違和感は常に感じていたものです。

ワーグナーチューバの威力と効果は楽劇「ニーベルングの指環」四部作で堪能することが出来ますが、
残念ながらこの楽器そのものはオーケストラの楽器として定着する事はありませんでした。
但し、ワーグナーを崇拝していたブルックナーは交響曲第7~9番でこのワーグナーチューバを使用していますし、
後世でも、R.シュトラウス・ストラヴィンスキー・バルトークなどが使用しています。
先日当ブログでもレビューいたしましたバルトークの「中国の不思議な役人」でも使用されていますし、
ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」~長老の行列の部分でもすさまじい威力を発揮しています。

作曲者自身の名前が「楽器」として使用される例は、スーザフォンとワーグナーチューバが代表的なものですけど、
いずれもチューバの変形と言うか、低音金管楽器と言うのが面白いところですね。


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先日のバルトークの「中国の不思議な役人」においてはトロンボーンが大活躍をするという事で
音と魔法の学園RPGの「ららマジ」の星崎梨花をレビューさせて頂きましたけど、30人の美少女たちが大活躍する
器楽部において、なぜか「ワーグナーチューバ」という知る人ぞ知るマイナー楽器を奏でる美少女も登場しています~♪

それが向井春香という高校2年のJKさんでして、のんびりした性格の先輩で「なのです。」という
まるで艦これに出てくる暁型四番艦の電という駆逐艦娘みたいな語尾で話すのがなんともとてもかわいいです~♪
かわいくて童顔でホワホワした雰囲気に反してスタイルは良く、かなり胸が大きいというギャップもすてきですね~


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この召喚カードにおける 向井春香が手にしている楽器はワーグナーチューバではなくて普通のホルンですけど、
上記で触れた通り、一般的にプロの管弦楽団の演奏会において、ワーグナーチューバが出てくるときはホルン奏者が
掛け持ちする事が多いので、向井春香がホルンを吹いているのもある意味妥当なのだと思います。

ららマジは特殊楽器が多いのですけど、まさかワーグナーチューバという超マイナー楽器が登場してくるとは
その意外性もまたすてきですね~♪
ベラ・バルトークの「中国の不思議な役人」は、現在も世界のオーケストラの主要レパートリー曲の一つですし、
吹奏楽コンクールの自由曲でも既に定番中の定番の曲の一つです。
この曲は特に吹奏楽コンクールのプログラム上の表記ではバレエ音楽「中国の不思議な役人」と表示されることが
多いのですけど、一時期バレエとしての上演が企画された事もありますが、この作品は一般的なバレエではありません。
一幕ものの無言劇(パントマイム)です。

無言劇の内容はその内容は極めて過激です。
あまりに過激過ぎて、ブタペストでの初演が中々果たされず、初演後も多くの劇場から内容があまりにも不謹慎であり
宗教的モラルにも反すると言う事で上演禁止処分を食らい、
中々陽の目を見ることが出来なかったいわくつきの作品でもあります。

ストーリーを簡単に述べると・・・

ある荒廃した都市のスラム街で、3人のならず者達に売春を強要されていた美少女が今日も言われるがままに
客を取らされていました。
少女はあえて窓側に立っているように命じられ、道路を歩く通行人から美少女の姿が丸見え状態になって
少女に興味を持った男たちにそのならず者たちが声を掛けまくっていた事で、いわばその少女はならず者たちの
日銭を稼ぐ道具みたいなものでした。
ある日の事、 最初の客は金のない若者 二人目の客はとぼけた老人であり、
(とぼけた老人のオーボエ・コールアグレ等による描写が大変巧みです!)
そして最後に来たのは謎の官吏でして、その官吏は少女にひらたく言うと「やらせろ、やらせろ」と迫り
そのあまりの必死さに少女は恐怖を感じ、ならず者たちはその官吏をしばり首にして殺害を企みます。
「その少女とやるまでは死んでも死にきれない」とその官吏は首を宙吊りにされても、体内にまるで蛍光管が入ったかの如く
白く不気味に輝き始め、その目はまるで「自分の欲望を満たすまでは死んでも死にきれない」といわんばかりの
欲望むき出しの様相を呈しています。
怖くなったならず者たちは更に首を締め上げようとします。
少女はこの官吏をさすがに不憫に感じ、宙からおろし優しく抱きしめて、自らの体を官吏の自由になすがままにさせてあげ、
その官吏は満足したのか、安堵と恍惚の快感の表情を浮かびながらようやくあの世へと旅立っていった・・

そうした感じのストーリーです。

バレエというと一般的には洗練され華やかで美しくて幻想的というイメージがあると思うのですけど、このパントマイムには
バレエ特有の華やかなステップも踊りもありませんし、声もセリフも何もありませんし、
登場人物たちによる素の演技力が如実に曝け出されると言う作品でもあったりします。
そこにあるのはスラム街という底辺社会でもしぶとく生き続ける底辺の人達の生きるたくましさとスラム街の妖しさと
民衆の生きる力が全体的に大変ドロドロとしたストーリーの中で 貫かれていると思います。

最初にこの音楽を聴いたのは1987年の東京文化会館の日本フィルの定期演奏会で、この時点では既に
吹奏楽コンクールのカット版の演奏やドホナーニとアバドのレコードの演奏で概要は把握していたものの、やはり生演奏で
聴いてみると、そのあまりの過激な内容と音楽のヴァイタリティーに唖然とさせられたものであり、
後述しますけど、この曲の最大の聴き所の一つと思っていた組曲版のクライマックス近くのトロンボーンのソロと思われていた
激しく細かい動きの箇所は実はソロではなくて二人の奏者によって演奏されていたなど新しい発見が多々あり、
とてつもなく感動してしまった事がなつかしく感じたりもします。
ちなみにこの時の定期演奏会の曲目は、中国の不思議な役人の組曲版とプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番と
矢代秋雄の交響曲と言う大変意欲的なプログラムでした!
この演奏から10年後の1997年のやはり日本フィルの「20世紀シリーズ」の中で、この中国の不思議な役人が
吉松隆のピアノ協奏曲「メモ・フローラ」(※ソリストは田部京子さんでした~) とプロコフィエフの交響曲第5番と共に演奏
されていて、こちらの演奏も強烈なヴァイタリティーと生きる意欲に溢れた野性味溢れる素晴らしい名演だったと記憶
しています。

無言劇「中国の不思議な役人」は、冒頭から弦楽器による細かい動きから開始され、ここに管楽器の荒々しいタッチが加わり、
言葉では表現できにくい程のダイナミックスで激しい音楽で開始され、この物語の舞台が都会の片隅の底辺で生きる人たちを
暗示させてくれているように聴こえます。
多分ですけど、モデルは19世紀の世紀末から20世紀初期の頃の上海を想定しているのかもしれないですが、
洗練された巨大な経済都市の中でひっそりと且つ大胆不敵に生きる民衆のたくましさをイメージされているのかもしれないです。
そしてこの曲は冒頭部分とラスト近くの激しいクライマックスの部分も含めて全体的に変拍子ととてつもない不協和音が
炸裂しており、指揮者にとっては大変な難曲と言う事もあり、音楽大学の指揮科のクラスにおいては、この曲がテキストとして
使用されることが大変多いそうです。
私自身、森田一浩編曲による吹奏楽アレンジ版のミニスコアを見た事がありますけど、変拍子が大変厄介だと思いますし、
この曲を自由曲に選んだチームの指揮者が結構こねくりまわすような大変見づらい指揮の動きをされている傾向が強いのも
無理もないと思ったりもします。
冒頭の激しい場面が終わるとクラリネット奏者による大変長大なソロが続いていくのですけど、あのクラリネットの高音の響きは
悲鳴のようにも聴こえますし絶叫音のようにも聴こえます。
感覚的には、ならず者たちによって不本意ながら客を取らせられ続け、自らの体が日に日に汚されていくばかりの美少女の
心の苦しみ・嘆きが示唆されているのかもしれないです。
コールアングレで演奏されるとぼけた老人の表現も魅力的です。
官吏が少女に「やらせろ、やらせろ・・」とばかりに執拗に追い掛け回し、美少女の体を求める場面は、
トロンボーン奏者によるソロ的場面とそれに続く激しい行き詰る管楽器の響きで荒々しく表現されています。
(全体的にソロとしての管楽器の使い方が非常に巧みで、それぞれの楽器に感情の表現を見事に託されていると感じられます)
一幕のパントマイムと言う事で全体の演奏時間としては30分程度で元々コンパクトさはあるのですけど、上記で書いた通り、
この曲自体の内容の不健全さとローマ・カトリック教会からの悪評という事もあり、なかなか上演機会に恵まれなかったという事で
バルトークは30分の原曲版を更に凝縮した20分の組曲版も編成していて、この組曲版の方が現在でもプロの管弦楽団の
レパートリー曲の一つとしてほぼ完全に定着していると思います。
組曲版はトロンボーン奏者二人による激しく細かい動きの後のドロドロとした激しい部分でもって派手に終わらせていますけど、
原曲のノーカット版のパントマイム版では、ラスト近くに合唱(といってもウーウーとハミングするだけですが・・)が不気味に
入り込んでいて、最後は絶命するように不気味に静粛に閉じられていきます。
この不気味な静かさというのは、官吏が生涯の最後に美少女と生々しくベットを共にした後の達成感・満足感を遂げることが
出来て、自身の性の欲望という人間の本能を最後に満足させることで何の未練もなく浄化された想いで
あの世に旅立っていった・・という事を示唆しているのかもしれないです。

それにしてもこの曲のトロンボーンの激しさは際立っていますね~

あの雰囲気はなんとなくですけど、大体同じような時期に作曲されたD.ショスタコーヴィッチの
歌劇「ムチェンスク郡のマクベス夫人」における不倫相手との強烈なベッドシーンにおけるトロンボーンの激しい動きに
近いものがありそうですけど、人によってはあのトロンボーンの動きは「〇〇のピストン運動ではないのか・・?」と
言う人もいるようですけど、なんにせよロシアとか東欧の作曲家の脳内妄想の濃厚なドスケベさの激しさは、
すさまじいものがありそうですね・・(汗)

この曲をCDで聴く場合、色々と名演が多く選ぶのに困るのですが、アバドやドホナーニ指揮による演奏や
1971年のブーレーズの指揮の演奏もいいのですけど
個人的には、ショルティー/シカゴ響が圧倒的に素晴らしい演奏を残していると思います。

この一幕のパントマイムを現代社会に置き換えてリバイバル上演できないものか・・?と思う事も多々あります。
原作は19世紀末の上海をモデルにしているのかもしれないですけど、例えば舞台を近未来のA.Iによる管理が徹底され、
格差社会が極端に広がり、社会が上流階級と底辺階級にはっきりと分かれ、
底辺社会の売春ビルを舞台に、ふらりと上流階級の世間知らずの若き官僚がふらりとやってきて
売春宿のとある美少女がなぜか気になってしまい、若き二人はたちまち恋に陥るものの、
それを心配した若者の親が二人の仲を切り裂いてしまいますが、若き官僚はどうしてもその美少女の事が諦めきれず、
結果的に全てを投げ打って自らを底辺社会に身を落とす事を選択したとか、
一方その美少女も実は元々は上流階級出身だったのだが、そのうわべだけ取り繕う生活に嫌気がさし、
自分探しをしていたらいつの間にか底辺社会の売春宿で暮らすようになっていた・・
果たして二人の恋の行方は・・?
そういった事を格差社会とA.Iによる管理を背景にしながら、脚本化していっても案外面白いものがありそうですね。

この曲は吹奏楽コンクールの自由曲においても定番中の定番の大人気自由曲の一つです~♪

バルトークの「中国の不思議な役人」と言うと、神奈川大学・都立片倉高校・伊奈学園総合高校・天理高校・創価学会関西・
龍谷大学・東海大学高輪台高校・湯本高校など素晴らしい名演が続出していますけど、
オールド吹奏楽コンクールファンの私にとっては、この曲の全国大会初演の1979年の駒澤大学と
磐城高校による1981年の演奏と2001年のウルトラ名演がとてつもなく印象的です。
(この曲は中学生による演奏も多いのですけど、この曲に関しては曲自体の濃厚なエロさや過激さと難解なリズム処理を
考慮すると、さすがに中学生では難しいと感じますし、事実全国大会でもかなり未消化の演奏が多いのは大変勿体ないと
感じたりもします)
磐城高校の場合、1981年と2001年の演奏の間には20年間というかなりの時間的空間があるのですけど、
1981年の演奏も2001年の演奏も指揮者はどちらも根本先生なのですが、
磐城高校吹奏楽部にとっても根本先生にとっても20年ぶりの金賞を取れたという事で
とてつもなく思い入れがある曲なのかな?とふと思ったりもします。
指揮者の根本先生にとっては、 1981年の全国大会で金賞を受賞したこの「中国の不思議な役人」という曲でもって
2001年度に、20年振りに磐城高校に金賞をもたらすことが出来たというのは
やはり感慨深いものかあるのかな・・?と思ったりもしますね。

