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プロフィール

ぬくぬく先生 

Author:ぬくぬく先生 
開設当時は、1980年代吹奏楽コンクールの花輪・秋田南・就実・仁賀保・屋代等の素晴らしい演奏を後世に少しでも伝える事が出来ればいいなと思ってこのブログを始めたのですけど、いつのまにか「東方Project」がメインになってしまいました・・・
最近は「艦これ」も大好きです!!
吹奏楽も東方も自分が感じた事を少しでも後世の方に受け継がれるべきものが残せればいいかな・・と思っています。
ちなみに、「大好きプリキュア四天王」は、ドリーム・メロディ・ハッピー・ラブリーです。
ドリームとメロディは自分の中では既に殿堂入り状態ですけど、
現在はラブリー大好き!!のラブリー一辺倒です!!
リアル社会では、建築関係のクレーム&アフター責任者を専従し、毎日毎日クレーム対応に当たる日々です。
裏の顔は東方と吹奏楽とクラシック音楽一辺倒です・・・
特に特に大好きな作品は・・・プリキュア5とスイートとハピネスチャージです!!
ちなみに、奥様は・・・ミルキィローズとセーラームーン好きの管理人以上のおこちゃまです・・・
東方で大好きなキャラは、とにかく大好きキャラがてんこ盛りで、全員大好き!という感じなのですけど、特に、さとり様・ゆかりん(紫様)・早苗さん・こいしちゃん・アリスはお気に入りです!!
吹奏楽では・・ネリベルの「二つの交響的断章」と「アンティフォナーレ」、スパークの「ドラゴンの年」、リードの「オセロ」と第二組曲「ラティーノ・メキシカーナ」、パーシケッティーの「仮面舞踏会」、C・スミスの「ダンス・フォラトゥーラ」などが死ぬほど好きで、クラシック音楽では、ウォルトンの交響曲第1番と矢代秋雄の交響曲、プロコフィエフの交響曲第5番、アーノルドの交響曲第2番、第4番、ショスタコの交響曲第7番「レニングラード」、マーラーの交響曲第3番「夏の朝の夢」、ハンソンの交響曲第2番「ロマンティック」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」、ベルクの「ヴァイオリン協奏曲」、ラフマニノフの「交響的舞曲」などが大好きです!!
クラシック音楽を吹奏楽にアレンジし、そのコンクールヴァージョンの演奏としては・・・
1982年の就実高校の「幻想舞曲集」と
1987年の習志野高校の「ダフニスとクロエ」第二組曲の演奏、そして、
1987年の雄新中の「エルザの大聖堂への厳かな行列」が
まさに私の「原点」です。
最後に・・・
私の吹奏楽との関わりの真の意味での「原点」は・・・
1979年の市立川口高校の神がかり名演としか言いようがない
「二つの交響的断章」に尽きると思います!!


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クラシック音楽界における20世紀限定で誰もが一度ぐらいは聴いたことがあるかもしれない耳に残る印象的なメロディー
というと、例えばホルストの組曲「惑星」~木星、オルフの世俗カンタータ「カルミナ・プラーナ」、ラヴェルのボレロ、
ロドリーゴのアランフェス協奏曲~第二楽章など色々とあるかとは思いますが、その中でも突出して印象に残るメロディーは、
ハチャトゥーリアンのバレエ音楽「ガイーヌ」~剣の舞が挙げられると思いますし、
それ以外にも「どこかで聴いた事があるかも・・」と思われる曲として、ハチャトゥーリアンと同じ出身国であるソ連の作曲家の
カバレフスキーの組曲「道化師」~Ⅱ.道化師のギャロップが挙げられるのかもしれないです。

この曲は、昭和の頃の運動会(特に徒競走・リレー・大玉転がしの)BGMの定番中の定番ですし、テレビのBGMでも
子供が走っているシーンの音楽などとしても良く耳にします。
カバレフスキーとか組曲「道化師」と聞かれても「なにそれ・・?」と感じる方は大半だと思うのですけど、それでも
「道化師のギャロップ」のあの親しみやすくて底抜けに明るく楽しい2分程度の曲を耳にしたら
「あー、この曲どこかで聴いたことがある~」と多くの方が感じられるのかもしれないです。

組曲「道化師」の全曲を収録したCDも意外と少ないです。
私自身も結構最近までサヴァリッシュ指揮のCDと吹奏楽アレンジ版の東京佼成WOのCDしかしか手元にありませんでしたが、
Chandosレーベルより、ピアノ協奏曲第二番と組曲「道化師」が収録されたCDを入手できて
やっとこの曲のまともな演奏を聴くことが出来たものでした。

組曲「道化師」は1939年に作曲され、現代音楽バリバリの20世紀前半に作曲されたとは到底思えないほど、わかりやすくて
親しみやすさと明るさに包まれた楽しい音楽です。
組曲として計10曲から構成されていますけど、一曲一曲が1~2分半程度で構成され、全曲聴いたとしても飽きることはないと
思いますし、組曲全体としても演奏時間は16分程度です。
こんなに分り易いクラシック音楽は他にないとさえ思えますし、単純明快なメロディーと展開に終始し難しい部分は皆無です。

組曲「道化師」は元々は子供を対象とした児童劇「発明家と道化役者」の16曲からなら劇付随音楽の中から10曲を
選曲したものです。

この組曲は下記から構成されています。

第1曲 プロローグ
第2曲 ギャロップ(道化師のギャロップ)
第3曲 マーチ
第4曲 ワルツ
第5曲 パントマイム
第6曲 間奏曲
第7曲 リトルリリカルシーン
第8曲 ガヴォット
第9曲 スケルツォ
第10曲 エピローグ

Ⅱの「道化師のギャロップ」ばかりがやたらと有名ですが、
Ⅰの「プロローグ」とかⅨの「スケルツォ」とかⅩの「エピローグ」も聴いていても楽しさ満点で、
聴くだけでとてもハッピーな気持ちになれます。
個人的には、Ⅵの「リトルリリカルシーン」も50秒足らずの短い曲なのですが、
抒情性たっぷりのうっとりとするメロディーですので、是非一聴をお勧めしたいです。
Ⅹの「エピローグ」も大変楽しくてこのすてきな組曲を明るく締めくくるにはうってつけの曲だと思います。
この組曲は比較的小さい規模での管弦楽団でも演奏でき、使用される金管楽器もホルンとトランペットはそれぞれ2台で、
トロンボーンとチューバは1台のみという指定があります。
木管楽器も例えばフルートはピッコロと掛け持ちですし、オーボエもコールアングレと掛け持ち指定されています。
打楽器はティンパニ、シロフォン、トライアングル、タンブリン、スネアドラム、バスドラム、シンバルと結構多彩です。
そうそう、最後のエピローグにおいてピアノがかなり効果的に使用されていて、あれを聴くと
ショスタコーヴィチが交響曲第5番~第一楽章でかなり効果的にピアノを使用していた事例を彷彿とさせてくれますし、
そのあたりは「さすが20世紀に生きた現代の作曲家」という雰囲気はあると感じたりもします。

私自身、この組曲の生の演奏を聴いた事は今まで一度しかありません。
外山雄三指揮/N響の太田区アプリコでの演奏会が今まで唯一この曲を全曲で聴いた機会です。
この時は前半が道化師とハチャトゥーリアンのヴァイオリン協奏曲で、後半が確かシェエラザートという事で
オールロシアプログラムでしたけど、道化師を全曲聴くことができたのは大変貴重な経験でした。
「道化師のギャロップ」は単独でもファミリーコンサートや演奏会のアンコールで演奏されることは結構多いです。

カバレフスキーというと旧・ソ連においてはショスタコーヴィッチやハチャトゥーリアンと並んでソ連音楽界の大御所としても
活躍されていてさまざまな重要な役職にも付かれています。
道化師以外では歌劇「コラブルニヨン」序曲と交響曲第4番が私的にはとても大好きです。
バレエ音楽「ロメオとジュリエット」というとプロコフィエフというイメージがありますけど、実はカバレフスキーも同名の
バレエ音楽を残していたりもします。
コラブルニヨン序曲なのですけど、A-B-Aのシンプルな三部構成で冒頭からしてかなり強烈なインパクトがありまして、
全体を通して溌剌さ・明るさ・軽快さを感じさせてくれます。
シロフォーン・タンバリンをはじめとする打楽器の使い方も巧みだと思います。
全体的にリズムの切れが素晴らしいですし、とてつもなく歯切れの良い曲だと思いますし、
さすが道化師のギャロップの作曲者だなーと妙に感心してしまいます。
中間部も徐々に盛り上がっていく感じが実に単純明快で素晴らしいですし、ラスト近くで一旦静かになったあたりで、
管楽器とティンパニの掛け合いが実に面白いと思います。
ラストはかなり盛大に盛り上がり、ティンパニのズドンという一撃で終ります。
交響曲第4番は知る人ぞ知る曲という感じだとは思いますが、まるでベートーヴェンの交響曲第5番「運命」を聴いているかの
ような不幸のどん底から歓喜というものがわかりやすく伝わってきます。
第四楽章の幸福感一杯の勇壮なマーチが特に印象的です。
(この交響曲はカバレフスキー自作自演のレニングラードフィルのレコードがありましたけど、いまだにCD化されていないのは
ちょっともったいないです・・)

組曲「道化師」ですけど、2019年末時点で吹奏楽コンクール全国大会では計4回自由曲として演奏されています。

1981年に当時は豪快で重厚なサウンドが売りだった近畿大学がまさか「道化師」という軽い作品を自由曲で取り上げていた
事が極めて意外でした。1989年の双葉中学校の演奏はメンバーが40人以下の小さい編成でしたけど、とてもかわいく
チャーミングにまとめていたのが大変印象的でした。

だけど組曲「道化師」というと私的には1978年の弘前南高校の演奏が大変強く印象に残っています。

吹奏楽コンクールの全国大会と言うと、どうしても緊張とかプレッシャーとか委縮みたいな言葉がよく似合いそうなほど、
普段の実力とか練習の成果というものは発揮しにくい事は多々あるものなのですけど、
弘前南高校は、そうしたプレッシャーを微塵も感じさせない練習通りののびのびとした演奏を屈託なく聴かせてくれていて
こういう演奏は聴いている方も自然に微笑みが出てきそうなすてきな溌溂とした演奏でした。
のびのび演奏しているとか元気一杯とかチャーミングとか自然体な雰囲気みたいな感想の言葉がポンポンと出てきそうなくらい
躍動感溢れる演奏を聴かせてくれています。
今現在のコンクールの感覚で聴いてしまうと「雑すぎる・・」とか「粗いし細かい仕上がりが不十分」とか
「時々バランスが崩れ、部分的に音程が不安定」とか「音色が生々しすぎる」などのようなマイナスの評価も
あるのかとは思います。
そうしたマイナスポイントを埋めてしまうのに十分すぎるほどの素直さ・溌剌さ・のびのびとした雰囲気がこの演奏からは
自然に伝わってきます。
今現在の審査基準で言うと、とてもとても全国大会なんか出場出来ないし、
支部大会も難しいというか県大会レベルでも金賞は取れるのかな?みたいなものはあるとは思うのですけど、
今現在のコンクールでは絶対に望めないようなあの自然体での溌剌さというのは大いに価値があると思います。
自由曲の組曲「道化師」ですけど、課題曲で聴かせてくれたようなまとまりや統一感」はもう少し欲しかったような気もしますし、
全体的に音色がかなり粗いのが気にもなったりします。
部分的に音程が少し怪しいのもマイナスポイントなのかもしれないです。
特にⅠ.プロローグのシロフォンの最後の一音のピッチの悪さは楽器の不調にしては少し目に余るのかもしれないですし、
Ⅴのパントマイムも少しどんくさい感じというのか全体的に音色が重たい事も少し引っ掛かります。
しかし、Ⅴを除くと、ⅠとⅡとⅨとⅩはとにかく音色がどこまでも明るくて楽しくて、聴いているだけでとてつもなくハッピーな
気持ちになりますし、生きているだけでその内いい事があるのかも・・という気持ちに自然になれそうです。
この組曲は前述のとおり一つの児童用の音楽なのですけど、子供らしい「まっすくで純粋な気持ち」を曲の隅々にまで
表現出来て、聴く人に確実に楽しさや溌剌さを感じさせてくれた弘前南高校吹奏楽部の演奏に、
あの演奏から42年後の私から、最大限の敬意を表させて頂き、最大の賛辞の言葉を贈らさせて頂きたいと思います。

さてさて、実はなのですけど私自身も吹奏楽アレンジ版ですが、組曲「道化師」を抜粋版という形で演奏した経験があります。

高校二年の定期演奏会の時のクラシックアレンジステージで演奏した曲が組曲「道化師」からの抜粋と
チャイコフスキーの荘厳序曲「1812年」でした。
曲の難易度は圧倒的に1812年の方が高くて、特に1812年の金管奏者への負担が相当大きく金管奏者のエネルギーが
とてつもなく消費されるという事で、曲決めの際にも金管セクションから「もう一曲の方は極力金管に負担を掛けない軽めの
曲を選んでほしい」という強い要望もあり、チャイコフスキーと同じくロシア系で且つ金管奏者の負担が少ない曲
という事で組曲「道化師」が選ばれました。
当初は全曲演奏するという話もありましたけど、それだと1812年と演奏時間が大体同じになってしまうという事で
Ⅰ・Ⅱ・Ⅴ・Ⅶ・Ⅸ・Ⅹの抜粋となりました。
金管セクションにとってはⅡとⅩ以外はほぼ休みという事もあり大歓迎とされた選曲でして、
その分有り余ったエネルギーを金管奏者としては荘厳序曲「1812年」にぶつけられましたので
その意味ではとても良い選曲でした。
金管奏者にとっては楽な曲だったと思いますけど、クラリネットパートにとっては、金管セクションはそれでいいかもしれない
けど、Ⅱのリズミカルで速い部分の演奏は音を揃えるのが大変だし、遠く離れた位置にいるシロフォーンとの音を合せるのは
至難の業という事もあるし、Ⅸのスケルツォはほぼクラリネットとフルートのアンサンブルに近く、素早く動くソロクラとフルートに
対して適確に伴奏の後打ちをするのは意外と骨が折れる・・という大変さはあったと思いますし、
本音としては「只でさえ1812年のとんでもなく難解なあの16分音符を吹きこなす事だけで精一杯なのに、道化師で
さらに苦労させられるなんて・・」みたいな感じでもありました。
ただⅦのリトルリリカルシーンでしっとりとした抒情的なクラリネットのソロを担当していた上級生は実際の本番のステージでも
陶酔しているようにしっとりと吹いていたのが大変印象的でしたし、Ⅸのスケルツォでも練習ではほぼ99%ミスってばかり
いたのに、本番ではほぼ100%完璧に吹きこなしていて、あまりにも普段の練習と違っていたので、
後打ち伴奏担当のセカンド・サードのクラリネットの後輩たちは全員内心「やばい・・」と思っていたと思います。
Ⅹのエピソードでは、ピアノが大活躍するのですけど、当時の男子高校でピアノをほぼ完璧に弾きこなせる人って
トランペット奏者の3年生しかいなくて、トランペットとピアノの掛け持ちという大変珍しい離れ業をお披露目していたのも
今となってはなつかしいな~と感じたりもします。





ららマジにおけるクラリネット奏者は綾瀬凛という後輩からは怖がられているきょっと気難しくて、自分にも他人にも厳しい
雰囲気があるJKさんです。
キリッ・・!としていて後輩に対して厳しく接する雰囲気の綾瀬凜お姉さまの上記のようなちょっと怒ったような表情も
とてもかわいらしいものがありますけど、
同じパートに自分に厳しすぎる子がいたりするとちょっとつらいものがありそうですけど、ららマジの綾瀬凜みたいな
JKさんだったら、私は喜んで同じパート内で頑張らさせて頂きたいものです~♪

私自身、中学・高校・大学でクラリネットを主に吹いていたのですけど、中学と大学の時は私以外のクラリネット奏者は
全員女の子でしたけど、どちらかというと女の子のクラリネット奏者は生真面目で冗談があまり通用しない人が多いし、
言葉の揚げ足取りがうまいのかも・・という印象の子が多かったような印象はあります。
それは男子高校時代のクラリネットパートにも大体同じような事は言えたと感じられます。
クラリネット奏者・・、特にクラリネットを吹く女の子の不器用さ・頭の固さというものはもしかしたら全世界共通なのかも・・?
といったら綾瀬凜お姉さまに怒られてしまいそうです・・
(そう言えば、とあるブログの管理人さんも元・クラリネット奏者でしたけど、あの融通の利かない頑迷さと気難しさは
クラリネット奏者気質そのものだったと今にして思うと感じてしまいそうです・・)

綾瀬凛がしっとりと吹く組曲「道化師」のリトルリリカルシーンや元気溌剌のギャロップやスケルツォは是非ぜひ同一パートと
して一緒に吹かせて頂きたいものですね~♪
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J.S.バッハの「 G線上のアリア」はタイトルにピンとこなくても一度ぐらいはどこかで聴いたことがあるメロディーだと思います。

卒業証書授与式や、葬送・追悼曲の定番であり、そのメロディーからは「清められた魂」みたいなものを感じます。
かつての確執を超えて32年ぶりに小澤征爾とNHK交響楽団が共演を果たしたときに、
阪神・淡路大震災犠牲者の追悼ために演奏した曲目の一つでもあったりします。

「G線上のアリア」はJ・S・バッハの作曲と表記されることは多いのですけど、実は半分は正解で半分は間違いなのかも
しれないです。
J・S・バッハはの作品目録にはG線上のアリアという曲名は存在しないというのか、あくまで「G線上のアリア」と世間一般で
言われている曲目は後年のヴァイオリニストのアウグスト・ウィルヘルミが、ヴァイオリンとピアノ用にアレンジしたいわば
編曲作品であり、元々の原曲は管弦楽組曲第3番二長調 BWV1068の第Ⅱ曲のエアーに相当します。

バッハの管弦楽組曲第3番 BWV1068は下記の5曲から構成されています。

Ⅰ.序曲

Ⅱ.エアー

Ⅲ.ガヴォット

Ⅳ.ブーレ

Ⅴ.ジーグ

原曲の楽器編成はトランペット3 ・ティンパニ ・オーボエ 2・ヴァイオリン 2パート・ヴィオラ
チェロ、コントラバス、チェンバロから構成される通奏低音と大変シンプルなものになっています。
最も有名な第二曲のエアーは弦楽器と通奏低音だけで演奏されます。

前述のとおり、後年のヴァイオリニスト、アウグスト・ウィルヘルミがJ・S・バッハの管弦樂組曲第3番二長調の2曲目を
ヴァイオリンとピアノのための演奏用に編曲し、
その第2曲目にーのエアーは、転調することにより、1曲を全てヴァイオリンの弦のG線のみで演奏するように
編曲したことにより「G線上のアリア」というアレンジ作品が世に生まれたことになります。
この「G線上のアリア」という通称は、ニ長調からハ長調に移調し編曲されたこちによって、
ヴァイオリンの4本ある弦のうち最低音の弦、G線のみで演奏できることに由来しています。

G線上のアリア(管弦楽組曲第3番~Ⅱ.エアー)は原曲版として聴いてもアレンジ版として聴いてもどちらも素晴らしいと
思います。
とにかく美しくて清楚でゆったりと流れる感覚は時の経過を忘れてしまいそうです。
以前なのですけど、とある顧客との打合せの場所としてとある喫茶店を指定され、その喫茶店に早めに到着して
その顧客が来るのを待っていたのですけど、店内で繰り返し流されていたのが、このバッハのG線上のアリアでして、
なぜか終始ずっと途絶えることなくこの曲をBGMとして流していて、そのあまりの美しさにうっとりしていたらいつの間にか
爆睡してしまい、その顧客より叩き起こされてしまうという大失態もしたものでした・・(汗)

そうそう、この「G線上のアリア」ですけど、読み方は厳密に言うとジーセンじょうのアリアではなくて「ゲーセン上のアリア」
でもあったりします。
恥ずかしい話ですけど、東北の田舎の地より上京し都内の大学の吹奏楽団に入団した当時の私は、
確かにその当時は既に花輪高校吹奏楽部や秋田南高校吹奏楽部による洗礼を受けていて、例えば
ベルクの「三つの管弦楽曲」とかウォルトンの交響曲第1番とか矢代秋雄の交響曲とか三善晃の交響三章とか
ストラヴィンスキーの春の祭典などバレエ三部作などは知っていたものの、例えばモーツアルトの交響曲第40番とか
ベートーヴェンの交響曲第7番とかシューベルトのグレイト交響曲とかブラームスの交響曲第1番なとといった
古典的名曲は実は聴いたことすらないという体たらくでもありましたし、クラシック音楽の楽典といった基礎の基礎も
全くわかっていない状態でもあり、当時の指揮者やコーチの皆様、はたまた同じクラリネットパートのお姉さまたちからは
「なんだこのいびつな知識のヘンな東北から来た山猿は・・!?」と思われていたのかもしれないです・・
当時の私はバッハの「G線上のアリア」をじーせん上のアリアと呼び、モーツアルトの「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」を
「アイネ・クライネ・ナハト・ミュージック」と呼び、周囲からの失笑を浴びていたものでした・・(汗)

吹奏楽や管弦楽で奏者のご経験がある方は、チューニング時に指揮者やコンマスから
「はい、ではアーの音出して~」とか「ベーの音で合わせて~」と言われることは日常風景なのですけど、
私自身中学生の時に吹奏楽部に入部し初めて全体合奏に参加した際に、指揮者から
「ベーの音出して」と言われて何を言っているのかさっぱりわからず、思わずあっかんべーをしてしまったら周囲から
やはり大失笑を食らったこともあったものでした・・

一般的に使われるドレミファソラシドは実はイタリア語です!

英語では「C・D・E・F・G・A・B・C」、ドイツ語では「C(ツェー)D(デー)E(エー)F(エフ)G(ゲー)A(アー)H(ハー)C(ツェー)」
という表記になります。
吹奏楽や管弦楽の練習においては、ドレミファという言い方ではなくて人によってはドイツ語のツェーとかアーとかゲーの
音を出してと言われることも多々ありますし、
チューニングにおいては、吹奏楽の世界では一般的にはA(アー)またはC(ツェー)の音で合わせることが多いです。

チューナーは英語で音名を示しているので、「C」なら「ド」のこと、「A」なら「ラ」のことになります。

上記で「G線上のアリア」はゲーセン上のアリアと読むというのはそうしたドイツ語表記がベースになっているというのを
わかったのは大学での吹奏楽団に入って以降というのもなんだかこっばずかしい話でもありました・・


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「G線上のアリア」は編曲版ではビアノとヴァイオリンから奏でられますけど、
ららマジのヴァイオリン奏者の九条紗彩は高校1年生の女の子です~♪

自分に厳しく人にも厳しいプロ意識の高いヴァイオリン少女 という設定です。

自分にも周囲にも厳しいため、一見わがままだと誤解されることもありますけど、根は優しくて世話好きでもあります。
極度の照れ屋で自分の気持ちを素直に表現できないという事で、ららマジの中ではツンデレの一人と
言えそうです。

九条紗彩はヴァイオリンのプロを目指しており、神童と呼ばれるフルート奏者の菜々美に密かな憧れやライバル心を
抱いてもいます。

薄いバイオレットのロングヘアーですけど、おでこの露出がなんだかとてもかわいいです。

こういうおでこをしたツンデレ気味の美少女JKさんにデコビンを食らわしてやったら、その反応はなんだか
「私、気になります・・」という世界になりそうですね・・

そして九条紗彩が奏でるバッハのG線上のアリアの清楚な響きも聴いてみたいですね~♪

実はなのですけど、おかげさまで本記事をもちまして「クラシック音楽カテゴリ」が通算400記事に到達をいたしました~♬

当ブログをご覧頂いている皆様の視点ですと
「いつも東方・艦これ・小泉さん・プリキュア・ごちうさといったアニメ・漫画・ゲーム作品の記事ばかり書いている
頭の悪そうな人がどうして時々専門的でお堅く真面目なクラシック音楽記事を書いているの・・??」と疑問に感じる方も
多いのかもしれないですけど、当ブログの管理人はもともと吹奏楽出身で、通算10年近く吹奏楽団でクラリネットを吹いていた
経験があり、そうした吹奏楽にどっぷりと浸かっていた時期に同時にクラシック音楽の奥深さに目覚めてしまい、
かなり若い時期から吹奏楽・クラシック音楽が大好きだったという事情が大きいのだと思います。
ブログというものは基本的には私はテキトーでいいと思っていますし、管理人が興味を持っていることや大好きなことを
好きなように書くのがブログと思っていますし、私自身誰かに見てもらうという事よりは、どちらかというと
自分自身の記録というか後年こうした記事を自分自身が振り返って見ることによって
「自分はこんなことに興味がありこのように考えていた」という自分史というのか自分の軌跡を目に見える形でなにか残して
おきたいというのが実はこのブログの最大の続ける動機であったりもします。
そして2016年以降はそれに加えて、「dream fantasy」の
アミグリさんが描かれた素晴らしくて美しい絵をとにかく一人でも多くの人に見てほしいという動機も加わりました。

人間というものは決して単純な生き物ではないと思いますし、趣味嗜好がある時期から変化するとか
昔はAという考え方に惹かれていたけど最近はAと相反するBという考えにより共感するようになったとか
格闘技や相撲といった男くさいスポーツが趣味だけど同時に家で萌えアニメを見るのが大好きということだってあると
思います。
人間にはそうした多様性があり、「あの人は✖✖だから」という一つの側面だけで判断できないのがむしろ人間らしいところでも
ありますし、当ブログのように前日は「ゆかりん大好き!」とか「小泉さんのあの不愛想さはすてき~♪」と書いていた管理人が
翌日にはガラリと趣向を変えたお堅い音楽記事を書くことはむしろ人間の人間たるゆえんだと思いますし、
人の心の深層にはもしかしたら相反するようなものもどちらも大好きになってしまうという複雑な多様性を持ち合わせている
のかもしれないです。
そしてブログというものはそうした人の多様性を発揮する場でも全然OKだと考えますし、そうした自分自身が大好きなことを
自由自在に書くことができる場というのがブログの良い点なのだと思います。
そしてテキトーに自由に気ままに書いているだから、誰かに読んでもらうために記事にするという趣旨ではなくて
あくまで自分のために書いているという事で、別に反響は特段気にしないようにしているという感じでもあります。

当ブログのはじまりは実は「音楽ブログ」であったという事をご存じの方はほぼ皆無だと思いますし、ブログ開設から
2年目を迎えたころあたりまでは、当ブログは実は典型的な閑古鳥ブログでして、一日の閲覧者は平均5~6人前後で、
最初に頂いたコメントはブログ開設から約一年後というありさまでもありましたけど、当時は例えば私自身が大好きで
吹奏楽・クラシック音楽の深い森の中に迷い込むきっかけにもなった花輪高校吹奏楽部・秋田南高校吹奏楽部・
就実高校吹奏楽部やウォルトンの交響曲第1番、矢代秋雄と松村禎三の交響曲やプロコフィエフの交響曲や
トゥリーナの幻想舞曲集などといった正直わかる人にしかわからない記事を自由気ままにテキトーに書いていて、
あの頃はむしろのびのびといい加減に書いていたようにも感じられます。
だけどそうしたマニアックな記事だけを書いていたらネタも枯渇しますので、当時としては
「十分音楽に関するどうしてもこれだけは書いておきたいというネタを記事にしたからあとはこの先ずっと放置でもいいかな・・?」
とも思ったりしましたけど、
「放置するのもなんだし、それでは音楽以外に自分が大好きなことを書くのもいいかも」と思うようにもなり、
それが2012~15年までのプリキュア路線、2016年から現在に至る東方路線になっていったと思いますし、同時に
2013年頃より偶然「dream fantasy」という素晴らしい
ブログに出会い、アミグリさんというすてきな絵師様の描かれた絵を一目で大好きになってしまい、東方路線とミックスさせる
形でもってアミグリさんの描かれた絵をご紹介させていただくという現在の路線に落ち着いております。

管理人の私自身は、吹奏楽もクラシック音楽も東方も艦これも小泉さんもプリキュアも埼玉も千葉ロッテマリーンズも
アミグリさんの絵もみんな大好きという事ですし、東方や最近のかわいい萌えアニメ作品や美少女JKさんアニメを楽しむのと
まったく同じ感覚で吹奏楽やちょっと堅めのクラシック音楽も楽しんでいますし、人が楽しむことにおいて
そうした境界は何もないものと考えています。

今後とも東方や小泉さんを語るときとまったく同じ感覚で少し堅めのクラシック音楽記事もこの先も語っていくことになるかとは
思いますので、今後も当ブログの吹奏楽やクラシック音楽カテゴリのほうも何卒宜しくお願いいたします。


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一時期、吹奏楽やクラシック音楽カテゴリ記事を書くと反響・アクセスががくっと低下するのでこれらの記事を避けていた
時期もありましたけど、前述のようにブログは誰かのためではなくてあくまで自分の軌跡の記録と趣味のためでも
ありますのでも最近はそうしたアクセス低下は気にしないようにしています。
そして最近の傾向として、これらの記事に「響け!ユーフォニアム」と「ららマジ」をミックスさせることで、少しだけ萌え要素や
わかりやすさも出てきたせいなのか、ここ最近はそうしたカテゴリ記事でもアクセスや反響が以前とは比べ物に
ならないほど大きくなっているのはとてもありがたいです~♪

ららマジ器楽部の編成はツッコミどころが満載ですね~♪

チューバは無いけどワーグナーチューバはあったり、オーボエは無いけどなぜかコールアングレはあったり、
ファゴットもコントラファゴットはあるけどなぜかバスクラがなかったり、
ベース・エレキ・ウクレレとギター系の楽器が三本もあったり、ユーフォニアムが管弦楽と同様に配置されていなかったり、
胡弓・箏といった邦楽器があったり、
30人編成なのに、ドラムス・グロッケンシュピール・和太鼓・トライアングル・タンバリン・カスタネット・シンバルの
打楽器セクションはかなり充実していたり、
なぜかシンセサイザーまであったり、基本的には吹奏楽の編成に近いけどなぜかヴァイオリンやチェロ・ハープも配置される
など現実ではあまりありえない編成ゆえにその自由さは素晴らしいものがあると思います。

奏者はドラムスとハープと箏を除くと基本的には全員スタンドアップして演奏していますけど、コントラファゴットは基本的には
立って演奏をする事が出来ないので、椅子に腰かけて演奏しているのは、「わかっているね~」という感じでもあります。

こうした自由な編成による自由な音楽は是非ぜひ聴いてみたいものです~♪
本日のファースト記事にて触れたとおり、おかげさまで本日をもちまして当ブログのクラシック音楽が400記事に到達
しましたけど、そのファースト記事においては特段クラシック音楽には触れていませんし、
せっかくのクラシック音楽カテゴリの節目ということでもありますので、本記事においては私の大好きな作曲家の一人でもある
ショスタコーヴィッチについて少しばかり取り上げさせて頂きたいと思います。

ショスタコーヴイッチの交響曲は、何と言っても圧倒的に交響曲第5番(革命)が有名ですし、
この交響曲第5番の人気&演奏頻度&録音頻度は突出していると思います。
当ブログにおいて、ショスタコーヴィッチの記事を書く際は、なぜかあまりにも有名な交響曲第5番ではなくて、
ファゴットが第四~第五楽章で大活躍する交響曲第9番や交響曲第7番「レニングラード」や交響曲第10番や
吹奏楽コンクールにおいて昔も今も定番曲である「祝典序曲」や吹奏楽経験者でないと聴いたことすらないと思われる
「民族舞曲」のことばかり触れているような気もしますので、ここは久しぶりに交響曲第5番を取り上げてみたいと思います。

ショスタコーヴィッチはその生涯で二度ほど政治的にやばい状況を迎えます。
当時のソ連体制においては、国家権力によって睨まれたり監視の対象になってしまうというやばい状況が即自身の
処刑・シベリア送り・強制収容所送りという悲惨な末路に直結していたものですし、
本来音楽というものは自由であり「自分はこのように感じたからこうした曲を作る!!」みたいな事が尊重されるのは
当然の事なのですけど、当時の共産党一党独裁のソ連にはそうした自由は無く、「人民が喜びそうな外面的効果の高い音楽」を
量産する事を求められ、スターリンや音楽官僚が喜びそうな曲を作ることが何よりも求められ、
作曲者自身の内面を描くといった抽象的な音楽は、国家権力によって敬遠されひたすら外面的に明るい音楽を作曲する事が
強く求められていました。
そうした国内状況だったからこそ自由な音楽を求めてソ連体制を嫌って祖国からの亡命を求めたのが
ストラヴィンスキーとかプロコフィエフと言えるのだと思います。
しかしショスタコーヴィッチは律儀にも祖国愛が強いのか、面倒な事を嫌ったのか、家族の反対にあったかは
よく分かりませんけど、生涯一度も亡命する事もなくその生涯において終始変わらずソ連体制の中で生き続け、
その生涯をソ連の中で閉じた方なのです。
本当は、マーラーみたいな音楽を書きたかった欲求もあったのかもしれませんけど、
(それを強く示唆させる音楽が交響曲第1番や交響曲第4番といえるのかもしれないです)
時に自分の内面に忠実な作品を書きそれが国家からの批判を招き、その反動として外面効果が高い分かり易い曲を残すという「御用作曲家」みたいな面を持つという事で、本当に苦労が絶えない人だったと思います。
だけどその反面。ショスタコーヴイッチの交響曲第4番や交響曲第15番を聴いてしまうと、
「もしかして、マーラーの音楽史的な後継者はシェーンベルクじゃなくて実はショスタコーヴィッチではないのか・・!?」とすらも
勘ぐってみたくもなりそうです。

ショスタコーヴィッチの政治的にやばい状況の内の一回目は交響曲第4番やバレエ「明るい小川」を作曲していた頃です。
これらの音楽が「抽象的で訳がわからん」という事で睨まれ、当時はソ連の御用新聞のプラウダや音楽官僚たちから
「音楽の荒唐無稽」というとてつもない大批判の大合唱を受け、ショスタコーヴィッチ自身も一時は、自身の逮捕・処刑・流刑を
覚悟した事があるというのはどうやら本当の事のようです。
その代償として作曲されたのが、ショスタヴィッチの代表作、交響曲第5番というのも皮肉な話であり不思議な感じがします。
そしてやばい二回目は、第二次世界大戦終了後に戦争勝利記念作として発表された交響曲第9番が要因となります。
スターリンにとっては、「この交響曲は特別な存在であるべきである。なぜなら我々は戦勝国だからである。
だからこの祝祭的な交響曲は、合唱などを入れ大規模に国家の勝利を讃える必要がある」などと命令したかどうかは
よく分かりませんが、そうした気持ちは幾分は持っていたのかもしれません。
だからこそこの第9交響曲が「洒落っ気に溢れた軽妙曲」であったことにスターリンは激怒し、
「俺の顔を潰しやがって・・・」みたいな気持はどこかにあったかもしれません。
そしてジターノフ批判という大批判キャンペーンが展開され、ショスタコーヴィッチはこの危機に対しては、
オラトリオ「森の歌」で大衆迎合用の分かり易い曲を提出し難を逃れています・・・
ちなみの「森の歌」の初版の歌詞のラストは「スターリン万歳!!」だそうです。
(スターリンの死後その讃美の歌詞は削除されています)

そうした色々複雑な背景&事情があった交響曲第5番ですけど、作曲者本人にとっては自分自身の生命が掛った
ある意味起死回生みたいな曲だったと思います。
音楽評論家の解説、指揮者の解釈によって様々な見解が分かれる曲ですし、事実様々なアプローチが可能な曲だと思います。
同時に、「ショスタコーヴイッチの証言」という本(実は創作物という見解も根強いようです)の一節にある通り
「終楽章は歓喜ではなくて、強制された歓喜の悲劇」という解釈も一理あるのかもしれません。

実際はどうなんでしょうか・・・?

この曲は生演奏で聴く機会が比較的多かったもので、何回か聴いた事はありますが、悲劇的な感じとか強制された
という印象はありませんでした。

当時の権力者・社会・自分を快く思わない人達とショスタコーヴィッチ自身が戦った結果としての讃歌を感じてしまいます。
終楽章は、「当時の権力者に迎合して彼らが気に入るような曲を書くのも一つの自由、それに反抗して
結果的に自分の命を縮めてしまうのも自由、それを選択するのは権力者自身ではなくて、自分自身なのだ!」
というようにも聴こえてしまいます。
作曲者自身が本当に「あの終楽章は強制された歓喜」というメッセージをこめたいのならば、
100人中45人程度は「確かにあの曲にはそうした意図があったんだ」という事を分からせるような曲の構成を取らないと
その真意は後世には確実に伝わらないような感じもあったりします。
ショスタコーヴイッチ自身がもしも仮に本当に「あの終楽章は歓喜では断じてない!!
あれは強制された歓喜の悲劇なのだ!!」という事を確実に伝えたいのならば、
そうしたメッセージを明瞭に曲に折り込むべきで、
そうした意図が伝えきれなかった時点で、それは実は作曲者の負けみたいな解釈も可能なのではないかと思ったりもします。
それが自由に出来る政治状況ではなかっのが当時のソ連=スターリン体制なのだという事は勿論百も承知しているのですけど、
そのくらい指揮者によって解釈や見解は分かれる曲なのかもしれないです。

ショスタコーヴィッチの交響曲は、19歳の時に作曲され、その自由な発想が今現在でも高く評価されている
交響曲第1番から開始されるのですけど、
2~3番においては、素材は御用作曲家みたいなものを使用しながらも音楽としての表現方法はかり自由という
実験的側面を有し、そして第4番においては自虐的でかなり内面的で分かりにくいものを残しています。
ここで改めて考えてみたい事があるのですけど、
確かに交響曲第4番を聴いたすぐ後にこの5番を聴いてしまうと、
「この両者の極端すぎる違いはなんなの・・!? この曲を作曲した人、本当に同一人物なの・・?」と感じるのかもしれないですけど、
もしもなのですけど、交響曲第4番を作曲した頃のショスタコーヴイッチ自身が、前述の政治的危機が仮に無かったとしても、
あまりにも2~4番のシンフォニーのウケの悪さや「自分の目指すべき方向性とは少し異なる・・」といった違和感を
既にショスタコーヴィ土自身が感じていて、
「自分が作りたい音楽はこうした前衛的方向性ではない」と既に悟った結果としての交響曲を残していた可能性も
あるのかもしれないですし、自身の命にかかわるようなヤバイ状況が無かったとしても、案外交響曲第5番は
作られていたような気さえします・・・
それは、古典的で明快で分かりやすい交響曲第1番を発表しながらも
亡命時代の2~4番で複雑怪奇で訳の分からん交響曲を残しつつも、ソ連復帰後の交響曲第5番であんなにも霊感と才気煥発に溢れた素晴らしい名曲を残したプロコフィエフともどこか重なる面はあるのかもしれないです。
プロコフィエフ自身も、交響曲第4番を作曲していた頃は、そのあまりのウケの悪さに対してショスタコーヴィッチ同様に
「いやいや、自分が目指したい方向性はこんな事ではない」と悟っていた可能性もあるかもしれないです。

それにしてもショスタコーヴィッチの交響曲第5番は、20世紀が生んだ名曲の一つだと思います。
ある意味、こんな分かりやすい曲は無いとすら感じてしまいます。
こんな曲を聴いていると、前述のショスタコーヴィッチ自身の真意とは果たして何なのかとか本当は何を言いたかったのか
みたいな事はどうでもよくなったりもします。
自分自身への問いみたいな第一楽章は冒頭から前半はゆったりとしたテンポで開始されるのですけど
前半は「本当に自分のやっている事は本当に正しいのだろうか・・他に選択肢は無いのだろうか・・」みたいな
かなりの深刻さが暗示されています。
面白いのは、ピアノの重低音が唐突に入る事で曲想とテンポをガラッと変えている点ですね・・
第二楽章は、何か「過去の自分との対話」みたいなものがイメージされます。
第三楽章は一転して瞑想的な音楽が15分ほど展開されていきます。
そして圧巻の第四楽章はティンパニが実に格好いいですし、ラストのトランペットとホルンの超高音&強奏は、
とにかくすさまじい迫力があります。

そして本記事の結論になってしまうのですけど、
何回聴いてもどう捻くれて解釈してもあの第四楽章に「悲劇性」は感じられませんし、ショスタコーヴィッチが回顧録で記した
「強制された歓喜の悲劇」には聴こえませんし、あれは私の感性ではどう聴いても「自問自答」にしか聴こえないです。


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ショスタコーヴィッチの交響曲第5番の終楽章はトランペット奏者にとってはあのとてつもないハイトーンがきつい曲だと
思います。
確かにあの強奏は管弦楽作品の中でも突出した大音響ですし、あのとてつもない大音量は奏者にとっては快楽では
あるのですけど、終楽章ラスト近くのトランペット奏者にとってはあんなハイトーンを大音量でほぼブレスも出来ない状態で
吹奏し続けるという事はとてつもない負担であり、大変なプレッシャーが掛かるとは思うのですけど、それでもあの
爽快感は何事にも耐えがたいものがありそうです。
とんでもないハイトーンの強奏ですので万一音でも外したら一発でバレてしまう曲で奏者にとってはやりがいでもありますし、
同時にプレッシャーのかかる曲でもあります。

「ららマジ」のトランペット担当は、亜里砂・エロイーズ・ボー=ボガードです。

フランス生まれのクォーターで高校2年生のJKさんで、金髪ツインテールがとてもよくお似合いだと思います。
担当楽器はトランペットで、腕前はプロ並で、自分のかわいさが分かっているかのような小悪魔チックな振る舞いをするような
性格もまたまたとってもかわいいですね~♪

公式では「亜里砂・E・B」と略される事が多いです、

バトル時においてはトランペット型のアサルトライフルを武器とします。

亜里砂・E・Bにとってもショスタコーヴィッチの交響曲第5番~終楽章は大変な曲でもあると思うのですけど、天才奏者の
亜里砂・E・Bにしてみれば挑戦のし甲斐がある曲だと思いますし、最後までミスらないで満足のいく演奏ができたとしたら
感極まるものがありそうですね~♪
チャイコフスキーの交響曲と言うと、一般的な感覚で言うと、交響曲第6番「悲愴」が一番有名だと思われますし、
交響曲5番も悲愴と同程度の演奏頻度もあると思います。
私自身、もしも「チャイコフスキーの交響曲で一番好きなの曲は?」と聞かれたら相当悩むと思います。
後味の悪い第四楽章と「ええじぇないか!」の集団発狂みたいな感じの第三楽章が大変印象的な悲愴ももちろん魅力的ですし、
交響曲第5番の全体を貫く循環主題とフィナーレの大団円の爽快さも素晴らしいですし、
4番の華麗さとメランコリーの対比も捨てがたいですし、1番「冬の日の幻想」の素朴さなど
どれもこれも素晴らしいものばかりで甲乙付け難い面は多々あるとは思うのですけど、私的にはいっちば~ん!と感じる
チャイコフスキーのシンフォニーは5番なのかな・・?と感じてしまいます。
(悲愴も素晴らしい名曲ですけど、フィナーレの恨みつらみ・この世への未練等後味の悪さはどうしても感じてしまいます・・)

ただ・・交響曲第4番の魅力も捨てがたいものは多々ありますし魅力は尽きない交響曲だと思います。

チャイコフスキーにとっても、この交響曲第4番は人生の転機の頃に作曲されたものでもありますし、
本人にとっても思い入れはあるような感じもします。
チャイコフスキーの交響曲は、1~3番とマンフレッド交響曲あたりまでは、
それほど際立った個性もあまり感じられませんし、事実演奏会で取り上げられる頻度も決して高くはないです。
しかし、交響曲4番以降は飛躍的に交響曲としての完成度が高くなり、CDに収録される頻度や演奏会で実際に
演奏される回数も1~3番に比べると急激にUPします。

この交響曲第4番の直前にチャイコフスキーは実は人生最大の危機を迎えています。
押しかけ女房的な女性に半ば強引に結婚を承諾したものの新婚生活は半年程度で破綻し、
チャイコフスキーはイタリアに逃避旅行をする羽目になってしまいます。
その時期は自伝によると自殺も一時考えたほど思いつめたらしいのですが、
イタリアの南国の太陽サンサンぶりに心が落ち着きを取り戻したかどうかは分かりませんが、
結果的に何とか立ち直って、再びロシアに戻りどうにかこうにか再び作曲活動が出来るようになるまで回復したのでした。
(結局その伴侶とはその後離婚が成立し、離婚以降は二人は永遠に顔を合わせることはなかったようです・・)

チャイコフスキーの交響曲4番とは、第一楽章~第二楽章の陰気さと第四楽章のフィナーレのバカ陽気の対称性が
あまりにも顕著過ぎとよく批判のタネにされていますけど、これって意外と単純な事で、
第一~第二楽章を作曲していた頃は、ロシアにいる頃の話で妻との離婚を巡る陰鬱な気分の頃の作曲なのかもしれないです。
そしてイタリア旅行中に妻から解放されて、同時に南国の陽気な気候に心もウキウキとなり、
第四楽章の感情爆発の壮麗なフィナーレをルンルン気分で作曲していたのかもしれないです。
この辺りは、あくまで推察ですので、正しい事実はよく分かりませんけど、
意外と正解じゃないのかな・・?というものが曲の隅々から感じられたりもします。

この交響曲第4番が作曲されている頃に、メック夫人と言うチャイコフスキーの人生に大きく関わる金持ち未亡人が登場します。
メック夫人は、年金という形で、チャイコフスキーに毎年定期的な莫大的な金銭援助をする事で、
チャイコフスキーは、特に仕事にあくせくしないで自分が書きたい音楽だけを作曲できる環境に置かれることになります。
チャイコフスキーが生きている頃は、ロシア5人組が活躍している時代とほぼリンクしているのですけど、
例えばボロディンは化学者として、リムスキーは音楽学校の先生として、それぞれに職業を持ち、
その合間に作曲活動をしていた環境とは大きく異なるものがあります。
ロシア5人組がどちらかというと泥臭い曲を残しているのに、チャイコフスキーはむしろヨーロッパの洗練された音楽を
彷彿とさせるよう作品が多いのは、音楽を作曲する環境の違いというのも多少はあるのかもしれないです。
(もちろんチャイコフスキーが作曲した曲の中には、いかにもロシアという感じの曲が多いのもこれまた事実です)
意外な事にチャイコフスキーはメック夫人と生涯一度も会う事は無く、二人の間には膨大な往復書簡が残されているだけです。
(一説には、メック夫人がチャイコフスキーの男色疑惑について調査をし、その結果は疑惑ありと判定だったため
年金を打ち切ったという説を唱える方もいるようではあります)

メック夫人とチャイコフスキーの往復書簡の手紙の中で、チャイコフスキーは交響曲第4番についてかなり細かく書いています。
チャイコフスキーの手紙では、この第一楽章については、
「運命と言うものは、幸福の実現を妨害させる冷酷な力であり、人々が幸せになれないように嫉妬深く見つめているます。
私達は、運命と妥協し嘆き悲しむ事しか出来ないと記しています。
第二楽章のメランコリー漂う雰囲気については、
「仕事、人生に疲れ、夜、本を読んでいてもついウトウトし、いつの間にか本を滑り落としてしまうような感覚」と表現したり
第四楽章については、「言葉の終わるところから音楽が始まる」とか色々と意味深な事を書いています。
この「言葉の終わるところから音楽が始まる」とはどういう意味なのでしょうか・・?
色々と解釈は出来ると思うのですけど、私の受け取り方としては、最後は理屈や論理ではなくて、
その人自身が「自分は幸せだ」と思っていればそれはそれでいいのではないか・・?という事ではないのかなと思ったりもします。
この言葉に前の文章にはどんな事が述べられているのかと言うと、
「あなた自身の中で、どんな喜びも見いだせないというのなら、進んで人の輪の中に入っていきなさい、
人々の喜びの輪の中に入って、そして自分も喜びなさい」と記されています。
どちらかというと人嫌いの傾向が無くも無かったチャイコフスキーをもってしても
「所詮、人は一人では生きていけない」という事を示唆してると言えるのかもしれないですね。

交響曲第4番は、循環主題の形式を取っていて、
第一楽章冒頭のホルンとファゴットのファンファーレは、第四楽章でも再現されています。
(循環主題と言うと次の作品の交響曲第5番の方がかなり顕著ですけど、この4番でも既にこの形式が用いられています)
第二楽章は、何といってもオーボエのメランコラリックなソロが秀逸です。
第三楽章のピッチカートは、奇抜さを感じてしまいます。なんとなくアラビアっぽい雰囲気も感じられますし、
音楽のアラベスクみたいな雰囲気もあるのだと思います。
圧巻は第四楽章で、怒涛としか言いようの無い激しい感情と喜びの感情が爆発しています。
第一~第三楽章で使用される打楽器はティンパニのみですけど、第四楽章で、シンバル・大太鼓・トライアングルの打楽器が
入りますが、ラスト近くにおけるシンバルの怒涛の連打は視覚的にも迫力満点です。
(あのシンバル連打は、同じくチャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」の中間部における
怒涛のシンバル連打を彷彿とさせてくれます)

この交響曲第4番を最初に耳にしたきっかけは、毎度のことですが私の場合吹奏楽コンクールでして、
吹奏楽コンクールにおいては、1970年代頃にチャイコフスキーの交響曲4番はフィナーレの第四楽章が自由曲として
演奏される事が大変多かったです。
第四楽章だけを聴いてしまうと、つい「チャイコフスキーの4番はどんちゃん騒ぎの喧騒なシンフォニーなのか・・?」と
誤解をされがちですので、もしも第四楽章を吹奏楽版で聴いてこの曲について興味を持たれたら、
是非是非原曲を全曲盤で聴いて頂きたいです。
ちなみにですけど、このチャイコフスキーの交響曲第4番第四楽章の吹奏楽コンクールにおいては、
オールドファンの皆様でしたら、福岡電波工業とか響南中学校と言われるのかもしれないですけど、
私としては、1978年の浜松工業とか85年の銅賞なんですけど伊予高校もお勧めしたい演奏です。
(福岡工業大学の演奏も大変印象的です)

上記で記したとおりこの交響曲は第四楽章で唐突に爆発炎上します。

まるで炎のような快進撃が展開され、そこには生きる喜びとか希望に満ち溢れています。

チャイコフスキーの手紙では、この楽章については前述のとおり、
「あなた自身の中で、どんな喜びも見いだせないというのなら、進んで人の輪の中に入っていきなさい、
人々の喜びの輪の中に入って、そして自分も喜びなさい・」
「言葉の終わるところから、音楽は始まっていく」
と記しているのですけど、この言葉を目にすると思い出してしまうのは、2011年に放映されていた「スイートプリキュア」です。


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前述のチャイコフスキーの言葉は、「スイートプリキュア」が一年間掛けて提示したテーマだとも思えます。

どういう事なのかというと、

音符がないなら創り出せばいい。
不幸のメロディの後に幸福のメロディを歌えばそれでいい・・・
不幸と幸せは二つで一つ・・・・
不幸だけを嘆いても意味が無いし、
幸せだけを求めてもいつの日か報いを受けてしまう。

不幸に遭遇したら、いつの日にか再度「幸せ」が訪れるようにやりなおせばいい。

そういう事なのだと思います。

チャイコフスキーの手紙のあの言葉と言うものは、
プリキュアに限らず、「人と人との関わり」においては何か共通するような気もします。

人間が抱えるストレス・悩みのほとんどは人間関係・対人関係なのかもしれないです。

「言った言わない・・・」
「あの時、自分はこういう意図でいったつもりなのに、相手には全く真逆に伝わっていた・・・」
「あの人は陰で自分の事を悪く言っている・・・」
「あの人は裏の顔と表の顔が違い過ぎる・・・」
「あの人を信じていたのに、自分は騙された・・・」
「どうして自分の気持ちがあの人には伝わらないのか・・」
「もうあの日には二度と帰れないのか・・」

色々とあると思うのです。そしてその原因も様々な背景があるのかもしれないです。

結局こうした人と人の間のトラブル・すれ違い・ストレスと言うものを解決する事は、
やはり直接、「その人と向き合っていくしかない」という事だと思いますし、
人間と言うものは時に面倒くさい事もあるけど、やはり人と関わっていかざるを得ないという事なのだと思います。

人と人の間のすれ違いの解決方法結は、その人に真正面からぶつかっていく事しかないようなないような気もします。

それがチャイコフスキーが述べていた「人の輪の中に入っていく」という事なのかもしれないです。


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上記でチャイコフスキーの交響曲第4番終楽章において、ラスト近くにおいて怒涛のシンバルの連打があると記しましたけど、
「ららマジ」でシンバルを担当するのは強心臓中学生の伊藤萌です~♪
伊藤萌はシンバルを担当しているクールで小さな中学3年生の女の子で、中学生ですけど東奏学園の器楽部でJKのお姉さまと
一緒に音楽を楽しんでいます。

クールな性格の後輩で、「・・・くるしゅうない、です。」など変わった口調でしゃべるのが個性でもあります。また落語を聞くのが
趣味というJCさんにしては大変珍しく渋い趣味を持っていたりもします。

先輩の小田桐アミを師と仰ぎアミのことを「師匠」と呼び慕っているのですけど、実を言うと小田桐アミは元々は
器楽部のシンバル奏者だったのですけど、シンバル奏者は時に「ここで怒涛の一撃を決める!」みたいなプレッシャーを
時に伴いますので、その重圧に耐えきれず、シンバル奏者の地位を後輩の伊藤萌に譲ったという経緯もあったりします。
そして小田桐アミはその後シンバルからピッコロ奏者にパート変更をしています。

アミがいなくなったシンバルは伊藤萌に継承されていますけど、伊藤萌は見た目の少し控えめな雰囲気とは全く異なり、
大変な強心臓の持ち主でプレッシャーに大変強く、「ここでシンバルの強烈な一撃が必要」という時にはしっかりと確実に
決めてくれる頼もしいJCさんであったりもします。

活発だけど小心者なアミと大人しいけど強心臓な萌の対比もとても面白いですね~♪

吹奏楽コンクールの規定においては、付属高校の場合、高校で部員が不足している場合は、付属中学校の生徒も
メンバーに加えてよいという規定があり、
それによって昭和の頃ですけど、明大明治・日大豊山・土佐女子高校などが高校の部だけど何人かの中学生が加わり
全国大会のステージに立ったという話もあったりします。

東奏学園器楽部ももしかしたらそんな感じだったのかもしれないですね。

伊藤萌以外には、ウクレレの卯月幸、エレキギターの卯月真中華、和太鼓の神田茜、鍵盤ハーモニカの瀬沢かなえ
といった中学生が東奏学園器楽部に在籍しています。

チャイコフスキーの交響曲第4番第四楽章のラスト近くにおけるシンバルの怒涛の連打は聴いていて視覚的にも迫力満点です。
シンバルで16分音符炸裂の怒涛のあの連打はクラシック音楽のジャンルでは大変珍しいと思います。

あの場面のシンバル奏者の体力的な負担と集中度とプレッシャーは相当なものがありますけど、強心臓の伊藤萌だったら
楽しみながらのびのびと連打しまくるのかもしれないですね~♪
「未完成」の交響曲は古今東西存在します。

どうして未完成の音楽作品が存在するのかと言うと、作曲半ばでその作品の完成を断念した事例や
作曲半ばで作曲者本人が死去した事例もありますし、事情はそれぞれあるのかもしれないです。
そしてそうした未完成の状態で残された交響曲作品の中でも、例えばシューベルトやブルックナー・マーラーのように
「形式としては未完成だけど一応1つの作品として解釈できなくもない状態まで仕上げられている作品」と言う事で
現在もプロの管弦楽団の演奏会におけるプログラムとして定着している作品もあれば、
「形式的にも音楽的内容の上でも全然物足りないし仕上がってもいない」と見なされ、演奏もほとんどされないという曲も
多数あったりします。

そうした未完成の音楽作品の中で一番有名なのは、何といってもシューベルトの交響曲第7番「未完成」ではないかと思います。

この曲は、後世の人が断片的に残された第三楽章のスケッチをベースに色々と補作完成させようとした事もありましたけど、
(往年の名作映画の「未完成交響楽」においても第三楽章の断片的スケッチを効果的に流していたのが大変印象的です)
結局は、神秘的としか言いようがない美しすぎる第二楽章だけでそっと終わらせるのが一番ベストだと思いますし、
その後にどんなスケルツォ&フィナーレが鳴ろうとも正直どうでもいいような感じさえします。
シューベルト自身、この美しい第一・第二楽章に続く楽章をどうすべきなのか悩んだ挙句
結局何もしないという結論に達したようにさえ感じます。
シューベルトの交響曲には未完成以外でも未完成状態の作品がありますので、シューベルトの交響曲観としては
「完成しない交響曲があってもそれはそれでいいのかも・・」という考えだったのかもしれないです。

他に完成していない交響曲と言うと、ブルックナー/交響曲第9番をあげたいと思います。
この交響曲は、終楽章は結局は完成していません。
ブルックナー自身、死の床でも何とか完成させようと色々と努力はしていたようです。
「テ・デウム」という合唱曲を終楽章に代用させようとした事もあったみたいです。
この交響曲自体、第一楽章と第三楽章がアダージョ 第二楽章がアレグロと言う事で、構成的に、緩ー急ー緩のシンメトリーを
形成していますし、何よりも第三楽章の完成度が極めて高いので、シューベルトの未完成と同様に、
音楽の形式としては未完成状態なのだけど、音楽の内容的に全然支障がないようにも感じますし、
あくまで形式的に交響曲として完成していないというだけの事であって、感覚的に完成したという解釈でも全然問題ないと
思ったりもします。
1984年の朝比奈隆指揮/読響の定期で、このブルックナーの9番が演奏されましたが、前半に「テ・デウム」を演奏していました。
改めて聴くと、第三楽章だけで十分で「テ・デウム」を終楽章に持ってくる必要はないという印象を当時強く感じたものです。
あの時の演奏会は演奏終了後のスタンディングオペレーションがすさまじくて、朝比奈さん自身も満足そうに何度も
舞台と舞台裏を往復されていて聴衆の声援に満足そうに応えられていたのは大変印象的でした。

マーラーの交響曲第10番もブルックナーの9番と同様の感覚もあり、第一楽章と第三楽章はほぽ完成し、
それ以外の楽章のメモも多数現存という事で、クックが補筆完成させていますが、
これはこれで十分マーラー自身の作曲とという事で通用すべきレベルだと思いますし、交響曲第10番を聴かずして
マーラーをかたる事なかれ・・と感じてしまいます。
マーラーが完全な形で完成させた最後の交響曲は交響曲第9番なのですけど、この曲は諦観・死への悟り・
この世の未練の浄化等が感じられる透明感溢れる一方で、死の予感に溢れた曲でもありまして、この交響曲第9番に
慣れ親しみすぎると、交響曲第10番を聴くとなんだか「一度死んだ人間がこの世に蘇ってきた・・」とか
「一度死んだ人間から見た現世の姿」みたいな感覚を感じたりもします。

未完成状態の交響曲で「これはちょっと通用しそうにも無いかな・・?」と感じるのがボロディンの交響曲第3番だと思います。

生前ボロディンがピアノで交響曲第3番のスケッチという事でグラズノフ達に聴かせ、ポロディンの死後、
その時の記憶をもとにグラズノフが第一楽章として構成し、第二楽章は、ボロディンの別の作品をグラズノフが
アレンジしたものですので、事実上、グラズノフ作曲のものとして聴いたほうがいいのかもしれないです。
エルガーの交響曲第3番も断片的なメモをベースに、ペインが無理やり補筆完成させたものですので、
これも実体はペイン作曲と言っても過言ではないかもしれないです。
チャイコフスキーの最後の交響曲と言うというまでもなく交響曲第6番「悲愴」ですけど、実は未完成作品ではありますが
交響曲第7番という作品もあったりはします。
交響曲第5番の次の交響曲として作曲が開始されのましたけど(曲のタイトルは「人生」というそうです)
途中でチャイコフスキーの気が変わり、ピアノ協奏曲という形式で作品を残そうとしています。
結局ピアノ協奏曲としても第一楽章のみ完成と言う事で未完成に終わり、この第一楽章だけ残された作品は
ピアノ協奏曲第3番と言う事で今でも稀に演奏・録音がされることもあるようです。
交響曲としては、ピアノ協奏曲第3番第一楽章を第一楽章に充て、残りの三つの楽章は他の作品を転用・補作したものを
当てていますけど、率直な感想としては「チャイコフスキーの交響曲は6番までとマンフレッド交響曲があればそれで十分」と
感じさせるものは間違いなくあると思ったりもします。

作曲家も、自分の「死」を意識したら、生前の間に過去の作品はきちんと整理をすべきなのかもしれないです・・
(シベリウスは交響曲第8番という作品も完成直前まで仕上げていたそうですけど、結局は生前に破棄したそうです)

シューベルトの「未完成」なのですけど、実はこの交響曲は、昭和~平成初期の頃のプロの管弦楽団の演奏会でも
CDの解説においても交響曲第8番「未完成」と表記されていました。
しかし今現在は8番と表記されることはほとんどなく、交響曲第7番「未完成」と表記されることが一般的です。
そして現時点では一応シューベルトの最後の交響曲とされている「ザ・グレート」交響曲に至っては、諸説入り混じっていて
第二次世界大戦前あたりまでは交響曲第7番と呼ばれていて、人によっては交響曲第9番説を唱えていたり、
はたまた「実はザ・グレートは交響曲第10番である」という事を唱えている人もいたりもします。
どうしてこんな事になったのかと言うと、シューベルトには未完成状態の作品が多い事に加えて、シューベルト自身が
手紙で「こんな交響曲を書いた」という言及があるものの、肝心の楽譜そのものが発見されず、
幻の存在とされてきた「グムンデン・ガスタイン交響曲」という謎の存在があったりするからです。
シューベルト自身もあの世で、自分の残してきた未完成作品と手紙のおかけで後世の音楽研究家の皆様にこんなにも
大混乱を引き起こしていたとは・・と苦笑いをされているのかもしれないです。

シューベルトの交響曲の表記は、交響曲第1番~6番までは何の問題もありません。

上記で触れたとおり、シューベルトの交響曲「ザ・グレート」は現在では交響曲第8番「ザ・グレート」として認識されていますが、
この交響曲は過去においても今現在でも諸説多々あるようでして、7番説・8番説・9番説・10番説が唱えられています。
7番説ですと、交響曲として完全な形で残された1~6番までを成立順に並べ、やはり完成されたザ・グレイトを
7番目の交響曲として位置づけし、シンフォニーの概念としては未完成状態である未完成交響曲を交響曲第8番として
解釈したという考え方です。
9番説というのが、交響曲第6番作曲後に作られ、一応全ての楽章のピアノスコアは現存し、ほんの一部だけ
オーケストレーションされたその後放棄された作品を交響曲第7番として認め、未完成交響曲を交響曲第8番とし、
「ザ・グレート」を交響曲第9番とする考えです。この説は平成前半まで日本の管弦楽団でもプログラム表記の際の
根拠になっていたと思われます。
そしてある意味珍説とも思われる第10番説なのですけど、これはシューベルト本人が手紙でその存在を示唆していて
幻の存在とされてきた「グムンデン・ガスタイン交響曲」という謎の存在を、その調性も作曲時期すらも明確になっていないけど
未完成交響曲の後にくる第9番として認定し、「ザ・グレート」を10番とするという説です。
現在においては、そのグムンデン・ガスタイン交響曲をその存在自体を疑問視する見解もありますし、
「ザ・グレイト」を作曲する前段階の下書的作品ではないのか・・?という意見も根強くありますので、この10番説を唱える人は
極めて少ないといえそうです。
(補足しますと、グムンデン・ガスタイン交響曲らしき作品と思われる筆写譜が後日発見されて、その曲の主題も長さも
ザ・グレートとよく似ているそうです。但しその筆写譜自体、偽物か本物かは意見が分かれているそうです・・)
1978年の国際シューベルト協会の見解としては、全ての楽章のピアノスコアは現存し、ほんの一部だけオーケストレーション
されその後放棄された作品と幻のサン品とも言えるグムンデン・ガスタイン交響曲の2曲をシューベルトの番号付交響曲から
外し、未完成交響曲を正式に交響曲第7番「未完成」とし、「ザ・グレート」を交響曲第8番と定め、これが今現在の
オーケストラのプログラム表記における根拠とされています。

シューベルトにしてみたら、放棄した作品や何気なく記した手紙の一節で後世の人たちがこんなにも苦労するとは
思ってもいなかったという事なのだと思います。

シューベルトの「ザ・グレイト」は多分ですけどシューベルト最後の交響曲であるとは思いますけど、
上記のマーラーの交響曲第9番でもちらっと触れましたけど、作曲家の場合、
「もしかしたらこの交響曲は自分の現在の体力や創造力等を考慮すると、これが最後の作品になってしまうのかもしれない」と
意識してしまうと、 何かしら死を意識した作品になってしまうのはある意味当然なのかもしれないです。
その最後の作品に何を伝えたいのかというそうした「ダイニングメッセージ」を意識して、その作曲家の最後の交響曲を
聴くという事は意外と興味深いのかもしれません。
自分自身の最後の交響曲に「死」の香りをプンプンと残して旅立った作曲家と言うと、チャイコフスキーとマーラーが
その典型例といえそうですし、私だったらここにマルコム・アーノルドを加えたいです。

私の感じ方としては、マーラーの交響曲第9番は、死を受け入れたとか、死に対しては諦観の感覚を持ち、
諦めの気持ちをもって潔く死を受け入れたから未練はないという感じがあったりもします。
特に第一楽章の冒頭の低音とミュートを付けたホルンとハープのあの独特な響きとか
そ第四楽章の「全ては空の下・・すべては消えてなくなる」みたいな音楽を聴いてしまうと
一度死んだはずの人間が何かの間違いで生き返ってしまい、
死者の感覚として「現世=この世」を見てしまう・・みたいな感覚も感じたりもします。
チャイコフスキーの場合は、いかにもこの世に未練たっぷりで、
「死にたくないよ、死にたくないよ・・、まだ自分にはやるべき事が残っているというのに・・」といったチャイコフスキーの
心の叫びがエコーしてくる感覚があります。
死の意識を自身の最後の交響曲に反映させたと思われる21世紀に逝去された、現代人・アーノルドの感覚は
どのようなものだったかと言うと、それは痛々しいとしか言いようがない音楽だと思います。
その点は、同じくイギリスの作曲家のヴォーン=ウィリアムズと何か近いものがありそうな気がします。
アーノルドもV.ウィリアムズも、共に交響曲第一番第一楽章冒頭で「高らかな希望」を謳い上げる事で作曲家生活を
スタートさせたのですけど、最後の交響曲第9番においては、二人とも長い道程の中で果たし得なかったものを思う苦渋、
または断念という気持ちを感じたりもします。
V.ウィリアムズの場合は、それが何とも言えない寂寥感を感じさせてくれます。
アーノルドの場合は少し違うような気がします。
第四楽章はずっと沈鬱で陰々滅々としたギスギスした荒涼感に閉ざされた音楽が20分以上延々と展開され、
正直聴くだけで自殺したくなるほど「痛い音楽」がかすかに鳴り響きますけど、ラストのラストで光がさーーっと
差し込んでくるように聴こえます。
最後にアーノルドが渾身の力を振り絞って希望の光を楽譜に残したような感覚があります。

同じ「死」を意識した交響曲でも、作曲者よって違いは相当出てくるものだと思われます。

最後に・・余談ですけどデンマークの偉大なる作曲家、ニールセンはその生涯に6曲の交響曲を残しました。
(日本においては、交響曲第4番「不滅」がやたらと有名ですよね~)
そしてニールセンの最後のシンフォニーは交響曲第6番「素朴なシンフォニー」という不思議な曲です。
上記で触れた通り、最後の交響曲というと、例えばマーラー/交響曲第9場番とかチャイコフスキーの「悲愴」のように
「死」を意識しがちなのかもしれないですけど、ニールセンの6番からは不思議とそうした死の要素はあまり感じさせません。
むしろ、音楽の楽しさ・軽快さというものを最後の最後で表現したかったのかもしれませんけど
重厚感・重苦しさ・悲痛さというものはあまりなく、気取らない自然さみたいな部分が非常によく出ていると思います。
一言で言うと「無邪気な交響曲」という感じなのかもしれないです。

この曲は以下の四楽章で構成されています。

Ⅰ.グロッケンで曲が開始され、大変愛くるしいです。

Ⅱ.ユーモレスク

Ⅲ.アダージョ

Ⅳ.変奏曲

この交響曲第6番の最大の特徴は第二楽章だと思います。
第二楽章は管弦楽のシンフォニーなのに、なんと使用される楽器は管楽器と打楽器のみで弦楽器は全く使用されません。
この楽章をCDで聴くと一目瞭然なのですけど、(当たり前ですけど)「吹奏楽の響き」のように聴こえます。
第三楽章の悲痛なアダージョも陰鬱という感じではなくて、死を言意識させる要素はあまりないようにも感じます。
そして第四楽章も、ラストは唐突にファゴットの持続音で閉じられます。

このラストのファゴットの響きを聴くと、唐突という感じもあるけど
一人の作曲家として「何かやり残したものがあった」みたいな何か少し後悔の念みたいなものは少しだけ伝わってくるような
気もします・・・


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上記にてニールセンの交響曲第6番「素朴なシンフォニー」終楽章の最後は唐突にファゴットの持続音で閉じられていて、
とてつもなく奇妙な感じがするし、自分の生涯において少しばかり「やり残したことがある・・」という未練の感情が
このファゴットの音からは感じられると記しましたけど、ららマジにおいてファゴットを担当されているのは、
サックス奏者の橘アンナの双子の妹の方の橘レイナです。

橘レイナの雰囲気は、姉のアンナ以上にクールでミステリアスな美少女だと思います~♪

そしてそうしたミステリアスな雰囲気は、ニールセンの交響曲第6番終楽章におけるファゴットの奇妙な持続音だけで
閉じられるという雰囲気につながるものがありそうです。


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シューベルトの交響曲第7番「未完成」の美しさはこの世のモノとは思えないのですけど、
特に第一楽章のフルート・オーボエ・クラリネットの木管アンサンブルの美しさは何度聴いてもゾクゾクさせられるものが
あります!

