9.湯沢南中学校
A/歌劇「シチリア島の夕べの祈り」序曲
この演奏、山形市で開催された東北大会でも聴きましたけど
あの時と全国での印象はそれ程大きな変化は無かったと思います。
良く言うと無難・・・悪く言うと、特に際立つ変化・魅力・個性も無く少し個性に欠ける演奏・・・
そうですね・・・
テンポ設定が比較的速いせいか、演奏自体は小気味よくサクサク進んでいったと思いますけど
その速さに付いていけない木管奏者も何人か散見され、
それが演奏全体の中で「ムラッ気」みたいな印象にもつながり、
全体としてはマイナスみたいな雰囲気にもなったと思います。
この年の東北大会は、レヴェルが驚異的に高かった高校の部と比べると、中学の部はかなり低調・・・・
特に驚いたのは・・・・・
あの伝統と実績のある山王中が、ま・・・自由曲の選曲ミスと強引で不自然なカットという事もあり
東北大会・銀賞に留まった・・・というのはかなり予想外だったし、
当日の会場の雰囲気としては・・・ちょっとしたサプライズだった・・・みたいな感じもありました。
ちなみにその時の自由曲は、リムスキー=コルサコフの序曲「ロシアの復活祭」でした・・・
ま、その隙間をついて全国出場を果たしたのが、この湯沢南だったと思いますけど、
これがもしも翌年の1982年の全国大会ならば・・・・多分間違いなく評価は銅賞だったと思いますけど
この年の中学の部は銅賞ゼロというのが・・・、ま・・・幸いしたのかな・・・・
余談ですけど、
私が仙台の実家を離れて都内の大学に進学したのが1984年の春・・・
1年目はキャンパスの関係で、埼玉県大宮市天沼町のアパートに(当時は、まだ浦和市と大宮市でしたね・・・)
住んでいましたけど、隣の隣に住んでいた方が・・・・
なんと・・・・
本当に偶然なのですけど、この湯沢南中の吹奏楽部のOBでして、この方は・・・
1981年ではなくて1978年の全国大会(自由曲→ロッシーニ/歌劇「アルジェのイタリア女」序曲)に
出場していたそうです・・・・
あの時は・・・結構驚きましたし、「世の中って意外と狭いな・・・」と実感したものでした・・・
ちなみに・・・
翌年以降は、都内中野区のアパートに引っ越したのですけど
私の部屋の隣の隣の方が、大変なクラヲタの方で・・・・
ちなみに私は・・・この方から、シベリウスのヴァイオリン協奏曲とかベルクのヴァイオリン協奏曲とか
フォーレのレクイエムなどを教えて頂きました・・・
ま・・この時代はまだ・・・・アパート内でも住民同士の交流があった時代で、
なんか・・・今とは随分と違う雰囲気だったような記憶がありますね・・・・
10.神居中学校
B/瞑と舞
たまーにですけど、全国大会・支部大会で池上敏の「瞑と舞」という作品が
細々とではありますけど、いまだに演奏され続けていることを嬉しく感じます。
確かに少々とっつきにくく、陰気な邦人作品という感じも否定はできないのですけど
この「和の感覚」・「鄙びた感覚」は、日本人でないと絶対に分からないような「わびさび」みたいなものも
感じたりもします。
この曲を初めて知ったのは、1981年の全国大会の中学の部の、旭川・神居中学校の
神がかりとしか言いようがない何かに「憑りつかれた様な」奇跡的なウルトラ名演なのですけど、
それから数年後に、
チャンスの「呪文と踊り」を聴いた時、
「あれ、この曲の構成、何か瞑と舞に似ている・・・」と感じたものです。
静かな序奏から、打楽器の絡みから徐々に盛り上がっていく構成が
そのような印象を持たせたのかもしれませんけど、
実は意外とその印象は当たっていました・・・
実は後で色々と池上敏の事を調べていくうちに、
「瞑と舞」はチャンスの「呪文と踊り」に色々な面で影響は受けたとの事なのです。
最初の感覚としては、
「あれ、もしかして瞑と舞」が「呪文と踊り」に何らかの影響を与えたのかな・・・」と思っていたら
実際は逆でして、
作曲年としては「呪文と踊り」の方が早く作曲され
「呪文と踊り」が「瞑と舞」に多少の影響を与えたらしいですね。
この「瞑と舞」ですけど、
サンベンダーシンバルに乗っかる形でピッコロのソロで開始され、
その後すぐにピッコロからバトンタッチされる形でフルートにメロディーラインが移っていくのですけど、
大抵の場合、ピッコロ奏者がフルートを掛け持ちする事が多いような気がします。
神居中もそうでした・・・
その後すぐに、クラリネット・オーボエにメロディーラインが受け継がれていき、
一旦静かになった後、
打楽器セクションによるアンサンブルが静かに開始され、徐々に盛り上がっていき
ここから「舞」の部分が開始されていきます。