バルトークの「中国の不思議な役人」は今現在は吹奏楽コンクールでは定番の大人気曲の一つとなっています。
この曲は1979年に駒澤大学が全国大会で金賞を受賞し、81年に磐城高校が全国で金賞を受賞し、
この曲の人気に火が付くのかな・・?と当時予想していたのですけど、その後は全く演奏されない状態が15年程度続きます。
多分ですけど著作権の問題があったのかもしれないですね。
この曲が再び脚光を浴びたのが、1996年の小林久仁郎先生指揮の秋田南の演奏だったのかな・・・と思います。
この1996年ですけど、全国大会で初めて前半・後半の総入替えという訳のわからんシステムが施行された年でも
あるのですけど、前半に登場した秋田南の演奏はとっても素晴らしかったです。
この時の課題曲がⅤの交響的譚詩と言う事で長めということもあり、
自由曲は6分以内に収める必要があったせいもあり、この時はかなり面白いカットを採用しています。
(あの独特なカットとアレンジは小林先生の編曲なのかなと思っていたら実は天野正道アレンジ版でした)
序奏のあの凄まじい喧騒の後、原曲通りクラリネットのとてつもなく長いソロに繋げていき、
クラリネットの妖しいソロが終わったと同時にいきなり、トロンボーンの部分に繋げていき
そこから先は、ヴァイタリティーとエネルギー炸裂!!みたいな感じで一気にラストまでなだれ込んでいくのですけど、
秋田南の女の子のトロンボーン奏者がとにかくめちゃくちゃ上手くて、その事も大変強く印象に残っています。
あの女の子のやや猫背気味で足をしっかりとステージに付けたような感じの独特な吹き方が今でも目に焼き付いています。
そしてこの秋田南の演奏以降、この曲が一気にブレイクし今現在に至っているみたいな印象もあります。

2001年の磐城高校の演奏は本当に素晴らしかったと思います。
課題曲Ⅳ/SLが行くのあののどかな雰囲気がとてもチャーミングでしたし、一転して自由曲の
「中国の不思議な役人」の激しさとヴァイタリティーは、私の中ではこの年のNo.1の仕上がりとすら思っています。
この年の磐城のカットは、1981年の同校の演奏とほぼ同じなのですけど、部分的に少しだけ
81年の演奏に付け加えがあったりもしています。

吹奏楽コンクールでの「中国の不思議な役人」の演奏を聴くと、どのチームも例のあのクライマックス部分でのトロンボーンは
とても巧いですね~♪
あの部分はCDで聴くとソロのように聴こえますけど、実際はトロンボーン奏者二人によって演奏されます。
(全体的にはファースト奏者の負担が相当大きいです)
あのトロンボーンの箇所はトロンボーンとは到底思えないような細かい動きの続出ですので、スライドで音程を操作する
トロンボーン奏者にとってはあの場面は本当に大変だと思いますけど、現在の奏者の皆様は楽々とこなしているように
感じられるのは「素晴らしい!」としか言いようがないと思います。

最近の中学・高校のスクールバンドとしての吹奏楽部は男子校を別にすると、部員の8割以上はJCさん・JKさんですので、
必然的に「中国の不思議な役人」のトロンボーンの例の箇所もJKさんたちによって奏でられる事が大変多いのですけど、
改めてトロンボーンは男よりも美少女のほうがよく合っているよね~と感じたりもしますね~♪




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「響け!ユーフォニアム」においてもトロンボーンパートの美少女JKさんの皆様はとてもかわいくすてきでしたね~♪

塚本 秀一については「お前はどうでもいいから、吹奏楽コンクールはおまえじゃなくてJKさんを出場させろ~」と
文句の一つも言いたくなってしまいます・・(汗・・)
「響け! ユーフォニアム」の1と2のコンクールでもレギュラーに選ばれていた巻髪ツインテの女の子はとってもかわいかったです!

こんなかわいい美少女による「中国の不思議な役人」のトロンボーンの例の箇所の演奏を聴いてみたいですね~♪

トロンボーンは小編成でも大編成でもたいていの場合3人一組で構成される事が多いですね。
その構成は、ファースト・セカンド・バストロという感じなのですけど、バストロンボーンは楽器自体が
ファーストとセカンドと管の構造自体が違っているという感じです。

トロンボーンの爆発的なあの推進力とか大音量の迫力は見ていても大変気持ちがいいものです!


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美少女とトロンボーンというと印象的なのは「響け!ユーフォニアム」以外では、アニメ作品ではないのですけど、
2017年1月にリリースされた音と魔法の学園RPG「ららマジ」が大変印象的です~♪

ららマジはゲーム作品でアニメ化はされていないのですけど、私的には今後アニメ化が実現されて欲しい作品候補の
一つでもあります。
他にアニメ化して欲しい作品というと原作が漫画である「無能なナナ」もひそかに期待したりもしています。

ららマジのストーリーは、とある呪いにより廃部寸前となってしまった東奏学園器楽部を舞台に、
プレイヤーは器楽部員として登場する30人のヒロイン達を呪いから救い出し、彼女たちが再び演奏できるようにすることを
目指すように頑張るという内容です。

そして30人のJKさんのメンバーの中で、トロンボーン奏者兼コンサートマスターの地位にいるのが3年生のお姉さまの
星崎梨花です。


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星崎梨花(ほしざき りか)のゲーム上での声優さんは赤崎千夏さんと言う事で、赤崎さんは本年度の夏アニメの一つである
「女子高生の無駄づかい」にてバカ役(田中望役)を怪演された御方であり、あのバカの「なー、今からすげー事言ってもいい?」の
フレーズを聞くだけで田中の尋常でないバカ振りが見事に伝わってきたものですけど。
「ららマジ」ではそんな雰囲気を微塵も感じさせない声の演技はさすがとしかいいようがないです。

星崎梨花の担当楽器はトロンボーンで、器楽部のコンミスを務める完璧超人で、
器楽部創立メンバーの一人であつたりもします。
武器のトロンボーン型の槍は突いたり切りつけたりするだけでなく小規模な爆風を放つこともできるそうです。

「ららマジ」は吹奏楽部ではなくて器楽部と言う事で、楽器仕様に制約が無いと言う事で、出てくる楽器も
吹奏楽ではありえない編成のワーグナーチューバ・琴・胡弓・グラスハーモニカ・リコーダー・エレキベース・シンセサイザー・
ウクレレなども登場しているのは自由さがあってとてもすてきだと思います。

それにしても美少女がトロンボーンを奏でているシーンはとても素晴らしいと思いますし、星崎梨花のトロンボーンによる
「中国の不思議な役人」の爆演も聴いてみたいですね~♪
本記事の一つ後の記事がバルトークの「中国の不思議な役人」についてのものでしたので、統一する観点から
本記事においてバルトーク作曲の「二つの肖像」という管弦楽曲について少しばかり取り上げてみたいと思います。
私自身が初めて購入したドホナーニ指揮のバルトークの「中国の不思議な役人」のレコードのカップリング曲が
「二つの肖像」でもありました。
「中国の不思議な役人」の荒々しいバイタリティーさと過激さに比べると、二つの肖像は比較的おとなしい曲のようにも当初は
感じたものですけど、実はこの曲の背後にも色々なドラマはあったりしたものでした。

この曲を作曲当時バルトークは、ガイエルというヴァイオリン奏者に恋心を抱き、
その思いが一つの結晶となって表れたのがヴァイオリン協奏曲第一番なのです。
だけど結局ガイエルとの恋は残念ながら悲恋に終わり、
ヴァイオリン協奏曲第一番も献呈されたガイエルの手許にずっと保管されたまま忘れ去られ、
この協奏曲が初演されたのは、バルトークもガイエルも既に世を去った1958年です。

一方バルトークはこのヴァイオリン協奏曲第一番とは別に「二つの肖像」という管弦楽曲を世に発表し、
実は「二つの肖像」の第一曲「理想的なもの」は、ヴァイオリン協奏曲第一番第一楽章と全く同じです。
換言すると、ヴァイオリン協奏曲第一番が初演された時点では、既に第一楽章だけは
「二つの肖像」という別の形で既に発表されていた事になります。
「二つの肖像」の第一曲「理想的なもの」は、独奏ヴァイオリンが主体で
終始ソロヴァイオリンが哀しいメロディーを切実に歌い上げていきます。

「二つの肖像」の第二曲は、「醜いもの」というタイトルで、第一曲の理想的なものが10分程度の比較的長い音楽であるのとは
極めて対照的に、荒々しい疾風するようなトゲトゲしい音楽が3分程度駆け抜けていきます。
「醜いもの」は、クラリネット・フルート・オーボエの豚の絶叫みたいなブヒヒーンという雄叫びが極めて印象的です。

この第二曲「醜いもの」にも実はガイエルの影が潜んでいます。
この曲の元ネタは、実はバルトーク自身の「14のバガテル」という曲でして、
この「14のバガテル」という曲の中の第13曲「彼女は死んだ」と第14曲「彼女は踊る」という何やら意味ありげのタイトルの曲の
メロディーラインを二つの肖像のモチーフにに転用していますし、「二つの肖像」第二曲・醜いものは、
この「14のバガテル」の第14曲「彼女は踊る」をそっくりそのままオーケストレーションしたものなのです。

タイトル自体既に意味深なのですけど、「二つの肖像」という曲自体、
バルトークのガイエルに対する相反する二つの気持ちをそのまま曲にしたものなのかもしれません。
ガイエルに対する「あなたこそ私の理想の女性」という想いもある一方で、交際の過程で生じたさまざまな軋轢・心理的離反・
埋められない価値観の相違など理想と現実のギャップにバルトーク自身が大変悩み、
そうしたガイエルに対する複雑な想いが、理想的なもの・醜いものという相反するタイトルに繋がっていったのかも
しれないです。

心情的には男と女のミステリー音楽劇場みたいなものなのかもしれないです。

バルトークにはヴァイオリン協奏曲というジャンルは二曲残していますけど、内容が二曲ともやや難解というか渋すぎて
個人的にはそれほど好きではありません。
だけどピアノ協奏曲は3曲ありますけどいずれも名作揃いだと思います。
特にピアノ協奏曲第三番は、アメリカに亡命後白血病に侵され、貧困と病で瀕死の状態にあったバルトークの最晩年の曲
なのですけど、その終楽章の生きる希望と情熱に溢れた力強い感覚はとても死が間近に迫っている人の作品とは
思えないほど信じられないほど生命感に満ち溢れています。

果たしてバルトークは、死の床でガイエルの事をどのように感じていたのでしょうか・・

さてさてここから下記は、バルトークの記事という事で、舞踏組曲についても少しばかり記させて頂きたいと思います。

吹奏楽コンクールにおいて、この曲が初めて全国大会で演奏されたのは、1978年の駒澤大学、
そして次に演奏したのが80年の富山商業なのですけど
(両校ともに上埜孝先生のアレンジを使用しているため、唐突に第二曲のトロンボーングリッサンドから
開始しているのが大変面白いです)
それ以降は、この曲は20年近くもほとんど演奏される事は無かったのですけど、1990年代後半から2000年代初めにかけて
この曲はなぜか人気曲となり、多くのチームが支部大会・全国大会で演奏するようになりました。
この曲の何とも言えない泥臭さ、民族的な香りが日本人の感覚にも何かマッチするものがあったのかもしれないです。

タイトルに「舞踏」とついていますけど、特段バレエとは関係はありません。
あくまでコンサートで聴くための楽曲です。
バルトークの独特の民族的なフレーズで彩られた個性的な現代風の作品なのですけど、
親しみやすく聴いてて「難しい」という感覚は全く無いと思います。
この曲の作曲経緯は、ハンガリーの首都・ブタペストの市制50周年記念として委嘱されたもので、
この時の他の作曲家への委嘱作品としてコダーイの「ハンガリー詩編」があったりもします。

それにしてもこの曲は泥臭いと思いますし、大地の香りがプンプンと漂ってきます。

この曲は、5つの舞曲と終曲から構成され、6曲にタイトルは一切付けられていません。
組曲という表記になっていますけど、各曲は全て続けて演奏されるようになっていますので
一つの曲が終わるごとに少し間が入るという事はありませんけど、その分音楽的な密度が高いというか
一つの曲が終わって何か緊張感が途切れるという事は、この組曲に限っては皆無だと思います。

冒頭はいきなりピアノの低音のグリッサンドと少し硬い表情のファゴットソロで開始されます。
第2曲は、いきなりトロンボーンのグリッサンドで開始され聴くものを少し驚かせます。
私自身は、この曲は吹奏楽コンクールでは何度も耳にしましたけど、プロの管弦楽団の演奏会で聴いたのは一度だけです。
(確か日本フィルの定期だったような記憶があります)
その際も、この第2曲のトロンボーンのグリッサンドは大変印象に残りましたけど、
視覚的にトロンボーン奏者がああやって一生懸命スライドを上下させている光景は
あまり実例がないだけにとても印象に残っています。
(トロンボーンの派手なグリッサンドの例としては、他に、コダーイの
 組曲「ハーリ・ヤーノシュ」~Ⅳ.合戦とナポレオンの敗北がとても印象深いです)
この第2曲は、何かロシアの「コザックダンス」にちかいようなものがあるのかもしれないです。
第3曲は、とても軽快で実にいいですし、特にクラリネットのソロがとてもノリノリで楽しいですし、
全六曲の中では一番ダンスっぼい感じもします。
この第三曲の終わらせ方は、いかにも「曲が終わった」みたいな感じがしますので
うっかり聴くと、この第3曲の終わりと同時に拍手をしそうな人も出そうな雰囲気です。
第4曲は一転して静粛な感じになるのですけど、部分的におどろおどろしい雰囲気も漂わせ、不気味な感じも演出しています。
第5曲は、第四曲の不気味さに引きずられた様な感じと終曲に向けての下準備という
感じもあり、何か両曲を繋ぐ「架け橋」みたいな役割もあると思います。
そして終曲は、華麗に盛り上がり、これまでの舞曲が走馬灯のように回想されながら賑やかな祝典的な音楽を展開し、
ラストはズドンと曲が閉じられます。

バルトークの「舞踏組曲」のメロディーをモチーフにパロディー作品として作曲された曲も実はあったりします。

それが深井史郎作曲の「パロディー的四楽章」から第四楽章・ルーセルです。
(この曲は、1982年の秋田南高校の自由曲でも大変馴染み深いものがあります)