フルートの結城 菜々美は、チェロの阿達悠花、胡弓の有栖川 翼、グロッケンシュピールの神代 結菜、箏の橋本 ひかりと並ぶ
ららマジ屈指の美少女の一角だと思います~♪
(というか、ららマジに出てくるJCさん・JKさんはみんなとってもかわいいですよね~♪)
グスタフ・ホルストというと吹奏楽経験者の皆様の感覚で申し上げると、吹奏楽のための第一組曲と第二組曲という
吹奏楽オリジナル作品の中でも不滅の名曲を作曲された偉大なる作曲家という評価は既に確立していると思いますけど、
管弦楽作品としては組曲「惑星」という近代管弦楽曲の中で最も人気のある曲を後世に残されていて、
この素晴らしい名曲はイギリスの管弦楽曲を代表する曲と言えるのは間違いないですし、
特に第Ⅳ曲・木星の中間部のメロディーはクラシック音楽に全然興味がない方でもテレビCMのBGMなどでも大変馴染みが
あると思いますし、一度ぐらいはあの高揚感溢れる素晴らしいメロディーは「どこかで聴いたことがある・・」とお感じになると
思いますし、日本でも2004年に平原綾香の曲でもある「Jupiter」で木星の中間部のメロディーが使用された事でも
馴染みがあると思われます。
木星の中間部のメロディーは、イギリスの愛国歌やイングランド国教会の聖歌ともなっています。

組曲「惑星」はいうまでもなく太陽系の惑星をモチーフにしていますけど、「地球」がこの組曲の中に含まれていないのは
この曲は天文学としての惑星ではなくて占星術から着想を得たためでもあったりします。
ホルスト自身、若い頃はプロの管弦楽団でトロンボーン奏者として活躍していた時期もあり、そのせいなのか
金管楽器の扱い方は大変巧みですし、組曲「惑星」の第Ⅰ曲、火星の中に吹奏楽ではお馴染みのユーフォニアムにソロを
担当させているのも自身の金管奏者としての経験があるからなのかもしれないです。
そして第Ⅶ曲、海王星に女声合唱が使用されている事もあり、組曲「惑星」としての全曲演奏されることは意外と少ないという
事もあったりしますけど、録音・発売されているCDは膨大なものがあったりします。

組曲「惑星」は下記の7曲から構成されています。
(火星と水星の位置が入れ替わっていること以外は、各楽章は軌道長半径上で太陽から近い順番に配列されています)

Ⅰ.火星、戦争をもたらす者

Ⅱ.金星、平和をもたらす者

Ⅲ.水星、翼のある使者

Ⅳ.木星、快楽をもたらす者

Ⅴ.土星、老いをもたらす者

Ⅵ.天王星、魔術師

Ⅶ.海王星、神秘主義者

Ⅰの火星のホルンの雄叫びをはじめとする金管楽器群の咆哮にはいつ聴いてもスカッとさせられるものがあります。
落ち込んでいる時とか気分を奮い立たせたい時には、火星はうってつけだと思います。
火星の冒頭の「ダダダ・ダン・ダン・ダダ・ダン」という5拍子の執拗なリズムの繰り返しは、耳に残りますね~
特にレヴァイン指揮/シカゴ響の演奏の「火星」を聴いてしまうと、他の演奏が全て物足りなく聴こえてしまうほどの
大音響&大迫力があって、この演奏は是非是非お勧めしたいと思います。
上記で記した通り、火星の冒頭には「ユーフォニウム」と言う管弦楽の世界では馴染みがない楽器が使用され、
高音域のソロを朗々と響かせます。
組曲「惑星」はやはり第Ⅳ曲の木星が最も人気があるし、誰しもが一度は聴いた事があるクラシック曲だと思います。
快楽の神らしいスケールの大きく且つメロディーラインが親しみやすい展開がなされていきます。
特に中間部のあの堂々としたメロディーラインは感動すら覚えてしまいますし、あの高揚感は、エルガーの
行進曲「威風堂々」第一番の中間部とラストにおけるあの感動的な高揚感に勝るとも劣らないものがあると思います。
ホルンの勇壮なメロディーラインに乗っかる形のタンバリンも実にいい働きを見せていると思います。
天王星も大変面白いと思います。飛んで跳ねるような曲でもありますが、作曲者自身の多少の悪意というか
悪戯みたいな要素があるようにも感じられます。
天王星の終盤からラストの海王星に至るシロフォーンの扱い方はユニークですしある意味グロテスクですけど、大変
効果的だと思います。
終曲の海王星は一転して神秘の曲です。メロディーがほとんどなく空間を彷徨い続けるような感じです。
一見、無調音楽のように聴こえない事もないですし、調性すら喪失しているような印象すらあります。
ラスト近くで女声コーラスが入りますが、ただ「ウーウー」とハミングするだけです。
この女声コーラスもフェイドアウトというクラシックでは非常に珍しい終わらせ方をするのでその点でも印象的です。
実際の生の演奏会でも、女声コーラスは舞台に顔を出すことはなく、
舞台袖からハミングし、舞台袖→舞台裏→階段などと女声コーラスが移動する事で意図的に声量を落していき、最後は
消え入るように閉じられます。
最後の1小節に反復記号が記され、「この小節は音が静寂の中に消え入るまでリピートせよ」と書かれていますけど、
CDでの演奏はフェイドアウトして終わらせていくという方法を採用しています。
海王星の女声コーラスでの都市伝説というと、舞台袖→舞台裏→階段あたりとコーラス隊が移動を重ねても
声量がまだコンサート会場に届いていて、合唱指揮者が女声コーラスをエレベーターの中に導き、ドアを閉めて昇降させたら
やっと声量が会場に届かなくなり、無事に演奏が静かに終了したというエピソードもあったりするそうです。

20世紀の頃の音楽解説書においては、
ホルストが組曲「惑星」を作曲した頃は冥王星はまだ発見されておらず、海王星が終曲となったと記されている事がありますが、
組曲「惑星」完成後に新たに発見された冥王星について、実はホルスト自身もその新・惑星に大変興味を持っていて
冥王星をモチーフにした曲の作曲を開始したものの、未完成のままホルストは逝去してしまいます。
現実的な話で言うと、2006年8月の国際天文学連合総会における新定義において、冥王星が惑星から除外されてしまい、
名実ともに「海王星」が組曲「惑星」の終曲となった事は大変興味深いものはあります。

冥王星が惑星の一つとまだ定義付けられていた2000年に、冥王星を組曲に追加して現代的に補完しようとする試みもあり、
その中で最も有名なのが、ホルストの研究家でイギリス・ホルスト協会理事の作曲家コリン・マシューズによる
「冥王星、再生する者」なのだと思います。
コリン・マシューズによる「冥王星」は、ケント・ナガノから委嘱を受ける形でハレ管弦楽団のために作曲され、
2000年5月に初演されていたりもします、
冥王星は、海王星で使用した女声コーラスを再度用いている事と、全体的な雰囲気が海王星的な無調的空間を彷徨うな曲でも
ありますので、ホルストの惑星の続編としても現代的感覚を加味したと言う事でも大変面白い試みだと思いますし、
私的にはホルストの継承作品としては申し分のない曲であるように感じられます。
海王星も冥王星も特にメロディーらしい旋律も無く、宇宙空間を神秘的に漂っている共通点があるのが、違和感を感じさせない
理由なのかもしれないですし、冥王星のラストにおいて意表を突く形で女声コーラス―の強めのオ―ーという発声で
閉じられているのも大変面白いです。

上記の新定義で冥王星が惑星から除外されるニュースが広まると、マシューズの冥王星は注目度が高まり、
特に、サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏による「惑星(冥王星付き)の国内版は、
クラシック音楽としては異例の5日で1万枚という異例のセールスを記録し、
冥王星が惑星から外れることで、逆にその存在感を増すという妙な結果になった事も当時一部で話題になっていたものでした。
2000年の大友直人指揮/東京交響楽団の定期演奏会で
組曲「惑星」の演奏が終了と同時にマシューズの「冥王星」も演奏され、ほとんど違和感がなかった事はよく覚えています。


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組曲「惑星」は太陽系の惑星をモチーフにした曲ですけど、20世紀末近くにおいて、太陽系の惑星が一直線に並ぶとか
はたまた地球を中心にした十字架の形で並んでしまうグランドクロスが起きてしまい、その時が人類滅亡の日であると
やたらに煽る世紀末的な雰囲気も一時期ありましたね・・

当時爆発的に売れていた「ノストラダムスの大予言」においては、1986年に惑星一直線が起きて第三次世界大戦が
勃発するとか1999年8月に太陽系の惑星がグランドクロスを起し、その十字架の中心にいるのは地球自身で、
その年にこそまさに黙示録とか旧約聖書で提示されているような「最後の審判」が起き、全人類が滅亡するみたいな事を
盛んに煽り立てていて、当時の中学生・高校生たちあたりに相当のインパクトはあったのかな・・・と
今にして思うと感じる事があります。
結果的に1999年7月の「恐怖の大王が降臨」とか「全人類滅亡」と言うのはとてつもないガセネタであったというのは、
皆様、既にご存知の通りの話だと思います。

私が子供の頃は、人類滅亡の主要因は、宇宙人による地球侵略なんて荒唐無稽な事が
むしろ当時の子供たちの主なイメージと言えたのかもしれないです。
今現在は、地球の終焉というと核戦争の悲劇または地球規模の環境破壊が原因といえそうですけど、どちらにしても
惑星全体から眺めてみると、地球の存在自体がちっぽけなものですので、
理想論をあえていうと、地球全体規模で「それではどうすれば破壊の悲劇を防ぐことはできるのか」とか
「どうすれば世界各地で広がる貧富の差の拡大と格差拡大を防止できるのか」という事を考えることがも地球全体の
課題と言えそうですね。
クラシック音楽の中で、もしかしたらなのですけど、全ての楽器の王様・女王というとそれはピアノなのかもしれないです。

ピアノはピアノソナタ等単独作品としても古今東西たくさんの素晴らしい名曲がありますし、ピアノ五重奏曲といった
室内アンサンブルとしてもその存在感は際立つものがありますし、
ピアノの存在感を最大限発揮したジャンルが管弦楽団と一台のピアノの対話とも言うべきピアノ協奏曲なのだと思います。

18~20世紀初頭までのクラシック音楽の作曲家の皆様たちは、ピアノを管弦楽団内の一つのパートとして使用する事自体が
ナンセンスな話であり、そうした使い方を奏者に指定する事自体がありえない話だったのかもしれないです。
例外としてはサン・サーンスの交響曲第3番「オルガン付」~第二楽章第二部でのピアノ一台で二人の奏者による
装飾音符による連弾ぐらいなのかもしれないです。
(あの部分は二人のピアノ奏者の出番はその数十秒の連弾の部分だけですので、二人とも基本的には退屈そうですね~)

管弦楽の世界では、上記で触れた通り、管弦楽にピアノを用いる場合は、ピアノ対管弦楽の対話という事で「協奏曲」としての
形式が用いられていましたけど、そうした風潮に大きな穴を開けたのが、バレエ音楽「春の祭典」でもってそれまでの
クラシック音楽界の常識をひっくり返したとも言われるストラヴィンスキーだと思います。

ストラヴィンスキーはその出世作のバレエ音楽「火の鳥」でも既にピアノを効果的に用いていましたけど、
その次の作品のバレエ音楽「ペトルーシュカ」でもって更にそうした考えを推し進めています。
ストラヴィンスキーは、管弦楽作品を創造する過程において、ピアノを協奏曲的な主役としての使い方ではなくて、
単なる管弦楽団内の一つの楽器としての役割に徹させる事で、むしろピアノの新しい価値と役割を認識させたような
感じもあったりします。
つまりピアノをあくまで管弦楽団内の一つの素材という事にし、管弦楽団内で例えばクラリネットパート、トランペットパート、
チェロパートがあるのと同じような感覚で「ピアノパート」というものを積極的に活用したという事において、
後世の作曲家に多大な影響を与えたと言えるのかもしれないです。

結果的に20世紀以降の管弦楽作品の中にもごく普通にピアノを管弦楽団内の一パートとして使用している作品も
たくさんありますし(特にバルトークやショスタコーヴィッチ、プロコフィエフに顕著なのかもしれないです)
それによって管弦楽団が醸し出せる音色の幅が広がり、表現の多様性がより大きくなったと言えそうです。

バレエ音楽「ペトルーシュカ」は、指揮者によっては楽団内のピアノ奏者ではなくて、外部からソリスト的にピアノ奏者を
招聘する事もあったりするほどピアノには大変大きな役割が与えられています。
(特にそれが最大限発揮しているのが第一場のロシアの踊りの場面と第四場なのだと思います)
聴き方によっては「このバレエ音楽はピアノ協奏曲なの・・?」と感じるくらいピアノは相当効果的に使用されていますけど、
この曲はピアノ協奏曲ではありませんし、あくまでピアノは管弦楽団内の一つのパートに留まっています。
例えばロシアの踊りの場面とか第3場において、ピアノ奏者の両手の扱いはどことなくですけど、打楽器のシロフォン・マリンバを
彷彿させるものがあるくらいメカニックであるのが大変印象的でもあります。
曲のメロディーラインをずっと担当しているとか目立つソロがあるとかそういう訳ではないのですけど、陰に表に
そのリズムの切れ味と音色の多彩さによって管弦楽全体のサポートに徹しているという印象もあるくらい、主役ではないけど
「いい仕事をしているね~」と感じさせるものが大ですし、むしろピアノ協奏曲以外のジャンルにおけるピアノの無限の可能性を
示唆した作品と言えるのは間違いないと思います。

そしてそうした管弦楽団内の一つのパートとしてのピアノの世界は、その後、例えば、レスピーギの交響詩「ローマの松」や
バルトークのパントマイム「中国の不思議な役人」や「舞踏組曲」等に受け継がれていき、
ショスタコーヴィッチの交響曲の中で更に開花したと言えそうです。

ショスタコーヴィッチの交響曲第5番は、プロコフィエフの交響曲第5番と共に「20世紀の数少ない名交響曲の一つ」だと
思いますが、その第一楽章の開始から中盤までは大変重たく悩み深い空気が流れています。
そしてその重たい第一楽章の空気を一変させ、曲の雰囲気をガラリと重い→活発さ、ゆるやか→速いへと変えるきっかけを
作っている楽器こそがピアノなのです!
ピアノの低音叩きつけから流れが一気に変り、中盤のクライマックスを開始させる大いなる呼び水としての役割を十分すぎる
ほど果たしているのが、結果的にこの交響曲全体ではわずか数十秒程度の出番に留まるピアノだと思います。
あの第一楽章を聴くと、改めてピアノという楽器は別にいつも主役でいる必要もない・・時にはこうした空気を変える役割だって
いいではないかという事を意識してしまいそうです。
ちなみに管弦楽団の現場では、ショスタコーヴィッチの交響曲第5番は全ての楽章にチェレスタパートもありますので、
ピアノ奏者とチェンバロ奏者は普通は兼任していますので、ピアノの出番が終わったらヒマ死という事ではなくて、
ちゃんとチェンバロとしての仕事も残されてはいます。





上記で出てきたショスタコーヴィッチの交響曲ですけど、当ブログの過去記事で何度か書いているように、
例えば交響曲第9番~第四・第五楽章とか交響曲第10番~終楽章、交響曲第7番「レニングラード」~第一楽章における
オーボエの掛け合いの場面などのように、ショスタコーヴィッチの交響曲においては、ファゴットはとてつもなく優遇されている
楽器と感じますし、その使い方は上記のピアノと同様に大変巧いと感じます。

そしてショスタコーヴィッチの交響曲第5番~第二楽章においてもファゴットは大変巧い使い方をされていて、
そうした使用を見るとファゴットの奥深さを改めて感じてしまいます。

ららマジの器楽部のファゴット担当の橘レイナです。

アルトサックス担当の橘アンナは、レイナの双子の姉の方です。

橘レイナは、橘姉妹のミステリアスな可愛いお姉さんの方でしてアンナの双子の妹の方です。
バトル時の武器はファゴット型の狙撃銃で、複数の銃を同時に発射することもできるそうです。

お顔は双子という事でアンナとかなり似ている雰囲気もありますけど、アンナがボーイッシュな雰囲気なのに対して、
レイナの方はいかにも女の子という感じで、かわいらしい!というオーラに溢れていると思います。

橘レイナが奏でるファゴットによるショスタコーヴィッチの交響曲の奥深い世界も味わってみたいですね~♪

平成の頃に発売され、クラシック音楽のジャンルなのに異例の大ヒットアルバムとなった「カラヤン・アダージョ」に
象徴されるように、クラシック音楽の中には大変分かりやすくて人の心にまっすぐと伝わり、思わず涙ぐみそうな美しい
メロディーラインの曲もたくさんあったりします。
代表的な楽曲として、例えば、マーラーの交響曲第5番~第四楽章・アダージェットとかシューベルトの
交響曲第7番「未完成」~第二楽章とかマスカーニ:ーの歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」~間奏曲とか
バッフェルベルのカノンとかJ.S.バッハのG線上のアリア とかチャイコフスキーの弦楽セレナード ~第3楽章とか、
エルガーのエニグマ変奏曲~ニムロッドなどなど多数あると思います。

そしてこの世のモノとは思えないあまりにも美しすぎてジーンとなってしまうクラシック音楽のメロディーというと、
ラフマニノフの作品は絶対に避けては通れないと思います。
当ブログのクラシック音楽カテゴリの中でも、ラフマニノフは登場する機会はかなり多いと思うのですけど、
その中でも「そしてこの世のモノとは思えないあまりにも美しすぎる音楽」にぴったりと当てはまるのが
ピアノ協奏曲第2番(特に第一楽章と第二楽章)なのだと思います。
第一楽章の遠くから聞こえる鐘の音のような音の表現や第二楽章の甘くせつないメロディーラインと終わり近くの
弦楽器によるメロディーラインの再現とそれに対するピアノの絡みや第三楽章の決別とした凛々しい雰囲気など
全ての楽章が名曲の名に恥じない光り輝く素晴らしい曲だと思います。

そしてもちろんピアノ協奏曲第2番も素晴らしいですけど、それと同じくらいあまりにも美しいメロディーラインの連続と
郷愁とメランコラリー溢れるラフマニノフの管弦楽作品と言うと、

〇交響的舞曲

〇交響曲第2番

〇パガニーニの主題による狂詩曲

といった曲も強烈に推したいと思います。

交響的舞曲の第一楽章と第三楽章の中間部におけるあの郷愁感溢れるメランコリーと美しさ、
交響曲第2番第三楽章のどこまでも延々と続く甘くせつないメロディライン
パガニーニの主題による狂詩曲における第18変奏曲のあの美しさは本当に「素晴らしい!」としか言いようが無いです!
この世のものとは思えないはかない美しさに満ち溢れています。

ラフマニノフの作品は、ロシア革命勃発による亡命前と亡命後においても曲の雰囲気自体に大きな変化はないと
感じられます。
亡命後においては、ラフマニノフの祖国のロシアに対する想いと郷愁の要素がさらに加わり、そうした事が
この世モノとは到底思えないような美しさに繋がっているのかもしれないです。

1917年のロシア革命によりロシアはソビエト連邦という社会主義国家となり、国家体制が激変します。
元は貴族の血筋という事でそうした共産主義政権を嫌ったラフマニノフは、不本意ながらも祖国を離れアメリカへの亡命を
決断します。
似たような背景の作曲家というとプロコフィエフもそうなのですけど、プロコフィエフは一度亡命したものの、
祖国の事が忘れられずに、スターリン体制化のソ連に復帰をします。
それに対してラフマニノフは「一度決断した事は翻す事は出来ない」という元からの頑迷な性格もあったのかもしれないですし、
はたまたスターリン体制化の粛清と弾圧と統制まっしぐら状態の祖国に対する不信感もそこにはあったのかもしれないです。
結局ラフマニノフは亡命以降は一度も祖国に足を踏み入れる事も無く、祖国の事に対する郷愁の念は持ちつつも
その生涯を主にアメリカで過ごしています。
アメリカでは作曲家というよりはむしろコンサート・ピアニスト、つまり演奏家として活躍します。
ラフマニノフは2m以上の巨体で手も非常に大きく、指の関節も異常なほど柔軟でピアノを弾くには恵まれ過ぎた体格の
持ち主であり、その演奏技術も非常に高く、リストと並び称されるほど音楽史上有数のヴィルトゥオーゾとしても有名です。
そのため、亡命後のアメリカにおいては演奏家としての方が知名度が高く、ピアニスト・ラフマニノフとして評価される事の方が
大きかったそうです。
(似たような事例としては、作曲家としての顔よりも指揮者の顔としての方が高く評価されがちなバーンスタインとか
生前中は作曲家というよりは指揮者としての評価と名声が高かったマーラーと相通ずるものがあるのかもしれないです)
そのため、アメリカ亡命以降のラフマニノフは演奏家としての仕事があまりにも多忙過ぎて、作曲家としての時間を
なかなか持てなかったという事情もあり、アメリカ亡命以降の作品は、例えば、交響的舞曲・交響曲第3番・ピアノ協奏曲第4番、
そして本記事で少しばかり取り上げさせて頂く「パガニーニの主題による狂詩曲」などごく限られた作品に留まっています。

パガニーニの主題による狂詩曲』は、最晩年の作品の「交響的舞曲」と合わせてラフマニノフの望郷の念が
かなり色濃く出ていると言われています。

タイトルにはピアノという文字や協奏曲という形式も表記されていませんけど、実質的には変奏形式を伴ったピアノ協奏曲と
言えます。
曲自体は主題と第1変奏~第24変奏の形式で構成され、演奏時間は大体24分前後です。
管弦楽で演奏される主題にパガニーニのカプリース第24番を用いていて変奏自体はラフマニノフのオリジナルとなっています。
この種の変奏曲と言うのは一般的に最初に主題を奏でて、それに対して変奏が展開される傾向があるのですけど、
この曲は、堂々とした序奏の後に第一主題が奏でられ、第二主題に入る前に、そのパガニーニの元ネタの主題がピアノで
奏でられ、曲が一度中断されたような形の後で再度第二主題以降が展開されていきます。
単なる主題と変奏にならないようにラフマニノフも色々と曲の中に工夫をしていて、例えば曲の中に
グレゴリオ聖歌の「レクイエム」の怒りの日のテーマも取り入れるなど最初から最後まで飽きることはまずないと思います。

そしてこのラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」の中で最も有名な箇所は、誰が何と言っても
第18変奏Andante cantabile(アンダンテ・カンタービレ)だと思います。
パガニーニの主題の反行形を最初はピアノが独奏で演奏し、その後オーケストラがそれを受け継いで演奏するのですけど、
この第18変奏だけ演奏されることも多いほど、この第18変奏の人気は高いものがあり、テレビCMや映画でもBGMとして
何度も使用されています。

映画のBGMとして使用された事例として、

三つの恋の物語(1953)
ラプソディー(1954)
ある日どこかで(1980)
愛と死の間で(1991)
恋はデジャブ(1993)
麗しのサブリナ(1995)
ONIN(1998) といった作品が挙げられると思います。

それにしてもあの第18変奏曲は、本当に人の心に何かを伝えるものがあります。
いつ聴いても、何か涙が自然と出てきそうな不思議な哀愁・郷愁がそこには溢れていると思います。
この曲を全部聴くのはちょっとかったるい・・と感じられそうな方は是非ぜひ一度You tube等で第18変奏曲だけでも
聴いて頂ければ幸いです。
多分ですけど多くの人は「どこかで聴いたことがある」とか「あ、この曲がそうなのか~」と感じられると思います。

私が仙台の実家にいた頃、当時よく東北放送(関東で言うTBSラジオ)が掛けられていました。

日曜日の朝、東北放送では、当時「キューピー・バック・グラウンドミュージック」という音楽番組があり、
この番組のエンディングテーマがラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」の第18変奏曲だったのです。
当時は曲名も作曲者名も何も知らず、何となく聴いただけという感じでした。

この曲を知ったのは、1993年の5月の東京シティフィルのサントリーホールでの演奏会でした。
前半がハイドンの交響曲第101番「時計」とパガニーニの主題による狂詩曲、後半がチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」で、
ピアノソリストは中村紘子、指揮者は十束尚宏でした。
当時は、この「パガニーニの主題による狂詩曲」という曲は知りませんでした。
曲が開始されると、パガニーニのあの主題は結構有名ですので「あ、この主題は聴いたことがある」という感じでしたけど、
第18変奏が始まると本当に驚きました。
子供の時聴いた「キューピーバッググラウンドミュージック」のED曲が流れてきていて、
「あのメロディーは実はこの曲だったのか~!?」と改めて気が付き、懐かしいような、嬉しいような気持ちとなりました。
子供の頃の記憶は、数十年経過していても意外とはっきりと残っているものでもあるものですね。

当日のサントリーホールの演奏会は当日券で購入し、P席(演奏者の後側の席)でしたので、指揮者や中村紘子の表情は
間近で見ることが出来ました。
私の座席の目の前にバスドラム・シンバル・グロッケン等の打楽器が配置されていて、ちょうど私の座席の真正面が
グロッケンシュピールが配置されていて、一曲目のハイドンの時計は打楽器はティンパニのみですので、グロッケン奏者は
その際は配置されておらず、グロッケンの「「パガニーニの主題による狂詩曲」のパート譜面をマジマジとお目に掛かる事が
出来た事は大変貴重な経験だったと思います。
もっとも曲のほとんどは休符という指示でしたし、グロッケン自体は重要なソロがある訳ではないですけど、部分的に
スパイス的な役割も見せてくれていて、天国的な響きの色彩を時折目の前で伝えてくれていて、大変印象的でもありました。


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ららマジで、グロッケンシュピール(鉄琴)を担当している高校3年生の女の子は、神代結菜お姉さまです~♪
神代結菜は器楽部創立メンバーの一人でもあります。

余裕たっぷりの柔らかな物腰、豊満なスタイルと、まさしくお姉さまといったタイプのすてきなJKさんですけど、
その醸し出される大人の魅力は、主人公のプレイヤーすらも惑わせてしまう魅力なのだと思います。
だけど昔から優雅ですてきなお姉さまだったという訳ではなくて、実は昔は孤独にさい悩まされ、心も荒んで荒れていた時期も
あったとの事で、その意味では酸いも甘いもわかるすてきなお姉さまという事なのだと思います。

誰にでも分け隔てなく優しく接しますけど、以前の孤独の反動からなのか好意を抱いた相手には
少々暴走気味な愛情表現を見せることもあるそうでして、
マイペースすぎるあまり、時に理由なく学校をサボるという悪癖もあるそうです。

意外にも実は器楽部の部内でトップクラスの怪力の持ち主であったりもしまして、林檎を片手で握り潰せる七瀬沙希を
圧倒するほどの怪力でもあるそうです。

サントリーホールで私が体感したように、P席において私の目の前にグロッケン奏者の神代結菜のようなすてきなお姉さまが
配置されていたとしたら、音楽どころじゃないのかもしれないです・・


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私服の神代結菜お姉さまもとっても美しくて魅力的ですね~♪

以前、すみだトリフォニーホールで「地方オーケストラシリーズ」という企画があり、その時に招待されていたのが
関西フィルで、その時の曲目が、パガニーニのカプリース第24番の主題の弦楽合奏版、
ラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲、交響曲第2番と実質的にオールラフマニノフプログラムでしたけど、
その時に大変印象的だったのは、一般的に現在の日本のプロの管弦楽団の金管楽器や打楽器はまだまだ男性奏者の方が
多いのに、関西フィルの当時の打楽器パート6人は、男性のティンパニ奏者以外の5人は全員若い女性奏者でしたので、
当時はそれが大変新鮮で印象的でした~♪

グロッケン・シンバル・スネアドラム・トライアングル等の打楽器が全員若い女の子というのは、今にして思うとららマジ器楽部を
彷彿とさせるものもありそうですね。
ショッピングモールとか大型商業施設等の1月1日~3日の初売りの際の定番のお正月用BGMとしては、
宮城道雄の「春の海」や雅楽「越天楽」は一つの定番なのかもしれないです。
この種の曲は日常にBGMとして店内で流したとしたら相当な違和感はあると思いますが、
正月と言うのんびりとしたおめでたい時間にこうした曲を流しても全然違和感はありませんし、気持ちとしては
「日本のお正月だよね~」という雰囲気はあると思います。

越天楽は元々は、龍笛・篳篥・笙などから構成される雅楽の曲で、宮廷音楽というのか雅楽の中では一番知名度がありますし、
和式の結婚式においては定番のBGMの一つだと思います。
越天楽は越古くから存在する雅楽ですが、日本と西洋の楽器の種類の違いはあるにせよ、基本的には弦楽器・管楽器・打楽器
から構成されています。
西洋の弦楽器に相当するのが、琵琶と筝であり、西洋の管楽器に相当するのが竜笛・笙・篳篥であり、打楽器に相当するのが
楽太鼓・鉦鼓と言えると思います。

「楽器の基本的構成が同じならば、越天楽を西洋楽器を使用した管弦楽に編曲にするといのもありではないのか?」という事を
思いつき実践されたのが近衛秀麿編曲の管弦楽版「越天楽」です。
近衛秀麿は元々お公家さんの一族でしたけど、西洋音楽もしっかりと勉強されていて、
楽器の移し替え・移調は、案外造作はなかったのかもしれません。
それでは具体的に元の越天楽の雅楽の楽器をどのように管弦楽で使用する楽器に置き換えたのかと言うと、
•笙→ヴァイオリン
•龍笛→フルート、ピッコロ
•篳篥→オーボエ、ソプラノサックス、トランペット、エスクラ(小クラリネット)、ヴィオラ、チェロ
•鞨鼓→スネアドラム
•鉦鼓→トライアングル
•太鼓→大太鼓
•箏→ホルン、ピアノ、クラリネット
•琵琶→ファゴット、チェロ となっています。

面白いのは琵琶をファゴットに置き換えた事だと思います。聴こえてくるのは確かにファゴットの音色ですけど、
なんとなく琵琶っぽく聴こえなくもないです。
龍笛をフルートに置き換えたのはそっくりそのまんまという感じもしますし、打楽器はほぼ忠実に置き換えているような
印象もあります。
箏をホルンやピアノに置き換えるちょっと意表をついたアレンジは、近衛秀麿が指揮者としての実地での経験を
活かしているようにも感じられます。

本物の雅楽によるオリジナルの越天楽も聴いたことがありますけど、単純に比較すると管弦楽編曲の越天楽との
違いは当然大きいです。管弦楽版の越天楽は何よりも音楽の作り方は西洋風そのものに聴こえます。
編曲者の近衛秀麿のできるだけ雅楽風に歌わせようとする意図は分かりますけど、
どうしても小節の頭で楽器同士が揃ってしまう感覚は強いと思います。
雅楽みたいな微妙なズレというのか「間」というものが必ずしも絶対的にそこにある訳ではなくて、
どうしても西洋合理主義に由来する「楽譜に書かれている事をまずは正確に正しく表現しよう」という感覚が
日本的なあいまいさ・微妙さ・わびさびの感覚を上回っているようにも感じられなくもないです。
一方で元の雅楽としての越天楽と管弦楽編曲版の越天楽の双方においての曲のメロディーラインの雰囲気自体は、
驚くほど良く似ているようにも聴こえます。
そう思える根拠は、言葉にすると大変難しいのですけど「ゆったりとしたゆるいテンポ」が
例え本来の雅楽で演奏しても西洋楽器で演奏しても、大した違いは出ていないという事があると思えますし、
この極めてゆったりとしたテンポが、いかにも日本古来らしいメロディーを奏でる事に大変よく合っているからなのかなぁ・・とも
感じたりもします。

私自身、管弦楽版の近衛秀麿編曲の「越天楽」はほとんど聴いたことがなかったのですけど、
21世紀に入って間もなくの頃、ナクソスレーベルから、沼尻竜典指揮/都響の「邦人作品集」のCDが出て、
この中にこの「越天楽」が収録されていました!

このCDを最初聴いた時は、正直驚きました。
全く違和感がなく、以前何となく感覚で聴いていた雅楽としての越天楽を西洋楽器の管弦楽版で聴いても、
それ程大きく変わったという感じは正直しませんでした。
演奏が、テンポがゆっくり気味で、非常に音色が洗練されているというせいもあるのかもしれませんけど、
意外なほどそこに違和感はありませんでした。

以前何かの実験番組か何かで、雅楽のような和楽器で、チャイコフスキーの白鳥の湖とか
グリンカの歌劇「ルスランとリュドミーラ」序曲を演奏しているのを見た事がありますけど、
この時は相当な違和感は感じたものでした。
この違和感というのは「能や文楽を金髪碧眼の西洋人が演じた時に日本人が感じる違和感」に近いものがあるのかも
しれないです。
越天楽の管弦楽版を最初に聴いた時の事前の予想としては。
上記のように例えばアメリカ人が歌舞伎とか能とか文楽を演じた時みたいな違和感を感じるのかなと
思っていましたけど、そうした違和感は全くありませんでした。
和の楽器で西洋の音楽を奏でる事と洋の楽器で和の音楽を奏でる事の違和感の違いは大変興味深いですし。
そこには「日本人にしかわからない感覚」というものもあると思います。

黛敏郎にも「舞楽~BUGAKU」という越天楽と発想が同じような曲があるのですけど、
こちらもあまり違和感がないという印象はあります。
この曲を更に吹奏楽にアレンジして演奏した1995年の秋田南高校の素晴らしい演奏もあるのですけど、この吹奏楽版舞楽も
聴いていて全く違和感は無いです。

この管弦楽版の「越天楽」なのですけど、実は第二次世界大戦前にこの曲を録音されていた超大物指揮者がいました!
それこそがストコフスキー指揮のフィラブルフィア管弦楽団でした。
ちなみにその音源はSPレコードです。
近衛秀麿が編曲し指揮した管弦楽版「越天楽」を聴いたストコフスキーが気に入ってコンサートで演奏し、
こうやって録音まで残していたのですね!
ちなみにこのSPレコードは聴いたことがないのですけど、演奏自体はとっても興味があります。
果たして沼尻さん指揮の都響の演奏に比べてそこに違和感はあるのかないのかは大変面白いものがありそうです。


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ここから下記は「ららマジ」の話です~♪

橋本ひかりは、箏を担当している高校3年生のJKさんです。

橋本ひかりは、身長が高くスタイルがよい美少女というよりは、ララマジ屈指の正統派美人さんだと思います!

同じ和楽器担当という有栖川翼とは対照的に、引っ込み思案で恥ずかしがり屋な性格で、
特に男性に関して強い苦手意識を持っているというのも、アニメ・ゲームにおける美少女キャラのこれまたすてきなお約束の
一つなのかもしれないです。

面倒見がよく器楽部の後輩からは大変慕われているそうです。

管弦楽版の越天楽の箏はホルン・ピアノ・クラリネットに置き換えられていますけど、元の雅楽として越天楽を聴くと、
箏の響きは古き日本の情緒みたいなものを感じさせてくれていると思います。
雅楽を管弦楽にアレンジする事もかなり大胆な発想ですけど、それ以上に大胆で無茶苦茶な編成のららマジ器楽部による
越天楽というのも面白いものがあるのかもしれないですね~♪
ヴァイオリンの奏法の基本は言うまでも無く弓の毛を弦でこする事なのですけど、それ以外の奏法の一つとして
挙げられるのが「ピッツィカート」だと思います。
ピッツィカートとは弦を指ではじくことによって音を出す演奏技法の事です。
ヴァイオリンの場合、ピッツィカートは弓を持つ右手で弦をはじくことが普通ですけど、例外的に
本来は弦を押さえる左手で弦をはじくという左手のピッツィカートを導入したパガニーニや
弾く際に弦を指板と垂直に強く引っ張って離して弦を指板にぶつけるバルトーク・ピッツィカートという奏法もあったりもします。

ピッツィカートは指でポン!と弾く感じなのですけど、弦のどの部分を弾くかによっても、はたまたどの指で弾くかによっても
音色は微妙に変化しますので、そのあたりは指揮者の好みも反映されるのかもしれないです。
ピッツィカートの弾けるようなポン!という音色で曲が開始される曲としては、メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」の
第一楽章を挙げたいと思いますし、ピッチカートはピッチカートでもバルトーク・ピッツィカートみたいな感じで
激しく叩く事で何やら不気味な雰囲気を醸し出している曲の事例としてマーラーの交響曲第7番「夜の歌」~第三楽章を
挙げたいと思います。

さてさて、そうしたピッツィカートの奏法でもって一つの曲または一つの楽章を構成したという珍しい楽曲も稀にあったりします。

そうした曲として思い浮かぶのが一つがチャイコフスキーの交響曲第4番~第三楽章であり、
もう一つがL.ドリーブのバレエ組曲「シルヴィア」 ~Ⅲ.ピッツィカートだと思います。

チャイコフスキーの交響曲第4番~第三楽章は、コントラバスの超低音からヴァイオリンの高音まで、そして弱奏でも強奏でも、
ピッツィカートで楽章全てを駆け抜けていきます。
更に面白い事に弦楽器のピッツィカート、木管合奏のピッツィカート、金管合奏のピッツィカートがそれぞれ独立して演奏され、
最後にはそれら全てが一つになって融合するオーケストレーションの巧さは素晴らしいと感じます。

ドリーブのバレエの方のピッツィカートも大変面白いですし、とても楽しいです。

バレエ音楽というと、私自身としては、チャイコフスキーの三大バレエ(くるみ割り人形・白鳥の湖・眠りの森の美女)とか
ストラヴィンスキーの三大バレエ(火の鳥・ペトルーシュカ・春の祭典)というように ロシアというイメージがあるのですけど、
フランスのバレエ音楽も繊細で美しくて、ロシアバレエとは別の魅力もありどちらも素晴らしいと思います。

そうしたフランスバレエというと忘れてはいけない作曲の一人がL.ドリーブだと思います。
ドリーブはフランス・バレエ音楽の父とも称されていて、迫力や壮大さよりもむしろ優美で繊細な舞台音楽を残した事でも
知られています。
吹奏楽コンクールにおいて、ドリーブというとバレエ音楽「コッペリア」だと思います。
1985年に中村学園が全国大会で初めてこの曲を自由曲として取り上げ、マズルカ-ワルツ-チェルダッシュという構成も
巧みで編曲が大変優れている事もあり、翌年以降今日に至るまでコッペリアは定番自由曲の一つにもなっていると
思います。
中村学園の功績は、吹奏楽の世界における女子高チームのパイオニア的存在であり、コッペリアと1986年の自由曲でもあった
バレエ音楽「バリの喜び」を世に知らしめたという事が大変大きいと思ったりもします。
現在の吹奏楽コンクールにおける女子高の雄の一つが福岡県の精華女子なのですけど、中村学園も福岡の女子高である事を
考えると、福岡の女子高の偉大さを痛感せずにはいられないです。

ドリーブとチャイコフスキーは、何となくチャイコフスキーの方が大先輩のような感じもするのですけど、
実際は逆にチャイコフスキーの方がドリーブのバレエ音楽から影響を与えられた側面も多少はあったようでして、
チャイコフスキー自身はドリーブのバレエ「シルヴィア」を絶賛し、知人タネーエフに
「もし私がもっと早くこの作品を知っていたら、私は白鳥の湖を作曲しなかっただろう」と語ったエピソードが残されています。

ドリーブの「コッペリア」と「シルヴィア」は上記で触れた通り、 吹奏楽コンクールでは頻繁に演奏される人気曲の一つ
なのかもしれませんけど、 プロの管弦楽の演奏会ではあまり演奏されないようにも思えます・・・
私自身、この両曲の生演奏は新日本フィルの演奏以外聴いたことがありません。
特に「コッペリア」のマズルカ・ワルツ・チェルダッシュや「シルヴィア」のバッカスの行列は聴いていて本当に楽しい曲ですし
子供向けのファミリーコンサートには最適な曲だとは思いますので、もっと演奏頻度が上がってもいいような気もします。

バレエ音楽「シルヴィア」なのですけど、バレエの大筋はギリシア神話から題材を取っています。

ストーリーを簡単に記すと・・・・

羊飼いの青年アマンタが美しい妖精シルヴィアに恋してしまいます。
しかし、妖精と人間の恋愛はご法度で絶対的に禁じられた恋でもあります。
そんな二人を愛の神エロスが何とかしようと画策する中で、
悪しき狩人のオリオンがシルヴィアを奪い自分の洞窟にお持ち帰りをしてしまいます。
拉致されたシルヴィアはオリオンをお酒で酔いつぶし、 その隙にキューピットに助けられて洞窟から逃亡を図ります。
最後は愛の神エロスのとりなしにより、めでたくシルヴィアとアマンタは結ばれ めでたく結婚することになるといった
お話でもあります。

全体的に暗い影も無く明るく楽しい作品でハッピーエンディングで終るところがいいですね。

全体的な印象としては、平凡な普通のお話なのですけど
その意味では、「人形」をバレエの世界に持ち込み、人形を初めてバレエの主人公にしてしまった
「コッペリア」の方が斬新と言えるのかもしれまないです、
考えてみると、人形が主人公のバレエと言うと、圧倒的に有名なのはストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」なのですけど、
そうした意味ではドリーブはストラヴィンスキーの先駆者的存在だったのかもしれないです。
もっともドリーブの音楽はストラヴィンスキーのような過激・野蛮・ワイルドさとは全く別次元の洗練された平和な音楽です。

このバレエは、四つの曲から構成される組曲版としての方が音楽としてはお馴染みなのかもしれないです。

この組曲は下記の四曲から構成されています。

Ⅰ.前奏曲と狩の女神

Ⅱ.間奏曲とゆるやかなワルツ

Ⅲ.ピッツィカート

Ⅳ.バッカスの行列

Ⅰは、全体的にホルンが大活躍を見せていますね。冒頭のトランペットのファンファーレと絡むティンパニが格好いいです。
Ⅱは、いかにも抒情的なバレエの調べという感じで、主役がソロをゆったりと踊っているシーンが目に浮かんできそうです。
Ⅲのピッツィカートは前述のチャイコフスキーの交響曲第4番第三楽章のように
とにかく全体を弦を爪でポンポンと弾くピッツィカート奏法をかなり効果的に使用しています。
シルヴィアは以前Eテレでハイライトを放映した事があったと思いますが、 「ピットカート」の部分はバレリーナがソロで
可愛らしく可憐に踊っていたような記憶があります。
Ⅳは、とにかく楽しい曲で、ⅠのメロディーがⅣで再現されています。
トランペットの勇敢なファンファーレがかっこよくて、ラスト近くで一旦静まりかえり、そこからティンパニのソロが展開され
華麗に曲が閉じられますが、この際の金管セクションの和音の響」が実に見事にハモっていて、ドリーブのセンスの良さを
感じさせられます。

フランスのバレエ音楽と言うと、例えばラヴェルの「ダフニスとクロエ」みたいな豪華絢爛な音の絵巻を思い出してしまいますが、
こういうシンプルだけど楽しい曲も素晴らしいと思います。

吹奏楽コンクールの全国大会においては、シルヴィアはコッペリアよりははるかに演奏頻度は下がりますけど、
過去にいくつかのチームが自由曲として演奏をしています。
吹奏楽コンクールではⅣのバッカスの行列を選ぶことが多いのですけど、中には、1999年の松山南高校のように
ⅠとⅢのピッツィカートとⅣのバッカスの行列を組み合わせた珍しいパターンもあったりします。
そして松山南高校のピッツィカートは、当時私も普門館であの演奏を聴いていてびっくりしたのですけど、
あの弾ける感じをメインで奏でていたのはクラリネットではなくてマリンバ奏者でした!
松山南のⅢのピッツィカートは全体で1分程度の短いものでしたけど、それをマリンバ奏者がまるで協奏曲のように
ほぼ一人でメロディーラインを奏でていて、当時は聴いていて、多少の違和感はあったものの、それはそれで大変ユニークな
表現と感じましたし、あのマリンバ奏者は当日のソリスト賞を贈呈したい気持ちでもありました。


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ららマジのヴァイオリン奏者の九条紗彩は高校1年生の女の子です~♪

自分に厳しく人にも厳しいプロ意識の高いヴァイオリン少女 という設定です。

自分にも周囲にも厳しいため、一見わがままだと誤解されることもありますけど、根は優しくて世話好きでもあります。
極度の照れ屋で自分の気持ちを素直に表現できないという事で、ららマジの中ではツンデレの一人と
言えそうです。

九条紗彩はヴァイオリンのプロを目指しており、神童と呼ばれるフルート奏者の菜々美に密かな憧れやライバル心を
抱いてもいます。

薄いバイオレットのロングヘアーですけど、おでこの露出がなんだかとてもかわいいです。

こういうおでこをしたツンデレ気味の美少女JKさんにデコビンを食らわしてやったら、その反応はなんだか
「私、気になります・・」という世界になりそうですね・・


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夕陽に佇むサンセット九条紗彩はとても美しいです~♪

九条紗彩のヴァイオリンというと優雅という印象もありますけど、L.ドリーブのバレエ組曲「シルヴィア」 第Ⅲ曲のピッツィカート
で弾ける雰囲気の九条紗彩も見てみたいな~という想いもありますね。
イギリスの作曲家、エルガーと言うと 日本では行進曲「威風堂々」第1番と小品ですけど「愛のあいさつ」などが
馴染み深いと思いますし、威風堂々のあの高貴でおおらかな中間部は多分ですけど、誰でも一度くらいは耳にした事が
あるはずと思われるぐらい日本でも大変有名なメロディーです。
私も威風堂々第1番はとても大好きな作品ですし、このブログで何度か語らさせて頂いた通り、高校の卒業式において、
卒業生の入退場の曲は私が在学していた頃は毎年、卒業式の会場の体育館の最後方部に位置していた吹奏楽部によって
エルガーの行進曲「威風堂々」第1番が演奏されていましたので、私自身この曲を聴くと「卒業」という言葉とか
卒業式の時には既に進学先が都内の学校と決まっていたので「これでようやく親元と東北の地を離れることができる」という
期待感と不安感が交錯した当時の甘酸っぱい気持ちをついつい思い出してしまいます。

エルガーは「音楽不毛の地」と18~19世紀の頃にフランス・ドイツ・イタリアなどから揶揄されていたイギリス出身なのですが、
エルガーの出現によってイギリスではパーセル以来の大作曲家が登場したと生前から大変な尊敬と敬愛を集めていて、
その遺した楽曲の多くは母国イギリスのみならず、世界中の演奏会で取り上げられていますし、
特に交響曲第1番や威風堂々第一番や愛のあいさつ、チェロ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、オラトリオ「ゲロンティアスの夢」
などは今現在も世界の管弦楽団においてはレパートリーとして定着していると思います。
イギリス人にとっては、威風堂々第1番は国歌であり、エルガーの存在は「国宝」とすら言えるのかもしれないです。
エルガー以降、イギリスの楽壇には、ヴォーン・ウィリアムズ、ホルスト、ブリテンなど著名な作曲家たちが続々と現れ、
そうした流れが当ブログのクラシック音楽カテゴリでは頻繁にその名前が登場しているマルコム・アーノルドへと
受け継がれているのかもしれないです。

さてさて、そうしたエルガーなのですけど、実は意外にもエルガーは正規の音楽教育はほとんど受けていません。
イギリスは昔も今も階級社会で階級間の格差が伝統的に存在する国ではあるのですが、エルガー自身は
いわゆる平民の子で、父親は楽器屋兼教会のオルガン奏者でもありましたけど、父親自身はエルガーにオルガン奏者を
継がせる気は全く無く、むしろ法律家になってほしいと願っていたようです。
エルガーは家が楽器屋という事もあり、小さい頃より音楽や楽器に慣れ親しんでいて、そこから音楽に色々と興味を
持つようになったものの、家庭の経済環境はそれほど裕福ではありませんので、音楽学校に進学して専門的に学ぶという事は
できなかった事もあり、ポケットにチーズとパンを入れて広場に赴き、そこで自然の風景と向き合いながら、ベートーヴェンや
モーツアルト・バッハ等の偉大なる作曲家が残した楽曲の総譜を分析・解釈していき、全くの独学で音楽を学んでいきます。
エルガーは神童というタイプではなくて、楽譜を読んで理解する能力に大変長けていたという事が言えるのだと思います。
そして驚くべき事に、基本的には独学でピアノ・ヴァイオリン・ファゴットといった楽器をマスターし、更には作曲法すらも
独自に習得をします。
エルガー本人はアカデミックな音楽教育を希望し、海外留学も望んでいたようですけど、それは結局果たされる事も無く
一時は父親の仕事を手伝ったり弁護士事務所の事務員としての仕事も余儀なくもされています。
細かい経緯は省略しますけど、その後、ヴァイオリン奏者としての仕事や合唱団の活動の指導や指揮、
そしてヴァイオリン教室を開いてそこでヴァイオリン講師を務めるなどして、30代の初めまでは決して裕福とはいえない
生活をしていました。

そうしたエルガーに人生最大の転記が訪れます!

前述の通りエルガーは生計のためにヴァイオリン奏者の他にヴァイオリン教室の講師も務めていて、その教室に
一人の美しい女性がエルガーのヴァイオリンの弟子になります。
その女性こそがキャロライン・アリスでして、出会ってから3年後に二人は結婚します。
エルガーにとってはこの結婚は一つの大冒険でもあったと思います。
というのもキャロライン・アリスはエルガーよりも8つも年上という事もありましたが、一番大きな障壁は
冒頭でも書いた通り、イギリスは今も昔も階級が存在するある意味格差社会でもあるのですけど、
エルガーは普通の平民の子であったのに対して、キャロライン・アリスの方は父親がサーの称号を持つ陸軍将校の娘という
いわば上流階級のお嬢さまであり、アリス自身はエルガーと出会う頃には既に詩人・作家としての地位をある程度確立し、
既に本も何冊か出版されているいわばエリートクラスの家庭の大切な令嬢でもありました。
そして輪を掛けて悪い状況なのは二人の宗教の違いという事もあり、アリスの家は先祖代々イギリス国教会系の
プロテスタントであるのに対して、エルガーの家系はカトリック教徒という事で、当然周辺の人達・・特にアリスの身内は
ほとんど全て二人の結婚には大反対をしていました。
当時はまだ無名の作曲家と陸軍少将の娘という身分格差から、アリスの親族は2人の仲を認めなかっ たため、
その反対を押し切っての結婚であり、実質的にアリスは親元からの勘当状態での結婚でもありました。
二人はごく質素なカトリックの略式の結婚式を挙げ、その婚約に際し、エルガーはアリスに
ヴァイオリンとピアノのための小品「愛のあいさつ」を贈呈していますけど、この曲は今現在でもエルガーの代表曲の一つとして
世界各地で愛され、現在も管弦楽団の演奏会のアンコール曲としては定番中の定番の曲でもあったりします。

エルガーはアリスとの結婚以降、本格的に作曲の勉強も始め、ここからたくさんの曲が生み出されていきます。
アリスは結婚以降は自らの詩人・作家としての活動は休止し、ひたすら夫のエルガーを献身的に支え、時に励まし
時に叱咤激励し、エルガーの作品を心から愛しその作品を称賛し、その生涯を閉じるまで変わる事なくエルガーを
精神的に支え続けます。
アリス自身は日記の中で「いかなる女性にとっても天才の世話を焼くというのは、生涯かかっても余りあるものである」という
偽らざる気持ちも吐露されています。
アリスのエルガーに対する信頼と下の階層と結婚した勇気は、エルガーにとってはプレッシャーというよりは精神的な支えと
なっていました。
アリスはエルガーの気分の浮き沈みをなだめ、音楽面では批評と称賛を惜しまず、
またビジネスマネージャー、社会的な秘書をこなし、管弦楽の楽譜用の紙に五線を引いて整理する作業すらも時に
行っていたようです。

エルガーの写真を見てみると、気品と威厳とやさしさに満ち溢れた雰囲気に満ち溢れています!
本当に「イギリス紳士のモデル」といっても過言ではないような感じです。
(立派な口髭や物静かで上品さが滲み出ていると思います)
平民出身のエルガーがそうしたすきのない紳士になったのも、もちろんアリスのてほどきもあったと思われますが、
それ以上にアリスの父親がサーの称号を持つ陸軍将校であったゆえに、それを意識したという事もあるのかもしれないです。
そしてエルガーはアリスとの結婚により、アリスからの献身的な支えや「アリスの父親と比較されてもアリスが恥ずかしく
ないような立派な紳士になろう!」といういい意味での緊張感とモチベーションの高さを得たと言えるのかもしれないです。
そして、オラトリオ「ゲロンティアスの夢」の成功によって結婚から約10年が過ぎた頃に、作曲家としての地位を確立し、
その後は順調に音楽に残るような素晴らしい名曲をたくさん世に生み出し、エルガー自身もサーの称号の他に
名誉音楽博士号、准男爵の称号を与えられたばかりでなく、1924年からは国王の音楽師範を務めるようになっています。

アリスは若い頃の写真を拝見すると、本当に天使みたい・・というのか「不思議の国のアリス」のような雰囲気を
醸し出されているようにも感じられます。
髪の大き目なリボンはなんだか東方の霊夢や藤原妹紅の印象に近いものもありそうです。
アリス自身は知的で物静かなレディであったらしいのですけど、時に情熱的にエルガーを生涯支え続けた気持ちがあった
からこそ、エルガーは世界的に著名な作曲家として音楽史にその名前を残せたと言えるのは間違いないと思います。
ちなみにアリスとエルガーの間に生まれた一人娘のキャリス・アイリーンは、母親のアリスののCarolineとAliceを繋げて
名づけられたものだそうです。
後述しますけど、アリスという名前はヨーロッパ圏では馴染み深い名前なそうですけど、意味としては少女とか献身的、知的
という事もあるそうです。
それはまさにエルガーの奥様のアリスに相応しい名前と言えるのかもしれないですね。

エルガーが残した楽曲の中で、妻・アリスに捧げた曲として最も有名なのが上記でも書いた通り、二人の婚約記念の曲でもある
「愛のあいさつ」ですけど、それ以外に「エニグマ変奏曲」も推したいと思います。

管弦楽のために作曲された単独の変奏曲のうちでは、ブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」や
ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」と並べられるほど音楽的にも大変価値の高い作品です。
エニグマ変奏曲には、第9変奏の「ニムロッド」という大変美しくて感動的でメランコリーな部分が含まれているのですけど、
同様な事にラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」においてもその第18変奏の美しさは、とてもじゃないけど
この世のモノとは思えないものがあると言えます。

この曲のタイトルでもある「エニグマ=謎」なのですけど、「エニグマ」とはギリシア語で、なぞなぞ・謎かけ・謎解きといった
意味なそうです。
この曲には二つの謎の要素があり、 一つ目の謎は、「この変奏曲には、主題とは別の作品中に現われないものの、
全曲を通して 無言の伴奏をする別の主題が隠されている」 というエルガーの発言に基づいています。
その後多くの研究者がその「別の主題とは何なのか」解明しようとしていますが、
現在になってもその謎はいまだに解明されていないとの事です。
英国国歌「国王陛下万歳」とする説、スコットランド民謡「オールド・ラング・サイン」(蛍の光)であるとする説、
「エニグマ変奏曲」の初演コンサートで一緒に演奏されたモーツァルトの「交響曲第38番「プラハ」」がそうだとする説
など色々あるそうですが、 結論は未だに出ていないそうです。

これってもしかしてエルガーのいたずらなのかもしれないですし、作曲時にたまたま何となく口にした言葉が世間に
広まってしまい、 後になって 「いや、あれは特に何の意味もありませんでした」とはいいにくかったのかもしれないです。

二つ目の謎は、各変奏に付けられた意味ありげなイニシャルの事でして、
「そのイニシャルは一体誰なのか?」という事は既にほぼ解明されているようです。
そのイニシャルとは、エルガーの友人とか奥様とかエルガー自身とか弟子の氏名なのですけど、第13変奏の「(***)」の
部分だけは、 その***とは一体誰なのかについてはいまだに解明はされていないとの事です。

この曲は、氏名を公表されない14名の人物のスケッチを、主題と14の変奏によって表現した管弦楽曲とも換言出来そうです。
ちなみに第1変奏 のC.A.E. とはエルガーの奥様、アリスの事ですし
最後の第14変奏「終曲」  E.D.U. とは、エルガー自身です。

そしてこのエニグマ変奏曲にもアリスは深く関わっています。

エルガーがある時ピアノに向かって物思いにふけっていた時に、何気なく即興で弾いていたメロディーが
アリスの注意を惹き、「気に入ったのでもう1度繰り返して弾いてほしい」と頼まれたエルガーは、アリスを喜ばせるために、
その主題に基づいて即興的に変奏を弾き始め、各変奏を友人たちの音楽的肖像とし、
これを管弦楽曲に膨らませたものが「エニグマ変奏曲」の作曲の経緯とも言われています。
(第一変奏にアリスをもってくることが実にエルガーらしいですね~♪)

私的には、ティンパニを小刻みに叩く第4変奏と 第9変奏「ニムロッド」が大変大好きです。

この第9変奏「ニムロッド」は、何となくマーラーの交響曲第5番第四楽章「アタージエット」みたいに
瞑想的で、波打つようにゆったりと感情が動いていき 大変気高い雰囲気があり、 私はとても大好きな部分です。
エニグマ変奏曲は結構長くて30分くらいの曲なのですけど、 この「ニムロッド」を聴くだけでも価値があると思います。

この「ニムロッド」は単独作品としても大変人気が高く、 管弦楽団演奏会ののアンコール曲としても演奏される機会は多いです。
(私もよくこの曲は、特に日本フィルの演奏会でのアンコールで耳にしました)
イギリスでは11月11日のリメンバランス・デーにおいて、戦没者追悼記念碑の前で戦没者を追悼するために
王立軍楽隊によって必ずこの「ニムロッド」は 演奏されるようですし、
国家財政危機により解散を余儀なくされたギリシア国立管弦楽団の最後の演奏曲目はこの「ニムロッド」でした。
最近では吹奏楽コンクールでもこのエニグマ変奏曲が自由曲として演奏される事が多々ありますけど、吹奏楽版で聴いても
ニムロッドの美しさとラストのエルガー自身を表すE.D.Uの爽快さは素晴らしいと感じます。

ここから下記は少しばかり余談になりますけど、上記でちらっと触れた通り、「アリス」という名前は、
今現在も英語・フランス語圏で広く見られる女性の名前であり、
12世紀以降にイギリス・フランスで流行し、17世紀中頃までに廃れ19世紀中頃に復活した経緯があり、
特に1865年に発表された「不思議の国のアリス」の影響度は相当大きなものがあったと言えそうですし、それが
日本においてもアリスという名前が馴染み深い事の一つの要因になっているのかもしれないです。

「アリス」という言葉は「少女」の象徴や代名詞として使われていると指摘する専門家も相当数いるとの事ですし、
同時に知的さ・献身さという意味合いもあるとの事です。

そして「アリス」という名前はアニメ・ゲーム作品ではかなりの作品で既に登場している名前ですし、
それだけ知名度が高い名前というのか「ヨーロッパ的な名前」として定着しているのだと思います。
アリスと名が付くキャラは大体が金髪で色白な女の子というイメージもあるのかとは思います。
そこにあるのはやはり不思議の国のアリスの影響やイメージと言えると思うのですけど、
全体的にはとても可愛い子が多いと思います!
(後述しますけど、私にとっての「アリス」とは言うまでもなく東方屈指の金髪美少女のアリス・マーガトロイドに尽きると思います)


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アリスは本記事の趣旨でもあるエルガーの奥様のすてきなお名前であるのですけど、同時に日本ではアリスと言うと
少女の象徴みたいな雰囲気のキャラの名前に使われる事も多々あるようにも感じられます。
そうした事もあり、本記事においては、dream fantasy2 のアミグリさんが過去に描かれてきた「アリス」という名前の美少女の絵を幾つか転載&ご紹介を
させて頂きたいと思います。
そしてアミグリさんが描かれたアリスから皆様各自の豊かなイマジネーションで少女の面影や知的さを感じ取って
頂ければ幸いです。

上記の作品はアミグリさんが2009年12月に描かれたパンドラハーツのアリスです。

パンドラハーツとは不思議の国のアリス・鏡の国のアリス等の童話をモチーフにしたダークファンタジーと言え、
原作は月刊Gファンタジー連載のコミックで2015年まで連載が続けられ、一度アニメ化もされています。
不思議の国のアリスをモチーフにしている点においては「アリスSOS」の世界観に少しだけ共通するような感じもあります。

アリスはパンドラハーツのヒロインで、主人公と契約を交わした血染めの黒うさぎです。
可愛らしい容姿とは裏腹に、凶暴かつ男勝りで欲しいものは強引にでも手に入れたがる自己中心的な性格ですけど、
あれこれ考え込まないさっぱりした部分もあり、時折ツンデレな一面も見せるという
どちらかというと厄介な御方でもあります。

アミグリさんが描かれるパンドラハーツのアリスは、憂いを帯びた表情が大変印象的です。

アリスの長髪も大変美しいですし、フリルの描き方も巧いですね!

全体的にはアミグリさんが描かれるアリスからは、東方のさとり様みたいにどこなく「心、ここにあらず・・」みたいな
寂寥感も漂わせていると思います。
確かに表面的には乱暴でわがままなのかもしれないですけど、アリスは実は既に100年以上前に命を落としていて、
今現在のアリスは一言で言うと化け物みたいなものです。
そして、生前の記憶は、死亡時の殺され方がよほど屈辱的ださったのか悲劇的だったせいなのか、
記憶は全てアリスの意思で抹消しています。
だからアリスにとっては「果たして自分とは一体どんな存在だったのだろう・・」という自分に対する問いが頭を離れることも無く、
そうした背景がアミグリさんが見事にアリスの心象というのか心の内面を「絵」として表現されているのだと
思います。

パンドラハーツのアリスは2009年12月というアミグリさんのかなりの初期作品で、しかもこの作品は全て手描きという
アナログ作品なのです!
それでいてこんなにも完成度が高いという事は特筆に値するのだと思います。

そしてアリスの名高いセリフとして「やっと見つけた 私の手がかり…」というのがありますが、これはアリス自身が
生前の記憶を取り戻して自分の死の真相を初めて知ったという事に由来しています。
東方のゆゆ様も亡霊なのですけど、ゆゆ様は生前の記憶もはたしてあるのかないのかよく分からない御方ですし、
自分の死体が本当に桜の木の下で眠っているのかも実は分かっているのかわかっていないのか不明なのですけど、
そうした事がゆゆ様のあの特有のおっとりとした雰囲気にも繋がっているようにも感じるのですけど、
パンドラハーツのアリスの場合は、生前の記憶と自身の死の真相を知ったという事で、アミグリさんが表現されたような
「憂い」に繋がってるいると言えるのかもしれないです。


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続きましてアミグリさんが2015年6月に描かれた「きんいろモザイク」のアリス・カータレットです!

このきんいろモザイクの原作は漫画作品で、2013年と15年にアニメ化もされています。

この「きんいろモザイク」なのですけど、イギリスでホームステイを通じて友人となった日英両国の少女達が成長後、
日本で再会して繰り広げる物語をコメディタッチで描くというお話でもあるのですけど、
アリスのメインのお相手役ともいえる大宮忍もとってもかわいいキャラです!

大宮忍も可愛いけど、イギリスの自宅にホームステイしていた忍を慕って日本にやってきたアリスも
忍に負けないくらいかわいいですね~♪
外国人少女というとなんとなくですけど、大柄とか豊かなボディみたいなイメージもあったりするものですけど、
「きんいろモザイク」のアリスもそうですし、「ハナヤマタ」のハナもそうなのですが、
アニメで描かれる外国人少女が小柄でちびっこという設定が意外と多いと言うのもおもしろいものがあると思います。

アリスのストロベリーブロンドのツインテールと青の瞳がとってもかわいいですし、アリス=金髪少女みたいなイメージを
ストレートに絵にした設定とも言えると思います。

アミグリさんが描かれたこのアリスはとてもかわいいと思います!
金髪ツインテールというアリスの最大の魅力をアミグリさんが最大限かわいく描かれた作品といっても過言ではないと思います!
アリスの髪には常にかんざしが差されていますけど、これは忍がプレゼントしたものです。
ピンクのカーディガンもアリスにとてもよく似合っていると思います。
アリスのこのちびっこかわいい雰囲気がとてもすてきに描かれていると思います。

アミグリさんの描かれたアリスなのですけど、随分と背景が美しいなぁ・・と思っていたら、アミグリさんご自身は
「背景はクリップスタジオの素材ブラシでささっと描きました」との事でしたが、
これはささっ・・というレヴェルではないと思います!
アミグリさんの作品って、もちろんキャラの魅力を「アミグリワールド」を遺憾なく発揮して美しく幻想的に
描かれるのですけど、よーく見てみると背景の描かれた方も秀逸なものがたくさんあると思います。

そして同じ版権作品というカテゴリの中でも、アナログとデジタルとか描かれた時期の違いはあるものの、
パンドラハーツのアリスとの違いを見事に描き分けられているのも特筆に値するものがあると思いますし、
今更言うのも何ですけど「同じアリスという名前でも雰囲気とか世界観は全然違うものだ・・」という事を認識させてくれた
素晴らしい両作品だと思います。

そしてこのきんいろモザイクのアリスは、アリスの名前の象徴でもある「少女らしさ」がストレートに溢れていると
言えそうです。


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続きまして、アミグリさんが2019年11月に描かれたストレートヘアのアリスを皆様にご覧頂きたいと思います。

アミグリさんには、2018年の当ブログ開設記念日の際に記念絵として描いて頂いた金髪ウェーブの素晴らしい美少女・アリス
という素晴らしい名作が既に存在しているのですけど、
2019年のストレートヘアのアリスも本当に素晴らしい美少女・アリスを表現されていると感じられます。

2018年のアリスはしっとりとした洗練された大人のアリスまたはレディーの作法をしっかりと身につけた美少女・アリスという
印象が強かったですけど、2019年のストレートヘアのアリスは、大人の魅力というよりは「少女の純真さ」とか
清楚でナチュラルな雰囲気で、少女の面影をまだ色濃く残している大人へのステップを踏んでいる途中の美少女・アリスという
印象があったりもします。
2018年のアリスは少し斜めからのウェーブ髪でしたけど、2019年のストレートヘアのアリスは
真正面からのサラサラストレートヘアという事で、アリスの美しさを正攻法で正統派のスタイルで凛々しくかわいらしく
爽やかに表現されていて素晴らしいと感じます。
ストレートヘアというのはこうやって見てみると、ありのままとか飾らない自然体の雰囲気とか清楚な感じを見ている人に
印象としてもたらしているといえそうですし、アミグリさんの描かれたストレートヘアのアリスが
ウェーブ髪のアリスよりもより少女としての面影を強く感じさせているのは極めて妥当といえるのだと思います。
そして単純な赫赫としての比較というのか第一印象だけでいうと、ストレートヘアのアリスはより自然体な美しさを
もたらしていると言えるのかもしれないです。

外界の人間で言うと、JCさん・JKさんは校則で禁止されているからパーマやウェーブヘアは禁止という事で、
ストレートヘアにする事が多いけど、18歳以降高校を卒業するとウェーブやパーマといった大人の女性としてのおしゃれも
可能になるという事で、JKさんみたいなサラサラのストレートヘアもすてきだけど、同じくらい大人の魅力としてのウェーブも
すてきということだと思います。

全体の色彩が2018年のアリスよりもふんわりと柔らかく感じられるのも、より清楚な自然体のアリスの雰囲気を
醸し出しているようにも感じられます。

アリスというと立ち絵も公式書籍もほとんどがウェーブ髪なのですけど、こうしたストレートヘアもとてもよくお似合いで、
私もストレート髪のアリスもウェーブのアリスもどちらもとっても大好きです!
というか、アリスはどちらの髪型もとてもよくお似合いだと思いますし、
アミグリさんの描かれたウェーブ髪のアリスもストレート髪のアリスもどちらもとっても大好きです~♪

スカートのはしをつまんでいるのもとてもキュートだと思います。

それにしてもアミグリさんの描かれる美少女・アリスは素晴らしい!と改めて感じたものでした。
少女としての面影もそうですし、同時に知的さ・ひそやかさも見事に表現されていると思います。

上記のアミグリさんが描かれた3作品のアリスは、その権利は全てアリスの絵師様である
アミグリさんに帰するものであり、当ブログにおける転載とご紹介は事前に全てアミグリさんからご了解を頂いたものであり、
アミグリさんからのご厚意で転載をさせて頂いておりますので、
無断お持ち帰りや無断コピーは絶対NGですので くれぐれも宜しくお願い申し上げます。

アミグリさん、いつも素晴らしいイラストの転載を快諾して頂きありがとうございます!!

