一つ後の記事が打楽器の「小太鼓」に関する内容ですので、小太鼓を取り上げたからには大太鼓とシンバルについても
取り上げたいと思いましたけど、あまりオーソドックスな事書いてもつまらないので、本記事においては
「シンバル付大太鼓」という大変珍しい打楽器について簡単に触れさせて頂きたいと思います。
というか・・シンバル付大太鼓を使用する楽曲って、私自身はマーラーの交響曲第1番「巨人」~第三楽楽章しか
知りませんし、1994年に来日公演を果たしたミハイル・プレトニョフ指揮のロシア・ナショナル管弦楽団の演奏会での
公園曲目の一つであったビゼーの組曲「アルルの女」の終曲・ファランドーレの踊りで、なぜか知りませんけど、
シンバル付大太鼓を使用し、本来は大太鼓とシンバル奏者と2名打楽器奏者を要するパートを1人で抑えていましたので、
当時は「このオーケストラは新設間もないから来日公演も経費を極限まで抑制しているのかな・・?」とふと余計な事を
考えたりもしました。
(実際、2曲目のラヴェルの「ダフニスとクロエ」第二組曲も本来は打楽器奏者が7~8人は必要なところ、なんと5人の
打楽器奏者が複数の打楽器を掛け持ちして舞台を右往左往していたのも大変印象的でもありました。
上記でマーラーの話が手ましたけど、マーラーの交響曲の世界では、ポストホルン・テノールホルン・ギター・マンドリンなどの
特殊楽器もかなり効果的に使用されていますけど、同時に打楽器をかなり多彩に使用し、
20世紀以降のクラシック音楽の世界の「打楽器重視」の姿勢を先取りしているようにも感じられます。
マーラーが活動していた19世紀から20世紀初頭では、異例だったシロフォン・グロッケンの鍵盤打楽器も
例えば交響曲第6番「悲劇的」に使用していますし、他にも、鈴とかコンサートチャイムとか二人の奏者を必要とする
ティンパニとか巨大ハンマーとかカウベル(牛の首に付ける鈴)など様々な特殊楽器を曲の中に取り入れています。
特に交響曲第6番「悲劇的」はあまりにも多種多様な打楽器を曲の中に入れた事で、当時の批評家から
「単なる視覚的効果・・」とか
「大袈裟・・」とか
「単なる見た目の演出」などと色々と批判を受け
例えばマーラーが警笛用ラッパを手にし、「しまった、こいつを入れるのを忘れていた! でもこれでこのラッパを使って
もう一つ交響曲が出来るぞ!」と叫んでいる風刺画が登場するほどでした。
いつの時代もこうした先駆的な実験者・創造者は絶えず批判は受けるものなのかもしれないです。
マーラーは「視覚的効果」という事ももしかしたら多少は意識していたのかもしれないです。
そのいい例が交響曲第6番「悲劇的」~第四楽章で使用される「巨大ハンマー」なのですけど、
あのハンマーが象徴する事は「その打撃音によって英雄は倒れる」→「死」なのですけど、
ハンマーを打楽器奏者が振り上げて床に置かれている木片にゴチー――――ン!!と当たる瞬間の衝撃音は
凄まじいインパクトがあると思います。
他にも交響曲第1番「巨人」~第四楽章のラスト近くにホルン奏者をスタンドアップさせ、ベルの部分を客席に向けて
吹かせたり、
交響曲第7番「夜の歌」~第四楽章の冒頭部分において、これは管弦楽では極めて珍しい事例なのですけど、
クラリネット・オーボエの木管楽器奏者に「ベルアップ」を求めていて
あの部分のクラリネット奏者は、通常は45度前後あたりの角度で吹くところを90度近い角度で吹く羽目になり、
あれは客席で見ていても相当目立つと思います。
他にも交響曲第3番「夏の朝の夢」~第三楽章においては、舞台裏から朗々と奏でられるテノールホルンの音色からは
夢をイメージさせてくれるのに対して、あの場面が終わった後に舞台上のトランペットが唐突に起床ラッパを鳴らしているのは
夢の世界から現実に世界に引き戻すという視覚的効果も狙っているように感じられますし、
交響曲第2番「復活」においても舞台裏から金管楽器を吹かせることで、天界の戦闘みたいなイメージを視覚的効果として
表現しているようにも感じたりもします。
私自身がマーラーの色々な交響曲を生の演奏会で聴いて「面白いな・・・」と感じたのは、
交響曲第1番「巨人」第三楽章で使用される「シンバル付大太鼓」もその一つなのかもしれないです。

通常の演奏会ですと、シンバル奏者と大太鼓奏者は別です。
シンバルと大太鼓が同時に鳴る場合は、普通は奏者2名を必要とします。
マーラーの交響曲第1番~第三楽章の場合は、シンバル付大太鼓を使用し、一人で大太鼓とシンバルを鳴らしなさいという
指示がスコアに明記されています。
この「シンバル付大太鼓」とは何かというと、大太鼓の頂点部分にシンバルの片側が装着されている楽器の事であり、
一人の奏者が大太鼓の撥とシンバルのもう片側を持ってふたつの楽器を同時に演奏します。
これってどういう効果を意図し、奏者にどんなことを求めたのでしょうか・・?
生の演奏会見た限りでは、奏者もかなりやりにくそうな感じもありました。
左手にシンバルの片側を持ち、大太鼓に固定されたシンバルのもう片側と合わせて
更に右手に大太鼓の撥を持ち、同時に大太鼓を叩く必要がありますので、奏者はかなり面倒と思いますが、
こうした面倒なスタイルを取っているから大きな音量は出せませんし、結果的に随分と控えめな演奏になると思います。
この第三楽章は葬送行進曲でもありますので、あまり大きな音は求めないという事で、マーラーとしてはあえて
こうした面倒な手法を採用したともいえるのかもしれないです。
19世紀のイタリア・フランスの歌劇場などでは、オーケストラ・ピット内のスペースと、
打楽器奏者の人数を両方とも同時に 節約することを目的として、このシンバル付大太鼓を採用していたという事情も
あるのですけど、マーラーのメインの作曲の場所は交響曲であり決して歌」ではありませんので、
そうした節約も必要ない感じもありますので、その意図というのは、「作曲者のみぞ知る」という感じなのかもしれないです。

通常のオーケストラにおいては、大太鼓(コンサートバスドラム)は言うまでもなく単独打楽器であり、頂点部分に
シンバルが取り付けられることはまずありえないですし、奏者は撥をバスドラムに叩きつけることのみに専念できます。
チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」~第三楽章において、4発のみシンバルと大太鼓が同時に鳴るシーンがあります。
面白いのは、チャイコフスキーのスコアの上では、
「シンバルは大太鼓にくっつけてはいけない」との注釈がわざわざあるとの事です。
注釈が付いているのは、チャイコフスキーがマーラーに自分の曲の指揮を依頼することが何度かあったらしいのですけど、
マーラーの「巨人」~第三楽章みたいに演奏されるのはちょっと嫌だな・・みたいな
チャイコフスキーの意図ももしかしたらあるのかもしれないですね。
その辺りはこの二人の巨匠の興味深いエピソードという事なのかもしれないですね~♪
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あの時のパーカッションはティンパニを含めて2人だけでしたので人員節約というのもあったのかも
しれないです。