第四楽章において、タイトルは「ルーセル」となっていますが、実際にパロディーとしてのモチーフとして使用したのは、
バルトークの「舞踏組曲」です。
舞踏組曲のどの部分をパロディーにしたかは、実をいうと私にとってはいまだに分からないです・・(汗・・)
それにしても、バルトークの曲をパロったのに、タイトルがどうして「ルーセル」に転化したのでしょうか・・?
うーーん、思いっきり謎です・・
それもこの曲の一つの持ち味というか、茶目っ気なのかもしれないですね。
この第四楽章は、ルーセルの曲を何一つモチーフにしてもいないのに、タイトル名だけルーセルの名を使用し、
バルトークの「舞踏組曲」をモチーフにしたと作曲者は言っているのですが、
実はこの楽章において、真の主題は、実は日本の「さくら、さくら」という、日本人ならばほとんどの人が知っている
あのメロディーでもあったりします。
中間部の前において盛り上がる部分とか、ラスト近くでは、この「さくら、さくら」のメロディーは
かなり執拗に引用されていて、思いっきり日本のメロディーをパロディ化しています。
この曲の真意は、もしかして・・
「外国の作品の勉強をして、影響を受けても構わないけど、
最終的には、あなた達自身の故郷の日本の事も忘れては駄目ですよ・・」みたいなメッセージを
後世に作曲家の人達に伝えたかったんじゃないのかな・・?とふと思ったりもします。


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最後に思いっきり余談になりますけど、一つ後の記事のバルトーク/中国の不思議な役人のトロンボーン絡みから
2017年1月にリリースされた音と魔法の学園RPG「ららマジ」のトロンボーン奏者の星崎梨華について触れさせて頂きましたので
本記事においては、やはり「ららマジ」に登場する一年生のフルート奏者の結城菜々美をごく簡単にレビューさせて
頂きたいと思います。

バルトークの中国の不思議な役人と舞踏組曲においては、ららマジの星崎梨華の担当楽器であるトロンボーンが
大活躍をするのですけど、両曲において静かな場面とか上記で取り上げた「二つの肖像」においても
全体にスパイスを与えている楽器がフルートでもあるように感じられます。
特に中国の不思議な役人における二人のトロンボーン奏者によるソロ的掛け合いの場面の直前のだるくて誘惑的な部分での
フルートの官能的な表現や、二つの肖像のⅡ.醜いものにおける刻みの鋭さとまるで馬の雄叫びみたいな響きにおいても
フルートは大変効果的に使用されていると思います。

吹奏楽部に入部希望をしてくる皆様たちの中での人気楽器は、トランペット・トロンボーン・アルトサックスだと思いますけど、
女の子にとって一番人気のパートはフルートと言えるのかもしれないですね。

フルートの楽器の素材はサックスと同じように金属系なのですけど扱いは木管楽器です。

フルートのイメージは優雅で華麗であり、全体合奏の中では目立たない方なのかもしれないですけど、随所においしいソロが
用意されている事も多々あり、音程が安定している事もありますし、万一ミストーンをしても元々の音量が弱いという事もあり、
あまり目立つことも無く、指揮者からはどちらかというと優等生扱いされる事が多いのかもしれないです。

フルートパートは現在の高校A部門の55名編成という制約においては、3人一組でパートを構成される事が多いと思いますが、
そのうち一人はピッコロという超音域楽器との持ち替えというパターンが多いと思います。


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フルート奏者の結城菜々美は「ど根性で乗り切るぞ!期待の新人!」というのが売りのふわふわ熱血少女です~♪

明るく素直で、誰とでも仲良くなれるタイプで、根性さえあれば何でもできると考えている熱血系根性論者でもあり、
ときに無鉄砲な行動に出ることも多々あります。
音楽家の両親の影響で物心つく前からフルートに触れており、幼少期から数々のコンサートで最優秀賞を総なめ状態で
周囲から神童と呼ばれていましたけど、とある出来事により挫折してしまう過去の傷もあったりします。

根性論者、肉好き、運動神経抜群という側面と見た目のふわふわ~っとしたかわいらしさのギャップが
結城菜々美の際だの魅力なのかもしれないです。
灰色のニーハイを常に着用していて、ららマジの中ではすてきな絶対領域の持ち主であるのも大変素晴らしいですね~♪
私自身、独身の頃にまだ自由に使えるお金があった頃は(汗・・)
吹奏楽コンクール・プロの交響楽団の生の演奏会やバレエやオペレッタの上演は結構行ったものですし、
バレエもオーチャードホールや神奈川県民会館など一時期よく観に行ったことがあります。
(私が学生時代は、バレエの上演というと五反田の郵貯の簡易保険ホールでの公演が多かった印象はありますね・・)
だけどバレエ自体は結構チケットが高くて、
「行きたいのだけど、上演できる場所が限られちゃうし、チケット代が高いからちょっとね・・・」という感じになってしまいますけど
出来れば死ぬまでに一度は見ておきたいバレエと言うと

○ストラヴィンスキー/火の鳥

○バルトーク/無言劇「中国の不思議な役人」

○ラヴェル/ダフニスとクロエ

○プロコフィエフ/ロメオとジュリエット

○   同    /シンデレラ

などかありますけど、
死ぬまでに一度ぐらいは一番見てみたいバレエというとファリャの「三角帽子」を挙げたいと思います。

この「三角帽子」というと日本のプロの管弦楽団の演奏会の演奏曲目としてはほぼ定着化されていますし、
CDの録音枚数も相当なものがありますし、
吹奏楽コンクールの自由曲でも「粉屋の踊り・終幕の踊り」の組合せで
現在でも頻繁に演奏される大変な人気曲だと思います。
(大変古い話ですけど、1975年の山王中学校と1977年の島田第二中学校の三角帽子は大変躍動感のある素敵な名演でした!
最近では2016年の習志野高校と伊奈学園総合高校の演奏も素晴らしかったですね~!)

私自身も、中学2年の吹奏楽コンクールで、5月頃に顧問の指揮者の先生から
今年のコンクールの自由曲は、ドビュッシーの「三つの夜想曲」~Ⅱ.祭りか
ファリャのバレエ音楽「三角帽子」~粉屋の踊り・終幕の踊りのいずれかだと言われ、両曲の吹奏楽アレンジ版楽譜で
練習した事はあります。
正直ドビュッシーの曲は、当時はほとんどビンと来るものは無く「これのどこが祭りなの・・??」という感じでしたけど、
ファリャの曲は、明るく健康的な躍動感たっぷりの曲でしたから、吹いていて気持ちは良かったです。
技術的には三角帽子の方が全然難しいのですし、あの独特な躍動感と高揚感があるリズムの構築は極めて難しかったと
記憶していますし、あのバレエのリズムはラテンのノリが濃厚という事で、日本人にはちょっと難しいものが
あるのかもしれないです。
結果的にこの年の自由曲は、ドビュッシーでもなくファリャでもなく
あまりにも陰気で憂鬱なマクベスの吹奏楽オリジナル曲「カディッシュ~ユダヤ人の死者のための葬送音楽」
という曲で、この曲を聴くと今でも「生きているのが嫌!」と感じるぐらいとてつもなく厭世的で陰鬱な哀しい曲であり、
ファリアの「三角帽子」のあのあまりにも明るく健康的な眩しい世界観とはまるで対照的なものだったと思います。

ファリャは「三角帽子」に着手する前、既にバレエ音楽「恋は魔術師」でその名声と評価を決定的なものにしていましたけど、
「恋は魔術師」は、どちらかというと「どす黒い怨念とか焼きもちとか情念」みたいに
スペイン色は強いけど、内省的な曲という印象もあります。
反面「三角帽子」は、要は粉屋の女房に横恋慕した悪代官を街のみんなでやっつけるという日本の時代劇みたいな雰囲気も
あったりして大変楽しく明るくノリが良い曲です。
バレエ自体も上映時間が35分程度と短いですので、バレエ音楽として全曲版として聴くのもいいですし、
コンパクトに組曲版として聴くのもいいし、要はどちらを聴いてもその魅力はくまなく伝わってくると思います。

三角帽子の序奏からして大変なインパクトがあると思います。
冒頭はティンパニの乱打に続く金管セクションのメロディーの後に続いて管弦楽の団員が
「オレ! オレ! オレ!!」とまるでフラメンコのように手拍子をしながら掛け声を出しますし、
打楽器セクションは、ほぼ全員マラカスを片手にカタカタと鳴らしているし、この部分を聴いただけで「三角帽子」の世界の
魅力に引き寄せられるのは間違いないと思います。
恋は魔術師は、ソプラノ独唱が一つの売りで、ソプラノが大変効果的に使われますけど、
三角帽子は一応ソプラノは出てくるけど、それほど出番はないです。
たまにソプラノが登場してくると「華」がありますし音楽が更に生き生きとしてくると思います。
粉屋の踊りの冒頭に出てくるコールアングレのソロもいかにもスペインらしい風情がありますし、
粉屋の逮捕の場面では、なんと! ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」第一楽章の
あのジャジャジャジャーンのパロディーがホルンによって奏でられます。
最初にこの部分を聴いた時思わず耳を疑いましたし、
「何なんだ、今のは・・・」と思ったものの、心の中ではくすっ・・となる想いはありました。
ラストの終幕の踊りの華やかさも素晴らしいものがありますし大変な躍動感があると思います。
(この終幕の踊りの序盤に大太鼓によるズドン!というとてつもなくデカい音のソロというか叩き込みがあり、あれも何度聴いても
ゾクゾクさせられるものがあります)

この「三角帽子」なのですけど、あらすじを簡単に書いておきますと・・
(ちなみに「三角帽子」とは代官が被っているもので、要は権力の象徴です)

アンダルシアのある町で、見た目が悪いが働き者の粉屋と旦那と美人の女房が住んでいました。
ある日、スケベな悪代官がこの女房に目をつけお忍びで粉屋の店舗を訪れ、
女房は粉屋の旦那を物陰に隠し、代官に官能的な踊り「ファンダンゴ」の踊りを披露します。
代官は女房に言い寄りますけど、からかわれた末に失神させられます。
その後出てきた粉屋の旦那が代官を殴り、代官は一旦はスゴスゴと引き揚げます。

その日の夜、近所の人々が祭の踊りを踊っていて、粉屋の旦那も一緒に踊り出します。
激しい踊りが続く中、悪代官の陰謀により、粉屋の旦那は無実の罪で2人の警官に逮捕されてしまいます。
代官は女房を奪い取ろうと夜這いを掛けて忍び込みますけど、
気が急いでいる代官は水車小屋の前の川に落ち、粉屋の女房に助けられるものの、結局逃げられてしまいます。
悪代官は濡れた服を脱ぎ粉屋の旦那のベッドに潜り込みます。
そこに警察から逃げ出してきた粉屋の旦那が戻ってきますけど、悪代官の服を見て自分の服と代官の服を交換し、
悪代官の女房のところに向かい、悪代官のこれまでの悪事の数々を暴露してしまいます。
悪代官は粉屋の旦那の衣服を着て外に出たものの、その恰好ですと指名手配中という事で警官にすぐに見つかり、
その警官と近所の人に袋叩きに遭い逃げていき、悪代官の家に戻ると悪代官の女房よりお仕置きが待っていて
悪代官は結局総スカンを食らってしまいます。
近所の人たちは、平和を取り戻した粉屋の夫婦を中心に、一晩中踊って一件落着というハッピーエンディングとなっています。

一言でいうと、勧善懲悪、悪は滅びるみたいな世界観といえそうです。

プリキュア的には悪代官というと、2代目プリキュアのSSで登場してきたアクダイカーンを思い出してしまいますね・・

ファリアのバレエ音楽からもそうした健康的な明るさが全面に溢れ出ていると感じられます。





バレエ「三角帽子」の初演は世界的な名指揮者、アンセルメなのですけど、
私自身、この「三角帽子」の数あるCDの中でも一番大好きなのはやはりこのアンセルメ指揮/スイス・ロマンド管弦楽団です。
確かに音源は古いけど、その冷静さと情熱がミックスされた名演を超える演奏はいまだに出てこないと思っています。

このバレエ音楽「三角帽子」の初演は1919年ですけど、
この初演を担当したスタッフがあまりにも絢爛豪華とすごいと思います!

美術担当&舞台装置&衣装⇒ピカソ

指揮⇒アンセルメ

バレエの振り付け⇒マシーン

そもそもの依頼者とアドバイザー⇒ディアギレフ

すごい、このメンバー凄すぎる・・!! 当時の音楽・美術のオールスター夢の競演という感じすらしますね!