皆様の中で「こんなにも素晴らしい美少女・アリスを描く人のブログってどんな感じなのだろう・・? 」などと
興味がある方は、是非是非アミグリさんのブログdream fantasy2  を ご覧になって頂きたいと思いますし、 宜しければ、当ブログだけではなくて、
是非アミグリさんの本家本元のブログdream fantasy2  に一度お越しして頂けると アミグリさんのブログをご紹介させて頂いている私もとってもとっても嬉しいです!

アミグリさんが定期的に作品を投稿され続けている →アミグリさんのpixiv にも是非一度足を運んで頂ければ幸いです!

アミグリさんのpixiv

それでは本記事を最後までご覧頂きありがとうございました!

やっぱりアリスは美少女としての大いなる象徴といえそうですね~♪
当ブログで「忘れられた作曲家」とか「音楽史の歴史の中で埋没してしまった作曲家」という何度かアメリカの作曲家の
ウィリアム・シューマンの事を何度か取り上げさせて頂きましたけど、忘れられた作曲家というと
E.W.コルンゴルド もそうした作曲家の一人なのかもしれないです。

コルンゴルドは、正直あまり知名度はないかもしれないですし、知る人ぞ知る作曲家という印象もありますけど、
実は結構最近再評価が進んでいる作曲家でもあります。
そして幼少の頃より神童とか天才・モーツアルトの再来とも言われていたりもしまして、
10歳で作曲したカンタータ「水の精、黄金」を聴いた作曲家で指揮者のマーラーは「天才だ!」と称賛し、
マーラーの推薦によってコルンゴルトの指導にあたった作曲家ツェムリンスキーはその脅威の才能に接して
「どっちが教える立場なのかわからなくなる」と告白していたエピソードも残されているそうです。
1920年代~30年代の初期に大活躍をし、オーストリア楽壇の第一人者としての名声を誇った時期もあります。
しかし、コルンゴルドは、元々ユダヤ系のため、ナチスのオーストリア併合に伴って迫害を懸念し、
追われるようにアメリカへ亡命してしまいます。
しかし、アメリカ亡命後は当時極めて保守的なアメリカクラシック音楽業界の冷たい壁にその才能を封鎖され、
(その辺りはアメリカ亡命後にやはりアメリカの楽壇で冷遇され、大変困窮した晩年を過ごしていたバルトークと似ている面は
あります。)
アメリカ移住後は、純粋なクラシック音楽作曲では飯は食えそうにもないと考えたコルンゴルドは、生活の糧として
ハリウッドの映画音楽の制作への転向を決意し、映画音楽制作のためにハリウッドへの移住を決断します。
モーツァルトにも比肩される才能が、ウィーンを離れてハリウッドという映画の都へと活躍の場を移したことになります。
「海賊ブラッド」とか「ロビンフッドの冒険」などの映画のBGMを担当し、ハリウッドでは高い評価を受けるようになりました。
今現在の感覚で言うと「スターウォーズ」等でお馴染みのジョン・ウィリアムズの先駆者的存在という評価も成立すると思います。
アメリカで21本の映画音楽を作曲し、「風雲児アドヴァース」)と「ロビンフッドの冒険」でアカデミー作曲賞も受賞しています。
その関係でアメリカを中心にコルンゴルト=ハリウッド映画音楽の大御所という評価が定着しているようにも感じられます。

第二次世界大戦後に再びヨーロッパに戻ってクラシック音楽業界への出戻りを希望したものの、当時の欧州の楽壇は、
「アメリカの手先」とか「ハリウッドにクラシックの魂を売った人間」などという不当な評価を受け続け、
晩年は冷遇された生活だったようです。
第二次世界大戦後のヨーロッパの音楽事情は無機質な現代音楽が主流となり、
ロマンティックなコルンゴルトの作風は時代送れという辛辣な評価も受けていたようです。

アメリカのハリウッド音楽以外ではその作品も人物も忘れられつつあったコルンゴルドでしたけど、
その死後しばらく経過して、交響曲とかヴァイオリン協奏曲とか歌劇「死の都」が再評価され始め
現在では、マーラーとシェーンベルクの間の世代の代表的な作曲家の一人という評価が定まりつつあるような感じもします。

私が、なぜこのコルンゴルドを知る事になったかというと、1995年12月のNHK交響楽団Cプロにて、
シャルル・デュトワの指揮で、コダーイ/組曲「ハーリ=ヤーノシュ」とプロコフィエフ/交響曲第5番と共に演奏されたのが
このコルンゴルドのヴァイオリン協奏曲で、当時は、「こんな作曲家聞いたこともない」という感じだったのですけど、
この曲が終わる頃には、この協奏曲の虜になり、あまりにも抒情的で美しすぎる音楽の展開にメロメロになってしまい、
演奏会終了後に、すぐに渋谷のタワーレコードに駆け込み、この協奏曲のCDを買ってしまったほどでした。

コルンゴルドのヴァイオリン協奏曲は第一~第三の全ての楽章のメロディーラインがあまりにも美しすぎて、
その甘くてせつない抒情的な雰囲気は、バーバーのヴァイオリン協奏曲やラフマニノフのピアノ協奏曲第2番や交響曲第2番に
通ずるものはあると思います。
悪く言うと、映画音楽の効果的なBGMにも聴こえてしまうほど、実に耳に心地よい音楽なのです。
第二楽章が実に素晴らしく、美的限界を通り越したとしか言いようが無い美しいメロディーが展開されていきます。
第三楽章が、これまた圧巻で、「宇宙戦艦ヤマト」みたいな堂々としたアレグロで進んでいき、
ハリウッド映画の大団円のBGMみたいに格好いい終わり方をします。
バーバーのヴァイオリン協奏曲の第三楽章がが3分程度でセカセカ進んでいくのとは対照的に、
コルンゴルドの第三楽章は、たっぷりと歌い上げなおかつスケール満点で格好いいと言うことなしの素晴らしい音楽を
展開していきます。
だけど、お堅い音楽評論家さん的には「これは安っぽい映画音楽」という評価になってしまいがちですし、事実その初演時も
評論家から「時代錯誤」と酷評されていますけど、私的には別にレトロな雰囲気があったとしても
メロディーラインが美しく、人に何かを伝えられるのならそれはそれでいいのではないの・・?という感想です。
この協奏曲はまだ知名度も低いのかもしれないですけど、是非ぜひたくさんの皆様に聴いて欲しいですし、この曲の真価が
一人でも多くの皆様に伝わって頂ければありがたいです。

この曲は日本フィルで井上道義指揮/渡辺玲子の独奏でも聴いたことがありますけど、デュトワと違って
いかにもやんちゃ坊主みたいな感じの演奏で豪快な演奏を聴かせてくれていましたけど悪くはなかったです。

シェーンベルク等の無調現代音楽が幅を利かせている1930年~40年代に、こうした美しい抒情的な音楽が
作曲されていたとは、音楽史的には一つの奇跡なのかもしれないです。

この協奏曲をCDで聴く場合、シャハム独奏/プレヴィン指揮・ロンドン響が圧倒的に名演だと思います。


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ららマジのヴァイオリン奏者の九条紗彩は高校1年生の女の子です~♪

自分に厳しく人にも厳しいプロ意識の高いヴァイオリン少女 という設定です。

自分にも周囲にも厳しいため、一見わがままだと誤解されることもありますけど、根は優しくて世話好きでもあります。
極度の照れ屋で自分の気持ちを素直に表現できないという事で、ららマジの中ではツンデレの一人と
言えそうです。

九条紗彩はヴァイオリンのプロを目指しており、神童と呼ばれるフルート奏者の菜々美に密かな憧れやライバル心を
抱いてもいます。

薄いバイオレットのロングヘアーですけど、おでこの露出がなんだかとてもかわいいです。

こういうおでこをしたツンデレ気味の美少女JKさんにデコビンを食らわしてやったら、その反応はなんだか
「私、気になります・・」という世界になりそうですね・・


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九条紗彩は自己表現がちょっと苦手なツンデレ系美少女ですけど、この笑顔もかわいくてすてきですね~♪

九条紗彩ソリストによるコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲の演奏も聴いてみたい気はしますね~!
クラリネットと言うと甘美的でせつなくて、時にやさしく時に厳しく時に底抜けに明るく響く音色ですけど、
吹奏楽においては管弦楽におけるヴァイオリンパート的な主要メロディー担当という事が多いせいもあり、
管弦楽作品のアレンジものではたくさんのソロがあったりしますけど、吹奏楽オリジナル作品においては、
クラリネットのウルトラ超目立つソロというのは、オーボエやトランペット等の花形楽器に比べるとちょっと少ないのかも・・?と
感じることもあったりします。
それでも例えば、1977年の課題曲Cの「ディスコ・キッド」とかスミスのダンス・フォラトゥーラとかリードのジュビラント序曲とか
バーンズの交響曲第3番などなどたくさんあったりもします。
上記でバーンズの名前が出てきましたけど、バーンズの日本において知名度がググッと上がる事になったあの不朽の名作の
アルヴァマー序曲のラスト近くのクラリネットのとんでもない速いスピードでの16分音符の連続は、あれはまさしく
クラリネット奏者泣かせだと思います・・

管弦楽作品ではクラリネットソロで目立つ曲はかなりありますよね~

一例を挙げてみると・・

〇ガーシュイン / ラプソディー・イン・ブルー

〇J.シベリウス / 交響曲第1番~第一楽章

〇チャイコフスキー / 交響曲第6番「悲愴」~第一楽章

〇ラフマニノフ / 交響曲第2番~第三楽章

〇M.ラヴェル / ボレロ 「ダフニスとクロエ」第二組曲~全員の踊り

〇ボロディン / 中央アジアの草原にて、歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊り、交響曲第2番~第三楽章

〇D.ショスタコーヴィッチ / 祝典序曲

〇ベルリオーズ / 幻想交響曲~Ⅴ.魔女の夜宴-魔女のロンド

でも、クラリネットというと全ジャンルを通して申し上げると日本では最も馴染み深いフレーズは、フランス童謡でもある
「クラリネットをこわしちゃった」なのかもしれないですね。
あの童謡で出てくる「オ・パッキャマラード」というのは、Au pas camaradeと書くフランス語なのですが、
「友よ一緒に行こう」とか「足並みを揃えよう」というのが本来の意味なそうでして、
原文の意味だと日本語の歌詞とは少しズレてしまいそうです。

そしてクラリネットが大活躍する楽曲と言うと、吹奏楽オリジナル作品ではないし、厳密にいうと管弦楽作品では
ないのですけど、ガイーヌの「剣の舞」でお馴染みのアラム・ハチャトゥーリアンが作曲したバレエ音楽「スパルタクス」を
ハンスバーガーが吹奏楽用にアレンジ・編集した作品である「スリーダンスエピソード」を推したいです!
このスリーダンスエピソードを初めて耳にしたのは高校の吹奏楽コンクール県大会でして、他校が演奏していたこの曲を耳にし、
長大なクラリネットのソロのかっこよさに度胆を抜かれてしまった・・というのがなれそめです。

スパルタクスというと、1990年以降は、ヤン・バン・ローストの交響詩「スパルタクス」の方が演奏頻度も人気も高そうですけど、
ハチャトゥーリアンのバレエ音楽もローストの交響詩もあの壮大な歴史ロマンと迫力は素晴らしいと思います。
スパルタカスとは、共和政ローマ期の剣闘士で、スパルタクスの反乱と称される第三次奴隷戦争の指導者という事でも
有名であり、世界史を選択された方は一度は聞いたことがある歴史上の名前なのかもしれないです。

このスパルタカスを題材にした作品は色々とあると思いますが、一番有名なのは、映画とテレビドラマなのかもしれないです。
音楽の分野では、ハチャトゥーリアンのバレエ音楽が一番有名なのかもしれませんけど、同じバレエ音楽のガイーヌと比べると
知名度とか演奏頻度はぐっと下がるのかもしれないです。
このスパルタカスは、バレエの作品としてボリショイ劇場やその他のロシアおよび旧ソ連のバレエ団のレパートリーにおいて
今でも上演機会はあるという話は耳にした事がありますけど、日本ではほとんど上演されていないと思います。
ハチャトゥーリアンは、このバレエ音楽の中から、三つの管弦楽組曲を生み出したのですけど
この曲は生の演奏会では私自身は聴いたことがありません。
(読売日本響を指揮したロジェストヴェンスキーがこの曲を演奏したというのは耳にしたことがありました)
生前、読売日本響を指揮したハチャトゥーリアンがガイーヌと共にこのスバルタクスを演奏したらしく、
ガイーヌの方は日テレでその自作自演の様子を一部見た事がありますけど、その際にはスパルタクスの自作自演の演奏は
放映されていなかったのがちょっと勿体無かったです。

スパルタクスのバレエ音楽からの三つの組曲版は、CDでは、ヤルヴィ指揮/スコットランド国立管弦楽団の演奏が、
私にとっては馴染みがあります。

この組曲版の構成は下記の通りです。

組曲第1番

序奏 - ニンフの踊り
エギナとハルモディウスのアダージョ
エギナとバッカナリアのヴァリアシオン
情景とクロタルムスの踊り
ガディスの娘の踊り - スパルタクスの勝利

組曲第2番

スパルタクスとフリーギアのアダージョ
商人たちの入場 - ローマの遊女の踊り
全体の踊り
スパルタクスの入場 - 口論
ハルモディウスの裏切り
海賊の踊り

組曲第3番

ギリシャの奴隷の踊り
エジプトの少女の踊り
夜の出来事
フリーギアの踊り - 別れの場面
競技場にて

という構成ですけど、少し冗長に感じる部分もあったりします。

このバレエ音楽「スパルタクス」ですけど、吹奏楽経験者にとっては、ハンスバーガー編曲による「スリーダンスエピソード」という
アレンジ物の方が馴染みがあるのかもしれませんよね。

これは、膨大な曲の中からハンスバーガーが美味しいところをピックアップし
「三つの舞踏エピソード」という形で編集したものですけど、
確かにヤルヴィの原曲版を聴いた後で、このハンスバーガー編曲によるスリーダンスエピソードを聴くと、
「確かにバレエ音楽のいいとこ取りをしたな」という感じが濃厚であったりもします。
私的にはハチャトゥーリアンの「スパルタクス」は、「スパルタクスとフリーギアのアダージョ」が一番
音楽的に優れていて聴きどころ満載と思っているのですけど
ハンスパーカーの「スリーダンスエピソード」にはその部分は取り上げられていませんので
少し勿体ないような気はします。

このハンスバーガーによる吹奏楽アレンジ版のスリーダンスエピソードは下記から構成されています。

Ⅰ.ギリシア奴隷の踊り 商人たちの入場  ローマの遊女の踊り ジェネラルダンス

Ⅱ.フリージアの踊り エジプトの少女の踊り

Ⅲ.若きトラキア人の剣舞

そして上記で書いた通り、ⅠとⅡにおいてはクラリネットにとっては異例の優遇!とすら感じられる長大なソロが用意されていて、
ゆったりとたっふりと歌い上げるシーンがあったり華麗なカデンツァ風ソロがあったりと、クラリネット奏者にとっては
クラリネット冥利に尽きるソロがたくさん用意されていて、クラリネット奏者だったら一度ぐらいはあのソロを吹いてみたい!と
感じさせるものは間違いなくあると思います。

吹奏楽コンクールでは、このスリーダンスエピソードを全国大会初演したのは1978年の天理高校です。
(谷口先生にとっては最後の天理高校での全国になりましたけど、同時に谷口先生にとっても最後の普門館になっていました)
天理高校のカットは、私自身が初めて県大会で聴いた時の演奏とほぼ同じカットを採用していて、
Ⅰの前半のみを演奏しクラリネットのソロが終わったところで残りはカットし、そしてⅡも同様に前半でカットし、
最後のⅢで華々しく終わらせるという構成でもありました。
この曲の構成・カットとしては、1989年の関東一高のように、Ⅱをメインにし、Ⅰの最後の曲で終らせるというパターンも
ありましたし、都大会の足立吹奏楽団のようにⅠの前半を壮麗に鳴らし、中盤から後半はⅡのクラリネットソロをメインにし、
静かに閉じるというパターンもありました。
最近ではもハンスバーガー編曲よりは、仲田守氏のアレンジの方が演奏される傾向にあるのかもしれないです。

最後に・・

上記でクラリネットのカデンツァ風と記しましたけど、管弦楽作品においてクラリネットのカデンツァ風ソロが置かれているのは、
リムスキー・コルサコフのスペイン奇想曲です!
この曲は5曲から構成されていますけど、ⅠとⅢのメロディーラインと音楽の流れは大体同じです。
ただ大変面白いのは、Ⅰのソロはクラリネットが担当し、Ⅲのソロはヴァイオリンが担当し、ⅠとⅢにおいてクラリネットと
ヴァイオリンがまるで攻守交代をしているようでもあり大変面白いです。
それとⅠは静かに閉じられますけど、Ⅲはffで壮麗に閉じられているのも粋な演出だと思います。
そしてⅣにおいては、クラリネットに大変な見せ場が用意されていて、フルートやハープの華麗なカデンツァも素晴らしいの
ですけど、それ以上に第Ⅳ曲のクラリネットによる伴奏無しの完全ソロのカデンツァは大変プレッシャーは掛りますけど、
クラリネット奏者冥利に尽きると思います!





ららマジにおけるクラリネット奏者は綾瀬凛という後輩からは怖がられている少し気難しくて、自分にも他人にも厳しい
雰囲気があるJKさんです。
キリッ・・!としていて後輩に対して厳しく接する雰囲気の綾瀬凜お姉さまの上記のようなちょっと怒ったような表情も
とてもかわいらしいものがありますけど、
同じパートに自分に厳しすぎる子がいたりするとちょっとつらいものがありそうですけど、ららマジの綾瀬凜みたいな
JKさんだったら、私は喜んで同じパート内で頑張らさせて頂きたいものです~♪

クラリネットを吹く女の子の不器用さ・頭の固さというものはもしかしたら全世界共通なのかも・・?といったら綾瀬凜に
怒られてしまいそうです・・
(そう言えば、とあるブログの管理人さんも元・クラリネット奏者でしたけど、あの融通の利かない頑迷さはクラリネット奏者
気質そのものだったと今にして思うと感じてしまいそうです・・)

綾瀬凛がソロを吹くスパルタカス~スリーダンスエピソードやスペイン奇想曲での華麗なるソロを聴いて
うっとりするのもいいかもしれないですね~♪
フランスの作曲家でオネゲルたちフランス六人組の一人でもあるダリウス・ミヨーというと、私的に印象深い曲というと、
吹奏楽オリジナル作品ともいえるフランス組曲であったりもしますし(後に管弦楽作品としてアレンジされています)
これは合作作品ではありますけど、エッフェル塔の花嫁花婿・ジャンヌの扇と言えますけど、その中でも
かなり風代わりで変則的な編成の作品ではありますけど、バレエ音楽「世界の創造」は一度聴いたら忘れられないですね~
この曲、まだ10代か20代の頃に一度だけ管弦楽団ではなくて吹奏楽団の演奏会で一度だけ実際の演奏会で聴いたことが
ありますけど、 その不思議な感覚、ジャズの要素、サックスのけだるい雰囲気に魅了された記憶があります。
曲は16分程度とそれほど長くもありませんし、色々と変化に富んでいますし、
ジャズっぽい洒落た要素も多々ありますので飽きる事はないと思います。
ミヨーの作曲の意図としては「アフリカ人の視点から描いた天地創造」とのことです。
1920年代にアメリカ訪問中に本場のジャズを初めて耳にし大きな衝撃を受け、
パリで活動していたスウェーデン・バレエ団からバレエ音楽の新作を依嘱されると、ミヨーは1923年に
いくつかの楽章にジャズを取り入れてバレエ「世界の創造」を作曲し、
これを6つの連続した場面からなる全1幕のバレエとして上演させたという作曲の経緯があります。
曲の雰囲気はモダンジャズという感じもあるのですけど、同時代にラヴェルも例えば「左手のためのピアノ協奏曲」に
ジャズ的要素をかなり盛り込んでいた作品を作曲していますので、当時としてはアメリカのジャズがヨーロッパのクラシック音楽
にも多大な影響をもたらしているのだと思います。

ミヨーのバレエ音楽「世界の創造」はどんな音楽解説書を読んでも、ジャンルの扱いは「管弦楽作品」となっていますが、
この曲は限りなく吹奏楽オリジナル曲」に近いと言えそうです。
(前述の通り、これまで唯一実演で聴いた際は吹奏楽団の演奏会によるものです)

CDで聴くとそんな感じはしないのですけど、実際の楽器編成はかなり小規模でかつ変則的編成でして、
具体的にその楽器編成として、

フルート2(第1フルートはピッコロと持ち替え)
オーボエ1
クラリネット2
ファゴット1
アルトサクソフォーン1
トランペット2
ホルン1
トロンボーン1
打楽器1名 (ティンパニ、シンバル、スネアドラム、テナードラム、プロヴァンス太鼓、ウッドブロック、メタルブロック、
足踏み式のシンバル付バスドラム)
※ティンパニ以外の楽器はドラムセットのように組み合わせて演奏するそうです
ピアノ
ソロヴァイオリン2
チェロ1
コントラバス1

17名の奏者のうち、14名が管楽器と打楽器・ピアノ 、3名が弦楽器ですから、
管弦楽曲とも吹奏楽作品とも両方とも言えるのかもしれませんけど、数の論理では吹奏楽に限りなく近いといえそうです。

それを言うとヘンデルの「王宮の花火の音楽」も吹奏楽曲になってしまうのかもしれないですけど、
王宮の花火の音楽には一応弦楽合奏もオプションとして付いていますので、
さすがにこの曲は古典的な管弦楽曲と言えそうです。

管弦楽曲の中でも例えば交響曲や組曲のとある楽章において、弦楽器を意図的に省いて管楽器と打楽器だけの構成とする
作品も稀にあったりしまして、その代表的事例がコダーイの組曲「ハーリ・ヤーノシュ」~Ⅱ.ウィーンの音楽時計や
ヴォーン・ウィリアムズの交響曲第8番~第二楽章、ニールセンの交響曲第6番~第二楽章などが挙げられると思います。

ミヨーの「フランス組曲」やバレエ音楽「世界の創造」はある意味、吹奏楽曲でもあり管弦楽曲でもあるのですけど、
ミヨーと同様にフランス人で、吹奏楽とも管弦楽ともどちらにも取れそうな曲があったりもします。
それがメシアンの「我、死者たちの復活を待ち望む」という曲なのですけど、この曲はバリバリの現代音楽です!
そしてこのフランスの偉大なる現代音楽の作曲家、メシアンの曲を過去に一度だけ吹奏楽コンクールで演奏したチームが
あったものです!
(2019年現在、メシアンのあの難曲を吹奏楽コンクールで演奏したのは後述しますけど、1995年の一度限りです!
そして多分ですけど今後もあの曲を演奏するチームは出現しないと思います)
その曲を演奏したのは、今現在は都立片倉を率いて全国大会で何度も金賞に輝いている馬場先生の
片倉高校の前の赴任校、都立永山高校時代における1995年の自由曲がその唯一の事例です。

「我、死者達の復活を待ち望む」は「トゥーランガリア交響曲」や「鳥の歌」三部作と並ぶメシアンの代表作品の一つです。
というか、なんでこんな複雑怪奇な曲を自由曲にしようと思ったのでしょうかねぇ・・・
馬場先生の思い切った挑戦はすごいものがありますし、あの演奏を都大会と全国大会で二度も聴く事が出来た私は
とてつもなく貴重な経験をさせて頂いたと今でも思っています、

当時のBJのインタビュー記事で馬場先生は
「1995年は阪神淡路大震災・オウム事件などで世相が大きく悲しく揺れた年であり、
そういう年だからこそ何かメッセージを後世に残しておきたかった」みたいな事を言われていましたけど
その辺りは過去も現在もメッセージ性の強い曲を大変アクが強く個性的に、かつ音楽的にまとめられる馬場先生らしい
お言葉だと思います。

だけどあのメシアンですよ~!!

あのメシアンを吹奏楽コンクールの自由曲にしてしまうなんて、かつて1983年に花輪高校が自由曲に、
無調音楽全開のベルク/三つの管弦楽曲を選んだ時とか
秋田南高校がやはりベルクの歌劇「ルル」組曲を自由曲に選んだとかと同じくらいのインパクトがある思います。
現代音楽の当時の生き神的存在で、ブーレーズも信奉していたあのメシアンの曲を吹奏楽コンクールでチャレンジするとは
今現在の視点で考えてみても「大変な決断とチャレンジ魂」という印象が強いです。

メシアンの「我、死者達の復活を待ち望む」という曲は、1996年2月号のBJの記事においては、
クラシックアレンジ作品ではなくて「吹奏楽オリジナル作品」として分類されていたのは正直驚きました。

だけどよく考えてみると、確かに間違いではないのですよね。
この曲はかなりの特殊編成でして、楽器編成の中に弦楽器は一切使用されていませんし管楽器と打楽器のみでの構成です。
しかもその打楽器と言うのも、都立永山の実演を聴いた際も、まさに「驚き!!」という感じでしたけど、
チャイム・ゴング・ドラを複数個も使い、曲そのものがドラが終始ごわーーーーんと轟音を立て、チャイムがチャイニース風な
色彩の音楽を誘導しているみたいな感じでした。
普門館の舞台の上に、とてつもない数の大小のドラがずらーーーっと並んでいたという印象が大変強いです・・

確かに弦楽器を使用していないから、分類上は「吹奏楽作品」と言えるのかもしれませんけど、
あのメシアン大先生のあの曲を「吹奏楽オリジナル作品」として計上してしまうBJ編集部にも当時は「何と言う大胆な・・」と
感じていたものです。


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ららマジの東奏学園器楽部の部員は30人ですけど、
「ららマジ」は吹奏楽部ではなくて器楽部と言う事で、楽器仕様に制約が無いと言う事で、出てくる楽器も
吹奏楽ではありえない編成のワーグナーチューバ・箏・胡弓・ピアニカ・リコーダー・エレキベース・シンセサイザー・
ウクレレなども登場しているのは自由さがあってとてもすてきだと思います。

器楽部創立メンバーの一人で、部長であり指揮者でもある草薙百花がそうしたメチャクチャな楽器編成を
無理やりどうにかこうにかまとめてしまっているのですけど、
ららマジの器楽部の楽器編成は「各楽器に奏者が1名」ということですので、部員が30人ということで、つまりは
30の楽器で音楽が奏でられるという事になると思います。

上記でミヨーの世界の創造について少し触れましたけど、ミヨーのあの曲はヴァイオリンの奏者2人を除くと、
各楽器の奏者は1人と言う事になります。
厳密にいうと、フルートとトランペットの奏者は2人と指定されていますけど、これはトランペットとコルネット、
フルートとピッコロと分ければいいと思いますし、ららマジ器楽部にはトランペットとコルネット、フルートとピッコロと
どちらの奏者もいますので問題なさそうですね~
指揮者の草薙百花が色々とアレンジを加えて、ららマジ器楽部で使用される楽器を無理やりどうにかこうにか
「世界の創造」というとてつもなく変則的な編成作品を素材に音楽づくりをするのもこれはこれで面白い話なのかも
しれないですね~♪
クロード・ドビュッシーの 管弦楽のための三つの交響的素描「海」は名曲の名に恥じない素晴らしい楽曲であり、
私的にはグリーグの劇付随音楽「ペール・ギュント」と共に全人類の文化遺産として登録しても全然違和感が無い曲にすら
感じたりもします。
海は「花鳥風月」を表す中では「風」に該当する一種の描写音楽といえるのかもしれないですけど、
例えばベートーヴェンの交響曲第6番「田園」やR.シュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」などのように直接的な風・嵐の
イメージを効果音の一つとして表現しているのに対して、ドビューシーの「海」が表現しているモノは、
表面的には風や波や太陽なのかもしれないですけど、どちらかというと「私がこのように感じたからこのように表現する」という
より主体性が強くなった一種の心象表現音楽と言えるのかもしれないです。
R.シュトラウスのアルプス交響曲はある意味描写音楽を究極化した作品ともいえそうなのですけど、あの曲は
グローフェの組曲「グランド・キャニオン」と異なり普通の描写音楽ではなくて、一見アルプスの一日を音楽として描きつつも
シュトラウスは「アルプスを見てこのように感じた」と言う事を鮮やかに心理描写しているようにも聴こえたりもします。
同じシュトラウスのシンフォニー作品でも「家庭交響曲」は家庭内の夫婦の性格の描写・子育て・夕食・夫婦喧嘩等なんだか
日常の生々しい光景のズバリ描写という感じもあり、音楽がどことなく生臭く聴こえたりもしますので、アルプス交響曲ほど
人気がないし演奏頻度がガクッ・・と下がるのはある意味当然なのかもしれないです。

C.ドビュッシーの管弦楽のための三つの交響的素描「海」は下記の三曲から構成されています。

Ⅰ.海上の夜明けから真昼まで

Ⅱ.波の戯れ

Ⅲ.風と海との対話

どの曲も大変緻密な構成と洗練されたデリカシー溢れる音楽で構成され、全てが名作に相応しい作品であり、
特にⅢ.風と海との対話は、吹奏楽コンクールにおいても1970年代後半から自由曲の定番として定着し、
2019年時点で既に全国大会で68チームが演奏をしています。
ただ海は大変な難曲である以上に原曲のあの繊細なデリカシーさを吹奏楽という管楽器の集合体で表現する事自体が
大変な制約がありますし、海を演奏する際には、繊細で洗練されたサウンドが何よりも求められますので、
私自身、吹奏楽コンクールでの海を聴いて完全に納得できて感動したという演奏は極めて少ないです。
今の所、吹奏楽コンクールの演奏で「なんと素晴らしい海!」と感動したのは1986年の習志野高校ぐらいに留まっています。

ドビュッシーの「海」について語り出すと止まりそうにもありませんし、Ⅲの「風と海との対話」における楽器間の繊細極まりない
対話や吹奏楽コンクールにおける過去の名演・珍演・迷演について書き出すと、とてもじゃないですけどこの記事は
終わりそうにもないものですので、本記事はⅠの「海上の夜明けから真昼まで」について三つほど簡単に記させて
頂きたいと思います。

それにしてもC.ドビュッシーの管弦楽のための三つの交響的素描「海」~Ⅰ.海上の夜明けから真昼まで の
描写力と繊細さは何度聴いても鳥肌が立つ想いです。
もちろん直接的な描写という訳ではなくて、ドビュッシー自身が想像した夜明け前の海や朝日が差し込む場面や
真昼のきらびやかなお日様の様子を各自の脳内妄想でさらにイメージしていく曲なのですけど、黙って目をつぶって
聴いているだけでも夜明け前から真昼のキラキラ輝く海面の様子が感じ取れますので、まるで絵画を見ているような
雰囲気でもありそうです。
私自身、海岸で夜明け~昇りゆく朝日は何度か見た事がありますが、船の上から見た海上から世が明けていく光景は
これまでの生涯で一度しか見た事がないです。
それが高校の時の北海道への修学旅行で、最終日の夕方に苫小牧を出発し、翌日の午後2時頃に仙台港に到着するまでの
フェリーの上から海上からのぼるご来光を拝めることができたのは大変貴重な経験だったと思いますし、
真っ暗な波の狭間から朝日がさーーっと差し込めていき、うっすらと徐々に明るくなっていく光景は
まさにドビュッシーが表現した「海上の夜明けから真昼まで 」の世界そのものだったと思います。
フェリーの船内は振動しくまくりで、大半の生徒たちは船酔いでゲロゲロ状態になっていて、多分ご来光とか海の夜明け
どころではなかったと思いますが、愚鈍な私は船酔いせずにあの素晴らしい夜明けと海からのぼる朝日を見ることが
出来たのは素晴らしかったですけど、翌日は耳の三半規管がおかしくなってしまい、なにもしていなくても自分の体が
常に揺れているような感覚になっていたものでした。
ちなみにフェリーでの朝食・昼食はなかったので、フェリー内の売店でカップヌードルを買って飢え?をしのいでいましたけど、
海の夜明けをながめながらすするカップラーメンの味は格別でした~♪
(「ラーメン大好き 小泉さん」にも一度くらいは味わってほしい感覚なのかもしれないです)
海上の夜明けから真昼まではCMのBGMとして使用されていた事もあり、その中では1987~89年頃に富士通のパソコンの
FMシリーズの映像とドビュッシーの音楽が大変印象的でしたし、そのCMのイメージキャラとして使用されていた女の子は
当時「スケバン刑事」等で人気絶頂だった南野陽子でもありました。

話がそれました・・ 音楽の上で、海上の夜明けから真昼までについて私自身がいいなぁ~と感じる点を三つほど
挙げてみたいと思います。

まず初めにこの楽章の冒頭なのですけど、
コントラバスとティンパニの弱奏でのトレモロを6拍の間響かせた後に、2台のハープのうち、まずはセカンドハープが
一拍目のFis(Ges)音をオクターブでピアニッシモで弾いた後に、それをなぞるかのようにファーストハープが
裏拍でひっそりと目立たぬように同じ音を弾くことから開始されます。
そしてセカンドハープが全音高いGis(AS)音をやはり弱音で弾くとファーストハーブも裏拍で同じ音をひっそりと目立たぬように
弾き、これが何度か繰り返されていきます。
こうした2台のハープが交互に音を刻みながら開始されるのですけど、
その繰り返しだけでほのかで深くて広い海の夜明けを表現してしまうドビュッシーのその感性の素晴らしさは
ただただ敬服するしかないです・・
(ハープ奏者の緊張感はすさまじいものがありそうです・・)

そして二つ目は、この楽章は全体で9分半ぐらいなのですけど、その7分目あたりで現れる16本のチェロによる
内省的で渋いメロディーラインにとてつもなくうっとりとさせられます。
通常、オーケストラの中ではチェロは8~10本程度使用され、ドビュッシーの時代~現代においては大体10本が標準です。
あのチェロのアンサンブルは分厚いチェロの響きが求められますので、本当は楽譜の指示通り
16台のチェロが欲しいのですが、プロの管弦楽団にも予算とか適正配置がありますので、その部分のためだけに
チェロ奏者を16人も配置する訳にはいかないのが実情でもあります。
それでは現場では一体そうした問題を処理するのかと言うと、二つほど対応方法があるようでして、
一つはドビュッシーの指定ではあの部分のチェロは16台となっていますが、本来の管弦楽の標準的配置のチェロ10人に対して
臨時のエキストラを2名ほど雇い、本来はチェロ4パート×4人で計16名のところを4パート×3人の計12名で対応するという
方法で、この方法が現在では標準になっているようです。
そしてもう一つは、これは日本でも都響や日本フィルでもお馴染みのフランス人指揮者のジャン・フルネが採用していた方法
なのですけど、その該当箇所になると、チェロに4パート×3人の計12名を配置する以外に、本来不足している4人分について
ヴィオラに応援要請をして、ヴィオラ奏者4人がチェロパートの該当箇所の譜面を奏でるというある意味荒業で対応
していたりもしています。
私自身、フルネ指揮での日本フィルや都響の「海」を聴いたことがありますけど、その時点ではそうした話は全く
知らなかったもので、自分の目と耳で確かめることはできなかったですけど、いかにもフルネらしい厳格な話と感じた
ものでした。
日本フィルのサンデーコンサートでフルネ指揮による海・寄港地・ダフニスとクロエ第二組曲等のオールフランスプログラムを
聴いたことがあるのですけど、そのデリカシー溢れる音楽は「さすが!」と感じたものですけど、フルネ本人はどこか
不満な様子で、通常、日本フィルのサンデーコンサートではアンコールも演奏されるのが普通なのですか、
あの時は打楽器奏者の足元にその日のプログラムでは使用しない筈のプロヴァンス太鼓が置かれていたので
「多分アンコール曲はビゼーのアルルの女のファランドーレの踊りなのかな・・?」と予想していたものですけど、
当日のフルネはカーテンコールも3回程度で切り上げ舞台裏に消えてしまいましたので、そのあたりも人柄は温厚だけど
演奏には厳しいフルネらしい話だと感じたものでした。
ちなみにフルネは90歳を過ぎた頃の2005年に現役引退をされていましたけど、あんなにも世界的な有名指揮者なのに
その引退公演は海外ではなくて、日本の東京都交響楽団というのも、むしろありがたい話だと当時は感じたものでした。
その時の引退公演の曲目は、ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番(ピアノは伊藤恵)、
ブラームスの交響曲第2番でした。

そして三つ目はラスト近くの真昼のきらびやかを示唆するサウンドの高揚感直前のコールアングレによる繊細なソロは
とてもじゃないけどこの世の響きとは思えない美しさを感じます。
(第三楽章の中間部のしっとりとしたソロはこの時はオーボエが奏でています)
そしてコールアングレのソロが終わったと同時に曲は徐々に高潮し盛り上がっていくのですけど、あの時のバックのリズムの
ティンパニの二本の撥による和音の叩きつけの切れ味の鋭さは感動ものだと思いますし、同時に響き渡るドラの高揚感も
圧巻だと思います。
それとこの「海」は一種の循環主題でもありますので、ⅠのテーマがⅢの最後でも再現されるのは曲の統一感というか
形式の美しさを感じさせられそうです。

とにかく「海」はドビュッシーが全人類に残した文化的遺産であるのは間違いないと思いますし、この曲を聴かないで
死んでいくのは大変勿体ないかも・・?といえるのかもしれないです。


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上記で触れたとおり、海の「海上の夜明けから真昼まで 」の冒頭はハープで奏でられるのですけど、ハープ奏者にとっては
緊張の一瞬だと思います。

「ららマジ」のハープ奏者は3年生の南さくらです。

南さくらは器楽部を支える副部長で、振り回されることの多い苦労人でもあったりします。
器楽部創立メンバーの一人で、部長であり指揮者でもある草薙百花がメチャクチャな楽器編成を無理やりどうにかこうにか
まとめてしまう剛腕でもあったりしますので、そうした剛腕ぶりに不満がありそうな下級生たちを時に脅しつけ、
時に笑顔と愛嬌で押し通してしまうのがこの副部長兼ハープ奏者の南さくらといえそうです。
そしてららマジでは珍しい部類の眼鏡っ娘でもあったりします~♪

そうした南さくらを持ってしても海の出だしはプレッシャー掛かりまくりなのかもしれないです。


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ドビュッシーの「海」は三つの楽章全てにコールアングレとオーボエに大変大事なソロがあります。

ららマジの器楽部においては、オーボエ奏者はいなくてコールアングレ奏者の白石陽菜のみです。

多分ですけど、オーボエの音色が必要な場合は白石陽菜が楽器を掛け持ちしているのかもしれないです。

白石陽菜は高校2年生のJKさんで血液型はO型で、気品と度胸あふれるおてんばなお嬢様という設定です。

海において時にオーボエ、時にコールアングレと掛け持ちしている白石陽菜も、本人自体がそうしたおいしいソロを
楽しみながら吹いているのかもしれないですね~♪
東方Projectの世界には結構姉妹はいたりもします。

その中でも、スカーレット姉妹・古明地姉妹・綿月姉妹・秋姉妹は血の繋がりある実の姉妹関係と思われますし、
依神姉妹は顔も性格も全然似てないですけど、設定上は双子姉妹とされています。
九十九姉妹の二人は雰囲気的には大変よく似ていますけど、血の繋がりの無い義理の姉妹関係でもありますし、
はたまたプリズムリバー3姉妹にいたっては、3人とも既にこの世のモノではなくて幽霊ですし、この3人の間には
生前も含めて血縁関係は全く無く全くの他人同士という関係でもあったりします。

さてさて、「ららマジ」の東奏学園器楽部の30人の部員の中では二組の姉妹がいます。

一組目は卯月姉妹で、二人ともまだ中学生です。二人ともJCさんらしいかわいらしさに溢れていますけど、中一の
卯月幸のロリロリッとした雰囲気はたまらないですね~♪
二組目は高校3年の橘姉妹で、この二人は双子の姉妹でもあります。二人とも顔立ちはよく似ていて、少しクール系でも
ありますけど、姉のアンナのボーイシュな感じと妹のレイナの正統派美少女としてのかわいらしさはどちらも
素晴らしいですね~♪





当ブログのららマジ関連記事では初めての登場となる器楽部のファゴット担当の橘レイナです。

アルトサックス担当の橘アンナは、レイナの双子の姉の方です。

橘レイナは、橘姉妹のミステリアスな可愛いお姉さんの方でしてアンナの双子の妹の方です。
バトル時の武器はファゴット型の狙撃銃で、複数の銃を同時に発射することもできるそうです。

お顔は双子という事でアンナとかなり似ている雰囲気もありますけど、アンナがボーイッシュな雰囲気なのに対して、
レイナの方はいかにも女の子という感じで、かわいらしい!というオーラに溢れていると思います。


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こちらは橘アンナで、ららマジの器楽部の中ではアルトサックスを担当しています。

学園内に多数の橘アンナファンを持つ学園きっての王子様キャラの人気者で、趣味は妹のレイナとのデートと演劇鑑賞でも
あったりします。

見た目がボーイシュという事で、女の子から見れば「すてきなお兄様~」みたいな憧れの対象なのかもしれないですけど、
確かに橘アンナのボーイシュな美少女ぶりは、
プリキュアでいうならばキラキラ☆プリキュアアラモードの男装麗人ともいえそなキュアショコラ=剣城あきらといえそうですし、
「女子高生の無駄づかい」的には一奏なのかもしれないです。


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橘姉妹はすてきなお姉さま姉妹という感じでもありそうですけど、卯月姉妹は中学生組という事で、美人さん姉妹というよりは
かわいい系姉妹といえそうです。

卯月真中華(うづきまなか)は、東奏学園器楽部でエレキギターを担当している中学3年生の女の子です。

東奏学園器楽部のメンバーにはこの卯月真中華を含めて何人かの中等部のJCさんも入っていて、
そうした中学生組をリードするエレキギターを扱う中学3年生の女の子が卯月真中華でもあります。
器楽部員で構成されたバンド「フロウライン」のギター担当で地元のライブハウスでは有名人との事です。

妹の幸はポニーテールがよくお似合いですけど、姉の卯月真中華はツインテールがとってもかわいいです~♪





卯月幸という中学1年生のウクレレ担当のJCさんです。

器楽部のエレキギター担当の真中華の妹で、ウクレレのほかにヴォーカルも担当することもあるそうです。

中学一年と言う事でららマジの中ではかなり幼い雰囲気があるのですけど、そうした初々しいかわいらしさが
とってもすてきですね~♪

卯月幸は一応ウクレレ担当なのですけど、「東奏学園に進学したらお姉さまたちのようにすてきな楽器奏者になりたい」という
あこがれの気持ちをもって日々練習に励んでいるその初々しさも素晴らしいです。


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ここから下記は「クラシック音楽」カテゴリに相応しいように、ららマジのすてきな美少女JKさんの橘レイナが担当する
ファゴットについて少しばかり触れさせて頂きたいと思います。

ファゴットもオーボエ同様にリードが上下2枚から構成されているという事で「ダブルリード楽器」という位置づけです。

ファゴットの音は基本的には低音楽器という位置づけなのですけど、あの独特のユーモラスな音は、
時に陰鬱に時にユーモラスに時にモノ哀しくと様々な表情を見せてくれる事が出来るのが素晴らしいと思います。

ファゴットで私が個人的に最も感じる効果的な使用事例として、
ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」の冒頭のファゴットの超高音域ソロで開始される場面を挙げたいです。
作曲者としては、「鳴らない音を必死で出そうとする感覚」が欲しかったとの事ですが、
奏者にとっては迷惑千万という感覚もあるのかもしれないですけど、作曲当時の事情はどうか分かりませんけど、
今現在のファゴット奏者はあのような超高音域でも楽々と音を出してしまいますから、ストラヴィンスキーが求めた
「悲壮感」はあまり感じられない感じもあったりします。
だけどあの春の祭典の冒頭ファゴットソロの感覚はいつ聴いてもミステリアスさは伝わっていますね~!

大変面白い使用事例としては、ショスタコーヴィッチの交響曲第9番を推したいです。
第四楽章の金管の重苦しい導入部に続くファゴットの悲痛で長大なソロは、
聴いていて魅力もありますし、いたたまれない・・みたいな哀しさ・憂鬱・メランコリーに溢れているのですけど
第五楽章に入ると、先程まで悲痛なソロを展開していたファゴットが唐突に何の脈絡も必然性も無く
軽いノリのひょうひょうとしたメロディーを展開していく構成になっています。
あの唐突な変化を醸し出せる事が出来るというのもファゴットの一つの魅力なのかもしれないですね。
ショスタコ―ヴィッチは交響曲第9番を作曲している頃は、丁度第二次世界大戦がソ連の勝利のうちに終結し、
嫌でも国家的祝典交響曲を書かないとまずいのではないかという目に見えないプレッシャーを各作曲家が感じていた
時期に符合するのかもしれないです。
初演当時、恐らく聴衆は、ショスタコーヴィッチの新しい交響曲は、ソ連の勝利を祝う大国家的祝典交響曲みたいなもの
(合唱付き? 別働ファンファーレ隊あり? 演奏時間120分?)を予想していたのかもしれません。
少なくとも当時のソ連の絶対的独裁者のスターリンのご機嫌を損ねるような曲だけは書いてはヤバいのかも・・という雰囲気は
あったと思われます。
それを見事にすっぽかして出来た曲が、この25分程度の軽量級の交響曲第9番だったのです!
第一楽章のいかにも軽いノリやトロンボーンのダメだしみたいな展開
第二・三楽章の可愛らしい展開もいいのですが、
前述の通り、第四楽章の金管の重苦しい導入部に続くファゴットの悲痛で長大なソロは、
これはこれで聴いていて魅力もありますし「少しいたたまれない・・」みたいな哀しさ・憂鬱・メランコリーに溢れているのですけど
第五楽章に入ると、先程まで悲痛なソロを展開していたファゴットが唐突に何の脈絡も必然性も無く
軽いノリのメロディーを展開していく構成になっています。
ショスタコーヴィッチ自身も戦争に疲れ果てて、とても面倒くさくて国家を讃える大交響曲なんて
作曲する気になれなくて、こうした脱力系というか、おもちゃ箱みたいな曲を思わず書いてしまったのかもしれないですけど、
この交響曲第9番は確かに重厚長大な深刻な内容の曲ではなくて曲の隅から隅まで
才気煥発みたいな冗談とウィットと楽しさに溢れていて洒落っ気溢れるとてもすてきな交響曲だと思います。
だけど後日この交響曲第9番は大変な批判を浴びてしまい、ショスタコーヴィッチはその後9年近くも交響曲を作曲する
事から遠ざかってもしまいます。
(ショスタコーヴィッチはスターリンの死後、直ちにスターリンをテーマにしたようにも思える交響曲第10番を発表しています)

ショスタコーヴィッチは交響曲第9番以外でも自作のシンフォニーの中ではファゴットをかなり効果的に使用していまして、
他には、交響曲第5番~第二楽章の少しとぼけた感じのスケルツォや交響曲第7番「レニングラード」~第一楽章における
オーボエとの掛け合い的なソロや交響曲第10番~第四楽章のやはりちょっととぼけた感じのユーモアあふれるソロも
「使い方が巧みだよね~」と感じさせるものは大だと思います。

他にクラシック音楽でファゴットが効果的に使用された楽曲をいくつか挙げてみますと・・

P.チャイコフスキー / バレエ音楽「白鳥の湖」 ~四羽の白鳥たちの踊り

P.デュカス / 交響詩「魔法使いの弟子」

G.マーラー / 交響曲第5番~第五楽章 同 / 交響曲第9番~第二楽章

I.ストラヴィンスキー / バレエ組曲「火の鳥」~子守り歌

M.ラヴェル / 道化師の朝の歌
(ラヴェルの「ピアノ協奏曲」~第三楽章のファゴットのとんでもない快速スピードによるとてつもなく超速指使いは
奏者殺しではありますけど、聴いている方としてはあのスリリングさと粋な雰囲気はたまらないです!)

G.ホルスト / 組曲「惑星」~天王星

B.バルトーク / 舞踏組曲~第一曲

余談ですけど、デンマークの作曲家のニールセンが残した最後のシンフォニーである交響曲第6番の終楽章の
エンディングは唐突な形でファゴットの持続音によって閉じられます。

吹奏楽ですと、1988年吹奏楽コンクール課題曲Aの深層の祭りの冒頭や
グールドのアメリカンサリュート~ジョニーが凱旋する時、ジェイガーの第二組曲の第三曲、
バーンズの交響曲第3番~第三楽章などが大変印象的です。
他にもネリベルの「二つの交響的断章」におけるオーボエとファゴットの掛け合いも聴いていて惚れ惚れしそうですし、
クロード・スミスの「フェスティヴァル・ヴァリエーション」における中間部のファゴットソロも大変気持ちがいいです、
フェスティヴァル・ヴァリエーションというと、ららマジ絡みでいうと、開始早々の箇所でピッコロとファゴットが気持ちよさそうに
主旋律を奏でているバックのアルトサックスの小気味よいリズムの合いの手は名人芸の粋に達していると思います。
その部分のピッコロ・ファゴット・アルトサックスに関しては、1984年の天理高校のうまさを超えるチームは、2019年時点で
精華女子高校を含めていまだに超越する演奏が表れていないほど、84年の天理の演奏は素晴らしかったです。

それでは最後に、ららマジのファゴットの橘レイナのとってもかわいいカードを是非ご覧頂きたいと思います!


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橘レイナのウェディングドレス姿です! 女の子の憧れのシンボルとしてのウェディング衣装がとてもよくお似合いだと
感じられます。


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同じく橘レイナのおしゃれな私服姿です!

美少女はどんな衣装でもよく着こなしお似合いという事を立証していると思いますね~♪


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最後に、東奏学園の制服姿の橘レイナです。

制服姿だとJKさんらしいかわいらしさに溢れていますね~♪

そして橘レイナのソロによるショスタコーヴィッチの交響曲第9番~第四・第五楽章の長大なソロと楽章をまたいだ際の
変化も是非聴いてみたいです!
鳩(野ばと)は「平和の象徴」というイメージがありますし、ハト派と言う言葉に象徴される通り穏健・中道・軍事力行使を抑制・
話し合いによって紛争を解決という雰囲気もありそうですし、
日常的には神社の境内や公園など人間がたくさんいる場所でも平気で人間に近づいてくるという印象もありそうです。
ちなみに鳩の平均寿命は大体10年程度と言う事で、鳩の天敵は日本社会においてはカラスと猫なそうです。
街中で鳩の死骸をあまり見かけないのは、鳩には帰巣本能が備わっていて、死期が近いと悟った鳩はあまり外に出なくなり、
そのまま巣で死を迎えるからという説もあるようです。


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ポッポッポッ~、鳩ポッボ~という童謡がありますけど、鳩はどんな鳴き声で鳴くものなのでしょうか?

鳩にはたくさんの種類がいて鳴き声にも微妙に違いがありますけど、馴染み深いのは童謡にもある通りポッポーなのかも
しれないですけど、それ以外にも、クックー・クックー、ゴロッポ・ゴロッポ、デッデー・ポッポーといった鳴き声が
挙げられると思います。
(クックー・クックーというと桜田淳子の「ようこそここへ~クックー・クックー」の「わたしの青い鳥」を思い出す・・なんて記すと
管理人が昭和育ちである事がバレバレになってしまいそうです・・汗)

鳩の鳴き声というとどことなくとぼけた雰囲気とか平和な雰囲気という印象もありそうですけど、そうした鳩(野ばと)の鳴き声を
モチーフにしたクラシック音楽の楽曲もあったりします、

1/6の記事の中でアニメ「響け!ユーフォニアム」に関連する形で、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」について
触れさせて頂きましたけど、ドヴォルザークと言うと
交響曲第9番「新世界より」とか弦楽四重奏曲「アメリカ」とかチェロ協奏曲とかスラヴ舞曲集とかユーモレスクばかりが
有名曲扱いになってしまうのですけど、他にも例えば交響曲第7番とか交響曲第8番とか序曲「謝肉祭」とか
スケルツォ・カプリチオ―ソなどのようなすてきな名曲もたくさんあったりします。
しかもあの哀愁溢れるあの優しく美しいメロディーは郷愁を誘うものであり、日本人の感覚に合いそうでもあり、
すてきなメロディーメーカーといえるのかもしれないです。
そうしたドヴォルザークの数々の名作の中では、少し知名度は低く演奏頻度は下がるのかもしれないですけど、
上記で触れた通り、鳩の鳴き声をモチーフに扱った交響詩も残しています。
そしてその作品が本記事で取り上げさせて頂くA.ドヴォルザーク作曲の交響詩「野ばと」です。

交響詩「野ばと」は、単独の交響詩という形ではなくて「四つの交響詩」という連作交響詩という形でまとめられていて、
野ばとはその四番目の交響詩に該当します。
(連作交響詩というと、実は「モルダウ」ばかりやたらと有名になっていますけど、スメタナの我が祖国は、全6作品から
構成される連作交響詩でもあり、モルダウは二番目のの交響詩であったりします)
ドヴォルザークの四つの交響詩のモチーフは、4曲とも全てチェコの国民詩人エルベンがチェコに伝わる民話・民謡を
詩のかたちでまとめた詩集「花束」に由来しています。
この「花束」から「水の精」「真昼の魔女」「金の紡ぎ車」「野ばと」の4つをとりあげて連続して交響詩にしているのが
四つの交響詩という作品であり、野ばとはその最後の作品という事になります。

この四曲ともその内容は、全て殺人や人の死絡みの曲ばかりで、その内容もかなりえぐいものばかりです。
Ⅰの「水の精」は、親の反対を押し切って人間界とは別の世界の水界の王様と結婚した娘が、その後
子供を残したまま一時的に里帰りしたものの、親に止められ水界に戻れず、娘がいつまでたっても
帰ってこない事に腹を立てた水界の王が嵐を起こし、子供の首を切って娘の家の前に捨て去ったという
結構グロテスクなお話でもあります。
Ⅱの「真昼の魔女」は、子どもの躾に禁句であるはずの「魔女」の名前を、安易に出してしまい、その結果、
本来悪意のない者の名前を出したことで、見せしめとなり、子供を亡くしてしまう母親の哀しいお話でもあったりします。
Ⅲの「金の紡ぎ車」はシンデレラに少しばかり似ているのかもしれないです。
権力者に見染められた娘に起こる悲劇の話でもあるのですけど、義理の母娘によって一旦は殺害
されてしまう娘でしたが、最終的には魔女によって生き返る事が出来、金の紡ぎ車によって義理の母娘の悪行が全て
ばれてしまい、最後は王様とその娘は無事に結ばれるというお話で四つの交響詩の中では唯一のハッピーエンディングを
迎えます。

そして、四番目の交響詩が「野ばと」なのですけど、その内容は現在の感覚で言うとお昼のワイドショーの恰好のネタに
されそうなお話でもありまして、今だったら週刊誌の紙面広告で
「若き妻が夫を毒殺!」とか「夫を殺して喪が明けないうちから年下の若いイケメンと恋に落ちる・・」とか
「良心の呵責に耐えかねて自殺」というセンセーショナルな文字に溢れるのかもしれないです。

野ばとのお話を簡単に記してみますと・・

「自分が毒殺した夫の葬儀で偽りの涙を流していた若い未亡人が、年下の若い男に言い寄られると、すぐに喪服を脱いで
男と激しく愛し合ってしまい、そのまま二人は結婚してしまいます。
しばらくすると亡き夫の墓の前に1本の樫の木が育ち、そこに野ばとが巣を作ります。
妻が夫の墓の前に行くと、その鳩は、悲しげに、そして妻を責めるように鳴いていました。
さすがに夫殺しをした妻は良心の呵責に耐えきれなくなり、精神的苦痛を味わう日を送りますが、
鳩の悲しそうな鳴き声を聴くごとに、だんだん精神状態がおかしくなり、ついに自らの手で自らの命を絶ってしまいます」
そうした感じの物語だったと思います。

この交響詩は音楽もかなり分かり易く場面転換が極めて明快ですので、未亡人の心の変化が一目瞭然という感じもあります。

曲は物語の展開に沿った切れ目のはっきりした5つの部分から構成されています。

第1部:アンダンテ、葬送行進曲

この部分は若い未亡人が夫の棺に涙を流しながら悲しみに暮れた様子で葬儀を取り仕切っている様子が窺えます。
(前述の通り、夫の死因は妻による毒殺です)

第2部:アレグロ- アンダンテ

そこに年下のイケメン男子が出没し、まだうら若き未亡人を口説きに掛ります、音楽からも未亡人が満更でもない様子も
感じ取れます。

第3部:モルトヴィヴァーチェ- アレグロ

そして若き未亡人はその年下イケメンと再婚し、音楽は幸せそうな結婚式の場面の音楽を奏でます。
 
第4部:アンダンテ 

未亡人が毒殺した亡き夫の墓の上に樫の木が生えて育ち、そこへ野ばとがやって来て悲しく鳴き良心の呵責に
耐えきれなくなった未亡人は発狂し身投げをして絶命します。

第5部:アンダンテ (エピローグ:終曲)

第1部が変奏されて曲が進み繰り返されます。1部では短調だった音楽が終曲では長調に転じた事で、死ぬ間際に後悔と
良心の呵責に苦しんだことが天に認められ、未亡人の罪は最後には赦されたという解釈も可能なのかもしれないです。

冒頭の葬送行進曲風な箇所は、その未亡人の夫殺しの動機に何があったのかは語られていませんけど、
毒殺してしまった後悔よりは、むしろ薄笑いとか「ざまーみやがれ!」みたいな気持も感じ取れそうですね。
第2部のトランペットの明るい音色は年下のイケメン男子の出現を示唆し、
第3部の二人の結婚式の場面は「スラヴ舞曲集」を彷彿とさせる華やかさも感じさせてくれるのですけど、
第4部の野ばとが哀しげに鳴く場面は、フルートとハープでもって哀しみが表現されるのですが、これがまたなんともせつない
気持ちにさせられます。せつないというか取り返しの付かない事をしてしまった・・といった後悔の感情なのかもしれないです。
終曲は決して後味が悪いという雰囲気で終らせるのではなくて、天国から毒殺された亡き夫が
「もういいよ・・君は現世で十分苦しんだ・・僕は君の全てを赦す」みたいな感じで「救済」を暗示した終わらせ方には
どこかホッ・・とさせられるものもありそうです。
これがマーラーやショスタコーヴィッチだと後味の悪い曲想で閉じられそうですけど、そうさせないのは、さすが人柄が
温かくて信仰心に厚いドヴォルザークの人徳のなせる業なのかもしれないです。

ちなみに、ドヴォルザーク自身は、プライヴェートの趣味は、鉄道と鳩の飼育だったそうです。

鳩というと平和でのんびりした鳥という印象もあるのかもしれないですけど、感じ方によってはこんなにも内省的な響きにも
聴こえてしまうのは、これまた音楽の多様性と言えるのかもしれないです。
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トライアングルは、金属の棒を三角形に曲げた形状の打楽器の一つです。

トライアングルは3つの角のうちの1つが閉じられず切断された状態の楽器であり、そのためトライアングルは
2ヶ所の曲部を持った1本の金属の棒と換言出来るのかもしれないです。
金属の棒というと強いて言うと近い打楽器はコンサートチャイムですけど、チャイムと異なり、トライアングルは
一定の音律(ピッチ)を持たないという大きな特徴もあったりします。

そもそも論としてどうしてトライアングルの形状は円形でもなく楕円形でも無く四角形でも無く、
一角が切断された三角形なのでしょうか・・?
その答えを探求して、ある科学者が色々と実験を試みたそうですけど、結論として、トライアングルは三角形の形状で
しかも一角が切断されていないとあのような天国的な色彩の透明感と繊細さに溢れた音色は出せなかったそうです。

開いていない角に紐あるいは金具を付けて吊し、金属の棒のばち(トライアングルビーター)で打つのが基本的奏法です。
専用スタンドに取り付けて演奏できるようにしたメーカーの製品もありますけど、この場合一人の奏者が同時に二台の
トライアングルを鳴らす事も可能ですし、実際私が見た中でも、1996年の東海大学第四高校の吹奏楽コンクール全国大会では
自由曲の交響詩「ローマの松」~Ⅳ.アッピア街道の松の際に、トライアングル奏者は、そうした専用スタンドを用いて
一人で2つのトライアングルを壮麗に響かせていました。

トライアングルは全体が弱奏の場合に清楚に静粛にチーン・・と鳴らされるとその清らかで清潔で洗練された響きに
思わずジーンとくる時もありますし、
そうした代表的事例の楽曲として、スメタナの交響詩「モルダウ」の冒頭部分を挙げたいと思います。
同様な例としては、ドヴォルザークのスラブ舞曲第10番(厳密に書くと「スラブ舞曲」第2集から第2曲)も中間部における
トライアングルの清楚な響きはとても美しいです~♪
そしてピーター(撥)をトライアングルの三角形の一角に上下で激しく振ってヒステリックに鳴らせる時のトライアングルの
激情振りも人の心を揺さぶらざるを得ないのかもしれないです。
その激情例として、ショスタコーヴィッチの交響曲第5番と第10番のそれぞれ終楽章の終結部を挙げたいと思いますし、
マーラーの交響曲第1番「巨人」~第四楽章のエンディングにおいて、トライアングルは2名の奏者によってヒステリックに壮麗に
鳴り響き、あのエンディングの打楽器はティンパニ奏者2名による激しいロールもありますので、トライアングルと合わせって
相当な音響効果を感じたりもします。
そしてチャーミングでかわいい使われ方としては、シベリウスのカレリア組曲~Ⅲ.行進曲風にを推したいと思います。
トライアングルとタンバリンとの融合という意味では、ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」が素晴らしいです。

よくトライアングルは大変例えが悪いのですけど「どんなアホでも撥で叩けばチーンと音は鳴る」と言われたりもするのですけど、
実際はそうした事は全く無くて、一見すると簡単に扱えるように見えるのですが、
クラシック音楽で使用される打楽器の中では非常に熟練を要する楽器でもあったりします。
その音量をコントロールすることは大変難しくて熟練の技術を要しますし、時に演奏が困惑させられるような
大変困難な複雑なリズムも要求される事もあったりします。
その一つの事例がグリーグの劇付随音楽「ペール・ギュント」のアニトラの踊りや吹奏楽コンクールの課題曲ですけど
1983年の課題曲Bの白鳳狂詩曲と91年の課題曲Cのロックン・マーチなのかもしれないです。
あ・・白鳳狂詩曲とロックン・マーチは同じ作曲者でしたね・・藤掛さんの曲はトライアングル奏者泣かせなのかも・・??
そうそう、トライアングルは意図的に指で楽器の一部に触れて振動を阻害し音色を変化させるという変化球もありますし、
打つ位置によっても微妙に音色を変化させることができますし、はたまたピーター(撥)の材質や重さによって音色の変化も
探究できます。
時に編み針、木製のビーターを作曲家が要求することもあったりします。

トライアングルは簡単に誰でも叩けば一応音は出るのですけど、その多様性と深さは打楽器の中でもミステリアスなものは
あるのかもしれないです。
冒頭のららマジに出てくるJKさんは、トライアングル奏者の月島塁ですけど、月島塁はららマジの中でも突出した
ちょっと変わった不思議ちゃんでもありますので、月島塁が器楽部でトライアングルを担当しているのも妥当なのかも
しれないです。

高校一年の地区予選の際に、うちの学校は課題曲にAの「イリュージョン」を選び、地区予選通過時に
審査員講評用紙でのとある審査員からの演奏コメントの中に
「課題曲の中間部のトライアングルの叩き方が極めて無神経で粗雑・・君の叩いたチーンと言う音色は客席2階にまで
響いてくるのだからもう少し考えて叩きなさい」と書かれていたものがありました。
当時課題曲でトライアングルを担当されていたのは3年生の先輩でしたけど、それを読みかなりブーたれていましたけど、
その先輩なりに何か感じるものがあったのか、県大会までの三週間の練習の中で、色々と叩き方を研究されていたようでも
ありました。
そして県大会での演奏が無事に終わり、そのトライアングルの先輩は自分達後輩に対して
「どだっ! 俺のトライアングルの音色は・・! 地区予選よりは数段の進化だろ! どだっ! まいったか~」みたいな事を口走り
嬉しそうにされていましたけど、後日予選と県大会の課題曲中間部のトライアングルのチーンという音を聴いても
「どこが変ったんだろ・・??」という感じでしたけど、本人がそれで満足というのならそれでいいと思いますし、何よりも
あの課題曲の中間部のトライアングルなんて別に目立つ箇所ではないのだけど、トライアングルの繊細な音は
ホール2階席でもきちんと届くということだけはなんとなく理解したものでした。
吹奏楽コンクールで昔も今も大人気自由曲の一つのラヴェルの「ダフニスとクロエ」第二組曲~Ⅲ.全員の踊りの部分で、
よく聴いてみると、後半に掛けて、サスペンダーシンバル→カスタネット→タンバリン→トライアングルと掛け合いの箇所が
あるのですけど、あの場面はバックもよく鳴っているのに、トライアングルのチーンという響きは普門館の客席にも
しっかりと伝わっていますので、ここからもトライアングルの音色は繊細だけど同時に遠くにもきちんと響いてくる不思議な
楽器といえるのだと思います。
(その不思議さこそがららマジのトライアングル奏者の月島塁にも被っているのかもしれないです~♪)


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そしてクラシック音楽におけるトライアングルというと有名な事例は、これは昔からよく言われている話ですけど、
リストのピアノ協奏曲第1番に尽きると言えるのかもしれないです。
19世紀頃までの協奏曲というと三楽章構成というのが定石であったのですけど、リストのピアノ協奏曲第1番は
第4楽章迄あることもそうですし、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」と同じ変ホ長調なのに、
全然調の印象が違うこともそうですし、全体の形式はソナタ形式を取っているものの即興的で自由な印象が大変強く。
冒頭の動機を後半部でも変形させ繰り返す事で曲全体の統一感を出し、循環主題の先取りをしているとも言うそうです。
そしてこの協奏曲において突出して個性的でユニークなのは、第3楽章において、当時は使用する事自体が大変珍しく
異例でもあったトライアングルをかなり効果的に用いていて、当時の音楽的常識を無視したかなり画期的な演出と
言えそうです。
(当時の交響曲・協奏曲のジャンルで使用される打楽器はティンパニのみという曲が多く、稀に大太鼓・シンバルが部分的に
使用される程度でもありました)
トライアングルがあまりにも活躍するので、当時の名高い音楽評論家のハンスリックから
「トライアングル協奏曲」とも当時は揶揄されたことでも有名であったりもします。

ハンスリックという高名な評論家は、当時の楽壇の人気を二分していたブラームスとワーグナーの中では、
ブラームスを強く擁護し評価していたのに対して、
ワーグナーと、「ワグネリアン」と称されるワーグナーに近いと目された人物には、上記のリストも含めて徹底的な批判を
加えています。
ワーグナーはそれに大変立腹し、ワーグナー自身が作曲した楽劇「『ニュルンベルクのマイスタージンガー」において、
ハンスリックを無粋なニュルンベルク市の書記ベックメッサーという役のモデルとして仕立て、
そのベックメッサーの設定は「常に不機嫌そうに接し、些細なミスや間違いを見逃さないようにどうでもいい事にばかり
文句をつける小役人」という事にして、ベックメッサーに対する強烈な嫌味とあてこすりをしていたりもするのですけど、
ワーグナーに心酔するものの、そうした粋な芸当が全くできないブルックナーは、
絶えずハンスリックの攻撃にさらされ続け、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に
「陛下、どうかお願いですのでハンスリックの口を塞いでください・・」と哀れに懇願するしかできませんでした・・
ハンスリックはブラームスの音楽を高く評価していましたけど、実はブラームス自身は
「ハンスリックの書いた批評を読むと、実は彼は私の音楽を理解していないのではないかと思ってしまう」という趣旨のコメントを
残してもいたりもするそうです。

リストの娘がコジマと言う女性であり、
ワーグナーというとビューローという指揮者とコジマの存在を外す訳にはいかないです。
ビューローは、当初はワーグナー派の代表的存在でしたけど、ビューローの妻・コジマとワーグナーは、平たく言うと
できちゃいまして不倫関係に陥り、その結果、ビューローとコジマは離婚し、その後ワーグナーとコジマは結婚した経緯が
ありました。
その後、ビューローはワーグナーから離れてブラームスとの親交を深めその作品を積極的に取り上げるようになるのですが、
亡くなるまでビューローはワーグナーの楽曲には愛着があった節もありましたし、
自分の私生活と音楽は別という考えも多少はあったのかもしれないです。

クラシック音楽の作曲家・指揮者・音楽評論家というとお堅いとか高貴というイメージはあるかとは思うのですけど、
そうした先生方も所詮は人の子・・という事で「人生いろいろ~」みたいなエピソードも残されているという事なのですね。

ららマジの不思議少女の月島塁も「人生いろいろ~」と言う事でそうした少しミステリアスで他人と異なる所も
すてきだと思いますし、ららマジには個性溢れるたくさんのJKさん・JCさんがいる中で、
月島塁のそうした不思議ちゃんという個性もまた大変尊いと言う事なのだと思います。

改めて月島塁について記しますと、月島塁は高校2年生のJKさんで担当楽器はトライアングルです。
不思議系の雑誌を読んだり、占いが趣味のちょっと電波な不思議ちゃんでもあります。
バトル時には、棒をステッキにし、トライアングルから発動される魔法攻撃でもって攻撃を仕掛けます。

月島塁はちょっと変わった不思議なJKさんですけど、そうした月島塁が奏でるトライアングルの音色は、果たしてどんな音色を
奏でてくれるのか興味津々ですし、
19世紀において古典的形式のお手本みたいなピアノ協奏曲のジャンルにおいて「楽章の中にトライアングルをかなり効果的に
響かせている」というリストのピアノ協奏曲第1番第三楽章を月島塁だったらどのように感じて、どのように表現してくれるのか
というのも大変面白いものがありそうです。

そしてトライアングルというと別に楽器だけがトライアングルではないです。

人生いろいろ、トライアングルもいろいろ~♪という事なのだと思います。

上記は打楽器の一つのトライアングルのお話でしたけど、トライアングルと耳にして、
テレビアニメ「プリパラ」に登場するユニットを思い出す方は最近のアニメファンであり、
かつて「キャンディーズ」の後輩ユニットとして売り出され一時期はキャンディーズjr(キャンディーズジュニア)とも呼ばれていた
三人組のアイドルユニットを思い出す方は昭和アイドルファンであり、
焼酎の商品名を挙げられた方はお酒好きという事なのかもしれないですね~
ちなみに焼酎のトライアングルは元々はキッコーマンが製造販売していた焼酎ですけど、実は2006年に事業譲渡され、
現在はサッポロビールが製造販売しているそうです。
そうそう・・私が子供の頃は世界の謎とかムーでお馴染みだったのは「バミューダ・トライアングル」という一種の都市伝説も
あったものでした・・


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ここから下記はdream fantasyのアミグリさんが
描かれたイラストのご紹介コーナーです。

上記のお話は「トライアングル」関連でしたけど、アミグリさんファンの皆様、そしてアイドルアニメ好きファンの皆様の
視点で申し上げると、トライアングルというとプリパラのユニットですよね~♪

そうした訳でdream fantasyのアミグリさんが
描かれたぴのん、かのん、じゅのんの3人から構成されるトライアングルの集合絵をご紹介させて頂きたいと思います。
下記のらぁら・そふぃ・みれぃのソラミスマイルの3人の集合絵もとても華やかですてきでしたけど、
ぴのん、かのん、じゅのんの3人も3人揃い踏みの集合絵は更に豪華絢爛さがマシマシになり
とっても華やかで鮮やかだと思います。

今回描かれたトライアングルの集合絵は「ライブをしているシーン」をアミグリさんとしてはイメージされたとの事ですけど、
そうしたライブとしての華やかさ・躍動感も申し分なく伝わっていると感じます。

ぴのんちゃん・かのんちゃん・じゅのんちゃんの3人は実は同一人物であり、とある人物が三位一体と言うのか一人三役を
見事に演じていて、そのとある人物のその正体こそが実は、真中らぁらの妹の真中のんであったという事が判明したのは
プリパラの第三期アニメ本編の最終回間際でもありました。
アニメ本編にて、真中のん役の声優さんが結果的にトライアングルの三人の声を演じたという事にもなるのですけど、
声優さんのそうした声の演技も素晴らしいですけど、アミグリさんのトライアングルの集合絵も見ている人に
「実はこの3人は同一人物である」という事を微塵も感じさせないキャラの違いを的確に表現されていて、こちらも声優さん
同様にそのご苦労に心の底から敬意を表させて頂きたいと思います。

改めて3人揃い踏みの集合絵として拝見させて頂きますと、今
回はキラキラ仕様が加わり、背景のアイドル空間的な華やかな雰囲気も加わり、今まさにライブをやっている~!といった
躍動感が見ているだけで伝わってきそうです。

この3人は確かに同一人物ではあるのですけど、三者三様のクールさ・明るさ・かわいらしさが伝わってきていて、3人の個性の違いも一枚の絵の中にぐぐっと盛り込まれているのも素晴らしいと思いました。


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続きましてアミグリさんが描かれたプリパラ集合絵の中から、2018年3月に描かれた「ソラミスマイル」の3人の集合絵です。

上記のトライアングルの3人よりもこの3人の方がお姉さんっぽく感じられるのは、トライアングルの正体は
真中のんという真中らぁらの妹が3人のキャラを演じていて実は同一人物であるという事が大きいのかもしれないです。

みれぃのネコ耳っぽいお団子もらぁらの髪にちょこんと乗ったシルクハットもとってもかわいいものがあると思いますし、
プリパラの中でも王道中の王道のこの三人が勢揃いしたソラミスマイルの集合絵は、とても華やかで
見ているだけでもハッピーな気持ちになれてしまいそうなすてきな集合絵だと改めて感じたものでした。

上記で触れた通り、アミグリさんの絵は、どちらかというとキャラ一人を描く傾向が強い中、
こうした集合絵というか複数キャラを描かれる作品も大変珍しいものがありますので、
そうした意味においても大変貴重な作品と言えるのだと思います。

アミグリさんがこのソラミスマイルを描かれ掲載していた頃が丁度dream fantasy開設10周年という大きな節目でも
ありましたので、ソラミスマイルの3人がアミグリさんに対して「おめでとう! ここまでよく頑張ったね!」と
言われているようにも感じられそうです。
らぁらがメインにでーんと位置していますけど、らぁらの決め台詞でもある「かしこまっ!」と言いたそうな雰囲気もあり、
とにかくこの華やかさが申し分ないと思います。

上記のアミグリさんが描かれたプリパラ集合絵のその権利は上記作品の絵師様である
アミグリさんに帰するものであり、当ブログにおける転載とご紹介は事前に全てアミグリさんからご了解を頂いたものであり、
アミグリさんからのご厚意で転載をさせて頂いておりますので、
無断お持ち帰りや無断コピーは絶対NGですので くれぐれも宜しくお願い申し上げます。

アミグリさん、本当にいつもすてきなイラストの転載を快諾して頂きありがとうございます!!