ちなみにこの曲の打楽器は、
ティンパニ、トライアングル、ボンゴ、タンバリン、サスペンデッドシンバル、合わせシンバル、タムタム、
大太鼓、スネアドラム、テナードラム
を使用していますが、
「舞」の開始部分は上記の通り、打楽器アンサンブルから開始されるのですけど
この部分のボンゴ・テナードラムの響きはかなりの効果があるように思えます。
「舞」が開始されて以降は、金管の響きに乗っかる形で大太鼓がズドンと要所で決めていますけど
この「ズドン」というのが実に気持ち良く決まるので
これだけでも爽快な感じになったりもします。
「舞」では部分的に静と動を対比させながら進展していき、
そのクライマックスでは、やはり大太鼓がズドンと締めてくれます・・・
その過程の中で、「バストロンボーン」が不気味な音を展開したり、
ミュートを付けたトランペットが乱入したり、
同じくミュートを付けたトロンボーンの絡みがあったりと
地味に聴きどころも満載です。
そしてラストは、序盤の「瞑」と同じようにピッコロのソロで静かに閉じられていきます。
全体的には、やはり「日本的な」香りが濃厚ですね・・・
イメージとしては、巫女さんの舞とか、龍の舞とか、民衆の土俗的祭礼とか、神官の祈りとか
そういったワードがこの曲を聴くだけで脳裏をかすめたりもします・・・
さてさて、この曲の吹奏楽コンクール・全国大会での素晴らしい演奏は
三つほど挙げられると思います。
〇1977年/富田中学校
〇1981年/神居中学校
〇1986年/伊丹東中学校
あ、どれも全て中学生の演奏ですね・・・
富田の演奏は、一言で言うと非常に野暮ったい演奏で、洗練さはほぼ皆無です。
そして同時に大変おどろおどろしい演奏を聴かせてくれています。
だけど民衆のエネルギーというか土俗的祭礼みたいな雰囲気は非常によく出ています。
全体的に「泥と土の香り」がします。
1981年の神居の演奏は、非常に知的でスマートな演奏です。
音色の透明感が実に素晴らしいし、
奏者と指揮者が完全に一体化し、「自分達の音楽」としてこの曲をほぼ完璧に自分達のものに
している印象が強いです。
特に、バストロンボーンの太い響き、弱音器を付けたトランペットとホルンの音は大変繊細だけど
細かいところまでよく配慮が行き届いている印象があります、
やはり・・・冒頭とラストのピッコロとフルートソロは、「神がかり」としか言いようがない素晴らしいソロを
聴かせてくれています。
大太鼓の「ズドン」という一撃がかなり強烈で、とてつもないインパクトがあると思います。
伊丹東は、指揮者のアクの強さが漲っていて、正直好き嫌いははっきりと分かれる演奏だと
思います。
少しやり過ぎというか演出過剰という感じもしますけど
いかにも永澤先生らしい個性の強い演奏です。
余談ですけど、結果的に神居中は、「瞑と舞」の素晴らしい名演を残していますが、
曲のラストのピッコロの弱奏で、赤ん坊が思いっきり泣いてしまい、
名演に水を差しています・・・
レコードにはっきりと収録されています・・・
同様に1986年の伊丹東の「瞑と舞」のラストの弱奏で、やはり赤ん坊が泣いてしまっています・・・
うーーん、赤ん坊には、「瞑と舞」の世界は不気味に恐怖に聴こえるのかな・・・??
この時代の普門館は、赤ん坊同席でもホールに入ることが出来たのですね・・・
今では信じられない話・・・・
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コメント
コメントありがとうございます!!
コメント頂きありがとうございます。
うーーん、そうですね・・・あの記事については、要は・・・あれは実際にその当時の演奏を聴いた人間の
あくまで「個人的な感想」で、「私はこのように感じた・・・」というもので
絶対的なものではありませんので
皆様一人一人がお感じになったことが「その人にとっての評価・感想」なのだと思います。
小西翔一先生は既に他界されていたのですね・・・
先生のご冥福をお祈りしたいと思いますけど
1978年と81年の出場のジュニアたちがこうして頑張っている光景は大変素晴らしいですし、
他にも秋田では・・・
かつて山王中を素晴らしい名演に導いた木内先生の御子息がそのまんま山王中を指揮され
昨年全国に進まれていた事は・・・・
本当に感慨深いものがありますね。
そして・・・その山王中を指揮されていた細谷先生は、現在は秋田南高校・・・・
うーーん、こちらも期待が高まります・・・!!
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