ちなみにこの曲は当初は「バレエ」ではなくて「パントマイム」として着想された時期もあり
パントマイムとしての初演は「幻想舞曲集」の作曲者のトゥリーナの指揮によって初演が果たされています。

この「三角帽子」ですけど、これをベースにしたというか、日本の江戸時代の「悪代官風」にアレンジした戯曲が
「夕鶴」でお馴染みの木下順二の「赤い陣羽織」とのことです。

上記でちらっと触れていますけど、ファリアのバレエ音楽「三角帽子」は吹奏楽コンクールの自由曲としても
1970年代から現在に至るまで定番の曲の一つでもありまして、
令和元年の全国大会でもブリジストン久留米が自由曲として演奏されています。
最近の演奏の中では、伊奈学園総合高校と習志野高校の明るく洗練されたサウンドが大変印象的です。
この曲は以前は、粉屋の踊りと終幕の踊りの組合せまたは終幕の踊りのみという感じでしたけど、
1993年の辰口中学校が後藤洋さんの斬新なアレンジで、序奏の例のあの掛け声や手拍子を取りいれた演奏も当時
大きな話題になっていましたし、この辰口中学校の名演以降は、序奏~午後~終幕の踊りという組合せも増えてきている
印象もあります。

吹奏楽コンクールでの演出と言うと冒頭の掛け声と手拍子の他には、終幕の踊りのラストの和音の前に、
打楽器のみのロールを強調する演奏も幾つかありましたし、
(1985年の玉川学園は打楽器奏者が全員小太鼓でロールしていましたし、86年の葛飾吹奏楽団は打楽器奏者が全員
カスタネットを鳴らしていました!)
これはとある定期演奏会でみた演出でしたけど、終幕の踊りの冒頭近くの大太鼓のソロの箇所で、もう一台大太鼓を用意し、
その大太鼓の皮は実は紙製で、二台のうち一台でドスンと響かせ、もう一台はそのまま紙の皮が破れるという
大変派手でユニークな演出をした演奏も大変印象的です。

吹奏楽コンクールにおいて「どうしてこのチームが三角帽子を演奏するの・・!?」と驚いたのは1990年の花輪高校だと
思います。
花輪高校というとロシアマイナーシンフォニーとかドロドロした邦人作品という印象が強い中、花輪がまさかファリアの
三角帽子というメジャーな曲を自由曲で選ぶ事自体が当時は驚きでした。
花輪高校はこの年は東北大会ダメ金で全国に進めませんでしたけど、後日この演奏を聴いた時は、
課題曲のカタロニアの栄光のテンポとリズムをいじりまくった解釈と三角帽子のドロドロとしたちょっと重たくて怨念が
籠ったような演奏を聴くと「さすがにこれだと全国大会代表は厳しいかも・・」と感じたものではありました。

そして三角帽子の吹奏楽コンクールというと忘れてはいけないのは、1977年の島田第二中学校もそうですけど、
山王中学校だと思います。
山王中は1970年代の木内博先生時代にこの三角帽子をとてつもなく煌めきある躍動感溢れる演奏をされて、
金賞の評価を受けていますけど
(木内博先生の指揮と言うと、幻想交響曲・スペイン奇想曲・スペイン狂詩曲の演奏も素晴らしいです!)
実は平成の時代に入って、木内先生の御子息の木内恒先生の指揮で、三角帽子やスペイン狂詩曲等、お父様の博先生と
同じ自由曲でもって全国大会に出場され、三角帽子で親子二代に渡る同一自由曲での金賞受賞という大変な快挙を
成し遂げられていたのは大変印象的でした!

山王中というと羽川誠先生時代や細谷直先生時代の演奏も大変素晴らしいものがありますけど、こうやって親子二代に
渡って偉大なる伝統が受け継がれていく姿は大変尊いものがあると思います!
ジョン・ウィリアムズのアメリカ映画音楽上の貢献度は素晴らしいものがあると思います。
アカデミー賞を5回受賞と言うのも凄いと思いますけど、ノミネート止まり42回と言うのも ある意味一つの記録だと思います。

ジョン・ウィリアムズがが映画音楽として作曲した曲は思いつくだけでも

〇ジョーズ

〇スターウォーズ

〇未知との遭遇

〇スーパーマン

〇インディージョーンズ

〇ホームアローン

〇シンドラーのリスト

〇ジュラシックパーク

〇ハリー・ポッター

など多数の作品が出てきますね。
個人的には、吹奏楽アレンジ版で私自身演奏経験がありますけど「スターウォーズ」がとても 印象深いです。
やはりあの音楽の「メインテーマ」を聴くだけで、映画の名シーンが色々と思い出してしまいますね。
それと知名度はいま一つですけど「11人のカウボーイ」のホルンの雄叫びも極めて印象深いものがあります。
(吹奏楽アレンジ版の演奏としては1987年の福岡工大付属高校の圧倒的名演が大変印象的です)

ジョン・ウィリアムズ方は、ボストン・ポップスの指揮者として自作自演の他に、
例えば、スッペの喜歌劇「ボッカチオ」序曲とかカバレフスキーの歌劇「コラブルニヨン」序曲など
親しみやすい小品の演奏もすてきな演奏がとても多くて指揮者としても傑出した才能をお持ちなのだと思います。

ジョン・ウィリアムズの作品で、映画音楽以外なのですけど、忘れられない作品として
「リバティー・ファンファーレ」という大変スケールの大きな小品があります。
式典関係のファンファーレと言うと、 この曲以外でも、
1984年の「ロサンジェルスオリンピック」のテーマ曲であるファンファーレも大変素晴らしい曲も残されています。

この「リバティー・ファンファーレ」ですけど、
自由の女神像の建設100周年を記念して元々作曲された経緯があります。
自由の女神の前での発表は、7月4日にマンハッタンの南西端のバッテリー公園で夕方から夜にかけて盛大に行われました。
当日はウイリアムズの指揮によるオール・アメリカン・マーチング・バンドと合唱団が
自由の女神をバックに、野外ステージで演奏されました。

金管楽器の壮麗なファンファーレに続き、打楽器や鐘(カリヨン)が打ち鳴らされ、
ホルン等が厳かな第1主題を提示し、トランペットの華やかな旋律が高鳴り興奮が増し、
最後にもう一度第1主題も現れ、効果的に曲を閉じます。
冒頭の金管セクションによるファンファーレは、本当に豪快で気持ち良く鳴り響き、その後続く「鐘」は、チャイムというよりは
本格的な教会の鐘というかカリヨンがゴーンと荘厳に鳴り響くのが極めて印象的です。

この曲残念ながら生で聴いたことは一度もないのですけど
コンサートのオープニングとしては実に相応しい曲だと思います。
夏の野外コンサートにも何か最適の曲ですね。

この曲は、吹奏楽にも編曲され、
1994年の関西大会で、洛南高校がこの曲を自由曲に選び素晴らしい演奏を聴かせてくれました。
惜しまれることに、この年の洛南は関西大会ダメ金という事で全国大会に進めず、関西大会で散ってしまったのですけど
あの華麗な演奏は是非普門館でも聴きたかったです!
あの年の関西代表は淀川工業・兵庫・天理でしたけど、淀川工業はこの学校にしては珍しいくらい不調で銀賞に留まり、
天理はあまりにも抑制され過ぎた演奏は理性的という意味では申し分ないのかもしれないけど少し欲求不満気味で、
兵庫は松井節全開の名演でしたけど、自由曲のカットがかなり強引かな・・?とも感じていただけに、あの年の関西代表には
洛南の「リバティーファンファーレ」は絶対不可欠だったと今更ながらに感じたりもします。
あの年の洛南の演奏はとてつもなく生き生きとしていて、演奏終了後の会場全体がざわつくあのとてつもないブラボーコールの
大声援は、洛南の演奏の素晴らしさを物語っているように感じられます。
洛南の冒頭の金管ファンファーレの激しさと高揚感は圧巻でしたし、それに続くカリヨンの響きがとても壮麗でしたし、
ラストの自然な盛り上がりも圧巻の仕上がりだと思います。
この曲は、吹奏楽版では「交響的三章」・「よろこびの翼」・「オーストラリア民謡変奏組曲」でお馴染みのカーナウが
アレンジしていますけど、 吹奏楽オリジナル作品を主に活動対象にされている方がこうやって
管弦楽作品をアレンジしているのも何か興味深いものがあります。
ちなみにカーナウは、ホルストの組曲「惑星」~天王星も吹奏楽に編曲されていました。

リバティー・ファンファーレの吹奏楽版としてはこの洛南高校を超越する演奏は今後も多分不世出だと思うのですけど、
それ以外としては中澤忠雄先生指揮の野庭高校の定期演奏を収録したCDにこの曲も含まれていましたけど、
確かに見事な演奏ではあるものの、少し洗練され過ぎて自発性と高揚感に欠ける演奏であったのはかなり勿体無いな・・と
感じたものでした。

あの年の洛南高校のリバティーファンファーレの演奏は、ハリソンの夢・アメリカの騎士・ダンスフォラトゥーラと
同じくらい宮本先生のアクの強さが漲り渡り、「宮本先生=洛南高校」というとてつもなく強烈なサウンドが
確立された瞬間じゃないのかな・・・とも感じさせてくれました!
ああいう演奏が出来てしまう演奏団体は、今現在の吹奏楽コンクールの高校の部では皆無と言えるのかも
しれないですね・・
あの「宮本先生=洛南高校」という組合せは、「吉永陽一先生=兵庫高校」に匹敵するとてつもなく個性的なものだったと
感じていますし、個性がギラギラ漲っているみたいな言い方がこれほどしっくりくるチームは少ないとすら思えます。

宮本先生も既に彼岸の彼方に旅立たれていますけど、宮本先生の個性とアクが漲るあの名演の数々は間違いなく
私たちの胸の中に受け継がれていくものと思います!
昨日のセカンド記事がショスタコーヴィッチの交響曲第7番「レニングラード」で、8/8の当ブログでは、
同じくショスタコーヴィッチの交響曲第9番にも触れさせて頂きましたので、ここは10番にも触れない訳には
いかないのかもしれないです。

ショスタコーヴィッチの交響曲第10番は、正直長いし陰気だし重たいし、決して人をハッピーにさせる曲では間違っても
無いと思いますし、とにかく閉塞感が漂う曲です。

私はこのD.ショスタコーヴィッチ/交響曲第10番は昔から意外と大好きであったりもします。
ショスタコーヴィッチの交響曲はあのあまりにも有名な第5番すらも録音も演奏もしていないカラヤンは、なぜかこの10番のみ
ショスタコーヴィッチの交響曲としては唯一音源を残していますけど、カラヤン指揮の演奏よりは、
私としてはスヴェトラーノフ指揮の演奏が大好きで、この音源はいまだにレコード盤として所有していたりもします。

ショスタコーヴィッチは、第二次世界大戦終結後に作曲された交響曲第9番が、世間の空気や
当時のソ連の指導者スターリンが求めた「第二次世界大変に勝利した歓喜の交響曲を作るべき」という期待を見事に
裏切り、比較的軽いノリのシンフォニーを作ったために、スターリンやソ連の音楽官僚達の逆鱗に触れてしまい、
結果的にジダーノフ批判という大バッシングを受けてしまいます。
私自身は、この交響曲第9番は、大好きな曲です。全体を通して、おもちゃ箱をひっくり返した
ような聴き所満載の曲です。特にファゴットの悲壮なソロから一転して、「なーーんちゃって」
とアッカンベーするような第五楽章への転換部分は本当に面白くてたまらないです。
その結果なのかどうかは分かりませんが、ショスタコーヴィッチ自身は、1953年にスターリンが死亡するまで
約8年間、交響曲作曲の筆を一時断筆し、スターリンが死亡したと同時に、この謎めいた交響曲第10番を
発表するのです。
スターリン逝去の発表前にはインタビューで「次の私の仕事は歌曲である」と明言していたにも関わらず、
スターリン逝去の方と同時に短期間で一気にこの長ったらしい交響曲を完成させたことに対しては、当時から色々と
憶測は飛んでいたものですし、ショスタコーヴィッチの長年のスターリンに対する恨みつらみが、一気に爆発したと
言えるのかもしれないです。
(ちなみに、スターリンが亡くなった日と全く同日にプロコフィエフも逝去しています。これは結構すごい偶然かもしれないです)

D.ショスタコーヴィッチ/交響曲第10番は明らかにバランスが悪いです。

重苦しくて陰鬱な第一楽章が長過ぎるからそう感じるのかもしれません。
各楽章の時間的構成として、第一楽章約23分 第二楽章5分 第三楽章18分 第四楽章10分となっていて、
第一楽章と第二楽章の時間的配分のアンバランスさは初演当時から何かと批判はされていたようです。
第一楽章だけを聴いてしまうと、とにかく何の救いも見えてこないし、生きている事自体が本当に嫌になってしまいそうな
重苦しい楽章です。
そして、第一楽章とは対照的に明らかに短すぎる第二楽章が極めて印象的です。
作曲者自身の言葉では、この第二楽章は「スターリンの肖像」と記されていますが、
暴力的で粗暴な曲の雰囲気は、確かにそうなのかもしれません。
そして、第三楽章は、一番謎めいていますし、何となく脱力めいた部分もあります。
曲が盛り上がってくると、ホルンのファンファーレみたいなメロディーの断片がそれを遮るという感じがします。
専門的な話になってしまうのでここではあまり深く掘り下げませんが、
そのメロディーラインの遮りこそが、実は「DSCH音型」という大変やっかいなものなのです。
ショスタコーヴィッチ自身のドイツ式の綴りのイニシャルから取った「DSCH音型」という四つの音型パターンが
この交響曲の至る所で登場し「DSCH音型」が登場しない第二楽章は、スターリンの独断場を示唆し、
その音型が頻繁に登場してくる第三・第四楽章においては、
「スターリンが死んでやっと自分は解放された・・これからは・・・スターリンの目を気にする事なく
自分が作りたい曲を作曲したいし、もう誰にも文句は言わせない。
自分が作曲したい音楽を誰からも指示されずに自由に作曲したい」といったメッセージを提示しているようにも感じられます。
第三楽章の中で、かなり乱暴で粗野な強奏の部分が登場し、「とてつもなく盛り上がってきた」と聴衆に思わせておいて
次の瞬間に前述のDSCH音型がその流れを断ち切り、それが何度か繰り返されると
聴いている方としても「またかよ・・」みたいな妙な脱力感を感じてしまいますし、
唐突に背後の人間から膝かっくんを食らった様な感覚にすらなってしまいます。

ショスタコーヴィッチが作曲した曲の中で、最大の自分の敵=スターリンとショスタコーヴィッチ本人が自作作品の中に
登場するとは、ショスタコーヴィッチの自己顕示欲は意外と強かったのかもしれませんし、
同時に、時の権力者=スターリンが生きている間は、粛清・政治犯の収容所送りが怖いから何も言えず
ただ時の経過をひたすら待ち、そしてスターリンが死んでしまったら、これまでの鬱憤を晴らすように、
交響曲の中に、スターリンは登場させて自分自身も登場させる等とやりたい放題が出来るようになり、
当時の権力者の死によって、ようやく一つの自由を得たと言えるのかもしれないです。
自作作品に作曲者本人が登場する曲の一つとしてR.シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」がありますけど、
シュトラウスの場合は英雄という抽象的概念にたまたま自作を重ね合わせたという印象があるに対して、
ショスタコーヴィッチのDSCH音型の自作作品への乱入というのは、過剰な自意識というよりは、
「自分は決して御用作曲家ではないし、自分の内面と信念に従った作品を残したいし、時の権力者すらにも時に抵抗した
自分と言う存在は決して忘れないでほしい」というメッセージのようにも聴こえたりもします。

交響曲第10番は第四楽章が私としては一番興味深いです。

冒頭はとにかく哀しい雰囲気から開始され、オーボエの哀しさ溢れるソロの雰囲気は、クラリネット・フルート・ファゴットに
受け継がれていき、 不安・寂寥感・孤独・哀愁みたいな雰囲気が序盤は濃厚です。
クラリネットのソロ以降のアレグロの展開部では、幸福感すらも感じさせる曲の雰囲気になってしまいます。
それにしてもこの楽章のラスト10小節前辺りのティンパニのソロは格好いいと思いますし、あのソロをかっちりと決める事が
出来れば、ティンパニ奏者冥利に尽きると思います。
確かに第四楽章全体の雰囲気は明るいのですけど、交響曲第10番全体をトータルで捉えてみても
第四楽章の中盤~後半以降の明るさだけでは交響曲第10番全体の陰鬱さ・暗さを解決するものではないようにも感じます。
やはり第一楽章の重苦しさが曲全体のイメージを支配している傾向が大変強く、 そこに第三楽章の陰気さと脱力感も加わり、
第四楽章後半のアレグロだけでは、何の解決にもならないという印象は残ってしまいます。

結局、この交響曲第10番でショスタコーヴィッチは何を伝えたかったのでしょうか・・?