アミグリさんのブログ「dream fantasy」は、
東方・艦これ等の版権作品の二次創作作品やオリジナル作品など
すてきなな作品が一杯いっぱい詰まっている宝石箱みたいなとっても素晴らしいブログです!
皆様の中で「こんなにかわいいトライアングルを描く人のブログってどんなもんなのだろう・・? 」などと興味がある方は、
是非是非アミグリさんのブログ dream fantasy  を
ご覧になって頂きたいと思いますし、宜しければ、当ブログだけではなくて、
是非アミグリさんの本家本元のブログ dream fantasy  に一度お越しして頂けると
アミグリさんのブログをご紹介させて頂いている私もとってもとっても嬉しいです!

アミグリさんが定期的に作品を投稿され続けている →アミグリさんのpixiv にも是非一度足を運んで頂ければ幸いです!

アミグリさんのpixiv

それでは最後まで本記事を読んで頂きありがとうございました!
本記事はA.ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」の記事なのですけど、
私自身がドヴォルザークの交響曲でいっちば~ん!大好きな曲というと実は「新世界より」ではなくて、
実は交響曲第7番です!
ドヴォルザークの7番は知名度は低いのかもしれないですけど、その内容の充実は素晴らしいものがあり、
雰囲気としては「大変厳しい状況や困難さを克服し、なんとか自立で頑張ってみよう!」みたいな決然としたものを
感じさせてくれていると思います。
ドヴォルザークの7番は演奏会では「新世界より」に比べると格段に演奏頻度が下がるのはちょいともったいない感じは
しますし、交響曲第8番や 交響曲第9番「新世界より」は7番に比べると演奏機会も発売されているCDも断トツに上ですので、
7番の方ももう少し注目度が上がればいいなぁと思ったりもします。
交響曲第7番は内容が大変シリアスさと厳しさを有していますけど、交響曲第6番は全体的には
「この世のありとあらゆるハッピーを手に入れた!」みたいな幸福感が全体を支配し、この6番ももっともっと知れ渡って欲しいと
願ってやまないです。

それにしてもドヴォルザークという作曲家は、日本人好みのメロディーを多く作曲した「屈指のメロディーメーカー」という
印象があります。

一例を挙げると・・

〇交響曲第9番「新世界より」~第二楽章

〇ユーモレスク

〇弦楽四重奏曲「アメリカ」(弦楽四重奏曲第12番)

〇チェロ協奏曲

〇スラブ舞曲(特に第Ⅱ集の第二曲のあの泣けるメロディーラインは名曲の名に恥じないと思います!)

など色々あると思います。

ドヴォルザークのあの哀愁溢れるメロディーラインは日本人好みだと思いますし、不思議な郷愁の感情を感じてしまいます。
日本人好みの哀愁・秋みたいな感覚・しっとり感が伝わり、どこなく田園地帯の静かな秋といった色彩も
音楽から伝わっているように感じられます。
どうしてこんなにも美しくすてきなメロディーをドヴォルザークは書けたのかと言うと、多分それはドヴォルザーク本人の
信仰心が厚く真面目で常識的で温かい人柄に起因するのかもしれないです。
肉屋の長男として生まれ、幼少の頃より大変貧しい生活を送り、正規の音楽教育もなかなか受けることができず、
恩師等の援助等によってなんとか音楽学校を卒業できたものの、生活のために奏者として教師として仕事を時に掛け持ちし、
若い頃はかなり貧しく大変な時期を過ごされてもいます。
そして結婚後も、長男・長女・次男を小さい頃に亡くしたりするなど、かなり苦労の絶えない人だったのかもしれないです。
だけどそうした貧乏・苦労を知っているからこそ、どこか人間味あふれた温かい音楽をあんなにもたくさん残すことが
出来たといえるのかもしれないです。
ドヴォルザークが交響曲第9番「新世界より」を作曲した背景に、アメリカのナショナル音楽院より
「ぜひ渡米して2年程度当学院の院長に就任して欲しい」という要請を受け、初めは強く固辞したものの、プラハの学校での
年収の実に25倍近くの報酬を提示され、アメリカに渡ったというエピソードもドヴォルザークの経済事情を考えると
当然なのかもしれないです。
だけどそのアメリカ生活での環境で、さらにすてきな作品を後世に残す結果となったのはとても幸いだったと言えるのかも
しれないです。

冒頭でドヴォルザークは交響曲第9番「新世界より」よりも交響曲第7番の方が好みと書いてしまいましたけど、
交響曲第9番「新世界より」は古今東西人気交響曲の投票を行ったとしたら、確実にベスト10に入りそうな曲ですし
名曲の資格を有する本当に素晴らしい傑作だと思います。
オーケストラの演奏会で最も頻繁に演奏されるレパートリーの一つでもありますし、
日本においてはベートーヴェンの交響曲第5番「運命」、シューベルトの交響曲第7(8)番「未完成」と並んで
3大交響曲と呼ばれることもありますし、事実、現在はやっているかどうかは分かりませんけど、読売日本交響楽団が、
世界の三大名交響曲と銘打ってサマーコンサートを開催していましたが、その三大交響曲とは運命と未完成と新世界でした。

交響曲第9番「新世界より」は今現在は言うまでもなく交響曲第9番という呼び名が定着していますけど、実は第二次世界大戦
あたりまではこの交響曲は交響曲第5番と呼ばれていました。
それは作曲した古い順から1番・2番・・としていく通常のナンバーリングではなくて、出版社の都合によりその出版順により
第5番と呼ばれていた事も大きいですし、それ以上に第二次世界大戦前後あたりまでは、ドヴォルザークの交響曲第1~4番は
マイナーすぎて世間にほとんど知れ渡っていなかったという事情もあるようです。
その後作曲順に番号が整理され、現在では「新世界より」は第9番として定着しています。

ドヴォルザークの初めての交響曲は、交響曲第1番「ズロニッツェの鐘」という曲なのですけど、この交響曲は
ドヴォルザークの若書きということもありましたし、作曲コンクールへの応募作品と言う事で短期間で書き上げたという事もあり、
コンクール落選後に主催者から交響曲第1番「ズロニッツェの鐘」の総譜が返却されなかったという事もあり、
元々作曲した作品に対しては大変厳しく自分が納得いかない曲は容赦なく破棄する癖もあったドヴォルザークは、
「交響曲第1番は自分が破棄したのかもしれない」と考えていたのかもしれないですし、案外もしかしたら
そうした曲を作曲していた事自体忘れていたのかは定かではないのですけど、ドヴォルザークは
交響曲第9番「新世界より」 完成後の自筆のスコアにははっきりと「交響曲第8番」と記していたそうですから、
少なくともドヴォルザークの頭の中では交響曲第1番「ズロニッツェの鐘」は認知していなかったという事なのかもしれないです。

上記で書いた通り、私自身この交響曲は高校の頃まではそれほど大好きという感じでもなかったですし、
「同じドヴォルザークならば、交響曲第8番とか第7番の方がはるかに内容的にも優れているのに、どうして新世界ばかり
人気があるのかな・・?」と 少々ひねくれた考えを持っていたものです・・・
第二楽章のあの「家路」の哀愁溢れるメロディーとか第四楽章冒頭のトロンボーン等による堂々としたメロディーが
あまりにも音楽の授業とかCMとかテレビのBGMで多用され過ぎたせいなのか、新世界を聴いても「またか・・」みたいな感じ
になってしまい、名曲過ぎて逆に敬遠気味だったのかもしれないです。
そうした考えが一転したのは、大学の吹奏楽団に入部して以降だと思います。
ある時、トロンボーンの先輩との会話の中からなぜかドヴォルザークの話になってしまい、
「この作曲家の交響曲の中では断然7番がいいと思うのですけど・・・」みたいな事を口走ったら、その先輩より
無言で練習場内に置かれていたケルテス指揮/ウィーンフィルのレコードを差し出され(当時はCDが普及していない時代です)
「騙されたと思ってこのケルテスの新世界を聴いてみてからそういう戯言を言ってみなさい」と一喝され、
しぶしぶこのレコードを聴いてみたら、「なるほど、そういう事か・・」と目からウロコ状態となったものです。
ケルテス指揮の演奏は現在の視点で聴いても、斬新というか音楽のダイナミックスレンジが幅広いし
自由自在に表現している感じが伝わり、音楽の教科書に掲載されている名曲みたいな堅苦しいイメージの音楽ではなくて
とにかく「生き生きとしている」・「面白い」・「古めかしい教科書くさくない演奏」・「新鮮」という感覚が強くて、
結果として、一人の指揮者の演奏がきっかけで、今まで敬遠していた音楽が好きになる事の典型例みたいな
感じになってしまいました。

ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」なのですけど、未だにこの曲について少々誤解をされている人もいるようです。
その誤解とは何かと言うと、
ドヴォルザークがアメリカという当時としては「新大陸=新世界」に音楽院長として赴き、
原住民であるアメリカインディアンの民謡からヒントを受けて、それを引用しても第二楽章の家路のメロディーを作曲したという
話がよく語られているのですけど(私自身、中学の音楽の授業ではそのように教わっていました・・)
それはとんでもない大嘘ですからね~
ドヴォルザーク自身は、この交響曲作曲に当たっては、別にインディアンの音楽や黒人音楽からの引用は一切ありません。
アメリカの黒人音楽が、ドヴォルザークの故郷ボヘミアの音楽に似ていることに刺激を受け、
アメリカと言う新世界から故郷ボヘミアへ向けて作られた完全オリジナル作品というのが正解のような気がしますし、
「新世界より」という副題は、新世界アメリカから故郷ボヘミアへ向けてのメッセージといった意味なのかもしれないです。

あくまで私の個人的な感想ですけど、この交響曲は第一楽章が一番好きです。
壮大さ・自然への賛美・人間への愛情、郷愁といった色々な感情が荒ぶっては引いていくみたいな気持ちになりそうです。
フィナーレも壮大で聴き応えがありますし、最後の和音のフェルマータを静かに閉じていく意外な終わらせ方も
面白いと思いますし、第三楽章の舞曲みたいなところも聴いていて気分爽快です。
やっぱりこの交響曲の最大の聴きどころは、誰が何と言ってもあの泣ける第二楽章、特にコールアングレの長大なソロ
なのだと思います、
確かにCMや販促CDとか教科書とかTV番組のBGM等で使用され過ぎというせいもあり、商業ベースに乗せられ過ぎみたいな
感覚も無い事は無いのですけど、あの第二楽章のコールアングレのソロは聴くだけで「何か」を感じさせてくれていると
思います。
ラフマニノフみたいな甘酸っぱい郷愁とか後ろめたい後悔の気持ちみたいな感じては無く、気分としてはもう少し前向きな感じも
あったりします。

交響曲第9番「新世界より」のあるある話としてよくネタにされている話が、
シンバルは全曲を通して第四楽章の一打ちしか出番がなく、第四楽章のその出番がくるまでシンバル奏者はじっと待って
いなければいけないので、ついついその待機時間の長さに負けてしまい、演奏中に寝てしまって第四楽章の唯一の出番を
スルーしてしまったとか、第一~第四楽章まで終始出番がある弦楽器や大変なソロがあり重圧のかかるコールアングレの
奏者とわずか一か所しかないシンバル奏者のギャラは実は全て一律平等であるのが管弦楽団のルールであるという事が
あったりもします。
このあたりを少しフォローさせて頂きますと、シンバルについては確かにシンバルだけなら第四楽章の一打ちだけですけど、
実際の演奏会では、この新世界交響曲の打楽器はティンパニと第四楽章のシンバル以外では第三楽章のトライアングルも
ありますので、大抵の場合シンバルとトライアングルは一人の奏者が兼任する事がほとんどなので、
「わずか一か所のみの出番なのに貰うギャラはヴァイオリンやコールアングレと同じ」というのは間違っていますし、
それに出番が一か所のみという意味では実はチューバも同じで、チューバの出番は第二楽章冒頭のわずか10小節のみです。
ただ、シンバルの一打ちについては、その一打ちが弱音指定であるためか、寝過ごした・楽器を落として舞台上を転がした
といった都市伝説が存在するのも面白い話だと思います。

第四楽章におけるシンバルなのですけど、上記で全楽章で出番は第四楽章のわずか一打ちだけでしかもとてつもない
弱音指定なのであまり目立たないと記しましたけど、このシンバルの一打ちは大変難しい個所だと感じたりもします。
人によっては「シンバルはどなアホでも叩けば音は鳴る」と思われるのかもしれないですけど、そうした誤解は
新世界のシンバルの一打ちにかける難しさを見て頂けると溶けると思います。
そのシンバルの一打なのですけど、譜面上は二分音符+全音符+四部音符がタイで結ばれた譜面上は、mfのアタックの
後に7拍分の余韻が指示されています。
そうした作曲者からの指示をいかに音にするかというのは指揮者ではなくて実際にシンバルをあわせる奏者の腕の見せ所
なのだと思います。それをどのように料理するかを考えるという事自体、シンバル奏者=どんなアホでも叩けば音は出る
という訳ではないという事を立証しているのだと思います。
さてさて・・そうしたドヴォルザークからの厄介な指示を現場でどのように音にするか、その方法として考えられるのは
1.合せシンバル的にタイミングよくアタックする
2.左手のシンバルの内側側面を右側シンバルのエッジに擦り合わせる
3.片方のシンバルを吊るしシンバル的に片手で持ち、別の手で手にしたマレットで軽くたたく
という事がありそうですけど、実際の演奏会でシンバル奏者が実践しているのは2の方法が多いように思えます。
2の方法はタイミングが命だと思ったりもします。

第二楽章のコールアングレのソロは、本当にこの世の物とは思えないほどの「美しいメロディー」なのですけど、
こんなに美しい叙情楽章も大変貴重なものがあると思います。他にどんな美しすぎる抒情楽章があるのかさっと思いつく所で
列挙してみますと・・

〇ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番第二楽章

〇コルンゴールド/ヴァイオリン協奏曲第二楽章

〇バーバー/ヴァイオリン協奏曲第二楽章

〇モーツアルト/ピアノ協奏曲第23番第二楽章

〇プロコフィエフ/交響曲第5番第三楽章

〇シューベルト/ 交響曲第7番「未完成」第二楽章

〇マーラー/ 交響曲第5番第四楽章・アダージェット

〇  同 / 交響曲第6番「悲劇的」第三楽章

〇チャイコフスキー / 交響曲第5番第二楽章

など色々とあるのですけど、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」の第二楽章は、別格みたいな感じもありますね。
「新世界より」の第二楽章は、コールアングレのソロばかり注目が集まりがちですけど、
この楽器の延々と長いソロの後のクラリネットとフルートに受け継がれていく部分も相当美しいものがあると思います。
終盤近くに、チェロを中心とする弦楽合奏の中で、突然メロディーが瞬間的に途切れて 一瞬何秒かの沈黙が
二か所ほどあるのですけど、あれを最初に生演奏で聴いた時は思わずはっ・・となるほどの息をひそめてしまうような
美的限界があるようにも感じられます。


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ららマジの器楽部においては、オーボエ奏者はいなくてコールアングレ奏者の白石陽菜のみです。

多分ですけど、オーボエの音色が必要な場合は白石陽菜が楽器を掛け持ちしているのかもしれないです。

白石陽菜は高校2年生のJKさんで血液型はO型です。
気品と度胸あふれるおてんばなお嬢様という設定です~♪

一見いいところのお嬢様という雰囲気も有しながら、かなりやんちゃで活発なお転婆娘というのも楽しいですし、
お転婆ゆえに実は特技と趣味は木登りというのもとても楽しいです。

活発な女の子だけど、担当している楽器の音色はかなり内省的というギャップもすてきですね~♪

そして前髪をあげているためおでこがかなり目立っているのもとてもかわいいです~!

吹奏楽コンクールにおいては稀にドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」 ~第四楽章が自由曲として演奏される事も
あったりしますけど、本来は第四楽章はティンパニとわずか一打のシンバルのみですけど、ライゼン編曲の吹奏楽版だと、
ここにシロフォーン・大太鼓・小太鼓も加わり、本来は第四楽章では登場しないはずのチューバもかなり低音を響かせていたりも
しています。
聴き方によっては結構無茶苦茶なアレンジですけど、ららマジ器楽部の楽器編成もかなり無茶苦茶ですので、
ららマジ器楽部がもしもA.ドヴォルザーク / 交響曲第9番「新世界より」 を演奏したらとても面白そうですけど、
第二楽章のコールアングレのソロはこの白石陽菜がしっとりと美しく決めてくれそうですね~♪



リコーダーは縦笛の一種で、息を吹き込んで発音して、穴を指で塞いで音程を決める楽器です。

12世紀頃に楽器として登場し、ルネサンス期~バロック期のヨーロッパで隆盛を極めたものの、18世紀に
横笛としてのフルートが登場して以降は18世紀以降は急速にオーケストラの中では消滅していきます。
もともとはクラシック音楽の楽器でしたけど、オーケストラが巨大化するに至って大音量が出ないという理由から、
クラシック音楽の楽器としては廃れていったという歴史もあったりします。
シェークスピアが活躍していた時代がリコーダー全盛の時代ともいえるのですけど、例えばハムレットのセリフの中にも
「リコーダーはうそをつくのと同じくらい易しいぞ。親指や他の指で穴をおさえ、息を吹き込めば最高の音楽になるぞ」という
セリフも実はあったりもします。

単に息を吹き込むだけで容易に音を出すことができるのですけど、その理由として、フルートのように唇の振動で
音を出すのではなくて、楽器の頭部の栓(ブロック)と管壁の隙間から吹き込まれた息が、鋭い切り口にあたって
ホイッスルの原理と同じように音を発する事が挙げられます。
上記で触れた通り、クラシック音楽の分野ではフルートの地位にとって代わられ存在意義と活躍場所を失ったかのように
見えたのですけど、現代の日本においては、
小学校低学年でも簡単な演奏が可能である上、構造がシンプルでプラスチックを用いると安価に量産できることもあって、
小学校や中学校の音楽の授業で主にソプラノリコーダーとアルトリコーダーが使われていたりもします。
(捨てる神あれば拾う神あり・・という感じなのかもしれないです)

アニメ二次創作や同人系の分野では、リコーダーというと、ロリ・ランドセルと共に幼女の必須アイテム・
他の楽器に比べて深く口にくわえる事から、リコーダーを吹く事がとある行為を示唆するもの・・とか
男子中学生が好きな女の子と間接キスをするために誰もいない教室に忍び込んで、その女の子のリコーダーを
こっそり吹く・・といった誤った使用方法やイメージもあるようですけど、よいこの皆様はそんなヘンな妄想でリコーダーを
悪用したらダメですよ~(汗・・)


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「ららマジ」において、リコーダーを担当されているのは高校3年のJKさんの園田乃愛です。
(乃愛というと「ラーメン大好き小泉さん」のモブキャラの乃愛ちゃんを思い出してしまいそうです・・)
演奏会の演出を一手に引き受ける最上級生であり、器楽部創立メンバーの一人でもあります。
担当楽器はリコーダーで、楽器初心者の下級生の星にもなっているそうです。
(リコーダー自体が楽器初心者にとっては最も扱いやすい楽器の一つなのかもしれないです)
趣味はTVゲームで、はね髪がとってもかわいいですし、とてもじゃないけど高校3年生に見えない幼い雰囲気が
とってもかわいいですね~

バトル時ではリコーダー型の杖を振って星型のエネルギーを飛ばして攻撃するそうです。


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今年の10月後半以降当ブログでよく出てくる「ららマジ」なのですけど、これはアニメ作品でなくてスマホ向けの
2017年1月にリリースされた音と魔法の学園RPGです。
ららマジのストーリーは、とある呪いにより廃部寸前となってしまった東奏学園器楽部を舞台に、
プレイヤーは器楽部員として登場する30人のヒロイン達を呪いから救い出し、彼女たちが再び演奏できるようにすることを
目指すように頑張るという内容です。

東奏学園器楽部の部員は30人ですけど、
「ららマジ」は吹奏楽部ではなくて器楽部と言う事で、楽器仕様に制約が無いと言う事で、出てくる楽器も
吹奏楽ではありえない編成のワーグナーチューバ・箏・胡弓・チェロ・リコーダー・エレキベース・エレキギター・シンセサイザー・
ウクレレなども登場しているのは自由さがあってとてもすてきだと思います。

私自身、中学校以降はずっと吹奏楽部に所属していましたけど、小学校の頃の放課後課外活動として、
週に2~3回程度の練習を行う管楽器クラブに所属し、そこでは打楽器(主にティンパニ・ヴィヴラフォーン・シンバル等)を
担当していました。
当時の感覚としては「こうした大人数での合奏するのだったら、叩く楽器よりも吹く楽器の方が面白そうだし、より音楽に
参加しているという意識がありそう・・」と感じ、中学入学以降に吹奏楽部の門を叩いたのですけど、これが結果的に
間違いだったのかそうではなかったのかは今となってはよく分からないですけど、結果的に音楽を知るきっかけになったのは
確実なのでそれはそれで結果オーライなのかもしれないです。

小学校の管楽器クラブはららマジと同じくらい編成が自由自在で、主なメロディーライン担当楽器は、上記でも出てきた
リコーダーと、ピアニカ(鍵盤ハーモニカ)とアコーディオンだったと思います。
そこにトランペット・トロンボーン・クラリネット・サックス・チューバ等の管楽器や打楽器が加わり、なぜかしりませんけど、
そこに更に足踏みオルガンも加わっていましたので、奏でられるサウンドの響きは今にして思うと相当奇妙だったのかも
しれないですけど、運動会での鼓笛隊と合せる形での入場行進の演奏とか学芸会での演奏お披露目とか
年に3~4回程度開催されたお楽しみ演奏会等での合奏やそこでの練習はとにかく「楽しかった!」としか言いようが
なかったと思います。
指導する先生も細かい事はあまり気にされないで、「とにかくみんなのやりたいように吹いていいよ~」という感じで
のびのびと楽しんで吹いていたと思いますし、楽器編成がららマジと同じくらいてんでバラバラでしたけど、
そこから奏でられる音楽は、むしろ自由自在な気ままさだったのかもしれないです。
こういうのを「楽しむ音楽」というのかもしれないです。

そして中学校の吹奏楽部に入部して気付いた事は、音楽は音楽でも自由自在に気ままに楽しんで奏でる音楽と
厳しい規律と指揮者による厳格なコントロール下に置かれ、編成も厳密に定められている「吹奏楽部」という
管理された音楽の二種類があるものだ・・という事でもありました。

今となってはその二つの音楽にもそれぞれ長所短所もあるのですけど、忘れて欲しくないのは、やっぱり奏者の自発性と
音楽をする楽しみといえそうですし、そうした意味においてはららマジのメンバーはそれぞれ自発性と音楽を楽しむ心を
有しているのがすてきだな・・と感じたりもしますね。
一般的にフルートというと、美少女が奏でる楽器というイメージもあるのかもしれないですし、昔も今も吹奏楽部においては、
楽器振り分けの際には女の子には大人気の楽器の一つだと思います。
フルートは美少女が吹くイメージが強いせいか、きらびやか、かわいいと言う雰囲気がありそうですね~♪

フルートというと両腕を上げて奏でる横笛楽器で、銀色または金色の金属製の筒に複雑なキー装置を備えた横笛と言えます。
今現在はフルートというと横に構えて吹く楽器というのは既に一般化されていると思うのですけど、
実はJ.Sバッハとかヴィヴァルディ等のバロック時代においては、フルートという楽器は実は現在一般にリコーダーと呼ばれる
縦笛の事を指していました。
実際バッハの若い頃は横笛楽器としてのフルートという楽器はそれほど定着はしていなかったようです。
バッハの若い頃は上記で書いた通り、フルート=リコーダーという縦笛楽器であったのですけど、現在の感覚で言うと、
リコーダーというのは、誰にでも手軽に音が出せる学校教育の場で主に使用される楽器とか
はたまた妄想アニメ等で、モテない男子高校生が誰もいない教室でこっそりと憧れのクラスメイトのJKさんのリコーダーを
吹いて「間接キスができた・・」といって涙ぐむシーンでお馴染みなのかもしれないですけど(汗・・)
バロック時代は今現在と違って、リコーダーというのは管弦楽の主要楽器の一つという立ち位置でもあったようです。

バッハを崇拝していたフリードリヒ大王が横笛としてのフルートを愛用していたというエピソードからわかるように、
バッハの青年期以降は、縦笛のリコーダーにとってかわってフルートがその役割を担うようになり、そこに楽器としての
劇的な改良が施され現在のフルートの形になっていきます。

フルートという楽器は今現在はほとんど金属製になっていますけど、人によっては
「あんなメタルの楽器がどうして木管楽器に分類されるの~?」と疑問に感じられるのかもしれないですけど、
確かに初期の頃は木製フルートもあり今現在も稀に木製フルートを使用されるプロ奏者もいます。
クラリネットやオーボエはリードという薄片を息で震わせて音を出し、ホルンやトランペット等の金管楽器は唇を震わせて
音を出します。
フルートはクラリネットやオーボエのような物理的なリードはないですけど、
頭部管唄口のエッジに向け息を出して空気を振動させるという「エアリード」と呼ばれる空気の渦流を作る仕組みがあります。
吹き込んだ息をエアリードが音にして出しているので、フルートは金属製でも木管楽器に分類される訳なのです。
メタル系楽器と言うとサックスも木管楽器に分類されますけど、サックスの先端はマウスピースであり、マウスピースに
薄い木片のリードを装着させて吹くので木管楽器として分類されます。

クラリネットやオーボエと違って発音にリードを用いないため、他の木管楽器よりもタンギングの柔軟性は高く、
運動性能も木管楽器の中では最も高く、クラリネットやオーボエだと大苦戦する速い指使いの楽曲も比較的容易に
吹く事ができます。
(音色が安定し速いパッセージも難なくこなせるという事で指揮者からは愛される楽器なのかもしれないですね~)
フルートの音量は小さいのですけど、高音域は倍音が少なく明瞭で澄んだ音と言う事で、
管弦楽でも吹奏楽でもサウンドの中に埋没する事は少なく、その音は埋もれることなく明瞭に聞こえてくる傾向は強いです。

埼玉ネタで申し上げると、埼玉県所沢市に村松フルート製作所という楽器メーカーがあります。
昔も今も全て手作りなので1ヶ月に400本程度しか生産できないが、プロの6割以上が村松フルート製作所のフルートを使用
しているという話もあるそうです。
村松フルート製作所のフルートは最も優れたフルートの一つとしてミュンヘン市立楽器博物館に永久保存されているほどで、
換言すると埼玉の隠れ名産品とも言えそうです。
当ブログではよく「埼玉は何の名物も銘菓もないし、あるのは十万石まんじゅうだけ・・」と自嘲的に書いたりもしていますけど、
実は世界に誇るべきフルート製作メーカーが存在しているというのは、埼玉県民の私にとっても大変誇らしい話といえそうです。

吹奏楽部に入部希望をしてくる新入部員たちの中での人気楽器は、トランペット・トロンボーン・アルトサックスだと思いますが、
女の子にとって一番人気のパートはフルートと言えるのかもしれないですね。
フルートのイメージは優雅で華麗であり、全体合奏の中では目立たない方なのかもしれないですけど、随所においしいソロが
用意されている事も多々あり、音程が安定している事もありますし、万一ミストーンをしても元々の音量が弱いという事もあり、
あまり目立つことも無く、指揮者からはどちらかというと優等生扱いされる事が多いのかもしれないです。

フルートは前述のとおり、とても清らかな音色で美しく、美しいメロディーをソロ的に奏でる管弦楽曲も古今東西多数
存在しています。
フルートがソロ的に扱われている管弦楽曲を少しばかり挙げさせて頂きますと・・・

ビゼー / アルルの女第二組曲~Ⅲ,メヌエット

M,ラヴェル / バレエ音楽「ダフニスとクロエ」第二組曲~Ⅱ,パントマイム

G,グリーグ / 劇付随音楽「ペール・ギュント」~朝

G,フォーレ / 組曲「ぺリアスとメリザント」~Ⅲ,シチリア舞曲

C,ドビュッシー / 牧神の午後への前奏曲

C.サン・サーンス / 組曲「動物の謝肉祭」~鳥かご

個人的な趣味ですけど、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「ペトルーシュカ」の第一幕冒頭の細かい動きはフルートによって
主に進行されていきますけど、あのフルートの細かい動きは結構ツボにはいっています。
吹奏楽オリジナル作品では、チャンスの「呪文と踊り」の冒頭ソロの重々しい響きもとても渋くてすてきです。

そうした中、フルートが管弦楽の中で朗々と長大なソロを奏でるというと私的には、ラヴェルのダフニスとクロエを
推したいです。
バレエ音楽「ダフニスとクロエ」は、副題は三部から成る舞踏交響曲というのは少し意外でもあったりします。
(どう聴いてもシンフォニーには聴こえないです・・)
組曲版としての第一組曲(Ⅰ.夜想曲 Ⅱ.間奏曲 Ⅲ.戦いの踊り)はバレエの第一部と第二部から構成されています。
あくまで私個人の主観ですけど第一組曲は冗漫で退屈で聴いているだけで眠くなりそうです。
一度だけこのバレエ音楽を全曲ノーカット版をデュトワ指揮/N響で聴いた事があるのですけど、
第一部と第二部は退屈で死にそうでした。
このバレエ音楽は純粋な管弦楽曲ではなくて、バックに歌詞を伴わない合唱が入り、
合唱が管弦楽の響きの中に入り込んでくると、管弦楽の精緻でひそやかなな響きを楽しんでいる時に、
コーラスがその響きに水を差すような印象があり、私個人としてはこのバレエに関しては、合唱が入らない版の「第二組曲」を
聴けばそれで十分みたいな感想も実はあったりします。
余談ですけど、デュトワ指揮/N響のダフニスとクロエ全曲版の演奏の最中に、震度5程度の結構強い揺れの地震発生という
ハプニングが発生し、会場内は結構ザワザワとした雰囲気に一時なったのですけど、
デュトワも奏者も合唱も誰一人動揺することなくそのまま自然体で演奏を続けていたのは、プロは違う!と感じたものでした。

第二組曲は、Ⅰ.夜明け Ⅱ.パントマイム Ⅲ.全員の踊りの三曲から構成されていますけど、
Ⅰの夜明けの「ひそやかさ」は素晴らしいですし、冒頭のフルートとハープによって奏でられる鳥のさえずりの部分は、
指揮者と管弦楽団にとっては腕の見せ所だと思いますし、指揮者の「美的センス」が真正面から問われそうです。
そしてⅡのパントマイムは長大で美しくひそやかなフルートソロはこの世の響きとは思えない幽玄で美しい響きに満ち溢れて
いると思います。
吹奏楽コンクールにおいては、1987年の習志野高校の超名演とフルートソロの美しさが圧巻です!
Ⅲの全員の踊りはまさに華麗なる音の絵巻の世界で絢爛豪華なサウンドが展開されていきます。
全員の踊りは打楽器はかなり使用されていて、ティンパニ・大太鼓・サスペンダーシンバル・スネアドラム・カスタネット・
トライアングル・タンバリンの7人の打楽器奏者が同時に音を出している箇所もあったと思います。

フルートソロというとビゼーのアルルの女のメヌエットも美しさの極みだと思います。

メヌエットはハープの伴奏に支えられて、フルートが牧歌的なソロを展開していくのどかな曲なのですけど、
突然管弦楽がフルートソロを遮るようにダン・ダン・ダン・ダーと鳴らす箇所があるのですけど、小学校の音楽の授業の
名曲鑑賞においてこの曲が掛けられ、そうした場面になると結構児童たちはどよめいたいたものでした。
アルルの女のメヌエットは曲がそれ程ダイナミックスレンジの広い曲とは思えないのですが、子供の感性は意外と
鋭敏なのかもしれないですね。

アルルの女~メヌエットのように、ppの部分から突然ffの大咆哮の代表的音楽として
ハイドンの交響曲第94番「驚愕」~第二楽章が取り上げられますけど、
現代人の感覚から言うと、別にそれは驚愕でも何でもないのですけど、確かに18世紀の貴族・貴婦人を
主な聴衆とした演奏会としては、「びっくり」だったのかもしれませんね~
第二楽章は単調なメロディーが二回展開され聴衆がウトウトする頃に、全ての楽器とティンパニが突然ffでダン!!と
奏でるのですけど、当時の聴衆としてはそれは驚愕だけど、20~21世紀の聴衆にとってはそれはもはや驚愕でもなんでも
ないと言えそうです。
ppから急激なfffへの展開の曲というのは腐るほどある訳ですし、
別に「アルルの女」がそれ程すごい曲とは思いませんけど、子供にはこのくらいが丁度いいのかもしれないです。
そうした意味においては、音楽のダイナミックスと言うのは決して「音量」だけではないと思いますし、
要は、静かな部分と壮大に豪快に咆哮して鳴り響く部分の「静と動の対比の落差」なのだと思います。


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「ららマジ」に登場する一年生のフルート奏者の結城菜々美については、一度バルトークの舞踏組曲と二つの肖像記事の際に
レビューをさせて頂きましたが、結城菜々美はららマジのメインヒロインの一人というのか実質的な主人公キャラでもありますし、
本記事がフルートに関するものでしたので、再度改めてレビューさせて頂きたいと思います。

フルート奏者の結城菜々美は「ど根性で乗り切るぞ!期待の新人!」というのが売りのふわふわ熱血少女です~♪

明るく素直で、誰とでも仲良くなれるタイプで、根性さえあれば何でもできると考えている熱血系根性論者でもあり、
ときに無鉄砲な行動に出ることも多々あります。
音楽家の両親の影響で物心つく前からフルートに触れており、幼少期から数々のコンサートで最優秀賞を総なめ状態で
周囲から神童と呼ばれていましたけど、とある出来事により挫折してしまう過去の傷もあったりします。

根性論者、肉好き、運動神経抜群という側面と見た目のふわふわ~っとしたかわいらしさのギャップが
結城菜々美の際だの魅力なのかもしれないです。
灰色のニーハイを常に着用していて、ららマジの中ではすてきな絶対領域の持ち主であるのも大変素晴らしいですね~♪


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結城菜々美は私服姿もとてもかわいいです~♪ 太腿が眩しすぎます・・


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クリスマスのサンタコスプレもかわいいですし、よくお似合いですね~♪


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制服姿ですべって転倒する場面もとてもかわいいです~♪

美少女は時にこうしたドジっ子要素も必要なのかもしれないです。


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フルートという楽器はやはり美少女が奏でるのが一番相応しいのかもしれないです。

結城菜々美の奏でるダフニスとクロエ~パントマイムやアルルの女~メヌエットの美しいソロを聴いて、
心癒されたいものです~♪



「コールアングレ」という楽器は、別名、コーラングレとかイングリッシュホルンとか呼ばれていますけど、
私はコールアングレという呼び方が一番馴染みがあるので、当ブログにおいてはこの表記とさせて頂きたいと思います。

管弦楽や吹奏楽の木管楽器とは、フルート・クラリネット・オーボエ・ファゴットが主に該当するのですけど、
(サックスは外見はメタル系楽器ですけど、先端のマウスピースに竹製のリードを装着し振動させて音を鳴らしますので、
サックスは木管楽器に分類されます。但しサックスは管弦楽ではあまり使用されることはないです。吹奏楽ではとてつもなく
重要なポジションを与えられています)
フルートはリードを使用しないメタル系楽器でありますけど分類上は木管楽器として扱われ、それに対して
クラリネット・サックス・オーボエ・ファゴットはリードを使用する木管楽器でもあります。
そのうち、クラリネット・バスクラ・コントラバスクラ・サックス系はマウスピースに一枚のリードを装着させて吹く
シングルリード楽器でもあるのに対して、オーボエ・コールアングレ・ファゴット・コントラファゴットは、上下の2枚のリードの
振動によって音を鳴らすダブルリード楽器であったりもします。

コールアングレ(コーラングレ)は外見的にはオーボエと大変よく似た楽器です。
楽器の先端部が洋梨と形容されるように丸く膨らんでいるのが外観的な特徴で、オーボエよりはサイズは一回り大きいです。
指使いはオーボエとコールアングレは全く同じであり、コールアングレはオーボエより完全5度低い音が出ます。
オーボエは高音域が特に魅力的な音を発するのですけど、コールアングレはオーボエに比べて低い音域を奏でていて、
あの牧歌的だけどどこか内省的な低音域の音はとにかく渋くて魅力的です~♪
オーケストラではオーボエ奏者が持ち替えて演奏することが多いですし、吹奏楽コンクールでもオーボエ奏者が場面場面で
持ち替えることが比較的多いです。
例えばボロディンの歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊りやベルリオーズの「幻想交響曲」~Ⅲ.野の風景などのように
オーボエのソロの後に休みなくコールアングレのソロが出てくる楽曲ですと、最初からオーボエとコールアングレの奏者を
持ち替えせずに単独で配置する事が一般的です。
余談ですけど、今現在はそうした事は全く無いのですけど、1980年代あたりまでてすと、吹奏楽コンクールにおいては、
部内にコールアングレを所有していないのに、ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」やボロディンのダッタン人の踊りを
選曲した際には、コールアングレの代用楽器としてソプラノサックスを充てる事例も多々あったりして、あの代用された音色を
聴くたびにガックリさせられたものです・・(汗)
(ららマジにはオーボエ奏者はいませんので、コールアングレ担当の白石陽菜が掛け持ちでオーボエも担当しているのかも
しれないです)
基本的にはセカンドのオーボエ奏者がコールアングレに持ち替えることが多いですけど、
管弦楽において3管以上の編成では最初からコールアングレを単独のパートとしてスコアに記載されている事が多いです。

私自身の経験楽器は吹奏楽でのクラリネットを9年間とアルトサックスの1年間ですけど、
今現在の視点で申し上げると、「好きな楽器を一から教えてあげるから吹いていいよ」と言われたりしたら、私自身は
多分ですけど迷うことなくコールアングレを選ぶと思います。
その理由はというと、音色と音域が心地よいし聴く人をうっとりさせられるし、あの内省的でやさしい牧歌的な響きは、
吹いていても自分自身で陶酔してしまうほどうっとりとさせられるものがあると思います。
独特の牧歌的でエキゾチックな響きゆえに、管弦楽や吹奏楽においてはおいしいソロ的な扱い方をされる場面も
多々ありますし、吹奏楽の視点で言うと、クラリネットはどうしても役割的に管弦楽のヴァイオリンパートの細かい動きを
そっくりそのままアレンジされてしまう事が多くて、その指の動きが大変なのに対して、オーボエやコールアングレは、
指揮者的にはそうした細かい動きよりも、目立つ所やソロにおいてのそうした独特な色彩と音色でもって、音楽に彩りと
スパイスを添えてあげて欲しい・・という要請の方が強いから、細かい指の動きを正確に吹くというクラリネットパートの役割
よりはむしろ「とにかく美しい音色をたっぷりと聴かせる」という役割を求められていたと思いますし、
オーボエやコールアングレは細かい指の動きに多少難があっても指揮者からは目をつぶってもらえていたというある意味
特権も多少はあったのかもしれないです。

管弦楽においてコールアングレをソロ的に用いた曲は、有名な所では、
ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界」第二楽章のように、大変美味しい場面で使われることが多いです。
確かに新世界のあの鄙びた美しくて牧歌的なコールアングレのソロは、いつ聴いても胸がジーンとしますよね~
コールアングレの楽器そのものの音色が非常に心地よいですし、オーボエに比べると音色は低音のハスキーなのですけど、
俳優に例えると中尾彬みたいな声に近いと思います。
音色だけで大変得をしている楽器というイメージがあると記すと、逆にダブルリード楽器奏者からは
「それはクラリネット奏者のひがみじゃん・・自分達だって日々のリード調整や美しい音色のキープは大変なんだから~!」と
お叱りを受けてしまいそうです・・

独特の牧歌的でエキゾチックな響きから、オーケストラにおいてはソロ的な扱い方をされる場面も少なくないですけど、
それでは具体的にコールアングレのソロを伴う楽曲にどんなものがあるのか新世界以外で挙げてみたいと思います。
歌謡曲では、古い話ですけどガロの「学生街の喫茶店」が有名なのかもしれないです。
管弦楽の分野では、最初にこの楽器を効果的に使用した例は、ハイドンの交響曲第22番「哲学者」だと思ったりもします。

〇H.ベルリオーズ / 幻想交響曲 ~Ⅲ.野の風景

第三楽章のオーボエとコールアングレの掛け合いの部分はかなり魅力的です。
遠くから聞こえる雷を表現するため、ティンパニ奏者4人による雷の描写も大変効果的ですし視覚効果も申し分ないと思います。
指揮者の解釈によっては、オーボエの高い響きをあえて舞台袖から吹かせてコールアングレの低音の響きをステージから
鳴らせて、その遠近感を会場が一体となって演出しているような事例もあったりします。

〇A.ボロディン / 歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊り

 囚われの身となったイーゴリ公の郷愁をイメージさせるオーボエのソロですけど、それに続くコールアングレのソロも大変
 美しくてとてもじゃないけどこの世の響きとは思えない美しさがあります。

〇フランク / 交響曲~第二楽章

〇ロドリーゴ / アランフェス協奏曲~第二楽章

〇ラヴェル / ピアノ協奏曲~第二楽章  同 / スペイン狂詩曲~Ⅳ.祭り

〇ドビュッシー / 管弦楽のための三つの交響的素描「海」~Ⅰ.海上の夜明けから真昼まで

〇ロッシーニ / 歌劇「ウィリアム・テル」序曲

 有名なスイス軍隊の行進の前の牧歌の部分のコールアングレの温和でのんびりとした雰囲気はとても美しいです。

〇J.シベリウス / トゥオネラの白鳥

〇レスピーギ / 交響詩「ローマの松」~Ⅳ.アッピア街道の松

 管弦楽曲史上最大の音響のるつぼと化す曲ですけど、冒頭はコールアングレの美しいソロから開始されます
 (合いの手を打つバスクラも大変いい仕事をしています)

〇M.ファリア / バレエ音楽「三角帽子」~粉屋の踊り

 ホルンの合いの手に導かれてコールアングレだけの音によるソロが朗々と奏されます。

吹奏楽では、小山清茂(前橋商業の大木隆明先生のアレンジ版)の吹奏楽のための木挽歌~Ⅰ.テーマの
コールアングレの長大なソロは鄙びて枯れた感覚が素晴らしいです。
他には、リードのロシアのクリスマス音楽、エル・カミーノ・レアル、スパークのドラゴンの年、
ローストのスパルタカスとカンタベリーコラールなどが大変印象的です。

全般的にはドヴォルザークの新世界のように抒情楽章で特に威力を発揮する楽器と言えそうです。

そしてコールアングレが大活躍する管弦楽曲と言うと私の一押しではベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」を推したいです!

ベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」はこの曲ほどクラシック音楽初心者に向いている曲は無いかもと感じたりもします。
例えば、ハチャトゥーリアン/バレエ音楽「ガイーヌ」~剣の舞とか
ムソルグスキーの交響詩「はげ山の一夜」とかボロディンの歌劇「イーゴリ公」~ダッタン人の踊りとか
ホルストの組曲「惑星」~Ⅳ.木星とかラヴェルのボレロとかレスピーギの交響詩「ローマの松」~Ⅳ.アッピア街道の松とか
グローフェの組曲「グランドキャニオン」~山道を行く・豪雨などの曲と並んで
クラシック音楽の「夏休み親と子供のファミリーコンサート」の一曲として是非加えて欲しい曲の一つだとも思います。

曲自体7分半程度と時間的にも飽きが来ない適度な長さですし、冒頭の喧騒に続く前半のコールアングレの長大なソロで
聴衆をうっとりとさせ、中盤から後半にかけての楽しさ・激しさで盛り上げて、ラストも一気呵成に閉じるという感じで、
いかにもイタリアの血気盛んな舞曲という感じの曲といっても差し支えは無いと思います。
そしてこの曲の最大の聴かせどころは序盤のコールアングレの長大なソロだと思います。奏者にとっては大変
プレッシャーがかかりますけど遣り甲斐は相当あると思います。
どこかのんびりとしてるのだけど、ソロ以降に展開される舞曲の激しさを予感させるような静かな熱さも有していると思います。

序曲というと一般的には歌劇の前振りというのか、お笑いの世界で例えると、メインの出演者が登場するまでの前座担当だと
思いますが、この曲のタイトルが序曲「ローマの謝肉祭」となっていますので、
正式には歌劇「ローマの謝肉祭」序曲と言うのかな?と勘違いをされる方もいらっしゃるのかもしれないですので
少し補足をいたします。
ベルリオーズには、作曲に大変な情熱と心血を注いだ歌劇「ベンヴェヌート・チェッリーニ」という歌劇が
あるのですけど、これが興行的には大失敗してしまいます。
莫大な借金を背負い込み、せっかく作曲した曲も演奏される当てもなく、作曲者的には顔面蒼白という感じでもありました。
ベルリオーズは歌劇「ベンヴェヌート・チェッリーニ」自体には大変愛着があり、
「この歌劇をこのまま忘れられた曲として埋もれさせるにはなんか勿体無いものがある」として
この歌劇の主要な旋律を引用して単独の管弦楽曲へと編集するアイディアを思いつき、
その成果が序曲「ローマの謝肉祭」なのです。
それゆえに、この作品は単独の演奏会用序曲であり、「ローマの謝肉祭」という歌劇は存在しませんし、
歌劇「ローマの謝肉祭」序曲という曲は存在しません。

オーケストラの演奏会レパートリーとしては日本においても完全に定着した曲でもあり、
この序曲は恐らくですけど、かなりの頻度で演奏会に取り上げられています。
プログラムの一曲目としてはまさに「うってつけ」と言える一曲と言えるのだと思います。
やはりこの曲の最大の聴きどころは前述の通り前半のかなり長大なコールアングレのソロですけど、それ以外には
2台のタンバリンとトライアングルの融合も挙げたいと思います。
コールアングレのソロが終結し曲が騒々しくなってくると、
2台のタンバリンと一つのトライアングルがトリオとなって華やかな響きを演出しています。
この2台のタンバリンとトライアングルのシャカシャカ・・・というリズム感は、三つの打楽器が見事に融合しているようにも
聴こえたりもします。
あの部分は、いかにもこれから「祭りがはじまるぞー」みたいな雰囲気もあり、私は結構好きですね~♪


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ららマジの器楽部においては前述の通り、オーボエ奏者はいなくてコールアングレ奏者の白石陽菜のみです。

多分ですけど、オーボエの音色が必要な場合は白石陽菜が楽器を掛け持ちしているのかもしれないです。

白石陽菜は高校2年生のJKさんで血液型はO型です~
気品と度胸あふれるおてんばなお嬢様という設定です~♪


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一見いいところのお嬢様という雰囲気も有しながら、かなりやんちゃで活発なお転婆娘というのも楽しいですし、
お転婆ゆえに実は特技と趣味は木登りというのもとても楽しいです。

活発な女の子だけど、担当している楽器の音色はかなり内省的というギャップもすてきですね~♪

そして前髪をあげているためおでこがかなり目立っているのもとてもかわいいです~!



カスタネットというとなんとなくですけど「どんなアホでも叩けば音は出る簡単な楽器」という誤ったイメージがありそうな
打楽器なのかもしれないですけど、実際に管弦楽や吹奏楽で使用されるカスタネットの奏法は大変難しく、
私自身、高校3年の時の定期演奏会で演奏した曲目の一つがリムスキー・コルサコフの「スペイン奇想曲」だったのですけど、
あの時もパーカッションパートで特に第5曲でカスタネットを担当していた奏者は、あの独特な切れ味鋭いカスタネットの
リズム感を出すために相当裏では苦労していたと思いますし、朝練習や全体練習が終わった後でも一人黙々と
カタカタとカスタネットを刻んでいた光景が大変印象的でもありますし、ああした光景を見ると言えることはカスタネットは
決して簡単な楽器ではないし、少なくともどんなアホでもすぐに全体練習に参加できるような簡単な楽器ではないと思いますし、
同様な事はトライアングルにも言えると思います。
(トライアンクルについては、来年・・1月12日の当ブログ記事で改めてじっくり語らさせて頂きたいと思っています。)

カスタネットは木製の打楽器で、体鳴楽器に分類される打楽器の一つです。
スペインで特に発達した楽器であり、スペインの民族音楽に欠かすことはできない楽器であり、
スペインの舞踊フラメンコにおいては、今現在も踊り手にとっては必要不可欠な楽器でもあります。
カスタネットの情熱的なリズムの刻みは心地よいですし、あの躍動感は素晴らしいです~♪ あのカタカタと小気味よいリズムを
耳にしただけで既に気分は南欧気分になりそうです。
カスタネットは、手のひらに納まるくらいの丸い貝型の木片を2枚合わせ、これを打ち合わせることによって音を出す楽器
なのですけど、端にひもを通してつなげ、このひもに親指を通して楽器を保持したり2枚の開き具合を調整しますし、
基本的には音程がわずかに異なる二つのカスタネットを右手と左手の両方に持ち、一般的には音程が高い方のカスタネットを
右手に持つことがスタンタードです。

ららマジでカスタネットを担当しているのは奥村映という中性的な雰囲気の高校2年生のJKさんでけど、
カスタネットを使ったフラメンコが特技で、カスタネットの手入れも欠かさず行うとの事です。
ららマジの打楽器パートのトライアングル奏者はかなりの不思議ちゃんの女の子なのですけど、奥村映も少しそうした
不思議ちゃんみたいな雰囲気も無くはなく、どちらかというと男性的でもないし女の子そのものという感じでもないし、
少し不思議な中性的な女の子という印象もあったりします。
少しだけ鈍感な性格というのも、不思議ちゃん系としての浮世離れした性格の為せる業なのかもしれないです。

食べることも大好きで意外と大食い・・?という設定も大変面白いですけど、後述しますが、大食いキャラで少しミステリアスで
中性的な雰囲気を有するJKさんというと思い出すのは「ラーメン大好き小泉さん」の小泉さんなのですけど、
確かにあの二人はどことなくですけど雰囲気が似ているようにも感じられそうですね~♪

おばあちゃんっ子で、年齢にそぐわない独特のセンスを持つという点は、今年の夏アニメの「女子高生の無駄づかい」で
登場していたおばあちゃんっ子のロリを彷彿とさせるものがありそうです。
バトル時においては、自身の周囲に浮かぶカスタネットを放って攻撃したりもします。


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上記でもチラっと触れたのですけど、どういう訳か日本においては「カスタネット=簡単」とか
「どんなアホでもすぐに合奏に参加できる」という間違ったイメージが浸透しているのは、多分ですけど、
上記画像の「教育用カスタネット」の存在があるのかもしれないです。

教育用カスタネットは、小学校の教育用楽器または幼児のおもちゃとしてよく見られているのですけど、
本来のカスタネットと違って口を開いたままの楽器ですし打ち合わせるだけで簡単に演奏できるため、今でも幼児または
小学校低学年の音楽の教育に使用されていたりもします。
今現在では100均のおもちゃコーナーでも売られている事もあったりします。
この教育用カスタネットは赤と青の二つの部分から構成されることが多いですけど、赤い方に突起があり
これを下とすることが多いように思われます。

確かにこの教育用カスタネットは簡単に音は出ますけど、実際に管弦楽団や吹奏楽コンクールで使用されるカスタネットは
この教育用の安物楽器ではありませんし、フラメンコのダンサーが使用されているのは、冒頭画像の奥村映が
両手に持っている本来のカスタネットです。


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より演奏を簡便にし、速いリズムが演奏できるようにしたカスタネットとして柄付きカスタネット、コンサートカスタネットが
あります。
管弦楽団の演奏会や吹奏楽コンクールで使用されるカスタネットは上記の柄付カスタネットの方が多いと思います。

柄付きカスタネットは、柄を持って膝の上で叩き、ロール奏法の場合は人差指をカスタネットの上まで伸ばし、
カスタネットが膝と人差指に交互に当たるように、手首と腕を上手く使ってカスタネットを上下に動かし、左右の手は
交互に均等に動かします。

クラシック音楽でカスタネットが使用された楽曲はたくさんあるのですけど、やはりスペインの作曲家とか
フランスやロシア等のスペイン以外の作曲家がスペインに憧れと敬意の気持ちを有してスペインを感覚的にイメージして
作られた曲が多いです。

具体的にいくつかカスタネット使用の楽曲を挙げてみると・・

C.サン・サーンス / 歌劇「サムソンとデリラ」

R.シュトラウス / 楽劇「サロメ」~七つのヴェールの踊り

リムスキー・コルサコフ / スペイン奇想曲

C.ドビュッシー / 管弦楽のための映像第Ⅱ集・第二曲・イベリア
(特に街の道と田舎の道のカスタネットの切れ味鋭い躍動感は素晴らしいです!)

J.イベール / 交響組曲「寄港地」~Ⅲ.ヴァレンシア

M.ラヴェル / 道化師の朝の歌 ・ スペイン狂詩曲~Ⅳ.祭り

S.プロコフィエフ / ピアノ協奏曲第3番

アルベニス / スペイン組曲
(アルベニスはスペインの作曲家ですので、本場のノリはとにかく圧巻です!)

M.ファリア / バレエ音楽「三角帽子」

J.マスネ / 歌劇「ル・シッド」~バレエ音楽

チャイコフスキー / バレエ音楽「白鳥の湖」~スペインの踊り

B.ブリテン / ソワレミュージカル~Ⅳ.ボレロ

C.オルフ / 世俗カンタータ「カルミナ・プラーナ」~第三部・第8曲・今こそ愉悦の季節

吹奏楽オリジナル作品ですと、A.リードの「エル・カミーノ・レアル」と第二組曲「ラティーナ・メキシカーナ」が
大変印象的です!

こうやって列挙しただけでもスペインの澄み切った青空と情熱が目に浮かびそうですね~♪


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話を再度「ららマジ」にもどしますと、カスタネット担当の奥村映はららマジ屈指の大食いキャラともいえそうですし、
食べるのが大好き~♪というすてきなJKさんであったりもします。

普段もそうですし、カスタネット叩いている時もどちらかというと無表情で中性的な雰囲気を醸し出していますけど、
食べている時は普通の女の子という印象でもありそうです。


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大盛ラーメンを食べている奥村映もとてもかわいいですね~♪

少しミステリアスで長髪の美少女がおいしそうに大盛ラーメン食べている姿は、やっぱり「ラーメン大好き小泉さん」と
被りそうですね~♪

ラーメン大好きで大食いの女の子は、小泉さんも奥村映も含めて意外と中性的な女の子が多いのかもしれないです。


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上記はららマジのお話でしたけど、奥村映が食べているラーメンはなんだか秋葉原の野郎ラーメンの
メガ豚野郎みたいなボリュームがありそうですね~

2018年の冬アニメの「ラーメン大好き 小泉さん」の第9話においてもこの秋葉原の野郎ラーメンが登場し、
そこで登場していたラーメンは「メガ豚野郎」でした~!
メガ豚野郎のチャーシューは、噛み応えのあるしっかりした肉ですし、適度な柔らかさもあって旨味が一気に口内を駆け巡る
感じは圧巻だと思います!
チャーシューの厚みとボリュームも素晴らしいですけど、肉と野菜の壁が崩れかけたところでようやく麺に到達しますけど、
あのボリュームは特筆すべきものがあると思います。

とてつもないボリュームのメガ豚野郎であっても、小泉さんは普通に来店している所は「さすがラーメン女王!」と
感じてしまいますし、圧倒的な勢いであっという間に完食してしまう小泉さんは
やっぱり只者ではないですね~

そして奥村映も秋葉原の野郎ラーメンで、美味しそうにメガ豚野郎を完食されて、小泉さん同様にふはーとされているのかも
しれないですね~♪
トロンボーンは、スライドの伸び縮みで音程を調節する中音域の金管楽器の一つです。

トロンボーンは小編成でも大編成でもたいていの場合3人一組で構成される事が多く、
その構成は、ファースト・セカンド・バストロという感じなのですけど、バストロンボーンは楽器自体が
ファーストとセカンドと管の構造自体が違っているという感じです。

トロンボーンの爆発的なあの推進力とか大音量の迫力は見ていても大変気持ちがいいものです!

例えばレスピーギの交響詩「ローマの松」とかショスタコーヴィッチの交響曲第5番終楽章とか
マーラーの交響曲第1番「巨人」終楽章などのような管弦楽曲の中で「ここぞクライマックス!」という場面でのトロンボーンの
豪快な響きはトランペットと共に最大限発揮されていると感じられます。
トロンボーンは2本のU字管を互いに挿し込んだような形状をしていて、片方のU字管がスライドできるようになっており、
管の長さを変えることによって音の高さを調整するのが大きな特徴です。
このスライド機能というのはトロンボーンが最初に登場した時からの特徴でもあり、他の楽器にはない最大の特徴でも
あります。
最近ではそうした光景はまず見られないですけど、1970年代の吹奏楽コンクールの地区予選等では、下手くそな
トロンボーン奏者が演奏中にうっかりと勢い余ってスライドをポロリと床に落してしまった・・みたいな都市伝説もあったりも
します。
トランペットよりも1オクターブ低い中音域の金管楽器であり、複数本で奏でるハーモニーの美しさには定評があります。
トロンボーンのメロディーのはもりや美しさの代表的事例としてワーグナーの歌劇「タンホイザー」序曲、
ブラームスの交響曲第1番終楽章、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」~第二楽章、
マーラーの交響曲第2番「復活」第五楽章、マーラーの交響曲第3番「夏の朝の夢」~第一楽章などを挙げたいと思いますし、
吹奏楽オリジナル曲としては、リードのアルメニアンダンスパートⅡ~Ⅲ.ロリからの歌やチェザリーニのアルプスの詩、
バーンズの交響曲第2番~Ⅱ.中断された変奏曲などを挙げたいと思います。

唇の締め具合とスライド管の七つのポジショニングの併用で自由に半音階を奏でることが出来ますけど、
真のレガート奏法が大変難しい楽器でもあったりします。
強奏時の鋭く輝かしい迫力ある音色も素晴らしいですけど、弱奏時の暗くしめった音も大変幽玄で美しいです。

先日の当ブログのバルトークの「中国の不思議な役人」記事の際に、トロンボーン奏者二人によるソロ的部分はとてつもなく
しびれてかっこいい!と記させて頂きましたけど、それ以外に管弦楽曲でトロンボーンがソロ的に大活躍したり、とてつもなく
目立つ曲でどんな作品があるのか考えてみると・・・

M.ラヴェル / ボレロ

トロンボーンにとって大変難しい高音域でのソロが与えられています。
都市伝説化している話として、とある管弦楽団のトロンボーン奏者が指揮者より
「今度の演奏会で演奏するボレロのトロンボーンパートのソロを完璧に決めたら、君は明日から当団の正式メンバーとする」と
言われて本番に臨んだものの、結果は見事に外してしまい、その日のうちにトロンボーン奏者は失踪または自殺を
してしまったというネタが古くからあったりします。

リムスキー・コルサコフ / 序曲「ロシアの復活祭」

一般的にソロが指定されるのはファースト奏者ですけど、この曲においてはなぜかセカンド奏者が指定され、
中間部の朗々としたソロを神秘的に奏でられます。
セカンドトロンボーンはリムスキー・コルサコフに足を向けて寝られそうにないですね~

A.コープランド / バレエ組曲「ロデオ」~Ⅰ.カウボーイの休日

中間部に粋で洒落っ気たっぷりのユーモラスなソロが用意されています!

小山清茂 / 管弦楽のための(吹奏楽のための)木挽歌~Ⅱ.盆踊り
(小山さんの作品としては鄙歌第2番にもトロンボーンのソロと強奏はもりがあったりもします)

C.アイヴズ / 交響曲第2番終楽章

ソロではないですけど、ラスト近くの豪快なメロディーラインをトロンボーンがほぼ独占状態で、あのメロディーを奏でる
トロンボーンパートは気分爽快だと思います!

トロンボーンの特徴は上記でも触れた通り、そのスライド操作にあるのですけど、スライド管をすべらせるように吹いたり、
グリッサンド気味に吹くとある時は不気味に、ある時はユーモラスな雰囲気を醸し出せると思います。
不気味な例がバルトークの「中国の不思議な役人」ですけど、ユーモラスな事例としてゾルダン・コダーイの
組曲「ハーリ・ヤーノシュ」を挙げたいと思います。

ゾルダン・コダーイというハンガリーの作曲家には、最近の吹奏楽コンクールでは、ハーリ・ヤーノシュよりはむしろ
ハンガリー民謡「くじゃく」による変奏曲とかガランダ舞曲の方が演奏頻度が高いのかもしれないですけど、
クラシック音楽に精通した皆様の感覚で言うと、コダーイは合唱の作曲の分野にも多大な貢献があり、
ハンガリーの民謡を世界に広めようとした貢献度と
学校の音楽教育に熱心であった御方という印象も実はあったりもします。
ちなみにですけど、ハンガリーは東欧圏なのですけど日本と少しだけ似ている点もあったりして、その一つが温泉文化が
定着している事や学校の数学の授業としてそろばんが採用されている点もありますし、
氏名表記が共通しているというのも面白い点だとも思います。
例えば日本において、鈴木一郎というと姓は鈴木で名前は一郎なのですけど、欧米の場合ですと、例えば
マイク・スミスの場合、マイクは名前でスミスが姓です。
要は日本と欧米は氏名の表記が全く真逆なのです。
その中でハンガリーの氏名表記は日本と同じであり、例えば上記のハーリ・ヤーノシュの場合、
ハーリが姓でヤーノシュが名前という事になります。
コダーイの組曲「ハーリ・ヤーノシュ」はハンガリーで親しまれているお伽噺の主人公であり、
若い頃の武勇伝を大ぼらを交えつつ語りかけるというのがお話の概要でもあったりします。
合戦でナポレオン皇帝を打ち負かしたり、ナポレオンの奥様のジョセフィーヌ皇后より
「今すぐ私と結婚して私とどこから駆け落ちして!」と誘惑された・・等の大嘘話がかなり出てくる楽しいお話でもあったりします・・

この組曲で最も有名なのがⅡの「ウィーンの音楽時計」だと思います。
冒頭いきなりコンサートチャイムとドラによって時計の音が描写されます。
時計と言うよりは、むしろ「ゼンマイ仕掛けのおもちゃ」みたいな感じもするのかもしれないです。
聴いていて実にハッピーな気持ちになれるとても楽しい曲です。
ちなみにこの曲、アニメ「のだめカンタービレ」でも何回か使用されています。

コダーイの組曲「ハーリ・ヤーノシュ」は下記の6曲から構成されています。

Ⅰ.序曲、お伽話は始まる

Ⅱ.ウィーンの音楽時計

Ⅲ.歌

Ⅳ.合戦とナポレオンの敗北

Ⅴ.間奏曲

Ⅵ.皇帝と廷臣たちの入場

Ⅰの冒頭においては、管弦楽団による壮大なくしゃみの音の模倣から開始されます。
これは「聞いている者がくしゃみをすれば、その話は本当のことである」というハンガリーの伝説をベースにしているそうです。
ⅢとⅤにハンガリーの民族楽器であるツィンバロンが使用されていることが際立っています。
そしてこの組曲において、管弦楽曲としては大変異例な事ですが、ⅡとⅣにおいては弦楽器は一切使用されていません。
吹奏楽コンクールにおいて、Ⅱ・Ⅳ・Ⅵの組合せによる自由曲の定番曲である事もある意味妥当といえそうです。

そしてこの組曲において全体的にトロンボーンは大活躍を見せています!

特にⅣの合戦とナポレオンの敗北におけるトロンボーン奏者による強烈なグリッサンド奏法は迫力満点ですけど、
これがまたとてつもなくユーモラスで楽しい表現となっています。
途中出てくるトロンボーンとチューバによって奏される主題は、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」のパロディです。
そして最後に出てくるアルトサックスのうらぶれたメロディーを伴奏として支えているトロンボーンの弱奏によるグリッサンドも
たいへんいい味を出していると思います~♪

このハーリ・ヤーノシュはトロンボーン冥利に尽きる曲であり、確かにトロンボーン奏者は大変ですけど、吹いていても
聴いていてもとてつもない爽快感があります。


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美少女とトロンボーンというと印象的なのは「響け!ユーフォニアム」以外では、アニメ作品ではないのですけど、
2017年1月にリリースされた音と魔法の学園RPG「ららマジ」が大変印象的です~♪

ららマジのストーリーは、とある呪いにより廃部寸前となってしまった東奏学園器楽部を舞台に、
プレイヤーは器楽部員として登場する30人のヒロイン達を呪いから救い出し、彼女たちが再び演奏できるようにすることを
目指すように頑張るという内容です。

そして30人のJKさんのメンバーの中で、トロンボーン奏者兼コンサートマスターの地位にいるのが3年生のお姉さまの
星崎梨花です。
担当楽器はトロンボーンで、器楽部のコンミスを務める完璧超人で、器楽部創立メンバーの一人であったりもします。
武器のトロンボーン型の槍は突いたり切りつけたりするだけでなく小規模な爆風を放つこともできるそうです。





上記画像の星崎梨花はいかにも聡明でお勉強ができそう・・という雰囲気に溢れていると思います。

星崎梨花のゲーム上での声優さんは赤崎千夏さんと言う事で、赤崎さんは本年度の夏アニメの一つである
「女子高生の無駄づかい」にてバカ役(田中望役)を怪演された御方であり、あのバカの
「なー、今からすげー事言ってもいい?」の
フレーズを聞くだけで田中の尋常でないバカ振りが見事に伝わってきたものですけど、
「ららマジ」ではそんな雰囲気を微塵も感じさせないばかりか、星崎梨花の声の雰囲気はいかにも聡明で頼りになる
上級生のお姉さまという雰囲気に溢れていますので、改めて声優さんの声の演技の素晴らしさには目を見張るものが
あると思います。

それにしても美少女がトロンボーンを奏でているシーンはとても素晴らしいと思いますし、星崎梨花のトロンボーンによる
「中国の不思議な役人」や組曲「ハーリ・ヤーノシュ」の爆演も聴いてみたいですね~♪



「ららマジ」の舞台の器楽部におけるハープ奏者は3年生の南さくらです。

南さくらは器楽部を支える副部長で、振り回されることの多い苦労人でもあったりします。
器楽部創立メンバーの一人で、部長であり指揮者でもある草薙百花がメチャクチャな楽器編成を無理やりどうにかこうにか
まとめてしまう剛腕でもあったりしますので、そうした剛腕ぶりに不満がありそうな下級生たちを時に脅しつけ、
時に笑顔と愛嬌で押し通してしまうのがこの副部長兼ハープ奏者の南さくらといえそうです。
そしてららマジでは珍しい部類の眼鏡っ娘でもあったりします~♪

バトル時においては、グランドハープの形をした長弓を武器とし、光の矢を放って攻撃します。


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ハープという楽器はヴァイオリンと同様に大変優雅で美しい楽器だと思います。

そうした美しい楽器というイメージが定着しているのは、その形状や音色の美しさも大きいですけど、ハープ奏者のほとんどが
女性奏者であるという事もあるのかもしれないです。

ハープは共鳴胴の両端に2本の棹を立て、2本の先を結び、棹のうちの曲線状になった方と共鳴胴との間に
平行に弦を並べて弦を張っています。そしてこの弦を指で弾いて演奏します。
現代の西洋音楽において、独奏やオーケストラ、室内楽などで広く用いられているコンサートハープは、
ダブル・アクション・ペダル・ハープの事であり、ららマジの南さくらが奏でているハーブも
恐らくはこのダブル・アクション・ペダル・ハープのだと思われます。
ダブル・アクション・ペダル・ハープは主に47本の弦を変ハ長調全音階で張られていて、ピアノに例えると、
黒鍵無しの状態で白鍵だけの音階で並んでいるようなものです。
そしてドレミファ・・の各音対して一つずつ合計7つのペダルが付いていて、それぞれ二段階に踏み分けて
一つの音を半音高めたり全音高めたりします。
それゆえハープ奏者は優雅なイメージとは裏腹に人目に付かない所で大変な苦労が付き物で、左足で三つ、右足で四つと
計7つのペダルを絶えず忙しく操作をしないといけない大変さがあったりします。
おまけにハープ奏者は固い弦を指で弾き、時にグリッサンドしないといけないものですから、指先は常にマメ状態と化している
のが実はその日常でもあったりするそうです。

そうした意味ではららマジのハープ奏者の南さくらも色々とご苦労が尽きない・・という感じなのかもしれないです。

ダブル・アクション・ペダル・ハープは、ペダル操作が大変という事で、それに代わる楽器として
半音ごとに弦が張られたペダル無しの半音階ハープが制作され(音楽史的にはクロマティック・ハープと言われています)
ハープ奏者は実に78本も張られた弦に眼が廻ってしまい、とてもじゃないけど演奏不可・・という事で
結局は廃れてしまい現在においては忘れられた楽器と化しています。
(これは両手全ての指を使用し、現在では幻の楽器と化している宮城道雄制作の八十弦箏と似ているのかもしれないです・・)

さてさて歴史に埋もれたペダル無しの半音階ハープ(クロマティック・ハープ) は、プレイエル社が開発・制作した楽器でして、
それは当時既に一定の地位を築いていたエラール社のダブル・アクション・ペダル・ハープに対抗した経緯があったりもします。
プレイエル社はこの楽器の普及のため、1904年に音楽院でのコンクールのための楽曲をドビュッシーに委嘱します。
それを受けてドビュッシーは、1904年に「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」というハープ独奏と弦楽合奏のための作品を作曲します。
ドビュッシー自身は特段半音階ハープを気に入ったわけでなく、楽器性能としてはむしろペダル・ハープの方が優れていると
考えていたようでありまして、初演自体は半音階ハープ(クロマティック・ハープ)が使用されたものの、
今日ではこの作品を演奏する場合はほとんどペダル・ハープで演奏されています。
ちなみにですけど・・、エラール社はドビュッシー作曲の「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」に対抗してラヴェルに
ペダル・ハープの優位を示すための作品を委嘱し、その結果生まれたのが「序奏とアレグロ」という
ハープとフルート、クラリネットおよび弦楽四重奏のための七重奏曲というこれまた名作であったりもします。

C.ドビュッシー / 神聖な舞曲と世俗的な舞曲は大変優雅な作品で、前半の神聖な舞曲における穏やかな美しさと
後半の世俗的な舞曲における生き生きとした躍動感の対比が素晴らしく鮮やかです。

ここから下記は少しばかり余談ですけど、吹奏楽オリジナル作品の中に、「セント・アンソニー・ヴァリエーション」で
お馴染みのヒルが作曲した作品に、上記のドビュッシーのハーブと弦楽のために作曲した名曲と全く同じタイトルの作品が
あったりもします。

ヒルのその曲を2019年時点で全国大会で唯一演奏したのが1981年の高岡商業であったりもします。

この年の高岡商業は、ヒルの「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」という大変珍しくて今でもほとんど演奏されない
吹奏楽オリジナル作品を自由曲に選んでいます。
この当時は吹奏楽オリジナル作品や邦人作品での全国出場が少し珍しく感じられた時代でもありましたので、
こうしたマイナーなオリジナル曲での全国大会出場は大変立派な事だと今更ながら感じたりもします。

この年の高岡商業は運悪くプログラム一番でした。

1979年の市立川口とか80年の就実のようにプログラム1番という不利な条件を全く不利に感じさせない素晴らしい名演が
重なったという事もあると思いますが、1981年の高岡商業の演奏を聴く限りにおいては
「ブログラム一番は大変で不利なのかも。。」とつくづく感じてしまいます。
音が普門館の会場にストレートに響いてこない印象がありますし、普門館の広い空間を彷徨っているという印象があります。
全体的に音が硬いというせいもあり、サウンドも表現もぎこちない感じがしたものでした。
プログラム一番というコンディションの問題もあったと思いますし、朝一番というプレッシャーもあったと思います。
音が硬質で音がストレートに伝わってこない感じは痛いほどあります。
自由曲のヒルの神聖な舞曲と世俗的な舞曲」という楽曲自体が、「「セント・アンソニー・ヴァリエーション」と比べると
音楽の構成が大変抽象的で、あまり面白いと思わないし、何を意図しているのかよく分からないという曲でもありましたし、
曲自体で損をしているような雰囲気すらあったのは惜しまれますし、
これだけ実力あるチームがこうした不本意な演奏で終ってしまったのは勿体無いと感じたものですし、
選曲ミスの範疇と言えるのかもしれないです。
全般的に、ティンパニのゴツゴツした叩き方が何か印象を悪くしているようにも感じられましたし、
課題曲B「コラージュ」も和太鼓が叩き過ぎという印象もありました。

ただ印象に残っている点は、自由曲のラストが意外な終わり方というか、
曲が一旦盛り上がったところで静かになり、ラストはシロフォーンの弱々しいソロで終わるという
所は、何か意表をつかれるものもあり、その点は印象に残っています。

全く想定外の閉じられ方で、なんかヘンだけど面白い閉じ方と感じていたものでした。


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南さくらは、ららマジでは珍しい部類の眼鏡っ娘ですけど、南さくらは眼鏡を掛けても眼鏡を掛けていなくても
すてきなお姉さまだと思います~♪

アニメや漫画では「まるで牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡を掛けた冴えない女の子が眼鏡を外すととてつもない
すてきな美少女になる」というのは一つの鉄板ネタのようにも感じられるのですけど、
私自身がそうした女の子のすてきな変化を最初に感じた作品というのは映画「ロッキー」の中に登場している
エイドリアンなのかもしれないです。
エイドリアンは映画の中ではとても内気でおどおどした女の子であまり主体性というものは感じさせなかったのですけど、
とあるシーンにてロッキーから「眼鏡を外してみて・・美しい・・」とかなんとか言われた事が一つのきっかけとなり、
その後徐々にすてきな変化を見せてくれていたと思います。
地味で内気なエイドリアンは「メガネを取ると美人」という定番ネタの一つの伝説として君臨しているのかもしれないです。
ロッキーと付き合うようになって自信をつけたエイドリアンは眼鏡を外すようになり服装も以前より華やかになるのですけど、
これは女の子のすてきな変化とも言うべき一つのシンデレラストーリーの伝説と言えるのかもしれないです。

さてさて、それでは日本のアニメにおいて、そうした「眼鏡をかけた冴えない女の子が眼鏡を外すと実はすてきな美少女」という
典型的なキャラとしてどんなすてきな女の子がいたものでしょうか・・?
思い浮かぶ範囲で下記に少しばかり挙げさせて頂きますと・・

アララ・ココア(NG騎士ラムネ&40)

レディ・アン(新機動戦記ガンダムW )

ティラ・ミス(爆れつハンター)

東城 綾(いちご100%)

ニーナ・アインシュタイン(コードギアス 反逆のルルーシュ)

委員長(瀬戸の花嫁)

藤崎 綾(To LOVEる -とらぶる-)

メイリン(黒執事)

槇島 沙織(俺の妹がこんなに可愛いわけがない)

天王寺 渚(Aチャンネル)

クーリエ(モーレツ宇宙海賊)

鈴原 泉水子(RDG レッドデータガール)

星 七海(アイドルメモリーズ)

この中では私的にいっちば~ん!と感じさせるのはいちご100%の東城 綾だと思います!

東城 綾は、性格はおしとやかな恥ずかしがり屋でかなりのドジっ娘で、「普通の人間の三倍は転んでいる」と
廻りからも言われているのですけど、それでいて眼鏡を外すと普段の地味な印象が劇的に変化し、
とてつもない美少女になってしまうあの素晴らしき変化は、まさしく
「眼鏡をかけたさえない女の子が眼鏡を外すと実はすてきな美少女」というネタの典型事例なのだと思ったりもしますね~♪
クラシック音楽や吹奏楽で使用される打楽器の一つであるシンバルは、
楽曲のクライマックスや激しく盛り上がる部分でバシャーン!と派手に壮麗に鳴り響く事が多いのですけど
あれってかなりの演奏効果があると思います。
例えばですけど、管弦楽曲史上もしかしたら最も音量が大きくて派手に鳴り響く曲の一つがレスピーギの
交響詩「ローマの松」~Ⅳ.アッピア街道の松だと思うのですけど、金管セクションやバンダの派手で華麗なる響きと
ドラやトライアングルが派手に鳴り響き、バスドラムが狂ったように連打する音響のるつぼと化した中でもあのシンバルによる
激しい打合せによるバシャーン!!という響きは胸をすく想いがあります。
このアッピア街道の松とオルフの世俗カンタータ「カルミナ・プラーナ」は、とにかくストレスが溜まりに溜まっていて、
何かスカ‐‐ッ!!と爽快な発散気分を味わいたい時に強くお勧めしたい曲ですね~♪
このシンバルは楽器としての歴史も古くて旧約聖書の中にも
「ヘブライの民は歓声を上げ、シンバル・角笛・ラッパを鳴らした」との記述がみられますし、新約聖書の中でも
「たとえ人や神の言葉を私が使ったとしても、そこに愛がなければ、喧しいドラやシンバルと同じである」という記述も
あったりします。

シンバルと言うと、イメージ的には
打楽器奏者が両手に約40㎝程度の黄銅色の円板を激しく打ち合わせるという感じがしますが、
これは一般的には「クラッシュ・シンバル」(または合わせシンバル)と呼ばれています。
(錫と銅の合金から構成されていて、その配分比率は音色にも微妙に影響するそうです)


シンバル


上記はクラッシュ・シンバルという合せシンバルですけど、
基本的には、片方を上から下へ、もう片方を動かし、こすらせるようにして打ち合わせます。
非常に小さな音から一打ちでオーケストラ全体をも制するほどの大きな音まで出すことができる表現力があります。

非常に小さい音の代表的例としては、

〇ドヴォルザーク/交響曲第9番「新世界より」第四楽章

〇ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番第三楽章

があると思います。


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上記は「サスペンダーシンバル」と呼ばれるものですけど、
1枚のシンバルを吊すかホルダにゆるく固定して小太鼓や木琴、鉄琴のバチで叩くのが一般的です。
例えば、マーラー/交響曲第1番「巨人」第四楽章冒頭のように撥で激しく叩きつける事もありますし、
ドビュッシーが多用しているように、マレットによるトレモロ奏法で徐々にクレッシェンドしていく方法もあります。

こうやって見るとシンバルも色々と無限の可能性を秘めている楽器なのかもしれませんね。

ちなみに「ハイハットシンバル」と呼ばれるものは、
2枚のシンバルを水平にホルダに固定して、1枚を上下に動くようにしてペダル装置で操作するものであり、
ドラムセットの中で用いられていますし、ジャズ・ポップス・ロックと幅広く使用されています。
最近ではバンドリ等におけるガールズバンドにおいて、ドラマーが小気味よくペダル操作をしているシーンは
とてもかわいいものがありますね~♪

クラッシュシンバルというと私的には、芥川也寸志の「交響管弦楽のための音楽」~第二楽章の冒頭を思い出してしまいます。
静粛で無機質なリズムの反復の多い第一楽章が終わって第二楽章が開始される際にさの冒頭で、
シンバルが単独で「ジャーン」と打ち合わせられる所から開始され、金管楽器の大変印象的なファンファーレ風なメロディーへと
連なっていくのですけどあのシンバルは目立ちますしとてつもなくかっこういいです!
吹奏楽アレンジ版ですが私自身が高校三年の定期演奏会で吹いた経験もあり、そうした印象が強いのかもしれないです。

吹奏楽オリジナル作品でシンバルが使用されない曲を探す方が難しいと感じるくらい、吹奏楽の打楽器パートでは
必要不可欠な楽器の一つですけど、その中でも特に挙げておきたい曲として・・

〇天野正道/交響組曲第2番「GR」

 浜松交響吹奏楽団の演奏に馴染みがあるせいか、
 この曲のラスト近くでシンバルがソロ的に「ジャーン」という打ち鳴らしが大変印象的です。

〇リード/オセロ

 1987年の札幌白石高校の演奏が大変印象的でした、
 クラッシュ・シンバルの場合、奏者によっては余韻とか視覚的効果を意図して
 打ち鳴らしと同時に腕を上にあげて、シンバルを頭上で左右に開くという事も結構多いと
 思います。
 札幌白石のシンバル奏者は、シンバルを打ち鳴らした次の瞬間に、両手のシンバルを頭上にはあげずに、
 シンバルの裏面を左右の手に持ったまま、手の向きを逆にし、
 シンバルの表面にさっと替えるというハイテクニックを披露してくれ、
 裏面から表面にさっと替える際に、楽器がキラリと金色に光り輝いていたのが会場の客席からもはっきりと分かり、
 大変な見映えがありました!

〇サンライズマーチ(1982年全日本吹奏楽コンクール課題曲D)

この課題曲の冒頭はシンバルソロによるバシャーン!という打撃音から開始されますので、シンバル奏者にとっては
 大変なプレッシャーが掛る曲であり、あの重圧と緊張感は相当なものがあると思います。
 地区予選等で下手くそなチームがこの課題曲の冒頭で、シンバル奏者がスカッと空振りし、次のトランペットによる
 ファンファーレがメロメロになってしまった光景は当時何度か目撃したものでした!

クラシック音楽で、クラッシュシンバルが活躍する曲で印象的な曲と言うと冒頭で取り上げたローマの松~アッピア街道の松
以外においては・・・

〇チャイコフスキー/交響曲第4番第四楽章

〇   同      /交響曲第6番「悲愴」第三楽章

〇   同      /幻想序曲「ロメオとジュリエット」

〇ビゼー / カルメン組曲より、トレアドール(第一幕への前奏曲)

〇ショスタコーヴイッチ/交響曲第5番~第一楽章・第四楽章

チャイコフスキーの交響曲第4番は、第一~第三楽章までに使用される打楽器はティンパニのみですけど、
第四楽章で、シンバル・大太鼓・トライアングルの打楽器が入りますが、
特にラスト近くにおけるシンバルの怒涛の連打は、聴いていて視覚的にも迫力満点です。
シンバルで16分音符炸裂の怒涛のあの連打はクラシック音楽のジャンルでは大変珍しいと思います。
(あのシンバル連打は、同じくチャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」の中間部における
怒涛のシンバル連打を彷彿とさせてくれます)

サスペンダーシンバルとしては、ハチャトゥーリアンのバレエ音楽「ガイーヌ」~剣の舞の叩きつけが大変印象的です!

ドビュッシーの三つの交響的素描「海」~Ⅰ.海上の夜明けから真昼まで と Ⅲ.風と海との対話における
サスペンダーシンバルのあの繊細な微音のうねりは一聴の価値があると思いますし、奏者にはなによりもデリケートな
神経が求められそうで、あれを聴くと「どんなアホでもシンバルは叩けば音は出る簡単な楽器」であるという俗説が
いかに理に適っていないかよく分かると思います。





「ららマジ」でシンバルを担当するのは強心臓中学生の伊藤萌です~♪
伊藤萌はシンバルを担当しているクールで小さな中学3年生の女の子で、中学生ですけど東奏学園の器楽部でJKのお姉さまと
一緒に音楽を楽しんでいます。

クールな性格の後輩で、「・・・くるしゅうない、です。」など変わった口調でしゃべるのが個性でもあります。また落語を聞くのが
趣味というJCさんにしては大変珍しく渋い趣味を持っていたりもします。

先輩の小田桐アミを師と仰ぎアミのことを「師匠」と呼び慕っているのですけど、実を言うと小田桐アミは元々は
器楽部のシンバル奏者だったのですけど、シンバル奏者は時に「ここで怒涛の一撃を決める!」みたいなプレッシャーを
時に伴いますので、その重圧に耐えきれず、シンバル奏者の地位を後輩の伊藤萌に譲ったという経緯もあったりします。
そして小田桐アミはその後シンバルからピッコロ奏者にパート変更をしています。

アミがいなくなったシンバルは伊藤萌に継承されていますけど、伊藤萌は見た目の少し控えめな雰囲気とは全く異なり、
大変な強心臓の持ち主でプレッシャーに大変強く、「ここでシンバルの強烈な一撃が必要」という時にはしっかりと確実に
決めてくれる頼もしいJCさんであったりもします。

活発だけど小心者なアミと大人しいけど強心臓な萌の対比もとても面白いですね~♪


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吹奏楽コンクールの規定においては、付属高校の場合、高校で部員が不足している場合は、付属中学校の生徒も
メンバーに加えてよいという規定があり、
それによって昭和の頃ですけど、明大明治・日大豊山・土佐女子高校などが高校の部だけど何人かの中学生が加わり
全国大会のステージに立ったという話もあったりします。

東奏学園器楽部ももしかしたらそんな感じだったのかもしれないですね。

ちなみに、伊藤萌以外には、ウクレレの卯月幸、エレキギターの卯月真中華、和太鼓の神田茜、鍵盤ハーモニカの瀬沢かなえ
といった中学生が東奏学園器楽部に在籍しています。

本記事の一つ前の記事においては、伊藤萌の師匠の小田桐アミについて取り上げておりますので、こちらの方も
ご覧頂けると大変ありがたいです。
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P・デュカス作曲の交響詩「魔法使いの弟子」の正式タイトルは、ゲーテによる交響的スケルツォ「魔法使いの弟子」という事で
スケルツォのタイトルに相応しくとても自由で生き生きとした楽曲であり標題を巧みに音楽を通じて表現していると思います。
この楽曲はファゴットがソロ楽器として大活躍を果たしていますけど、ファゴットと同じくらい鍵盤打楽器の一つである
グロッケンシュピールも大活躍をしていて、音楽の色彩的効果を更に豊かにしていると感じられます。
冒頭画像の「ららマジ」の神代結菜は、担当楽器としてグロッケンシュピールを奏でていますけど、
プロの管弦楽団の定期演奏会や吹奏楽コンクールの演奏においても、デュカスの魔法使いの弟子はよく演奏されていますが、
その時もファゴット同様にグロッケンシュピール奏者の機敏な動きを見るたびに感動をしてしまいます。

グロッケンシュピールは一般的なイメージでは鉄琴だと思いますし、一種の鍵盤打楽器なのですけど、
音楽史的にはチェレスタのように形の鉄琴を箱に収めたような鍵盤型グロッケンシュピールというタイプも存在したりもします。
吹奏楽コンクールにおける魔法使いの弟子は、ほとんどの場合鉄琴でもってあの部分は演奏されていますけど、
稀にチェレスタが使用されることもあるようです。

交響詩「魔法使いの弟子」の作曲家のポール・デュカスは、かなりの寡作家です。
本来は相当数の作品を作曲していると推察されるのですけど、デュカス本人がかなりの完璧主義者であり、
最終的に納得いかない作品は生前全て破棄したという経緯もあり、現在デュカス本人の作品として残っているのは
わずか13作品程度と言われているそうです。
魔法使いの弟子以外に残されている作品として、交響曲ハ長調と
バレエ音楽「ラ・ペリ」(ペリのファンファーレとしても親しまれています)ぐらいしかないのかもしれないですけど、
魔法使いの弟子一曲だけで後世に名前を残した作曲家とも言えると思います。
デュカスはむしろ作曲家というよりはパリ音楽院の教授という側面が強く、作曲家の先生として業績を残したと言えるのかも
しれないです。
マーラーが亡くなる寸前にパリで開催された演奏会の際にマーラーの交響曲第2番「復活」が演奏された際、
デュカスは、ドビュッシー・ピエルネといった当時のフランスの有名な作曲家と共に第一楽章終了と同時に憤然と席を立って
帰ってしまったというエピソードを残しています。
伝統的なフランス音楽の大御所としては、「マーラーごときの音楽で音楽の都・パリを汚されてたまるものか!」という
なにかアピールをされたかったのかもしれないです。

「魔法使いの弟子」は、その音楽を聴くだけでストーリーが頭に中に自然と浮かびますから、デュカスの描写力と想像力には
感服するものがあります。
スケルツォという正式タイトルからは少しくだけた感じの曲想と思われがちですし、全体を通して大変分かりやすくて
親しみやすいメロディーラインの連続なのですけど、曲想そのものは古典的形式美の楽曲構成がなされていて、
どちらかとうと堅固な楽曲構成という印象があります。
ドビュッシーに影響された全音音階の多用など伝統的な要素とモダンな要素が見事に融合していて、
古典的な形式美と19世紀末~20世紀初頭のドビュッシー・ラヴェルに代表される印象主義という新しい音楽が
大変バランスよく調和されていると感じられます。
魔法使いの弟子はそうした意味ではラヴェルの作品の先駆的作品みたいなものという評価も成立するのかもしれないです。

「魔法使いの弟子」の簡単なストーリーなのですけど、ある所に魔法使いの先生とポンコツなお弟子さんがいたのですけど、
魔法使いの先生が外出した際に弟子が留守番をすることになるのですが、
未熟な弟子は魔法を使ってほうきに水汲みをさせて、「自分ってやればできるじゃん!すごーい!」と調子こいたものの、
弟子は実は魔法の解き方を知らなかったため、水瓶がいっぱいになってもほうきの水汲みを止めさせる事ができず、
部屋が水浸しになってしまいます。
「これはやばい・・溺れて死ぬのかも・・」と感じた時に魔法使いの先生が戻ってきて
呪文を解いてもらってようやくほうきが元に戻るという内容でもあります。

このストーリーが意外と世に知られている背景としてディズニー映画「ファンタジア」の存在があるのかもしれないです。
「ファンタジア」は、オーケストラによるクラシック音楽をバックとしたアニメーションによる8編の物語集なのですけど、
ディズニー長編アニメーション第3作であり、史上初のステレオ音声作品であったりもします。
上映時間は当時の公開版で120分を超える当時としては異例の超大作と言えますし、
11人の監督、120人以上のアニメーター、103人編成のオーケストラなど、投入されたスタッフはのべ1000人、
描き上げられた原画100万枚、録音テープの長さ42万フィート、制作期間3年と前例のないスケールでの製作となっています。
一部を除いて、台詞は一切用いられていないのも特徴です。
このファンタジアで取り上げられたクラシック音楽は、春の祭典・ベートーヴェンの田園・くるみ割り人形・時の踊り・はげ山の一夜
など計8作品ですが、その中でもっとも有名なのがデュカスの「魔法使いの弟子」とも言えると思います。
というのも ミッキーマウスが「魔法使いの弟子」役を演技したことにより、ファンタジアの知名度と評価は決定的なものになったと
いえるのかもしれないです。
ちなみに「ファンタジア」全ての音楽演奏は、レオポルド・ストコフスキー指揮・フィラデルフィア管弦楽団が担当しています。
ファンタジアの中の魔法使いの弟子の部分においては、原曲のイメージ通り話が進み。
ミッキーマウスが魔法をかけてバケツに水をくませたまではよかったものの魔法の止め方が分からず、
部屋に水が溢れおぼれそうになったところを師匠が駆けつけ命拾いをしたというストーリーが巧みに表現されています。

魔法使いの弟子は、冒頭で触れたとおり、ある二つの楽器を非常に効果的に使っています。
一つはファゴットなのですけど、ファゴットは曲によっては重厚で悲惨な雰囲気をもたらす効果があるかと思えば
(例としてチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」第一楽章冒頭が挙げられます)、その一方で曲によっては茶目っ気と
ユーモアと皮肉たっぷりに表現出来ますし(例としてショスタコーヴィッチの交響曲第9番~第五楽章が挙げられます)
はたまたチャイコフスキーのバレエ音楽「くるみ割り人形」のように異国情緒をもたらす効果もあります。
「魔法使いの弟子」の場合は、明らかに茶目っ気たっぷりという感じして、弟子が調子こいている様子が生き生きと
ファゴットの少しとぼけた雰囲気によって表現されていると思います。
そしてもう一つの楽器は、グロッケンです。
グロッケンとは要は鉄琴なのですけど、この曲はかなりの部分で鉄琴を効果的に用い、
普段はあまり目立たないグロッケン奏者に活躍の場を与えます。
同時に、この曲はグロッケン奏者泣かせというか、かなりのテクニックを非常に要し、かなり難しいテクニックを要求しています。

交響詩「魔法使いの弟子」は全体的には、楽しさと魔法と言うミステリアスさを両方醸し出している曲といえると思います。
同時に指揮者の構成美・演出力も求められますので、軽い通俗曲と考えてなめてかかると大変痛い目に遭う曲と言えるのだと
思われます。

吹奏楽コンクールにおいては、1970年代から最近に至るまでコンスタントに全国大会で自由曲として選ばれています。

吹奏楽コンクールでの魔法使いの弟子の決定的名演と言うと二つほど挙げたいと思います。
ひとつは1986年の足立第十四中学校の演奏で、もう一つは残念ながら関東大会でダメ金になってしまい全国大会に
進めなかったものの1993年の常総学院の演奏は名演というレヴェルを軽く超越したものであり、あの演奏は
私も当時在住していた山梨から川崎の産業会館まで駆けつけ聴かさせて頂きましたけど、いまだに
「どうして常総学院はダメ金なの~? 市立柏のあのスカスカ演奏を代表にするのならば余程常総の方が代表に
相応しいじゃん!」と当時は審査結果を聞いてぶーたれたものです・・
1986年の足立十四中の演奏は、伸び伸びと吹いているせいか、音楽が実に自然にすんなりと耳に入ってくる感じでした。
伸び伸びしているのだけど決してふわっとした演奏ではなくて、音楽の切れやシャープな感じや躍動感が見事に決まっていて、
物語としての音楽的速度はかなり速かったようにも記憶しています。

常総学院も足立第十四中もファゴットもグロッケンも大変見事な演奏を聴かせてくれていたと思います。

違いとして、足立十四中のグロッケンは鍵盤打楽器としてのグロッケンで、その形状は冒頭画像のららマジの神代結菜が
使用しているスタンド付のグロッケンです。
私の記憶では、常総学院のグロッケンシュピールは鍵盤打楽器としてではなくて、チェレスタに近い形状の
鍵盤型グロッケンシュピールを用いていたと思います。
(前年のアルプス交響曲でも使用していた楽器と同じなのかもしれないです)

鍵盤打楽器としてのグロッケンは、1980年代以降はどのチームも台というかスタンド付のグロッケンを使用していましたけど、
中学~高校時代の私の記憶では、貧乏公立校の多くはグロッケンを使用する際にはスタンド付という高い楽器ではなくて
教室で使うような机とか安っぽい折り畳みのスチール製パイプ椅子を2台設置して、その上に鍵盤鉄琴を置いて、
撥で叩くというスタイルが多かったような印象もあります。

余談ですけど鉄琴(グロッケンシュピール)が大変効果的に使用されるクラシック音楽の楽曲として、魔法使いの弟子以外では
シベリウスの交響曲第4番~第四楽章を挙げたいです。
シベリウスの交響曲第4番は大変わかりにくい渋すぎる難渋な曲で、第一~第三楽章のあの難解な雰囲気は
私も実はいまだにさっぱり理解できません・・
だけど第四楽章に入ると、突然グロッケンシュピールが登場してきて、天国的な美しい音色を奏でていて、
それまでの音楽があまりにも難解すぎたため、第四楽章に入ると唐突に「地獄から天国にやってきた」みたいな感覚を
感じたりもしますね。


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ららマジで、グロッケンシュピール(鉄琴)を担当している高校3年生の女の子は、神代結菜お姉さまです~♪
神代結菜は器楽部創立メンバーの一人でもあります。

余裕たっぷりの柔らかな物腰、豊満なスタイルと、まさしくお姉さまといったタイプのすてきなJKさんですけど、
その醸し出される大人の魅力は、主人公のプレイヤーすらも惑わせてしまう魅力なのだと思います。
だけど昔から優雅ですてきなお姉さまだったという訳ではなくて、実は昔は孤独にさい悩まされ、心も荒んで荒れていた時期も
あったとの事で、その意味では酸いも甘いもわかるすてきなお姉さまという事なのだと思います。

誰にでも分け隔てなく優しく接しますけど、以前の孤独の反動からなのか好意を抱いた相手には
少々暴走気味な愛情表現を見せることもあるそうでして、
マイペースすぎるあまり、時に理由なく学校をサボるという悪癖もあるそうです。

以外にも実は器楽部の部内でトップクラスの怪力の持ち主であったりもしまして、林檎を片手で握り潰せる七瀬沙希を
圧倒するほどの怪力でもあるそうです。
コントラファゴット担当の七瀬沙希については、昨日の記事で取り上げさせて頂いております・・


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「魔法使いの弟子」のグロッケンシュピール奏者は大変なテクニックと離れ業を求められるのですけど、
神代結菜お姉さまが奏でられるとまさに神業の如くの壮絶テクニックをお披露目されるのかもしれないです。

私個人としては、是非ぜひ神代結菜お姉さまにネリベルの「二つの交響的断章」の冒頭における
チャイム・シロフォーン・グロッケンの3人による執拗な反復の美技を拝見させて頂きたいものです!

そして神代結菜お姉さまは、演奏中の姿もすてきですけど私服もまたまたとても魅力的な御方だと思いますね~♪
モーリス・ラヴェルの協奏曲というと言うまでもなくピアノ協奏曲と左手のためのピアノ協奏曲が双璧なのかもしれないです。
そしてこの両協奏曲はほぼ同時期に作曲され、比較的晩年の作品の部類に入るという共通項もあったりします。

ピアノ協奏曲はいかにもラヴェルらしい作品だと思います。
茶目っ気・洒落っ気、抒情性に美しいコールアングレの長いソロ、遊び心など、どちらかというと明るい感じの作風だと思います。
この曲を生演奏で聴くと分るのですが、オーケストラの編成はかなり小規模です。
管楽器については、E♭クラリネット・クラリネット・フルート・オーボエ・コールアングレ・トランペット・トロンボーンは
各1本だけでチューバはありません。ファゴットとホルンのみ2本です。
第三楽章のファゴットのあの驚異的に早いパッセージは人間の限界を超えている超絶テクニックといえそうです。
打楽器は、大太鼓、小太鼓、シンバル、タムタム、トライアングル、ウッドブロック、ムチの各種楽器を基本的には
2人の奏者が掛け持ちで担当しています。

ラヴェルのピアノ協奏曲は、全般的には第一・第三楽章の才気煥発的な茶目っ気と第二楽章のファンタジーの対比が
非常に面白く、18分程度の短い曲なのですが聴かせどころ満載の曲です。
特に第二楽章のコールアングレの長いソロは奏者の腕の見せ所ですし、陶酔感たっぷりの夢心地にはうっとりさせられます。
第一楽章の冒頭は、まるで猫だましの如く、ムチ(合わせ板)のバチン!という打撃音から開始されるのですけど、
あの部分はドキッ・・!とさせられますし、意表を突かれるところが大変ユニークだと思います。
ちなみに第三楽章のメロディーラインは、映画「ゴジラ」のあのゴジラのテーマ音楽とかなり酷似しているようにも聴こえますが、
その辺りは「言われてみると確かにそのように聴こえる」という空耳アワーの世界なのかもしれないです。

ピアノ協奏曲は、茶目っ気に溢れた才気煥発な作品といえそうですけど、対照的に左手のためのピアノ協奏曲は
オーケストラの編成はフル編成のかなり大規模な編成となっていますけど、そこから醸し出される音楽は、
聴きかたによってはかなり陰気くさい雰囲気でもあり、ラヴェルの性格の悪さを暗示しているのかもしれないです。
この左手のための協奏曲や舞踏詩「ラ・ヴァルス」の世紀末的な暗さ・厭世観は、むしろマーラーの後期交響曲の世界に
近いと言えるのかもしれないです。
ラヴェルと言うと一般的には、洗練の極み・フランス音楽のエスプリを集大成したものとか優雅とかエレガントというイメージを
持たれがちなのかもしれないですけど、悪意を持って解釈して左手のためのピアノ協奏曲やラ・ヴァルスを演奏すると
意外と根暗で重たい曲にもなってしまうのが大変面白い感じはあったりもします。
(インパル指揮の演奏を聴くとあまりにも重すぎて、ラヴェルの暗さはマーラーやショスタコーヴィッチに繋がるものがある
のかもしれない・・という事を感じさせてくれたりもします)

「左手のためのピアノ協奏曲」は、前述の通り陰鬱な雰囲気もあるのですけど、ジャズ的なリズムの面白さも感じますし、
打楽器の扱いもかなり自由なものを感じたりもします。
「ボレロ」はラヴェルの代表作の一つなのですけど、ボレロもよく聴いてみると、延々と同じリズムが楽器を変えつつ
繰り返され反復されていくのですけど、最後の最後で調性を変化させ、それまで続いてきた同一のメロディーラインを
変化させ、それまで保っていた形式美を自ら手によって崩壊させているような悪趣味を感じたりもします。
あくまて個人的な感想なのですが、舞踏詩「ラ・ヴァルス」の世界でも左手のためのピアノ協奏曲においても
最後の最後でそれまでキープしてきた形式美を自らの手でぶち壊し、奏者全員と聴衆を一人残らず奈落の底に突き落とす
ようなイメージすらあるように感じられます。
ラ・ヴァルスは一見華やかにも感じる反面、相当程度の根暗的要素も感じられます。
ボレロ同様に最後の最後で転落するように終わる感覚は、この世の「明」を全て剥がし取って地獄に
真っ逆さまに落ちていくという感覚に近いものがあるのですが、
実は左手のためのピアノ協奏曲もそれに近いような感覚があるように感じたりもします。
冒頭のドロドロした感じは、ラ・ヴァルスの出だしの感覚にも何となく似ているようにも感じるのですけど、
あのドロドロとした箇所はコントラファゴットのソロによって奏でられています。
コントラファゴットはかなりの重低音楽器で野太い音が特徴でもあるのですけど、曲によってはのんびりと惚けたような感じにも
なるのですけど、ラヴェルの左手のための協奏曲は、コントラファゴットを使用する事で、陰気さ・奇妙さ・違和感みたいなものを
大変巧みに演出しているようにも感じられます。
ちなみにこの協奏曲はこのジャンルとしては大変珍しい事に単一楽章構成です。
冒頭の重たい感じ→ジャズ風の軽い感じ→ピアノの自由自在なカデンツァ→ゆったりとした雰囲気→ピアノカデンツァ
→ラストの形式美の崩壊によるエンディングという感じで展開していきます。

この曲を最初に聴いたのは、上野の東京文化会館での東京交響楽団の定期演奏会だったと思います。
指揮者は記憶にないのですが、ソリストは花房晴美さんでした。
CDで聴くと、とても左腕一本で弾いているようには思えなかったのですが、本当に左手一本で奏でていましたので、
驚いたものです。花房さんの右手は終始椅子を握っているようにも見えました。
この曲はソリストによっても表現方法は色々あるみたいで、小山実稚恵さんが弾くと、割とカラっとしている明るい色彩に
聴こえますけど、館野泉さんが弾くとどす暗いものになってしまうように聴こえたりもします。

左手のためのピアノ協奏曲は第一次世界大戦で右手を失ったピアニストがラヴェルに委嘱して作られた作品なのですが、
委嘱者本人は、「私には一つの音符も理解できません」と演奏拒否をしているのは、ラヴェルに対して大変失礼な話であり、
曲の内容があまりにも難しすぎて自信がなかったせいなのかもしれないです。
同じような「左手のためのピアノ協奏曲」の作曲者として他にもプロコフィエフ・ブリテン・シュトラウスがいますけど、
こちらは全然知名度はないです・・

実は、この左手のためのピアノ協奏曲を吹奏楽用にアレンジして全日本吹奏楽コンクールの
全国大会に出場したチーム(川越奏和)もあったりします。
さすがにこれは少々無理があり、聴いていて少々「痛い」感じもしました。
そう言えば以前、ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」を吹奏楽にアレンジしたNTT中国は、
ピアノが全然目立たないし、ピアノを特段ソロとしても使用していないので違和感は感じたものです。

2005年の全国大会・高校の部において、埼玉栄高校が「ショパン・エチュード」を自由曲に選び、
伊奈学園総合高校がラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」を自由曲に選び、当時埼玉県代表チームによる
ピアノ対決と一部で話題になっていましたけど、両校ともにピアノという楽器をソロ的にも打楽器的にもスパイス的にも
使用していない感じがあり、私的には「なんのためにピアノをメインとしている曲を自由曲にしたのかな・・?」と
感じたものでした。
ピアノ協奏曲みたいなジャンルは、当たり前の話ですけど、吹奏楽アレンジ版という変化球で楽しむよりは、
オーケストラによる原曲をそのまま楽しむ事の方が断然宜しいのかもしれないです。
ただラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」の最大の聴かせどころである第18変奏曲の部分は、吹奏楽の
tuttiの響きで聴いてもジーーン・・となってしまいのですよね~


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さてさて、話はまたまた「ららマジ」になるのですけど、ららマジの30人の器楽部においては、
コントラファゴット担当のJKさんもいたりもします。
吹奏楽コンクールにおいては、コントラファゴットを使用するチームは珍しい方だと思いますし、コントラファゴットの価格は
一台最低でも100万程度はするとてつもなく高価な楽器であったりもします。
どちらかというとファゴット奏者が掛け持ちで吹く事が多いと思われますけど、ららマジの世界では七瀬沙希が単独で
担当しています。
そしてららマジの器楽部では七瀬沙希以外にもファゴットを専任で吹く奏者も存在しています。

七瀬沙希はアイドル級のスタイルとルックス、男子顔負けの怪力を併せ持つJKさんなのですけど、
バトル時においてはコントラファゴット型の大剣を豪快に振り回して戦うスタイルを取っています。

木管楽器において、コントラファゴットはコントラバスクラ以上に重たい楽器で、コンサート会場の客席からコントラファゴットを
見ると、なんだかとてつもなくデカそうなものを抱えているという印象があります。
七瀬沙希が怪力設定であるというのも、コントラファゴットの属性ゆえなのかもしれないです。


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上記で語らさせて頂きましたラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲のドロドロっとした音色は実は、コントラファゴットによって
奏でられた響きなのですけど、コントラファゴットという楽器はファゴット同様、
上下に組み合わされた2枚のリードによって音を出すダブルリードの管楽器です。

コントラファゴットは、ファゴットの倍の管長を持ち、1オクターブ低い音を出し、
一般的にオーケストラ、吹奏楽で使用される木管楽器の中で最も低い音が出すことができ、
最低音を補強させる木管楽器でもあったりします。
ファゴットの中にコントラファゴットを補強しますと、木管低音の音が更に充実して豊かな響きになると感じられます。
それにしてもコントラファゴットの重低音は最初の印象は「なんだかモゴモゴいっている・・」みたいな感じもあり、
不気味さ・ミステリアスさも感じられ、そうした音色はラヴェルの左手のためのピアノ協奏曲の冒頭の少し悪趣味的な響きには
うってつけなのかもしれないです。

コントラファゴットの管長は6メートル近くに及ぶため4回管を折り曲げて製作されています。
楽器本体の重さは6㎏程度あり大変重いため、ストラップではなくエンドピンで楽器を支えることが多く、
吹奏楽コンクールでこの楽器が使用される場合は、奏者は特注のイスを使用する事も多々あるようです。

リードはファゴットのリードより一回り大きなものを使用し、形状はファゴットのリードとほぼ同じなものの振動面が広い特質が
あります。

クラシック音楽作品でコントラファゴットが使用される事例として、上記でレビューいたしましたラヴェルの
左手のためのピアノ協奏曲の冒頭のソロを担当し、その導入部においてはあの少し不気味だけどどことなくとぼけた雰囲気は
とてもいい味を出していると思います。
ラヴェルと言うと、組曲「マ・メール・ロワ」の中の「美女と野獣の対話」 においては、
クラリネットで表現する美女に対して、野獣を表現する楽器が実はコントラファゴットであったりもします。
今度当ブログでデュカスの魔法使いの弟子を取り上げさせて頂き、この中でファゴットとグロッケンシュピールの効果的使用
について触れますけど、、コントラファゴットもファゴットを補強する楽器として使用され、こちらもいい味を出しています。
吹奏楽コンクールにおいて定番中の定番の大人気自由曲のR.シュトラウスの楽劇「サロメ」~七つのヴェールの踊りにおいて
コントラファゴット奏者に対してはとてつもない超絶技巧を要する曲としても一部では有名です。

それ以外でクラシック音楽作品でコントラファゴットが効果的に使用されている曲の事例として、
ホルスト 組曲「惑星」より天王星においては、ファゴットと掛け合いのソロがありますし、
ストラヴィンスキー バレエ音楽「春の祭典」 においては、コントラファゴットが2本使用され、重低音の構成に大変大きな役割を
担っています。
ショスタコーヴィッチの交響曲第7番「レニングラード」の第2楽章においては、バスクラリネットとの二重奏があったりもしますし、
矢代秋雄の交響曲~第四楽章冒頭は、実はコントラファゴットによって奏でられています。
吹奏楽オリジナル作品としてはバーンズの交響曲第3番において、大変効果的に用いられています。


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七瀬沙希はアイドル級のスタイルとルックスが持ち味なのですけど、ららマジの器楽部にはアイドル級のかわいいJKさんが
ごろごろしているので、差別化を図る意味で怪力設定があるのかもしれないですね。

上記で触れたとおり、コントラファゴット自体が大変重いので、それを支えるためにはある程度の怪力も
必要なのかもしれないですね~♪
怪力の名に違わずコントラファゴットを武器としても振り回すようでもありますが、七瀬沙希の1つ上の先輩に
バリサクを凄まじいスピードで振り回す橘 アンナというお姉さまもいますので、
どっちもどっち・・という感じなのかもしれないです。

スポーツが大好きで運動神経に優れている特性もありますので、運動会等では重宝されそうですね~
街中を行進しながら演奏するマーチングバンドにおいて、スーザフォンとは低音を支える重要楽器であり、
ひときわ目立つ大きな朝顔を前方に向け力強い低音を響かせています。

スーザフォンとは、マーチングバンドにおいてチューバの代用品として、低音を支える大変重要な楽器です。
どうしてマーチングでチューバを使用しないかと言うと、理由は明白でして、
単純にチューバはあまりにも重たくて、それを抱えたまま吹きながら行進出来ないからです。


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マーチングでは行進時に演奏しやすい楽器は不可欠です。
そのような要請から工夫されて出来たのがヘリコーンという楽器です。
チューバのように腕で持たずに、肩で担ぎ、管が身体の周りに巻きついているようなタイプの楽器でした。
要「歩きながら吹ける楽器が必要だったという事です。
19世紀の軍楽隊においてはヘリコーンは既に使用されていましたけど、朝顔部分は普通のチューバのように設計されていて、
先端はそれほど広くも無く、朝顔部分は奏者のななめ左上を向いていました。

そうしたヘリコーンを元に作られた楽器が、アメリカのマーチ王と呼ばれた.スーザの名にちなんで「スーザフォン」と
呼ばれた楽器の始まりです。
スーザは自身の指揮するアメリカ海兵隊の軍楽隊で当初へリコーンを使用したものの、上記で触れた通り
ベルというか朝顔の先端部分が奏者の斜め左上方のため音が響いてこないという欠点を克服するため
「スーザフォン」をつくりあげ、朝顔の部分を従来よりもぐっと広げ、しかもその向きを自由に調節できるようにし、
しかも音が常に奏者の頭上から真正面に響くように改良し、マーチングバンドにおけるスーザフォンの価値を
決定的にしたのです。

スーザフォンは担いで歩きながら吹くものですけど、開発当時は真鍮で形成され、重さは大体12㎏前後と言われています。
現在のスーザフォンは、朝顔部分はプラスチックで形成されることが多く、それにより軽量化され
現在の重量は8~9㎏程度に抑制され、これによって奏者の負担も大分軽減されました。

マーチングやマーチングコンテストにおいてはスーザフォンは絶対に欠かす事の出来ない重要楽器の一つですけど、
吹奏楽コンクールにおいてはスーザフォンが使用される事はまずないです。
私の出身高校の貧乏県立高校でもロータリーチューバではなくて昔ながらのピストン式チューバが2台しか学校備品に
ありませんでしたけど、そのうちの1台が故障し修理に出した時の代用楽器として稀にチューバ奏者が使用していましたけど、
吹奏楽コンクールや演奏会で使用される事はなかったです。
ただマーチングのパレードの際とか高校野球の応援の際には大活躍をしていたと思います。
一度だけ吹奏楽コンクールの地区予選で、前年までは25名以内のCクラスに出場していた学校が無理してAクラスに出場して
いた際に、よほど楽器がなかったのか、チューバ3人のうち1名がスーザフォンを使用していたのが記憶に残っている程度です。


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上記で触れた通り、アメリカのマーチ王のスーザが開発・考案した金管低音楽器がスーザフォンなのですけど、
それと同様に作曲家が開発・考案した金管低音楽器が「ワーグナーチューバ」という楽器です。
ワーグナーは自作の楽劇だけを専用に演奏する劇場をバイロイトに建設し、そのこけら落しの作品として
自作の「ニーベルングの指環」四部作の作曲を急いでもいました。
その際にニーベルングの指環という北欧神話に基づく総合芸術としての楽劇が従来の歌劇とは違う事を聴衆に
印象付けるために「今までとは異なる重厚な低音の音色が欲しい」という動機で開発されたのが
ワーグナーチューバという楽器です。

バイロイト祝祭劇場の構造が管弦楽をすっぽりと舞台下に収められるスタイルになっていましたので、
そこから湧き上がるような荘厳と壮大な響きとしては「一種の混合楽器がいいのではないか」と考え、その結果考案されたのが
ホルンと同系のマウスピースを持ち、ホルンとチューバの中間とも言える形状をし、縦に長い楕円形の形状で
3つまたは5つのロータリー式バルブを備えた金管楽器ともいえるワーグナーチューバだったのでした。
見た目はチューバまたはユーフォニアムとよく似ていますけど、演奏自体はホルン奏者が掛け持ちする事が多いです。
音色はまるくて柔らかい響きのホルンと鋭く力強く響くトロンボーンの中間という感じもあり、両楽器の音色の特色を
一つの楽器で発揮しているという感じもあります。
音程が少し不安定という欠点もあり、ホルンの場合音程や音色の微調整はベル部分に入れた手や指先でなんとか
なったりもするのですけど、ワーグナーチューバはそうした事ができないので、楽器としては少し扱いにくい楽器という
感じでもありそうです。
またホルン奏者が掛け持ちして吹く事が多いため、ホルン奏者がワーグナーチューバを吹く時には
「ホルンを吹いている時とどこか感触が違う・・」と違和感を感じがちというのも考えてみれば当たり前の話といえそうです。
私自身、まれにクラリネットとバスクラを一つの曲で掛け持ちで吹いた事もありましたけど、クラリネットからバスクラに
持ち替えた時は「あれ・・なんかいつもと全然感覚が違う・・」とやはり違和感は常に感じていたものです。

ワーグナーチューバの威力と効果は楽劇「ニーベルングの指環」四部作で堪能することが出来ますが、
残念ながらこの楽器そのものはオーケストラの楽器として定着する事はありませんでした。
但し、ワーグナーを崇拝していたブルックナーは交響曲第7~9番でこのワーグナーチューバを使用していますし、
後世でも、R.シュトラウス・ストラヴィンスキー・バルトークなどが使用しています。
先日当ブログでもレビューいたしましたバルトークの「中国の不思議な役人」でも使用されていますし、
ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」~長老の行列の部分でもすさまじい威力を発揮しています。

作曲者自身の名前が「楽器」として使用される例は、スーザフォンとワーグナーチューバが代表的なものですけど、
いずれもチューバの変形と言うか、低音金管楽器と言うのが面白いところですね。


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先日のバルトークの「中国の不思議な役人」においてはトロンボーンが大活躍をするという事で
音と魔法の学園RPGの「ららマジ」の星崎梨花をレビューさせて頂きましたけど、30人の美少女たちが大活躍する
器楽部において、なぜか「ワーグナーチューバ」という知る人ぞ知るマイナー楽器を奏でる美少女も登場しています~♪

それが向井春香という高校2年のJKさんでして、のんびりした性格の先輩で「なのです。」という
まるで艦これに出てくる暁型四番艦の電という駆逐艦娘みたいな語尾で話すのがなんともとてもかわいいです~♪
かわいくて童顔でホワホワした雰囲気に反してスタイルは良く、かなり胸が大きいというギャップもすてきですね~


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この召喚カードにおける 向井春香が手にしている楽器はワーグナーチューバではなくて普通のホルンですけど、
上記で触れた通り、一般的にプロの管弦楽団の演奏会において、ワーグナーチューバが出てくるときはホルン奏者が
掛け持ちする事が多いので、向井春香がホルンを吹いているのもある意味妥当なのだと思います。

ららマジは特殊楽器が多いのですけど、まさかワーグナーチューバという超マイナー楽器が登場してくるとは
その意外性もまたすてきですね~♪
ベラ・バルトークの「中国の不思議な役人」は、現在も世界のオーケストラの主要レパートリー曲の一つですし、
吹奏楽コンクールの自由曲でも既に定番中の定番の曲の一つです。
この曲は特に吹奏楽コンクールのプログラム上の表記ではバレエ音楽「中国の不思議な役人」と表示されることが
多いのですけど、一時期バレエとしての上演が企画された事もありますが、この作品は一般的なバレエではありません。
一幕ものの無言劇(パントマイム)です。

無言劇の内容はその内容は極めて過激です。
あまりに過激過ぎて、ブタペストでの初演が中々果たされず、初演後も多くの劇場から内容があまりにも不謹慎であり
宗教的モラルにも反すると言う事で上演禁止処分を食らい、
中々陽の目を見ることが出来なかったいわくつきの作品でもあります。

ストーリーを簡単に述べると・・・

ある荒廃した都市のスラム街で、3人のならず者達に売春を強要されていた美少女が今日も言われるがままに
客を取らされていました。
少女はあえて窓側に立っているように命じられ、道路を歩く通行人から美少女の姿が丸見え状態になって
少女に興味を持った男たちにそのならず者たちが声を掛けまくっていた事で、いわばその少女はならず者たちの
日銭を稼ぐ道具みたいなものでした。
ある日の事、 最初の客は金のない若者 二人目の客はとぼけた老人であり、
(とぼけた老人のオーボエ・コールアグレ等による描写が大変巧みです!)
そして最後に来たのは謎の官吏でして、その官吏は少女にひらたく言うと「やらせろ、やらせろ」と迫り
そのあまりの必死さに少女は恐怖を感じ、ならず者たちはその官吏をしばり首にして殺害を企みます。
「その少女とやるまでは死んでも死にきれない」とその官吏は首を宙吊りにされても、体内にまるで蛍光管が入ったかの如く
白く不気味に輝き始め、その目はまるで「自分の欲望を満たすまでは死んでも死にきれない」といわんばかりの
欲望むき出しの様相を呈しています。
怖くなったならず者たちは更に首を締め上げようとします。
少女はこの官吏をさすがに不憫に感じ、宙からおろし優しく抱きしめて、自らの体を官吏の自由になすがままにさせてあげ、
その官吏は満足したのか、安堵と恍惚の快感の表情を浮かびながらようやくあの世へと旅立っていった・・

そうした感じのストーリーです。

バレエというと一般的には洗練され華やかで美しくて幻想的というイメージがあると思うのですけど、このパントマイムには
バレエ特有の華やかなステップも踊りもありませんし、声もセリフも何もありませんし、
登場人物たちによる素の演技力が如実に曝け出されると言う作品でもあったりします。
そこにあるのはスラム街という底辺社会でもしぶとく生き続ける底辺の人達の生きるたくましさとスラム街の妖しさと
民衆の生きる力が全体的に大変ドロドロとしたストーリーの中で 貫かれていると思います。

最初にこの音楽を聴いたのは1987年の東京文化会館の日本フィルの定期演奏会で、この時点では既に
吹奏楽コンクールのカット版の演奏やドホナーニとアバドのレコードの演奏で概要は把握していたものの、やはり生演奏で
聴いてみると、そのあまりの過激な内容と音楽のヴァイタリティーに唖然とさせられたものであり、
後述しますけど、この曲の最大の聴き所の一つと思っていた組曲版のクライマックス近くのトロンボーンのソロと思われていた
激しく細かい動きの箇所は実はソロではなくて二人の奏者によって演奏されていたなど新しい発見が多々あり、
とてつもなく感動してしまった事がなつかしく感じたりもします。
ちなみにこの時の定期演奏会の曲目は、中国の不思議な役人の組曲版とプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番と
矢代秋雄の交響曲と言う大変意欲的なプログラムでした!
この演奏から10年後の1997年のやはり日本フィルの「20世紀シリーズ」の中で、この中国の不思議な役人が
吉松隆のピアノ協奏曲「メモ・フローラ」(※ソリストは田部京子さんでした~) とプロコフィエフの交響曲第5番と共に演奏
されていて、こちらの演奏も強烈なヴァイタリティーと生きる意欲に溢れた野性味溢れる素晴らしい名演だったと記憶
しています。

無言劇「中国の不思議な役人」は、冒頭から弦楽器による細かい動きから開始され、ここに管楽器の荒々しいタッチが加わり、
言葉では表現できにくい程のダイナミックスで激しい音楽で開始され、この物語の舞台が都会の片隅の底辺で生きる人たちを
暗示させてくれているように聴こえます。
多分ですけど、モデルは19世紀の世紀末から20世紀初期の頃の上海を想定しているのかもしれないですが、
洗練された巨大な経済都市の中でひっそりと且つ大胆不敵に生きる民衆のたくましさをイメージされているのかもしれないです。
そしてこの曲は冒頭部分とラスト近くの激しいクライマックスの部分も含めて全体的に変拍子ととてつもない不協和音が
炸裂しており、指揮者にとっては大変な難曲と言う事もあり、音楽大学の指揮科のクラスにおいては、この曲がテキストとして
使用されることが大変多いそうです。
私自身、森田一浩編曲による吹奏楽アレンジ版のミニスコアを見た事がありますけど、変拍子が大変厄介だと思いますし、
この曲を自由曲に選んだチームの指揮者が結構こねくりまわすような大変見づらい指揮の動きをされている傾向が強いのも
無理もないと思ったりもします。
冒頭の激しい場面が終わるとクラリネット奏者による大変長大なソロが続いていくのですけど、あのクラリネットの高音の響きは
悲鳴のようにも聴こえますし絶叫音のようにも聴こえます。
感覚的には、ならず者たちによって不本意ながら客を取らせられ続け、自らの体が日に日に汚されていくばかりの美少女の
心の苦しみ・嘆きが示唆されているのかもしれないです。
コールアングレで演奏されるとぼけた老人の表現も魅力的です。
官吏が少女に「やらせろ、やらせろ・・」とばかりに執拗に追い掛け回し、美少女の体を求める場面は、
トロンボーン奏者によるソロ的場面とそれに続く激しい行き詰る管楽器の響きで荒々しく表現されています。
(全体的にソロとしての管楽器の使い方が非常に巧みで、それぞれの楽器に感情の表現を見事に託されていると感じられます)
一幕のパントマイムと言う事で全体の演奏時間としては30分程度で元々コンパクトさはあるのですけど、上記で書いた通り、
この曲自体の内容の不健全さとローマ・カトリック教会からの悪評という事もあり、なかなか上演機会に恵まれなかったという事で
バルトークは30分の原曲版を更に凝縮した20分の組曲版も編成していて、この組曲版の方が現在でもプロの管弦楽団の
レパートリー曲の一つとしてほぼ完全に定着していると思います。
組曲版はトロンボーン奏者二人による激しく細かい動きの後のドロドロとした激しい部分でもって派手に終わらせていますけど、
原曲のノーカット版のパントマイム版では、ラスト近くに合唱(といってもウーウーとハミングするだけですが・・)が不気味に
入り込んでいて、最後は絶命するように不気味に静粛に閉じられていきます。
この不気味な静かさというのは、官吏が生涯の最後に美少女と生々しくベットを共にした後の達成感・満足感を遂げることが
出来て、自身の性の欲望という人間の本能を最後に満足させることで何の未練もなく浄化された想いで
あの世に旅立っていった・・という事を示唆しているのかもしれないです。

それにしてもこの曲のトロンボーンの激しさは際立っていますね~

あの雰囲気はなんとなくですけど、大体同じような時期に作曲されたD.ショスタコーヴィッチの
歌劇「ムチェンスク郡のマクベス夫人」における不倫相手との強烈なベッドシーンにおけるトロンボーンの激しい動きに
近いものがありそうですけど、人によってはあのトロンボーンの動きは「〇〇のピストン運動ではないのか・・?」と
言う人もいるようですけど、なんにせよロシアとか東欧の作曲家の脳内妄想の濃厚なドスケベさの激しさは、
すさまじいものがありそうですね・・(汗)

この曲をCDで聴く場合、色々と名演が多く選ぶのに困るのですが、アバドやドホナーニ指揮による演奏や
1971年のブーレーズの指揮の演奏もいいのですけど
個人的には、ショルティー/シカゴ響が圧倒的に素晴らしい演奏を残していると思います。

この一幕のパントマイムを現代社会に置き換えてリバイバル上演できないものか・・?と思う事も多々あります。
原作は19世紀末の上海をモデルにしているのかもしれないですけど、例えば舞台を近未来のA.Iによる管理が徹底され、
格差社会が極端に広がり、社会が上流階級と底辺階級にはっきりと分かれ、
底辺社会の売春ビルを舞台に、ふらりと上流階級の世間知らずの若き官僚がふらりとやってきて
売春宿のとある美少女がなぜか気になってしまい、若き二人はたちまち恋に陥るものの、
それを心配した若者の親が二人の仲を切り裂いてしまいますが、若き官僚はどうしてもその美少女の事が諦めきれず、
結果的に全てを投げ打って自らを底辺社会に身を落とす事を選択したとか、
一方その美少女も実は元々は上流階級出身だったのだが、そのうわべだけ取り繕う生活に嫌気がさし、
自分探しをしていたらいつの間にか底辺社会の売春宿で暮らすようになっていた・・
果たして二人の恋の行方は・・?
そういった事を格差社会とA.Iによる管理を背景にしながら、脚本化していっても案外面白いものがありそうですね。

この曲は吹奏楽コンクールの自由曲においても定番中の定番の大人気自由曲の一つです~♪

バルトークの「中国の不思議な役人」と言うと、神奈川大学・都立片倉高校・伊奈学園総合高校・天理高校・創価学会関西・
龍谷大学・東海大学高輪台高校・湯本高校など素晴らしい名演が続出していますけど、
オールド吹奏楽コンクールファンの私にとっては、この曲の全国大会初演の1979年の駒澤大学と
磐城高校による1981年の演奏と2001年のウルトラ名演がとてつもなく印象的です。
(この曲は中学生による演奏も多いのですけど、この曲に関しては曲自体の濃厚なエロさや過激さと難解なリズム処理を
考慮すると、さすがに中学生では難しいと感じますし、事実全国大会でもかなり未消化の演奏が多いのは大変勿体ないと
感じたりもします)
磐城高校の場合、1981年と2001年の演奏の間には20年間というかなりの時間的空間があるのですけど、
1981年の演奏も2001年の演奏も指揮者はどちらも根本先生なのですが、
磐城高校吹奏楽部にとっても根本先生にとっても20年ぶりの金賞を取れたという事で
とてつもなく思い入れがある曲なのかな?とふと思ったりもします。
指揮者の根本先生にとっては、 1981年の全国大会で金賞を受賞したこの「中国の不思議な役人」という曲でもって
2001年度に、20年振りに磐城高校に金賞をもたらすことが出来たというのは
やはり感慨深いものかあるのかな・・?と思ったりもしますね。

バルトークの「中国の不思議な役人」は今現在は吹奏楽コンクールでは定番の大人気曲の一つとなっています。
この曲は1979年に駒澤大学が全国大会で金賞を受賞し、81年に磐城高校が全国で金賞を受賞し、
この曲の人気に火が付くのかな・・?と当時予想していたのですけど、その後は全く演奏されない状態が15年程度続きます。
多分ですけど著作権の問題があったのかもしれないですね。
この曲が再び脚光を浴びたのが、1996年の小林久仁郎先生指揮の秋田南の演奏だったのかな・・・と思います。
この1996年ですけど、全国大会で初めて前半・後半の総入替えという訳のわからんシステムが施行された年でも
あるのですけど、前半に登場した秋田南の演奏はとっても素晴らしかったです。
この時の課題曲がⅤの交響的譚詩と言う事で長めということもあり、
自由曲は6分以内に収める必要があったせいもあり、この時はかなり面白いカットを採用しています。
(あの独特なカットとアレンジは小林先生の編曲なのかなと思っていたら実は天野正道アレンジ版でした)
序奏のあの凄まじい喧騒の後、原曲通りクラリネットのとてつもなく長いソロに繋げていき、
クラリネットの妖しいソロが終わったと同時にいきなり、トロンボーンの部分に繋げていき
そこから先は、ヴァイタリティーとエネルギー炸裂!!みたいな感じで一気にラストまでなだれ込んでいくのですけど、
秋田南の女の子のトロンボーン奏者がとにかくめちゃくちゃ上手くて、その事も大変強く印象に残っています。
あの女の子のやや猫背気味で足をしっかりとステージに付けたような感じの独特な吹き方が今でも目に焼き付いています。
そしてこの秋田南の演奏以降、この曲が一気にブレイクし今現在に至っているみたいな印象もあります。

2001年の磐城高校の演奏は本当に素晴らしかったと思います。
課題曲Ⅳ/SLが行くのあののどかな雰囲気がとてもチャーミングでしたし、一転して自由曲の
「中国の不思議な役人」の激しさとヴァイタリティーは、私の中ではこの年のNo.1の仕上がりとすら思っています。
この年の磐城のカットは、1981年の同校の演奏とほぼ同じなのですけど、部分的に少しだけ
81年の演奏に付け加えがあったりもしています。

吹奏楽コンクールでの「中国の不思議な役人」の演奏を聴くと、どのチームも例のあのクライマックス部分でのトロンボーンは
とても巧いですね~♪
あの部分はCDで聴くとソロのように聴こえますけど、実際はトロンボーン奏者二人によって演奏されます。
(全体的にはファースト奏者の負担が相当大きいです)
あのトロンボーンの箇所はトロンボーンとは到底思えないような細かい動きの続出ですので、スライドで音程を操作する
トロンボーン奏者にとってはあの場面は本当に大変だと思いますけど、現在の奏者の皆様は楽々とこなしているように
感じられるのは「素晴らしい!」としか言いようがないと思います。

最近の中学・高校のスクールバンドとしての吹奏楽部は男子校を別にすると、部員の8割以上はJCさん・JKさんですので、
必然的に「中国の不思議な役人」のトロンボーンの例の箇所もJKさんたちによって奏でられる事が大変多いのですけど、
改めてトロンボーンは男よりも美少女のほうがよく合っているよね~と感じたりもしますね~♪




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「響け!ユーフォニアム」においてもトロンボーンパートの美少女JKさんの皆様はとてもかわいくすてきでしたね~♪

塚本 秀一については「お前はどうでもいいから、吹奏楽コンクールはおまえじゃなくてJKさんを出場させろ~」と
文句の一つも言いたくなってしまいます・・(汗・・)
「響け! ユーフォニアム」の1と2のコンクールでもレギュラーに選ばれていた巻髪ツインテの女の子はとってもかわいかったです!