本来「人間の死」というものは、哀しく荘厳なものであるものなのかもしれないです。
ショスタコーヴィッチの祖国(旧、ソ連)では、時の指導者スターリンが死亡しない限り国民全体の開放感や幸福は訪れないと
いった矛盾を皮肉を込めて作曲したのかもしれません。

ショスタコーヴイッチ自身も、交響曲のジャンル一つとっても、様々な矛盾を内在しています。
例えば、交響曲第11番「1905年」とか交響曲第12番「1917年」は、
明らかに時の音楽官僚等に対するごますり・ご機嫌取りみたいな御用作曲家みたいな側面を見せながらも、12番以降以降の
交響曲第13番「バービィ・ヤール」などのように反体制家と評されても仕方がない曲も残している事を考えると、
人間と言うものは時に内在した矛盾を抱え込ん生きざるを得ないという事を示唆しているのかもしれないです。
ショスタコーヴィッチ自身もその時の心情によって自身の考えも色々と変容し、
ある時は「スターリンを満足させたり、国家を発揚させる曲を書いてみよう。自分も国家の一員として国に貢献したい」という
気持ちもあったかもしれませんし、逆に「スターリンのタコ!! パーカ!!! 少しは自分にも自由に作曲できる場を与えて欲しい。
おまえなんかくたばっちまえ!」という気持ちも大いにあったのかもしれないです。
ショスタコーヴィッチの一場面での発言のみを殊更大げさに強調し、
「だからショスタコーヴィッチは所詮はソ連の御用作曲家に過ぎない」とか
「ショスタコーヴィッチは時の権力者に迎合しながらも内面においては反骨精神や反発心を隠してはいなかった」と
決めつけるのは決して宜しくは無いと思いますし、時に権力者の手先として、時に権力者に抵抗勢力として
振り子のように右に左に不安定に動いていた・・否、顔色を見ながら動かざるを得なかったという事なのかもしれないです。
そしてショスタコーヴィッチの生涯の足かせ・重しとなっていた当時の指導者・スターリンの死によって、ショスタコーヴィッチ自身
の心の足枷が一気に取れてしまい、これまでの抑圧の反動として
「スターリンに対する私自身の心情の推移」というものを交響曲としてまとめあげたのが交響曲第10番と言えるのかも
しれないです。

この交響曲第10番は、「雪解け」という小説にも登場するそうです。
この曲をラジオで聴いた小説の主人公が、「数字だ、無限の数字だ」とつぶやくシーンがあるそうですが、
それはさすがにちょっと違うのかも・・と感じてしまいます。
日本でのこの交響曲の初演は上田仁指揮の東京交響楽団なのですけど、実は元々初演予定はN響だったそうです。
ところが本番直前になってN響の客演指揮者が交響曲第10番の演奏を拒絶し、代わりにプロコフィエフの交響曲第5番を
演奏したのですが、その演奏が理由や意図は不明ですけどカットだらけの演奏で、これは当時の聴衆・評論家からも
大ブーイングだったそうです。

この話は最近も書いているのですけど(汗)
私がショスタコーヴイッチの曲を聴いたのは、実はあのあまりにも有名な交響曲第5番「革命」ではなくて
交響曲第10番というのも、いかにも私らしい話なのかもしれないです。
しかも、それは管弦楽としてではなくて吹奏楽アレンジ版という変化球として聴いています。

それが何かと言うと、1981年の山形県で開催された全日本吹奏楽コンクール・東北大会の
高校B部門の秋田西高校の素晴らしい演奏だったのです。
わずか35人の編成とは思えない重厚感漂う演奏であり、特に後半のアレグロのスピード感溢れる展開は
小編成の限界を超越した演奏だとも思えます。
BJの演奏評では「孤独・不安・寂しさの雰囲気はうまく出せていたけど、ソロがプレッシャーのため緊張感を持続
出来なかったのは惜しい。アレグロも素晴らしかったが、もう少し重厚感が欲しい、どちらかというと祝典序曲みたいな
キャラクターの演奏になってしまった」と記されていましたけど、
うーーん、ちょっと違うのかも・・・?
私の印象では、ソロの雰囲気も寂寥感と不安を見事にキープしていたと思いますし、アレグロ以降の展開も
悲壮感と明るさが混在した洒落っ気と重さを両立した素晴らしい演奏だったと感じたものでした。
当時、秋田西高校を指導されていた佐藤滋先生は、後年に母校のあの吹奏楽の超名門・秋田南に赴任されましたけど、
高橋紘一先生という存在は大きかったみたいで、結果的に秋田西高の時のような名演を残せないまま
秋田南を静かに去られていたのは少し気の毒みたいな感じもありました。

考えてみると、この秋田西高校の演奏をきっかけに、
「ショスタコーヴィッチという作曲家はどんな背景があり、他にどんな曲を作曲したのだろう・・?」
「何か交響曲第5番がやたら有名みたいだけど、どんな曲なのかな・・」
「丁度スターリン体制化のソ連時代と生涯が被っているけど、どんな背景がこの曲にあったのかな・・」などと
ショスタコ―ヴィッチについていろいろ興味を持つようになり、
私がショスタコ―ヴィッチを聴くようになった大きなきっかけを作ってくれたようにも思えてなりません。

その意味では、この秋田西高校の演奏と指揮者の佐藤滋先生には、「感謝」の言葉しかないです
本当にありがとうございました。
佐藤滋先生が普門館で指揮された1987年の秋田南高校の風紋と交響詩「ローマの噴水」は、それまでの秋田南の
硬さ・陰鬱さを打破したそれまでにないカラーを追及した演奏のようにも感じますし、
私個人はあの演奏を生で聴いていてもあのカラッとした演奏はすてきだと思いましたし、結果的にこの年の銅賞は
かなりの激辛評価といえそうです。

ちなみにですけど、全日本吹奏楽コンクールの全国大会では2018年時点でまだ一度も自由曲として、
ショスタコーヴィッチの交響曲第10番が演奏された事はないのですけど、勿来工業・磐城高校・湯本高校等を指揮して何度も
全国大会で素晴らしい名演を残されている藤林二三夫先生は、平商業を指導されていた2016年に
D.ショスタコーヴィッチ/交響曲第10番~第四楽章を自由曲として選びながらも、残念ながら東北大会ダメ金で終わって
全国大会でこの曲をお披露目できなかったことは大変惜しい・・と感じたものでした。

最後に、改めてこのショスタコーヴィッチの交響曲第10番ですけど、恨みつらみも含めて、
副題に「スターリンと私」 みたいな感じが似合いそうな曲だと思います。
この曲は前述の通り、何度聴いても圧倒的にバランスが悪いと感じざるを得ないですね。
悲劇的な感じの第一・第三楽章、に対して第四楽章は、前半がそれまでの悲劇的雰囲気を継承し、
幾分幸福感が見えてくるのは、中盤以降のアレグロ展開のみですし、
暗い感じが圧倒的に長くて「救い」的な部分があまりにも短か過ぎますし、
第四楽章の後半のアレグロがショスタコーヴィッチの「祝典序曲」のあの健康的な明るさすらも感じてしまうのですけど
そこに至る経緯がとてつもなく唐突という印象がある事が
やはりこの交響曲自体を何か「とっつきにくいもの」にさせているのかもしれないです。
例えば、交響曲第8番・交響曲第10番・チェロ協奏曲第2番・ヴァイオリン協奏曲第1番などのような
ショスタコーヴィッチの曲の中でも重苦しい曲を聴いた後で
「祝典序曲」・ジャズ組曲とかバレエ音楽「ボルト」や、編曲作品ですけど「二人でお茶を」みたいな
軽妙な曲を聴いてしまうと、「本当に交響曲第10番を書いた方と祝典序曲を書いた人は同一人物なのか!?」と
心の底から感じてしまうものです。
人間の心の多様性や人は決して一つの感情だけで動くものではないという事を示唆していると感じられます。

ショスタコーヴィイッチのこうした明るく軽い曲と深刻で悲劇的な曲を書けてしまう「二面性」は
高校の頃には、既に何となく気が付いていました。
この事を吹奏楽部の同期で同じくクラリネットを吹いているメンバーに聞いてみると、
「それは中島みゆきも同じだよね~
あんなジメジメと陰々滅々とした曲を書いてしまう人か、オールナイトニッポンのDJではあんなに弾け飛んでしまうからね」と
いかにも中島みゆきファンらしいコメントを発していたのが、何か今でもとても印象に残っていますし、
意外とショスタコーヴィイッチの本質を突いているのかもしれないですね・・・
ショスタコーヴイッチの交響曲は、何と言っても圧倒的に交響曲第5番が有名ですし、
この交響曲第5番の人気&演奏頻度&録音頻度は突出していると思います。
ショスタコーヴィッチの交響曲で五番(革命)の次に有名で演奏頻度やCD録音が多いのは交響曲第7番「レニングラード」
なのかもしれないです。
交響曲第5番はどちらかというとオーソドックな内容で、解釈によっては苦悩→歓喜という内面的側面を描いた曲とも
言えそうですけど、
交響曲第7番の方は、どちらかというと外面的効果の方が強いような印象もあったりしますし、
分かり易さとか演出効果という観点では、7番の方が際立っているような感じもあったりします。
ちなみにですけど、私自身がショスタコーヴィッチの交響曲で5・7番以外で大好きな交響曲と言うと、
演奏時間が25分と短いのですけど、まるでおもちゃ箱をひっくり返したかのような可愛らしさと楽しさと毒に
溢れている9番とか、ショスタコーヴィッチの当時のソ連を牛耳っていたスターリンに対する恨みつらみを
辛辣に表現したとも言えますし、同時に「人間の死は本来悲しいものなのに、スターリンという人物が死なない限り
ソ連の人民に幸せはやってこない・・」という矛盾を見事に表現した交響曲第10番も素晴らしいものがあると
思っています。
それとショスタコーヴィッチがわずか19歳の時に作曲した交響曲第1番の純音楽として純粋に音楽と音の響きを
作曲者自身が自由に追求した作品も素晴らしいと感じます。

ショスタコーヴィッチが残した15の交響曲の中から一つだけ選びなさいと言われれば、
私が迷うことなく選ぶのは交響曲第7番「レニングラード」なのだと思います。

交響曲第7番「レニングラード」を少し歴史的に見てみると・・・

この交響曲は第二次世界大戦という戦時中の大変緊迫した局面で生み出された曲なのです。

第二次世界大戦中、序盤の段階で優勢に戦局を進めていたヒットラー率いるナチス軍は
ソ連への侵攻をも決定し、序盤はかなりの成果を収め、あとわずかでレニングラード陥落という所まで
ソ連軍を追い詰め、レニングラードというソ連の第二の首都と言うべき街を完全包囲してしまいます。
「レニングラード」は、ドイツにとってもソ連にとっても防衛上・経済上の大事な拠点であり、
ナチス・ドイツにとっては、「このレニングラードを占領できれば、ソ連崩壊は時間の問題」という認識であったと思われますし、
ソ連にとっても「レニングラード攻防戦は、ソ連の生命線」という事で、
両軍の歴史に残る熾烈な激戦が繰り広げられていったのでした。
そして戦闘開始早々にナチスドイツ軍は、レニングラードを包囲し、ソ連軍を追い詰めていったのでした。

ナポレオンのロシア侵攻と同様に、ナチス・ドイツ軍はロシアの冬将軍と言うべき寒気とも戦わなくてはいけなかったのです。
そして、ドイツ本国からの援軍も乏しい中で、結局はナチスドイツ軍の降伏という結果になったのでした。
そしてこのドイツ軍のレニングラード包囲失敗と降伏は、第二次世界大戦全体の転記ともなり、この後はドイツ軍は
坂道を転げ落ちるように敗北を繰り返し、無条件降伏という完全敗北という結果で第二次世界大戦はようやく終焉を
迎える事になります。

当時、ショスタコーヴイッチは、このレニングラードにて音楽院の教授をしており、
激戦のレニングラードにて、そしてナチスドイツ軍によるレニングラード完全包囲の中で、
交響曲第7番「レニングラード」を作曲していたという事になるのです。
ちなみに、それは本当に歴史的事実でして、ショスタコーヴイッチ自身、戦火の際に消防士の格好をして
この第二の首都を防衛している写真も残されています。

交響曲第7番「レニングラード」のある意味異様とも思える高揚感というのは、
作曲者本人が直接、戦争に関わっていたからという事に他ならないと思います。
こういう緊張感の漂う異常な迫力のある音楽というのは、恐らくは戦火の最中で無いと書けないような気もします。
同じようなケースとして、
ハチャトゥーリアン/交響曲第2番「鐘」とかプロコフィエフの交響曲第5番にも言えるのかもしれないです。
こうした曲は「戦争」という一種の極限状態でないと書けないような雰囲気は間違いなくあると思います。

それにしてもこの交響曲第7番「レニングラード」の演奏時間はとてつもなく長いです。

全四楽章構成ですけど、演奏時間は軽く75分を超えます。
第一楽章だけで27分程度を要します。
この交響曲を私自身が生の演奏会で聴いたのは平成に入って以降でして確か1990年の
東京文化会館で開催された都響の定期演奏会だったと思います。
(指揮は井上道義でした)

この交響曲を生で聴いてみると、CDでは分からないような事も色々と分かり大変面白かったです。
実は第二楽章以外の全ての楽章で、バンダ(別働隊)が加わるという事も生の演奏会を聴いて初めてわかりました。
このバンダは、特に第四楽章で効果的に使用されていたと思います。
また、CDで聴く限りでは、この交響曲で使用される「小太鼓」(スネアドラム)は一台だと思っていたら、
なんと3台も使用していたのですね!
原曲のスコア上の指定は小太鼓は2台ですけど、その後何回かこの交響曲の生演奏会を
訊いた感じでは、2人の場合もありましたし、3人の場合もありました。

交響曲第7番「レニングラード」の最大の特徴というか聴きどころは何と言っても第一楽章だと思います。

冒頭は、幾分快活に始まっていくのですけどすぐに悲痛な感じが随所に表れてきます。
何となくイメージとしては、「祖国のために戦ってこよう!」と勇ましく戦場に出かけた兵士が、戦争という実際に
流血と死が向かい合わせの場所と直面し、
「本当にこれでよかったのか・・・、自分の選択は間違っていなかったのか?」などと思い悩むようにも感じられます。
それはベトナム戦争を背景にした映画「プラトーン」の主人公と同じような感覚なのかもしれないです。
曲が開始され、6分が経過した辺りから、突如、小太鼓が一定のリズムを延々と叩き始め、その小太鼓のリズムに乗っかる形で
様々な楽器がメロディーを担当し第一楽章を展開していきます。

第一楽章は、ある意味において、ラヴェルの「ボレロ」を参考にしているようにも感じられます。
小太鼓が終始一定のリズムを叩く中で、オーボエ・ファゴット・フルート・クラリネット等の管楽器のソロを
交えながら徐々に高潮していくスタイルを取っていて、
ボレロをパクったというよりはボレロのコロンブスの卵的なアィディアを新しい感覚で応用したとも言えるのだと思います。
オーボエとファゴットの掛け合いの部分が私的には大変気に入っています。
ボレロの場合、優雅に静かにゆったりと徐々に徐々に盛り上がっていくのですけど、
レニングラードの場合、かなり早い段階から金管セクションが咆哮し、小太鼓もいつの間にか2台目、3台目と加わっていき、
テンポもどんどんヒートアップしていき、最後は破綻するかのように全音で爆発していき、ボレロの部分は終焉を迎えます。
ラストは、小太鼓のボレロのような繰り返しのリズムが弱奏で刻まれる中、
ミュートを付けたトランペットの幾分寂しそうな感じというのか、
「まだまだ戦争は続いている」といった暗示のような感じで静かに閉じられるというのが
ショスタコーヴィッチとしてのリアルティー表現と言えるのかもしれないですね。
ラヴェルのボレロは、最後の最後で、それまで保っていた形式美を崩壊させるといったラヴェルの悪趣味を感じさせてくれます。
ショスタコーヴィッチの場合はそうした悪趣味というよりは、戦時中でないと書けないみたいなリアルティーの方が強いと
感じられます。

小太鼓がある一定のリズムを刻み、これに管楽器・弦楽器が絡んでいき盛り上がっていくというボレロの手法を用いた曲として、
交響曲第7番「レニングラード」~第一楽章以外の楽曲にも吹奏楽オリジナル作品や管弦楽曲でも珠に見られる事もあります。
少しばかり一例を挙げてみると・・

〇橋本國彦/交響曲第1番第二楽章

〇アーノルド/組曲「第六の幸福をもたらす宿」~Ⅲ.ハッピーエンディング

〇兼田敏/ シンフォニックバンドのための交響的音頭

〇ヨハン・デ・メイ / 交響曲第1番「指輪物語」~Ⅴ.ホビットたち

などか挙げられるのかもしれないです。

この交響曲は第一楽章だけで既にお腹一杯・・という感じもあったりします。

第二楽章と第三楽章は、比較的静かな感じの音楽です。
第二楽章のもの哀しいオーボエのソロが印象的なのですけど、
唐突に小太鼓やら金管セクションが乱入し、突如曲は激しく高揚します。
瞬間的に「平和」が来たけどまだまだ戦火は続いているといった現実の空気の重さを反映しているようにも聴こえます。
第三楽章は、とにかく清らかで美しいと思います。
「この美しい国土を穢す事は許されない」といった悲壮感も漲っていると思います。
そして第三楽章から休みを挟むことなく第四楽章に繋がっていき、
最後は、高らかに讃歌が歌い上げられていき感動的に曲は閉じられていきます。

だけど、この交響曲は、決して勝利を祝う曲ではないなと感じます。

勿論、ドイツ軍によるレニングラード包囲網を撃破したという事実はあるにせよ、
戦争はまだまだ続いているという感じが漂いますし、第一楽章もそうなのですけど、第四楽章を聴いてしまうと、
何となくですけど、「助けて! 、この閉塞的な状況から自分達を開放して!!」といったようなSOSのサインというのか
内面の叫びのようなものを感じ取ってしまいます。

「ショスタコーヴイッチの証言」と言う口述形式の自伝を読んでみると、
「このレニングラード交響曲とは、スターリンが破壊し、ヒットラーがとどめの一撃を加えたレニングラードの悲劇」と
言っていますけど、それとはまた違うような感じがあったりもします。
(あの「証言」という本自体、偽作・創作という評価しいまだに拭い去られていません)

どうして人間と言うものは、いつまでたってもこんな愚かな行為を繰り返しているのだ・・
少しは過去の歴史から学習しなさいといった教訓的メッセージも感じとりますし、
確かにこの戦争には勝利を収めたものの、それがいったいどうしたというのだ・・この戦争で失ったものはあまりにも大きい・・
そうした心の空虚感をどうすればよいのだ・・という内面の叫びというのか、
当時のソ連の国民の心の本音を交響曲に託したと言えるのかもしれないです。
スターリン時代のソ連には「戦争に勝つには勝ったけど、その代償はあまりにも大きいし心に埋める事が出来ない喪失感を
もたらしてしまった・・」という国民の本音は口する事が出来なかったし、それをうっかりポロッ・・といった事が
密告によってばれてしまうと強制収容所送りになってしまう危険性もあったとは思うのですけど、
そうしたソ連全体に流れていた閉塞感を、交響曲第7番「レニングラード」はまだ戦時中の作品なのですけど、
もしかしたらそうした戦後の閉塞感を既に予感してショスタコーヴィッチは作曲の筆を勧めていたのかもしれないです。
第一楽章のボレロの部分の迫力と第四楽章の圧倒的讃歌による大音響とか外面的効果を追求した作品という評価が
言われがちでもあるのですけど、実際はむしろ内省的な交響曲と言った方が宜しいのかもしれないです。

この交響曲第7番「レニングラード」を通してショスタコーヴィッチが後世に伝えたかったこととしては、
「侵略してきたヒットラーも悪いのだけど、スターリンだって、レニングラード攻防戦等全体の指導力とカリスマ的采配は
一定の評価をすべきなのかもしけないけど、この戦争開始以前にスターリンがソ連国内で行ってきた粛清の
悲惨さはあまりにも凄惨過ぎて言葉すらも出てこない。
戦争が起こった事で、スターリンの怒りの矛先がヒットラー=ドイツ軍に向けられ、国内の粛清は
収縮の傾向があり、その意味においては皮肉の話だが、戦争がソ連国内においてはある意味救いみたいな
側面もあったのかもしれない。
その意味において、ヒットラーも犯罪者だがスターリンだって決して英雄ではないし、むしろヒットラーと大して変わりが
ない犯罪者なのだ!」という事を言いたかったのかもしれないです。

音楽之友社から出版されている「名曲解説全集」において、このレニングラードの解説を担当されていた戸田邦雄氏は、
「外面的音楽効果に頼り切っていて大音響の表面的効果にばかり依存している」みたいな事を
書かれていたと思うのですけど、
私としては「それは違うでしょ・・」と感じざるを得ないです。
この交響曲は、決して大音響・ボレロ形式の借用・バンダといった表面的効果だけを意図した曲ではないと思います。
上記でグタグタと書いた通り、
内省的な側面とか作曲者の意図・裏読みが窺えしれる曲であり、決して単純明快でわかりやすい祝典的な
戦勝気分の曲では無いという事なのだと思います。

この曲をCDで聴く場合、
前述のSOSサインみたいな感覚を求めたいのならば、ゲルギエフ指揮が合っていると思いますし、
勧善懲悪の如く「ヒットラー軍を撃破した!」みたいな感覚を求めたいのならば
バーンスタイン指揮やネーメ・ヤルヴィ指揮をお勧めしたいと思います。
日本組曲と題する作品は、伊福部昭の楽曲や貴志康一の組曲、はたまた近衛秀麿の組曲があったりしますけど
(私自身、1997年に小松一彦指揮、サンクトペテルブルク交響楽団の日本公演で貴志康一の日本組曲を初めて聴き、
戦前作品とは到底思えない斬新さにびっくり仰天したものでしたし、最後の楽章が「戦死」というのもいかにも当時の世相を
反映したものだと感じたものでした・・)
実は組曲「惑星」でお馴染みのイギリスの作曲家で、吹奏楽経験者の皆様にとっては「吹奏楽のための第一組曲」という
まさに吹奏楽のバイブル的作品で馴染み深いG.ホルストにも「日本組曲」という作品があったりもします。

ホルストが日本組曲という曲を作曲しているという事を御存じの日本人はかなり少ないと思いますし、そうした話を展開すると
「それではホルストは実は大の日本びいきとか日本に造詣が深い作曲家なのか・・?」と誤解をされる方も多いと思われますが、
ホルスト自身は日本や日本の楽曲の事は全く知らなくて、
20世紀初めの頃に欧米で活躍した日本人舞踏家の草分け、伊藤道郎の依頼によりバレエ音楽として作曲された経緯が
あるとの事です。
但し伊藤さん自体はホルストの日本組曲をベースにしたバレエを上演した事は実は一度も無いとの事です。
もう少し詳しく書きますと、当時ロンドンコリージアム劇場で活躍していた日本人舞踏家の伊藤道郎から、
日本の旋律を使った作品を書いてほしいと頼まれて、どちらかというと渋々作曲の依頼に応じたとの事です。
ホルストが「自分は日本の事も日本の民謡等もなんにも知らないし今まで聴いた事も無い」と言っていたので。
伊藤道郎自身が日本の旋律のいくつかを口笛で吹き、それをホルストが楽譜として採譜し、そのレクチャーを元に
作曲が進められていった経緯があるそうです。

そしてこの日本組曲を語る上での意外な事実というと、ホルストの残した作品の中で最も人気と知名度が高く、
現在でもCDのリリースと演奏会での演奏実績が大変多く、20世紀最大のヒットクラシック音楽としても名声の高い
組曲「惑星」とほぼ同じ時期に作曲が進められています。
組曲「惑星」の作品番号は作品32ですけど、日本組曲は作品33です。
組曲「惑星」作品32は、1914年に火星の作曲が始まり、この年に金星と木星が完成し、翌年の1915年に
土星、天王星、海王星が作曲され、最後に水星が作曲されこの組曲は完成します。
そして日本組曲は1915年に突然作曲を始め、日本組曲を作曲している頃に一旦組曲「惑星」の作曲の筆は事実上中断され、
日本組曲が完成した後に再度惑星の作曲へと戻っているそうです。
日本組曲の第三曲の「操り人形の踊り」は、「惑星」の第3曲・水星作曲の直前に作曲された経緯があるため、
惑星の水星と日本組曲の操り人形の踊りは雰囲気と曲の性格がよく似ていると言われるのは、こうして考えてみると
「作曲時期がほぼ同じだから似ているのも当然なのかもしれないね~」と言われるのはごく当然なのかもしれないです。
そして更に細かい事を言うと、
日本組曲の操り人形の踊りは、ホルストが日本の「文楽」をモチーフに描いた曲であるとも言われているそうでして。
「惑星」の水星、の中でも使われていると言うクロスリズム法という作曲テクニックが両曲においてかなりの共通性が
見られるというのも大変興味深いものもあったりします。

ちなみに日本組曲は1916年にホルスト自身の指揮でロンドンで初演を果たしています。

この日本組曲は、6つのパートに別れている舞踏曲でもあり、組曲「惑星」の様にはっきりと曲が別れている楽章形式ではなくて
6つの部分は休む間もなく続けて演奏されるように指示されていて、演奏時間は10分程度です。