こんなかわいい美少女による「中国の不思議な役人」のトロンボーンの例の箇所の演奏を聴いてみたいですね~♪

トロンボーンは小編成でも大編成でもたいていの場合3人一組で構成される事が多いですね。
その構成は、ファースト・セカンド・バストロという感じなのですけど、バストロンボーンは楽器自体が
ファーストとセカンドと管の構造自体が違っているという感じです。

トロンボーンの爆発的なあの推進力とか大音量の迫力は見ていても大変気持ちがいいものです!


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美少女とトロンボーンというと印象的なのは「響け!ユーフォニアム」以外では、アニメ作品ではないのですけど、
2017年1月にリリースされた音と魔法の学園RPG「ららマジ」が大変印象的です~♪

ららマジはゲーム作品でアニメ化はされていないのですけど、私的には今後アニメ化が実現されて欲しい作品候補の
一つでもあります。
他にアニメ化して欲しい作品というと原作が漫画である「無能なナナ」もひそかに期待したりもしています。

ららマジのストーリーは、とある呪いにより廃部寸前となってしまった東奏学園器楽部を舞台に、
プレイヤーは器楽部員として登場する30人のヒロイン達を呪いから救い出し、彼女たちが再び演奏できるようにすることを
目指すように頑張るという内容です。

そして30人のJKさんのメンバーの中で、トロンボーン奏者兼コンサートマスターの地位にいるのが3年生のお姉さまの
星崎梨花です。


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星崎梨花(ほしざき りか)のゲーム上での声優さんは赤崎千夏さんと言う事で、赤崎さんは本年度の夏アニメの一つである
「女子高生の無駄づかい」にてバカ役(田中望役)を怪演された御方であり、あのバカの「なー、今からすげー事言ってもいい?」の
フレーズを聞くだけで田中の尋常でないバカ振りが見事に伝わってきたものですけど。
「ららマジ」ではそんな雰囲気を微塵も感じさせない声の演技はさすがとしかいいようがないです。

星崎梨花の担当楽器はトロンボーンで、器楽部のコンミスを務める完璧超人で、
器楽部創立メンバーの一人であつたりもします。
武器のトロンボーン型の槍は突いたり切りつけたりするだけでなく小規模な爆風を放つこともできるそうです。

「ららマジ」は吹奏楽部ではなくて器楽部と言う事で、楽器仕様に制約が無いと言う事で、出てくる楽器も
吹奏楽ではありえない編成のワーグナーチューバ・琴・胡弓・グラスハーモニカ・リコーダー・エレキベース・シンセサイザー・
ウクレレなども登場しているのは自由さがあってとてもすてきだと思います。

それにしても美少女がトロンボーンを奏でているシーンはとても素晴らしいと思いますし、星崎梨花のトロンボーンによる
「中国の不思議な役人」の爆演も聴いてみたいですね~♪
本記事の一つ後の記事がバルトークの「中国の不思議な役人」についてのものでしたので、統一する観点から
本記事においてバルトーク作曲の「二つの肖像」という管弦楽曲について少しばかり取り上げてみたいと思います。
私自身が初めて購入したドホナーニ指揮のバルトークの「中国の不思議な役人」のレコードのカップリング曲が
「二つの肖像」でもありました。
「中国の不思議な役人」の荒々しいバイタリティーさと過激さに比べると、二つの肖像は比較的おとなしい曲のようにも当初は
感じたものですけど、実はこの曲の背後にも色々なドラマはあったりしたものでした。

この曲を作曲当時バルトークは、ガイエルというヴァイオリン奏者に恋心を抱き、
その思いが一つの結晶となって表れたのがヴァイオリン協奏曲第一番なのです。
だけど結局ガイエルとの恋は残念ながら悲恋に終わり、
ヴァイオリン協奏曲第一番も献呈されたガイエルの手許にずっと保管されたまま忘れ去られ、
この協奏曲が初演されたのは、バルトークもガイエルも既に世を去った1958年です。

一方バルトークはこのヴァイオリン協奏曲第一番とは別に「二つの肖像」という管弦楽曲を世に発表し、
実は「二つの肖像」の第一曲「理想的なもの」は、ヴァイオリン協奏曲第一番第一楽章と全く同じです。
換言すると、ヴァイオリン協奏曲第一番が初演された時点では、既に第一楽章だけは
「二つの肖像」という別の形で既に発表されていた事になります。
「二つの肖像」の第一曲「理想的なもの」は、独奏ヴァイオリンが主体で
終始ソロヴァイオリンが哀しいメロディーを切実に歌い上げていきます。

「二つの肖像」の第二曲は、「醜いもの」というタイトルで、第一曲の理想的なものが10分程度の比較的長い音楽であるのとは
極めて対照的に、荒々しい疾風するようなトゲトゲしい音楽が3分程度駆け抜けていきます。
「醜いもの」は、クラリネット・フルート・オーボエの豚の絶叫みたいなブヒヒーンという雄叫びが極めて印象的です。

この第二曲「醜いもの」にも実はガイエルの影が潜んでいます。
この曲の元ネタは、実はバルトーク自身の「14のバガテル」という曲でして、
この「14のバガテル」という曲の中の第13曲「彼女は死んだ」と第14曲「彼女は踊る」という何やら意味ありげのタイトルの曲の
メロディーラインを二つの肖像のモチーフにに転用していますし、「二つの肖像」第二曲・醜いものは、
この「14のバガテル」の第14曲「彼女は踊る」をそっくりそのままオーケストレーションしたものなのです。

タイトル自体既に意味深なのですけど、「二つの肖像」という曲自体、
バルトークのガイエルに対する相反する二つの気持ちをそのまま曲にしたものなのかもしれません。
ガイエルに対する「あなたこそ私の理想の女性」という想いもある一方で、交際の過程で生じたさまざまな軋轢・心理的離反・
埋められない価値観の相違など理想と現実のギャップにバルトーク自身が大変悩み、
そうしたガイエルに対する複雑な想いが、理想的なもの・醜いものという相反するタイトルに繋がっていったのかも
しれないです。

心情的には男と女のミステリー音楽劇場みたいなものなのかもしれないです。

バルトークにはヴァイオリン協奏曲というジャンルは二曲残していますけど、内容が二曲ともやや難解というか渋すぎて
個人的にはそれほど好きではありません。
だけどピアノ協奏曲は3曲ありますけどいずれも名作揃いだと思います。
特にピアノ協奏曲第三番は、アメリカに亡命後白血病に侵され、貧困と病で瀕死の状態にあったバルトークの最晩年の曲
なのですけど、その終楽章の生きる希望と情熱に溢れた力強い感覚はとても死が間近に迫っている人の作品とは
思えないほど信じられないほど生命感に満ち溢れています。

果たしてバルトークは、死の床でガイエルの事をどのように感じていたのでしょうか・・

さてさてここから下記は、バルトークの記事という事で、舞踏組曲についても少しばかり記させて頂きたいと思います。

吹奏楽コンクールにおいて、この曲が初めて全国大会で演奏されたのは、1978年の駒澤大学、
そして次に演奏したのが80年の富山商業なのですけど
(両校ともに上埜孝先生のアレンジを使用しているため、唐突に第二曲のトロンボーングリッサンドから
開始しているのが大変面白いです)
それ以降は、この曲は20年近くもほとんど演奏される事は無かったのですけど、1990年代後半から2000年代初めにかけて
この曲はなぜか人気曲となり、多くのチームが支部大会・全国大会で演奏するようになりました。
この曲の何とも言えない泥臭さ、民族的な香りが日本人の感覚にも何かマッチするものがあったのかもしれないです。

タイトルに「舞踏」とついていますけど、特段バレエとは関係はありません。
あくまでコンサートで聴くための楽曲です。
バルトークの独特の民族的なフレーズで彩られた個性的な現代風の作品なのですけど、
親しみやすく聴いてて「難しい」という感覚は全く無いと思います。
この曲の作曲経緯は、ハンガリーの首都・ブタペストの市制50周年記念として委嘱されたもので、
この時の他の作曲家への委嘱作品としてコダーイの「ハンガリー詩編」があったりもします。

それにしてもこの曲は泥臭いと思いますし、大地の香りがプンプンと漂ってきます。

この曲は、5つの舞曲と終曲から構成され、6曲にタイトルは一切付けられていません。
組曲という表記になっていますけど、各曲は全て続けて演奏されるようになっていますので
一つの曲が終わるごとに少し間が入るという事はありませんけど、その分音楽的な密度が高いというか
一つの曲が終わって何か緊張感が途切れるという事は、この組曲に限っては皆無だと思います。

冒頭はいきなりピアノの低音のグリッサンドと少し硬い表情のファゴットソロで開始されます。
第2曲は、いきなりトロンボーンのグリッサンドで開始され聴くものを少し驚かせます。
私自身は、この曲は吹奏楽コンクールでは何度も耳にしましたけど、プロの管弦楽団の演奏会で聴いたのは一度だけです。
(確か日本フィルの定期だったような記憶があります)
その際も、この第2曲のトロンボーンのグリッサンドは大変印象に残りましたけど、
視覚的にトロンボーン奏者がああやって一生懸命スライドを上下させている光景は
あまり実例がないだけにとても印象に残っています。
(トロンボーンの派手なグリッサンドの例としては、他に、コダーイの
 組曲「ハーリ・ヤーノシュ」~Ⅳ.合戦とナポレオンの敗北がとても印象深いです)
この第2曲は、何かロシアの「コザックダンス」にちかいようなものがあるのかもしれないです。
第3曲は、とても軽快で実にいいですし、特にクラリネットのソロがとてもノリノリで楽しいですし、
全六曲の中では一番ダンスっぼい感じもします。
この第三曲の終わらせ方は、いかにも「曲が終わった」みたいな感じがしますので
うっかり聴くと、この第3曲の終わりと同時に拍手をしそうな人も出そうな雰囲気です。
第4曲は一転して静粛な感じになるのですけど、部分的におどろおどろしい雰囲気も漂わせ、不気味な感じも演出しています。
第5曲は、第四曲の不気味さに引きずられた様な感じと終曲に向けての下準備という
感じもあり、何か両曲を繋ぐ「架け橋」みたいな役割もあると思います。
そして終曲は、華麗に盛り上がり、これまでの舞曲が走馬灯のように回想されながら賑やかな祝典的な音楽を展開し、
ラストはズドンと曲が閉じられます。

バルトークの「舞踏組曲」のメロディーをモチーフにパロディー作品として作曲された曲も実はあったりします。

それが深井史郎作曲の「パロディー的四楽章」から第四楽章・ルーセルです。
(この曲は、1982年の秋田南高校の自由曲でも大変馴染み深いものがあります)

第四楽章において、タイトルは「ルーセル」となっていますが、実際にパロディーとしてのモチーフとして使用したのは、
バルトークの「舞踏組曲」です。
舞踏組曲のどの部分をパロディーにしたかは、実をいうと私にとってはいまだに分からないです・・(汗・・)
それにしても、バルトークの曲をパロったのに、タイトルがどうして「ルーセル」に転化したのでしょうか・・?
うーーん、思いっきり謎です・・
それもこの曲の一つの持ち味というか、茶目っ気なのかもしれないですね。
この第四楽章は、ルーセルの曲を何一つモチーフにしてもいないのに、タイトル名だけルーセルの名を使用し、
バルトークの「舞踏組曲」をモチーフにしたと作曲者は言っているのですが、
実はこの楽章において、真の主題は、実は日本の「さくら、さくら」という、日本人ならばほとんどの人が知っている
あのメロディーでもあったりします。
中間部の前において盛り上がる部分とか、ラスト近くでは、この「さくら、さくら」のメロディーは
かなり執拗に引用されていて、思いっきり日本のメロディーをパロディ化しています。
この曲の真意は、もしかして・・
「外国の作品の勉強をして、影響を受けても構わないけど、
最終的には、あなた達自身の故郷の日本の事も忘れては駄目ですよ・・」みたいなメッセージを
後世に作曲家の人達に伝えたかったんじゃないのかな・・?とふと思ったりもします。


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最後に思いっきり余談になりますけど、一つ後の記事のバルトーク/中国の不思議な役人のトロンボーン絡みから
2017年1月にリリースされた音と魔法の学園RPG「ららマジ」のトロンボーン奏者の星崎梨華について触れさせて頂きましたので
本記事においては、やはり「ららマジ」に登場する一年生のフルート奏者の結城菜々美をごく簡単にレビューさせて
頂きたいと思います。

バルトークの中国の不思議な役人と舞踏組曲においては、ららマジの星崎梨華の担当楽器であるトロンボーンが
大活躍をするのですけど、両曲において静かな場面とか上記で取り上げた「二つの肖像」においても
全体にスパイスを与えている楽器がフルートでもあるように感じられます。
特に中国の不思議な役人における二人のトロンボーン奏者によるソロ的掛け合いの場面の直前のだるくて誘惑的な部分での
フルートの官能的な表現や、二つの肖像のⅡ.醜いものにおける刻みの鋭さとまるで馬の雄叫びみたいな響きにおいても
フルートは大変効果的に使用されていると思います。

吹奏楽部に入部希望をしてくる皆様たちの中での人気楽器は、トランペット・トロンボーン・アルトサックスだと思いますけど、
女の子にとって一番人気のパートはフルートと言えるのかもしれないですね。

フルートの楽器の素材はサックスと同じように金属系なのですけど扱いは木管楽器です。

フルートのイメージは優雅で華麗であり、全体合奏の中では目立たない方なのかもしれないですけど、随所においしいソロが
用意されている事も多々あり、音程が安定している事もありますし、万一ミストーンをしても元々の音量が弱いという事もあり、
あまり目立つことも無く、指揮者からはどちらかというと優等生扱いされる事が多いのかもしれないです。

フルートパートは現在の高校A部門の55名編成という制約においては、3人一組でパートを構成される事が多いと思いますが、
そのうち一人はピッコロという超音域楽器との持ち替えというパターンが多いと思います。


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フルート奏者の結城菜々美は「ど根性で乗り切るぞ!期待の新人!」というのが売りのふわふわ熱血少女です~♪

明るく素直で、誰とでも仲良くなれるタイプで、根性さえあれば何でもできると考えている熱血系根性論者でもあり、
ときに無鉄砲な行動に出ることも多々あります。
音楽家の両親の影響で物心つく前からフルートに触れており、幼少期から数々のコンサートで最優秀賞を総なめ状態で
周囲から神童と呼ばれていましたけど、とある出来事により挫折してしまう過去の傷もあったりします。

根性論者、肉好き、運動神経抜群という側面と見た目のふわふわ~っとしたかわいらしさのギャップが
結城菜々美の際だの魅力なのかもしれないです。
灰色のニーハイを常に着用していて、ららマジの中ではすてきな絶対領域の持ち主であるのも大変素晴らしいですね~♪
私自身、独身の頃にまだ自由に使えるお金があった頃は(汗・・)
吹奏楽コンクール・プロの交響楽団の生の演奏会やバレエやオペレッタの上演は結構行ったものですし、
バレエもオーチャードホールや神奈川県民会館など一時期よく観に行ったことがあります。
(私が学生時代は、バレエの上演というと五反田の郵貯の簡易保険ホールでの公演が多かった印象はありますね・・)
だけどバレエ自体は結構チケットが高くて、
「行きたいのだけど、上演できる場所が限られちゃうし、チケット代が高いからちょっとね・・・」という感じになってしまいますけど
出来れば死ぬまでに一度は見ておきたいバレエと言うと

○ストラヴィンスキー/火の鳥

○バルトーク/無言劇「中国の不思議な役人」

○ラヴェル/ダフニスとクロエ

○プロコフィエフ/ロメオとジュリエット

○   同    /シンデレラ

などかありますけど、
死ぬまでに一度ぐらいは一番見てみたいバレエというとファリャの「三角帽子」を挙げたいと思います。

この「三角帽子」というと日本のプロの管弦楽団の演奏会の演奏曲目としてはほぼ定着化されていますし、
CDの録音枚数も相当なものがありますし、
吹奏楽コンクールの自由曲でも「粉屋の踊り・終幕の踊り」の組合せで
現在でも頻繁に演奏される大変な人気曲だと思います。
(大変古い話ですけど、1975年の山王中学校と1977年の島田第二中学校の三角帽子は大変躍動感のある素敵な名演でした!
最近では2016年の習志野高校と伊奈学園総合高校の演奏も素晴らしかったですね~!)

私自身も、中学2年の吹奏楽コンクールで、5月頃に顧問の指揮者の先生から
今年のコンクールの自由曲は、ドビュッシーの「三つの夜想曲」~Ⅱ.祭りか
ファリャのバレエ音楽「三角帽子」~粉屋の踊り・終幕の踊りのいずれかだと言われ、両曲の吹奏楽アレンジ版楽譜で
練習した事はあります。
正直ドビュッシーの曲は、当時はほとんどビンと来るものは無く「これのどこが祭りなの・・??」という感じでしたけど、
ファリャの曲は、明るく健康的な躍動感たっぷりの曲でしたから、吹いていて気持ちは良かったです。
技術的には三角帽子の方が全然難しいのですし、あの独特な躍動感と高揚感があるリズムの構築は極めて難しかったと
記憶していますし、あのバレエのリズムはラテンのノリが濃厚という事で、日本人にはちょっと難しいものが
あるのかもしれないです。
結果的にこの年の自由曲は、ドビュッシーでもなくファリャでもなく
あまりにも陰気で憂鬱なマクベスの吹奏楽オリジナル曲「カディッシュ~ユダヤ人の死者のための葬送音楽」
という曲で、この曲を聴くと今でも「生きているのが嫌!」と感じるぐらいとてつもなく厭世的で陰鬱な哀しい曲であり、
ファリアの「三角帽子」のあのあまりにも明るく健康的な眩しい世界観とはまるで対照的なものだったと思います。

ファリャは「三角帽子」に着手する前、既にバレエ音楽「恋は魔術師」でその名声と評価を決定的なものにしていましたけど、
「恋は魔術師」は、どちらかというと「どす黒い怨念とか焼きもちとか情念」みたいに
スペイン色は強いけど、内省的な曲という印象もあります。
反面「三角帽子」は、要は粉屋の女房に横恋慕した悪代官を街のみんなでやっつけるという日本の時代劇みたいな雰囲気も
あったりして大変楽しく明るくノリが良い曲です。
バレエ自体も上映時間が35分程度と短いですので、バレエ音楽として全曲版として聴くのもいいですし、
コンパクトに組曲版として聴くのもいいし、要はどちらを聴いてもその魅力はくまなく伝わってくると思います。

三角帽子の序奏からして大変なインパクトがあると思います。
冒頭はティンパニの乱打に続く金管セクションのメロディーの後に続いて管弦楽の団員が
「オレ! オレ! オレ!!」とまるでフラメンコのように手拍子をしながら掛け声を出しますし、
打楽器セクションは、ほぼ全員マラカスを片手にカタカタと鳴らしているし、この部分を聴いただけで「三角帽子」の世界の
魅力に引き寄せられるのは間違いないと思います。
恋は魔術師は、ソプラノ独唱が一つの売りで、ソプラノが大変効果的に使われますけど、
三角帽子は一応ソプラノは出てくるけど、それほど出番はないです。
たまにソプラノが登場してくると「華」がありますし音楽が更に生き生きとしてくると思います。
粉屋の踊りの冒頭に出てくるコールアングレのソロもいかにもスペインらしい風情がありますし、
粉屋の逮捕の場面では、なんと! ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」第一楽章の
あのジャジャジャジャーンのパロディーがホルンによって奏でられます。
最初にこの部分を聴いた時思わず耳を疑いましたし、
「何なんだ、今のは・・・」と思ったものの、心の中ではくすっ・・となる想いはありました。
ラストの終幕の踊りの華やかさも素晴らしいものがありますし大変な躍動感があると思います。
(この終幕の踊りの序盤に大太鼓によるズドン!というとてつもなくデカい音のソロというか叩き込みがあり、あれも何度聴いても
ゾクゾクさせられるものがあります)

この「三角帽子」なのですけど、あらすじを簡単に書いておきますと・・
(ちなみに「三角帽子」とは代官が被っているもので、要は権力の象徴です)

アンダルシアのある町で、見た目が悪いが働き者の粉屋と旦那と美人の女房が住んでいました。
ある日、スケベな悪代官がこの女房に目をつけお忍びで粉屋の店舗を訪れ、
女房は粉屋の旦那を物陰に隠し、代官に官能的な踊り「ファンダンゴ」の踊りを披露します。
代官は女房に言い寄りますけど、からかわれた末に失神させられます。
その後出てきた粉屋の旦那が代官を殴り、代官は一旦はスゴスゴと引き揚げます。

その日の夜、近所の人々が祭の踊りを踊っていて、粉屋の旦那も一緒に踊り出します。
激しい踊りが続く中、悪代官の陰謀により、粉屋の旦那は無実の罪で2人の警官に逮捕されてしまいます。
代官は女房を奪い取ろうと夜這いを掛けて忍び込みますけど、
気が急いでいる代官は水車小屋の前の川に落ち、粉屋の女房に助けられるものの、結局逃げられてしまいます。
悪代官は濡れた服を脱ぎ粉屋の旦那のベッドに潜り込みます。
そこに警察から逃げ出してきた粉屋の旦那が戻ってきますけど、悪代官の服を見て自分の服と代官の服を交換し、
悪代官の女房のところに向かい、悪代官のこれまでの悪事の数々を暴露してしまいます。
悪代官は粉屋の旦那の衣服を着て外に出たものの、その恰好ですと指名手配中という事で警官にすぐに見つかり、
その警官と近所の人に袋叩きに遭い逃げていき、悪代官の家に戻ると悪代官の女房よりお仕置きが待っていて
悪代官は結局総スカンを食らってしまいます。
近所の人たちは、平和を取り戻した粉屋の夫婦を中心に、一晩中踊って一件落着というハッピーエンディングとなっています。

一言でいうと、勧善懲悪、悪は滅びるみたいな世界観といえそうです。

プリキュア的には悪代官というと、2代目プリキュアのSSで登場してきたアクダイカーンを思い出してしまいますね・・

ファリアのバレエ音楽からもそうした健康的な明るさが全面に溢れ出ていると感じられます。





バレエ「三角帽子」の初演は世界的な名指揮者、アンセルメなのですけど、
私自身、この「三角帽子」の数あるCDの中でも一番大好きなのはやはりこのアンセルメ指揮/スイス・ロマンド管弦楽団です。
確かに音源は古いけど、その冷静さと情熱がミックスされた名演を超える演奏はいまだに出てこないと思っています。

このバレエ音楽「三角帽子」の初演は1919年ですけど、
この初演を担当したスタッフがあまりにも絢爛豪華とすごいと思います!

美術担当&舞台装置&衣装⇒ピカソ

指揮⇒アンセルメ

バレエの振り付け⇒マシーン

そもそもの依頼者とアドバイザー⇒ディアギレフ

すごい、このメンバー凄すぎる・・!! 当時の音楽・美術のオールスター夢の競演という感じすらしますね!

ちなみにこの曲は当初は「バレエ」ではなくて「パントマイム」として着想された時期もあり
パントマイムとしての初演は「幻想舞曲集」の作曲者のトゥリーナの指揮によって初演が果たされています。

この「三角帽子」ですけど、これをベースにしたというか、日本の江戸時代の「悪代官風」にアレンジした戯曲が
「夕鶴」でお馴染みの木下順二の「赤い陣羽織」とのことです。

上記でちらっと触れていますけど、ファリアのバレエ音楽「三角帽子」は吹奏楽コンクールの自由曲としても
1970年代から現在に至るまで定番の曲の一つでもありまして、
令和元年の全国大会でもブリジストン久留米が自由曲として演奏されています。
最近の演奏の中では、伊奈学園総合高校と習志野高校の明るく洗練されたサウンドが大変印象的です。
この曲は以前は、粉屋の踊りと終幕の踊りの組合せまたは終幕の踊りのみという感じでしたけど、
1993年の辰口中学校が後藤洋さんの斬新なアレンジで、序奏の例のあの掛け声や手拍子を取りいれた演奏も当時
大きな話題になっていましたし、この辰口中学校の名演以降は、序奏~午後~終幕の踊りという組合せも増えてきている
印象もあります。

吹奏楽コンクールでの演出と言うと冒頭の掛け声と手拍子の他には、終幕の踊りのラストの和音の前に、
打楽器のみのロールを強調する演奏も幾つかありましたし、
(1985年の玉川学園は打楽器奏者が全員小太鼓でロールしていましたし、86年の葛飾吹奏楽団は打楽器奏者が全員
カスタネットを鳴らしていました!)
これはとある定期演奏会でみた演出でしたけど、終幕の踊りの冒頭近くの大太鼓のソロの箇所で、もう一台大太鼓を用意し、
その大太鼓の皮は実は紙製で、二台のうち一台でドスンと響かせ、もう一台はそのまま紙の皮が破れるという
大変派手でユニークな演出をした演奏も大変印象的です。

吹奏楽コンクールにおいて「どうしてこのチームが三角帽子を演奏するの・・!?」と驚いたのは1990年の花輪高校だと
思います。
花輪高校というとロシアマイナーシンフォニーとかドロドロした邦人作品という印象が強い中、花輪がまさかファリアの
三角帽子というメジャーな曲を自由曲で選ぶ事自体が当時は驚きでした。
花輪高校はこの年は東北大会ダメ金で全国に進めませんでしたけど、後日この演奏を聴いた時は、
課題曲のカタロニアの栄光のテンポとリズムをいじりまくった解釈と三角帽子のドロドロとしたちょっと重たくて怨念が
籠ったような演奏を聴くと「さすがにこれだと全国大会代表は厳しいかも・・」と感じたものではありました。

そして三角帽子の吹奏楽コンクールというと忘れてはいけないのは、1977年の島田第二中学校もそうですけど、
山王中学校だと思います。
山王中は1970年代の木内博先生時代にこの三角帽子をとてつもなく煌めきある躍動感溢れる演奏をされて、
金賞の評価を受けていますけど
(木内博先生の指揮と言うと、幻想交響曲・スペイン奇想曲・スペイン狂詩曲の演奏も素晴らしいです!)
実は平成の時代に入って、木内先生の御子息の木内恒先生の指揮で、三角帽子やスペイン狂詩曲等、お父様の博先生と
同じ自由曲でもって全国大会に出場され、三角帽子で親子二代に渡る同一自由曲での金賞受賞という大変な快挙を
成し遂げられていたのは大変印象的でした!

山王中というと羽川誠先生時代や細谷直先生時代の演奏も大変素晴らしいものがありますけど、こうやって親子二代に
渡って偉大なる伝統が受け継がれていく姿は大変尊いものがあると思います!
ジョン・ウィリアムズのアメリカ映画音楽上の貢献度は素晴らしいものがあると思います。
アカデミー賞を5回受賞と言うのも凄いと思いますけど、ノミネート止まり42回と言うのも ある意味一つの記録だと思います。

ジョン・ウィリアムズがが映画音楽として作曲した曲は思いつくだけでも

〇ジョーズ

〇スターウォーズ

〇未知との遭遇

〇スーパーマン

〇インディージョーンズ

〇ホームアローン

〇シンドラーのリスト

〇ジュラシックパーク

〇ハリー・ポッター

など多数の作品が出てきますね。
個人的には、吹奏楽アレンジ版で私自身演奏経験がありますけど「スターウォーズ」がとても 印象深いです。
やはりあの音楽の「メインテーマ」を聴くだけで、映画の名シーンが色々と思い出してしまいますね。
それと知名度はいま一つですけど「11人のカウボーイ」のホルンの雄叫びも極めて印象深いものがあります。
(吹奏楽アレンジ版の演奏としては1987年の福岡工大付属高校の圧倒的名演が大変印象的です)

ジョン・ウィリアムズ方は、ボストン・ポップスの指揮者として自作自演の他に、
例えば、スッペの喜歌劇「ボッカチオ」序曲とかカバレフスキーの歌劇「コラブルニヨン」序曲など
親しみやすい小品の演奏もすてきな演奏がとても多くて指揮者としても傑出した才能をお持ちなのだと思います。

ジョン・ウィリアムズの作品で、映画音楽以外なのですけど、忘れられない作品として
「リバティー・ファンファーレ」という大変スケールの大きな小品があります。
式典関係のファンファーレと言うと、 この曲以外でも、
1984年の「ロサンジェルスオリンピック」のテーマ曲であるファンファーレも大変素晴らしい曲も残されています。

この「リバティー・ファンファーレ」ですけど、
自由の女神像の建設100周年を記念して元々作曲された経緯があります。
自由の女神の前での発表は、7月4日にマンハッタンの南西端のバッテリー公園で夕方から夜にかけて盛大に行われました。
当日はウイリアムズの指揮によるオール・アメリカン・マーチング・バンドと合唱団が
自由の女神をバックに、野外ステージで演奏されました。

金管楽器の壮麗なファンファーレに続き、打楽器や鐘(カリヨン)が打ち鳴らされ、
ホルン等が厳かな第1主題を提示し、トランペットの華やかな旋律が高鳴り興奮が増し、
最後にもう一度第1主題も現れ、効果的に曲を閉じます。
冒頭の金管セクションによるファンファーレは、本当に豪快で気持ち良く鳴り響き、その後続く「鐘」は、チャイムというよりは
本格的な教会の鐘というかカリヨンがゴーンと荘厳に鳴り響くのが極めて印象的です。

この曲残念ながら生で聴いたことは一度もないのですけど
コンサートのオープニングとしては実に相応しい曲だと思います。
夏の野外コンサートにも何か最適の曲ですね。

この曲は、吹奏楽にも編曲され、
1994年の関西大会で、洛南高校がこの曲を自由曲に選び素晴らしい演奏を聴かせてくれました。
惜しまれることに、この年の洛南は関西大会ダメ金という事で全国大会に進めず、関西大会で散ってしまったのですけど
あの華麗な演奏は是非普門館でも聴きたかったです!
あの年の関西代表は淀川工業・兵庫・天理でしたけど、淀川工業はこの学校にしては珍しいくらい不調で銀賞に留まり、
天理はあまりにも抑制され過ぎた演奏は理性的という意味では申し分ないのかもしれないけど少し欲求不満気味で、
兵庫は松井節全開の名演でしたけど、自由曲のカットがかなり強引かな・・?とも感じていただけに、あの年の関西代表には
洛南の「リバティーファンファーレ」は絶対不可欠だったと今更ながらに感じたりもします。
あの年の洛南の演奏はとてつもなく生き生きとしていて、演奏終了後の会場全体がざわつくあのとてつもないブラボーコールの
大声援は、洛南の演奏の素晴らしさを物語っているように感じられます。
洛南の冒頭の金管ファンファーレの激しさと高揚感は圧巻でしたし、それに続くカリヨンの響きがとても壮麗でしたし、
ラストの自然な盛り上がりも圧巻の仕上がりだと思います。
この曲は、吹奏楽版では「交響的三章」・「よろこびの翼」・「オーストラリア民謡変奏組曲」でお馴染みのカーナウが
アレンジしていますけど、 吹奏楽オリジナル作品を主に活動対象にされている方がこうやって
管弦楽作品をアレンジしているのも何か興味深いものがあります。
ちなみにカーナウは、ホルストの組曲「惑星」~天王星も吹奏楽に編曲されていました。

リバティー・ファンファーレの吹奏楽版としてはこの洛南高校を超越する演奏は今後も多分不世出だと思うのですけど、
それ以外としては中澤忠雄先生指揮の野庭高校の定期演奏を収録したCDにこの曲も含まれていましたけど、
確かに見事な演奏ではあるものの、少し洗練され過ぎて自発性と高揚感に欠ける演奏であったのはかなり勿体無いな・・と
感じたものでした。

あの年の洛南高校のリバティーファンファーレの演奏は、ハリソンの夢・アメリカの騎士・ダンスフォラトゥーラと
同じくらい宮本先生のアクの強さが漲り渡り、「宮本先生=洛南高校」というとてつもなく強烈なサウンドが
確立された瞬間じゃないのかな・・・とも感じさせてくれました!
ああいう演奏が出来てしまう演奏団体は、今現在の吹奏楽コンクールの高校の部では皆無と言えるのかも
しれないですね・・
あの「宮本先生=洛南高校」という組合せは、「吉永陽一先生=兵庫高校」に匹敵するとてつもなく個性的なものだったと
感じていますし、個性がギラギラ漲っているみたいな言い方がこれほどしっくりくるチームは少ないとすら思えます。

宮本先生も既に彼岸の彼方に旅立たれていますけど、宮本先生の個性とアクが漲るあの名演の数々は間違いなく
私たちの胸の中に受け継がれていくものと思います!
昨日のセカンド記事がショスタコーヴィッチの交響曲第7番「レニングラード」で、8/8の当ブログでは、
同じくショスタコーヴィッチの交響曲第9番にも触れさせて頂きましたので、ここは10番にも触れない訳には
いかないのかもしれないです。

ショスタコーヴィッチの交響曲第10番は、正直長いし陰気だし重たいし、決して人をハッピーにさせる曲では間違っても
無いと思いますし、とにかく閉塞感が漂う曲です。

私はこのD.ショスタコーヴィッチ/交響曲第10番は昔から意外と大好きであったりもします。
ショスタコーヴィッチの交響曲はあのあまりにも有名な第5番すらも録音も演奏もしていないカラヤンは、なぜかこの10番のみ
ショスタコーヴィッチの交響曲としては唯一音源を残していますけど、カラヤン指揮の演奏よりは、
私としてはスヴェトラーノフ指揮の演奏が大好きで、この音源はいまだにレコード盤として所有していたりもします。

ショスタコーヴィッチは、第二次世界大戦終結後に作曲された交響曲第9番が、世間の空気や
当時のソ連の指導者スターリンが求めた「第二次世界大変に勝利した歓喜の交響曲を作るべき」という期待を見事に
裏切り、比較的軽いノリのシンフォニーを作ったために、スターリンやソ連の音楽官僚達の逆鱗に触れてしまい、
結果的にジダーノフ批判という大バッシングを受けてしまいます。
私自身は、この交響曲第9番は、大好きな曲です。全体を通して、おもちゃ箱をひっくり返した
ような聴き所満載の曲です。特にファゴットの悲壮なソロから一転して、「なーーんちゃって」
とアッカンベーするような第五楽章への転換部分は本当に面白くてたまらないです。
その結果なのかどうかは分かりませんが、ショスタコーヴィッチ自身は、1953年にスターリンが死亡するまで
約8年間、交響曲作曲の筆を一時断筆し、スターリンが死亡したと同時に、この謎めいた交響曲第10番を
発表するのです。
スターリン逝去の発表前にはインタビューで「次の私の仕事は歌曲である」と明言していたにも関わらず、
スターリン逝去の方と同時に短期間で一気にこの長ったらしい交響曲を完成させたことに対しては、当時から色々と
憶測は飛んでいたものですし、ショスタコーヴィッチの長年のスターリンに対する恨みつらみが、一気に爆発したと
言えるのかもしれないです。
(ちなみに、スターリンが亡くなった日と全く同日にプロコフィエフも逝去しています。これは結構すごい偶然かもしれないです)

D.ショスタコーヴィッチ/交響曲第10番は明らかにバランスが悪いです。

重苦しくて陰鬱な第一楽章が長過ぎるからそう感じるのかもしれません。
各楽章の時間的構成として、第一楽章約23分 第二楽章5分 第三楽章18分 第四楽章10分となっていて、
第一楽章と第二楽章の時間的配分のアンバランスさは初演当時から何かと批判はされていたようです。
第一楽章だけを聴いてしまうと、とにかく何の救いも見えてこないし、生きている事自体が本当に嫌になってしまいそうな
重苦しい楽章です。
そして、第一楽章とは対照的に明らかに短すぎる第二楽章が極めて印象的です。
作曲者自身の言葉では、この第二楽章は「スターリンの肖像」と記されていますが、
暴力的で粗暴な曲の雰囲気は、確かにそうなのかもしれません。
そして、第三楽章は、一番謎めいていますし、何となく脱力めいた部分もあります。
曲が盛り上がってくると、ホルンのファンファーレみたいなメロディーの断片がそれを遮るという感じがします。
専門的な話になってしまうのでここではあまり深く掘り下げませんが、
そのメロディーラインの遮りこそが、実は「DSCH音型」という大変やっかいなものなのです。
ショスタコーヴィッチ自身のドイツ式の綴りのイニシャルから取った「DSCH音型」という四つの音型パターンが
この交響曲の至る所で登場し「DSCH音型」が登場しない第二楽章は、スターリンの独断場を示唆し、
その音型が頻繁に登場してくる第三・第四楽章においては、
「スターリンが死んでやっと自分は解放された・・これからは・・・スターリンの目を気にする事なく
自分が作りたい曲を作曲したいし、もう誰にも文句は言わせない。
自分が作曲したい音楽を誰からも指示されずに自由に作曲したい」といったメッセージを提示しているようにも感じられます。
第三楽章の中で、かなり乱暴で粗野な強奏の部分が登場し、「とてつもなく盛り上がってきた」と聴衆に思わせておいて
次の瞬間に前述のDSCH音型がその流れを断ち切り、それが何度か繰り返されると
聴いている方としても「またかよ・・」みたいな妙な脱力感を感じてしまいますし、
唐突に背後の人間から膝かっくんを食らった様な感覚にすらなってしまいます。

ショスタコーヴィッチが作曲した曲の中で、最大の自分の敵=スターリンとショスタコーヴィッチ本人が自作作品の中に
登場するとは、ショスタコーヴィッチの自己顕示欲は意外と強かったのかもしれませんし、
同時に、時の権力者=スターリンが生きている間は、粛清・政治犯の収容所送りが怖いから何も言えず
ただ時の経過をひたすら待ち、そしてスターリンが死んでしまったら、これまでの鬱憤を晴らすように、
交響曲の中に、スターリンは登場させて自分自身も登場させる等とやりたい放題が出来るようになり、
当時の権力者の死によって、ようやく一つの自由を得たと言えるのかもしれないです。
自作作品に作曲者本人が登場する曲の一つとしてR.シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」がありますけど、
シュトラウスの場合は英雄という抽象的概念にたまたま自作を重ね合わせたという印象があるに対して、
ショスタコーヴィッチのDSCH音型の自作作品への乱入というのは、過剰な自意識というよりは、
「自分は決して御用作曲家ではないし、自分の内面と信念に従った作品を残したいし、時の権力者すらにも時に抵抗した
自分と言う存在は決して忘れないでほしい」というメッセージのようにも聴こえたりもします。

交響曲第10番は第四楽章が私としては一番興味深いです。

冒頭はとにかく哀しい雰囲気から開始され、オーボエの哀しさ溢れるソロの雰囲気は、クラリネット・フルート・ファゴットに
受け継がれていき、 不安・寂寥感・孤独・哀愁みたいな雰囲気が序盤は濃厚です。
クラリネットのソロ以降のアレグロの展開部では、幸福感すらも感じさせる曲の雰囲気になってしまいます。
それにしてもこの楽章のラスト10小節前辺りのティンパニのソロは格好いいと思いますし、あのソロをかっちりと決める事が
出来れば、ティンパニ奏者冥利に尽きると思います。
確かに第四楽章全体の雰囲気は明るいのですけど、交響曲第10番全体をトータルで捉えてみても
第四楽章の中盤~後半以降の明るさだけでは交響曲第10番全体の陰鬱さ・暗さを解決するものではないようにも感じます。
やはり第一楽章の重苦しさが曲全体のイメージを支配している傾向が大変強く、 そこに第三楽章の陰気さと脱力感も加わり、
第四楽章後半のアレグロだけでは、何の解決にもならないという印象は残ってしまいます。

結局、この交響曲第10番でショスタコーヴィッチは何を伝えたかったのでしょうか・・?

本来「人間の死」というものは、哀しく荘厳なものであるものなのかもしれないです。
ショスタコーヴィッチの祖国(旧、ソ連)では、時の指導者スターリンが死亡しない限り国民全体の開放感や幸福は訪れないと
いった矛盾を皮肉を込めて作曲したのかもしれません。

ショスタコーヴイッチ自身も、交響曲のジャンル一つとっても、様々な矛盾を内在しています。
例えば、交響曲第11番「1905年」とか交響曲第12番「1917年」は、
明らかに時の音楽官僚等に対するごますり・ご機嫌取りみたいな御用作曲家みたいな側面を見せながらも、12番以降以降の
交響曲第13番「バービィ・ヤール」などのように反体制家と評されても仕方がない曲も残している事を考えると、
人間と言うものは時に内在した矛盾を抱え込ん生きざるを得ないという事を示唆しているのかもしれないです。
ショスタコーヴィッチ自身もその時の心情によって自身の考えも色々と変容し、
ある時は「スターリンを満足させたり、国家を発揚させる曲を書いてみよう。自分も国家の一員として国に貢献したい」という
気持ちもあったかもしれませんし、逆に「スターリンのタコ!! パーカ!!! 少しは自分にも自由に作曲できる場を与えて欲しい。
おまえなんかくたばっちまえ!」という気持ちも大いにあったのかもしれないです。
ショスタコーヴィッチの一場面での発言のみを殊更大げさに強調し、
「だからショスタコーヴィッチは所詮はソ連の御用作曲家に過ぎない」とか
「ショスタコーヴィッチは時の権力者に迎合しながらも内面においては反骨精神や反発心を隠してはいなかった」と
決めつけるのは決して宜しくは無いと思いますし、時に権力者の手先として、時に権力者に抵抗勢力として
振り子のように右に左に不安定に動いていた・・否、顔色を見ながら動かざるを得なかったという事なのかもしれないです。
そしてショスタコーヴィッチの生涯の足かせ・重しとなっていた当時の指導者・スターリンの死によって、ショスタコーヴィッチ自身
の心の足枷が一気に取れてしまい、これまでの抑圧の反動として
「スターリンに対する私自身の心情の推移」というものを交響曲としてまとめあげたのが交響曲第10番と言えるのかも
しれないです。

この交響曲第10番は、「雪解け」という小説にも登場するそうです。
この曲をラジオで聴いた小説の主人公が、「数字だ、無限の数字だ」とつぶやくシーンがあるそうですが、
それはさすがにちょっと違うのかも・・と感じてしまいます。
日本でのこの交響曲の初演は上田仁指揮の東京交響楽団なのですけど、実は元々初演予定はN響だったそうです。
ところが本番直前になってN響の客演指揮者が交響曲第10番の演奏を拒絶し、代わりにプロコフィエフの交響曲第5番を
演奏したのですが、その演奏が理由や意図は不明ですけどカットだらけの演奏で、これは当時の聴衆・評論家からも
大ブーイングだったそうです。

この話は最近も書いているのですけど(汗)
私がショスタコーヴイッチの曲を聴いたのは、実はあのあまりにも有名な交響曲第5番「革命」ではなくて
交響曲第10番というのも、いかにも私らしい話なのかもしれないです。
しかも、それは管弦楽としてではなくて吹奏楽アレンジ版という変化球として聴いています。

それが何かと言うと、1981年の山形県で開催された全日本吹奏楽コンクール・東北大会の
高校B部門の秋田西高校の素晴らしい演奏だったのです。
わずか35人の編成とは思えない重厚感漂う演奏であり、特に後半のアレグロのスピード感溢れる展開は
小編成の限界を超越した演奏だとも思えます。
BJの演奏評では「孤独・不安・寂しさの雰囲気はうまく出せていたけど、ソロがプレッシャーのため緊張感を持続
出来なかったのは惜しい。アレグロも素晴らしかったが、もう少し重厚感が欲しい、どちらかというと祝典序曲みたいな
キャラクターの演奏になってしまった」と記されていましたけど、
うーーん、ちょっと違うのかも・・・?
私の印象では、ソロの雰囲気も寂寥感と不安を見事にキープしていたと思いますし、アレグロ以降の展開も
悲壮感と明るさが混在した洒落っ気と重さを両立した素晴らしい演奏だったと感じたものでした。
当時、秋田西高校を指導されていた佐藤滋先生は、後年に母校のあの吹奏楽の超名門・秋田南に赴任されましたけど、
高橋紘一先生という存在は大きかったみたいで、結果的に秋田西高の時のような名演を残せないまま
秋田南を静かに去られていたのは少し気の毒みたいな感じもありました。

考えてみると、この秋田西高校の演奏をきっかけに、
「ショスタコーヴィッチという作曲家はどんな背景があり、他にどんな曲を作曲したのだろう・・?」
「何か交響曲第5番がやたら有名みたいだけど、どんな曲なのかな・・」
「丁度スターリン体制化のソ連時代と生涯が被っているけど、どんな背景がこの曲にあったのかな・・」などと
ショスタコ―ヴィッチについていろいろ興味を持つようになり、
私がショスタコ―ヴィッチを聴くようになった大きなきっかけを作ってくれたようにも思えてなりません。

その意味では、この秋田西高校の演奏と指揮者の佐藤滋先生には、「感謝」の言葉しかないです
本当にありがとうございました。
佐藤滋先生が普門館で指揮された1987年の秋田南高校の風紋と交響詩「ローマの噴水」は、それまでの秋田南の
硬さ・陰鬱さを打破したそれまでにないカラーを追及した演奏のようにも感じますし、
私個人はあの演奏を生で聴いていてもあのカラッとした演奏はすてきだと思いましたし、結果的にこの年の銅賞は
かなりの激辛評価といえそうです。

ちなみにですけど、全日本吹奏楽コンクールの全国大会では2018年時点でまだ一度も自由曲として、
ショスタコーヴィッチの交響曲第10番が演奏された事はないのですけど、勿来工業・磐城高校・湯本高校等を指揮して何度も
全国大会で素晴らしい名演を残されている藤林二三夫先生は、平商業を指導されていた2016年に
D.ショスタコーヴィッチ/交響曲第10番~第四楽章を自由曲として選びながらも、残念ながら東北大会ダメ金で終わって
全国大会でこの曲をお披露目できなかったことは大変惜しい・・と感じたものでした。

最後に、改めてこのショスタコーヴィッチの交響曲第10番ですけど、恨みつらみも含めて、
副題に「スターリンと私」 みたいな感じが似合いそうな曲だと思います。
この曲は前述の通り、何度聴いても圧倒的にバランスが悪いと感じざるを得ないですね。
悲劇的な感じの第一・第三楽章、に対して第四楽章は、前半がそれまでの悲劇的雰囲気を継承し、
幾分幸福感が見えてくるのは、中盤以降のアレグロ展開のみですし、
暗い感じが圧倒的に長くて「救い」的な部分があまりにも短か過ぎますし、
第四楽章の後半のアレグロがショスタコーヴィッチの「祝典序曲」のあの健康的な明るさすらも感じてしまうのですけど
そこに至る経緯がとてつもなく唐突という印象がある事が
やはりこの交響曲自体を何か「とっつきにくいもの」にさせているのかもしれないです。
例えば、交響曲第8番・交響曲第10番・チェロ協奏曲第2番・ヴァイオリン協奏曲第1番などのような
ショスタコーヴィッチの曲の中でも重苦しい曲を聴いた後で
「祝典序曲」・ジャズ組曲とかバレエ音楽「ボルト」や、編曲作品ですけど「二人でお茶を」みたいな
軽妙な曲を聴いてしまうと、「本当に交響曲第10番を書いた方と祝典序曲を書いた人は同一人物なのか!?」と
心の底から感じてしまうものです。
人間の心の多様性や人は決して一つの感情だけで動くものではないという事を示唆していると感じられます。

ショスタコーヴィイッチのこうした明るく軽い曲と深刻で悲劇的な曲を書けてしまう「二面性」は
高校の頃には、既に何となく気が付いていました。
この事を吹奏楽部の同期で同じくクラリネットを吹いているメンバーに聞いてみると、
「それは中島みゆきも同じだよね~
あんなジメジメと陰々滅々とした曲を書いてしまう人か、オールナイトニッポンのDJではあんなに弾け飛んでしまうからね」と
いかにも中島みゆきファンらしいコメントを発していたのが、何か今でもとても印象に残っていますし、
意外とショスタコーヴィイッチの本質を突いているのかもしれないですね・・・
ショスタコーヴイッチの交響曲は、何と言っても圧倒的に交響曲第5番が有名ですし、
この交響曲第5番の人気&演奏頻度&録音頻度は突出していると思います。
ショスタコーヴィッチの交響曲で五番(革命)の次に有名で演奏頻度やCD録音が多いのは交響曲第7番「レニングラード」
なのかもしれないです。
交響曲第5番はどちらかというとオーソドックな内容で、解釈によっては苦悩→歓喜という内面的側面を描いた曲とも
言えそうですけど、
交響曲第7番の方は、どちらかというと外面的効果の方が強いような印象もあったりしますし、
分かり易さとか演出効果という観点では、7番の方が際立っているような感じもあったりします。
ちなみにですけど、私自身がショスタコーヴィッチの交響曲で5・7番以外で大好きな交響曲と言うと、
演奏時間が25分と短いのですけど、まるでおもちゃ箱をひっくり返したかのような可愛らしさと楽しさと毒に
溢れている9番とか、ショスタコーヴィッチの当時のソ連を牛耳っていたスターリンに対する恨みつらみを
辛辣に表現したとも言えますし、同時に「人間の死は本来悲しいものなのに、スターリンという人物が死なない限り
ソ連の人民に幸せはやってこない・・」という矛盾を見事に表現した交響曲第10番も素晴らしいものがあると
思っています。
それとショスタコーヴィッチがわずか19歳の時に作曲した交響曲第1番の純音楽として純粋に音楽と音の響きを
作曲者自身が自由に追求した作品も素晴らしいと感じます。

ショスタコーヴィッチが残した15の交響曲の中から一つだけ選びなさいと言われれば、
私が迷うことなく選ぶのは交響曲第7番「レニングラード」なのだと思います。

交響曲第7番「レニングラード」を少し歴史的に見てみると・・・

この交響曲は第二次世界大戦という戦時中の大変緊迫した局面で生み出された曲なのです。

第二次世界大戦中、序盤の段階で優勢に戦局を進めていたヒットラー率いるナチス軍は
ソ連への侵攻をも決定し、序盤はかなりの成果を収め、あとわずかでレニングラード陥落という所まで
ソ連軍を追い詰め、レニングラードというソ連の第二の首都と言うべき街を完全包囲してしまいます。
「レニングラード」は、ドイツにとってもソ連にとっても防衛上・経済上の大事な拠点であり、
ナチス・ドイツにとっては、「このレニングラードを占領できれば、ソ連崩壊は時間の問題」という認識であったと思われますし、
ソ連にとっても「レニングラード攻防戦は、ソ連の生命線」という事で、
両軍の歴史に残る熾烈な激戦が繰り広げられていったのでした。
そして戦闘開始早々にナチスドイツ軍は、レニングラードを包囲し、ソ連軍を追い詰めていったのでした。

ナポレオンのロシア侵攻と同様に、ナチス・ドイツ軍はロシアの冬将軍と言うべき寒気とも戦わなくてはいけなかったのです。
そして、ドイツ本国からの援軍も乏しい中で、結局はナチスドイツ軍の降伏という結果になったのでした。
そしてこのドイツ軍のレニングラード包囲失敗と降伏は、第二次世界大戦全体の転記ともなり、この後はドイツ軍は
坂道を転げ落ちるように敗北を繰り返し、無条件降伏という完全敗北という結果で第二次世界大戦はようやく終焉を
迎える事になります。

当時、ショスタコーヴイッチは、このレニングラードにて音楽院の教授をしており、
激戦のレニングラードにて、そしてナチスドイツ軍によるレニングラード完全包囲の中で、
交響曲第7番「レニングラード」を作曲していたという事になるのです。
ちなみに、それは本当に歴史的事実でして、ショスタコーヴイッチ自身、戦火の際に消防士の格好をして
この第二の首都を防衛している写真も残されています。

交響曲第7番「レニングラード」のある意味異様とも思える高揚感というのは、
作曲者本人が直接、戦争に関わっていたからという事に他ならないと思います。
こういう緊張感の漂う異常な迫力のある音楽というのは、恐らくは戦火の最中で無いと書けないような気もします。
同じようなケースとして、
ハチャトゥーリアン/交響曲第2番「鐘」とかプロコフィエフの交響曲第5番にも言えるのかもしれないです。
こうした曲は「戦争」という一種の極限状態でないと書けないような雰囲気は間違いなくあると思います。

それにしてもこの交響曲第7番「レニングラード」の演奏時間はとてつもなく長いです。

全四楽章構成ですけど、演奏時間は軽く75分を超えます。
第一楽章だけで27分程度を要します。
この交響曲を私自身が生の演奏会で聴いたのは平成に入って以降でして確か1990年の
東京文化会館で開催された都響の定期演奏会だったと思います。
(指揮は井上道義でした)

この交響曲を生で聴いてみると、CDでは分からないような事も色々と分かり大変面白かったです。
実は第二楽章以外の全ての楽章で、バンダ(別働隊)が加わるという事も生の演奏会を聴いて初めてわかりました。
このバンダは、特に第四楽章で効果的に使用されていたと思います。
また、CDで聴く限りでは、この交響曲で使用される「小太鼓」(スネアドラム)は一台だと思っていたら、
なんと3台も使用していたのですね!
原曲のスコア上の指定は小太鼓は2台ですけど、その後何回かこの交響曲の生演奏会を
訊いた感じでは、2人の場合もありましたし、3人の場合もありました。

交響曲第7番「レニングラード」の最大の特徴というか聴きどころは何と言っても第一楽章だと思います。

冒頭は、幾分快活に始まっていくのですけどすぐに悲痛な感じが随所に表れてきます。
何となくイメージとしては、「祖国のために戦ってこよう!」と勇ましく戦場に出かけた兵士が、戦争という実際に
流血と死が向かい合わせの場所と直面し、
「本当にこれでよかったのか・・・、自分の選択は間違っていなかったのか?」などと思い悩むようにも感じられます。
それはベトナム戦争を背景にした映画「プラトーン」の主人公と同じような感覚なのかもしれないです。
曲が開始され、6分が経過した辺りから、突如、小太鼓が一定のリズムを延々と叩き始め、その小太鼓のリズムに乗っかる形で
様々な楽器がメロディーを担当し第一楽章を展開していきます。

第一楽章は、ある意味において、ラヴェルの「ボレロ」を参考にしているようにも感じられます。
小太鼓が終始一定のリズムを叩く中で、オーボエ・ファゴット・フルート・クラリネット等の管楽器のソロを
交えながら徐々に高潮していくスタイルを取っていて、
ボレロをパクったというよりはボレロのコロンブスの卵的なアィディアを新しい感覚で応用したとも言えるのだと思います。
オーボエとファゴットの掛け合いの部分が私的には大変気に入っています。
ボレロの場合、優雅に静かにゆったりと徐々に徐々に盛り上がっていくのですけど、
レニングラードの場合、かなり早い段階から金管セクションが咆哮し、小太鼓もいつの間にか2台目、3台目と加わっていき、
テンポもどんどんヒートアップしていき、最後は破綻するかのように全音で爆発していき、ボレロの部分は終焉を迎えます。
ラストは、小太鼓のボレロのような繰り返しのリズムが弱奏で刻まれる中、
ミュートを付けたトランペットの幾分寂しそうな感じというのか、
「まだまだ戦争は続いている」といった暗示のような感じで静かに閉じられるというのが
ショスタコーヴィッチとしてのリアルティー表現と言えるのかもしれないですね。
ラヴェルのボレロは、最後の最後で、それまで保っていた形式美を崩壊させるといったラヴェルの悪趣味を感じさせてくれます。
ショスタコーヴィッチの場合はそうした悪趣味というよりは、戦時中でないと書けないみたいなリアルティーの方が強いと
感じられます。

小太鼓がある一定のリズムを刻み、これに管楽器・弦楽器が絡んでいき盛り上がっていくというボレロの手法を用いた曲として、
交響曲第7番「レニングラード」~第一楽章以外の楽曲にも吹奏楽オリジナル作品や管弦楽曲でも珠に見られる事もあります。
少しばかり一例を挙げてみると・・

〇橋本國彦/交響曲第1番第二楽章

〇アーノルド/組曲「第六の幸福をもたらす宿」~Ⅲ.ハッピーエンディング

〇兼田敏/ シンフォニックバンドのための交響的音頭

〇ヨハン・デ・メイ / 交響曲第1番「指輪物語」~Ⅴ.ホビットたち

などか挙げられるのかもしれないです。

この交響曲は第一楽章だけで既にお腹一杯・・という感じもあったりします。

第二楽章と第三楽章は、比較的静かな感じの音楽です。
第二楽章のもの哀しいオーボエのソロが印象的なのですけど、
唐突に小太鼓やら金管セクションが乱入し、突如曲は激しく高揚します。
瞬間的に「平和」が来たけどまだまだ戦火は続いているといった現実の空気の重さを反映しているようにも聴こえます。
第三楽章は、とにかく清らかで美しいと思います。
「この美しい国土を穢す事は許されない」といった悲壮感も漲っていると思います。
そして第三楽章から休みを挟むことなく第四楽章に繋がっていき、
最後は、高らかに讃歌が歌い上げられていき感動的に曲は閉じられていきます。

だけど、この交響曲は、決して勝利を祝う曲ではないなと感じます。

勿論、ドイツ軍によるレニングラード包囲網を撃破したという事実はあるにせよ、
戦争はまだまだ続いているという感じが漂いますし、第一楽章もそうなのですけど、第四楽章を聴いてしまうと、
何となくですけど、「助けて! 、この閉塞的な状況から自分達を開放して!!」といったようなSOSのサインというのか
内面の叫びのようなものを感じ取ってしまいます。

「ショスタコーヴイッチの証言」と言う口述形式の自伝を読んでみると、
「このレニングラード交響曲とは、スターリンが破壊し、ヒットラーがとどめの一撃を加えたレニングラードの悲劇」と
言っていますけど、それとはまた違うような感じがあったりもします。
(あの「証言」という本自体、偽作・創作という評価しいまだに拭い去られていません)

どうして人間と言うものは、いつまでたってもこんな愚かな行為を繰り返しているのだ・・
少しは過去の歴史から学習しなさいといった教訓的メッセージも感じとりますし、
確かにこの戦争には勝利を収めたものの、それがいったいどうしたというのだ・・この戦争で失ったものはあまりにも大きい・・
そうした心の空虚感をどうすればよいのだ・・という内面の叫びというのか、
当時のソ連の国民の心の本音を交響曲に託したと言えるのかもしれないです。
スターリン時代のソ連には「戦争に勝つには勝ったけど、その代償はあまりにも大きいし心に埋める事が出来ない喪失感を
もたらしてしまった・・」という国民の本音は口する事が出来なかったし、それをうっかりポロッ・・といった事が
密告によってばれてしまうと強制収容所送りになってしまう危険性もあったとは思うのですけど、
そうしたソ連全体に流れていた閉塞感を、交響曲第7番「レニングラード」はまだ戦時中の作品なのですけど、
もしかしたらそうした戦後の閉塞感を既に予感してショスタコーヴィッチは作曲の筆を勧めていたのかもしれないです。
第一楽章のボレロの部分の迫力と第四楽章の圧倒的讃歌による大音響とか外面的効果を追求した作品という評価が
言われがちでもあるのですけど、実際はむしろ内省的な交響曲と言った方が宜しいのかもしれないです。

この交響曲第7番「レニングラード」を通してショスタコーヴィッチが後世に伝えたかったこととしては、
「侵略してきたヒットラーも悪いのだけど、スターリンだって、レニングラード攻防戦等全体の指導力とカリスマ的采配は
一定の評価をすべきなのかもしけないけど、この戦争開始以前にスターリンがソ連国内で行ってきた粛清の
悲惨さはあまりにも凄惨過ぎて言葉すらも出てこない。
戦争が起こった事で、スターリンの怒りの矛先がヒットラー=ドイツ軍に向けられ、国内の粛清は
収縮の傾向があり、その意味においては皮肉の話だが、戦争がソ連国内においてはある意味救いみたいな
側面もあったのかもしれない。
その意味において、ヒットラーも犯罪者だがスターリンだって決して英雄ではないし、むしろヒットラーと大して変わりが
ない犯罪者なのだ!」という事を言いたかったのかもしれないです。

音楽之友社から出版されている「名曲解説全集」において、このレニングラードの解説を担当されていた戸田邦雄氏は、
「外面的音楽効果に頼り切っていて大音響の表面的効果にばかり依存している」みたいな事を
書かれていたと思うのですけど、
私としては「それは違うでしょ・・」と感じざるを得ないです。
この交響曲は、決して大音響・ボレロ形式の借用・バンダといった表面的効果だけを意図した曲ではないと思います。
上記でグタグタと書いた通り、
内省的な側面とか作曲者の意図・裏読みが窺えしれる曲であり、決して単純明快でわかりやすい祝典的な
戦勝気分の曲では無いという事なのだと思います。

この曲をCDで聴く場合、
前述のSOSサインみたいな感覚を求めたいのならば、ゲルギエフ指揮が合っていると思いますし、
勧善懲悪の如く「ヒットラー軍を撃破した!」みたいな感覚を求めたいのならば
バーンスタイン指揮やネーメ・ヤルヴィ指揮をお勧めしたいと思います。
日本組曲と題する作品は、伊福部昭の楽曲や貴志康一の組曲、はたまた近衛秀麿の組曲があったりしますけど
(私自身、1997年に小松一彦指揮、サンクトペテルブルク交響楽団の日本公演で貴志康一の日本組曲を初めて聴き、
戦前作品とは到底思えない斬新さにびっくり仰天したものでしたし、最後の楽章が「戦死」というのもいかにも当時の世相を
反映したものだと感じたものでした・・)
実は組曲「惑星」でお馴染みのイギリスの作曲家で、吹奏楽経験者の皆様にとっては「吹奏楽のための第一組曲」という
まさに吹奏楽のバイブル的作品で馴染み深いG.ホルストにも「日本組曲」という作品があったりもします。

ホルストが日本組曲という曲を作曲しているという事を御存じの日本人はかなり少ないと思いますし、そうした話を展開すると
「それではホルストは実は大の日本びいきとか日本に造詣が深い作曲家なのか・・?」と誤解をされる方も多いと思われますが、
ホルスト自身は日本や日本の楽曲の事は全く知らなくて、
20世紀初めの頃に欧米で活躍した日本人舞踏家の草分け、伊藤道郎の依頼によりバレエ音楽として作曲された経緯が
あるとの事です。
但し伊藤さん自体はホルストの日本組曲をベースにしたバレエを上演した事は実は一度も無いとの事です。
もう少し詳しく書きますと、当時ロンドンコリージアム劇場で活躍していた日本人舞踏家の伊藤道郎から、
日本の旋律を使った作品を書いてほしいと頼まれて、どちらかというと渋々作曲の依頼に応じたとの事です。
ホルストが「自分は日本の事も日本の民謡等もなんにも知らないし今まで聴いた事も無い」と言っていたので。
伊藤道郎自身が日本の旋律のいくつかを口笛で吹き、それをホルストが楽譜として採譜し、そのレクチャーを元に
作曲が進められていった経緯があるそうです。

そしてこの日本組曲を語る上での意外な事実というと、ホルストの残した作品の中で最も人気と知名度が高く、
現在でもCDのリリースと演奏会での演奏実績が大変多く、20世紀最大のヒットクラシック音楽としても名声の高い
組曲「惑星」とほぼ同じ時期に作曲が進められています。
組曲「惑星」の作品番号は作品32ですけど、日本組曲は作品33です。
組曲「惑星」作品32は、1914年に火星の作曲が始まり、この年に金星と木星が完成し、翌年の1915年に
土星、天王星、海王星が作曲され、最後に水星が作曲されこの組曲は完成します。
そして日本組曲は1915年に突然作曲を始め、日本組曲を作曲している頃に一旦組曲「惑星」の作曲の筆は事実上中断され、
日本組曲が完成した後に再度惑星の作曲へと戻っているそうです。
日本組曲の第三曲の「操り人形の踊り」は、「惑星」の第3曲・水星作曲の直前に作曲された経緯があるため、
惑星の水星と日本組曲の操り人形の踊りは雰囲気と曲の性格がよく似ていると言われるのは、こうして考えてみると
「作曲時期がほぼ同じだから似ているのも当然なのかもしれないね~」と言われるのはごく当然なのかもしれないです。
そして更に細かい事を言うと、
日本組曲の操り人形の踊りは、ホルストが日本の「文楽」をモチーフに描いた曲であるとも言われているそうでして。
「惑星」の水星、の中でも使われていると言うクロスリズム法という作曲テクニックが両曲においてかなりの共通性が
見られるというのも大変興味深いものもあったりします。

ちなみに日本組曲は1916年にホルスト自身の指揮でロンドンで初演を果たしています。

この日本組曲は、6つのパートに別れている舞踏曲でもあり、組曲「惑星」の様にはっきりと曲が別れている楽章形式ではなくて
6つの部分は休む間もなく続けて演奏されるように指示されていて、演奏時間は10分程度です。

日本組曲は4つの短い舞踏と前奏曲・間奏曲の付いた6曲から構成されています。


1.前奏曲 - 漁師の歌
2.儀式の踊り
3.操り人形の踊り
4.間奏曲 - 漁師の歌
5.桜の木の下での踊り
6.終曲 - 狼たちの踊り

日本組曲は、日本の民謡・童謡等を特に変調・変奏することもなく「ぼうやー、よいこーだーねんねーしーなー」などと
そっくりそのまんま引用している箇所がかなり多く、「そのまんまやねん・・!」と思わず関西弁でツッコみを入れたくもなって
しまいそうです。
「お江戸日本橋」とか「ぼうや、良い子だ、ねんねしな」というあの親しみやすいメロディーが
特に変奏とかされる訳でもなく、そのまんま使用されることは驚きでもあったりします。
全体としては決して明るい曲ではなくて、少し陰鬱な雰囲気も感じたりもします。
この日本組曲は異国情緒漂う曲と言うのは決して間違いではないと思うのですけど、例えば同じ異国情緒というテーマを
扱いながらも例えばラヴェルの「スペイン狂詩曲」などは、自分のスペインに対する想いをフランス人の感覚から
自己流に昇華したともいえそうなのに対して、ホルストの日本組曲は、そうした異国情緒を特に自分の気持ちに
照らし合わせるという事もなくて、レクチャーされた日本旋律をそっくりそのまんま使用している点がラヴェルとの大きな違いと
言えるのかもしれないです。
第5曲「桜の木の下での踊り」は、「五木の子守歌」の旋律がフルートによって示されそれがファゴットに引き継がれ、
こうした日本的抒情的な旋律が更にコールアングレに引き継がれ、さらには弦楽器に、
最後はフルートとコールアングレが奏し第6曲に継承される展開を経るのですけど、
この第5曲が最も日本らしい情緒がストレートに伝わっていると思います。

この知る人ぞ知る珍曲でもある「日本組曲」は昔はボールド指揮ぐらいしか音源がなかったのですけど、最近では
ポニーキャニオンからユウン指揮の演奏やナクソス盤もありますので、興味ある方は是非ぜひ一度聞いて頂ければ
幸いです。