日本組曲は4つの短い舞踏と前奏曲・間奏曲の付いた6曲から構成されています。


1.前奏曲 - 漁師の歌
2.儀式の踊り
3.操り人形の踊り
4.間奏曲 - 漁師の歌
5.桜の木の下での踊り
6.終曲 - 狼たちの踊り

日本組曲は、日本の民謡・童謡等を特に変調・変奏することもなく「ぼうやー、よいこーだーねんねーしーなー」などと
そっくりそのまんま引用している箇所がかなり多く、「そのまんまやねん・・!」と思わず関西弁でツッコみを入れたくもなって
しまいそうです。
「お江戸日本橋」とか「ぼうや、良い子だ、ねんねしな」というあの親しみやすいメロディーが
特に変奏とかされる訳でもなく、そのまんま使用されることは驚きでもあったりします。
全体としては決して明るい曲ではなくて、少し陰鬱な雰囲気も感じたりもします。
この日本組曲は異国情緒漂う曲と言うのは決して間違いではないと思うのですけど、例えば同じ異国情緒というテーマを
扱いながらも例えばラヴェルの「スペイン狂詩曲」などは、自分のスペインに対する想いをフランス人の感覚から
自己流に昇華したともいえそうなのに対して、ホルストの日本組曲は、そうした異国情緒を特に自分の気持ちに
照らし合わせるという事もなくて、レクチャーされた日本旋律をそっくりそのまんま使用している点がラヴェルとの大きな違いと
言えるのかもしれないです。
第5曲「桜の木の下での踊り」は、「五木の子守歌」の旋律がフルートによって示されそれがファゴットに引き継がれ、
こうした日本的抒情的な旋律が更にコールアングレに引き継がれ、さらには弦楽器に、
最後はフルートとコールアングレが奏し第6曲に継承される展開を経るのですけど、
この第5曲が最も日本らしい情緒がストレートに伝わっていると思います。

この知る人ぞ知る珍曲でもある「日本組曲」は昔はボールド指揮ぐらいしか音源がなかったのですけど、最近では
ポニーキャニオンからユウン指揮の演奏やナクソス盤もありますので、興味ある方は是非ぜひ一度聞いて頂ければ
幸いです。

最後に・・久しぶりにホルストの話題がでましたので、組曲「惑星」についてほんの少しだけ触れたいと思います、

組曲「惑星」は明るく開放的でイメージが非常にしやすい曲で私も大好きな曲です。
特に第Ⅰ曲「火星」のホルンの雄叫びをはじめとする金管楽器群の咆哮はいつ聴いてもスカッとさせられるものがあります。
何か落ち込んでいる時とか気分を奮い立たせたい時には、この「火星」はぴったりだと思います。
特にレヴァイン指揮/シカゴ響の演奏の「火星」を聴いてしまうと、
他の演奏が全て物足りなく聴こえてしまうほどの大音響&大迫力があって、この演奏は是非是非
お勧めしたいと思います。









「火星」の中で、ユーフォニウムと言う管弦楽の世界では馴染みがない楽器が使用され高音域のソロを朗々と響かせます。
このユーフォニアムという楽器はアニメ「響け! ユーフォニアム」ですっかりおなじみになった楽器でもありますし、
以前よりは知名度も上がったようにも感じられます。
組曲「惑星」のラストの「海王星」は一転して神秘の曲です。
というか、メロディーがほとんどなく、空間を彷徨い続けるような感じで、無調音楽のように聴こえない事もないです。
ラスト近くで女声コーラスが入りますが、言葉は一切なくハミングするだけです。
この女声コーラスも「フェイドアウト」というクラシックでは非常に珍しい終わらせ方をするので
その点でも印象的です。
実際の生の演奏会でも、女声コーラスは舞台に顔を出すことはなく、
恐らく舞台袖からハミングし、どんどん舞台袖→舞台裏→階段→外という風に声を消していっているように感じられます。

昔の音楽の解説書では、ホルストが惑星を作曲した頃は冥王星は発見されておらず海王星が終曲となったと
記されている事が多いのですが、
現実はつい最近、冥王星自体が惑星の定義から外されることとなり、名実ともに「海王星」が組曲「惑星」の終曲となった事は
何だか面白いものがあります。

そう言えば、1990年代後半に、「冥王星が惑星の一つと定義付けられていた時に
マシューズという作曲家が組曲「惑星」の続編という形で「冥王星」を作曲していた事もありました。
この曲は、海王星で使用した女声コーラスを再度用いている事と作風が海王星的な無調的空間を彷徨うな曲である事が
特徴で、ホルストの特徴もうまい具合に微妙によく出ているような気もして、悪くはないと思います。
1999年4月の大友直人指揮/東京交響楽団の定期演奏会で
組曲「惑星」の演奏が終了と同時にこのマシューズの「冥王星」も演奏され、
それほど違和感がなかった事はよく覚えています。
マシューズの「冥王星」のラストが女声コーラスの「オー」という音の引き延ばしで終わるのは大変印象的でもありました。



「ウルトラセブン」は、円谷プロダクション制作による空想特撮シリーズ第3弾にしてウルトラシリーズ第4作目なのですけど、
そのドラマ性・キャラクターの魅力・ストーリーとしての素晴らしさなど総合的に考えるとウルトラマンシリーズとしては
最高傑作であるという評価も十分成り立つようにも感じられます。
前作の「ウルトラマン」がどちらかというと自然現象としての怪獣が敵であるというパターンが多かった中、
ウルトラセブンの敵とは言うまでもなく明確な侵略の意図を持った宇宙人という事になるのですけど、
その宇宙人が地球を侵略するにもなにかしらの理由があめのではないかとか、ウルトラセブンが守るべきものとは
地球や地球人であるのですけど、果たして自分勝手な理屈ばかり並べる地球人そのものが本当に「守るべき対象」で
あるのかどうかも含めて結構シリアスな側面も含まれており、単純な勧善懲悪的側面だけの特撮ものではない事は、
ウルトラセブンの放映時期が1967~68年という時代を考慮するととにかく画期的な記念碑的な作品と言える事は
間違いないと思います。

ウルトラセブンで登場していた話と宇宙人として私的に印象的な回は何なのかというと、一例を挙げると
「狙われた街」のメトロン星人・「ウルトラ警備隊、西へ」(前・後)のキングジョー・「人間牧場」のブラコ星人・
「北へ還れ!」のカナン星人・ 「ノンマルトの使者」 の蛸怪獣ガイロスと海底人ノンマルト 、
「セブン暗殺計画(前・後)」の ガッツ星人 、 「第四惑星の悪夢」の ロボット長官、ロボット所長、第四惑星人などが
挙げられると思うのですけど、そうした中でも特に光り輝いているというのか感動的な回が
最終回の前後編における「史上最大の侵略者」なのだと思います。

最後の戦いに挑むモロボシ・ダンがアンヌ隊員に自らがウルトラセブンであることを告げる印象的なシーンのBGM
として効果的に使用されている楽曲がシューマンのピアノ協奏曲~第一楽章冒頭です。
ダンがアンヌ隊員にぼくは・・・、実はウルトラセブンだったんだ」と衝撃的に告白するシーンが終わると同時に
シューマンのピアノ協奏曲冒頭の「ジャン!! ダダン・ダダン!!」が鳴り響きますのでこれはかなりインパクトがあると思います。
ちなみにウルトラセブン最終回のシューマンのピアノ協奏曲で登場していたピアノのソリストは
ディヌ・リパッティという33歳で夭逝したそのあまりにも早すぎる死が惜しまれる若きピアニストでもありました。
リパッティは1917年ルーマニアに生まれ、1950年に、わずか33歳の若さで白血病(厳密には悪性リンパ腫のホジキンリンパ腫)
のためにこの世を去った天才型のピアニストなのですけど、亡くなる直前までほぼ気力だけで演奏会のステージに立ち続け、
特に得意としてきたショパンのレパートリーにおいて、生来のバランス感覚に基づいた清潔な叙情と繊細なデリカシーを
遺憾なく発揮されていて聴く者の胸を打つものは間違いなくあると思います。
第二次世界大戦の勃発により国を転々とします
リパッティはその短い生涯はほぼ全て戦争に振り回され、第二次世界大戦が終結しやっと落ち着いて
ピアノに専念できる時間が出来た時に、悪性リンパ腫のホジキンリンパ腫を患ってしまい、
激痛と高熱に戦いながら演奏活動とレコーディングをされていたとのことです。
リパッティのピアノの特筆すべき点として特に強調しておきたい点は、瑞々しい感性と
ペダルを極端に踏まないという奏法を重視し、音を伸ばすところはしっかり伸ばし切るところはしっかりと切るという
ピアノの本来の基本技術を素直に演奏に取り入れた点も挙げられると思います。

ウルトラセブンの最終回が放映されていたのは1968年で、そのBGMとして使用されていたリパッティソリストによる
シューマンのピアノ協奏曲がフィルハーモニア管弦楽団・カラヤン指揮で演奏・録音されたのは1948年ということで、
正直録音もアナログ録音に近いものがあり、決して良好な録音状態ではないですけど、当時のウルトラセブンのスタッフの
皆様のシューマンピアノ協奏曲を選曲し、そのソリストにリパッティの演奏を選択した感性の素晴らしさと見識の高さには
強く敬意を表させて頂きたいと思います。
ちなみに冒頭の画像は、2018年のウルトラセブン最終回放映から50年が経つという記念すべき節目に合わせて、
最終回のBGMとして流されていたリパッティソロによるシューマンのピアノ協奏曲とグリーグのピアノ協奏曲が
新規DSDリマスターでの復刻販売が実現され、そのCDジャケットでもあります。
このCDは限定販売で特別仕様としてのウルトラセブンとリパッティが描かれたジャケットと別冊40Pブックレットの特典も
当時は付属されていたとのことです。

シューマンの「ピアノ協奏曲」は私自身は結構昔から大好きな協奏曲でもあります。

聴いているだけで凛としたものというか張りつめた瑞々しさみたいなものを感じてしまいますし
第一楽章冒頭のあの何とも言えない哀愁と凛とした決意みたいなものは聴くだけでやはり「何か」を感じてしまいます。
出だしはいきなりピアノの「ジャン!! タタン・タタン」で唐突に開始されるのですけどそれに続くオーボエのソロがあまりにも
美しすぎてこの冒頭の部分だけでも私は一撃でKOされてしまいそうです。
冒頭で記したとおり、ウルトラセブンの最終回でこの曲が選曲されたというのも十分妥当なのだと思います。

面白い事にこの協奏曲は、グリーグの「ピアノ協奏曲」とカップリングでCD化される事が多いと思います。
(前述のとおり、リパッティの復刻版もグリーグとシューマンのピアノ協奏曲が収録されています)
雰囲気が似ている訳でもないし、音楽の方向性は全然バラバラだし、あまり共通性はないと思うのですが、
似ていると感じるのは強いて言うと冒頭の出だしなのかもしれないです、
グリーグは、ティンバニのトレモロのクレッシェンドが終わると同時にピアノがすぐに入らないといけないし、
シューマンは、管弦楽団のジャンという第一音の次の瞬間には演奏がスタートしなくてはいけないし、
二つの協奏曲ともにその出だしはかなり神経を使うのは間違いないと思います。

グリーグのピアノ協奏曲は、一言で言うと抒情性の高い誇り高き協奏曲という感じなのですけど、
シューマンの方は、どちらかと言うと協奏曲というよりは、シンフォニーのようにも
聴こえるくらい、管弦楽との融合性が高く感じられる曲です。
シューマンの場合、協奏曲というよりは、ピアノと管弦楽のためのファンタジーとも言えるような構成に近いと思います。
グリーグの場合、ピアノが完全に主役で、管弦楽団はピアノの引き立て役という感じが濃厚です。
シューマンの場合、ピアノとオーケストラが完全に一体化しているような感覚もありますし、
特に第三楽章の、ピアノとオーケストラのかけあいの場面は、完全に一つの楽器として融合しているような感じさえします。
だけど、シューマンのあの第三楽章のソリストは大変だと思いますね。
あんな難しいパッセージを変調に次ぐ変調を重ねながら休み無しに一気に駆け抜けていく様子は、
スピード感とか爽快感というよりは、むしろ「気高い美しさ」みたいなものを感じてしまいます。
チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲」は、見方によっては管弦楽団とソリストのバトルというのか
「やられたらやり返す」みたいな雰囲気すら漂う音楽の格闘技みたいな雰囲気すらありますけど、
シューマンの場合、本当に優雅と言うか、
確かに第三楽章のソリストと管弦楽団の掛け合いはバトルに近いものもあるのですけど
間違いなくこの第三楽章は、オーケストラとピアノはほぼ完璧に一つに溶け合っていると思いますし
その幻想的融合性は、お見事の一言に尽きると思います。

それにしても改めてシューマンのピアノ協奏曲のソリストは大変ですよね。

第三楽章の変調の変調につぐ指使いの難しさもそうですし、一般的にピアノ協奏曲の第一楽章の冒頭は
1~2分程度の管弦楽による前奏や主題提示があり、ピアノソリストはその間の心の準備ができそうなのですが、
第一楽章の冒頭からすぐに登場しないといけない難しさやタイミングの難しさはソリスト泣かせのものがありそうです。

確か1998年秋だったと記憶していますが、パスカル=ヴェロ指揮での新星日響の定期演奏会での
二曲目のシューマン/ピアノ協奏曲にて、ソリストが椅子を調性しあとは指揮者がタクトをおろすのを待つのみという
その演奏開始直前に突如、ソリストが、「ノンノンノン!」みたいな言葉を発し、唐突に舞台裏に消えて行ってしまった事も
ありました。
そして3分くらい経過して、何事もなかったかのように再度ピアノに座り演奏が開始され、演奏も無難に終わらせていました。
結局あの時何が起きていたのかは今現在でも謎ではあるのですけど、ソリストもシューマンのあの出だしのプレッシャーに
瞬間的に負けてしまったのかもしれないですけど、とにかく珍しい体験でもありました。

音楽というか、ライヴ演奏においては、 ありえないミスとか想定外の事故というものはプロといえどもありうると思いますし、
人間が行うものですので予想外の出来事というのはあるのだと思います。