最後に・・久しぶりにホルストの話題がでましたので、組曲「惑星」についてほんの少しだけ触れたいと思います、

組曲「惑星」は明るく開放的でイメージが非常にしやすい曲で私も大好きな曲です。
特に第Ⅰ曲「火星」のホルンの雄叫びをはじめとする金管楽器群の咆哮はいつ聴いてもスカッとさせられるものがあります。
何か落ち込んでいる時とか気分を奮い立たせたい時には、この「火星」はぴったりだと思います。
特にレヴァイン指揮/シカゴ響の演奏の「火星」を聴いてしまうと、
他の演奏が全て物足りなく聴こえてしまうほどの大音響&大迫力があって、この演奏は是非是非
お勧めしたいと思います。









「火星」の中で、ユーフォニウムと言う管弦楽の世界では馴染みがない楽器が使用され高音域のソロを朗々と響かせます。
このユーフォニアムという楽器はアニメ「響け! ユーフォニアム」ですっかりおなじみになった楽器でもありますし、
以前よりは知名度も上がったようにも感じられます。
組曲「惑星」のラストの「海王星」は一転して神秘の曲です。
というか、メロディーがほとんどなく、空間を彷徨い続けるような感じで、無調音楽のように聴こえない事もないです。
ラスト近くで女声コーラスが入りますが、言葉は一切なくハミングするだけです。
この女声コーラスも「フェイドアウト」というクラシックでは非常に珍しい終わらせ方をするので
その点でも印象的です。
実際の生の演奏会でも、女声コーラスは舞台に顔を出すことはなく、
恐らく舞台袖からハミングし、どんどん舞台袖→舞台裏→階段→外という風に声を消していっているように感じられます。

昔の音楽の解説書では、ホルストが惑星を作曲した頃は冥王星は発見されておらず海王星が終曲となったと
記されている事が多いのですが、
現実はつい最近、冥王星自体が惑星の定義から外されることとなり、名実ともに「海王星」が組曲「惑星」の終曲となった事は
何だか面白いものがあります。

そう言えば、1990年代後半に、「冥王星が惑星の一つと定義付けられていた時に
マシューズという作曲家が組曲「惑星」の続編という形で「冥王星」を作曲していた事もありました。
この曲は、海王星で使用した女声コーラスを再度用いている事と作風が海王星的な無調的空間を彷徨うな曲である事が
特徴で、ホルストの特徴もうまい具合に微妙によく出ているような気もして、悪くはないと思います。
1999年4月の大友直人指揮/東京交響楽団の定期演奏会で
組曲「惑星」の演奏が終了と同時にこのマシューズの「冥王星」も演奏され、
それほど違和感がなかった事はよく覚えています。
マシューズの「冥王星」のラストが女声コーラスの「オー」という音の引き延ばしで終わるのは大変印象的でもありました。



「ウルトラセブン」は、円谷プロダクション制作による空想特撮シリーズ第3弾にしてウルトラシリーズ第4作目なのですけど、
そのドラマ性・キャラクターの魅力・ストーリーとしての素晴らしさなど総合的に考えるとウルトラマンシリーズとしては
最高傑作であるという評価も十分成り立つようにも感じられます。
前作の「ウルトラマン」がどちらかというと自然現象としての怪獣が敵であるというパターンが多かった中、
ウルトラセブンの敵とは言うまでもなく明確な侵略の意図を持った宇宙人という事になるのですけど、
その宇宙人が地球を侵略するにもなにかしらの理由があめのではないかとか、ウルトラセブンが守るべきものとは
地球や地球人であるのですけど、果たして自分勝手な理屈ばかり並べる地球人そのものが本当に「守るべき対象」で
あるのかどうかも含めて結構シリアスな側面も含まれており、単純な勧善懲悪的側面だけの特撮ものではない事は、
ウルトラセブンの放映時期が1967~68年という時代を考慮するととにかく画期的な記念碑的な作品と言える事は
間違いないと思います。

ウルトラセブンで登場していた話と宇宙人として私的に印象的な回は何なのかというと、一例を挙げると
「狙われた街」のメトロン星人・「ウルトラ警備隊、西へ」(前・後)のキングジョー・「人間牧場」のブラコ星人・
「北へ還れ!」のカナン星人・ 「ノンマルトの使者」 の蛸怪獣ガイロスと海底人ノンマルト 、
「セブン暗殺計画(前・後)」の ガッツ星人 、 「第四惑星の悪夢」の ロボット長官、ロボット所長、第四惑星人などが
挙げられると思うのですけど、そうした中でも特に光り輝いているというのか感動的な回が
最終回の前後編における「史上最大の侵略者」なのだと思います。

最後の戦いに挑むモロボシ・ダンがアンヌ隊員に自らがウルトラセブンであることを告げる印象的なシーンのBGM
として効果的に使用されている楽曲がシューマンのピアノ協奏曲~第一楽章冒頭です。
ダンがアンヌ隊員にぼくは・・・、実はウルトラセブンだったんだ」と衝撃的に告白するシーンが終わると同時に
シューマンのピアノ協奏曲冒頭の「ジャン!! ダダン・ダダン!!」が鳴り響きますのでこれはかなりインパクトがあると思います。
ちなみにウルトラセブン最終回のシューマンのピアノ協奏曲で登場していたピアノのソリストは
ディヌ・リパッティという33歳で夭逝したそのあまりにも早すぎる死が惜しまれる若きピアニストでもありました。
リパッティは1917年ルーマニアに生まれ、1950年に、わずか33歳の若さで白血病(厳密には悪性リンパ腫のホジキンリンパ腫)
のためにこの世を去った天才型のピアニストなのですけど、亡くなる直前までほぼ気力だけで演奏会のステージに立ち続け、
特に得意としてきたショパンのレパートリーにおいて、生来のバランス感覚に基づいた清潔な叙情と繊細なデリカシーを
遺憾なく発揮されていて聴く者の胸を打つものは間違いなくあると思います。
第二次世界大戦の勃発により国を転々とします
リパッティはその短い生涯はほぼ全て戦争に振り回され、第二次世界大戦が終結しやっと落ち着いて
ピアノに専念できる時間が出来た時に、悪性リンパ腫のホジキンリンパ腫を患ってしまい、
激痛と高熱に戦いながら演奏活動とレコーディングをされていたとのことです。
リパッティのピアノの特筆すべき点として特に強調しておきたい点は、瑞々しい感性と
ペダルを極端に踏まないという奏法を重視し、音を伸ばすところはしっかり伸ばし切るところはしっかりと切るという
ピアノの本来の基本技術を素直に演奏に取り入れた点も挙げられると思います。

ウルトラセブンの最終回が放映されていたのは1968年で、そのBGMとして使用されていたリパッティソリストによる
シューマンのピアノ協奏曲がフィルハーモニア管弦楽団・カラヤン指揮で演奏・録音されたのは1948年ということで、
正直録音もアナログ録音に近いものがあり、決して良好な録音状態ではないですけど、当時のウルトラセブンのスタッフの
皆様のシューマンピアノ協奏曲を選曲し、そのソリストにリパッティの演奏を選択した感性の素晴らしさと見識の高さには
強く敬意を表させて頂きたいと思います。
ちなみに冒頭の画像は、2018年のウルトラセブン最終回放映から50年が経つという記念すべき節目に合わせて、
最終回のBGMとして流されていたリパッティソロによるシューマンのピアノ協奏曲とグリーグのピアノ協奏曲が
新規DSDリマスターでの復刻販売が実現され、そのCDジャケットでもあります。
このCDは限定販売で特別仕様としてのウルトラセブンとリパッティが描かれたジャケットと別冊40Pブックレットの特典も
当時は付属されていたとのことです。

シューマンの「ピアノ協奏曲」は私自身は結構昔から大好きな協奏曲でもあります。

聴いているだけで凛としたものというか張りつめた瑞々しさみたいなものを感じてしまいますし
第一楽章冒頭のあの何とも言えない哀愁と凛とした決意みたいなものは聴くだけでやはり「何か」を感じてしまいます。
出だしはいきなりピアノの「ジャン!! タタン・タタン」で唐突に開始されるのですけどそれに続くオーボエのソロがあまりにも
美しすぎてこの冒頭の部分だけでも私は一撃でKOされてしまいそうです。
冒頭で記したとおり、ウルトラセブンの最終回でこの曲が選曲されたというのも十分妥当なのだと思います。

面白い事にこの協奏曲は、グリーグの「ピアノ協奏曲」とカップリングでCD化される事が多いと思います。
(前述のとおり、リパッティの復刻版もグリーグとシューマンのピアノ協奏曲が収録されています)
雰囲気が似ている訳でもないし、音楽の方向性は全然バラバラだし、あまり共通性はないと思うのですが、
似ていると感じるのは強いて言うと冒頭の出だしなのかもしれないです、
グリーグは、ティンバニのトレモロのクレッシェンドが終わると同時にピアノがすぐに入らないといけないし、
シューマンは、管弦楽団のジャンという第一音の次の瞬間には演奏がスタートしなくてはいけないし、
二つの協奏曲ともにその出だしはかなり神経を使うのは間違いないと思います。

グリーグのピアノ協奏曲は、一言で言うと抒情性の高い誇り高き協奏曲という感じなのですけど、
シューマンの方は、どちらかと言うと協奏曲というよりは、シンフォニーのようにも
聴こえるくらい、管弦楽との融合性が高く感じられる曲です。
シューマンの場合、協奏曲というよりは、ピアノと管弦楽のためのファンタジーとも言えるような構成に近いと思います。
グリーグの場合、ピアノが完全に主役で、管弦楽団はピアノの引き立て役という感じが濃厚です。
シューマンの場合、ピアノとオーケストラが完全に一体化しているような感覚もありますし、
特に第三楽章の、ピアノとオーケストラのかけあいの場面は、完全に一つの楽器として融合しているような感じさえします。
だけど、シューマンのあの第三楽章のソリストは大変だと思いますね。
あんな難しいパッセージを変調に次ぐ変調を重ねながら休み無しに一気に駆け抜けていく様子は、
スピード感とか爽快感というよりは、むしろ「気高い美しさ」みたいなものを感じてしまいます。
チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲」は、見方によっては管弦楽団とソリストのバトルというのか
「やられたらやり返す」みたいな雰囲気すら漂う音楽の格闘技みたいな雰囲気すらありますけど、
シューマンの場合、本当に優雅と言うか、
確かに第三楽章のソリストと管弦楽団の掛け合いはバトルに近いものもあるのですけど
間違いなくこの第三楽章は、オーケストラとピアノはほぼ完璧に一つに溶け合っていると思いますし
その幻想的融合性は、お見事の一言に尽きると思います。

それにしても改めてシューマンのピアノ協奏曲のソリストは大変ですよね。

第三楽章の変調の変調につぐ指使いの難しさもそうですし、一般的にピアノ協奏曲の第一楽章の冒頭は
1~2分程度の管弦楽による前奏や主題提示があり、ピアノソリストはその間の心の準備ができそうなのですが、
第一楽章の冒頭からすぐに登場しないといけない難しさやタイミングの難しさはソリスト泣かせのものがありそうです。

確か1998年秋だったと記憶していますが、パスカル=ヴェロ指揮での新星日響の定期演奏会での
二曲目のシューマン/ピアノ協奏曲にて、ソリストが椅子を調性しあとは指揮者がタクトをおろすのを待つのみという
その演奏開始直前に突如、ソリストが、「ノンノンノン!」みたいな言葉を発し、唐突に舞台裏に消えて行ってしまった事も
ありました。
そして3分くらい経過して、何事もなかったかのように再度ピアノに座り演奏が開始され、演奏も無難に終わらせていました。
結局あの時何が起きていたのかは今現在でも謎ではあるのですけど、ソリストもシューマンのあの出だしのプレッシャーに
瞬間的に負けてしまったのかもしれないですけど、とにかく珍しい体験でもありました。

音楽というか、ライヴ演奏においては、 ありえないミスとか想定外の事故というものはプロといえどもありうると思いますし、
人間が行うものですので予想外の出来事というのはあるのだと思います。

私が、過去において見かけた吹奏楽コンクールの演奏中での事故はいろいろとありましたけど、
一番笑ってしまったのが、トロンボーン奏者が、ついついうっかりスライドがポロっと抜けてしまい、
前方のサックス奏者の後頭部を直撃した事なのかもしれないです・・(汗・・)
他にも、ヴィヴラフォーンの電源コードに打楽器奏者の足が絡んでしまい打楽器奏者が思いっきり壇上で転倒したりとか
指揮者の指揮棒がすっぽ抜けてコントラバスを直撃したりとか色々ありますよね~
こういう事って全国大会でもたまーにあったりするものでして、 一つの事例として、
1980年の全国大会・中学の部で、山王中学校が、自由曲のバレエ音楽「四季」の演奏中に
打楽器奏者が間違えて、サスペンダーシンバルのスタンドを倒してしまい
本番中なのに、ガッシャーンと結構すごい音を立てていた事もありました。
(この音は「日本の吹奏楽80」というレコードの中にもしっかりと収録されています)

最後に再度話をウルトラセブンに戻しますと、私自身ウルトラセブンを始めてみたのは当然リアルタイムではなくて、
たぶん再放送か再々放送だったと思います。
私自身、子供のころは実はこうした特撮もの、仮面ライダーや戦隊ものはあまり興味がなく、クラス内でも
男子児童が夢中になって当時の仮面ライダーやウルトラマンタロウや戦隊ものの話題をしている中で、
私は女の子たちと一緒に当時放映されていた魔法少女系の話ばかりしていたのですけど(汗・・)
それでも「ウルトラセブン」は別格だと思います。

ダンもよかったしキリヤマ隊長もかっこよかったですし、やっぱりアンヌ隊員はすてきなお姉さまだと思います~♪

そしてウルトラセブンで登場するウルトラ警備隊の一人にフルハシ隊員がいるのですけど、
それが実は毒蝮三太夫というのもすごい話なのかもしれないですね~
毒蝮三太夫は初代ウルトラマンでもアラシ隊員として出演をされていましたので、2シリーズ連続で隊員として出演を
されていたという事になるのだと思います。
今現在は、TBSラジオの「大沢悠里のゆうゆうワイド」内ではなくて毎週金曜日の「たまむすび」のみの
毒蝮三太夫の「ミュージックプレゼント」というコーナーにとどまっていますが、
そこで登場する毒蝮三太夫は、「このくそババア!」とか「このくたばりぞこない!」とか等の名毒舌ですっかりお馴染みで、
今現在はお年寄りのアイドルと誉れ高いお方なのですけど、ウルトラセブンやウルトラマンでの隊員としての出演を
知る者にとっては「えらい変わりようだけどそれはそれでとても面白い」と感じさせるのは毒蝮三太夫のすてきなお人柄と
年寄り愛なのだと思います。
そしてなによりも毒蝮三太夫は、ウルトラセブンの頃から基本的に風貌・喋り方・声のトーンがあまり変わっていないのは
驚きでもあります。

私が中学・高校で吹奏楽部にいた頃は、嵐という名前の部員がいました。
中学では顧問の先生から、高校では先輩からほぼ例外なく毒蝮というあだ名を付けられていましたけど
それは時代としてはむしろ普通の感覚だったといえるのかもしれないですね。
本記事のひとつ後の記事が「ウルトラセブン」最終回のBGMとして効果的に使用されたリパッティ独奏による
シューマンのピアノ協奏曲でしたけど、リパッティというワードが登場しましたので、
ここではリパッティに関するちょっとしたエピソードをご紹介させて頂きたいと思います。

ひとつ後の記事で書いたとおり、リパッティは33歳の若さでこの世を去ったピアニストなのですけど、
亡くなる寸前までほぼ気力だけで演奏会のステージに立ち続けた事もあり、この当時はまだ録音技術も未熟で
録音された音源もモノラルに近いような音質ばかりなのですが、リパッティが残した録音や演奏会でのライヴ録音は
いまだに高い評価を受けています。

そうした中、EMIレーベルはリパッティがピアノソロを務めたとされるショパンのピアノ協奏曲第1番を収録したレコードを
発売したことがあり、発売当時は当時の著名な音楽評論家の皆様がこぞって
「さすがリパッティ! これは魂の込められた気迫溢れる演奏だ」
「この上品で洗練された繊細なタッチはリパッティならではのものだ」
「なんという天国的な色彩」
「この精緻な演奏はリパッティ以外の何者ではない」
などと大絶賛をされていたものでした。

しかし当初の発売から30年後にそのEMIから「実はリパッティソロとされていたあの録音は、リパッティの演奏ではなくて
ステファンスカという女流ピアニストによる演奏でした・・」と発表したものでしたので、
当時のクラシック音楽業界は一部において大混乱と醜態をさらす形となり、
結果的に本当はステファンスカのソロなのに「さすがリパッティ」とやたらと持ち上げていた当時の評論家の先生たちは
大恥をかく事になっていたものでした。
たぶん当時の高名な音楽評論家の先生たちは「リパッティ」という名前だけでろくにその音源を聴かないまま
「リパッティソロだから間違いはないだろう・・」みたいな勝手な思い込みと妄想だけでそうしたヨイショ評論をしてしまったと
いえるのだと思いますし、
改めて日本人というものは、権威とか名声に弱いということを白日の下にさらけ出したという事なのだと思いますし、
私たち聴く立場の人間としても、音楽評論家がそういっているのだから間違いはないのた゜ろう・・という感覚ではなくて
大切なのは自分自身の感覚という事なのだと思います。

この話はなんとなくですけど、中学等の国語の教科書ではお馴染みの作品の菊池寛の小説「形」に近いような話と
いえるのかもしれないです。

そして改めてですけど、同じ演奏でもそれを聴く人の感性・感覚によってとらえかた・評価は異なるもので、
高名な評論家がそういうのだから間違いないということではないですし、その音楽評論家ですら、聴く人によって
まったく同じ演奏でも真逆の感想になってしまうということはよくある話なのだと思いますし、むしろそれが人間らしいと
いえるのかもしれないです。

そうした音楽評論家でも同一演奏でも評価は真逆という事は吹奏楽コンクールでも全然珍しい話ではないと思います。

一例を挙げると大変古い話になるのですけど、1979年の弘前南高校の「小組曲」もそうなのだと思います。

1979年の弘前南高校の演奏は、斎藤久子先生最後の指揮の演奏となりましたが、
課題曲のはつらつとした気持ち、自由曲の上品さ、その対比が素晴らしかったし
小組曲のフルートソロが抜群に美しかったですね。
木管セクションの透明感も金管の抑制とかコントロールも申し分なかったと思います。

だけど面白い事に、後日のBJの講評では、辛口で有名な上野晃氏は、
「音色のバランス・コントロールまで手が回らず、指揮者の不相応な高望みが招いた破綻」と酷評をしていますが、
吉田友紀氏の評は「原曲の雰囲気を壊さず素晴らしい演奏」と高い評価を受けています。
やはり人によって感じ方は違いますし、
コンクールの審査員の評価が絶対的なものではない事の象徴かもしれないです。

余談ですけど、過去のBJの審査員とか批評家のコメントを今更眺めていると興味深い事例もいろいろとあったりします。

その一つの事例が、1976年に奈良県の吹奏楽の超名門高校の「天理高校」が、支部大会と全国大会で
同じ課題曲と自由曲を演奏した際、全く同じ批評家から
全く真逆の事をコメントされている記事を見つけた際は、結構驚いたものです。

1976年の天理高校は、課題曲B/吹奏楽のための協奏的序曲・自由曲/皇太子のための祝典音楽(陶野重雄)でしたけど、

関西大会でのBJの演奏評は辻井市太郎という当時の大御所先生が担当され、
「自由曲は初めて耳にする曲であり、アメリカで出版されたものとの事だが、
天理であるからこそ立派に演奏できたとの印象を受けた。
その上、天理の有する独特のサウンドが聴く者を更に納得させた」という大変ベタ褒めコメントをされていました。

しかし、全国大会でのBJの演奏評は同じく辻井市太郎氏が担当していますが、
(この年、審査が異常に厳しく、天理ですら銅賞という大変厳しい評価を受け、決して万全な演奏では無かったのですが)
この時は「自由曲はコンクールに適応していないものである。世界の名曲に混じって、
いかに高度な技術を有する天理であっても曲そのものの格調を変える事は無理だったのだろう。
まずは選曲失敗の範疇に入るものである」

と全く正反対の事を言われていました。

この話は高校時代の吹奏楽部内でも色々とネタになっていて
関西大会の記事を読んだ口の悪い部員が
「おいこら、おっさん、全国大会では何と書いていたんだよ~」などとツッコミを入れていたものでした(汗・・)

今となっては天理の当時の関西大会と全国大会の音源がありませんので検証のしようがないのですけど、
一般的に吹奏楽の世界は、支部と全国では、朝一番という悪条件を別とすると
それほど極端な出来不出来の差は無い事が多いですので、
この辺りも審査員の先生の一つの気まぐれとしての評価なのかもしれないですし、
同じ演奏でも審査員のそのときの気分によって印象が変わる一つの事例なのかもしれないです。

とにかく、大切なことは他人がどういったという事ではなくて、自分自身の感性という事なのだと思います。
私自身、吹奏楽で管弦楽アレンジを含めて色々な曲を吹いたと思いますけど、私自身の主な担当楽器のクラリネットでは、
スコア上では結構な無茶難題がありましたし、無茶振りが相当あったと思います。

こんな高音域出る訳ないじゃん・・・」

この速度設定で、16分音符ばっかりで演奏不能じゃん・・」

なにこの異常に長い音伸ばし・・これってロングトーンとほぼ同じでしょ・・
一体どこでブレス(息継ぎ)すればいいの・・・?

ラとシのトレモノなんだけど、クラリネットのラは一番先端のキーのみのタッチで、
シは全部の指でキーを使う訳で、一体このラとシのトレモノをやれなんて、クラリネットの運指上
出来る訳ないでしょ・・・うーーん、これって何か替え指を発見しろという事なのかな・・・」

スコア上のppppっていったい何?? どれだけ弱い音で吹けばいいのかよく分からない・・

この辺りの愚痴はクラリネットに限らず全ての楽器に言える事だと思います。

作曲者にしては何気なくとかある演奏効果を意図してという事もあるかもしれませんが、 何気なく書いたスコアが原因で
一体どれだけの奏者が現場で苦労したかなんてそりゃ分からないのかもしれないですけど。
作曲者には作曲者としての意図・言い分があるでしょうから、 それはお互いに「言いっこなし」という感じなのかもしれないです。

あまりにも演奏不可の場合は (大抵指揮者に無断で) パート内で「どうやってばれないようにごまかそうか」とか
替え指の情報交換とか、果てには「パート譜をばれない範囲で書き変えてしまおう」と言う事で
一部スコア譜を変更したなーんてこともありましたけど、大抵指揮者に後でバレて怒られしまうのが、
スクールバンドあるある話としては定番ネタなのかもしれないです。
もちろんですけど、勝手にパート譜を変更というのは重大な著作権法違反ですので、健全な奏者の皆様は
そんなことしたらダメですよ~(汗)
現場では著作権法に振れない程度のパート間での調整は結構あると思いますし、例えばストラヴィンスキーの
バレエ音楽「春の祭典」におけるホルンパート、特にソロホルンとファースト担当のホルン担当の超・超高音域は
とてもじゃないですけど全てを吹く事は人間技ではほぼ不可能と思われますので、場合によっては
エキストラがそれほど重要な場面ではない箇所においてソロホルンのパートを吹き、ソロホルン奏者は「ここぞ!」という時を
メインに指定通りのパート譜を吹くと言う事は実はよくある話であると
プロ奏者の方から直に耳にした事はあったりもします。

音量指示があまりにも弱すぎて演奏者が大変な一つの例として、
チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」第一楽章が挙げられると思います。
ちなみにですけどチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は初演時において、元々予定されていたソリストから
「これは演奏不能である」と演奏を拒否され、初演は別の奏者によって行われたという事もあったそうです。
チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」は四楽章構成ですけど、第一楽章から誉れ高い名曲の香りに溢れていると思います。
第一楽章は三つの部分から構成され、 始まりは慟哭のような呻くような陰気な感じで展開され、
第一楽章開始から10分が経過した頃、突然全楽器のfffが鳴り響き、唐突に強奏の音楽が展開され、
そしてラストは再び静粛に閉じられます。


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中間部の唐突な強奏展開の直前に、クラリネットがソロで第一楽章第二主題を吹きますが、
この場面、楽譜の指定はpppなのですけど、
少し進展すると楽譜上の指定はppppとなり、
クラリネットからファゴットに主題がバトンタッチされるあたりの
楽譜上の指定は、なんと!ppppppと「p」(ピアノ=弱く)が六個も付いてしまいます!
これってクラリネットも大変ですけど、
弱音で音量を絞るのは至難の業というファゴットにとっては悪夢としか言いようがないですね。
この場面、奏者はクラリネットとファゴットのほぼ二人だけですので
ミスったら完全にばれてしまうし、指揮者に睨まれてしまうし本当に大変そうですね。

だけど、この極端な弱音の世界から次の瞬間に全楽器で「ジャン!!」という凄まじい強音が叩き付けられ
この部分は、第一楽章前半でウトウトしてしまった聴衆を叩き起こすには十分すぎる効果があると思いますし、
この唐突な場面変化はまさに青天の霹靂という感じすらあります。

こうしたppppppからffffの急激な変化は、すさまじいインパクトを与えますね!
よく「ダイナミクスレンジ」の幅が広いとか狭いとかいう話を聞きますけど
これって単なる音量だけの差異ではないと思います。
チャイコフスキーの悲愴の第一楽章のように、唐突な場面転換の印象度の強さのように
あくまで表現力の幅広さ」のだとも思います。
とくにこうした落差の大きさの起伏が激しい場合は、
特にそうしたダイナミックスレンジの有効活用みたいなものを感じてしまいます。
ま、奏者にとっては大変な厄介ごとを背負い込んだようなものですけど・・(汗)
A.ハチャトゥーリアンというと管弦楽の演奏会でも吹奏楽コンクールの自由曲でも定番なのは
誰がなんといってもバレエ音楽「ガイーヌ」なのだと思います。
以前も書いたと思うのですけど、20世紀に作曲されたクラシック音楽の中で最も知名度というか
「あ・・少なくとも一度は耳にした事があるメロディーだ!」と思われる曲の一つこそが
このハチャトゥーリアンのバレエ音楽「ガイーヌ」~剣の舞なのだと思います。
そして私自身がハチャトゥーリアンというと、艦これの白露お姉ちゃんではないけど「この曲がいっちば~ん!」と思えてならない
曲こそが交響曲第2番「鐘」だと思います!
ただ残念なことにこの交響曲第2番「鐘」は知る人ぞ知る曲の範疇にはいりそうでもあるのですけど(汗・・)
私自身はとにかく私が生きている間に一度でいいからこの交響曲を是非是非聴いてみたい気持ちで一杯です。
マイナーシンフォニーとして音楽史の中に埋もれてしまい、
人々の記憶から忘れ去られてしまうにはあまりにも勿体無い曲の一つと私は確信しています。

これはあくまで私自身の好みではあるのですけど、
アーノルドの交響曲第2番・第4番、ハンソンの交響曲第2番「ロマンティック」、
ウィリアム=シューマンのヴァイオリン協奏曲、
ウォルトンの交響曲第1番、松村禎三の交響曲(第一番)、
コープランドの交響曲第3番、エルガーの交響曲第2番、バーンスタインの交響曲第3番「カディッシュ」、
トゥービンの交響曲第4番、ニールセンのバレエ組曲「アラジン」などは
世間一般的には確かにマイナーなのだけどもっともっと多くの人に聴いて欲しいクラシック音楽だと思いますし、
こうした曲はまだまだ一杯いっぱいあると思いますし、
逆に私自身がまだ知らない音楽も数多くありますので、
「生涯、死ぬまで勉強、勉強」のつもりで、私自身がまだ知らない音楽の事も死ぬ瞬間まで色々吸収し続ければいいなとも
思っています。

ハチャトゥーリアンの交響曲第2番「鐘」もそうした曲の一つだと思います。

確かに位置づけとしてはマイナーシンフォニーというのは分かってはいるのですけど
この曲の素晴らしさが一人でも多くの方に分かって頂ければ、この曲を一度でいいから聴いて頂ける方が表れるとしたら
当ブログの管理人としては、こんなに嬉しい事は無いと思います。

ハチャトゥーリアンの交響曲第2番「鐘」ですけど、タイトルの「鐘」は正式なものではありません。
曲全体を通して鐘が効果的に使われているからという理由での俗称に過ぎないのですけど
「そんなに鐘=チャイムが派手に使われていたっけ・・・?」みたいな感じもあるのですけど、
鐘という響きが何か個人的に大変気に入っているので私は「鐘」というタイトルについては大歓迎という感じです。

この曲が作曲されたのは1943年で、まさに第二次世界大戦というか対ドイツ戦の真っ只中の影響が濃厚で、
この交響曲にはガイーヌ」で提示された様な民族主義的な香りはあまり感じられません。
聴こえてくるのは戦時中という大変な緊迫感だと思います。
とにかく第一楽章から第四楽章に至るまで終始大変な緊張感に包まれています。
その意味では、ガイーヌとか仮面舞踏会とかヴァイオリン協奏曲みたいに気軽に聴けるような類の曲では
無いと思いますし、
比較的親しみやすい作風のハチャトゥーリアンにしては・・・戦時リアリズムの悲劇とか劇的緊張感をかなり意識し
決して気軽には聴くことは出来ない大変重厚感が漂う曲だと思います。
戦争中という異常事態でないと多分書けそうにない本当に真に迫った音楽なのだと思います。
この交響曲第2番「鐘」は戦後間もない頃に作曲された交響曲第3番「シンフォニーポエム」のような能天気な曲ではありません!
交響曲第3番「シンフォニーポエム」のような「明るい、すべてが明るい!!」みたいな前向きな明るさの塊のような曲
ではありませんし、
第一楽章冒頭からして、あの重厚感と悲壮感はとにかく聴いているだけで周囲を壁で囲まれた様な圧迫感すら
感じさせてくれていると思いますし、
第三楽章の悲劇的アダージョの金管セクションとドラの哀しみに満ち溢れた咆哮は胸がギューーーッと引き締まる気持ちで
一杯になってしまいます。
第四楽章も決して救済の音楽ではありません。
フィナーレの出だしは明るいファンファーレで開始され、途中生きる希望を示唆する部分もあったりするのですけど、
最後は劇的だけど陰惨な雰囲気と劇的な高ぶりの感情で曲が閉じられ、
「戦争はまだまだ続いているんだ・・・」みたいな事を見事に暗示していると思います。

結果的にソ連は第二次世界大戦の戦勝国となり、
1945年前後には色々な作曲家が祝典的な交響曲を発表するのですけど
当時のソ連を代表する3人の作曲家のそうした交響曲へのアプローチが三者三様なのは大変興味深いものがあります。

一例を挙げると・・

プロコフィエフ/交響曲第5番

→曲の全てが霊感と瑞々しさに満ち溢れ、戦争終結とは関係なく、とにかく20世紀の名交響曲の一つ

ハチャトゥーリアン/交響曲第3番「シンフォニーポエム」

→オルガンに金管奏者15人のバンダを含む、とにかく明るく華やか過ぎる能天気な祝祭音楽です!

ショスタコーヴィッチ/交響曲第9番

→そんな「国家のめでたい事は私には興味はありません」とばかりに
 スターリンからの「派手で祝典的な曲を書いてくれればありがたい」との意向忖度せず見事にすっぽかし、
 軽い「おもちゃ箱」みたいな曲を作り、スターリンの激怒を招いてしまう・・

そのあたりは各人の個性の違いというのも相当あるのかもしれませんよね。

ハチャトゥーリアン交響曲第2番「鐘」に話を戻しますと、 この交響曲は四つの楽章から構成され、
演奏時間も50分を越すかなりの大作です。

ハチャトゥーリアン自身が「戦いの主題」と呼ぶ緊迫した主題をベースにしながら、暗く劇的な緊張感に満ちた第一楽章・・・
ガイーヌのような民族舞曲の要素もあるのだけど、硬質な響きのピアノが派手に乱入したり、
打楽器が大活躍を見せたり、戦争真っ只中のハードなスケルツォ楽章をイメージさせる第二楽章・・・
深刻で重厚で重々しいアダージョの楽章なのだけどアダージョ楽章としては異例とも思える凄まじい大音量の金管と
ドラの咆哮が乱入し聴く者の心を鷲掴みにしてしまう第三楽章も大変印象的ですし、
第三楽章の途中ではアルメニア民謡に基づくテーマがグレゴリオ聖歌の「怒りの日」のあのメロディーと組合わさり融合し、
怒りの行進曲のような感じとして展開されるのが大変印象的です。
ラストの第四楽章は部分的に明るいし、確かに凱旋行進曲のように聴こえなくもない個所もあるのだけど
最後は悲劇的雰囲気のまま終わり、
「まだまだ戦争は継続していく」みたいな得体のしれない緊張感と不安感で終るところが20世紀の交響曲らしいと思います。
ラストの壮絶な不協和音がそれを見事に象徴していると思います。
聴き方によっては「たとえ戦争が終結したとしても自分たちの苦難はまだまだ続くし、この戦争で失ったものは
あまりにも大きい・・結果として私たちの心の中には埋める事が決してできないポッカリとした穴が開いてしまった・・」
という事も示唆しているような印象も感じたりもします。

埋もれた名作なのですけど、一人でも多くの皆様に聴いて欲しい交響曲だと思います。

この曲を聴く場合、CDとしては、断然、ネーメ・ヤルヴィ指揮のスコットランド国立管弦楽団が素晴らしいと思います。
(ハチャトゥーリアンがウィーンフィルを自作自演した演奏も素晴らしいです!)

さてさて、ここから先は、エピソードというか余談として聞いて欲しいのですけど、
ハチャトゥーリアンの交響曲第2番「鐘」を吹奏楽コンクール用にアレンジし全国大会で見事に金賞に輝いたチームがあります。
それが1980年の秋田県立花輪高校なのです!

プログラム上では、ハチャトゥーリアンの交響曲第2番「鐘」第一楽章と表記されていますが、
実態は、第一楽章の緊迫感漂う部分をメインに構成し、第四楽章の劇的な集結部分を結合させた
おいしい部分の総集編とも言えそうな感じもあります。
私自身が原曲の管弦楽版を全く知らないで、花輪高校の編曲+カット版を聴いた時には、
「第一楽章でこんなに劇的に終わらせてこの後の展開はどうなってしまうのだろう・・」と
感じたものですが、上京して上野の東京文化会館五階の音楽資料室で原曲を聴いた時、ぶったまげたものです。
「花輪高校の演奏は小林先生の創作アレンジと言っても過言ではないのかも・・」と感じたものでした!
だけど小林先生の編曲の素晴らしさ・構成の素晴らしさには、ある意味感服いたします。
花輪高校の演奏は本当に迫力十分です。
小太鼓の素晴らしい撥さばき、金管セクションの重厚な咆哮、花輪の一つの頂点だと思います。
花輪高校というと洗練された音色、どこまでいっても割れない豊かな美しい響きとデリケートさが魅力でもあるのですけど、
ベースの音色・サウンドが大変洗練されているから、あれほどまでの「凄まじい大音量」でも
少しも煩い!!・喧しい!!と感じさせないのは とにかくお見事!!という言葉しか出てこないです。
冒頭のあの「ジャジャジャー――――ン!!」・「タアーン タァー!!」という原曲の戦いの主題が炸裂し
冒頭で既にノックアウト状態と言う感じです。
あの金管セクションの鳴りっぷりはとにかく半端無いものがあるのですけど、
あんな凄まじい音量でも音が全く割れずクリアに響いているのは、驚き以外の何者ではないです!!
冒頭部分が終わると一旦静かになり、この時の木管セクションのひそやかな感じも金管の不気味な感じも素晴らしいですし、
動と静のあまりにも極端すぎるとも言える落差がとてつもなくダイナミックスに感じます。
この年の花輪の持ち味は、音色の透明さ+洗練さ・豊かな音量、そして何よりもダイナミックスレンジの巾広さ!!
これに尽きると思います!!

花輪高校は、こうしたロシアのマイナーシンフォニーがよく合っていると思います。
後年、「バッカスとアリアーヌ」とか「チェックメイト」・「三角帽子」を演奏していましたが、
花輪高校にこうしたフランス音楽やメジャーな音楽はあまり似合わないような気もします・・(汗・・)
花輪高校のこの鐘の演奏のラストの高まりは、「この後自分達はどうなってしまうのだろう、どこへ向かっていくのだろう、
誰にも分らない、不安だ、まずい」という悲壮感・切迫感が本当によく表現されていたと思います・

結果的に、ハチャトゥーリアン自身も第四楽章ですらその答えは明確に提示せず、
交響曲第3番「シンフォニーポエム」のあまりにも明るすぎる世界観でもって
「自分にはこうした明るい路線が合っているのかもしれない」と確信されたのかもしれないですね。

これは私の勝手な創造なのですけど、小林久仁郎先生にとっては、
1980年の「鐘」の演奏と82年のウォルトンの1番と84年のシンフォニーポエムは
「人と戦争」をテーマにした三部作の演奏だったのかなと感じる事もあったりします。
80年の「鐘」で不安感・焦燥感を抉り出し 82年のウォルトンで「不安には不安を持って対処する」みたいに提示を出し、
84年の「シンフォニーポエム」で「不安からの開放」を謳い上げたのかもしれません。

花輪高校は翌年も大体似たような事をやってくれています。

1981年の自由曲は、プロコフィエフの交響曲第3番第一楽章なのですけど、
花輪高校の演奏は、第一楽章から主に構成し、ラストの終結部の悪魔的な響きは第四楽章から構成されています。
つまり1980年の演奏と同様に、第一楽章と第四楽章から構成されたものなのでした。
1981年の花輪高校のプロコフィエフの交響曲第3番は、終わらせ方が妙に劇的というか悪魔の歯ぎしりみたいな
終わらせ方をしているのですけど、
原曲の第一楽章は静かに回顧的に終わらせています。

要は小林先生は2年連続して、マイナーシンフォニーの第一楽章を自由曲として選び、終結部に第四楽章の
劇的な場面を繋ぎ合わせるという荒業を見せてくれているのですけど、 
小林先生のアレンジの上手さと言うか、曲の構成の素晴らしさが光っているとも言えると思いますし、
ああしたすてきな芸当ができるのは後にも先にも小林久仁郎先生以外存在しないのかもしれないですね~!!
セルゲイ・プロコフィエフの交響曲というと、交響曲第1番「古典」や20世紀の屈指の名交響曲の一つの交響曲第5番が
大変有名で名高く演奏頻度も群を抜いて多いと思われます。
しかし、それ以外の交響曲は正直知名度も演奏頻度もガクッと下がると思いますし、交響曲第7番「青春」は一時期は
かなりの人気曲だったものの、最近は晩年の懐古趣味みたいな評価が定着して以降はその人気も相当翳りが
見えていそうな感じでもあります。
交響曲第1番「古典」や交響曲第5番を聴いた後に交響曲第2番や交響曲第3番を聴くと、同じ作曲家の作品とは到底思えない
ほどの明確な違いもありますし、2番~3番のあまりにもグロテスクで悪趣味で奇怪な響きに満ち溢れ、
曲自体もとてつもない不協和音に溢れたメロディラインを耳にするたびに
「ロシア(ソ連)という国は極端から極端へ動きやすいというのが国民性なのかも~」という印象が大変強くなると思います。

交響曲2番は特に第一楽章が不協和音と強奏ばかりが錯綜するかなりの問題作だと思いますし、第一楽章においては、
ほぼ全ての箇所がffの連続で弱奏部分はほぼ皆無という感じです。
交響曲4番は改訂版も原典版も、何がいいたいのかさっぱり分からないし、40分近い改訂版の無駄な部分を削除したら
元の26分前後の原典版になったという感じすらありますけど、
正直、原典版も改訂版も内容があまりにも難しすぎて聴いていても作曲者が何を言いたいのかは私には全くわからないです・・
交響曲6番は、20世紀の屈指の名交響曲の一つの交響曲第5番の次の交響曲と考えて聴くと、両曲の違いにも愕然と
しそうでもあります。
交響曲6番は、確かに祖国は第二次世界大戦で勝利したけど、痛みも多かったし失ったものも多かった・・
勝ったけど、誰の心にも癒すことが出来ない傷を負ったといったイメージのような曲だとも感じます。
陰気でよく分からない第一楽章から、突然場違いみたいなどんちゃん騒ぎを引き起こす第三楽章・フィナーレは
結局何を意図するのかは何度聴いてもよく分からないです。

結局プロコフィエフの持ち味が最大限発揮されたジャンルはバレエ音楽とピアノソナタであり、交響曲全体は、
1番と5番を別に考えると、人気の面でも音楽的水準の面でも見劣りがすると評価されても仕方がないような感じもありそうです。
そうした中で交響曲第3番は少しばかり異なっておりまして、
3番は、アバド・シャイー・ムーティ等の大指揮者が比較的若い頃から何度か録音していますし、
演奏会での演奏実績もあるようです。
1970年代あたりから、「プロコフィエフの交響曲第3番は実は隠れた名曲なのかもしれない」という評価はあったのかも
しれないです。
私自身も一度だけ、この交響曲3番は生の演奏会で聴く稀有な体験が出来ました。
2000年のサントリーホールでのデュトワ指揮のN響定期【Bプログラム】でしたけど、生演奏で聴いてみると
「やはりこの交響曲は異常だし感覚が病んでいるとしか思えないけど、聴く人にとてつもないインパクトを与える」と
感じたものでした。

この交響曲第3番は、元々純粋に最初から交響曲として意図された訳ではありません。
プロコフィエフが亡命中に、歌劇「炎の天使」というオカルト的宗教裁判のような歌劇を作ったものの
上演機会に全く恵まれなかったというのか、歌劇の内容が悪魔祓い・異端審問・魔女狩りといった内容でもあり
そのあまりの過激な内容から上演禁止にされてしまった事もあり、この歌劇「炎の天使」はプロコフィエフが生前中は
一度も上演はされませんでした。
(クーセヴィッキーによる演奏会形式での上演はあったようです)
この歌劇は、スクリャービンの神秘主義、ドビュッシーを思わせる色彩感、ツェムリンスキー的な世紀末の気分も漂わせていて、
第一次世界大戦後のヨーロッパのモダンスタイル・アバンギャルド的な雰囲気を継承しているような感じもあったりしますけど、
全体的にはその響きはかなり鋭角で、内容も内容なら音楽も音楽という感じなのかもしれないです。
プロコフィエフは「この歌劇はもしかしたら自分が生きている内は陽の目を見ないのかも」と考えたのかもしれないですが、
「どうせ歌劇ととして上演されないならば、この歌劇を題材に何か曲を作ろう」と思い立ったのが
実はこの交響曲第3番だったのです。
歌劇やバレエから組曲を編成することはよくありますけど、交響曲と言うとかなり珍しいパターンだと思います。
もっともプロコフィエフは、バレエ音楽「道楽息子」という作品をベースに交響曲第4番を作っていますので、
自作の流用という事に関しては全く無頓着だったのかもしれませんね。

交響曲第3番は、元ネタがオカルト歌劇というせいもあり、かなり劇的要素が強いというか悪趣味と言うか、響きが鋭角的というか
怪奇的というのか音楽的緊張感が高すぎるというのか、決して気楽に聞けるタイプの交響曲ではありません。
第一楽章冒頭の凄まじい金管の不協和音からして凄いと思いますし、第一楽章全体が実におどろおどろしいです。
このおどろおどろしい雰囲気は、換言すると広いロシアの国土みたいにおおらかでスケール豊かなようにも聴こえ。
ロシアの風土と怪奇現象が奇妙にミックスされたようにも感じられます。
第二楽章は一転して静かなゆったりとした楽章で、
第三楽章は、弦楽器の細かい動きが何とも不気味です。
第四楽章は、チャイム・ドラの響きが印象的ですけど、第一楽章同様かなりの悪趣味的要素が目立ちます。

全体的に怪奇さと焦燥感みたいな人間の何か追い詰められたような感情がうまくブレンドしたような印象があります。
決して通俗的な名曲ではありませんので、 聴く際には相応の覚悟が必要なのかもしれません。

ここから下記は吹奏楽ネタなのですけど、私自身がプロコフィエフの交響曲第3番を知るきっかけとなったが、
1981年の全日本吹奏楽コンクール・東北大会にて 秋田県花輪高校の自由曲がこの交響曲の第一楽章だったからです。
(ちなみにプログラムの表記では交響曲第4番第三楽章と表記されていて、結果的に花輪高校が演奏した曲目は、
交響曲第4番であると半年程度ずっと勘違いをしていたものでした・・)
ロシアマイナーシンフォニーレパートリーが得意な花輪高校も、さすがにプロコフィエフの交響曲第4番ほどの
怒涛のウルトラマイナーシンフォニーは取り上げる事はしないですよね・・

交響曲第3番もかなりのマイナーシンフォニーなのかもしれないです。

プロコフィエフの吹奏楽コンクールにおける演奏曲目は、
「ロメオとジュリエット」とか「シンデレラ」等のバレエ音楽が多く、交響曲は吹奏楽コンクールでは滅多に聴くことはありません。
(花輪以外では、1985年に三重大学が交響曲第7番「青春」を演奏したくらいかな・・?)
そうした中、花輪高校というか小林久仁郎先生がこの交響曲を自由曲として発掘されたのはむしろ小林先生らしいと
思いますし、この曲が吹奏楽コンクールの支部大会以上で演奏されたのは2018年時点で1981年の花輪高校の演奏が
唯一の演奏事例となっております。

私自身、1981年の花輪高校の演奏は東北大会で聴かせて頂き、全国大会の方は後日レコードで聴いたのですが、
演奏は東北大会の時の方が出来栄えとしてはよかったようにも思えます。
全国大会では、金管セクション、特にトランペットが時に高音がグシャッと音が潰れてしまったり
破裂音になってしまっているのが目につき、少し惜しまれる感じはあります。
課題曲B/東北地方の民謡によるコラージュは、柔和な響きと洗練された美しい音色が大変魅力的でした。
課題曲Bは、東北大会でも全国大会でも数多くのチームがこの課題曲を選曲していましたけど、
出だしの静かな音が、ここまで幽玄美を感じさせる演奏は花輪以外少なかったようにも感じたものでした。
(習志野高校のコラージュもそれに近いものがあったと思います)
美しくて幽玄で妖しい世界という雰囲気でしたけど、中間部以降は民衆のヴァイタリティーみたいな要素は希薄になってしまい
少し抑制し過ぎなのかなという感じもしました。
自由曲のプロコフィエフの交響曲3番は課題曲とは対照的に荒々しいとか荒ぶる魂の叫びみたいな雰囲気を感じ取りました。
聴いているだけで、「胸が苦しい・・・」みたいな感情が湧きあがってくるようにも感じたりもします。
出だしの荒々しさが実に秀逸ですね!!
出だしの激しさから一転して展開部分は静寂な雰囲気になるのですけど
こうした幽玄的な妖しい部分を花輪が表現すると、実にツボに入った表現をしてしまうのが花輪らしいとも思ったりもします。
全体的に妖しい・オカルト・悪趣味・奇怪みたいな表現が目立つのですけど、時々ロシアの平原の風みたいな香りも
確かに感じられ、スケールの大きさはかんじたものでした。
全体的には花輪にしては珍しく少し緻密性に欠け大味みたいな感じもしなくはないし、
前述の通り、金管セクション、特にトランペットの高音のつぶれたような感じの音色は、花輪らしくないかもとも
感じたりはするのですけど、
当時の日本においては、こうしたプロコフィエフのマイナーシンフォニーに積極果敢に挑戦するチームは
プロの管弦楽団を含めてほぼ皆無であり、
こうした影の名作を吹奏楽コンクールを通して世に問うてきた小林先生らしい大胆な発想&選曲&解釈に
心から敬意を表したいものです!
中盤以降のティンパニソロのトロンボーンのソロの表現が私的にはかなり共感するもの大です。
ラスト近くで一旦静まりかえり、平穏の形で曲を閉じるのかな・・?と思わしておいて、
最後にすさまじい不協和音と劇的緊張感でもってエンディングさせたのはすさまじい静と動の落差でした。
「最後は平穏な祈り」と思わせておいて、再度悪夢を蘇らせて終わるみたいなあの悪趣味さは小林先生ワールド炸裂
だと思います。

花輪高校のプロコフィエフの交響曲第3番第一楽章なのですけど、これが判明したのは私が大学生になって以降でしたが、
花輪の演奏は、第一楽章から主に構成しラストの悪魔的な響きは第四楽章から構成されています。
つまり花輪高校の演奏は、泰一楽章と第四楽章から構成されたものなのでした。
花輪の終わらせ方が妙に劇的というか悪魔の歯ぎしりみたいな終わらせ方をしているのですけど、
原曲自体の第一楽章は静かに回顧的に終わらせています。

花輪高校は、前年度1980年の時も同じことをやっていて、
この時は、ハチャトゥーリアンの交響曲第2番「鐘」第一楽章だったのですけど、
本来第一楽章は静かに閉じられているのに、小林先生の吹奏楽アレンジ版においては華々しく豪快に鳴り響いて
終わらせています。
これも後で知ったのですけど、1980年の花輪高校の交響曲第2番第一楽章は
第一楽章前半~中間から主に構成し、ラストは第四楽章のエンディングを強引に転調させて、第一楽章にくっつけている
形を取っています。

今にして思うとかなり強引ですけど、当時の全盛期の小林先生らしいアレンジ&演奏だと思いますし、
決して的外れのアィディアではないと思います。
一番最初に三善晃の「管弦楽のための協奏曲」というタイトルを耳にした際は微妙な違和感を感じたものです。
というのも普通の感覚として「協奏曲」と言うと、個の楽器と全体の管弦楽団の音楽の対話というイメージがあるのですけど、
「管弦楽のための協奏曲」というと、全体対全体の対話つまりみたいなものをついつい連想してしまいます。
この「管弦楽のための協奏曲」というタイトルは、20世紀に入って以降色々な作曲家がこのタイトルで作品を残していますけど
私が知る限りでは最初にこのタイトルの作品を作曲した方ってヒンデミットなのかな・・・・?
このタイトルで圧倒的に有名なのは、言うまでも無くバルトークの作品なのですけど、
他にはどんな作曲家がこのタイトルで作品を残しているかと言うとコダーイ・シチェドリン・セッションズあたりだと思います。
バルトークの「管弦楽のための協奏曲」の第二楽章:対の遊びを聴くと
このタイトルの意味が何となく分かるような気がします。
ファゴット・クラリネット・フルート・オーボエ・トランペットの各楽器が2本ずつ対となって繊細なメロディーラインを
吹き、それが全体と鮮やかな「対比」を示しているような感じがありますし、
音の薄い部分又はソロ対トゥッティ(全奏)の対比を何か意図しているようにも思ったりもします。

「管弦楽のための協奏曲」というと私にとってはどうしても外せない曲が一つありまして
それが三善晃が1964年に作曲した「管弦楽のための協奏曲」です。
私自身大変残念ながらこの曲が生の演奏会で実際に演奏されたのは聴いたことがありませんし、
管弦楽団によるCDの音源としては岩城宏之指揮/N響の演奏しか私はこの曲のCDを持ってはいません。
かなりマイナーな曲ではありますし、演奏時間も8~9分程度の比較的短い曲なのですけど
例えは悪いのかもしれないですけど、三善晃の後年の吹奏楽コンクールの課題曲「吹奏楽のための深層の祭」の世界と
極めて近いと言うのか、音楽的緊張感を短い音楽の展開の中で凝縮した邦人作品といえると思います。
曲自体は大変難解で捉え所が無く、この曲を初めて耳にされる方は多分「何を言いたいのかさっぱりわからない」と
言われるのは目に見えているのですけど、音楽的密度というのかとにかく緊張感が半端なく強い曲ですので、
聴いているだけで胃がギリギリ痛くなってくる感じもするのですが、
なぜかメロディーラインがすんなりと脳に入ってくる不思議さは伝わってきます。
換言すると、
「慣用句とか古典的言い回しが多く言葉遣いは難しいのだけど言っている内容はすごく分かり易い趣旨の事を
伝えている音楽」みたいな感覚があったりします。
音楽的緊張感は極めて強いという三善晃の似たような音楽というと交響三章~Ⅲの世界が近そうにも思えますが、
交響三章の世界はどことなく「亡びの美学」というのか日本のもののあはれみたいな情感を感じさせるのに対して、
管弦楽のための協奏曲は、耳にすんなりと入ってくるメカニックな曲と言えそうですし、この曲の最大の魅力は
まるで「音楽によって表現された建物の精密な設計図」という感じなのかもしれないです。

三善晃の「管弦楽のための協奏曲」は三つの部分から構成されていますけど、休むことなく続けて演奏されます。

Ⅰ.確保と二つの展開

Ⅱ.複合三部

Ⅲ.変奏と復帰

Ⅰは、とにかくめまく゜るしい変化が最大の魅力です。特に出だしの音楽的緊張感はすさまじいものがあります。
全体的に音量のコントラストに圧倒される感じがあります。
Ⅱは一転して抒情的な感じも漂い不気味な曲想が展開されていきます。
あの雰囲気は四谷怪談の世界なのかもしれないです。
(混声六部合唱、尺八、打楽器、十七絃のための「変化嘆詠」 ~一休諸国物語図絵より と言う作品も三善晃にはありますが、
この曲の雰囲気は管弦楽のための協奏曲のⅡの世界に通ずるものがあるのかもしれないです)
Ⅱのラスト近くの大太鼓三連発の不気味な響きが印象的ですけど
あの部分は矢代秋雄/ピアノ協奏曲の第二楽章の幽霊とか夜明けの悪夢を彷彿とさせるものがありそうです。
Ⅲは一転して再度激しい音楽に回帰されますけど、ラスト近くのホルンの雄叫びがとにかく凄まじいと思います。
このホルンの雄叫びをバックに曲は一気呵成に閉じられますけど
聴くだけで圧倒されまくりの曲としか言いようが無いほどとにかく緊張感の強い作品だと思います。
前述の通り一言で表現すると「精密な設計図」を音楽にしたようなものと言えそうですけど、矛盾するような事をいって
申し訳ないのですけど、なぜか耳にはすんなり入ってくる音楽だと思います。
ちなみにですけど、耳にすんなり入ってくるというイメージと言うと、実は三善晃は1979年のアニメ「赤毛のアン」の主題歌や
挿入歌・EDを担当されていたりもしました!
赤毛のアンのあのOPのファンタジー感やアルトサックスのソロの扱いの巧みさは三善晃っぽい感じもありそうです!

三善晃の「管弦楽のための協奏曲」はプロの管弦楽団の演奏は滅多に聴く事ができないと思われますが、
この曲は吹奏楽コンクールでたまにですけど自由曲として演奏されることもあり、実際2018年時点において、これまでこの曲は
通算6回全国大会で演奏されています。
そしてこの曲の過去最大の圧倒的名演は誰がなんといっても1978年の秋田南高校吹奏楽部の演奏に尽きると思います。
秋田南による1978年の演奏は、言うまでも無く秋田南高校が全国大会初演なのですけど、
通算6回の全国大会演奏のうち、今の所唯一の金賞受賞が1978年の秋田南による演奏です。
確かに、磐城高校・湯本高校の演奏も素晴らしいのですけど、秋田南高校を超越するまでには全然至っていないようにも
感じられますし、そのくらいあの演奏は素晴らしいです。
「吹奏楽アレンジ演奏なんてしょせんは管弦楽のモノマネに過ぎない」などと言われる方には是非是非一度
聴いて欲しい演奏ではあります。
あの演奏を聴くと吹奏楽の無限の可能性を心の底から感じてしまうのですけど、難曲中の難曲を普通の高校生がさらっと
いとも簡単に吹いてしまうなんてとにかく凄いものがありますし、
当時の秋田南高校吹奏楽部の高橋紘一先生をはじめとする当時のメンバーの演奏の表現力・音楽的緊張感には
心の底から共感しますし、三善晃が後日秋田南の演奏をレコードで聴いた際にその演奏を絶賛され高く評価されたというのは
当然の話だと思います。

あくまでも私自身の個人的主観なのですけど、 1978年の高校の部の評価において、
もしも1970年以前の順位制度による表彰だったとすると、この年の高校の部の文句なしの圧倒的な一位は秋田南高校
だと思います。
2019年時点での現在の感覚・視点で聴いてもそうした感想・評価は揺るぎがないものがあるとすら感じてしまいますし、
むしろ今現在のコンクールにおいても 十分通用する素晴らしくハイレヴェルな演奏だと思います。
この演奏は残念ながらレコードとレジェンダリーシリーズのCDと課題曲も収録されたカスタムテープでしか
聴いたことが無いのですけど、
もしもタイムマシーンがあったとして過去に遡って昔の名演を生演奏で聴けるという事が出来るとしたら
この年の秋田南とか1977年の秋田南の「春の祭典」、同じく秋田南の1980年の三善晃/交響三章は
絶対に聴いてみたい演奏の一つです。
そして出来れば1979年の市立川口の「二つの交響的断章」や1980年の花輪高校のハチャトゥーリアンの交響曲第2番「鐘」も
是非聴いてみたいものです。

1978年の秋田南なのですけど、前年と前々年においては、 ペトルーシュカと春の祭典というストラヴィンスキーの
バレエ音楽路線を圧倒的名演でもって後世に間違いなく語り継がれるべき演奏を聴かせてくれていましたけど。
この年、1978年からは路線変更を行い、この年から1982年までは邦人路線においては、
ストラヴィンスキー以上の素晴らしい感覚で研ぎ澄まされた演奏を後世の私たちに残してくれていて、
いわばこの年は、秋田南の偉大な邦人作品シリーズの始まりの年という記念すべき年でもありました。

1978年の秋田南の演奏なのですけど、パターンとしては前年の1977年の構成と似ている感じがあります。
端正で正統派の雰囲気が漂う課題曲に対してあまりにも大胆不敵な自由曲という課題曲と自由曲の構成において
共通性があるようにも感じられます。
自由曲の管弦楽のための協奏曲は課題曲で見せつけた端正な仕上がり・正攻法みたいな感じではなくて
むしろ積極的に冒険している感じが漂います。
ホルンの高音域とかクラリネットの細かい動きとかトランペットの鋭い切れ味とか 技術的にはとにてつもなく高い水準を
求められる曲なのに、 そうした難しさは微塵も感じさせないで、確実に指揮者の高橋紘一先生から求められている音と表現を
立派に音にされていると思います。
三善晃の「交響三章」の世界を更にぐぐっと凝縮させたこの研ぎ澄まされた世界を見事に表現していると思います。
プロでも手に余る難解なこの曲をアマチュアの高校生が、しかも吹奏楽というアレンジ版という変化球を駆使して
ここまで立派な音楽的表現が出来ている事自体が奇跡だと私は今でも確信しています!!