私が、過去において見かけた吹奏楽コンクールの演奏中での事故はいろいろとありましたけど、
一番笑ってしまったのが、トロンボーン奏者が、ついついうっかりスライドがポロっと抜けてしまい、
前方のサックス奏者の後頭部を直撃した事なのかもしれないです・・(汗・・)
他にも、ヴィヴラフォーンの電源コードに打楽器奏者の足が絡んでしまい打楽器奏者が思いっきり壇上で転倒したりとか
指揮者の指揮棒がすっぽ抜けてコントラバスを直撃したりとか色々ありますよね~
こういう事って全国大会でもたまーにあったりするものでして、 一つの事例として、
1980年の全国大会・中学の部で、山王中学校が、自由曲のバレエ音楽「四季」の演奏中に
打楽器奏者が間違えて、サスペンダーシンバルのスタンドを倒してしまい
本番中なのに、ガッシャーンと結構すごい音を立てていた事もありました。
(この音は「日本の吹奏楽80」というレコードの中にもしっかりと収録されています)

最後に再度話をウルトラセブンに戻しますと、私自身ウルトラセブンを始めてみたのは当然リアルタイムではなくて、
たぶん再放送か再々放送だったと思います。
私自身、子供のころは実はこうした特撮もの、仮面ライダーや戦隊ものはあまり興味がなく、クラス内でも
男子児童が夢中になって当時の仮面ライダーやウルトラマンタロウや戦隊ものの話題をしている中で、
私は女の子たちと一緒に当時放映されていた魔法少女系の話ばかりしていたのですけど(汗・・)
それでも「ウルトラセブン」は別格だと思います。

ダンもよかったしキリヤマ隊長もかっこよかったですし、やっぱりアンヌ隊員はすてきなお姉さまだと思います~♪

そしてウルトラセブンで登場するウルトラ警備隊の一人にフルハシ隊員がいるのですけど、
それが実は毒蝮三太夫というのもすごい話なのかもしれないですね~
毒蝮三太夫は初代ウルトラマンでもアラシ隊員として出演をされていましたので、2シリーズ連続で隊員として出演を
されていたという事になるのだと思います。
今現在は、TBSラジオの「大沢悠里のゆうゆうワイド」内ではなくて毎週金曜日の「たまむすび」のみの
毒蝮三太夫の「ミュージックプレゼント」というコーナーにとどまっていますが、
そこで登場する毒蝮三太夫は、「このくそババア!」とか「このくたばりぞこない!」とか等の名毒舌ですっかりお馴染みで、
今現在はお年寄りのアイドルと誉れ高いお方なのですけど、ウルトラセブンやウルトラマンでの隊員としての出演を
知る者にとっては「えらい変わりようだけどそれはそれでとても面白い」と感じさせるのは毒蝮三太夫のすてきなお人柄と
年寄り愛なのだと思います。
そしてなによりも毒蝮三太夫は、ウルトラセブンの頃から基本的に風貌・喋り方・声のトーンがあまり変わっていないのは
驚きでもあります。

私が中学・高校で吹奏楽部にいた頃は、嵐という名前の部員がいました。
中学では顧問の先生から、高校では先輩からほぼ例外なく毒蝮というあだ名を付けられていましたけど
それは時代としてはむしろ普通の感覚だったといえるのかもしれないですね。
本記事のひとつ後の記事が「ウルトラセブン」最終回のBGMとして効果的に使用されたリパッティ独奏による
シューマンのピアノ協奏曲でしたけど、リパッティというワードが登場しましたので、
ここではリパッティに関するちょっとしたエピソードをご紹介させて頂きたいと思います。

ひとつ後の記事で書いたとおり、リパッティは33歳の若さでこの世を去ったピアニストなのですけど、
亡くなる寸前までほぼ気力だけで演奏会のステージに立ち続けた事もあり、この当時はまだ録音技術も未熟で
録音された音源もモノラルに近いような音質ばかりなのですが、リパッティが残した録音や演奏会でのライヴ録音は
いまだに高い評価を受けています。

そうした中、EMIレーベルはリパッティがピアノソロを務めたとされるショパンのピアノ協奏曲第1番を収録したレコードを
発売したことがあり、発売当時は当時の著名な音楽評論家の皆様がこぞって
「さすがリパッティ! これは魂の込められた気迫溢れる演奏だ」
「この上品で洗練された繊細なタッチはリパッティならではのものだ」
「なんという天国的な色彩」
「この精緻な演奏はリパッティ以外の何者ではない」
などと大絶賛をされていたものでした。

しかし当初の発売から30年後にそのEMIから「実はリパッティソロとされていたあの録音は、リパッティの演奏ではなくて
ステファンスカという女流ピアニストによる演奏でした・・」と発表したものでしたので、
当時のクラシック音楽業界は一部において大混乱と醜態をさらす形となり、
結果的に本当はステファンスカのソロなのに「さすがリパッティ」とやたらと持ち上げていた当時の評論家の先生たちは
大恥をかく事になっていたものでした。
たぶん当時の高名な音楽評論家の先生たちは「リパッティ」という名前だけでろくにその音源を聴かないまま
「リパッティソロだから間違いはないだろう・・」みたいな勝手な思い込みと妄想だけでそうしたヨイショ評論をしてしまったと
いえるのだと思いますし、
改めて日本人というものは、権威とか名声に弱いということを白日の下にさらけ出したという事なのだと思いますし、
私たち聴く立場の人間としても、音楽評論家がそういっているのだから間違いはないのた゜ろう・・という感覚ではなくて
大切なのは自分自身の感覚という事なのだと思います。

この話はなんとなくですけど、中学等の国語の教科書ではお馴染みの作品の菊池寛の小説「形」に近いような話と
いえるのかもしれないです。

そして改めてですけど、同じ演奏でもそれを聴く人の感性・感覚によってとらえかた・評価は異なるもので、
高名な評論家がそういうのだから間違いないということではないですし、その音楽評論家ですら、聴く人によって
まったく同じ演奏でも真逆の感想になってしまうということはよくある話なのだと思いますし、むしろそれが人間らしいと
いえるのかもしれないです。

そうした音楽評論家でも同一演奏でも評価は真逆という事は吹奏楽コンクールでも全然珍しい話ではないと思います。

一例を挙げると大変古い話になるのですけど、1979年の弘前南高校の「小組曲」もそうなのだと思います。

1979年の弘前南高校の演奏は、斎藤久子先生最後の指揮の演奏となりましたが、
課題曲のはつらつとした気持ち、自由曲の上品さ、その対比が素晴らしかったし
小組曲のフルートソロが抜群に美しかったですね。
木管セクションの透明感も金管の抑制とかコントロールも申し分なかったと思います。

だけど面白い事に、後日のBJの講評では、辛口で有名な上野晃氏は、
「音色のバランス・コントロールまで手が回らず、指揮者の不相応な高望みが招いた破綻」と酷評をしていますが、
吉田友紀氏の評は「原曲の雰囲気を壊さず素晴らしい演奏」と高い評価を受けています。
やはり人によって感じ方は違いますし、
コンクールの審査員の評価が絶対的なものではない事の象徴かもしれないです。

余談ですけど、過去のBJの審査員とか批評家のコメントを今更眺めていると興味深い事例もいろいろとあったりします。

その一つの事例が、1976年に奈良県の吹奏楽の超名門高校の「天理高校」が、支部大会と全国大会で
同じ課題曲と自由曲を演奏した際、全く同じ批評家から
全く真逆の事をコメントされている記事を見つけた際は、結構驚いたものです。

1976年の天理高校は、課題曲B/吹奏楽のための協奏的序曲・自由曲/皇太子のための祝典音楽(陶野重雄)でしたけど、

関西大会でのBJの演奏評は辻井市太郎という当時の大御所先生が担当され、
「自由曲は初めて耳にする曲であり、アメリカで出版されたものとの事だが、
天理であるからこそ立派に演奏できたとの印象を受けた。
その上、天理の有する独特のサウンドが聴く者を更に納得させた」という大変ベタ褒めコメントをされていました。

しかし、全国大会でのBJの演奏評は同じく辻井市太郎氏が担当していますが、
(この年、審査が異常に厳しく、天理ですら銅賞という大変厳しい評価を受け、決して万全な演奏では無かったのですが)
この時は「自由曲はコンクールに適応していないものである。世界の名曲に混じって、
いかに高度な技術を有する天理であっても曲そのものの格調を変える事は無理だったのだろう。
まずは選曲失敗の範疇に入るものである」

と全く正反対の事を言われていました。

この話は高校時代の吹奏楽部内でも色々とネタになっていて
関西大会の記事を読んだ口の悪い部員が
「おいこら、おっさん、全国大会では何と書いていたんだよ~」などとツッコミを入れていたものでした(汗・・)

今となっては天理の当時の関西大会と全国大会の音源がありませんので検証のしようがないのですけど、
一般的に吹奏楽の世界は、支部と全国では、朝一番という悪条件を別とすると
それほど極端な出来不出来の差は無い事が多いですので、
この辺りも審査員の先生の一つの気まぐれとしての評価なのかもしれないですし、
同じ演奏でも審査員のそのときの気分によって印象が変わる一つの事例なのかもしれないです。

とにかく、大切なことは他人がどういったという事ではなくて、自分自身の感性という事なのだと思います。
私自身、吹奏楽で管弦楽アレンジを含めて色々な曲を吹いたと思いますけど、私自身の主な担当楽器のクラリネットでは、
スコア上では結構な無茶難題がありましたし、無茶振りが相当あったと思います。

こんな高音域出る訳ないじゃん・・・」

この速度設定で、16分音符ばっかりで演奏不能じゃん・・」

なにこの異常に長い音伸ばし・・これってロングトーンとほぼ同じでしょ・・
一体どこでブレス(息継ぎ)すればいいの・・・?

ラとシのトレモノなんだけど、クラリネットのラは一番先端のキーのみのタッチで、
シは全部の指でキーを使う訳で、一体このラとシのトレモノをやれなんて、クラリネットの運指上
出来る訳ないでしょ・・・うーーん、これって何か替え指を発見しろという事なのかな・・・」

スコア上のppppっていったい何?? どれだけ弱い音で吹けばいいのかよく分からない・・

この辺りの愚痴はクラリネットに限らず全ての楽器に言える事だと思います。

作曲者にしては何気なくとかある演奏効果を意図してという事もあるかもしれませんが、 何気なく書いたスコアが原因で
一体どれだけの奏者が現場で苦労したかなんてそりゃ分からないのかもしれないですけど。
作曲者には作曲者としての意図・言い分があるでしょうから、 それはお互いに「言いっこなし」という感じなのかもしれないです。

あまりにも演奏不可の場合は (大抵指揮者に無断で) パート内で「どうやってばれないようにごまかそうか」とか
替え指の情報交換とか、果てには「パート譜をばれない範囲で書き変えてしまおう」と言う事で
一部スコア譜を変更したなーんてこともありましたけど、大抵指揮者に後でバレて怒られしまうのが、
スクールバンドあるある話としては定番ネタなのかもしれないです。
もちろんですけど、勝手にパート譜を変更というのは重大な著作権法違反ですので、健全な奏者の皆様は
そんなことしたらダメですよ~(汗)
現場では著作権法に振れない程度のパート間での調整は結構あると思いますし、例えばストラヴィンスキーの
バレエ音楽「春の祭典」におけるホルンパート、特にソロホルンとファースト担当のホルン担当の超・超高音域は
とてもじゃないですけど全てを吹く事は人間技ではほぼ不可能と思われますので、場合によっては
エキストラがそれほど重要な場面ではない箇所においてソロホルンのパートを吹き、ソロホルン奏者は「ここぞ!」という時を
メインに指定通りのパート譜を吹くと言う事は実はよくある話であると
プロ奏者の方から直に耳にした事はあったりもします。

音量指示があまりにも弱すぎて演奏者が大変な一つの例として、
チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」第一楽章が挙げられると思います。
ちなみにですけどチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は初演時において、元々予定されていたソリストから
「これは演奏不能である」と演奏を拒否され、初演は別の奏者によって行われたという事もあったそうです。
チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」は四楽章構成ですけど、第一楽章から誉れ高い名曲の香りに溢れていると思います。
第一楽章は三つの部分から構成され、 始まりは慟哭のような呻くような陰気な感じで展開され、
第一楽章開始から10分が経過した頃、突然全楽器のfffが鳴り響き、唐突に強奏の音楽が展開され、
そしてラストは再び静粛に閉じられます。


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中間部の唐突な強奏展開の直前に、クラリネットがソロで第一楽章第二主題を吹きますが、
この場面、楽譜の指定はpppなのですけど、
少し進展すると楽譜上の指定はppppとなり、
クラリネットからファゴットに主題がバトンタッチされるあたりの
楽譜上の指定は、なんと!ppppppと「p」(ピアノ=弱く)が六個も付いてしまいます!
これってクラリネットも大変ですけど、
弱音で音量を絞るのは至難の業というファゴットにとっては悪夢としか言いようがないですね。
この場面、奏者はクラリネットとファゴットのほぼ二人だけですので
ミスったら完全にばれてしまうし、指揮者に睨まれてしまうし本当に大変そうですね。

だけど、この極端な弱音の世界から次の瞬間に全楽器で「ジャン!!」という凄まじい強音が叩き付けられ
この部分は、第一楽章前半でウトウトしてしまった聴衆を叩き起こすには十分すぎる効果があると思いますし、
この唐突な場面変化はまさに青天の霹靂という感じすらあります。

こうしたppppppからffffの急激な変化は、すさまじいインパクトを与えますね!
よく「ダイナミクスレンジ」の幅が広いとか狭いとかいう話を聞きますけど
これって単なる音量だけの差異ではないと思います。
チャイコフスキーの悲愴の第一楽章のように、唐突な場面転換の印象度の強さのように
あくまで表現力の幅広さ」のだとも思います。
とくにこうした落差の大きさの起伏が激しい場合は、
特にそうしたダイナミックスレンジの有効活用みたいなものを感じてしまいます。
ま、奏者にとっては大変な厄介ごとを背負い込んだようなものですけど・・(汗)