上記で書いた通り三つの部分から構成されているのですけど、Ⅰのめまぐるしい変化に各管楽器が立派に対応できている事や
Ⅱの木管の艶っぽい響きが素晴らしいですし、Ⅲのホルンの荒ぶる調べが大変印象的です。
演奏終了後に、ブラボーという声援がこの時代しては珍しく入っていますけど(多分OBなのかもしれないです・・)
あれはやらせとかそういうのではなくて むしろ感極まった自然体としての唸り声みたいにも聞こえてしまうほど
とにかく見事な演奏でした。

最後に・・三善晃の「管弦楽のための協奏曲」の全国大会演奏の中で、秋田南以外として大変印象に残る演奏が
あるのですけど、それが1993年に八戸北高校が演奏したものでした。

前年度の1992年のホールジンガーの「春になって、王達が戦いに出かけるに及んで」の
とてつもない雑で粗野で荒削りのとんでもない演奏なのですけど、奏者と指揮者の熱い気持ちがひしひしと伝わってくる
あの演奏と93年の「管弦楽のための協奏曲」のクールで精密な演奏のあのとてつもない落差にはいつ聴いても
驚かされるものがあります。
この時の指揮者の佐々木先生の事は当ブログの吹奏楽カテゴリの中の「1981年~82年の東北大会」で色々と書いた記憶が
ありますけど、あの時のシベリウスの1番とかマーラーの1番のように佐々木先生は内向的な演奏を好む傾向が
あるのかねもしれないですけど、
92年の「春になって・・」のエネルギー大爆発の演奏は極めて意外でそのギャップがとても痛快に感じたものでしたけど、
改めて93年の「管弦楽のための協奏曲」の演奏を聴くと、
「佐々木先生にはこうした緻密な演奏がよく似合うのかも・・と感じたものでした。

指揮者の先生が、学校のチームカラーや「これまでの伝統にばかりにこだわって
毎年毎年生徒たちに同じような型をはめこんでしまうよりは、佐々木先生のように
その年の生徒さん達の個性や音質等に合わせて演奏スタイルとかを変えていった方が、
むしろ高校生にとっては自然体なのかもしれないです。

八戸北高校の92年と93年のあまりにも極端な演奏スタイルの違いから、ふとそのようにも感じたものでした。
ラフマニノフの曲を聴くとなぜかいつも「郷愁」とか「メランコラリック」という言葉が自然に思い浮かびます。
なんていうのかな・・、「帰りたいけどすでにそこに自分の帰るべき居場所はなかった・・」みたいな癒すことのできない
ポッカリと心に空いた隙間」みたいな雰囲気をそこに感じたりもします。
ラフマニノフは世間一般的には、甘いメロディーとか退廃的な美しさみたいに評されることも多いような気もするのですけど、
私にとってはロマンティックという言葉よりはむしろ「郷愁」という言葉のほうが似合いそうな感じもあったりもします。

ラフマニノフ自身は第二次世界大戦終戦間際まで生きられた20世紀の作曲家なのですけど、
その作風は恐ろしいまでに革新性は全く無く、とても同年代にストラヴィンスキーとかプロコフィエフとかラヴェルとか
ウェーベルンがいたとは本当に信じられない程です。
あの作風はロシア革命前とかロシア5人組の頃のようなまさに19世紀のロシア音楽の黄金時代の作風を
そのまま20世紀に持ってきたという雰囲気が濃厚で、伝統とか自分のスタイルをきっちりと生涯守り続け、
頑なまでに自分のカラーというか信念を曲げずに生きていた方と言えるのだと思います。

ラフマニノフ自身も、ストラヴィンスキーやプロコフィエフと同じように革命とか共産党政権というものに嫌悪感を覚え、
「亡命」という祖国を離れる道を選ばざるを得なかったのかもしれません。
プロコフィエフは一時的にソ連を離れて自由な欧米の空気を吸った事で、当初のスキタイ組曲とか交響曲第2番などの
ような過激な路線から、適度な洗練とも言える路線変更と言うお土産を貰ったような感じもしなくはないのですが、
ラフマニノフは、ロシア時代の作品もアメリカへの亡命以降も作風的にはほとんど進化はしませんでした。
出世作のロシア時代に作曲されたピアノ協奏曲第2番で、「自分の進むべき路線はこれしかない」と決意し、
それをアメリカに亡命以降も頑なに貫いたと言えるのかもしれないです。
そしてそのラフマニノフの「進むべき路線」とはまさに甘くてせつない狂おしいばかりのロマンティックという事なのだと
思います。
ロシア革命による共産党政権を嫌って欧米諸国に亡命したロシアの作曲家と言うと、前述の通り
プロコフィエフ・ストラヴィンスキー・ラフマニノフなどが挙げられるのですけど、この中でプロコフィエフとストラヴィンスキーは
その作風を亡命以降かなり極端な形で変化させてきているのですけど、ラフマニノフは亡命前も亡命以降も
生涯無くなるまでずっと頑ななまでに自分のスタイルを貫き通した作曲家と言えるのだと思います。
ラフマニノフの最も過激な作品というとよく挙げられるのが交響曲第1番なのですけど、あの程度で過激なんて言ってしまうと
プロコフィエフなんて極端すぎるほど過激すぎるとすら言えそうであるのですけど、あの交響曲第1番が極端に不評だった
ゆえにラフマニノフは一時作曲すら全くできなくなるほどのノイローゼに追い込まれるのですけど、
そのノイローゼを心理療法でもって脱却した時の「自分にはピアノ協奏曲第2番のスタイルしかない」という決意を最後まで
貫かれた作曲家というのがラフマニノフの本質だったと言えるのかもしれないです。

アメリカに亡命以降の主要作品は、交響曲第3番・ピアノ協奏曲第3番・交響的舞曲ぐらい
なのですけど、これは生前は作曲家としての認知度よりも実はピアニストという演奏家としてのラフマニノフの認知度が
高い事情もあり、アメリカ亡命時代は基本的には演奏家としての生活が大変忙しく、作曲活動をしている時間が
あまりなかったというのも大きかったと思いますし、亡命という環境の変化によって、そしてアメリカという新しい環境に
実は馴染めていなくて、心の底では「確かに生活する上ではこの亡命は必要不可欠だったのだけど、
新しい環境下においては、なかなか以前のような路線の曲を書きにくい・・」という事もあったのではないのかなとも
感じたりもします。
やはりあのような甘くて切ない音楽というのは生まれ育ったロシアの風土でないとなかなか書けないものなのかも
しれないですよね。
その点、どんな環境下でも作曲の筆は止まることもなく、適度に作風をコロコロと変えていくことができたプロコフィエフは、
適応力に優れたお方であり、ある意味器用な人だったといえるのかもしれないです。
あんなに「自由な空気が吸いたい」と懇願していたのに、いざ欧米での生活が始まると、自分の作風がなかなか受け入れて
貰えないという事情もあったかとは思いますけど、今度は手のひらを返したかのように
「やっぱり自分の母国のロシアがいっちば~ん!」と言い出して出戻りを結果的に果たしたり、
ロシアに戻った途端にそれまでの過激路線を抑えて、わかりやすい音楽の路線シフトしたりと、
ロシア革命以降もスターリン体制下でもずっとその抑圧生活を耐え忍んでいたショスタコーヴィッチなどから見てしまうと
「なんだこいつのこのちゃらんぼさは・・!」みたいな感じになるのかもしれないですし、
「こいつにはラフマニノフやストラヴィンスキーのように筋を通すという事はできないのか・・!?」ともしもしたら感じていたのかも
しれないですね・・(汗・・)

ラフマニノフの性格は、他人に決して自分の本音は伝えないし、どちらかというと自分の殻に閉じこもるような人
だったのかもしれないです。
そして一度自分で決意したことは、たとえその後においてどんな情勢の変化があったにせよ、生涯それを貫き通すという
頑迷さがあったといえるのかもしれないです。
そしてこの頑迷さというのがラフマニノフそのものであり、若いころにピアノ協奏曲第2番で掴ん「自分の路線というものを
生涯ずっと守り通したとも言えるのだと思います。
アメリカで暮らすラフマニノフの耳にも当然ながらプロコフィエフが出戻りで戻ってきた」か
出戻りで帰ってきたのに、スターリンから特に迫害を受けることもなく順調にソ連でも作曲活動を続けているとか
ソ連復帰後のロメオとジュリエットが大好評などという話は伝わっていたと思います。
ラフマニノフももしかしたら「それだったら自分もロシアに戻ってもいいのではないか・・」と心をかすめることは
一度くらいはあったのかもしれないです。
だけどラフマニノフはやはりソ連復帰はしませんでしたし、亡くなるまでアメリカで亡命生活を送っていました。
そうしたラフマニノフの心のどこかには「一度ぐらいはもう一度故国の土を踏んでみたい」という望郷の念はあったと
考えるのがむしろ自然なのかもしれないです。

ラフマニノフの実質的に最後の大作ともいえる「交響的舞曲 作品45」は、やはりどう聴いても
ラフマニノフのそうした望郷の念・郷愁・一度ぐらいは故国の土を踏みたかったという未練の思いや
メランコラリーな気持ちを感じざるを得ないと思いますし、そこにあるのは
「私にはすでに帰るべき居場所がない・・」というせつなさではないのかな・・?と感じてしまいます。
交響的舞曲作品45は、実質的に交響曲第4番と銘打っても良い位の大作で、最晩年の大変な名作です。
この曲を初めて生演奏で聴いたのは確か1994年のNHK交響楽団、指揮は確かプロムシュテットでした!
(前半は、このラフマニノフの交響的舞曲で、後半はベート―ヴェンの交響曲第7番でした)

交響的舞曲のミニスコアを一度見た事があるのですけど、
第一楽章が一番分かりやすく4/4拍子
第二楽章が結構演奏しにくいというか6/8拍子ですけど、基本的にはワルツ系の3拍子のノリで対応できると思います。
第三楽章はかなり難解で、拍子も変拍子の連続で9/8拍子と言うかなり不規則なビートが楽章を支配していました。

第一楽章中間部の哀愁溢れるソロはアルトサックスを使用しています。
このアルトサックス使用というのはかなり面白い試みだと思います。
当時、アルトサックスは、ジャズとかで使用されるのがメインでクラシック音楽の分野で使用されること自体極めて珍いと
言えると思います。
(その数少ない例外が、「アルルの女」とか「展覧会の絵」とか「ボレロ」なのだと思います)
どちらかというと、アルトサックスはアメリカのジャズとかビックバンドとかポピュラー音楽で
使用される事が多いいかにもアメリカ的な楽器なのかもしれませんけど、
ラフマニノフなりにアメリカとの融合を言いたかったのかもしれないです。
第一楽章のピアノも低音の支えが大変素晴らしいよい仕事をしていると思います。
アルトサックスのソロを伴奏で支えているのもこのピアノなのですけど、
何てあのメロディー、あんなに泣けてくるのでしょうね・・
あのメロディーは、ラフマニノフのように故郷がありながら何らかの事情で帰ることが出来ない人間にとっては
お涙ちょうだいの音楽であり、 とにかく聴いていて確実「泣けるもの・哀愁は伝わってくると思います。

第二楽章は寄せては漂う波みたいな感じの不安定で陰鬱なワルツです。
楽章全体が「悪魔が私と一緒になって踊る」みたいなニュアンスが大変良くイメージされ
サン・サーンスの「死の舞踏」みたいな陰鬱なワルツが小気味よく展開されているようにも聴き取れます。

第三楽章は中間部が素晴らしいです!
「人生とははかない夢・・・愛は幻・・」とか浜辺を漂う波みたいな香りが漂います。
かなり泣けてくるメロディーがこれでもか!!とかなり執拗に繰り返されますが
あの切々としたメロディーがとっても印象に残りますし、第一楽章同様泣けてくる音楽ですし、郷愁が痛いほど伝わって
きていると思います。
第三楽章冒頭のチャイムの響きもすてきですし、シロフォーンも実に鋭角的な響きを聴かせてくれてとても大好きです。
曲のラストはスコアの上では、ドラ(タムタム)がゴワーーーーンと鳴り響いて余韻を残して終わるように書かれていますけど、
指揮者によってこの辺りは解釈が割れているようにも思えます。
ネーメ・ヤルヴィのようにドラをゴワーーーンと余韻を残す方もいますし、
マゼールのようにドラの余韻をまったく残さないでバサッと終わらせる方もいますし
このあたりは指揮者の好みなのかもしれないです。

それにしてもこの「交響的舞曲」は素晴らしい名作だと思います。

交響的舞曲を実質的にラフマニノフの最後の交響曲として聴くと、
この曲はラフマニノフにとって生涯を通じて一番哀愁溢れるすてきな作品なのかもしれないと感じてしまいます。

ちなみにラフマニノフ本人は、この交響的舞曲第三楽章の最後のページを書き上げる際にスコアの余白に
「私は神に感謝する」という言葉を残しているそうです。
ラフマニノフにとってもこの曲が「もしかしたら自分にとって白鳥の歌になるのかもしれない」といった覚悟がもしかしたら
どこかにあったのかもしれないですね。

この曲の名盤として、私的には、マゼール指揮/ベルリンフィルを推したいと思います。

余談ですけど、上記にて第一楽章の中間部で「アルトサックス」が長大な甘いソロをせつぜつと吹き上げていると
書きましたが、アルトサックスという楽器は、ジャズ・ポップス・吹奏楽がその主な活躍の舞台なのですけど、
時折こうしたクラシック音楽の分野でもこの楽器が使用されることがあったりもしします。

その代表例として・・・

〇組曲「アルルの女」第一組曲(ビゼー)

 →もの哀しさをアルトサックスがうまく醸し出していると思います。

〇組曲「展覧会の絵」~古城

 →ムソルグスキーの原曲をラヴェルがアレンジしたものですが、古城にて使用しています、
  やはり哀愁をうまく出しています。
  ラヴェルだからできた芸当で、武骨な作風のムソルグスキーではこうした繊細なオーケストレーションは
  無理なのかもしれないですね。

〇ボレロ(M.ラヴェル)

 →アルトサックスではなくて、何とソプラノサックスとテナーサックスがソロとして
  使用されます。テナーサックスのハスキーさが素晴らしいのですけど、このテナーサックスという楽器は
  もしかして人間の声に一番近いのかな・・?とも感じさせてくれる曲でもあるのかなとふと感じたものでした。

上記はの曲はフランス系のものばかりですが、(ちなみにサックスの発祥の地はフランスです!)
ロシアでも意外と使用されています。
プロコフィエフの交響組曲「キージェ中尉」・バレエ音楽「ロメオとジュリエット」でも
効果的に使用されています。
特にキージェ中尉では、その第四曲・トロイカでテナーサックスがコミカルにソロを演じています。
小澤征一指揮のように、このトロイカの部分にバリトンの声を使用する人がたまにいますが、
やはりこの部分はサックスでないと中々味が出てこないのかな・・?とも思います。

でもやっぱりロシアものというとラフマニノフの交響的舞曲~第一楽章のアルトサックスの効果的使用が
やはり断トツなのかもしれないですね。

ラフマニノフの交響曲第2番の第三楽章も本当に泣ける素敵な音楽です。

交響曲第3番はほとんど実演では聴かれませんけど、何となくお茶目な所も感じられなくもありません。
交響曲第1番は正直判断に迷います。
この曲の初演の失敗が原因で作曲者本人がノイローゼに追い込まれたことも分かるような気もします。
何となくムソルグスキーの禿山の一夜【原点版】を想起させるような香りもします。

最後に余談ですけど、ラフマニノフの交響的舞曲~第三楽章の吹奏楽アレンジ版は、2018年時点でこれまで全国大会で
11回自由曲として演奏されていますけど、私的にはどれもこれもすべて決め手に欠く演奏でして(汗・・)
やはりその敗因として、

1.第三楽章の原曲は14分程度なのに、これを7分程度に短縮すると中間部のあの美しいメランコリーな繰り返しが
 バッサリとカットされ興醒めになってしまう

2.管楽器だけであの繊細な曲を演奏すると、曲自体の美しさが意外と表現しにくい

3.この曲を吹奏楽版で演奏してしまうと、なぜかどの演奏も「もっさりとどんくさく」聴こえてしまう・・

4.管楽器だけではこの曲のうねりの表現は不可能に近い

といったものが挙げられると思いますし、この曲はそうした意味では吹奏楽コンクールの自由曲としては不向きと
結論を出さざるを得ないのかもしれないです・・
この曲は過去に、川越奏和・三重大学に金賞をもたらしていますけど、私的には全くピンとこない演奏であったりもしますし、
伊丹市吹奏楽団・大曲吹奏楽団・山王中・伊奈学園総合高校・嘉穂高校・青山学院大学なども
私的にはあまり芳しくない出来映えと感じてしまいますし
(この中で唯一何かを感じ取れる演奏は伊奈学園ぐらいなのかも・・)
それだけ吹奏楽で表現するには難しい曲といえるのだと思います。

今後どこかのチームが現代的シャープな感性でこの曲に新しいアプローチで臨まれ、素晴らしい名演が登場してくることを
期待させて頂きたいと思います。
一つ後の記事が夢や悪夢の管理者である東方のドレミー・スイートの記事ですので、本記事は夢や悪夢に関連した記事
という事で矢代秋雄のピアノ協奏曲について少しばかり触れさせて頂きたいと思います。

矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」は、邦人作品の中でもひときわ輝く作品だと思いますし、
邦人作品のピアノ協奏曲としては、一番演奏頻度が高い曲なのではないかと思っています。
事実、今の所、私自身が過去の演奏会で聴いた邦人ピアノ協奏曲としては一番数多く聴いた曲だと思います。
邦人作品のピアノ協奏曲自体があんまり演奏される機会は無いようにも感じますし。
私自身、邦人のピアノ協奏曲のジャンルの中では、矢代秋雄・松村禎三・三善晃・吉松隆・間宮芳生ぐらいしか
生では聴いたことがないかもしれないです。

そうした中、矢代秋雄のピアノ協奏曲は本当に素晴らしい曲だと思いますし、
日本が世界に誇りうるべきピアノ協奏曲の一つなのかもしれないです。
矢代秋雄自体、大変な寡作家の上、47歳の若さで急逝されたお方ですので、作品自体実はそれほど多い訳ではないです。
矢代秋雄の作品は、交響曲とピアノ協奏曲と交響的作品しか聴いたことがないのですが、それは仕方がない事なのです。
というのも、矢代秋雄は恐ろしいほどの寡作家で、生涯の作品リストも極めて少ないとのことで、
その生涯で完成させた管弦楽曲はせいぜい10曲程度とのことです。
だけど、矢代秋雄はこの交響曲一曲だけでも、十分すぎるものさえあると思いますし、
交響曲とピアノ協奏曲の二曲でもって後世に永遠に受け継がれていくべき素晴らしい名曲を残されたと思います。

矢代秋雄の「交響曲」は、邦人シンフォニーの中でもトップクラスの名曲だと思います。

そして私自身が日本人が作曲したクラシック音楽に分類される交響曲の中で、私自身がとても大好きな曲であり、
同時に私自身の音楽観を構成する上で、松村禎三の交響曲と共に私自身に最大限影響力を与えてくれた邦人交響曲
というのは間違いないと思います。
当ブログでは何度も語っている通り、私自身が吹奏楽とクラシック音楽に強い関心を持つようになった最大のきっかけは
1982年に聴いた全日本吹奏楽コンクール・東北大会・高校の部【A部門】に出場したチームの中で、
秋田県立花輪高校吹奏楽部が演奏したウィリアム・ウォルトンの交響曲第一番変ロ短調~終楽章と、同じく同大会の
秋田県立仁賀保高校吹奏楽部が演奏した矢代秋雄の交響曲~第四楽章に強い衝撃と感銘を受けた事が
全てでもあるのですけど、当時まだ音楽の事を何も知らない真っ白の状態の一人の高校生に与えた影響は
計り知れないものがあったと思いますし、矢代秋雄の交響曲を知った事で、私自身が多少は日本の作曲家が残したきた
素晴らしいクラシック音楽を少しは聴くようになったいっちば~ん!のきっかけと言えるのだと思います。

そして、矢代秋雄のピアノ協奏曲も交響曲に勝るとも劣らない不滅の協奏曲だと思います。

このピアノ強奏曲は偉いご高名な音楽評論家の先生達からは、
「安っぽい」
「映画音楽みたい」
「交響曲みたいな洗練された香りに乏しい」みたいな批判的な意見を聞くことが多いのですけど、
それは少し違うような感じもあります。
「別に分かり易くたっていいじゃん」
「20世紀~21世紀の音楽は別に全てが12音主義・前衛である必要はない」
「日本の様々な邦人現代音楽が一般聴衆からは受け入れられずそのまま表舞台から姿を消してしまう曲ばかりなのに、
作曲から50年近く経過した現在でも邦人作品の数少ないレパートリーとして生き残り続けているのは、
それはやはりこの曲にとてつもない魅力があるからではないのか・・・?」と
私は思っています。

矢代秋雄のピアノ協奏曲は演奏時間が大体27分前後でオーソドックスな三楽章形式で構成されています。

第1楽章 アレグロ・アニマート
 
第2楽章 アダージョ・ミステリオーソ

第3楽章 アレグロ - アンダンテ -ヴィヴァーチェ・モルト・カプリッチョーソ

第一楽章は静かに開始されますけど、この静かな雰囲気が実にミステリアスだと思いますし、
このミステリアスな世界観が全ての楽章に統一して貫かれていると思います。
この静かな開始部分から一転してピアノのffが響くのですけど、この部分を聴くと、
「ピアノを打楽器的に扱っているのかもしれない」とも感じてしまいます。
第二楽章は、私に限らず、多くの方はこの第二楽章が一番美しく印象的と感じるのではないのかと感じます。
この楽章は、作曲者によると「夜明けの悪夢」と表現されています。
子供の頃の矢代秋雄は、よく原因不明の高熱にうなされ、その際によく「不思議な一つの音が繰り返し耳に
こだました」と回想していますが
そうした回想シーンが実に巧みに音楽として表現されていると思います。
第二楽章の冒頭は無機質みたいに一見感じるピアノの単音がボーン・ボーンと不気味に響く中から開始されるのですけど
その不気味な単音が、ティンパニ・フルート等の楽器に引き継がれ
そして最後はコンサートチャイムの鐘の音が静かに響き渡ります。
その単音の表現は、かなり執拗に繰り返され、確かスコアの上では総計43回も繰り返し反復され、
その響きは和風でおどろおどろしいのですけど、美しくてまるでこの世のものとは思えないような幽玄的な美しさすら
感じてしまいます。

私自身、10代や20代の多感な頃には、目に見えない不安感・呪縛」・重苦しさといった感覚に真夜中に襲われる事も多々あり、
体は疲れているのだけど頭が冴えて全然眠れないという事もあったものでした。
その感覚というのは、矢代秋雄のピアノ協奏曲第二楽章または、
吹奏楽オリジナル作品ですけど、ネリベルの「フェスティーヴォ」の中間部あたりにそうした不安感のエコーを感じたものでした。

第三楽章は第一と第二楽章を回想しながら、駆け抜けていきます。

矢代秋雄のピアノ協奏曲の初演は中村紘子が務めていて、矢代秋雄自身も
「中村紘子がこの曲を弾く事を前提に作曲の筆を進めた」と聞いたような記憶があります。
時にまだ10代の少女の中村紘子に「この部分はピアニストにとっては指の負担はどうなの・・?」とアドバイスを求めたり、
時にそうしたアドバイスを元に部分的に曲の修正を施したというエピソードもあるとの事です。
この曲は生演奏でもCDでも、最近では、湯浅卓雄指揮/岡田博美ピアノのナクソス盤のCDも聴きましたけど
中村紘子のピアノが一番しっくりくるような印象があります。
中村紘子というとショパンみたいなイメージもあるのですけど
この曲を弾いている時の中村紘子は、そうしたショパン弾きのイメージはあまり感じられません。
ワイルドでもありますし、中村紘子が弾くこの曲からは「とてつもないエネルギー」みたいなものを感じてしまいますし、
「矢代秋雄先生はどうしてこんなに早く逝ってしまったの!?」みたいな悲痛な叫びみたいなものも感じたりもします。
余談ですけど、N響の世界一周演奏旅行にソリストとして付き添ったのは10代の中村紘子です。
(中村紘子さんもまだお若いのに最近お亡くなりになられていたのは大変悲しい知らせでした・・)
更にものすごくマニアックな話ですけど、この時のN響のチューバ奏者は
後に野庭高校吹奏楽部の指揮者としてその名を残す中澤忠雄先生とのことです。

この協奏曲で、どうしても忘れられない演奏会がありました。

1999年6月のサントリーホールでの東京交響楽団の定期演奏会でしたけど
前半がこの矢代秋雄のピアノ協奏曲で、後半がメシアンのトゥーランガリア交響曲でした。
プログラム全体の副題として「師弟の絆」とありましたけど、
確かに、メシアンと矢代秋雄はフランス留学時代の師弟関係がありましたし、
ピアノ協奏曲第三楽章の後半の展開に悩んだ矢代秋雄が中村紘子に
「何かいい方法があったらぜひ教えて」と懇願したエピソードから考えると
確かにぴったりのタイトルかもしれませんよね。
この日の演奏は、中村紘子も東京交響楽団も指揮者の秋山和慶も大変素晴らしい名演を聴かせてくれ
とにかく素晴らしい前半の協奏曲だったのですけど、後半のメシアンはあまりにも曲が難解すぎたせいか
曲の途中なのに席を立つ人が続出というのは何か気の毒でした。

あまりにも前半の矢代秋雄のピアノ協奏曲が素晴らしすぎたというのもありますし、
メシアンを同時に聴いてしまうと
矢代秋雄ですら優しく平易に聴こえてしまうのは、何か面白い感覚ではありました。
ロシアの作曲家の作風は、プロコフィエフ・ショスタコーヴィッチ・チャイコフスキー等に代表されるように
「極端から極端へ」と作品の幅の広さは底なし沼のように深い気もします。
当ブログでもよく書いている事ですけど、例えばプロコフィエフも若い頃は例えば、交響曲第2~3番、スキタイ組曲、道化師等
かなりグロテスクで悪趣味極まりない曲を作曲したのかと思えば、ロシア復帰以降は、シンデレラ・ロメオとジュリエット・
ピーターと狼、交響曲第7番・戦争ソナタなどのように大変分かりやすくて親しみやすい曲を作曲していますし、
その最晩年は交響曲第7番「青春」というまるで幼少期を回顧するかのような甘いメロドラマのような曲を残し、
特に交響曲第2番と5番と7番が同じ作曲者であるとは到底思えないようなほどの違いというのか、
その作風の落差の大きさには唖然とさせられるものがあったりもします。
それはショスタコーヴィッチも似たような側面があり、「20世紀最大の名作交響曲」と誉れ高い交響曲第5番「革命」も
その一つ前のシンフォニーの交響曲第4番のまるでマーラーとシェーンベルクを足して二で割ったとした言いようがない
とてつもなく難解で抽象的な作品であった事を考えると、やはりその振り子の幅の大きさには呆然とするしかない・・という
感じなのだと思います。

そうしたロシア人作曲の作風のとてつもない変化という観点ではストラヴィンスキーの右に出る者はいないのかもしれないです。

ストラヴィンスキーは、火の鳥・ペトルーシュカ・春の祭典という三大バレエ作品でもって音楽史に名を残すことになり、
特にペトルーシュカの複調と春の祭典の野蛮極まりない原始主義(バーバリズム)は音楽史の上でも
光り輝くものが間違いなくあると思われます。

バレエ音楽「春の祭典」の初演時には、音楽史上最大級とも言える賛否両論の怒号が飛び交う大スキャンダルが
発生したと伝えられますが、確かに20世紀初頭のパリの聴衆の皆様にとっては、この精緻なリズムと音色ととてつもなく野蛮な
大音響が交錯する記念碑的な作品と初めて接した時には、確かに困惑と衝撃以外の何物でもなかったのかもしれないです。
21世紀の感覚で聴くと、インパクトという意味では今現在聴くと、「それほど驚くべきほどの音楽では無い」等色々な意見は
あると思いますし、当時ほどの新鮮さはないかもしれませんが、
後世に何かメモリアル的なものを残したという意味ではその意義は大きなものがあると言えるのだと思います。
ファゴットの最高音域の音で始まる出だしからして新鮮と異端さが混在したものもないのかもしれないです。
この曲は、「リズム感・躍動感・人間の本能としての生への意識というものが曲の隅から隅まで伝わってきていると思います。
CDで聴いても生で聴いても、その迫力・躍動感にはただただ脱帽するしかないと思います。
生で聴いてみると分るのですが、春の祭典はそれ程多種多様な打楽器を使用している訳ではありません。
ティンバニ・大太鼓・シンバル・ドラ・タンバリン・ギロ程度です。
管楽器も確かに大規模編成ですが、特に目立つ特殊楽器は使用していません。
それでもあれほどの圧倒的サウンドを出せるのですから、オーケストラは究極のシンセサイザーと言えるのかもしれないです。

この「春の祭典」は、もしかしたら、ハチャトゥーリアンの交響曲第3番「シンフォニーポエム」と同じように、人生に対して
暗さ・厭世観・絶望しか感じ取れない人たちには是非一度は聴いて欲しい曲なのかもしれないです。
春の祭典は、人間の本能から「とにかくどんなことがあっても生きろ!」というメッセージが伝わってきそうですし、
シンフォニーポエムは「明るい! そうだ! 全てが明るい!!」というウルトラ超前向きなメッセージとか伝わってきませんし、
とにかくあの大音響をボリュームいっぱい聴きまくれば、
「そのうちなにかいい事が起きるのかも・・それまでは出来る限りしっかりと生き抜こう!」という意欲が自然と湧き起こるのかも
しれないです。

そうした大音響と複雑で精緻極まりない「春の祭典」なのですけど、ストラヴィンスキー自体は、もしかしたらなのですけど
「こうした春の祭典みたいな路線は聴衆からもすぐに飽きられてしまうと予想されるし、二番煎じの曲もたくさん
出てくるだろう・・
その前に自分自身も春の祭典とは異なる路線をスタートさせないと、すぐにクラシック音楽界からは飽きられてしまう」という
想いもあったのかもしれないですし、
「春の祭典はあれはあれで一つの頂点なのだけど、ああいう路線を生涯貫き通すのは無理かもしれないし、
そろそろ何か新しい作風で新しい作曲家人生をスタートさせてみたい」という気持ちもあったのかもしれないです。

そして春の祭典からわずか7年後の1920年に作曲されたバレエ音楽「プルチネルラ」でもってストラヴィンスキーは、
春の祭典に代表される原始主義路線から一転して新古典主義音楽へと転換を果たします。
ちなみに新古典主義とは、簡潔に言うと、18世紀の音楽の旋律と形式をそのまま使いながら、
新しい管弦楽法で音楽に新しい命を吹き込んだ音楽的路線を指すものであり、
従来のドイツの正統派の形式を重視した重厚な音楽でもないし、過度なロマンでもないし、
ドビュッシーやラヴェル等の印象派とも少し違うし、ストラヴィンスキーの原始主義とはかなりかけ離れたものでもありました。
ストラヴィンスキーの新古典主義は第二次世界大戦後の1950年代まで長期間続いていくのですけど、
晩年にはそうした新古典主義すらも超越したストラヴィンスキー独自の十二音技法に辿りついたりと、
その生涯においての作風の変化は凄まじいものがあり、ストラヴィンスキーがよく100の顔を持つ作曲家とかカメレオンと揶揄
されるのも作風の変化の唐突さと激しさがあるのかもしれないです。

ストラヴィンスキーが春の祭典という原始主義を乗り越えて新古典主義という新しい作風に突入していったのは
1920年頃のバレエ音楽「プルチネルラ」なのですけど、 バレエ音楽「カルタ遊び」はストラヴィンスキーの新古典主義が
絶頂期の頃の作品と言えるのかもしれないです。

私自身、このバレエ音楽「カルタ遊び」を初めて聴いた時には既に春の祭典・火の鳥・ペトルーシュカの一連のあの
三大バレエ音楽を聴いていた後でしたので、「春の祭典」の過激さが見る影も無く後退し、
そのシンプルさに驚いたものです。
作曲家の作風ってここまで劇的に変化するものなのだと初めて実感した瞬間でもありました。
(後述しますけど、私自身が初めて「カルタ遊び」を聴いた演奏と言うのは、例によって吹奏楽コンクールでして、
1978年の玉川学園高等部の自由曲の演奏がそうでした)

最初に「カルタ遊び」というタイトルを耳にした時、「カルタ」というと、どうしても日本人の習性として
お正月に遊ぶあのカード遊び、すなわち「犬も歩けば棒に当たる」なんていうことわざカード遊びみたいなものを
思わず連想してしまうのですけど
ストラヴィンスキーが意図した「カルタ遊び」というのは、ポーカーゲーム、つまりトランプの事なのです。

これって邦訳ミスなのかもしれないですね。

カルタ遊びなんてタイトルを付けてしまうと、私のように「犬も歩けば」を連想してしまう人続出なような気もしますけどね(汗)

この曲の管弦楽の原曲を初めてCDで聴いたのは、サロネン指揮/フィルハーモニア管弦楽団でした。
火の鳥のカップリング曲として収録されていましたし、後年のネーメ・ヤルヴィもこの曲をchandosで録音していました。

前述の通り「カルタ遊び」という曲を初めて耳にしたのは、実は管弦楽版ではなくて吹奏楽アレンジ版としてでした。
1978年の玉川学園高等部が全国大会の自由曲として演奏したものでしたけど、
まさかこんな地味な曲を吹奏楽で演奏するなんて今では考えられない話なのかもしれないです。
この曲を吹奏楽コンクールで演奏したのは玉川学園が多分最初で最後だと思います。

1978年の玉川学園のカルタ遊」は、今現在の感覚で聴くと大変興味深いものがあります。
曲の内容があまりにも地味すぎるという事もあり、この曲のチャームポイントはどこにあるのかな・・?と考えながら聴くと
それはそれで面白い聴き方もできると思います。
レコードでこの演奏を聴くと分かるのですけど、曲自体あんまり盛り上がりませんし、
別にドラマも葛藤も強奏も派手にどっかーーんと盛り上がる部分はほぼ皆無です。
どちらかと言うと「洒落っ気」を小粋に楽しむという感じの演奏だと思います。
玉川学園が演奏したのは第3ラウンドですけど、原曲で使用される打楽器はティンパニと大太鼓のみです。
玉川学園も打楽器はそれ程使用していませんし、金管も比較的大変巧みにコントロールされています。
木管はべらぼうに上手いですね!!
こうした聴かせどころが大変難しい曲をこれだけ音楽的に仕上げられるというのは、実は大変難しい事だと思うのですけど、
そうした難しさを全然難しいとも感じさせずに、どちらかというとあっさりめにと感じさせるくらい
楽に聴かせるのが上手いとも感じたものですし、
何よりも地味な曲をここまで音楽の内容として立派に表現されていたのは今現在の感覚で聴いても驚きしかないです。

玉川学園高等部は、前年度と前々年度はドビュッシーの「三つの夜想曲」とラヴェルの「ダフニスとクロエ」第二組曲といった
王道的なフランス音楽を自由曲に選び、
この年の翌年と翌々年はコープランドの「戸外の序曲」とリードのアルメニアンダンスパートⅡといった
吹奏楽オリジナル作品を絢爛豪華に響かせていました。
考えてみると、1976年~80年の5年連続金賞演奏の中で、
最初の二年間は上品さと気品さをテーマにし、最後の二年間は若さとエネルギー爆発をテーマにしていたようにも
聴こえるのですけど、
その中間にあたる1978年の演奏がこうした地味で粋な曲というのも全体の中では「シンメトリー」みたいな印象もあり、
興味深く感じたものでした。

余談ですけど1980年の玉川学園のリードのアルメニアンダンスパートⅡ~Ⅲ.ロリからの歌のあの凄まじいテンポの速さは
本当に圧巻の仕上がりでした!
この曲の演奏はカットされて演奏される事が多いのですけど、一切カットをしないで、一気に駆け抜けていったあの快速感は
今現在聴いても惚れ惚れするものがあります。
冒頭が大変重厚で重苦しい雰囲気なのですけど、農民の嘆きみたいな雰囲気を 十分に伝えていてとても素晴らしかったです。
アレグロに入ると、とにかく速い、速い、速い・・・!! だけど速いのだけど音楽自体は崩壊していないし、
適度な緊張感もキープしていますし、
1979年の尼崎西のような「煽りまくった猪が突進するような演奏」ではない所がすごいと思います。
この年の玉川学園のサウンドの透明さ・音の洗練さはまさに「一つの極限」に達していて
あんなにテンポを速めに設定し飛ばしに飛ばしていても少しも「煩い!!」と感じる事はなく
サウンドがとても美しく響いているものですから、逆に「洗練された印象」すら与えてしまいます。
そうそう、自由曲全体を通してシロフォーンの硬質な響きが実にいい味を出していると思いますし、
シロフォーンの硬質な甲高い響きが曲全体の中で大変見事なアクセント効果を出していたと思います。
そして中間部のしっとりとした歌いかたが大変素晴らしく感涙ものです!
あのしっとりとした「お涙ちょうだい・・」というしっとりとした抒情的な演奏は、前半の壮絶なスピード感との対比という意味で
大変斬新で鮮やかなものがあったと思います。
中間部のクラリネットの美しい音色は、とてもこの世のものとは思えないはかなさもありましたし、同時に
色気も感じられ本当に「美的限界」を超えた演奏だと思います。
中間部の最後を締めくくるホルンの二重奏も大変素晴らしかったです。
玉川学園高等部がすごいのが、ここから先があまりにも超絶的演奏のオンパレードという点でありまして、
「演奏者たちは本当に人間なのか・・!?」というとてつもない世界を普門館の聴衆たちに聴かせていました。
ラストに向けての追い込みがとにかくお見事だったと思います!
こういうエネルギッシュな演奏は往々にして後半息切れというパターンが多い中、パワー不足とか息切れという現象は全く無く、
中間部でしっかりと金管セクションが休んでエネルギーを充当し、再度後半の追い込みで
エネルギーを大爆発させてくれていたのだと思います。
後半のホルンの雄叫びもほぼ完璧に決まっていましたのは圧巻です!
トロンボーンのあの強奏状態での 「はもりの美しさ」は、本当に「伝説の名演」に相応しいと思います。
最後まで一直線で何の迷いもためらいもなくひたむきに駆け抜けてくれた素晴らしい自由曲だったと思いますし、
5年連続ゴールド金賞のラストを飾るのに相応しい演奏を聴かせてくれたと思います。

話をバレエ音楽「カルタ遊び」に戻させて頂きますと、バレエ自体は大変ユニークなものがあると思います。

このバレエの副題が「三回勝負のバレエ」となっているように
第一ラウンドから第三ラウンドまでの計三回に渡るポーカーゲームをバレエとして表現したものです。
バレエの踊り手は、ご丁寧な事に、それぞれがトランプの模様の衣装を身に付けて踊り、
トランプの札として描かれている事に最大の特徴があると思います。
最後は、ポーカーゲームの胴元というか、ディーラーの巨大な手によって全てのコイン・カードが運び去られて
終わりというのもいかにも賭けらしいお話でありユニークなものを感じさせてくれますね。

この曲は下記の三楽章(三ラウンド)から構成されています。

第1ラウンド

1.序奏
2.パ・ダクシオン
3.ジョーカーの踊り - ストリンジェンド
4.ワルツ

第2ラウンド

1.序奏
2.ハートとスペードの行進曲
3.クィーンの5つのヴァリアシオンとコーダ
4.行進曲
5.一同の踊り

第3ラウンド

1.序奏
2.ワルツ
3.スペードとハートの戦い
4.結尾/ハートの勝利

このバレエ音楽は三ラウンド共に、「序奏」で開始されるのですけど
これは三ラウンド共に、基本的には同じメロディーによる序奏です。

例えて言うと、ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」の「ブロムナード」に少し構成が似ています。

展覧会の絵も、曲と曲の間には「プロムナード」の主題が繰り返し使われていましたけど
カルタ遊びも序奏の部分は繰り返し同じメロディーが流れます。

この曲の一番の聴きどころは第三ラウンドだと思います。

この部分では、ドリーブの「コッペリア」とかロッシーニの「セビリアの理髪師」がかなり分かり易い形で引用されていて
とっても楽しいし、ストラヴィンスキーのいたずら心が冴えわたっているといった印象があります。

昭和の頃には、ゲーセンとかでよくポーカーのゲーム機が置かれていましたけど、
最近はゲーセンすら段々と廃れつつある時代になっていると思いますし、こうしたゲーム自体。ゲーセンではなくて
自宅や電車内でスマホまたはPCで楽しむ時代というのも時代の変化なのかもしれないですね。
マルコム・アーノルドと言うと、最近はさすがに一時のブームによる人気のピークは過ぎたと思いますけど、
日本の吹奏楽コンクールと言う非常に狭い世界ではかなりの有名人だと思います。
先日の当ブログの記事においてもアーノルドの組曲「第六の幸福をもたらす宿」の事を取り上げさせて頂きましたが、
この組曲と今回取り上げさせて頂く序曲「ピータールー」と交響曲第2番でもって日本の吹奏楽界における
アーノルドの知名度は一気に高まったと言えるのはほぼ間違いないと感じております。
一方管弦楽の世界では母国イギリスは別としても日本においては
いまだに残念ながら「知る人ぞ知る」という領域なのかもしれないのは歯がゆいものがあったりもします。

アーノルドと言うと一番有名なのが、映画「戦場にかける橋」の映画音楽を作曲した人という
事なのでしょうけども、その中で特に「ボギー大佐」のアレンジが一番ポピュラーといえるのかもしれないです。
(「ボギー大佐」はアルフォードが1914年に作曲した行進曲です)
この戦場にかける橋は後日、管弦楽組曲としてもまとめられていますけど、その中の第二曲がそのボギー大佐です!
ちなみにこの映画音楽のメインテーマになっていて、組曲版の終曲にもなっている「クワイ河マーチ」は
アーノルド自身が作曲したものです。

日本の吹奏楽において、アーノルドの知名度がここまで飛躍的に高まったのは序曲「ピータールー」の存在が大きいと言えると
思います。
この曲の支部大会以上での初演は多分ですけど埼玉県の川口アンサンブルリベルテの1989年の関東大会の演奏だと
思います。
(アンサンブルリベルテというと1990年のバレエ音楽「せむしの仔馬」の超名演が大変印象的ですけど、その1年前の自由曲が
このピータールーでもありました!)
全国大会初演は1993年のJSB吹奏楽団ですけど、この曲の過去における最大の名演は私的には、
1995年の浜松交響吹奏楽団だと思っています。
導入部のゆったりとした響きに対して小太鼓乱入以降の荒ぶる響きの迫力にラスト近くのコラールの感動性は
もう涙無しには聴けないのかもしれないです!
それ以外では1999年の飯能西中学校もある意味大変ユニークな演奏を聴かせてくれています。
冒頭から音程はずれているしホルン等の音外しやミスは目立つし、ラストはトランペットのパワー不足によって、
あの輝かしい響きの部分はなぜかソプラノサックスが異常に目立ってしまうなど技術的には惨憺たるものが目立ちましたが、
なぜか表現に惹きつけられてしまう「何か」は持っていたような気もします。

序曲「ピータールー」は10分前後の曲ですけど、黙って目を瞑って聴いていると、

「この部分は、抗議する群衆に発砲する騎兵隊の横暴さを描いている」
「騎兵隊によって一旦は鎮圧され、武力に屈した屈辱感と寂しさを表現したのはオーボエのもの哀しいソロの部分だ」
「権力者たちにはいつかこの日の報いを受ける時が来る!!
必ずや自分達が求めた参政権・選挙権を得る日がやってくる!
自分達の正義はいつの日にか歴史が証明してくれるはずみたいな正義感・高揚感を示唆したのは
ラストの高らかなトランペットのファンファーレとチャイムの響きである!」
「小太鼓三台を用いた軍隊の横暴さと進撃を暗示したもの」
「安らかで穏やかに開始された序奏に、唐突に乱入してくる小太鼓のロールの響きと荒々しい金管の響きは、
権力者たちの地位を守る為なら、多少の民間人の犠牲は仕方がないという権力者たちの傲慢を示唆している」

そういったイメージが、いとも簡単に脳裏に思い浮かんでくるのですけど、
脳内のイメージを「音楽」という物語で私達の脳にすーーーっと染み込ませてくれるアーノルドの作曲家としての腕の確かさに
敬意を表したくなりますしあの研ぎ澄まされた表現力の素晴らしさには脱帽するしかないです。
口の悪い人ですと「こんな曲、単なる描写音楽に過ぎないじゃん!」と言われるとは思うのですけど、
聴く人に「音楽によって具体的イメージを伝えること」をきちんとやっているアーノルドは本当に素晴らしい作曲家だと
思います!
第二次世界大戦後の作曲家の先生たちはどちらかというと「技巧」・「音符の並べ方」にどちらかというと神経を注ぎ、
肝心要の「誰かの心にすーーーっと何かを伝える事が出来る力=音楽」という事を忘れた理屈っぽい人が多いようにも思える中、
アーノルドの「分かり易さ」は特筆に値するものと思います。
コンピューター音楽・無調音楽等のあまりよくわからない現代音楽が闊歩していた20世紀において、
こんなにも描写がはっきりしていてメロディーラインが分り易くて、
メッセージ性が強い何を言いたいのかがはっきり伝わってくる音楽が20世紀にも存在していた事に驚かされるものが
あります。

この曲の背景なのですけど、

1819年8月16日にイングランド・マンチェスターのセント・ピーターズ・フィールドで発生した虐殺事件をベースにしていて
歴史的事実に基づいた曲でもあります。
この広場で選挙法改正と参政権拡大を求めて集会を開いていた群衆に政府軍の騎兵隊が突入して鎮圧を図り、
多数の死傷者が出る大惨事・大虐殺を招いたという大変な事件でもありますが、このピータールー事件が起きていた頃に
日本においては「大塩平八郎の乱」が起きていたりもします。
両事件とも時の権力者に対する「民衆の怒りの声の代弁」という意味では、かなり共通した要素がありそうな感じもあります。

出だしのゆったりとした平和的なテーマに突然、小太鼓三台による乱入が始まり(厳密に言うと一台は途中から加わります)
政府の武力的鎮圧を象徴するような激しい音楽が展開されていきます。
その激しい部分はドラのゴワワーーンという大音量と共に閉じられ、一旦静まるのですけど、
その後に続くオーボエのもの哀しいソロが大変印象的です。これは犠牲者に対するレクイエムなのかもしれないです。
そしてその後に金管セクションによる「自分達はこんな暴力に絶対にに屈しない!!」というテーマが高らかに鳴り響き、
壮麗なチャイムの響きに合わせて感動的に曲は閉じられていきます。

曲は本当にシンプルなもので、難しい表現とか過激な不協和音はほぼ皆無です。
前述の通り、 ここはデモ隊と政府軍の激突シーン、
デモ隊の撤収とか手に取るようにその場のシーンを容易に想像できることがすごいと思います。
「音の絵巻」と言っても差し支えはないと思います。

小太鼓三台のロールというのは視覚的にも聴覚的にも相当のインパクトはありますが、
要所要所でピアノがピシっとリズムを決めている箇所があり、相当全体を引き締めている役割があると思います。
特に後半のあまりにももの哀しいオーボエのソロが開始される前のピアノの
無表情な打撃音は痛々しいのだけど、ある意味大変無機質で効果的なのかもしれないです。
ラスト近くのチャイムの響きも、「自分たちは絶対に屈しない!!」というメッセージを予感させるようなものであり大変効果的です。

序曲「ピータールー」の吹奏楽版は吹奏楽コンクールでも演奏会でも何度も聴いておりますけど、
管弦楽の原曲演奏は、2006年のオペラシティの東京交響楽団でしか聴いた事がありません。
是非是非、アーノルドの交響曲と共にこの素晴らしい序曲も生の演奏会で演奏して欲しいと切に感じています。

この曲をCDで聴く場合・・・・

ヴァーノン・ハンドレイ/BBCコンサート管弦楽団が断然素晴らしいと思います。
バーミンガム市響によるアーノルド本人による自作自演の演奏も実に明確な意図が伝わり「さすが!」と思います。
ハンドレイ指揮の演奏の後半のテンポの遅さはすごいものがありますし、いかにもたっぷりと歌い上げている
感じは濃厚ですね。




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ここから先は完璧に余談ですけど、上記の「ピータールー」の話は欧米における血みどろの激闘の果てに
専制君主から立憲主義・共和制・民主主義をもぎ取っていった産みの苦しみを示唆した事でもあると思うのですけど、
19~20世紀における世界各地で多発した絶対的な君主制から共和制・民主主義へと移行するその過程においては、
とてつもない民衆の血が流され、その多大な犠牲の末にようやく実現したのが今日の議会制民主主義と言えるのかも
しれないです。
だけど結果的に今日の議会制民主主義は多くの矛盾と問題点を内在し、機能不全に陥っている傾向も無きにしに非ずと
思わざるを得ないのですけど、そうした民主主義を実現する過程において流された無数の流血・犠牲者を考えると
「民主主義って一体何なのだろう・・?」とふと頭を過る事もあったりもします。
そしてそうした民主主義の問題点を示唆した話が歴代プリキュアでも屈指のギャグシリーズともいえそうなスマイルプリキュア
において展開していたのは大変興味深いものがあったと思います。
スマイルプリキュアの第37話「れいかの悩み!清き心と清き一票!!」が意味している事は、
政治の使命と言うものは、国民にとって耳触りのいい事ばかり言い続けることはむしろその国家自体の将来的な破綻に
繋がる事もありそうですし、単なる人気取り政策ではダメだという事を言いたいのかもしれないです。
そしてそこから見え隠れしているのは民主主義体制の一つの限界なのかもしれないですし、
民主主義というものは場合によっては現在のイギリス議会が袋小路に陥っている「結局何も決められず時間だけが過ぎていく」
という落とし穴の危険性も秘めているという事なのかもしれないです。

一見するととてつもなくしょうもない話に見えてしまうスマイルの第37話なのですけど、意外と深い話でもありまして、
ポピュリズムというか衆愚政治の是非についても問いかけをしている作品のようにも感じたりもします。
このスマイルの第37話が放映されていた頃は、当時の総理大臣・野田氏と現総理の安倍氏が国会討論の場において
「定数是正と国会議員の削減を真剣に検討すると約束するならば、国会解散&総選挙に応じましょう」と言う事で
一気に「選挙モード」に突入していった時期でもあるのですけど、
制作者サイドの「政治ってこんなものでいいの・・?」みたいな問いかけも少しは含んでいたのかもしれないです。

スマイルの37話はみゆきたちの通う中学校の生徒会長選挙を巡る話でもありまして、
れいかは一般生徒に対しては
「清掃をきちんとしましょう、校内のルールはちゃんと守りましょう」と至極当たり前の事を言っているのですけど
一般生徒にとっては、「なにを頭の固い建前論ばかりいっているんだ」といった感じ方をするのかもしれないです。
れいかが主張している内容は妥当性は十分にあるのですけど、
必ずしもれいか自身の言葉で語っている訳ではなくて、表面的な建前を言っているに過ぎないという雰囲気も
そこにはあったのかもしれないです。
それだからこそれいかに対する生徒からの受けや反応はあまり芳しくありませんでしたし、
れいか自身が迷ってしまう素描があったりもします。
(弓道シーンでれいかが珍しく的を外すシーンはれいかの心の迷いなのかもしれないです・・)
それに対して、ウルフルン達は、
宿題廃止とか校内でゲーム容認とか校内にお菓子持込みOKといった耳触りの良い
生徒にとっては受けが良い主張を展開する事で、
一般生徒からの高い支持を受けることになってしまいます。
これって別に漫画やアニメの世界のお話というのではなくて、現実社会というか2009年頃の日本でも実際に起きていたのは
ある意味怖ろしい話でもありますし、ここから感じ取れるのは、
国民にとって耳触りの良い話をマスコミを通して盛んに煽り、選挙と言う合法的な手段で政権を奪取し、
政権を一度取ってしまい自分たちにとって都合のいいように法律さえ変えてしまえば、国民にとっては後の祭り状態に
なってしまう事も決してありえない話ではないと言う事なのだと思われます。

「国民の皆様に子ども手当を支給します、子供一人当たり一律26000円を至急させて頂きます」
「消費税は据え置きします」
「ガソリン税を廃止します」
「財源・・?? そんなの官僚を締め上げてムダを削ればいくらでも出てくる!! 隠れ財源も山のようにあるはず」
「最低でも県外に基地は移転させます」

そういった出来る訳も無い「甘い事」を散々並べて結局は勢いと耳触りのよい都合の良いことだけを述べる事だけで
国民の支持を取り付けて選挙に圧勝して政権を取ったものの、結局は、
「すみません、やっぱり日本にはそうした財源はありませんし、アメリカとの絡みがあるからそんな事は出来ません」となり、
結果的に国民の失笑と失望を招いた今はとっくに消滅してしまったどこかの政党と大した違いがあるとは思えないです。

民主主義は言葉が独り歩きして「絶対的に正しいもの!!」みたいに思われてしまう傾向にあるのですけど、
これって大変難しい問題も含んでおりまして、
決して絶対的に正しいシステムとは到底思えないという側面もあるのではないか・・?とも思ったりもします。
選挙においてのみ、国民にウケる甘い事を散々言っておいて「政権」を一度奪取してしまえば
その後に待ち構えているのはとんでもない事態ということだって十分あり得ると思いますし、
事実、あのナチス政権だって、当初は合法的な選挙で選ばれた政権であったりもします。

難しいのですよね・・・・

国民にとって耳の痛い政策や痛みを伴う政策を唱えると選挙での当選が難しくなってしまうし、
「未来の国や国民」の事を本気で心配すると、今現在において痛みを伴う政策を施行しないと
その未来に地獄しかない場合だってありますし、
そのためにはちゃんと「耳に痛い事」をきちんと提示しなければいけないことだってあると思うのです。
選挙というものは「単なる人気取り」ではないと思うのです。
きちんと国民にとっては不都合な事実も提示した上で
「そうした事態を回避するためには、取り急ぎ今は、こうした事をやらないといけない!!」ときちんと説明するのが
政治家の第一の役割だと思うのですけど、 実態はほとんどが自己保身と先送りばかりする政治家ばかりというのも
そこに民主主義の弱点があるように感じてしまいます。

政治家の役割の一つは「国民に未来図をきちんと提示・説明をする事」
国民が果たすべき責務は、「未来に対してきちんとビジョンを描けている人に選び信託する事」 だと思うのですけど
それが出来ないから 今後必ず日本の未来に暗い影を与える「財政破綻」の問題とか
歴代政権が行っているばらまき政策が日常茶飯事になっていると言っても過言ではないと思ったりもします。

私自身、民主主義はベストな政治形態とは全く思っていませんし、「他に代るべき政治形態がないから仕方なく次善的に
行っている政治形態」と考えています。
冒頭で記したピータールーの話は、18世紀頃までの絶対的な君主制から民衆が政治決定のプロセスに参加するための
血みどろの歴史でもあったのですけど、そうやって血まみれの苦闘の果てに実現した民主主義が
結局は衆愚政治の愚かさとか本当に大切な事を何も決められない事の不幸とか
官僚たちが時の政権の顔色ばかり見てしまう忖度が本当に事実として起きてしまうという結果にしかならない事を考えると
当時の犠牲者の皆様に申し訳ない・・という気持ちにもなったりもします。

確かに、第二次世界大戦の悲惨さ・戦後の荒廃から考えると、民主主義が一定の効果を果たしたのは間違いない事実です。
だけど古い民主主義をいつまでも維持するのはいかがなものなのでしょうか?
そろそろ国民全体で、「民主主義とは何?、自分達一人一人はいかにして自分達の意思を代表者に
託すべきなのか? 代表者とはどうやって選ばれるべきものなのか?
その代表者にどのような権限を与えるべきなのか、又そのチェック&抑制機能はどうすれば良いのか?」
などを真剣に考える必要が来ているのかもしれないです。
今年の冬は暖冬で大変ありがたいです!

そしていくら暖かいとはいえ冬は冬でもありますので、朝晩の冷え込みはやはり冬らしさは同じなのかもしれないです。
だけどそうした冬も間もなく終焉を迎えつつあり、季節は間もなく春到来という事なのだと思います。
こうやって春が到来すると、気持ちの上でも爽やかとか気持ちがウキウキとしてきたみたいな感じもしますね。
そうした春到来というとクラシック音楽のにも色々とそうした春の気分に相応しいすてきな曲も色々とあるとは思うのですけど、
(そうした曲の中で素晴らしい曲を一つお伝えすると、J.シュトラウスのワルツ「春の声」と言えるのかもしれないですね!)
私にとっては、そうした「春の気分」に相応しい曲をあげると
イギリスの作曲家、ヴォーン=ウィリアムスが作曲したロマンス「あげひばり」も素晴らしい曲だと思います。

よくこの曲は「揚げひばり」なんて表記をされることも多々ありますけど、
この表記には抵抗があるというか、あれは多分ですけど「誤訳」の一つだとも思ったりもします・・
だって、「揚げひばり」じゃいかにもなんか「鳥のから揚げ」を思わず連想してしちゃいますよね・・(汗・・!)
そしてまたまた「鳥のから揚げ」なんて書いたりすると、東方Projectの聡明な鴉天狗の文ちゃん=射命丸文が
嫌そうな顔をされるのかもしれないです。

「あげひばり」というのは、
イメージでとらえると、鳥が上空に向かって華麗に舞いあがっていくという感じなのかな・・?と思ったりもしますね。

ロマンス「あげひばり」ですけど、曲自体それ程長くもありませんし、
楽器編成も独奏ヴァイオリンと小さな管弦楽というスタイルで、これに打楽器がトライアングルのみ加わります。
この曲、冒頭がとてつもなく魅力的でうっとりとさせられるものがあります。
管楽器の扱いも極めて巧みですし、優雅でロマンティックな雰囲気がよく出ていますし、
何か冬らしい哀愁みたいなものと春へと向かう希望みたいなものもほのかに伝わってきている曲だとも思います。
協奏曲という感じではないけど、独奏ヴァイオリンが主役とも言えそうでして、
このソロヴァイオリンが、メロディー的においしい所を全て一人で持って言ってしまっているという印象が極めて濃厚です。

このすてきな小品が作曲されていた頃、ヴォーン=ウィリアムスはほぼ同時期に交響曲第三番「田園」を作曲しています。
交響曲第三番とあけひばりを聴き比べてみると、作曲者としての意図はほぼ同じみたいな感じもあると思います。
勿論、メロディーラインとか構成が似ているという意味ではなくて、曲全体が終始ゆったりとした部分のみで作られている所が
「両曲は似ているのかな・・?」みたいに感じさせる点なのだとも思います。
この交響曲第三番「田園」も少しヘンな曲でして、
曲全体を通して盛り上がる箇所が一つもありませんし、強奏部分もほぼ皆無です。
終始ゆったりとした退屈な冗長的な音楽が終始だらだら展開されていきます。
ま、その点「あげひばり」は短いし、 構成がしっかりしているし、メロディーラインが引き締まっているから
退屈さを感じさせないのが違いと言えるのかも しれないですね。

改めてですけど、イギリスの作曲家、R.ヴォーン・ウイリアムズが残した曲は素朴で美しいメロディーラインが多いと思います。
そうした曲の中では、あけひばりと交響曲第3番以外では、
タリスの主題による幻想曲とかイギリス民謡組曲などがメロディーラインが素朴で美しくとても分かり易いと思います。

反面、ヴォーン・ウィリアムスは、
交響曲第4番のように何の前触れも無く唐突に、不協和音と激しい表現に溢れた悪意満載のような曲を書いたかと思えば、
交響曲第7番(南極交響曲)のようにやや安っぽい感じの描写音楽を作曲したり、
創意工夫の塊りのような霊感溢れる交響曲第8番を書いた後で、 「この世にやり残しがある」みたいな未練たらたらの
交響曲第9番を残したりと作風は意外と幅が広いような印象もあります。

そうそう、「チューバ協奏曲」なんてかなりお茶目な曲も残していたりもします。

ヴォーン・ウィリアムズの代表作と言えば何と言っても「グリーンスリーヴスによる幻想曲」が一番有名でしょうし、
あの冒頭のフルートソロのメロディーを「聴いたことが無い」という人の方が珍しいと思えるくらい日本でも馴染みがある曲です。
この曲は楽譜の上では「オプション扱い」となっていますが、 冒頭のフルートソロがやはり素晴らしいですよね。
正直この曲にフルートが入っていないと、曲の魅力は半減すると思えるくらい、大事な役割を担っています。
あのフルートソロを聴くと、 「あー、何か哀愁が漂うけど、何か心が癒されるな」と思ってしまうほど
大変美しいメロディーラインが続く曲です。
この曲は、元々は、イングランドの古い歌というか、民謡の「グリーンスリーヴス」なのですけど、
この歌自体は大変歴史が古く、実は、シェイクスピアの喜劇「ウィンザーの陽気な女房たち」にも
その名前が既に言及されているほどです。
ヴォーン・ウィリアムズはこの喜劇を基にしたオペラ「恋するサー・ジョン」を1928年に完成させ、
その第3幕の間奏曲でこの美しいメロディーを使用し、 この間奏曲を、後にヴォーン=ウィリアムス自身の立会と監修の下、
ラルフ・グリーヴズが編曲し独立させた作品がこの曲なのです。

ま、だから厳密に言うとヴォーン=ウィリアムズ自身の純粋なオリジナル曲ではありませんけど、
とにかくあの美しいイギリスの歌をここまで世界に広めた功績は大きいと思います。

話がそれました・・

ロマンス「あけひばり」は、私はこれまでのところ、一度しか生演奏を聴いたことがありません。
その唯一聴いた演奏会というのは、東京交響楽団の定期演奏会でした。
確か当時の東京交響楽団のメインスポンサーは「すかいらーく」でした!
ところで「スカイラーク」を邦訳すると、これが「あけひばり」という意味なんですよね!
あの演奏会では、この「あげひばり」は一番最初の曲として演奏をされていましたけど、これも一つの
「スポンサーへの配慮」という事なのかもしれないですね・・(笑)

話は全然違うのですけど
「すかいらーく」という店名自体確か既に「死語」の世界だと思います。
「すかいらーくグループ」は、ファミレス系統は全て「ガスト」に切り替え済だし、
ファミレスの名前としての「すかいらーく」は2009年をもって消滅をしています・・
今や「すかいらーく」グループに、バーミヤン・藍屋・夢庵・ステーキガスト・ジョナサン等が加わり、
今や日本を代表する外食チェーングループになっていますけど、
子供心にもファミレスというとすかいらーくとかデニーズというイメージが強かっただけに、名称自体が消える事は
ちょっとさびしいものはあったりもしますね・・
今現在はそんな事ないのですけど、初期の頃のガストは確かに単価は安いのですけど、
いかにも・・という感じの均一化された味とか客席放置とか色々と問題はあったと思います。
すかいらーくからガストへ転換されて間もない頃って「この先、この会社大丈夫なのかな・・?」みたいな不安感も確かに
あったとは思うのですけど、それをほぼ完全に払拭し、
今現在の立派に確立化された「ガストブランド」にまで進化発展させているのですから、
日本の「企業努力」には本当に頭が下がるものがあるのだと思います。

最後に・・

上記の「あけひばり」の関連ではありませんが、すかいらーくの元々の創業としての業態は
レストランではなくて、実はことぶき食品という「食品スーパー」であったという事をご存知の方は
あんまりいないのかもしれないですね。
ちなみにその食品スーパーとしての第一号店が、西東京市の「ひばりが丘団地」というのは偶然なのかな・・?
ひばりが丘団地→すかいらーく=あけひばりという流れから考えると、
元々は「ことぶき食品」という名称がレストラン化への業態転用に当たって「すかいらーく」になったのも
そうした団地名が多少は影響があったと言えるのかもしれないですね。
マルコム・アーノルドというと、日本の管弦楽団では滅多に演奏されませんけど
(たまに四つのスコットランド舞曲が演奏される程度なのかもしれないです・・)
吹奏楽コンクールにおいては1990年代において、序曲「ピータールー」と組曲「第六の幸福をもたらす宿」で一気にブレイクし、
その後交響曲第2番等のシンフォニーや他の作品も続々と吹奏楽にアレンジされ、今日に至っている感じがあります。
(ここ最近の全国大会でピータールーが演奏されないのはちょっと残念です・・泣)
M.アーノルドに関して言うと、吹奏楽で大ブレイクする以前から管弦楽作品としてピータールーや交響曲第4番等が大好きで
当時は「日本ではほぼ無名の作曲家だからこそ、自分だけのアーノルドとしてこっそり楽しみたい・・」と思っていた私にとっては
当時の大ブレイクは痛し痒しでもありましたけど、吹奏楽をきっかけとしてアーノルドの素晴らしい作品の日本での認知度が
もっともっと高まって欲しいと切に願っております。
例えば、序曲「ピータールー」のあのあまりにも分かり易い音楽的展開は、この曲を全然知らない人が聴いたとしても
事前にこの曲の歴史的背景を1分程度レクチャーされただけで、
「この部分はあのシーンを音楽的に表現している」という事はすぐに頭に思い浮かびそうなほど、とても20世紀中盤に
作曲されたとは思えないわかりやすさと爽快さがあるのは間違いないと思います。

アーノルドは序曲「ピータールー」で一気にブレイクし、吹奏楽コンクールの人気曲として定番になりましたけど、
組曲「第六の幸福をもたらす宿」の方も、1996年に文教大学が自由曲として取り上げて以降は
一気に人気曲となり、今現在に至るまで支部大会・全国大会等で演奏され続けているのは大変ありがたいものがあると
思います。

私自身、この曲の事を何も知らないで最初に「第六の幸福をもたらす宿」というタイトルだけを聞いた時は、
ある貧乏人が幸せを求めて旅に出て、お金・貴金属・名誉・地位・不動産といった幸せはそれなりに手に入れたけど、
自分にとっての「幸せとは何なのか?」という自分探しの旅のお話なのかな・・・と勝手に妄想してしまいましたけど、
実際は全然違っていました・・(汗)
実はこの組曲は映画音楽から後日抜粋・再構成をされた曲でもありまして、その映画の主な内容というものは、
第二次世界大戦下、日本軍に侵攻されつつある中国の小さな村・カンチェンを舞台に、
宣教師として赴任したイギリス女性グラディス・エイルワードを主人公に
多くの困難を乗り越え、最後に彼女としての「幸せ」を掴んでいくというお話です。
ちなみに映画のイギリス人宣教師というヒロインは、あの名女優、イングリット=バークマンが演じています。
中国の一つの考え方として、「人間には長命、富貴、健康、徳行、天寿」という五つの幸運があるけど、
これらとは別にもう一つ、その人自身が見つける、その人だけの「第6の幸運」があるとの事です。
それをテーマにしたのがこの映画なのだそうです。

私自身、この映画は見た事が無いものでストーリーについて深く触れる事は出来ませんけど、
大雑把なあらすじやアーノルドの映画音楽を聴くと映画のワンシーンは容易に頭に思い浮かんできそうな感じもあります。

この映画億楽を管弦楽用組曲としてアレンジしたのが、バルマーという方です。
この方のアレンジとか「映画の中の長い音楽を上手に美味しいところ取り」をしたその構成力には脱帽するものがありますし、
本当に巧いと感じます。
この組曲版を聴くと、巧みに劇的要素とか緊張感とか美しい部分と激しい部分の対比をまとめあげていますけど、
他にもウォルトンの映画音楽(ウォータイムスケッチブック・ヘンリー五世・メジャーバーバラなど)の
映画音楽から組曲版へのアレンジも担当されていたとの事で、
アーノルドのみならず、イギリスクラシック音楽界の大御所、サーウィリアム=ウォルトンからの信頼も
相当厚かったと言えるのかもしれないです。

管弦楽組曲「第六の幸福をもたらす宿」は三つの楽章から構成されています。

Ⅰ.ロンドン・プレリュード

Ⅱ.ロマンチックな間奏曲

Ⅲ.ハッピーエンディング

Ⅰの豪快な開始と迫力、Ⅱのフルートソロをはじめとする抒情的な美しさにも魅かれるが大きいですけど、
この組曲は何と言っても、Ⅲ.ハッピーエンディングが素晴らしいと感じます。

ハッピーエンディング冒頭は「幸福感溢れる感じから開始されるものの、トロンボーンの強烈なグリッサンドとか
金管セクションのかなり悪趣味的なpp→fffの反復などかなり緊張感に溢れています。
この部分のラストのハープの華麗なるグリッサンドはとても印象的ですけど、そこに被せるような威圧的な金管セクションの響きもまた格別です。
そしてこの部分が終わると意外な展開が待ち受けています。
何かと言うと、マザーグースの数え歌みたいな一つの民謡とも言うべき「This Old Man」の旋律が出てきます。
最初は小太鼓の軽快なリズムに乗ってピッコロが軽快に謳い上げていくのですけど、この「This Old Man」の旋律は、
徐々に伴奏が増え、旋律はさまざまな楽器に移って計13回繰返され、
実に55小節に亘る息の長いクレシェンドで奏でられていきます。
個人的にはトロンボーンのソロみたいな歌い廻しがとても大好きです。
このトロンボーンを支えるティンパニの変則的な叩き方も極めて面白いです。
最後に14回目の繰り返しで一旦頂点を迎え、少しずつ静まり返るのですけど
この後は、この組曲の「テーマ音楽」みたいな主要メロディ―を感情的にたっぷりと歌い上げていき
ラストは情感たっぷりにかつ雄大に鳴り響き、華麗に閉じられます。
特に中間部のあの執拗なメロディーラインの繰り返しは一度聴いたら絶対に忘れない程耳に焼きつきそうですし、
あの繰り返し・反復はラヴェルのボレロやショスタコーヴィッチの交響曲第7番「レニングラード」~第一楽章の
執拗な反復の世界に極めて近いものがあるのかもしれないです。

アーノルドの交響曲第2番第四楽章も、ストレス発散にはうってこいの曲ですけど、ハッピーな感覚を味わいたいと思った時の
BGMとしてこのハッピーエンディングもそうした気分にはうってつけの一曲だと思います。

この曲をCDで聴く場合、ヒコックス指揮/ロンドン交響楽団の演奏が一番素晴らしいと思うのですけど
吹奏楽アレンジ版で聴く場合、1999年の狭山ヶ丘高校の演奏が申し分ないと思います。
1996年の文教大学の演奏は、例の「This Old Man」の旋律の繰り返しが終わって以降の
高らかな歌い上げの部分は、異常とも明らかにやり過ぎとか演出過剰とも感じてしまう程の遅いテンポ設定になり、
とてつもなく遅いテンポで、牛の歩みのようにゆったりと歌いあげていき、あの解釈は好き嫌い&評価は分かれると思いますが、
(事実、この年の文教大学の評価は珍しく銀賞に留まっています・・)
私自身は決して嫌いな解釈ではないです。

組曲「第六の幸福をもたらす宿」は、吹奏楽に関わった人ならば結構知名度は高いと思われますが、
純粋に管弦楽の作品としては、知名度はゼロに等しいのかもしれないです。
元々が映画音楽として作られた音楽を組曲版としてオーケストレーションされた訳なのですが、
演奏効果も高いし、非常に分り易いし明るいし、何よりもメロディーが親しみやすいから
オーケストラの演奏会曲目になっても決して遜色はない曲だと思います。


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ここから先はほんの少しだけ余談をさせて頂きます。

2014年に放映されていた「パネスチャージプリキュア」も、この物語は「第六の幸福をもたらす宿」同様に
主人公であるめぐみ(キュアラブリー)が
「自分にとっての幸せとはなんなのだろう・・?」といった事を見つけていく物語だったのかもしれないです。

その人自身が見つける、その人だけの「第6の幸運」というのも素晴らしいですし、
めぐみのように、他人の幸せは簡単に見つける事が出来ても
自分自身の幸せの在り方とか「自分って一体なんなのだろう・・?」といった事を中々見つける事が出来ないという
ある意味中々やっかいな物語でもありましたけど、
最終的にハピネスの物語の意義とは、幸せは自分が見つけ出していくものであり、それは案外身近に潜んでいるものという
事なのかもしれないですし、
人と人との出会いや男女の出会いや自分が本当にやりたいものを見つけるという事は、「たまたま・・」というちょっとした偶然
から広がっていくものとも言えるのかもしれないですし、
アーノルドの組曲「第六の幸福をもたらす宿」~Ⅲ.ハッピーエンディングの中間部の最初は、ほんの弱音から開始されて
いくけどそれが多くの楽器を巻き込んで最終的には壮大なクライマックスを築き上げていくのと
感覚的に近いものがあるのかもしれないですね。
E.ラロという作曲家は「スペイン交響曲」という大変な名作以外はあまり馴染みがないのかもしれません。
私としては、歌劇「イスの王様」序曲という知る人ぞ知る名曲も是非一度聴いて頂きたいと思います。

この序曲を最初に耳にしたのは、やはり私らしくて管弦楽の演奏ではなくて吹奏楽コンクールの吹奏楽アレンジ版による
演奏でした。
1982年に東海代表として全国大会で演奏した白子高校吹奏楽部の自由曲がこのラロの「イスの王様」だったのでした。
(ちなみにですけど、この序曲を吹奏楽コンクールで一番最初に演奏したのは、明石北高校と兵庫高校での大変な名演が
大変印象的な1969年の松井先生指揮の明石高校でした。)
当時高校生だった私は、当然ラロなんて作曲家は聞いたことがありませんでしたし、当時はスペイン交響曲というあの
大変な名曲ですら何にも知りませんでした・・(汗)
「イスの王様」というタイトルから勝手に想像して、「イスというと椅子の事なのかな・・?」とか
「座ってなまけてばかりいる王様をテーマにしたコメディーみたいな作品なのかな?」と今から思うととんちんかんな事ばかり
連想していたものでした・・(汗)
ちなみにこの歌劇は、コメディーではなくてどちらかというとかなりシリアスで叙情的な内容でもあります。
一言で言うと、イスというのはフランスに伝わる伝説上の都市の名前で大洪水で一夜にして水没した街との事です。
その伝説に基づくのがこの「イスの王様」という歌劇で、白子高校が自由曲として演奏していたのはその序曲です。

歌劇「イスの王様」序曲はCDも結構ちらほらと出ていますけど、プロの管弦楽団でもたまにですけど、
オープニング曲として演奏されることもあります。
私自身もこの序曲のプロの管弦楽団による生演奏は、フルネ指揮の都響とフォスター指揮のN響で二回ほど
聴いたことがありますけど、感想は一言で言うと「とてつもなく地味、だけど内省的で美しくもあり時に荒々しい曲」と
いう印象があったりもします。
どちらかというと通好みの渋い曲に入るのかもしれませんけど、内容的には大変奥深い曲だと思います。
曲は長いやや暗めの序奏から開始され、アレグロ→アダージョ→アレグロの序奏付三部構成という形式で、
緩→急→緩→急という事で音楽の場面場面の切り替えが大変はっきりしていて、曲の構成はなんとなくですけど
ロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル」序曲と似ている面があるように思えます。
そして序曲の雰囲気も歌劇の雰囲気もなんとなくですけど、ワーグナーの楽劇の世界を彷彿させるものも多々あったりして
ラロという作曲家自体がワーグナーの影響をかなり受けているのかな・・?と感じさせる点も多々あるようにも
感じられます。

歌劇「イスの王様」の大まかな物語ですけど、架空の国であるイスの国がモデルになっています。
(くどいようですけど、決して家具の国の話でもありませんし、大塚家具の父娘の確執・お家騒動をテーマにした
物語でもないです・・汗・・)
歌劇全体を簡単に要約すると、
イスの王様の王女である姉妹は偶然にも同じ男性(ミリオ)を好きになってしまいます。
だけど振られたのはお姉さま(マルガレード)の方でして、お姉さまは失意のあまりやけくそになって
腹いせに敵国の王子と組んで水門を開いてしまい、イスの街が大洪水で水没しそうになるのですけど、
自責の念に駆られたお姉さまは最後にはお姉さま自ら人身御供の生贄となって海にその身を投じ
神の怒りを鎮めて水がひき最終的には街がが救われるという感じのお話でもあります。

曲自体は渋いというか、地味な印象を拭えない内省的な曲なのですけど、
出だしの長い静かな序奏が実に素晴らしいし魅力的ですし、序奏や中間部におけるしっとりとしたチェロによるメロディーも
大変美しいものがあります。
盛り上がる部分の小太鼓のロールが実にいい働きをしていますし、金管セクションの重厚な響きは大変迫力があります。
強奏部分の怒涛の三連符のリズムの激しさはリストの交響詩「レ・プレリュード」を彷彿させるものが
あるのかもしれないです。

ラロという作曲家は、ソロ楽器(主にヴァイオリン)と管弦楽のための協奏曲的な作品をいくつか残しているのですけど、
なぜかタイトルに「ヴァイオリン協奏曲」と表記せず、 超有名な「スペイン交響曲」以外でも
「ロシア協奏曲」とか「ノルウェー幻想曲」というタイトル表記を採用しています。

ラロはどういう訳か「協奏曲」というタイトルが嫌いだったのかもしれないですね。

交響詩と交響曲の境界線は大変曖昧だとよく言われますし、例えばR.シュトラウスのアルプス交響曲は
人によっては「あれは交響曲でもなんでもなくて長大な交響詩である」という見解の方もいるようですし、
はたまた人によっては同じくR.シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」は
「あれは全体を貫く主題が統一的にあるし、循環主題ともいえるから交響曲なのではないのか?」と言われる方もいますし、
結局はその境界は良く分らないというか曖昧と言うか、
作曲家が「これは交響詩」と言えば、どう見ても交響曲の体裁であってもそれは交響詩になってしまうのかもしれないですね。

ラロの「スペイン交響曲」も前述のように誰がどう聴いても形式的には「ヴァイオリン協奏曲」以外の何物でも無いと
思うのですけど、作曲者本人が頑なに交響曲と言っている以上、音楽史的には「交響曲」という位置づけになってしまうのも
大変興味深いものがありますね。

この序曲の吹奏楽アレンジ版では、上記で書いた通り1982年の白子高校の内省的だけどしっかりとその壮大な雰囲気を
表現していたのは大変印象的でした。
この年の白子高校の課題曲が、あまり演奏されなかった課題曲A/吹奏楽のためのカプリチオというのも
通好みなのかもしれないです・・
1982年の白子高校以外では、1991年に青山学院大学が全国大会でこの曲を自由曲として選んでいますけど
白子高校以上に地味の演奏なのですけど、大人っぽい大変内省的な演奏をしていて、音楽的に大変感動するものが
あります。
管弦楽でも吹奏楽アレンジ版でも、この魅力的な序曲がもっと演奏されるといいなぁ・・とも思ったりもしますね。

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